江戸時代のことなら何でも好きに語ってください。
いやです。
先生!おかげさまで2chでスレたてれました
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1の主治医ですーー3げっとぉぉぉぉぉぉぉ
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ちなみに、幕府の天領をまかされていた郡代は、
関東郡代、美濃郡代、飛騨郡代、西国郡代の4つです。
5 :
日本@名無史さん:02/03/05 20:55
関東取締出役って通称「八州周り殿」でいいの?
いや、西郷輝彦です。
7 :
日本@名無史さん:02/03/05 20:59
>>6 地獄におくり届けてやるぜ。
「花よ〜夜風よ〜きらめく星よ〜、は〜てなくつ〜づく〜あ〜こがれ〜よ〜」
>>5 そうですね。関八州内での犯罪者の取り締まりなんかをしていたので、
八州廻りと呼ばれたのですね。
9 :
日本@名無史さん:02/03/06 12:02
御家人で一番給料もらってた人ってどのくらい貰ってたんですかね?
理論的に9999石の御家人もありうるはずであるが、大身は旗本に限定されると
思われる。御家人は数100石、よくて1000石未満が限度じゃないかな。
(因みに、旗本と御家人の違いは、将軍拝謁適格である。旗本は将軍に拝謁できる。
もっとも、早乙女主水介みたいにいきなり拝謁させろというのは、ちょっと考えられない。
11 :
日本@名無史さん:02/03/12 20:20
金森騒動(郡上一揆)によって幕府の重役たちが結構罷免されたりしたそうですが、
具体的にどのような役職のひとが罷免されたのですか?
>>9 禄 高
旗本 :二百石以上、一万石未満
御家人:二百石未満
将軍お目見資格
旗本 :お目見以上
御家人:お目見以下
位
旗本 :将校
御家人:下士官、兵卒
という具合です。
だから御家人というのは理論的に199石までみたいですね。
14 :
日本@名無史さん:02/03/14 17:13
≫11
幕府の老中本多正珍などが処罰された。
15 :
日本@名無史さん:02/03/14 17:37
>>9 50石に満たない旗本も居ますよ。また、200石以上もらっている御家人も居る。禄高では線は引けない。もちろん、一般的には旗本の方が多いけどね。
50石未満の旗本なんていたの?
>>13が正しいのでは?
17 :
日本@名無史さん:02/03/14 18:09
200石以上の御家人って誰?
18 :
日本@名無史さん:02/03/14 19:02
江戸中期の町民の風俗(性に限らず庶民の暮らし)について
何かおすすめの本はありませんか?
今のところ杉浦日向子くらいしか思い浮かばないですが・・・
>>15 本当にそうだったのですか?
私が調べた限りでは、13で書いた通りなのですが・・・
16さんや17さんが言われるように具体的にどのような人がいたのか聞かせてもらいたいですね。
20 :
日本@名無史さん:02/03/14 19:20
>>18 文化文政期が舞台の柔らかい小説でよければ、
講談社文庫 石川英輔 の大江戸シリーズが
面白いよ。
タイム・スリップものなんだけどお薦めです。
21 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:42
>>18 東京近郊ならば、江戸東京博物館のミュージアムショップにでも行ってみてみれば。
(ショップに入るだけならタダ。)
あと、深川江戸資料館へ探検しにいくのもええかも。あそこの常設展図録は庶民の
生活についていろいろ書いてあって面白いよ。
質問とはちょっと外れてるかもしれないけど、こんな考え方もあるってことで・・・
ドラマ”将軍家光忍び旅”で登場する松平伊豆守信綱。
実際にいた人物で1633〜1662の間、老中職についていたそうですが、
さしあたってなにもめざましいことはしてない人だったのですか?(現実には)
23 :
日本@名無史さん:02/03/14 22:56
≫22
知恵伊豆といわれ、大変な切れ者でした。
24 :
日本@名無史さん:02/03/14 23:04
9999石9斗9升の御家人とか。
25 :
?i?L?n:02/03/14 23:18
>17
町奉行所の与力に牢奉行の石出帯刀。あと八王子千人頭等では
結局
>>13で唱えた説は間違えなのですか?
まれに例外がいたかもしれませんが、さすがに千石級の奴はいなかったのでは?
それともいたのですか?
>>23 ほう、かなり優秀な人物だったのですか。
老中まで出世するということは優秀であるに違いないのですが、
そのなかでもつわものだったのですね。
>>24 でも9千石以上もあってお目見え以下なんて悲惨な話ですよね?
27 :
日本@名無史さん:02/03/14 23:29
旗本と御家人
ん〜、詳しくは知らないけど、いわゆる貧乏旗本は
宝永年間の御家人分限帖だと
参百石どりの御家人が四人いた気がする。
で、旗本の一番下は小十人組あたりの弐百俵以下だったかな
十俵取りとかもいたような・・・
28 :
日本@名無史さん:02/03/14 23:31
29 :
日本@名無史さん:02/03/15 11:15
>>28 その文での高は百俵になってるけど。
基本的には
>>13の説明になると思うけど、
実際は100〜200俵くらいの旗本や御家人はいる。
石出帯刀って200石だっけ?
それに与力もふつうは200石。
旗本先手組の与力って、御家人でしょ?
なるほど、というとやはり禄での区別は出来ないということですか。
確かに与力も御家人ですからね。
>>4にちょっと訂正をしていきますが、
関東、西国、美濃、飛騨のほかに上方郡代というのもいましたね。
>>29
その史料に見える通り、文久二年七月四日に百俵高になるまでは
22石余だったんだよ。親までは代々22石余のみ。もっとも祖父
までは何らかの役についていたから、役料くらいは入ったろうけど。
父(夢酔)は無役だったから、親子鷹に見るようにいろいろバイト
をしなきゃならなかったのさ
33 :
日本@名無史さん:02/03/19 06:00
突然ですが、一両って今でいうと、
どのくらいの価値があるんですか?
>>33 私は正確にはわからないのですが、その時代によって変動していたので
一概にはいえません。
それには小判の金含有率などがあります。
例えば、慶長小判では重さ17,85g中純金15,4gが使われていました。
それに対し、元禄小判では同じ重さで純金の含有量は10gちょっとになっています。
当然金の含有量が減れば価値が下がってしまいますよね。
信頼回復のために宝永小判では、重さは半分くらいになりましたが、
金の含有率は慶長小判と同じにしたりしました。
重さ、含有量、様々な面で価値が変わるんですね。
まあそれでも何万円の価値になるというのは間違えないと思うのですが・・・・・・
35 :
日本@名無史さん:02/03/19 10:46
36 :
日本@名無史さん:02/03/19 10:51
>>32 ??
その史料には「高百俵内〜」となっており、
百俵のうち地方が22石となってるけど。
つまり、100俵になるまで云々という内容はないよう。
37 :
日本@名無史さん:02/03/19 18:20
>>36 スマソ。しんそこスマンカッタ。ネタ本の江戸幕臣人名事典を持っているものだから
うっかり書いてしもうた。
次に全文うpするから勘弁してくれ。
38 :
日本@名無史さん:02/03/19 18:21
勝安房守(かつ・あわのかみ)
子歳四十■
高百俵内二十二石七斗三升三合四勺二才地方
本国三河 生国武蔵
祖父勝甚三郎死支配勘定相勤申候
父勝夢酔(俗名左衛門太郎)死小普請
天保九戌年七月二十七日父左衛門太郎願之通隠居被仰付
家督無相違被下置小普請組長井五右衛門支配ニ入
其後奥田主馬組之節安政二卯年正月十九日蕃書翻訳御用出役被仰付
同年七月二十九日長崎表へ蒸気船運用其外伝習御用被仰付
同八月七日小十人組江御番入被仰付
同三辰年三月十一日講武所砲術師範役可相勤旨被仰渡
同年六月晦日大番江御番替被仰付
同六未年正月二十八日御軍艦操練所教授方頭取被仰付
同年十一月二十四日亜米里加国江以御軍艦被為遣候旨被仰渡
同十二月二十七日右御用中両御番上席被仰付
同七申年六月二十四日御天守番之頭過人蕃書調所頭取助被仰付
万延元申十二月晦日航海中格別骨折候ニ付年々為御手当七人扶持被下置
文久元酉年九月五日御天守番之頭格講武所砲術師範役被仰付
同二戌年七月四日二丸御留守居格御軍艦操練所頭取布衣被仰付
百俵高二御加増被成下
同閏八月十七日御軍艦奉行並被仰付
元治元子年五月十四日於大坂御作事奉行格御軍艦奉行被仰付
同年十一月十日御役御免寄合被仰付候
39 :
日本@名無史さん:02/03/19 18:30
>>38 ???
もともと22石とは書いていないが?
といえば「三匹が斬る」だな
41 :
日本@名無史さん:02/03/19 21:49
松 平 信 古 伊豆守 溜詰格 三河吉田7万石 定席は雁間
越前鯖江藩・間部下総守詮勝6男
42 :
日本@名無史さん:02/03/19 22:04
43 :
日本@名無史さん:02/03/19 23:45
いわゆる、「江戸の考古学」とか「近世考古学」といわれているものは、
文献史学専攻の皆さんから見て、どう捉えられているんですか?
キワモノ?それとも大事なサブ資料?どっち?
>>39
なるほど。勝家の原禄が22石余というのは僕自身の判断なんだけど・・
(幕末になると、加増する時に蔵米等で済ませてしまい、新規に知行地を
与えない、というイメージがあるから)
よく考えると、再検討の必要があるな。調べてみるよ
国会図書館の古典籍へ行って確認してきました
結論的には22石余は誤りでした。おわびして訂正いたします
正しくは「41俵1斗2合6夕9才と2人扶持」でした
次にその史料をうpします
本國参河
紋丸之内四方剱花菱
小普請山口十二番
物部氏
宝暦二
高四拾壱俵壱斗弐合六夕九才 勝 甚三郎
弐人扶持 元良 未三十三
弐拾弐俵弐斗五升六合六夕九才 地方武蔵豊嶋郡多麻郡
内
拾八俵壱斗九升六合 御蔵米
町屋鋪四ツ谷御箪笥町當分本所南割下水実父青木左京方同居
上記は寛政呈書国字分名集(万石以下御目見以上)の一部、
勝甚三郎(海舟の祖父にあたる)の分です
写本ですが内容は寛政11(1799)年のものです
なお内訳を合計すると少し誤差が出ますが、史料のままです
おかげさまで思い違いを修正できました
39さんには御礼申し上げます
なお、たまたま目についたのですが、同史料中には「30俵2人扶持」
などという人物(芹沢八十郎)も見えました。50俵以下の旗本も
存在したことは確実と言えそうです
50
51 :
日本@名無史さん:02/04/01 16:16
勝家の所在地、本所南割下水は御家人の住居のはずですが。
松平定信って結構勝手な人だよ。わたしは、元々伊勢桑名の藩主だったのに、
定信殿が白川から桑名に国替えを願って工作したばっかりに、桑名から武蔵忍
(埼玉県行田市)に国が得させられてしまった。
阿部豊後君なんか忍から白河に替えられてしまったもっと悲劇。
53 :
日本@名無史さん:02/04/01 16:35
白河ってみんな嫌がるよね。
54 :
日本@名無史さん:02/04/01 17:58
白河の 清き流れに棲みかねて もとの田沼ぞ いまは恋しき
55 :
日本@名無史さん:02/04/01 18:24
よく時代劇で、ヤイッ、さんぴん、などと啖呵を切る場面があるが
あれは三一(サンピン)で、年に三両一分の扶持のことを指し、薄給の
下っ端武士を侮っていった言葉
>>55 へ〜そうなんですか。
どうも三一というと、三一の丁!!
なんてすぐ想像してしまう私はやばいですね。
57 :
日本@名無史さん:02/04/01 22:01
56さんは博打打かなにかで?
>>57 いえいえ、郡代ともあろう手前がそんな・・・
時代劇なんかを見ると、賭博シーンがよく目につくもので。
大抵イカサマだといわれていますけどね。
私、賭博で儲けたことがないもんで、驚きました。
江戸の通貨単位といえば、「両」がよく知られていますが、
その他にはどんなものがあったのですか?(藩札とかは抜きにして)
とうとう消防レベルになってきたぞ
63 :
日本@名無史さん:02/04/17 20:35
関東郡代という職名ができたのっていつなんですか?
伊奈忠治が、家光に関東の諸代官の監視などを命じて実質関東郡代に
なったのですが、まだ正式に関東郡代という職名は定まってませんよね?
64 :
日本@名無史さん:02/04/17 20:40
金貨 両 四分/両 四朱/一分 武士階級で使用 貨幣は一〇両大判、一両小判、
2分金、一分金、二朱金
銀貨 貫 貫/千匁 60匁/1両 商取引に使用。
職人の手間も
銀建て なまこ型の丁銀(40匁前後)、小型の豆板銀、
後に五匁銀、南鐐二朱銀、一朱銀、一分銀
銭貨 貫 貫/千文 4貫/1両 庶民の日常に使用 一文銭、四文銭、天保銭(百文に通用)
こんなとこか。
ところで
>>61 >>62さん。意外と江戸の通貨単位って知られてないと思うぞ。
大抵思い浮かぶのは小判だろうから。
65 :
日本@名無史さん:02/04/18 11:35
関東は金
関西は銀
というが、実際どういうふうに使われてたのかな?
66 :
日本@名無史さん:02/04/28 22:16
っていうかその関東は金、関西は銀、ってのは、
ドル本位制とかいうのと似たような意味で為替相場の軸を言ってるだけなのかと思ってた。
そりゃ実際使わなきゃ変だな。使うだろな。
重さとかじゃないの?
67 :
日本@名無史さん:02/04/28 22:16
jjjjjギラン
68 :
日本@名無史さん:02/05/04 22:48
69 :
日本@名無史さん:02/05/06 12:23
銀のほうが流通に便利だったんですか?
70 :
日本@名無史さん:02/05/13 22:39
代官って10万石未満(大体5万石くらい)の天領を治めていたんですよね?
それにしては代官の元で仕事をする人少ないですよね。30人くらいが普通ですか。
それに対し10万石以上の天領を治める郡代はどうだったんですか?
こちらは結構人がいるとか?
71 :
日本@名無史さん:02/05/25 22:33
PS2ソフトで「悪代官」なんていうものが夏に発売予定だそうですが、
やっぱ代官というとそんなイメージなんですかねぇ。
竹垣直温のように善政をおこなった名代官もいたのに・・・
でもそういう人が一部で、あとは年貢の取り立てに必死だったんでしょうな。
73 :
日本@名無史さん:02/06/17 22:57
ありがとうのいえない悪郡代
>>64 これはおそくなり申し訳ありませぬ。
どうも61 62にああいわれたもので、それへのレス
少し戸惑ってしまいました。
ご丁寧にどうもです。
>>73 たしかにおっしゃるとおりで。
ただ、悪郡代という呼び名はあまりききませんね。
というか聞かない。