足利の征夷大将軍十五人

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1源氏の統領
初代・尊氏 二代・義詮 三代・義満 四代・義持
五代・義量 六代・義教 七代・義勝 八代・義政
九代・義尚 十代・義稙 十一代・義澄 十二代・義晴
十三代・義輝 十四代・義栄 十五代・義昭


鎌倉幕府討滅、金閣寺、南北朝統一、くじ引き将軍
嘉吉の乱、応仁の乱、銀閣寺、流浪将軍、剣豪将軍
等など・・・足利時代はイベント盛りたくさんです。
2日本@名無史さん:02/02/24 14:20
2ゲット!
義教は重複だがまあいいでしょう
漏れも二代・十代あたりについて語りたい
ネタを仕入れてくるので少しく待て
3日本@名無史さん:02/02/24 15:19
有名な尊氏の肖像画って実は高師直(?)を描いたものだって話をどっかで
読んだんですけど、実際のところどうなんですか?
確か義詮の花押が肖像の上に書かれてるのはおかしいとかいうことでしたが
4日本@名無史さん:02/02/24 15:38
>>3
井沢が書いてたね。あと源頼朝と平重盛象は足利尊氏兄弟像ではないか
とも言ってた。確かに他人の割には良く似ている。
5日本@名無史さん:02/02/24 19:20
武田信玄の肖像は能登畠山氏の誰かを描いたものだっていうのもありましたね
6日本@名無史さん:02/02/25 00:35
赤松満祐による嘉吉の乱。将軍、義教暗殺という前代未聞の大事件。
義教の首は、剣先に貫かれ高くささげられ満祐の領国の播磨へ持ち帰え
られたらしい。・・・幕府の威信も落ちるよなぁ。
7歴史の勉強:02/02/25 00:39
いやあ、でも文武両道の公方って、足利だけじゃない?
鎌倉は正体不明公方が多すぎるし(何やってたの?)、
徳川は「バカ殿」あつかいされないほうが少ないでしょう。
塚原卜伝の免許もらって討ち死にした足利義輝なんか
武門としては光栄なんじゃないの?
教養もあったしさ、足利の公方は。
8 :02/02/25 00:41
流浪将軍って誰?
9日本@名無史さん:02/02/25 00:41
早死・血気・きちがい

これ、足利御所の特徴。
10日本@名無史さん:02/02/25 00:44
義詮は傑物。
これほど打たれ強い人間はそうはいない。
11歴史の勉強:02/02/25 00:44
流浪将軍(流れ公方)は第10代将軍・義材のこと。
越中、防長、阿波と、在所を転々としたから。
今でも徳島県には足利さんがいるらしい。
12歴史の勉強:02/02/25 00:47
尊氏〜義政までは、とりあえず政治家としてはまあまあだったんじゃ?
もちろん、早世した義量と義勝は論外だけど。
足利の公方は義材からとそれ以前を分けるべきだと思う。
義材以降は管領や国人に擁立されるだけになったから。
13日本@名無史さん:02/02/27 20:35
三代の義満は日本では稀代の政治家だったのに、なぜ知られてないのでしょう。
14日本@名無史さん:02/02/27 20:42
>>11
足利さん・・・というか・・・
 
  
詳しい人が「御所」の哀しい歴史を語ってくれるでしょう・・・
15日本@名無史さん:02/02/27 20:47
16日本@名無史さん:02/02/27 21:02
ざっと見ると徳川幕府よりはるかに「濃い」メンツ揃ってるね、確かに。
良くも悪くも個性ビンビン。
側近・奥方も日野富子とか濃いやつばっか。
17日本@名無史さん:02/02/27 23:25
10代義稙って、「花の乱」では大沢なんとかが演じてて、結構いいイメージだったけど、
毛利元就では田口トモロヲがせりふもなく、間抜けな感じで、変なイメージ。
でも、考えてみれば、この人の人生って結構小説なりドラマなりにすると面白いかも。
まるで七転び八起き、ジェットコースターのような人生。
18日本@名無史さん:02/02/28 00:49
>>16
そうだね、みんな本当に濃いやつばっかし。陣没、追放、流浪に暗殺…
19日本@名無史さん:02/02/28 00:58
立命館が借景をぶち壊しにした立命館の裏にある等持院に15代の木像がある。
最初の三代は幕末にさらし首となったので有名。
歴代将軍を見ると、やはり異様の観はあります。
20日本@名無史さん:02/02/28 01:05
将軍の正妻は日野家からっていつからいつまでの話?
21日本@名無史さん:02/02/28 01:47
3代義満から9代義尚まで。
22日本@名無史さん:02/02/28 02:34
義尚が早死にしなかったら足利氏の歴史も、
少しは変わっていたのだろうか。
23日本@名無史さん:02/02/28 17:55
細川勝元は義勝から一字もらってるんだよね?
義勝から一字もらった武将なんてめずらしいんじゃ?
24山野野衾:02/02/28 18:35
>19
最初の三代を選んだ筈だったのが、実は中に間違えられた木像があったと聞
きましたが、どういう事件だったでしょうか。
しかし子供じみた真似をして文化財を損傷してくれたものです。他にやり様
があったでしょうに。
しかしこの面々、東ローマ帝国の皇帝達と重なって来ますね。
あそこも権力基盤が弱くて八十四人の皇帝のうち、目玉をくりぬかれたのが
九人、毒殺されたのが四人、斬首が四人で刺殺が三人、絞殺と四肢切断が二
人ずつで、撲殺・生き埋め・八つ裂きが一人ずつ・・・これよりはマシです
かね。しかし権力者(かな)の家の中では生まれたく無いところなのは確か。
25日本@名無史さん:02/02/28 23:19
徳川幕府の直轄地は400万石。足利幕府の財源の源はどこに
あったの?
26歴史の勉強:02/03/01 01:58
足利氏の経済的基盤は各地に設置された「御料所」。
ただし、関東のものは鎌倉の公方にしょっちゅう横領されてたらしい。

北条、足利、徳川といった武家政治の代表的な家を見ると、
前のほうほど有能な政治家を輩出してて、後ほどボロボロな印象が……。
北条氏って、名政治家を生み出した家って印象あるじゃないですか?
でも、安定して強固だったのは徳川幕府なんだよねえ。
あの時代になると、もう将軍個人の有能無能は政治に関係なくなった、
つまりは武家の官僚機構が完成されたってことなんでしょう。
多難な時代は、政治家の実力がモノを云うってことか?

足利幕府はほぼ完全に「ローカル政権」だった鎌倉幕府(特に開幕当初)と
完成された(考えようによっては日本初の)全国政権・徳川幕府の中間なんでしょうね。
ほぼ日本全国に単一の権威が浸透した、でも強固には成り得なかった、
ってとこでしょうか。
これを足利将軍個人の有能無能に帰する井沢の親父は
稲中の井沢と大差ないこと言ってるとしか思えないが?
27日本@名無史さん:02/03/01 02:04
井沢にしろ司馬にしろ
DQNは個人を過大視しすぎってことだな
英雄史観
28歴史の勉強:02/03/01 02:13
足利幕府のばあい、変な言い方に思われそうですが、
義政のころがちょうど完成期って気がする。
あのころになると、もう官僚機構が完成してて、
将軍一個人の意志なんて、あまり反映されなくなったみたいで。
義教のころだと、まだ完成途上にあった印象ありますね。
そこに専権を揮う余地があったと思う。

井沢のオッサン(司馬小説はまだ読んでないんだ、スマソ!)は
「足利尊氏は政治家として無能」とか喝破しとるが、
僕に言わせれば、尊氏が平和を完成できるぐらいなら、
北条氏は倒壊しなかったんじゃないか?
29日本@名無史さん:02/03/01 02:53
足利政権って「中央ローカル」って感じがする。
実際の権威は・・・。
30日本@名無史さん:02/03/01 22:54
>>10
バカは打たれても気にしないだけだよ。

北朝の天皇や上皇を守らずに逃げてしまって
南朝に拉致されるなんてバカの極み。
31日本@名無史さん:02/03/01 22:56
>>7
将軍たるもの、武芸者のマネをするよりは政治に力をいれるべき。
32日本@名無史さん:02/03/01 23:02
何、もう終りなの?
33日本@名無史さん:02/03/01 23:08
室町幕府が不安定だったのは有力家臣の間で常に家督相続を巡る争い
があったことが大きい。そして、将軍は彼等の争いを制するだけの
力が無かったし、身内の鎌倉公方までもが反旗を翻してくる。

南北朝が統一されてから足利義満が死ぬまでの一時期を除けば
室町幕府のあった時代は戦乱が続いていたと言っても過言では
ない。義満が死ぬと南朝の残党が動き始めるし、それが収まった
頃には応仁の乱。


江戸時代初頭には、将軍家の力が強かったから家督争いなどあれば
領地没収などの処分を下すことができて、それがルールとして
確立したことが戦乱が起こらなかったポイントだと思う。
34セタハラ大魔王:02/03/01 23:26
>>28
>井沢のオッサンは「足利尊氏は政治家として無能」とか喝破しとるが、

それは「足利尊氏」じゃなくて「後醍醐天皇」の方ですよ(苦笑)
35日本@名無史さん:02/03/01 23:30
>>34
胃澤は、一応後醍醐も「暗愚の帝王」と評してる。
36日本@名無史さん:02/03/02 11:13
よく十五代続いたよね。
一番遠い血筋でも、いとこ以上離れていないのが良いね。
源氏は三代で断絶。徳川もよく血筋が変わってたのに。
37日本@名無史さん:02/03/02 11:24
足利政権は不安定だったから歴代の将軍も緊張がたえずにストレス多かったろう。
そういう生きるか死ぬかで頑張ってる人は精子欠乏症にならないからね。
源氏は暗殺や横死だから別として、徳川は檻の中で安泰にくらしてるから生命力が衰えたんだろう。
38歴史の勉強:02/03/02 23:01
後醍醐天皇かあ……
2chでは常にドキュソ扱いされるこの王も、僕は魅力感じますけどねえ。
当時最高の教養人ですから。宋学は当時「最先端」の思想だったわけで。
ただ、客観的に見て、「誇大妄想狂」って印象は否めませんが。
鎌倉幕府が中央政府として充実していったわけですから、
もう王家がどんなにがんばっても、強権を手にすることはできなかったでしょ。

ただ、王家は数百の庄園を有する当時もっともリッチな家でした。
鎌倉幕府滅亡時、北条氏が400、足利氏が35ってんだから、
経済力は相当なものだった……ことは知るべき。
39日本@名無史さん:02/03/02 23:48
「美濃公方 足利義視」ってどうよ?
40歴史の勉強:02/03/09 15:29
最近、馬琴の小説にはまってるんですが、
馬琴は足利義兼を源為朝の子って書いてるんですよ(椿説弓張月)。
もちろん、本気で信じてはいなかったろうけど。
馬琴はおおむね足利氏に好意的であるように思えます。
昔は北朝を正統と考える人が多かったのは事実でしょうね。
まあ、足利氏に味方して生き残った大名が多かったから当然なんだろうけど。
山岡荘八「徳川家康」はちょっと誤解してないかな?

も一つおもしろいのは、馬琴は足利歴代将軍を「13代」と書いてるんです。
何が根拠かわからないけど、第14代足利義維を含めてないんだと思う。
もう一人、誰が脱落してるのかはわかりませんが。
41日本@名無史さん:02/03/09 19:21
>40
十四代は義栄ね。
あと、五代の義量を数えてないんじゃないかな。
義量と義栄の二人は等持院に木像が無いからね。
42日本@名無史さん:02/03/09 19:51
つうか義栄って改名してるんでしょ。
どっちでもいいんじゃない義維でも。
43日本@名無史さん:02/03/09 19:56
>>42

おいおい、義維は義栄の親父だって。

義維=義冬
義栄=義親
44歴史の勉強:02/03/09 23:36
スマソ、間違えた。
足利の第14代公方は41氏の指摘どおり足利義栄。義維はその父。
義維は第12代将軍・足利義晴の弟で、堺に住んでたことがある。
今谷明先生は義維の政権を「堺幕府」と呼んでいるが、これは非常に疑問。
義維は阿波で死んだらしい。

う〜ん、歴代公方でも、5代・義量、9代・義尚は父親の生前に死去。
7代・義勝は即位後すぐに病死、義栄はすぐに追放されてしまった。
この中でまがりなりにも実権をふるったのは義尚だけで、
あとはまったく「いただけ」の公方。
義量が外されたとしたら、将軍即位を認知されていなかったということか?
4545:02/03/09 23:51
傀儡将軍と呼ばれてるのは足利義栄?

>44
5代義量の病死は自業自得。
家臣が言うこと聞かないがために、政治への関心を失って酒におぼれる始末。
結果、19歳の若さで夭折してしまった(俺も今19歳)
7代義勝は病弱だったため仕方なし。
9代義尚は哀れすぎる。
権力奪回を目指して六角一族の討伐に乗り出したけど、
流行病(おそらく結核)にかかって死去(しかも25歳の若さ)
このあたりは大河ドラマ「花の乱」を見ればわかるはず。
46日本@名無史さん:02/03/10 00:32
>>45
三好三人衆や松永久秀が朝廷に要請しても、なかなか征夷大将軍に
してもらえず、やっと征夷大将軍になったと思ったらすぐに織田信長が
義昭を連れて攻めてきたので堺方面に逃げてる途中で病死。

存在感無いっすね〜 >> 足利義栄
47日本@名無史さん:02/03/10 07:32
>>44 歴史の勉強さん、
将軍「即位」じゃなくて「就任」でしょ。
当時の言葉だと「補任」かな。
(細かくてすみませぬ。)
48日本@名無史さん:02/03/11 01:15
>>47
将軍「即位」じゃなくて「就任」でしょ。→○
当時の言葉だと「補任」かな。→△
就任は将軍(足利○○)が主体だが補任は客体。
・足利○○が征夷大将軍に就任した。
・○○天皇が足利○○を征夷大将軍に補任した。
では?
49歴史の勉強:02/03/11 16:03
う〜ん、僕は厳密な区別を要する語には神経質なんですが、
こういうことばには無頓着ですね〜。

僕は日本の政治の特性を説明するために「幕府」という用語は適当だと思うんですが、
足利将軍は天皇の臣下で……って考えは採ってません。
別に反天皇だからってわけじゃないよ。
ただ、足利時代以降(まあ、足利と徳川しかいないけどさ)、
実質的な日本国王は幕府の首長になったと考えてますんで、
将軍は王様みたいなもんだと思ってます。
外国人に説明する時もこれでいいと思います。

僕の感覚では、封建時代の日本なんて「いくつもの国家が連合したもの」。
それを象徴してるのが、本願寺や法華一揆って気がしますね。
あれって、「国家の中の国家」じゃない、まさしく。
その中で一番有力で且つ権威もあったボスっていうと将軍なわけでしょ?
僕個人としては、「公方」という語のほうがより正確な気もしますが
(最大の問題点は関東で「公方」と呼ばれた人が何人もいることか)。
「将軍」てことばは本来「軍隊のビッグボス」程度の意味しか持ってないはずですが、
日本だと武士の首長、すなわち事実上の国王になっちゃってるわけじゃないですか?
鎮守府将軍や「日ノ本」将軍は、文字どおりの意味しか持ってない気がしますけどね。
50日本@名無史さん:02/03/15 01:57
大河ドラマ「花の乱」では義尚は六角の流れ矢に当たって死んでましたね。
史実ではたしか黄疸だったと思いますが。義政もどこかの路上でのたれ死に
という凄い脚本でした。
そういえば義尚って髪の毛を緑色に染めてたと何かで読んだ記憶があるので
すが。
51日本@名無史さん:02/03/15 02:29
外人が日本史上の将軍と天皇をどう認識してるか

in 1192, Minamoto Yoritomo became a shogun (military
director) and founded first of the shogunates which
controlled emperor 1192-1867.
(Webster's New Geographical Dictionary)

1192年に源頼朝が将軍(軍事指揮官)に就任し、
1192〜1867年に天皇を支配下に置く幕府の
最初のものを開いた。
52歴史の勉強:02/03/16 01:06
う〜ん、頼朝はたしかに公家より優位に立ったかも知れないが、
まだまだ公家健在の時代だったから、
「皇帝を支配」って表現は間違ってると思うぞ?
鎌倉、足利、徳川の3幕府を同列に論じるのが無理ってもんだ。
鎌倉幕府のばあい、10年もしくは20年単位で「権力が成長した」政権だし。
53日本@名無史さん:02/03/16 03:39
controlを支配と訳すのはやや強過ぎないかな。
それでも原文がへぼいのは確かだけどさ。
54歴史の勉強:02/03/16 15:13
講談社が出してた日本の歴史を英語で書いた本は、
執権を「regency」と訳してた。
要するに、「摂政」と同じことだと。
「Shogunate」はそのまんまだった。

既存の外国語で、しかもわかりやすい訳語を見つけるのは難しい。実に。
しかし、「将軍」を「General」と訳さないのは、かえって好いかも。
非常に特殊な称号として認知されるなら。
55日本@名無史さん:02/03/19 20:39
>>50

鼻の欄では、日野富子の次男・義覚のことが無視されてたけど、
彼が出ていればもっと面白い脚本になっていたのでは?

盲目の彼を冨子は偏愛したらしい。
56日本@名無史さん:02/03/19 20:46
>>54
外国での将軍像って
例のテレビドラマのせいで妙なことになってるように思うよ
「ショーグンなんとかウォー」ってゲームあったし
57東国の尊皇派:02/03/19 21:00
初代は大塔宮護良親王だろ。
58日本@名無史さん:02/03/19 21:11
東国の尊皇派は本物のアホですね。
59歴史の勉強:02/03/19 23:23
う〜ん、外人は天皇以上に「ショーグン」を変な存在と思うのか?
たしかに、こういう例は世界的には少ないだろうしなあ。
中国や朝鮮のほうが外人にはわかりやすいだろうね。
ただ、いっぱいいる将軍の中でも、
源頼朝以降の征夷大将軍はちぃっと違うのよ〜、
という説明は難しいか?
「Shogunate」という単語は何となく好きだが。

征夷大将軍は、坂上田村麻呂がそうじゃん? 木曽殿も任官してるし。
もともと源頼朝は東北を征服する口実ほしさに、この役職を望んでいたという。
たぶん、この職が武家の代表者になろうとは頼朝も思ってなかったろう。
でも、頼家以降の鎌倉殿はなぜこの職を望んだのかな?
右大将でもよかったろうに。やっぱ東北?
60日本@名無史さん:02/03/20 13:54
昔から考えていたのだが、
今の足利将軍家は、十代義植、十一代義澄、十二代義晴となっているが、
それを、十代義材、十一代義澄、十二代義植、十三代義晴とするべきだろう。
義材と義植は同じ人だが、天皇家でも、再任(重祚)すれば二代と数えるのに、
将軍が数えないのはおかしい。
61日本@名無史さん:02/03/20 18:11
そう思う
62日本@名無史さん:02/03/20 18:21
大相撲の大関はどうなんだろう?
陥落したあと復帰した場合、代数はどうなるのかな。
まあ、横綱とちがってあまり勘定しないけど。
63歴史の勉強:02/03/20 23:25
あんまり代数に固執する必要もないんじゃないかなあ?
足利さんが公方だった頃はそういう数字も意味を持ったろうけど、
天皇の代だって、実証されてるもんでもないし、
別に知らなくたって不都合はないでしょう。
たとえば、今の首相が何代目か知ってますか?
知らない人が圧倒的多数でしょう(僕も知らない)。
64日本@名無史さん:02/03/21 19:39
足利将軍家の領地ってどこ?
徳川家は直轄地の他、御三家、譜代など全国に領地を持っていたし
北条家も全国の半分以上の守護職をつとめていてそのうち宗家が半分以上。
足利氏は鎌倉幕府時代は三河、上総の守護職であったが室町幕府以降は
それらの領地も別の守護に代わっている。
まあ足利一門でみれば全国各地に領地を持っていたみたいだけど
将軍家直轄の領地というのはあったのか?
65歴史の勉強:02/03/21 22:38
簡単に言うと、「御料所」というのが足利将軍の領地。
ただし、関東の公方にも使われた。
ちなみに皇室領は「禁裏御料」という。

ただ、あれだけ急速に足利将軍の権威と実力が失墜してしまったのだから、
実際には現地代官の所領だったのかも知れない。
おゆみ公方が勃興する時、上総の国人がその支持母体になった。
国人たちは公方御料所をほとんど自領みたいに扱ってたらしい。
66日本@名無史さん:02/03/21 23:01
>>59がらみで
頼朝が征夷大将軍になりたがったのは、近衛大将だと京都を離れることが
できなかったからだって、どこかで聞いたんですが、本当ですか?
で、頼朝は上洛して右大将になり、辞任してから鎌倉に戻ったと。
67歴史の勉強:02/03/21 23:12
頼朝は、武家として最高の官位、を特に意識していたわけじゃないみたい。
征夷大将軍はあくまで東北征服の正当化を狙ったものだと言われてます。
頼朝の最高官位は近衛右大将でいいのかな?
頼朝没後はだいたい「右大将頼朝公」と呼ばれたらしい。

第一、頼朝当時はまだ「武家」って感覚がなかったと思われ。
武士は武士であり、御家人のほかにも武士はいた。
「武家」は「公家」に対する語で、かなり鎌倉の力が浸透してから普及したのだろう。

僕が注目したいのが足利尊氏。
尊氏は「太平記」の中では逝去時まで「将軍」と呼ばれている。
楠木正成の桜井駅での別れでも、正成は尊氏を「将軍」と呼んでいる。
太平記は正成死後に成立したものなので、
読者の便宜を図って、正成にもそう言わせたのだと思う。
尊氏が征夷大将軍になるのは1338年。正成死後なのは言うまでもない。
だから、僕が思うに、
尊氏はかなり意図的に「将軍」という称号を使ったのではないだろうか?
そして、尊氏が殺されることもなく足利政権の基盤を固めることができたので、
結果的に将軍の権威が確立し、この呼称の価値も上がったのではないかと思う。
尊氏生前は、平然と上杉氏が尊氏に逆らったように、
将軍の権威は確立されていたとは言い難い。

将軍と言えば武家の王で、征夷大将軍というイメージは後世つくられた気がする。
頼朝のころはあまり権威のない役職名に過ぎなかったのではないだろうか?
68日本@名無史さん:02/03/21 23:41
頼朝が征夷大将軍を望んだのは、東北がらみということはないだろう。
なぜなら、彼が征夷大将軍をもらいに上洛したのは、奥州藤原氏を滅ぼしたあとだから。

彼が征夷大将軍を望んだのは、1つは「大将軍」という名前が良かったから。
「将軍」と「大将軍」ではやはり格が違うようで、北畠親房が東北に使わされたときも、
「鎮守府将軍」をわざわざ「鎮守府大将軍」にさせたりしている。

もう1つは征夷大将軍は方面軍司令官で、裁量が大きかったことがある。
なにしろ、今みたいに電話があるわけでは無いから、現場に行けばオールマイテイな力がある。
右大将は基本的に京都の護衛官だから、その点で格は征夷大将軍より高いが、裁量権は少ない。
征夷大将軍さえもらえれば、頼朝は関東では好きなように御家人を処罰したり、統率できるという権限が
与えられることになる。
そこで、後白河法皇は死ぬまで、頼朝に征夷大将軍を与えなかった。

「将軍」というと、おそらく武士の棟梁に対する言葉としては結構一般的だったのでは?
前九年の役を書いた絵巻物にも、源頼義は「将軍」と案内されてたりしているし。
69歴史の勉強:02/03/22 10:22
頼朝は奥州征服以前から征夷大将軍任官を望んでいたはずだよ。
後白河院が、やっぱ頼朝の魂胆を見抜いて、生前は強硬に反対したという。
後白河院は単なる「天狗」ではなく、
おそらく当時の公家政治家としては一級の洞察力を持った人物だったと思う。
九条兼実は、真面目だが頑固なおじさんみたいだしなあ。

「将軍」という語そのものは軍の親ビンだから、中国その他ではその意味で使われた。
中国では、特に宋代以降、皇帝の権力が完成したために、
田舎の将軍が勝手に叛乱することもあまり無くなった。
それに対し、日本では東日本を押さえることが困難だったためか、
武家の有力者が将軍になると、職権(中央政府が思ってる職域)を越えて、
その地方の事実上の統治者となってしまうことが多かった。
鎮守府将軍も秋田城介も、畿内あたりの将軍とは意味が違ったのだ。
おそらく財源の問題もあって、中央政府もある程度黙認したんだろう。
後醍醐天皇が足利尊氏に征夷大将軍の称号を与えるのをためらったのも、
尊氏の権力が称号によって既成事実化することを恐れたからだと思う。
7068:02/03/23 00:05
>頼朝は奥州征服以前から征夷大将軍任官を望んでいたはずだよ。
俺が知っている範囲では聞いたことないな。
頼朝は藤原氏討伐のために「院宣」は欲しがっていたが、後白河は藤原氏という持ち駒を失いたくないため、
拒否していた。
で、結局「藤原氏は源氏の家来であり、家来を処罰するのに院宣なんかいらん」という誰かの入れ知恵で藤原
氏を滅ぼしてしまったはず。

>後醍醐天皇が足利尊氏に征夷大将軍の称号を与えるのをためらったのも、
尊氏の権力が称号によって既成事実化することを恐れたからだと思う。

尊氏の時代には「征夷大将軍」は武家の棟梁のみならず、幕府の責任者という認識は
すでに公知だったと思う。
特に中先代の乱の時には関東では事実上ミニ足利幕府が出来上がっていたから、もし
「征夷大将軍」を尊氏に与えていたら、名実とともに、足利幕府が出来上がってしま
ったと思われる。
そこで、後醍醐は「鎮守府将軍」や「征東将軍」は与えたが、「征夷大将軍」は与え
なかったのでは?
71日本@名無史さん:02/03/23 00:45
>>67
右近衛大将ね。
72歴史の勉強:02/03/23 11:12
ああ、懐島(ふところじま)景義の入れ知恵ね。
懐島は大庭景親の兄。「源家累代の〜」ってやつ。
結局、無理矢理に奥州藤原氏を亡ぼしてしまったのでした。

でもまあ、頼朝がそこまで意識したかは不明だが、
征夷大将軍という役職は独特なニュアンスを帯びていた。
「征夷」というからには、これは異民族に対処するという側面もあった。
征夷大将軍が鎮守府将軍とは違ったニュアンスを帯びるのはそのためだったという。
ただ、この称号が採用された時と後世とでは意味が変化してしまっているのは重要。
おそらく採用時は「東北軍司令官」という意味だったのが、
後世は北辺を守護する大将軍の意味に変化していった。
これが征夷大将軍という役職の正当化の源泉にもなっている。

しかし、足利さんから遠ざかってるな〜。
「将軍」という日本の特殊な現象が始まったのはいつか?
安達泰盛は鎌倉殿を「公方」と呼び、単なる一将軍ではなく、
日本国最高の権威者として考えようとした。
だから、画期は安達泰盛のころか足利将軍の時代になる。
鎌倉時代が推移するにつれ、武家権力がそれだけ成長したってことだろう。
73日本@名無史さん:02/03/23 18:46
>>62
大相撲の横綱で言うと、早く横綱免許を与えられた順に代数がつくわけ。
そして大関も、いかに先に昇進してるかの問題と言えるから、
重祚とは考え方が根本的に違うものと考えます。
74日本@名無史さん:02/04/02 22:55
age
75日本@名無史さん:02/04/20 00:31
age
76日本@名無史さん:02/04/20 09:18
堀越公方になった政知って、意外と人物像明確じゃないよな。
あまり武勇に秀でた人ではなかった、というイメージくらい。
77日本@名無史さん:02/04/20 12:40
足利茶々丸の親父というイメージくらい。
78日本@名無史さん:02/04/20 15:00
茶々丸と義澄は兄弟。
結局、政知の血が足利氏の嫡流となったんだね。
79これなら見ない:02/04/20 18:54
手元に詳しい資料がなくて、ちょっと厨ちゃん質問になるんだけど、

鎌倉の連中を懲らしめるために、関東に派遣された政知って
どれ位の手勢を引き連れていたのだろうか?
結局、箱根の関は越えられず堀越で引き篭もり生活。
そうかと思えば、鎌倉の連中は古河に拠点を移すし。
サッパリ解らん・・・。
80日本@名無史さん:02/04/20 20:41
伊勢盛時(伊勢新九郎長氏[北条早雲])が足利茶々丸を討ったのは、
単なる私闘ではなくて足利幕府の実力者である細川政元からの依頼で
あったという説がありますね。
細川政元はクーデターを起こして足利義澄を将軍にしたし、
足利義澄にとって足利茶々丸は母親や弟を殺した仇にあたるから。
81日本@名無史さん:02/04/20 23:12

北条家=金持ち 足利家=貧乏ったれ 徳川家=金持ち
という認識でよろしいでしょうか?
82日本@名無史さん:02/04/22 20:04
茶々○って、何で家督を継いでも元服しなかったのかな?
義澄生母や弟を殺すことができるくらいだったら、結構な歳だったろうし。
謎。
83足利はなんで15代なの?:02/04/22 20:46
初代・尊氏 二代・義詮 三代・義満 四代・義持
五代・義量 六代・義教 七代・義勝 八代・義政
九代・義尚 十代・義稙 十一代・義澄 「再・義稙」 
十二代・義晴 十三代・義輝 十四代・義栄 十五代・義昭

「再・義稙」は代数に数えないのはなぜ?
天皇は、間に別人がいれば「35代皇極・37代斎明」「46代孝謙・48代称徳」と別だが。
※相撲の年寄も天皇と同じ数え方。
84日本@名無史さん:02/04/22 21:56
信長って、足利六代義教の生まれかわりというのを聞いたことあるんだけど、誰か知ってます?
詳しいこと教えてください。確か、義教の代だけ日明貿易廃止したんだよねぇ。朝貢貿易だから、
日本が中国の従属国で、義教が中国に野心を持ったからとかいうのも聞きました。
85 :02/04/22 22:18
http://tmp.2ch.net/test/read.cgi/download/1019446859/
助けてあげて下さい。
論文があぼーんされそうです。
86日本@名無史さん:02/04/22 22:47
>>84
日民貿易を廃止したのは義持。
復活させたのが義教。
87日本@名無史さん:02/04/22 22:48
>>86
×日民
○日明
88日本@名無史さん:02/04/23 11:36
>>82
元服していたかもしれない。
ただ記録が残っていないだけとも考えられる。
だって伊勢新九郎に追われてからも、7年くらい(?)生きてたんだからね。
89日本@名無史さん :02/04/23 13:07
12代義晴は従三位大納言、義輝は従四位下参議、義栄は従五位下と征夷大将軍にしては
官位が低いね。ちなみに太政大臣まで上ったのは徳川では3人いるけど、足利では
義満だけですね。
90日本@名無史さん:02/04/23 15:19
>>89
義晴や義輝の頃は朝廷に献金して官位を上げるのが主流だったが、
当時の幕府にはそんな金は無かったのだろう。
太政大臣については、義満が前例を作ったとも言えるね。
91日本@名無史さん:02/04/23 15:34
>>89
在職期間の問題が大きいんでしょうね。
京都の官位官職は前例に基づいた家格で決定されますから、
長生きしていれば基本的には
ご先祖のたどり着いたくらいまではいける。

長生きできなかったものね(T_T)
92日本@名無史さん:02/04/23 16:49
>>91
>在職期間の問題が大きいんでしょうね。

それはないのではないかな。
秀吉なんて一足飛びだったよ。
93 :02/04/23 19:11
金があるやつは特別
94日本@名無史さん:02/04/23 21:13
>92
秀吉とここであがってる奴らを同格に扱ってどーする
立場があまりにも違いすぎるっしょ
95日本@名無史さん:02/04/24 04:09
<<86
ちょっと遅いが、そのとおりでした。ーーー謝
96日本@名無史さん:02/04/24 04:10
初代・尊氏 二代・義詮 三代・義満 四代・義持
五代・義量 六代・義教 七代・義勝 八代・義政
九代・義尚 十代・義稙 十一代・義澄 十二代・義晴
十三代・義輝 十四代・義栄 十五代・義昭
97日本@名無史さん:02/04/24 11:07
>92
秀吉の場合はかなり強引にやって、
ときの後陽成帝を不快がらせたという話もありましたし。
スタート地点と在職期間、あとは昇進への関心の度合、
とでもいったほうが正確かな?

室町期くらいだと将軍家のスタート地点は
四位、五位くらいが普通だったじゃないかという記憶があります。
これは徳川時代だと三家クラス相当かとは思いますが。
98日本@名無史さん:02/04/24 12:11
確か源頼家も従五位下右馬頭?で将軍に補任したと思うが、後世になるほど将軍
嫡子が元服時に既に四位、五位で叙任されてるケースが多いと思う。
朝廷権力の凋落と考えて良いのかも?。

99日本@名無史さん:02/04/24 16:00
江戸時代になると武家の官位は朝廷の員数外に置かれることから将軍家、御三家あたり
はその権威付けのために元服時に従三位ぐらいに任官させたんでしょうね。
それ以前は武家であっても「公卿補任」に記載されていたように記憶しています。
従五位下なんて江戸時代には大名の中でも最低クラスでしょ(無位無官もいたみたいだけど)。
 ところで足利将軍家では庶子が仏門に入るケースが結構あったようですね。
徳川将軍家では皆無でしょう。何か意図があったのかな?
100日本@名無史さん:02/04/24 16:41
よーし 1 0 0 げ と ー
101日本@名無史さん:02/04/25 13:52
>>99
とっても鋭い意見ですね。とても興味をそそられる意見です。
オレが思うに室町と江戸で、宗教のあり方、考え方が変わったのだと思います。
基本的に両方とも仏教と政治が密接に関わっていますが、室町と比べると江戸は仏教の
権威が低くなったと思われます。
 古代から室町時代までは、宗教は国家鎮護、つまり国の平和維持を目的として、その
機能が成立していたから、政治より上の存在だった。天皇が神というのはそういうところから
くるのでしょう。しかし、応仁の乱、下克上、貧困などが室町時代におき、
そうした政治機構ではやっていけないことがわかってきた。つまり、宗教による
国家鎮護ができないことにきづいたわけだ。それで、長い年月、宗教との対立があり、
信長の頃に宗教とは切り離された合理的な政治が始まろうとしたんだろうね。
だから、信長は石山本願寺30年紛争、比叡山焼き討ちを行い、秀吉はバテレンを追放したのでしょう。
ある意味日本の「革命」だったんだね。
 しかし、家康は仏教を保護した。天海上人や金地院崇伝など、有名な僧侶がいるよね。
おそらく、日本宗教と政治の歴史が時代を超えて(1000年くらいあるんじゃないかな?)、庶民の
レベルにまで浸透しているから、天下を統一するうえで、いきなり消滅させることができなかったんじゃないのでしょうか?
戦後の昭和20年にマッカーサーが天皇制を廃止しなかったのも同じ理由からだと思われます。
 以上のようにづらづらと書きならべてみましたが、これはオレが日本史を学んできた経験上の「勘」
というやつで、それが正しいにしろ、間違っているにしろ、資料などの客観的な裏づけはしていないので、
そこは了承して、読んでください。
 あくまで、そのことに気づかせてくれたのは、99さんの疑問なので、99さんの力でいろいろ研究して
みてください。その参考にしてもらえればうれしいです。もし、なんか参考になる資料でもみつけたら、
ここで紹介させてもらうかもしれません。
102日本@名無史さん:02/04/25 14:33
>>101
筋はおっしゃるとおりだと思いますが、もう少し別の言い方をしていいと思います。
足利将軍家の子弟が出家した先は百パーセントきわめて格の高い寺ばかりですね。
いわゆる「門跡」ですが、これらの門跡は戦国期に経済的基盤を喪失するまでは、
政治的経済的に極めて大きな力を持っていました。

足利義満の権力形成を論じて有名な今谷明は、
義満の子弟が多く門跡、なかには皇族でないと入山できないはずの
「宮門跡」にもなっていることを取り上げて、
これが彼の権威強化「皇位簒奪」を準備する計画の一環であったと論じています。

しかしこの種の門跡は、戦国期から織豊期にかけて、
無理やりに滅ぼされたものも含めほぼ例外なく没落し、
豊臣氏や徳川氏によって幾ばくかの所領を安堵されることで
かろうじて生き残る存在でしかなくなってしまいました。
のちに新井白石が将軍家宣に勧めて閑院宮家を創設させたとき、
「近頃宮家を創立するだけの経済的余裕がないため、
皇子皇女が出家する例が多いのはまことに恐れ多い」
といったことを理由に挙げていますが、
ここでは「出家」の社会的位置付けがまったく変化してしまっています。

むろん江戸期にも多くの寺領を持ち
社会的に力を持った僧侶というのはいるわけですが、
これらの僧侶の政治力も経済力も、あくまで社会の主体である武家に保証されて、
初めて成り立っているものに過ぎません。
対して南北朝、ないしは室町までの寺社の権力というものは、
それ自体が公権力の主体のひとつとして、
朝廷や貴族、武家と並び立っていたものです。
とすれば足利家が子弟を数多くこれらの寺社に送り込んだのは、
明らかにそれらの取り込みを目的としたものであり、
逆になぜ徳川家においてそういったことがないのかも明白といってよいでしょう。

長々と失礼。
103日本@名無史さん:02/04/25 16:13
本当に長すぎるよ
104日本@名無史さん:02/04/25 17:49
長いし自作自演にしか見えないんだが・・・
105日本@名無史さん:02/04/25 18:28
>103
短小だよ

短小はいいのか(ワラ

自演にしちゃ話が全然違うと思うが、誉め殺しか?
106101:02/04/25 19:36
>>102
ご指摘ありがとうございます。おっしゃるとおりだと思います。102さんは専門家のようですね。自分は
趣味程度のものでしか勉強していないので、うかつな発言をしたことにちょっと反省して
おります。99さんは102さんの文章を参考にしてください。
107日本@名無史さん:02/04/25 19:41
仮にも学問板なんだから、この程度の文で「長い」とか言うなよ
108日本@名無史さん:02/04/25 19:44
初代・尊氏 二代・義詮 三代・義満 四代・義持
五代・義量 六代・義教 七代・義勝 八代・義政
九代・義尚 十代・義材 十一代・義澄 十二代・義稙 
十三代・義晴 十四代・義輝 十五代・義栄 十六代義昭
109日本@名無史さん:02/04/25 21:48
>>107

「仮にも」っていうのが、悲しいけど笑える。
110日本@名無史さん:02/04/25 22:04
>>108
それなら

四代・義持 五代・義量 六代・義持

にせねばならないw
111日本@名無史さん:02/04/26 03:57
三代義満にアホキャラのイメージがあるんだが
これはやっぱりあのアニメのせいだよな(w)
112日本@名無史さん:02/04/26 04:01
>>19-24
一昨年「葵・徳川三代」スレでは
幕末に足利三代の墓を暴き
白骨化した尊氏、義詮、義満の首をさらしたなんて
カキコがあったのを思い出した。

でも足利家の墓は別に調査されてはいないよね?
113日本@名無史さん:02/04/26 09:04
>>112
晒されたのは木像のクビ。
1863年2月22日の夜。等持寺に安置されている足利尊氏・義詮・義満
の木像の首が抜き取られ三条河原に晒された。横の札には
「今の世にこれら足利将軍以上の逆賊がいる」
といった内容で上洛してくる徳川家茂を恫喝する意図をもった行為だった。
114日本@名無史さん:02/04/26 11:17
>>110
義持って再任したっけ?
当時は将軍は空位のままでは?
115日本@名無史さん :02/04/26 13:32
>101さん、99です。丁寧なご返答有難うございます。2CHでレスをたてて真面目な返答を
頂いたのは久々です。有難うございます。自分ももうチョット調べてみたいと思います。
116101:02/04/26 13:37
>>115
こちらこそ。またここにチョクチョク顔出すのでまた語りましょう。
117日本@名無史さん:02/04/26 14:00
実権者(実質的政務者)でいうなら

1尊氏→2義詮→3義満(道義)→4義持(道詮)→5義教(義宣)→6義勝
→7義政(義成)→8義材→9義澄(義遐・義高)→10義稙(義尹)<再任>
→11義晴→12義輝(義藤)

*管領代行の時は家督者
118日本@名無史さん:02/05/02 15:42
age
119日本@名無史さん:02/05/04 23:28
義澄や義晴を実質的政務者と呼べるのかどうかははなはだ疑問だが、
それは置いといて、足利直冬がいつどこで氏んだかについては諸説あり判然としない。
この辺り、再検討してみる価値は学術的見地からは無に等しいが、2ちゃん的にはどうよ?
120日本@名無史さん:02/05/06 23:07
age
121日本@名無史さん:02/05/10 23:36
>>119
晩年石見に隠棲してそこで没、と何かで読んだ記憶あり。
義満の時代だったと思う。
122日本@名無史さん:02/05/12 02:23
九代・義尚 十代・義稙 十一代・義澄 十二代・義晴のあたりは今までどういう
人物なのか、どういうことをしたのか詳しく教えてください。資料があまりにも
少ないので。義晴は武田信玄の前の名前の晴信は義晴から取ったということと
義尚は近江の六角氏征伐の最中に病死したというぐらいしか知りません。
また、駿河の今川氏と足利一門の関係について教えてください。

123日本@名無史さん:02/05/12 02:50
「花の乱」での足利義視=佐野史郎は素敵だった。
124日本@名無史さん:02/05/12 04:30
>>122
義尚→義材(義稙)→義澄→義稙→義晴
この辺の将軍家の家督争いは興味深いね。
125日本@名無史さん:02/05/12 16:23
>>122
確かに「徳川十五代将軍・・・」という本はよくみかけますが、足利将軍列伝
みたいな本って、どんなに捜しても絶対に見かけないですね。前期は南北朝時
代出し、後期は戦国時代だから、将軍の権威も低かったことは承知してますが、
ほんとうになにかいい資料があったら、紹介いただきたいものです。
126日本@名無史さん:02/05/13 01:52
足利義教って何故一色義貫、土岐持頼を殺してしまったんでしょうか?
127日本@名無史さん:02/05/13 14:28
気にくわないから
128日本@名無史さん:02/05/18 20:20
age
129日本@名無史さん:02/05/18 20:23
>>123

鼻の欄では無名時代の大沢たかおが義材だったね。
130日本@名無史さん:02/05/18 21:12
天皇と征夷大将軍の関係は、イスラムで言うカリフとサルタンみたいなもの?
131日本@名無史さん:02/05/21 15:23
>130
近いけど、シーア派、スンニ派で違うからね。
132日本@名無史さん:02/06/02 00:28
age
133日本@名無史さん:02/06/02 14:01
    マテー       キャッキャッ
   ≡≡∧,,∧   ≡≡∧ ∧
  ≡≡ミ,,>∀<ミ ≡≡(,,・∀・)  ブヒッ 人
  ≡≡ミ_u,,uノ  ≡≡ミ_u,,uノ     (゚ω゚=) ~~
      "~"      """      ムニハ〜 ~~/ ̄ ./|
       ドタバタ              ____| ̄ ̄|/|
  ___                  |\0,000.|| ̄ ̄|/|
/// /|   ∧ ∧   ∧_∧ _ /  ̄ ̄ /.| ̄ ̄|/|__
| ̄ ̄ ̄|/ ̄ ( ゚Д゚) .(   ♭)  | ̄ ̄ ̄| .| ̄ ̄|//|
| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄U  ⊃ .( ○  )  ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ | |
|ポイントカードは.  |  |. | | |   目標!        | |
|期限をチェック  U U  (_(_)  ハリポタ完売    |/
              __∧__________
            /店で暴れやがって、くそ餓鬼どもめ〜  
    ____∧_ 親は何やってるんだ!!
  /
   店長!衛星モニターの前で座ってパンを食べてるのが
   そうみたいですよ


134日本@名無史さん:02/06/02 14:05
>>119
>>121
いちおうこんなのがあったよ。
ttp://www.mmjp.or.jp/askanet/samurais&temples-jionji.htm
135日本@名無史さん:02/06/02 20:43
足利家にはろくな家来がいなかったんだね
136日本@名無史さん:02/06/05 03:14
徳川末期も一緒。
137日本@名無史さん:02/06/06 23:02
豊臣末期は最強
138日本@名無史さん:02/06/20 20:04
鎌倉・江戸と違い文武両道の将軍家。
139日本@名無史さん:02/06/21 11:13
足利義宣
足利満詮
足利義高
足利家国
足利基頼
足利藤政

この中で将軍は誰でしょう。
140日本@名無史さん:02/06/21 13:06
足利義宣(義教)
足利義高(義澄)
141日本@名無史さん:02/06/21 13:55
>>139
足利藤政だけ何者かわかんないや
142日本@名無史さん:02/06/21 14:09
>>140
正解です。

>>141
藤政は足利藤氏の弟です。
143日本@名無史さん:02/07/02 22:55
救済あげ
144日本@名無史さん:02/07/19 15:42
14代義栄は、結局一回も京都の地を踏んでいないよね。
この人本当に正式に征夷大将軍の宣下を受けたのだろうか。
他の官職はどうなってたのかな
145日本@名無史さん:02/07/19 18:48
>>144
確か左馬頭に任官されてなかったっけ?
146正雄:02/07/19 21:49
すまん。ど忘れだが等持院で木像が無いのは誰だっけ。
ご教示願う。たまたま子供と話していて答えがでなかった。
147日本@名無史さん:02/07/19 22:11
>>146
義量と義栄だったと思う。
148正雄:02/07/19 22:19
147さんありがとうございます。
義勝かと思っていました。
これから子供に言おうと思いますが、寝てしまってます。
149日本@名無史さん:02/07/20 01:00
>>54

僕は外国人に説明するときに
「天皇」=pope
「将軍」=emperor
のようなものだといっている。
権威を受け持つのが天皇で、権力を握るのが将軍だと。
150日本@名無史さん:02/07/28 02:38
義栄って太閤立志伝4では登場すらしていないんだよね。
ゲーム中では義輝が殺された後、すぐに義昭が信長を頼ってくるわけで。
151日本@名無史さん:02/07/28 02:43
実際に義栄は将軍職に就けたの?
堺かドコかで足止め喰らって京にも入れなかったのに
152日本@名無史さん:02/07/30 22:48
朝廷の使者がわざわざ出向いたのでしょうか
153歴史の勉強:02/08/20 02:43
義栄は就任してすぐ織田信長の上洛食らって没落しちゃったから。
彼を擁立してたのが信長と対立していた三好三人衆と六角氏だったから。

しかし不思議なのは、堀越公方・足利政知がなぜ伊豆韮山にとどまってたか?
鎌倉に入ることを将軍から禁止されてたと読んだことがあるけど、
独立して反幕府分子にかつがれることを恐れてかな?
彼の子孫が将軍になったことを考えると、最初っから召還するつもりだったのでは?
と思えなくもない。

>54
その解釈でも、説明は難しいと思う。
武家政権の成長(絶えず成長した!)も考慮しなくちゃいけないけど、
天皇の機能も時代によって変化したから。
南北朝時代に衰退してしまうけど、鎌倉時代いっぱいは最高の権門だったし。
乱暴な言い方だけど、鎌倉時代の天皇さんは足利さんよりリッチだったはず。
少なくとも鎌倉幕府成立によって武家の天下が始まるという解釈は早計。
しょうがないので、適訳を見つけるのはあきらめて、
「ショーグン」「テンノー」に字を当てるほうが賢明な気がします。
でもまあ、これたしかに日本特有の現象だったろうけど、
歴史なんて、そう簡単には規格統一できないもんなんでしょうね。
今の天皇さんはかえって特殊性を失って、ヨーロッパの王様と同じになっちゃった気がするよ。
154日本@名無史さん:02/09/05 22:48
このスレは面白くてずっと愛読していたけどなぜ義満のことがあまり話題になら
ないのだろう。彼は鎌倉、室町、徳川将軍の中でももっとも傑出した人物であり、
そのスケールで大きさも空前絶後だと思うけど、あまり人気がないようだねえ。
いったいその理由は何のか。皇位を狙ったというだけではないような気がするけど。
誰か義満賞賛論を展開してくれないかなあ。
155日本@名無史さん:02/09/05 22:58
鹿苑寺殿画像の、あのたれ目でボテッとした体つき。稀代の好色漢、宮廷の
女官を次から次に犯し、あまつさえ後円融上皇寵愛の女官まで手篭めにした。
上皇は怒り狂って切腹未遂。禅にこって行い澄ます一方でこの乱行の二重人
格、徳川5代綱吉にも似た狂気を感じる。やはり好きにはなれませんなあ。
156日本@名無史さん:02/09/05 23:13
公家(朝廷)武家(幕府)社寺の3大勢力を超越して日本国王として君臨しようと
した。たしかにスケールはでかいが、死んだらすべて元の木阿弥。やはり当時から
人気がなかったのでしょう。
157日本@名無史さん:02/09/05 23:21
義満は息子の何とか言うのを皇太子にして、皇位簒奪完成か。しかしその
直後急死していますね。井沢氏が書いていたけど、これは絶対暗殺だと
思う。信長の最後は多くの人があれこれ論じるけと、義満の最後はあまり
話題になりませんね。万世一系の危機一髪だったのに。
158日本@名無史さん:02/09/06 12:03
>153
堀越公方は、本来の鎌倉公方として将軍より派遣されたと思ったけど。
ただ古河公方を擁する勢力のために、伊豆から先に進めなかったのでは?
相模守護の扇谷上杉(?)とか。

犬懸上杉の政憲はたしか堀越公方の近臣だったので、そういう争いもあったんでしょう。
159日本@名無史さん:02/09/06 12:04
そういやあ確かに義満って話題に乏しいな。こいつが出てくる小説も読んだこと
ないぜ。誰かこいつが好きだっちゅう物好きはおらんかいな。
160日本@名無史さん:02/09/06 12:21
はーあい、私は3代将軍義満公のファンであります。南北朝を統一し、
九州を平定(今川了俊にやらせたけど)、有力守護のわがままを押さえ、
少なくと義満公の生きたあいだは日本は平和でした。貧しい日本の国力を
明との貿易で補うなど、海外をも見据えたスケールの大きな政治家です。
皇位を狙ったなんてうそ、戦前に田中博士が言い出したに過ぎません。
当時の後小松天皇に忠誠を尽くし、天皇は彼の北山第に行幸すると
帰りたくないと言って20日も逗留しています。彼の周りの公家たちが
かってに彼の位を高めて自分たちもいい目を見ようとしたのは事実ですが、
この点は秀吉にも似ています。とにかく見直されるべき名将軍だと思います。
161日本@名無史さん:02/09/06 14:39
知ってる方いる?十四代義栄は本当に足利血脈?
162日本@名無史さん:02/09/06 22:51
後円融天皇の寵妃を義満が手篭めにして生まれたのが後小松天皇だっていうのは
根拠がある話ですか。ご存知のかたは典拠を教えてください。
163日本@名無史さん:02/09/06 23:29
>>159
山田風太郎の小説には義満が出てくるよ。「婆沙羅」とか「柳生十兵衛死す」とか。
鯨統一郎の歴史ミステリー小説「とんち探偵一休さん 金閣寺に密室」では、
義満は密室状態の金閣寺で、首吊り死体となって発見されたという設定。
容疑者はみんな実在の人物。犯人が誰かは書かないでおくね。
164日本@名無史さん:02/09/07 00:11
義栄は義輝・義昭の従兄弟ですよ 平島公方と呼ばれてます
>>161
165日本@名無史さん:02/09/07 00:14
今谷説への批判もあるな。

簒奪なんか企んでいないと。
166日本@名無史さん:02/09/07 10:18
>162
根拠は知らんが多分「看聞御記」あたりじゃないかな。だいたい、後円融、後小松、
称光の3代の天皇にはどうも狂気の血が流れているようだな。だからこの系統は
称光で断絶している。
167日本@名無史さん:02/09/07 15:03
足利義教の大河ドラマ化キボンヌ
168日本@名無史さん:02/09/07 20:49
義満の次の将軍義持も興味あるね。親父のやったことを全て否定し、皇太子に
なりかけた弟も殺してしまった。死ぬとき自分の後継ぎをくじ引きで決めろ
なって言って、ちょっとニヒルな感じがしないでもない。屈折した男であった
ようだ。義満ー義持ー義教のあたりの大河ドラマ、誰か書かないかなあ。
一休和尚を狂言回しにしたりして。
169日本@名無史さん:02/09/07 22:02
足利義満っていうと、どうしても皇位簒奪、明への卑屈な外交みたいなイメージで
歴史家も小説家も取り上げにくいのでは
170日本@名無史さん:02/09/07 22:26
>>159
義満が主人公の小説なら
平岩弓枝「獅子の座」というのがある。
171日本@名無史さん:02/09/07 22:26
>>167
NHKのプロデューサーの歴史に対する意識が
100倍くらい進歩しない限り、
尊氏以外の足利将軍を大河ドラマにすることはないだろう。
本当は義満・義教・義政・義輝あたりはぜひやってほしいものだが。
172日本@名無史さん:02/09/07 22:47
義政は一度やってたのでは
173日本@名無史さん:02/09/07 22:54
>>165>>169

義嗣の元服式が親王と同格だったのは皇位簒奪の準備と言うより、
義嗣=「日本国王世子(次期日本国王・ただし対外的な意味)」の宣言と
言ってみる罠
174日本@名無史さん:02/09/07 22:58
九代の足利義尚は日野富子と後土御門天皇の間の子供という話は本当かねえ?
もし本当なら天皇家の「逆襲」だない(グヘヘヘ)
175日本@名無史さん:02/09/08 00:05
子供時代の一休さんにコテンパンにやられるような人が大物なはずない。
176日本@名無史さん:02/09/08 00:07
蜷川新衛門さんは
実在の人物なんでしょうか?
みよちゃんは架空だと思うけど
>一休さん
177日本@名無史さん:02/09/08 13:39
>>176

蜷川氏は室町幕府で政所代という重職を担当した一族で、家督が代々
「新右衛門尉」を名乗っています。

特に蜷川親当は将軍義教と一休(もちろん成人してます)の仲介役を
やっていた様なので、「一休さん」の時代にああいう関係にあったかどうかは
ともかく、おおむねこの人に比定して良さそうです。

178日本@名無史さん:02/09/08 13:42
さよちゃんとか珍念とかも実在したのかな(w
179日本@名無史さん:02/09/13 11:53
久しぶりに来たけどこのスレ盛り上がらないね。やっぱ足利将軍って義政以降は
力もないし人間的にも小粒ばかりなのかなあ。しかし室町時代ってマイナーだけど
本当はものすごく面白いと思うのは俺だけか。
180足利100代:02/09/13 13:41
このスレッドは、いいんだけど、
天皇家のスレッドでまともな、スレッドはないのですか?
181日本@名無史さん:02/10/04 00:14
ageてみる
182日本@名無史さん:02/10/04 00:40
義昭の子孫っているんですか?
183日本@名無史さん:02/10/04 01:11
>182
カナ―リ怪しい自称ならいるぞ。
184日本@名無史さん:02/10/04 11:13
>182
西山くんとかね。
185日本@名無史さん:02/10/04 11:57
江戸時代に喜連川氏が足利氏の嫡流と擬せられていたみたいだけど官位は従五位下
・左馬頭あたりですね。石高は5千石ながら大名としての扱いだったようですけど
せめて従三位・参議ぐらいにして欲しいですね。吉良上野介義央が従四位上・左少将でしょ。
なんででしょうかね?
186喜連川公方:02/10/05 02:22
>185 位は四品だと記憶しておじゃる。
官は鎌倉公方の時でさえ、参議になっていないから無理でおじゃる。
席次は江戸初期に大廊下詰で御三家に準じているからキラ殿様より上でおじゃる。
参勤交代しなくてよいから将軍の家来ではないでおじゃる。
でも実高は5000石もないでおじゃる。
187日本@名無史さん:02/10/05 08:49
この間、喜連川でマンションの分譲をしているという広告を見た。
よく知らんがどんな場所なんだろう

石高は5000石って言っても、公家だと清華でも500石くらいだから、
それに比べればましだよ。
188日本@名無史さん:02/10/07 11:16
喜連川家
5千石 10万石格
外様 無席 陣屋 国主格
戦国末期には足利将軍家は一応滅亡するわけだが、その足利家の末裔がこの
家である。
鎌倉の関東管領も戦国期にはいくつにも分かれるが、その中の古河公方の
足利義氏の家を小弓御所足利義明の孫にあたる足利国朝が、秀吉の命によっ
て嗣ぐこととなり、下野喜連川に封地を賜ったのが起こりである。
家康は源氏を称して将軍となり、徳川将軍は代々「源氏の長者」の称を朝廷
から得ていた。そのため家康は源氏の名流を特に保護し、この喜連川家を筆
頭に、吉良家、今川家、畠山家などの足利一門大名の末裔や、果ては新田家
の末裔までも探しだし、いわゆる「高家」として遇した。
中でもこの喜連川足利家を足利家の嫡流として、5千石を与え、万石未満な
がら大名待遇とした。
189日本@名無史さん :02/10/07 11:24
歴代藩主
 
初代  喜連川国朝(くにとも)
右兵衛督 小弓御所足利義明の子足利頼済の長男。
二代  喜連川頼氏(よりうじ)
左馬頭 足利頼済の二男
三代  喜連川尊信(たかのぶ)
右兵衛督 喜連川頼氏の子喜連川義親の子
四代  喜連川昭氏(あきうじ)
左兵衛督 足利尊信の長男
五代  喜連川氏春(うじはる)
右兵衛督 高家宮原義辰の二男
六代  喜連川茂氏(しげうじ)
左兵衛督 喜連川氏春の長男
七代  喜連川氏連(うじつら)
右兵衛督 喜連川茂氏の長男
八代  喜連川恵氏(やすうじ)
左兵衛督 加藤泰衛の三男
九代  喜連川彭氏(ちかうじ)
左兵衛督 喜連川恵氏の長男
十代  喜連川煕氏(ひろうじ)
左馬頭 喜連川彭氏の二男
十一代  喜連川宜氏(よしうじ)
左兵衛督 細川孝応の二男
十二代  喜連川縄氏(つなうじ)
左馬頭 常陸水戸藩主徳川斉昭の十一男
十三代  喜連川聡氏(さとうじ)
左馬頭 高家宮原義路の弟宮原方斎の二男
190日本@名無史さん:02/10/07 11:26
江戸時代の喜連川家は正式には無位無官だよ
幕府から自称を許されていただけで
191日本@名無史さん:02/10/07 14:31
192日本@名無史さん :02/10/07 16:22
age
193日本@名無史さん:02/10/08 00:56
足利銀行はチョン系
194日本@名無史さん:02/10/08 11:05
マイナーな将軍
とくに義量と義勝について教えてください。
彼らはなんで早死にしたの?
195日本@名無史さん:02/10/08 12:47
>>189
加藤とか徳川とか足利じゃない人までが
養子に入ってるね。けっこういいかげん?
196日本@名無史さん:02/10/08 13:24
>>195
細かいデータがないので良くわからないけど

一般的には、母親が養子先の家の出だったりする
娘に養子をもらうときも、間に子供ができないときのことを考えて
血縁別姓から養子をもらって、血統を保っているもよう
この場合も、そんなとこじゃない
197日本@名無史さん:02/10/08 18:15
けっこういい加減というか血筋はそれほど重視していない。
嫁さんの実家から養子を貰ったりというのはよくあること。
198日本@名無史さん:02/10/09 01:50
血筋よりもとにかく家名存続
199日本@名無史さん:02/10/10 12:37
age
200日本@名無史さん:02/10/11 23:19
尊氏"やい、おまいら!!幕府ができますた。室町に集合しる!
後村上"詳細キボンヌ
義満"1392は南北朝合一ですが、何か?
後小松"南北朝合一キターーーーーーーーー
後亀山"キターーーーーーーーーー
後醍醐"南北朝合一程度で騒ぐ厨は逝ってヨシ
尊氏"オマエモナー
義持"--------勘合貿易終了-------
義教"--------勘合貿易再開-------
富子"再開すなDQNが!それより息子うぷキボンヌ
赤松"嘉吉の乱うp
義教"↑誤爆?
義昭"将軍age
義政"ほらよ息子うぷ>富子
↑の弟"息子?降臨!!
義昭"将軍age
義輝"15第将軍ageんな!sageろ
義昭"将軍age
義輝"将軍age厨uzeeeeeeeeeeee!!
朝倉"ageっていれればあがると思ってる香具師はDQN!
細川&三好&松永"弱い将軍がいるのはこの幕府ですか?
義晴"氏ね
義栄"むしろ生きさせて
義昭"将軍age
義輝"義昭必死だな(w
201_:02/10/12 12:33
>>195
宮原家は関東公法の一族だが・・・。
202 :02/10/14 16:53
ところで明石散人の「二人の天魔王」における足利義教像と織田信長像
ってどこまでフィクションでどこまでノンフィクションですか?
203日本@名無史さん:02/10/15 02:05
>>201
なかなか面白い
204日本@名無史さん:02/10/27 16:04
200はイイカンジ。
205日本@名無史さん:02/10/30 17:36
足利将軍は関東と距離置いてるんだよね。上杉がやがて主役になり
そしてそれも滅亡。関東管領の地位は謙信に。
206日本@名無史さん:02/10/30 17:40
久々に上にあがってきましたね、このスレッド。自然体がいい。
207日本@名無史さん:02/10/30 18:33
最後の関東管領滝川一益
208日本@名無史さん:02/10/31 17:46
北条ってぜんぜん管領職に興味なかったんだね・・・
209日本@名無史さん:02/10/31 19:15
管領ってことは中央権力の下風につくって意味だしね
210日本史@名無しさん:02/11/01 04:00
織田信長は関東管領を与える資格があったのだろうか?
211日本@名無史さん:02/11/07 17:12
足利義尹(義稙)って二度将軍になってるんだね。
212日本@名無史さん:02/11/10 16:37
大内が後援したから。まぁ室町期の将軍で地方大名に頼らなかった将軍の
方が少ないのだが・・・
213日本@名無史さん:02/11/10 18:08
しかし、義満と一休さんはじいさんと孫という
可能性もあるけど、どうなのか?

義満が朝廷をハーレムにしていたというのは
井沢の前にも海音寺氏が書いていたね。
後小松は義満の子だという。
214日本@名無史さん:02/11/12 17:24
勝手な艶聞だよ。それ。ジミョウインとか分かれてたから中傷ばっかり
215貿易とか天皇家への対応:02/11/15 16:58
    _
   '´    ヽ       / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
  .卯 jリノ)))〉      |
  ,イl〉l ゚ -゚ノ|ヽ   < …結構将軍ごとに
  li⊂I!†!つ      .| 方針変わってるね。
  |! lく/_|〉ノ       \_____
     し'ノ
216日本@名無史さん:02/11/19 16:00
室町ってなんかあったら同族で鎮圧って方式なんで
将軍家に一族のだれかが必ずいたそうだよ。
赤松はそれごと全員殺しちゃった。
217日本@名無史さん:02/11/19 16:42
>>215
基本は義満路線に沿っているよ。
218代ごとに:02/11/22 13:48
大抵、外交とか天皇家の扱いとか真逆の政策をとってるよ。
219日本@名無史さん:02/12/01 03:23
だな
220日本@名無史さん:02/12/01 03:38
義満さん、サイコー。将軍の子として生まれたせいか、よく言えば自由な発想
の持ち主、悪く言えばわがままな三代目。北朝とろくに相談せずに南朝を吸収、
守護大名えこひいきは当たり前、天皇家・将軍家・摂関家を超越する「日本国王
家」創設構想など、やりたい放題。面白い人生だったはずだ。うらやましい。
221日本@名無史さん:02/12/01 23:45
11代将軍って2人いるの?
222日本@名無史さん :02/12/02 00:15
義政は、人間平等主義者。
芸術の為には、生まれの貴賤を問わなかった。
芸術の為には、川原の者という最下層の身分まで登用して傍に置いた。
そこだけは立派。

但し、義政は宋の徽宗皇帝と同じ。
徽宗は金の脅威にさらされながらも、知らん振り。芸術三昧の日々。
義政もすげえ。お膝元の京で10万人が餓死しても知らん振り。
政治そっちのけ、無関心で、芸術三昧に明け暮れ。
普通の神経じゃ、できねえことだよ。
223日本@名無史さん:02/12/02 00:53
ところで今の天皇家の直接の祖先である貞愛親王って誰の子なんだ?
後小松〜称光の系統が絶えた後、崇光の子である栄仁親王の養子の
貞愛親王の子・後花園天皇が即位したわけだが・・・
224日本@名無史さん:02/12/02 11:51
>223
またそのネタか。
225日本@名無史さん:02/12/02 13:15

>223

可哀想だな。だれにも相手にされなくて
226日本@名無史さん:02/12/02 13:46
>>223
貞愛親王ですって?
元帥陸軍大将であられた方のことですか?
227日本@名無史さん:02/12/19 17:05
保守
228日本@名無史さん:02/12/24 00:51
保守
229日本@名無史さん:02/12/24 01:20
何で足利将軍はよく名前変えるのかねー
それと茶々丸と義澄はどっちが兄貴だい?
230日本@名無史さん:02/12/24 22:14
将軍就任前の改名
高氏→尊氏(後醍醐帝より賜る)
義円→義宣(還俗)
清晃→義遐→義高(還俗し義遐、その後元服し義高)
義親→義栄
覚慶→義秋→義昭(還俗し義秋、その後元服し義昭)

将軍就任後の改名
義宣→義教(義宣は世を忍ぶに通じるので改名)
義成→義政(義成は字に戈が二つ有るので改名)
義尚→義熙
義材→義尹→義稙(最初の将軍時に義材、浪人中から再任後は義尹、後に義稙)
義高→義澄
義藤→義輝

>>229
政知の子は茶々丸、義澄、潤童子の順番だと思う。
231日本@名無史さん :02/12/25 10:25
山田風太郎の『室町少年倶楽部』(『室町の大予言』)は面白かったよ。
前者は善政、後者は義教が主人公です。暇つぶしには楽しい一冊です。
確か文春文庫だと思ったけど。
232日本@名無史さん:02/12/26 00:24
徳川将軍家の世継ぎは幼名竹千代ですが
足利将軍家の世継ぎは幼名は何ですか?
義尚は大河で春王丸でしたが・・・
233日本@名無史さん:02/12/26 10:50
義詮は千寿王丸
234日本@名無史さん:02/12/26 19:01
将軍幼名 知ってるだけ  関東公方幼名

尊氏 又太郎       基氏 亀若丸
義詮 千寿王       氏満 金王丸
義満 春王        満兼 金王丸
義政 三寅、三春     持氏 幸王丸
義晴 亀王丸       成氏 永寿王丸
義輝 菊幢丸       政氏 亀王丸
             高基 亀王丸
             晴氏 亀若丸
             義氏 梅千代王丸
235日本@名無史さん:02/12/28 21:07
足利将軍は個性派が多いけど、その中でもやっぱ義稙が一番面白いかな。
結構精力的に活動していて、ちょっと軽はずみな行動もあったけど、歴代の将軍の中でこれほどアグレッシブに動き回った人は類を見ないのでは・・・。
夜、就寝中に2名の刺客に襲われた時も単身でこれを撃退したり、六角征伐の時も義尚の時よりかは戦果も挙げてるし、人物的にも細川政元あたりよりは一枚上手だったように思う。
この義稙と義輝が同時代に生きて、しかも采配を振るっていたら、畿内の諸勢力を打ち破ってそれなりに良い意味で存在感を示せたのではないだろうか。
236日本@名無史さん:02/12/28 23:36
>>235
そうそう義種は格好いい。
一人で山口まで逃げたり。
行動力はあった。家臣に恵まれなかった。
幕府衰退の要因は義教、やたら疑って
粛清するから殺されちゃった。
237日本@名無史さん:02/12/29 08:15
>>235
なにせ牢屋番を騙して刺殺して脱獄し、
弟と継母を殺した茶々丸の弟だからな。
行動力は遺伝じゃないの?
238日本@名無史さん:02/12/29 08:22
と思ったが、それは十一代・義澄だった。すまそ。
239日本@名無史さん:02/12/29 09:05
>>236
やっぱりドキュソだったのは四代義持じゃないかな。
足利幕府の問題点は財政基盤が薄弱だったことで、
その不足分を義満が対明貿易で巨額の富を築くことにより
体制を磐石にしたわけだが(この辺は豊臣家が領地が少ない
割にはやたら金を持ってた事情と似てる)、それを義持が
朝貢貿易は屈辱的だとかいって止めたのは、非常に浅知恵。
朝貢貿易の形にしたのは、その方が実入りが多かったからに
過ぎない。義持は親の遺産で食ってたようなもので結局何も
してない。

義教は敵ばかり作って味方をつくらないやり方に問題が
あったけど、嘉吉の乱で死ななければ評価されたのでは?
でもなんで義教はいろいろ因縁のある赤松家にノコノコ
出かけていったのかね?


240日本@名無史さん:02/12/31 22:16
あげ
241日本@名無史さん:03/01/05 01:49
幕府が旨く機能しなかったのは
鎌倉時代支えた高家が師直兄弟の死により、
いなくなったのが原因。
足利家に必要だったのは細川でも斯波でもなく
高!!
242日本@名無史さん:03/01/05 02:46
高師直兄弟は足利幕府初期のガンだったわけだが。。
243日本@名無史さん:03/01/05 13:00
義満の弟、大納言満詮って存在すら知られてないよね。
俗人のままの将軍実弟で京都にいた人って珍しいんだけどね。
244日本@名無史さん:03/01/06 01:21
>223
貞愛親王ではなく貞成親王です
245山崎渉:03/01/11 16:55
(^^)
246日本@名無史さん:03/01/11 19:01
>243
義嗣くらい?
247山崎渉
(^^)