楠木正成は何故湊川で戦死したのか。

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1日本@名無史さん
戦後の平和思想によって、各説がたっているが、
それらは余りに矛盾する事ばかり。自由でナンでもOKというのも考え物である。
確かに神風で散って行った時代には戻してはいけないが、
その目的で、必死で諸説を立てるのは間違っていると思われる。
全てにおいてその説は、太平記作者の捏造だと解釈する所から始まる。
その色んな説を拝見していても、正成が尊氏と戦い、自害する理由に
信憑性がない。江戸時代に入って国学が盛んに行われる様になってから
正成は復権した事になるが、何故か戦後には勤皇ではなかった事が強調されるが、
私としては、全然納得できないのです。
日本史ファンの誰か、このことを上手く説明できる方はいませんか。


2日本@名無史さん:02/02/11 18:10
3
3日本@名無史さん:02/02/11 19:00
正成は誉め称えるべき忠臣・武将には変わりない。
だが、太平記原本は数カ所、現実から逸脱している内容は見受けられるし、
「理尽鈔」にしても、フィクションのウエイトが大きいので諸説が生まれるのであろう。
4日本@名無史さん:02/02/11 19:09
悪党って何?江戸時代には解らず、戦後発見されたのか?
5日本@名無史さん:02/02/11 19:16
尊氏を立て、尊氏に従っていれば、近年の全て仮説の謎が解けるんだが、
そうでないところが仮説といわれる所以なり。
6日本@名無史さん:02/02/11 21:22
by コロ助
7日本@名無史さん:02/02/11 21:27
楠木正行の子孫って本物なの?
偽者だよね。
8日本@名無史さん:02/02/11 21:46
歴史は現世の都合で解釈が有力なったり、ならなかったり。
現代より、本居宣長の時代の方が、純粋かもな。
9日本@名無史さん:02/02/12 00:16
だから、その忠臣という皇国史観の色眼鏡を通してしか見るのをやめて、一武将として見るというのが戦後史学だろ?
悪党というのはあくまでも支配者である鎌倉幕府から見た見方。当時は「悪」は悪いというネガティブな意味だけじゃなくて強いという意味もある。
今で言えばやくざとか暴力団のイメージかな?
最近の研究ではその「悪党」楠氏は元々身内人だった可能性が浮上。
10日本@名無史さん:02/02/12 00:27
色眼鏡ではなく、ていうか、当時忠臣だったものを、わざわざ否定する必要は無い。
忠誠心抜きで、当時の歴史を語る方が無理があると言いたいね。
悪党は北条得宗家の所領に対してであって、そのイメージを現代風に語る事自体、
史学に反することですな。
11日本@名無史さん:02/02/12 00:48
当時の武士が忠義で動いていたとと思ったら大間違い。彼らは恩賞をよこし、敵対勢力との争いに支援してくれるほうに着いたのだから。
宮方も同じ。新田のように問答無用で宮方にしかつけないものや楠のように大勢力に飲み込まれるのを拒否したものなど。
12日本@名無史さん:02/02/12 00:51
>>1
「何故か戦後には勤皇ではなかった事が強調されるが、
私としては、全然納得できないのです。」

 東京の皇居前広場には楠公の銅像が建ってる訳で、1君
の語る意味が不明だ。
13日本@名無史さん:02/02/12 01:02
ただ単に皇国史観が史学の邪道に転落しただけだろ?厨房君。
14日本@名無史さん:02/02/12 01:04
>楠のように大勢力に飲み込まれるのを拒否したもの
ならば、テキトな恩賞もらってトンズラすれば良かったはず。

恩賞目当てが多いのは納得するが、後醍醐帝が吉野へ下られ、正成、義貞無き後にしても
なお、戦いつづけた南朝武将達の動機を証明する事は出来ない。
損得のみなら、征夷大将軍尊氏に従うが得策、和解して所領安堵の道を
とる筈だよ。だが彼らの大半はそうしなかったぞ。
15日本@名無史さん:02/02/12 01:09
>>13
邪道か車道は13の勝手。
史観云々ではなく、諸説に史実としては矛盾があるではないかと言っているだけ。
16日本@名無史さん:02/02/12 01:13
は?殆どが武家方に寝返ったぞ。九州も兼良没落後は殆どが武家方に走っている。少しはまともな本読めよ。新田は尊氏が挙兵するときに賊軍の指名を受けたから降伏したくても降伏できなかった。
楠は一時期武家方に転じたが待遇が悪く、講和派の後亀山が即位して宮方に再び走る。合一後は歴史の闇に消えている。
17日本@名無史さん:02/02/12 01:16
『太平記』では
7度生まれ変わって「敵」を倒すと言ってるのは楠木正季。
これが皇国史観では、「朝敵」を倒すと正成が言っていたことになる(笑
18日本@名無史さん:02/02/12 01:18
新田本宗家はともかく、一族は次々に足利に乗り換えていってたよね。
大館もそうだし。
19日本@名無史さん:02/02/12 01:23
元々守護クラスだった有力武将は殆ど足利についているね。
20日本@名無史さん:02/02/12 01:41
南北朝初期、中期後期では状況が違いまっせ。
21日本@名無史さん:02/02/12 02:23
梅松論より
正成曰く
「このたびは、君の戦(いくさ)は必ず敗れるでしょう。
人の心から推測するに、去る元弘の初め、ひそかに勅命を受けて
急に金剛山の城に籠もった時、自身一個の計らいのようにしながら
国中を頼んで功をなすことができました。その際、皆が志を君に通じ
奉っていたためであると知りました。ところがこのたびは、正成が
和泉・河内両国の守護として勅命をこうむり軍勢を催したのに、
親類一族ですら難渋している様子です。このようなありさまですから、
国人土民がどう思っているかもわかるというものです。
天下が君に背いていることは明かです。これでは正成が生き存えても無益です。
まっさきに命を落とすことにいたしましょう。」

誰がこの会話を記録したんやっちゅうねん(藁)
心ならずも、湊川で戦い、尊氏は首を河内に届けたのは確かみたい。
結局史実のみで想像するしかないよ。
22歴史の勉強:02/02/12 02:42
正成は「太平記」人物中でも非常に魅力ある人物だ。
新田義貞が鎌倉に於いてさえろくすっぽ顕彰されてないことに比べても驚異的。
正成は南北朝時代からすでにかなり人気のあった人らしい。

しかし、太平記の正成像でさえ、かなり変遷を遂げているようだ。
本によっては、兵庫下向をあっけなく書いてるモノもあるが、
「されば討ち死にせよとの勅定なれ!」と言い捨てるモノもある。
後醍醐天皇の評価も、おそらくかなり後の時代(江戸中期以降か?)までは
「困ったちゃん」だったようで、南朝一辺倒の史観が登場するのは古くないはず。
太平記は本によって内容の加筆修正が壮んにおこなわれている古典だ。
だから「討ち死に〜」の本は、作者が後醍醐天皇に対して批判的で、
おそらく自分自身を正成に同化させているのだろう。

正成の人気は、おそらく少ない手勢で鎌倉数万、足利尊氏と戦い、
かなり武将として有能だったことによるのだろう。
忠君愛国なんてものを、昔の人が意識していたか疑問だ。
僕は、武士の圧倒的多数を占めていた中小武士が、正成の活躍に自分を重ね合わせ、
「かくありたい!」と思ったことに由来すると思う。
その点では、源義経とも相通ずるのだろう。

ああいう非常に広汎な読者を持った古典は読者の願望・理想も反映していると思う。
23日本@名無史さん:02/02/12 03:34
尊氏の性格から言って、正成が投降すれば許すだろうに。
湊川合戦直前なら、ひょっとすれば所領安堵だったかもしれん。
なのに忠誠なしで何故あんな犬死をする必要があったのかが、私としては謎のまま。
正成と尊氏には、理想国家像が違っていたかもしれない。
だからと言って、それを忠誠心が全く無いとはとても理解しがたいのだが。
24日本@名無史さん:02/02/12 06:37
人と人の結びつきだからね。
そりゃ義理をたてようという意識もあったと思うよ。
だけどすぐにそれを拡大解釈する人が(以下略
25日本@名無史さん:02/02/12 14:59
拡大解釈する奴自身を非難すれば済む事で、変な仮説を立て、それを抑制しようとする行為は
やはり間違っていると思う。史実は史実、それとは別に仮説は仮説としてそれなりに立証される
資料をもとに仮説として表明すべき事。
教科書問題や南京事件等を拝見していても、歴史以前に政治的思惑が繁栄されて
真実が見えない。逝けないのは歴史家までが政治的思惑で動く人間である事が残念でならない。
26日本@名無しさん:02/02/12 15:14
ドブ川に落ちたから.
27日本@名無史さん:02/02/12 15:21
>>22
>忠君愛国なんてものを、昔の人が意識していたか疑問だ。

何故?北条ですら意識していた事だと思うが。
それを無視するならとっくに朝廷は滅んでいるし、元寇の折、元に靡く武将が
いてもおかしくないぞ。全く説明がつかん。承久の乱は北条が朝廷の誤りを正したものと
理解しているが、忠君の域からは逸脱していないと解釈すべきでは。
建前としてはそれがあり、本音は恩賞目当て。武将を束ねるテクニックは
カリスマ性のウエイトもあり、家康の時代ほど、まだ確立されていなかったのではないのか。
28日本@名無史さん:02/02/12 16:05
楠木正成の主は主上のみ。
29日本@名無史さん:02/02/12 16:42
確かに損得感情だけで、幕府の大軍と対峙することは有得ないよな。
30日本@名無史さん:02/02/12 16:50
というかレス数29に至って誰も指摘していないのが不思議なんですけど
湊川戦死って確か新田義貞が戦線放棄(好意的に見ると戦略的後退)をしたからでしょ。
あと多々良浜に続く勢いで畿内になだれ込んだ小弐勢の奮闘ね。
小弐の場合妙恵入道の仇討ちということで弔い合戦昂揚ムードが高まっていたようですね。
31日本@名無史さん:02/02/12 17:03
兵数、勢いからして勝つ見込みなど無かった戦い。
勿論千早に逃げる退路もない。
正成に忠誠など無く、利潤追求型であるという説を裏付ける事には至っていない。
32日本@名無史さん:02/02/12 17:29
新田義貞が戦意喪失して京に退却したという事実が
当日の両軍布陣における圧倒的兵力差を物語っている。
いかんせん新田義貞には知略軍略がなかった。
こういう場合は戦意昂揚をつなぎとめるのが主将たる努め。
にも関わらず楠木勢を見捨てる形で退却。
逃げる新田勢を追わずに楠木勢に向かうべく反転した細川四国勢を背後に
浜づたいに侵攻する小弐九州勢に正面を衝かれた時点で
楠木正成には降服するか玉砕するか以外に道はなかった。
万事休すと見た楠木勢が会下山を一気に駆け下りてから
6時間も耐えぬいたということのほうが神懸かり的。
33日本@名無史さん:02/02/12 17:47
>楠木正成には降服するか玉砕するか以外に道はなかった。
布陣をみれば、戦う前から解っていた事。
何故前にもやった、生き延びて、好機を待つ手段を選ばなかったのかが不思議。
34日本@名無史さん:02/02/12 19:16
姉小路何とか、が悪い。
味方のバカな上司に殺されたと言って良い。
この点は太平洋戦争と似ているところがある。
35日本@名無史さん:02/02/12 21:23
つまり、われわれは楠木正成を殺したものの子孫である。
それは、中国人がすべて皇帝の子孫であることに似ている。
皇帝の子孫にあらざる中国人は絶滅させられたのである。
太古の西南日本は楠の木で覆われていたという。
楠の木衰え、変わって植えられた松すら枯れようとは。
松が枯れている理由はここではかかない。
楠の木をみかけなくなったのは我々の先祖が切り倒してきたからだ。
36日本@名無史さん:02/02/12 21:38
武家の優勢は認めるが圧倒的優勢ではなかったぞ。
畿内東海関東東北九州で宮方は善戦した。
その中でも直義毒殺前後が一番武家方の危機だった。
あそこでうまく立ち回ればなあ。
足利って押さえるところは押さえるけど脆いところはものすごく脆い。
そこを突っ込む北畠親房親子も菊池も名和も井伊も直義成良コンビもさすがって気がする。
37日本@名無史さん:02/02/12 21:55
「となりのトトロ」で登場する大きな楠の木。
あのトトロこそ楠公様の化身である。

宮崎はやを。
38日本@名無史さん:02/02/12 21:56
結局直義危機は毒殺で終わるが
宮方の最大の誤算は関東にいた直義の死だろう。
その後の義詮ー基氏、義満ー満兼、義持ー持氏ライバル関係を見ても
直義の関東支配を早い時期に正当化してしまえばよかった。






39日本@名無史さん:02/02/12 22:18
義詮ー基氏はライバル関係ではないでしょう。
むしろ、義満ー氏満では?
40日本@名無史さん:02/02/12 22:21
太平の代は、東照大権現によって実現する。
頼朝公以来の主従関係を崩壊させた原因は、足利将軍家や守護職の驕りにある。
個人的には好きではない家康だが、秩序を復活させ、力で野心を抑え、平定した実績は評価すべきこと。
南北朝の動乱時では解決出来なかった、朝廷の威厳・秩序と武家の野心との衝突に終止符を打てた事は大きい。
41名無しんぼ:02/02/12 22:26
>>33
 正成は自らの献策(足利尊氏との和睦、京都放棄策など)が
ことごとく公家達に却下されて絶望したのだと思う。自らの死
をもって彼らに現実は武士達の世の中であることをわからせた
かったのではないだろうか?ある意味諫死とも言える。
42ハマコー:02/02/12 22:29
ハマコー
43日本@名無史さん:02/02/12 22:55
>>41
同感です。ですが気掛かりなのは、息子にそれを告げなかった事。
尊氏に従えとまでは言わなくても、せめて中立を保てと言い残せば、
四条畷の戦いは無かったと思うのだが。

考えられるのは
@湊川の合戦には勝算があった。→これは信じられない。兵力に差がありすぎ。
A言い聞かせた筈の正行が短気をおこしてしまった。→かもね。
B死守して、義貞を逃がすしか方法が無かった。→有力。

この当時に尊氏側に寝返る事が出来ない、何らかの理由があったとしても、
武士の最善策としては、自分は死んでも息子を助け、家を守る事。
それすらしなかった事の意味を考えれば、正成は一族の命運のすべてを南朝に賭けていた事になる。
44名無しんぼ:02/02/12 23:40
>>43
 門地の無い楠木氏では名門足利氏を頂点とする武家社会の中だと、
うだつが上がらないと考えたのでは?尊氏はこだわりのなさそうな
性格だから正成を受け入れたかもしれない。でも彼の取り巻き連中
は無名の土豪上がりの楠木氏を認めなかったに違いない。
 正成はおそらく鎌倉時代からの序列を一旦取り消して、改めて武
家社会が構築されることを望んでいたと思う。その実現のために南
朝方として一族の命運を懸けたのだろう。
45日本@名無史さん:02/02/12 23:51
湊川合戦は後醍醐軍に勝算が無かったのは衆目が一致するところ。この合戦は公家主導で進められ、総司令官であった
義貞も不本意ながら合戦に臨んだと見られる。責任ある地位にあるものなら無駄な合戦により兵力を消耗するより機会
がくるまで温存すべき。たぶん義貞、正成の間では上を立てるため一定の戦果を収めたらすぐさま撤収というふうに話
が付いていたのでは?そのしんがりを正成が引き受けたことは想像に難くない。なぜなら尊氏に匹敵しうる家格と実力
を持ったのは義貞しか居なく、事実義貞戦死後の南朝方の軍事的退潮は覆うべきも無い事実である。であるから義貞と
義貞軍の温存がこの合戦での南朝方の主目的であったといえる。
46日本@名無史さん:02/02/12 23:52
あんまり、太平記関係の戦闘の兵数は当てになんないんだよね。
湊川で50万だっけ。
その前の多々良浜の合戦では絶望的な兵力劣勢から足利軍勝利になっているし。
47日本@名無史さん:02/02/13 01:02
足利軍はもともと守護クラスの大名が多かったが南朝方は新田のような貧乏御家人や楠、名和などの
無名の小武士団。軍勢や統率力など格段に差があった。
48後醍醐:02/02/13 02:16
私の忠臣、諸君らが愛してくれた楠木判官は死んだ!
何故だ!?
49日本@名無史さん:02/02/13 04:14
楠木戦死、義貞討死で南朝の劣勢が決定的となったという説もうーんという感じですね。
それでは懐良親王や宗良親王を説明できないと思う。
宗良親王は大会戦で北朝方を台東区石浜まで押しもどし
大御所足利尊氏が壊走中に何度も自害を考えたと伝えられています。

楠木下賎説をいうなら楠木と赤松は同等の門地でしょう。
赤松が村上源氏なら楠木も皇胤橘氏。
両氏とも北条体制に不満を持つ西国の新しい武家と定義すべきでしょう。
赤松は侍所長官(所司)を勤める四家のうちの一家にまで厚遇されている。
楠木が河内ゲリラ集団だとすると赤松は播磨ゲリラ集団。
関東軍制に寄らない新興勢力とはいえそれが理由で蔑視はされていなかったはず。
もし関東軍制に合わないという単独理由で悪党、小領主、武装商人らが
蔑視されていたのなら高師直は京畿で軍勢を催せなかった。
その後肥後に下った名和氏も阿蘇甲斐相良菊池大友といった
名門武家の中で勢力拡張しています。後年豊臣の一将が難治の国と呼ばれた
肥後での失政を咎められて切腹に追い込まれた事績をも考えあわせると
名和氏を名門として肥後に定着させた強大な南朝権威を感じます。

楠木が足利体制、室町体制では栄達を望めなかったという説は根拠ナシと断ぜざるを得ません。
50ハマコー:02/02/13 04:49
ハマコー
51ババコー:02/02/13 04:50
ババコー
52ジジコー:02/02/13 04:51
自自公
53日本@名無史さん:02/02/13 15:27
当時、忠君などなかったと仰る方に質問。
南部、工藤、姉小路、井伊、中院、伊達、結城、菊池、河野氏ら四国勢は
何故南朝側であったのか。悪党ではない名家である事は書くまでもない。
尊氏の突然の反旗、北朝擁立の勝手極まる理不尽さに、朝臣としての筋を通したのでは。
近隣の領地争いに便乗しただけという解釈だけでは説明がつかない点も多い。
皆、懐良親王、宗良親王、輿良親王、満良親王に従っている忠君である。
54日本@名無史さん:02/02/13 16:05
知識層以外の身分から出て、当時の武人達の常識をくつがえす「戦術の天才」が、戦略や礼式に疎かったがゆえに消滅していくのは、洋の東西を問わずよくあること。
楠木一族は単に建武新政のバブル熱から冷められなかった、というのもあると思われ。
55日本@名無史さん:02/02/13 16:19
誰の説だったっけ…楠木はもともと寺社勢力のほうの配下筋にあった
家で、他の武家と違っていたからだという説を読んだことがある。
ゲリラは周囲の支援が無いと存続できない(アフガンみたいだが)
あれだけ神出鬼没の活躍ができたということは、逆に言えばそれだけ
助けてもらった恩やしがらみが大きかったのかもしれない。
56日本@名無史さん:02/02/13 16:47
悲しいかな、北朝側の武将は、戦国時代には下克上等で大半は滅んでいる。
恩賞操作や武家棟梁のカリスマ性だけでは、ダメだという事だ。
将軍義満の公家化などもってのほか。平清盛と同じである。
57日本@名無史さん:02/02/13 17:44
>53
俺は尊氏より後醍醐のほうがはるかにひどい奴だと思うが。
58日本@名無史さん:02/02/13 18:14
>>57
半家しく胴衣。
59勘太郎:02/02/13 18:24
>>53
河野氏は武家方、
宮方についたのは庶流土居家と本流得能家。
60日本@名無史さん:02/02/13 22:04
>>53
で、その諸氏はどれくらい南朝と運命をともにしたの?ほとんどが北朝に寝返ったんじゃない?
吹けば飛ぶようなご立派な忠義心だね。(わら
61日本@名無史さん:02/02/13 22:33
>56
南朝側の武将は戦国時代以前に滅んだか、結局足利氏に従ったのがほとんどじゃん。
62日本@名無史さん:02/02/13 22:34
53の南朝のイメージってローマの殺し産むで
猛獣に追いつめられるキリスト教徒なんだと思う。
実際の南朝って凄くタフで全国に展開する強力組織だよ。
イメージでいうとdefense専門のアメフトチームのような感じ。
ショットガンやタッチダウンを狙えない受け身スタンスは確かにある。
だけどそれを圧倒的劣勢と呼ぶとしたなら疑問符がつく。
太平記がことさら平家や三国志を意識したので
全編を通じて平家のエピソードが執拗に重ね合わされているし
楠木には「出師の表」的描写がつきまとっている。
この文学的表現が誤解を生んだ下地のひとつ。

63日本@名無史さん:02/02/13 22:37
そして肥後の菊池氏、伊予の土居得能氏、中国の名和氏、
畿内の楠木北畠氏、井伊谷の井伊氏、安倍城の狩野氏、
常陸の小田氏、越後の新田氏、奥州の北畠、伊達氏など、、、
これらの武家(と武家化した公家)がそれぞれの地方で孤軍奮闘した結果、
壊滅していったという誤まったイメージがある。
しかし実際は名だたる守護家の嫡流と庶流、父と子、
兄と弟に分かれて戦ったのがほとんど。
確かに地域によっては北朝方守護家が頑張ったところもあるが
逆に北朝方守護家があっさりと南朝に帰服しているのも多数見受けられる。

64日本@名無史さん:02/02/13 22:39
利用価値があったから生き残っただけ。幕府に反抗するものは形の上では南朝に下ったが、とても忠義心というものではない。
65日本@名無史さん:02/02/13 22:49
もっとも重要なのは対立関係の根源が南北朝から室町中期の動乱へと
そして室町中期の動乱が戦国へとひきつがれているということ。
たとえば南朝宗良親王を安倍城に迎えた狩野氏は15世紀に入ると
守護今川家の家督相続をめぐり関東府の影響下にはいり京都と対立している。
足利家の脆弱な基盤というのは室町前期中期後期すべてを通じて見られた
いわば室町的現象の根源。それが南北朝対立であり
京と関東府の対立であり将軍と有力守護の緊張関係でもあった。
南北朝合意で諸国の動乱は収束するどころかますます過激化大規模化した。
南北朝=下克上初期形態と考えたほうがよい。
66日本@名無史さん:02/02/13 22:53
なんか>>63を読むと南朝の方が優勢だったように感じられるが
67日本@名無史さん:02/02/13 23:11
>>66

少なくとも南朝ブレーンの頭の中ではそうだっただろうね。
息子の護良を尊氏に売り渡した日和見の後醍醐も吉野では覚悟を決めたし
北畠親房も息子顕家の討死後に東国へ赴任。
常陸近辺の武家を指導の傍ら「神皇正統記」を記した。
以前のトカゲの尻尾切り的場当たり主義を反省し
腹を据えた南朝絶対主義への転換が見られる。
公家の仮面をぬぐいさり闘う南朝という凄みがました。
京都奪回という事態はこの頃から頻発したし
地方軍団でも宗良親王と懐良親王は善戦。
この頃がまさに南朝黄金時代でしょう。

68日本@名無史さん:02/02/13 23:20
湊川って、神戸の湊川?
厨房な質問でスマソ。
69日本@名無史さん:02/02/13 23:30
後醍醐の最大の失敗は守護などの有力武士を味方にできなかったこと。建武政府に失望した有力武士は
足利氏とともに武家政権を樹立した。誰かが言っていたように室町幕府は守護の連合政権的な性格が強
く、将軍はそのバランスをうまくとらないといけなかった。
70d:02/02/14 00:08
神戸市営地下鉄「大倉山」下車、徒歩1分以内で湊川神社。

後世に謗りを受けずに名を残せたのは、せめてもの救いだろう。
71日本@名無史さん:02/02/14 17:32
age
72日本@名無史さん:02/02/14 17:54
後醍醐帝の怒りは、北条の悪政が原因。書けば切りが無いので書かないが、
相手が頼朝の末裔で、善政を行っていれば建武の中興はなかったかも知れぬ。
>57のような厨房が尊氏、後醍醐を比較してバカだと言っているが、
当時のそれぞれの立場を考えると、公家方と武家方の衝突には必然性があったと思う。
73質問:02/02/14 18:05
>>65
もし、尊氏が頼朝公のような手続きをへて、
南朝の征夷大将軍になる事は出来なかったのでしょうか。

また、新田とは家臣同志争いという事で、新田を滅ぼし武家を纏める事を
なぜ、尊氏はしなかったのか?それとも出来なかったのだろうか。
帝に反旗を翻したリスクは、余りに大きすぎた様に思えて仕方がないのだが。
74日本@名無史さん:02/02/14 20:50
>>73
当初尊氏はそれを狙っていました。だから鎌倉で挙兵したときの大義名分は新田義貞追討なのです。
後醍醐は歴代天皇の中でもことさら権力欲が強く、親政にこだわり幕府の存在を絶対認めたくなかった。
だから尊氏が度々征夷大将軍への任官を求めても拒否し続けたのだ。
後醍醐は大覚寺党の傍流であり、中継ぎの天皇にすぎなかったから自分の子孫を皇位につけるには旧秩序である
鎌倉幕府と両党鼎立体制を打倒する以外なく、後醍醐の挙兵は>>74のいうようなドキュンな理由ではない。
公武の対立は後醍醐により生み出されたものである。
75日本@名無史さん:02/02/14 21:01
>>68
昔は山陽道をのぼって湊川を越えるとそこから畿内(摂津)と言われていた。
摂津守楠木正成が京に敵を近づけまいとして果たせず、そこで切腹するのはある意味象徴的。
76日本@名無史さん:02/02/14 22:39
藤原純t友が伊予から追いかけて誰かを殺したところが摂津の駅だったね。
海賊の親分が畿内に殴り込みをかけたと京都ではパニックになってたね。
77日本@名無史さん:02/02/14 22:49
尊氏は尊良という後醍醐天皇の一字を頂いている。
古来名門大伴氏が天皇に遠慮して伴姓に改姓するほど
天皇の御名は忌み憚れたが、臣下の身で天皇の名を
賜るのはそれ以前にもそれ以後にも例がない。
これは大職冠に匹敵する破格の厚遇だとおもう。
78日本@名無史さん:02/02/14 23:19
大覚寺統と持明院統の皇室領荘園相続争いがあったけれど、
源頼朝系を断絶させ、公武二元政治から更に朝廷をコントロールしたのは北条執権。
皇室秩序の命令系統が執権であった事には、北朝南朝とも恨みは持っていた。
ちなみに北朝は光厳天皇からだが、これは北条鎌倉幕府が擁立。
尊氏は湊川合戦後、入京して光厳帝の弟、光明天皇を擁立して征夷大将軍になる。

尊氏は結果的に、北条を倒して幕府を引継ぎ、再生させた感じだね。
だけど、将軍としての頼朝並のカリスマ性が足利家には無かったようだ。
79日本@名無史さん:02/02/14 23:22
>>77
それもある意味、後醍醐の先例軽視の姿勢を示すエピソードの一つになるのかねえ。
いや、どうでもいいけど。
80日本@名無史さん:02/02/14 23:28
>>74公武の対立は承久の乱じゃなかった?
足利幕府は公武と融合したから、下克上が横行したんだよね。ホント難しいね。
81日本@名無史さん:02/02/14 23:35
太平記って尊氏のことをある時期からずっと将軍って呼んでるよね。
鎮守府将軍、征東将軍(?)、征夷大将軍いろいろだけど区別はしていない。
多々良浜のときも錦旗をかかげず御旗だけで戦っている。
源氏の戦いであってあんな馬鹿公家ども知るかという感じだったのか?

湊川の戦いのときは北朝を推戴しているということを誇示するために
将軍御座船に錦旗と八幡大菩薩号を掲げているけれども
その頃から後醍醐には愛想がつきていたんだろうね。
82日本@名無史さん:02/02/14 23:42
>>79
実朝暗殺→北条義時追討の院宣から112年も朝廷は辛抱していたからね。
朝廷からすれば、北条氏は蘇我氏にみえたのかもよ。

大河「北条時宗」を見ていても、その憎しみが伝わってくる。
それプラス、摂関家等の公家衆には賢い人物が少ないのが痛いね。
83日本@名無史さん:02/02/14 23:45
>>81
ていうか、尊氏はただ執権政治を倒して、自分が将軍になりたかっただけでしょう。
最初っからさ。
84日本@名無史さん:02/02/14 23:48
確かに後鎌倉幕府(京都心中篇)の感はあるな。
85日本@名無史さん:02/02/14 23:52
江戸幕府は公武政治の完成形だから別格として、
幕府の組織的としては室町幕府より、鎌倉幕府の方が機能していたよ。
86日本@名無史さん:02/02/15 00:01
>>83

尊氏は正室赤橋登子のみで側室はほとんどいなかった。
登子以外に生ませた子は謀反後鎌倉で殺害された子と直冬のふたり。
が、なぜかものすごく彼らに対しては冷淡。
それとはうってかわって登子の子ら(義詮、基氏、女子)は溺愛している。

執権守時を倒して自分がとってかわるというなら
義兄を倒す戦いになってしまう。義兄を倒す戦いなら
その妹も離縁するくらいの覚悟が必要だったと思われるが
覇権を握ったあとも復讐的行為はいっさい行っていない。
むしろ旧北条系には甘かった。

余談だが阿野氏出身の阿野廉子の子の成良親王は尊氏も好きだったらしい。
87日本@名無史さん:02/02/15 00:12
>>85

それはどっからきた評価だ?
通説では室町幕府は鎌倉より強大な権力を行使しているが。
それに室町幕府と鎌倉幕府の単純比較はできないはず。
室町幕府=幕府+関東府+諸探題
鎌倉幕府は基本的には西国は不得手だったからなんとも言えんぞ。
88日本@名無史さん:02/02/15 00:15
たまに思う事なんですが、朝廷云々抜きで、
足利氏が北条を倒し、御家人衆を束ねていれば、
国家安泰が続いていたと思うけど、
チャンスの度に朝廷が先に行動をとり、そのチャンスを潰してしまった気がする。
89日本@名無史さん:02/02/15 00:26
>>87
元寇の折、西国武将はよく幕府の命に従ってくれたが、
もし室町中期に元寇があったら、確実日本は占領されていたに違いない。
「もし」は禁物だけど、室町の幕府の命にそんな行使力があったっけ。
あれば、鎌倉公方にも権威があって、関東は平穏になる筈だけど、全然違うでしょ。
私は鎌倉より強大な権力を行使していたと言う事には否定的なんですが。
90日本@名無史さん:02/02/15 00:30
>>89
行使はしてみたものの、余りに逆らう奴が多すぎたり強過ぎたり。
結果があまり出せなかったと言うのが正解だね。
91歴史の勉強:02/02/15 00:36
鎌倉幕府は基本的に公家や寺社にはノータッチ方針を採っていたから、
なしくずしに全国政権になっちゃった足利政権と比較するのは無理。
鎌倉と足利を比較して鎌倉が強そうに感じられるのは
「密度の問題」だと思う(御家人と守護大名とは違うし)。
御家人にもならなかった大内や北畠も支配下に入ってるんだから。
武家政権そのものは徳川までずっと成長しつづけている。
鎌倉幕府が衰退期を持たなかったのは当然と言えば当然で、
できた頃は関東ローカル武士自治団体みたいなもんだったのが、
結局は朝廷を圧倒して全国政権になってしまったのだから。

北条氏が倒壊した後、足利氏が彼らに取って代わることができなかったのは、
足利氏の実力ならしむることだったと思う。
鎌倉末期の所領数は、北条氏約400カ所、足利氏35カ所。
これでは取って代わることなど不可能だったろう。
たぶん、全国の有力武士から見れば、
「足利=ちょっと強大、でも絶対権力ではない」
というところだったろう。
92日本@名無史さん:02/02/15 00:36
家康はよく勉強していたと言えますね。
93歴史の勉強:02/02/15 00:43
もし日本が慢性的な対外侵略の恐怖に怯えていたら、
北条氏の専制も崩壊しなかった可能性が高い。
得宗専制も、モンゴルへの恐怖があってのこと、という側面がある。
もし後醍醐天皇が大陸の情勢をつかんで倒幕に走ったなら、
なかなか先見の明があったと言える。
大陸での専制君主制も、結局は軍事力の問題が大きかった。
中国が専制君主制を確立した背景にはやっぱり北方騎馬民族がある。
だから皇帝(国王)は同時に軍隊の頂点に君臨する存在でもあった。
94日本@名無史さん:02/02/15 00:57
私は九州三人衆説を最近は全く否定的にみています。
太宰小弐氏は朝廷権威を執行していたのであって
鎮西奉行として鎌倉知行の整理を行う面は少なかったとまで確信しています。
例えば最後まで少弐氏被官として行動したのは宗氏くらいのものでしょう。
もし鎮西奉行としての家柄が重視されていたのなら
何故大友氏島津氏と全く異なり領国化への道を歩めなかったのか?

逆説的に太宰少弐氏がもっとも強さを発揮したのは
その衰亡史の中で室町幕府に単独で対抗しうる地力ではなかったのでしょうか?
関東府の場合持氏はあっけなく部下憲実に自害を迫られますし
成氏以降の公方はとうとう鎌倉を一度も回復していません。
しかし少弐氏の場合しばしば大友氏と共闘して大内氏を破っていますし
太宰府を実質回復支配していた時期は長い。

95歴史の勉強:02/02/15 01:06
少弐氏が衰退したのは、
1.鎮西探題設置(鎌倉後期)、
2.今川了俊に当主を殺されたこと(南北朝期)、
3.大内氏が九州北部に進出してきたこと、
によると思いますよ。
一番めぐまれた地理的条件が、逆にあだになったんじゃないでしょうね。
まあ、九州探題・渋川氏は脆弱でしたけどね(しかたない、これは)。
戦国時代になると、大友氏も博多を狙ってきますしね。
まあ、大内氏が一番大きいでしょう。

鎮西探題は北条氏か足利一門(のちに渋川氏が世襲)なんで、
少弐氏が任官した可能性はないと思います。
杉山博先生も、少弐氏のしぶとさを「不思議」と言ってました。
何か基盤があったのでしょうか?
96日本@名無史さん:02/02/15 01:18
九州と関東の違いはなにか?

私は純友、隆家、清盛、頼盛以来の戦う太宰府の伝統が武藤氏にも
引き継がれたのであって鎌倉の影響力では無いと思います。
つまり純友も隆家も清盛も元寇なる事態がひとたびおこれば
西国武士を動員して撃退する実力はそれぞれ充分備えていたと思います。
弘安の役で武名を馳せた河野水軍の参戦は
院宣で促されたからであって鎌倉の命ではありません。

治承の三浦義明に比される建武の少弐貞経。
少弐氏は多々良浜で勇戦して尊氏の九州席捲を演出し、
その後勇躍東進、湊川では楠木勢を殲滅しました。
ですから室町幕府創業の立役者は自分だという自負心から
尊氏が押し付けた九州探題には小弐氏は反抗しつづけました。
結局少弐氏がほろんでまもなく大内氏が滅び室町幕府も終わったのを見ても、
少弐衰亡史=室町幕府衰亡史と考えていいのではないでしょうか。

古代省庁太宰府をバックに強い地元意識をもつ少弐氏。
頼朝泰時時宗の頃とは比較にならないほど強大化された将軍権力。
このふたつの古代的権力と中世的権力が北部九州で激突し
共に倒れていったのが中世九州史の真相だと思います。
97日本@名無史さん:02/02/15 01:53
少弐は院宣を尊んだという事か。
これこそ誠の朝臣。
>>96
勉強になります。
98日本@名無史さん:02/02/15 01:57
後伏見院の院宣の内容が知りたいな。
99日本@名無史さん:02/02/15 18:08
>>97
勅旨と院宣とどっちが格が上なんだ。
確か院宣は元々院政で上皇が天皇に送る書簡だったと思うけど、
後醍醐天皇が院政を廃止しているし、武家にしてみれば尊氏が院宣を手にした
段階で、どっちが誠の朝臣とかは言いきれないと思う。
100日本@名無史さん:02/02/15 18:16
尊氏が逆賊とか後醍醐帝がDQNとか言っている馬鹿共には、この時代の語る資格なし。
101日本@名無史さん:02/02/15 19:27
当時の常識では治天の君の命令が他に優先するはずだが、治天の君はおろか朝廷自体を奉じる軍事基盤が全く当てになってない状態なのだから、名分づけは多分に無意味っぽい。
102日本@名無史さん:02/02/16 15:45
>>99
まさにその瞬間が、南北朝時代の始まりだよ。
悲しいかな、二つ太陽が地上を照らしてしまった最悪の失態。
どちらか一方を正しいと信じる者達が争うのは必定。
正成が、このたびばかりは勝てないと言った理由、
生き延びてまで戦わなかった理由はここにある。
103日本@名無史さん:02/02/17 16:02
>>102

good
104日本@名無史さん:02/02/17 18:53
名和氏の本姓は村上源氏で、源忠房の9代目。名和庄の地頭だから重く用いられて当然だが、
楠木氏が土着ではなく、武蔵の党的武士であって北条得宗家の被官→悪党であると言う説なんだが、
どうやって、皇室・宮様や公家衆と接点が取れる訳なんだろう。
護良親王が旗揚げした折でも、有力な側近衆も居た筈なのに何故重く用いられるのか?
全く理解できないぞ。ただの北条得宗領を管理する小童なのに。
105日本@名無史さん:02/02/17 20:56
名和はどうみても山蔭の武装商人だ。
106井筒:02/02/18 05:33
>>105
見たんかい。何歳やねんお前は(藁)
107歴史の勉強:02/02/18 12:57
詔勅(天皇が直接発給する文書)と院宣のどっちが権威/有効性があったかは
非常に難しいとこだ。特にあの時代は。
鎌倉中期から、天皇家(当時でいう「王家」)の実権は天皇現職者ではなく、
上皇の中でも特に権力を持つ人間、「治天の君」が掌握していたから。
治天の君を一番簡単に表現しちゃうと、王家の家督。
天皇はだいたい10代の少年が任じられた(治天のほうが強い)ので、
天皇親書、より院宣が重んじられた可能性は高い。
ゆえに、足利尊氏逆臣論は無理のある見方って気がする。
108日本@名無史さん:02/02/18 13:17
院宣>勅>令旨
109日本@名無史さん:02/02/18 13:25
>107
詔勅って、あんたいつの時代の話や?
そんなもん、平安時代の前期にはもうだされんようになっとるがな。
天皇親書って言い方もおかしいな。
古文書学まなびなおして出直さんかい!
110日本@名無史さん:02/02/19 20:04
当時にあって天皇という存在がいまだにある特定の氏族や職業の
人々にとっては古代王朝の栄光の光の名残を及ぼしていたことを
忘れてはならない。
すなわち江戸時代以降の「忠」とは違った天皇信仰とも言うべき
ものが当時の人々、とりわけ畿内の人々には強く残っていたのである。

そのうえ後醍醐天皇というお方がこの時代、日本最大のカリスマで
あったことは間違いないことであろう。

楠木正成であるがその戦法からしてもとても正規の武家の出であるとは
考え難い。
そして、楠木正成が後醍醐天皇に忠義を貫いたのは他ならない正成が
正規の武士ではなかったからである。

建武中興とは体制に抑圧され虐げられていた反体制の反乱である。
そして、反体制側の頭目が後醍醐天皇である。
悪党出身の楠木正成はもちろん反体制派である。彼はその誕生からして
後醍醐天皇に殉じる運命にあったとしか言いようがない。
これを忠義と言えば忠義であろうし、そうでないと言えばそうでもあろう。
111日本@名無史さん:02/02/19 20:11
皇国史観からも反皇国史観からも本当の建武中興はわからない。

時代の流れと武家政権によって歴史の闇に葬り去られていた
人々が後醍醐天皇を筆頭に表舞台に殴りこみをかけてきたのが
建武中興である。
異形異類の反乱がその実態である。

尊氏はこの反乱に荷担はしたものの所詮は正規の武士である彼は
もともとこの異形異類の勢力と相容れることはできない宿命で
あったことはしかたがない。
112日本@名無史さん:02/02/19 20:18
>>104
>楠木氏が土着ではなく、武蔵の党的武士であって
>北条得宗家の被官→悪党であると言う説なんだが

これはおかしい。
土着で幕府の支配に組みこまれない存在だからこそ
「悪党」と呼ぶはずです。
113日本@名無史さん:02/02/19 20:50
>>110
>>111

三国志劉備玄徳史観に息詰まって
華北の歴代王朝を正当とする魏史にかえり
北荻西戎南蛮東夷を罵詈雑言で片づける正史の良き伝統に
お目覚めになられたあと、
それにもあきたらず三転して 網野史観にたどりつかれたわけですね。

本当に平家エピソードに三国志史観をブレンドさせた太平記は
日本人に間違った南北朝イメージを植付けてしまいました。
南朝の抵抗は室町中期までやむことなく続きしぶとく生き残っています。

太平記に反対の立場をとる難太平記のような北朝史観も
北朝正当化の思想に基づいて書かれています。
これも正しい歴史把握には至りません。
三木一草の一氏、結城氏は足利氏と鎌倉幕府内の
家格論争をおこしたほどの名家です。
ともに政所を持った鎌倉のなかでも由緒ある御家人でした。

ただ一つ網野史観が不完全なところはすでに前レスで
指摘されていた方もありますが、北朝方も異形勢力をとりいれた、という厳然たる事実です。
播磨赤松氏のテロ戦法と河内楠木氏のテロ戦法は何ら変わりありません。
そしてテロ活動自体アルカイダのように地元住民の協力支援がなければ
できない不可能な活動です。それを痛感したからこそ
異形の民と接触をもったにとどまらずそれを組織化するのに成功したのが
楠木氏を壊滅させた高師直です。

114日本@名無史さん:02/02/19 20:51
さて楠木正成の出自であるが不明な点が多いがだいたい次ぎの
5つの説があるという。

一、悪党説
二、散所の長者説(「散所」とは貴族、社寺の雑役を担った人々の集団)
三、田楽法師説
四、修験者説
五、供御人説

いずれにしろ当時の鎌倉幕府の体制からは疎外されており、それゆえに
天皇を信仰していた人々の出身であろう。
115日本@名無史さん:02/02/19 20:59
>>113
>ただ一つ網野史観が不完全なところはすでに前レスで
>指摘されていた方もありますが、北朝方も異形勢力をとりいれた、という厳然たる事実です

南朝対北朝の構図でとらえるとそのようなわかりにくい話しに
なってしまいますが、もともとのはじまりの権力体制であるところの
鎌倉幕府と反体制勢力であるところの後醍醐天皇方という構図を
忘れてはなりません。
異形異類を動員したのは他ならない後醍醐天皇であり、また彼で
なければできなかったことでしょう。
116日本@名無史さん:02/02/19 21:02
>>114
二〜五は歴史的にも天皇と関わりの深い人達ですね。
117日本@名無史さん:02/02/19 21:04
要するに

鎌倉武士=民衆を弾圧する権力体制
天皇=民衆を解放する救世主

という構図があったということですね。
118日本@名無史さん:02/02/19 21:08
>117
そうです。
その構図は幕末にいたって再び繰り返されます。

徳川幕府=民衆を弾圧し、国土を植民地化の危機にさらす無能な権力体制
天皇=日本を列強の魔の手から守り階級性を打破し、四民を解放する救世主
119日本@名無史さん:02/02/19 21:23
なるほど。勉強になります。
120日本@名無史さん:02/02/19 21:24
修験者は室町武家サロン文化の能、狂言の世界でも悪役にされています。
室町武家貴族が太郎冠者、次郎冠者で象徴されるのに対して、
修験者は鳥の真似をして木から落ちるずっこけ山伏役として嘲笑の対象にされています。
これは護良親王を奉じた熊野十津川郷士らが普段から
峻厳な吉野の山を駆け回ることで鍛練を兼ねていた即戦力であったことや、
修験者にしばしば偽装して北朝方をあざむき各地を移動転戦していたことなどに起因します。
121日本@名無史さん:02/02/19 21:39
>120
むー、なるほど。
たしかにこの動乱を契機として朝廷とそれをとりまいていた
異形異類の勢力は著しく衰退していっていますね。
122日本@名無史さん:02/02/19 21:41
田楽法師は転居移動が容易で各地情報に精通しているという点で
スパイ活動などにも従事することがあったでしょう。
太平記における高時の田楽狂いの暗愚ぶりは
後醍醐に時期到来を即座に関知させるものだったのでしょう。
妖霊星の記述もハリー彗星がそのころあったのでしょうかね。
気になります。
123日本@名無史さん:02/02/19 21:42
この流れを見ると出自不明の秀吉がやたらと朝廷を
担ぎたがったのも単なる便宜上の問題ではないように思える。

秀吉も異形異類の末裔であったのかもしれない。
124日本@名無史さん:02/02/19 21:45
楠木正成は異形異類の類でそれゆえに後醍醐天皇に殉じた
ということでよいか?
125日本@名無史さん:02/02/19 21:48
>120
山伏姿に身をやつして各地を転戦する護良新王の活躍は
神話的なものを思いおこさせます。
126日本@名無史さん:02/02/19 21:49
俺は源氏の旗揚げを想像してしまう。
127日本@名無史さん:02/02/19 21:51
たしかに網野は鋭い視点を持っていると思うね。
苦し紛れの天皇担ぎって楠木も秀吉も長州も同じ。
ただ、網野の鋭さっていうのは、マルクス史観が土台となる以上
マル経の鋭さでもあるはずだと思う。近代経済学ではすっ飛ばしの
経済主体の論点をマル経が丹念に拾い直したからこそ
テーゼ、アンチテーゼ、資本家、労働者、そして止揚=革命が正当化されたわけだからね。

128日本@名無史さん:02/02/19 21:51
>楠木正成は異形異類の類でそれゆえに後醍醐天皇に殉じた
全然納得出来ませんが。
129日本@名無史さん:02/02/19 22:00
返らじとかねて思えば梓弓
亡き数に入る名をぞ留むる
130日本@名無史さん:02/02/19 22:03
>127
>苦し紛れの天皇担ぎって楠木も

おいおい一体何を聞いていたんだ?
マルクスがどーのこーのなんてどーでもいいからもう一遍
国語の授業やり直して来い!
131日本@名無史さん:02/02/19 22:05
網野史観の粗探しってわけじゃないんだけど
結局ヨーロッパ工業国のどこでも革命がおこらずに
ロシアの農村から革命の火の手があがった。
その前に極東の島国が立ちあがって西欧に衝撃が走った。
こういう点からは司馬もしくは民族の誇り史観にも気持ちを汲みたいんだな。

経済主体が革命勢力に転じるためにはユニオンを造らなければならない。
散所長者農民、悪党、芸能者、修験者じゃ組織化するの大変そうだ。
事実桜井某の突発死など暴発に近い歴史的事件が契機としてないと
人は拳を振り上げないとおもうんだな。吉田松蔭もその意味では
彼の言う「猛」を発した点で意味があったんだろうね。

132日本@名無史さん:02/02/19 22:11
>>130

国語って明治の造語使ってる以上アンタも同じだよ。
主語と述語さえあればいいだろ。
日本語の語彙語感なんて輸入翻訳語彙と山の手言葉の折衷で
日本人の歴史とは関係ない部分のほうが多い。
いわばフランケンシュタインみたいなものだからね。
133日本@名無史さん:02/02/19 22:15
>>131
おまえ網野の本読んだときあるのか?網野は革命がどうのなんて書いたこと無いぞ。
134日本@名無史さん:02/02/19 22:22
マルクス野郎が出てきてすっかりしらけちまったな。
単語だけは難しい言葉並べやがって内容はほとんど
中味ゼロ。
難解な文章を書くやつが頭がいいと思っている典型的なバカ左翼。
135日本@名無史さん:02/02/19 22:29
まあようするにその出自や天皇とのつながりからして
楠木正成は天皇を裏切ることはできなかったんだね。
これは忠義であると言ってもいいと思うよ。
136日本@名無史さん:02/02/19 22:30
マルクス野郎は放置ということで
137日本@名無史さん:02/02/19 22:32
>>133

アンタは資本主義国家アメリカで本物の資本主義を見たことがあるの?
たいていの思想や政治経済モデルは前人の焼き直しなんだよ。
経済主体って概念はヘーゲルの弁証法を経済学に適用したもの。
その論理学を経済学に関わらずいろんな人文科学に適用した人がいっぱいいる。
網野は戦後マルクス史観の申し子なんだよ。
その発想は決してオリジナルではない。
散所長者、悪党、芸能民、集落民に眼をつけたのは良くできましたって感じだけど
なんで幕府を倒せたかのあたりは革命史観を丸呑みでしょ。
足利や御内人や九州三人衆のあたりの武族が都合よく省かれている。

俺は「革命」についていくつか定義をいえる。
それに少なくとも俺は一日100ページは英文読むぞ。
オマエのようなアホはこの先なに読んでもなに書いてもだめだ。
身のほどを知ってからモノを言え!
歴ヲタはすっこんでろ!
138日本@名無史さん:02/02/19 22:37
>>137
カリカリしなさんな。
どうでもいいから、みんな日本史語れ。
139日本@名無史さん:02/02/19 22:49
網野に限らず戦後の史家はマルクス史観に影響を受けている。しかしマルクス史観の影響を受けた=革命史観
とするのはあまりにも安直かつ軽薄。
140歴史の勉強:02/02/19 23:02
楠木氏の出自として最有力なのが、
駿河国楠木村(今の静岡市だったかな?)出身説。
頼朝が上洛した時に「楠木四郎」という武士がいたと
「吾妻鑑」は記載している(1190年)。
楠木村があった庄園は安達氏、もしくは北条氏の所領だったらしいので、
楠木正成はもともと北条被官であったという説が非常に有力。
また、正成の河内の拠点も、1285年の霜月騒動までは
安達領だった可能性が高いといわれる。
おそらく、安達泰盛の失脚後、北条被官に組み込まれた家なのだろう。
「悪党」という語はきわめて恣意的に用いられたので、
「悪党=反幕府勢力」という短絡は危険だ。
141日本@名無史さん:02/02/19 23:08
>>140
その説ならそれなりに謎が増えるな。
142歴史の勉強:02/02/19 23:30
う〜ん、無理もない!
あれだけ大身になった赤松氏も、円心以前は五里霧中的暗黒の中にあるんだから。
考えてみれば、楠木氏は、
これといって何てこともないような一地方武士に過ぎんのだから、
その出自を求めるのはすこぶる困難だろう。
武蔵七党のような有名武士団でも、末路がわからんやつが多いのだ。
143日本@名無史さん:02/02/20 19:34
だから鎌倉武士のように由緒をたどれるちゃんとした武士じゃないんだよ。
いずれにしろ出自は不明なんだよ。
それが悪党の悪党たるゆえんだろ。

それから悪党の定義って何だよ?
とくに140。
正成をくされ北条の被官にしたいらしいが、最近の歴史では北条の被官を
悪党と呼ぶのか?
体制に組み込まれていないからこそ「悪党」じゃねーのか?
悪党という言葉を恣意的に使って勝手に解釈してるのはおまえだろ。
144日本@名無史さん:02/02/20 19:38
>137
アホかおまえは?
アメリカに行ったことや一日100ページ本を読むことを自慢して
何が言いたいんだ?
「ほーすごいですね」
なんて言ってもらいたいのか?

おまえはアメリカで本物の資本主義を見る前に北朝鮮にでも行って
本物の共産独裁でも見てこい!地上の楽園なんだろ?
145日本@名無史さん:02/02/20 19:40
マルクス野郎が言いたいのは網野の手柄はマルクスの手柄って
ことだろ。
そうだよな。おまえの祖国は偉大なるソヴィエトだもんな。
そろそろ祖国に帰れよ。
146140じゃないけど:02/02/20 21:11
>>143
140の言い分は北条被官人出会った楠氏は二月騒動かなにかで失脚し、北条氏と距離を置くようになり、
やがて敵対するようになり、悪党と呼ばれるようになったと言うことじゃないかな?

いわゆる武士の出自が一般化というか卑賤化するようになったのは南北朝期だね。鎌倉時代の御家人は
貴種じゃないとなれなかったけど、出自がはっきりしない小土豪が実力でのし上がり、赤松氏のように
成り上がる者も出てきた。
147日本@名無史さん:02/02/21 00:35
>146
いやいや鎌倉時代も棟梁こそ貴種だったが、一般的には在地の領主でしょう。
ただ、その連中も鎌倉期を通じて権門化していったんだね。

南北朝期になるに及んで再び新興の武士が登場して、これが卑せん化する
こととなった要因でしょう。

つまり、建武中興の要因の一つに既成武士対新興武士の争いがあったという
ことですね。
148日本@名無史さん:02/02/21 00:39
楠木正成が侍品であったかどうかは確認されていないんでしょ?
地下であったかどうかの逆確認でもいいけど.
149日本@名無史さん:02/02/21 00:41
鎌倉御家人は原則的には東国の貴種でないとなれない。西国出身者は最後まで御家人にはなれても
東国出身社とは差別され、格下とされた。
150日本@名無史さん:02/02/21 00:42
まあ楠木正成が忠臣であったのは間違いないな。
151日本@名無史さん:02/02/21 00:58
>>150
ちゃんとレス読んだ?そういう基準で見ていては理解できないという結論に達したはずだが。
152日本@名無史さん:02/02/21 01:16
>>149

侍品というのは名簿を差し出して誰かに家人になるクラス。
おおまかにいって地域支配層。経済的には荘園管理者。
名簿を差し出した相手は院でもあり八条院でもあり摂関家でもあり
平家、源氏、奥州藤原氏、、、対象は複数いた。
侍品の上のクラスは国持ちなり在庁官人出身の土豪なり、
史料は比較的豊富でなんとか推定できる。
問題は下をどこで区切るか?
社会学的視野によって戦陣で従者を持っている(従者一人でもいいのか?)とか
公家の日記や吾妻鏡などの幕府公的史料に名前が載っているとか、
降人になったとき拷問の辱めをうけないとか、、、、色々あるはず。

吾妻鏡の楠木四郎は果たして何者であったのか?
頼朝当時の東国での名乗りはまだ「そこに住んでいる人」程度の意味でしょう。
楠木四郎がどこに所領をもち、いつ京大番役を勤めたか、あるいは鎌倉に出仕ししたか、
はたまたどんな事件を引き起こしたか、誰と姻戚であったか、どんな貢物を誰に行ったか?
こういう生活の息吹が聞こえてこないとなかなか先にすすめません。
私は楠木正成祖説は否定的に見ています。
153日本@名無史さん:02/02/21 01:17
>結論に達したはずだが。
歴史において結論とは片腹痛い。
有力説と言われる「吾妻鏡」楠木四郎が確認された年代以降は憶測のまま。
「太平記」「梅松論」での人物像は信憑性がないという前提ですしね。

何故必死に当時の武士の忠君・忠誠心を排除するのか、
また「結論に達した」と言える神経も理解できない。




154日本@名無史さん:02/02/21 01:28
じゃ、正儀は不忠者?
155////////////:02/02/21 01:39
正成が神社などに奉納している文書などをみると
やはり精神の格調が高かったとみるしかなかろう
あんな文面は即物的な武家なら書かんよ
やはり利益とは訣別した
抽象的な観念の持ち主と結論づけるしかなかろうに
156日本@名無史さん:02/02/21 01:49
尊氏の寛容な性格云々は置いておいて
足利陣幕に名簿を提出して家人となったのなら
その時点で政治力経済力を公認されたと考えるべきなのではないでしょうか?
公家は摂関家との距離で、武家は鎌倉の頼朝の距離で図った平安鎌倉史観は
尊氏との距離で図る室町史観に置き換わったとも考えられると思います。
さらにそれは山名宗全が公家を糺したといわれる「先例より時世」の言葉のように
実力が全てを制する「切り取り次第」という戦国の価値基準に変わっていったのでしょう。

やはり忠義の対象は己の参陣した先であり、
楠木は足利ではなく帝を選んだという点は確かでしょう。
だから忠義であることは間違いないでしょう。

しかし、しばしば聞くのは武将にとって己の家名の保全こそ一大事という価値観。
これについてはギャンブルとしか言えないでしょうね。
尊氏が九州で敗死していたら赤松円心は白旗城で犬死ということになったでしょう。
直冬が長門探題にならなければ少弐頼尚は尊氏方にとどまったでしょう。

つまり忠義とは何かという根本を皆さんは論じているんだと思いますよ。
円心なんて九州から怒涛の進軍があるのを見越した「見透かし忠」だ。
なんていやらしいんだろう、と現代人の我々が断ぜるでしょうか?
157日本@名無史さん:02/02/21 01:52
正成の文書って本物なの?
158日本@名無史さん:02/02/21 12:23
>>151
そもそも、教養のある武士は孫子の兵法だけ学んでいるのではない。
確かに、家督争い領地争いが目下の問題で、あたかも損得のみで参陣しているように
思えるかも知れないが、程度はともあれ武家は理想と現実を常に抱いていたに違いないでしょう。

上杉謙信は、尊皇・秩序を重んじるのは周知の通りだが、彼が突然ひらめいた訳ではないよね。
それ以前より、仏教と共に孔子孟子の思想は公家武家に広く浸透していましたから。
北畠親房を見ていても、その思想の影響力は南北朝時代にも強く反映されています。
そんな親房と楠木正成が席をともにする機会が多くかったにもかかわらず、
正成に忠君・忠誠心がないと断言する事は非常に理解しがたいと考えます。
159日本@名無史さん:02/02/21 12:41
天皇への忠誠心などで正成を語るな。
尊氏だって後醍醐天皇に弓引くことを
ものすごーく悩んだんだぞ。
160日本@名無史さん:02/02/21 13:27
>>159
それは百も承知。
中先代のドタバタの最中、直義が護良親王を暗殺しちゃって、
引込みつかなくなったんだよね。
その時の尊氏の心境を考えると、苦汁の選択だったと思う。
161日本@名無史さん:02/02/21 14:11
楠木正成を論じると、必ず天皇に心酔した極右が紛れ込んでくる。
自分が天皇を崇拝する分には勝手だが、それを昔の日本人全部に当てはめて、
正成忠臣、尊氏逆臣を披露するのは愚の骨頂だ。
そういう面々には、きっと琉球人も最初っから無二の天皇党なのだろう。
162日本@名無史さん:02/02/21 16:28
>>161
同感です。
歴史は歴史に過ぎません。それから如何解釈し、如何学ぶかは基本的に本人の自由です。
討論は結構だが、押しつけはご免です。
尊氏は秩序からすれば、謀反=逆臣に当たるのは仕方が無いが、歴史を紐解いてみれば
当時の彼の止むにやむを得なかった事情が憂き彫りにされます。
歴史は、それぞれの立場で必死に生きぬいた証しでもあります。短絡的に取り上げて
批評する事には、前々から疑問がありました。


163日本@名無史さん:02/02/21 19:05
皇国史観も反皇国史観もマルクス史観も政治的意図をもって
歴史を勝手に解釈することは歴史に対する冒涜以外の何者
でもない。(アズマ史観などとというふざけたものは論外)

さて、楠木正成であるが、後世の忠義や忠誠とは違うものの
彼の出自とされるものの多くが天皇と関係の深いもので
あることや天下の形勢や人心が既に尊氏に傾いていることを
冷静に分析しながらも討ち死にを覚悟して湊川に赴く行動
を考えるとどう考えても御醍醐天皇に寄せる深い思いを
除いては考えられない。

正成の出自については諸説はあるものの、いずれにしろ立派な
門地の出身でなかったことだけはたしかなようである。
正成がその自分に信頼を寄せてくれた後醍醐天皇個人に
対する深い信頼と使命感を持っていたというのは何ら不思議
ではない。

後世的な忠臣、逆臣などの概念で論ずるのは愚の骨頂であるが、
この天皇史上ほとんんど最強の部類のカリスマを後醍醐天皇に
対する正成、尊氏の心情を無視して南北朝を語ることはできない
ことであろう。
164日本@名無史さん:02/02/21 19:29
>156
一部反論があります。
それは正成が家名こそをもっとも重んじる鎌倉武士とは
異なった存在でるということ。

そもそも正成が鎌倉武士であったならばあのような鎌倉武士からしたら
卑怯千万なゲリラ戦術をとることはできなかったであろうし、したがって
鎌倉武士に勝利することはできなかったであろう。

既成の武士の名誉心にとらわれない正成が後醍醐天皇に己の夢をかけた
というのが建武中興までの戦いなのです。
165日本@名無史さん:02/02/21 19:39
さて、なにやら皇国史観の反動からか正成や尊氏の天皇への
忠誠心を否定する意見がありますが、この当時の時代背景を
よく検討するとこの意見はやはり間違っているでしょう。

なぜならこの当時、日本には宋学が入ってきており、これが
当時最先端の思想であったからです。

新興武士であった正成が既成の武士に対抗するため当時最先端で
あったこの思想に影響されていた可能性は充分に検討する必要が
あります。
166保守党@扇党首:02/02/21 19:48
ドブに落っこちてあぼーん
167日本@名無史さん:02/02/21 19:55
>163-165
いやー、説得力ありますね。
たしかに皇国史観も問題ありますが、戦後の反皇国史観という
のもなんかうさんくさいと思っていたんですよね。
反皇国史観では1が言うように正成の行動に説明のつかないことが
多過ぎる。
やっと納得できました。
ありがとうございます。
168日本@名無史さん:02/02/21 20:32
>>155の正成の文書が彼自身か、それに近い立場の者が書いたのなら、
悪党であった彼はどこでその教養を身につけたのか?
どこかの寺にいて学問を修めていたのだろうか。
169日本@名無史さん:02/02/21 22:21
安芸西遷以前の毛利氏が河内に居住していて
楠木正成がそこに通い詰めて大江流軍学を修めたという伝承があるね。
170日本@名無史さん:02/02/21 23:13
毛利時親?
171日本@名無史さん:02/02/21 23:15
どっかの寺でちゃんと学んでたはずだよ。
司馬遼太郎の「街道を行く」に書いてあった。
172日本@名無史さん:02/02/22 02:21
誰か見たのかよ
173日本@名無史さん:02/02/22 02:27
世阿弥観阿弥が楠木氏だとするならば
芸能民は知識学識もある程度あったはずでしょ。
174日本@名無史さん:02/02/22 03:39
世阿弥は二条良基の弟子だから特別では?
175日本@名無史さん:02/02/22 03:57
在日アズマが郷土だって(藁)
ウソもたいがいにしてくれ。


176日本@名無史さん:02/02/22 10:43
二条良基は散々嫌ったあげく義満の胆入りでしぶしぶ入門を許した。
当時見られた公家の芸民への蔑視態度と同じ。

177皆の衆:02/02/22 21:23
とにかく正成は忠臣ということでよいな?
178日本@名無史さん:02/02/22 21:42
>>177

一行レスやめれ
同じ聞き方で軍国教育がなされたんだから
史料、背景、認識、いろいろ人に聞く態度を見せるように
179七生報國:02/02/22 21:50
>>163-165 に誰も反応しない(できない)とこを見ると正成は忠臣ということでいいんじゃないの?
180二行レス:02/02/22 21:53
では、
正成は忠臣ということで
181日本@名無史さん:02/02/22 22:12
>>163

如何なる立場も政治的立場。問題はその相手の立場を良識をもって理解すること。
鵜呑みにするのではなく節度をもって反論し持論の立場を明確にすること。
いまだにマルクス史観と司馬史観の表裏一体の性格がいまだにわかってないだろオマエは。
悪党と散所長者、芸能者、修験者たちじゃ強大な北条氏は倒せない。
が、司馬が賛美する畿内政権としての織豊政権は足利幕府と同じ諸大名連合政権という性格上
脆弱だった。八百万石といわれる天領と旗本八万騎といわれる直属部隊の東国政権とは
比べ物にならなかった。マルクス史観も司馬も両極端なんだよ。後醍醐&異形の集団だけじゃ
一万年かけても北条は倒せなかった。司馬は経済論が御粗末で士魂に傾きすぎ。

>>164

建武の中興=南北朝というオマエの見方からも下りろ。でないと公平な論議ができん。
建武の中興は公家一統の挫折。この原理主義者は北畠親房が息子の諌奏状や
自身の常陸での苦い経験から放棄している。

楠木正成は公家一統の原理主義者たる初期南朝に殉じたという点で珍しい。
しかし長い目で見て南朝に殉じた膨大なリストの中の一武将に過ぎん。

>>165

読む気失せた。
182日本@名無史さん:02/02/22 22:18
>181
あー、キミキミ長々ともっともらしいことを並べているが
このスレの論点は「楠木正成は忠臣か」ということだろ。

南北朝全体を語りたければよそ行きなはれ。
183日本@名無史さん:02/02/22 22:26
>181
しかし、相変わらず読解力というか話しの流れの読めない人だね。
あなたは。
>>163-165 はこのスレの主旨を踏まえたうえで、戦前の皇国史観とは
違った角度から「楠木正成忠臣説」を補完しているものであり、
マルクスだとか司馬だとかは関係ねえんだよ。

まあ、結局あんたも

>楠木正成は公家一統の原理主義者たる初期南朝に殉じたという点で珍しい

と自分で認めているとおり、正成が忠臣であったことは間違いないんだよ。
ただ、あんたの左翼思考がどうしても「忠臣」という言葉にアレルギー
反応をしめして、ぐだぐだと言い訳じみたことを並べ立てているだけなんだ。
結局、皇国史観にもっとも囚われているのはあんた自身だということを
よく自覚なされ。
184日本@名無史さん:02/02/22 22:26
>>181
アホ発見、建武の新政は公家からも評判悪かったこと知らないの?
185日本@名無史さん:02/02/22 22:31
>>181

>楠木正成は公家一統の原理主義者たる初期南朝に殉じたという点で珍しい

この文章も誤解を招きかねない適当な文章だな。
読みようによっては楠木正成が公家一統に殉じたととらえられかねない
書き方だ。
もし、181がそう思っているのならトンデモないバカだ。
186日本@名無史さん:02/02/22 22:33
公家一統という過激思想にほぼ全員がNOといったのに
ついていったという点で珍しいといっているのだよ。
直義のいう公武一和の理念、
尊氏のいう弓矢(を専らにして政治を他人にまかせる)主義とか
皆々様非常に節度ある態度で臨んだのに、
自分が倒したでもない幕府が滅亡すると
あっという間にこの狂信思想「公家一統」を持ち出した。
北朝方は後醍醐を弑し奉ろうとか追いやろうとか思っていないのに
あの一方的な振る舞いかたはやはり異常だよ。
あと自己中心的な性格。
息子を売り渡したり言ったことを言わないといったり。

よほど後醍醐が好きだったんだね。
諸大名は尊氏が好きだったようだけど。
187日本@名無史さん:02/02/22 22:36
スレの主旨を無視して勝手に自分のワールドを展開して得意に
なっている左翼人の181の正体はアズマだろ。
相変わらずマヌケなやつだ。
こいつだけには進化論はあてはまらないのだろうか?(w
188日本@名無史さん:02/02/22 22:45
>186
チッチッチ、わかってないね、セニョール。
たしかに、後醍醐天皇が中心となって討幕運動が展開され、
おそらく後醍醐天皇なしではこの倒幕運動は成功しなかったで
あろうと思われるほどに彼は偉大なるカリスマを発揮したが、
倒幕にはそれぞれがそれぞれの思惑で立ち上がったのだよ。

もちろん、後醍醐天皇にも最初から自分の理想とするものがあった
わけであり、なにも倒幕が成功したからと言って急に後醍醐天皇が
「公家一統」を持ち出したわけではないのだよ。
そのことは後醍醐天皇が早くから親政を行っていた事実からもわかる
ことです。
189日本@名無史さん:02/02/22 22:48
なんか良スレ。
バランス的にも歴史考察の観点からも良いね。
>>186
>北朝方は後醍醐を弑し奉ろうとか追いやろうとか思っていないのに
大塔宮暗殺がキーポイントかと。

190日本@名無史さん:02/02/22 22:51
いつまで経っても皇国史観の呪縛から抜け出せないアズマ
191五右衛門:02/02/22 22:52
それがやつの宿命
192日本@名無史さん:02/02/22 23:04
>186
別に尊氏が好きだったわけじゃないだろ。
論功行賞などで建武新政権にみんな不満たらたらだったからだろ。
当時の個人的な人気の上では尊氏よりもはるかに後醍醐天皇のが
人気がある。
193日本@名無史さん:02/02/22 23:20
>>183
>>184
>>185
>>187

頭よけりゃ一度はマルクス史観に傾くんだよ。
チャーチルがいったのは本当だ。
「40になる前に一度もリベラルにならなければそいつはハートがない。
しかし40過ぎてから保守にならなければそいつには頭がない(頭が悪い)。」
おまえはムネオの拓殖大学かもしれんが俺はそのレベルはご遠慮させてもらった。

ところで俺は皇国史観でもマルクス史観でもないぜ。
マルクスが大英帝国の図書館で一人妄想にふけったような
既成概念への敵視など俺はもっていない。
マルクスがロンドンでひねりあげた妄想を
遼かなたの極東の島国が1868年(と1904年)に
ロシアが1917年(と1945年)にわざわざ実現してあげたように
後醍醐の妄想を実現してあげたのは
足利氏と関東九州の武士団とその他の国人土豪層だった。
七つの海を支配する大英帝国と最強伝説をもつフランスが
妄想学者に転覆されるわきゃないだろ。
同じ理屈で北条が後醍醐に倒されるわきゃないね。
突っ込まされそうなので一言付け加えるが朝廷はそりゃ力あったさ。
が朝廷はいわば比喩で言うと英仏連合みたいなもので
治天を差し置いて新政始めたり忠臣をどんどん使い捨てる
虚言癖もある独裁君主では朝臣も寺社も地下もついていかないわな。

それともうひとつ。俺は陸軍士官学校、陸軍大学の寮で悶々と
軍ヲタ作戦ゲームにいそしんだ連中よりはリベラルな思想にふれている。
菊水軍旗崇拝は楠木と同化しようとした水戸の人たちの思想なんだよ。
尊王という大義に殉じたいひとがいたってことだね。
つまりみんな錦旗と御旗(白旗)の行方でどっちつかずだったのを
三木一草のなかで真っ先に錦旗に殉じたのが楠木正成だったってこと。
が、それをいうんだったら一足早く忠の一義で「玉砕」したのは
有智山城での少弐貞経一族100人(雑兵足すと300)。
194日本@名無史さん:02/02/23 17:33
結局、楠木正成が忠臣であることには誰も異存なしか。
195日本@名無史さん:02/02/23 18:15
暗君に仕える忠臣は大変だね。
正成は生まれてくる時代を間違えたよ。
196日本@名無史さん:02/02/23 18:27
生まれてくる時代が違ったら正成の活躍の可能性は低くなりますね。
197日本@名無史さん:02/02/23 18:33
>193
あんたを見ているかぎりマルクスかじったやつが頭がいいとは
とても思えないが(w

>後醍醐の妄想を実現してあげたのは
>足利氏と関東九州の武士団とその他の国人土豪層だった

随分と自分勝手で都合のいい歴史解釈をしていますが、尊氏や
武士団はそれぞれの思惑があって倒幕に参加したのであって、
後醍醐天皇の理想を実現しようなんて最初から考えていません。
逆に後醍醐天皇の公家一統の理想を最初から知っていたら彼らが
後醍醐天皇に与して倒幕運動に参加した可能性は低くなると思います。
198日本@名無史さん:02/02/23 18:40
全体を客観的に見れば倒幕がなったのは後醍醐天皇のカリスマが
その周囲を巻き込んでことが成就したわけであって、後醍醐天皇の
存在ぬきではこの一連の動きはなかったであろうとすら思われる。
尊氏や武士団もその動きの中に巻きこまれたにすぎないのであって、

>後醍醐の妄想を実現してあげた
>足利氏と関東九州の武士団とその他の国人土豪層だった

などという発言はこの時代の流れとこの時代に与えた後醍醐天皇の
影響力を無視した傲慢な発言です。
199日本@名無史さん:02/02/23 18:45
>>193
>同じ理屈で北条が後醍醐に倒されるわきゃないね。

>突っ込まされそうなので一言付け加えるが朝廷はそりゃ力あったさ。
>が朝廷はいわば比喩で言うと英仏連合みたいなもので
>治天を差し置いて新政始めたり忠臣をどんどん使い捨てる
>虚言癖もある独裁君主では朝臣も寺社も地下もついていかないわな

なぜこれが後醍醐天皇が北条を倒した力の原動力でない原因なのか?
親政は朝廷内のことであるし、忠臣を使い捨てるうんぬんの話しは
北条を倒したあとの話しだろ?

もう少し論理的で説得力のある話しをお願いしますね。
マルクス君。
200日本@名無史さん:02/02/23 23:49
忠臣大楠公あげ
201歴史の勉強:02/02/23 23:58
マルクス主義史学者も、
少なくとも自由主義史観よりゃ頭いいだろうけどね。
おれは「発展段階論」に非常に批判的だが。

南朝党は衰退した勢力が多いようなので(武家に関しては特にそう)、
研究するのはとても大変だろう(研究家に頭が下がる)。
だが、九州だけではなく、東北も南朝党が多かったことに注意すべき。
南部、伊達は南朝に与することによって、後の大発展の基礎を得た。
この両氏が「太平記」第10巻で北条泰家とともに奥州に逃れた……
と書かれていることは、非常に気になる事項だと思う。
太平記は記載に誤りが多い(武蔵野合戦の書き方でもわかる)ので、
そのまま鵜呑みにすることは不可能だが、
北条残党の多くが南朝に与したことは北条時行からもわかる。
202歴史の勉強:02/02/24 00:05
南朝の勢力基盤(=支持基盤)として、海上勢力が多かったらしい。
懐良親王を薩摩に連れて行ったのも忽那水軍らしいし、
彼の南朝起死回生の成功も海上勢力あってのことだろう。

これが普通「倭寇」だと考えられているのだが、
当時の感覚で「海賊」がどんなものだったかを知る必要がある。
海賊は別に犯罪者集団ではない。海上勢力と考えたほうがいい。
「賊」は、中国あたりの支配者が勝手にそう呼んだだけ。
実際には商業活動をしていた人が多かったらしい。
当時は一般庶民も武装していて当然の時代だったので、
いざ戦争となると、彼らは「武装した商人」になった。

後醍醐天皇の時代は大陸で貿易制限が始まった頃だったので、
海上勢力は海賊化して、沿岸を襲うことも多々あった。
つまり、海賊の成長する時代だったわけだ。
後醍醐天皇がそこまで計算に入れて鎌倉打倒を考えたなら、
かなり炯眼だったと思う。
203日本@名無史さん:02/02/24 11:25
おれは後醍醐、全然評価しないね。
だって建武新政後に登用された武士見てみろや。
足利氏、その対抗馬新田氏、鎌倉幕府の官僚層
のほかは楠木、名和、赤松だけだぜ。
このうち名和はたまたま隠岐に流されてたから
知り合った。赤松は護良親王の家来だ。
ということは、後醍醐が見つけてきた武士って
楠木だけなんだよ。後醍醐が武士を組織的に
味方にしたのなら、こんな論功行賞はないだろう。
後醍醐は行き当たりばったり挙兵したんであって、
それを何とか支え続けたのが楠木なんだな。
正成が湊川で死んだのはかなり自分で選んだ感
が強いんじゃないかな。
204日本@名無史さん:02/02/24 19:52
そうそう。楠木正成は確信戦死。
やっぱり忠臣だったね。
205日本@名無史さん:02/02/24 22:32
優秀な人材の悲劇的な最期は心を打つね。
あの時代で一番、戦がわかっているのに、身分が低くて用いられない。
悲劇のヒーロー。泣かせがあって永遠のスター
206日本@名無史さん:02/02/25 19:45
つまり、楠木正成はそれまでの自分のお家さえ大事であれば
いいというお家第一主義の既成の武士達に対して
「大義に殉じる」という新しい価値観を見せた新しい武士
だったわけですね。
しかし、残念ながら正成が見せた新しい武士像は一般には
受け入れられずにその後も世の中は武士達の利己的な
争いで乱れ続け民は辛酸を舐め続けたというわけですね。

そういう点から見ればやはり楠木正成は偉大な新時代の武士
であり、まごうことなき忠臣であり、既成の概念にしばられ
続け後醍醐天皇を裏切りその後の南北朝の動乱を招いた尊氏は
逆臣であったと言っても過言ではないでしょう。
207日本@名無史さん:02/02/25 19:49
惜しむらくはこの新しい価値観と武士像をもった忠臣正成が
名門の家柄でなかったということですね。
名家のボンボン尊氏はその血筋だけで既成のしがらみにしばられた
武士どもをひきつれて世を混乱に陥れたわけです。

尊氏は死して混乱を残しましたが、正成は死してなお新しい理想の
世の中と新時代の武士の死に様を後世に残したわけです。
208日本@名無史さん:02/02/25 19:54
>>165>>206>>207
なるほど。
正成は当時最先端の思想であった朱子学に殉じた新時代のヒーロー
であり、尊氏は旧態依然の利己的な男でしかなかったというわけですね。
たしかに、朱子学については司馬遼太郎をはじめとしていろいろと
批判があるようですが、この一連の思想がやがて幕末の維新回転へと
つながったことを考えると評価せずにはいられないと思います。
209日本@名無史さん:02/02/25 21:10
では、楠木正成は忠臣ということで
210日本@名無史さん:02/02/25 21:14
>>206
なら、己の権力欲のみのために戦乱を起こし、民に辛酸を舐めさせた後醍醐は希代の大悪人?
211日本@名無史さん:02/02/25 21:25
と言うことは、敢えて逆心の汚名をかぶって民のために大悪人を政権から引きずりおろそうとした
足利尊氏は大偉人。
212日本@名無史さん:02/02/25 22:09
そうじゃなくてもさ、足利尊氏は持明院統にとっちゃ
忠臣だろ、十分。楠木は逆臣。
今の天皇陛下、持明院統なんだぜ、忘れんなよ。
213日本@名無史さん:02/02/25 22:51
偽天皇の腰巾着、大逆臣楠木正成age。
214日本@名無史さん:02/02/26 00:14
建武以降の持明院統の天皇は将軍の奴婢だったって太平記に書かれている。
それに比べて大覚寺統の皇子達は凄いね。刀は持つ。鎧は着る。
戦陣では先頭にたつ。まさに戦う南朝。
215日本@名無史さん:02/02/26 00:16
>>211
護良親王殺害がきっかけである以上、足利尊氏は逆臣。
みんなちゃんと太平記を読みましょう。
216日本@名無史さん:02/02/26 00:31
>>211

護良親王は無残な結果となってしまいましたね。
失脚そして帝に武家側に引き渡された後
羽をもがれた状態で鎌倉混乱のさなかに
無残にも殺害されたのは大変痛ましい。

だけどそこはもう少し文脈に沿った見方をするべきでしょう。
護良親王は前の征夷大将軍。
しかも尊氏への反感憎悪は建武新政権随一。
尊氏へ何らかのポストを与えた上で
フェアな競争が行われていたのなら良かったが
論功行賞、領地安堵の権限から尊氏を全て排除。
「尊氏なし」のバッシングは帝でも楠木でも新田でもなく
やはり大塔宮が指揮したと考えられるはずです。

西国での政争では尊氏を圧倒したものの
鎮守府将軍尊氏の地元ともいえる東国で殺されたのは
何か運命的なものがあったのでは。
217日本@名無史さん:02/02/26 01:33
>>215
>>211は尊氏が逆臣であったことは認めているぞ。敢えて逆臣の汚名を着たとな
218日本@名無史さん:02/02/26 07:45
>後醍醐が見つけてきた武士って楠木だけなんだよ。

楠木としても自分を見い出してくれた後醍醐を見切れば世間の評判も悪く、もはや運命共同体と思ってついて逝くしかなかったんだろ

それを忠臣と呼ぶなら忠臣だろうね
219日本@名無史さん:02/02/26 07:51
>218
果たして、この時代の武士が「世間体」なんて考えただろうか?
220日本@名無史さん:02/02/26 11:47
>215
おめーこそ歴史もっと勉強しろよ。
当時京都を追放して誰かに身柄を預けるってのは
「煮て食うなり焼いて食うなり好きにしろ」
ってことだったんだよ。だから護良親王は
鎌倉に配流が決まった時点で政治的に死刑を宣告されてたんだよ。
それもおやじの後醍醐天皇に。
だから親王は「尊氏よりもおやじがにくい」つってんだろーが。
太平記よく読みやがれ。
221215ではないが:02/02/26 12:25
>>220
ゴダイゴもまさか殺すとは思ってなかっただろ
あの時点ではあくまでゴダイゴの下での争い、
それに後継争いも絡んだんだから

おれも私本気太平記しか読んでないので
本格的に来られると困るが・・・
222日本@名無史さん:02/02/26 13:00
偽天皇の腰巾着を悔い改め、持明院統に降参した楠木正儀は大忠臣
223日本@名無史さん:02/02/26 13:33
楠木正儀ってトンだ目にあってるね。
細川頼之に招かれて和泉摂津の守護にはなったが南軍に敗北。
守護職をとりあげられて南朝に再帰服するも北軍に敗れる。
224220:02/02/26 13:48
>221
後醍醐は武力を統合する権力、まあ幕府みたいのを絶対認めない派だろ。
それに対して、おやじ、それは現実的じゃないよ、おれが武士たちを
まとめるから征夷大将軍にしてくれよ、ってのが護良親王。
二人は絶対に相容れないから、天皇は親王がどうなっても文句いわない。
自分で断罪するのがイヤなだけ。
じっさい、護良の側近は死刑になってるしね。
赤松円心はこれで後醍醐を見限って尊氏のとこ行った。
でも正成は行かねえんだよなあ。さぞ厚遇されたろうに。
225日本@名無史さん:02/02/26 14:03
尊氏が外されたのはあくまで京都での話
六波羅攻めの勲功から尊氏は武蔵守、直義は相模守に任ぜられている。
直義が成良親王を奉じて鎌倉に下って関東十カ国の支配を任されたことを見ても
関東における鎌倉支配は北条氏からそっくりそのまま足利氏に下された。
基氏に始まる関東府が実質このときスタートしたというのは誰もが認めている。
あるいは千寿王が新田方に参陣したときからといってもいいが。

原理原則主義者のいう
「東国人は東国で生きろ」
「武家は朝家に召し使われる運命」
「東国人が京の政治に口出しするのは無礼千万下克上の極み」
というのはわからないでもない。
だから尊氏は外された。
しかし結城新田は京で厚遇されている。
ここに後醍醐の新政の恣意性が現れている。

226日本@名無史さん:02/02/26 20:40
結論:

忠臣楠木正成

逆臣足利尊氏


227 :02/02/26 20:43
楠公の忠節は権助の首くくりの如し
228日本@名無史さん:02/02/26 20:50
しかしブッシュの言うことによると
福澤流「競争」こそ日本人が学ぶべきものだとさ
ということはやはり楠公権助論ってことかな
229日本@名無史さん:02/02/26 21:24
>>221
中世では、まあ中世には限らないが、身を預けるということは生殺与奪権を与えたのと同じ事。
後醍醐は尊氏に護良を殺してもいいといったのと同じ。
自分以外の人間の命など屁とも思わぬ権力の亡者後醍醐の一面を示すエピソードだね。
230日本@名無史さん:02/02/26 21:43
スネ夫=正成
231日本@名無史さん:02/02/26 21:57
>>229
「身を預けるということ」…戦国時代の人質と勘違いをしていないか。
まだその時点では、足利が反旗を翻す事は後醍醐帝は知らなかったのではないのか。
とはいえ、罪状の沙汰のないまま手にかけた時点で足利が逆臣であることは間違いない。
232日本@名無史さん:02/02/26 23:09
おまえバカ?自力救済の中世で身柄を引き渡すと言うことは処罰を任せたことだぞ?
233日本@名無史さん:02/02/26 23:21
>219
まだ戦乱は始まったばかりだから恥も外聞もある時代だよ
恥を知る楠木のような武将が死んで恥知らずばかり生き残るのが時代の流れ
234日本@名無史さん:02/02/26 23:26
あのなあ護良親王の暗殺への経緯には諸説あるんだぜ。
なぜ、勝手に後醍醐天皇が売ったって決めつけているんだよ。
235日本@名無史さん:02/02/26 23:27
他の説、きかせろや。
236日本@名無史さん:02/02/26 23:29
もう寝るからまた今度な。
237234:02/02/26 23:36
金星人が護良をさらって人体実験をした後鎌倉に置き去りに。記憶を失った護良を尊氏が保護。
238日本@名無史さん:02/02/27 00:49
楠木はおくとして、ホント新田義貞ってばかだよね。
尊氏追ってすぐに九州いきゃあいいものを、赤松攻めて時間無駄にするし、
北畠が奥州から攻め上ってきたときは協力しないし(太平記にすら
功を北畠にとられるのがいやだったんだろう、って書かれてやんの)。
湊川でも楠木のことなんか忘れて置いてきちゃった、というのが
史実に近いような気がするなあ。
239日本@名無史さん:02/02/27 00:50
マジで野球ヲタ逝ってよし!!

http://ime.nu/www.baseball-lover.com
240日本@名無史さん:02/02/27 00:57
義貞としては越前を制覇する好機に北畠のボンボンがノコノコやってきて援軍寄越せって言われてもね。
軍を裂いたせいで結局越前を制覇できなかった。
赤松攻めは義貞より指導部である朝廷に否があるんじゃない?誰も菊池があんなにあっけなく敗れるなんて思っていなかったろうしね。
尊氏がライバルとして戦犯指名したのは義貞。南朝方の武士をまとめられるのは義貞しかいなかった。だから正成は義貞を逃がした。
241日本@名無史さん:02/02/27 19:16
義貞は鎌倉攻めだけの一発屋。
あの時が彼がその生涯でもっとも輝いた瞬間だっただろう。
運も天もすべてが彼に味方した。

しかし、彼の正体はその後の戦歴を見ればわかるように単なる
どこにでもいる田舎侍の大将にすぎない。
242日本@名無史さん:02/02/27 22:28
前に『日本史探訪』読んでたら、海音寺潮五郎だっけかが
「『神皇正統記』よむと、てめえのせがれの顕家の戦死については
手放しで絶賛しているのに、楠木のことは名前も出てこない。
武士が天皇、貴族の為に死ぬのはあたりまえだといわんばかりだ」
と怒ってた。そうなんだろうなあ。そんなバカ貴族どもに
正成ドノは心底絶望してたんだろーなー。
243日本@名無史さん:02/02/27 22:51
「神皇正統記」は深く学問を修め、博い知識をもっているような人ではない者
のために書いた、自己の政治的主張、公家の政治的な主張を総合したものでしょう。
「太平記」のような戦記ものではない。根本的に意図が違う。
また、湊川の合戦の詳細を親房本人が知り得たかどうかは知る良しもない。
244日本@名無史さん:02/02/27 23:22
>240
北畠の名誉のために書くが奥州を離れるのは北畠の本意ではなかった。
その事情は越前を離れたくなかった新田義貞と同じ。
しかし後醍醐帝から「京都を攻め落とせ!」と厳命されてやむなく従った。
戦争というチームプレイをしてる以上は監督からバントエンドランを命じられれば本意でなくても従うもの。
北畠は監督の指示通りにすでに走ってるのに義貞は「もっと良い球まってヒット打つんじゃ」と糞ボール見逃したワガママ男。
北畠がアウトになったのは義貞のせいだぞ。
ただし監督の采配が正しいかどうかは別問題。
245日本@名無史さん:02/02/27 23:59
親房はただのわがまま公家だよ無知蒙昧な東夷に教えてやるという尊大な態度が南朝支持者を減らしたことは確か。
246日本@名無史さん:02/02/28 19:04
まあいずれにしろ、南朝に当時の武士には珍しい「忠」の
精神があったということは事実だな。
この点が我が家さえよければいいという利己的な鎌倉武士と
違うところ。
247日本@名無史さん:02/02/28 20:00
まあいずれにしろ、少弐赤松に当時には珍しい「忠」の
精神があったということは事実だな。
この点が我が家さえよければいいという利己的な公家と
違うところ。
248日本@名無史さん:02/02/28 20:08
マルクスかぶれのアズマ君も楠木正成が忠臣であったという事実に
だけは反論不可能なようだね(w
249日本@名無史さん:02/02/28 22:19
>>247
公家も忠臣だよ。まあ武家嫌いとか家柄重視の偏見はあれど。
出世バカもいれば、親房等のインテリ思考も居た訳よ。
日野資朝のような行動派も居ました。でもみな多かれ少なかれ忠臣。
250日本@名無史さん:02/02/28 22:20
伝統擁護の真の保守であるアズマ君も楠木正成が忠臣であったという事実に
だけは反論不可能なようだね(w

251日本@名無史さん:02/02/28 22:28
北一輝だっけか?
南北朝を普通に見れば、日本中が賊徒になるって言ってたのは。
252日本@名無史さん:02/02/28 23:06
小泉は実はアメリカから大統領親書でこっぴどく叱責されていたと聞くが
アメリカも自民党的守旧社会がいまだに忠の孝の言っているうちは不満足だろうな。
福澤の楠公権助論をいまいちど顧みるべし。
253日本@名無史さん:02/02/28 23:11
皇居前広場の楠木正成像はさっさと撤去してね。
彼は関東とは何も関係ない人物なんだから。
254日本@名無史さん:02/03/01 06:15
東京は日本の都だからね、日本国内の観光だけではなく、世界から皇居を訪れる。
天皇が居られる皇居に忠臣の武者像が有るのは当然です。
なんなら、新田義貞像でも隣に建立して上げようか、俺的には高山彦九郎正之も好きだな。
255日本@名無史さん:02/03/01 06:28
鳥居脛右衛門の逸話で広く知られるように
長篠の戦いの勝敗の帰趨を決定的にした三河の奥平家。
その藩主奥平家を頂点とする中津の狭い階級社会を
「親の仇」として完全否定した福澤。

忠とか義とか孝といった価値観は権力者によって偶像にされる。
そして「権力者のための価値観」を美化する論調が
政治家、学者、市民らによって次第に広がりをみせると
もはやその勢いは誰にもとめられない。
大政翼賛の名のもとにどのような市民への蛮行も正当化された
洗脳社会の台頭を再び許してはならない。

そして純真な青年少女をその拘束思想でがんじがらめに縛る。
楠木の忠は語り継がれるべきだが偶像にされるべきではない。
256日本@名無史さん:02/03/01 07:00
スターリンも金日成偶像で国民統制を行った。
結論を言えば、忠とか義とか孝といった価値観には直接問題が無く
ナショナリズムの為に利用し、その結果過ちを犯した事が問題と言う事だな。
偶像があっても別に問題はない、その否定の存在も認められていれば良い。
賛否両論が冷静に存在する現代の世こそ、日本の尊い歴史の恩恵と言える。


257日本@名無史さん:02/03/01 07:04
楠木正成は鎌倉幕府を倒した宿敵でかつ関東とは何の縁もない。
にもかかわらず関東の要である江戸城前広場に奴の銅像があるのは、
関東民族主義者である我らにとって屈辱以外の何物でもない。
速やかに宿敵楠木正成の銅像を撤去せよ。
そして東国国家建国に貢献した平将門、源頼朝、北条政子、北条義時
らの銅像を建てよう。
258日本@名無史さん:02/03/01 07:24
君は特高の真の恐ろしさを知らないからそんな事を言える。
京大を卒業しても親兄弟親戚も東大、早慶を出ている一族でも
特高は国家権力の威信をかけて潰しにかかる。

寒い冬の日母親が暖めてくれた食べ物、頑張って勉強した日々、
それが一日で壊される。結婚もできない。家庭ももてない。烙印がつきまとう。
そんな辛い運命も己の信念さえあれば耐えられる。
しかし、関係のない親兄弟親戚全員の人生に土足で入り込み
彼らの生活まで破壊していくのを黙って見ていられるのか?
259日本@名無史さん:02/03/01 07:30
>>256は思想的に同意。
尊皇=ファシズムは戦後アカが作り上げたものであって、その過敏反応には抵抗がある。
では、
東国を開拓した日本武尊の像を皇居に立てましょう。
朝廷の命で功績のあった征夷大将軍はOKだな。坂上田村麻呂もいいね。
平将門は逆臣、
源頼朝は鎌倉に像を、
北条政子、北条義時らは源氏を断った張本人。
拝みたけりゃ木彫りが何処ぞ寺にあるだろうが。
260日本@名無史さん:02/03/01 07:35
日本武尊、坂上田村麻呂らは京都の天皇制の手先となって東国を侵略した侵略者。
平将門、源頼朝、北条政子、北条義時らは京都の天皇制からの東国の自立を目指した偉人。
261日本@名無史さん:02/03/01 07:51
どうやら自立と欲ボケお馬鹿さんとの区別すら出来ない奴がいるぞ。
唯一源頼朝は尊敬に値する。朝廷内の争いにピリオドを打ち、秩序を回復しそれを重んじた。
平将門は親戚争いくらいで逆上する単細胞。自分が不器用なのを棚に上げて暴れまわるのは迷惑千万。
北条政子は言わずと知れた、人でなしの盗賊女。
北条義時も盗賊の血を引く極悪人。鎌倉武士の裏切り者。ヤクザの始まり。

262日本@名無史さん:02/03/01 08:02
>>258
一応不憫には思うが、それは尊皇や銅像の話しとは全く関係がない。
でも、失礼だが、スレから思いっきり脱線していて笑ってしまった。
263日本@名無史さん:02/03/01 20:05
やれやれまたアズマで台無しだ。

楠木正成=忠臣 という事実に反論できなかったのがよっぽどくやしかっと
見える。
264日本@名無史さん:02/03/01 20:18
>平将門は親戚争いくらいで逆上する単細胞。自分が不器用なのを棚に上げて暴れまわるのは迷惑千万。
>北条政子は言わずと知れた、人でなしの盗賊女。
>北条義時も盗賊の血を引く極悪人。鎌倉武士の裏切り者。ヤクザの始まり。

皇国史観に毒された電波ね(藁。

265日本@名無史さん:02/03/01 20:33
楠木正成は和泉の生まれで南朝方の忠臣だから、関東とは何の関係もない人物だよね。
だから戦前みたいに歴史教育の場で忠君愛国の鑑として楠木正成を礼賛し、
アズマ人に対してまで彼への崇拝を強要するようなことのないようにね。
別に崇拝を強要されないのなら、あなた達がいくら楠木正成を賛美しようが、
我々アズマ人は一切関知しないから。

とにかく江戸城前広場にある楠木正成の銅像は早く撤去して下さい。
だいたい江戸城を住みかにしている明仁氏は北朝方の末裔なんだから、
広場に楠木正成の銅像がある必然性は全くないんだから。
266日本@名無史さん:02/03/01 21:40
>>265の訂正
和泉→河内
267日本@名無史さん:02/03/01 21:55
皇居のクソノキ像は首に縄をつけて引き倒せ!
268日本@名無史さん:02/03/01 22:04
>>261
後鳥羽って鎌倉幕府から権力の奪回を企んだ欲ボケ野郎じゃなかったの?
結果として失敗して朝廷の権威を失墜させ、
自らは隠岐に流されたんだから相当なお馬鹿さんだよね(藁。
関東の武士の団結力をアピール出来たのは欲ボケ後鳥羽のおかげだな。
269日本@名無史さん:02/03/01 22:36
柳田國男『山の人生』より

「武人などは、主君長上に対して不満の有る場合に、無謀に生命を軽んじ
死を急ぎ、さらば討死をして殿様に御損を掛け申すべしと、謂つたやうな
話が多かつた」

これが楠木正成の最期にもあてはめるんじゃないかってことで、
論議になったんだよ、戦前に。知ってた?>1
あまり意味なく死んだということで、実は不忠だって説も強いの。
270日本@名無史さん:02/03/02 01:22
天皇家が分裂してるのに忠・不忠があるかよ、バカ。
それにな、直義の制止をふりきって京都に居を定めた
足利尊氏を単純に「アズマ」の人間なんていえるかよ。
もうちょっと頭つかえや。
271日本@名無史さん:02/03/02 01:30
忠もないってことを認めていいのかな(藁
272日本@名無史さん:02/03/02 17:16
楠木正成については皇室に対するというより後醍醐天皇というただ
その一人に対する忠誠心だろうな。

楠木正成の生き様には、同時代の利己的な武士にはない後世に通じる
新時代の到来を予感させる高い精神的価値観が感じられる。

たしかに、建武政権の論功行賞やその施政方針にいろいろ問題があったのも
たしかであるが、同時代の武士達がただただ己の利益を優先させたことも
南北朝の争乱が長引かせ国土を混乱に陥れ民を苦しめた原因の一つである。
他の武士達にも楠木正成のような高い精神性があればこのようなことには
ならなかったであろう。
273日本@名無史さん:02/03/02 21:10
正しくは「楠正成」なんだけどね(w
さすが、大河や吉川の糞小説でしか南北朝を知らない、歴史厨だNE(ワラ
274日本@名無史さん:02/03/02 21:23
>>273
と史学科の歴史ヲタの厨房が申しております(藁。
275日本@名無史さん:02/03/02 21:30
>273
えらそーにいいやがって。
どうでもいいんだよお、そんなこたあ。
人の名前なんか記号なんだから。
毛利元就だって「もとなり」って読んだ確証なんかねえんだぞ。
斯波義将、畠山義就、読んでみな。
「しばよしまさ、はたけやまよしなり」なんて
読みやがったら、たたっころすぞ。バカ。
276273じゃないが:02/03/02 21:45
しばよしまさ、はたけやまよしなり
さあ、ころせ!
277275:02/03/02 21:48
あ、言い忘れた。それになあ、足利尊氏なんて野郎は
いねーの。源尊氏なの。文書に署名するときはそうだろ。わかる?
だけど源ばっかりだと困るから当時の人は「室町殿」とか
「足利殿」とかいうんだよ。
正成も同じ。正しくは橘正成。楠木だろうが楠だろうがいいじゃねえか。
278273:02/03/02 21:53
なんで日本って、こうも大河や小説などのフィクションで歴史通ぶる痛い奴が
多いんだろう?(w
ああ、恥ずかしい。
279日本@名無史さん:02/03/02 22:06
>>275
「しばよしゆき」と「はたけやまよしひろ」だったっけか?
うろ覚えだが。
280日本@名無史さん:02/03/02 22:07
それいったら平政子、源家康、藤原政宗、松平敬親、元徳親子になって訳がわかんなくなるよ
281日本@名無史さん:02/03/02 22:09
>>273はヒキコモリ、史学科、歴史ヲタ、厨房(藁。

282日本@名無史さん:02/03/02 22:12
>>275,277
そうかもしれんが、別にわし等がわかればいいじゃん。
273氏のように言いたいことも時にはあるよ。
まあ、(カキコ見ただけだが)273氏と友達にはなりたくないな(藁)
283275:02/03/02 22:36
>279
ビンゴ!!パチパチパチ。
>273
古文書なら痛くねーな!?
上島有先生の「足利尊氏文書の研究 写真編」(コピーだよ。
買えないよ、高くて。)めくってみると・・
おお!「建武3年6月30日 足利尊氏自筆請文」の文中にな、
「去月25日、楠木判官正成於湊河令討取・・・」とあったぞ。
尊氏だって「楠木」って書いてんだから、まけとけよ「楠木」に。
な。
284日本@名無史さん:02/03/02 22:38
松平政宗(w
285日本@名無史さん:02/03/02 23:33
楠木正成オタクの自作自演が目立つなあ……
忠誠心意外に取り柄が無かった人物に思えてしまうなあ、
楠木正成が
286273:02/03/02 23:58
大体、今時楠正成を語ること自体が厨だよな(w
287日本@名無史さん:02/03/03 00:22
>>254
>なんなら、新田義貞像でも隣に建立して上げようか、俺的には高山彦九郎正之も好きだな。

この両人、どちらも上州人だな。
群馬県が自民党の地盤なのはこういうところから来ているんだろう。
288日本@名無史さん:02/03/03 01:50
構造改革だ、財政出動だと国民全体が喧喧諤諤の思想バトルで揺れているこの厳しい時世に
内裏造営、武家排除など悪政の一言で片づけられている政策転換への
舵取りを断行した後醍醐への絶対忠節を誓った河内の一武人を何故持ち出すのか?

我々に自民党といっしょに心中しろとでもいうのだろうか?
あるいは庶民切り捨ての小泉改革を賛美しろとでもいうのだろうか?
1の社会的認識が試されている。
289日本@名無史さん:02/03/03 02:17
>>288
下らん。
ここに来て何言ってんだか。
290日本@名無史さん:02/03/03 10:02
関西人の楠木正成への崇拝を我々関東人に強要するんじゃねーぞ。
そんなことされたら楠木正成自身だって迷惑だろう。
2911じゃねえよ:02/03/03 11:22
>288
そうかな?おれは後醍醐の挙兵は行き当たりばったり、説だからさ。
正成がいなけりゃ後醍醐が隠岐に行って終わり。そのあとねばり強く
正成と護良親王ががんばったからこそ歴史が動いたわけだろ。
社会の要請と個人の行動とがぴたりと合致した稀有な例だとおもってんだ。
そのへんからも正成を考えるのはけしてむだじゃないんじゃない?
>290
武士に東や西があるのか?西国御家人の多くが東国出身だぜ?

292日本@名無史さん:02/03/03 11:42
武士の相続のやり方1つとっても違う
293日本@名無史さん:02/03/03 11:51
正行に後事を託して別れる=死ぬ気=無駄死に=後醍醐陣営にとって損=不忠
294橘諸兄:02/03/03 12:10
楠木氏も元は北条被官だから関東出身。
295 :02/03/03 12:51
話むしかえすようで申し訳ないけども、
ゴダイゴが護良親王を引き渡した経緯っていうのは
私本太平記では後継争いを絡めてたけど、
武士団を束ねる尊氏を尊重しなければ政権を維持できなくなったからということでよろしい?

あと、ゴダイゴは護良親王の生殺与奪を与えたって言ってたけど、
島流し等にあった皇族が暗殺された事件は他にどういうものがあったんでしょうか?
296日本史@名無史さん:02/03/03 12:53
藤原紀香は在日韓国人だよ。
297日本@名無史さん:02/03/03 13:47
>>273
楠木正成の表記であるが、たしかに楠としたものもあるが
楠木としたもののほうのが圧倒的に多いぞ。
なにを根拠に楠のほうが正しいと断定しているのか教えてくれ。
298日本@名無史さん:02/03/03 13:52
>>294
何を根拠にそういう説を出しているのか明示せよ。
楠木正成の出自については先述のように諸説あり、現在
確認されるもっとも古い資料によれば悪党として登場している。
299日本@名無史さん:02/03/03 13:59
>>290>>291
たしかに武士に東も西もありません。
戦国時代以前の武士のほとんどはその起源を西国にもつものが
多いし、天下統一以降は度重なる領地替えで武士は在地の領土から
引き離されました。

290の言っていることは単なるお国自慢のゆがんだものにすぎません。
なにかつらい思い出でもあるのでしょう。
300日本@名無史さん:02/03/03 14:13
>>291
語醍醐天皇の倒幕計画は決して行き当たりばったりではありません。
もちろん、クーデター計画に博打的な要素はつきもので、確実なもの
などあろうはずはありません。
当時、語醍醐天皇は当時皇室が持っていた古代以来の力を最大限動員して
幕府を倒そうとしていた様子がわかります。

すなわち、当時の腐敗しきってもはや民にとって害毒以外の何者でもなく
なった鎌倉幕府を倒すために天が後醍醐天皇をこの世に遣わしたのでしょう。
301日本@名無史さん:02/03/03 14:15
>>288
1ではないが、あなたの歴史認識はまったく未熟かつ手前勝手なものです。

あえて今の政治にたとえていうのなら、当時の鎌倉幕府こそが今の自民党です。
302日本@名無史さん:02/03/03 14:24
足利尊氏がアホだたわけだと言われるのは、ある意味仕方のない
ことである。
この南北朝の動乱はそもそも腐り切った鎌倉幕府を倒すために
後醍醐天皇が古代以来の闇の日本史パワーを解放したのがきっかけであり、
これを納めることができるのはおそらく後醍醐天皇本人しかいなかった。

しかし、建武新政府の政治能力が低かったのは御存知のとおり。
しかし、だからと言って後醍醐天皇というキーマンを除いて、この
混乱を収められるはずがない。

尊氏は当時源氏の正統後継者、つまり、国政に対する甚大な責任を
もつ立場にありながら、結局はこの混乱をおさめるどころかますます
混乱を長引かせるような原因を作ってしまった。

たしかに、建武新政権にも責任はあるが、それと同様に足利尊氏にも
大きな責任があることは事実である。

そんな中にあって楠木正成の生き様だけがなぜかキラリと光って感じられるのは
私だけであろうか。
303日本@名無史さん:02/03/03 14:34
>>291
>正成と護良親王ががんばったからこそ歴史が動いたわけだろ。
>社会の要請と個人の行動とがぴたりと合致した稀有な例だとおもってんだ。
>そのへんからも正成を考えるのはけしてむだじゃないんじゃない?

後醍醐の建武政権を大袈裟に持ち上げるのもいいかげんにしたら。
その成立は「歴史が動いた」というよりも「歴史を退行させた」という性格が強い。
もしそれに「社会の要請」があったならばわずか2〜3年で崩壊することもなかっただろう。

>>300
>すなわち、当時の腐敗しきってもはや民にとって害毒以外の何者でもなく
>なった鎌倉幕府を倒すために天が後醍醐天皇をこの世に遣わしたのでしょう。

時代錯誤の腐敗政治を行い汚職まで蔓延させた後醍醐天皇こそ、
当時の民にとって害毒以外の何物でもない。
それを堂々と打倒した足利尊氏こそ天が遣わした革命児と呼ぶべきだろう。
304日本@名無史さん:02/03/03 14:37

          ●
         ∧((∧     / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\
        ( ・∀∧_ < 次ぎは閻魔庁を倒すぞ、正成
         ( ,」づ¢_) \___________/
      /菊ノ∞|  |  ) ∧_∧   /
    ┏r ゝ )」  ) ( ( (´∀`)<次、逝ってみよー
  ( (   <_/,__  /   と[  y ,)  \
      | |ヽ   | |ヽ    |  r ヽ.,、
       ∪´  ∪´   (_,)`(_ノ
305日本@名無史さん:02/03/03 14:41
>>302
>その成立は「歴史が動いた」というよりも「歴史を退行させた」という性格が強い
「退行させた」はあんたの主観だろ。「動いた」には違いあるまい?
306日本@名無史さん:02/03/03 14:46
>「退行させた」はあんたの主観だろ。「動いた」には違いあるまい?

平安前期の律令政治があの時代に可能だったのか?
それはまさしく歴史の退行以外の何物でもないだろう。
307300:02/03/03 14:51
>>303
いやいや、そもそもの原因は鎌倉幕府の腐敗ですよ。
当時の鎌倉幕府は訴訟を持ちこんでもその双方から賄賂を取る
という有様。
そのうえ、トップリーダーの高時は闘犬、田楽狂いで政治を省みない。
その腐敗ぶりは建武政権の比ではない。
もちろん、建武政権の統治能力が低かったというのも事実であり、
どのような経緯にしろ実権はやがて足利家に移ったであろう。

しかし、尊氏は源氏の棟梁という実力者という地位にあり、当時の
人々の期待を集めながらも彼の特に政治能力は低かったと見ざるを
えない。尊氏陣営内の度重なる内紛を見てもそのことがわかる。

彼がもっと優秀な人物であったなら、もっとうまく建武政権から
室町政権に移行することができたであろう。

ま、ボンボン育ちの尊氏にそこまで要求するのは酷かもしれない。
いずれにしろ、尊氏は革命児と呼ぶほどの人物ではないよ。
308日本@名無史さん:02/03/03 14:59
建武政権が理想としたものは、平安初期の醍醐・村上両天皇による親政である
延喜・天暦の治の再現だった訳だが、時代はすでに律令政治など不可能な時代
へと移行していた。
こうした土地支配体制の面から建武政権の功罪を論じてみると、
その価値の程度が見えて来るのではないのか?
309日本@名無史さん:02/03/03 15:08
>308
建武政権が反動政権であったのは事実。

そして、この時に後醍醐天皇が古代以来の天皇パワーを放出して
しまったため、以後皇室による武力蜂起は不可能となり、皇室は
武を完全に捨てることとなるのである。

建武政権は時代の転換期に現れた蜃気楼のようなもので、もともと
消え去る運命にあったもの。このことの功罪を論じてみても仕方がない。

問題は、武家の棟梁として実際に国政をとりしきることとなった室町幕府
の統治能力の低さ。
尊氏のぼんくらのおかげで建武政権からの移行に失敗したために、尊氏の
性格のごとく優柔不断で覇気のない政権ができあがってしまったのである。
310日本@名無史さん:02/03/03 15:12
楠木正成=大義に殉じた偉大な武将
足利尊氏=時代の流れで大将になっただけの凡将

でよいな?
311日本@名無史さん:02/03/03 15:15
異議なし!
312日本@名無史さん:02/03/03 15:17
>>309
土地の支配体制の面から見ると、あの時代は荘園制から惣村を基盤にする
守護大名領国制へと移行して行く過程で大混乱期にあったと思う。
そういう時代にあって強固な政権を作ることなど不可能だったのでは?
だから足利政権が弱体だったことを尊氏個人の資質に求めるのは酷ではないか?

土地の支配体制の面から見れば、守護大名領国制、戦国大名領国制を経て、
徳川幕藩体制の成立まで強固な政権は成立し得なかったと思う。
313日本@名無史さん:02/03/03 15:18
>>312
何か他スレでも同じ意見出てたよね。
堂堂巡りじゃなあ。
314日本@名無史さん:02/03/03 15:28
>>312
土地の支配体制うんぬんの前に室町幕府は御家人の統制自体が
できていない。
これは尊氏の生前からのこと。
つまり、源氏の長者という肩書きだけに頼って作り上げた政権
だからこうなるんだな。
ひとえに尊氏のカリスマ不足。

カリスマという点からいえば後醍醐天皇のがはるかに強烈。
尊氏の役目はこの後醍醐天皇とうまく和解しながら新興武家勢力をも
とりこみながら政権を築きあげることだった。
実際に彼自身もそれを目指していたはずだが、内外に対する指導力
不足が原因で最悪の結果を招いた。
315 :02/03/03 15:31
武士団の最大公約数的にトップに立ったんだからしょうがない
316日本@名無史さん:02/03/03 15:32
まあ、当時の立場を考えると尊氏はもっとも責任の重い立場に
いたからいろいろ叩かれてしまうんだな。
これはもうしょうがない。彼の運命だから。

その点、正成は重い責任を負うような立場にいない身軽な立場
であったから英雄的な行動もとれたし、人々の人気も集めやすいんだな。
317日本@名無史さん:02/03/03 15:35
では

尊氏=バカ
正成=えらい!

でよいな。
318日本@名無史さん:02/03/03 15:35
異議なし!
319日本@名無史さん:02/03/03 18:26
尊氏を貶めないと、正成を持ち上げられないんだね。
320日本@名無史さん:02/03/03 18:46
いや、正成の素晴らしさを語ると必然的に尊氏の能ナシぶりが
浮き上がってきてしまうんだな。
321日本@名無史さん:02/03/03 19:05
>>314
農村における荘園制の崩壊から惣村制への移行という時代環境にあって、
古代の律令制を志向した後醍醐天皇ってどう見ても時代錯誤のドキュン
としか思えないんだが。
また南北朝の動乱は表面的には南朝と北朝を担ぐ足利氏の権力の争奪だが、
その背景には農村における土地の支配体制の変容があり、
あの時代環境にあっては足利尊氏に限らず誰が権力を掌握しても安定した
政権は出来得なかったと思われる。
なお3代将軍義満の時代に足利政権が一応の安定を見たのは、
農村で荘園制が崩壊して惣村制が成立し、その上に守護大名による領国制が
確立されたからだろう。
322日本@名無史さん:02/03/03 19:08
あ、そう。
323日本@名無史さん:02/03/03 19:23
>>321
まあ、その従来の荘園制の崩壊こそが悪党の台頭につながるんだがな。
そして、後醍醐天皇はこの悪党をとりこんで見事に鎌倉幕府を倒したのだが、
そのあとがまずかったことはすでに触れた。
尊氏は既成の武士の代表格であったが、この新興武士の力が侮れない
ことはわかっていたようで、これらをとりこんだ形跡がある。

しかし、結局既成武士の代表である尊氏がこれら新興武士をうまく
とりこんでいくのは非常に難しいことであって、これをうまく調停
しえたのはどちらにも属さない天皇の力によるしかなかったであろう。

残念ながら後醍醐天皇と尊氏ともにそれをなしえなかったのであるが、
後醍醐天皇と尊氏が共同して国政を運営できていれば、充分に可能
であったろうと思うと非常に残念である。

尊氏に楠公の精神のかけらでもあればと思い残念でならない。
324日本@名無史さん:02/03/03 19:27
ま、結局尊氏は名門の御曹司ということで既成武士団の大将に
祭り上げられた程度の男だよ。

裸一貫で鎌倉幕府の大軍を引き受けて、その時歴史を動かした
楠木正成とくらべるほどの男ではない。

足利尊氏は後世の戦国武将とくらべて見てもあきらかに見劣りがする。
325日本@名無史さん:02/03/03 19:30
まあ、尊氏本人はそんなに悪いやつではないと思う。
しかし、残念ながら責任ある立場にありながら器量不足であることと、
戦後にサヨどもに祭り上げられたおかげで叩かざるを得ないのである。
326日本@名無史さん:02/03/03 19:36
後醍醐みたいな自己厨なドキュソが南北朝騒乱の原因
こんなんと協力なんて誰だって無理
327日本@名無史さん:02/03/03 19:59
まぁDQD度では後醍醐>尊氏だわな。
328日本@名無史さん:02/03/03 20:00
負け犬を讃えるスレッドはここですか?
329日本@名無史さん:02/03/03 20:02
悲劇の英雄を称えるスレです。
330日本@名無史さん:02/03/03 20:23
まあ、楠木正成本人は別に憎むべき奴ではないと思う。
しかし、戦前忠君愛国の鑑として歴史や修身の場で
祭り上げられたおかげで叩かざるを得ないのである。
331日本@名無史さん:02/03/03 21:53
ええっと、ほんのちょっと見ねえうちにすごいことになってるな。
尊氏がバカだって?そうかい?
おれは直義をはじめとする面々が「新しい武家政権は従来通り鎌倉に作ろう」
っていうのを退けて、「京都に行く」って決めた一事だけでも、
尊氏はすごいと思うけどな。室町時代の骨格を決めたのも、
持明院統を担ぎ出して実質的に朝廷の息の根をとめたのも
尊氏だったような気がする。もちろん、おれの考えだから、
くそみそいってちょ。
332日本@名無史さん:02/03/03 22:02
東国に割拠するのではなく、
自らが京都に乗り込むことで
朝廷の死命を制するという解釈でいいのでしょうかね?

あと、室町守護が国司の権限を全く骨抜きにした点も忘れるべからず。
333日本@名無史さん:02/03/03 22:47
七生報国
334日本@名無史さん:02/03/03 23:07
非理法権天
335日本@名無史さん:02/03/03 23:10
尊氏が京都に幕府を開いたのは、南朝との対抗上北朝との間で
公武合体的にならざるを得なかったからじゃないの?
それだけ足利政権は成立当初から弱体だったってことだね。
336日本@名無史さん:02/03/03 23:19
思うのだけど・・・彼ら親子が存在しなければ特攻なんて発想・思想は
生まれてこなかったかもしれない。元祖かもね。なんせ菊水作戦だもんな・・・
「非理法権天」
回天の艦橋のマーク見たことある?
http://www.matsusaka-u.ac.jp/NPO/photo1.15s/kaiten5.html
337日本@名無史さん:02/03/03 23:45
>>314
尊氏よりカリスマが上な後醍醐はさぞかし多くの支持者がいたんだろうね、全国の武士たちは尊氏を見限って後醍醐へ・・・。
え?逆なの?後醍醐を見限ってみんな尊氏に?
う〜んこれは>>314がバカなのか、後醍醐にはよほど徳がなかったのかどちらかだね。
338日本@名無史さん:02/03/04 00:06
今の皇室は持明院統なんだから正成は逆臣だろ?
それとも今の皇室は簒奪者、偽天皇の子孫?
339日本@名無史さん:02/03/04 00:18
楠木正成を称える奴は熊沢天皇制を支持すべきだね。
現天皇制を支持するのでは筋が通らない。
340日本@名無史さん:02/03/04 00:28
>>338
これとにたようなことを、あの幸徳秋水も言ってたな。
341日本@名無史さん:02/03/04 01:34
熊沢さんの子孫いまいずこ・・・しかし熊沢天皇を支持できないのは
血が汚れすぎてるよ、百姓の血がほとんどだろう
342日本@名無史さん:02/03/04 01:42
比較すると
熊沢さんの血の汚れ度と
越前にいた敬体天皇の血の汚れ度どのくらいちがうんだろう?
343 :02/03/04 01:55
おれはこの辺の知識は吉川の私本太平記しか読んでないけど
この本が実像とかけ離れてるところって何があります?
344日本@名無史さん:02/03/04 02:05
吉川は今東光とか鎌倉文士に近い立場だったから尊氏シンパと見ていいでしょ。

尊氏の一生で筆をおいて巻末の琵琶法師に尊氏論を語らせるあたりは秀逸。
実像として補わなければいけないのは関東三国志の原像の新田vs足利とか
結城vs上杉とかそのあたりがかなり弱いかな?

つまり吉川太平記読むと近畿九州では反尊氏派勢力の描写が生き生きとしてるのに
関東は全員尊氏派みたいな錯覚を催させる。
345 :02/03/04 02:42
>>344
なるほど。どうも
あと、東北で北畠がなにやってたかもよくわかんないっすよね
東北の北朝方は京都に駆けつけるほどの余裕はなかったんですよね?
(本当なら東北の地盤を固めたかった)
346日本@名無史さん:02/03/04 03:12
そう歴史の勉強さんがどこかの摩れで書いていたけど
東北が非常にユニークなのは南朝方の伊達南部両氏が近世大名として存続し
しかもマイナーな近世大名ではなく主流派として生き残っている点。
347日本@名無史さん:02/03/04 07:31
その南朝方の伊達南部両氏が戊辰戦争では賊軍になったんだよね。
348日本@名無史さん:02/03/04 07:34
伊達って途中から北朝方だよ。
349日本@名無史さん:02/03/04 08:25
伊達は戊辰戦争では戦っていないでしょう。
錦の御旗に逆らったバカな賊軍は会津ぐらいです。
350日本@名無史さん:02/03/04 19:49
激烈な貴公子北畠顕家と東北武士達もまた大義に殉じた
忠臣達である。
無双の武将と称えられたこの公卿武士はわずか21歳の
命を和泉石津に散らしたのである。
彼と朝廷を慕いはるばる東北の地より賊軍討伐のため西上した
奥州武士達も彼を追ってことごとく切腹して果てたという。

じつに南朝には理想に燃え激烈かつ純情なまことに清らかな武将達
が多い。

ただただ己の目先の利益と既得権益の保持のために主上に反逆
した鎌倉武士のなれの果ての北朝勢とは大違いである。
351日本@名無史さん:02/03/04 20:00
>>349-350
クソ皇道派ハケーン
352日本@名無史さん:02/03/04 20:05
>351
クソジョンイル派ハケーン
353日本@名無史さん:02/03/04 21:04
正成を忠臣、尊氏を逆賊という奴に限って第2次世界大戦の話しになると「歴史に正義など無い!」
といきがるんだよね。(藁
354日本@名無史さん:02/03/04 21:23
現皇室の祖先に不義を働いた楠木某は国賊である。
355日本@名無史さん:02/03/04 21:24
>352
売国奴水戸学派ハケ〜ン。
356日本@名無史さん:02/03/04 21:26
>>349
>伊達は戊辰戦争では戦っていないでしょう。

仙台藩伊達家は戊辰戦争で賊軍となり、
藩士800名以上が戦死している。
これは東北諸藩では会津藩に次ぐ戦死者数である。
357日本@名無史さん:02/03/04 22:10
まえーに「流罪=煮ても焼いても良い」の証拠みせろや、という
話があったの覚えてる?当時の例だと万里小路季房ね(藤房の弟で、
義満の家来として有名な嗣房の親父)。彼は元弘の変でパクられて常陸の武士かな、
のところに流されて、そのあと倒幕戦のどさくさの中で殺されてる。誰が殺した
のかは勿論わかってるけど、建武政府はその武士を罰していないと思うよ、
たぶん。日野資朝もそうした例に数えられるのかもしれない。
まあ、そんな例をふまえて考えると、護良親王を殺したからといって
足利直義が文句言われる筋合いはなかったんだろうね、当時の慣習では。
それに論より証拠、公家たちは直義大好きだもんねえ。
358日本@名無史さん:02/03/04 22:16
流罪が本人にとってどういう意味をもつのかは、政治犯と庶民ではちがうだろう。

庶民の場合は、流罪は新しい人生の契機たりうる。

政治犯の場合は名目が流罪だろうと無罪だろうと敗北した時は死ぬ時だろう。
359357:02/03/04 22:30
>358
いやいや、これは政治犯限定の話さ、もちろん。御家人クラスの武士も
含まれるが、ね。
何で、ということになると、358がいうようなことなんだろうね。
360日本@名無史さん:02/03/04 22:44
>>357
皇族と公家では違うと思うが。
皇族での例は?
361日本@名無史さん:02/03/04 22:48
頼朝の同腹弟の希義も頼朝挙兵後殺害されている。古くは淳仁天皇も配流先で殺害されているね。
362357:02/03/04 22:53
皇族だと違うかなあ?うーん?
金ヶ崎城の戦い見てると、親王も自殺しちゃうじゃん。捕虜にならないで。
皇族は別扱い、が当時のルールとして存在するなら、違う対処方法がある
のでは?
363日本@名無史さん:02/03/04 23:02
護良の場合、中先代の乱で北条軍が鎌倉に迫っていたという特殊事情がある。護良が尊氏と対立していた以上、北条軍に積極的に協力する可能性が高かった。
それに対し恒良だかは足利軍の捕虜になった後、ずっと殺されずに飼い殺しにされていた。
364日本@名無史さん:02/03/04 23:32
楠木正成は勝つことを諦めて、後醍醐天皇にあてつけるように死んでいった。
天皇を絶対視する立場からすれば、忠義を貫いたとはいえない。
365日本@名無史さん:02/03/04 23:38
誰も天皇を絶対視してたなんて言ってないだろ。
近代以降の天皇像とごっちゃにして語るなよ。
366日本@名無史さん:02/03/04 23:40
特攻隊員は勝つことを諦め、嫌みたっぷりな手紙を残して死んでいった。
天皇を絶対視する立場からすれば、愛国心を貫いたとは言えない。
367日本@名無史さん:02/03/04 23:54
戦前の天皇への忠誠は徳川幕府以来の日本儒教的忠誠心だろ。
基本的に。
368日本@名無史さん:02/03/05 00:01
九州での懐良親王の戦いも感動的だね。
大保原合戦では親王自身も刀を振るって戦い、親王に雨あられと
そそがれる矢の雨を公卿武士達が身を呈して防ぐという感動的
場面もありました。

南朝には当時の己の保身のみを考える鎌倉武士と違い、大義の
ために身を捧げるというまことに美しい自己犠牲の精神がありました。

楠木正成の湊川での敗死もその一つです。

聞くも涙語るも涙。
まことに美しき南朝の忠臣達の物語です。
369日本@名無史さん:02/03/05 00:07
あほか。
泣けるからいいってもんじゃねえだろ。
戦乱に苦しむ一般庶民は落ちぶれ武者の浪花節きいてる暇はねえんだよ。
政治家は、勝って、庶民に利益還元できるだけの権力にぎってナンボのもんじゃねえの?
370日本@名無史さん:02/03/05 00:11
>>369
マルクス史学派の残党ハケーン!!
371ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:13
>>367-368
 以上、水戸学派のオナニーレスでした(藁
なにが、聞くも涙語るも涙だよ。南北朝の争いは、
すべて自分達の利益のための戦いだろ。
だからこそ、同じ大名が南北朝や高氏派、直義派、直冬派に
鞍替えしまくったんだろさ。
 何が、忠君愛国だよ。みな自分の利益のために権威を
利用しただけだろうが。九州の武士は、懐良親王を利用しただけだろ(ば〜か
372日本@名無史さん:02/03/05 00:13
そうだよな。
政治家たるもの勝って民をごまのごとくしぼれるだけしぼりとって
なんぼのもんだよな。

南朝(天皇方)が庶民に人気があった理由がわかったよ。
373日本@名無史さん:02/03/05 00:13
東国自虐史観根絶の為、楠木某は叩かねばならない。
374日本@名無史さん:02/03/05 00:15
>政治家は、勝って、庶民に利益還元できるだけの権力にぎって

これのどこがマルクス史学なんだよ(藁
375日本@名無史さん:02/03/05 00:15
>371
いや初期南朝にはあきらかに忠がある。
それをぬいては楠木正成や北畠顕家の言動は理解できないであろう。

1が言いたかったのもそのこと
376ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:18
 返す返すも残念なのは、足利直義が政権を握るか、
高師直が室町幕府の実権を握って、後醍醐狂王の息子は
皆殺しにすべきだったんだな。
 もし、室町時代初期に後醍醐狂王の子孫を皆殺しにしていれば、
南北朝正閏問題なんておこらなかったんだよ(藁
377東国の尊皇家:02/03/05 00:21
青葉茂れる桜井の

  里のわたりの夕まぐれ

木の下蔭に駒止めて

  世の行く末をつくづくと

偲ぶ鎧の袖の上に

  散るは涙かはた露か
378日本@名無史さん:02/03/05 00:21
>>376
あまり皇国史観ヲタをいぢめると、レス削除してちょ!と泣きはじめるZO(ワラ
379ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:22
 足利高氏が後醍醐狂王を甘やかしすぎたんだな。
後醍醐狂王に対して徹底的に弾圧しなかったのが
足利高氏最大の失政だね。
 後醍醐天皇とその息子は、偽天皇として、六条河原で
斬首し、晒し首にすべきだったんだよ(藁
380東国の尊皇家:02/03/05 00:22
正成涙を打ち払い

  我が子正行呼び寄せて

父は兵庫に赴かん

  彼方の浦にて討ち死にせん

汝はここまで来たけれども

  疾く疾く帰れ故郷へ
381日本@名無史さん:02/03/05 00:23
つーか、足利尊氏が天皇位に就いて足利天皇制に移行すべきだったな。
足利尊氏が時代錯誤の律令政治を志向した後醍醐の一族を皆殺しにすれば、
武士ばかりでなく庶民も拍手喝采を叫んだことだろう(藁。
382東国の尊皇家:02/03/05 00:23
まさに聞くも涙
語るも涙

美しき南朝の物語哉
383日本@名無史さん:02/03/05 00:24
>375
ただその忠てのは、後世特に近世・近代に喧伝されたような
盲目の隷属ではないんよ。意外にこの喧伝をそのまま信じてる人って多いんよ。
大衆操作の手段として信じた振りしてる連中はまだいいけど、心から本気にしてる人も居るんだよね。
武士はそんなバカじゃないっちゅうに。
384ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:25
 大体、つくる会とかが贋物のさしえまでつかって、
楠木某をもちあげるから、楠木もちあげるバカが増殖するんだよ。
 楠木某なんて、土民から取り立てられ、引っ込みつかなくなった
のぼせあがりのクズじゃん(藁
385東国の尊皇家:02/03/05 00:26
アズマよ。己の醜さをそれ以上さらけ出すのはよすがよい。
386日本@名無史さん:02/03/05 00:26
>>375
ほとんどの武士が利害関係から南朝か北朝のいずれかに付いていただけじゃないのか?
あの時代は荘園制の崩壊期で一族での相続争いが激化していたからね。
387ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:27
>>383
 そのとおり、九州の侍はバカじゃないよ。がめついんだよ。
 竹崎季長みたいに、蒙古そっちのけで、鎌倉に恩賞とりにくるくらい
実利的なんだよ(藁
388日本@名無史さん:02/03/05 00:29
新田一族でさえばらばらだったもんね。
389日本@名無史さん:02/03/05 00:30
水戸学が楠木某をあまりに持ち上げ過ぎたものだから、
幕末に楠木某気取りの西国志士が増殖して徳川幕府は滅ぼされた。
東国国家にとって水戸学と楠木某が害虫以外の何物でもない。
390東国の尊皇家:02/03/05 00:30
南朝司令部発表

─朝敵に告ぐ─

遂に勅命が発せられたのである。
既に後醍醐天皇のご命令が発せられたのである。
おまえ達は足利尊氏の命令を正しいと信じ絶対服従をして
誠心誠意活動してきたのであろうが、既に天皇陛下の
勅命によっておまえ達はみな南朝に帰順せよと仰せられたのである。
391ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:30
>>385 
 なにが醜さだよ。お前さんが、リアルに世界を見れない
おバカなだけだろ(藁
 利害のために皆戦っているんだよ。浮世だなれした
政治政策を掲げたから後醍醐は狂王と呼ばれているんだろ(藁
392日本@名無史さん:02/03/05 00:32
>>390
み〜んな南朝から離反していったんだよ、知らなかった?
393東国の尊皇家:02/03/05 00:34
─南朝司令部発表─

朝敵に告ぐ
勅令が発せられたのである
既に天皇陛下の御命令が発せられたのである
お前たちは尊氏の命令が正しいものと信じて絶対服従を
して、誠心誠意活動してきたのであろうが

既に天皇陛下の御命令によって
お前たちは皆、南朝に復帰せよと仰せられたのである
此上 お前たちが飽くまでも抵抗したならばそれは
勅命に反抗すること になり逆賊とならねばなら
ない
正しいことをしていると信じていたのにそれが間違って
居ったと知ったならば、徒らに今までの行きがかりや、義理
上からいつまでも反抗的態度をとって
天皇陛下にそむき奉り 逆賊としての汚名を
永久に受ける様なことがあってはならない
今からでも決して遅くはないから
直ちに抵抗はやめて錦旗の下に復帰する様に
せよ
そうしたら、今までの罪も許されるのである

お前たちの父兄は勿論のこと、国民全体もそれを
心から祈ってゐるのである
速やかに現在の位置を棄てて帰って来い
                南朝司令官  楠木正成
南朝広報官  北畠親房


394ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:35
土民のクソノキは、アズマの敵。
ナワ長年は、武装悪徳商人。
チグソ忠顕は、不良貴族。
アズマのくせに三木一草に入っている結城親光は裏切り者(藁
395日本@名無史さん:02/03/05 00:35
農村では荘園制が崩壊して惣村制へと移行する時代環境にあって、
後醍醐はなんと古代の律令制を夢想していたんだから相当なアホ。
後醍醐が多くの武士の支持を失って失脚したのは当然だわな。
396日本@名無史さん:02/03/05 00:36
>>393
まさに妄想以外のなにものでもないな(藁
397ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:37
三木一草が、ろくな奴らでないのは事実。
後醍醐狂王は、麻原尊師。
三木一草は、ホーリーネームのついたオウム幹部。
吉野は、上九一色村のサティアン。
398ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:40
>>393
 だったら、後醍醐狂王がしたみたいにアキヒトらちって、
三種の神器強奪して、熊沢天皇の子孫でも担いでりゃ-いいだろ(藁
399東国の尊皇家:02/03/05 00:42
たしかに後醍醐天皇の理想が時代錯誤なものであったのは
確かであるが、同時代の人々にとって後醍醐天皇は閉塞し腐敗した
旧体制を打破した偉大なる希望の星であったのは間違いがないことである。

でるからこそ楠木正成は湊川に散り、その子正行は四條畷に
北畠顕家は和泉石津に散っていったのである。

そして、敵であるはずの尊氏はこの偉大なる帝の魂を鎮める為に
天竜寺を建立したのである。
400東国の尊皇家:02/03/05 00:43
青葉茂れる桜井の

里のわたりの夕まぐれ

木の下蔭に駒止めて

世の行く末をつくづくと

偲ぶ鎧の袖の上に

散るは涙かはた露か
401日本@名無史さん:02/03/05 00:45
>>399
論理的に結びつかないんですが。
それから天竜寺とかの建設は、後醍醐天皇の怨霊を恐れたからじゃないの?
402ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:46
>>399
足利高氏が、迷信深かっただけだろ。
麻原しょーこー殺すと化けてでそうに思うのと同じ感覚だろ。
まさに、後醍醐狂王は、カルト教団の教祖。殺すと化けてでる(藁
403ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:47
後醍醐狂王の祟りは怖そうだな。生前から狂っていたんだからな(藁
404日本@名無史さん:02/03/05 00:49
>>399
後醍醐の理想が時代錯誤なものであったからこそ、
武士も庶民も後醍醐から離反しんたんだろ。
わずか2〜3年で崩壊した後醍醐の政権を、
「建武の新政」とか「建武の中興」とかいって大袈裟に
持ち上げるのはいいかげんにしてもらいたいものだね。
405ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:51
>>404
 「建武の新政」とか「建武の中興」などとことさらに
もちげるのはまさに我らアズマが攻撃してやまない
皇国史観のあらわれ。
 アズマは、「建武の悪政」、「建武の暴乱」と呼称べき(藁
406東国の尊皇家@忠臣:02/03/05 00:51
>>401
「尊氏は帝に罪を謝したいと思っていたが帝が吉野からお帰りに
ならぬまま亡くなられたから機会を失した。
そこでこの大寺を建立して帝の霊をお慰めしようとした」
(正平六年、後醍醐天皇十三回忌での夢窓疎石の法語)

尊氏も尊王家だったんだな。

やむなく敵となってしまった後も後醍醐天皇に対する崇敬の念は
変わらなかったんだな。

ちょっと感動。
407ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:52
>>406
 また、はじまったよ。誰とも会話するわけでもない、いっちゃってる脳内独白(藁
408東国の尊皇家@忠臣:02/03/05 00:52

『尊氏は帝に罪を謝したいと思っていたが帝が吉野からお帰りに
ならぬまま亡くなられたから機会を失した。
そこでこの大寺を建立して帝の霊をお慰めしようとした』
(正平六年、後醍醐天皇十三回忌での夢窓疎石の法語)
409東国の尊皇家@忠臣:02/03/05 00:54
後醍醐天皇を慕いながらも欲ボケ鎌倉武士どもに祭り上げられ
やむなく朝敵とならざるをえいなかった尊氏の心情を思うと
胸がいたむ。
410日本@名無史さん:02/03/05 00:55
後醍後天皇の浮世離れした政治は今の日本で言うと社会党が政権を取ったことを想像されたい。
411ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:55
>>406
 足利高氏は、一度はオウム建武教団に入信したが、
周囲の説得でなんとか脱会した。
 しかし、脱会した旧オウム信者が、「麻原はホントは
悪くなかったんだよ」とか、「麻原のやったことは悪かったが、
麻原の思想自体は正しかったんだよ」とか言うのと一緒だろ(藁
412ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 00:57
後醍醐狂王は、現実ばなれした麻原しょーこー。
足利高氏は、一度は入信したが、麻原についていけなくて脱会した信者。
クソノキは、麻原しょーこー=後醍醐狂王に使い殺された村井。
413日本@名無史さん:02/03/05 00:59
村井と楠木はくしくも同じ大阪出身だな。
414東国の尊皇家@忠臣:02/03/05 01:02
護良親王暗殺後に尊氏が鎌倉から京へ向かったのは
じつは帝に釈明し君側の奸を取り除かんがためであったんだな。

これが誤解されて開戦のやむなきに至ってしまったのだが。

朝敵の負い目を持明院統を担ぎ出すことでごまかそうとした
のだが、時代の英雄後醍醐天皇に反逆した苦悩は一生続いたようだ。
415日本@名無史さん:02/03/05 01:04
南朝は国家組織としての機能を根本的に欠いている。
上の命令は当を得ず、下は支離滅裂に一致・協調した行動がとれない。
この事は北畠父子は何度も後醍醐天皇に上奏している。
尊氏の統率力が後醍醐天皇に勝っていた。
416ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 01:08
>>415
 というか、リアルな感覚をもっていたんだろ足利側が。
 それに対して、後醍醐狂王の政治姿勢は、シナの宋の
国家制度を書物で読んで真似したくなっただけだろ。
 シナの猿真似学問で、政治ができると安易に考えたこと
自体がバカだったんだろ。後醍醐狂王は、南蛮の文明開化を
上っ面だけ真似した薩長の傀儡ムツヒトとなんらかわらん(藁
417東国の尊皇家@忠臣:02/03/05 01:10
尊氏の苦悩を思うと涙せずにはいられない。
東国育ちの彼もやはり当時の人々にあった天皇に
対するあこがれと畏敬の感情は抑えられなかったのである。

尊氏が尊皇家であったことは間違いない。

尊氏もまた東国の尊皇家であったのである。

まさに聞くも涙語るも涙の南北朝の男達の熱いドラマである。
418ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 01:12
>>417
 オウム建武教信者と元オウム建武教元信者にとっては、
「聞くも涙語るも涙の南北朝の男達の熱いドラマ」なんだろ。
 現実ばなれした、狂気の教団「オウム建武教とその教祖」(藁
419東国の尊皇家@忠臣:02/03/05 01:14
楠木正成=義に殉じた西国の尊皇家
足利尊氏=心ならずも逆心となった東国の尊皇家

ということでよいな?
420日本@名無史さん:02/03/05 01:14
異議なし!
421日本@名無史さん:02/03/05 01:18
感動のスレだな。
422日本@名無史さん:02/03/05 01:19
>>416
あんたの好きな穢土幕府もシナの学問の猿真似しちゃってますが。
423日本@名無史さん:02/03/05 01:20
よし、感動のうちに寝よう!
424ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 01:23
 なにが異議なしだよ。足利高氏は、オウム建武教から
脱会した元信者だろ。
 信者であったころの自分が否定しきれず、ついつい、
麻原ショーコー=後醍醐狂王は、ほんとは悪い人じゃないんだよと、
心ならずも思ってしまう屈折した元信者なんだろ。
 しかし、誰が元信者がなんと言おうと、麻原ショーコー=後醍醐狂王は、
日本を大混乱に落としいれ、罪なき人々を殺した兆本人だな(藁
425日本@名無史さん:02/03/05 01:24
確かに皇室・皇統に対して武士が畏敬の念を多少は持っていた事は事実。
しかし己の命、家運を賭けて仕えるには、やはり己と信の置ける人物というのが
人情。正統論だけでは戦争はできない。大義名分と本領安堵は武士にとっては
等しく大切な信条であり、足利は一応双方を保証したため、優位に立てたと思う。


426日本@名無史さん:02/03/05 01:38
しかし、尊氏を京に引き入れようとする正成の作戦と
官軍を一刻も早く京に戻すという後醍醐天皇の考えは矛盾
しないように思うが。
427ぁゃιぃアズマ人:02/03/05 01:40
>>423
寝る前に人前で、後醍醐天皇、南朝萌え〜の公開オナニー
吐き気がするぜ。寝る前にオナニーするなら一人でこっそりやれよ(藁
428日本@名無史さん:02/03/05 02:03
中世ヨーロッパにおいても国体がひとつであったとなどという仮説は
いまだかつて学会や公的な立場で証明はされていない。
ヨーロッパなる概念もオリンピックや国際連盟などの
汎ヨーロッパ的な運動から逆に導き出されたもので
必ずしも「近代国民国家の否定=古代中世のひとつのヨーロッパへの回帰」という
テーゼが証明されたわけではない。

つまり教皇と皇帝という「西ヨーロッパのおける二つの頂点」説を
系統だてて説明した人はいまだかつて誰もいないということになる。
おそらくは古代ゲルマニアと古代ローマがなんとなく中世に引き継がれ
2つの国体が中世にも生き続けたと考えられないだろうか?

やはり頼朝に始まる広大な関東御分国、関東知行国をみると
「関東」という国体が「日本」という国体とは別にあったと考えられるべきである。
尊氏が当時の誰もが「関東」の君主として受け入れられていたことは
衆人一致するところである。ついで尊氏は持妙院統、大覚寺統の両王家に対しても
不遜といわれるような態度はとっていない。
逆賊云々はこの日本国王僭称の義満にこそ適用される議論であって
歴代足利将軍がこの路線でないことは子義持が
すぐに父義満のやりかたを放棄したことからもうかがえる。

実権、富貴の移り変わりは人の常、世の常であるが
純粋政治学的に足利将軍が主上に対して僭越行為を働いたという
事績は義満(と義教の恐怖政治)以外にはみられない。
429日本@名無史さん:02/03/05 02:04
楠木正成はふて腐れて自殺同然に死にました
430日本@名無史さん:02/03/05 02:25
当時の史料を見れば>>386は事実。
ただ忠義と実利は矛盾するものではない。
いわゆる精神論的忠義だけではとてもやってけないのは言わずもがなだが
かといって実利が全てでもない。占める割合は多いけどね。
431日本@名無史さん:02/03/05 19:34
>>428
>「関東」という国体が「日本」という国体とは別にあったと考えられるべきである。

またアズマが事実の中に妄想を織り交ぜるというこすずるい作戦を
行っているね。
単なる地域性の話しを拡大解釈して関東という国体が日本とは別に
存在したとは笑止千万。
それならば九州という国体が日本とは別に存在することになる。
432日本@名無史さん:02/03/05 19:55
関東が武士に重んじられたのは歴史が古く既得権益が複雑に
絡んでいる西日本と違い、歴史の浅い地域のために支配が
容易のうえに大軍を編成しやすかったのが理由。
別に関東が独立国であったわけではない。
433日本@名無史さん:02/03/05 20:30
10世紀の平将門の乱以来、関東人が京都政権に搾取される構造を打破し、
それからの自立を目指したのは紛れもない歴史的事実である。
12世紀末の鎌倉幕府の成立は、将門以来の関東自立路線の延長線上にあり、
さらに承久の乱で京都政権軍を完膚なきまでに打ち破ることにより、
関東はその国家体制を完全に確立したのである。
そしてこの関東の国家体制こそが我らが最も愛国心を誓うべき対象なのである。
434日本@名無史さん:02/03/05 20:56
>>432がいいこと言った!
435日本@名無史さん:02/03/05 21:05
>>432
関東が武士に重んじられたのではなく、
平安期関東の農場主が夜盗などの類いから自らの農場を守る為に、
配下の一族郎党共々武装化して武士が誕生したんじゃないの?
あんたのいってることは本末転倒している。
436日本@名無史さん:02/03/05 21:11
>>336
ではないが現代社会における親子の影響力あると思うがな〜
リストラ社会親父どもには理解できんのだろう、忠誠を美学と学んだ世代が
間違いなく存在するんだな。
437日本@名無史さん:02/03/05 21:18
>>399
明治以前の日本では伝統的に敵の怨霊を沈めるために供養し、寺社を建設している。
438日本@名無史さん:02/03/05 22:12
>428
「源威集」読みな。「吾妻鏡」宝治2年12月○(忘れた)日条、見てみな。
関東の有力武家は(例えば結城ね)、足利ナニするモノぞ、という
気概に満ちてるぞ。
439日本@名無史さん:02/03/05 22:29
何か根本的な間違いをしている人が多いが、正成は赤松と同じく護良の被官だよ。その証拠に護良失脚は護良の軍勢である両者が都を離れているときに行われ、
両者とも没落。赤松は尊氏に着いている。正成も湊川合戦まで失脚中。足りない軍勢へのただの増援部隊。
440428:02/03/05 22:59
今谷か網野の説を受け売りしたんだけど。
神聖ローマについては正しい見方だと思う。
ドイツにいてローマを支配しているんだからドイツ皇帝とよんでもローマ皇帝とよんでも正解。
頼朝は関東にいて日本を支配するから鎌倉殿とよんでも征夷大将軍とよんでも正当。
それは南から見る北、北から見る南、西から見る東国、東から見る西国の立場の違いにすぎない。

頼朝の政治体制についても「関東」という物理的領土、領海、領海を超越したこと。
そしてより抽象的、包括的、思想的な政治概念をたち上げたということに真骨頂があった。
日本でも合衆国大統領のState of the Union Addressを真似て
首相施政方針演説を強力なインパクトのあるものにしようという動きがある。
State of the Unionというのは紛れもないアメリカ合衆国という「国体」であり
演説のなかでは堂々と他国の政治をどうのこうのと批判するばかりか
こうしてやるああしてやるという実質的な内政干渉の宣言と
それにともなう議会への予算の申請、スケジュールなどを高らかに呼びかける。
それを受けて満場の拍手で迎えるのは与党のみならず普段は政敵として暗躍する議員たち。
これはカエサルと元老院の関係にも似ているし、頼朝と朝廷の関係にも似ている。

441428:02/03/05 23:07
将門、忠常と根本的に違うのは
治承以来の頼朝、義時、泰時らの為政については
「関東」という概念が頻繁に登場し、
その概念と頼朝らの固有名詞が同一視されていること。
そしてその「関東」という概念は足柄の西、勿来の南という
本来の地理を指す「坂東」から離れて
頼朝の一挙一動を正統づける政治概念として用いられていた。

頼朝は古代権威に生まれ古代権威に死んだ人間だから
この説は成り立たないという反証も無効。
何故なら頼朝は政治軍事を朝廷から委任されている。
例えば右近衛大将の御遺志として九州三人衆の統治概念が
その後の西国の政治外交軍事を規定している。
そして奥州総討ち入り後は東北地方の独立意識は政治史からほぼ消滅する。
鎌倉幕府による本格的な軍事経済的な西国管掌は元寇を待たなければならない。
しかし純粋政治学な西国支配概念は頼朝が造ったといってよい。

つまり中央=日本という政治概念は治承を境にパラダイム転換したとみていい。
「関東」というのは国体以外のなにものでもない。
442日本@名無史さん:02/03/06 00:18
>平安期関東の農場主が夜盗などの類いから自らの農場を守る為に、

げっ、何十年前の教科書だよ
443日本@名無史さん:02/03/06 00:35
現行だろ
444日本@名無史さん:02/03/06 02:44
平安時代の坂東は、明治の屯田兵もたいなもんだろ。
屯田兵内に発生したマフィアが北条じゃないか。
445日本@名無史さん:02/03/06 02:56
頼朝が偉いのではない。大江広元や三善康信の知恵でしょう。
遠地は、大宰府同様地方分権化の一環で、頼朝に東国沙汰権を与えた訳だし。
征夷大将軍が全国支配をしようとしたのは、高家レベルの足利尊氏の室町幕府。
武家の支配とは言っても曖昧で、まだまだ軟弱基盤のまま戦国時代に突入した感がある。
446日本@名無史さん:02/03/06 03:15
将軍お公家さんだもんな
447日本@名無史さん:02/03/06 11:23
>439
赤松については賛成だが、楠木はどうかな?
若松庄、文観をつうじて楠木は後醍醐と接触を持ったのかもしれない。
そうすると後醍醐との直接の関係を否定できないような気がする。
むろん、正成と護良は密接な関係があったのだろうけど。
448428:02/03/06 13:26
>>445

頼朝という固有名詞ではなく頼朝という政治学上の普通名詞について語っているのですよ。
政治学の一ページ目を飾る頻出概念であるLegitimacy(正統性)についていっているのであって
関東御領や関東御分国での鎌倉の統治形態がどうであったのこうであったの、
日本一の大天狗がどんな権謀術数、二枚舌を使った挙げ句如何に東国沙汰権についてコメントしたかどうか、
あるい西国での経済軍事的な実質的支配がいつ行われたかどうかなどまったく意に介してません。

それらははっきりいって二義的な問題です。
正義というのは狂信でもあり盲信でもあり一義排他的でもあり
同時に許容性があり集団を惹きつける麻薬のような不可思議なものです。

その点では自身は常陸や吉野での軍事的拙攻のみで生涯を終えたものの
神皇正統記をしるして政治理念において
確固たる道標を打ち建てた北畠親房の慧眼をまた記さなければなりません。
449日本@名無史さん:02/03/06 13:45
>>448
後醍醐天皇の理想とのズレをゲロした迷著のことですね。
450日本@名無史さん:02/03/06 14:28
そう後醍醐の理想にゲロしちゃった公家武士が多かったなかで
南朝が正統であることを論理だてて述べた佳作です。
451日本@名無史さん:02/03/06 16:18
後醍醐天皇を批判してる本が、なんで南朝の正統を論理だてたことになるんだ?
頭の中はウソの皇国史観で塗り固められてるようだな>450
452日本@名無史さん:02/03/06 17:24
>>448
親房は北条泰時のことを『神皇正統記』の中で「心正しく、政すなおに
して人をはぐくみ物におごらず、公家の御事をおもしく本所のわづらい
をとどめた」と誉めてるけど、泰時が順徳上皇の皇子である忠成王では
なくて、土御門上皇の皇子である邦仁王を皇位に就けさせたという皇位
干渉を行ったことには目つむってる点がタヌキだと思うよ。
土御門上皇は順徳上皇とは違って、村上源氏系統だし親房も村上源氏だ
から土御門系の皇子が皇位に就くことに反対はないんだろうけど。
453日本@名無史さん:02/03/06 17:57
>アズマ

歴史を歪曲して妙な妄説を垂れ流すのはやめてくれないかな。
自分一人で関東が独立国だったと思うのは勝手だしが、少なくとも
このスレで語るべき話しではないだろ。
キミには専用の隔離病棟スレが立てられているので、そちらでやってくれ。
454日本@名無史さん:02/03/06 18:02
>>435
武士の発生の話しではなく、武士が発生して以後、特に
ここでは南北朝あたりの話しです。
話しの流れをよく読んで理解する能力を養いましょう。
455日本@名無史さん:02/03/06 18:17
さて、神皇正統記であるが、これは当時親房が置かれていた
東国における東国武士達のあまりに自己中心的且打算的な
言動に対する警鐘をもこめて書かれたものである。

みなさん、ご存知のように当時の武士に徳川武士のような
忠誠心というものはなく、ただただ既得権益の保持と新たな
利益というきわめて打算的なものしかなかった。

当時の武士のありようは親房のいうところの「商人のごとき」
ものであったわけである。
これが、従来の武士像であったのであるが、この従来の武士像に
対して、ただ単に打算的なものでなく、主君という大義のために
死すという新たな武士像をもたらしたのが、南朝の楠木正成
であり、この神皇正統記であったわけである。

神皇正統記は彼の東国戦線における状況とリンクして書かれており、
神皇正統記が親房の教養の水準からしては極めて低レベルなのは
無教養な東国武士のレベルに合わせて書かれたものであるからである。

456日本@名無史さん:02/03/06 18:27
南朝の武将達が当時の武士からすればいかに異例な
理想に燃えた忠義の武士であったかは親房が子
顕家の「北畠顕家上奏文」を見ればよくわかる。

彼はこの中で六か条にわたって建武の新政の欠点を
あげつらい後醍醐天皇に対する痛烈な批判を行いながらも
自身は東北武士を率いて賊軍との戦いに向かい敗死する
のであった。

じつにこの南北朝時代とは日本史上に忠義の士が現れた歴史的な
瞬間であったのである。
457日本@名無史さん:02/03/06 18:32
この南北朝の時代に現れた忠義の心ざしが徳川三百年に熟成され
やがて救国の維新回天へとつながっていくのである。
458日本@名無史さん:02/03/06 18:39
それ以前の鎌倉時代の東国武士には忠義という概念がなかったとでも?
459日本@名無史さん:02/03/06 18:45
基本的にないよ
460日本@名無史さん:02/03/06 19:26
>>459
宝治合戦、霜月騒動、鎌倉幕府滅亡の際には、
それぞれ数百人もの家臣が主君に殉じたと聞いているが、
そういうのは忠義ではないのか?
461日本@名無史さん:02/03/06 19:29
奥州から攻め上ってきた北畠顕家軍の略奪はハンパじゃんかったらしい
やはり、南朝、北畠顕家は民・百姓を苦しめる最低の侵略者
462日本@名無史さん:02/03/06 19:37
>>469
忠義というより親族・姻族を中心とした運命共同体の集団自決だね。
幕府滅亡の時も、北条一門とその姻族そしてそれに寄生していた身
内人の集団自決で「鎌倉殿御家人」がそれに殉じたわけではないよ。
463日本@名無史さん:02/03/06 20:35
>>456
親房なんてただの親バカオナニー公家。
464日本@名無史さん:02/03/06 20:39
北畠顕家軍の略奪は木曾義仲軍より酷かったらしいね。
465日本@名無史さん:02/03/06 20:44
>北畠顕家軍の略奪は木曾義仲軍より酷かったらしいね。

にもかかわらず木曾義仲軍ほど北畠顕家軍が叩かれないのは皇国史観のためか?
466日本@名無史さん:02/03/06 20:46
一般的知名度

木曾義仲>>>>>>>>>>>>北畠顕家
467日本@名無史さん:02/03/06 20:52
後醍醐ってすごく自分勝手。
後宮でぐびりぐびりと皇子を大量生産したと思ったら
次は皇子、忠臣たちの切り捨て。
これじゃたまらんだろう。
468日本@名無史さん:02/03/06 20:53
二度目に奥州から出撃した北畠顕家軍の中には北条時行も加わって
たんだよね。
朝敵とされ滅ぼされた北条高時の息子が、今度は官軍なって朝敵と
なったかつての官軍である足利軍と戦うことになるとは、この時代
の敵味方は目まぐるしく立場が変わったことの一つの証だよ。
469日本@名無史さん:02/03/06 20:59
>>466
平家物語と太平記、一般的にはどちらの方が知名度が高いの?
それによって、どちらの義仲と顕家の一般における知名度が分
ると思うけど。
あと、源義経と楠木正成は、どちらの方が一般的な知名度は高
いのかな?
470日本@名無史さん:02/03/06 21:21
そりゃあ知名度では断然源義経が高いでしょ。
特に東国ではね。
471日本@名無史さん:02/03/06 22:11
水戸黄門が顕彰するまで正成なんか忘れさられていたらしいぞ。
それはとりも直さず、「天皇に忠節を尽くす?なにそれ?」
というのが当時の武士の一般概念であったことを示すものだろう。
このレスで「武士は欲ボケ」みたいなこと書かれてるけど、
主従関係が双務的な契約であったことは佐藤進一段階で
定説になってるんじゃないの?
472日本@名無史さん:02/03/06 23:28
双務的というのはヨーロッパ封建制度からの連想でしょう。
やはり日本の風土というのは片務的な色彩が強いはず。
473日本@名無史さん:02/03/06 23:31
んなことないでしょー。霞食ってるわけでもあるまいに。

忠臣が誉められるのは命を賭してこそ。
普通、そこまでしないし、できないYO.
474歴史の勉強:02/03/06 23:32
忘れられてはいなかったろうけど、
どっちかと言うと北朝正当論のほうが優勢だったから、
楠木正成は「逆賊」あつかいされていた。
冷静に考えればわかることだが、江戸時代まで生き残った武家は
多くが北朝(足利氏)に味方した家で、
彼らは南朝を正当視することはまず有り得なかった。
475日本@名無史さん:02/03/06 23:41
>>472
鎌倉殿と御家人の関係で言えば、奉公に対して恩賞や所領安堵という主従関係
だから、片務的というより双務的な関係でしょう。
例えば2代将軍頼家が御家人達に見限られたのは、その双務関係を理解できな
かったからでしょう。なんと言っても「一所懸命」の時代でしたから。
476日本@名無史さん:02/03/06 23:42
「葉隠れ」的な武士道が一般化したのは幕末。
中世から近世前半は信長家臣団を見ればいいように家ではなく個人に仕える。主人が自分の権益を侵すときは平気で縁を切る。
477日本@名無史さん:02/03/06 23:45
いや、あんたこそ死者の魂を侮辱してるよ。
特攻した人たちはアンタみたいな思考回路を持たなかったはず。
ドイツ語の分厚い本でも数学の難問でも朝飯前にぺロッと平らげる学士さまたちだからね。
普通できないことを政治思想や宗教というものは可能にしてしまうのです。

人間という動物は30度の傾斜に向かうと45度に感じ、
45度の傾斜に向かうと90度に感じる特殊な感覚を備えています。
しかし断崖絶壁から飛び降りれる心境になり得るのです。訓練さえ積めば。
それを後ろから押してあげた人がいただの、自主的な決断ではないなど、
マルクス史観で全て片づけようとする人が出てくるからおかしくなるのです。
478日本@名無史さん:02/03/06 23:59
>>477
今時学士なんて空き缶みたいに落ちてるぞ。君のような中卒引きこもりには理解できないだろう。
479日本@名無史さん:02/03/07 00:02
>>477
そうそう、大神源太さんよ
480日本@名無史さん:02/03/07 00:03
>>477
鎌倉・南北朝・戦国時代と、幕末や第二次大戦期を同一視する事は
できないよ。
例えば絶対的な尊王思想が支配的ならば、承久の乱における3上皇の
流罪や仲恭天皇を退位させた北条義時は、徹底的な批判を受けるはず
なのに、北畠親房でさえ『神皇正統記』の中で、北条義時には「とが」
がないのに、それを討とうとした後鳥羽の方に「上の御とが」があった
と書いてあるわけだからね。
例え上皇であろうと「とが」あれば責任を取らねばならないと、親房が
考えていたことは、ある意味健全な感覚を持っていたということだと思
うね。
481日本@名無史さん:02/03/07 01:08
別に同一視はしていない。

戦後史学が中世をみる目でおかしいのが農村経営。
近代民法、訴訟法からの単純な連想が日本封建制度=双務契約説。
新大陸発見前のヨーロッパの貧弱な岩盤からは麦、稗くらいしかとれない。
基本的に諸侯から貸し出された何十キロ四方に及ぶ広大な貧土を一毛作限りで耕す契約。
勤労する農民も鎖こそつながれていないものの
領主の設置した小屋と畑を往復する単純労働の毎日で
一生を終える契約農奴であった可能性が濃厚。
ここで如何に経営観があり啓蒙度の高い封建領主につくかは
まさに飢えるか死ぬかの死活問題。
必然的に自主防衛手段も発達した。
出るところに出て訴えるなり
喚くか叫ぶくらいの逞しさがないと生き残れない。
ゆえに啓蒙思想や救済思想が多分に私法民法部門に見出される。

しかし日本の場合はまったく状況が異なる。
山河湖沼、リアス式海岸線、発達した二毛作、さかんな商品作物栽培。
この地味豊富な国土を背景に農民たちはかなり自営度が高かった。
農民と侍の区別があまり付かなかったという説もある。
目の前の田んぼが地頭方で裏山の畑が院領、
その隣の田が摂関家領などという
複雑な政治経済構図はあたりまえ。
現に関東東海各県を旅しても庶子方、地頭方、新庄、
北条などという中世の区分けがたくさん残る。
そこで院方につくか関東方につくかは倫理モラルの問題よりも
荘管人という立場からの実務上の問題になる。
そこで単純に割り切っては馳せ参じられない。
織豊江戸時代の一円支配ではその一村、一郡、一国が全て同じ行動をすることはうなずける。
複雑な領有関係の中世では嫡子、庶子、宗家、庶家で北朝南朝にわかれることは
欲深いのではなく政治地理学的な力学原理によるほうが多いはず。
むしろ江戸時代のお座敷武士道より中世の武士道のほうがぜんぜん苛烈で勇壮だ。

なんで戦後に佐藤のような世迷いごとを言う学者が幅を利かせるようになったのか?
おそらくやませで泣かされた津軽地方の農村にマルクス史学者がそっくりそのまま
ヨーロッパ封建制度モデルを当てはめたんだろうな。

482日本@名無史さん:02/03/07 01:10
つーか、1の日本語、まともじゃねぇ……
483日本@名無史さん:02/03/07 01:21
>>481
君少し勉強してから書き込めよ。封建制という概念こそ明治時代に三浦醜行がヨーロッパの概念をそのまま持ってきたものだぞ。
484日本@名無史さん:02/03/07 01:30
>>483

つうか俺は政治修士だけどやたら日本史が好きなだけ。
三浦って親爺がなにしたか自分で説明しろ。
じゃなかったら出てくるな学会の奴婢よ。

485日本@名無史さん:02/03/07 01:36
うん、封建制・荘園制の双方において基礎的知識の欠如がある。

ともかく近世・近代につくられた忠義概念が
一般に及ぼしている影響はやはり大きいってことだ。
486日本@名無史さん:02/03/07 01:36
とりあえず481は、もうちっと「日本中世」の封建制の双務契約チックな側面を理解する必要があるように思われ。
そこまで日本中世の土地が入り組んでたことが分かってるなら、領主にとっての「安堵状」の意義ももう少し分かるでしょ。
487日本@名無史さん:02/03/07 01:48
>>484
そんな基礎的知識もないくせに偉そうなこと書き込むな。素人さんは三国史・戦国板に逝け。議論の邪魔だ。
488日本@名無史さん:02/03/07 01:55
487さん、そう熱くならないで。確かに程度の低い書き込みも多いけど、歴史を愛するもの同志、素人も玄人も一緒に本音で議論するのが2chのいいところ。
489日本@名無史さん:02/03/07 01:59
おいおいマジかよ。
法学部で三浦周行知らないのかよ。
ダメダメ、いちいち初歩的な間違い指摘する時間が無駄だよ。
490日本@名無史さん:02/03/07 02:03
>>487
ここは玄人さんの集まりなのですか(TT)
にしちゃあ感想文が多いこと
491日本@名無史さん:02/03/07 02:14
少なくとも俺は基礎的知識もないことについて
長々と知ったかぶりな駄文を書いたりすることはできんなあ。
どうしたらそういうことが出来るようになるんだろう
492日本@名無史さん:02/03/07 02:24
ほー皆さん反論の弱いこと
やはり日本史は偏差値50いかないのでしょうか?
493日本@名無史さん:02/03/07 02:53
あのさあ、あんたも自分の専門分野について何にもしらんやつから
訳のわからんこといわれても反論のしようがないだろうが。

ただ、あんたの文章を読んでると戦後史学イコール
マルクス史観と捉えているようだが、それはちがうな。
もしかして「つくる会」の連中の受け売りかな。
だとしたら、そのへんも勉強したほうがいいな。
494日本@名無史さん:02/03/07 04:03
政治学修士で三浦周行を知らないのかよ。
つうか、図書館うろうろしてりゃ、
嫌でも三浦の全集とか目につくはずだが。
495日本@名無史さん:02/03/07 04:47
>>481
お前本物のバカだろ?
佐藤進一の本を一冊も読んでないことがバレバレ。
つうか、ほんとに頭大丈夫?
496日本@名無史さん:02/03/07 04:56
481のカキコより
日本の中世では
「農民と侍の区別があまり付かなかったという説もある」

481によると、戦後の日本学者はこれを知らないらしいよ(笑
中学生でも知っているこんなことを偉そうに語る481って、パラノイア?
497日本@名無史さん:02/03/07 05:01
481のカキコより
「織豊江戸時代の一円支配」

はい、間違いですね。織田の時期には一円支配はまだありません。
重層的な職の体系は、豊臣期にも全面的には解消していません。
498日本@名無史さん:02/03/07 05:11
481のカキコより
「織豊江戸時代の一円支配ではその一村、一郡、一国が全て同じ行動をすることはうなずける」

ここでもバカ丸出しですね。土地緊縛というマルクス主義のイメージに毒されていますね(笑
一族が敵味方に分かれて戦った例なんかいくらでもありますな。
499日本@名無史さん:02/03/07 08:15
>「一村、一郡、一国が全て同じ行動をすることはうなずける」

そうか、国単位で敵味方に分かれたのか。
すると近江国の京極や朽木もきっと石田方だったのだろうな(藁
500日本@名無史さん:02/03/07 15:29
>481
農村の土地領有についての説明は間違ってないと思うよ。
ただ、それがどうして主従の双務的契約を否定することになるのか、
よくわからないな。そこを説明してほしい。
それと、これはケアレスミスだと思うが、佐藤進一先生は
マルクス主義歴史家では全然ないよ。ごりごりの実証主義的
東大アカデミズム的歴史学者だよ。念のため。
501日本@名無史さん:02/03/07 17:52
修士様かなんか知らないけど単純な頭の構造してるね。
477,481とても学問をやってる人間の文章とは思えない。
502日本@名無史さん:02/03/07 17:58
「リアス式海岸線」が「地味豊富」の根拠の1つとされていますが、
僕にもこの繋がりがわかりません。
本当にこの人は大丈夫なのでしょうか?
503日本@名無史さん:02/03/07 18:11
>500
折れもそこが疑問だった。つうか何を批判したいのかがイマイチよく分からん感じ。
ま、なんか変に荒れてきてるんで、もうどうでもいいけど。
504日本@名無史さん:02/03/07 19:42
なんだか小難しい議論をされておりますな。
ようは>>472 の発言が正しいかどうかでしょ?

ま、結論から言えば日本の近世以前の主従関係は双務契約
というのが定説。
472氏はなにやらどこぞの小難しい本から知識を引っ張って
きたりしてきているようだが、どう考えても日本史は素人。

なぜ、こんな基本的な議論をこのスレでやらねばならないのか。
場当たり的に難解な文章を引用すれば人が納得すると思ったら
大間違い。

素人が知ったかぶりの発言をすれば叩かれるという2ちゃんの
掟を理解して、もう少し謙虚な発言を心がけるべき。
505日本@名無史さん:02/03/07 19:53
481を叩いているのはおそらくアズマだろうが、俺も今回は
アズマに同意せざるを得ない。
481はアホすぎ。

まず481の文章自体一体何が言いたいのか意味不明。

難解な文章=頭がいい
という一昔前の左翼学生のような思考はやめられたし。必要以上に難解な
文章はもはや単なる自慰行為にすぎません。
長文=説得力がある
という幼稚な発想もやめなさい。必要以上な長文は単に表現力のなさを露呈
しているに過ぎません。


506500:02/03/07 21:14
なにもみんなして481いぢめなくても・・。
話戻すと、後醍醐も正成についてはものすごく厚遇してるよね。
円心なんかに比べれば、差は歴然としてる。
この意味では「主従関係は双務的な契約関係であった」を前提としても、
正成が命を投げ出す価値はあったわけだな。
むろん、正成が足利陣営に投じたとしても、歓迎されたろうけれど。
507突然ですが宣伝です:02/03/07 21:16
2chで一番近づきたくない板はどこですか?

      ‐=≡   ( ´Д`)  < よし!急げ!!
    ‐=≡_____/ /_    \__________
  ‐=≡  / .__   ゛ \   .∩ 「投票所」
 ‐=≡  / /  /    /\ \//http://vote.mallkun.com/cgi-bin/20/vote.cgi?id=a152042
‐=≡  ⊂_/  /    /  .\_/

ニュー速スレ
2chで一番近づきたくな板はどれですか?vol.2
http://choco.2ch.net/test/read.cgi/news/1015411274/l50
508日本@名無史さん:02/03/07 21:26
片務的主従関係というのは皇国史観が捏造した妄想。赤穂浪士を見ろ、赤穂藩士の何%が討ち入りに参加した?
幕末の諸藩の動向を見ろ、薩長有利と見ると親藩もコロコロと薩長に寝返り。
結局自分の権利を保護してくれる人や組織に忠義は尽くすが、権利を守ってくれそうもないと切り捨て。

>>506
後醍醐は正成を厚遇していない。正成は護良の被官だから護良失脚後は一緒に失脚。よく調べてから書き込みましょう。
509506:02/03/07 21:42
>508
そうかな?護良失脚後も正成は和泉・河内の守護であり、河内国については
国司も兼帯しているよ。研究者によっては国務権も持ってたという人もいる。
中央政府での役職としては、雑訴決断所の寄人として活躍しているよ。
護良失脚とともに失脚したとは思えないのだがなあ??
510日本@名無史さん:02/03/07 22:35
>>509に同意です。
正成は護良親王派とは言えないでしょうね。
護良親王派の武士として南部・工藤という東北武士が逮捕されてるところ
をみると、北畠父子の方が護良派と言えるでしょう。
北畠父子は、後醍醐天皇の政策を全面的に支持してた訳ではないですから。
511日本@名無史さん:02/03/07 23:00
もともと正成は護良の令痔に応じて挙兵。赤松円心、新田義貞もそう。
新田、楠木はその後護良から離れる。赤松は護良被官とみなされ恩賞も個別にもらえず足利派に転向。

て言うのが事実かな。
512日本@名無史さん:02/03/07 23:27
>修士様へ
近年の辞典の記述ではね

中世の主従制は,従者が主人から相対的に自立した双務契約型が基本的形態で
恩賞が得られない場合は主人を替えるのが普通であった。
また,鎌倉幕府の御家人でも院や荘園領主と二重・三重の主従関係をもつものが少なくなく,
鎌倉後期には,御家人でありながら北条氏の被官になるものが増加した。
このような双務契約型を基本とする主従制の特質は,室町・戦国時代でも一貫しており
,家臣団との主従制をいかに強化するかが,守護大名や戦国大名の課題であった。
近世では,江戸幕府や各大名によって新たに儒教倫理が強調され,親子間の孝よりも
従者の主君に対する忠誠が重んじられるようになった。

だってさ。もっと詳しいことは自分で勉強してちょ。文献はいくらでもあるんだからさ。

皆様、話戻してスマソ。いちおう仏心のつもりですわ。本題続けて下さいませませ。
513東国の尊皇家:02/03/07 23:56
では、本題といこうか。

建武新政権でもっとも恩賞を与えられたのは他ならない足利尊氏
である。
尊氏はバスに乗り遅れるなとばかりに倒幕運動に参加し、その
出自から倒幕最大の功労者という名声を得たのみならず、
後醍醐天皇からも内昇殿勅許、従三位への昇叙、武蔵三カ国の
守護職、29ヶ所の地頭職、さらには御名より「尊」の一字を
賜るという光栄にも浴し、鎮守府将軍に任命された。

これだけのご恩を賜りながらも後醍醐天皇を裏切るとはもはや双務契約
どころではない。
また、当時の日本とは別に「関東」なる国体が存在したというのなら
武蔵守護職に専念して中央(京都)の政治などに首をつっこまずに
関東独立国の政務に専念すべきであろう。

このことからしても、尊氏がいかに恩知らずの裏切りものであり、また
この板の一部のものが言う関東独立国なるものが妄想に過ぎないことが
よくわかるであろう。
514日本@名無史さん:02/03/08 00:07
>>513
尊氏は挙兵前に後醍醐本人と連絡を取ったと思われる。
尊氏は武士であり、武家政権の存続を目指していたが、後醍醐は公家一統の政治を目指す。
当然あわないので建武政権の崩壊は必然であり、時間の問題だった。
それをくだらん「忠義」などでかたづけられてはかなわない。もう少し歴史を勉強してから書き込め。
515東国の尊皇家:02/03/08 00:12
後醍醐天皇に殉じた楠木父子も北畠父子も決して建武新政権に
おいて厚遇されていたわけではない。

彼らに共通するのは己の立場や家などのせこい保身を超えた
もっと大きなものを感じとっていたということである。
そのひとつが後醍醐天皇であり、彼らは後醍醐天皇にかけた
以上は最後まで後醍醐天皇とともに生きるべきであるという
道理を知っていたのであろう。
また、そうでなければ徒に混乱を招くのみであることも。

そのことは、正成の湊川の合戦前の義貞を斬れとの建策からも
見てとれる。

尊氏も後醍醐天皇に叛くことの愚はわかっていたのだが、自己保身
と欲ボケの鎌倉武士や悪逆卑劣な高兄弟などの煽りにあってやむなく
逆賊となってしまったのであろう。
まことに気の毒なことではある。
516東国の尊皇家:02/03/08 00:19
話しの流れで行くとこの時代の武士というのは当然双務契約
的な主従関係しかもっていなかったのであるが、この南朝に
散華した武士達ははじめて片務契約的な主従関係をもった
武士達であったわけである。
このようなことはこの時代においてはじつに稀有なことであり、
当時の一般的な武士像を考えれば「忠義など」という発言は
できないはずである。

しかし、この新時代の忠義の武士像は南朝の没落とともに衰えて
いくのであるが、これ以降日本史に流れる地下水脈の一つとして
息づいていくのであった。
517日本@名無史さん:02/03/08 00:21
>513
>尊氏はバスに乗り遅れるなとばかりに倒幕運動に参加し
別に513に限らず、こういう言い方はよくされる。だけど、そうか?
尊氏(厳密には高氏)が朝廷側につく以前には、ゴダイゴ方はそんなに有利に
戦っていたわけではないんじゃない?六波羅は全然落ちず、関東にはゴダイゴ方
なんていなかったんだよ。尊氏がゴダイゴ方についたとたんに戦局が大きく動き、
全国の有力武士が尊氏の催促に応じて挙兵した、というのが実相ではないかな。
確かにマグマはたまっていたわけだが、それを外界に誘導したのはゴダイゴでは
なく尊氏じゃないかなあ。
518日本@名無史さん:02/03/08 00:21
>>515
そんなに偉大な後醍醐は何で吉野くんだりに逼塞しなきゃ成らなかったの?
偉大な後醍醐から簒奪した現似非皇室へ一言。
519日本@名無史さん:02/03/08 00:24
>515
正成が厚遇されてない、といいはるなら、509を
否定してみそ。
520日本@名無史さん:02/03/08 00:27
>517
ほぼ全国的に展開された倒幕運動が尊氏の指揮によるものだったと?
たしかに尊氏はその出自と六波羅攻略という決定的な役割を果たした
が果たして足利一族のみで倒幕が可能だったかな?
尊氏はその生まれと運の良さで言わばいいとこどりしただけ。
521日本@名無史さん:02/03/08 00:31
>>519
比較の問題だね。
たしかに正成の身分からすれば破格の厚遇をされているといえるが、
ここで問題としているのは他のもの、特に後に裏切ることとなる尊氏
とくらべてということ。
正成が尊氏あるいは義貞よりも厚遇されていたとは言えないはず。
522日本@名無史さん:02/03/08 00:32
>520
すくなくとも鎌倉攻めは尊氏の指揮のもとに為された、
というのが定説だと思うが。
523日本@名無史さん:02/03/08 00:39
>521
あんまりバカなんでだんだん腹が立ってきたね。おまえらこの時代の原史料、
少しは読んだことあんのか!? いや、すまん、おちついて落ち着いて。
当時は家の格、とかがすんごく大事なわけ。貴族を例にとると、吉田定房って
いるだろ。ゴダイゴ第一の近臣といわれてる人。彼が内大臣になるんだけど、
それがものすごく破格だってんで、北畠親房なんかはボロクソいうわけだ。
吉田の家はせいぜい大納言どまりだ、というわけね。
それと同じでさ、氏素性も定かでない正成が河内の事実上の知行国主に
なるってえのは、尊氏で言えば太政大臣になるよりすごいことなんだよ。
524日本@名無史さん:02/03/08 00:42
>522
それは言葉が適切ではないな。
尊氏は別に「指揮」していたわけではない。
事前工作は行っていたがな。
525日本@名無史さん:02/03/08 00:46
>523
あんた何言ってるの?
521にはちゃんと

>たしかに正成の身分からすれば破格の厚遇をされているといえるが

って書いてるだろ。
なんでキレながら同じようなことを繰り返し言う必要があるのかね。
冷静に文字を読んでくれよ。
526日本@名無史さん:02/03/08 00:49
>525
一応冷静によんでるつもりだが。
正成は破格の厚遇をされてるけど、尊氏や義貞ほどではない、
と書いてあるから、ああ書いたんだがね。
527522:02/03/08 00:53
>524
指揮、はことばとしては適切ではないか。
むずかしいな。でも、すくなくとも武士たちは
千寿王、のちの義詮を総大将とあおいでいたのだから、
鎌倉攻めが尊氏の影響下に行われた、といわれるわけだな。
528日本@名無史さん:02/03/08 00:54
>526
まあわかりやすく言えば尊氏や義貞のが高い位もらっただろ?
ってことだ。
なんだか低レベルな会話になってきた。
それぐらいわかってくれよ。修士君。
529日本@名無史さん:02/03/08 00:56
>527
影響下に行われたというなら問題はないが、指揮していた
というのはおかしいだろ。
530日本@名無史さん:02/03/08 00:57
もっと原典を読んだならではのすごいところを見せてくれよ(w
531日本@名無史さん:02/03/08 01:00
日本史学科ってあんまりいみないよね?
532日本@名無史さん:02/03/08 01:09
522はもしかして千寿王のことだけで、「尊氏が鎌倉攻めを
指揮」したなんて言っているんじゃないだろね。
当然、密書のことも知っているよね。(まあ当たり前だが)
あれは尊氏が後醍醐天皇が自分に権限を与えたという印象を
もたせるように装ったものだよ。

つまり、尊氏は天皇の威光を背景としながら、名門足利の名を
より効果的に利用して、義貞の鎌倉攻めの功績を横取りしたのである。
533日本@名無史さん:02/03/08 01:11
>>531作る会の教科書の馬鹿さ加減がよくわかる。
534526:02/03/08 01:24
>528
おれは低レベルな話をしてるつもりはないんだがな。
「源威集」とかみると、尊氏は自分を源頼朝になぞらえて行動していたらしい。
じっさい、足利氏は源氏の嫡流と目されていたらしいから、尊氏が仮に頼朝と
同じえーとたしか従2位、右近大将に任じられても、世間のみんなはそれはそれで
納得するわけだ。だけど全く無位無官の正成が知行国主になれば、知行国主は
公卿がなるものだよな普通、そりゃあみんな腰抜かすだろ。正成と同じレベル出身
の赤松円心は、播磨守護になっただけだ。そうした処遇の違いを考察の基礎に
しなければ、それぞれの去就を冷静に考察できないんじゃないか、と言いたいの
でありますよ、私は。まず忠誠とか裏切り、とかじゃなくね。
どうぞまたたたいてくださいな(藁。
535日本@名無史さん:02/03/08 01:40
おお史学科のオナニーまだ続いているね。
もうどうでもいいやこいつら。
みんなして総出で片務契約説袋叩きとはオメデテエ
歴史愛好家が自分の意見を述べると殴る蹴るの暴行を加えたあげく
学説をぱくりと呑み込ませて簀巻きにして河にほうり込むのか
3歳の娘がおぎゃあおぎゃあと泣いて
「身体的接触による肉親の愛情表現が欲しい」と
口唇期のメッセージを出しているとする。
「人間社会の掟は双務契約なのを知らねえのか?
テメエは構って欲しくてギャアギャア泣いているんだろうが
俺やアタイらの精神衛生を奪うとはにっくき奴、こうしてやる」
と安堵状ならぬ領主制裁のストレート、フック、回し蹴りを入れるらしいゾ
生身の人間はCDラジカセじゃあるまいしデジタルコントロールできないんだよ
おなじように現場の荘司、地頭、国人らが
公儀にひたすら現場の窮状を説明したとする
アンタらの常識では吊し上げのボコボコにするんだな。
確かに鎌倉御家人はみんなそれを昔からやってきていたが
それを根拠に為政者は地頭国人土豪という爆弾を抱えていたとするのは早計だと思うぞ。
態度は態度。話しの実質は実質だから。
話し合いはあくまで為政者圧倒的有利ですすめられたとおもうがなあ。
これこそ片務契約だろう

536日本@名無史さん:02/03/08 01:42
それから「東国武士の卑しき商人のごとき所業。降参の儀は三分の法を知らぬか」
を双務契約で説明しきれるのだろうか
契約更改にみられるフロント側の強圧のように
まだまだ武士は弱い存在だったんじゃないのか?

全部双務契約で説明しきれるというんなら
江戸期の主君押し込めの構造という癖球はどうよ
「主上ご謀反」という矢印の方向は一体どう見るんだ
逆切れ逆さ片務契約というのは考えられないのか?
安堵状で双務契約完成と平和裏にことが進んだとは思えない
返り忠という新規片務契約成立という線での解釈はどうよ?
前田利家だって返り忠の恒例として北の庄への先鋒を承っているぞ
先鋒を務めたら必ず死兵に当たるんだからリスク度は超ハイレベル
そのリスク度を敢えて取るというより
リスクを取らされたというのが正しい言い方なんじゃないのか

こういう史観、あういう状況設定のひとが来ましたけどどうします?
そうですね。
そういう議論設定でしばらく話しを進めようか位の話しはこの板では不可能
史学科の奴等はもう少し大人として振る舞えないのだろうか
さて戦国自衛隊でもみるぞ。
半村良史観マンセー!
もうこの板こねえ。
これ以上史学科のオナニーにつきあえねえから。
537日本@名無史さん:02/03/08 02:07
>>537
君ね・・・。片務的と言うのは主君が家臣に一方的に忠節のみ求めること。滅私奉公ね。下が上に尽くすだけ。
双務的とは主君は家臣に忠節を求めるがその見返りに恩賞を与えたり家臣の権利を保護すること。下は上に尽くすが上は下を保護する。
君の言う逆片務というのは双務のこと。日本史以前に日本語を勉強してから日本史板にきてね。
538537:02/03/08 02:16
訂正
>>537?モ>>536
539日本@名無史さん:02/03/08 03:03
彼は、日本とヨーロッパは違うっていうごくごく当たり前の
誰でも知ってることをいいたかったんだろうね。
それを片務と双務の違いだと思ってるのがいかにもDQNだね。
言葉の意味も知らずにテクニカルターム使うって凄い修士様だね。
てゆうか法学部でこの程度の言葉の意味も理解してなくて大丈夫なのか。
どこの大学か非常に興味あり。
540日本@名無史さん:02/03/08 03:37
535でこいつのレベルが分かったね。
要するにマルクスとフロイトでストップしてるんだよ。
ユングや構造主義なんてかじっこともないんだろうね。
ましてやポスト構造主義や言語論的転回なんか
全く聞いたこともないんだろうな。程度が知れるね。
オナニーしてるのはどっちだよ。低能にはつきあいきれんな
541日本@名無史さん:02/03/08 10:54
話は違うが、なんで角川映画ってあんなにつまらなくしちゃうんだろ?
原作を無理にいじって、つまらなくつまらなくしてる。戦国自衛隊、途中で
見るのやめちまったぜ。景虎なんてただの基地外だよな。
天と地と、もひどかったし。いや、ごめん、無視して本題へどーぞ。
542日本@名無史さん:02/03/08 12:04
>>536
煽りか?
東国武士は商人うんぬんは当時にあっては親房の独り言に
過ぎない発言だぞ。

オナニーしてるのは自分だろ。
もうこなくていいよ。
543日本@名無史さん:02/03/08 12:08
>>535
俺もべつに史学科でもなく単なる歴史愛好家にすぎないが、
あんたは歴史認識があいまいで不勉強なくせに傲慢な態度を
とるから叩かれているんだよ。
まずは、人の意見をよく聞いて学ぶことからはじめなよ。
基礎知識がなっていないのに全然見当はずれな意見をごたいそうに
述べられても困るよ。ネタにしても基礎ができてないからぜんぜん
おもしろくもなんともないし。
544日本@名無史さん:02/03/08 12:09
知ったかぶり厨房は叩かれる
これ2chの掟
545日本@名無史さん:02/03/08 12:13
535、536は随分とイタイやつだが一体どこの板から紛れこんできたんだろ?
日本史板のレベルをなめてるね。
546日本@名無史さん:02/03/08 13:21
もう来ない、って当人が言っておるのだから
ああだ、こうだ言っても仕方があるまい。
547日本@名無史さん:02/03/08 13:33
>>532
それは逆だと思う。
鎌倉陥落後、義貞の陣に加わる武士よりも、千寿王の陣営に加わる武士の方
が多かったのは、後醍醐の威光を背景にしたというよりも、義廉以来の名門
足利の威光に従う武士が多かったからだと思う。
だからこそ義貞は、占領した鎌倉の地を離れて上京し、後醍醐の威光にすが
って足利に対抗しようとした訳でしょう。
548日本@名無史さん:02/03/08 23:04
>547
漏れも同感。新田と足利が系図で見りゃあ同等だ、なんてのは後世のわしらだから
いえることでね、あの当時の武士たちにしてみりゃあ、「新田小太郎?誰だてめえ。
官位ももってねえで、何でてめえが大将なんだy0!」ってなものでしょ。
同じ源氏一門でも、新田、佐竹、武田は頼朝に逆らってるから家格が低い。
そんなこたあ「吾妻鏡」の行列見りゃあすぐわかるがね。
尊氏が義貞の軍功を奪う、なんてことはないと思うぞ。
549日本@名無史さん:02/03/09 00:44
逆臣の楠木正成と ほら吹き修士様の >>535 証人喚問age
550日本@名無史さん:02/03/09 00:46
>>535-536 は名言ですな
知ったかのアホがいかに歴史をゆがめているか語りついで逝かねば・・・・・・
551玉稿:02/03/09 00:48
おお史学科のオナニーまだ続いているね。
もうどうでもいいやこいつら。
みんなして総出で片務契約説袋叩きとはオメデテエ
歴史愛好家が自分の意見を述べると殴る蹴るの暴行を加えたあげく
学説をぱくりと呑み込ませて簀巻きにして河にほうり込むのか
3歳の娘がおぎゃあおぎゃあと泣いて
「身体的接触による肉親の愛情表現が欲しい」と
口唇期のメッセージを出しているとする。
「人間社会の掟は双務契約なのを知らねえのか?
テメエは構って欲しくてギャアギャア泣いているんだろうが
俺やアタイらの精神衛生を奪うとはにっくき奴、こうしてやる」
と安堵状ならぬ領主制裁のストレート、フック、回し蹴りを入れるらしいゾ
生身の人間はCDラジカセじゃあるまいしデジタルコントロールできないんだよ
おなじように現場の荘司、地頭、国人らが
公儀にひたすら現場の窮状を説明したとする
アンタらの常識では吊し上げのボコボコにするんだな。
確かに鎌倉御家人はみんなそれを昔からやってきていたが
それを根拠に為政者は地頭国人土豪という爆弾を抱えていたとするのは早計だと思うぞ。
態度は態度。話しの実質は実質だから。
話し合いはあくまで為政者圧倒的有利ですすめられたとおもうがなあ。
これこそ片務契約だろう
552玉稿:02/03/09 00:49
それから「東国武士の卑しき商人のごとき所業。降参の儀は三分の法を知らぬか」
を双務契約で説明しきれるのだろうか
契約更改にみられるフロント側の強圧のように
まだまだ武士は弱い存在だったんじゃないのか?

全部双務契約で説明しきれるというんなら
江戸期の主君押し込めの構造という癖球はどうよ
「主上ご謀反」という矢印の方向は一体どう見るんだ
逆切れ逆さ片務契約というのは考えられないのか?
安堵状で双務契約完成と平和裏にことが進んだとは思えない
返り忠という新規片務契約成立という線での解釈はどうよ?
前田利家だって返り忠の恒例として北の庄への先鋒を承っているぞ
先鋒を務めたら必ず死兵に当たるんだからリスク度は超ハイレベル
そのリスク度を敢えて取るというより
リスクを取らされたというのが正しい言い方なんじゃないのか

こういう史観、あういう状況設定のひとが来ましたけどどうします?
そうですね。
そういう議論設定でしばらく話しを進めようか位の話しはこの板では不可能
史学科の奴等はもう少し大人として振る舞えないのだろうか
さて戦国自衛隊でもみるぞ。
半村良史観マンセー!
もうこの板こねえ。
これ以上史学科のオナニーにつきあえねえから。
553日本@名無史さん:02/03/09 01:32
尊皇カルトの片務契約派晒しあげ
554481:02/03/09 02:14
去る前にもう一言。
481の高度でも容易でもない中程度の論理がわからんという
アホな突っ込みがあったので弁明をする。

要はもう見てらんネー女子供はすっこんでろってことかな。
481の論理は別に「国道16号線理論」とも呼ばれる
経済が発達すると皮肉にも産業構造における川上の生産者の地位が下がり
川下の大量販売店のほうが栄える。
あるいは減反の論理学ともいわれる。
この背景には交渉力、bargainning powerが働いているとされる。
千葉埼玉神奈川の国道16号線沿線に住んでいる方なら誰でも実感しているだろう。
16号線沿線はトイザラスを始めとする外資系巨艦店の出店ラッシュで賑わい、
沿道にはずらっとマックやファミレスといったアメリカ型の店が並んでいる。
そして現在ではこの16号文化が日本のあちこちでどんどん繁殖している。
浮き沈みも激しいが日本でもっとも潤沢なキャッシュフローに近い地域だ。
うまく経営すれば生涯賃金の何十倍をたった一年で稼げる。
まさにアメリカンドリームを実現できる。
こうもいえる。
汗水たらした戦後日本の努力の頂点が
現金つかみ取りの外資型経営に掻っ攫われるという「歴史の皮肉」。


555481:02/03/09 02:24
同様に鎌倉時代には二毛作の普及や商品作物の発達が原因で
東国を始めとする日本全国の生産レベルが飛躍的に向上した。
ここで史学科の連中はこう考える。
経済力向上→(川下からの)下克上が進みバハン船横行→応仁戦国
そうじゃないんだよ。
頭のいい奴は義満のようにはやりのビジネスモデルをキャッチする。
貨幣供給量を増やせばこっちの懐も満たされる。
ここは辞を低くして朝貢して実をとることが国威発揚。
結局中世において誰が一番交渉力、barganing powerを
規模、多様性、テクニカルな面で極めたかというと
15代も続いた足利将軍家だろう。
つづいて足利連枝、幕臣、各国守護大名家ってとこかな。
各人各様自己主張しまくりのバラバラだったのが中世の特徴。
将軍家守護家の足並み乱れたところを故意にクローズアップして
いいとこどりの織豊賛美じゃ公平な議論になってないでしょう。
ムネオ秀吉のアメリカンドリームを拡大解釈するなら
義満はもっと器用に優雅にやってのけた。
発達した経済は為政者を助けるんだよ。
そして為政者主導でことが運ぶ。
そういうのを○○契約と呼ぶ。

あと貧土と文化的後進シンドロームに悩まされたヨーロッパ中世を美化した反論も期待していない。
生活環境が劣悪な条件下では人間の生存本能は多産に走り、
成文化契約によって現状維持を死守する双務契約社会になる。
それを逆にたどっていってヨーロッパモデルを歴史に当てはめたのが史学科オタク。
556481:02/03/09 02:37
骨皮道堅が一国一城の主になったか?
八幡大菩薩の幟を掲げた船団が一国でも切り取ったか?
山城国一揆は畠山家を壊滅させたか?
織田家の覇権は三好5代に比べればかなり色が褪せる。
足軽の子が築いた巨大要塞は2代しかもたず灰塵に期した。
ムネオとおなじく品位素養の無さを庇いきれないから
吉野屋文化を山里郭と称して諸侯全員に強要する。
これじゃその遺児が見捨てられてもしょうがないだろう。
それに比べて南朝の権威は見方によっては一世紀半の長きに続いた。

史学科の知識は費用ゼロの図書館オタクで完成するくらいだから
一次元パラメーター設定がオタク並みの世界認識ってことがバレバレ。
各分野でのプロフェッショナルなレベルを期待しているわけでは全くない。
しかし普通の現代人としての最低の各種知識さえ備えていないので論理構造がおかしい。
例えて言えば吉野屋をファミリーレストランと間違えそこで消費行動を完結させてしまう。
嘲笑されてるのも叩かれてるのもまったく気がつかない。
ファミリーバリューを追求するのなら悪いことは言わない。
ファミレス行った方がいい。駐車スペースもある。セット価格もお得。
マニュアル化されているといっても一定の応対サービスが受けられる。
これを経済用語でいうと対価に見合ったサービスを享受するというんだよ。

まあ日本史板でもいくつかのコテハンは
深い洞察レベルに話しをもっていってるのはさすがに感服するけど。
弁明終えたところで天地神明にかけて二度と日本史板には来ないから安心してくれ。
557日本@名無史さん:02/03/09 04:18
しかし、このスレを見てると、
佐藤進一あたりから現在にいたるまでの中世史研究って一体なんだったんだろうと考えたくなってくる。
558日本@名無史さん:02/03/09 04:33
 あれ?>>536 でもうこないと宣言した片務契約説の人がきているねえ。
>>536 で大見得切ったのは嘘だったのか。
 まあ、この手の人は、ええかっこしいの恥知らずが多いからね。
また、すっとぼけて名無しで書き込むんだろうね。また出現したら苛めるとしよう。
559日本@名無史さん:02/03/09 11:14
>556
真面目に反論するとね、あなたの話はあまりにいいとこ取りなんだな。
日本史は多様なモノだから、自分の理屈に都合のいいものだけを拾おうとすれば
簡単さ。だけどそうじゃなくて、そりゃあ一つや二つのイレギュラーはあるものの
なんとか現存する資料を総体として理解しようとみんな必死こいてるわけだ。
一つ一つの歴史事象にこだわるのはそのためでね。それを自己満足と切り捨て
られてはかなわんなあ、と言うのが率直な感想。
556の冒頭の部分なんかは史学生なら誰でも簡単に論破できると思うよ。
あなた流に言えば、おれらはファミレスで満足してはいない。
今は貧乏で吉野屋行ってるかもしれないが、いつかきれいなねーちゃんつれて
ちゃんとしたレストランに行こうと思っているわけだな。(これは比喩だよ。
ねんのため)。もうこない、なんて言わずにまたお出でよ。
それで、落ち着いて議論しよう。
560日本@名無史さん:02/03/09 16:40
逆臣の楠木正成と ほら吹き修士様の >>535 証人喚問age
561日本@名無史さん:02/03/09 16:49
水に落ちた犬はたたけ!叩き殺せ!
562日本@名無史さん:02/03/10 03:26
日本史云々より、この人は学問をするには問題があるね。
というより人間として‥‥
554〜を見て、もう関わらないでおこうと思ったのは私だけだろうか。
ただ、彼が何故このような症状を示すようになったかには
ちょびっとだけ興味あり。言葉遣い・表現からして偏執性のものと思われるが、
それがこのような形をとって現れるのはなかなかユニークである。
563日本@名無史さん:02/03/10 07:59
逆臣の楠木正成と ほら吹き修士様の >>535 証人喚問age
564日本@名無史さん:02/03/10 19:19
皇居前広場の楠木某の銅像は、天皇が関東を敵視する象徴だ。
天皇が関東と共に歩む気があるのなら、さっさと撤去するのが筋である。
そして京都でも千早赤坂でも湊川でも、彼縁の地に移設すべきだ。
565日本@名無史さん:02/03/10 19:43
片務契約説の修士さんは人質や参勤交代などの制度をどう
説明するんだろうね?
しかし、ここまで何もわかってないくせによくもこれだけ偉そうに
語れたものだ。

まあ、アズマ、尊皇派双方からもまともに相手されてないようだから
このまま無視したほうがいいでしょう。
566日本@名無史さん:02/03/10 22:11
片務契約はもうこないみたいだからさ・・。
じゃあ主従関係=双務契約説を前提にするよ。そうすると、
@正成はゴダイゴに厚遇されたから、恩義に報いるために命を捨てて戦った。
A正成はゴダイゴに厚遇されなかったにもかかわらず、命を捨てて戦った。
どっち?
@だと、正成のエラさは間違いないんだろうけど、そういうヤツの話は「平家物語」
 なんかにもよく見るよね。斉藤別当実盛とか。
Aだと、前の方の正成厚遇説を論破する必要があるんじゃない?
教えてくれ。
567日本@名無史さん:02/03/10 23:01
>>566
楠木正成は後醍醐天皇に厚遇されていると思うから@だと思いますね。
・雑訴決断所のメンバーに選ばれている。
・恩賞方の三番局(畿内・山陽道・山陰道担当)のメンバーに選ばれている。
・摂津・和泉守に任じられている。
尊氏・直義兄弟が武蔵守・相模守や義貞が越後守に任じられたのは、源氏である
ることと、六波羅や鎌倉攻めの功労者ということから見れば当然の任官でしょう。
また、同じくゲリラ的な活動を播磨で行っていた赤松則村(円心)と比較しても
正成の厚遇は際立っていると思うからね。
568日本@名無史さん:02/03/11 00:07
「作る会」がアホの集団だって気づくかどうかで、
歴史眼がどれほどかわかるがね。
569566:02/03/11 00:18
じゃあ、双務契約説に基づいた場合、正成の行為は「今昔物語」あたりから
姿を現す「兵の道」に適うものだった、と。逆にいうと、たしかに彼の行動は
爽やかだったかもしれないが、格別に大忠臣としてまつりあげられる
必要もなかった、という理解でいいんだね?
570日本@名無史さん:02/03/11 00:21
そう言えば、平氏に殉じた武士を賞揚する人っていないね。
やっぱ、正成は皇国史観がまつりあげた偶像なのか?
571日本@名無史さん:02/03/11 00:50
>>570
そんなことはとっくの昔から言われていること。
正成を祭り上げるのは大正時代から始まり、昭和にはいると殆どカルト宗教的になった。
572日本@名無史さん:02/03/11 01:03
>571
そんなに吐いて捨てるように言うなよ。
もしその理解でいいなら、1への答えはだいたい出たことにならない?
いわく「正成は特別な忠臣ではありません。それで納得しなさい」>1
573日本@名無史さん:02/03/11 10:13
>>569
楠木正成も3木1草の1人であり、他の3人と比較しても特別とは言えない。
他の3人も、尊氏との戦いにおいてことごとく戦死したからね。
正成も奉公と恩賞という関係に基づいた、主従関係の枠組みの中で行動した武
士の1人でしょう。
574日本@名無史さん:02/03/11 14:53
なんだ、片務契約説をかさにかかって罵倒することによって
ウヨどもは自分の首も絞めていたんだね。ワラタ。
575東国の尊皇派:02/03/11 19:16
どうやらまだ片務契約のおぼっちゃんが紛れこんでいるようだが、
つきあうのはアホらしいので無視する。

>>547>>548
源氏嫡流の尊氏の名声によるところが多かったのも事実ではあるが、
言わば鎌倉幕府内部の人間である尊氏が鎌倉幕府を裏切って倒すには
北条家の悪政だけでは不足で、どうしても幕府を超越した存在である
後醍醐天皇の威光が必要であった。
これによって尊氏は裏切り者の汚名を着ることなく幕府打倒の大義名分
を得ることができるのであった。
まあ言うまでもないが後の北朝擁立も同じ理由である。
尊氏は実質二度も裏切り行為を行っているわけで、どうもそのあたりの
きなくさい印象はぬぐいきれない。
後世の人達が大悪人としてののしったのも無理からぬことであろう。

さて、このように世俗権力を打倒するために天皇という世俗を超越した存在を
担ぎ出すことは日本の歴史にはたびたびあることである。
このあたり、古代王権に端を発する皇室の外来性や神聖権力がもっとも
必要とされる時なのである。

さて、ここで尊氏の計算高くずるがしこいところが、倒幕の呼びかけの
密書を東国武士に出す際にあたかも自分一人が後醍醐天皇から勅命を
賜ったかのように装ったところである。
実際には尊氏だけではないのは事実なのであるが、なにしろ尊氏の
影響力は大きいものだから、事情を知らない多くのものは尊氏の
言うとおりであると信じてしまったわけである。

尊氏が諸国の武士に送った文面は次ぎのようなもの。

『伯耆国より勅命を蒙り候の間、参じ候。合力せしめ給ひ候はば本意に候。』


以上のように尊氏は天皇を利用して鎌倉幕府への裏切りを正統化すると
ともに、天皇の威光を背景に東国武士達を帰順せしめたのである。
もともと、尊氏の名声自体も源氏嫡流という血統によるものであり、
それももとをたどれば天皇の権威に他ならないのである。

この時代衰えたとは言え国土統一の英雄の血を受け継ぐ天皇の威光はまだまだ
日本全国の武士達の間にあったのである。
576東国の尊皇派:02/03/11 19:26
足利家が天下に野望を抱いていたのは有名な事実であるが、
その野望の達成のために二度も主筋を裏切り天下を大混乱に
おとしめ民を苦しめたことは後世に大悪人として糾弾される
に充分すぎる理由であろう。

それに引き換え天下泰平のために大義に散った楠木正成の
なんと輝かしいことであろうか。

我々がどちらの人間を敬い手本とすべきかはもはやあきらかであろう。
577日本@名無史さん:02/03/11 19:33
戦乱に陥った原因は尊氏の野望もあるが、やはり主要因は建武政権に統治能力が無かったこと。
578東国の尊皇派:02/03/11 19:36
>>570
相手にするのもアホらしいが、平家の連中は一族に殉じただけの
話しであり、大義に殉じた楠木正成らと比べること自体間違い。
そんなこともわからないぼうずが歴史を語るな。

>>573
アホか?
もう一回1の文章でも読みなおしてみろ。字が読めないなら来るな。
579日本@名無史さん:02/03/11 19:38
>>576
そもそも後醍醐天皇の建武の親政自体が天下を混乱させた原因です。
鎌倉幕府の滅亡とは武家政治の滅亡ではなくて、肥大しきった得宗
専制体制が崩壊しただけのことであり、それを直視する事ができな
かった事が後醍醐天皇の最大の失策であり、武家政権(幕府)の確
立を目指した足利尊氏の行動は、当時の武士の意向や期待に沿った
行動であったと思っています。
580日本@名無史さん:02/03/11 19:50
>>579
そもそも北条家の悪政が天下を混乱させた原因です。
たしかに建武政権は時代錯誤のダメ政権でしたが、
それに輪をかけてダメダメだったのが末期鎌倉幕府であり、
建武政権からの軟着陸を失敗させて混乱を拡大させた
足利尊氏なのです。
581日本@名無史さん:02/03/11 19:52
足利尊氏は関東の武士の不満を背景に後醍醐に対して反旗を翻した英雄です。
後醍醐は14世紀に律令国家体制を夢想した共産主義者であり、
その撲滅は国益にも適っていたことでした。
尊氏こそ救国の革命児というべきでしょう。
582日本@名無史さん:02/03/11 19:59
>>580
軟着陸を考えるなら、せめて尊氏に幕府を開くことを認める位の柔軟
性は必要だったと思うけど。
もちろん京都ではなくて鎌倉にだけどね。そして承久の乱“以前”の
朝幕関係を再現することが公武関係にとっても得策であったと思いま
すね。
583日本@名無史さん:02/03/11 20:11
後醍醐が天下に野望を抱いていたのは有名な事実であるが、
その野望の達成のために天下を大混乱に
おとしめ民を苦しめたことは後世に大悪人として糾弾される
に充分すぎる理由であろう。

それに引き換え天下泰平のために武家政権復興を目指した足利尊氏の
なんと輝かしいことであろうか。

我々がどちらの人間を敬い手本とすべきかはもはやあきらかであろう。
584日本@名無史さん:02/03/11 20:14
>>582
それが、当時の情勢を考えれば一番理想的な関係なのは確かだね。
585日本@名無史さん:02/03/11 20:28
>>582
尊氏は鎮守府将軍に任命されているうえに、1333年には
成良親王を担いで鎌倉将軍府をスタートさせており、そのうえ
武士の多くはすでに建武政権を見限りはじめていたので、軟着陸
は充分に可能であった。
それができなかったのはひとえに尊氏の器量不足と裏切りと戦乱を
好む凶悪な性格のため。

建武政権にも責任があったことは既に何度も述べているが、その
次ぎの時代を受け継ぐべき尊氏が能ナシであったために徒に
混乱を招いたことは事実。
あるいは尊氏自身は器量はないが人のいい男であったかもしれない。
しかし、いかんせん直義や高兄弟のような悪人のとりまきが多すぎる。
586日本@名無史さん:02/03/11 20:33
>>583
ほんとに天下泰平を考えていたのなら後醍醐天皇の
協力なしにはあの混乱を収めることができないのはわかるはず。
わからなかったのなら尊氏は本当のボンクラ野郎だ。
己の既得権益保持と欲に目のくらんだ武装強盗団に担ぎ上げられた
お山の大将にすぎない。
587日本@名無史さん:02/03/11 20:40
戦前、尊氏を「人柄はよかった」と言った議員が
辞職させられた。ひどい時代だ。
尊氏は正成の死をきいて、落胆したと思う。
尊氏はクソ公家に馬鹿にされながら、意地のために死んだんだ。
それを理解できない尊氏とは思えない。
588日本@名無史さん:02/03/11 20:51
>587

まあ尊氏が人柄のいいボンクラだったのは事実のようだな。

後醍醐天皇が吉野へ脱出した時ものんきに

「天皇のことを今後どうお計らいすべきか、じつは困惑してが、
いまご自身でよそへ移られたのは不幸中の幸いと申すべきである。」

などとのたまわっている。
その後の六十有余年の争乱を思えばこんなマヌケな男が武家の
棟梁であったことは不幸でならない。
もっとマシなやつだったら後醍醐天皇をうまくなだめながら
新政権を創ることができたであろうに。
589日本@名無史さん:02/03/11 20:54
>>585
むしろ秩序と希求する点では足利直義がもっとも最適な人物だと思う。
もちろん高師直などは論外の存在だけどね。
確か尊氏はアバウトなところがあるタイプだったけど、直義の方は緻密
な官僚タイプだし、北条泰時が重んじた道理を基本とした武家政治を実
現しようとした点に好感が持てる。
同時代の政治家としては、足利直義が最も優秀な人物であったと認識し
いています(合戦には弱かったけどね)。
590日本@名無史さん:02/03/11 20:55
>>586
武家政権復興を目指す尊氏と、天皇親政に死ぬまでこだわった後醍醐が、
どうやって協力するんだよ。
591日本@名無史さん:02/03/11 21:00
>>590
現実の情勢を冷静に判断すれば、幕府は必要な存在だったでしょう。
それを理解出来ない後醍醐の現状認識は甘すぎるということでしょうね。
592日本@名無史さん:02/03/11 21:02
>590
一度は和睦に応じた後醍醐天皇が吉野へ脱出したのは直義の脅迫
じみた強引な譲位の要求によるもの。
自分の弟さえ抑えることのできないバカに天下人の資格なし。
593日本@名無史さん:02/03/11 21:19
>>592
偽神器で人を騙してまで自分の帝位にこだわるなんて、
こんな卑しい人物は珍しいですな。
594日本@名無史さん:02/03/11 21:29
>>592
だけど譲位の後、つまり光明天皇の皇太子には後醍醐天皇の皇子である
成良親王が立太子した訳だから、両統テイリツという講和の条約が満た
されことは事実だから、後醍醐天皇が自重すれば戦乱は収まったと思う
けどね。
直義は強硬なところも多分にあるけど、両統テイリツの約束を反故にす
るタイプではないと思うけどね。
595日本@名無史さん:02/03/11 21:46
戦時中足利教授が庭に畑を作るために邪魔な木を切り倒した。よく見るとそれは楠だった。
有名な話しですね。
596日本@名無史さん:02/03/11 21:50
>>592、593
後醍醐は自分以外の人間を虫けらのようにしか見なしていないという前科があるからね。誰も後醍醐の言うことなんか信じないよ。
597日本@名無史さん:02/03/11 22:39
>>東国の尊皇派くん
議論する以前の問題として、きみの歴史研究者としての実力が知りたくなった。
きみが「密書」としてとりあげてる尊氏の古文書、これ古文書学的にいうと
なんて名前になる?サクサクッと答えてくれ。お願い。
598597:02/03/11 23:03
ハキリ言って、君がただのデムパではないか、と疑っているのだ。
えっ?そんなこともうよく分かってるだろって?
599日本@名無史さん:02/03/11 23:54
>587

まあ尊氏が人柄のいいボンクラだったのは事実のようだな。

後醍醐天皇が吉野へ脱出した時ものんきに

「天皇のことを今後どうお計らいすべきか、じつは困惑してが、
いまご自身でよそへ移られたのは不幸中の幸いと申すべきである。」

などとのたまわっている。
その後の六十有余年の争乱を思えばこんなマヌケな男が武家の
棟梁であったことは不幸でならない。
もっとマシなやつだったら後醍醐天皇をさっさと謀殺してしまって
新政権を創ることができたであろうに。
600東国の尊皇派:02/03/12 20:53
青葉茂れる桜井の

里のわたりの夕まぐれ木の下蔭に駒止めて

世の行く末をつくづくと偲ぶ鎧の袖の上に

散るは涙かはた露か
601東国の尊皇派:02/03/12 20:55
正成涙を打ち払い

我が子正行呼び寄せて

父は兵庫に赴かん

彼方の浦にて討ち死にせん

汝はここまで来たけれども

疾く疾く帰れ故郷へ
602東国の尊皇派:02/03/12 21:07
さて、楠木正成が当時の武士にあっていかに男らしいさわやかな
義に殉じた忠臣であったかということはあきらかにされたのだが、
父の意志を受け継ぎ親子二代に渡る英雄物語の二番手である
正行のことも忘れてはならない。

必死の戦にのぞむ父正成とのつらい別れを乗り越えて立派な
若武者と成長した正行は父の意志を受け継ぐべく南朝のために
奮戦するのである。

そのひたむきな純真さは現代人に失われた熱い魂のほとばりを
感じずにはいられない。

日教組教育は日本人を低劣化せんがために歴史教育の舞台から
父の意志を受け継ぎ果敢に戦った熱き男の姿を抹殺した。
そう、伝統を受け継ぎ天皇のため、大義のために戦うという
正行の姿こそは日教組にとっては正成以上に抹殺してしまいたい
存在であったのだろう。

我々真の歴史を知るものは後世のためにこの真の男の姿を
語り継いでいかねばならないのである。
603日本@名無史さん:02/03/12 21:07
東国の尊皇派が、>>597の質問に答えてないね
やっぱ、東国の尊皇派って、片務契約派のほら吹きインチキ修士さんと
同じ穴のムジナの知ったかのアホなんだね
604日本@名無史さん:02/03/12 21:08
東国の尊皇派は、アホ(w
605日本@名無史さん:02/03/12 21:08
>>東国の尊皇派くん
議論する以前の問題として、きみの歴史研究者としての実力が知りたくなった。
きみが「密書」としてとりあげてる尊氏の古文書、これ古文書学的にいうと
なんて名前になる?サクサクッと答えてくれ。お願い。
606東国の尊皇派:02/03/12 21:15
さて、父の意志を受け継ぎ激烈な一生を送った正行と
対照的なのが、尊氏の息子義詮である。
そのデビューこそガキの分際で鎌倉攻めの総大将として華々しかった
もののその後はこの男が登場するたびに戦が負けるほどの愚劣ぶり。
「鎌倉公方記」には
「新将軍義詮は、ただ好色をこととし、大酒を専らにして、
歌道、遊興に心を傾け、政道のことは、外になし給ひければ、
みな疎み奉りけり」
とある。

まさしく戦後日教組教育の理想像のようなバカ息子である。
607日本@名無史さん:02/03/12 21:18
東国の尊皇派が、質問に答えずこそこそ逃げ回っているぞ
逃亡兵の東国の尊皇派は、正成の督戦隊に切り殺されて史ね!
608東国の尊皇派:02/03/12 21:18
子は親の鏡とはよく言ったものだ。
楠木親子、足利親子の二つを比べれば我々が見習うべき
真の男の姿がどちらにあるかはもはやあきらかであろう。
609日本@名無史さん:02/03/12 21:20
>>東国の尊皇派くん
議論する以前の問題として、きみの歴史研究者としての実力が知りたくなった。
きみが「密書」としてとりあげてる尊氏の古文書、これ古文書学的にいうと
なんて名前になる?サクサクッと答えてくれ。お願い。
610蝦夷の尊皇派:02/03/12 21:22
>東国の尊皇派さん。

いつも楽しみに拝見しています。
日教組教育の犯罪をあきらかにし、アズマの妄説をことごとく
論破する姿には感動すら覚えます。
窮地に追い込まれた連中が妙な嫌がらせをしてきているようですが、
そんなことにくじけずにこれからもがんばってください。
611日本@名無史さん:02/03/12 21:22
簡単な質問に答えらず逃げまわる
知ったかの東国の尊皇派に歴史を語る資格なし。
612日本@名無史さん:02/03/12 21:23
東国の尊皇派は、実は片務契約派のインチキ修士とかわらんアホ
613西国の尊皇派:02/03/12 21:26
>>610
同感やな。
アズマか修士のどちらかは知らんが、「古文書学的」やと?
そんなもん知るか!
くそガキの言うことは無視したらええんや。
614日本@名無史さん:02/03/12 21:29
プププ、質問に答えられないからって、
自作自演までして問題をはぐらかそうと必死
これだからな、俄か学問のアホは
615日本@名無史さん:02/03/12 21:30
>>東国の尊皇派くん
議論する以前の問題として、きみの歴史研究者としての実力が知りたくなった。
きみが「密書」としてとりあげてる尊氏の古文書、これ古文書学的にいうと
なんて名前になる?サクサクッと答えてくれ。お願い。
616597:02/03/12 21:30
>>602(東国の尊皇派)
およそ学問とは縁のない「密書」なんて言葉を振り廻すものだから、
思わず聞いてみたんだが。別に書状でも直状でも書下でも間違いではないのさ。
御判御教書や御内書の原初的な形状ともとれないわけではない、なんていえば
よかったんだ。答えは一つだけの「物知り歴史クイズ」じゃないんだ。
「恐々謹言」の書き止め文言からすると、「書状」が一番穏当なんだけどね。

君はどうやら本当にデムパだったみたいだね。学問的な裏付けがない、
妄想世界の住人だ。新撰組のスレで、「そうじさまあ」かなんか叫んでいる
女の子とレベルは同じだよ。
だからどうだ、とは言わない。これからもがんばってちょうだい。
せいぜい僕らをワラカセておくれ。
617東国の尊皇派:02/03/12 21:31
>>610
>>613
応援ありがとうございます。
現在歴史は一部のサヨどもに独占されておりますが、
歴史とは誰のものでもない、強いていえば今に生きる
全てのものでしょう。

そのような基礎的な認識もできておらずに、学術用語を
知らないと歴史を語る資格がないとぬかす輩(アズマ?修士?)
は歴史を私する犯罪者であると言うべきであります。
我々はかかる犯罪者が何万と押し寄せようとも楠木親子の如くに
勇猛果敢に立ち向かいこれを撃破せねばならいのであります!
618日本@名無史さん:02/03/12 21:31
なんか、また奇妙な展開になってきたなあ。
ああ、もうこのスレ面白すぎw
619日本@名無史さん:02/03/12 21:32
東国の尊皇派は、みなをわらかせてくれる生来のエンターテナー
620日本@名無史さん:02/03/12 21:33
>>617
 でた、自作自演による自画自賛の次は、脳内勝利宣言(w
621597:02/03/12 21:33
あっ、上の609と615は僕じゃないよ。
僕はそんなにいぢわるではない。
622東国の尊皇派:02/03/12 21:34
青葉茂れる桜井の

里のわたりの夕まぐれ

木の下蔭に駒止めて

世の行く末をつくづくと

偲ぶ鎧の袖の上に

散るは涙かはた露か


正成涙を打ち払い

我が子正行呼び寄せて

父は兵庫に赴かん

彼方の浦にて討ち死にせん

汝はここまで来たけれども

疾く疾く帰れ故郷へ
623東国の佐幕派:02/03/12 21:34
東国の尊皇派は自虐史観論者です。
624日本@名無史さん:02/03/12 21:35
>>622
あーあ、脳内勝利宣言の後は、わけわからん詩を吟じて自閉モードだよ(w
625日本@名無史さん:02/03/12 21:35
東国の尊皇派が語る正論に対抗できなくなったアズマ(修士?)
が妙な煽りをはじめたな。
626日本@名無史さん:02/03/12 21:36
東国の尊王派は、観察しがいがあるおもしろいやっちゃなあ
627日本@名無史さん:02/03/12 21:37
しかし、ここまで東国の尊皇派に援護してもらっておきながら1は
一体どこへ行ったんだ?
いまこそ1と尊皇派で一大攻勢に出てアズマを完膚なきまでに
叩きのめす千載一遇のチャンスではないのか?
628日本@名無史さん:02/03/12 21:39
>>627
妄想世界の住人ハケーン!
629日本@名無史さん:02/03/12 21:39
>>624
この有名な歌をわけのわからない詩扱いか。
日教組教育で育ったやつはあはれよのお。
630日本@名無史さん:02/03/12 21:40
およそ130年前から徳川公方様の江戸城を不法占拠している関西系広域暴力団
「菊華会天皇一家」を速やかに祖先の地京都へ追放しましょう。
徳川公方様の江戸城がいつまでも関西系ヤクザの親玉に占拠されているのは、
関東人として全く不愉快極まりないことです。
関東人の皆さんは、是非「菊華会天皇一家」の追放にご協力下さい。
631日本@名無史さん:02/03/12 21:40
>627
おひおひ、間違えてはいけない。
東国の尊皇派は、1の足をひっぱっているのに。
日本語は正確につかひたまへ。
632日本@名無史さん:02/03/12 21:41
訴  状
         原告 徳 川 宗 家

            東京都××区××1−2−3
         被告 皇 室
              代表者 明 仁
            東京都千代田区1−1
請求趣旨)1.被告は原告に対し、その不法占拠する土地を返還せよ
     2.返還に至るまでの地代相当の不当利得の賠償をせよ
     との判決をもとめる
請求原因)被告は西暦1868年、不法にも武力をもって本件原告の
     所有する土地(被告所在地に同じ)を脅迫・恫喝のうえに
     占拠し、事後不逞の輩を多数集来せしめ、新興宗教までぁ
     ゃιげに開立しはじめており、原告の利用・占有をまった
     く不可能ならしめている状態が今日に至るまで継続している。
     よって、本件につき係争土地の所有権に基づく返還、
     利用料相当額1200億円を請求する。

633日本@名無史さん:02/03/12 21:42
>631
東国の尊皇派は1の疑問に見事に答えて正成が忠臣であることを
世にあきらかにしただろ。
634日本@名無史さん:02/03/12 21:43
>633
東国の尊皇派の脳内でだろ(w
635日本@名無史さん:02/03/12 21:43
敗北があきらかになったアズマがコピペ荒しをはじめた模様。
636日本@名無史さん:02/03/12 21:44
>>606
確かに義詮は出来が悪い息子だと思うね。
器量は弟である基氏の方が遥かに上である事は間違いない。
基氏は政治姿勢としては、父である尊氏より叔父である直義
の方を尊敬していようです。
「基氏が義堂に向かって、叔父の直義が政治に害ありとして
 一度も演劇をみなかったと言って、直義にたいする敬愛の
 念を示したというのである」佐藤進一著『南北朝の動乱』
私としては尊氏・義詮父子や正成・正行父子よりも、直義・基氏
叔父甥が一番好きですね。

637日本@名無史さん:02/03/12 21:44
南北朝時代の東国は佐幕派=北朝方の牙城。
東国の尊皇派は売魂奴なり。
638日本@名無史さん:02/03/12 21:45
東国の尊皇派は、学問的な素養もなく、
デタラメな自説を垂れ流すだけの知ったかのアホで、
歴史を語る資格がないことが証明されました。
639日本@名無史さん:02/03/12 21:45
やれやれ、またもこのスレでもアズマに勝利しちまったよ。
これで対アズマ戦何勝目かな?
アズマにはもうちと骨のあるところを見せて欲しいものだ。
640日本@名無史さん:02/03/12 21:46
東国の尊皇派は逃走した模様(藁。
641日本@名無史さん:02/03/12 21:46
やれやれ、またもこのスレでもウヨに勝利しちまったよ。
これで対ウヨ戦何勝目かな?
ウヨにはもうちと骨のあるところを見せて欲しいものだ。
642日本@名無史さん:02/03/12 21:47
東国の尊皇派は、学問的な素養がないことを指摘され、
さらに自説が妄想であることを暴かれ、泣きながら逃走(w
643日本@名無史さん:02/03/12 21:48
なんだか時間の無駄使いをしてるな
オマエラ(藁
644日本@名無史さん:02/03/12 21:50
泣きながら逃走したのは1に修士、2にスレ主、3,4がなくて
5にアズマだろ。
東国の尊皇派は戦いぬいてこのスレで勝利した英雄。
645日本@名無史さん:02/03/12 21:50
もう日本史板は尊皇派(ヤマト派)と佐幕派(アズマ派)の決戦の
場に成り果ててしまったみたいだな。
今やすべてのスレがそうなりつつある。
646日本@名無史さん:02/03/12 21:51
>>644
アズマって誰のこと?
647日本@名無史さん:02/03/12 21:51
なんで南朝擁護派は、
片務契約派のホラ吹き修士さんや東国の尊皇派のように
学問的な素養のない、化けの皮のすぐはがれるアホばかりなんだろ
やはり、南朝擁護の立場自体が、おかしな妄想だから電波に
ひきつけられて変なのが集まるんだろうね(w
648日本@名無史さん:02/03/12 21:53
>>644
へんてこな詩を吟じる自閉詩人の東国の尊皇派ご登場(w
649日本@名無史さん:02/03/12 21:54
すげえ自作自演だ。
東国の尊皇派は自分で自分の首を絞めていることに気が付かないのか?
650日本@名無史さん:02/03/12 21:59
東国の尊皇派は、自作自演・自画自賛をくりかえすしか脳のないアホ
自分の持ち出した文書に関するごくごく初歩的な質問にすら答えられず
逃げ回るはずかしい人。このような人間に歴史を語る資格はない。
戦国板にでもいって遊んでるのがお似合い(w
651日本@名無史さん:02/03/12 22:03
アズマ敗北の悲しい過去でも思い出させてやるか

幕末危機日本植民地化のシナリオ
http://mentai.2ch.net/history/kako/987/987128429.html

652日本@名無史さん:02/03/12 22:08
アズマ敗北の悲しい過去

日本の合戦かく戦えり
http://mentai.2ch.net/history/kako/1009/10090/1009010595.html
(ここに出てくる遠戦派とやらがアズマ)
653日本@名無史さん:02/03/12 22:10
ブサヨ朝鮮アズマってまだやっているのか(藁)
654日本@名無史さん:02/03/12 22:12
このスレ見ていると俺以外にはこの板には2人しかいないのではないかと
不安になるよ
655日本@名無史さん:02/03/12 22:15
>>651-652  苦し紛れの脳内勝利宣言。東国の尊皇派デムパ全開!
656日本@名無史さん:02/03/12 22:18
>>636
>確かに義詮は出来が悪い息子だと思うね
僕は必ずしもそうは思わないが、客観的にみて
義詮の時代って、これから政治史で論文書こうって人にはオススメだよね。
史料が残ってる(何しろ大日本史料がばっちりある!)わりに、研究があまりない。
657日本@名無史さん:02/03/12 22:22
東国の尊皇派がここまでアホだとは思わなかった。
658日本@名無史さん:02/03/12 22:52
東国の尊皇派晒しage
659日本@名無史さん:02/03/12 23:15
651、652で納得がいったよ。
みんなこのスレの1だったんだな、思考能力ゼロの名物ウヨ。
660日本@名無史さん:02/03/12 23:22
思考能力ゼロどころか、恥を恥とも思わない自作自演の常習犯
恥知らずの名物ウヨ。
661日本@名無史さん:02/03/12 23:24
1、片務既約派のホラ吹き修士、東国の尊皇派
アホのお仲間は、アホばかりなり。ってか
662日本@名無史さん:02/03/12 23:54
正統な天皇=北朝に楯突いた楠木を忠臣と呼ぶヤツは十分デムパだろ
それとも南朝が正統で今上は偽帝の裔かよ(ワラ
663日本@名無史さん:02/03/13 01:07
今上は偽帝
664日本@名無史さん:02/03/13 01:20
 そもそも、楠木や後醍醐天皇は負け犬だろ。
 反アズマは、勝てば官軍の論理で戦争に勝った薩長を
持ち上げて幕府を叩くんだから、
同じ論理で言えば、負け犬の楠木や後醍醐天皇を叩かなければ
論理的に一貫してないじゃん。
 これ一つとっても、反アズマって論理がチグハグ・・・・
665日本@名無史さん:02/03/13 01:54
正成の時代は南朝が正統
後亀山から後小松に神器が渡ったのでそこから北朝が正統になった
これが水戸学=正統史学の見解
666ダミアン:02/03/13 03:14
The Number of the Beast!!
667日本@名無史さん:02/03/13 07:20
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   <  おらっ!出てこい東国の尊皇派!!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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668日本@名無史さん:02/03/13 12:01
>>665
明治以前は北朝が正統だと認識されていたようです。
例えば『公卿補任』でも北朝の天皇の名が記述されていても、後村上や長慶・後
亀山の名は記述されていなかったのが実情なのです。
また「後亀山に太上天皇の加えた時、北朝の廷臣の間に、この尊号は本来『登極
帝』すなわち皇位をふんだ天子に限るべきもので、今回は特例だ、という意見が
出たし、そのときの詔書にもつぎのように書かれた。『準的の旧蹤なきも、特に
礼敬の新制を垂れ、よろしく尊号を上りて太上天皇となすべし』よるべき先例は
ないけれども、特に敬って太上天皇とする、というのである」佐藤進一著『南北
朝の動乱』
これが、当時の公家社会(特に北朝側)の南朝に対する認識であったようです。
669東国の尊皇派:02/03/13 19:25
正行が父正成と今生の別れに涙したのは、じつに11歳の時であった。
この時、新時代の幕を開いたこの父はわが子に
一時の命を惜しむべからざること、また天皇に忠節を尽くすことこそが
なによりもの父への供養であると説いた。
この有名な桜井の宿での別れからも正成が新時代を開いた後醍醐天皇と
大義に殉じようとしていたことはあきらかである。

正成討ち死に後、尊氏は残酷にも正行にその父の首を送りつけた。
それは、尊氏に刃向かえば貴様もこのような目にあうぞという
脅迫であったに違いない。

あまりにもむごく変わり果てた父の生首を見た正行はそのまま持仏堂
にかけこみ父のあとを追うべく自害しようとした。
それを止めたのは他ならぬ母ひさであった。

この父にしてこの子あり。
この夫にしてこの妻あり。
この母にしてこの子あり。
まさに正成家族は戦後日教組教育で壊滅させられてしまった日本の
家族の理想像があったのである。

「父のご遺言を忘れたのですか」
そう言った母の目に涙が。
ひさにとっても夫正成の死がつらくないはずがあろうか。

さめざめと泣く母子のかたわらには形見の菊水の刀が転がっていたのであった。
670日本@名無史さん:02/03/13 19:35
楠木親子の感動秘話は涙なしにしては聞くことができないね。
それにくらべて足利親子ときたら。。
戦後日本の誤りは楠木親子を封印して、足利親子を崇め奉った
ことだな。
足利親子こそ国賊日教組が目指した理想の親子関係なんだろな。

日教組、アズマ理想の親子像
一位、足利父子(北)
二位、金父子(北)

アズマは北が好きなんだな(w
671日本@名無史さん:02/03/13 19:44
負け犬 楠木  負け犬 東国の尊皇派
負け犬は、負け犬どうし傷を舐めあうのがお似合いだな

それに正成家族が、家族の理想像だと言うなら正儀はなんで敵に降参したんだ?
672日本@名無史さん:02/03/13 19:46
>>669
見てきたように嘘をつく最低のクズ東国の尊皇派
また狂った楠木フリークが、ホラ話でっちあげてるよ
673日本@名無史さん:02/03/13 19:50
>>669
東国の尊皇派ほら吹き歴史フリーク
今日も楠木マンセーの自閉モード
674日本@名無史さん:02/03/13 20:50
お前もこうなるぞというのは勝利の証として
首をさらすことなのは日本どころか世界の常識だと思うのだが?

親切にも遺体を返してきた尊氏の行為を
脅迫に違いないなどと断言してしまうほうが変だよ。
少なくともこのおかげで正行は父の墓を作れるようになるわけだし。

歴史というより常識からやり直すことを求めたい。
675日本@名無史さん:02/03/13 20:55
つか
「敵とはいえあれほどの勇士の首をさらすのは忍びない、
 遺族の元に送り返してやれ」
っていうのはどう考えても美談で、恫喝に結びつく要素はないと思うんだがね。
676日本@名無史さん:02/03/13 21:08
だいたい東国さんが日本の家族の理想と持ち上げる桜井の宿の別れって、
史実的には本当にあったかどうかよくわからんという程度のものじゃないか。
当時正行が同行していたかもわからねば、そもそもどこにいたのかもわかってない。
何を興奮してるのかわからんけど、物語に載ってる程度のことを
大真面目に日本史板で史実であったかのごとく書き込むのはやめたほうが・・・
677日本@名無史さん:02/03/13 21:32
東国の尊皇派も、フォレスト・ガンプのようにバカでも
誠実で心が美しいまま成長したらよかったんだよ。
東国の尊皇派はなまじっか智恵がついて、傲慢になったために
こんなになってしまったんだね。
東国の尊皇派も、ガンプみたいになればよかったのにね..........
いまからでも遅くないぞ、東国の尊皇派は改心してエビでもとってなさい。
678日本@名無史さん:02/03/13 21:45
 アズマのマネをし、天皇マンセーな美談や
アズマを誹謗する話を捏造したものの、
 知識が不十分なため、矛盾をあっけなくアズマに暴かれ
笑いものにされる東国の尊皇派であった。
 東国の尊皇派は、アズマのオモチャ(w
679日本@名無史さん:02/03/13 21:50
語れば語るほどボロのでる東国の尊皇派
そろそろハンドルかえて、そしらぬふりして再登場かい(笑
680日本@名無史さん:02/03/13 21:52
東国氏は知っているのだろうか。
京都の宝篋院で義詮と正行の墓が隣あわせにあることを。
義詮は遺言で、自分を正行のそばに葬るように言ったため
南北両雄が同じ場所に祭られていることを。
681日本@名無史さん:02/03/13 21:55
なんていうのか東国の尊皇派っていうのもえらく浅い人だねえ。
太平記以外に記述はなくて、常識的に考えてもただの虚構である
桜井の宿の別れをこうもまつりあげるとは。
ttp://www.happy.gr.jp/sakaerukai/osaka/naniwa-image/13naniwa_akiP12_P14.pdf
まあここの2Pでも読んでくださいな。
なるほどこの危険な時期、ましてや討ち死にを覚悟していたのなら
大事な嫡子を連れ歩くほど正成も馬鹿ではないと思うね。

ああ、東国の尊皇派は間接的に正成を馬鹿にしてるのか(w
682日本@名無史さん:02/03/13 22:08
日教組、関西人理想の親子像
一位、楠木父子(北)
二位、金父子(北)

関西人は北が好きなくせに楠木親子も好きなんだな(w
683日本@名無史さん:02/03/13 22:31
いま疑問に思ってちょっとしらべてみたけれど、
東国の尊皇派さんは太平記の正成首送故郷事すら
自分勝手に改変して引用してます。
原本
http://www.j-text.com/taihei/tk016.html
其後尊氏卿楠が首を召れて、
「朝家私日久相馴し旧好の程も不便也。
 迹の妻子共、今一度空しき貌をもさこそ見度思らめ。」とて、
遺跡へ被送ける情の程こそ有難けれ。

まあ太平記ではなんと情け深い処置だと当たり前の感想つけてるわけですな。
無論彼の脳内ではこれもただの脅迫に変換されるわけですが。

ソース不明の密書を持ち出してみたり、
ただの物語である太平記を鵜呑みにして
複数の資料に載ってるとかで信憑性を高める作業を怠ったり、
尊皇派さん、あんた、あんまり歴史について語る資格ないね。
684日本@名無史さん:02/03/13 22:38
>>683
おそろしいまでの歴史改竄
歴史をゆがめた東国の尊皇派は、楠木公の墓前で責任をとって自決せよ!
685日本@名無史さん:02/03/13 22:41
いや、そこまではいわんが・・・だいたいそれ歴史を語るとチガウ
せめて人を納得させるだけの資料を出してくれないと、
ただの脳内妄想だしね。
たいした努力はいらないんだしさ。
686日本@名無史さん:02/03/13 22:56
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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687日本@名無史さん:02/03/13 23:14
>>686さん
>>683さんに、見事に論破された東国の尊王派さんは、同じハンドル名では
もう恥ずかしくてこのスレには書き込めないでしょうね。

688683:02/03/13 23:19
実は反論のしようもあるんですが、
それで東国の尊皇派さんのレベルがわかりますね。

どのようなお答えを下さるかいまから楽しみです、ハイ。
689686:02/03/13 23:30
>>687
そうだね。もし俺が彼だったら恥ずかしくて日本史板にはもうこないね。
でも彼のことだから、ハンドルかえるか名無しで、皇国史観すれっど
あたりを荒らすんだろうね(w
690日本@名無史さん:02/03/13 23:30
>後亀山から後小松に神器が渡ったのでそこから北朝が正統になった

これって神器さえ移せば熊沢天皇が正統ってことか?
691日本@名無史さん:02/03/13 23:35
資料性の薄い太平記の改ざんすら平気でやるような輩に
羞恥心があるかは疑問である(w
692日本@名無史さん:02/03/13 23:36
しかももう一方の引用は
明治維新直後の水戸史観バリバリの国学者が作った漢詩。
唱歌の世界を史実と見せかけるような
問題外のお方ですから・・・
693おもしろいものみつけてきました:02/03/13 23:40
現代語訳 正成首送故郷事(w
http://www.asahi-net.or.jp/~wx7s-yngd/e02/e16s12.html
694日本@名無史さん:02/03/13 23:46
>正行、父の遺言、母の教訓心に染肝に銘じつゝ、或時は童部共を打倒し、頭を
>捕真似をして、「是は朝敵の頚を捕也。」と云、或時は竹馬に鞭を当て、
>「是は将軍を追懸奉る。」なんど云て、はかなき手ずさみに至るまでも、只此事を
>のみ業とせる、心の中こそ恐しけれ。(太平記より)

(現代語訳)
> ある時は、近在の児童らを打ち倒してその首を取る真似をしつつ叫ぶ。
>「楠木正行、ただ今、朝敵の首を取りましたあ!」。
> ある時は竹馬にまたがり、馬に鞭を当てる動作をしながら、喚声を上げる。
>「楠木正行はただ今、足利尊氏を追撃中でありまあす!」

 妄想バリバリの少年コヴァな楠木正行(w
695日本@名無史さん:02/03/13 23:53
>>693
やっぱり尊氏って良いヤツだと思う。
自らが仇役になる事で相手に生きる意味を持たせるのも、ある意味で
男の美学だと思うから。
696日本@名無史さん:02/03/13 23:55
新選組の伊東甲子太郎は新選組を脱退して御陵衛士になった後、
摂津の湊川で戦死した楠木某にあやかって「摂津」と改名したんだとよ。
関東人のくせに平気でヤマトに魂を売り飛ばした伊東って男は関東の恥だ。
常陸からはどうしてこういう関西を礼賛し関東を敵視する自虐野郎が出てくるのか。
俺には伊東のような常陸人の心情がまるで理解出来ない。
697玉稿:02/03/13 23:55
669 :東国の尊皇派 :02/03/13 19:25
正行が父正成と今生の別れに涙したのは、じつに11歳の時であった。
この時、新時代の幕を開いたこの父はわが子に
一時の命を惜しむべからざること、また天皇に忠節を尽くすことこそが
なによりもの父への供養であると説いた。
この有名な桜井の宿での別れからも正成が新時代を開いた後醍醐天皇と
大義に殉じようとしていたことはあきらかである。

正成討ち死に後、尊氏は残酷にも正行にその父の首を送りつけた。
それは、尊氏に刃向かえば貴様もこのような目にあうぞという
脅迫であったに違いない。

あまりにもむごく変わり果てた父の生首を見た正行はそのまま持仏堂
にかけこみ父のあとを追うべく自害しようとした。
それを止めたのは他ならぬ母ひさであった。

この父にしてこの子あり。
この夫にしてこの妻あり。
この母にしてこの子あり。
まさに正成家族は戦後日教組教育で壊滅させられてしまった日本の
家族の理想像があったのである。

「父のご遺言を忘れたのですか」
そう言った母の目に涙が。
ひさにとっても夫正成の死がつらくないはずがあろうか。

さめざめと泣く母子のかたわらには形見の菊水の刀が転がっていたのであった。
698日本@名無史さん:02/03/13 23:55
             ドッカン
         m    ドッカン
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699日本@名無史さん:02/03/14 00:21
東国の尊皇派証人喚問age
700日本@名無史さん:02/03/14 00:44
東国の尊皇派晒しage
701日本@名無史さん:02/03/14 00:50
東国の尊皇派=水戸浪士疑惑解明age
702東国の尊皇派:02/03/14 19:22
父と涙の別れをして幾星霜。

正平二年。

彼は若き頃の父を思わせる頼もしき立派な若武者となっていた。

父正成の13回忌をすませた正行は遂に賊徒どもに天誅をくらわすべく
立ちあがった!
じつに正行二十二歳の時である。

まずは、和泉河内守護細川顕氏を藤井寺に撃破。
これに来援した若狭・丹波守護山名時氏もなんなく撃破し深手を負わせると
顕氏は一目散に京都へ逃げかえったのである。

正義は忠臣正行にあり。
なんぞ賊を恐れることがあろうか。

この時、賊軍の将は兵を見捨てて逃走したために、賊軍の兵は慌てふためいて
冬空の淀川に落ちるものが続出した。
名将楠木正行はこれらを救助し、衣服や薬を与えたという。
たけきもののふにして情けあり。
この名将正行を天が助けぬはずがなかろうか。

情け深き名将正行賊軍をコテンパンテンに破るの巻でした。
703日本@名無史さん:02/03/14 20:04
東国の尊皇派は自虐史観の狂信者。
704日本@名無史さん:02/03/14 20:11
狂信者というか狂人だよ(藁
あまりにアホすぎ。
705日本@名無史さん:02/03/14 20:18
正行くんが暴れて、しかも直義派である細川顕氏や山名時氏には
勝ったのに高師直・師泰には惨敗しちゃった。
このために師直の株が上昇して直義は窮地に追い込まれ、やがて
観応の擾乱という戦乱の拡大へと向かってことになる。
直義ファンとしては、正行くんの行動は迷惑の一言に尽きますね。
706日本@名無史さん:02/03/14 20:25
で、こんどはどの辺がでっちあげで、
どのへんが改ざんなんだ、東国の尊皇派さんよ?
707日本@名無史さん:02/03/14 20:25
というよりこれまでの不始末を忘れ去ったのかね?
708日本@名無史さん:02/03/14 21:33
このキ印が何をしたいのか、
誰か私に教えてください!
709日本@名無史さん:02/03/14 21:38
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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710日本@名無史さん:02/03/14 21:42
売魂奴東国の尊皇派は地獄へ落ちろ!
711日本@名無史さん:02/03/14 23:11
>東国の尊皇派くんへ
おれはきみの芸風を高く評価する者である。
ただ、「尊皇」をうたうからには楠木親子だけではいかんだろう。
南朝に尽くした貴族、万里小路藤房や吉田定房、護良以外の親王たちとかに
ついてもかたってみ。博学なところを見せてよ。
712日本@名無史さん:02/03/14 23:14
 最近、凶悪少年犯罪が激発している。我らアズマ至上主義者は、これら少年犯罪は
ヤマト族による南蛮化がその原因であると考える。ヤマト族は明治以降、日本=アズマ
古来の伝統的規範を排除し、南蛮文化を神国日本に移植しつづけ、日本の固有の文化
・伝統・道徳を殺戮してきた。その結果が、堕落した南蛮人の欲望肯定の個人主義、
立身出世主義を子供に教えつづけ、子供を堕落させ少年犯罪を激発させたのである。

 子供は、民族の宝である。しかし、肉体的に成長するだけでは民族の宝にならぬ。
子供には民族の構成員になるために、精神的薫陶が必要なのである。そして、子供に
受け入れさせるべき精神的・思想的存在は、民族固有の伝統・文化である。子供は、
民族の伝統・文化を大人から伝授されて初めて、立派な大人になるのである。
 しかるに、現状はどうであろうか?子供は、民族の伝統・文化といった道徳・規範を
教えられることなく成長する。そして、民族道徳なき肉体だけの成長は、歪んだ欲望を
うみだし、子供を少年犯罪に走らせるのである。

 今こそ、子供に真の民族の伝統・文化・歴史を教え込み、少年犯罪を社会から撲滅
しなければならない。そして、子供に教えるべき民族の伝統・文化・歴史・道徳とは、
日本=アズマ古来のものでなければならない。ヤマト族の歪んだ子供に対する教育を
打倒し、南蛮化されていない真の伝統的道徳・規範教育を実現せねばならぬ!

 我らは、ヤマト族の南蛮化した「えせ民族的伝統」・「えせ民族的文化」・
「えせ民族的歴史」・「えせ民族的道徳」の、子供に対する押しつけこそが、子供を
少年犯罪に追いやっていると考える。子供の目は鋭い。ヤマト族の南蛮化し堕落化した
民族教育などすぐに見抜く。子供に嘘をついてはいかん。ヤマト族の言う、伝統・文化
・道徳・歴史とは、南蛮化&ヤマト地域限定のまやかしのえせ民族教育であり。打倒
されねばならぬ。アズマの諸君、子供たちをヤマトの魔の手から救え!!!
713日本@名無史さん:02/03/14 23:22
いたっ!
714@太平記大好き:02/03/15 00:14
>1さん。
「楠」ですよ! 大楠公(だいなんこう)=正成(まさしげ)、小楠公(小楠公)=正行(まさつら)
しかし、「七生報国」どころか、3代目以後の楠家は南朝にあって北朝との和平促進派の急先鋒でした。
もっとも大きな目で見れば列島全体の実利にはかなった、とはいえますが。
「楠木トシエ」さんは別姓です。
715日本@名無史さん:02/03/15 00:46
>714
いいや、楠木で正解だよ。
楠木→楠と改姓したのは少し後の時代。
716日本@名無史さん:02/03/15 00:50
楠木流古流忍術の祖。  万川集海。
717東国の尊皇派:02/03/17 10:57
正平二年、十二月

遂に賊軍は二十カ国の兵を大動員して一大攻勢に討って出た。
率いるは稀代の大悪人高兄弟である。
この高兄弟はのちに悪人の代名詞となるほどの悪逆非道な輩で
北朝のきたならしき性質をよくもの語るものである。

一方楠木一族はこれを迎えうつべく正成の遺言に則り金剛山に
たてこもる準備をすすめていた。
しかし、この戦術を理解せぬ公卿より出陣せよとの矢のような
催促にあいやむなく平地での決戦に向かうこととなってしまったのである。

正行はこの時父正成がその策を入れられず湊川に向かった時の心境を
思い描いたという。

十二月二七日正行は吉野の御所を訪れた。
正行が今生の別れに参内したとの言葉を伝え聞いた後村上帝は
御簾をあげさせ、直接正行に必ず生きて帰れとの勅語を賜ったという。

まことに美しき南朝の主従関係。
南朝にはまことの心があった。

日本がまことの心を失い建前だけの表面的な関係で人間関係をごまかすように
なったのはじつに足利幕府の影響に他ならないであろう。
718日本@名無史さん:02/03/17 12:28
また、東国の尊皇派の妄想がはじまった
719日本@名無史さん:02/03/17 13:40
東国は佐幕派の牙城である。
720日本@名無史さん:02/03/17 14:37
東国は尊皇の温床だね。
東国撲滅あげ
721日本@名無史さん:02/03/17 16:54
相模・武蔵=佐幕派
常陸=尊皇派
が正解。
722某奥羽人:02/03/17 17:30
楠木は、皇国史観抜きにしても忠臣であることには変わりないと思う。
723日本@名無史さん:02/03/17 18:31
>>70
徳川光圀が、湊川神社に「嗚呼忠臣楠子之墓」
と刻した碑を建立したのは有名。
しかし僕が昔読んだ本では
「嗚呼」とは中国では馬鹿という意味
と書いてあった。
724日本@名無史さん:02/03/17 20:56
東国のキ印は物語をさも歴史であるかのように語り、
それで他人を教育しようとしているつもりだろうか?
つか、完全に板違いじゃないのか?
725日本@名無史さん:02/03/17 20:57
楠木ジュニアも桜井の駅で死んだの??
726日本@名無史さん:02/03/17 20:57
そもそもこの人、
史実と空想の違いがよくわかってないだけと違うのか?
727日本@名無史さん:02/03/17 21:07
>>723
じゃ、「嗚呼切腹美少年」とは「馬鹿な切腹をした美少年」って事だね(藁
728日本@名無史さん:02/03/17 22:59
>>722
楠木だけを「忠臣」として無批判に讃えることが皇国史観だというのが判らないのかね?
本当の歴史学ならなんで楠木が南朝に寄生しなければならなかったのかを解明する。無批判な人物礼賛は歴史学ではなく歴史「楽」
729日本@名無史さん:02/03/17 23:05
>東国の尊皇派さんよ
あんたのいう忠臣はなにも楠木親子だけじゃないべ。
四条隆資とか洞院実世とかについても語ってみれ。
そうでないと、東国の尊皇派の名を没収し、東国の楠木バカにすんぞ。
730日本@名無史さん:02/03/17 23:46
>東国の尊皇派
ゴラァ、捏造疑惑にさっさと答えろ!
731日本@名無史さん:02/03/18 08:14
東国よぅ、あんたのやってることはさ、
婦女子が「るろうに剣心」を読んで、
「斎藤一は死ぬまで正義を貫いたのよ!
 今の人たちは彼を見習わなきゃ!」
といってるのとどう違うの?
732日本@名無史さん:02/03/18 08:24
東国さんの葬列の人々

1 旗持ち
2 花持ち
3 花持ち
4 七本仏
5 塔婆持ち
6 花籠持ち
7 香持ち
8 位牌持ち
9 棺かつぎ
10 ローソク持ち
11 黒旗持ち
733日本@名無史さん:02/03/18 18:45
しかし、東国氏の言うように南朝には感動させられる物語が
多いのもまた事実。
北朝美談があるならきぼーん。
734南朝美談:02/03/18 19:05
楠木正行の奏上

「父正成、勤皇の軍を以て大敵を打ち破り、先皇の御心を休めまいらせ候。
しあるに、ほどなく天下また乱れ、逆臣西国より攻めのぼり候間、
かねて思い定め候いけるか、ついに湊川にて討ち死に仕り候。
その時、正行十一歳にて相成り候いしを、合戦の場へはともなわで、
河内へ返し、生きてあらん一族を助け養い、朝敵を滅ぼして御代を安んじ
まいらせよと申しおきて死して候。しかるに、正行・正時、すでに壮年に
及び候。このたびこそ、手を尽くして合戦仕り候わずば、父の申しし遺言に
も違い、かいなき世のそしりおも受くべく候。もしまた病にかかり、
早世仕ることも候わば、君の御ためには不忠のの身となり、父のためには
不幸の子ともなるべきにて候間、今こそ師直.師康の軍に立ち向かい、
身命を尽くして合戦仕り、かれらが首を正行が手に掛けて取り候か、
正行・正時が首をかれらに取らせ候か、二つのうちに戦を決すべきにて候。
おそれ多くは候へども、今生にて今ひとたび、玉顔を拝し奉らんために
参内仕りて候。」
735日本@名無史さん:02/03/18 19:06
w
736南朝美談:02/03/18 19:07
と申しもあえず、はらはらと涙を甲の袖に落としつつ、義心その気色に
あらわれければ、中納言、いまだ奏し奉らざる先に、まず、直衣の袖を
ぞぬらされける。

 主上、すなわち南殿のみすを高く巻かせて、玉顔殊にうるわしく、
諸卒をみそなわし、正行を近く召したまう。

「汝、二度の戦に勝つことを得て、敵軍の気を屈せしむ。
重代の武功、返す返すも神妙なり。大敵、今勢を尽くして来たるなれば、
今度の合戦は天下の安否たるべし。進むべきを知って進むは、
時を失わざらんがためなり。退くべきを見て退くは、後を全うせんがため
なり。朕、汝を以て股肱(ここう)とす。つつしんで命を全うすべし。」

と仰せ出されければ、正行、顔を地につけて、とかくも申しあげず、
ただこれを最後の参内と思い定めて退出す。
737日本@名無史さん:02/03/18 19:08
>南朝美談

感動した!
738日本@名無史さん:02/03/18 19:09
しかし、南朝の忠義談を漫画やアニメと同じ空想物語と決めつけてい
る連中は何を根拠にそんなことを言っているのかね?
739日本@名無史さん:02/03/18 19:18
桜井の宿の別れの根拠が薄いことはすでに説明済みですが?
っていうか南朝の忠義談じゃなくて、
太平記そのものがそもそも物語りだといってるんですけど?
まさか、あれが史実を元に作られた物語であることを否定しませんよね。

物語と史実は違いますよ(w
740日本@名無史さん:02/03/18 19:25
つまり例えるとするならばあなたのしていることは、
「斉藤さまが名前を変えて新政府の警官になったのは史実なのよ。
 だからるろ剣はぜんぶ本当にあった出来事なの(はあと
 斉藤さまは志士雄と戦ったのよ!」
というぐらい笑止なこと。

史実を基にした作品というだけで
そのすべてを検証することなしに肯定してることなので、
腐女子と同レベルの行為であり、どちらかというと同人板へ流れてもらいたいねえ。
741日本@名無史さん:02/03/18 19:35
100%ではないとしても、史実に基づいたのが「太平記」
>738
たぶんそんな連中は、「源氏物語」と「太平記」も同じジャンルだと思っているよ。
それだけではなく、史実までこじ付け、捻じ曲げるのは如何なものかなと。

中国では三国志の関羽が忠臣として尊ばれている。
日本で大楠公が尊ばれても不思議ではない。
忠臣は美徳だからね。まあそれが連中には気に入らないから絡んでくるのだろうよ。

742日本@名無史さん:02/03/18 19:39
北朝は仲間割れ、欲望、喧嘩が美談なのか。
クラゲ並の単細胞で感情・本能のみで対応していたという事が良くわかる。
743日本@名無史さん:02/03/18 19:39
>100%ではないとしても、
問題はここでしょ。
他の資料を参考にしたうえで、桜井の別れはあったというならともかく、
自分の主観(といよりイデオロギーか)すら交え、
あまつさえ都合の悪いところは元の太平記の記述さえ捻じ曲げる。
それは歴史となんか関係あることなのでしょうか?

歴史と関係のないことなら日本史板以外のところでやっていただきたいものです。
744日本@名無史さん:02/03/18 19:41
世の中にはそのクラゲ並みの連中に
こてんぱんにのされてしまった哀れな親子もいるのですから、
あまりそういうことをいわないように!
745日本@名無史さん:02/03/18 20:39
誰がなんと言おうとも、足利尊氏と楠木正成のどちらの
生き方に感銘を受けるかと言えば、一般の人のほとんどは
楠木正成だろね。

間違いなく。
746日本@名無史さん:02/03/18 20:41
と申しもあえず、
はらはらと涙を
甲の袖に落としつつ、
義心その気色に
あらわれければ、
中納言、
いまだ奏し奉らざる先に、
まず、直衣の袖を
ぞぬらされける。
747日本@名無史さん:02/03/18 20:42
楠木正行の奏上

「父正成、勤皇の軍を以て大敵を打ち破り、先皇の御心を休めまいらせ候。
しあるに、ほどなく天下また乱れ、逆臣西国より攻めのぼり候間、
かねて思い定め候いけるか、ついに湊川にて討ち死に仕り候。
その時、正行十一歳にて相成り候いしを、合戦の場へはともなわで、
河内へ返し、生きてあらん一族を助け養い、朝敵を滅ぼして御代を安んじ
まいらせよと申しおきて死して候。しかるに、正行・正時、すでに壮年に
及び候。このたびこそ、手を尽くして合戦仕り候わずば、父の申しし遺言に
も違い、かいなき世のそしりおも受くべく候。もしまた病にかかり、
早世仕ることも候わば、君の御ためには不忠のの身となり、父のためには
不幸の子ともなるべきにて候間、今こそ師直.師康の軍に立ち向かい、
身命を尽くして合戦仕り、かれらが首を正行が手に掛けて取り候か、
正行・正時が首をかれらに取らせ候か、二つのうちに戦を決すべきにて候。
おそれ多くは候へども、今生にて今ひとたび、玉顔を拝し奉らんために
参内仕りて候。」
748日本@名無史さん:02/03/18 20:56
>>745
世の中世知辛いから、正成の生き方に感銘はしても、実際には尊氏
の生き方の方が好まれそう。
やっぱり競争社会では、負け組みよりも勝ち組みの方が人気がある
と思うから。
749日本@名無史さん:02/03/18 21:11
だからさあ、誰がなんと言おうともってさ、
「誰がなんと言おうとも沖田総司は美少年!
 物語でそう書いてあるから」ってのは、
同人女の主張で同人板でやってよ。

俺が疑問を感じてるのは楠公の生き方じゃなくて、
物語を検証することもなく史実と混同している
あんたのやり方が日本史板においてやるべきことかといってるのがわかる?
750日本@名無史さん:02/03/18 21:19
でさ、正行の奏上とやらがコピペされてるけど、
これは南朝時代の奏上の文言、あるいは言い方としてひどくおかしいと思わない?
明らかに室町期以降において作られた語調だよね。
同様の奏上内容があったことを裏付ける資料を出すこともなしに、
太平記に書いてあるからってこれを読んで感動せいといわれても困るよ。

そもそも正行が後村上と会ったことは史実なのかよ?
太平記の記述のもととなった資料はなんなの?
そういうやり取りもできないなら、別に日本史板でなくて、
イデオロギー板とか同人板でやってくれ。
751日本@名無史さん:02/03/18 21:32
どんなDQNな主人にも盲従して命差し出せゴラ!てのが楠木礼賛派の主張だろ。
752日本@名無史さん:02/03/18 21:36
天皇は武士の忠義の対象にはなりません。
あくまで武士の忠義の対象になるのは武家の棟梁です。
よって楠木正成は異端です。
753日本@名無史さん:02/03/18 21:54
南朝関係のお話しは近世以降に捏造されたものが多い。史料的裏付けの無い話しをまともな史家は語らない。
754東国の尊皇派:02/03/18 21:55
悪党出身の楠木正成が武士として異端なのは当たり前だろ。
何をいまさらって感じだね。

この時代、権力の犬と化した既成武士どもに対抗するために異端者
達は天皇に忠誠を誓ったんだよ。
そう、彼らにとって天皇とは自由と希望の象徴だったのさ。
755日本@名無史さん:02/03/18 22:00
>>753
捏造したという確証を出さない(結局説ばっか)史家は2ちゃんに集まるようだ。
史料的裏付けを聞かせて欲しいね。
結局意図的に別の資料から持ち出した説ばかりだしね。それも年代が開いていたり。
なんか、ここの忠臣否定論者の言っていることが本末転倒なことばかりなんだが。
756日本@名無史さん:02/03/18 22:04
753は太平記が近世以降に成立したと思っているアホ。
おまえこそお話しにならねーよと言ってやりたい。
757日本@名無史さん:02/03/18 22:07
とはいえ太平記なんていう小説を原資料にされても困るのだが(w
758日本@名無史さん:02/03/18 22:10
成立は1370年ごろ。
>この太平記は僧(そう)による説教の後の余興(よきょう)として語られ、
>やがて講釈師(こうしゃくし)による「太平記読み」として確立された。
だそうな。
759日本@名無史さん:02/03/18 22:14
ただし、756は南朝関係の話と太平記を混同しているアホなので、
そもそもお話にならないが。
人の書きこみをよく読めよといってやりたい。
760日本@名無史さん:02/03/18 22:17
ところで太平記についてまともに語ると、
武功関係以外はほぼ史実に即しているというのが定説だろう。
もっとも坊さんが説教した後の余興なんで、
勧善懲悪話、つまり正成・正行関係は相当割り引いて考えるべきだと思う。
他の資料による裏づけがない限りあんまり信用するのはどうかといったところですね。
761日本@名無史さん:02/03/18 22:18
>>755
有るという奴が史料出すのが当たり前だろバカ。
お前の5代前の先祖がニホンザルだ、違うというなら証拠出せ、無いならお前はニホンザルだ。と俺が言ったらどうする?

>>756
太平記なんて戦前から「史学に益なし」と言われているんだぞ、お前は死らんだろうが。(藁
762日本@名無史さん:02/03/18 22:18
>>754
旧権力の犬って普通に考えれば南朝方につくことだろが。
763日本@名無史さん:02/03/18 22:21
楠木は静岡あたりの御家人出身だという説が、また有力になってきた。
北条家に背いた裏切り者だよな。
764日本@名無史さん:02/03/18 22:22
>>754
近世以前、自由=自分勝手に傍若無人に振る舞う という意味だがご存じかな?
765日本@名無史さん:02/03/18 22:26
>>764
御家人じゃなくて身内人。
御家人は将軍の家人。身内人は得宗家の家人。どうやら霜月騒動で安達氏側にたち失脚したらしい。
766日本@名無史さん:02/03/18 22:28
>>765
そっか、サンクス。
767765:02/03/18 22:28
訂正
764→763
768日本@名無史さん:02/03/18 22:31
結局、天皇を利用して無茶苦茶やろうとした裏切り者なのですね。
769日本@名無史さん:02/03/18 22:33
>>762
南朝が旧権力とは言えないよ。
後醍醐は先例を無視しまくりで、その点を北畠親房が「職原抄」の中で
批判してる。
つまり後醍醐は現実離れした政治を行おうとして、武士勢力ばかりか伝
統的な摂関家を中心とした公家勢力からも反発を受けて、その結果3年
足らずで建武の新政が崩壊したのだと言えます。
770日本@名無史さん:02/03/18 22:36
その通り!769さん。
後醍醐=コヴァなんですよ。
771日本@名無史さん:02/03/18 22:45
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   <  おらっ!出てこい東国の尊皇派!!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
     |   /       |    |/   /     \
     |    | |     |    ||    | |   /\\
     |    | |     |    |  へ//|  |  | |
     |    | |   ロ|ロ   |/,へ \|  |   | |
     | ∧ | |    |    |/  \  / ( )
      | | | | >    |    |     | |
     / / / / |     |    〈|     | |
     / / / / |     |    ||     | |
    / / / / └──┴──┘     | |
772日本@名無史さん:02/03/18 22:55
何回も言うようだが、東国の尊皇派さんよ。
楠木親子以外にも南朝の歴史を語ってみろや。
何回も要求してるのに応答がないからこっちから言うが、
おめえ、歴史しらんだろ?
楠木正成説話に酔ってるだけなんだろ?
てめえは「尊皇」の名をかたる、ただのヴァカなんじゃねえのか?

そうだな、おめえ歌が好きみたいだから、
次の漢詩を説明してみれ。
「テンコウセンヲムナシウスルナカレ、
 トキニハンレイナキニシモアラズ」
「尊皇派」なら常識だよね。
773日本@名無史さん:02/03/18 23:03
>東国の尊王派さんへ
 たびたびあなたが仰られる戦後死滅してしまった価値観ですが、
あなたのいう価値観では自分の都合のいい作り物だけを歴史として扱うことが、
戦前にはまかり通っていたのでしょうか。
そうあなたが考えているとしたら、
現代だけでなく戦前の人間まで馬鹿にしたとんでもない話なので、
もう少し論拠をそろえてから出直すことを要望します。
ここはあなたの脳内の妄想を垂れ流して他人に強要するところではありません。
774日本@名無史さん:02/03/18 23:11
楠木美談は藤村旧石器と同じレベルの恥話として史学界では思われている。
775日本@名無史さん:02/03/18 23:15
実際は楠木美談って多くが創作なんでしょ?
776日本@名無史さん:02/03/18 23:21
現存する太平記は江戸時代の写本だったっけか。
楠美談はほとんど江戸期の講釈師のでっちあげ。
まあ、三国志演義の孔明みたいなもんだわな。

正成が面白いやつだったのはそれで否定できるわけではないが。
梅松論なんぞでも絶賛されてるしね。
777日本@名無史さん:02/03/18 23:24
正成にしろ後醍醐にしろ、尊氏にしろ、彼らは自分が正しいと思うことを信じて遣ったんだから後世の何もしらんアホにアーだコーだといわれるのは心外だと思う。
きちんとした史料に基づき彼らの行動と背景を考察するのが史学の常道。
778日本@名無史さん:02/03/18 23:26
アズマの狼煙をいまこそぶちあげ、
テンコロ、中央集権、親米クソ政権、南蛮文化礼賛政府を打倒するのだ!
アズマ人よ、蝦夷人よ、アイヌ人よ、ウチナー人よ、郷土で団結し、
主権国家日本を打倒し、テンコロの150年にわたるクビキを断ち切るのだ!(藁
779日本@名無史さん:02/03/18 23:27
後鳥羽の承久の乱が失敗したのも、摂関家を無視して院の近臣を中心
とした倒幕運動だったから。
後醍醐の建武の新政が失敗したのも、これまた摂関家を無視して天皇
の近臣中心で政治を進めようとしたから。
王朝政治にとって摂関家は重要な存在だから、摂関家の支持を受けな
ない政治体制では、武家勢力に敗北するのは当然の事だと思います。
780日本@名無史さん:02/03/18 23:31
楠木某を賛美する水戸学・尊皇思想は、東国人の本流である相模・武蔵人の培ってきた
正統なアズマ思想を を否定する東国自虐思想にほかならない。
我ら真の東国人である相模・武蔵派は、堕落した裏切り分子の水戸学派を東国から
追放し、東国人の、東国人による、東国人のための非天皇制政治を志向する鎌倉
武士の精神を復権させなければならない。
鎌倉武士の道理においては武家の棟梁に殉ずる事は善である。
そして義の正統を無視する悪党楠木某が奉じていた悪辣な京都の天皇政府に対して
我ら鎌倉武士は反逆・抵抗する権利を必然的に有するのだ。
781日本@名無史さん:02/03/18 23:37
>779
ヴァカ。もう少し朝廷の政治史を勉強し直していらっしゃい。
それじゃ「東国の尊皇派」くんと同レヴェルだよ。
782日本@名無史さん:02/03/19 01:23
どんなDQNな物語りでも盲信して感動しろゴラ!てのが楠木礼賛派の主張だろ。
783日本@名無史さん:02/03/19 01:35
要するに尊皇もアズマもDQNてことだね。
784日本@名無史さん:02/03/19 05:43
尊皇はDQN、アズマは正統。
785日本@名無史さん:02/03/19 06:20
アズマはDQN、東国の尊皇派はウ・ソ・ツ・キ。
786日本@名無史さん:02/03/19 19:00
>>763
その根拠は何なんだ?
何度も言うが楠木正成の出自は未だ不明であるぞ。
そうやっていいきることができる新事実でも発見したのかね?
787日本@名無史さん:02/03/19 19:05
しかし、太平記が楠木一族の感動悲話を語り継いで
いるのは当時の人々の圧倒的な支持があったからこそ
という民衆感情を無視して歴史を語る唯物史観論者どもには
辟易させられるな。

物質と現代的視点でのみしか歴史を語れない貧弱な
精神の持ち主のマルクス教に洗脳された輩には楠木正成の
存在までもが疑わしいものなんだろな。
つまらないやつらだ。
788日本@名無史さん:02/03/19 19:08
>>787
まったく同感です。
連中からすれば大東亜戦争後に立憲君主制が国民の圧倒的な支持に
よって存続したという事実も単なるGHQの政策くらいにしか
思えないんだろね。
ほんとに貧弱な歴史眼ですね。
789北に帰れ!:02/03/19 19:17
南朝の物語を素直に感動できない輩は気の毒だな。
こういうバカどもはお札の聖徳太子を見て「これは聖徳太子ではない」
とかぬかすんだろな。
彼はあの聖徳太子の絵が描かれてからつい最近に至るまで全ての
民衆がこれは聖徳太子の絵であると思ってきた事実を無視しているのである。

こういう民衆の感情を理解できないやからが共産独裁を夢見るのである。
790日本@名無史さん:02/03/19 19:21
だからさあ、物語に感動するとかって
日本史板でやることじゃないでしょ。
何度言えばわかるのよ、あんたたち。
ここはあんたらの脳内の妄想を垂れ流すとこじゃないってばよ。
791日本@名無史さん:02/03/19 19:23
>>787
まったくそのとおりです!
よくぞ言ってくれたという感じですね。

太平記も忠臣蔵も民衆の支持があってこそのものという
ことですね。
おそらく当時の楠木正成に対する民衆感情は日本全国で
支持率90%以上はあったものと思われます。

それはもちろん東国でも同様でもしも東国人が楠木感動物語を
受け入れなかったら東国では太平記は語られなかったという
新事実が発見されねばなりませんね。
792日本@名無史さん:02/03/19 19:25
でな、一言だけ言っといてやるけど、
太平記の成立は1370あたりじゃないかといわれてるぞ。
どこが当時の人々なのよ。
南北の連中が実害を及ぼさなくなったころの人々。

ついでにいえば楠美談が吹聴されるのは、
さらに下って江戸時代の講釈師が創作し始めてから。
マルクスとか唯物史観否定といった難しい言葉持ち出すまえに
自分の行いの愚劣さを改めたし。
793日本@名無史さん:02/03/19 19:28
もうすこしあんたらのやってることを例えてみようか。
「孔明は中国史上最高の名将である。
 なぜなら民衆が支持する『三国志演義』を見ればわかる。
 赤壁の戦いを勝利を導いたのが彼であることはあきらかである」

なあ、せめて正史である三国志の記述と突合せるくらいの努力もしないで、
民衆に愛読された「物語」を元にして歴史を語るのがどれくらい恥ずかしいことかわかってくれや。
794日本@名無史さん:02/03/19 19:29
網野善彦  まんせー 最強。
795日本@名無史さん:02/03/19 19:30
つまりあんたらのもつ歴史眼とやらは、
空想である物語と現実の区別もつかないものでしかないし、
それが豊かな歴史眼なのかと問いたいね。
796日本@名無史さん:02/03/19 19:31
美談だったから美談になっただけ。
逆はありえんのは確実だな。
797日本@名無史さん:02/03/19 19:35
梅松論なんか尊氏の美談がいっぱい載ってるよ。
美談だったから美談になっただけ。
逆はありえんのは確実だな。

もっとも東国の尊皇派は太平記の尊氏美談を捻じ曲げて脅迫にしてるがね。
ほら、正成の首を返したのを脅迫と捏造したやつ。
美談だったのに美談じゃなくなることもできるんだねえ、楠崇拝者によれば(w
798日本@名無史さん:02/03/19 19:35
静岡出身「説」を得意げに語っても、太平記を「物語」と片付けるのと同じレベルという事。
799日本@名無史さん:02/03/19 19:37
>>798
なるほど、静岡出身「説」は最近(戦後)捏造されたという事ですか。
楠木美談捏造と同じですね。
800日本@名無史さん:02/03/19 19:37
その静岡出身説も同レベルだというのにはソースがないから賛成する。
悪いけど同じレベルで検証もされない美談をばら撒く連中とお似合いじゃない?
801日本@名無史さん:02/03/19 19:39
梅松論でも楠木は美談扱いじゃなかったっけ?
802日本@名無史さん:02/03/19 19:40
梅松論において楠木なかなかやる奴と評価されてる。
803日本@名無史さん:02/03/19 19:47
>>793
中国では孫悟空が実在した人物として民衆に崇められている
事実を知らんのかね?
804日本@名無史さん:02/03/19 19:55
それ歴史と関係あるんですか?
楠木美談も孫悟空並だというなら理解できるんですが(w

じゃあこうしよう。
ドラゴンボールは何億冊も売れ民衆に支持されている。
だから孫悟空は実在し、スーパーサイヤ人も存在する。
これが歴史の定説です!

すいません、馬鹿の相手は馬鹿レベルまで落ちますね。
805日本@名無史さん:02/03/19 20:08
まあドラゴンボールが二百年以上語り継がれたら少しは認めてやろう。
806日本@名無史さん:02/03/19 20:12
アホなやつだな。
804は竹取物語と将門記の区別もつかないお子様らしい。

お子様はお子様らしくドラゴンボールを探す旅にでもいきなさい。
ここはキミのようなぼうやが来るとこではありませんよ(w
807日本@名無史さん:02/03/19 20:28
いや物語と史実の区別ができない人の真似をしただけなんですけど。
何度もいってるとおり物語を検証もなしに垂れ流すのは日本史板以外でおやりください。
808日本@名無史さん:02/03/19 20:29
とりあえず、桜井の別れがあった資料は出てこないんですか?
楠美談のいちばん有名な奴なんですけど。
やっぱでっちあげ?
資料をだしもせずに民衆の支持としかいわないのはでっちあげの証拠にしかみえませんよ。
809日本@名無史さん:02/03/19 21:18
>>798、799
静岡出身説は吾妻鏡に駿河の楠木某という武士が出てくるから。
810日本@名無史さん:02/03/19 21:25
>809
なんじゃそりゃ。
それがどうやって楠木正成につながるのか説明せよ。
811日本@名無史さん:02/03/19 21:31
駿河楠木郷=得宗領
正成の本拠地水分=得宗領
から得宗被官としての楠木氏の存在が想定される。
812日本@名無史さん:02/03/19 22:00
駿河の楠木一族が西国のさまざまな得宗領で領家とかを務めているんじゃなかったか?

戦前にも、高野山の史料の中に、楠木が鎌倉御家人だとか書いたものがあることは知られていた。
が、戦前にはそれだけのことではあまり信用されなかったとか。
813日本@名無史さん:02/03/19 22:11
>809
それくらい知っているよ。
要は、年代が空き過ぎている事と、ちょこっと記載されていただけで
南北朝時代の楠木正成と結ぶものがないだろう。

「想定」って意図的に当てはめたと言う事だよな(藁)
814日本@名無史さん:02/03/19 22:12
>>809
その説自体が何か?
楠木美談を否定するに値すると思っているの?
815日本@名無史さん:02/03/19 22:14
観心寺は安達泰盛の荘園だったのか。
これが大きいな。
816日本@名無史さん:02/03/19 22:20
>815
安達泰盛の荘園の家来は平頼綱を憎んで、
長崎氏実を支持したという事ですか。それが何か?
817日本@名無史さん:02/03/19 22:21
駿河入江庄に楠木村があるそうな。
平頼綱が滅んだ直後に、ここは鶴岡八幡宮に寄進とな。
吉河、興津などの庄内の武士団は、
淡路や播磨の小地頭として派遣された。
楠木も得宗領と推定される観心寺の支配に振り向けられたのではないか。
なるほどな。
818日本@名無史さん:02/03/19 22:22
なによりも、大阪近辺に楠木って地名はないもんな。
他から来たというのは事実なんだろうな。
819日本@名無史さん:02/03/19 22:24
>>812
その史料では、確か、北条高時の家人というような表現だったと思う。
820日本@名無史さん:02/03/19 22:25
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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821日本@名無史さん:02/03/19 22:32
楠木は、非常に不利な反乱をした事になるな。
後醍醐隠岐流罪で、普通諦めるだろうな。
領地や褒美で釣って、寝返ったりもしないしなあ。
楠木は基地外なのか?
822日本@名無史さん:02/03/19 22:32
北条高時に背いちゃいかんな。
なにが忠義なんだか。
823日本@名無史さん:02/03/19 22:33
おいおい既成事実になったんかよ
824日本@名無史さん:02/03/19 22:34
既に筧雅博は既成事実として書いてますがなにか?
825日本@名無史さん:02/03/19 22:37
なんで根拠もありもしない楠美談にこだわるのか(w
826日本@名無史さん:02/03/19 22:42
北条高時ってあのバカボンボンかよ。
827日本@名無史さん:02/03/19 22:43
それじゃ愛想も尽くわな、というようなことをいってはいけない
828日本@名無史さん:02/03/19 22:44
愛想をつかしたら忠義にならんだろ。
829日本@名無史さん:02/03/19 22:45
>>825
こだわるとかじゃなくて、天皇に忠誠を貫いた武士を
普通に賞賛しているだけ。
日本人として当り前のことだよ。(藁)
830日本@名無史さん:02/03/19 22:46
その楠美談の史実的な実在性を問うておるのだが・・・
日本史板住人として当たり前のことだよ(w
831日本@名無史さん:02/03/19 22:47
最近この時代の書物を読むが、やはり尊氏は逆臣ですな。
832日本@名無史さん:02/03/19 22:47
世間の感覚とのズレに、ここでオナニーしたかったわけですね>829
833日本@名無史さん:02/03/19 22:48
>>831
なにを読んだんだよいったい(w
834日本@名無史さん:02/03/19 22:49
>>830
たまげた。正成は一体誰に忠誠を誓っていたのだ。
こりゃ話にならん。
835日本@名無史さん:02/03/19 22:50
こだわるとかじゃなくて、天皇に反逆した武士を
普通に賞賛しているだけ。
関東人として当り前のことだよ。(藁)
836日本@名無史さん:02/03/19 22:50
堂堂巡りで何時の間にか800超えてたのか。ふぅ…
837日本@名無史さん:02/03/19 22:51
北朝からみればまごうかたなき逆臣ですが。
ちなみに現在の皇室は北朝の末裔ですよ。
明治帝、大正帝、昭和帝のご先祖様に敵対した逆臣でしかありませんな。
このようなろくでなしに加担するあなたが日本人として当たり前だとはとても思えません。
朝鮮の方ですか?
838日本@名無史さん:02/03/19 22:52
>835
なんだ、アフォのアズマかよ。はいはい。(藁)
839日本@名無史さん:02/03/19 22:53
>>837
その認識は、チョンだけですが。
840日本@名無史さん:02/03/19 22:53
この名物ウヨク(1)は、昔からずっといて、
こんな感じのレスを付け続けているから、
どうどう巡りといえば、ここ数年、ずっとそうなんですが(藁
841日本@名無史さん:02/03/19 22:55
>>834
誰にとかいう問題ではなくて、
史実の話をしているのだが・・・というか何を言いたいのかよくわからん。
楠美談なんて大半がでっち上げじゃないのかいという疑問だよ?
せめて信頼できそうな資料を出してください。
842日本@名無史さん:02/03/19 22:56
>837
なんだ、アフォの新井(うよ)かよ。はいはい。(藁)
843日本@名無史さん:02/03/19 23:00
ここの1氏と東国氏とは別人だし、他にも楠木正成を支持した
書きこみは多いけど、それに反対してるやつって一人か二人だろ。
どう考えても楠木美談は人々の支持を受けていると思うがな。
844日本@名無史さん:02/03/19 23:01
>>843
一人じゃないと思うよ。
845日本@名無史さん:02/03/19 23:02
孤立無援四面楚歌のアズマさらしあげ
846日本@名無史さん:02/03/19 23:03
>>943
なんで別人ってわかるの?
また、楠木支持と後醍醐天皇支持は別だぜ。
847日本@名無史さん:02/03/19 23:04
このスレにおいて二回以上楠木正成支持の書きこみを
している人間は推定四人以上。
一方それに反対して尊氏を賛美しているのはアズマのみ。
さびしいね。
848日本@名無史さん:02/03/19 23:04
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
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     (   )| |_____    ∧_∧   <  おらっ!出てこい東国の尊皇派!!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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849:02/03/19 23:05
南朝支持派ですが何か?
850日本@名無史さん:02/03/19 23:05
別に楠木正成自体を否定してるわけじゃないよ。
ただ根拠もない作り話をさも史実であるかのごとく語るのが、
日本史板的にまともなやりかたなのかいと問うているだけなんだから。
太平記・梅松論を付き合わせると、敵味方に一定の存在感をもって受け止められていたのは事実だしね。

たった二つの史書さえつき合わせることさえしないのは
ひどく根拠の薄い話じゃないのかねえ。

851日本@名無史さん:02/03/19 23:05
史実ではなく、たんに>841は「疑問」を並べていただけだったのか。なんだ。
だったら歴史疑問専用板がいるのでは。
852日本@名無史さん:02/03/19 23:06
>>847
楠木叩きのアズマは少なくとも3人はいるよ。
853日本@名無史さん:02/03/19 23:06
事実確定で敗れたウヨが、
今度はアズマだなんだと言い出したぞ。
854:02/03/19 23:08
>850
太平記の記述を根拠のない作り話しだという根拠は何?
855日本@名無史さん:02/03/19 23:08
>>853
楠木美談肯定派のことですか?
856日本@名無史さん:02/03/19 23:08
つうか、楠木を自分の思うような形につくり変えて、
オナニーをすることが問題なんだろ。
それが楠木への冒涜だってことすら、ウヨはわからんらしい。
857日本@名無史さん:02/03/19 23:09
>>852
まあ、そのハッタリを認めてやったとしても楠木支持者は
その数百倍はいる。
858日本@名無史さん:02/03/19 23:10
桜井の別れを描写したものが太平記以外にないということと、
(桜井に軍を留めるべきという理由もない)
当時の状況的に11歳の嫡子を連れ歩く理由もない。
簡単にいえばそんなとこかな。
859日本@名無史さん:02/03/19 23:10
太平記を普通に読めば、
楠木が後醍醐天皇にあてつけて死んだととれるがね。
860日本@名無史さん:02/03/19 23:12
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   <  おらっ!出て来い嘘つきの東国の尊皇派!!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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861日本@名無史さん:02/03/19 23:12
>856
ただ「楠木」という文字があるだけで楠木正成の出自を無理やり
静岡だとか北条被官だとか強弁してはばからないバカよりマシだと
思うがな。
862日本@名無史さん:02/03/19 23:13
楠木を利用する皇国史観の亡霊(ウヨク)の精神が問題
863日本@名無史さん:02/03/19 23:14
>>857
別に何10人何百人いようと
事実とは別物だってわかって言ってる?
ただのでっちあげをどれだけの人が支持しようと、
でっちあげが事実に変わるわけじゃないよ。
そういう話は思想・イデオロギー板でやってよ。
864第三の南朝支持者:02/03/19 23:14
俺は1でも東国の尊皇派でもないが彼らの言うことを支持するぞ。
特に東国さんの南朝物語は感動した。
痛みに耐えてよくがんばったと言ってやりたい。
865日本@名無史さん:02/03/19 23:16
>>861
北条ヒカンという理解はもう一般化してるよ。
866第三の南朝支持者:02/03/19 23:16
アズマの尊氏賛美には何の感銘も受けないばかりかアホらしくて
うんざりした。
それに引き換え楠木派の書きこみには熱いほとぼりを感じた。
魂を揺さぶられるような感じだ。
867日本@名無史さん:02/03/19 23:17
>>861
え?
あまり室町前期くらいまでは土地と名字の一致性って信用おけるはずなんだが。
っていうかかなりの例外を除いて在所を離れることないんだけどね。
楠木の郷にいるのが楠木一族ってそんなにおかしなことなの?
868日本@名無史さん:02/03/19 23:17
>>864
わかりやすい自作自演だね(わら
869日本@名無史さん:02/03/19 23:18
>865
そりゃいつからだよ。
楠木正成と推定される最古の文書にはそんなことは
書かれてないぞ。
自分の常識を勝手に一般化するな。
870日本@名無史さん:02/03/19 23:19
なんででっちあげに心揺さぶられるのかねえ。
そりゃ現実である史実は感動性に乏しいのはわかるけど、
泣かせるべく作られた虚構の方がいいかもしれんが。
メロドラマのほうが好きだというなら、
無理に日本史板にいる必要ないんじゃないの?
871日本@名無史さん:02/03/19 23:19
足利氏の本願地が栃木県じゃないって言うようなもんだね。
872日本@名無史さん:02/03/19 23:20
>>869
意味不明。
なにを指しているんだか。
873日本@名無史さん:02/03/19 23:22
>>864
東国キタ━━━━━━(゚∀゚)━━━━━━ !!!!!
874日本@名無史さん:02/03/19 23:23
皇国史観で楠木正成を侮辱するな!だな(藁
875日本@名無史さん:02/03/19 23:24
>867
おまえ基礎からやり直せ。
この時代既にそんな前時代的な同族同郷組織は崩れてきているだろが。
876日本@名無史さん:02/03/19 23:25
>872
知らんのかボケ
877日本@名無史さん:02/03/19 23:26
>>875
揚げ足取りをせずに、筧の本でいいから批判してみろや。
878日本@名無史さん:02/03/19 23:30
楠木ヲタのドキュン振りには呆れ返るだけだけどね

小説読んで感動→小説は歴史ではないと指摘される→歴史の方を捩じ曲げる

ここは歴史板なんだから小説に出て来る楠木の賛美は他でやってよ
879日本@名無史さん:02/03/19 23:30
観心寺の辺りが得宗領だったのなら
そこの有力者の楠木はその代官ぐらいの存在だったと解釈するのは自然。
また、大阪近辺に楠木という地名がないので、
本願の地がよそだったと考えるのも自然。

そこに、駿河の状況と、北条高時の被官だったという史料を付き合わせば、
だいたい出てくる結論は見える筈だがな。
880日本@名無史さん:02/03/19 23:32
楠木崇拝者は正成の先祖が
大阪の木の股から生まれたとでも言いたいのだろうか?
881日本@名無史さん:02/03/19 23:32
国外からやってきて、北条の領地で有力者・・
882日本@名無史さん:02/03/19 23:32
>>867
名田の話しをしているんだろが、その発生期ならともかく
この時代になっても名と名田の関係が信頼できるものかね?
そのうえ当時、日本国中でそこしか楠木という地名がなかったと
断言きるのか?
883日本@名無史さん:02/03/19 23:35
>>882
今までの話を聞いて、そんな話しかできんのか?
つうか、筧の本も持ってないの?
884日本@名無史さん:02/03/19 23:36
>>882
弱い弱い。
885日本@名無史さん:02/03/19 23:37
この場合問題になるのは河内の地名じゃないのか?
ならば断言できるね。
882はなにをたわごと言ってんだか。
886日本@名無史さん:02/03/19 23:37
尊皇ヲタの嘘八百を暴いて、天ヲタ殲滅!
887日本@名無史さん:02/03/19 23:37
あわれだな、882
888日本@名無史さん:02/03/19 23:38
どうした、882、反論しないと負けじゃ
889日本@名無史さん:02/03/19 23:38
ウヨは楠木の実態を歪めて、楠木を侮辱しているとは思わないのかね?
890日本@名無史さん:02/03/19 23:39
つか正成(あるいはその先祖)が北条被官だったら、
882的になにがまずいわけ?
891日本@名無史さん:02/03/19 23:40
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
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     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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892日本@名無史さん:02/03/19 23:40
河内もそうだけど、大阪に楠木という地名は見つかっていない、
というのは再三指摘されてきたこと。
それに、地名辞典も数種類出ていて、
全国の地名の分析はかなり進んでいるんだよね。
893日本@名無史さん:02/03/19 23:42
北条高時の家人だったという史料もあるので、
そうなれば、幕府を裏切ったことになるでしょ。
だから「忠義の臣」で押し通せなくなるので困るんでしょ。
894日本@名無史さん:02/03/19 23:43
>>889
楠木の実態?後醍醐帝の忠臣であることか?
そのまんま事実じゃん。
895東国の尊皇町奴:02/03/19 23:43
>>879>>880
やいやい、チンピラめ。
吉原で安く遊べるだとか江戸時代は乱交パーティーだとか
適当なウソ八百を並べ民心を惑わしめし悪行の数々もはや
許さぬぞ。
楠木正成につていの初出の最古の資料には臨川寺若松荘を
不法占拠する悪党としての登場なるぞ。
幕府の犬がわざわざ幕府の秩序を荒すようなことをするのか?
おとといきやがれってんだ。
896日本@名無史さん:02/03/19 23:44
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   < まともなこといわんかい!皇国史観ヲタ!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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897日本@名無史さん:02/03/19 23:44
あ、なるほどね。
俺は正成とか尊氏って面白いやつだよな、としか思ってないから、
正成至上主義者にとっちゃまずいわけだ。
898日本@名無史さん:02/03/19 23:44
>>895
わりに有り得たことじゃん、この時代。
899日本@名無史さん:02/03/19 23:44
で、高時家人だったという結論ですか?
900日本@名無史さん:02/03/19 23:45
君の表現だと当時の日本の正当な武家は北条の犬になるんですが?
901日本@名無史さん:02/03/19 23:46
高時の家人のくせして、天皇に寝返るなんて武士のかざかみにもおけない
楠木正成は、裏切りまくりの乞食侍
902日本@名無史さん:02/03/19 23:48
誰が誰に向って言っておるのかわからん状態じゃな。
903日本@名無史さん:02/03/19 23:48
>>901
それは君の所感か。史実史実と言いながら個人的感情論を展開していた訳だ。
904日本@名無史さん:02/03/19 23:49
新興武士(悪党)である正成が従来のような土地にしがみついた
鎌倉武士と同じような存在であると決めつけているアカデミー信仰者
どもは痛過ぎるな。
楠木正成は従来の武士とは違うんだぜ。
なぜその苗字が名田と結びついている必要があるんだ?
むしろ楠木正成の機動力を見れば名田と結びついた従来のへっぽこ武士とは
異質な存在であることは明白だろ。
905日本@名無史さん:02/03/19 23:50
高時家人というのは、
確か16世紀ぐらいにつくられた、
高野山の史料目録みたいなものに乗っているんだよ。
ここに乗っている史料は、現物がいくつも高野山に残っていて、
わりに信用できるらしい。
しかし戦前には、ほとんど無視されてたんだよ。

だけど、観心寺と得宗家の関わりがわかってきた昨今、
これと付き合わせれば、新しい認識ができると思う。
906日本@名無史さん:02/03/19 23:50
正成が裁判能力をなくした幕府を見限って、
新たにその能力を期待できそうな天皇家を立てたとするならば、
それはまったく常識的な判断だと思うがねえ。

それともお上になにも求めることなく忠義を尽くし続けるという虚像、
(この虚像はほとんど思想的な狂人でしかない)
そうでなきゃ楠木崇拝者は満足できんのか?
907日本@名無史さん:02/03/19 23:50
じゃ、楠木の由来は?
908日本@名無史さん:02/03/19 23:51
>901は尊氏も裏切りまくりの乞食侍と言っている事になるな。
見境もなく、手当たり次第もいいとこだな。
相手にする価値もない。
909日本@名無史さん:02/03/19 23:51
>904
尊氏信者どもの盲ぶりが暴露されましたね
910日本@名無史さん:02/03/19 23:51
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   < 裏切り者コウモリ野郎の正成をふくろにしようぜ!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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911日本@名無史さん:02/03/19 23:52
>>904
移住後、その土地にあわせたこともやり始めただけのことだろう。
つうか、そのイメージも半ばは太平記のものなのだろうがな。
912日本@名無史さん:02/03/19 23:52
その従来の武士とちがう立派な人とやらが、
新田を切って尊氏と結べと天皇に勧めてるのはなぜ?
913日本@名無史さん:02/03/19 23:53
>>907
悪党集団であった楠木党の隠れ家の近くに楠木でも
生えていたんだろ。
914日本@名無史さん:02/03/19 23:54
オナニー皇国史観で楠木正成の実像を歪めないでほしいね。
915日本@名無史さん:02/03/19 23:54
明治のお百姓さんと同じなんすか?
916日本@名無史さん:02/03/19 23:55
すまん、正成の機動力とやらは何を指すんだ?
機動力なら全国を駆け巡った尊氏のほうがよっぽど評価できるんだが。
所詮地盤である近畿(それもごく一部)から離れられなかった正成の機動力って?
得意のでっちあげですか?
917日本@名無史さん:02/03/19 23:55
日本史板を名乗る板なのだから資料的に裏付けのない話はやめろ。感情で書くな、史料を比較・批判して理性で考えて書け。
それができないなら文学板、三国史・戦国板かコヴァ板逝け!

>>854
お前バカか?史学ではこの史料は信頼できると主張する奴がそれを証明しないとその史料は信頼に値しないんだよ。お前が
太平記の記述が全て、あるいは一部が真実だと主張するならそれを裏付ける史料を提示し、理論的に説明して納得させろ。
918日本@名無史さん:02/03/19 23:55
>>912
大局を見据える楠木正成の戦略眼が確かなものだったという
だけの話しだろ。
大義のために尊氏をとれとの立派なご意見です。
919日本@名無史さん:02/03/19 23:56
まさか千早を捨ててすぐ近くの赤坂に移った程度を機動力と評価してるの?
920日本@名無史さん:02/03/19 23:57
 楠木正成の実像を皇国史観で歪める皇国史観ヲタを
日本史板から永久追放せよ!
921日本@名無史さん:02/03/19 23:59
おれも正成は好きなんだよ。
しかし皇国史観は大嫌い。
こんなおれを、都合よく自分の側にカウントするなよ、東国のなんとかとやら。
922日本@名無史さん:02/03/19 23:59
>>918
尊氏は幕府を開こうとゴダイゴに何度か要求してますが、
これは大義とやらと反するのではないのですか?
まあ、戦略眼が確かなのは同意しますが、
史実評価に大義とかのイデオロギーを持ち込まんでほしいな。
923日本@名無史さん:02/03/19 23:59
>>916
尊氏の機動力?
軍勢を引きつれて戦乱の種をまきながら逃げまわっただけの
話しだろ(w
楠木正成の神出鬼没の機動力のことだ。
するってえと楠木一族は建武以前から畿内一体に領地を有して
いた大名だったとでも言うのか?
924日本@名無史さん:02/03/20 00:01
>>921
いや、東国氏も皇国史観は好きではないよ。
925日本@名無史さん:02/03/20 00:01
そういえば旧陸軍が千早赤坂大要塞とかいって研究していたな。それが糞の役にも立たなかったのは周知の事実。
926日本@名無史さん:02/03/20 00:02
だいたい、なんだ、大義ってのは。
宋学やラマ教かぶれの後醍醐天皇の大義って・・。
927日本@名無史さん:02/03/20 00:02
>>924
知りもしない東国の尊皇派のこころがわかるエスパー
もしくは、東国の尊皇派本人(w
928日本@名無史さん:02/03/20 00:03
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
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     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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929日本@名無史さん:02/03/20 00:03
>神出鬼没の機動力
すまん具体例は?
千早脱出のことか。
全然たいしたことはないんだが(w
930日本@名無史さん:02/03/20 00:04
いやあんたの脳内で神出鬼没ならレスはいらんが。
931日本@名無史さん:02/03/20 00:04
>>922
だから尊氏は逆臣なんだよね。
あくまで己の権力欲にこだわり続け日本全国を争乱にまきこんだ
大悪人だね。
それにひきかえ泣いてバショクを斬って以って太平を開かんと
欲した正成のなんと高尚なことでしょう。
人間的には正成の勝ちですね。
932日本@名無史さん:02/03/20 00:05
>>925
大砲使用者の感覚で、陣地の相互の関係を分析しようとしてたんだよね。
ここまで盲目的になるか?という感じ。
933日本@名無史さん:02/03/20 00:05
危機一髪の脱出なら、プリンセス天功だってできるぞ〜
934日本@名無史さん:02/03/20 00:06
>>931
それを受け入れなかった後醍醐天皇の立場はどうなるの?
935日本@名無史さん:02/03/20 00:07
尊氏の機動力ねえ。
まあ一例だけ挙げておくか。
あるとき機動力を生かし敵の主力を誘引、
まんまと上陸に成功し、さっさと撤退すればいいものを
とちくるって挑みかかってきた馬鹿な武将を討ち取りましたよ。
ああ、湊川とかいいましたねえ、あそこ。
馬鹿な武将の名前?
なんか神出鬼没が得意だったそうですよ、>>923によれば。
936日本@名無史さん:02/03/20 00:07
>あくまで己の権力欲にこだわり続け日本全国を争乱にまきこんだ
>大悪人だね。

ゴダイゴはんのことですか(藁
937日本@名無史さん:02/03/20 00:08
楠木正成のゲリラ戦術を見れば彼が従来の土地にしがみついた
既成の腐れ鎌倉武士どもとは違う存在だったということは
もはやあきらかであろう。
つまり、楠木と苗字とそれを冠する土地とのつながりはきわめて
希薄であるということだ。

こんなこともわからんのか最近の日教組の歴史教育を受けた
ものどもは。
938日本@名無史さん:02/03/20 00:08
ゴダイゴは、日本全土を混乱させた悪の元凶
939日本@名無史さん:02/03/20 00:09
神出鬼没だった人がなんで湊川で死ぬの?
ああそうか、後醍醐天皇に損をさせようと、自殺したんだったよね。
940日本@名無史さん:02/03/20 00:09
>>931
臭いさん、後醍醐こそ無用な争乱を起こした極悪人。当時の公家もそう言っていますよ。
「大忠臣」親房もね。
941日本@名無史さん:02/03/20 00:09
後醍醐のことは置いといて
942日本@名無史さん:02/03/20 00:11
楠木正成は、悪の帝国に魂を売り渡したベーダー卿
943日本@名無史さん:02/03/20 00:11
>>937
いやあ、また出たよ、この名物ウヨの名セリフ。
944日本@名無史さん:02/03/20 00:13
>>937
尊氏も足利に逝ったことはない。北条氏も北条郷にいたことがあるのは殆どいない。思いつきでくだらんこと言うとボロが出るよ。
945日本@名無史さん:02/03/20 00:13
>>937
あのさあ、人の教育のことどうこういえないでしょ、あなた。
ゲリラ戦術っってベトコンと混同してない?
千早赤坂の籠城戦のやりかたが当時の武士のやり方と違っていただけで、
機動力なんぞ千早脱出以外に発揮されてないじゃない。
幕府軍が正成を襲ってもぬけの殻でしたなんてのはたったの一回だけだよ。
それを根拠にもはやあきらかなんてどう断言できるの?
籠城戦じゃなくて河内一帯を根拠地にした機動戦を展開したならともかくね。
まあ、妄想を肯定するつもりなら史実に即してやってくれ。
946日本@名無史さん:02/03/20 00:14
同時代史料では元弘の変の「謀反人」は後醍醐だぞ。
947日本@名無史さん:02/03/20 00:15
そもそも日教組教育とか戦前の教育とか以前に、
最低限の日本語の読解力を要求する。
948日本@名無史さん:02/03/20 00:17
じゃあ楠木は千早赤阪にしがみついた旧来の武士ってことで(w
949日本@名無史さん:02/03/20 00:17
今晩中に1001まで行くかと思ったが、
東国バカのペースダウンでダメっぽいな。
950日本@名無史さん:02/03/20 00:19
>>945
楠木流兵法のなんたるものかをまったく理解してないようだね。
しかも、後世の篭城戦と混同して語っているし。。
キミこそもう少し史実に基づいた妄想をしてくれ。
951日本@名無史さん:02/03/20 00:20
楠木流兵法(w
だからどういうふうに機動力を生かしたのか語ってくれや。
わけのわからん兵法なんかじゃなくてさ。
ダミー人形を立てると機動的になるのか?
機動戦士でやってくれそんな話はさ。
952日本@名無史さん:02/03/20 00:22
というよりそもそも機動戦なんてよくわかってないんじゃないか、この御仁。
953日本@名無史さん:02/03/20 00:26
楠木流兵法なんて後世の捏造・こじつけなのに・・・。(藁
無知さらす前に早く寝なね坊や。
954日本@名無史さん:02/03/20 00:29
>950
楠木流兵法なんてたわごと持ち出す暇があったら、
いいから正成が行った機動戦の実例を千早脱出以外にひとつでも上げてみろや。

ああ、あんた史実なんて関係ない妄想のほうが大事な人かい(w
955日本@名無史さん:02/03/20 00:29
妄想仮想戦記「楠木流兵法 血風の千早戦記」
シモタかげきにでも書いてもらえ!
956日本@名無史さん:02/03/20 00:31
             ドッカン
         m    ドッカン
  ━━━━━) )=         ☆ゴガギーン
      ∧_∧ | |         /          / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     (   )| |_____    ∧_∧   <  おらっ!出てこい東国の尊皇派!!
     「 ⌒ ̄ |    |    ||   (`∀´ )    \___________
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957日本@名無史さん:02/03/20 00:31
マジでないのかい?
小勢の正成が長駆尊氏軍の後方をついて敗退せしめた後、
主力が戻ってくる前に鮮やかに引き上げたような機動戦は?
958日本@名無史さん:02/03/20 00:32
そういうのは楠木流兵法にはないのか?
だいたいなんだよ、楠木流って(w
誰が書いたんだ、正行か?
959日本@名無史さん:02/03/20 00:33
講釈師です
960日本@名無史さん:02/03/20 00:34
江戸時代の軍学者(藁
961日本@名無史さん:02/03/20 00:38
後世の妄想を元に歴史を考える厨房コヴァ君、どうしたんだ?何か反論は?
962日本@名無史さん:02/03/20 00:40
君も今夜中に1001達すること願っていたんだねえ、同志よ (TへT)
963949ですが:02/03/20 00:43
歯を磨いて戻ってきたら、962までいってましたか。
達成できるか、微妙ですな(藁
964日本@名無史さん:02/03/20 00:47
厨房コヴァたちは尻尾を巻いて逃げました。まるで正成の「機動戦」のように。(W
965日本@名無史さん:02/03/20 00:53
結論は
尊氏は逆臣。正成は忠臣という事ですな。
それには異論がないようです。

正成の戦いぶりはまだまだ詳しく検証されていないけど
討幕の火種に耐えうる知力と強い忠誠心が有った事は否めないということだな。
966日本@名無史さん:02/03/20 00:55
東国さん次のスレよろしく
967日本@名無史さん:02/03/20 00:56
>>965
逆臣、忠臣は止めれ
968日本@名無史さん:02/03/20 01:05
>>965
後醍醐自身が当時社会の反逆者と見られていたのにそれに着いた人間のどこが忠臣?
正成なんて浅間山荘の赤軍派と同じ。
969日本@名無史さん:02/03/20 01:07
>>969
あんたそりゃ言い過ぎだよ
970日本@名無史さん:02/03/20 01:22
あんまりいじめるから厨房たちは本当に逃げちゃったじゃないか。つまんねえな。
971日本@名無史さん:02/03/20 06:46
>正成の戦いぶりはまだまだ詳しく検証されていないけど
>討幕の火種に耐えうる知力と強い忠誠心が有った事は否めないということだな。

何だ結局正成の神出鬼没の機動力とか楠流兵法とかはでたらめかい(w
よくもまあそれを知らんのかと他人を罵れたもんだ。
そんなやからが結論を出そうなどと・・・恥を知らんのか?
972日本@名無史さん:02/03/20 07:25
結論は
尊氏は革命児。正成は天コロの犬という事ですな。
それには異論がないようです。
973日本@名無史さん:02/03/20 11:07
>>965
その逆臣である尊氏の方が正成より多くの武家の支持を集めた。
これは正成の悪いわけではなくゴダイゴがアホのせいだけどね。
974信長:02/03/20 12:06
わしが生まれる前の話だから知らん
975日本@名無史さん:02/03/20 13:35
いまどき、皇国史観で忠臣、逆臣にわけて楽しいか?

俺は尊氏、正成は好きだが、後醍醐は大嫌いだ。
976こき:02/03/20 13:57
1000取り合戦

秒読み開始・・・
977                 :02/03/20 15:11
977             
               
               
                
                
978   :02/03/20 15:31



                              
979日本@名無史さん:02/03/20 16:35
    
.  \ ♪我が大君に〜召され足る〜 命栄えある 朝ぼらけ〜♪/
    \  ♪称えて送る〜一億の〜 歓呼は高く天を突く〜♪ /
     \  ♪いざ征けつわもの〜 日本男児ィ〜♪     /
      \                             /
          ◎\_____.◎\________/|___/|
          | ̄ ̄         | ̄ ̄      .          ̄.       ̄|
          |@. 尊皇   @ |  -------------日本皇民党----- |
          |_______|_______________  _|
         ,/         //      | |        | |        | |
           ,/. ∧_∧   //∧_∧.!| |       .| |         | |
         _.,/ <`∀´  >  //<`∀´ >.| |        | |       | |
        .|/,,,,,へ ⊂ ヽ ./⊂ _    ⊃|        | |       _. | |
      ,/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄//| ̄/ ̄ ̄ ̄| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄~| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ |   
     |~ ゜ ̄゜ ̄ ̄ ̄~~| ̄ ̄    =。 | l〕        |━━━━━ |    
     |________|_,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,,|,,,,,,,,日,,,本,,,皇,,,民,,,党,,,,,[|   
     _|]:::::::::::::::::::[二二il:],   ,.-―-、.. |         |          [|  
      |====== ;...........|  /,´ ̄ヽ|!.  |          |  ./,' ̄ヽ.|. {| 
      ヽニ[_]ヾニニヽ''''''|ー|.(◎)l':|'''''"|.'''''''''''''''''''''''''|''''''''|.(◎)|:|''_/
       ゞゝ三ノ ̄ ̄ ̄ ̄ゞゝ_ノ ̄ ̄ゞゝ三ノ ̄ ̄ ̄ ̄ゞ_.ノ ̄
980日本@名無史さん:02/03/20 17:15
>>975
今時もなにも、国の秩序を考えれば,歴史は皇国史観で良いでしょう。
皇国史観でない歴史を必要とするのは、共和制国家ぐらいでしょう。

日本の歴史、現代において国家の中心に天皇が居るのは変わらず続いている
国であるので、日本は皇国史観の歴史・価値観で良いと思う。

頼朝公は、朝廷の意思で征夷大将軍となり、一連の混乱に終始符を打った。
だがそれに比べ、尊氏はやむを得ない事情があったと言いつつも、筋が通っていなかったのは認めざるをえない。
結局長い年月を要したが、逆臣の汚名を敢えて受け、新武家社会を創生した功績は評価すべき。
981   :02/03/20 17:16
はちまきしろ
日の丸の・・・・
982   :02/03/20 17:16
982                           
                                 
                                  
983   :02/03/20 17:23
983
                                
984   :02/03/20 17:35
984
                    
                             
985985:02/03/20 18:17
985                              
                                 
                                 
                                    
986 :02/03/20 18:32
98は6−

1000取り合戦に・・・
                              
987 :02/03/20 18:33
987(桑名)?
                             
                              
                               
988 :02/03/20 18:34
988ろー

1000取り合戦に

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989 989:02/03/20 18:37
989
                                
                               
                                

990 990:02/03/20 18:40
990           

991990:02/03/20 18:40
990
992まさ:02/03/20 18:41
993 :02/03/20 18:42
993?
                                 
994                               :02/03/20 18:56
994
995日本@名無史さん:02/03/20 18:57
桜井の…
996   :02/03/20 19:14
うちの家紋とおんなじだ。
997日本@名無史さん:02/03/20 19:15
新スレ作るのか?
998日本@名無史さん:02/03/20 19:19
どうせ根拠も出せない楠至上主義者が暴れるだけの駄スレになるのでイラン
999日本@名無史さん:02/03/20 19:21
どっちもどっちと思うがな
1000歴史のあと知恵さん:02/03/20 19:22
1000
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