井沢元彦『逆説の日本史』その4

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459武田研究家
で他に秀吉の内裏移転計画なんてものも書かれていますけど、関白であっても
天皇の御所を動かすなんて芸当は無理だろうと思うわけでして、まして83年
当時の秀吉では尚更無理だろうと思ったりするんですが、まあ井沢氏が「秀吉
編」でまた書くと仰っておられますから、その時を待つとしましょうか。

次に大坂は「鎖国時代」のせいで見捨てられた、みたいな事を書いておられる
わけですが、これはもう何と言うか、ト学会に報告したいぐらいの電波なんで
すね。以下、ちょいと通説レベルではありますが、大坂の地の変遷を考えてみ
たいと思います。あくまでも通説レベルでしかありませんから、お気付きの点
などあれば教えてください。
難波津は奈良時代までは紛れも無く主要港の一つでしたし、難波宮も聖武天皇
の一時遷都の際に復興され、その後も日本の「副都」でありました。この難波
宮を廃止したのは桓武天皇で793年のことですが、この翌年に平安京への遷
都が行われています。
実はこの平安京遷都が、難波津の地位低下を決定的にしたものと思われます。
と言うのも、難波津が栄えたのは、大和地方に都があったためだからです。
難波津は当時の最重要航路である瀬戸内航路に対して開けていると同時に、大
和川のすぐ側であり、ここで荷を川船に積み替えて大和川を上ることで、奈良
盆地に至ることができました。水運によって首都と直通であるということが、
難波津の最大の強みであったと思われます。それは全国から集められる租税や
商品の搬入に極めて有利であったからです。難波宮もまた、その水運の管理と
いう側面あってこその「副都」であったと言えるでしょう。
では平安京に遷都すると何がどう変わるのでしょうか。
460武田研究家:02/03/29 06:03
大阪湾から平安京に向かうのであれば、大和川ではなく淀川を上ることになり
ます。そして785年には、淀川の水の一部を隣の三国川に流すための運河が
掘られています。これによって瀬戸内航路を東に進んできた船は、三国川河口
部の尼崎において川舟に荷を積み替え、そして三国川を上り、前述の運河を通
って淀川に入ることで、より早く、より安全に都を目指すことが出来るように
なったわけです。比較的穏やかな瀬戸内海とはいえ、当時の船にとっては尼崎
から難波津の一日の航海が短縮できるのは大いに助かることであったでしょう
し、また難波津が位置的に淀川への連絡港としては少々遠く、淀川河口に新た
に港を作るか、前述の運河を掘るかが必要であったと考えられます。桓武天皇
は784年には長岡京の造営を始めていますから、785年の工事は、これか
らは淀川が主要水路となることを見越してのものであったと言えるでしょう。
これによって難波宮はその機能が不要となり廃止され、難波津は主要港の座か
ら転落したと考えられるわけです。
そしてまた、難波津のあたりは淀川と大和川の運ぶ土砂が堆積したために、平
安中期頃にはすっかり埋まってしまい、大型船の拠点としての能力を失ったと
考えられています。
井沢氏は日本において海運・水運が大きなウエイトを占めていることは充分に
理解されているはずで、その事はご自分で本文中にも書いておられます。
しかしながら、数年に一回ペースの遣唐使船よりも、年中無休の国内の海運の
方がよほど流通量も多いはずで、その一番の行き先が都であることはすぐに分
かることです。それを考えれば大阪湾に主要港が無いなんて事態は起こり得な
いはずであり、難波が見捨てられたのだとすればそれにはそれなりの理由があ
るはずです。それを一面的に「鎖国時代ゆえ」などとするのは、どうにも問題
があると思われるのですが。
461武田研究家:02/03/29 06:04
港の話のおまけ。
ちなみに平清盛が海外貿易の拠点としたのは尼崎の一つ向こう側の兵庫でした。
この頃には尼崎は寺社主体の自治都市と化しており、清盛も手が出せなかった
からだと思われます。
そしてこの兵庫が後に『兵庫北関入船納帳』の舞台となるわけです。
さらに後には細川氏や三好氏の保護を受けて発展した堺が台頭します。四国の
阿波が本拠地である彼らにとっては、堺の方が四国との往復に便利であったか
らだと思われます。また室町期には造船技術が大いに発展し、多少の距離が苦
にならないようになったため、難波津が廃れた原因とも考えられる連絡港とし
ての機能をも充分に果たし得たこともあったと思われます。
室町時代には造船技術の発達、港の護岸技術の発達などが見られ、これらの条
件があれば大坂の地が復権する可能性もあったはずなのですが、そのチャンス
を奪ったのが兵庫なり堺なりであったということなのかも知れません。
で、目を付けたのが蓮如である、と。