ビバ!!足利義教

このエントリーをはてなブックマークに追加
53山野野衾:02/02/12 14:40
>51
いえ、現代の感覚から「まぐれ当りの将軍」として色眼鏡をかけて見る人達
も多いのでは無いかと思われると言う事です。
実際には正当化された出来レースだった気がするのですが。(妄想)
雁首つきあわせて選定した以上、都合の良い者を選ぶでしょう。
54日本@名無史さん:02/02/12 14:52
籤引きに一番不満だったのが鎌倉公方持氏。
永亨への改元を無視し正長の年号を使いつづけた。
持氏の子が元服したときに将軍の名の下の一字を拝領する習慣を破り
上の字つまり八幡太郎義家の「義」をとり「義久」となづけた。
ここから明らかな関東独立への気概が読み取れる。
55日本@名無史さん:02/02/12 14:58
>>54

足利将軍の権力が凋落した戦国期には義の字の書き出しを拝領した大名は多数いた。
ただし義詮、義満、義持、(義量)、義教の代には一字書出しにおける
将軍と関東管領の上下関係は厳密に守られていた。
56日本@名無史さん:02/02/12 15:08
>>53

実際有力者によって義教にあたるように仕組まれていたらしい。
とりあえず坊主にしておけ、ということだったのでしょう。
しかしその坊主がトンでもない独裁者へ変貌するとは誰もが予想だにせぬ展開だったのでは?
57日本@名無史さん:02/02/12 15:25
>>56
何で仕組まれていたとわかるの?
籤引きの前から義教が特別扱いされていたの?
籤引きに不正はなかったってのが主流のようだけど。
58日本@名無史さん:02/02/12 16:07
>>57

56は和歌森太郎説
59日本@名無史さん:02/02/12 16:51
>>57
当時の史料を見ると、候補者4人の名を書いた籤を三回引いた。
三回とも「義円」とでた、とあります。まあ普通考えれば
籤自体が仕組まれていたのでしょう。黒幕は三宝院満済と
畠山満家あたり。
60日本@名無史さん:02/02/12 17:35
三宝院満済と畠山満家とあと誰でしたっけ。
61日本@名無史さん:02/02/12 20:16
関東八屋形の成立過程、室町関東史、そしてその後の関東をくわしい方。
関東の歴史に関心を持つ方是非教えてください。
義教時代前後に関東の有力大名分布は激動したはずです。。
62日本@名無史さん:02/02/12 22:15
名スレの予感。
63日本@名無史さん:02/02/12 22:20
>>57
でもさ、普通仕組むと思うよ。
むしろ、仕組みもしないで本当にくじ引き
したんなら関係者の頭を疑う。
64日本@名無史さん:02/02/12 23:23
籤引きの形をとったのは、義教擁立反対派を抑えるためでは?
石清水八幡宮の神前での籤引きなら反対派も表立った反論はできないと思う。
65日本@名無史さん:02/02/13 00:46
籤引きのカラクリをすべて明らかに立証できれば、
その論文は「歴史と足袋」ぐらいには載るかな?
66日本@名無史さん:02/02/13 00:57
そんな雑誌は学術雑誌じゃないからね。
「尼奔轢死」ぐらいじゃないと。
67日本@名無史さん:02/02/13 03:12
日本史にとって義教は大事な存在。
68日本@名無史さん:02/02/13 12:49
この義教すれは経済史に踏み込むのかな?
正長の土一揆、酒屋土倉の打ち壊し、惣村の自検団など
室町中期の重要トピックは義教の治世中におきた。
69日本@名無史さん:02/02/13 13:10
義教が山門を攻撃したのも、一つには経済戦争だな。
京都へ入ってくる米の多くが琵琶湖を通ってくる。
それに比叡山は税をかけた。で、京都の米や酒が
値上がりした。頭にきた義教は比叡山、とくに
その実権をにぎっていた山門使節をやっつけたわけだ。
70日本@名無史さん:02/02/13 13:21
>>59
>>63
4人のうち義円(義教)が選ばれたのはなぜ?
ということを>>57でも尋ねてるのだけど。
籤引き前の義教はどういう存在だったのか。
7159:02/02/13 13:50
>70
満済だったか看聞だったか、義円は一度
青蓮院から脱走を試みてる。将軍就任直後の
はりきりかたと併せて考えると、よっぽど
坊主でいるのがいやだったんだろうね。

それとなぜ義円? これはよくわかんねーんだわ。
一ついえるのは義円だけが義持と同母なんだよね。
黒幕の満済が足利将軍家の奥向き(江戸時代でいう
大奥ね)の縁で出世の糸口をつかんだことからすると、
女性の縁で義円と満済は以前から親しかったんじゃ
ないか。それが義円擁立の伏線になってるんじゃないか。
あくまで推測だが。
7257=70:02/02/13 14:11
>>71
>一ついえるのは義円だけが義持と同母なんだよね。
なんだ、すごい重要なことだね。
義持の後継者という意味では彼が一番適任だったんだ。
73日本@名無史さん:02/02/13 14:50
>>71
>>72

義持って父親に可愛がれなかったから
ファーザーコンプレックスだったのでしょう?
父親が寵愛した弟の義嗣を殺してるし
父親の北山別邸を金閣など2、3の建築物を残して一切移転破却するほど。
花の御所も嫌って御所を他所に移している。
屈辱外交もストップさせた。
義教は父親のことをどう思っていたのかな?
富士遊覧も対明朝貢貿易も諸侯討伐も父親を逆に見習っているように見えるけど。
74日本@名無史さん:02/02/14 07:42
義教age
75日本@名無史さん:02/02/14 08:02
義教は天台座主だったらしいがこれはすごい地位なんですか?
76日本@名無史さん:02/02/14 08:10
足利将軍家の公家化の一例でしょう。
王城鎮護としての比叡山を一族で押さえることで京における地位を固めた。
徳川将軍の一族が東叡山寛永寺の別当になったかどうか知りませんけど。
77日本@名無史さん:02/02/14 08:19
後世の我々が歴史を学ぶ上では楽しい人物だね(w
側で仕えた人たちはたまったもんじゃなかっただろうが。
78日本@名無史さん:02/02/14 08:33
数十人の公家が謹慎や追放を命ぜられ
守護クラスで討伐されたのが一色土岐らの室町幕府重鎮。
別の歴史家によるとなんらかの処罰の対象になった公家を総計すると数百人にのぼる。
まさに「万人恐怖の世」 恐ろしや恐ろしや。
79日本@名無史さん:02/02/14 09:56
義円は比叡山でちゃんと修行したのだろうか?
ただの生臭坊主じゃん。
80日本@名無史さん:02/02/14 21:42
>>79
三宝院満済の書いた日記に将軍になっても自ら密教儀式を何度も執り行ってる。
「大元帥法」とか「大悲闡提法」とか。
81日本@名無史さん:02/02/16 23:27
鍋かむり日親
82日本@名無史さん:02/02/16 23:32
>80
あのな、俗人が密教儀礼できるわけないじゃん。
満済よくよめ。
83日本@名無史さん:02/02/16 23:38
>>82
日記の当該箇所を引用していただけるとありがたいんですが・・・
その上で議論できますし。
後醍醐天皇も、べつに法体にはなっていなかったけど、真言立川流の
あやしい儀式を自ら執り行ったといいますし。
84日本@名無史さん:02/02/17 00:25
>>82
「大元帥法」は国王(天皇・将軍)が施主にならないと効果がないのよん。
85日本@名無史さん:02/02/17 01:02
「大元帥法」、、、、なんて自己満足なしかも権力者べったりの法じゃこと。
施主の施主による施主のための法ね。
それじゃブッシュの演説と変らんね。
86日本@名無史さん:02/02/17 09:23
鍋かむり日親の話し残酷すぎて書けない
87日本@名無史さん:02/02/17 15:05
>>80
「大悲闡提法」は密教では「輪廻転生」の秘儀でなかったか?
それで信長が実は……
明石散人が喜びそうなんでやめとこ
88日本@名無史さん:02/02/17 18:11
Good Thread age
89日本@名無史さん:02/02/17 23:19
自分で法を執り行うのと、施主になるのとは
違うっぺ。義教はもちろん施主にはなってるよ。
「将軍護持僧」っていう最高位の坊主12人からなる
集団もできておる。しかし自分でなんとか法を
行ってはおらんわけだな。そんな変なヤツは
天狗にこってた細川政元くらいなものだわさ。
90日本@名無史さん:02/02/23 10:53
史上最強将軍age
91日本@名無史さん:02/02/23 18:12
義教って、なんか気持ちイイ!
92日本@名無史さん:02/02/26 12:38
義教被害者の会作ったらどれくらい集まるのだろう
93日本@名無史さん:02/02/26 15:36
よしのりって、しょうがくかんのマンガ「日本の歴史」
にけっこうくわしくのってるよ。
ぼくみたもん。うそじゃないよ。かんしゅうがね、くいずおもしろぜみなーる
でにほんのれきしのせんせいやってた、ひぐちのおじいちゃんだよ。
94日本@名無史さん:02/02/26 15:52
義教はやはり信長と同じ
殺されるべくして生まれた
95足利よしのり:02/02/27 12:29
       〃───、
      / _____)
      / /´ (_  _)ヽ
     ||-○-○-|
     |(6   ゝ  | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
     |ヽ   θ ノ< 独裁かましてよかですか?
      ヽ|\_/   \_____________
   ______.ノ    (⌒)
 //::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/ /:::::::::::|  /:::::ノ__ | .| ト、
| /:::::::::::::::| 〈 ̄   `-Lλ_レ′
レ::::::::::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
96日本@名無史さん:02/03/13 23:04
どなたか、本スレ既出以外の、義教関連の文献(市販レベル)をお教えください。

私も「二人の天魔王」には目からうろこ状態でした。
やはり、最初はくじ将軍のイメージしかなく、同書にもある通り
室町で語るに値する将軍は、尊氏、義満、義政の三人だと
考えていたからです。(それどころか武家として「無類の上」とは・・・
、それに比べれば義政は銀閣以外に何かあるのかな?)

明石氏の認識通りだとすれば、まさに“すごい奴が歴史に埋もれて”
いたと感じるもので、興味は尽きません。

賛否両論はもちろんです。その辺も含めてよろしくお願いします。

97日本@名無史さん:02/03/31 20:39
age
98日本@名無史さん:02/04/16 22:39
age
99日本@名無史さん:02/04/16 22:50
いや明石散人はトンデモだけどね。
100歴史の勉強:02/04/16 23:07
100もーらい!
101日本@名無史さん:02/04/16 23:10
>>96

島津氏は1441年(嘉吉元)室町幕府の将軍義教から恩賞として琉球国
を与えられていた。
http://www.edu.city.kyoto.jp/hp/saikyo/okinawa/satuma.html
南総里見八犬伝の舞台は結城合戦が八犬伝の発端。
http://216.239.51.100/search?q=cache:BXRSuT-2rY0C:www.mars.dti.ne.jp/~opaku/hakken/01/guide05.html+%83A%83C%83k%81%40%8B%60%8B%B3&hl=ja
102日本@名無史さん
明石氏の著作を読むと、確かに籤引将軍というこれまでのイメージが後世の
色眼鏡であることはわかる。
それなりに凄い奴だったのは事実なんだろう。
とはいえ、義教ほど皇室に忠義を尽くした武将はいない、というのはどうか。
「万人恐怖」と日記に書いたのは確か皇族でしょ。