1 :
日本@名無史さん:
俺は、あのくじ引き将軍が好きだ。
愛してる。
義教について語ってくれ。
2 :
足利(小林)義教:02/02/10 01:30
ごーまんかましてよかですか?
画像を見ると目つきが陰険
やはり危険人物という感じ
4 :
日本@名無史さん:02/02/10 01:34
ただのキチガイでしょ?
5 :
京都大学2001年度日本史試験より抜粋:02/02/10 08:30
足利義教、織田信長、日野冨子、聖徳太子でディベートを行った場合、誰が勝つか理由も含めて答えよ
信長でしょ。後から生まれたもんのが有利
7 :
日本@名無史さん:02/02/11 06:03
ウンコヒブリブ゙リヘノカッパ!!
8 :
日本@名無史さん:02/02/11 10:37
悪将軍age
9 :
日本@名無史さん:02/02/11 10:42
義教は天台座主
大塔宮護良親王もそうだったけど
10 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:05
信長に顔似てたのかな?
肖像画から受ける印象はよく似てるように思うけど
11 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:37
両者とも痩せぎすだったんじゃない?
信長にしても義教にしても人に恨みをかう行動をすることが多かった。
12 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:40
ヒトラーもだな
痩せた小男に権力を持たせると危険
13 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:43
一部で評価されてますね
果断な将軍だったと
14 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:47
義持の同母弟というのは本当ですか?
15 :
日本@名無史さん:02/02/11 11:51
結局義教や信長には尊氏秀吉型のように既存の勢力を手なづけて
うまく再利用しようとする「武家の棟梁」「ひとたらし」的態度が全然みられなかったんだな。
政治刷新なんて並みの神経の持ち主にはできないこと。
だから義教や信長を為政者としては評価する向きがあるが
人物的には最悪だったと思われる。
16 :
日本@名無史さん:02/02/11 12:41
赤松満祐イジめた報いらしい。
17 :
日本@名無史さん :02/02/11 18:17
>>16
>赤松満祐イジめた報いらしい。
前々将軍・義持も然り....共に、赤松庶流の側近と男色関係にあり、本家の満祐は不遇の扱いに切れてた....
18 :
日本@名無史さん:02/02/11 18:18
ソースは「将軍暗殺」?
19 :
日本@名無史さん:02/02/11 19:47
義教なんて奴は
20 :
日本@名無しさん:02/02/11 19:52
なんで天皇になろうとしなかったのか?
21 :
日本@名無史さん:02/02/11 19:58
元坊主だったくせに子供多いよね。
義勝、義政、義視、政知。
22 :
日本@名無史さん:02/02/11 19:59
元坊主だからこそ、でしょ
23 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:06
しかも子供たちみんな可哀相だな。
まともな生き方をできなかったね。
まあ徳川将軍家のほうがもっと悲惨といえば悲惨だが。
24 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:20
25 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:23
天台座主義円
還俗して義宣
将軍就任後義教に改名
義宣では世忍ぶで縁起が悪いということだったそうな。
26 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:23
確か信長と義教の肖像画って同じ寺にあったと思うんだが…
27 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:33
赤松は伊豆に播磨を取られじと
御所の首をは嘉吉元年
美男の赤松伊豆守貞村を寵愛する義教が
赤松領国播磨をいずれ自分から取り上げ
貞村にあたえると危惧した満祐が追いつめられて
決起したという見方。上の狂歌は後に詠まれたもの。
二人の天魔王 明石散人著をよめ。認識変わるぞ。
29 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:40
二人の天魔王よめ。
30 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:41
嘉吉の乱の一ヶ月前に有力守護一色義貫と土岐持頼が殺されている。
まさに万人恐怖の世。
31 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:42
三河の中条氏の事件は知られてない?
32 :
日本@名無史さん:02/02/11 20:51
33 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:01
1441年(嘉吉元年)六月関東平定の祝賀の宴が満祐邸で催された。
当然将軍義教もこの席に招かれ酒を酌み交わしていた。
宴会たけなわ能楽が披露されるという場面になって突如屋敷の門がすべて閉じられ
屋敷裏手から喚声があがり馬が一斉に解き放たれた。
驚く一座が何事かと気をとられているところに
武士数人が将軍義教の背後にまわり即座に討ち果たした。
満祐一行は屋敷に火を放ち、剣先に突き刺した将軍義教の首を先頭に
呆気ににとられる京の奉公衆、守護大名の前を行進して領国播磨に向かった。
当時京集住が義務づけられていた守護たちの勝手な退去、不出仕は
幕府への反抗ととられても仕方がない。
円心以来の白旗城に尊氏の血を引く義尊を奉じて立て篭もったが
細川持之の指示のもと動員された諸国守護の大軍に包囲され
遂に一族自害して果てた。ここに赤松氏は滅亡する。
34 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:08
義尊って誰?
35 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:08
主家再興をねがう赤松遺臣たちは
三種の神器をとりかえすことを条件に
幕府から赤松家再興の許しを得た。
吉野の山奥に潜入した赤松遺臣一行は
自天皇殺害に成功し、三種の神器もとりかえした、と伝えられている。
36 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:15
俺は魏延のほうが好き。
愛してる。
38 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:20
直冬ー冬氏ー義尊だっけ?
39 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:23
赤松庶家浦上氏の家臣宇喜田氏が備前に力をのばすが
播磨の国は赤松家の勢力圏にとどまった。
別所長治が三木城に篭城したときにも
自天皇殺害の功を上げた赤松遺臣の子孫が多く参加したという。
さらに時代が降って元禄の世に播磨小藩の再興を願う浪士たちが
江戸吉良邸を急襲し旧主の仇の首級をあげた。
生国播磨を自称する福田某(作家司馬遼太郎)によると
この播州浪人のほとんどが三木城篭城を闘った者たちの子孫だという。
徳川将軍家に挑戦状を叩き付ける大石の不敵な行動といい
まさに播州おそるべし、といったところか。
それとも播磨にはいまだに満祐の亡霊がさまよっていると言うべきか?
40 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:24
41 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:32
赤松氏でいえば明治まで大身の領主として続いたのは久留米有馬氏。
黒田鍋島細川島津に次ぐ大封をもらっている。
42 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:48
>>19
偶然本屋で見つけて購読しました。
義教が信長的なイメージがあって(消防での歴史漫画)、興味を持ちました...
義持時代にも庶流・持貞のために自領を召し上げられそうになった満祐...とことん悲惨ですね。
満祐親子が義教を暗殺していなかったら、逆に一色のように暗殺もしくは、親子共々守護罷免、
貞村が本家を相続、赤松家は没落する事はなかったのだろうか?
山名持豊(宗全)が台頭する事はなかったのでしょうか?
43 :
日本@名無史さん:02/02/11 21:52
あと、義教時代の奥州統治についてなんですが、鎌倉府滅亡後は幕府の影響力って、
どのくらいあったのでしょうか?探題の大崎氏には力はあったのでしょうか?
45 :
日本@名無史さん:02/02/12 00:08
しかし義教が殺されたとき殆どの人間が抵抗しないで逃げ帰っているところが悲しい。
46 :
日本@名無史さん:02/02/12 00:57
三河中条氏の誅殺事件について その1
承久の乱後、宮方だった従兄弟小野盛綱の没収地である三河国高橋荘(現在の豊田市周辺)を
宛がわれた中条氏長は、後、尾張守・評定衆に就任、以後、彼の子孫は鎌倉幕府滅亡直前に名越氏
に職を奪われるまで尾張守護職を務めた。
南北朝の争いには、足利方となり尾張・伊賀守護、評定衆を務めたが、その後、惣領の若死が続き、
跡目をめぐり争いが起きたらしく、幕府内の地位は低下し守護職に名前を見せなくなる。
しかし、吉良氏と並び西三河地方で最有力の豪族であることは変わりなかった。
義教の時代、惣領の満秀は既に亡くなっており、先代の詮秀、満秀の弟らしい満平等がいた。
47 :
日本@名無史さん:02/02/12 01:13
三河中条氏の誅殺事件について その2
永亨4(1432)年10月、中条判官(満平と推定)は、義教の拝賀の供を
した際の服装が晴着に相応しくなかったことを咎められ、高橋荘及び尾張国海東郡
の所領を没収された。京都の中条邸に侍所の勢が押し入り、判官は高野山に逃れた。
判官の父親である詮秀(85歳)は上洛を命ぜられたためか、9歳の孫を連れ、
尾張まで赴いたところ、命を受けた又守護代織田により時宗の道場で切腹させられた。
同行していた郎党も一緒に自害し、更に孫も自害しようとしたが織田に止められた。
48 :
日本@名無史さん:02/02/12 01:29
三河中条氏の誅殺事件について その3
詮秀が自害させられた理由は、義教の代になり老齢と称し自らは出仕しなかったこと、
義教の富士遊覧の際にも伺いに出なかったことなどが挙げられている。
この事件により高橋荘は一色氏と西条吉良氏に分与され、中条氏の勢力は格段に衰えた。
地位回復のため、中条氏は結城合戦に参加、戦功を挙げるが、義教の一色氏誅伐により
三河守護が一色氏から細川氏に替わった際、所領は返還されたと思われる。
しかし、完全な勢力回復はならず、以降、歴代の惣領の実名・系譜も不明となり、最後は
織田信長により滅ぼされることとなる。
49 :
日本@名無史さん:02/02/12 06:01
二木謙一先生など、評価しておられる方もおられる様ですが、何故か信長よりもは
るかに評価も知名度も低い将軍。
なんだかんだ言って叡山も鎌倉も結城も敵対する者達は全て倒して来たぶん、他の
室町将軍達よりも評価されて良い筈。
「非科学的な」籤引きで選ばれたというのが悪印象なのでしょうか。
51 :
日本@名無史さん:02/02/12 12:57
「非科学的」といっても石清水八幡宮の神前での籤引きだし
それを言ったら神社仏閣すべて「非科学的」。
46-48さん
ありがとうございます。m(_ _)m
>51
いえ、現代の感覚から「まぐれ当りの将軍」として色眼鏡をかけて見る人達
も多いのでは無いかと思われると言う事です。
実際には正当化された出来レースだった気がするのですが。(妄想)
雁首つきあわせて選定した以上、都合の良い者を選ぶでしょう。
54 :
日本@名無史さん:02/02/12 14:52
籤引きに一番不満だったのが鎌倉公方持氏。
永亨への改元を無視し正長の年号を使いつづけた。
持氏の子が元服したときに将軍の名の下の一字を拝領する習慣を破り
上の字つまり八幡太郎義家の「義」をとり「義久」となづけた。
ここから明らかな関東独立への気概が読み取れる。
55 :
日本@名無史さん:02/02/12 14:58
>>54 足利将軍の権力が凋落した戦国期には義の字の書き出しを拝領した大名は多数いた。
ただし義詮、義満、義持、(義量)、義教の代には一字書出しにおける
将軍と関東管領の上下関係は厳密に守られていた。
56 :
日本@名無史さん:02/02/12 15:08
>>53 実際有力者によって義教にあたるように仕組まれていたらしい。
とりあえず坊主にしておけ、ということだったのでしょう。
しかしその坊主がトンでもない独裁者へ変貌するとは誰もが予想だにせぬ展開だったのでは?
57 :
日本@名無史さん:02/02/12 15:25
>>56 何で仕組まれていたとわかるの?
籤引きの前から義教が特別扱いされていたの?
籤引きに不正はなかったってのが主流のようだけど。
58 :
日本@名無史さん:02/02/12 16:07
59 :
日本@名無史さん:02/02/12 16:51
>>57
当時の史料を見ると、候補者4人の名を書いた籤を三回引いた。
三回とも「義円」とでた、とあります。まあ普通考えれば
籤自体が仕組まれていたのでしょう。黒幕は三宝院満済と
畠山満家あたり。
60 :
日本@名無史さん:02/02/12 17:35
三宝院満済と畠山満家とあと誰でしたっけ。
61 :
日本@名無史さん:02/02/12 20:16
関東八屋形の成立過程、室町関東史、そしてその後の関東をくわしい方。
関東の歴史に関心を持つ方是非教えてください。
義教時代前後に関東の有力大名分布は激動したはずです。。
62 :
日本@名無史さん:02/02/12 22:15
名スレの予感。
63 :
日本@名無史さん:02/02/12 22:20
>>57 でもさ、普通仕組むと思うよ。
むしろ、仕組みもしないで本当にくじ引き
したんなら関係者の頭を疑う。
64 :
日本@名無史さん:02/02/12 23:23
籤引きの形をとったのは、義教擁立反対派を抑えるためでは?
石清水八幡宮の神前での籤引きなら反対派も表立った反論はできないと思う。
65 :
日本@名無史さん:02/02/13 00:46
籤引きのカラクリをすべて明らかに立証できれば、
その論文は「歴史と足袋」ぐらいには載るかな?
66 :
日本@名無史さん:02/02/13 00:57
そんな雑誌は学術雑誌じゃないからね。
「尼奔轢死」ぐらいじゃないと。
67 :
日本@名無史さん:02/02/13 03:12
日本史にとって義教は大事な存在。
68 :
日本@名無史さん:02/02/13 12:49
この義教すれは経済史に踏み込むのかな?
正長の土一揆、酒屋土倉の打ち壊し、惣村の自検団など
室町中期の重要トピックは義教の治世中におきた。
69 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:10
義教が山門を攻撃したのも、一つには経済戦争だな。
京都へ入ってくる米の多くが琵琶湖を通ってくる。
それに比叡山は税をかけた。で、京都の米や酒が
値上がりした。頭にきた義教は比叡山、とくに
その実権をにぎっていた山門使節をやっつけたわけだ。
70 :
日本@名無史さん:02/02/13 13:21
>>59 >>63 4人のうち義円(義教)が選ばれたのはなぜ?
ということを
>>57でも尋ねてるのだけど。
籤引き前の義教はどういう存在だったのか。
>70
満済だったか看聞だったか、義円は一度
青蓮院から脱走を試みてる。将軍就任直後の
はりきりかたと併せて考えると、よっぽど
坊主でいるのがいやだったんだろうね。
それとなぜ義円? これはよくわかんねーんだわ。
一ついえるのは義円だけが義持と同母なんだよね。
黒幕の満済が足利将軍家の奥向き(江戸時代でいう
大奥ね)の縁で出世の糸口をつかんだことからすると、
女性の縁で義円と満済は以前から親しかったんじゃ
ないか。それが義円擁立の伏線になってるんじゃないか。
あくまで推測だが。
>>71 >一ついえるのは義円だけが義持と同母なんだよね。
なんだ、すごい重要なことだね。
義持の後継者という意味では彼が一番適任だったんだ。
73 :
日本@名無史さん:02/02/13 14:50
>>71 >>72 義持って父親に可愛がれなかったから
ファーザーコンプレックスだったのでしょう?
父親が寵愛した弟の義嗣を殺してるし
父親の北山別邸を金閣など2、3の建築物を残して一切移転破却するほど。
花の御所も嫌って御所を他所に移している。
屈辱外交もストップさせた。
義教は父親のことをどう思っていたのかな?
富士遊覧も対明朝貢貿易も諸侯討伐も父親を逆に見習っているように見えるけど。
74 :
日本@名無史さん:02/02/14 07:42
義教age
75 :
日本@名無史さん:02/02/14 08:02
義教は天台座主だったらしいがこれはすごい地位なんですか?
76 :
日本@名無史さん:02/02/14 08:10
足利将軍家の公家化の一例でしょう。
王城鎮護としての比叡山を一族で押さえることで京における地位を固めた。
徳川将軍の一族が東叡山寛永寺の別当になったかどうか知りませんけど。
77 :
日本@名無史さん:02/02/14 08:19
後世の我々が歴史を学ぶ上では楽しい人物だね(w
側で仕えた人たちはたまったもんじゃなかっただろうが。
78 :
日本@名無史さん:02/02/14 08:33
数十人の公家が謹慎や追放を命ぜられ
守護クラスで討伐されたのが一色土岐らの室町幕府重鎮。
別の歴史家によるとなんらかの処罰の対象になった公家を総計すると数百人にのぼる。
まさに「万人恐怖の世」 恐ろしや恐ろしや。
79 :
日本@名無史さん:02/02/14 09:56
義円は比叡山でちゃんと修行したのだろうか?
ただの生臭坊主じゃん。
80 :
日本@名無史さん:02/02/14 21:42
>>79 三宝院満済の書いた日記に将軍になっても自ら密教儀式を何度も執り行ってる。
「大元帥法」とか「大悲闡提法」とか。
81 :
日本@名無史さん:02/02/16 23:27
鍋かむり日親
82 :
日本@名無史さん:02/02/16 23:32
>80
あのな、俗人が密教儀礼できるわけないじゃん。
満済よくよめ。
83 :
日本@名無史さん:02/02/16 23:38
>>82 日記の当該箇所を引用していただけるとありがたいんですが・・・
その上で議論できますし。
後醍醐天皇も、べつに法体にはなっていなかったけど、真言立川流の
あやしい儀式を自ら執り行ったといいますし。
84 :
日本@名無史さん:02/02/17 00:25
>>82 「大元帥法」は国王(天皇・将軍)が施主にならないと効果がないのよん。
85 :
日本@名無史さん:02/02/17 01:02
「大元帥法」、、、、なんて自己満足なしかも権力者べったりの法じゃこと。
施主の施主による施主のための法ね。
それじゃブッシュの演説と変らんね。
86 :
日本@名無史さん:02/02/17 09:23
鍋かむり日親の話し残酷すぎて書けない
87 :
日本@名無史さん:02/02/17 15:05
>>80 「大悲闡提法」は密教では「輪廻転生」の秘儀でなかったか?
それで信長が実は……
明石散人が喜びそうなんでやめとこ
88 :
日本@名無史さん:02/02/17 18:11
Good Thread age
89 :
日本@名無史さん:02/02/17 23:19
自分で法を執り行うのと、施主になるのとは
違うっぺ。義教はもちろん施主にはなってるよ。
「将軍護持僧」っていう最高位の坊主12人からなる
集団もできておる。しかし自分でなんとか法を
行ってはおらんわけだな。そんな変なヤツは
天狗にこってた細川政元くらいなものだわさ。
90 :
日本@名無史さん:02/02/23 10:53
史上最強将軍age
91 :
日本@名無史さん:02/02/23 18:12
義教って、なんか気持ちイイ!
92 :
日本@名無史さん:02/02/26 12:38
義教被害者の会作ったらどれくらい集まるのだろう
93 :
日本@名無史さん:02/02/26 15:36
よしのりって、しょうがくかんのマンガ「日本の歴史」
にけっこうくわしくのってるよ。
ぼくみたもん。うそじゃないよ。かんしゅうがね、くいずおもしろぜみなーる
でにほんのれきしのせんせいやってた、ひぐちのおじいちゃんだよ。
94 :
日本@名無史さん:02/02/26 15:52
義教はやはり信長と同じ
殺されるべくして生まれた
95 :
足利よしのり:02/02/27 12:29
〃───、
/ _____)
/ /´ (_ _)ヽ
||-○-○-|
|(6 ゝ | / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
|ヽ θ ノ< 独裁かましてよかですか?
ヽ|\_/ \_____________
______.ノ (⌒)
//::::::::|-、 ,-/::::::ノ ~.レ-r┐
/ /:::::::::::| /:::::ノ__ | .| ト、
| /:::::::::::::::| 〈 ̄ `-Lλ_レ′
レ::::::::::::::::::|/::: ̄`ー‐---‐′
96 :
日本@名無史さん:02/03/13 23:04
どなたか、本スレ既出以外の、義教関連の文献(市販レベル)をお教えください。
私も「二人の天魔王」には目からうろこ状態でした。
やはり、最初はくじ将軍のイメージしかなく、同書にもある通り
室町で語るに値する将軍は、尊氏、義満、義政の三人だと
考えていたからです。(それどころか武家として「無類の上」とは・・・
、それに比べれば義政は銀閣以外に何かあるのかな?)
明石氏の認識通りだとすれば、まさに“すごい奴が歴史に埋もれて”
いたと感じるもので、興味は尽きません。
賛否両論はもちろんです。その辺も含めてよろしくお願いします。
97 :
日本@名無史さん:02/03/31 20:39
age
98 :
日本@名無史さん:02/04/16 22:39
age
99 :
日本@名無史さん:02/04/16 22:50
いや明石散人はトンデモだけどね。
100 :
歴史の勉強:02/04/16 23:07
100もーらい!
101 :
日本@名無史さん:02/04/16 23:10
102 :
日本@名無史さん:
明石氏の著作を読むと、確かに籤引将軍というこれまでのイメージが後世の
色眼鏡であることはわかる。
それなりに凄い奴だったのは事実なんだろう。
とはいえ、義教ほど皇室に忠義を尽くした武将はいない、というのはどうか。
「万人恐怖」と日記に書いたのは確か皇族でしょ。