日本は九つに分かれた。そんな話。

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70日本@名無史さん:02/02/17 14:09
どうなんだろうね?
上洛するしないの議論と、日本が九つに別れたかどうか。
その関係についてもっと詳細に。

関ヶ原で東軍が勝ったので、徳川家だけが強大になったので統一性が生じたけど、
西軍が勝っていたら、戦国に逆戻りという見解もあるよね。
いくつもの勢力が拮抗したまま情勢が安定して複数国家になっていく、
というシナリオはあり得たかな?
71日本@名無史さん:02/02/17 21:22
天皇を殺せば、自称天皇の末裔や御落胤が現れるだけどおもわれ。
72日本@名無史さん:02/02/18 04:39
【第一章・細川大内の大航海時代】

16世紀日本の両雄は大内と細川だった。
大内は豊前筑前・泉長防石紀7州を領有。博多商人と結び松浦海賊を率いる。
細川は丹河摂淡・四国・備中備後の10州を領有、堺商人と結び瀬戸内海賊を従え。
両者は明から「細内二酋」と呼ばれ倭冦の二大巨頭と目されていた。
細内二酋は倭冦を自らの水軍に取り込み、世界各地で衝突。
この時代「七つの海」はポルトガル、スペイン、大内、細川の4強が分割していた。
時に朝鮮での勘合符のトラブルをめぐって激突。紛争は拡大し李氏朝鮮は大混乱に陥った。
宗主国の明も派兵したがおさまらず、両家は激昂して手下の倭冦に明本土を襲わせる始末。
明軍は壊滅し、両家に降伏。ここに明は両者を仲裁し、
新羅三郎義光の後継の縁者を僭称する細川晴元を新羅王に冊封、朝鮮の東半分を与え、
百済の末裔を名乗る大内義興を百済王に冊封し、朝鮮の西半分を与えた。
これが世にいう「寧波の御和談」である。この朝鮮利権と引き換えに、
明は「夷を以て夷を征す」のたとえどおり、壊滅した明軍のかわりに
両家の軍勢を国内に引き入れ、モンゴルからの侵攻に対抗させたのであった。
73日本@名無史さん:02/02/18 04:42
【第二章・織田の強盛とその没落】

日本国内では今川が強大で今にも幕府を開かんとしていた。
織田は堺商人と博多商人を取り込み海洋通商国家として急成長。
その今川と織田はついに激突。
その頃、延暦寺と本願寺の宗教対立が日々に悪化しており、
今川と同盟関係にあった本願寺が仇敵織田を倒すため加勢をきめ、
弱小な織田はやむなく延暦寺に助けを求めたから、サアたいへん。
全国の諸大名が延暦寺派と本願寺派にわかれ、ここに世に言う「半運の大乱」が勃発。
74日本@名無史さん:02/02/18 04:44
【第三章・半運の大乱の推移、東国3強の確執】

東国の情勢は複雑に展開した。
今川義元は桶狭間で討ち取られたが、名軍師、太原雪斎は老骨に鞭打って生きていた。
雪斎の臨機応変、変幻自在な指揮により、織田軍は壊滅。
信長とその郎党はいずこともなく逃亡して行方を断った。
太原雪斎は尾張を併合、美濃の斎藤道三と国境を接することに。
雪斎は斎藤道三の梟雄なるに驚き、今川家の安泰を図って、
バカ殿氏真と道三の娘帰蝶との婚姻に成功。これより道三は事実上、今川家をも支配。
しかしこれは道三が後継者に恵まれないことを見抜いた太原雪斎のワナだったのである。
(この後、雪斎は老衰死)
今川氏真を侮った武田信玄は駿河に侵攻してこれを併合。しかし生まれて始めて太平洋をみた信玄は
腰をぬかし小便をもらし病に倒れた。当主は勝頼に代わったが、信玄が奇跡的に回復してからは
ことあるごとに勝頼と対立。古くからの家臣も勝頼を支持する者はいない。
ついに勝頼は自分の地盤である諏訪に帰り「父と弓矢を比べん」と宣言して独立。
信玄は攻撃せんとするも、すでに勝頼は信濃北半分の割譲を条件に上杉謙信の越後勢を引き入れており、
信玄の軍は撃破されること数度、越後勢を避け転身して直接に諏訪を襲う。
勝頼たえきれず単身今川に亡命。だが北信は謙信の手に落ちた。
今川に身を寄せた勝頼は、今川家の事実上の支配者、斎藤道三に出会う。
道三は勝頼こそ自分の後継者とみこんでバックアップし、氏真の軍師とする。
(道三死後、義龍は今川家に敵すべらかざる勢いをみて氏真(+勝頼)に臣従)
75日本@名無史さん:02/02/18 04:46
【第四章・島津の「名誉婿入」、三強鼎立】

「半運の大乱」の結果、本願寺や延暦寺など宗教勢力は大幅に衰退し、
とくに全国の一向宗は九州や四国にのがれていった。
九州にのがれた一向宗は、大友がキリシタン大名であったため更に島津領へ逃れた。
島津義弘は一向宗を弾圧したが逆襲され斬首。薩摩は「百姓持ちの国」となる。
しかし、本願寺顕如のあまりに過酷な搾取に、原住民が反乱。
一向宗に抵抗するため、穏健派の門徒を引き入れ一向宗の指導体制を模倣して
「島津様御領民衆」を結成。さらに大友義統をかついで島津義統と改名し当主に立て、
ついに本願寺顕如を撃破、琉球に追放した。これが世にいう「名誉婿入」である。
島津(大友)義統は自らの力で領主になったのではなかったので、
国政はすべて「御領民衆」に委ね「余は『そうせい侯』なり」
「殿様は旗の吹き流しがごとし」と宣言、
島津家の家訓に「君臨すれども統治せず」とされた。
これより島津家は一向宗の組織体制を模倣して取り入れ
国力増強に資することになった。(ただし偏狭な一向門徒は琉球に追放)
四国では長宗我部氏が一向宗を保護。一向宗の軍事力と経済力は
あなどれないものがあり、彼らを保護した長宗我部は強大化。
大内は長宗我部配下の一向門徒による無敵艦隊に敗れ、尼子の独立を許すことに。
石雲隠伯因作防長芸・備中備後の中国11州の太守たる尼子、五畿丹淡讃阿9州の太守たる三好、
伊予土佐2州をしめる長宗我部の三強時代がきたのである。
76日本@名無史さん:02/02/18 04:47
【第五章・半運の大乱の結果、北条幕府】

半運の大乱の結果、
西国では、細川は足下から崩れ、三好家が取って代わった。織田家は滅亡。
(大内、細川は衰退し、朝鮮領のみとなる)
東国では今川の覇権が失墜。宗教戦争にまきこまれた今川、武田、上杉が疲弊し、
戦場になることをまぬがれた北条家が台頭。北条氏康は
足利家を招きよせこれを奉じて今川、武田、上杉に号令し、
ついには足利家から「征夷大将軍」の位を譲られた。
しかしこの時から「征夷大将軍」の権限は否定され名目上のものという
お定まりができてしまったのである。
77日本@名無史さん:02/02/18 04:48
【第六章・ヨーロッパの統一】

この頃、ヨーロッパでは、全欧州をまきこんだ三十年戦争は
「アムステルダム夏の陣」を最後にオランダは滅亡して終結。
ハプスブルグ王朝は圧倒的な勝利を収め、西はポルトガル、北はノルウェー
東はロシアに至るまでの全欧州を完全に臣従させた。
英仏2国の領地の90%はハプスブルグ家の皇族たちに分割されてしまい、
英国のスチュワート家はロンドン周辺のわずかな領土を安堵され
フランスのブルボン家はパリ周辺のわずかな領土を安堵され
ともにハプスブルグ朝に臣従を誓い、神聖ローマ帝国の一部に組み込まれた。
またプロテスタントも残酷な弾圧と魔女裁判によって根絶やしにされてしまったのである。
その上、神聖ローマ皇帝は、「法皇庁並聖職者諸法度」を発して
カトリックをもがんじがらめに縛り上げ、諸国に海外貿易禁止令を出して
オスマントルコとの貿易の利益を独占したのであった。
ここにヨーロッパは三百年にわたる太平が訪れた。
78日本@名無史さん:02/02/18 04:48
【第七章・伊達の野望】

この頃、大陸では後金国がおこり、万里の長城をこえ明朝を征服しようとしていた。
しかし明には、大内・細川の二大勢力が傭兵としてついており、
容易に明を滅ぼすことができない。逆に満州へ侵入されてしまう有り様だった。
ついに明清両国は和議を結び、後金国は方向を転じ、沿海州から苦夷(樺太)
蝦夷ヶ千島(北海道)を狙い、奥羽をうかがうに至った。
この情勢に素早く反応したのは昔から国際派だった「日の本将軍」安東家。
後金国の勢力を借りて奥羽に覇をとなえんとの野望を抱いた。
しかし安東家と南部家の境界にあって両者の緩衝地帯を
なしていた「浪岡御所」の北畠氏は神国日本を守る攘夷の志篤く、
この情報に驚愕し、奥羽諸大名に檄を送り安東の野望を打ち砕こうとした。
ここに安東軍は浪岡御所を急襲、北畠氏は南部領にのがれたが、
南部家では安東家との全面衝突を望まず、さらに南に北畠を送りだしてしまった。
北畠は葛西領に入ったが、葛西家では事態を持て余し、
これを伊達家に相談。すでに葛西、大崎両家は伊達に臣従していたのである。
奥州探題として権勢をふるっていた伊達家はこのような重大な問題を黙視するわけには参らぬ。
建武の新政のおり「鎮守大将軍(鎮守府将軍の上)」となった北畠顕家の子孫を奉じ
安東征伐を決めた。夷狄征伐のためと称し朝廷に奏請して勝手に北畠を「鎮守大将軍」となし、
当主伊達殖宗のいつもの手で、息子のひとりを無理矢理北畠に養子に入れ北畠宗顕と改名させた。
「鎮守大将軍」の管轄は古例により奥羽下野常陸4国に及ぶ。
北畠宗顕の号令と称して諸大名に軍役を課したが、葛西、大崎、最上が答えただけで
南部、葦名、相馬、佐竹、宇都宮など多くはこれに応じない。激怒した伊達家では
「鎮守大将軍」の名を実にするため、以後、奥羽野常4国全域平定戦争にとりかかった。
後に、北畠宗顕は鎮守大将軍のまま伊達家にもどり伊達晴宗と改名、
伊達将軍家、伊達幕府と自称した。
79日本@名無史さん:02/02/18 04:49
【第八章・毛利と大友、天下を二分す】

尼子から博多商人の保護権を奪うべく執拗な攻撃をしかける大友。
さしもの尼子も弱体化をまぬがれず。その下から這い上がってきたのは毛利家だった。
三好家と結んでいた堺商人も毛利家に引き抜かれ、三好は急速に覇権を失った。
また長宗我部も国内にかかえる一向宗との対立が目立ちはじめ、
ついに内乱勃発。一向門徒は島津領や琉球へ脱出し、
以来国力の源泉を失いみずからの首を絞める結果となってしまったのであった。
かくて、九州6国を支配する大友と中国10国を支配する毛利は、
尼子・三好・長宗我部の海外領土を蚕食し、
かつての細川・大内のように世界を二分したのである。(尼子の一時滅亡)
80日本@名無史さん:02/02/18 04:50
【第九章・島津帝国の覇権】

先の「島津様御領民衆」による「名誉婿入」以来、
島津家は「殿様御相談」と「百姓衆寄合」による君民同治の領国経営がなされ、
挙国一致体制となり、ここに島津家の軍事力・経済力は絶頂に達し、
国内では大友(義統の実家)をほふって九州を統一、
海外ではインドにおける「毛利=天竺人戦争」で毛利をくだし、
ついに「日の没することなき世界に冠たる島津帝国」を築くに至った。(大友の滅亡)
81日本@名無史さん:02/02/18 04:51
【第十章・琉球建国と芸州大革命】

毛利家の当主は大友に対抗し日本諸大名の盟主の威厳を示さんと、
贅を尽して吉田郡山城を壮麗を極めたものに改築。
国人衆を城下に集め住まわせ、直属家臣団に再編。
ここで毛利元就は絶対君主として振るまい「日輪翁」と呼ばれた。
しかし海外領土と貿易の利権は大友や島津に奪われる一方。しわよせは領民にかかるのであった。
たまたま島津の圧政に耐えかねた琉球の一向宗が独立、
「琉球一向衆国」が成立すると、毛利領内にも
「一向宗にならえ」とのスローガンの下、一揆が勃発。
しかしそれを扇動していたのは山中鹿之介ら「尼子十勇士」だったのである。
この混乱の隙に山中鹿之介ら「尼子十勇士」は尼子勝久を立て尼子家を再興。
一方、一揆の暴徒はついに毛利元就を斬首。
完全な中央集権的統一国家となり、島津家にならって
「国の仕置きは何事も御領民衆の儀にて行う御定まり」となった。
これが日本最初の「近世的御領民国家」である。
尼子家では、一揆の新体制が以外と強大さをしめしたためコントロール不能の危機を悟り
石雲伯因隠作の6国のみを固く守り、山陽5国を百姓持ちと認め、あえて掣肘を加えなかった。
82日本@名無史さん:02/02/18 05:00
【第十一章・英雄あらわる】

山陽5国新体制には一向宗(本願寺派)の他、延暦寺派、法華派、などいくつもの一揆衆が
参加しており、現実離れした「相論」(神学論争)にあけくれ、血で血を洗う粛清が続き、
民衆の中には「百姓持ちの国」に対する絶望が広がりつつあった。
そこに民衆の期待を集めたのは、かつての名家大内の子孫にして大砲「国崩し」の使い手、
大内義尊だった。彼は、かつて今川義元に滅ぼされた織田家の嫡男、信長率いる一党
「織田党十勇士」を配下とし、名も毛利義尊と改めると、やはり殿様が必要だとの声におされ、
山陽5国の領主に推戴された(毛利家の再興)。かくて天下統一に乗り出したのだった。
たちまち毛利家は九州をのぞく西日本すべての大名を臣従させ、
朝廷に奏請して「征夷大将軍」を要求。しかし、すでに東国に北条幕府が存在したので
これを滅ぼすべく、東国まで派兵。東国連合軍は鎧袖一触で撃破され、
絶世の英雄・毛利義尊の名は天下に轟いた。
83日本@名無史さん:02/02/18 05:01
【第十二章・毛利の侵攻による東国の激変】

毛利義尊の率いる大軍が東国に押し寄せてきた。今川家の軍師・武田勝頼は
ただちに北条家と手切れに及び毛利家についた。
毛利義尊の大砲「国崩し」と「御領民軍」と織田党の武将たちの策により、
東国連合軍は合戦の前に総崩れ、上杉、北条は戦わずにさっさと講和してしまった。
すぐに武田も講和の予定との情報を得た勝頼は、そうはさせないと
合戦に及び大乱戦の中、単騎で敵本陣に乗り込み仇敵父信玄を斬り捨てた。
ここに武田軍は「毛利に降伏しても今川には負けられぬ」と徹底抗戦。
しかし毛利今川連合軍の前に武田はあえなく全滅。
だが勝頼の誤算は、毛利軍の中に、今川を怨む織田の一党がいたことだった。
今川氏真はせっかく毛利側についたのに
織田の一味によって謀叛の濡れ衣を着せられたのだ。
毛利による「東国仕置き」は以下のとおり。
北条氏康は「征夷大将軍」を剥奪。今川家はとくに織田一味に嫌われ、
美濃、尾張、三河の全領を没収され、駿河1国に国替え。
上杉も北条と同じく領地こそ削られなかったが「関東管領」を剥奪。
最後まで刃向かった武田家はとりつぶし、甲斐と南信濃は
無数の小勢力に分裂したまま毛利に臣従。
英雄・毛利義尊は北条から将軍位をとりあげ、
ついに「征夷大将軍」となり毛利幕府を開いたのである。
しかし北条家もしつこく「相模前将軍領」と名乗り続けたのであった。
武田勝頼は毛利の御領民軍の強大さに驚き、
早速、駿河の今川家領を「御領民国家」として大改造すべく
徴兵制を敷き、殖産興業を奨励し、国政につとめた。
84日本@名無史さん:02/02/18 05:03
【第十三章・三好家再興と毛利の奥州攻め】

織田信長は毛利義尊の成功を見届けると、西国に引き返し、三好家に奇遇した。
かつて今川義元に敗れた信長一党は西へ逃れて三好領を通過したことがある。
当時は五畿丹淡讃阿の9国に君臨し、尼子・長宗我部とともに
天下三分の計を図った三好家も、三好三人衆や松永久秀などが分離独立し
無数の小勢力が割拠していた。
そんな時に、信長が郎党を率いて三好家に帰ってきたのである。
信長を見い出したかつての名君、三好長慶はすでに亡かったが
信長は深く三好長慶を敬愛し、三好家の再興を誓っていた。
早速、三好義継に仕え、三好家の再統一にとりかかったのだ。

一方、東国にいる中国勢を率いる毛利義尊は、勢いにのって更に軍をまとめて、
勝手に「鎮守大将軍」を僭称しておる伊達征伐に向かった。
鎮守大将軍第3代政宗は、葦名を滅ぼし会津を手に入れ、
西国の「御領民衆」の制度に習い大改革を行っていた。
伊達軍は南部領に侵入し毛利軍を北奥深く引き入れたので毛利は冬将軍と戦うはめに。
さらに毛利の宿敵である九州の島津は「名誉ある中立」から転じて
「本州封鎖令」を発し、毛利勢を兵糧攻めにしたので、たまらず退却。
本国に逃げ戻ってしまい、今川、上杉、北条の諸大名も毛利の軛から解放された。
足利家を蔑ろにし朝廷からも疎まれていた毛利の敗北によって、
伊達への評価はたかまり、ついに朝廷から鎮守大将軍号を公認され、
正式に奥羽野常4国への命令権を得た。
その後も、遠大なる奥羽野常4国全域平定戦争が継続されたのであった。
85日本@名無史さん:02/02/18 05:04
【第十四章・ヨーロッパの変動】

長い天下太平の中でヨーロッパにも崩壊の兆しがあった。
度重なる経済的困窮にハプスブルグ朝はいくども経済改革を断行したが
思わしい成果をあげられない。不況の続く中、近海には
島津、毛利、長宗我部などの艦隊が通商を求めて鉄甲船を派遣してきていた。
とくに島津は、オスマントルコにアヘンを売り付けたことがもとで戦争となり、
オスマントルコが敗退すると、日本諸大名に分割されってしまい、
ヨーロッパには危機感が蔓延していたのである。
ここに新思想「ヨーロッパ学」が勃興。神聖ローマ帝国の皇帝の位は、
あくまでローマ教皇が授けるものであって、ヨーロッパの本当の主人は
ハプスブルグ家ではなくローマ教皇だというのである。
「教皇を尊び異教徒をうちはらえ」という世論が巻き起こった。
ロンドンのスチュワート家とパリのブルボン家はひそかに密貿易を行って
国力をたくわえ、帝国討伐の同盟を結んだ。
しかしこの同盟を仲介したのは島津家だったのである。
一方、毛利も、対抗するため神聖ローマ皇帝ハプスブルグ家に援助していた。
86日本@名無史さん:02/02/18 05:06
【第十五章・武田再興の一揆と三好家の統一】

旧武田領の甲斐、南信濃では小勢力が割拠し、領民は塗炭の苦しみにあった。
各地の百姓は、島津家が君臨する九州や、毛利家の統治する中国のように、
強大な統一国家「御領民衆国家」の建設を求めてたびたび「御領民一揆」を起こした。
そのたびに小領主たちは上杉、北条、今川などの力を借りて鎮圧していたのである。
そこに現れたのは、武田家遺臣、山本勘介であった。
山本勘介は一揆衆に強大だった頃の武田家の隆盛と当時の領民の安泰の様を説き、
一揆衆の共感を得たと確信するや「武田家再興」を唱え自ら一揆の頭目となった。
ここに一揆勢は、小勢力割拠地の甲斐、南信に加え、上杉領の北信、今川領の駿河をも加えて
「信玄様御領国完全無欠の再興」を要求し気勢をあげた。

上杉家としては北信を手放すわけにはいかない。
そこで、上杉家家臣にして北信の領主である真田幸村は、
上杉家自身が南信、甲斐、駿河を併合して
甲信越駿に及ぶ強大な統一国家「御領民衆国家」を建設するという
「東国一統の大儀」(大再興派)を唱え、みずから一揆衆を編成して運動を始めた。
しかしそれは今川家も上杉に併合されるべきという議論であった。
そこで今川家家老武田勝頼は、北信をのぞいて、
南信、甲斐、駿河だけが合併し「御領民衆国家」を建設するという
「武田御本領の再興」(小再興派)を唱えた。これは事実上、新しく建設される武田国家から
上杉を排除するものであった。
また北条家は、北条、上杉、今川の全領土が合併し、
南関東・甲信越・駿河にまたがる「八十万騎大将軍家領」の建設を唱えた。
諸派に分裂した一揆どうしの戦いは、それぞれを支持する北条、上杉、今川などの
大名の兵を引き入れ、次第に大名どうしの合戦となった。

その頃、西国では、信長の活躍により三好三人衆と松永久秀も三好義継にひれふし、
讃岐阿波を長宗我部から奪回することはできなかったものの、
五畿丹淡7国を領土と確定し、毛利家にならい知行制も完全に廃した統一国家となった。
しかし松永久秀のワナにかかって信長一党は追放の憂き目にあったため
三好家のかつての強盛は望むべくもなかったのである。
追放された織田一党は東国に去っていった。
87日本@名無史さん:02/02/18 05:09
【第十六章・ヨーロッパの日本化】

ロンドン・パリの同盟軍と神聖ローマ帝国軍は、ついにローマで激突。
これが「バチカンの変」とよばれる。ハプスブルグ家は意を決し、
大政奉還に踏み切った。ハプスブルグ家は皇帝の位を返上し、
神聖ローマ帝国は滅亡したにもかかわらず、
ロンパリ同盟軍は「帝国討伐の回勅」を捏造しドイツ本土へ進軍。
ここに、ドイツ諸侯、ポーランド、ロシア、ノルウェー、スウェーデン、
デンマークなどの東方諸国は「独露北欧列国同盟」を結成。
対立教皇を推戴して抵抗したが、ついにやぶれて、一部の者はさらに北へ退き
「シベリア共和国」(シベリア旧ハプスブルグ家遺臣騎士団領)を建てたが、
これも新政府軍に平定された。
新政府は、ローマ教皇のみを唯一の君主とし、全欧州の「廃国置県」を行い
ヨーロッパを統一国家としたのであった。
これ以降、現在にいたるまでヨーロッパは単一民族国家として続いている。
88日本@名無史さん:02/02/18 05:11
【第十七章・東国の平定、今川幕府の成立】

三好家が統一されたと聞くと、東国の武田再興運動もますます過熱して
動乱の兆しが見えてきた。
武田勝頼は、御領民衆の支持を得るため、甲斐、南信の小勢力の知行を召し上げの上、
完全なる御領民国家を建設することを主張した。
そのため、甲斐、南信の小領主たちは、御家の安泰と本領安堵を保証する北条家になびき、
相模前将軍家臣を自称する者が続出した。
ここに武田勝頼は意を決し「武田家の再興は血と鉄砲によってのみなされる」と宣言、
甲州に出陣、小領主たちを次々と滅ぼし領土拡大をはじめたのである。
一揆勢は勝頼を「鉄血軍師」とよんで非難、頑強に抵抗した。
毛利将軍家は、自らの課した「東国仕置き」を破った武田勝頼を征伐すべく
吉川春元、小早川秀秋を出陣させ、はるばる甲州へ出兵。
北条前将軍も、自身の臣下を滅ぼしはじめた今川家に対し宣戦布告。
驚いた上杉家でも真田幸村が毛利軍到着を待って南下、諏訪や木曽などを一時占領した上で、
東に転じて甲州に入った。
ここに甲州では、毛利・北条・上杉・一揆勢の四者による大連合軍が結成され、
武田勝頼を包囲したが、父信玄をも上回る指揮采配と国政改革により編成されていた
「今川家御領民軍」とにより、北条軍と一揆勢は壊滅してしまった。毛利軍と
幸村率いる上杉軍も消耗が激しい。ここに幸村は勝頼に書状を送り
「もう引き返したいが南信に一時留まることを許してくれれば中立を守る所存」と。
かくて勝頼と幸村の密約は成った。勝頼は兵をまとめて、今川氏真を奉じて「上洛」を宣言、
東海道を敗走する毛利軍を追撃。毛利は敗走を重ねて、朝廷に頼ることを決め、
京都に逃げ込んだが、内裏と連絡がとれる直前に今川軍に包囲殲滅され
吉川春元、小早川秀秋は捕虜となり、今川氏真に斬首された。
今川氏真は天皇に拝謁。ついに父義元の代から悲願だった「征夷大将軍」に任ぜられた。
(毛利家の将軍職は罷免された)
ここに今川家は、遠三尾濃を回復し甲州を併合し、駿遠三尾濃甲の6州の太守となった。
この隙に上杉家は南信を奪取して併合してしまった。
また氏真は勝頼を娘婿とし甲州1国を名目上の知行地としてあたえた。
ちなみに三好家の統一、ヨーロッパの統一、今川幕府の成立。この三つはほぼ同時であった。
後にこの三国が枢軸同盟を結び世界大戦を戦うことになろうとは当時誰も予測できなかったのである。
89日本@名無史さん:02/02/18 05:14
【第十八章・明清の戦い、総無事令】

時に、日本最強の戦国大名は島津だった。
大陸では清朝が成立。明国の遺臣、鄭成功を台湾に追い詰めていた。
鄭成功は日本の島津家に救援を依頼。
清朝もまた、源義経の子孫と称し証拠の品として先祖伝来の日本式甲冑を朝廷に贈るべく
島津に託し、鄭成功の依頼に応じないように島津に懇願した。
島津は、島津家1国の儀にあらずとして、朝廷に達し、日本国総大名の連合軍を
派遣すべく勅命を請うた。どちらに味方するにしても、日本軍が東シナ海に出れば
当然のことに総大将は「七つの海の支配者」島津家になるはずだったからだ。
この勢いで一気に全国の大名に号令することも可能、と野望を燃やしたのだ。
朝廷は9大諸侯を京都に召し出した。朝廷の命により征夷大将軍家今川の家老
武田勝頼を議長にした。朝廷の本意は、会議をまとめて朝廷の名による
諸大名大連合を結成させ「永代天下総無事令」を発し戦国に終止符を打つことだった。
島津、伊達、北条が親明反清派で、
このままでは「清の脅威、まさに奥羽に迫らん」と唱えて
海戦にすぐれた島津を総大将に、明を助けて清を討とうと主張。
しかし島津のこれ以上の強大化をのぞまない三好、今川が、
「窮鳥の懐に入る、義挙の時なり」「夷狄征伐、中華復興」と唱え、
親清反明派の立場を明らかにした。
尼子は「思案決し難し、しばらく時を待って謀るべきか」と棄権。
長宗我部は「当家は万事衆議決する所に従ふべし」と日和見に入った。
上杉は「外国の儀、我が事にあらず、妄りに構えて
兵を損じ或いは後難あるべし」と局外中立派宣言。
毛利家は日本国の総意を立てず各自が自由に対応すべし、と唱え、衆議一決しない。
90日本@名無史さん:02/02/18 05:30
【第十九章・大陸への侵略、戦国時代の終焉】

会議を決裂させて、将軍職を取り上げた朝廷のメンツをつぶすのが毛利の意図だった。
そうなれば明派の島津・伊達・北条連合軍と、清派の三好=今川連合との間で大戦争となり
「永代天下総無事令」など吹き飛んでしまう。
ここに織田党の一人、明智光秀が三好家家老として出席していたが、毛利の魂胆を見破り
朝廷の窮地を救うため、国内では「永代天下総無事令」を発するが
海外では合戦自由という妥協案を出し、長引く会議にうんざりしていた諸侯の支持を集めた。

ここに大陸では島津軍が鄭成功を支援し、反撃に出て、たちまち華中(長江流域)を回復。
さらに山東半島に入った。そこへ今川水軍が清を守らんとして島津を撃退し
山東半島を占拠した。伊達軍は沿海州から満州に入ったので
清軍は、本土を守るため万里の長城以北に引き上げざるを得なかった。
毛利はどさくさに紛れて広東省を割取。三好家と北条家は結局動かなかったが、
明・島津・伊達連合と清・今川連合の戦いは続き、
結局中国の北半分は清、南半分を明とすることで和睦したのであった。
大陸の合戦は消耗が多く、参加しなかった国内大名にも厭戦気分が広がり
「永代天下総無事令」の威令はますます徹底され、日本から合戦は消えた。
この頃、すでに奥羽と北関東を征服していた伊達家が
蝦夷が島の探検を終え、戦国は終焉。
九州=島津(大友)家。四国=長宗我部家。
山陽(防長芸備後備中)=毛利(大内)家。
山陰(石雲伯因隠作但丹後)=尼子家。
近畿(五畿丹播備前伊賀紀淡)=三好家。
北陸(三越佐上飛信若江)=上杉家。南関東(相豆武房総)=北条家。
東海(甲駿遠三尾濃勢志)=今川征夷大将軍家。
奥羽野常=伊達鎮守大将軍家。
以上、日本は九つの国に分裂したまま近代を迎えたのであった。
91日本@名無史さん:02/02/18 05:32
【第二十章・現代の世界】

世界は、島津、毛利、長宗我部などの西国列強に分割され、
三好、今川、統一欧州などは「持たざる国」の悲哀をかこっていた。
統一欧州はヨーロッパの生命線を守る為と称し、
十字軍を派遣してパレスチナに傀儡国家「イスラエル帝国」を建設。
世界から非難されると「御公儀」から脱退。
キリスト教による世界普遍主義を唱え「大西亜戦争」が勃発。
一方「領民世間主義アズマ百姓党」をひきいる東条英樹は、
今川家の家老となり、ついに北条家、上杉家を併合。
ここに「アズマ第三幕府」が成立、自らは「執権」の地位につき独裁者となる。
また「自然真営党」をひきいる安藤昌益は、自然真営道一揆をおこし
伊達家を滅ぼし、「奥羽自然真営国」を建設。
「第二次天下大戦」により、島津、毛利などは植民地を失い衰退。
かわって「琉球一向衆国」と「奥羽自然真営国」が、
日本を東西に分割して「冷戦」が始まったのだった。
92日本@名無史さん:02/02/18 19:06
内容にはおい、ってところもあるが、
単純に素晴らしいと思います。
93日本@名無史さん:02/02/18 20:45
お前ら、マジで日本地図を信じてんのか?
あんなもの、あんなの、・・・。
ま、いいか。
94日本@名無史さん:02/02/18 22:55
>>51,>>49,>>1のために書いたんだけど感想はどうよ?
95日本@名無史さん:02/02/19 22:21
ほかの話を考えるか・・・
96:02/02/20 05:47
>>94さん
ありがとう!>>1です。大変面白いです。欧州の日本的推移は為になります。
ただ、日本の各国が大航海時代を迎えたことに対して、ちょっと一気に広がり
すぎたような気がします。どうでしょう?
できたら、どの章でもいいですが、そこだけを取り出して詰めてもらえたら
嬉しいです(^^)
97日本@名無史さん:02/02/22 18:08
age
98日本@名無史さん:02/02/23 02:42
あげ
99日本@名無史さん:02/02/23 11:26
>>96
大航海時代だけど、この架空戦記では細川・大内がすでに植民地をもっていて
諸大名がそれを引き継ぎながら拡大したという設定です。

実際の歴史ではどうかというと、
日本の「大航海」時代というのは、倭冦のことをさしていて、
後期倭冦は江南沿岸部の中国人が多いわけだから
「日本の」っていうのはおかしいけど。
細川・大内の両家は財界(堺商人、博多商人)や海上武士団と連係はあったものの
強固な結びつきとしてはいまいちだったと思われ。
具体的な親玉として細川・大内自身が直接倭冦を掌握しなかった。
スペインやポルトガルはレコンキスタの余勢を駆って戦意旺盛だったのと
当時のヨーロッパ全体がひじょうにハングリーだったのが大きい。
つまり細川・大内など日本は豊かすぎたということ。
(まあスペイン、ポルトガルと激突しても細川・大内が負ける気はしませんが)

それでももし信長がいきていたら中国の江南地方を海から攻め、
日本は英国とインドで衝突、オーストラリアは日本人で満ちていた
という予想もあり、また関ヶ原で西軍が勝っていたら
鎖国はなかったろうともいわれますよね。

だから細川・大内の全盛期の段階では、まだその後のヨーロッパの
ような歴史が展開する可能性はじゅうぶんあったと思います。
(スペイン、ポルトガルは重商主義とかいってもまだ原始的な
略奪経済で、本格的な近代資本主義は生まれてなかった)

では、どこが歴史の分かれ目かというと、
ヨーロッパでは30年戦争、日本では関ヶ原。
ベストファーレン条約で諸国の主権が確立して対等に競争しあう
という体制ができたこと。これでヨーロッパの天下統一という発想が消えた。
同時に英仏蘭が海外の植民地を経営する海洋商業国家として競争することに。
関ヶ原で西軍が勝つと徳川家による一極支配が成立せず、戦国が長引いた可能性が高く、
それと厭戦気分や豊臣の権威の上昇低下の度合いなどの兼ね合いから、
豊臣を名目上の盟主にして、幕藩体制をおそろしくゆるくしたようなものができれば、
諸大名が内戦を停止して海外発展を競うようになったのではないか、と。
つまり、
源氏的=内陸的=東国的=ドイツ的=統一的
平家的=海洋的=西国的=ラテン的=分裂的
として、日本では前者が勝利、ヨーロッパは後者が勝利して
運命の分かれ目になった、という解釈。
そしてそのふたつの文化の境界領域が、ヨーロッパではオランダ、日本では尾張。
異質なものがぶつかりあう地点で新しいものが生まれる。
本格的な資本主義が生まれたのはオランダで、信長が生まれたのが尾張。
だから、ほんとは「関ヶ原で西軍が勝っていたら」という仮想戦記で
十分だったのですが、つい桶狭間からやってしまいました。
それと武田信玄の敗北を是非とも書く必要があった。
徳川家というのは武田滅亡後、甲斐、南信濃を併合して武田の旧家臣を大量に召し抱え
以来、「第2武田王朝」というものに変質。これ以前の一大名とはちがうわけ。
武田というのは駿河を割取するまで内陸国家で、騎馬軍団で有名だったこともあり
上杉や北条と異なり、東国らしさを最も濃厚に代表する勢力と感じる。
そこで「海洋的=西国的=ラテン的=分裂的」な要素が勝利する物語にするため
この仮想戦記では、象徴的な意味で武田には徹底的に敗北してもらいました。
100日本@名無史さん:02/02/23 11:28
関ヶ原の合戦では、東軍が勝利して、徳川一強の状況になったため
徳川幕府が成立し、幕藩体制がしかれて日本国家に統一性が生じたが
もし西軍が勝っていたら、どうなったろうか。

◆◆◆◆◆◆◆◆

【1/関ヶ原後の混乱】

西軍は圧勝し、東軍の主だった大名、武将はことごとく討ち死にした。
徳川秀忠も東山道を敗走する途中、真田一族に襲われ殲滅されてしまう。
石田三成は、西軍大名には例外無しに全領召し上げお家廃絶を原則として臨んだので
関東の徳川、奥州の伊達も自領に引きこもり、徹底抗戦の構え。
この状態で恩賞として新たな国割りを発表するが、諸大名から不平の声があがる。
かくて事務は滞り、各地で新領土の譲渡不履行が勃発。
この状態をみて諸大名は不安を感じ各自勝手な領土確保に走り出した。
全国は戦国に逆戻りの様相を呈し、政権は混乱に陥る。
101日本@名無史さん:02/02/23 11:29
【2/西軍の仲間割れ】

まず毛利輝元は豊前豊後を要求し三成はやむなく承認したが、現地の抵抗にあったため
毛利は派兵して鎮圧。そのまま小早川秀秋の筑前、毛利秀包の筑後、吉川広家の出雲など
一族の係累を臣従させ毛利の直臣に組み込んでしまった。
鍋島直茂と加藤清正はすでに死し小西行長が肥前肥後2国を支配していたが
伊集院氏による庄内の乱にことの他てこずって関ヶ原では
活躍できなかった島津義弘には恩賞がなく強く不平を唱えていた。
宇喜多秀家と小西行長は毛利と島津の動きを警戒していたのである。
また安国寺恵瓊は伊予1国の国主となっていたが、
長宗我部元親は土阿讃3国を有し、かつての四国制覇をとりもどさんと
恵瓊の伊予を狙っていたのである。

この混乱した事態に、浅野長政、長束正家、増田長盛の三奉行は
三成を見限り、彼らは毛利輝元、長宗我部元親、島津義弘ら西国の三大名を
バックにつけ、さらに伊達、徳川、前田の東軍敗残者にも同盟の可能性を探りつつ
三成に離反。大小多くの勢力が味方につき大勢力となった。

三成は、とりあえず上杉景勝、佐竹義宣、真田昌幸、織田秀信、大谷刑部を
「東国仕置き五人衆」として東国を任せ、
宇喜多秀家、安国寺恵瓊、小西行長とで連合軍を編成。
また前田玄以を山陰方面に派遣した。
102日本@名無史さん:02/02/23 11:31
【3/水島灘の海戦】

石田三成の水軍6万と、毛利を盟主とする大連合艦隊8万は、
備中の水島灘で海戦に及んだ。しかるに宇喜多秀家は熊野海賊を、
小西行長は松浦党を、安国寺恵瓊は村上水軍を、事前に完全に掌握していたので
毛利、島津、長宗我部軍はことごとく壊滅。
さらに三手に別れて陸上を席巻。
宇喜多秀家は山陽道を進んで毛利を滅ぼした。
小西行長は島津を滅ぼし九州を統一。
安国寺恵瓊は長宗我部を滅ぼし四国を手中に収めた。
また山陰をすすんだ前田玄以も山陰諸国を領した。
連合軍側についた大小の勢力もすべて処分され、
近畿圏はほとんどが石田三成の領土になったのである。
103日本@名無史さん:02/02/23 11:33
【4/東軍残党の平定】

一方、東国では。
越前の大谷刑部は金森長近を滅ぼし飛騨を併合。
美濃の織田秀信は尾張を併合して三河に侵攻。
上杉はすでに最上を殲滅して伊達との一騎討ちへ。
常陸の佐竹義宣は下野、房総と拡大し、徳川に迫った。
真田昌幸は信濃、上野を統合して甲斐に攻め入り、
佐竹とともに徳川を東西から挟撃する態勢に入った。
しかし、真田は上杉との盟約があり、上杉が伊達と戦っている間に
上杉のため越後を確保しなければならない。
これは三成からの要請でもあった。
そればかりか美濃の織田秀信は尾張の福島正則の兵に逆襲され
救援軍を送らねばならなかった。
大谷刑部は前田利家に思いのほか手こずり越中に釘付けだった。
それで真田は甲斐、駿河まで取りながら
引かざるを得ず、徳川にとどめを刺す役得は佐竹のものとなった。
真田は東海道を西へ進軍したが、すでに織田家は滅亡。
美濃を平定した頃には、徳川も滅んでいた。
徳川、伊達、前田は武力と知力を尽して抵抗したが、主だった武将たちが
すでに討ち死にしていてはいかんともしがたく、ついに滅亡。
104日本@名無史さん:02/02/23 11:34
【5/戦国の終焉】

こうして全国が九家に分割されてしまった。
この国割りは関ヶ原の論功行賞とは関係がないがすでに実力でもぎとったものであり、
半ば三成の公認のもとで行われた東軍の残党征伐であった。
ここで勢力圏の線引きを永代にわたって確定し、朝廷と関白秀頼のもと
相互不可侵、天下総無事の盟約をなし、戦国に終止符を打ったのである。

石田三成は豊臣秀頼を奉じて全国に号令せんとしたが、まもなく豊臣家の子孫は絶え、
養子が入ったが、歴代子孫がなく代替わりごとに近衛家から養子を迎え
関白に就任することが次第に恒例となり、次第に名目的な権威となった。
九州はキリシタン王国、四国は禅宗王国となり、山陽の宇喜多家とともに、
この三国は巨大な水軍をかかえ海外に発展、貿易国家として栄え、
その国力が豊臣家をも凌駕すると、最早豊臣家の号令に従わず、
次第に東国諸大名を圧倒した。そこで、この三国を除く諸大名は
領内の知行を召し上げ、それぞれ統一国家を築いて国家を立て直すのだった。

九州=小西家。四国=安国寺家。山陽(防長芸備作)=宇喜多家。
山陰(石雲隠因伯但丹波丹後)=前田家。
近畿(五畿江勢紀)=豊臣家(家老・石田三成)
奥羽越=上杉家。関東(常房総野武相豆)=佐竹家。
北陸(越中越前加能飛若)=大谷家。
東海(信上甲駿濃尾三遠)=真田家。
105日本@名無史さん:02/02/23 11:41
実際のところは、関ヶ原で西軍が勝っても勝敗つかず長引いても、戦国に逆戻りだろう。
それで多少ごちゃごちゃが続いて弱小勢力が消滅したとすると最終的に
東北=伊達、北陸=上杉、関東=徳川、中部=真田、
九州=島津、四国=長宗我部、中国=毛利、近畿=豊臣(石田)
って感じだろうか。これだと八つだけど松前=北海道か尚氏=琉球が加わったら十。
九つにならないね。
106日本@名無史さん:02/02/24 12:36
九つじゃなくて八つじゃん
107:02/02/28 01:36
>>105
いいです。とってもいいです。西国3ヶ国の海外進出もたのしい。
108日本@名無史さん:02/02/28 05:12
何でも戦国時代にもっていくから大名フェチは嫌いなんだよ。
面白かったけど。
109日本@名無史さん:02/02/28 09:04
>>108
いや、そういう理由で戦国時代にしたわけではない。
スレの前の方では、12世紀の「平家×朝廷×木曽×鎌倉×奥州」の分裂が定着して
日本が五つに分かれた、なんていう想定を書いたのも漏れだよ。
中世ヨーロッパとちがって日本は一度律令で中央集権な統一国家やったことがあるから
どうしても「内乱状況」と感じてしまうんだろうな。
つくづく頼朝の提案を蹴った後白河法皇は暗君。
もし分裂したままなら、頼朝が公家の反対でとりやめた高麗征伐が実現したはず。
つまりヨーロッパの十字軍みたいな話が展開するだろう。
源平時代にしても戦国時代にしても、日本の英雄時代。
分裂期の方が歴史はだんとつに面白いのは世界中どこの歴史でも若干の例外をのぞいてほぼ常識。
110日本@名無史さん :02/02/28 09:54
>>107
??1はたのしい読み物が読みたかったのか?
それならそれでもいいんだけどさ
111日本@名無史さん:02/02/28 10:04
日本も連邦制に!
112日本@名無史さん:02/02/28 11:42
>>109
その若干の例外というのは何よ?
113109:02/02/28 11:46
>>112
ローマ帝国全盛期とか江戸時代とか、かな?
つっこまれた時のための予防線はっただけで
深く考えてたわけじゃないんだから、これ以上きかないでくれ。
114日本@名無史さん:02/03/05 20:54
>>108
面白かったんならよかったじゃんよー
115日本@名無史さん:02/03/10 04:29
age
116日本@名無史さん:02/03/12 04:22
age
117日本@名無史さん:02/03/12 04:28
英雄時代、って。
ま、いっか。
118日本@名無史さん:02/03/12 11:11
なにも書かずにあげないように。あげるなら何か書いて。

>>109
>もし分裂したままなら、頼朝が公家の反対でとりやめた高麗征伐が実現したはず。
>つまりヨーロッパの十字軍みたいな話が展開するだろう。

宋を救うための女真征伐、もしくは宋復興のための蒙古征伐だな。
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救急車を呼べ・・・・・・・・・・・・・・・・