1 :
歴史質問ゴンタくん:
もし、前田利家が徳川家康よりも長く生きていたら、どうなっていたか??
それを、ちょっと考えてスレ。。
何も変わらず。
佐竹は滅ぼされた。
>>3なんで、佐竹が滅ぶのか説明せいや〜!!!
7 :
日本@名無史さん:02/01/21 04:45
佐竹はともかく、関ヶ原は起こらなかった。
しかし徳川家は存続。
どっちにしろ豊臣と徳川の争いはあっただろう。
8 :
日本@名無史さん:02/01/21 04:50
なんで関ヶ原が起こらなかったと?
9 :
日本@名無史さん:02/01/21 05:16
>>8 そりゃ秀忠では、反体勢力を打倒出来るだけの軍勢を
集められないからでは。
征夷大将軍の地位も Get できなかっただろうし>徳川
10 :
チャンチャン:02/01/21 09:00
前田利家が天下とったってことはないの?
秀忠が徳川家をついで求心力が弱まれば、伊達はどうでるかな?
上杉や佐竹と和解・和解して関東計略に乗り出せば・・・
ポスト家斉期に
中野硯翁一派の陰謀が成功していれば子孫は将軍になってかもね。
尾張の反抗的な態度について
尾張のかわりに前田を御三家にしろ
という意見はでてりしたこともあるね。
>>1利家の葬儀に家康の名代が遣わされたに違いない。
全く逆でした。
16 :
日本@名無史さん:02/01/21 11:04
>10
前田利家は野心の無さが最大の魅力
>>16利家は結果的に野心の発露が無かっただけだよ
利家の嫡男 利長は優秀だったのであるいは天下取りもあったかもしれない。
19 :
日本@名無史さん:02/01/21 15:53
>>17確かに、いつも目の上のタンコブがいて、チャンスもクソも無いわな。
人望もイマイチみたいだし。
他人が困った時には頼られるけど、自分のためには着いて来ないみたいな。
会社の中間管理職に多そうなタイプ?
20 :
日本@名無史さん:02/01/21 16:49
豊臣奉行が加藤・福島・池田らに干され、混戦が続いたのち、
西国は島津・毛利と手を組んだ黒田如水が盟主
中央は秀頼擁立の前田利家が盟主
関東は近隣大名を抑えた徳川秀忠が盟主
東北は上杉を倒した伊達政宗が盟主
豊臣大名は皆、利家に馳せ参じるでしょうな。でも天下統一はムリかと。
やはり秀忠では役不足。
でもこうなったら面白いかなあと言う事で。(藁)
21 :
日本@名無史さん:02/01/21 20:56
関が原にいたるまでの家康の事跡をたどってみれば
利家など比べ物にならないほどの律儀である。
同盟者信長のために姉川で死力を尽くし
三方ヶ原で信玄相手に玉砕まがいの奮闘をし
小牧、長久手では、信長の馬鹿息子、信雄のために
秀吉8万の軍勢を一手に引き受けている。
よって利家が律儀=豊臣家安泰という法則は通用せず
22 :
日本@名無史さん:02/01/21 21:03
>>21 言われて気が付いたよ。
たしかに織田家への律儀度でいえば利家より家康の方が上だな。
23 :
日本@名無史さん:02/01/21 21:57
>22
あのー要は利家は豊臣政権擁護派、家康は派遣奪取派ということだけではないのですか。
擁護派で力があるのが利家ということでしょ。どっちが律儀とか関係ないでしょ。
「家康のほうが律儀―豊臣家安泰ではない」ってどういう理屈だよ。利家が豊臣家を
擁護しないということをいいたいんだろうけど実際擁護してるじゃん。はずかしいなあ。
24 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:15
>>23 全然違うぞ。よく読め頭が骨折してるのか?
25 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:27
>24
家康が利家より律儀だとどうして豊臣政権が安泰でないのか論理がつながらんじゃないか。
「あれほど律儀な家康も豊臣政権から離反した」、といいたいのか?まじわからん
26 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:29
数字を理解できるかの問題。
前田氏の勢力圏と、徳川氏の勢力圏の経済力を比較すれば、
前田氏が徳川氏ベッタリの政策を採ることは不可避。
27 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:30
>>22のどこに豊臣安泰の文字かある?言ってみろ!!!!
28 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:31
25=基地外
29 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:31
>27
21の論理に22が賛意を表しているだろ。
30 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:34
家康は利家より律儀だから豊臣政権から離反しないといいたいのか。
おい、本当にわからんぞ。
31 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:36
家康の織田家への利家以上の律儀さへの賛意だ!!ヴォケッ
32 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:39
22のレスには織田徳川連合が頑張って築いた政権を
簒奪した豊臣政権への批判が込められているのだ。
豊臣安泰なんか知るか。
33 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:40
前提:家康は利家より律儀である。
結論:利家が律儀→豊臣政権安泰と限らず。
だから、律儀かどうかが問題なのではないってこと。
反問:家康より律儀でない利家がなぜ豊臣家を擁護したか?
答え:豊臣政権擁護派だったから。要は家康より、豊臣政権に思い入れが
あったから。
律儀かどうかの比較論なんて意味ないジャン。
34 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:43
わかるように書けよww
レスの流れからも唐突だしわからんよ
35 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:46
家康の織田家への利家以上の律儀さは、織田家を蔑ろにした豊臣政権打倒の原点と言うわけか。
一方前田利家はどう解釈する?
家康と同じ思いか、それとも豊臣恩顧なのか。
36 :
日本@名無史さん:02/01/21 22:59
織田家や徳川家の武士達には、信長や家康の目指した寺家や公家を政治に関わらせない強力な武家政権は、
摂関政治の時代に立ち戻ったような豊臣政権よりは魅力的に映ったかもな。
37 :
日本@名無史さん:02/01/22 01:32
家康は名家好き。
武田とか吉良とか、鎌倉以来の家は存続させた。
つまり、階級思想の持ち主。
もし本能寺がなければ、家康も天下を狙わず、天下人
織田信長の有力武将で満足していたかもしれないが、
信長に代わって天下を取ったのが百姓あがりの秀吉だったことが
家康の野心に火をつけた(と思われる)
織田家の遺族をまったく顧なかった秀吉の遺族を、大事に守る必要は感じなかった。
大体、家康は織田信長の弟分。秀吉・利家は部下。
そもそも立場が違ったのだ(下克上の時代にそんなこと言っても始まらんが)
家康は何の遠慮もなく豊臣を滅ぼせた。
利家は、もと同輩で親しく、秀吉が天下人となってからは、数々の恩もある。
家康より長生きしても、決して豊臣に刃を向けることはなかっただろう。
38 :
日本@名無史さん:02/01/22 01:45
利家が家康より長生きしたと仮定して、
豊家を滅ぼして自分が天下を取ろうという野心があったなら、
家康のように秀吉亡きあといろいろしたんじゃない?
39 :
日本@名無史さん:02/01/22 01:48
人間のタイプが違う。
石高も全然違う。
40 :
日本@名無史さん:02/01/22 01:52
41 :
日本@名無史さん:02/01/22 02:09
天下を狙ったかどうかはともかく
利家が長生きしていたら、長男利長ではなく次男利政に
家督を譲った可能性も大きい。
保守的で慎重な利長<<<才気煥発で覇気のある利政
というのが、利家晩年の前田家中の雰囲気だった。
前田の戦力じゃ上杉には勝てない。
大河ドラマも「上杉家」にしておけば良かったのに。
43 :
日本@名無史さん:02/01/22 02:44
皆さん大名の性格で天下を取れる取れないを判断してませんか?
秀吉没後、家康がいろいろ始めたのは一番天下を握る位置に近かったからです。
家康自身がその采配をする能力があったのも事実ですが、実質豊臣政権下で豊家自身をのぞくと勢力が一番大きい大名であったからです。
利家は前田家単独では徳川家には及びません。
であるから、政権擁護側であるほうが都合が良かったのです。
それを家康自身もわかっているから関が原時点では豊臣対徳川という構図を表面化するのを恐れていたのでしょう。
実力的に利家が徳川家をしのぐことができたら家康と似たようなことをしたのでは。
44 :
日本@名無史さん:02/01/22 03:11
>>43 それは違うと思うなぁ
勢力が大きい小さいよりも、その心意気と才覚があったかどうかだと思う。
勢力の小ささは他の大名を味方に付けることで補うことが可能だし、
実際家康もそうしてたでしょ?
京・大坂への地理的な近さと旧織田家臣かつ豊臣大老ということ
を考えれば、家康に対抗することは可能だと思う。
だから、結局は個人の性格と才覚によるところが大きいんじゃないかな?
45 :
日本@名無史さん:02/01/22 03:15
46 :
日本@名無史さん:02/01/22 03:29
勢力があっても毛利輝元みたいにボーっとしたのもいるけど・・・
47 :
日本@名無史さん:02/01/22 06:47
43は利家が家康の立場だったら天下を狙ったか、の話。
44は利家が家康に勢力的に対抗できるかの話
もともと対立する意見でないから両方とも成り立つよ。
ちなみに利家が生きていたらと仮定すると大大名では
・娘婿の宇喜多がまず味方する。
・上杉は、前田がいなくても反徳川。当然前田の味方。
・五大老中3人が反徳川なら毛利も前田に味方する。
・毛利が味方するなら小早川も前田の味方
・上杉が味方するなら佐竹も前田の味方
と連鎖的に反徳川で結集できる。
・五奉行も浅野以外は反徳川で結集。
・織田、豊臣系の大名家も関が原の時よりも何割かは
豊臣方に踏みとどまるだろう。
・島津、長曾我部もわざわざ、西国で徳川に味方しないだろう。
要は反徳川結集のキーマンでありえたわけですね。
48 :
日本@名無史さん:02/01/22 07:13
前田利家って何した人なの?
織田家でどんな業績があったんでしょうか。
柴田勝家の与力であったことしか思い出せない。
50 :
日本@名無史さん:02/01/22 07:26
>>48 となり越中を治めていた佐々成政とよく戦って
ほとんど負けていた人・・・
51 :
日本@名無史さん:02/01/22 08:13
家康持参の弁当を食った人・・・だろ?
>>48 織田家での業績は大した事ないだろ。49や50の言うとおり。
ただ寄親の勝家を裏切って秀吉についてから、クローズアップされてきたんだろうな。
太閤晩年は徳川の対抗馬として育てられたような感じ。
スレタイトルの仮定で考えると、普通に豊臣政権がしばらく続いたと思うがね?
武断派武将VS文治派の争いはあったかも知れんが・・・。
秀忠も秀頼様未来の義父として、豊臣政権下の大大名として続いていた気もするが・・・。
つまり関ヶ原的な日本を2つに割ってのいくさはなかったかと思う。
54 :
日本@名無史さん:02/01/22 13:01
>>1 橋本龍太郎=徳川800万石
前田利家=石原慎太郎都知事100万石
と仮定したら??
56 :
日本@名無史さん:02/01/22 13:30
>>33 >前提:家康は利家より律儀である。
>
> 結論:利家が律儀→豊臣政権安泰と限らず。
>
> だから、律儀かどうかが問題なのではないってこと。
>
> 反問:家康より律儀でない利家がなぜ豊臣家を擁護したか?
>
> 答え:豊臣政権擁護派だったから。要は家康より、豊臣政権に思い入れが
> あったから。
>
> 律儀かどうかの比較論なんて意味ないジャン。
>
>
だからどうして、利家は内心では天下をうかがっていなかったと断言できるんだ?
もう少し論理的に考えてくれ。
内心から豊臣政権擁護派だったという証拠などどこにもない。
利家だってもし健康だったら豊臣の天下をうかがったかもしれない。
57 :
日本@名無史さん:02/01/22 13:33
利家には信長に取り入って実の兄が継ぐはずだった
前田家を横取りしたという前科あり。
同じように豊臣家の簒奪をたくらまないと言い切れる
証拠などどこにもない
佐々に負け続け最後に秀吉に頼み込んだ前田。
関ヶ原では真田にいいようにされたのも前田。
裏切りが多い割に戦に弱い。
いや、漏れもよく知らんのでいい加減かも知れんが・・・。
どこがいい加減?
>>58 関ヶ原では真田とは絡んでいないと思うが?
60 :
日本@名無史さん:02/01/22 16:40
>>57 不正確なことを書くな
実の兄のあとを、子がなかったために嫂の甥(慶次郎)が継ぐはずだったのを
信長の鶴の一声で利家が継いだ。
61 :
日本@名無史さん:02/01/22 16:48
62 :
日本@名無史さん:02/01/22 17:30
織田家臣ってへたれの方が江戸時代成功してるなあ・・・
63 :
日本@名無史さん:02/01/22 18:21
硬骨漢な織田家臣は賤ヶ岳の戦で死んだ奴だけ。
64 :
名無し象は鼻がウナギだ!:02/01/22 18:29
65 :
日本@名無史さん:02/01/22 18:29
66 :
日本@名無史さん:02/01/22 21:32
>56
逸話―孔子の講義を聞き、
「侠とはいまわのきわに友人から遺児を託されるような人を言う」
と言う言葉に感銘を受けていると言う逸話がある。
自分の死後、利長に大阪で8,000人、金沢で8,000人の軍をいつでも
出動できるように遺言している。首都の治安に責任をもっていた証拠。
秀頼に忠義な三成、秀家、清正等が前田利家の人柄を信頼している。
67 :
日本@名無史さん:02/01/23 05:06
>>60 >
>>57 > 不正確なことを書くな
> 実の兄のあとを、子がなかったために嫂の甥(慶次郎)が継ぐはずだったのを
> 信長の鶴の一声で利家が継いだ。
>
テメエの書き方のほうが恣意的だろ馬鹿。
いったい57のどこに事実上の間違いがあるんだよ
68 :
日本@名無史さん:02/01/23 05:08
>秀頼に忠義な三成、秀家、清正等が前田利家の人柄を信頼している。
証拠はどこにある?
69 :
日本@名無史さん:02/01/23 05:40
>>57 >>60 >>67 まあ、利家が取り入って家督を相続したのか、
信長の考えで相続させたのか、ハッキリした証拠なんかないよねぇ
70 :
日本@名無史さん:02/01/23 06:32
>68
まず織田政権下では一介の地方大名に過ぎなかった利家を、官位、石高を上げて
家康の対抗馬として長年育てた秀吉とその側近の人を見る目は信用できると思う。
3人とも利家派である。家康との縁組事件での対立などで明白。
71 :
日本@名無史さん:02/01/23 11:38
>>67 >利家には信長に取り入って実の兄が継ぐはずだった
>前田家を横取りしたという前科あり。
>
テメエの書き方は恣意的だろ阿呆。
いったい57のどこに事実があるんだよ
太閤亡き後、天下を取るのは利家殿。利家殿がとらねば俺が取る。家康ごときは問題ではない。
73 :
日本@名無史さん:02/01/23 11:50
>>69 利久は実の弟たちがいるのに
なんで血のつながりの無い
妻の甥なんかを養子にして
跡を継がせようと考えたんだろう?
74 :
日本@名無史さん:02/01/23 11:55
75 :
日本@名無史さん:02/01/23 14:27
三戦板に帰って来いよー
76 :
歴史質問ゴンタくん:02/01/23 15:27
でも、秀吉のような成功者が、前田利家(80〜100万石)は徳川家康(250万石)
に政治的に争って勝てるとでも思ったのであろうか?それから、三成の行動を把握していなかった
のか(言動や行動)。一種の痴呆だったと思われ。。
77 :
日本@名無史さん:02/01/23 16:11
そのとおり。晩年の秀吉は・・・。
78 :
日本@名無史さん:02/01/23 16:49
なんで秀吉は前田の石高を徳川と同じぐらいにしなかったのか?
家康を信じきっていたのだろうか?
79 :
日本@名無史さん:02/01/23 16:55
利家を信じきっていなかったから。
第2の家康となることを恐れたから。
かな?
80 :
日本@名無史さん:02/01/23 17:09
禄高はともかく当時の北陸は辛いよね、京、大阪には近いけど!
81 :
日本@名無史さん:02/01/23 17:14
もし前田と徳川が同じくらいの石高だったら、利家が死んでも前田は
徳川に屈しなかったろうに。
82 :
日本@名無史さん:02/01/23 17:19
氏郷くんが生きていれば・・・。
83 :
日本@名無史さん:02/01/23 17:47
>>71 >
>>67 > >利家には信長に取り入って実の兄が継ぐはずだった
> >前田家を横取りしたという前科あり。
> >
>
> テメエの書き方は恣意的だろ阿呆。
> いったい57のどこに事実があるんだよ
>
1.前田利久は1983まで生きていた。
2.前田利家は信長の近習であった。
3.武家においては養子縁組は珍しくないのに養子だという理由で
慶次郎は家督相続を拒否された。
(ちなみに慶次郎の器量についてはいまさら言うまでもないだろう)
ちなみに柴田勝家も羽柴秀吉も、実子がおらず養子であるが、
そのことが問題になっていない。
これらを総合するに、前田家の家督相続に恣意的な力が働かなかったと考えるほうが無茶
アホはとっとと死ね
>>81 そりゃそうだろう!
あるいは利長じゃなくて利政が家督を継いでいれば
おもしろい展開になっていたかも?
85 :
日本@名無史さん:02/01/23 18:52
て言うか、家康と利家が一騎打ちをすればどっちが勝つ?
一騎打ちなら利家じゃないかな?
87 :
歴史質問ゴンタくん:02/01/23 19:48
>>ALL
良く考えてみると、九州、小田原などの国内戦において、戦功を別に上げて
ないのに、信長(ほぼ柴田の遺領)を継承してんだよね〜。。丹羽は段々減封、
池田は普通のちに、徳川によって出世、佐々は島流し的転封、あんま織田の旧臣
で、なぜ信用を勝ちとったのか?懐疑的。
>>87 若い時から仲良かったし、奥さん同士も親しかったからじゃん!?
89 :
日本@名無史さん:02/01/23 20:17
>>70 >3人とも利家派である。家康との縁組事件での対立などで明白
清正は違う。
慶長4年にその縁組事件で家康と利家の対立が鮮明になった時、
清正は福島・黒田親子・大谷・蜂須賀・池田らとともに伏見城の家康の下に
馳せ参じている。
その他にも多くの武将が家康の下についたため、利家は意気消沈して、
和平に応じただけでなく、家康を強く諌めることも出来なかった。
この段階をみる限り、利家にどれだけの人望があったかという点では疑問が残る。
90 :
日本@名無史さん:02/01/23 20:32
>>89 >清正は福島・黒田親子・大谷・蜂須賀・池田らとともに伏見城の家康の下に
>馳せ参じている。
その時は利家の後ろに石田やら小西やらがいたからでしょ
91 :
日本@名無史さん:02/01/23 20:49
>>90 つまり、利家の存在ってその程度ってこと?
石田や小西がいるから駄目だとか、まとめ上げることも出来ないと。
場合によっては戦にもなりかねない状態で、
敵対派に自発的に馳せ参じるような人物が、
果たして「利家派」と呼べるような人物かと思うけど。
92 :
日本@名無史さん:02/01/23 21:29
利家とまつとの間の子が2男9女じゃなく9男2女だったらまた違っていた
だろうね。そんな事言っていたらきりないけど。
93 :
日本@名無史さん:02/01/23 22:56
前田家の実力というのは、五大老の中でも一番見劣りがする。
お家騒動を起こした後の、宇喜多家と同じぐらいといってよい。
利家の武将としての能力も、一軍を率いる器とは
言えない。(実際に卓抜した戦功など無いし)
どう考えても家康に対抗する器ではない。
もし蒲生氏郷が生きていたら・・・とか
もし三成に100万石の実力があったら
とかの仮定のほうがよっぽど面白い
縁組対立の時、健康上の理由を除き、利家が圧倒的に有利。
秀頼のいる大阪城に本拠をおき、4大老5奉行が結束、家康は法度違反をおかしたことが
明白で法的立場も弱い、軍事的には前田、宇喜多、毛利、石田、長束、増田、皆上方に
近いので短期決戦で兵力的に有利、長期戦でも石高は大阪が高かったので大阪方が
有利だった。
43の意見をもう一度書きます。これが全てと思います。
ちなみに利家が生きていたらと仮定すると大大名では
・娘婿の宇喜多がまず味方する。
・上杉は、前田がいなくても反徳川。当然前田の味方。
・五大老中3人が反徳川なら毛利も前田に味方する。
・毛利が味方するなら小早川も前田の味方
・上杉が味方するなら佐竹も前田の味方
と連鎖的に反徳川で結集できる。
・五奉行も浅野以外は反徳川で結集。
・織田、豊臣系の大名家も関が原の時よりも何割かは
豊臣方に踏みとどまるだろう。
・島津、長曾我部もわざわざ、西国で徳川に味方しないだろう。
要は反徳川結集のキーマンでありえたわけですね。
付け加えると、前田がトップに立つことの一番のメリットは、毛利が反徳川で
その実力を発揮できると言う点が上げられる。
@毛利はその身代の大きさにもかかわらず、大勢力になびいて自家を保存しようとする
小大名のような行動習性がある。
Aそんな毛利以外で反徳川の総大将が勤まる大名がいなかったのが関が原なわけだが
B前田は毛利のような外様と違い、織田、豊臣系の大名のボスであり、しかも
豊臣政権のナンバー2を公式に認められている。
C要は錦の御旗がある。
Dこういう人間が上に立てば毛利一族は意見がわかれて迷走することなく
反徳川の実力が発揮できる。その総石高は200万石に近い。
E前田が抜け、毛利が総大将であった関が原でも、西軍有利と当初は言われていた。
F前田が加われば結果は明らか。
Gおまけに当時の50万石以上の大名で徳川に味方しそうなのは利家が生きていれば
伊達政宗くらい。
H20万石〜50万石クラスで最上義光、堀秀治、福島正則、加藤清正これだけ。
96 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:24
織田の旧臣系は利家の味方をしないと思う。
丹羽なんて絶対しないだろうし。
池田とか森も早々と徳川に走ってるし。
やっぱりその辺いろいろあるんだろうね。
97 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:28
蒲生秀行はどうするかね。
妻が家康の娘で、姉が前田利政の妻。
98 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:28
>>94、95
では、なぜ利家は結果として家康に対して下手に出た挙句、
ろくに諌めることも出来ず尊大な態度を取られたと思います?
前田家の記録においても、この時の利家の当初の態度は、
「伏見の大坂の諸大名を集めて戦も辞せず」
とのことだったとのことです。
しかし、その直後に、伏見城の家康の下には、
加藤清正・福島・黒田親子・蜂須賀・細川・池田・森・加藤嘉明・藤堂・京極・
金森・織田有楽・新庄・有馬・山岡・大谷といった面々が集結し、
その余りの多さに利家は意気消沈したとあります。
とてもじゃないですが、利家が圧倒的に有利とは思えないですね。
それどころか、家康に対する彼の実力・人徳の不足が顕著にみられる
ところだと思うのですが。
99 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:40
前田家有利との見方が強いようなので、あえて徳川家の弁護をしてみる。
この頃の家康は太閤秀吉の遺言により政治を任される身であり、
もし前田家と敵対することになった場合、
豊臣家の名をもって前田家を賊軍として征伐できる。
利家と家康を比較して、権謀術数、政治的力量において家康がはるかに優れている。
仮に戦争となれば家康は必ず豊臣対前田の構図に持ち込み、
権謀術数の限りを尽くして優位性を勝ち取るだろう。
(あんまり具体的じゃないすね)
まあ、単純な数あわせでは進まないのが政治の世界。
一昨年の加藤紘一の乱の時だって、不信任案は可決される勢いだったが、
野中広務の裏工作によって加藤は惨敗に追い込まれた。
俺には野中が家康に、加藤が三成にダブって見えるなあ。
100 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:50
利家が家康のエグさに勝つのは無理だと思う。
本人の才能もあるが大原雪斎程の名師に恵まれた奴はそうはいない。
雪斎は今川最強幻想の立役者であると思うが家康もそういったイメージ創り
は群を抜いている。
利家が生きててもやられたろうね。
101 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:50
家康公と前田利家では器が違いすぎる。
102 :
日本@名無史さん:02/01/23 23:54
戦略としては家康に分があるだろうが、実際大坂と伏見で合戦になったら前田派の勝ちだろ。
103 :
日本@名無史さん:02/01/24 00:11
>>102 大坂・伏見で前田派に参戦するのって具体的に誰がいんの?
徳川派は98氏の書いてるあたりが主力なんだろーけど、
実際、前田派には誰が集結したの?
104 :
日本@名無史さん:02/01/24 00:26
>>103 在坂兵力から考えると家康は関東勢を待つというカタチになるだろうが、
対する前田方は本国が近い者が多い(石田、宇喜多など)ことから速攻をかければひとたまりもないでしょ。
秀頼も利家の掌中にあるし。
105 :
日本@名無史さん:02/01/24 00:31
>>95 >B
織田政権下での利家の身分はあくまで柴田の組下であり、
織田系大名への影響力はそれほどではない。
実際、織田系の大名は池田・森はじめ徳川方についている者も多い。
豊臣方としても、勝家を裏切った後の参入であり、
実際、両加藤・福島・蜂須賀・黒田といった豊臣恩顧といえる多数が
徳川方についていることからすると、これも説得力が無い。
政権の第一人者として公式にも実質でも認められてる家康に比べると弱い。
>C
この段階で錦の御旗は利家のものにならなかった。
政治力にも劣る。
>E
これは微妙なところ、有利と言われていたのは徳川主力の遅参のため。
>F
まあ、個人的な思いはそれぞれなんで・・・(苦笑
>G
かといって、利家に積極的に味方しようとする者も少ない。
>H
では、利家方には「実際」誰が集まりました?
106 :
まとめてレス:02/01/24 00:39
今日はねますのでまとめてレス。
>98
人数は多いけど基本的に中小大名が多い。ざっと計算してみると家康の255万石を
足して450万石程度か。
前田方は、4大老5奉行だけで450万石。これに佐竹義宣とその与力大名80万石
毛利が加われば小早川52万石も、他に長曽我部、島津、小西、寺沢、立花、原他中小諸侯も
参加している。今あげただけで700万石近く。他にもいるはず。
>99
副社長一人対(常務会+本社部長)。社長も専務(利家)の掌中にある。単純に
家康に錦のみ旗はない。むしろ法度破りを家康はしている。
>100
実力ははるかに家康が上。ただ長い間、太閤が反徳川勢力の核として、特別の
待遇を利家に与えていて諸侯もそれを当然としていた。それだけの虚像をもつものは
他にいなかった(「巨いなる企て」より)
>104
長期戦でも大阪が有利です。理由は98へのレスの通り。
107 :
日本@名無史さん:02/01/24 00:41
>>104 伏見城ってけっこう堅城なんじゃなかったっけ?
江戸からの軍勢が到着するまでくらいは持ちこたえられると思うけど。
東海道の大名はほとんど伏見方に味方するだろうし。
というか、利家自身が三成の決起要請を断ってるからなあ。
108 :
日本@名無史さん:02/01/24 00:55
>>106 実際、参加してない大名を全部利家方に計算したらの話やん・・・(;´д`)
島津とか、基本的に中立大名まで入れちゃってるし。
しかも、東軍の諸将は自発的に集まった積極的な人物が多く、
例によって関ヶ原で発揮された朝鮮遠征時の黒田コネクションもある。
法度破りという考え側面が強ければ、これほど多くの諸将が家康を支持したろうか?
むしろ、「特別な存在」になりつつあった、家康との権力闘争と取られていたと思う。
実際、和平時にはこのこと自体は所謂なあなあ程度で済んでしまってる。
秀吉存命中からの諸将の中で「特別な存在」という点でも、
利家は家康以下なのは確かだろ。
まあ、著者やそれぞれの見方はあるだろうが・・・。
>105
なるほど。興味深い。
B納得。但し当時の豊臣政権は文治派が主流。文治派が本社部長とすると
加藤、福島などは地方の支店長、工場長など。豊臣家の中枢機構が利家に
そっぽをむいたわけではない。
C大阪―伏見の対立の時には家康の法度破りを非難して利家がたった。
明確に法度を定めて、違反した場合は利家をたてて、家康をおいつめるというのが
三成らの基本戦略。逆を言えば、利家がたつ時は錦のみ旗があるときなのである。
そのために豊臣政権には多くの掟が定めてあったわけだ。
利家が死んで、掟破りを押さえるシステムがなくなったために、家康は次々と
法度をやぶることができ、最後に天下が取れた。
E関が原の局地戦をいっているわけではない。当時の大大名で東軍についたのは
伊達、前田のみ。利家がいきていれば、ここから前田が抜ける。
結果的に上杉、毛利、前田、島津、宇喜多、佐竹、小早川などの大諸侯は全て
豊臣方となる。
G大大名では上杉、宇喜多、佐竹は固い。家康の法度破りを征伐するとなった場合、
毛利一族も加わることになる。後はなだれ現象。だけどカギはやはり毛利。
95を参照願う。
H106、107のレスを見てください。誰が集まったかわかるでしょう。
要は家康以外の4大老で徳川の1倍半の石高と12万人の軍勢をもっています。
この4人の要となるのが利家、ということ。この4人が結束すれば
後の大名は自然についてくる…はずだったのだ。
利家が死んだことで毛利が及び腰になり、(他の中小大名も及び腰になり)
上杉、宇喜多、佐竹などが大大名では豊臣方にのこった。
110 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:04
>>106 佐竹が動くかどうかは微妙。義重の意により本来は東軍に味方するはずだった。
また、毛利が前田方につくかどうかもわからない。
>>98のように上方の情勢が徳川有利となれば、前田方には着かないだろう(ついても動かない)。
となれば小早川は徳川だ。
錦の御旗に関しては、家康には太閤の遺言という大義名分があり、
またそれを背景に政治を取りしきって、諸将もそれについてきたという既成事実が形成されている。
戦ではどちら側も正義を称するもの。
諸大名が家康側の「錦の御旗」と利家方の「錦の御旗」を見比べたとき、
どちらが実力的に有利かを考えれば、家康に味方するだろう。
実際に関が原の合戦の際、家康は秀頼を掌中に抱いていなかった。
それから、秀吉が利家を反徳川勢力の核として特別の待遇を与えており、
諸侯もそれを当然としていた、というのも疑問。
「巨いなる企て」という本は読んだことがないのでわからんが、
秀吉が利家をそのような立場にしようとしたという説が正しければ
80万石という前田家の石高は少なすぎるのではないか?
またそれが正しくても、実際は
>>98を見れば明らかなように
その政策は失敗に終わったようだ。
111 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:16
>108
利家も病気で腰くだけになったのは確か。ただ、このスレの前提が
利家が長生きしていたら…だから。
だれが大阪方かは本によっても違うな。
「巨いなる企て」島津が大阪方
「群雲 関が原」加藤清正が大阪方 はっきりしない点があるんだね。
ただし3ついえるのは、
@違法な婚約を家康が撤回したと言うこと(利家の死後、このようなことはない。)
A4大老が反家康で結束したこと
B東海道は徳川の自由行動できる領域であったが、上杉・佐竹及びその与力大名
合計約200万石が北方にいる限り家康も焼く8万人の兵力を上方に送れなかったであろうと
言うこと。
Cぎりぎり5万人ではないか。
D上方では前田が2万5千、宇喜多が2万、毛利が4万動員できる。
(小早川も遠方であるが1万5千は動員できる。船を使えば、瀬戸内海は
すぐ通過できる。)
E東海道の大名は家康方、近畿の大名は利家方が多いであろうしほぼ互角であろう。
F本格的な動員となれば利家方がまだ有利であったろう。
112 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:17
ここは関が原スレじゃないんだぞ?佐竹義重がどう思ってようが大坂で千人握ってる義宣の行動がどうでるかは別の問題では。
113 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:21
>>107 当時家康って伏見城内にいたの?いつのまにか堀尾吉晴が鍵を渡していて徳川の城になったけど、
普通は城下の屋敷にいたんでは
114 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:21
>B
まあ、その辺は納得だけど、三成がこの後すぐに失脚しているように、
決して地位は強固なものではなく、豊臣家の一つの軸である北政所が
少なくともこの当時は、家康には秀秋の処遇などで恩義を感じており、
協力的であったってのはあると思う。
>C
しかし、家康はむしろ承知の上で破っていき、
結果的に、利家は生前からそれを強く責めることが出来なかった。
それが全てだと思う。
>E
これは諸説あるけど総勢にすると、東軍89000西軍80000と言われてるんで、
局地戦でなくなれば、さらに家康有利。
まあ、利家が存命となれば、あの場所あのタイミングで戦は仕掛けないと
思われるが。
ついでに、島津は基本的に一部を除けば中立派ですな。
>G
知ってのとおり毛利家は一枚岩ではない。
後の裏切りでも分かる通り、朝鮮の役で三成一派に恨みを持つ人物も多い。
しかも、輝元が長である限り、大して期待は出来ないと思う。
>H
「実際」という点になるとイマイチわからない。
推測の域が多いし、実際、続々と結集した家康派に比べると
結束力や積極性のなさを感じる。
115 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:27
>110
要は政界の二巨頭のうち一人がなくなった中で残りの一人には向かうことが大変であるために
佐竹義重が反家康活動を躊躇したり、毛利が日和ったりすると言う話になるわけでしょう。
利家が死んだときの諸侯の動きをそのまま述べているだけになってるね。
そこで利家が生きていると言う前提条件があるわけでしょう。
確かに大名の何割かは家康に大権があるという認識だったかもしれないが
4大老5奉行の集団指導を認めている大名もまた多かった。
その数の力により、家康の恣意的な法度破りを一度は撤回させたのでしょう。
それともう一つ重要なのは
「利家が生きていると、家康は大阪城に入れなかった=秀頼を確保できなかった。」
と言う問題がある。利家はいざとなれば、秀頼を使うことができたのだ。
おもろい議論だがもう遅いからねるぜ。また明後日以降な。
116 :
日本@名無史さん:02/01/24 01:30
>>111 清正が伏見方についたは「日本戦史 関ヶ原役」(参謀本部編)にも
あるんで間違いないと思うけど・・・。
ついでに、この件は最終的に、大坂方は
「今度縁談の義について御理申し入れ候処、
早速御同心畏れ入り候」
と家康に対して非常に下手に出てます。
117 :
日本@名無史さん:02/01/24 02:10
島津は、明らかに家康寄り。
伏見城の手違いさえなければ
徳川に組した。
利家、家康の対立のときに
島津を利家組に入れるのはおかしい。
118 :
日本@名無史さん:02/01/24 02:17
利家が勝つには、例の挙兵しようとした時をおいてないだろうな。
時間が経てば経つほど、家康の政治手腕によって利家は不利な立場に陥っていく。
>99が加藤の乱のことを例に出していたけど、
あの時は不信任案の投票が、週明けの月曜ではなく金曜なら可決していた可能性もあったと言われている。
土日を挟んだことにより、野中によって加藤派議員は次々と切り崩されていった。
家康によって、徳川の畿内における優位性が確立されてしまえば、
元来日和見主義の毛利輝元&親徳川の吉川広家によって
毛利は決して前田には味方しないだろう。
あとは雪崩式に。
>>117 島津の伏見城の件はでっちあげ。
関ヶ原後、取り潰しの危機にあったからそのように言い訳しただけ。
島津は親三成です。
島津は難しいね。
義久達主だった面々は中央より地元重視な考えや、
家康への義理から中立派で、どちらにも組しようとせず、
その結果義弘達一部のみが関ヶ原に向かったって話だろ。
ここでも、少なくとも大きく関わることは無さそうだな。
120 :
日本@名無史さん:02/01/24 02:40
島津は朝鮮戦役での負担のほかに内患を抱えてたからね。
121 :
日本@名無史さん:02/01/24 02:49
家康が他の大名より優位だった点は実質の250万石という実力もさることながら
秀吉に対し戦場で抵抗しながらも負けないで後に服属したのは家康のみという事実があったからでは。
利家は秀吉に正面きって戦ったことがないからその点では弱いと思う。
家康は豊臣政権内に取り込まれはしたが不気味な別の勢力として写っていたのでは。
122 :
日本@名無史さん:02/01/24 09:35
>>83 >1.前田利久は1983まで生きていた。
利久はバケモノか!
先代が存命中だったらそれが何か?
>2.前田利家は信長の近習であった。
それが何か?
>3.武家においては養子縁組は珍しくないのに養子だという理由で
>慶次郎は家督相続を拒否された。
血のつながりのある者がいるのに血のつながりのない者との養子縁組は
珍しくないことはないがそれが何か?
>(ちなみに慶次郎の器量についてはいまさら言うまでもないだろう)
漫画の読みすぎだと思うがそれが何か?
>ちなみに柴田勝家も羽柴秀吉も、実子がおらず養子であるが、
>そのことが問題になっていない。
利家も利久の養子だがそれが何か?
>これらを総合するに、前田家の家督相続に恣意的な力が働かなかったと考えるほうが無茶
恣意的とは「その時々の思いつきで物事を判断するさま」のことだがそれが何か?
テメエの書き方が恣意的だと言ってるのだがそれが何か?
>アホはとっとと死ね
おつむがアレは御方ってあわれよのぉ(w
123 :
日本@名無史さん:02/01/24 12:16
慶次郎と利家の家督争いは面白いね。
信長の一存で決まったことは確かだけど、横取りとか前科とか言って罵られるようなことではないよ。
利久には、死んだ弟利玄と他家に養子に入った良之以外に、安勝・利家・秀継という3人の弟がいた。
それなのに血の繋がらぬ慶次郎に家督を譲ろうとした。
慶次郎の器量を買ったともいえるが、相当の恐妻家だった利久が妻の言いなりになってたともいえる。
信長の横槍が入ったのも、頷ける経緯ではある。
慶次郎は確かに器量は大きかったが、結局どこでの仕官も続かなかったように、人に仕えること自体が
向かなかったようだし。
信長としては子飼いの利家に継がせようと考えるのも仕方ないよ。
利家の三兄、安勝はのちに利家家臣となった。
弟秀継は幕府直参となった。
利家の次男利政の子、直之も前田家臣として家を存続し、現在に至っている。
慶次郎だけがとことん利家に反抗し、前田に招かれてもいつも後足で砂かけて飛び出した(w
個人的には好きな人物だけど、慶次郎が前田を継ぐべきだったとは思わないな。
間違えました。弟秀継も前田家臣です。
幕府直参一万石は、利家の五男利孝でした。
すみません。
ついでに
安勝の子、利好も恩賞問題の不満から出奔していますね。
125 :
日本@名無史さん:02/01/24 20:40
利家が筋を通す人間だったら、たとえ信長の命であろうが
断固として家督相続を拒否するはずだ。
基本的に、戦国時代では主君は郎党の家督相続に対して
介入はできないはず。(影響を及ぼす事はできても)
つまり、利家が、断固として断ったところで、信長はこれを理由に
前田家をつぶす事はできない。
後、慶次郎の器量の大きさに対して、漫画の読みすぎとか言ってる馬鹿がいるが
前田慶次からすぐ漫画を連想するあたり、低脳の程がうかがい知れるな。
家督相続を断固拒否する馬鹿がどこにいるんだ?
筋をとおすぅ?
ちょとおかしいんじゃないの????
兄の実子とか、せめて血の繋がった甥とかいうならともかく。
気の強い嫂が前田家乗っ取りを画策してるてーのに。
127 :
日本@名無史さん:02/01/25 00:28
>>126 だから利久はまだ死んでねえっつうの
信長より長生きだったところからして病弱説は怪しい
病弱?気の強い兄嫁が乗っ取りをかくさく?
いったいどこにそんな証拠が?
嫁の連れ子に後を継がせるのは、
別に戦国期では珍しいことではないぞ。
戸川定安etc・・
大河ドラマの筋書きをそのまま信じてるのか
痛い奴よのう。
128 :
日本@名無史さん:02/01/25 03:11
スレの本筋からどんどん離れていってるな(ワラ
信長としては慶次より利家のほうがなにかと都合が良かった、というだけの話だろうが。
例え利家が腹黒い人物でも問題無いというかむしろ前田方にとっては好都合なのでは?
いいかげん秀吉没後の方に話を戻そうぜ
利家が生きていて、尚かつ家康との長期戦にもつれ込んだ場合
黒田如水がしゃしゃり出てくるってのはあり?
130 :
日本@名無史さん:02/01/25 06:18
>>121 名実の名と実を半分ずつ
名を家康が実を秀吉が取ったってよくいわれてるよね。
>>129 大いにありえる。上杉や伊達も奥州で戦い出すだろう。
132 :
日本@名無史さん:02/01/25 09:25
>>125 前田慶次からすぐ器量の大きさを連想するあたり、ド低脳の程がうかがい知れるな。
133 :
日本@名無史さん:02/01/25 09:36
>>127 だから利久が生きてたらなんだっつうの
先代が死なないと跡継げないのかよ
殺された信長より長生きだったらなんだっつうの
病弱じゃない?気の強い兄嫁が乗っ取りをかくさくしてない?
いったいどこにそんな証拠が?
実弟がいるにもかかわらず嫁の連れ子に後を継がせるのは、
戦国期でも珍しいことだぞ。
大河ドラマの筋書きをそのまま信じてると思ってるのか
とことん痛い奴よのう。
134 :
日本@名無史さん:02/01/25 10:33
利家の方が三成より人望ある
史実通り加藤・福島が徳川に付くのか?
135 :
日本@名無史さん:02/01/25 11:47
三成なり過小評価しすぎ。
徳川に付くもなにも関ヶ原が起こらないから・・・。
136 :
日本@名無史さん:02/01/25 14:32
>>133 この知恵遅れが。
○○だった。ということを証明する方が
証拠を出すべきなんだよ。
>136
じゃ、お前がだすべきだな(wwwww
前田慶次郎の器量の大きさを証明せよ。
漫画はだめだよ(wwwwww
138 :
日本@名無史さん:02/01/25 17:43
>>136 知恵遅れに能書きたれるオマエって・・・。
利家には信長に『取り入って』『実の兄が継ぐはず』だった
前田家を『横取り』したという『前科』あり。
○○だった。ということを証明する方が証拠を出すべきなんだよ(藁藁
139 :
日本@名無史さん:02/01/25 17:50
>>136 この知恵遅れが。
○○じゃなかった。ということを証明する方が
証拠を出すべきなんだよ。
140 :
日本@名無史さん:02/01/25 17:57
>135
三成を過大評価しすぎ。
関が原の首謀者と言う点を取り去った時、ひどく三成は小物。
これは三成より、あらゆる点(石高、年齢、5奉行での席次)で上位にあった
増田長盛の歴史像の小ささからもそれは推し量れるだろう。
関が原前の三成は小物
141 :
日本@名無史さん:02/01/25 17:59
∧ ∧
ヽ( ´∀`)ノ <どっちも知恵遅れ
へノ /
ε ノ
>
142 :
日本@名無史さん:02/01/25 19:26
>>137 >じゃ、お前がだすべきだな(wwwww
>前田慶次郎の器量の大きさを証明せよ。
>漫画はだめだよ(wwwwww
重輯雑談、桑華字苑、加賀藩雑記、本藩暦譜、可観小説
などの歴史資料に前田慶次の豪勇にして典雅な武将振りがきちんと記述されておりますがなにか?
熱田神宮、etcに伝わる前田慶次奉納の太刀や鎧からも
膂力に勝った武将振りがうかがえますが何か?
いい加減あきらめな。漫画と、大河ドラマしか情報源のないお前が
いくら人のあら捜しをしようったって無理(ワラ
知恵遅れは光栄のゲームでもしてろ、学術版にくるな
>>134 上のほうでもある通り、
慶長4年の利家VS家康一触即発の時でも加藤も福島も家康についてるじゃん。
コイツらはもう三成憎しで、他はろくに見えてないよ。
144 :
日本@名無史さん:02/01/25 21:11
>143
だからといって家康が利家に勝つとはいえない。
111、115などを参照してくれ。
145 :
日本@名無史さん:02/01/25 22:11
この板は本当にためになるが、レスが遅いのが唯一の欠点だね。
146 :
日本@名無史さん:02/01/25 23:58
でも七将が一枚岩とも思えないな。利家と家康が一触即発になったとき、加藤・浅野・細川は利家のとこに和解してくれと頼みに行ってるが、
黒田や藤堂は明らかに自分の損得で家康についてるからな
147 :
日本@名無史さん:02/01/26 00:10
今年の大河ドラマ関が原以前の人間関係とかやってくれるのかな。
葵でやったより少し以前ね。ここがおもしろいのに。
148 :
日本@名無史さん:02/01/26 14:24
慶次郎が前田の家督相続うんぬんの話がでたとき何歳だったの?
149 :
日本@名無史さん:02/01/26 15:03
慶次郎は年齢不詳。利家より4〜5歳年上という史料もある。
150 :
日本@名無史さん:02/01/27 20:21
どりゃー利家上げじゃあ
151 :
日本@名無史さん:02/01/27 21:27
っていうか家康死んでるんだろ?
秀忠と利家をくらべたらどうなんだろう
秀忠と利長なら・・・よくにた「二代目は駄目」の象徴?
親父が大きすぎて、その遺蹟を保持するだけで手一杯。
大きな博打に出るだけの度胸がない。知らず知らず小心・臆病になる・・・という代表格かな。
利家と秀忠、なら利家にも勝算なしとは云えないよね。
毛利・島津を味方につければ、天下を狙える位置に居た。
利家の娘(秀吉側室おまあ)は秀吉死後、万里小路家に再嫁してるし
その万里小路充房は勧修寺家からの養子で、
つまり後陽成天皇と八条宮の母、新上東門院晴子の弟。
朝廷政策は万全だよな。
家康が先に死んでるんなら、その後の内大臣に昇る可能性も十分あった。
153 :
日本@名無史さん:02/01/28 09:28
>>142 あらんかぎりの知識の披露ご苦労(ワラ
それらの歴史資料とやらは一体いつだれが何のために作成したものなのかねぇ。
記述されております程度のことなら小学生でも言えますが。
で、豪勇で典雅だったらなんで器量が大きいんだ?
わざわざ捜さなくてもあらばかりなのだけれど何か?
多少の知識はあっても知恵がないことを自覚してないところが○○遅れらしいよ。
しかもここを学術版だと思ってるところが相当イタイ。
情報源と知識の程度が知れますぅ。
しかし生没年不詳とはどこぞで野垂れ死んだか(合掌
154 :
日本@名無史さん:02/01/28 12:53
>>1 足利政権のような不安定な豊臣政権ができる。
157 :
日本@名無史さん:02/01/28 16:34
>>153 けちつけるだけで大河ドラマ以外の資料はひとつも出せない厨房(激ワラ
158 :
日本@名無史さん:02/01/28 17:13
>>142 豪勇だろうと典雅だろうと、武将振りがどうであろうと、
げんに信長の下で功績をあげている人とは比べられないのではないでしょうか。
あくまで前田家を相続するという立場に限れば。
それに、既出ですが利益は他人に仕えるのに向いた人物ではないという話もありますし。
159 :
日本@名無史さん:02/01/28 17:21
>>157 大河ドラマの資料がどこに出てるんだ?
おまえの目は節穴か(苦ワラ
160 :
日本@名無史さん:02/01/28 17:27
>>158 禿同。
結果論ではあるけれど
前田家にとっては利家でよかった。
一武将として必要とされる資質と
当主として必要とされる資質は
やはり異なっているのでは。
おのずと
161 :
日本@名無史さん:02/01/28 17:35
>>152 離縁されて子ども連れて実家に帰ってきたけど。
162 :
日本@名無史さん:02/01/29 05:09
>>158 利家に目立った武功なんてあったか?
一騎掛けの武功なら確かに利家にもあるだろうが
それならば慶次にもちゃんとあるぞ。
利家に見るべき器量などあるわけもなし。
163 :
日本@名無史さん:02/01/29 05:18
前田利家のへタレぶり
1.同朋衆の十阿弥と信長の寵を争い、惨殺して逐電
2.信長に取り入って、兄の家督を奪う
3.本能寺の変後、勝家につくが、戦線不利と見るや逃走
おかげで勝家は惨敗。その後秀吉側につき、勝家を攻め殺し加増を受ける。
4.秀吉に取り入るため娘を妾に差し出す。
ちなみにこの男は、晩年、信長の色子として寵を受けたことを自慢げに話したそうだ。
このような男が長生きしたからと言って、豊臣家が安泰などと考えるほうが馬鹿
>>162 慶次くんは器量よしでうらやましい(ワラ
165 :
日本@名無史さん:02/01/29 09:30
>>163 どこがヘタレなのか理解不能。
当事としてはどれもごくごく普通の行動なのでは?
関ヶ原前に家康が死んで利家が長生きしたなら
豊臣家は当分の間は不安定ながらも安泰と考えるのが普通。
まあ、平気で他人を馬鹿呼ばわりするお利口さんには理解できないでしょうが。
ところで慶次が後継ぎになっていたら
いつごろ前田家は取り潰されていただろう?
166 :
日本@名無史さん:02/01/29 10:43
>>162 そういう話をしてるわけではありません。
167 :
日本@名無史さん:02/01/29 11:04
>>162 慶次の実像なんて実際は全く不明じゃん。
同時代の史料には一切登場してないじゃん。
そんな奴と比較しても意味ないじゃん。
168 :
日本@名無史さん:02/01/29 11:33
というか利益の「見るべき器量」って一体何よ?
慶次郎って、伝説的な人物
実像が伝わらん分、美化されてる。
家督を奪われた(あるいは奪いそのねた)つーことで同情票も多いね。
しかし慶次郎は一生を利家に対抗心を燃やすことで
浪費してしまった人物に見える。
すまん
奪いそこねた、と書きたかった
171 :
日本@名無史さん:02/01/29 11:51
>>169 そもそもなんで前田の跡取りになったんだろう?
仮に血よりも人物重視だったとしても
どうもその経緯がはっきりしない。
東京が存在せず金沢か京都が首都になっていた
173 :
日本@名無史さん:02/01/29 15:30
>>162 それほどの器量を持った慶次を
よくもまあ他家に養子にだしたもんだ。
利久って病弱で、隠居したかったんだろ?
そんで、養子の慶次郎に家督を譲ろうとしたら
信長が利家に譲れっていったんでしょ?
慶次郎は滝川一益の係累?息子説まであるけどホント?
175 :
日本@名無史さん:02/01/29 17:11
名の知れた武将でありながら
素性も生没年もはっきりしない。
後の世で有名になる前田慶次郎とは
ほんとうに実在の人物なのだろうか?
176 :
日本@名無史さん:02/01/29 17:16
正直、前田慶次郎は天海僧正になり、徳川を操り、前田を苦しめました。
177 :
日本@名無史さん:02/01/29 17:17
やっぱりそうか。
178 :
日本@名無史さん:02/01/29 19:04
前田利家が生きていたら、徳川は天下はとれなかったと思う。
もちろん利家が家康に勝てるとは思わないが、秀頼という「玉」を持っているのは強い。
こういう状態だと家康は大義名分をもてないからね。
大義名分無く、戦争を始めたら謀反人となり、仮に勝てても、その後が続かないと思う。
戦国時代は下克上といわれているが、実際に謀反人に対する風当たりは強く、光秀をはじめ、ほとんど滅んでいる。
>>178 そうなると前田利家をバックにつけた石田三成が政権を操る、
それを不満に思う加藤清正・福島正則達は徳川につく。
二大派閥でバランスとって豊臣政権が続く・・・
秀吉の筋書き通りってことかな?
180 :
日本@名無史さん:02/01/30 09:22
>>179 二頭体制が長続きするなんて
まさか思ってないよね
181 :
日本@名無史さん:02/01/30 09:34
>>180 このスレは馬鹿ばっかりだからそんな絵空事を本気で思ってるかも・・・・
182 :
日本@名無史さん:02/01/30 10:41
183 :
日本@名無史さん:02/01/30 16:52
慶次ヲタ消滅。
めでたし、めでたし。
185 :
日本@名無史さん:02/01/30 19:52
>>183 テメエは散々言い負かされてたからな(激ワラ
やはり慶次ヲタは死ぬべきだろう。
187 :
日本@名無史さん:02/01/31 03:58
>>178 >戦国時代は下克上といわれているが、実際に謀反人に対する風当たりは強く、光秀をはじめ、ほとんど滅んでいる
謀反人が滅んでいるのではなくて滅んでしまったから後から謀反人と呼ばれてしまっているだけだと思うが。
斉藤道三、武田信玄、尼子経久なにかしら上位組織と争ったことあるし。
188 :
日本@名無史さん:02/01/31 09:17
>>185 この「テメエ」は二人称ではなく一人称です、悪しからず(嘲ワラ
利家が家康より長生きすしていればということなんだから
家康が死んでしまえば、徳川家もそんなに・・・という感じで
190 :
歴史質問ゴンタくん:02/02/16 13:37
>>取りあえず、徳川の天下はなかったと思われ。。
191 :
日本@名無史さん:02/02/16 13:44
首都は金沢?
192 :
日本@名無史さん:02/02/16 15:50
利長は地方領主としてはなかなかやり手
193 :
日本@名無史さん:02/02/16 16:26
このスレは家康はいつ死んで利家はいつまで生きるって想定なの?家康1599没.利家1616没でいいの?
秀頼が成人しているかどうかも重要だと思うんだが。
194 :
利家の生まれ変わり:02/02/24 04:20
ごちゃごちゃうぜぇんだよ!
利家様はな時空を越えて世界を統一してやるよ!
ボクシングのチャンピオンって形でな!
これ以上利家様をけなしたらやっちまうぞゴルア!
195 :
日本@名無史さん:02/02/24 16:57
196 :
日本@名無史さん:02/02/24 17:47
197 :
日本@名無史さん:02/02/25 02:48
198 :
日本@名無史さん:02/02/25 03:26
199 :
日本@名無史さん:02/02/25 04:55
利常も結構優秀じゃない?鼻毛伸ばして加賀百万石を守った。
200 :
日本@名無史さん:02/02/25 04:57
利常ナイスキャラ
201 :
日本@名無史さん:02/02/25 04:57
本当に馬鹿だったのを馬鹿なふりをしているように家来がみせかけたのか微妙だけどね。
202 :
日本@名無史さん:02/02/25 04:58
ていうかあまり馬鹿でも改易していたと思うのだが>徳川幕府
中庸が肝心やね。
203 :
日本@名無史さん:02/02/25 05:01
前田家の家格を御三家に次ぐものにしたのは利常です
204 :
日本@名無史さん:02/02/25 05:02
利長>利常>利家
だと思う。
205 :
ヴァカが...:02/02/25 06:34
>>178 >>戦国時代は下克上といわれているが、
>>実際に謀反人に対する風当たりは強く、
>>光秀をはじめ、ほとんど滅んでいる。
そんなこと言い出したら、
織田家自体が典型的下克上じゃねえか
典型的な出来星大名じゃねえか
信長の家は親父の信秀が恩人殺して
その城乗っ取るまで城持ってなかったんだぞ(笑)
この人に聞けば
その間、地球の人口が一人多いだけだよ。
209 :
日本@名無史さん:02/03/10 17:07
関ヶ原の二年前に家康暗殺疑惑騒動というのがあり、
諸将が大慌てで、利家のいる大阪城と家康のいる伏見城に集まった事件がある。
それで・・・
前田利家のもとに集まった武将
毛利輝元、上杉景勝、宇喜多秀家、石田三成、長束正家、増田長盛、前田玄以、立花宗茂、佐竹義宣、小早川秀包、
長宗我部盛親、浅野幸長、加藤清正、加藤嘉明、細川忠興
徳川家康のもとに集まった武将
伊達政宗、黒田父子、福島政則、池田輝政、藤堂高虎、森忠政
、織田有楽、金森素玄、有馬則頼、新庄直頼
だったりする。
この事件は関ヶ原以前に起きた対立の構造みたいだが
前田利家がいた頃は反家康が大きく優勢だったことがわかる。
利家がいたら家康の天下は無理。
それどころか彼が関ヶ原を起こしていたら勝ってたろう。
210 :
日本@名無史さん:02/03/10 17:25
211 :
日本@名無史さん:02/03/10 17:25
212 :
日本@名無史さん:02/03/10 17:31
>>210のリンク先とは違って、
>>89や
>>98や
>>105では
両加藤や浅野や細川が徳川方についたと
反対の事が書いてあるんだよね。
どっちが正しいんだろう。
資料出してよ。
213 :
日本@名無史さん:02/03/10 18:59
>>212 林屋辰三郎著「天下一統」によると、
家康側:京極高次・伊達政宗・最上義光・福島正則・池田輝政・大谷吉継
藤堂高虎・織田長益・黒田長政・金森長近など。
利家側:宇喜多秀家・石田三成・長束正家・増田長盛・前田玄以・毛利輝元
上杉景勝・佐竹義宣・立花宗茂・小西行長・長宗我部盛親
細川忠興・加藤清正・加藤嘉明・浅野幸長など。
加藤清正VS福島正則とか石田三成VS大谷吉継という状態でした。
214 :
日本@名無史さん:02/03/10 19:24
細川家は前田家と姻戚関係にあり、浅野幸長は豊臣秀次との親交から秀吉
によって能登に配流されそうなところを、利家の日秀吉への諫言により、
それを免れたという恩があったようです。
したがって、細川や浅野が利家側なのは当然だと思われます。
215 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:31
加藤清正の西軍志向はたしかにあったよ。
実際、関ヶ原では動いてないし、戦後に小西の所領を攻めたのみ。実質中立だ。
さらに一説には大和国をくれるのなら、西軍についても良いと働きかけたそうな。
216 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:41
清正は家康は好きじゃないでしょうけど、それ以上に石田や小西が嫌い
だったということだね。
217 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:49
利家も清正も死ぬタイミングが怪しいんだけど、二人とも家康によって
毒殺されたんじゃないべか?
家康は薬の調合したりするのがずいぶん好きだったらしいし。
218 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:49
>>216 福島と違って、関ヶ原の勝利が豊臣政権の崩壊や滅亡につながることを予想し、
かといって、細川や黒田のように自分のためにと割り切ることもできず、
家康の手先にはならなかったようだな。
加藤清正だけは実は豊臣家自体とならんで、関ヶ原以降も特例的な態度を取ることができたんだよね。
例えば、新年の家康の挨拶の前に必ず秀頼に挨拶に行くとか。
そんな彼だから、福島も加藤清正がいれば豊臣家も安心とふんだんだよね。
219 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:49
220 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:51
長生きも才能のうちだな。
221 :
日本@名無史さん:02/03/10 20:54
>>217 浅野幸長もね、
何故、彼があんなに豊臣家を守ることに燃えたのか疑問。
222 :
日本@名無史さん:02/03/10 23:29
>>220 実際「家康が長生きした」って要素は重要だと思うぞ。
「秀忠vs利家」だったら実際徳川家なぞどうなっていたかわからん。
大河スレあたりに「利家ってドラマにするほど大した人物じゃないだろ」って
しつこく書き込んでた奴がいたけど「武将としての生涯」にそれほど両者に
大きい差があったとも思えない。
223 :
日本@名無史さん:02/03/11 11:14
>>213 >>214 じゃあ、あの騒動で
両加藤、浅野父子、細川は前田方についたわけなんだな。
蜂須賀が家康方についたとかも書いてないしね。
となると
>>89以降、このスレは事実錯誤の前提で議論されてるし、やり直さないといけないね。
224 :
日本@名無史さん:02/03/11 12:10
単純に伏見にいた大名よりも
大坂にいた大名のほうが多かった
ていうことを何で誰も触れないんだか・・・
225 :
日本@名無史さん:02/03/11 13:05
>>223 利家が死んだ後、加藤清正・黒田長政・細川忠興・加藤嘉明・福島正則
浅野幸長・脇坂安治の7人が三成を襲撃しようとした。
したがって結果的に言えば、利家の死が家康を有利にしたことは事実で
しょう。
利家じゃなくて、三成の方が早く死んでれば、家康の天下取りは難しく
なったと思う。
226 :
日本@名無史さん:02/03/11 13:59
それは利家が長生きして且つ三成が七将に討たれていれば、ってこと?
三成は利家よりはるかに年若だから「寿命」という点ではチト無理なIFだな。
227 :
日本@名無史さん:02/03/11 14:13
つーか利家が建在だったら三成の存在や清正らとの確執なぞそれほど大きい問題とはなってないだろ。
228 :
日本@名無史さん:02/03/11 15:04
いや利家が生きていた頃から、清正たちと三成・行長の確執は大問題
だから、利家の黙認のもとに清正らが三成を追放できれば問題は万事
解決だったでしょう。
229 :
日本@名無史さん:02/03/11 15:25
そうなると豊家恩顧の諸大名は利家の下で一致団結して秀頼は無事成人、徳川家は一大名となり日本は商業国家に?
230 :
日本@名無史さん:02/03/11 15:52
全てのキーは・・・・・・・・・・・・
「淀」が握っている
彼女の動向こそが、最も重要な要素
231 :
日本@名無史さん:02/03/11 17:04
232 :
日本@名無史さん:02/03/11 20:07
そして前田利長が天下統一高岡が首都に
233 :
日本@名無史さん:02/03/11 20:10
前田なんて無理無理
秀吉あっての前田
前田に人望があったんじゃない。
234 :
日本@名無史さん:02/03/11 21:14
>>232 利長が天下人になっても高岡が首都になることは無い
235 :
日本@名無史さん:02/03/11 23:01
利長だってあんな雪降ってくせに
フェーン現象で糞暑くなるようなとこ嫌に決まってるだろ
236 :
日本@名無史さん:02/03/11 23:07
いいねえ、ローカルな話題で
戦国・三国志板の存在意義を知っているかい?>ここの糞ども
238 :
日本@名無史さん:02/03/12 00:02
>>233 確かにカリスマ性、人望では 家康>利家だが、利家だってそれなりに人望は
あっただろう。
それに利家には「秀頼」というカードがあるからな。
それに息子の代になれば前田家の方が器量が上かもしれん。
239 :
日本@名無史さん:02/03/12 10:04
そもそも天下統一前に家康がくたばったら、徳川家って内部で抗争しそうじゃないかな?
秀忠派とか秀康派とかに分かれて。
241 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:18
あげ
242 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:21
243 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:29
>>233 家康と利家の人望はほぼ互角だったと思う。
利家の生前は、少なくとも細川忠興・浅野幸長・加藤嘉明の3人は前田方
だったけど、利家の死後に家康方についた訳だからね。
だから関ヶ原の戦いの時に、西軍の大将が利家ならば、細川・浅野・加藤
の3人は西軍方でしょうね。
>>243 それは甘いでしょう。
細川なぞは親友の明智を見殺しにした
日和見主義者。家康と利家を秤にかけて
冷静に判断したものと思われる。
浅野幸長にしてもしかり。
245 :
日本@名無史さん:02/03/14 21:55
>>244 親友の光秀を見殺しにしたのは忠興じゃなくて藤孝だろ。
忠興からみれば確かに岳父だが、この時代岳父なぞどうしても味方につかなきゃ
ならん程の相手でもないだろ。
もし、蒲生氏郷が早死に(暗殺死)していなかったら
どっちについたんだろうか?家康と利家の
247 :
日本@名無史さん:02/03/14 22:51
おい暗殺なのか?氏郷は
248 :
日本@名無史さん:02/03/14 23:06
>>244 >>245 そもそも細川藤孝と明智光秀が親友ってのは本当なのか?たしかに姻戚だし
元幕臣同士だがどうも「国盗り物語」で作られたのイメージのような気がして
しかたがないのだが。
>>247 分権派(前田利家、徳川家康、毛利輝元、伊達正宗、蒲生氏郷、豊臣秀長)
がウザイ集権派(石田光成など)がやっちゃった説と
後々うっとしい奴になると思った家康がやっちゃった説と2つ在ります
250 :
日本@名無史さん:02/03/14 23:18
>>246 氏郷自身天下を狙う野心があったみたいだから、まず利家と組んで
家康を倒すという戦略を取ったと思うけどね。
氏郷暗殺説唱える人は、もうちょと史料よく調べるある!
252 :
日本@名無史さん:02/03/16 22:35
続きお願い!
253 :
日本@名無史さん:02/04/16 02:04
>>208 >「地球」の人口が一人多いだけだよ。
場違いの在日、一人発見!(藁
255 :
無名の歴史者:02/04/16 13:36
ある史書では家康嫌いとかかれていたくだりがあるので
まず氏郷は利家についたでしょうね
利家自体は石高が多少多かっただけで世を切り回すほどの力量は無いと思われる
三成がいなければあるいは島左近の言葉にしかがっていれば
豊臣恩顧の武将達も多少は西方についたであろう
ほとんどが三成嫌いによって家康についたのだし
そもそも三成がいなければ関ヶ原自体起こらなかった可能性が大である
256 :
日本@名無史さん:02/04/16 22:49
>1
もしかしたら女帝淀様という可能性もあったね。秀頼は言いなりみたいだから。
257 :
日本@名無史さん:02/04/16 23:21
>>43は要点をかいつまんで話を整理するのがうまいな、うむ分かりやすい感謝。
応援するからこれからも頑張ってくれ。
258 :
日本@名無史さん:02/04/17 00:14
「双方、いつまで生きてたら」って話でないと堂々巡りだろ、1の設問は。
「家康の実際の寿命より利家が長生きした」場合と、
「前田利家が実際に死んだときより前に家康がしんでしまった」では
その後の展開がまったく違うと思われる。
259 :
日本@名無史さん:02/04/17 00:15
260 :
日本@名無史さん:02/04/17 00:18
前スレってこれパート2じゃないけど・・・
前スレのたいとるは?
>>127 病弱で隠居した兄が、家を継いだ弟より長生きした例
出羽の戸沢氏
盛重(兄〜1592年)、盛安(弟〜1590年)
1592年に死んだのも、病気だった為ではなく殺されたから