928 :
日本@名無史さん:2007/12/06(木) 23:12:46
ん〜自分としてはそれ以上突っ込んで考えたいんですけどね〜
930 :
日本@名無史さん:2007/12/08(土) 05:40:59
村田正志氏の著作集サイコーですね!
>>929 村田正志「南北朝史論」
第四章第二節「傳後醍醐天皇御木像をめぐる史實」に全文掲載
933 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 03:09:32
すみません、大覚寺帥宮ってどこに出てくるんでしょうか?
ちょっとわからないんです・・・
934 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 03:50:56
見つかりました(笑)ふつうにみたらわかるし。アホだ・・・
935 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 19:14:45
>>833 「護聖院宮法皇御舎弟、於南朝春宮」からなぜ護聖院宮=惟成親王になるでしょうか?
三宮が惟成親王ってのが前提ですよね。三宮=惟成って確定なんですか?
後村上院の皇子の長幼に関しては、小木喬が新葉和歌集の研究で
あれこれ推測していたと思うけど、 奥書の史料性はどうなのだろう?
(『日本史資料総覧』の系図では採用されている模様。)
937 :
日本@名無史さん:2007/12/11(火) 22:25:38
その新葉和歌集本文と研究の惟成親王のところ見てたんですけど、泰成が惟成の弟であるから三
宮で三宮は南山御出次第の順序をみると皇太子と思われ、義満と天竜寺で会っているのが
後亀山と御舎弟なので御舎弟=三宮=皇太子=東宮=惟成親王で、「護聖院宮法皇御舎弟、於南朝春宮」
とある文から御舎弟=三宮=皇太子=東宮=惟成親王=護聖院宮ってことなのか・・・
938 :
日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:02:26
日尊も西軍に擁立されてたんですか?
939 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 01:08:05
仙洞御所が京都の岡崎にあったみたいなこと聞いたんですけどソースってどこですかね?
岡崎前門主?
941 :
262:2007/12/16(日) 14:39:23
>>839 京都岡崎の仙洞御所といえば、白河上皇や後白河上皇が愛用した
院御所「白川殿」のことだろうと思うけれども、
南朝や後南朝とは関係ないと思うのだけれども・・・
942 :
日本@名無史さん:2007/12/16(日) 20:53:52
そうなんですか〜わかりました。岡崎前門主について知りたいんですけど・・・。
岡崎前門主の岡崎って京都の岡崎でしょ?どっからか正体見えてこないですかね?
>>922由良哲次の『後南朝編年史』。
ただ限定300部なので入手難。
>>922由良哲次の『後南朝編年史』。30年前に限定300部で出版されたもの。
>>18さん
西陣南帝は高野山をへて北陸へ(上杉氏に保護される?) については以下の曲解でしょう。
[晴富宿禰記]
七月十九日、癸酉、晴。職業語云、以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、
今自越後越中次第國人等奉送之著越前國北庄給之由、斯波内細川被管自國
上洛語云々、
卅日、甲申、晴、出羽王ニテ侍カ、武士等致緩怠之間、令遁世テ可向高野、
先暫可在八幡由自稱、而令通市原野二瀬給、其躰法師ノ四十計ナル、赤袴ノ
上ニ白布ノ袴ヲ重テ、上ニハ装束ノ様ナル者ヲ著テ、只一人有之、從類六人
在後、定テ人ニナフラル丶間遅く來歟ト云々、希代之仁成ト云々、
仮に小倉宮御息と出羽王が同一人物だとしても「北陸を経て高野山」ですし「高野」
が果たして高野山と言い切って良いのかは疑問に思います。
947 :
945:2007/12/16(日) 22:22:28
[晴富宿禰記] 文明十一年の記事です。失礼しました。
>>938さん
小倉宮御息は日尊が「取立てた君」との記事は有りますが小倉宮御息が「西方新主」「新主上」となる
前年、畠山政長(東軍)によって殺害されています。短い記事から活力ある人物像が想起されます。
答えになっていませんね。
〔大乗院寺社雑事記〕文明三年閏八月十六日
中御門被相語、南朝方ニ此一兩年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、後酉酉院之御末也云々、
南朝御方ニハ隨分人也、可成將軍所存在之歟云々、去年召取之被○了、其靈之所爲ニ法皇俄ニ崩御云々、
彼靈ウツヽニ相見事及度々、然之間被立石塔種々佛事有之被訪之其以後ハ不見靈云々、希有事也、
今西方ニ御出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、
〔親長卿記〕文明二年十二月六日
晴、南方餘流人打取、賊首京著之由
949 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:55:33
>>943 >>944 それ何冊か図書館で半分コピーしました。まだ読めてないですが。入手困難ですか・・・厳しいですね。
950 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 03:01:09
>>945 あ〜上杉氏に保護される?とかあるから混乱してました。なるへそ・・・。
文明11年7月19日条、30日条ですね。アリガトゴザイマス。
951 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 03:12:44
>>948 ようは日尊は西軍が擁立したが東軍に殺されたので代わりに小倉宮御息を擁立ってことですか?
文明2年の2月からの後南朝の動きは日尊=西軍の動きになるデスかね?
系譜も後醍醐天皇皇胤としかないのは厳しいですね。
由良哲次著・毛束 昇編『後南朝編年史(全12冊)』はごく稀に古書市場に出品されますが、
12冊揃いは更に稀です。奈良県立図書情報館はさすが全冊完備されていました。
由良哲次と『後南朝編年史』については、四方田犬彦が『先生とわたし』のなかで述べて
いますよ。
953 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 12:04:32
詳しいッスネ〜アリガトーございます。
954 :
日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:21:42
>>948 日尊は西軍関係ないんですね。勘違いしてました・・・
>>948>>954さん
日尊と西軍との連携については、「分からない」というのが正確かもしれません。
『応仁の乱』永島福太郎著(昭和43年・至文堂・284頁)でも単に「熊野から南朝余裔の日尊らに
奉ぜられて上洛をはかった小倉宮の王子」という説明に留まっています。結構この『応仁の乱』も
後南朝関係の記事が多いです。
〔大乗院寺社雑事記〕文明三年閏八月九日
十八歳云々
一、安位寺殿入御、寳壽院御訪爲被申太閤云々、京都西方ニ新主上被申取立云々、十二三歳、
此間越智壷坂寺ニ御座、經古市御上洛、北野松梅院ニ入御、但其邊爲御用心不可然之間、
山名入道之妹比丘尼寺安山院ニ遷御、後村上院之御末云々、先日女房躰ニテ、御輿ニテ、
古市ヲ御通條分明也云々、安位寺殿仰也、自京都顯阿ミ罷下、同前ニ相語者也、小倉宮御息
也云々、御父並御弟御座云々、
先ほどの「其躰法師ノ四十計ナル出羽王」は世代からすると小倉宮御息に同行している
「御父(=岡崎前門主なんでしょうね)」でしょうかね。「御弟」というのもいますね。
文明11年(1479)の20年後、明応8年(1499)の記事は有名ですね。
[妙法寺記]
明應八、巳未、此年霜月王流サレテ三島へ付玉フ也、早雲入道諌テ、相州へ送賜也、
この三島に「流された王」を諌め相模国(神奈川)へ送迎したのは早雲。これが誤って
「上杉擁立云々」になったのかな。時はすでに戦国時代です。
『歴史読本(特集 帝王後醍醐と悪党たち)』(昭和54年6月号)所収の中島河太郎
「後醍醐皇胤最後の人」という随筆では「武士たちに疎略にされたので遁世を志し、高野に
向かおうとして京都を通った出羽王」が後醍醐最後の皇胤としています。
また西方新主である小倉宮御息が応仁の乱収束にともない「鞍馬辺りに近日引退の由」と
『大乗院寺社雑事記』にある、と記していますが、この条文は『大乗院寺社雑事記』の何年
何月何日の条文なのかご存知の方がいらっしゃれば御教示下さい。
959 :
日本@名無史さん:2007/12/18(火) 22:38:40
>>958 文明9年10月晦日じゃないですか?まちがってたらすみません。
>>956 後南朝について最近判明したのって護聖院宮=惟成親王だけでしょうか?
自分は西陣南帝に弟がいたとかも知らなかったんですけど・・・
「後南朝編年史」って後南朝関係の戦争・事件等を
年代順に出典を明記して書いてある本なんですか?
>>959さん
感謝します。手元に『大乗院寺社雑事記』が有りませんので後日調べてみます。記事があるとすればその頃のはずですね。
以前文明9年11月辺りは調べて見たのですが、見落としていたかも知れません。
西方新主(「西陣南帝」)に「御父並御弟御座」なのは一般に既知の事ですが、それがそのまま
〔大乗院寺社雑事記〕文明元年十一月二十一日
口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、年号ハ明應元年云々、希有事也
、の「兄弟」に該当するかは判りません。新発見の事柄は寡聞ですよね。
由良哲次『南北朝編年史:上下』(高価ですが入手容易)以降の、仰るように「(主に)後南朝関係の戦争・事件等を
年代順に出典を明記して書いてある本」(後村上天皇崩御の正平23年(1368)から文明10年(1478)
までが様々な史書などを基に編年体で構成)です。小倉宮御息については独自の見解がなされていますが
詳細は後日。
口遊南主蜂起
口遊=「口ずさみ」位の意味だそうです。
963 :
959:2007/12/19(水) 12:33:18
>>963 自分は菅政友全集が今手もとにあるので見てみたんですが
「晦日、京都一宮は鞍馬邊に近日中引退哉由、雑説且如何」とあります。
最近史料をいろいろ集めたりしてるんですが捜せば結構ありますね。
964 :
959:2007/12/19(水) 12:49:19
>>961 そうやって仮説を立てるだけでも勉強してないと出来ないですからね〜。
自分はとりあえず史料できる限り集めて丁寧に見ていきたいなと。
アマゾンで『後南朝編年史』が出品されていますよ(他サイト併売ですが)。
88,620円。以前「日本の古本屋」で12冊が12万円で取引されていたのでそれよりは安いですね。
後南朝資料としてはそもそも由良哲次氏の私家版なので稀少です。
966 :
960:2007/12/19(水) 15:55:36
>>961 ありがとうございます!
今度図書館で見てみます
検索すると五萬堂書店でも『後南朝編年史(12冊揃)』が58,000円で出品中です。
在庫の有無は判りませんが。
968 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 00:30:23
南朝の子孫がいたとして、
日本国籍なら皇籍の無い国民
元華族でもなく
よくて元士族
たぶん元百姓か元商人
法的手続きをふんで
現憲法下で
皇族に戻れる可能性あるの?
ない
970 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 03:37:14
>>968 十津川村民は全員士族だから平民の可能性は薄いな
「後南朝編年史」以外で手に入りにくい参考文献ないですか?
972 :
日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:07:54
「後南朝編年史」以外で手に入りにくい参考文献ないですか?
安井久善著の『後南朝史話―歴史と文学の谷間に 』笠間書院(昭和50年刊)はなかなか市場に出回りませんね。
〔大乗院寺社雑事記〕文明三年九月十六日の記事からも「二宮」の存在が確認出来そうです。
筒井律師來、對面、(中略)
筒井相語、新主方仁御請申入方々請文等取之、吉野一山返事、南都衆内少々、
其外諸國輩也、年號各別ニ被立之、八月御請共在之、又二宮御座之由在所見云々、
〔大乗院寺社雑事記〕文明四年正月廿一日の条で「京方(東軍)」「西方(西軍)」其々の要人が記載されています
東方本城室町殿御所也、主上并三種神器御座、
管領細川右京大夫勝元(略)
西方本城山名入道宗全屋形、南主、今出川殿御座(中略)、公家ノ輩ハ、三條中納言公躬卿、
西河前宰相房任、葉室大納言教忠、安野前中納言季遠、同中納言公煕、同息、四條藪中納言實仲
『大乗院寺社雑事記』文明三年九月三日条では「四條殿」が南主に近侍している様子が判ります。
文明年間の記録で後南朝方及び小倉宮御息の呼称として「南主」「南方」「南方殘黨」「南帝」「南朝」
が使われ、『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日に「新主上」その後も「西方新主」「新主」とは有りますが、
「西陣南帝」という呼称は後世の造語で史料にはないようですね。
975 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 16:42:07
西陣南亭は登場したときに「父と弟御座」とあったのだから、
当時すでに父(岡崎門主)と弟が生存していたことがわかっている。
で、兄弟はもとは吉野北山のあたりに潜んでいたらしい。
系統は全くわからないが小倉宮をなのるからには教尊の系統とも思われるがどうだろう。
まあこのあたりになると自称皇胤といっても過言ではないからな。
976 :
日本@名無史さん:2007/12/22(土) 17:07:17
戦国大名に庇護された後南朝の人達って大義名分とかで少しは役にたったのかな?
977 :
日本@名無史さん:
>>975 「建内記」5月9日条を見る限り断絶、また禁闕の変で教尊が流罪になっているのに
子孫がいたとしてもそうやすやすと生き延びれたのか・・・。・・・わかりませんね。