いちおう小倉宮実仁親王の御墓が川上村にあるな。
地元の伝承として伝えてきたもんで、熊沢の方がこれを
利用したんとちゃうかな。
>>700 地元の伝承じゃあねえ…
後亀山の子孫で本来は天皇になるべき王子っていうイメージを投影したのかな。
「十津河乃記」では「寛成親王」(史実では兄・長慶院)を後亀山の親王にしてたけど、それと同様なんだろうね。
後亀山と一緒に出奔したり北畠満雅の挙兵にも絡んでるならば、出家させるなり島流しにするなりして、とにかく記録に残りそうなもんなのに、それが無いって事は…
「小倉宮実仁」てのは物語上の人物として見たほうが良さそうだね。
>>700 その御墓の管理者は宮内庁(もしくはその関係機関)?
700です。
701さん
ただ後南朝は史料がほとんど残ってない性格上、まずは地元の伝承を
丹念に拾い上げる必要があると思ってます。三河後南朝や植月御所の
ように「おいおい、それはないやろ」ってのはともかく、川上村の伝承は
時たま史料と重なったりするので、一概には否定できないですね。
後亀山天皇の皇子の恒敦王は記録に残ってて、これが年代的に実仁
親王と重なってるので、実在はしていたと思います。しかし696さんの
おっしゃる通り「実仁」と記されたものはないから困ってるんですw
まあ物語が混入して、伝承の域からなかなか進めないですねえ。
702さん
地元が保存してるようですね。表面上、神社になってました。
704 :
701:2006/08/17(木) 10:38:53
>>703 レスどうも。
この話のキモは「南北朝合一後最初に即位した称光天皇と同じ名前の親王が南朝側にもいた!」って所なんでしょう。
そこから、称光天皇の改名の理由を「本当は即位するべきだった南朝の親王と同じ名前にするため」と持っていく
この話自体、「はぁ?」と感じる。一休さんのとんち話じゃないんだから。名前を同じにしたってしょうがないだろw
さらに、「実仁」を積極的に書いているサイトでは、称光天皇の父は足利義満であり北朝は乗っ取られた系譜という話と熊沢関係の話のどちらか、両方が記載されている。
>698などはそういうサイトの関係者か信奉者くさい。
地元が「実仁」としているのも、上にあげたような「伝説」を連想させるためじゃないかな。
あるいは地元では「小倉宮実仁」と「伝説」がセットで語られてきたとか
小倉宮実仁というのは後世の人間の思惑ばかり見え隠れする筋の悪い話だと感じる。
705 :
702:2006/08/17(木) 19:26:25
>>703 レスどうも。
ヤフーにて「小倉宮 神社」で検索かけたんですが、
川上村の東川住吉神社のことですね。
それにしても、後亀山院の子の名前や人数や存在すら
ちゃんと確認・確定できないというのは・・・
南朝や後南朝は一種の亡命政権だったから
満足な史料を作れなかったんでしょうけど、
それでも何らかの確かな史料は残ってないんですかね?
植月御所はおもしろいな。
江戸時代の途中まで親王を称して御所を構えていたなんて・・・・
南朝系の子孫でも、周囲では変わり者のへんな家で親しまれてたのかな
アメリカのノートン一世みたいに。
で、風流心のわからない領主にかわってから
「お前いい加減にせいよ」と突っ込まれたと。
後亀山院の皇子女
世泰親王 ←長慶院の子だろが
師泰親王 ←南朝系図にしか見えない
良泰親王 ←恒敦+聖承の虚像
泰子内親王 ←南朝系図にしか見えない
行悟法親王 ←これも長慶院の子だろ
真阿・j顐 ←十念寺側の伝承
>>707 実在が明確な皇子女の列挙もお願いします。
>真阿・j頊 ←十念寺側の伝承
に訂正な
後亀山院の子で確実なのは恒敦宮だけ
あと、新葉和歌集の詞書に「今上(後亀山院)第二のみこ」
とあるので、恒敦の他の皇子が少なくとも1人はいたらしい
北条残党や新田残党に関しても教えてくれ。
712 :
700:2006/08/20(日) 12:26:24
>>701さん
私も後南朝に関心を持っている以上は南朝びいきなんですが、それでも
躬仁→実仁のこじつけをはじめとする南朝至上主義には退きますねw
ただ小倉宮実仁親王の名前の初出を探してみたら、私の知る限りでは江戸時代
成立とされる「南方紀伝」でした。なので、もとより地元には"伝説"が付着しない形で
実仁親王の伝承があり、それを熊沢側が自分に都合のいいように借用したと、私は
考えています。
実仁親王はまだマシですよ。義仁親王に比べたら…w
>>702さん
そうです、東川住吉神社です。
やっぱり確実な史料ってのは、同時代性の証明の点から北朝側の史料に頼らざるを
得ないでしょうね。たぶん南朝の後裔を称する家々には確実な史料はたくさん残って
いるんでしょうけどw、証明が非常に難しい。
>>706さん
私、植月御所については不勉強であんまりよく知らないんですが、それって藩の正式な
記録に残ってるんでしょうか?
|;;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;; | )
〔i_二八二二二i〕 ) 誰ぞ、ネタを投入してくれぬか!!!
{ r' ⌒-、ノ ,r‐l| ) (※後南朝も登場・・・?)
,-l l ‐=・=´;;l;;;;;;ト, ノ_
ヽl l ', ,_ ! ,'ノノ ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
ハ. l r'"__゙,,` l|
. / lヽ ノ ´'ー'´,ハ___ , -‐ 'フ ̄ヽ
_,<´ l ヽ,,,,二,,,/ トへ / / | 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレB
, --,.─ヶ┴‐,‐‐--‐'´ / /_ノ |
ttp://p2.chbox.jp/read.php?host=academy4.2ch.net&bbs=history&key=1154227935&ls=all / フ´ /彡'´ /
/ / \ 、 /
// \ー--=―┬‐' ビシッ!
| 丶 \/ ,| |
6代将軍・足利 義教
>>713 ざっと目を通したけれど、けっこう良スレだな。
そのスレでも後南朝が登場してるんだけど、
後亀山の第二皇子の「良泰親王」とか訳わかんない人物が登場する。
ググって見ると、川上村の伝説とか、熊沢系のサイトにぶち当たるw
熊沢とか長禄の変で殺された皇子を良泰親王の子孫としてるみたい
西陣南帝は小倉宮系らしいから、後亀山の次男・三男の子孫かもしれない
長禄の変で殺された一宮、二宮はどの血筋なのかさっぱりわからんからなあ。
状況的には、その数年前に行方不明になった玉川宮の兄弟が一番堅いのか?
鳥羽秀尊だろw
西陣南帝は恒敦親王と同じく実在の人物と見てOKですか?
実在はしてるけど系譜関係とか本名とか詳しいプロフィールが不明なだけ。
岡崎前門主ってのがわかりゃぁね。
>>715 梵勝、梵仲兄弟ですね。
行方も知れずってのは凄いよね
だから「源尊秀=鳥羽尊秀」=「尊秀王=自天皇=一宮=北山宮」
で別に問題ないんじゃないの?
一宮の名が尊秀王だというのは証拠ないけど
証拠がないばかりいってても埒があかないし
特に他の史料や史実に齟齬をきたさない限り
民間伝承も一考の余地があるでしょう。
>>721 あんたの言うとおり「源尊秀=鳥羽尊秀」=「尊秀王=自天皇=一宮=北山宮」だとして、
だ か ら 何 ?「一宮」の系譜がわかるの?
問題になっているのは「一宮・二宮」の系譜上の位置なんだけど、わかってる?
源尊秀は禁闕の変で討たれたとも逃げたとも書かれているんだったかな。
確かに、生き延びた可能性もないではないがなあ。
>>722 鳥羽尊秀だとしたら南朝の後胤ではないってことだよ。
725 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:15:14
>>724 そうですよね。
源尊秀は後鳥羽天皇の皇胤だから鳥羽尊秀って名乗っていたんでしょう。
それが北山宮尊秀王と同一人物なら後醍醐の皇胤じゃなくなりますものね。
726 :
日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:55:44
>>724 トバソンシュウ自体が自称なんだから、
何の証明にもならないだろ。
別に証明できたなんて一言もいってないけど?
何をカッカしてるのやら。
特にカッカしてるようでもない相手に
「何をカッカしてるのやら」と言うのは
自分がカッカし始めてるからかな。
730 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:12:46
>>728=721
相変わらず、論拠の怪しい中身の無いこと書いてるね
出自不明(皇胤ですらない)の兄弟が山奥で「一宮」「二宮」を名乗っていたというのが
あなたの主張なの?
プ
731 :
日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:43:32
おいおい、みんな、どうでもいい昔の話で熱くなるなよ。
所詮、実生活に関係ないことだろ。
忠義王文書
>>732 怪しい書き込みキター
同一人物っぽいけど、熊沢関係の電波かな
>「一宮」「二宮」
宮内庁治定の北山宮・河野宮墓があるなら、
2人は皇統譜にも記載されてるのだろうか?
ふむふむ
>>736 記載されてるの?されてないの?
どっちなのよ?
藩閥時代や
大正の機関説論争なんかが原因で、
皇統譜とは関係なく、政策的に南朝を持ち上げた結果だろ?
南朝の存在自体が皇統譜に乗ってない気がするが。
後村上〜後亀山あたりも、北朝の立場からは偽帝だったしな。
北朝の子孫たる、現天皇家から見れば、南朝の面々は皇族だが天皇じゃないって扱いだろ。
後南朝の面々ともなれば、行方しれずになった元皇族と、
その子孫と自称する素性の知れない謀反人ってだけじゃないのか?
皇末孫という曖昧な表現だから、記載されてないだろう。
系譜に定説がない上、明らかに皇統譜に記載
されないような遠皇族の墓でも、陵墓参考地と
して考慮される場合もあることを想起すべきか。
だから、記載されてるわけねーってw
地元民が長年に渡って熱心にやってるから、宮内庁としても放置しておけないだけだろう。
推理に戻ろうぜ。
梵勝、梵仲では無いというのが通説なのかな?
幕府には融和的態度をとった玉川宮と、
攻撃的姿勢を辞さない小倉宮の違い?
>>741 その割には、地元民の要望を無視していたわけだが
>>743 文献等の根拠がないなら「皇族であるという点について」は無視して当然でしょう。
ただ長年皇族として祀っているという社会的事実は無視できない。
だから宮内庁が管理してグレーゾーンの現状(つまり、皇族として祭られているが確証はない)を維持している。
>>719 西陣南帝については、同じ日記に「小倉宮系」と書いてあったよね。
一宮・二宮とはどういう関係なんだろう
勢力範囲や支持勢力は全く同じだっけ?
「西陣南帝」は壺阪寺から来たという所からしかはっきりわからないが、
その前年には南方の宮を西軍に迎えようという話をしていたわけだから
このころには既に身柄を確保していたんだろう。
さらにその前年に「南方宮」が兄弟して吉野奥と熊野で蜂起しているが、
この人たちが何者なのかはわかりません。
「西陣南帝」には弟がいたらしいから、合致するといえばするけど。
そうなると、日尊は誰なんだということに。
後の尊慶王である
尊雅王はどうしたw?
また沸いてきたな…熊沢デンパはうっとうしいから出て行けよ
この程度で熊沢デムパと騒ぐのは勉強不足
>>750 この程度で勉強不足と騒ぐのが熊沢クオリティ
何をカッカしてるんだかw
もちつけバカ
>>752 怒ってる怒ってる
図星を指されたみたいですね
尊慶王・尊雅王といった皇族は一次史料にこそ見えないものの、
江戸時代始めの史家には意識されていた存在。それを明治期に
現れた熊沢と直接に結び付けて語るべきではないってことだろ?
尊雅王の初出は「残桜記」だっけ。
尊慶王のことは寡聞にして知らないのだけど、何に出てくるのでしょう?
野長瀬氏の系図はどうなんだろう? >尊雅王
後南朝の皇族名に「尊」字が付いてるのは、後醍醐院(尊治)
の遺志を継承するためとか聞いたが、いかにも後付けくさい。
地元で語り継がれてきたんだろうけど、どこまで参考にしてよいのか疑わしいな
それにしても、>756のリンク先の系図は怪しすぎる
信頼できる系図があるのかと。
あの系図のうち「忠義王」と「尊雅王」以外は川上村の「御宝物由来」という書物に出てくるね。
(『後南朝史論集』の「川上村『朝拝』の記」に載せられている)
系図の通りの繋がりになっているし、周辺地域の「後南朝史跡」にもこれらの名前をよく見るけど、
共通して伝えられているのか、あるいは「由来」かまたは別の書物が原典にでもなっているのか。
>>759 後亀山院 ― 恒敦宮 ― 聖承 ― 教尊
762 :
日本@名無史さん:2006/09/23(土) 02:29:40
じょうすい
禁闕の変だねえ。
>756の記事や系図は平家の落人伝説なんかと同レベルのヨタ話でしょうね。
円胤を小倉宮系統にしたり、通説と食い違いすぎている。
小倉宮を例の「実仁」という名前にしているところも怪しい(>690のような電波くさい)
766 :
日本@名無史さん:2006/10/01(日) 20:13:44
長慶天皇に興味があります。
南北朝の合一後、彼は何をしてたんでしょう?
全国を漫遊してた
大陸に渡って三好長慶になった
すでに出家して、和泉の長慶院に居たんじゃなかった?
770 :
日本@名無史さん:2006/10/11(水) 08:50:43
後南朝では結局即位宣言した皇族はいなかったみたいだな
何で?
自天王だけだろ。
合一後は知らんが
天皇で彷徨ってた頃
岩手や青森の辺りで南部煎餅の原型を食べてたって話しは有るな
まぁ言い伝えだけど
↑長慶天皇か?
南部煎餅といえばモーゼ伝説のマナry
>>773 ああいう煎餅を南部煎餅というのか。
呼び方を初めて知ったよ。
それはそうと
長慶天皇が岩手や青森まで行くってのはありうるのか?
後南朝で、即位宣言したのは自天王のみ。
誰も相手にしてくれなかったので
しかたなく自ら天皇と称した。それで自天皇。
蝦夷ヶ島だろうが琉球だろうがありうるよ。可能性だけなら。
浪岡御所だってあったんだろ?
779 :
日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:27:30
780 :
日本@名無史さん:2006/11/18(土) 21:19:09
ほほー
このスレ5年近くももってるのか…凄いな。
1000まで行くのに、あと1年くらいか
義有王自害の日。
785 :
日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:45:11
今年は自天王550年忌だったけど特別なイベントはなかったのか
500年忌では後南朝史論集が刊行されたけど
ほ
朝拝式って普通に参加できるんですか?
参加は筋目衆だけ。見物なら誰でもできるんちゃう?
御朝拝式おお賑わい…。
過疎とか高齢化とか、将来的に大丈夫なのだろうかこの行事。
村のサイトで人口推移見たら、劇的な減り方をしていて。
まあ、どこもそうと言ってしまえばそうなんだろうけど・・・。
たしか今年550年なんですよね朝拝式。でも結局自天王は誰の息子、孫、曾孫で誰なんですか?
川上村の人しか知らないこととかあるんですかね?
794 :
日本@名無史さん:2007/02/09(金) 04:17:20
後亀山天皇−小倉宮−尊義王−自天王
>>792 うん、その危機感があるので550周年を機に
一般も参列できるようにして、村の祭りとして
みんなで保存するようにしたのではないかな。
ただやはり筋目衆は年寄りが多くて、
十年後とかは心配ですね。
797 :
日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:03:01
万世一が途絶え、偽帝に簒奪されてから五百猶余年。
798 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 09:44:36
筋目衆の跡取り達ていないの?
799 :
日本@名無史さん:2007/02/25(日) 09:50:17
筋目どおしだけの縁組だけで血脈を保ってきた
南朝の遺臣の子孫達なんて
松本清長の小説みたいだね
まあ世の中には我こそは清和天皇40代の後胤、なんて人はけっこういそうだから
仮に後醍醐天皇25代なんて自称するのがいたって、どうぞ御勝手にw・・・だよな