後南朝

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1なな
って詳しく教えて。南朝から後南朝まで。
ただしわけわからん明治期に出てきた人たちまではいりません。
応仁の乱ぐらいまででいいです。
もしスレあれば誘導してください。
削除依頼するので。
2日本@名無史さん:01/12/30 12:23
自天王。
3日本@名無史さん:01/12/30 12:58
嘉吉3年(1443)に禁中に乱入して、神器を強奪したりしてる。
時間がないので省くが、いろいろあったあと
十数年後に、嘉吉の変で足利義教殺害して滅んだ赤松の家臣が奪回。

応仁の乱の時にも小倉宮とかいうのが担ぎ出されたそうだけど
こっちのほうは、よく知らない。


でも1はこれぐらいの事はわかっていそうな気配。
4日本@名無史さん:01/12/30 13:40
http://www.h2.dion.ne.jp/~nanchoh/gonan/gonannen.html
ここまでが歴史、以後は怪しい。
5なな:01/12/30 19:42
みなさん、ありがとうございます!

>2
いましたいました。

>3
確かに知ってますけど、うる覚えですし、書いてくれて嬉しいです。
小倉宮系はいつも北畠とセットですよね。

>4
おお!早速行ってみます。
6日本@名無史さん:01/12/30 19:45
後南朝の子孫をかつぎだしてどっかで独立政権作る奴
いたら俺も参加したい。
7日本@名無史さん:01/12/30 19:51
川上村では、今でも後南朝の自天王を供養しているそうです。
8日本@名無史さん:01/12/30 20:01
徳川家康の祖先に後南朝関係者がいるらしいが・・
9日本@名無史さん:01/12/31 09:56
後南朝ではないのですが、

懐良親王はどうして一時的にせよ北九州を席巻できたのでしょうか。
いまいちよくわかりません。教えてください。
懐良親王に子孫とかはいなかったの?南朝内での地位は?
10日本@名無史さん:01/12/31 13:30
懐良親王は豪族菊池氏や阿蘇氏のバックアップがあったから勢力を持ったんじゃないかな?
明とも交流を持ったようだし。
王子は源良宗を名乗ったそうだけど詳細はよくわからない。
11日本@名無史さん:01/12/31 13:45
懐良親王の子供は親王宣下は受けられなかったのか。
南朝内では微妙な立場だったのかな、懐良親王は。
12日本@名無史さん:01/12/31 14:24
南朝の子孫一覧

熊沢天皇 熊沢 寛道 南朝末裔の第117代天皇。占領軍の機関誌「スターズ・アンド・ストライプ」に
取り上げられ、一躍有名に。1951年に東京地裁で「裕仁天皇不適格確認訴訟」を起こす。

熊沢天皇 熊沢 乃武夫 熊沢信太郎の子
熊沢天皇 熊沢 信彦 熊沢乃武夫の弟。日本鋼管を巻き込む詐欺・脱税事件を起こす
熊沢天皇 熊沢 照元 熊野宮の20代目 東京都江東区
熊沢天皇 熊沢 常春 熊沢天皇家の一族 名古屋市
酒本天皇 酒本 ? 第99代後亀山天皇の末裔 岡山県
三浦天皇 三浦 芳聖 第100代大宝天皇(?)の末裔 愛知県御油
竹山天皇 竹山 稔 大覚寺統天皇家の子孫 愛知県浜松市
長浜天皇 長浜 豊彦 第81代安徳天皇より第33代目 鹿児島県鬼界島
田宮天皇 田宮 仙海 第96代後醍醐天皇の末裔 京都市
佐藤天皇 佐藤 英一郎 第80代高倉天皇の末裔 岡山県和気郡
安川天皇 安川 守 第112代霊元天皇の末裔 京都市
法天皇 ? 第81代安徳天皇の末裔 熊本県
長田天皇 長田 ? 第98代長慶天皇の末裔、第35代目の天皇
上村天皇 上村 ? 第97代後村上天皇の末裔 福岡県
佐渡天皇 ? 第84代順徳天皇の末裔 佐渡島
外村天皇 外村 ? 第96代後醍醐天皇の末裔 名古屋市
横倉天皇 ? 第81代安徳天皇の末裔 高知県吾川郡池川町
伊藤天皇 伊藤 清作 自天王の末裔 奈良県川上村、京都市
葛尾天皇 ? 第94代長慶天皇の末裔 福島県浪江
神聖天皇 長岡 良子 大本系の新興宗教・璽宇教の二代目教祖
「璽光尊」。囲碁棋士の呉清源を蔵相、元横綱・双葉山を厚相
に据えた内閣を組織する 金沢市(「首都」とする)

大室天皇 大室近祐 第96代後醍醐天皇の末裔 山口県熊毛郡田布施町
13日本@名無史さん:01/12/31 15:10
m
141:01/12/31 15:22
後南朝でなくても、その前の時代の南朝とかの話題はいいですけど、
あまり時代が下ると範囲が広くなってしまい収拾がつかなくなってしまうので、
1でも書いたように、応仁の乱ぐらいまででお願いします。
すみません。
15お笑い皇民党:01/12/31 17:00
>>3
へえ.神器強奪ですか.
神器の所在で正統がきまるのなら,その間に,神器によらずして即位した北朝の天子は
偽主ということになりますな.後南朝こそ正統というべきでは?
161:01/12/31 20:23
なんでこの手のスレが立ってないのかと思っていたのですが、
えてしてこういう展開になるからなんですかね。うーむ。
17日本@名無史さん:02/01/01 16:34
後南朝なんて知らなかった。
確かに大河ドラマ「花の乱」の冒頭で少し触れられていたけど、
ここまで拗れているとは知らなかった。

なんだかんだ言っても、ここは勉強になるなぁ。
18日本@名無史さん :02/01/01 16:58
>>1さんへ

西陣南帝は高野山をへて北陸へ(上杉氏に保護される?)
西陣南帝の皇子、浅利宮は熊野で死去。
西陣南帝の一族、玉川宮は美濃〜甲斐〜駿河をへて北条早雲に庇護される。

こんなところでよろしいですか?
191:02/01/01 22:50
>>18
ありがとうございます。
北条早雲はそういうの好きですよね。
いざというときに使えると思ったのでしょうか。
20日本@名無史さん:02/01/02 00:08
↑他に情報はあるの?

 例えば、戦国時代に後南朝の一族はどうだったのかな?

 確か、楠木家の子孫が織田信長の時代にいなかったか?

 楠木正虎?
21日本@名無史さん:02/01/02 00:12
 後南朝系以外に、神武天皇、崇神天皇、応神天皇、
天武天皇系の子孫、源高明、以仁王の子孫もどうなっ
たのだろう?現在も生きてるのかな?
 誰か知ってたら教えて!
2222:02/01/02 06:21
楠木正虎を後南朝の一族というのなら、
伊勢の北畠氏も立派な後南朝の一族です(笑)。
あと新田氏とかもたまに資料に顔出してますね。

それより後南朝と直接は関係ないですが、
(1)北九州の南朝勢力はその後どうなったのでしょうか。
(2)そういえば九州にも畠山氏下向してたような(もろ北朝ですが)。
  本家、能登、二本松以外あまり聞いたことないです。

大きく後南朝からそれたのでsage
23日本@名無史さん:02/01/02 09:21
q
24日本@名無史さん:02/01/02 11:34
>>18
それは初耳だ。
ソースキボーン。
2522:02/01/02 12:43
蛎崎氏は、後南朝の蛎崎蔵人の子孫?
2626:02/01/04 02:44
27日本@名無史さん:02/01/04 04:47
>>26
こ、これは・・・!
28 :02/01/04 15:13
2926:02/01/04 18:08

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301:02/01/04 18:10
まあ、おもしろいからいいや(笑age)
31日本@名無史さん:02/01/04 18:11
32日本@名無史さん:02/01/04 18:13
>>15
だから今でも神器をもっていた方の南朝が正統とされてるじゃん。
でもその後、神器が北朝に奪われてからは「後南朝」とよんで区別してるんだよ。
後南朝は神器もってないからな。
33日本@名無史さん:02/01/04 18:17
>>32
一度、神器が北朝にわたった後、
奪われてるから問題になってるのです。
34日本@名無史さん:02/01/04 18:18
>>33
すぐに北朝に奪還されてるよ。
一時的に神器を奪ったから正統と言うのは無理では?
35日本@名無史さん:02/01/04 18:36
北朝側も実は神器のレプリカを作っており、比叡山に秘蔵されていたと
今東光氏が言っていたが・・・
36日本@名無史さん:02/01/04 18:39
>>19
後北条は関東独立を狙っていたのでは?
37日本@名無史さん:02/01/06 01:17
>>36
まあ狙ってたかどうかはわからないけど、
とりあえず万が一のために保護しといたというのはありえますね。
名門好きだし。
38日本@名無史さん:02/01/08 14:14
とりあえずage
39日本@名無史さん:02/01/09 17:58
蛎崎五代はどういう後南朝なの?
40日本@名無史さん:02/01/11 13:49
後南朝が題材の小説ってなんかない?
41日本@名無史さん:02/01/13 16:35
>>40
小説ではないが、村松剛の「帝王後醍醐」の最終章”南朝残影”に
系図や後日談が載ってます。
42日本@名無史さん:02/01/13 17:07
43日本@名無史さん:02/01/13 20:10
>>40
谷崎潤一郎作
「吉野葛」
44日本@名無史さん:02/01/21 21:35
とりあえず、森茂暁『闇の歴史、後南朝』(角川書店)あたりを。
マニアックなところでは『菅政友全集』(国書刊行会)も。
45日本@名無史さん:02/01/21 21:49
>>36
関東独立どころか、承久の乱をまねて、後南朝の綸旨をもらって
越後経由で京都へ進出する計画が会った模様。
(鈴木眞哉氏、井沢元彦氏)
46>36:02/02/01 12:33
北條もおもしろいけど、
後南朝の皇胤の隠所に注目すると面白い。
熊野、駿河、三河、大須が挙げられるが、
甲斐もかなり濃い。長慶、後村上の隠れ宮の
山中宮(湖の近所)なんかから察すると、
武田信玄の上洛は戦国の時代の終焉を強く
意識していたことからも・・・。

南朝皇胤を擁しての上洛だとして、
南朝皇胤への禅譲と武田幕府創始
な〜んてことも。
皇胤の痕跡を追ってみると面白い。
47日本@名無史さん:02/02/02 02:29
>>8
世良田政義が尹良親王を奉じており、娘との間に尹重が生まれている。
その後消息を絶つが、間もなくして松平郷に世良田親季・泰親という
親子が現れる。親季は政義の子である。
48世界@名無史さん:02/02/05 21:42
age
49日本@名無史さん:02/02/05 21:46
自天王以降は胡散臭い。
50日本@名無史さん:02/02/05 22:39
自天王の前だって結構いい加減だぞ
51日本@名無史さん:02/02/06 01:18
>>25
蛎崎家は系図上では若狭武田家の一族。
52日本@名無史さん:02/02/07 01:23
>46
福島県双葉郡大堀村を中心とした南朝伝説もなかなか
53日本@名無史さん:02/02/07 03:05
「自天王」というネーミングの意味が分からないのですが

誰か教えて
54日本@名無史さん:02/02/07 08:07
誰も相手にしてくれないから「みずから天皇と名乗った」ので「自天皇」なんだけど
「自天皇」と「自天王」の2種類の表記がある理由は不明。
仏教の守護神の「なんとか天王」の信仰と後南朝の伝説がごっちゃになってるんじゃないのか?
55日本@名無史さん:02/02/18 14:39
自転車
56日本@名無史さん:02/02/18 21:23
age
57日本@名無しさん:02/02/18 23:51
忠義王もいなかった?
58日本@名無史さん:02/02/21 12:31
北陸宮
59日本@名無史さん:02/02/21 20:41
あげ
60日本@名無史さん:02/02/21 21:14
神器なんて当てにならないよ。大室だって文政時代からジャン
61日本@名無史さん:02/02/21 21:27
>52
福島県の南朝伝説ってどんなの?
62日本@名無史さん:02/02/21 22:11
熊沢蕃山は?
63日本@名無史さん:02/02/23 16:52
南朝伝説なんて日本中、それこそ北海道と沖縄以外どこでもあるよ。
ほとんど被差別民が朝廷からの免許状を偽造したり菊の御紋を勝手に使ったりしているうちに
子孫が勘違いしたものばかり。
64日本@名無史さん:02/02/23 17:40
>>63
サンカなんかもそうなの?
65あぼーん:あぼーん
あぼーん
66日本@名無史さん:02/03/05 20:51
>>64
いや、サンカは関係ない。
67日本@名無史さん:02/03/05 21:07
脇屋義陸、義則萌え〜♪
68日本@名無史さん:02/03/20 23:13
age
69日本@名無しさん:02/03/21 22:16
ageとくよ。
でも、今は後南朝家の子孫なんているのかな?
ついでに、崇神系、雄略系、天武系、あと大国
主命の子孫とかもいるのかな?
70日本@名無史さん:02/03/21 23:59
熊沢天皇家の現子孫なんか、もうそれに関わりたくない(もううんざり)ってところで
大室家の子孫もそうで、遺品を全部燃やしたそうだけど(ああ、もったいない)
家系図とかでもどこまで信頼できるんだか?
ちなみに南朝大室家の家系図は1820年?頃作られて1996年大室近祐氏の死去に伴い
処分したから180年くらいで南朝家系図って作られるのかなあ?6代〜7代くらいしかつずいて
ないのかも?熊沢天皇家は大室より3代古いから10代くらい(熊沢広敷王〜熊沢寛道までで)
多分初代熊沢広敷王は光圀の大日本史編纂あたりからか?西陣南帝のその後が消息不明で17世紀
の中頃?の広敷王の時代まで200年間の空白があるわけ。大室の方も1400年光親親王が亡命なされて
1800年頃まで約400年間空白。しかも後大室家も5代で血筋が断絶した。
明治より前までさかのぼれる南朝の末裔は1熊沢2大室3三浦だがこれらの家も江戸時代の頃でしょう。
71>>1 江戸の中頃からじゃないの 後南朝って:02/03/22 00:06
南朝伝説なんて日本中、それこそ北海道と沖縄以外どこでもあるよ。
ほとんど被差別民が朝廷からの免許状を偽造したり菊の御紋を勝手に使ったりしているうちに
子孫が勘違いしたものばかり。

>>1
>>で、不思議なことに北朝の末裔がないんだ。なぜ、後南朝ばかりなんだろうね???
ゴダイゴ天皇の墓が整備されたの江戸時代の中ごろなんだ。それ以前はゴダイゴの墓
がどこにあったかさえわからなかった。南朝の始祖がこんな扱われかただから
江戸時代の中頃からの思想じゃないの?後南朝って
72日本@名無史さん:02/03/22 17:59
>熊沢天皇家の現子孫なんか、もうそれに関わりたくない(もううんざり)ってところで
>大室家の子孫もそうで、遺品を全部燃やしたそうだけど(ああ、もったいない)
>家系図とかでもどこまで信頼できるんだか?
>ちなみに南朝大室家の家系図は1820年?頃作られて1996年大室近祐氏の死去に伴い
>処分したから

なるほど、なるほど。その通りだとすると、大室家の人のアタマはまともで
鹿島一派に利用されたわけだな
泉下でいちばん憤っているのは、その「近祐」さんかも知れん

いずれにせよ、物証は現存しないわけか
73日本@名無史さん:02/04/04 15:15
まあ、そういうわけで、大室ヲタはどきゅんってこった
74日本@名無史さん:02/04/26 00:23
保全age
75日本@名無史さん:02/04/26 18:22

はどきゅんってこった
>>どきゅんっじゃないよ
76日本@名無史さん:02/04/26 18:25
遺品は全て、田布施町の図書館に寄贈されましたが
77日本@名無史さん:02/04/26 18:48
大室ヲタなんて存在しない。すべて貸し間電波ヲタだろ。
どきゅんにはかわりないが。
78神武=扶余王仇台=ちょん:02/05/03 20:10
>>77
僕と一緒に半島へ帰ろう
79日本@名無史さん:02/05/12 11:46
age
80日本@名無史さん:02/05/12 11:51
南朝四百八十寺 多少の楼台煙雨の中
81日本@名無史さん:02/05/19 08:06
南朝南朝って騒ぐ奴は馬鹿
82超遅いレス:02/05/19 16:58
>>32-34

>>3 を読んでみ.十数年後に奪回とあるでしょ.
83保全課:02/06/01 18:39
保全ageに来ました
84日本@名無史さん:02/06/01 23:10
34 :日本@名無史さん :02/05/02 00:28
>>26

>西国の大名が朝廷を奉じて徳川に背いた場合にそなえて、
>理由をこしらえて江戸に皇族を常駐させた制度。天海の発案で家康が採用。

その原案は信長と比叡山焼き討ちで武田信玄のもとに逃れた正親町天皇の弟
良胤法親王を擁立する話(「土橋家本 甲陽軍鑑末記」)が元らしい。
年号も「明禄(めいろく)」とかとするまで決まっていたとか。
85日本@名無史さん:02/06/13 03:13
ヲグラノミヤage
86日本@名無史さん:02/06/23 20:01
>>62
儒者の蕃山は母・熊沢亀が熊沢(天皇)家出身
87日本@名無史さん:02/06/23 20:36
旗本の奈須氏も護良親王の後裔と称している
つまり江戸時代には南朝後裔なんぞ珍しくもなく
皇位うんぬんなどという、大たわけもいなかった
88日本@名無史さん :02/07/04 00:35
あげ
89しーまん:02/07/06 08:35
南朝を支えた九州の勇、征西将軍府は懐良親王以降どうなったのでしょうか?いろいろ
調べてみたのですが、情報がないので教えてください。
90日本@名無史さん:02/07/06 09:54
>>89
後村上の皇子の良成親王が後継いだよね。
それで征西府の衰退とともに、懐良親王とともに筑後矢部に落ち延びる。
南北朝統一後にも、良成親王の令旨が出されてるんじゃなかったかな。
けどそのまま自然消滅。
あと、南北統一直前のころに高麗に兵を借りに行った記録があるみたいね。
うまくいったのかどうかわかんないけど。

それと懐良親王の執事格だった五条氏は、そのあとも筑後の国人になって戦国期まで活動してるね。
91日本@名無史さん:02/07/15 15:37
>>86
もっと正確にいうと、蕃山はその縁で熊沢家の養子になってるんだYO!
92日本@名無史さん:02/07/19 04:44
懐良親王って面白いよね
勝手に日本国王の印もらってるし
単なる地方政権ではなく大陸の政情を絡めた東アジア史のひとこまとして描くと面白いのでは
93あぼーん:あぼーん
あぼーん
94日本@名無史さん:02/07/24 21:54
あげ
95日本@名無史さん:02/07/27 16:45
後南朝の正統後胤「小倉宮」を自称する人物、発見!
http://www.mutsuhiro.net/
963:02/07/27 18:33
61
97日本@名無史さん:02/07/28 11:14
>>95
後醍醐源氏って初めて聞いたよ。
第73世「武内宿禰」って何だ? 300歳くらいまで生きるのかな?
98日本@名無史さん:02/07/29 07:30
>後醍醐源氏

捏造にキマッテンダロ
99日本@名無史さん:02/07/30 00:57
>後醍醐源氏
ワラタ
100日本@名無史さん:02/07/30 20:24
宗良親王の子の尹良親王に源氏姓が与えられて、
その子孫が後醍醐源氏とよばれたって読んだことがあるけど、
本当なのだろうか。
101日本@名無史さん:02/07/30 21:10
系図では、
宗長親王――尹良親王――源朝臣尹重(良王)
とあります。
102日本@名無史さん:02/08/05 02:47
あげ
103日本@名無史さん:02/08/05 02:50
後醍醐源氏自体はちゃんとした由緒があるんじゃなかったかな。
某予備校講師が氏長者というのには笑ったが。

実は俺の父親の実家がそうなんだよね。
能登半島の奥のほうです。
104日本@名無史さん:02/08/20 01:10
age
105日本@名無史さん:02/08/20 01:49
『漏れが皇位継承権者だ!』て名乗り出なさ〜い!
一生喰うことに困らんと思われ。





措置入院先の病院でね♪
106日本@名無史さん:02/08/20 01:52
懐良親王こそ
南朝のホープですね
彼の実力で九州を独立させるべきだったカナ
107日本@名無史さん:02/08/20 01:56
うわーマイナーな話題!(経験者は語る)
止めやせんがね。
108日本@名無史さん:02/08/20 01:57
菊地一族は本当に強かったんでしょうか?
109日本@名無史さん:02/08/20 01:59
菊「地」!?
110 :02/08/29 00:22
保全age
111日本@名無史さん:02/09/10 00:44
長慶天皇は日本全国を走り回っておられましたが、
彼が最強ではないでしょうか。
112日本@名無史さん:02/09/15 01:49
長慶の肖像画うpキボーン

と逝ってみるテスト♪
113日本@名無史さん:02/09/22 01:44
age
114日本@名無史さん:02/09/22 01:54
>>113
空揚げするなよ。
115日本@名無史さん:02/09/22 02:12
宗良親王も興味深い人物。
比叡山に入って20歳で天台座主になるも
後醍醐天皇の蜂起に荷担して讃岐に流される。
建武の中興が成って天台座主に返り咲くも
足利幕府の成立で還俗、吉野方へ。
遠江から信濃を転戦したが36年後に吉野へ召還され、
6年かけて南朝の勅撰集「新葉和歌集」を編む。
その後信濃に戻り、享年不詳の生涯を終えた。
116日本@名無史さん:02/09/22 22:14
>>87
奈須きのこ?
117日本@名無史さん:02/10/06 15:43
118日本@名無史さん:02/10/12 01:27
age
119日本@名無史さん:02/10/12 15:12
120日本@名無史さん:02/10/12 17:29
>>119
出典は何なのですか?w
121日本@名無史さん:02/10/12 18:15
>>120
「日本史の謎 450」
122日本@名無史さん:02/10/26 00:14
あげ
123日本@名無史さん:02/11/12 01:42
124日本@名無史さん:02/11/12 20:16
浅利家(南朝良泰親王)の御子孫。
http://www.g-tohai.co.jp/person/asari.htm


125日本@名無史さん:02/11/16 01:01
>>124
なんで知ってんの?
126日本@名無史さん:02/11/16 09:07
長慶天皇とかってさぁ

なんで見つからずに日本中うろうろできたんだろう?

127日本@名無史さん:02/11/29 06:16
祟道天皇はどうよ?
128日本@名無史さん:02/11/30 14:27
早良親王がどうかしたのか?
129日本@名無史さん:02/12/10 23:05
鎌倉幕府が立てた北朝天皇系なんて偽物なんだから氏ね
130日本@名無史さん:02/12/10 23:16
>>129
南北朝時代は鎌倉幕府滅亡後だろうが(w
131日本@名無史さん:02/12/10 23:30
>>130
ぷぷぅ(w

あんた日本史のシロウトだね
132130:02/12/10 23:37
>>131
じゃ、南北朝時代がいつからなのか教えてくれ。
1333年以前なのか?
133日本@名無史さん:02/12/10 23:41
>>130
後醍醐配流後の光厳天皇即位(1332)について言ってるのかと。
単に両統迭立の原則が適用されただけと思われ。
134日本@名無史さん:02/12/10 23:48
>>132
光厳天皇が即位したのは1331年ですよ。
135日本@名無史さん:02/12/10 23:56
無知な130たんは鎌倉幕府が擁立していた北朝第1代光厳天皇を京都から追い出したのが誰なのかも知らないでしょうね
136日本@名無史さん:02/12/11 00:15
>>133
>>134
>>135
さんくす。
無知だから、
1335年に足利尊氏が擁立した京都の光明天皇(北朝)と
吉野に逃れた後醍醐天皇(南朝)の「一天両帝」状態から
南北朝時代が始まるものだと思っていたよ。
137130:02/12/11 00:18
おや、名無しになっちまった。
138日本@名無史さん:02/12/15 03:41
あげ
139日本@名無史さん:02/12/15 13:58
age
140日本@名無史さん:02/12/15 14:08
京都の光明天皇(北朝)と吉野の後醍醐天皇(南朝)の「一天両帝、南北朝」状態から
南北朝時代が始まります。
141日本@名無史さん:02/12/15 15:01
>>140
ん?北朝の初代は桓武天皇で南朝の初代は清和天皇だろ?









なんてイタイ本を読みましただ(w
142日本@名無史さん:02/12/15 16:22
「一天両帝、南北朝」は「一天両帝、南北京」でっせ。
143日本@名無史さん:02/12/17 01:10
熊沢天皇って実は養子だったの?
144日本@名無史さん:02/12/20 20:02
上宮王家の子孫を名乗ってる人っていないの?
145日本@名無史さん:02/12/21 03:21
146日本@名無史さん:02/12/21 03:28
↓太子の子孫を自称する者が居る掲示板
http://www17.big.or.jp/~hirok/hyoutree/pslg1019.html
147145:02/12/21 03:33
くせべ【救世部】《組織名》
 聖徳太子の流れを汲む組織で、日本の長期的発展のために太子が予
言した言葉をもとに、日本の歴史を操作してきた。
→未来記
 構成員は黒駒を駆って宙を駆け、夢見をあやつり人心を操作し、予
知能力や癒しなどの特殊能力を持つ。
 対立する派閥を操作して、長期的に日本のためになるような行動を
とらせるべく暗躍している組織。短期的には日本の国益を害している
ように見えることもある。近くは第二次大戦における敗戦、高度成長
とバブル崩壊などを演出した。
 聖徳太子の一族のうち、死する前に一族を離れて離縁したことになっ
ていた一派の子孫。初期には秦氏の背後で暗躍、平安遷都のさいにも
活躍した。のちには猿楽などの芸能の民を背後から操り、各種仏教の
影で国家の大計をめぐらせていた。近現代ではマスコミを背後であや
つっている組織のひとつ。
 聖徳太子の子孫と名乗る人物が表の歴史にあらわれなかったことが、
彼らの実力と隠れることの巧みさを示しているといえよう。
148救世部って:02/12/26 23:20
随分と胡散くせ〜べ
149日本@名無史さん:02/12/27 18:56
そうですね。
150ゴジンム天皇 ◆KJPplSAabQ :02/12/29 22:04
age
151ゴジンム天皇 ◆KJPplSAabQ :02/12/29 22:05
朕が健在だ。
152日本@名無史さん:03/01/05 06:45
>>148
後南朝もそのようなものではないかと……
153日本@名無史さん:03/01/11 15:51
154山崎渉:03/01/11 16:57
(^^)
155山崎渉:03/01/16 08:52
(^^)
156日本@名無史さん:03/01/16 22:15
157日本@名無史さん:03/01/19 20:43
日本最古の「日の丸」盗まれる 奈良の重文・堀家住宅で

 18日午前11時半ごろ、奈良県西吉野村和田にある国の重要文化財「堀家住宅」で「のぼり旗4本などが
なくなっている」と所有者から110番通報があった。五条署が調べたところ、被害品には後醍醐天皇(在位
1318〜39年)から同家に下賜され、日本最古と伝わる「日の丸」(縦95センチ、横75センチ)が含
まれていた。

 調べでは、建物は木造平屋で、家の北側の雨戸が外されていた。住宅の座敷にあった旗や置物、文箱、土蔵
にあった掛け軸など計50点余りがなくなっていたという。

 堀家は南北朝時代に後醍醐天皇らが行宮(あんぐう)(仮御所)にしたと伝わる。被害品の旗4本のうちの
1本が、中央に赤い丸を表した縦長ののぼり旗だった。現存の住宅は室町時代後期に建てられた。
158日本@名無史さん:03/01/19 23:15
んでさ、武田の旗のほうが古くないか?


天皇からもらった、という伝説が大事なんだろうけど。



文化財への損壊、窃盗なんかは「ひとごろし」より大きな罪だと
思うんですが。
159みやこ雀:03/01/19 23:24
後南朝戦いました。楠さんもよう戦いましたなー。両党送立の違約ふざけるな下郎
でしたなー。親王さんもごくろうさんでしたなー。くやしーなー。
土地ほして集まった欲どうしい奴ばっかやったしなー。ほんと南朝がたは、北畠
さんも楠さんも皆さんも正義・正義追求で欲得抜きで見とっても美しかったー、
幕府がたは、欲得見え見えきちゃないなー、まーよろしがな、後南朝は、
後亀山天皇・小倉宮親王・尊義王・自天皇・忠義王ーーー熊沢天皇とつずいて
ますがな。
160日の丸:03/01/19 23:40
金旗は北畠資料館にあるよ。後銀旗、は知らない。赤旗は公共団体、各家庭にあるよ
161日本@名無史さん:03/01/20 00:45
北畠顕家の弟・顕能は伊勢に土着して国司と称し、
子孫は信長に滅ぼされるまで威を振るったが、
後南朝の天子様をお迎えする気配もない不忠者揃い。
162日本@名無史さん:03/01/20 01:55
北畠満雅のことはどう思ってんだ?
163日本@名無史さん:03/01/20 05:32
>>136・140さんが正しい
光厳を北朝とするのは水戸史観
事実としては光厳を挟んで後醍醐重祚とするのが自然
164日本@名無史さん:03/01/30 13:01
>>163
では、後醍醐→光厳→元徳(後醍醐重祚)でよろしいか?

はやく水戸史観を脱してきちんと評価すべきと思う今日このごろ。
165日本@名無史さん:03/01/30 15:29
水戸史観を脱して熊沢史観に陥る罠(w

忠裕王って誰?
166日本@名無史さん:03/01/30 16:02
>>160

>金旗は

北朝の金ジョンイルの旗(w
167日本@名無史さん:03/02/09 00:57
>>164
たしか元徳院との諡は実際に用意されたんだよね?
168日本@名無史さん:03/02/09 05:36
オウム麻原の妄想より……
>テロにより今上天皇を廃して日本征服を遂げた後
>新国家の天皇として相応しい後南朝の子孫を密かに探していたらしい。
169日本@名無史さん:03/02/09 06:32
実は明治天皇は二人いて、はじめの方は暗殺され、
西郷や岩倉らによってひそかに後南朝の王子と入れ代わった。
だから、現皇室は実は南朝系である‥‥なんて話は、ヤパーリとんでも系になるんでせうか?
小説ならずいぶん面白いけど、ヤバイのかな?
170日本@名無史さん:03/02/09 10:42
>>168
麻原は八代出身だからね
懐良親王とか良成親王の話が影響したのでしょうか
171日本@名無史さん:03/02/09 10:59
>>169
「大室天皇」説?明らかに電波。信じてたらバカにされるよ。
「大室寅之祐」なる人物が明治天皇とは無関係であることは公知の事実。
残念ながら寅之祐さんは真っ赤なニセモノです。
「わけわからん明治期に出てきた人たち」に該当するから、スレ違いになるけどね。
172日本@名無史さん:03/02/09 11:32
>>171
>「わけわからん明治期に出てきた人たち」

なんかそれで一スレできそう(w
173日本@名無史さん:03/02/09 12:44
難聴でうんこも軟調気味で、三日前から便秘で浣腸された。
174169:03/02/09 18:34
>>169
そうか、バカにされるのか(W
でも信じるも何も詳しいことなんも知らんから。
大室?何それ。不敬罪で死刑になったの?


>「わけわからん明治期に出てきた人たち」

それも面白そう。誰かスレたてれ。
175すでに6スレあります。:03/02/09 19:23
>>172
大室寅之祐と睦仁=京都明治天皇は別人と言える 6
1 名前::(; ̄▽ ̄) : 02/10/02 18:02
大室寅之祐が明治天皇になったと言える勇気を持とう
http://kaba.2ch.net/test/read.cgi?bbs=news2&key=994501168&ls=50
★◆孝明天皇と明治天皇の写真◆★
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi?bbs=history&key=994252088&ls=50
 即位当初の少年京都明治天皇(写真)
 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji.html
睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)に
は罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
 即位後(明治天皇時代)1868年1月15日からの明治天皇(写真)
 http://www.dokidoki.ne.jp/home2/quwatoro/bakumatu3/meiji2.html
明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、
口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソ
ーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を
生やされた。明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。

176本来大室ヒロヒトは1945に死刑にすべき:03/02/09 19:26
大室?何それ。不敬罪で死刑になったの?
>>
天皇は不敬罪になりません。なにしろマッカーサに泣きついて土下座してまで命乞いなされる
方でしたから。 藁
177172:03/02/09 19:27
>>175
いや、べつに天皇関係に限らんでもいいのよ。
【近代に出現した奇人変人について語るスレ】みたいな。
178日本@名無史さん:03/02/09 19:58
>>177
そういえば数年前、淡路島の町長選挙に後醍醐天皇の末裔とかってのが
精神病院の中から出馬して、ちょっとした話題になっていたね。
179日本@名無史さん:03/02/09 21:30
世の中、キチガイが多いんだなぁ。
まぁかりにほんものの後醍醐の末裔であったとしても、何百年以上も百姓をやってた時点でアウトだろ。
血の尊さなんて維持できるのはせいぜい三代までだよ。環境のほうが重要だね。
例えば、もしも「おれは初代市川団十郎の末裔だ!おれが正規の団十郎なんだ!」とか
言い出すやつが現れたとしても、そしてそれが真実だとしても、なんの意味もない。
たとえがちょっと乱暴かもしれんけど、似たようなもんでわ?
180174:03/02/10 03:14
>>175
乙です。早速逝ってみます。
181日本@名無史さん:03/02/10 07:16
>>179

おおせの通りです

近代の自称天皇の多くは、周囲に認知されるどころか
子供や孫にも基地外あつかいされてます
182キチガイ=ひろひと:03/02/12 16:01
いいえ、僕はキチガイではありません。何百万人もアジア人殺しましたが。 w
183武烈天皇:03/02/12 16:14
自称天皇でなくてもキチガイ天皇存在しますが?w
184日本@名無史さん:03/02/12 18:53
>182= >183
あーつまんね。
あんたキチガイよりも下劣だわ。
早く消えてね、ウジ虫くん
185183:03/02/12 19:23
>>184
ブップー
186日本@名無史さん:03/02/12 22:59
一応だな、応仁の乱の頃までは後南朝方も所々に顔を出している。
といっても主体的な立場ではなく、都合のいい時だけ担がれる御輿のような立場だが。
その後の後南朝は有耶無耶だな。

戦前のいわゆる皇国史観的な考え方でも(だからこそか?)後南朝は逆賊扱いさ。
南朝が降伏するまでは南朝正統で北朝方が逆賊なんだがね・・・。


187日本@名無史さん:03/02/14 20:33
応仁の乱の頃には後南朝は衰退しきっていた。
自天皇の頃は川上村近辺を領有出来ていたみたいだけど。
しかし、室町幕府の武将連中は罪の意識もなく後南朝の皇族方を
次々と殺せたもんだね。
普通は拘束して軟禁するんじゃないの?
それを平気で戦場で首を取り、京に晒したりしている。
楠木や和田、越智なんかの後南朝方武将ならいざしらず皇族に対して
こんな酷い仕打ちをした政権はないだろう。
恐れ多い事だよ。
188日本@名無史さん:03/02/14 20:35
(・∈・@)
189日本@名無史さん:03/02/15 02:20
>>187
だから因果応報
みんなロクな死に方してない>室町幕府の武将連中
領国保てたやつもいない
190日本@名無史さん:03/02/15 06:39
確かに室町幕府で明治期まで残った大名は数えるほどしかいないな。
島津と細川と佐竹くらい、あと上杉か?
伊達とか井伊は勤王(南朝)派だったし。
191天に二天無く地にニ朝無し:03/02/15 07:01
>187
だって後南朝って逆賊だもん、仕方がないでしょ。
皇族だろうがなんだろうが、逆賊は大逆罪で死罪が当たり前ですが
なにか?


192日本@名無史さん:03/02/15 12:48
>>191
後南朝は逆賊と言えるのかな?
元々は南北朝統一時の約束を北朝側が反故にしたのがすべての始まり。
両統から交互に天皇を出す約束だったのに。
これで怒らない方がおかしいだろう。
南朝遺臣が蜂起するのも当たり前。
193日本@名無史さん:03/02/15 12:51
後南朝
1392年(元中9‖明徳3)の南北両朝合一後に興った南朝系(大覚寺統)の朝廷。
合一の条件〈両統の迭立(てつりつ)〉を北朝側(持明院統)の後小松天皇と
これを擁する足利義満とが履行しなかったため,これに不満な旧南朝の
後亀山上皇は1410年(応永17)吉野に遷幸した。上皇はやがて帰洛したが,
上皇の吉野遷幸を機に南朝の遺臣らは大覚寺統の皇胤を奉じて南朝の再興
をはかった。これが後南朝で,その主となったのは多く後村上天皇の
皇子説成親王(上野宮)の子孫であった。しかしその勢力は微弱で,
14年(応永21)伊勢の北畠満雅が後亀山上皇の招きに応じて挙兵したこと
はあったが,28年(正長1)満雅が再度の挙兵で敗死してからはまったく
無力となり,その後の後南朝側の動きとしては,43年(嘉吉3)将軍
義勝夭逝の隙に乗じて禁裏に夜討ちをかけ神器を奪取した事件,
44年(文安1)の説成親王の子円満院宮円胤の紀州における挙兵などが
目につく程度で,ほとんど見るべきものはない。
67年の応仁の乱以後は大覚寺統の皇胤はあらわれなくなり,
後南朝は自然消滅の途をたどった。    
194日本@名無史さん:03/02/15 12:53
南北朝の動乱以後、のろいの呪縛性とか行ってられなくなってきて、
皇族も平気で殺せるようになったと思われ。
個人的には高が南朝を追い詰めた時、皆殺しにして欲しかった。
天皇制も消えたんでないかい?
195日本@名無史さん:03/02/15 14:38
>>192
それをいったら
後醍醐のアフォが
足利サイドにインチキ神器を掴ませたのが全ての始まりなんだが。
これで怒らない方がおかしいだろう。
足利幕府や北朝の人間が信用しなくなるのも当たり前。
196日本@名無史さん:03/02/15 15:58
>>195
なぜ足利ごときに本物を渡すお人好しなことを
せにゃならんのだ それをアフォというおまえがアフォ(w

南朝だって京都を回復したときに持明院統を皆殺しに
してもよかった しかし同じ皇統だからそんなむごいとは
できんと生命までは奪らんかったのだ

後南朝など適当に処遇していればおとなしくなっていたものを
約束が守られなかったがためにデモっただけのこと
ところが足利は朝敵の汚名を着せて生命を奪った
自分の交渉力のなさを糊塗するためだったのさ
197日本@名無史さん:03/02/15 16:37
この人は天皇・皇室・南朝・後崇徳院小倉宮竹内家とどういう関係があるのでしょうか。

竹内睦泰の日本文化情報局 J−CIAネットワーク
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/

竹内睦泰の古神道・後南朝ネットワーク
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/hidari.htm

後崇徳院小倉宮日記
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/gosutoku.htm

竹内睦泰の「小倉宮日記」
http://diary.cgiboy.com/d01/jcia/

【あの人は今】元代ゼミ日本史 竹内睦泰
http://www.milkcafe.net/cgi-bin/readres.cgi?bo=yozemi&vi=1044420649
198日本@名無史さん :03/02/15 16:51









                       キターーーーーーほら吹き竹内睦泰






199日本@名無史さん:03/02/15 19:12
南朝が京都奪回で北朝の天皇、皇太子、上皇を拉致したんではなっかたかな?
そして御参人は殺されたんでは?そんで北朝の王子を天皇に任命を上皇がする
んだけどいないので、叔母さんがしたんじゃないのかい?すると正式を踏んで
ないので、南朝の皇統が正式だと、それで明治天皇が南朝の大室さんで、
めでたし・めでたしと?????足利は義満の時自分の子供天皇に据えようと
したアホバカ間抜け・尊氏は朝敵アホ
200日本@名無史さん:03/02/15 19:53
>>196
そうだよな。
後南朝の皇族は北朝の皇族の命を助けている。
皆殺しにしても良かったのに、助命して自分達に帯同させている。

にも関わらず、足利幕府の武将どもは後南朝を攻めては皇族を殺しまくった。
ひどい話だよ。

幕府が南朝の皇族の扱いを間違えなければ、後南朝の悲劇は無かった。
両統での皇位交代制を反故にするのはまだしも、荘園(領地)の返還の約束も
反故にした。まったく南朝皇族を優遇しなかった。
後亀山上皇の皇孫の小倉宮は、幕府に冷遇されその晩年は餓死寸前のギリギリの
生活を強いられたそうだ。北畠を焚きつけて挙兵させたとは言え、それも幕府の
待遇の悪さからきている。
室町幕府は南朝との約束を何ひとつ守らなかった。
その上、後南朝が出来ると皇族を殺しまくった。
DQN政権である。
201日本@名無史さん:03/02/15 23:41

当時の武士階級の過半数が足利氏・北朝を支持した。それだけ
202日本@名無史さん:03/02/15 23:51
そーなんですか。良かったー勉強になります。
北朝の皇族殺してなかった(^^)
てっきり、ご先祖皇族に手を掛けたんではと
日夜、悩んで居りましたが安心して今夜から眠れます。
それにしても足利方は、皇統を捻じ曲げた上、南朝の皇子を
嗜虐するとは、不遜・不敬・私利私欲に凝り固まった鬼畜
の所業、ばかやろ〜〜〜(`0`)
203日本@名無史さん:03/02/16 05:15
そもそも当時の正統観念からしても両朝迭立なんて不自然だし一時的な糊塗策であることは見え見えで
普通に考えても長続きするわけがない。・・・・という意見もありうるが
公正かつ平和的に事態を収拾するにはやはり、むりを承知で両朝迭立か、さもなくば御神託を乞うしか
ないのも客観的事実。しかし御神託を乞うには両者ともに後ろめたすぎたわけだろう。
やはり北朝が迭立の約束を破ったのは、先に後醍醐が偽神器を渡したからで、
これは南朝に和睦の意志がないのに北のみかどをペテンにかけたということだから、
北朝がその後、迭立の約束を破ったといっても自業自得因果応報、これでフィフティーフィフティー。

もし後醍醐に徳があれば神器にしがみつかなくても神器の方が後醍醐を選んだであろう。
幕府は要するに朝廷の争いが収まってくれればよかったのだから、後醍醐が本物を渡しておれば
その「信」に北側も感服して両朝迭立が実現していた可能性が高い。
しかし実際の展開は南北ともに「交互に即位する」という平和的な選択肢は念頭から消し去ることに。
となれば理論上皇統はただひとつ。相手を皇族扱いすれば自分側のアイデンティティーを有耶無耶にしてしまう。
そのてんでは南の皇族を斬りまくった北側の武将たちが毅然としている。
北朝の皇族を皇族扱いした南朝は、度量を示したつもりだろうが貴族趣味的なスノッブにすぎない。
国家中枢の倫理の源泉たる政治的文化的「権威」が分裂しているということが
天下万民におそるべき悲劇的な災禍をもたらしてきたことにまったく配慮がない。
もし伊勢なり八幡なりの御神託を受けたとしても「南朝のドキュンはとりあえず失格」と
神様に叱られるのがオチだろう。
そして歴史的な結果として、事実、南朝は滅亡したのである。
204日本@名無史さん:03/02/16 11:27
と言うと、今の世で天皇制廃止の世論が時の権力者によって行われても、
後で時勢の流れでしかたがないと言うんですか?と言うことに繋がるような
マ、その時も南朝軍のような皇軍が立ち上がるだろうが。
事の発端は時の権力者の横暴思い上がりが天皇に成り代わりたい欲望に始まり
赤子たる本分を逸脱し・・・・皇族に手を掛ける・・・恐ろしい。
205日本@名無史さん:03/02/16 11:35
>と言うと、今の世で天皇制廃止の世論が時の権力者によって行われても、
後で時勢の流れでしかたがないと言うんですか?と言うことに繋がるような

↑ 言 う て る 意 味 が 判 ら ん
206203:03/02/16 17:04
>>204
なにをいってるのかよくわからんが?
第一に足利尊氏は天皇制廃止論者ではないし、もともと後醍醐に憧れ尊敬し恋闕之情まで抱いていた。
第二に後醍醐が平然を詐欺をおこなうような非倫理的な振るまいに及んだことが諸悪の根源だといって
いるのであって「時勢の流れだから」悪者が勝っても「しょうがない」などといっているのではない。
保身にとらわれ政治的決断のできなかった後醍醐は君主の器ではない。王者として失格。
第三に「権力者の横暴思い上がり」は後醍醐にこそあてはまる。
尊氏は後醍醐の我が儘にほとほと困ってやむなく北朝を立てたがむろんこれは歴史的に重大な天皇に対する犯罪。
しかし尊氏をそこまで追い詰めた後醍醐が皇祖皇宗の前で無罪のはずがない。
第四に「天皇に成り代わりたい欲望」など当時の武将にはない。あほか。(義満は皇統分裂の原因とは無関係)
皇統が分裂したのはむしろ後醍醐の「天皇位にしがみつきたい欲望」が原因であることは誰の目にも明らかだろ。
第五に「赤子たる本分を逸脱し」た北側の武将はけしからんと思うし「逸脱し」なかった南朝方の武将はえらい、
それは認める。だから南朝(後南朝は除く)が正統として認められているわけでしょ。それはそれでいいと思うが?
207日本@名無史さん:03/02/16 17:19
>>203
>やはり北朝が迭立の約束を破ったのは、先に後醍醐が偽神器を渡したからで、
これは南朝に和睦の意志がないのに北のみかどをペテンにかけたということだから、
北朝がその後、迭立の約束を破ったといっても自業自得因果応報、これでフィフティーフィフティー。

だって後醍醐帝こそホンモノの天皇なんだから。
足利のたてた偽物の天皇を騙すことは何ら悪いことではないんだよ。
そもそもミカドに武力で譲位を強要することからして許されないことなんだから。
‥‥と、南朝方はみんなそう思っていただろう。

>そのてんでは南の皇族を斬りまくった北側の武将たちが毅然としている。
北朝の皇族を皇族扱いした南朝は、度量を示したつもりだろうが貴族趣味的なスノッブにすぎない。

スノッブとか貴族趣味とかいうのとは違うだろ。
当時の感覚でいうなら、皇族に手をかけるというのは恐れ多いことだったわけで。
また、それをやってしまったら、今度は自分らもという最後の一線が南朝はわかっていたんだな。
で、その最後の一線を平気で乗り越えてしまった連中は、やっぱり下剋上の荒波に消えていったよ。
赤松も斯波も京極も畠山も、いや、足利将軍ですら、みんな家来に手をかけられてくたばった。
それを「悪いことだ」という資格は彼らには無いだろうさ。
実力さえあれば何をやってもいい、という見本を自分らが過去にやってしまった以上ね。
208日本@名無史さん:03/02/16 17:34
皇統の分裂は、鎌倉時代から始まって幕府に調整してもらってた。
後醍醐はわが子が後継できないのと、朱子学にはまり、セックス神まで
担ぎ出す妄想ぶり。
当時の様子をみると、武家どころか、公家連中や皇族まで後醍醐には
ホトホト困ってたらしい。
年中行事はできない、家格の秩序は目茶苦茶になる。
足利が権力を握るとホッとして大歓迎したという。
天皇専制なんて、誰も望んでなかった。
武士に秩序を保ってもらいたかったのが本音。

南朝騙して当然だし、殺しても当然だ。
天皇の赤子なんて考えは、楠正成だって持ってないよw。
土地の所有権認知のため行動しただけ。
事実と、後世の伝説を混乱してないか。
赤子論と南朝正当論は江戸中期の朱子学の空理空論だよ。
209203:03/02/16 17:44
>>207
血みどろのアナーキーな社会になってしまったのはその通りだが、その結果、
義満が一時的に、家康が最終的に、社会に安定をもたらしたんだろ。
血みどろのアナーキーな方法で何百年もかけて解決する以外の道は
後醍醐自身が閉ざしてしまったんじゃないか。他にどうしろというんだ?
210日本@名無史さん:03/02/16 17:58
こっちにいけ↓
「南朝派or北朝派」
http://academy.2ch.net/test/read.cgi/history/1039916153/l50
211日本@名無史さん:03/02/16 19:34
義満は、皇后に己の子を産ませ天皇にした。天皇は怒り皇后をミネ打ちしている。
義満死後、天皇系譜が遡り訂正されたようにある本に書いてあった。
足利は皇統を盗もうとした。
212日本@名無史さん:03/02/16 19:38
>>211
電波はどっか逝ってください
213日本@名無史さん:03/02/16 19:47
大日本国は神国也。天皇が祭主として神を奉り日継ぎして国体を
護っている。異朝には万世一系の王はない。その天皇に対して、
恐れ多くも弓引くとは許すまじ、それを取り繕う詭弁を弄し、正当化
しようとは醜き所業じゃ!!
214sage:03/02/16 19:54
>>211
それは電波説。
これ↓を見れ。昔はまだまともな博識な人たちが2chにもたくさんいた。

南朝について。
http://mentai.2ch.net/history/kako/972/972695223.html

>>213
北のみかども天皇であることにかわりないだろ。
明治天皇が「北朝の天皇も祭祀は歴代と同様」と勅裁したぞ。
つーかお前はブサヨ自演の煽りだろ。
215日本@名無史さん:03/02/16 22:53
天皇陛下万歳!さて、皇居の門前で朝敵を睨みしは、楠木正成、楠木正成が
土地目当て?わらわせといてんか、それなら足利尊氏に、誘われたとき、
いっとるやろ。現天皇陛下も朝敵には、南朝の武将のような忠義の獅子を
頼られとる。何を言おうが皇統に手を掛ける足利尊氏のような朝敵がでん
ようにせんとあかん。ゆうとるんじゃ(^^)
216日本@名無史さん:03/02/16 22:56
ごちゃごちゃ言わんと、天皇・皇族に手を掛けるな(^^)
217日本@名無史さん:03/02/16 23:05
楠正成は、河内の悪党として、鎌倉幕府や天皇に認知されなかった。
鎌倉末期には、土地政策の失政でたくさん悪党が出たわけだ。
それを、異端かつ異形の帝王後醍醐が認知してくれるわけだ。
それで、各地の悪党が後醍醐についた。
これが本質。

後醍醐が負けたら、楠正成は全てを失う。
一所懸命。武士としては普通です。
忠義とか尊王と言う観念は、まだ浸透してなかったはず。
この時代の武士道は、自分の家の所領安堵のために命をかけること。
忠義の幻は、江戸時代中期の朱子学の産物なのだが・・・。
218日本@名無史さん:03/02/17 01:28
>>217
戦後になってから流行した唯物史観そのまんまだな。
間違いとは思わんけど、それで全部割り切れるほど単純でもないだろう。
確かに土地さえ保証されれば南朝でも北朝でもどっちでもいい、という武士が多かったのは事実だろうが
楠は違うし、新田にしても菊池にしても、降伏して領地を保証してもらえる手もあったはずだが、
それをしていない。
あなたの説ではこのへんが説明しきれないよ。
219214:03/02/17 02:58
214に補足

南朝について。
http://mentai.2ch.net/history/kako/972/972695223.html

この過去ログ↑は糞スレとして始ったが136から「北朝=義満血統説」が事実かトンデモかで論争がはじまり
185あたりまで続いた(←よむのはココだけでいいと思う)。その後一気に糞スレ化するも、284から
源氏物語を例に皇族の密通をネタに論争が再燃。しかしだらだら続くばかりで今ひとつ生産的にならず
735で終結。その後また糞スレになって1000を越えた。パート2もできたが駄スレのまま短い命ですぐ沈没。
220日本@名無史さん:03/02/17 17:23
>>217
楠は北条の命令に従って紀伊の湯浅を討伐したりしているはず。
幕府に認知されていなかったということはないよ。
悪党的な行為に手を染めていたのは事実だろうが、
遅々として進まない裁判に業をにやして実力で土地を奪ってやろうという行為は
「悪党」でなくてもやっていること。
221つーかね:03/02/17 18:08
後南朝の皇族達はだね、逃げ回ったりだの野戦だのとしてる内にだ。
そこいらの悪党武士と変わり無いような人格になってしまってだな。
貴種としての有り難味が無くなってしまっていたらしい。

年柄年中鎧兜着て走りまわっていれば当たり前だよね。
なんで彼等が皇族というような意識が討伐軍の武将達には希薄だったらしい。
222日本@名無史さん:03/02/17 19:31
とこなんとか、屁理屈鯉手、矢ってまった事正当化して自分ほ
慰めるか? 「おいちゃん、其れを言っちゃ〜、おしまいよ〜
あ〜やだやだ、人情の欠片も在ったもんじゃねーや」
223えーと確認だけど:03/02/17 20:38
屁理屈こいてるって後南朝のことをいってんだよね?

せっかく南北合一が実現し天下が和合して平和が訪れたというのに
私利私欲(自派の人間を皇位につけろなんて僭上も甚だしい)から
謀反を起こしたなんてトンでもない外道どもだもんね。

自派の人間を皇位につけろだなんてまさしく私利私欲から皇統をみだす行為だよね。
非常に恐れ多い文字通りの大逆無道な行為だよ、後南朝の謀反人どもが磔にされたのも当然な話しですよね。
224禿同>223:03/02/17 21:04
マジで後南朝はDQN
皇位を寄越さないから挙兵するとは悪逆非道だぜ
殺されて当然です

神聖不可侵な玉座を一体なんだと思ってるんだろ?
自分達の所有物とでも思っていたのか
ホントに恐れ多いふざけた考えの連中だ
225後南朝信者さんの話しは置いといて:03/02/17 23:17
実際問題として、南朝方は両統迭立が履行されるなんてホントに信じてたのかな?
ほぼ死に体でジリ貧が目に見えていたのにそんなウマーな話しがあるわけないじゃんね。
226日本@名無史さん:03/02/17 23:26
>>223あのー、222ですが、屁理屈鯉手は北朝のことなんですが。
227日本@名無史さん:03/02/17 23:33
屁理屈だろうがなんだろうが理屈があるだけ北朝がまし。
だから曲がりなりにも現在まで日本国は続いてきたんだろうが。

このスレで南朝を擁護してるアホは筋も理屈もへったくれもない。
人情がらみの浪花節で世の中丸く治まるんなら
政治も警察も裁判も軍隊も政治学も法律もいらない。
権威=天皇=王様すらもいらないだろう。世の中そうはできてないんだよ。
南朝の後亀山天皇が和睦に応じて神器と一緒に入京する訳ですが
北朝の後小松天皇は新たに南朝の皇統をうけて即位しなおすとかいうことはしないで
神器を奉戴する儀式のみを行います。

又、北朝側は後亀山天皇に院号を認める訳ですが上皇としての院号ではなく
あくまでも即位はしていないけど特例として院号を許可するという形式になってます。

#ちなみにこれは後醍醐天皇が返り咲いた時に光厳天皇の即位を否定し
#院号を許した時と同じ形式だったりします。

従って北朝側の認識は北朝が正統であり南朝側の皇統は認めないというのが公式見解でした
そしてこの皇室の公式見解に基く皇統譜が江戸時代まで一貫して有効とされて来ました。

所が明治になってから急に南朝正統に皇統譜が変更されてしまいました。
変更された理由としては政治的な思惑等色々あるんでしょうが・・・。
南朝正統の新しい皇統譜の承認を求められた明治天皇はご先祖様の事を考えると
内心忸怩たるものがあったようで不満の意を漏らしたと伝えられています。
229日本@名無史さん:03/02/18 01:58
バカも休み休み言え。
明治維新のイデオロギーの基になった水戸学が南朝正統論だ。
徳川時代にも水戸光圀が楠木正成を顕彰してるし
林羅山、山崎闇斎、頼山陽らが南朝正統論を展開している。
光格天皇に拝謁した高山彦九郎や
歴代天皇陵を調査した蒲生君平も南朝正統論者だ。
230日本@名無史さん:03/02/18 02:33
>>229
そんなことは基本中の基本だからこのスレの北朝派も知ってるだろうよ
231日本@名無史さん:03/02/18 04:13
96後醍醐 97光厳 98後醍醐 99光明 100崇光 101後村上 102後光厳
以下、後円融、後小松‥‥ってことですね。

ついでに
10義材 11義高(澄) 12義尹(稙) 13義晴
以下義藤(輝)、義栄、義昭ですね。
232日本@名無史さん:03/02/18 05:33
>>229
つまり、理性では北朝の流れである現皇統を敬いつつも、
心では滅び去った南朝を限りなく愛惜・追慕する。
これが日本臣民が伝統的にとってきた、あたりまえの態度なわけです。
それを「矛盾してる!」だのとウダウタ言い出すから面倒になる。
別にいいじゃんよ、矛盾してたって。
233後南朝信者さんの話しは置いといて:03/02/18 10:57
南朝正統の根拠として神器の所在を根拠にされる方がいますが
実は神器が無くても即位(皇位継承)できるという事になってます。

例えば後鳥羽天皇の事例があります。
源平争乱時に平家一門が西国へ逃れるときに安徳天皇と一緒に神器を持ち出します。
その間に後鳥羽天皇が後白河法皇の院宣によって即位するわけです。
後鳥羽天皇は神器を持たずに即位するわけですが偽帝という訳ではなく
正統な天皇として認定されています。
なので必ずしも神器が必須条件ではないわけです。
「後鳥羽天皇は神器を持っていなかったから偽帝」とはならないんですから
北朝系天皇にも同じ事がいえるわけです。

>>231
細かい代数はともかくとして光厳天皇の即位と後醍醐天皇の復位そして尊氏による北朝天皇〜というのが
一番納得できる形ではないかと思います。

>>232
釣師さんですか?「日本臣民」だなんてネタですよね?
234日本@名無史さん:03/02/18 11:33
自費出版の本で後南朝の研究とかいう本を図書館で見つけたんだ
真面目な研究書かと思ってパラパラめくったら
目次で萎えた、最終章−熊沢家の系譜なんて書いてあんの・・・。
235日本@名無史さん:03/02/18 12:40
安徳天皇の死は寿永四年三月,後鳥羽の即位は,寿永二年八月.
この間,二人の天皇がいたことになるが,愚管抄も神皇正統記も天皇の在位年数を
寿永二年のところで区切ってるね.それが当時の考え方だったのだろう.
236日本@名無史さん:03/02/18 12:53
>>187
皇族だから殺さないなんて決まりあったの?奴らがどうなろうとどうでもいいじゃん。
237日本@名無史さん:03/02/18 13:18
三種の神器ってどうなってるの?
確か1つは安徳天皇と一緒に沈んだんだよね。 この時点で二種の神器になったのでしょうか?
238日本@名無史さん:03/02/18 14:53
>>237
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????????????????????????
??????????????????????????????????
239たしか>237:03/02/18 15:07
海に沈んだのは儀式用のレプリカでモノホンは伊勢神宮に秘蔵されてるのでセーフとかいう事になってるらしい。
真偽の程は藪の中(海の中?)です。

>235
そうです、神器の所在とは無関係に治天の君(法皇/上皇)の院宣で天皇の廃立が
執り行われる場合がありうるという事になっています。
240たしか>237:03/02/18 15:16
日本という国は一天万乗の君が都の玉座から海内を総覧するという事になっております。
その神聖なる玉座が空位であるという事は一時たりとも許されません。
天子が不在という事は日本が神国たる要件から外れる事になります。

しかる後醍醐天皇が天皇たる職責を放擲し都から出ていってしまったので玉座が空位となり政治的な混乱が生じました。
その混乱を収拾するために光厳上皇は仕方なく院宣により北朝天皇の即位させたのです。
北朝天皇即位のプロセスはなんら違法なものではなく
当時の慣習に適合した正当な手順で行われています。
241日本@名無史さん:03/02/18 15:17
>>233
でも後鳥羽は「剣なくして即位したみかど」といわれるのを
すごく気に病んでいて、武徳(=剣が象徴する徳)が十分であることを
示すため承久の乱を起こしたという一面もある。
露骨に偽帝ということにはならないが、かといって
神器なしでまったくオッケー、ということでもないでしょう。

>>231
南北とわず即位順に代数にかぞえてあげたらいいじゃん。かわいそうに。
いや、かわいそうとかそういう問題じゃないけど、公平でしょ。

>>234
後南朝の研究には電波まじりのものが多い。
第一に資料が少なくてどうしても想像が混ざってしまうのと、
第二に後南朝に熱意をもつ段階ですでに理性がある程度欠けている可能性。

>>235
実は尊氏が光厳を擁立した時も「安徳/後鳥羽」の前例が念頭にあったという説もある。
源平時代も万が一平家が盛りかえしていたら「東西朝時代」になっていたはず。

>>236
キミが個人的にどう思っているかなんてまったく関係ない。当時の人がどう考えていたかが問題。
242日本@名無史さん:03/02/18 15:19
>>237
本物は、鏡は伊勢神宮、剣は熱田神宮。天皇がもっているのは玉以外はレプリカ。
鏡も剣も平安時代に内裏の火災で形を失うほど破損してしまったので
鏡は日前神宮御神鏡、剣は百済王宝剣をそれぞれ代理品にしていた。
安徳天皇と一緒に沈んだのはその剣と玉だけど海女に探させて玉だけは取り戻した。
やむなく剣は宮中の適当な剣で代用、後に1210年に伊勢神宮の宝剣を譲ってもらって
代用品とした。
1443年の禁闕の変で玉は南朝が後花園天皇殺害と神器強奪を企てたが
剣は逃げる途中で紛失。南朝方は比叡山に立てこもったものの敗北。
それでも南朝方は玉だけの奪取に成功して逃走。
このどさくさで紛失していた剣はこの後しばらくして清水寺で発見された。
1457年、赤松家の残党がお家再興の見返りに神器を奪取してくるという約束のもと
偽って南朝に降伏。隙をみて一ノ宮(自天王)と二ノ宮(忠義王)という
小倉宮系の兄弟を殺害。その上で一旦は失敗するものの玉を奪取してきた。
後南朝はこの段階で滅亡したのであって、この先の話は電波が多い。

しかしおそらく玉は安徳天皇とともに沈んだままなのだろう。
鏡と剣は両神宮に本物があるので代用品が失われてもショックは大きくない。
玉が失われたのはスキャンダルだから、“海女に探させて玉だけ”は取り戻した
ということにしたのだろう。
243日本@名無史さん:03/02/18 17:14
後南朝の時代になると南朝方の皇族といっても北朝方からみれば何代も前に分かれたものすごく遠い親戚な訳で血縁関係は無茶苦茶希薄です。
なので北朝方には南朝方に対する同族意識が無かったともいわれています。

皆さんが自分の身に置き換えてみればわかると思いますが・・・
例えばあったこともない遠い親戚(お互いの曽祖父が従兄弟同士とかのレベル)が
いきなり「親戚だから助けて」とかいっていたらどう思いますか?
244日本@名無史さん:03/02/18 17:55
>>233
>釣師さんですか?「日本臣民」だなんてネタですよね?

なんで?釣りでもネタでもないよ。
南朝を追慕してやまない人には、古来「臣民」という意識が強い人が多かったし
勤王意識=南朝への忠誠、といった具合になっていたと思うからそういう言葉を使ったまで。
また、そのことに「いまの天皇は北朝の流れなのに矛盾だ」とか突っ込みいれても仕方ないだろ。
少なくとも昔の人はそのことに何の矛盾も感じてはいなかったわけだし、
戦後民主主義をどっぷり刷り込まれた我々とは思考形態が違っていて当然。
バカにするのは簡単だけど、いまの我々だって、後の世の笑いもんになっていないとは誰も言えんだろ。
245日本@名無史さん:03/02/18 19:16
途、言う事で皆さん天皇・皇族が大好きだと言う事が解りました。
次回、皇統の危機の時来たらば、皇居楠木正成像に集合しましょう。
>筋も理屈もへったくれも無い、人間ヤマシイことがあると異常に
剥きになります。スジで言えば、両統送立の約定が反故にされた時点で
南北朝帝、2党存在している状態となってしまった。双方から見れば
相手わ、朝敵!!
246234:03/02/18 19:28
>>241
はぁ〜、やはりデムパさんが多いんですね。
>>243-244とか読んでそれがよくわかりました。
247日本@名無史さん:03/02/18 19:44
はっきり言って天皇とか三種の神器なんて中身はカスみたいなものなんだよ。
ただ、存在してれば(もしくはしてる事になってれば)良いだけのものであって、
中身が北朝だろうと南朝だろうと、どこの馬の骨だろうと、そんな事はどうでもいい。
三種の神器も本物だろうと偽物だろうと実は存在してなかろうと、んな事はどうでも良い。

このスレの一部の興奮してる人は本気で南朝がどうとか、
今の天皇の正当性がどうとか、
三種の神器がホンモノかニセモノかなんて事を問題にしてるのか?
本当に現代人か? バカバカしくて口もきけないよ。
248日本@名無史さん:03/02/18 20:38
>>247
現代の問題として騒いでんのは1人しかいないじゃん。(あなたも含めれば2人?)

当時の人間にとってどう考えられたかってことが歴史的な問題。
249235:03/02/18 21:42
>>239
いや,後鳥羽の即位の件は,やはり同時代人も「後代乱逆之基」と問題視して
いたでしょうね.「神器抜きで践祚とは世も末だねー」ってところでしょうか.

で,ここらあたりは,神皇正統記の説明もかなり歯切れ悪いですよ.
神器抜き即位で北朝を偽主といいつつ,後鳥羽の即位は正当化しようというわけですから,
伊勢の鏡と熱田の剣の両種の正体が残っているってことだけじゃ説得力に欠けるとみたのか
「法皇は国の本主にて」などという北畠にとってはかなり不本意な理由づけをつけたしたり.
250日本@名無史さん:03/02/19 03:19
>>247
実はカスだが、存在することに意義がある。
そう言いたいのか?でも、それじゃ論理的に破綻しているだろ。
カスなら存在する意味なんか無いじゃん、と突っ込まれたらどうすんの?
「現代人」なら、もう少し論理的にね。おバカさん。
251日本@名無史さん:03/02/19 04:31
南北朝だからシロかクロかになって思想的緊張感が生まれるけど
これが三朝鼎立とか四朝並立とか五朝分立になったら
評価も複雑化して単純に正統と偽帝という二極分解にはならなかったろうな。
252日本@名無史さん:03/02/19 08:21
>>251
明から日本国王の冊封をうけた、九州の懐良親王政権は後南朝系政権と言う事になっているけど
厳密には南朝から分裂した第三番目の天皇家って見方もできるかも。
それゆえに足利義満が「日本国王」の地位に固執したわけで・・・
253転載くん:03/02/19 09:25
39 名前:世界@名無史さん :03/02/19 09:11
>38
南朝の後胤として、明治以降でも16人の僭称天皇が存在した時期もあったし
自称天皇(皇帝)になるのは難しくはないだろうな。
ただ人に認められるかといえばまた別の話だが。
254251の続き:03/02/19 09:43
三朝鼎立とか四朝並立だとパワーバランスが妙に安定する場合がある。

再統合した場合に、相互に同格の家臣が複数生まれるわけだから統一天皇の側から見ても
旧偽皇室の家柄がへんに目立ったりせず扱いに苦慮しないですむ。
降伏した側からしても降伏組で連帯してるから結局最低限の権利は政治的影響力を行使しやすい。
それらの判断がはたらく結果、複数が連帯して降伏、臣籍降下して一つだけを奉戴する形で再統一できる。
255251の続き:03/02/19 09:47
三朝鼎立とか四朝並立だと三国志の魏、呉、蜀みたいに
あの系統はこのてんが良かったけどここが悪かったという話がでて
趣味や、より好みで評価が複雑化する。
100%正統か100%逆賊かという二者択一にならない。
そうすると狂信的なイデオロギー化もおこらず泥沼になることもなかったろう。
>>229
はぁ?そりゃ民間にはそういう主張をする人達もいたでしょうが
#いつの時代でも異説は付き物です。
皇統譜を管理しているのは朝廷な訳です、その朝廷が北朝を正統とする皇統譜を江戸時代までは採用していた訳ですから
江戸時代までは北朝正統が常識と理解するのが当然でしょ?
皇室の皇統譜を無視してどうするんですか?

>信者さん達
ここはあなたの思いこみを垂れ流すデンパ板ではないんですから
もう少し論理的な話しをお願いしますです。
257日本@名無史さん:03/02/19 17:27
後小松天皇と後亀山天皇って皇統譜上は即位年ってかぶってるの?
それとも南朝が帰順した時点で後小松天皇即位とかなんですか?
だれか情報キボンヌ。
258 ◆ANDOozB1sE :03/02/19 17:51
確か、後亀山院に太上天皇号を贈るときの議論では
「前例はないが特別に贈る」
ってな感じだった筈なので、江戸時代までの皇統譜では後亀山院は載ってないのでは?
それとも「今の」皇統譜なんだったら、おっしゃるとおりでしょ?
259247:03/02/19 18:10
>>250
お馬鹿さんはあんただよ。天皇制とか三種の神器とか
中身はカスでも存在することに意義があるものは
バカバカしいようだが世の中、現実にあるんだよ。
破綻というか矛盾した理屈なのは事実だが、
人間社会には現実にそういう所が少なからずあるんだって。
あんた、ガキか?

それともあんた三種の神器や天皇の血統だの自体に実質的な意味とか効力があると思ってるのか?
260日本@名無史さん:03/02/19 18:12
>>247 まあまあカッカするにゃ。マターリマターリ
261日本@名無史さん:03/02/19 18:13
>>250はサヨかウヨかわからん。
たぶん、サヨだろうけど。
262日本@名無史さん:03/02/19 18:24
しかし、江戸時代は天皇なんて、どうでも良いような存在で放置されてたのに、
明治政府が天皇への尊崇をダシに新政権を立てると、
逆に天皇制が研究されて「南朝正当論」だの「今上天皇は逆賊の子孫」だの
言われて批判する奴が出てくるのは皮肉な話しだよね。
263日本@名無史さん:03/02/19 18:27
何で南朝正当論が弾圧されなかったかというと、
単に明治天皇が肯定したからじゃないの?
264日本@名無史さん:03/02/19 20:18
>>263
違うよ。
徳川家が南朝に仕えた新田氏の一族だと主張したから。
明治政府すら成立当初は後南朝の存在について否定的だったし。
明治天皇が1911年に南朝正閏論を認めた背景には

@「大逆事件」の刑死者に対する「後ろめたさ」
A徳川家一門が貴族院議員として次々と復権していた
B明治天皇は徳川家康の11代目の子孫にあたる

という点があげられる。
265日本@名無史さん:03/02/19 21:34
やたらと後南朝をマンセーしてる人達がいるけどさ今の皇室についてはどう思ってんだろ?
南朝正統論を突き詰めると今の皇室は北朝系な訳だから偽朝という事になるんだが・・・・。

その辺はキチンと考えを整理しているのでしょうか?

熊沢天皇ではないが後南朝の子孫を標榜して皇位を要求しる一派がいたら
その旗下にはせ参じるんだろうか?
266日本@名無史さん:03/02/19 21:51
吉野地方、特に川上とかにはいわゆる南朝/後南朝遺臣の末裔を称する人達が結構居住しているわけですが
殆どが噴飯物だとか聞きましたけどどうなんでしょ?
267日本@名無史さん:03/02/19 22:34
>>264
B明治天皇は徳川家康の11代目の子孫にあたる

ソースキーボーン

もともと明治維新は徳川家を否定した革命的要素があったのに明治天皇が家康から
11代目とはどう言う事か???(徳川本家は7代目で断絶しているから明治天皇は尾張?紀州?水戸(高松松平??
どこから11代目???

昔、大室スレで明治天皇は高松松平頼重の末裔で明治32年に明治天皇が作らした家系図には
初代が徳川家康の死去年というのがあった????


268日本@名無史さん:03/02/19 22:42
>>266
最近になって今までは門外不出だった資料を見せてくれるようになったそうです。
269264:03/02/19 22:58
>>267
紀州だよ。ついでに徳川家16代当主の徳川家達も紀州の系統じゃ。

家康―頼宣―池田光仲室―仲澄―仲央―仲庸―勧修寺経逸室―勧修寺靖子―仁孝天皇―孝明天皇―明治天皇
270日本@名無史さん:03/02/19 23:45
南朝正統論は江戸時代の講談などを通じて
ちょっと教養ある庶民層には割と広まっていたんではないかな。
むろん政治的イデオロギーとは無関係に、たとえば中国で三国志演技の講談を通じて
庶民に蜀=善玉、魏=悪玉という構図が定着したように。
水戸学はストレートに政治的イデオロギーだけどそういう江戸庶民文化という背景と
も連動しているかも知れないね。調べたら面白そう。
大日本史の編纂グループも初め南朝を正統にしてることを気に病んで、朝廷に公認して
もらうのを憚っていたのが、朝廷の方から「苦しゅうない」と御墨付きもらった経緯がある。
その上、明治になったら維新のイデオロギーとしての水戸学に配慮しないと
維新政府のアイデンティティーにもかかわるわけで、自身の出自云々以前に
南朝を公式に正統と認めざるをえないのは選択の余地も疑問の余地もなかったと思われ。
ただし明治天皇の勅裁というのはきわめて微妙であって、北朝を偽帝としたわけではなく
歴代の数字の中には数えないというだけで「祭祀はこれまでどおり」つまり
事実上の両朝並立を認めたかっこうになっている。これは単純な南朝正統論(=北朝僭主説)
とは到底いえない。むしろ「両朝容認論」というべきだろう。
271日本@名無史さん:03/02/19 23:53
太平記読みか。
272日本@名無史さん:03/02/20 01:43
>尊氏による北朝天皇〜というのが
そうするとね、崇光と後光厳の間があいちゃうわけよ。で、実際正平の一統で
北朝は廃され、後村上一人だったんだから231のように書いたわけ。

>即位順に代数にかぞえてあげたらいいじゃん
そうしたいのは山々なんだけど、年表つくろうとするとね、
つまり、いつからいつまでは誰々って確定しようとすると
ああするように他無いんだな。

>「安徳/後鳥羽」の前例が念頭にあったという説もある。
説ってゆうか、実際光厳の践祚は、後白河院宣で践祚した
後鳥羽の先例にならって、後伏見の詔で行われた。
後に光明も後鳥羽・光厳の例を先例として、光厳の院宣で践祚する。

>源平時代も万が一平家が盛りかえしていたら「東西朝時代」になっていたはず。
年号上はなってるね。3年号並立の時もあった。
南北朝時代もそうだった。
273日本@名無史さん:03/02/20 12:51
まぁ結局の所が万世一系に固執するからゴタゴタするんでしょうな。
当時の実情に即して「南北朝時代は二系になりました」って事でいいと思うんだが・・。
つーか、両統迭立の時点で二系か?
274あぼーん:あぼーん
あぼーん
275日本@名無史さん:03/02/21 19:31
おや、とうとうネタ切れか?良スレにつきage
276日本@名無史さん:03/02/21 21:21
誰か美作後南朝の話ししてくれ
植月御所とかいうの
277日本@名無史さん:03/02/21 22:38
後醍醐天皇は大覚寺統の正嫡という訳ではなくて位置付け的には只の中継ぎでした。
両統迭立の関係で大覚寺統の即位する順番がきた時にたまたま条件的に他に即位できる人材がいなかったために
順番を抜かされる事を恐れた大覚寺統側が本来傍系であった後醍醐天皇を擁立したのでした。

そして中継ぎ的立場に不満をもった後醍醐天皇が自ら主導権を握ろうとして倒幕運動に傾斜していったというのが
有力な説となっています。
そして大覚寺等の嫡流ではなく自分の子孫に皇位を継承させたかったという、かなり生臭い動機が存在したとされています。

278まぁ:03/02/21 22:40
人間宣言もあった事だし、今更万世一系に拘る事もないかと・・・・
でも寝た子をおこすようなもんだから皇統譜は現状維持なんだろうな。
279日本@名無史さん:03/02/22 03:40
>>277
後二条系と後醍醐系だね。邦良・康仁は皇太子まではなったんだけどね。
北朝の方も直仁は皇太弟までいったし。崇光流と後光厳流は迭立しちゃったしね。
280日本@名無史さん:03/02/22 13:19
自称・後醍醐天皇の子孫にして後崇徳院小倉宮を名乗る元代ゼミレイプ講師竹内睦泰。
こいつの講演会が3月16日(日)に池袋の東京芸術劇場・大会議室で行われるそうな。
どうせガラガラだろうから、後南朝についてマンツーマンで講釈していただきましょう!

http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/
281日本@名無史さん:03/02/22 17:10
http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/gosutoku.htm

絵に描いたような典型的電波
282実は:03/02/22 19:08
両統迭立を破ったのは南朝側(後醍醐天皇)でした。

大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子は両統迭立の原則にしたがい
持明院統から後の光厳天皇が指名されていました。
後醍醐天皇の最初のクーデタが失敗し強制的に退位させられて皇太子である光厳天皇が即位します。
そして光厳天皇の皇太子には両統迭立により大覚寺統嫡流(非後醍醐系)の康仁親王が指名されます。

ところが後醍醐天皇が返り咲きを果たすと自分の退位と光厳天皇の即位は無かった事として無効を宣言します。
退位して島流しにあっていましたが、「あれはたまたま行幸していただけ」なんだそうです。
そして宮中の席次やなにかを全て自分の行幸(退位)前にリセットするという暴挙に出ます。

光厳天皇は天皇から後醍醐天皇の皇太子という立場に逆戻りするかと思いきや
「天皇としては即位してないけど特例で上皇待遇」と言う風に祭り上げられてしまいます。
そして後醍醐天皇は持明院統正嫡の康仁親王を皇太子するでもなく
大覚寺等から新たに皇太子を指名するでもなく
持明院統傍流でしかない自分の息子の恒良親王を皇太子に指名してしまいます。

このように両統迭立の原則を破ったのは大覚寺統の南朝側であり、
これに対して持明院統である北朝側が反発するのは当然の成り行きだったりします。

しかも傍流による大覚寺統の乗っ取りというおまけ付きですので
これでは混乱が生じるのも無理はありません。
両統迭立を破ったのは南朝側(後醍醐天皇)でした。

大覚寺統の後醍醐天皇の皇太子は両統迭立の原則にしたがい
持明院統から後の光厳天皇が指名されていました。
後醍醐天皇の最初のクーデタが失敗し強制的に退位させられて皇太子である光厳天皇が即位します。
そして光厳天皇の皇太子には両統迭立により大覚寺統嫡流(非後醍醐系)の康仁親王が指名されます。

ところが後醍醐天皇が返り咲きを果たすと自分の退位と光厳天皇の即位は無かった事として無効を宣言します。
退位して島流しにあっていましたが、「あれはたまたま行幸していただけ」なんだそうです。
そして宮中の席次やなにかを全て自分の行幸(退位)前にリセットするという暴挙に出ます。

光厳天皇は天皇から後醍醐天皇の皇太子という立場に逆戻りするかと思いきや
「天皇としては即位してないけど特例で上皇待遇」と言う風に祭り上げられてしまいます。
そして後醍醐天皇は大覚寺統正嫡の康仁親王を皇太子するでもなく
持明院統から新たに皇太子を指名するでもなく
大覚寺統傍流でしかない自分の息子の恒良親王を皇太子に指名してしまいます。

このように両統迭立の原則を破ったのは大覚寺統の南朝側であり、
これに対して持明院統である北朝側が反発するのは当然の成り行きだったりします。

しかも傍流による大覚寺統の乗っ取りというおまけ付きですので
これでは混乱が生じるのも無理はありません。
284日本@名無史さん:03/02/22 23:19
例えば皇居前に楠木正成像などがあるわけですが正成にしてみれば実に心外な話しだと思われ・・・。
結局の所、正成達と敵対していた北朝側に奉られても困るって所でしょう。

285日本@名無史さん:03/02/22 23:40
後南朝の自称皇族が殺された件で色々いっている香具師がいるが

一応さぁ合戦で自分の配下の兵達が自分の為に戦って死んでいったのに
自分だけは「皇族だから助命しる」なんて話しは如何なものかと思うけどどうよ?
やっぱし、兵と一緒に死なないといかんでしょ。
286日本@名無史さん:03/02/23 00:09
>>285
漏れもそう思う。

持明院統〜北朝の家風としては先例主義で新しいことは好まず、万事幕府まかせなとこがあるから
いってみれば象徴天皇の先駆けみたいなところがあり、いざという時の責任は取らずにすむか軽くてすむ。
しかし大覚寺統〜南朝は天皇の御意志が最優先みたいな家風があったから、いざという時に責任を
取らざるを得ないのは当然の空気としてあっただろう。
287日本@名無史さん:03/02/23 00:16
最近の見方では後醍醐天皇が私利私欲から自分の子孫のみに皇位を伝えようとして皇統の簒奪をはかった事が
南北朝の騒乱の原因の一つというのが有力ざんす。
288日本@名無史さん:03/02/23 15:02
>>286
後嵯峨天皇の後、「当時の通例からいって」後深草(=持明院統の祖)が即位すべきであった。
しかし後嵯峨「天皇自身の意志」は亀山(=大覚寺統の祖)に譲りたいというものであった。
この出発点における差異が後々の両家の家風の起源と思われる。
289たそがれ男爵:03/02/23 15:34
>>269
紀州だよ。ついでに徳川家16代当主の徳川家達も紀州の系統じゃ。

家達は、田安家の出身だよ。
290はっきりとはしないんだけど:03/02/23 23:57
記録によると南朝/後南朝の本拠地の吉野地方では南朝政権に対する一揆が何度があったらしい。
常に戦時体制で戦備に力を注いでいたので苛斂誅求がひどかったのではないかといわれている。

地元住民からは恨まれていたらしいぜ。
291日本@名無史さん:03/02/24 00:33
幕末の十津川郷士について
彼らは南朝のシンパだよね
どこでどうねじれてああなったの?
292日本@名無史さん:03/02/24 02:08
徳川を否定して維新(革命?)おこした明治天皇が徳川家康の末裔に続く家系なわけないだろ
293吉川弘文館の本の受け売り:03/02/24 03:10
後醍醐天皇がクーデタに失敗して六波羅方につかまるわけですがその時に興味深いエピソードがあります。
六波羅方の武士は誰も天皇に拝謁したものがなく捕まえた天皇/親王が本物であるかどうか判断できずに困ったという話しです。

結局親幕派の公卿に判断してもらって確定しましたが
まだまだ武士にとっては朝廷の敷居は高かったようです。
294日本@名無史さん:03/02/24 04:38
↑飯倉そのまま(プッ
295日本@名無史さん:03/02/24 20:10
>294
だから受け売りって書いてあるじゃん、まぬけ(ブ
296日本@名無史さん:03/03/02 12:29
age
297日本@名無史さん:03/03/03 02:05
美作後南朝って何?
知ってる人教えて。
あまり聞いた事ないよ。
298日本@名無史さん:03/03/03 02:43
美作国に逃れた親王が起こした南朝
299日本@名無史さん:03/03/05 00:20
なんて名前の親王だっけ?
やっぱり大覚寺統員かな?
300日本@名無史さん:03/03/05 00:30
皆様のご好意に甘えて300。
301日本@名無史さん:03/03/05 12:28
大坂の陣のとき竹原八郎の子孫が大坂方に呼応して蜂起したらしい。
302日本@名無史さん:03/03/05 12:43
>B明治天皇は徳川家康の11代目の子孫にあたる
おいおいホントかよ。明正にガキいたっけ。
303日本@名無史さん:03/03/05 13:05
304日本@名無史さん:03/03/06 01:10
豊臣家臣の真野頼包って後醍醐源氏だそうだぞ
305日本@名無史さん:03/03/06 02:28
徳川家康ー督姫ー池田忠雄ー光仲ー仲澄ー仲央ー仲庸ー勧修寺経逸室ー藤原婧子ー仁孝天皇ー孝明天皇ー明治天皇
306日本@名無史さん:03/03/06 08:01
南朝も後南朝もすべてDQNということでよろしく
307子供の頃は・・:03/03/06 08:52
単純に後醍醐天皇って立派な人だなって思ってた。
でも大人になってわかりました。
只の自己中のDQNだってね。
マジでサイテーですね。
308平泉澄:03/03/15 14:49
>>306>>307
おまへらは非國民ぢゃ
309日本@名無史さん:03/03/16 03:28
>308
陛下デツカ?
310日本@名無史さん:03/03/22 00:06
後醍醐天皇の子孫で、女系でもいいので、誰かおしえてくだしゃい
311日本@名無史さん:03/03/23 12:47
後難聴
312日本@名無史さん:03/03/24 23:55
南朝正統論
313日本@名無史さん:03/03/27 19:43
南朝も後南朝も北朝もすべてDQNということでよろしく
314日本@名無史さん:03/03/27 21:38
天皇も皇族もウヨもすべてDQNということでよろしく
315日本@名無史さん:03/03/27 23:48
信者キモイからな。。
316日本@名無史さん:03/03/29 17:06
熊沢天皇家の現子孫なんか、もうそれに関わりたくない(もううんざり)ってところで
大室家の子孫もそうで、遺品を全部燃やしたそうだけど(ああ、もったいない)
家系図とかでもどこまで信頼できるんだか?
ちなみに南朝大室家の家系図は1820年?頃作られて1996年大室近祐氏の死去に伴い
処分したから180年くらいで南朝家系図って作られるのかなあ?6代〜7代くらいしかつずいて
ないのかも?熊沢天皇家は大室より3代古いから10代くらい(熊沢広敷王〜熊沢寛道までで)
多分初代熊沢広敷王は光圀の大日本史編纂あたりからか?西陣南帝のその後が消息不明で17世紀
の中頃?の広敷王の時代まで200年間の空白があるわけ。大室の方も1400年光親親王が亡命なされて
1800年頃まで約400年間空白。しかも後大室家も5代で血筋が断絶した。
明治より前までさかのぼれる南朝の末裔は1熊沢2大室3三浦だがこれらの家も江戸時代の頃でしょう。


317日本@名無史さん:03/03/29 17:21
大室は架空の人物。ネット上の妄想の産物。
318日本@名無史さん:03/03/29 20:07
後南朝の皇族達はだね、逃げ回ったりだの野戦だのとしてる内にだ。
そこいらの悪党武士と変わり無いような人格になってしまってだな。
貴種としての有り難味が無くなってしまっていたらしい。
319日本@名無史さん:03/03/29 22:06

情けねぇ〜なぁ
320日本@名無史さん:03/03/30 21:50
『漏れが皇位継承権者だ!』て名乗り出なさ〜い!
一生喰うことに困らんと思われ。
321日本@名無史さん:03/04/01 02:07
実は明治天皇は二人いて、はじめの方は暗殺され、
西郷や岩倉らによってひそかに後南朝の王子と入れ代わった。
だから、現皇室は実は南朝系である‥‥
322日本@名無史さん:03/04/06 02:49
熊沢てんのおー
323日本@名無史さん:03/04/06 03:42
>ただしわけわからん明治期に出てきた人たちまではいりません。
324難聴:03/04/08 00:19
熊沢天皇マンセー!
325日本@名無史さん:03/04/11 15:42
326世界@不比等さん:03/04/13 00:08
「最後の将軍」徳川慶喜が亡くなったとき、
大正時代の朝日新聞は、
慶喜の大政奉還を大国主命になぞらえて記しているそうだ。

ならば、
「もう一人の慶喜」「もう一人の大国さん」になぞらえられるべきは、
「第99代 後亀山天皇」って言えなくもない。
国内の平和のために、
地位や名誉なんか、唾棄して斬って捨てたんだろう。
327山崎渉:03/04/17 14:08
(^^)
328日本@名無史さん:03/04/19 17:38
熊沢天皇マンセー!


329山崎渉:03/04/20 01:49
   ∧_∧
  (  ^^ )< ぬるぽ(^^)
330日本@名無史さん:03/04/20 10:14
age
331日本@名無史さん:03/04/27 14:42
南朝も後南朝もすべてDQNということでよろしく
332日本@名無史さん:03/05/04 00:56
熊沢は詐称ですよ
333日本@名無史さん:03/05/04 20:30
333げっと
334日本@名無史さん:03/05/15 19:13
後南朝に、永代親王家があったよね?
335日本@名無史さん:03/05/22 04:40
4親王家
336日本@名無史さん:03/05/25 05:43
「熊沢家が南朝の後裔である」という伝承自体は
寛道の捏造でなく、それ以前から存在したことは確かだな?
337日本@名無史さん:03/05/26 17:54
熊沢ちゃんについては、最近『後南朝再発掘』(山地悠一郎)っていう
本が出たからそれ読んでごらん。なかなかおもしろかった。
338山崎渉:03/05/28 10:51
     ∧_∧
ピュ.ー (  ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  =〔~∪ ̄ ̄〕
  = ◎――◎                      山崎渉
339日本@名無史さん:03/05/28 17:28
後醍醐天皇がクーデタに失敗して六波羅方につかまるわけですが
六波羅方の武士は誰も天皇に拝謁したものがなく捕まえた天皇/親王が本物であるかどうか判断できずに困った


340日本@名無史さん:03/06/06 22:44
江戸初期の皇室御用達魚や 奥八兵衛は楠正成郎党の奥十郎の子孫との説があるがなぜ北朝天皇の土葬の為、あんなに奔走したのか、また御用達になった経緯など知ってるかた教えてください。
341日本@名無史さん:03/06/06 22:50
足利直冬やその子孫がが(後)南朝方で戦ったときいたことがあるのですが、
詳しいことをご存じの方は教えてください。
342日本@名無史さん:03/06/18 21:26
どんなことが知りたいの?
343日本@名無史さん :03/06/19 03:15
〜(,,(*゚ー゚) キョウイクTVダヨ ナッコ♪
344日本@名無史さん:03/06/19 13:10
渓流つりによく行った上北山村に南朝最後の戦いの石碑があるが本当に最後かな。他にあれば教えて欲しい。確か嘉吉の乱で没落した赤松家が復興の為、神器奪取した事件だったと思う
345日本@名無史さん:03/06/19 13:41
>>344
応仁の乱の時に西軍に擁立されたのが記録に残る最後じゃなかった?
346日本@名無史さん:03/06/19 19:44
いわゆる西陣南帝やね、
で、その後は
325のが一番最後みたいね
347日本@名無史さん:03/06/19 19:58
めるしー ちなみに応仁の乱の時に擁立されたのは誰の子孫ですか。楠九郎もおともしていましたか。
348日本@名無史さん:03/06/19 21:06
341です
知りたいこと。。

足利直冬は、直義が殺されてからは 尊氏と対立して南朝方についた
で いいんですよね?
で、直冬は長生きして、晩年 義満の時に降伏したときいているんですが 
本当でしょうか?

直冬は南朝方の妻を迎えて、
その子孫は 直冬が降伏しても 南朝にいたってきいたんですが
具体的には いつ頃まで記録があるんでしょうか?

(高校の時に歴史の先生が 直冬の話を力説してくれて
それ以来ずっときになっているんです)
よろしくお願いします
 
349日本@名無史さん:03/06/20 01:45
>>348
単純に「南朝VS北朝」という図式ではありません。
天皇家の正当をめぐる争いと、
武家政権(足利政権)の主流・反主流のいわば覇権争いが複雑に絡み合っています。
したがって直冬派も単純に南朝ではありません。

ところで直冬の子(孫?)が赤松満祐に擁立されかけたことは知っています。
350日本@名無史さん:03/06/20 16:54
義尊とか冬氏とか、ちょっとわかりにくいね
351日本@名無史さん:03/06/22 03:47
>348
義満に降服して、義満から知行も給わってます。
直冬が亡くなった時は、確か義満も弔意を表してたような。

妻は南朝方というか、直冬方というとこではないでしょうか。
史料上でワタシが知るのは二人ですが、どちらも南北より直冬主眼で
従って娘をやっているので。

子孫は京都で僧になってたりしていたみたいですが、
349さんの満祐に擁立された際に二人死んだのは確かです。
南朝にも直冬の子ではないかという人がいて、
大和に子孫が残っていたという話もききますが、こちらは不確か。
352日本@名無史さん:03/06/22 14:41
348です

皆さんいろいろ教えて下さってありがとうございます。
先生から 足利氏は面白いと力説されて、一瞬、
専攻しようと思った高校生でしたが、

結局違う道にいってしまいました。
どうなったんだろうなってのが 気になってました。
353日本@名無史さん:03/06/23 02:48
直冬の息子の冬氏=義尊というのは本当ですか?
354日本@名無史さん:03/06/23 22:17
系図では冬氏=義尊=直冬の子。
嘉吉の頃の記録では孫。
355日本@名無史さん:03/06/24 12:03
直冬−冬氏−義尊
じゃないの?
356日本@名無史さん:03/06/24 20:08
石堂氏って後南朝の時は没落したのですか?
教えて君すまそ
357日本@名無史さん:03/06/28 05:39
戦国時代はどこを放浪してたのだろう・・・<南朝後胤
358日本@名無史さん:03/06/28 11:13
>>356
石堂氏は直義派だったので…
359日本@名無史さん:03/06/28 11:36
石塔は奥州で細々と
360日本@名無史さん:03/06/28 11:52
畠山に連戦連敗
361あぼーん:あぼーん
あぼーん
362あぼーん:あぼーん
あぼーん
363あぼーん:あぼーん
あぼーん
364あぼーん:あぼーん
あぼーん
365日本@名無史さん:03/07/01 18:37
畠山義就は南帝を擁立できなかったのか・・・
366日本@名無史さん:03/07/01 18:41
西軍の南帝擁立に最も強く反対したのが畠山義就だとか。
河内に楠木勢力が復活することを恐れたのだろうか?
367日本@名無史さん:03/07/02 19:04
倭寇との共闘はなかったのだろうか・・・
後南朝
368日本@名無史さん:03/07/02 19:14
赤松家の一族赤松左馬助則繁は、一族滅亡後倭寇に身を投じたとか。
369日本@名無史さん:03/07/02 19:17
>>367
懐良親王の征西将軍王国は、ある程度、倭寇を支配下においていたものと思われ。
明が懐良を「日本国王」に封じたのは、倭寇を押さえ込んでもらう見返り。
370日本@名無史さん:03/07/10 13:36
371日本@名無史さん:03/07/13 00:02
懐良親王 = 日本国王 ??
372山崎 渉:03/07/15 11:43

 __∧_∧_
 |(  ^^ )| <寝るぽ(^^)
 |\⌒⌒⌒\
 \ |⌒⌒⌒~|         山崎渉
   ~ ̄ ̄ ̄ ̄
373日本@名無史さん:03/07/16 22:15
十津川の郷士について、全くでてこないが、後南朝では活躍しなかったのかな?
374日本@名無史さん:03/07/20 12:31
南朝のその後について聞かせて!!
後亀山以後の南朝について聞かせてー!
375http://www.get-dvd.com:03/07/20 12:33
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376日本@名無史さん:03/07/20 12:33
寛成親王
生没年:1343-1394
父:後村上天皇
1368-1383 長慶天皇
妻:
1374-1443 海門承朝
1381-1427 権僧正 行悟
-1432 大僧正 尊聖
玉川宮(子:王女(夫:足利義教))
377日本@名無史さん:03/07/20 12:56
良泰親王
生没年:
父:後亀山天皇
小倉宮
妻:
-1428 妙福院宮 義仁王
山階宮 泰仁王
-1443 北山宮 尊義王(子:1440-1457 尊秀王、-1457 玉河宮 忠義王)
1436-1458 市河宮 尊雅王
尊慶王(子:小瀬宮 剥i、、十津川宮 剥痩、)
尊子女王
378日本@名無史さん:03/07/20 14:17
>377
どこからパクッたの?
379日本@名無史さん:03/07/20 23:39
>>378
Googleを知りませんか?
それとも努力という単語を知りませんか?

それとも、無断借用を訴えたいのですか?
380日本@名無史さん:03/07/22 20:17
あげ
381日本@名無史さん:03/07/23 02:42
>>379
無断借用
382日本@名無史さん:03/07/23 19:28
>>381
成る程。それならズバッと言ってしまった方がいいですよ。
それから、いつもお世話になってます。有難うございます。
383捏造:03/07/27 05:52
>>376
行悟の母は西園寺氏某

>>377
良泰親王
生没年:1379?-1442?
父:後亀山天皇  母:源信子
妻:某(父:藤原守房)
   -1428 妙福院宮 義仁王
   -1444?  山階宮 泰仁王(教尊)
   -1443 北山宮 尊義王(子:1440-1457 尊秀王、-1457 玉河宮 忠義王)
妻:横矢姫(父:野長瀬盛矩)
1436-1458 市河宮 尊雅王(←尊義王の子か?)
妻:某(父:平経泰)
1406-1442 尊慶王 (子:小瀬宮 X高王、十津川宮 X国王)
        尊子女王
384日本@名無史さん:03/07/29 00:21
385日本@名無史さん:03/07/29 11:30

漏れは建内記を信じまつ。
後亀山──恒敦宮──聖承
386日本@名無史さん:03/07/29 11:47
                         ┌尊義王─尊秀王(自天王)
(99)後亀山天皇─小倉宮良泰親王(聖承)┤
                         └尊雅王─信雅王(西陣南帝/称熊沢姓)┐
┌──────────────────────────────────┘
├治広
└広敷─玄理─守久─直行─広良─尊春─尊成─尊泰─尊憲─寛道(熊沢天皇)
387山崎 渉:03/08/02 01:27
(^^)
388日本@名無史さん:03/08/02 21:38
389日本@名無史さん :03/08/06 02:59
末裔だそうでつ
http://www.neno.net/guuji.htm
390山崎 ゴミ男:03/08/06 03:38
(^^)
391日本@名無史さん:03/08/06 05:03
熊沢天皇は婿養子だろ
392日本史博士@:03/08/06 12:55
自天王について語ってあげましょう。
彼は後亀山帝の子孫で、吉野に隠棲
しておりました。そこに、お家再興
のかかった赤松一族が襲撃し、自天
王の首は取られ、後南朝の哀史は幕
を閉じたのです。今でも吉野では、
後南朝の子孫により、朝拝式が行わ
れています。
        ,,,--─===─ヽ/へ
      /iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
     iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
    iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
   iiiiiiiiiiiiiiiiii/             \iiiiiiiゞ
   iiiiiiiiiiii/                \iiヽ
  iiiiiiiiiiiiiii《    ━━━'/  ヽ━━━ ヽミヽ
 ...iiiiiiiiii彡/      __,.::  :: __  ヽiiiii|
 ..iiiiiiiiiiiii》|             :::      |iiiii|
 iiiiiiiiiiiiiiii|,                     |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii,         ( ● ● )      .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii       》━━━━《       |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ     》 / ̄ ̄\ 《     |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《    《《 \ ̄ ̄/ 》》   |iiiiiiiiiii|
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396日本@名無史さん:03/08/09 20:56

後難聴>>熊沢天皇
397日本@名無史さん:03/08/09 23:27
熊沢天皇って実は養子だったの?
398日本@名無史さん:03/08/10 00:51
まあ
こういうご時世だし
もう2,3人いてもいいよ天皇は
399日本@名無史さん:03/08/10 00:56
>>397
熊沢の養オヤジがデムパだったのだよ。
400日本@名無史さん:03/08/10 04:01
後醍醐って次男の次男だろ?
なんで南朝が正統って言い出したんだろうね?
てか、北朝の末裔であらせらる今上天皇に不敬だろ?
南朝正統を言う右翼は腹を切れ!
401日本@名無史さん:03/08/10 05:38
400ゲット。口で言うほど簡単じゃあない。

もう何千回と400ゲットに挑戦したことか。
もう何万回とF5キーで400逝きそうなスレが立っているかチェックしたことか。
すでに俺のキーボードの4と0のキーは磨り減って印字が消えている。
他の奴らが400をゲットしているのを見てくやしくて枕を濡らした夜。
よっしゃあ400ゲット!と思い書き込みボタンを押したら回線が重くて
400ゲットに失敗したあの暑い夏の日。

400を取るために光回線を導入した。
400を取るために指の力が上がるように特訓した。
400を取るために動体視力を上げる本を熟読した。

400が取れたならもう死んでもいい。
寝ても覚めても400ゲットの事しか思い浮かばない。
400ゲット。ああ好きさ。結婚したい。

今度こそ400ゲットできると信じてる。
さあ、書き込みボタンだ。400ゲット!!!!
402日本@名無史さん:03/08/10 13:06
で、後南朝がどうだっていうのさ?
403山崎 渉:03/08/15 13:32
    (⌒V⌒)
   │ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
  ⊂|    |つ
   (_)(_)                      山崎パン
404日本@名無史さん:03/08/16 00:54
405日本@名無史さん:03/08/21 00:10
406日本@名無史さん:03/08/21 16:30
407日本@名無史さん:03/08/23 02:43
>>後醍醐って次男の次男だろ?
>>なんで南朝が正統って言い出したんだろうね?

水戸の既知外どもが言い出した。
長男の系統である北朝が正当なのは当たり前なのにね。
次男の次男が、長男の血統に皇位を返そうとしなかったのが、そもそもおかしい。


>>てか、北朝の末裔であらせらる今上天皇に不敬だろ?
>>南朝正統を言う右翼は腹を切れ!

右翼のほとんどが偽装在日だからね。
頭悪いし。
408日本@名無史さん:03/08/23 13:01
>407
長子相続が(例え不文律だとしても)制度化していれば
そのロジックでも良いだろうよ。

ただ、問題は持明院統と大覚寺統が分かれた時代は必ずしもそうでなかったんだな。
特に当時の権力階級だった武士(御家人)は惣領制だった。
つまり、全員平等にって基本だな。

皇族(公家)が武士の制度を見習うとも思えんのだが、
後嵯峨天皇が次男たる亀山天皇を皇位につける際に
拠り所となった時代背景だとは想定できるんじゃないかな?
409日本@名無史さん:03/08/29 20:19
410日本@名無史さん:03/08/29 20:51
鎌倉時代の相続制度は武家も公家も共通だよ。
「親の命令がすべてに優先する」これだよ。
持明院統と大覚寺統との争いは、後嵯峨院が誰に跡を継がせるかきちんと決めておかなかったのが原因。
411日本@名無史さん:03/08/29 22:07
持明院統と大覚寺統との争いは、北条時宗がつまらない仏心を出したせいだろう
412日本@名無史さん:03/08/30 14:20
小倉宮からの64代=熊沢天皇
413日本@名無史さん:03/09/01 20:34
>400
やだ。
414日本@名無史さん:03/09/01 21:17
つまらん、煽りだ
415日本@名無史さん:03/09/02 16:56
>>410
後嵯峨はちゃんと遺言しているぞ。
まずは後深草が皇位をつぐが、それは一代限りでその次からはずっと亀山の皇統が皇位をつぐ、
そのかわり後深草の流れには長講堂領という広大な荘園を与える、というのがその内容。
ところが後深草の流派はこれを反古にしただけでなく長講堂領までも独占し続けた。
亀山派は、皇位につくならせめて長講堂領は放棄すべきとうったえたのだが、後深草派は鎌倉幕府の権威にすりよってそのうったえを握りつぶし、
皇位も荘園もどっちも自分たちのものにしてしまった。
よって、当時の大覚寺統がこれを不満に思うのは至極当然といえる。
416日本@名無史さん:03/09/07 06:54
>415
なんだ、後醍醐が我が儘だったってのはよくきくけど、もともとは持明院の連中の欲の皮がつっぱってたのが原因かよ。
おまけに親の遺言も無視していたとは、それって当時の道徳からいうなら大罪でしょ。
417日本@名無史さん:03/09/07 07:01
>>415
そんな明確な遺言があればそもそももめないだろ。
どの史料に載ってる話なの、それ?
418吉備宮:03/09/07 08:14
>>410後嵯峨はちゃんと遺言しているぞ。
まずは後深草が皇位をつぐが、それは一代限りでその次からはずっと亀山の皇統が皇位をつぐ...

亀山は後宇多に対して、後二条のあとは、恒明親王系に皇位を継がすことを遺詔しています。
後宇多はその遺詔を無視して、後醍醐を皇位につけ、その兄である後二条の系統に皇位を継がすことを
遺詔しています。後醍醐もその遺詔を無視して自分の血筋での皇位独占をはかっています。
後宇多が亀山の遺詔を無視した時点で亀山嫡系(後嵯峨嫡系)は途絶えているのです。

後宇多、後醍醐の親子は、ともにワンポイントリリーフの位置づけであったのに
自分の血筋で皇位を独占したいがために、父親の遺詔を不履行した不忠者である。
両天皇以降の南朝はとてもじゃないが正統を主張する立場にないのである。
  
419日本@名無史さん:03/09/08 02:12
>>417
なんの史料とかって問う前に、そもそもおまえは史料と名のつくものを読んだことがあるのか?
>418
こういうデムパな主張は、読むのも書くのも歴史学的な意味はゼロにひとしい罠
420日本@名無史さん:03/09/08 03:56
>>419
詭弁で>>417を愚弄するな
御嵯峨の遺勅には>>416のように具体的な事は書かれていなかったんだぞ
おまえが同一人物かどうかは知らないが本当にそんな史料を知ってるならすごい事だ
学会がひっくりかえる
417はそれを知った上で遠回しに指摘したのではないか?
421日本@名無史さん:03/09/08 04:58
哀れやなw
>>417=>419
422日本@名無史さん:03/09/08 05:23
間違えた
>>417=>420だったスマソ
423日本@名無史さん:03/09/08 05:33
>>420は俺だよ
自作自演してる哀れはそっちだろ?
史料出して学会驚かせてくれたら俺は謝ってあげるよ
424日本@名無史さん:03/09/08 07:32
おいおい、お前ら、素人を混乱させるなよ。専門家同士でわけわからん論争しないで
脇からみてる漏れら素人に向けてわかりやすくたのむよ。
漏れはちゃんと典拠をあげている方を信じる。
425日本@名無史さん:03/09/08 11:21
南北朝正閏論って?
卒業して3年も経つと疎くなってしまう
最近は快楽のどっぷり身を浸してるからなあ
しかし6コマ目には興奮するなあ

> http://www.crystal-online.tv/crl_showpage.asp?I=NIF
> http://www.crystal-online.tv/report/kitagawa_rep.html
426日本@名無史さん:03/09/08 11:59
>>424
漏れは南朝正統派。
今上天皇が持妙院だからって、
大覚寺統が潤位とはならない。
例え両統合一が義満のペテンだったとはいえ、
後小松、後亀山のコンセンサスが成り立った以上、
権謀術数とはいえ、他に手段がなかった以上は
止むを得ないし、一応統一したからには、
それ以後は持妙院統が正当だと解釈されるが、
それ以前は神器は大覚寺が所持してたわけで、
要するに
御深草〜花園(両統迭立)
後醍醐(大覚寺)
光厳(持妙院)
後醍醐(大覚寺)
光明・後醍醐〜後小松・後亀山(神器所持の南朝正統)
後小松〜今上(統一し持妙院が唯一無二の皇統に)
したがって、持妙院は神器奪回後のみ正位であり、
それ以前は潤位という事になる。
よって南北朝時代に限れば南朝が正統となる。
427日本@名無史さん:03/09/08 21:28
>>426

おいおい、日本語おかしくないか?
428日本@名無史さん:03/09/08 21:33
後崇徳院は僕の院号で、
小倉宮は僕の宮号です。
竹内家の先祖に竹内季治という公家がいました。
そのお公家さんが荘園にかくまっていた南朝の皇子と
自分の娘を結婚させて生まれたのが
うちの先祖という伝説があるのです。
後醍醐源氏を名乗っているのは
後亀山源氏であるとわかった場合
生命の危険があるからです。
直系の先祖は小倉宮良泰親王ということになります。
あと質問がありましたが、
僕の名前の睦泰というのは生まれた時からの本名です。

http://diary2.cgiboy.com/1/sintou/index.cgi?y=2003&m=6#26

ちなみに後南朝の元号は「昭和」に負けた「光文」です!

http://www5b.biglobe.ne.jp/~s-net/gosutoku.htm
429日本@名無史さん:03/09/09 05:51
>>417
明確な遺書があれば揉めないというもんでもないだろ、現代じゃないんだし。
要するに「理不尽だ、不公平だ!!」と後深草に感じさせてしまうような遺詔だったってことだよ。
これに鎌倉幕府が肩入れして「かわいそうじゃん。以後はかわりばんこに仲良く皇位をつげばいいじゃん」
とか口出ししてきたために混乱が増した。
まぁ簡単にいうと、そういうことだよ。
史料としては梅松論、増鏡、五代帝王物語、参考太平記など。
別に学会…あ、学界はひっくり返らないと思うよ。

>>420
フーン。「書いていなかった」と断言するからには、後嵯峨の遺詔の原物でも読んだわけね。
それなら是非その内容をここで公開してくれ。おれも知りたい。そっちの方がよっぽど学界を震撼させるよ。
430424:03/09/09 12:26
いったいどっちが正しいんだよ???(一応ソース出してる429を今んとこ信じよう)
ところで漏れは素人なんで詳しい人(このスレに最低2人はいるようだから)に教えてほしい。

当時の社会慣習法(どれくらいの常識つまり拘束力があったのかはわからないが)では後深草が嫡男だったんだよね。
でも後嵯峨が出来の悪い亀山を溺愛して父帝の権限でもって亀山を立てた。これは当時は非難されたときいたが。
ただし当時は別に民主主義の世の中でもないから世間の評価に従うのが正しいということもないだろう。
社会慣習法と父帝の権限、当時はどっちが優先されるべきかという理論も厳密には存在していなかったんだろうか?
431日本@名無史さん:03/09/09 13:57
>>429は根本的な勘違いしてるけど、429が提示した史料による遺詔の内容は、学会では創作もどきと結論づけられています。
「遺詔」は実際にはあってないようなものだった、と見られています。
そこで、幕府も困ってしまい結局、大宮院(後嵯峨正后、後深草・亀山両帝生母)の意向を仰ぐしかなかった。
そして、彼女は「後嵯峨が生前よくもらしていた考え」に基づいて返事を述べたのです。
だからあなたの言うような「具体的内容まで書かれた遺詔」は存在しなかったのであり、あなたがそんな遺勅を示せるなら学会は驚くであろう、と発言したのです。
432431です:03/09/09 14:03
>>430
慣習的にも父権的にも後深草から亀山へ禅譲させた事は後ろ指さされる問題ではありませんでした。
433430:03/09/09 14:27
>>432
えっ!?後深草が兄だろ?慣習法では兄の系統が嫡流となって継いでいくのが普通ではないの?

>>431
うーむ、よくわからんが、ということは、つまり415が引用してる
>まずは後深草が皇位をつぐが、それは一代限りでその次からはずっと亀山の皇統が皇位をつぐ、
>そのかわり後深草の流れには長講堂領という広大な荘園を与える、というのがその内容。
というのは実は大宮院がソースってことなの???
434日本@名無史さん:03/09/09 18:06
この時代を難しくさせているのは、天皇が必ずしも最高位だとは考えられていないこと。
「治天の君」というのは上皇をさす言葉であり、天皇よりも更に権威があるとされていた。
つまり後深草と亀山は、天皇位を争ったのみならず、後嵯峨以後にどちらが院政を布くかという点で
いっそう確執は増した。
まぁ、後醍醐天皇ってのはそういう意味でも革新的なんだね。
400年近くも続いた院政を廃止しようとしたわけだから。
435431と432です:03/09/09 18:36
>>433
前半
その時代の朝廷はまだ嫡子相続が定着しておらず、天皇と有力后妃との間に生まれた「親王」全員に天皇となる資格があり、それを具体的に決定したのが「治天の君」。
摂関家も同様、子息全員に摂関就任資格があったため、数世代かけて五摂家が分立した。
他の公家も同様でこの時期までにたくさんの「家」が成立しています。
そして徐々に嫡子相続が定着して「家」も固定化したのです。

後半
大宮院が決定したのは皇位継承の一時的な事であり、その後のことは、その都度問題となり、その度に幕府とともに打開策がはかられました。続
436435です:03/09/09 18:45
>>435後半の続き
長講堂領・八条院領の分配は、御嵯峨存命中に既に決定済みの確定事項でしたから、没後にもめたりなんかしなかったのです。
もめたのは鎌倉将軍だった宗尊親王の所領の帰属でした。
彼は後嵯峨の長男で、後深草・亀山の兄ですが、母が大宮院ではありませんでした。
ですが、この所領の奪い合いが行なわれたのも、うんと後の話ですので、今回は関係ありません。
437433:03/09/09 21:48
なるほど…。そうすると荘園の分配の件は問題ないのでこの話はやめて、
皇位継承の件だけでいうと、

431=432=435=436の説をまとめると、
後嵯峨本人の直接の遺詔は「ない」。ついで、大宮院ソースの「遺詔らしきもの」は、
「まず後深草、その次ぎ亀山」という目前のことを規定するだけで、先々のことについての規定はなかった。
という理解であってますか?
438435と436です:03/09/09 22:54
>>437
文書もしくは、公家を一同に揃えた場での口頭による、オフィシャルな「遺詔」は実は存在しなかった、というのが定説です。
後嵯峨の生前の考えは公家全員の知るところでもあったし、大宮院も太鼓判を押したので、「故人の意志を尊重して」事後処理がなされたのです。
それが文芸の世界では「実物の」遺詔が存在したかのように扱われ、学者も研究が進むまで実際そう信じてきていたわけです。
ですから、もし「文書」の遺詔が見つかり、文芸作品が正しかった事が証明されれば、学界に新たな一石が投じられる事になります。
439438です:03/09/09 23:03
>>437続き
大宮院の最終確認により、決まったのはさしあたっての治天の君を亀山にする事だけでした。
だから後に幕府の支持をとりつけた後深草も治天の君の地位を奪還できたのです。
結論として、あなたの質問に一言でお答えせねばならぬならイエスですね。
440438と439のおまけ:03/09/10 01:53
ワンマン会社がありました
株(荘園)はオーナー社長が80%、親戚のおばさんが20%持ってました
本妻に息子2人、愛人に息子1人いました
社長は本妻の息子2人に40%ずつ株を生前贈与しました
おばさんは愛人の子を哀れがり自分の株をあげました
社長が本妻長男より本妻次男を可愛がってたのは有名でした
でも生前に会議で後継指名はなく、遺言書もなかったのです
未亡人は故人の遺志を尊重し次男を後継にしました
悔しい長男は取引会社の支援で復権を模索中です
現在持ち株は対等ですが、今後の会社運営は残り20%の行方で発言力が変わります
441日本@名無史さん:03/09/17 02:36
>>440
非常にわかりやすい。言ってる内容も、知ったかぶりの言いっ放し逃亡者より、
理知的で冷静、資料的根拠も明確。
今後、質問したい香具師も出てくるだろうから、コテハンにしたら?
442日本@名無史さん:03/09/17 12:21
>>440
その喩えは良いと思わない。荘園の分割と皇位の正統性は一応別なのでは。

>>437
>なるほど…。そうすると荘園の分配の件は問題ないのでこの話はやめて、
>皇位継承の件だけでいうと、

↑これに帰るべき。
443日本@名無史さん:03/09/17 15:26
>>441-442
多分もう本人見てないと思うよ
444日本@名無史さん:03/09/18 01:16
>>442
俺は中世専門だが>>440はうまくまとめたもんだと感心したがな
荘園の分割と皇位の正当性も分けて考えていると思うが
>>437の依頼を受けて>>438-439をレスした上で>>440を書いたと思うが
現に>>440には「おまけ」と書いてあるが
>>442は的外れな批判ではなく自分の意見を書こうや
過疎スレなのだから建設的な意見が欲しいな
俺も>>438-440がまた来たら少し問いたい事がある
だが>>443の言う通り見てないだろうな
悲しき過疎スレ
淋しき過疎スレ >>442よ、何か話題はないか?
俺?俺は無いよ
誰か喧嘩売ってくんないかなぁ?
445442:03/09/18 02:25
別にケンカ売りたくはないけど。
漏れはどっちにより正統性があったのか知りたかっただけ。
でもこのスレで先生方の話きいてたら、どっちにより正統性があるのか曖昧だったからこそ
南北朝になったわけだ、と納得した。

ということは、つまり、事実の究明だけでは正閏論は解決しない、ということだ。
だからこそ親房などはイデオロギーを創出させることで新たなモノサシを定立して
事態を解決しようとしたのだろう。正統性という観念そのものが客観性というよりイデオロギーなのだから。
446日本@名無史さん:03/09/18 02:39
>>144
俺は>>143
>>144はいいことおっしゃり過ぎで、喧嘩も反論もできねえよー
せっかくだから、もう一発レス頼みます!
447日本@名無史さん:03/09/21 07:08
>>445
そう、だからどっちが正統であるかという答えは永遠に出ない。
数学の答えではないのだから、時代によっても代わるし、その人のイデオロギーによっても変わる。
客観的にいうなら、「そういう時代だったのだから、どっちも正統」としか言い様が無い。
448日本@名無史さん:03/09/22 00:34
>>444
そんなに喧嘩したいならてめえで何か話題出せボケ
449日本@名無史さん:03/09/25 20:53
世の中には南北朝時代を知らない人が結構いるのです。
450日本@名無史さん:03/09/26 08:18
皇居前の銅像を「侍の銅像」と言われたときは衝撃だった。
あれは楠木正成だよ と教えてあげると、
戦国時代の武将ですか? と言われた。

_| ̄|○ ‥‥。
451日本@名無史さん:03/09/26 12:20
南朝の吉野を吉野ヶ里遺跡や吉野家と間違える人がいるのでつ。。
452日本@名無史さん:03/10/05 19:03
ソメイヨシノの「吉野」は、南朝の吉野から採ったものなのですか?
453日本@名無史さん:03/10/05 21:32
ソメイヨシノは南朝の吉野の桜からとったらしいよ。
でも種類は違う、吉野の桜はシロヤマザクラ。
454日本@名無史さん:03/10/15 22:24
455ty270410:03/10/16 23:48
応仁の乱の時,西陣にはいったいわゆる「西陣南帝」が
確認できる最後の南朝のミカドだといわれていますね!
456日本@名無史さん:03/10/17 00:26
前南朝の話でも
457日本@名無史さん:03/10/17 00:26
詳細キボンヌ
458日本@名無史さん:03/10/17 02:00
西陣南帝の子孫が東国に流れて、甲斐の武田家にかくまわれたって話じゃなかったかな。
459日本@名無史さん:03/10/19 07:33
浅里宮
尊義王の皇兄泰仁王(第二小倉宮)は御花園帝の正長元年(一四二八)伊勢の国司北畠満雅と挙兵
して敗れた。満雅は戦死し、皇子は降伏して僧となり、「教尊」と号し、山城国安詳寺で世を終え
た。教尊の皇子 融仁(わに)王の母は伊勢国山田の外宮称宣(宜?)朝季氏の女で朝秀家にかく
まわれていたが、身の危険を感じ、南朝の遺臣らに守られて、紀伊国牟婁郡浅里郷(現南郡紀宝町)
に逃れ比処で卒した。融仁(わに)王の皇子、重親王は家臣らに助けられ牟婁郡樫山村大雲郷の
深山幽谷に移り此処を国王山と称した。重親は明応九年(1500)逝去し、大雲郷に葬る。その
子恵明も此処に没した。恵明の子、宗良は永禄五年(一五六二)月野瀬に移住し、常楽寺を建て、
後亀山帝以後の祖先皇霊を祭り、屋号を朝南者(あじゃ)と号した(南朝の者の意であろう)。宗
良の子道栄は元和二年(一六一六)月野瀬のごぼうさこに社殿を建て皇霊を祭る。道栄の孫道香が
文政十一年(一八二八)ごぼうさこから現在の国王山に社殿を移し、国皇大神と崇めた。重親王が
国王山に落ちられた時、奉任した月野瀬、直見、宇津木、池野山、池野口、高川原、古田の七ヵ村
が氏子となった。朝里慶道氏は融仁王から数えて十六代目にあたる。
460日本@名無史さん:03/10/21 23:30
有栖川宮は南朝側らしいです(サギした人が言ってたw
461日本@名無史さん:03/10/21 23:51
深山幽谷に籠もられてからの歴代は誰がお産みしたのだろうか。
仮に猟師の娘だとするとその子は半分尊貴で半分猟師の血統。
孫は4分の3猟師、曾孫は8分の7猟師、玄孫は16分の15猟師。
6代目は32分の31猟師、7代目は64分の63猟師・・・・・
462日本@名無史さん:03/10/22 00:09
>>461
それを言い出すと本家もすごい割合で藤原氏が入ってる。。
463日本@名無史さん:03/10/22 10:19
>>460
言ってたね(笑)
だから着付けは「南朝高倉流」なんだとか
‥‥( ´,_ゝ`)プッ

しかし共犯者が「楠」とはよくできてるなあ
464日本@名無史さん:03/11/03 22:55
誰か整理してくれ
465日本@名無史さん:03/11/15 07:22
自天王の本名は?
466日本@名無史さん:03/11/16 00:17
尊秀王
467日本@名無史さん:03/11/16 09:28
天皇家がそれだけ偉大だったわけだな
468日本@名無史さん:03/11/17 12:07
エッチだけが好きな天皇がいてこれ原因で南朝は天皇家から
追い出されたんだな。
469日本@名無史さん:03/11/17 16:02
結局、後嵯峨の業績って何なんだ?
470日本@名無史さん:03/11/17 20:22
471日本@名無史さん:03/11/20 22:14
南朝は買う阿倍である
気流はきるが吉舎日宇が似合う着る居てだめ。
器具気我は奈良さくらに開いた夢のいま中だ。


472日本@名無史さん:03/11/26 14:57
>>470
五代院氏は後醍醐の後胤ではない
473日本@名無史さん:03/11/27 12:48
「滅亡した王家の末裔」とか「流浪の王子」つうのはロマンを感じさせるねえ♪
474日本@名無史さん:03/12/08 18:53
「流浪の王子」とか言っても、おとぎの森を横笛とかたて琴でも鳴らしながら
優雅に彷徨っているわけじゃないからね。
命狙われているから逃亡も人目を避けて夜。
腹はへるしのどはかわくし、服装も泥とか垢まみれで悪臭プンプン。
現実はとてもロマンチックとはいいがたかったことだろう。
475473:03/12/09 04:52

  え" っ ?


 そ う な の ?


 知らなかった…
476日本@名無史さん:03/12/11 22:41
日本史ではないが、そもそもそういう人物は、存在自体が命を狙われたり利用されたりする理由たり得るからね。
また現在では無一文になったり、賠償請求されたり、望郷の念に駆られても帰れなかったり、身柄引渡しが外交
問題になったりで、とりわけ元君主や嫡孫は世知辛さから逃れることが難しい。ロマンは所詮「劇的」なもので、
見る側は感動するけれど演じる側はしんどい。直系ではないが革命後アメリカに渡って一介の平民として生涯を
終えたロマノフ朝の皇子のことをTVで見たけれど、国の政府という庇護者があったからこそこういう生活も可能だ
ったんだろうね。

日本の場合「流浪の皇子」と見なされている人物は、反体制の主塊・・・当世風に言えばテロリストの頭目と位置
付けされているに等しいから更に困る。失脚して平民に落ちたというだけではなく、後世にまで「皇子」と名を残し
ている事自体が、体制側から最後まで危険人物視されていたという証左。
こんな人物は当然生活基盤も無いし、日本では都市地方を問わず余所者が現れたらすぐ噂になるから、有力な
協力者がいない限り>>474のような生活をせざるを得なくなって、大抵は群集の中に消えていく。
477日本@名無史さん:03/12/14 01:32
直接関係無いけど、新田氏が最後に登場するのはいつ?
478日本@名無史さん:03/12/15 07:52
新田恵利なら昨日テレビの「あの人は今」に出てたよ
歌すごく下手だったけどw
479日本@名無史さん:03/12/15 12:25
>>477
江戸幕府
480日本@名無史さん:03/12/15 13:33
新田男爵家
481日本@名無史さん:03/12/15 19:08
真船義時 (?〜1561年)
 世良田氏十一代真船祐貞の次男。脇屋小次郎、大新田。甲斐武田家に仕え、碓氷峠合戦の功から感状を賜る。「大新田」と称すよう信玄に命じられた。川中島合戦で討死した。

http://www.geocities.co.jp/Playtown-Queen/2954/serada.html
482日本@名無史さん:03/12/15 20:45
政界失楽園で有名になった船田元は新田家執事の
船田入道の子孫だとか言う話だね
畑恵とデキるなんざぁ先祖同士が呼び合ったのか
483日本@名無史さん:03/12/16 00:04
>482
意味がわからん・・・
畑恵は畑時能の子孫とか?
484日本@名無史さん:04/01/02 13:54
真船祐興 (?〜1564年) 
祐貞の三男。十二代当主。義政。大新田小弥太、数馬。
永禄七年二月二日没。法名「真光院殿明山祐興大居士」。四弟義秋は船山氏を継いだ。
485日本@名無史さん:04/01/02 13:55
真船祐親 (?〜1578年)
祐興の次男。十三代当主。母は岩瀬氏。
甲斐武田家に仕え、後に職を辞す。天正六年四月二十三日没。法名「真光院殿賛月祐親大居士」。
 
486日本@名無史さん:04/01/02 13:56
真船祐元 (?〜1616年)
祐親の次男。十四代当主。葦名家臣伊藤時綱に仕え、その妹を娶る。信濃守。
元亀元年、百石。元亀三年、僧となった弟祐安を蓮蔵寺中興開山とした。
祐元は時綱と共に天正十七年六月五日、摺上原合戦に参加。葦名義広と共に常陸へ逃れる。
仏門に入り、宥元と号す。伊藤家の祈願所大東寺を継ぐ。中興開山三僧祗権大僧都阿闍梨法印。後に東向山真光院。
上州世良田長楽寺にて遠縁に当たる義祐法印から法を授かり、世良田氏の系図を与えられた。元和二年没。
487日本@名無史さん:04/01/06 23:18
西陣南帝age
488日本@名無史さん:04/01/08 00:21
岡崎前門主って誰のことよ?
489日本@名無史さん:04/01/10 00:09
わからない。誰か答えてくださいage
490日本@名無史さん:04/01/10 22:11
漏れもわからん。age
491日本@名無史さん:04/01/15 23:01
小倉宮のアレ
492日本@名無史さん:04/01/21 16:03
放浪の貴公子Age
493日本@名無史さん:04/02/01 04:21
自天王追悼age
494日本@名無史さん:04/02/01 04:39
日野邦光とその後継は最後どうなったの?
495日本@名無史さん:04/02/01 16:03
日野邦光(?〜1363)

資朝の子で、幼名を阿若丸(クマワカマル)という。

正中の変で父親が佐渡に流されると、母親と共に仁和寺に身を隠す。
その後、元弘の変が発覚し父の処刑されるという噂が流れると
「父の死に様を見届け、冥土の共を」と決め佐渡へ渡る。

しかし、佐渡守護の本間山城入道は幕府をはばかり対面を許さず、ついに処刑の日を迎える。
父と親しくしていた僧りょから遺骨を渡されると、復讐を誓い、
病気と称して佐渡に留まり、山城入道の息子を討つ。

その後、1354年に参議となり権中納言に任ぜられる。
1362年に北朝方の足利義詮の軍を藤原隆俊や細川清氏らとともに破る戦功を上げている。
496日本@名無史さん:04/02/01 19:10
新南朝の機会はなかったでしょうか
497日本@名無史さん:04/02/01 19:45
小倉宮竹内睦泰
498日本@名無史さん:04/02/01 21:51
499日本@名無史さん:04/02/01 22:51
>>494
日野資茂ってのが1387年に参議になり、それから
南北朝合一まで参議やってます。合一以降は
不明ですねえ。

日野邦氏ってのが十津川で活躍したとか言う話も
ありますが邦光との関係もわからんし嘘くさい。
500日本@名無史さん:04/02/07 01:04
闇の歴史Age
501日本@名無史さん:04/02/15 00:52
南朝の吉野の桜はシロヤマザクラなのに、
ソメイヨシノの立場はいったい??
502日本@名無史さん:04/02/15 00:57
ソメイヨシノは幕末になって開発された新品種だから南朝とは無関係
503日本@名無史さん:04/03/02 11:47
偽神器age
504日本@名無史さん:04/03/19 23:58
505日本@名無史さん:04/03/28 20:59
徹夜明けの精液は、
カウパーばかり出て精子本体が少なくて
彼女にも「うわっ薄!」と言われてショボンAge
506日本@名無史さん:04/03/28 21:51
徹夜だから薄いってのは迷信だろ。
頻度の問題かと。
507日本@名無史さん:04/04/02 03:44
熊沢天皇と熊沢蕃山の家が関係あるというのはうそ?
508日本@名無史さん:04/04/02 06:00
ほんと。母方の縁で熊沢守久の養子となっており、実父野尻氏も熊沢氏の庶流と言う。
ただし、蕃山が南朝の後裔と称したと思われる記録が全く無い
509日本@名無史さん:04/04/03 00:36
では熊沢天皇の家は一応士族だったの?
510日本@名無史さん:04/04/03 02:02
寛道の公開した系図では、熊沢氏はもと武田氏の支族であったが、
外戚関係により信雅王が初めて熊沢を称したと云う。
但し、武田氏側の系図に熊沢氏は確認されていない。
511日本@名無史さん:04/04/04 05:04
>>508>>510

それも僭称だろ?
512日本@名無史さん:04/04/04 23:52
>>508は事実と思われ
513日本@名無史さん:04/04/10 20:44
西朝と東朝は?
514日本@名無史さん:04/04/11 12:04
関係ない。
515日本@名無史さん:04/04/26 01:08
保守
516日本@名無史さん:04/04/26 16:18
何か話題無い?
517日本@名無史さん:04/04/28 00:36
今年のお朝拝式はどうじゃったんじゃろうね?
518日本@名無史さん:04/05/01 01:25
滅びの美学Age
519悲しき明治維新:04/05/01 02:16
1885年(明治18年)「金沢の特産品は巡査と遊女」
金沢士族の破産1090人。この結果青年男子は他県に赴きて巡査となり教師となり、
妙齢の女子は辺鄙に流浪して芸妓となり娼婦となるもの多く、これらは石川県の特産なり
との悪評を招くに至る。その老年にして糊口に艱むものは恥を忘れて他人の軒に立ち、
かつて高尚なる娯楽として習熟せる謡曲を口ずさみ、以って一厘二厘の銭を受くるものありしかば、
金沢には八丈縞を纏ひたる乞食多しと嘲笑せらりき。
…石川県の歴史 河出書房新社刊より…

http://www.sam.hi-ho.ne.jp/flow/toku.htm

520日本@名無史さん:04/05/01 12:35
>>519
江戸時代の金沢は百万石の城下町として実は名古屋よりも都会ですた。
明治維新維新の結果人口は激減し一時はゴーストタウン化したとか。
521日本@名無史さん:04/05/17 13:38
偽帝の系統が風前の灯火である今こそ我ら後南朝遺臣軍決起の好機であるぞ!Age
522日本@名無史さん:04/05/17 21:52
>>520

何で明治維新で人口減るの?
523日本@名無史さん:04/06/17 18:24
age
524日本@名無史さん:04/06/17 18:45
>>522
明治維新というより廃藩置県でしょ
当時の外人が書いた日本旅行記なんかにも
福井の殿様の行列が去っていくのを見送る風景など
藩という小宇宙の中心として栄えていた地方都市が
日本国の単なる小都市に落ちていくさまが出てくる
525日本@名無史さん:04/07/05 01:28
ゴダイゴスレとか建武親政スレとかの方はいまいち盛り上がってないね
526日本@名無史さん:04/08/09 12:13
527武田信玄=武田天皇:04/08/10 00:10
>>12
真偽は別として皇孫が勝手に天皇を称してるだけじゃん?
528大塔宮:04/08/11 00:02
国道崩落ビクリツしました。

>>459
月野瀬って轢き逃げ事件があったとこだよね。
ニュース映像でみた風景は山深い村落て感じか
落人村てのはああゆう雰囲気の村々に生れるものなのか。

>>472
北条邦時は後醍醐天皇の子孫だった!笑劇の新事実ですね。
529日本@名無史さん:04/09/05 17:40
530日本@名無史さん:04/09/05 21:11
>>529
そこ中途半端でおもしろくないぞ
531日本@名無史さん:04/09/24 00:53:02
532日本@名無史さん:04/10/09 20:23:21
533日本@名無史さん:04/11/05 09:42:05
粛々提げ
534日本@名無史さん:04/11/05 21:26:24
535日本@名無史さん:04/11/06 16:16:24
536日本@名無史さん:04/11/06 16:49:25
小倉宮竹内ムツヤス
537日本@名無史さん:04/11/17 17:12:09
後南朝なんて、室町時代ならまだしもだが、
帝位を失ってから600年以上も経っている今となってはほとんど有り難味は無いな。
明治期の南北朝正閏論争さえ無ければ当事者も一生静かに暮らしていたと思う。
538日本@名無史さん:04/11/27 15:18:21
養子とか入ってるともっとありがたみがない。
539日本@名無史さん:04/11/27 15:26:37
越中強盗、加賀乞食、越前詐欺師
540日本@名無史さん:04/12/06 04:40:57
天孫降臨、吉野村
541日本@名無史さん:04/12/11 00:14:29
東武皇帝、西武偽帝
542日本@名無史さん:04/12/12 10:09:55
明治以降は新南朝です
543日本@名無史さん:04/12/15 14:10:16
天河神社ってどういう神社ですか?
後南朝と関係あるって聞いたんだけど。
544日本@名無史さん:04/12/23 04:34:36
三種の神器のホンモノって、結局後南朝の人が持っている(いた)のかな?
昭和天皇も、その一件についてはかなり関心があったそうだけど>熊沢事件
545日本@名無史さん:04/12/23 21:14:42
>>520
まあ、江戸時代には繁栄では仙台<山形だったという説もあるからな。
546日本@名無史さん:04/12/25 00:10:26
>>545
日本海側の港町は主要航路で現在よりずっと繁栄していたはずです。
547日本@名無史さん:04/12/30 16:54:03
>>543
浅見光彦シリーズ「天河伝説殺人事件」
548日本@名無史さん:04/12/30 17:49:16
裏日本同士で傷を舐めあってる擦れはここですか?
549日本@名無史さん:05/01/04 12:09:09
550日本@名無史さん:05/01/04 13:10:53
>>549は何がしたいのか意味がわからんな。
551あげ:05/01/25 09:00:51
保守
552日本@名無史さん:05/02/08 06:54:02

後南朝スレなんてあったんだ
オヤジの出身が吉野郡上北山なんだけど、そこに北山宮が逃げて来た寺があって
赤松氏の残党が三種の神器を奪いに来て、宮を殺害したって話が伝わってる…て既出か
553日本@名無史さん:05/02/08 07:59:24
>>552

まだ5回目さw
554日本@名無史さん:05/02/08 08:37:24
ほな、北山宮暗殺を手引きした村人の家の枇杷の木に実が成らなくなった…

って話は既出?

てか…うちの家系、後南朝の皇子を守ってた村の一族の一つなんですよ
スレ立ってて嬉しいです
555日本@名無史さん:05/02/09 02:26:26
いわゆる十津川郷士か?
556日本@名無史さん:05/02/09 05:36:11
いや、十津川郷士ではないです
十津川の隣り村です
と言っても、間に大峯山系があって行き来はほとんど無い

後南朝の皇子の守護を任された家が十件ほどあって…
守護と言っても食事とか身の回りの世話らしいけど

でその内の一件が、赤松と通じて、宮を殺害
遅れて気付いた守護の家の人達は、犯人を追いかけて行って北隣りの川上村で、犯人達を襲撃

これが南北朝最後の戦となった…と伝えられてます
557日本@名無史さん:05/02/09 21:25:46
>>556
そうだったね。国道が一本違ってた。

自天王の暗殺ね。
558日本@名無史さん:05/02/10 22:10:06
>>554 >>556
興味深いです。他にも村に伝わる裏話的なものがあったら
教えて下さい。
559求道心:05/02/10 23:22:18
>>552
確か国道から小処温泉へ向かう道筋にあった瀧山寺?(あやふや)のところに北山宮の陵墓があったと思う。アマゴ釣りの帰り、見学したことあり。北山宮陵が宮内庁管理と看板があったと記憶。確かその寺が、行宮だったとか。
しばらく国道を北上するとその赤松の残党と戦ったという南朝最後の戦いとの石碑もあるね〜。
560日本@名無史さん:05/02/11 02:42:56
レスついてる♪

あんまりここの住人さんみたく詳しく無いんですが、
村に伝わってる話は、今度帰省した時にいろいろきいてきますね

いざさ寿司とか柿の葉寿司の原形が、南朝の皇子に食事を出す際に、
食器が無くて仕方なしに葉っぱで包んだって聞いた事あります

>>557
自天王は北山宮のお兄さんです
その人は、川上村の入之波ってトコに隠れたみたいです

一つ質問なんですが、自天王だけ名前が浮いてますよね?
形だけでも即位したのかな?
561日本@名無史さん:05/02/11 03:53:05
>>559
龍仙寺で合ってますよ
あの辺りは後南朝を変に観光資源にしてないから好きですね
地元の人が素朴に伝えてるというか、守ってるというか
562日本@名無史さん:05/02/11 17:17:26
宝塚でやるってよ。

ttp://kageki.hankyu.co.jp/revue/05/01snow_2/index.html

室町軍記をベースに、「嘉吉の乱」から「禁闕の変」「長禄の変」
に至る後南朝史の人間模様を、『浜松中納言物語』の「転生」の
設定を盛り込みながら描く、宝塚的ならではのドラマティックな
日本物ミュージカル作品。
563日本@名無史さん:05/02/12 06:53:19
@一宮=北山宮=尊秀王=自天王
A二宮=河野宮=忠義王
B尊雅王
C尚尊王

確かに長男だけ特別っぽい。
564日本@名無史さん:05/02/13 01:34:00
>尚尊王
↑影薄杉
565日本@名無史さん:05/02/13 13:24:39
>>560
自天王は、自分で勝手に即位した(自称した)から。もとは「自天皇」といったのが始まり。
566日本@名無史さん:05/02/16 17:52:46
567日本@名無史さん:05/02/26 10:32:49
現皇太子に後南朝の面影はありますか?
568日本@名無史さん:05/02/27 22:11:38
まったく無し!
569日本@名無史さん:05/03/03 22:18:10
後南「朝」と言うからには
それを旗印に担いでいた勢力がいたんですか?
それとも後醍醐天皇派の残存勢力で政治的には何にも影響はなかった感じ?
570日本@名無史さん:05/03/03 22:18:34
あげときまし
571日本@名無史さん:05/03/06 03:32:00
>>569
多分後者ではないでしょうかね?
なんといっても誰にも相手にされずに自天皇ですから
572日本@名無史さん:05/03/06 16:54:05
南朝方の武将達も南朝マンセーで南朝に与したわけではなく
敵対勢力が北朝方なんで漏れは南朝方とかそういうのが多いとか・・・
573日本@名無史さん:05/03/07 11:01:44
俗に言う「源氏でなければ平家」
574日本@名無史さん:05/03/07 11:06:47
れっきとしたフジテレビ社員が淫らな行為!しかもラッパ飲み画像付き!
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20050303-00000006-nks-ent
ヘッドライン
多英が泥酔し破廉恥な警察ざた、一時拘置
 フリースタイルスキー女子モーグルの五輪金メダリストでフジテレビ社員でもある里谷多英(28)が、
破廉恥な警察ざたを起こしていたことが2日、分かった。2月8日未明、東京・六本木のクラブ店内で泥酔して
男性とみだらな行為をするなどご乱行を繰り広げたといい、麻布署に一時拘置された。フジは処分を検討しているが、
くしくもライブドア堀江貴文社長(32)が時間外取引でニッポン放送株取得に乗り出す、約5時間前のスキャンダル。まさに“のろわれた2・8”となった。(日刊スポーツ)
575日本@名無史さん:05/03/07 11:27:03
>>572-573
それはあくまで南北朝時代のこと。
後南朝になってからは、ただのマイナーな山賊に近い。
576日本@名無史さん:05/03/09 22:50:58
そういえば小倉宮の系統ってどうなったんですか?
577日本@名無史さん:05/03/09 22:59:34
とはいえ御所に乱入して神器を奪取できたってのが良くわからん。
どういう状況だったのよ>575
578日本@名無史さん:05/03/11 22:04:29
>>576
熊沢氏・浅里氏
579日本@名無史さん:05/03/12 00:24:44
580日本@名無史さん:2005/03/31(木) 02:27:26
小倉age
581日本@名無史さん:2005/04/07(木) 05:00:38
>>577
言われてみりゃそうだよな。
山賊ふぜいが、神器のありかなんて知っているはずないし。
内部に手引きする者がいたのか?
582日本@名無史さん:2005/04/07(木) 05:26:51
勢力規模が山賊なみにまで落ちぶれたということであって
べつに山賊そのものとイコールという意味じゃないよ。
583日本@名無史さん:2005/04/07(木) 11:23:11
>>581
足利氏に恨みを持つ日野有光が内応しました
584日本@名無史さん:2005/04/14(木) 21:30:48
後南朝が奪った神璽と宝剣のうち、宝剣の方は清水寺で発見されたそうだが…

なぜに清水寺???
585日本@名無史さん:2005/04/20(水) 18:49:14
>>584
逃走経路に清水寺があって、荷物を下ろして休んでいた。
で、追手が来たので慌ててまた逃げ出したために忘れていった。

‥‥ってところじゃないのか知らんけど。
586日本@名無史さん:2005/04/27(水) 02:39:28
>585
逃走経路って‥‥
当時の寺って、そんなに警備甘いものなのか?
587日本@名無史さん:2005/04/27(水) 05:34:16
寺に警備なんてねえよ
誰でも勝手に入れる(はいれる)。
教会だって、モスクだって、神社だって。
某教会の牧師は孔に入れる(いれる)の大好き。
588日本@名無史さん:2005/04/27(水) 13:35:59
>>585-587
そのへんの経緯は三種の神器スレかどっかに詳しい話あったと思うけど。
589日本@名無史さん:2005/04/28(木) 16:50:20
寺は阿自慰留だった
590日本@名無史さん:2005/05/05(木) 02:23:10
敵対勢力に禁中に侵入されて、あまつさえ三種の神器を奪われてしまうとは、これって大事件だ罠。
それなのに、足利幕府は討伐軍も起こさずに放置プレイ。
以前も軟禁状態の後醍醐天皇に逃亡されたり、この政権ってほんと危機管理甘杉。
591日本@名無史さん:2005/05/07(土) 18:20:06
今の日本みたいなもんでは。
592日本@名無史さん:2005/05/26(木) 01:37:56
え?
593日本@名無史さん:2005/06/09(木) 21:02:11
そうやろ
594日本@名無史さん:2005/06/09(木) 22:00:58
さよけ
595日本@名無史さん:2005/06/22(水) 23:18:56
はあ?
596日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:19:53
皇太子様は南朝から養子を取れと言ってるんだって
597日本@名無史さん:2005/06/24(金) 17:22:31

大室はおなかいっぱい
598日本@名無史さん:2005/06/24(金) 21:30:33
>>578熊沢の現当主は他家からの養子で今は違う。
http://www.004.upp.so-net.ne.jp/teikoku-denmo/html/history/honbun/nanboku.2html
599日本@名無史さん:2005/06/24(金) 21:52:07
>>598
見られない?
600日本@名無史さん:2005/07/04(月) 00:04:11
そうやね
601日本@名無史さん:2005/07/09(土) 22:22:10
後亀山天皇が北朝に騙されたと知って出奔した応永17年(1410)
に長慶天皇の子の正良親王の子(長慶天皇からは孫)の
大宝天皇(美良親王)が即位。これが南朝5代目(通算100代目)
以下

101代(南朝6代)中興天皇
後亀山天皇の子の小倉宮良泰親王の子(後亀山天皇
からは孫)の尊義王。天靖2年(1444)即位

102代(南朝7代)自天皇
中興天皇の子・尊秀王。天靖6年(1448)即位
のちに赤松に殺さる。

103代(南朝8代)南天皇
小倉宮良泰親王の子・尊雅王。天靖15年(1457)即位
翌年、赤松に殺さる。

104代(南朝9代)南帝王・西陣の帝
南天皇の子、熊野宮信雅王と称していたが天靖16年(1458)即位
のちに応仁の乱の時、西軍の山名宗全が陣に迎え奉じる
永正11年(1514)崩
602日本@名無史さん:2005/08/09(火) 01:49:15
603日本@名無史さん:2005/08/15(月) 17:57:55
このスレまだあったんだ‥‥
604日本@名無史さん:2005/08/28(日) 00:49:45
出てた。

森茂暁『南朝全史 大覚寺統から後南朝へ』講談社選書メチエ
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4062583348/250-9952668-3605855
605日本@名無史さん:2005/08/30(火) 06:52:31
>>604
サンクス、早速注文するぜ。
606日本@名無史さん:2005/08/30(火) 20:28:54
>>604-605
同じ著者で角川選書の「闇の歴史、後南朝」の方が詳しくて面白かったよ。
607日本@名無史さん:2005/09/07(水) 07:29:36
>606
ガイシュツ
後南朝スレの住人ならとっくに読んでます。

後南朝の本では数少ないまともな本だからね。
608日本@名無史さん:2005/09/09(金) 23:53:08
>>607
あぁ、それなら結構です。よかった。
609日本@名無史さん:2005/10/02(日) 12:41:18
ほほう
610日本@名無史さん:2005/10/07(金) 22:07:35
ヤマナチヤマナチー!
611日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:16:38
はあ?
612日本@名無史さん:2005/10/26(水) 21:30:22
良スレ

甲斐の国ヤマナチヤマナチ!
http://travel2.2ch.net/test/read.cgi/travel/1077867729/l50
613日本@名無史さん:2005/11/19(土) 05:13:23
アカ松=主君である将軍を殺したばかりか、
出世のためひっそり暮らしていた南朝の皇子たちまで手にかけたクズ。
しかし天罰覿面で一族滅亡。落ちぶれた末裔はアカになったとさ。
614日本@名無史さん:2005/11/22(火) 01:05:44
いや。赤松は忠臣でつよw
615日本@名無史さん:2005/11/28(月) 02:25:36
保守
616日本@名無史さん:2005/11/29(火) 15:46:42
ぬるぽ
617日本@名無史さん:2005/11/30(水) 19:56:08
泣いた赤松
618日本@名無史さん:2005/12/01(木) 01:48:53
619日本@名無史さん:2005/12/02(金) 11:16:31
>>618>>459参照ね
620日本@名無史さん:2005/12/06(火) 20:12:40
朝里家って系図を公開してなかったはず。
プライバシー希望とかで。傍系かも知れんが。
621日本@名無史さん:2005/12/08(木) 00:12:23
明治天皇が、実は南朝の血を継ぐ者がすり替わって即位した、という歴史を知れば
今の女系天皇の論議もどうでも良くなってくるよね。
622日本@名無史さん:2005/12/08(木) 06:37:46
旧宮家は明治天皇とは別系統じゃん。
623日本@名無史さん:2005/12/08(木) 06:52:16
>>621
旧皇族で男系子孫が残っているのは東久邇・朝香・竹田・久邇・賀陽の五家。
このうち竹田は北白川宮能久親王の子孫で
東久邇・朝香・久邇・賀陽は久邇宮朝彦親王の子孫。

能久親王は戊辰戦争で旧幕府軍(奥羽同盟)の盟主で、東武皇帝として即位したともいわれる。
朝彦親王は幕末維新期に公武合体派・幕府派として活躍し薩長から魔王宮と渾名された。
この二人に攘夷派の孝明天皇をあわせた三兄弟の団結は、薩長にとっては目の上のたんこぶだった。

旧宮家から天皇がでれば当然そのルーツに光が当てられる。
能久親王や朝彦親王の人生の前半は薩長との戦いだった。
そうすると明治の元勲が捏造した薩長英雄史観が崩壊するおそれがある。
保守派の中にも女系派(直系派)がいるが大抵薩長出身。

624日本@名無史さん:2005/12/24(土) 17:54:15
(_ _)Zzz
625日本@名無史さん:2006/01/06(金) 04:03:25
sage
626日本@名無史さん:2006/01/08(日) 15:49:09
627日本@名無史さん:2006/01/09(月) 01:10:41
 大室寅之祐という人物は後醍醐天皇とはどういう関係なんでしょうか?
628日本@名無史さん:2006/01/09(月) 01:35:48
関係ない
629日本@名無史さん:2006/01/09(月) 16:05:00
橋本龍太郎氏も後南朝の関係者なのでしょうか?
630日本@名無史さん:2006/01/10(火) 01:03:22
どちらかといえば、大二郎の方が。。。
631日本@名無史さん:2006/01/10(火) 04:12:13
>>630
橋本大二郎氏と南朝についての新説ですか!?是非詳細をお願いします!
632日本@名無史さん:2006/01/11(水) 02:54:41
高知という土地が南朝とどういう関係があったか、よく考えておじゃれ
633日本@名無史さん:2006/01/11(水) 06:14:05
橋本大二郎氏は高知に地縁はないはずだけど。父親の橋本龍伍氏は岡山出身。
634日本@名無史さん:2006/01/11(水) 18:13:26
児島?
635日本@名無史さん:2006/01/13(金) 22:41:50
龍太郎が関係あるとしたら、大二郎だって関係あるに決まってるじゃん
636日本@名無史さん:2006/01/22(日) 23:52:45
南帝王(西陣の南帝)はどこでお亡くなりになったのですか?
637日本@名無史さん:2006/01/23(月) 07:21:50
平氏は赤旗だから
倭人伝で倭人が体に朱塗ってたので先住民だよ。
鹿児島の平氏は日本書紀によると、
葦原中津国(九州)の日向にニニギが畿内から天下りし
阿多隼人(海人)の妻を娶ってる、この妻の名は「阿平姫」だよ。
つまり、平は先住民の一つの立派なステータス。

平は「たいら」とは読まない、「ひら」とよむ、
この「ひら」は中国地方の方言で「端」という意味があるらしい、
なお、アイヌ語でも「ビラ」は崖、端という意味がある。
つまり平氏は先住民の末裔を標榜してたわけだよ。
源氏白旗はもちろん朝鮮人の白装束だ。

源氏は半島に帰ってね★
638日本@名無史さん:2006/01/27(金) 21:41:50
保守
639日本@名無史さん:2006/02/11(土) 18:39:45
懐良が出て来たから聞きたいんだけど井伊谷で活動してたヤツ
居なかったけ?

アチコチに散在しててよく解らない
640日本@名無史さん:2006/02/11(土) 22:11:24
井伊谷にいたのは宗良
641日本@名無史さん:2006/02/12(日) 01:08:31
無文元選も
642日本@名無史さん:2006/02/28(火) 19:13:56
宗良親王ってあちこち移動しんじゃないの?
643日本@名無史さん:2006/03/02(木) 01:17:53
うむ
644日本@名無史さん:2006/03/05(日) 00:12:58
さすらいの征夷大将軍
645日本@名無史さん:2006/03/24(金) 11:42:49
   
646日本@名無史さん:2006/04/03(月) 16:05:03
647日本@名無史さん:2006/04/22(土) 17:01:21
幸徳秋水は、土佐一条に随行して都から来た陰陽師の末裔?
南朝の歴史もある程度は知っていたのかも?
でも、大逆事件でその一族は潰れて離散したであろうから闇の中か。
648日本@名無史さん:2006/04/23(日) 03:22:12
幸徳井というのが昔の苗字だったとか。
649日本@名無史さん:2006/04/23(日) 13:33:20
陰陽頭の家系・賀茂氏の庶流幸徳井家が室町時代に奈良にいたことはあるが、
南朝との関連につていは不明。接点は薄いと思われる。
大和国は何度も戦場になってるから普通に歴史として知ってる程度では

この時代は文観のような密教僧ばかり取り沙汰されて、名のある陰陽師って
出てこないな
650日本@名無史さん:2006/04/23(日) 19:04:32
土御門家では?
651日本@名無史さん:2006/04/23(日) 19:06:16
大逆事件被告のうち、誰が南朝正系について公判で発言?幸徳秋水?
652日本@名無史さん:2006/04/25(火) 13:08:02
653日本@名無史さん:2006/04/29(土) 00:59:28
南朝方について歴史上から消えた公家は松殿家のほかにも居ったのかな?
654日本@名無史さん:2006/04/29(土) 10:51:45
吉野朝と言え
655日本@名無史さん:2006/04/29(土) 11:06:25
三河は後南朝残党縁の地?
656日本@名無史さん:2006/05/02(火) 12:02:43
南朝は室町時代の時点で
朝廷から偽帝と公認されているから、
吉野朝という言い方は、明治大正頃に作られた政治用語だな。

歴史を正しく言い表すための語句じゃないことが確実だ。
657日本@名無史さん:2006/05/04(木) 19:00:21
楠一族は末代まで降伏せず全滅?
658日本@名無史さん:2006/05/04(木) 21:28:49
池田で細々と
659日本@名無史さん:2006/05/05(金) 10:58:58
名和はどうなった?
660日本@名無史さん:2006/05/05(金) 13:37:29
名和一族は山陰や吉野を落ちて征西府に加わったが、
八代城が落ちた後は九州の山中に消えた。
一族の末流は熊本藩で医者になったり、柳川藩士になったり。
661日本@名無史さん:2006/05/05(金) 14:20:09
近代の名和男爵家は柳川藩士になった家の子孫だね。
662日本@名無史さん:2006/05/07(日) 05:45:34
日向高千穂の土豪、奈須氏は江戸時代旗本?
これは自称南朝残党?

津軽に多い菊池は、南朝落人?

663日本@名無史さん:2006/05/07(日) 06:13:08
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%A5%A0%E6%9C%A8%E6%AD%A3%E8%99%8E
楠正虎の家は、その後どうなったのだろうか?


664日本@名無史さん:2006/05/08(月) 01:49:23
奈須氏?那須氏?
665日本@名無史さん:2006/05/22(月) 01:15:04
那須だろ。
666日本@名無史さん:2006/05/23(火) 00:48:08
上那須?下那須?
667日本@名無史さん:2006/05/26(金) 02:44:32

아게
668日本@名無史さん:2006/05/26(金) 03:12:42
秋那須
669日本@名無史さん:2006/05/26(金) 04:16:20
土御門を知らない奴が日本史板にいるとは

御子巫女那須家
670日本@名無史さん:2006/05/26(金) 19:25:38
>>650>>669
後南朝と土御門家って、どんな関係にあったの?
671日本@名無史さん:2006/05/30(火) 23:41:42
土御門家って、村上源氏と安倍氏とどっちのほう?
672日本@名無史さん:2006/06/14(水) 00:22:57
673日本@名無史さん:2006/06/14(水) 23:56:28
朝日というと、最近自天王特集やったな。
ttp://mytown.asahi.com/nara/news.php?k_id=30000140605120001
674日本@名無史さん:2006/06/28(水) 21:41:11
あんな山奥で
冬は寒いだろうに
675日本@名無史さん:2006/06/29(木) 23:38:10
筋目を直系男子しか認めないということは、この中に皇統を
隠しているということだよね。
676日本@名無史さん:2006/07/01(土) 01:55:02
日野家は後南朝と繋がってたんだよね?
677日本@名無史さん:2006/07/02(日) 20:53:37
直系ってどういう意味よ?
長男?それなら南朝っぽくないぞ。
678日本@名無史さん:2006/07/03(月) 20:59:52
>>676
日野は人物ごとに北朝方と南朝方に別れてるからなあ。
日野資朝の兄弟の資名は北朝で日野富子なんかの先祖だし。
679日本@名無史さん:2006/07/12(水) 22:47:27
新葉和歌集の懐邦親王って説成親王のことか?
680日本@名無史さん:2006/07/13(木) 04:03:15
金欠の変を起こした日野有光は?
681日本@名無史さん:2006/07/13(木) 20:42:21
>>679
中村直勝氏は別人と考えていたようだが
682日本@名無史さん:2006/07/14(金) 03:58:01
氷室家は後醍醐天皇の後裔なんだが。話題でないね。
683日本@名無史さん:2006/07/14(金) 23:52:05
氷室家が後南朝勢力に働きかけたことってある?
684日本@名無史さん:2006/07/17(月) 03:43:42
南朝の亡霊ハケーソ
ttp://www.neno.net/rekidai.htm
685日本@名無史さん:2006/07/26(水) 00:00:15
氷室京介
686日本@名無史さん:2006/07/29(土) 00:49:14
氷室京介は芸名
687日本@名無史さん:2006/08/11(金) 17:20:16
朝ナマで田原が「明治天皇は南朝の末裔から拾って養子にした」といってみんな
あわててた。デーブも明治天皇はすりかえられたというしみんな結構大室天皇しってるんだね。
688日本@名無史さん:2006/08/11(金) 18:02:55
             / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
                 | ちょ、ちょっとまって!!!今は南朝じゃないの?!
     , ,-;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:;:,.  ヽ─y──────────────   ,-v-、
    /;:;:;:;:;:;:ミミ;:;:;:;:;:;:;:;:;:;`、                          / _ノ_ノ:^)
    /;:;:;:;:彡―ー-、_;:;:;:;:;:;:;:;|                           / _ノ_ノ_ノ /)
    |;:;:;:ノ、     `、;;:;:;:;:;:i                        / ノ ノノ//
    |;:/_ヽ ,,,,,,,,,,  |;:;:;:;:;:;!                      ____/  ______ ノ
    | ' ゚ ''/ ┌。-、  |;:;:;:;:/                     _.. r("  `ー" 、 ノ
    |` ノ(  ヽ  ソ  |ノ|/               _. -‐ '"´  l l-、    ゙ ノ
_,-ー| /_` ”'  \  ノ   __       . -‐ ' "´        l ヽ`ー''"ー'"
 | :  | )ヾ三ニヽ   /ヽ ' "´/`゙ ーァ' "´  ‐'"´         ヽ、`ー /ノ
 ヽ  `、___,.-ー' |   /   /                __.. -'-'"
  |    | \   / |   l   /            . -‐ '"´
  \   |___>< / ヽ



689日本@名無史さん:2006/08/12(土) 01:06:24
大室はデムパ
690日本@名無史さん:2006/08/12(土) 20:07:54
小倉宮実仁大上天皇
691日本@名無史さん:2006/08/13(日) 21:40:44
wikipediaに「小倉宮」と「玉川宮」の項が最近追加されたようだ。
692日本@名無史さん:2006/08/13(日) 23:22:45
潜龍院萬寿寺宮
693日本@名無史さん:2006/08/14(月) 15:06:47
田原総一郎はついに、天皇制最大の禁忌に触れた。"今の天皇は南朝じゃないの?"

http://www2.ezbbs.net/cgi/reply?id=kouzou&dd=09&re=1486
694日本@名無史さん:2006/08/14(月) 17:27:02
>>690
誰ですか?

後亀山天皇→小倉宮恒淳→小倉宮聖承(北畠満雅と共に挙兵)→小倉宮教尊(禁ケツの変に連座を疑われて流罪)

こんな感じじゃなかった?
695690:2006/08/14(月) 18:59:33
>>694
誰も何も、後亀山院の皇子ですよ。「実仁」の読みは「みひと」。
父・煕成の吉野潜行にも同行した、事実上の後南朝初代天皇。
即位はしてないようなので、「小倉宮実仁大上天皇」なんて呼び方もされます。
696日本@名無史さん:2006/08/14(月) 20:35:12
小倉宮の方で「実仁」という名前は、地元などの伝説に登場するけど
同時代の文献からは確認されていないのではなかったかな。
697日本@名無史さん:2006/08/16(水) 11:54:54
>>695
トンデモ説ですね…熊沢関係だろうけど

興味深いのは称光天皇の改名に絡めて書いてるサイトがあること。
そのサイトでは本来の皇太子「小倉宮実仁」を仮冒するために改名したとしている。
歴史的事実としては、義満が存命中には後小松天皇の皇太子を立てることは見送られていた

なお、南北朝合一時の南朝の皇太子は後亀山の弟の「三宮」だった。
698日本@名無史さん:2006/08/16(水) 17:37:10
>>696
小倉宮実仁親王はちゃんと実在していたはずでは・・・?

>>697
ウィキで見たけど、たしかに幹仁から実仁への譲位は義満の死後ですね。
それにしても「躬仁」から「実仁」と、漢字だけ変えたのはなぜ・・・?
699697:2006/08/16(水) 20:13:23
>>698
>小倉宮実仁親王はちゃんと実在していたはずでは・・・?
ちゃんと実在ってw…文献とか細かい事は言わないから、せめてあんたが論拠としてるサイトか本を教えてくれ。
ネットではwiki以外ではトンデモ系しか見つからなかったよ

>「躬仁」から「実仁」と、漢字だけ変えたのはなぜ・・・?
とりあえず、通説では何と言われているか知ってるかい?
700日本@名無史さん:2006/08/17(木) 01:40:50
いちおう小倉宮実仁親王の御墓が川上村にあるな。
地元の伝承として伝えてきたもんで、熊沢の方がこれを
利用したんとちゃうかな。
701日本@名無史さん:2006/08/17(木) 02:52:22
>>700
地元の伝承じゃあねえ…
後亀山の子孫で本来は天皇になるべき王子っていうイメージを投影したのかな。
「十津河乃記」では「寛成親王」(史実では兄・長慶院)を後亀山の親王にしてたけど、それと同様なんだろうね。

後亀山と一緒に出奔したり北畠満雅の挙兵にも絡んでるならば、出家させるなり島流しにするなりして、とにかく記録に残りそうなもんなのに、それが無いって事は…

「小倉宮実仁」てのは物語上の人物として見たほうが良さそうだね。
702日本@名無史さん:2006/08/17(木) 07:20:53
>>700
その御墓の管理者は宮内庁(もしくはその関係機関)?
703日本@名無史さん:2006/08/17(木) 09:42:29
700です。

701さん
ただ後南朝は史料がほとんど残ってない性格上、まずは地元の伝承を
丹念に拾い上げる必要があると思ってます。三河後南朝や植月御所の
ように「おいおい、それはないやろ」ってのはともかく、川上村の伝承は
時たま史料と重なったりするので、一概には否定できないですね。

後亀山天皇の皇子の恒敦王は記録に残ってて、これが年代的に実仁
親王と重なってるので、実在はしていたと思います。しかし696さんの
おっしゃる通り「実仁」と記されたものはないから困ってるんですw

まあ物語が混入して、伝承の域からなかなか進めないですねえ。

702さん
地元が保存してるようですね。表面上、神社になってました。
704701:2006/08/17(木) 10:38:53
>>703
レスどうも。

 この話のキモは「南北朝合一後最初に即位した称光天皇と同じ名前の親王が南朝側にもいた!」って所なんでしょう。
 そこから、称光天皇の改名の理由を「本当は即位するべきだった南朝の親王と同じ名前にするため」と持っていく

この話自体、「はぁ?」と感じる。一休さんのとんち話じゃないんだから。名前を同じにしたってしょうがないだろw

さらに、「実仁」を積極的に書いているサイトでは、称光天皇の父は足利義満であり北朝は乗っ取られた系譜という話と熊沢関係の話のどちらか、両方が記載されている。
>698などはそういうサイトの関係者か信奉者くさい。

地元が「実仁」としているのも、上にあげたような「伝説」を連想させるためじゃないかな。
あるいは地元では「小倉宮実仁」と「伝説」がセットで語られてきたとか

小倉宮実仁というのは後世の人間の思惑ばかり見え隠れする筋の悪い話だと感じる。
705702:2006/08/17(木) 19:26:25
>>703
レスどうも。
ヤフーにて「小倉宮 神社」で検索かけたんですが、
川上村の東川住吉神社のことですね。

それにしても、後亀山院の子の名前や人数や存在すら
ちゃんと確認・確定できないというのは・・・
南朝や後南朝は一種の亡命政権だったから
満足な史料を作れなかったんでしょうけど、
それでも何らかの確かな史料は残ってないんですかね?
706日本@名無史さん:2006/08/18(金) 11:59:23
植月御所はおもしろいな。
江戸時代の途中まで親王を称して御所を構えていたなんて・・・・
南朝系の子孫でも、周囲では変わり者のへんな家で親しまれてたのかな
アメリカのノートン一世みたいに。
で、風流心のわからない領主にかわってから
「お前いい加減にせいよ」と突っ込まれたと。
707日本@名無史さん:2006/08/18(金) 23:09:14
後亀山院の皇子女

世泰親王 ←長慶院の子だろが
師泰親王 ←南朝系図にしか見えない
良泰親王 ←恒敦+聖承の虚像
泰子内親王 ←南朝系図にしか見えない
行悟法親王 ←これも長慶院の子だろ
真阿・j顐 ←十念寺側の伝承
708日本@名無史さん:2006/08/19(土) 07:38:36
>>707
実在が明確な皇子女の列挙もお願いします。
709日本@名無史さん:2006/08/19(土) 12:15:25
>真阿・j頊 ←十念寺側の伝承
に訂正な

後亀山院の子で確実なのは恒敦宮だけ
710日本@名無史さん:2006/08/20(日) 01:39:50
あと、新葉和歌集の詞書に「今上(後亀山院)第二のみこ」
とあるので、恒敦の他の皇子が少なくとも1人はいたらしい
711日本@名無史さん:2006/08/20(日) 04:05:16
北条残党や新田残党に関しても教えてくれ。
712700:2006/08/20(日) 12:26:24
>>701さん

私も後南朝に関心を持っている以上は南朝びいきなんですが、それでも
躬仁→実仁のこじつけをはじめとする南朝至上主義には退きますねw

ただ小倉宮実仁親王の名前の初出を探してみたら、私の知る限りでは江戸時代
成立とされる「南方紀伝」でした。なので、もとより地元には"伝説"が付着しない形で
実仁親王の伝承があり、それを熊沢側が自分に都合のいいように借用したと、私は
考えています。

実仁親王はまだマシですよ。義仁親王に比べたら…w

>>702さん

そうです、東川住吉神社です。

やっぱり確実な史料ってのは、同時代性の証明の点から北朝側の史料に頼らざるを
得ないでしょうね。たぶん南朝の後裔を称する家々には確実な史料はたくさん残って
いるんでしょうけどw、証明が非常に難しい。

>>706さん

私、植月御所については不勉強であんまりよく知らないんですが、それって藩の正式な
記録に残ってるんでしょうか?
713日本@名無史さん:2006/08/22(火) 03:36:01
       |;;;;;;;;;;;;:;;;;;;;;;;;;;  |   )
      〔i_二八二二二i〕   )  誰ぞ、ネタを投入してくれぬか!!!
       { r' ⌒-、ノ ,r‐l|    ) (※後南朝も登場・・・?)
      ,-l l ‐=・=´;;l;;;;;;ト,  ノ_
     ヽl l ',   ,_ ! ,'ノノ    ⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒⌒
      ハ. l  r'"__゙,,` l|        
 .    / lヽ ノ ´'ー'´,ハ___ , -‐ 'フ ̄ヽ
   _,<´  l ヽ,,,,二,,,/ トへ /  /     | 足利義教と共に苦難を乗り越えてゆくスレB
 , --,.─ヶ┴‐,‐‐--‐'´ / /_ノ     | ttp://p2.chbox.jp/read.php?host=academy4.2ch.net&bbs=history&key=1154227935&ls=all
/ フ´ /彡'´              /
    / /     \   、      /
  //        \ー--=―┬‐'   ビシッ!
 |   丶      \/ ,|  |
   6代将軍・足利 義教
714日本@名無史さん:2006/09/04(月) 01:35:26
>>713
ざっと目を通したけれど、けっこう良スレだな。
そのスレでも後南朝が登場してるんだけど、
後亀山の第二皇子の「良泰親王」とか訳わかんない人物が登場する。

ググって見ると、川上村の伝説とか、熊沢系のサイトにぶち当たるw
熊沢とか長禄の変で殺された皇子を良泰親王の子孫としてるみたい

西陣南帝は小倉宮系らしいから、後亀山の次男・三男の子孫かもしれない
715日本@名無史さん:2006/09/04(月) 20:49:31
長禄の変で殺された一宮、二宮はどの血筋なのかさっぱりわからんからなあ。
状況的には、その数年前に行方不明になった玉川宮の兄弟が一番堅いのか?
716日本@名無史さん:2006/09/04(月) 21:30:25
鳥羽秀尊だろw
717日本@名無史さん:2006/09/05(火) 01:42:37
西陣南帝は恒敦親王と同じく実在の人物と見てOKですか?
718日本@名無史さん:2006/09/05(火) 07:03:05
実在はしてるけど系譜関係とか本名とか詳しいプロフィールが不明なだけ。
719日本@名無史さん:2006/09/05(火) 09:05:12
岡崎前門主ってのがわかりゃぁね。
720日本@名無史さん:2006/09/09(土) 01:21:35
>>715
梵勝、梵仲兄弟ですね。
行方も知れずってのは凄いよね
721日本@名無史さん:2006/09/09(土) 03:31:03
だから「源尊秀=鳥羽尊秀」=「尊秀王=自天皇=一宮=北山宮」
で別に問題ないんじゃないの?

一宮の名が尊秀王だというのは証拠ないけど
証拠がないばかりいってても埒があかないし
特に他の史料や史実に齟齬をきたさない限り
民間伝承も一考の余地があるでしょう。
722日本@名無史さん:2006/09/09(土) 14:36:48
>>721
あんたの言うとおり「源尊秀=鳥羽尊秀」=「尊秀王=自天皇=一宮=北山宮」だとして、

 だ か ら 何 ?「一宮」の系譜がわかるの?

問題になっているのは「一宮・二宮」の系譜上の位置なんだけど、わかってる?
723日本@名無史さん:2006/09/09(土) 23:35:25
源尊秀は禁闕の変で討たれたとも逃げたとも書かれているんだったかな。
確かに、生き延びた可能性もないではないがなあ。
724日本@名無史さん:2006/09/10(日) 20:30:52
>>722
鳥羽尊秀だとしたら南朝の後胤ではないってことだよ。
725日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:15:14
>>724
そうですよね。
源尊秀は後鳥羽天皇の皇胤だから鳥羽尊秀って名乗っていたんでしょう。
それが北山宮尊秀王と同一人物なら後醍醐の皇胤じゃなくなりますものね。
726日本@名無史さん:2006/09/10(日) 21:55:44
>>722
何をカッカしてるのやらw
727日本@名無史さん:2006/09/10(日) 23:37:03
>>724
トバソンシュウ自体が自称なんだから、
何の証明にもならないだろ。
728日本@名無史さん:2006/09/11(月) 00:33:26
別に証明できたなんて一言もいってないけど?

何をカッカしてるのやら。
729日本@名無史さん:2006/09/11(月) 11:15:45
特にカッカしてるようでもない相手に
「何をカッカしてるのやら」と言うのは
自分がカッカし始めてるからかな。
730日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:12:46
>>728=721
相変わらず、論拠の怪しい中身の無いこと書いてるね
出自不明(皇胤ですらない)の兄弟が山奥で「一宮」「二宮」を名乗っていたというのが
あなたの主張なの?

731日本@名無史さん:2006/09/11(月) 21:43:32
おいおい、みんな、どうでもいい昔の話で熱くなるなよ。
所詮、実生活に関係ないことだろ。
732日本@名無史さん:2006/09/12(火) 02:50:50
忠義王文書
733日本@名無史さん:2006/09/12(火) 14:06:47
>>732
怪しい書き込みキター

同一人物っぽいけど、熊沢関係の電波かな
734日本@名無史さん:2006/09/12(火) 22:55:06
>「一宮」「二宮」
宮内庁治定の北山宮・河野宮墓があるなら、
2人は皇統譜にも記載されてるのだろうか?
735日本@名無史さん:2006/09/13(水) 01:17:36
>>734
記載されてるわけねーだろ…
736日本@名無史さん:2006/09/13(水) 01:36:39
皇統譜に記載出来ないような皇族の
墓を宮内庁が管理してるということ?

ttp://www.eonet.ne.jp/~ryobo-youran/nara/yoshino/004.htm
「後村上天皇皇末孫 北山宮・河野宮」とのこと。
737日本@名無史さん:2006/09/13(水) 02:18:44
ふむふむ
738日本@名無史さん:2006/09/13(水) 12:49:31
>>736
記載されてるの?されてないの?
どっちなのよ?
739日本@名無史さん:2006/09/13(水) 19:39:19
藩閥時代や
大正の機関説論争なんかが原因で、

皇統譜とは関係なく、政策的に南朝を持ち上げた結果だろ?

南朝の存在自体が皇統譜に乗ってない気がするが。
後村上〜後亀山あたりも、北朝の立場からは偽帝だったしな。
北朝の子孫たる、現天皇家から見れば、南朝の面々は皇族だが天皇じゃないって扱いだろ。

後南朝の面々ともなれば、行方しれずになった元皇族と、
その子孫と自称する素性の知れない謀反人ってだけじゃないのか?
740日本@名無史さん:2006/09/13(水) 23:32:56
皇末孫という曖昧な表現だから、記載されてないだろう。

系譜に定説がない上、明らかに皇統譜に記載
されないような遠皇族の墓でも、陵墓参考地と
して考慮される場合もあることを想起すべきか。
741日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:03:33
だから、記載されてるわけねーってw

地元民が長年に渡って熱心にやってるから、宮内庁としても放置しておけないだけだろう。

推理に戻ろうぜ。
梵勝、梵仲では無いというのが通説なのかな?

742日本@名無史さん:2006/09/14(木) 01:47:27
幕府には融和的態度をとった玉川宮と、
攻撃的姿勢を辞さない小倉宮の違い?
743日本@名無史さん:2006/09/14(木) 02:00:22
>>741
その割には、地元民の要望を無視していたわけだが
744日本@名無史さん:2006/09/15(金) 14:25:30
>>743
文献等の根拠がないなら「皇族であるという点について」は無視して当然でしょう。
ただ長年皇族として祀っているという社会的事実は無視できない。
だから宮内庁が管理してグレーゾーンの現状(つまり、皇族として祭られているが確証はない)を維持している。
745日本@名無史さん:2006/09/15(金) 14:34:43
>>719
西陣南帝については、同じ日記に「小倉宮系」と書いてあったよね。
一宮・二宮とはどういう関係なんだろう

勢力範囲や支持勢力は全く同じだっけ?
746日本@名無史さん:2006/09/15(金) 19:42:01
「西陣南帝」は壺阪寺から来たという所からしかはっきりわからないが、
その前年には南方の宮を西軍に迎えようという話をしていたわけだから
このころには既に身柄を確保していたんだろう。
さらにその前年に「南方宮」が兄弟して吉野奥と熊野で蜂起しているが、
この人たちが何者なのかはわかりません。
「西陣南帝」には弟がいたらしいから、合致するといえばするけど。

そうなると、日尊は誰なんだということに。
747日本@名無史さん:2006/09/15(金) 21:25:36
後の尊慶王である
748日本@名無史さん:2006/09/16(土) 11:50:31
尊雅王はどうしたw?
749日本@名無史さん:2006/09/16(土) 13:49:58
また沸いてきたな…熊沢デンパはうっとうしいから出て行けよ
750日本@名無史さん:2006/09/16(土) 17:25:29
この程度で熊沢デムパと騒ぐのは勉強不足
751日本@名無史さん:2006/09/16(土) 19:18:42
>>750
この程度で勉強不足と騒ぐのが熊沢クオリティ

何をカッカしてるんだかw
752日本@名無史さん:2006/09/16(土) 19:46:32
もちつけバカ
753日本@名無史さん:2006/09/16(土) 20:18:31
>>752
怒ってる怒ってる
図星を指されたみたいですね
754日本@名無史さん:2006/09/16(土) 22:30:01
尊慶王・尊雅王といった皇族は一次史料にこそ見えないものの、
江戸時代始めの史家には意識されていた存在。それを明治期に
現れた熊沢と直接に結び付けて語るべきではないってことだろ?
755日本@名無史さん:2006/09/17(日) 00:33:05
尊雅王の初出は「残桜記」だっけ。
尊慶王のことは寡聞にして知らないのだけど、何に出てくるのでしょう?
756日本@名無史さん:2006/09/17(日) 01:01:46
ttp://www.kumadoco.net/dictionary/report.php?no=146
尊雅王
>大西源一によると、初出は、津久井尚重の南朝皇胤紹運録、
>南朝編年記略にはじまり、伴信友の残桜記で定まったようです。

南朝紹運録には既に尊慶王の名も見えますね
757日本@名無史さん:2006/09/17(日) 14:01:04
野長瀬氏の系図はどうなんだろう? >尊雅王

後南朝の皇族名に「尊」字が付いてるのは、後醍醐院(尊治)
の遺志を継承するためとか聞いたが、いかにも後付けくさい。
758日本@名無史さん:2006/09/17(日) 20:04:08
地元で語り継がれてきたんだろうけど、どこまで参考にしてよいのか疑わしいな

それにしても、>756のリンク先の系図は怪しすぎる
759日本@名無史さん:2006/09/17(日) 23:13:54
信頼できる系図があるのかと。
760日本@名無史さん:2006/09/18(月) 00:04:48
あの系図のうち「忠義王」と「尊雅王」以外は川上村の「御宝物由来」という書物に出てくるね。
(『後南朝史論集』の「川上村『朝拝』の記」に載せられている)
系図の通りの繋がりになっているし、周辺地域の「後南朝史跡」にもこれらの名前をよく見るけど、
共通して伝えられているのか、あるいは「由来」かまたは別の書物が原典にでもなっているのか。
761日本@名無史さん:2006/09/23(土) 01:11:33
>>759
後亀山院 ― 恒敦宮 ― 聖承 ― 教尊
762日本@名無史さん:2006/09/23(土) 02:29:40
じょうすい
763日本@名無史さん:2006/09/23(土) 21:28:58
禁闕の変だねえ。
764日本@名無史さん:2006/09/24(日) 12:19:00
>>763
何気に凄い事件だよねコレ
765日本@名無史さん:2006/09/25(月) 14:14:48
>756の記事や系図は平家の落人伝説なんかと同レベルのヨタ話でしょうね。
円胤を小倉宮系統にしたり、通説と食い違いすぎている。
小倉宮を例の「実仁」という名前にしているところも怪しい(>690のような電波くさい)

766日本@名無史さん:2006/10/01(日) 20:13:44
長慶天皇に興味があります。
南北朝の合一後、彼は何をしてたんでしょう?
767日本@名無史さん:2006/10/01(日) 23:23:39
全国を漫遊してた
768日本@名無史さん:2006/10/02(月) 14:13:46
大陸に渡って三好長慶になった
769日本@名無史さん:2006/10/03(火) 02:27:07
すでに出家して、和泉の長慶院に居たんじゃなかった?
770日本@名無史さん:2006/10/11(水) 08:50:43
後南朝では結局即位宣言した皇族はいなかったみたいだな
771日本@名無史さん:2006/10/11(水) 22:43:59
何で?
772日本@名無史さん:2006/10/11(水) 23:06:24
自天王だけだろ。
773日本@名無史さん:2006/10/12(木) 00:57:38
合一後は知らんが
天皇で彷徨ってた頃
岩手や青森の辺りで南部煎餅の原型を食べてたって話しは有るな
まぁ言い伝えだけど
774日本@名無史さん:2006/10/12(木) 06:49:13
↑長慶天皇か?

南部煎餅といえばモーゼ伝説のマナry
775日本@名無史さん:2006/10/12(木) 12:48:04
>>773
ああいう煎餅を南部煎餅というのか。
呼び方を初めて知ったよ。

それはそうと
長慶天皇が岩手や青森まで行くってのはありうるのか?
776日本@名無史さん:2006/10/13(金) 06:48:13
後南朝で、即位宣言したのは自天王のみ。
誰も相手にしてくれなかったので
しかたなく自ら天皇と称した。それで自天皇。
777日本@名無史さん:2006/10/13(金) 06:49:58
蝦夷ヶ島だろうが琉球だろうがありうるよ。可能性だけなら。
778日本@名無史さん:2006/10/13(金) 06:50:36
浪岡御所だってあったんだろ?
779日本@名無史さん:2006/10/25(水) 22:27:30
>>778
浪岡御所って北畠氏じゃなかったっけ?
780日本@名無史さん:2006/11/18(土) 21:19:09
ほほー
781日本@名無史さん:2006/11/18(土) 23:20:14
このスレ5年近くももってるのか…凄いな。
782日本@名無史さん:2006/11/19(日) 00:24:22
1000まで行くのに、あと1年くらいか
783日本@名無史さん:2006/12/18(月) 01:25:01
784日本@名無史さん:2006/12/21(木) 23:17:10
義有王自害の日。
785日本@名無史さん:2006/12/22(金) 22:45:11
今年は自天王550年忌だったけど特別なイベントはなかったのか
500年忌では後南朝史論集が刊行されたけど
786日本@名無史さん:2006/12/25(月) 02:43:08
>>784
円胤=義有は確か?
787日本@名無史さん:2006/12/31(日) 00:51:18
788日本@名無史さん:2007/01/18(木) 23:42:49
789日本@名無史さん:2007/01/28(日) 03:07:23
朝拝式って普通に参加できるんですか?
790日本@名無史さん:2007/01/28(日) 13:56:30
参加は筋目衆だけ。見物なら誰でもできるんちゃう?
791日本@名無史さん:2007/02/05(月) 12:42:00
御朝拝式おお賑わい…。
792日本@名無史さん:2007/02/05(月) 23:24:23
過疎とか高齢化とか、将来的に大丈夫なのだろうかこの行事。
村のサイトで人口推移見たら、劇的な減り方をしていて。
まあ、どこもそうと言ってしまえばそうなんだろうけど・・・。
793日本@名無史さん:2007/02/09(金) 02:34:03
たしか今年550年なんですよね朝拝式。でも結局自天王は誰の息子、孫、曾孫で誰なんですか?
川上村の人しか知らないこととかあるんですかね?
794日本@名無史さん:2007/02/09(金) 04:17:20
後亀山天皇−小倉宮−尊義王−自天王
795日本@名無史さん:2007/02/09(金) 06:58:06
>>792
うん、その危機感があるので550周年を機に
一般も参列できるようにして、村の祭りとして
みんなで保存するようにしたのではないかな。

ただやはり筋目衆は年寄りが多くて、
十年後とかは心配ですね。
796日本@名無史さん:2007/02/10(土) 07:54:31
南朝最後の皇統しのび朝拝式-川上の金剛寺
ttp://www.nara-np.co.jp/n_all/070206/all070206a.shtml

地区別にやっていたのを一緒にするようにしたのかな
797日本@名無史さん:2007/02/10(土) 21:03:01
万世一が途絶え、偽帝に簒奪されてから五百猶余年。
798日本@名無史さん:2007/02/25(日) 09:44:36
筋目衆の跡取り達ていないの?
799日本@名無史さん:2007/02/25(日) 09:50:17
筋目どおしだけの縁組だけで血脈を保ってきた
南朝の遺臣の子孫達なんて
松本清長の小説みたいだね
800日本@名無史さん:2007/02/25(日) 10:00:29

まあ世の中には我こそは清和天皇40代の後胤、なんて人はけっこういそうだから
仮に後醍醐天皇25代なんて自称するのがいたって、どうぞ御勝手にw・・・だよな

801日本@名無史さん:2007/02/25(日) 10:03:08
清和源氏の子孫は現在確認されてる人数だけで250万人です
802日本@名無史さん:2007/03/11(日) 12:54:11
村田正志が報告してた、
伝後醍醐天皇木造の祝詞の文章により、
自天皇は長兄天皇3世孫だという説は同なの?
803日本@名無史さん:2007/03/12(月) 20:27:11
>>802 長慶天皇って皇子いたの?
じゃなんで後亀山が即位したんだ?
804日本@名無史さん:2007/03/12(月) 21:22:08
長慶天皇にも子供はいた。承朝とか、玉川宮とか。
確かにこの時代、不思議に兄弟相続が多いんだよね。皇統分裂の原因になるのに。
ちなみに後亀山には皇太「弟」がいたことがわかっている。
805日本@名無史さん:2007/03/12(月) 23:06:38
てか皇統分裂と兄弟相続は南北朝の起点だろう…

しかし後嵯峨院の意向で両統に分裂したまではまあいいとして(分割相続の亜種だもんな)
その後両統とも更に分裂していくってのはなあ。
後醍醐いなかったら穏当に皇統は分裂したのかねえ。
806日本@名無史さん:2007/03/13(火) 19:00:47
花園天皇の子孫が続かなかったのが不思議
807日本@名無史さん:2007/03/13(火) 22:37:55
>>806 いくら器量が良くても兄貴の後伏見天皇の系統が皇位を継ぐのが正しい姿なのであります。
808日本@名無史さん:2007/03/13(火) 22:57:28
>>803
宮方内部での講和派と抗戦派の争いと聞いたことがある
809日本@名無史さん:2007/03/14(水) 18:52:25
>>803
当たり前。
なぜなら、後亀山は長慶の東宮だから。
810日本@名無史さん:2007/03/14(水) 19:09:23
>>809 ななんで兄→弟なんだ。
普通、父→子じゃん
811日本@名無史さん:2007/03/15(木) 01:52:42
>810
兄→弟 は、大覚寺統の伝統です。

で、その弟の子孫が、兄の子孫を追放して行くのが、
これまた大覚寺統の基本路線です。初代からずっとね。
812日本@名無史さん:2007/03/20(火) 21:14:40
兄弟相続こそが両党分裂の原因になったのに、持明・大覚寺はそのごもそれぞれで
兄弟相続を繰り返したんだよね。
摩訶不思議。
813日本@名無史さん:2007/03/25(日) 13:38:54
昔選手名鑑に広島の熊沢秀浩コーチは熊沢天皇の子孫だと書いてあった。
814日本@名無史さん:2007/03/25(日) 13:42:38
 それ ほんと?? 今熊沢家の人たちは皇室の男系女系についてどう思ってるのかねえ
815日本@名無史さん:2007/03/25(日) 13:43:41
 熊沢家にも何人かいたが
816日本@名無史さん:2007/03/27(火) 15:05:33
雪紅皇子 オススメです。
少女マンガだけど。
817日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:16:50
>>674
いまどき、ここまで平気で自信たっぷりのデタラメ長文書く人間も
珍しい。
>>676
確か「後南朝」というスレに詳しい経緯が書いてあったよ。
818日本@名無史さん:2007/03/29(木) 11:17:39
しまった。誤爆したw
819日本@名無史さん:2007/03/29(木) 20:25:46
「あんな山奥で
冬は寒いだろうに」
などという平凡な文章を口を極めて罵倒する>>818に乾杯!!w
820日本@名無史さん:2007/03/29(木) 21:46:46
>>818ヒドスW
821日本@名無史さん:2007/03/31(土) 01:21:18
山田長政がいた頃のシャムも同じように兄→弟の順に継いでいたな。
822日本@名無史さん:2007/03/31(土) 21:25:54
674だす

>817しゃんは、現在の研究状況と提唱者・支持/同調者の情報をヨロスク。
823日本@名無史さん:2007/04/15(日) 19:11:59
しかし長禄の変で討たれた南朝の宮って、
本物の南朝の宮の拉致に失敗した鳥羽高秀が自称したって感じがするんだが。
824日本@名無史さん:2007/05/18(金) 00:34:35
ho
825日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:44:27
三重県尾鷲市に、所謂「西陣南帝」の皇子の墓とされるがあるらしい
ttp://www.mie-michi.net/spot/report.php?no=1
西陣南帝の皇子が扱われることがまず珍しいと思うが、
西陣南帝が護良親王の子孫とされているらしいのも気になる
826日本@名無史さん:2007/05/27(日) 14:45:50
よく見たら「西陣親王」だった鬱
827日本@名無史さん:2007/05/29(火) 03:20:19
>>825
熊沢照元系図による伝承なので
もっと欝になる…。

長兄が粒良王信秀
次兄が都々王信雅
末弟が綴連王重信

上から、つづら・つづこ・つづれって…orz
828825:2007/05/29(火) 20:21:01
熊沢系の伝承でしたかorz
失礼しました・・・
829日本@名無史さん:2007/05/29(火) 20:42:16
長禄の変の兄弟も、西陣の南帝も、前後の経緯から考えて、たぶん本当の南朝の子孫ではない。
西陣宮は奈良から上京し小倉宮の子と自称していたし、また父と弟が実在してたことがわかっているが、
小倉宮事態は金欠の変で教尊が配流され、取り潰されたのは間違いなく、
応仁の乱の頃まで続いていたとは考えにくい。
830日本@名無史さん:2007/05/29(火) 22:04:23
今月の歴史読本
後南朝秘録ですのでage!
831日本@名無史さん:2007/05/30(水) 01:55:45
金欠の変て…金蔵主が泣くぞ!
832無名仁:2007/06/02(土) 10:39:36
 鞍馬に引退の由
833日本@名無史さん:2007/06/11(月) 21:28:09
歴史読本読んだけど、
後亀山天皇の東宮三宮って、護聖院宮惟成であることが判明したみたいだね。
今までは、系図により三宮は泰成とされ、護聖院宮は「説成」とされ、上野宮=福御所と、
同一人物とされていたが、違っていたことになる。
後世の資料や系図による議論が、いかに当てにならないかを物語るものだ。
834日本@名無史さん:2007/06/12(火) 14:48:01
「惟成」という名前の出所は、参考元を見ないとわからないかな。

でも、元東宮であったとなれば、
護聖院宮とその子孫が結構後々まで登場するのも納得がいくというか。
835日本@名無史さん:2007/06/13(水) 01:29:23
惟成親王の名は新葉集に登場する。
836日本@名無史さん:2007/06/13(水) 22:53:26
新葉集奥書に「上野太守懐成(かねなり=説成)親王」ってあったような。
837日本@名無史さん:2007/06/14(木) 12:30:51
そういえば歴読の護聖院宮の項目で、
円満院宮と護聖院宮が確執して
刃傷事件って書いてあったけど、
惟成親王系の兄弟ケンカ?

そうとしたら、何やってんだか…。

 
838日本@名無史さん:2007/06/15(金) 00:48:19
>>833
ということは、成仁王は惟成の子だったのか
839日本@名無史さん:2007/06/16(土) 23:44:49
ん? ということは、
成仁王と世明・円胤・円悟は兄弟?
840日本@名無史さん:2007/06/17(日) 18:19:26
と、いうことは大覚寺帥宮は恒敦か?
841日本@名無史さん:2007/06/18(月) 00:42:54
歴史読本読んだけど、
一番面白かったのが熊澤天皇の別冊だった
あとはいつもの話だな。
842日本@名無史さん:2007/06/18(月) 02:14:55
来週に吉野に行くんだげど、おすすめの場所や史跡教えて
特に後南朝関係
843日本@名無史さん:2007/06/18(月) 10:40:56
四条畷神社
844日本@名無史さん:2007/06/18(月) 15:38:39
隠し平行宮
845842:2007/06/19(火) 00:13:36
>>843 >>844 ありがとうございます!! 場所や見所等を教えていただけると
うれしいでつ
846日本@名無史さん:2007/06/19(火) 01:38:14
>>844
ちょっと遠くないか?
847日本@名無史さん:2007/06/19(火) 04:16:59
>>842

<川上村>
東川住吉神社
御首載石・大西助五郎碑
南帝王の森・福源寺
金剛寺・河野御所
橘将監墓
三之公神社・八幡平行宮
隠平行宮・尊義王墓

<上北山村>
北山宮・瀧川寺

それぞれがかなり離れているので、車で行ってもすべてを周るのは無理です。
南帝王の森・福源寺、金剛寺くらいに絞った方がいいです。
御首載石は移動途中にあります。大西碑はその対岸ですが、かなり南に行かないと対岸に渡る橋がありません。
848日本@名無史さん:2007/06/19(火) 20:29:25
あと、上北山村から国道169号を南の方に進めば、
三重県熊野市内に「尊雅王」絡みの場所が光福寺はじめ幾つかある。

ところで、上北山と熊野市の間にある下北山村には何故かそれ関係のスポットが見当たらない。
でも「南朝みそ」というものが売られている。
849日本@名無史さん:2007/06/19(火) 22:05:35
これほど歴史的スポットがあっても、確かな史実となると心ともないよな。
尊雅王なんて、どうやってそんな人物が作り出されたのかわけわからん。
850日本@名無史さん:2007/06/20(水) 00:44:55
尊雅王の伝説は
文安の蜂起(紀伊の北山)と文明の蜂起(吉野奥と熊野)に影響されて出来たのではなかろうか、
という話を何かで読んだが、はっきりしたルーツというかきっかけはわからないね
851日本@名無史さん:2007/06/23(土) 02:26:52
>843
吉野から四条畷まで2〜3時間はかかるだろ?
852日本@名無史さん:2007/06/28(木) 02:29:42
昔に習って歩いていけよ
853842:2007/07/03(火) 00:42:37
 金剛寺行ってきますた。バス&タクシー使って…
情報ありがトン ものすごい場所にあってびっくりしました。
地元の人にもあまり知られていないようですよ。
854日本@名無史さん:2007/07/11(水) 21:28:34
赤松の残党らが神璽を奪ったけど、場所が判っているなら幕府軍が正式に出動すれば良かったと思う。どうしてしなかったんだろう?
855日本@名無史さん:2007/07/11(水) 21:30:20
age
856日本@名無史さん:2007/07/12(木) 20:39:16
大軍で行ったらまたどっかに逃げるだろ。
857日本@名無史さん:2007/07/13(金) 06:53:05
>854
赤松は神璽を奪い返すのを条件にお家再興を幕府と密約。
味方のふりをして近づき、騙し討ちで神璽を奪った。

858日本@名無史さん:2007/07/14(土) 13:19:13
 『悪党の戦旗〜嘉吉の乱始末〜』岩井 三四二(イワイ ミヨジ)
が、赤松氏側からの視点で嘉吉の乱〜長禄の変が描かれていますね。
 日経新聞(H19 4/15)に書評が有りました。
859日本@名無史さん:2007/07/16(月) 17:29:08
>>853
ものすごい場所って、どうすごいんだ?
860日本@名無史さん:2007/07/17(火) 21:50:00
いまだに南朝御子孫を名乗る山賊がいる。
861日本@名無史さん:2007/07/19(木) 23:22:30
>>853
交通費はどのくらいかかりましたか?
862853:2007/07/21(土) 15:58:03
>>859 幹線道路沿いじゃなく、とても車じゃないといけないところです。
>>861 最寄の駅から、川上村役場まで、バスで行って、そこからタクシー乗り継いで行きます。
タクシー代は往復8000円ほどですね バス代は忘れましたが、駅から1万あればよいでしょう。
 
863日本@名無史さん:2007/08/28(火) 19:56:09
小倉宮sage
864日本@名無史さん:2007/08/31(金) 01:27:00
後南朝の忠義王は征夷大将軍と称したと言われているが、ウィキペディアに掲載されていない。
載せたほうがいいのだろうか。宗良親王や成良親王は載っているが。
865日本@名無史さん:2007/08/31(金) 02:07:50
>>864
出典を明確に示せるならいいんじゃないか?

楠木氏の子孫って、たびたび資料に出ては討たれてるけど、六代足利義教
の時代まで反幕の活動をしてたみたいだな
866日本@名無史さん:2007/09/02(日) 15:26:06
何やってこの人たち暮らしてたんだろう?
867日本@名無史さん:2007/09/03(月) 00:09:47
地元の豪族とかの援助や支援だと思う
868日本@名無史さん:2007/09/03(月) 17:27:35
地方の豪族たちが、高貴な人がやってきた!ってことで、
娘の婿に迎えたりする。
869日本@名無史さん:2007/09/06(木) 01:50:55
いや私が言いたいのは付いてきた人々。
南朝後胤は高貴な人だから食わせる価値はあるが、
お供や浪人さんは北山・川上の山奥で何してたんだろうかと思って?
870日本@名無史さん:2007/09/06(木) 02:20:36
>869
お伴の大半は、上流貴族だろ。
摂関家や清雅家など。
871日本@名無史さん:2007/09/12(水) 00:24:50
没落貴族(笑)
872日本@名無史さん:2007/09/12(水) 00:41:28
いまでは、足利末裔と和解してる。
年一回、何の日だったか忘れたが、
平島足利家の末裔の京都の家に挨拶にきて、
その後吉野に向かってる。
873日本@名無史さん:2007/09/14(金) 00:52:03
大相撲の西十両8枚目、大真鶴(30)=本名大前健司、奈良県出身、朝日山部屋=が秋場所4日目の12日、
「左眼窩(がんか)底骨折で全治1カ月」との診断書を日本相撲協会に提出し、休場した。

師匠の朝日山親方(元大関大受)によると、大真鶴は場所直前のけいこで
顔面や頭部を激しく相手にぶつけたという。休場は2002年秋場所以来で2度目。4日目の対戦相手、里山は不戦勝。

http://www.sanspo.com/sokuho/070912/sokuho019.html
874日本@名無史さん:2007/09/14(金) 03:47:36
>>869
あの辺りは金や水銀が採れたらしい。
歴史読本「後南朝秘録」に載っている。
875日本@名無史さん:2007/09/15(土) 00:32:11
>>お伴の大半は、上流貴族だろ。
>>摂関家や清雅家など。
いやだから浪人なんかの話。楠木やなんかでしょ。
海賊山賊やってたと後南朝史論集の
橋川家のところで書いていたよ。
876日本@名無史さん:2007/09/27(木) 13:11:36
いまさら南朝の話してどうするの
末裔を天皇にでもしようというの?
伏見宮系の旧皇族を皇族に戻すことだけでももめてるのに。
南朝の子孫を正統天皇だと思っている人は今の政府も憲法も認めないの?否定?
今の天皇とは別に南朝の血を引く天皇が日本のどこかに即位しているの?
クーデターとか興して政権を取り日本を支配しようと思ってるの?
877日本@名無史さん:2007/09/27(木) 13:22:35
民主党の「次の内閣閣僚」やオウムみたいに
後南朝は今も太政官制を維持してて左大臣や各省の卿がいるのかな?
878日本@名無史さん:2007/09/27(木) 15:26:44


結論

血筋がどうであろうと親王宣下をうけて認められていない以上、継承権なし。

よってスレ終了
879日本@名無史さん:2007/09/27(木) 16:26:40
>>876-878
( ´_ゝ`)フーン





( ´,_ゝ`)…プッ
880日本@名無史さん:2007/09/27(木) 19:52:43
878さん、ちがうちがう
後南朝は現在も存在していて、天皇がいて皇太子がいて大覚寺統の親王宣下を受けた皇族がいる
っていう話
今現在の日本皇室とは違う
別の話
881日本@名無史さん:2007/09/27(木) 19:55:01
879さん、ありふれた絵文字はいいから
ちゃんと日本語で意見聞かせて
882日本@名無史さん:2007/09/28(金) 00:05:27
>>880
神器を返して降参した時点でアウト
883日本@名無史さん:2007/09/28(金) 08:25:27
吉野に言ったけど本当に高貴そうな高貴な顔は居なかった。


よってスレ終了


884日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:19:33
>>880

証拠を出せ。

証拠を出してみろいw

証拠出せ証拠出せ!
885日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:24:56
そうだ! そうだ!


証拠出せ!
886日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:27:42
万が一「明徳の和約」の有効性が最高裁判決で認められたとしても、
皇孫たる証拠が無いので無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄
887日本@名無史さん:2007/09/28(金) 13:30:28
小倉宮の親王宣下の証拠さえ無いので無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄

無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄
無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄無駄

888日本@名無史さん:2007/10/06(土) 18:24:05
金さんを出せ
889日本@名無史さん:2007/10/06(土) 20:21:20
金をくれ
890日本@名無史さん:2007/10/07(日) 15:09:09
熊沢天皇はどうなったの?
891日本@名無史さん:2007/10/07(日) 16:25:03
皇位詐称でギロチンで処刑されました。。。南無
892日本@名無史さん:2007/10/08(月) 10:31:59
タイムマシンで西暦2070年を旅して来ました。
その時代は悠仁天皇の御世であり、皇室には、皇太子一家の他に
弟宮として飛鳥宮、他に傍系4宮家の方々がおられましたよ。
傍系宮の初代には我々の知っている姫君が迎えられておりましたよ。
893日本@名無史さん:2007/10/08(月) 23:09:01
時津風
894日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:09:07
俺の先祖が後南朝の天皇を殺したらしい。
自天皇とかいうらしいんだけどネットに引っ掛からないから嘘なのかな?
895日本@名無史さん:2007/10/09(火) 00:57:04
後南朝の天皇=自称天皇
896日本@名無史さん:2007/10/09(火) 02:54:26
>>892
その時の年号は?
897日本@名無史さん:2007/10/09(火) 11:49:04
>>894
阪神タイガースの赤松さんですか?
898日本@名無史さん:2007/10/09(火) 16:11:20
>>896
天靖628年
899日本@名無史さん:2007/10/17(水) 18:31:34
反日本親朝鮮の記事捏造アサヒる新聞は日本から出て行け。
900日本@名無史さん:2007/11/03(土) 23:09:12
age
901日本@名無史さん:2007/11/04(日) 04:44:38
>>897
「自天皇」調べ直したらヒットしたよ(正確には自天王なんだな)
先祖は赤松家臣の宇津木って人(母方なので俺は宇津木ではない)

まさかホントだったとは…
902日本@名無史さん:2007/11/04(日) 05:43:33
>>901
母方の実家に自天王を写したと思われる木彫りの仏像が伝わってないかい?
903日本@名無史さん:2007/11/04(日) 19:02:05
もしも南朝の後亀山天皇が足利義満の和睦に応じずに、
徹底抗戦していたら南朝はどれくらい存続できたかな?
幕府は武力をもってしてでも南朝を滅ぼすつもりだった
のかどうかは分からないが。
904日本@名無しさん:2007/11/07(水) 08:58:02
>>903
合一の直前、楠木氏は幕府軍によって河内から大和十津川へ追われている。
905日本@名無史さん:2007/11/07(水) 09:01:24
>>903
南朝の末裔は応仁の乱ごろまで担ぎ出されているから
同じことじゃないかな。
後亀山天皇の頃には南朝はかなり弱体化していたから
足利家にとってはいてもいなくても同じだったろう。
南朝を支援していた伊勢国司北畠氏は戦国時代まで生き残っている。
織田信長によって骨抜きにされたが、それくらいまでは細々ともったかも。
906日本@名無史さん:2007/11/07(水) 09:34:24
南朝は滅びてなどおらん!
孝明天皇暗殺で滅んだのが北朝
明治以降は全て南朝なのですから
907日本@名無史さん:2007/11/07(水) 17:10:44
>906
はいはい、明治天皇すり替え珍説の人は
別スレへ行ってやってねw
908日本@名無史さん:2007/11/11(日) 12:58:27
今の政局が南北朝チックだったりして
909日本@名無史さん:2007/11/19(月) 00:04:44
>>782
1年たったけど1000逝かなかったよ・・・
910日本@名無史さん:2007/11/24(土) 02:45:04
後南朝を題材にした作品といえば雪紅皇子
911日本@名無史さん:2007/11/30(金) 14:50:16
>>833
東宮=三宮という証拠はあるんだっけ?
912日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:22:11
忠義王文書ってどこで見れますか?
913日本@名無史さん:2007/12/01(土) 18:39:59
村田正志氏が真偽検証してなかったか?
914日本@名無史さん:2007/12/01(土) 19:50:56
「日本歴史」の「忠義王文書を訪ねて」だったかな。
様式としては異様だが僻地で出されたことを考慮して
「真」ではないかとの判定。
915日本@名無史さん:2007/12/01(土) 21:48:57
ありがとうございます。
原本の史料が見たいんのですが、文書には忠義とあるだけで忠義王ではないんですよね?
忠義王と忠義は同一人物なんでしょうか?
二ノ宮=河野宮だとしても
忠義=忠義王=河野宮=二ノ宮じゃないですよね?
916日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:09:24
忠義(花押)だな。忠義王文書として世に知られているものは3通あって
そのうち現存しているのは「熊野那智大社文書」と「色川郷文書」の2通。
日本歴史380号(1980年1月)に原本の写真が掲載されているよ。
917日本@名無史さん:2007/12/01(土) 23:55:52
わかりました!
今度探してみます!
918日本@名無史さん:2007/12/02(日) 07:56:10
>>18
西陣南帝は高野山をへて北陸へ(上杉氏に保護される?)
西陣南帝の皇子、浅利宮は熊野で死去

結局このソースはどこなんでしょうか?
919日本@名無史さん:2007/12/03(月) 20:20:54
ためになるなー
920日本@名無史さん:2007/12/03(月) 22:38:46
ためになるなー
921日本@名無史さん:2007/12/03(月) 23:32:53
>>918
浅里宮については>>459
922日本@名無史さん:2007/12/04(火) 21:35:09
みなさんは後南朝史の勉強にはどの著作を利用してますか?
自分は後南朝史論集と森茂暁氏の著作、後南朝秘録くらいなんですけど・・・
他に信頼できる本あります?
923日本@名無史さん:2007/12/05(水) 01:40:25
村田正志先生は著作集を出されているから読んでみるといい。
近くの大学の蔵書検索でヒットしなかったらWebcat Plusで調べて
ちょっくら資料渉猟の旅に出てみるのもまた楽しきこと哉。
924日本@名無史さん:2007/12/05(水) 05:17:55
Webcat Plussとか知らなかったです。ありがとうデス。

今年は寒いっぽいけど雪降ったら2月5日行くのは難しいかな〜
925日本@名無史さん:2007/12/06(木) 15:14:25
吉川弘文館の日本史地図の系図に、
後亀山天皇─良泰親王─空因─(ry
とか未だに書いてあってワロタww
926日本@名無史さん:2007/12/06(木) 22:05:11
後亀山天皇─良泰親王─空因ってどこの史料だっけ?

後南朝系譜はややこしくてめんどくさい・・・

自天王、忠義王は結局系譜上誰なのw

今のところ梵勝・梵仲で決まりなのかな?年齢を考えたら伝承と食い違うんだけど・・・

誰か教えてください。
927日本@名無史さん:2007/12/06(木) 22:35:41
ややこしいことは何もないぜ

後亀山─恒敦宮─聖承─教尊

で小倉宮はお終いなんだぜ?
928日本@名無史さん:2007/12/06(木) 23:12:46
ん〜自分としてはそれ以上突っ込んで考えたいんですけどね〜
929日本@名無史さん:2007/12/07(金) 00:58:46
>>802
その祝詞ってどこかに載ってるのかな?
930日本@名無史さん:2007/12/08(土) 05:40:59
村田正志氏の著作集サイコーですね!
931日本@名無史さん:2007/12/08(土) 14:59:31
>>929
村田正志「南北朝史論」
第四章第二節「傳後醍醐天皇御木像をめぐる史實」に全文掲載
932日本@名無史さん:2007/12/11(火) 01:02:22
>>931
dクス
933日本@名無史さん:2007/12/11(火) 03:09:32
すみません、大覚寺帥宮ってどこに出てくるんでしょうか?
ちょっとわからないんです・・・
934日本@名無史さん:2007/12/11(火) 03:50:56
見つかりました(笑)ふつうにみたらわかるし。アホだ・・・

935日本@名無史さん:2007/12/11(火) 19:14:45
>>833
「護聖院宮法皇御舎弟、於南朝春宮」からなぜ護聖院宮=惟成親王になるでしょうか?
三宮が惟成親王ってのが前提ですよね。三宮=惟成って確定なんですか?
936日本@名無史さん:2007/12/11(火) 20:39:04
後村上院の皇子の長幼に関しては、小木喬が新葉和歌集の研究で
あれこれ推測していたと思うけど、 奥書の史料性はどうなのだろう?
(『日本史資料総覧』の系図では採用されている模様。)
937日本@名無史さん:2007/12/11(火) 22:25:38
その新葉和歌集本文と研究の惟成親王のところ見てたんですけど、泰成が惟成の弟であるから三
宮で三宮は南山御出次第の順序をみると皇太子と思われ、義満と天竜寺で会っているのが
後亀山と御舎弟なので御舎弟=三宮=皇太子=東宮=惟成親王で、「護聖院宮法皇御舎弟、於南朝春宮」
とある文から御舎弟=三宮=皇太子=東宮=惟成親王=護聖院宮ってことなのか・・・
938日本@名無史さん:2007/12/14(金) 00:02:26
日尊も西軍に擁立されてたんですか?
939日本@名無史さん:2007/12/16(日) 01:08:05
仙洞御所が京都の岡崎にあったみたいなこと聞いたんですけどソースってどこですかね?
940日本@名無史さん:2007/12/16(日) 03:40:37
岡崎前門主?
941262:2007/12/16(日) 14:39:23
>>839
京都岡崎の仙洞御所といえば、白河上皇や後白河上皇が愛用した
院御所「白川殿」のことだろうと思うけれども、
南朝や後南朝とは関係ないと思うのだけれども・・・
942日本@名無史さん:2007/12/16(日) 20:53:52
そうなんですか〜わかりました。岡崎前門主について知りたいんですけど・・・。
岡崎前門主の岡崎って京都の岡崎でしょ?どっからか正体見えてこないですかね?
943日本@名無史さん:2007/12/16(日) 21:45:47
>>922由良哲次の『後南朝編年史』。
ただ限定300部なので入手難。
944日本@名無史さん:2007/12/16(日) 21:47:10
>>922由良哲次の『後南朝編年史』。30年前に限定300部で出版されたもの。
945日本@名無史さん:2007/12/16(日) 22:16:56
>>18さん
 西陣南帝は高野山をへて北陸へ(上杉氏に保護される?) については以下の曲解でしょう。

[晴富宿禰記]
七月十九日、癸酉、晴。職業語云、以前山名入道暫所奉入安清院之南方宮、
今自越後越中次第國人等奉送之著越前國北庄給之由、斯波内細川被管自國
上洛語云々、

卅日、甲申、晴、出羽王ニテ侍カ、武士等致緩怠之間、令遁世テ可向高野、
先暫可在八幡由自稱、而令通市原野二瀬給、其躰法師ノ四十計ナル、赤袴ノ
上ニ白布ノ袴ヲ重テ、上ニハ装束ノ様ナル者ヲ著テ、只一人有之、從類六人
在後、定テ人ニナフラル丶間遅く來歟ト云々、希代之仁成ト云々、

 仮に小倉宮御息と出羽王が同一人物だとしても「北陸を経て高野山」ですし「高野」
が果たして高野山と言い切って良いのかは疑問に思います。
946945です:2007/12/16(日) 22:19:46
(誤)>>18さん
(正)>>918さん
947945:2007/12/16(日) 22:22:28
[晴富宿禰記] 文明十一年の記事です。失礼しました。
948日本@名無史さん:2007/12/16(日) 23:01:19
>>938さん
 小倉宮御息は日尊が「取立てた君」との記事は有りますが小倉宮御息が「西方新主」「新主上」となる
前年、畠山政長(東軍)によって殺害されています。短い記事から活力ある人物像が想起されます。
答えになっていませんね。

〔大乗院寺社雑事記〕文明三年閏八月十六日
中御門被相語、南朝方ニ此一兩年日尊と号シテ十方成奉書、種々計略人在之、後酉酉院之御末也云々、
南朝御方ニハ隨分人也、可成將軍所存在之歟云々、去年召取之被○了、其靈之所爲ニ法皇俄ニ崩御云々、
彼靈ウツヽニ相見事及度々、然之間被立石塔種々佛事有之被訪之其以後ハ不見靈云々、希有事也、
今西方ニ御出之南朝ハ、則日尊取立申君也云々、


〔親長卿記〕文明二年十二月六日
晴、南方餘流人打取、賊首京著之由
949日本@名無史さん:2007/12/17(月) 02:55:33
>>943
>>944

それ何冊か図書館で半分コピーしました。まだ読めてないですが。入手困難ですか・・・厳しいですね。
950日本@名無史さん:2007/12/17(月) 03:01:09
>>945
あ〜上杉氏に保護される?とかあるから混乱してました。なるへそ・・・。
文明11年7月19日条、30日条ですね。アリガトゴザイマス。
951日本@名無史さん:2007/12/17(月) 03:12:44
>>948
ようは日尊は西軍が擁立したが東軍に殺されたので代わりに小倉宮御息を擁立ってことですか?
文明2年の2月からの後南朝の動きは日尊=西軍の動きになるデスかね?
系譜も後醍醐天皇皇胤としかないのは厳しいですね。
952日本@名無史さん:2007/12/17(月) 08:35:00
 由良哲次著・毛束 昇編『後南朝編年史(全12冊)』はごく稀に古書市場に出品されますが、
12冊揃いは更に稀です。奈良県立図書情報館はさすが全冊完備されていました。
 由良哲次と『後南朝編年史』については、四方田犬彦が『先生とわたし』のなかで述べて
いますよ。
953日本@名無史さん:2007/12/17(月) 12:04:32
詳しいッスネ〜アリガトーございます。
954日本@名無史さん:2007/12/17(月) 23:21:42
>>948
日尊は西軍関係ないんですね。勘違いしてました・・・
955日本@名無史さん:2007/12/18(火) 07:54:28
>>948>>954さん
 日尊と西軍との連携については、「分からない」というのが正確かもしれません。
『応仁の乱』永島福太郎著(昭和43年・至文堂・284頁)でも単に「熊野から南朝余裔の日尊らに
奉ぜられて上洛をはかった小倉宮の王子」という説明に留まっています。結構この『応仁の乱』も
後南朝関係の記事が多いです。
956日本@名無史さん:2007/12/18(火) 08:11:38
〔大乗院寺社雑事記〕文明三年閏八月九日
                                    十八歳云々
一、安位寺殿入御、寳壽院御訪爲被申太閤云々、京都西方ニ新主上被申取立云々、十二三歳、
此間越智壷坂寺ニ御座、經古市御上洛、北野松梅院ニ入御、但其邊爲御用心不可然之間、
山名入道之妹比丘尼寺安山院ニ遷御、後村上院之御末云々、先日女房躰ニテ、御輿ニテ、
古市ヲ御通條分明也云々、安位寺殿仰也、自京都顯阿ミ罷下、同前ニ相語者也、小倉宮御息
也云々、御父並御弟御座云々、

 先ほどの「其躰法師ノ四十計ナル出羽王」は世代からすると小倉宮御息に同行している
「御父(=岡崎前門主なんでしょうね)」でしょうかね。「御弟」というのもいますね。

 
957日本@名無史さん:2007/12/18(火) 08:39:24
 
 文明11年(1479)の20年後、明応8年(1499)の記事は有名ですね。

[妙法寺記]
明應八、巳未、此年霜月王流サレテ三島へ付玉フ也、早雲入道諌テ、相州へ送賜也、

この三島に「流された王」を諌め相模国(神奈川)へ送迎したのは早雲。これが誤って
「上杉擁立云々」になったのかな。時はすでに戦国時代です。
958日本@名無史さん:2007/12/18(火) 09:01:00
 『歴史読本(特集 帝王後醍醐と悪党たち)』(昭和54年6月号)所収の中島河太郎
「後醍醐皇胤最後の人」という随筆では「武士たちに疎略にされたので遁世を志し、高野に
向かおうとして京都を通った出羽王」が後醍醐最後の皇胤としています。
 また西方新主である小倉宮御息が応仁の乱収束にともない「鞍馬辺りに近日引退の由」と
『大乗院寺社雑事記』にある、と記していますが、この条文は『大乗院寺社雑事記』の何年
何月何日の条文なのかご存知の方がいらっしゃれば御教示下さい。
959日本@名無史さん:2007/12/18(火) 22:38:40
>>958
文明9年10月晦日じゃないですか?まちがってたらすみません。
>>956
後南朝について最近判明したのって護聖院宮=惟成親王だけでしょうか?
自分は西陣南帝に弟がいたとかも知らなかったんですけど・・・

960日本@名無史さん:2007/12/18(火) 23:04:01
「後南朝編年史」って後南朝関係の戦争・事件等を
年代順に出典を明記して書いてある本なんですか?
961日本@名無史さん:2007/12/19(水) 08:50:18
>>959さん
 感謝します。手元に『大乗院寺社雑事記』が有りませんので後日調べてみます。記事があるとすればその頃のはずですね。
以前文明9年11月辺りは調べて見たのですが、見落としていたかも知れません。
 西方新主(「西陣南帝」)に「御父並御弟御座」なのは一般に既知の事ですが、それがそのまま

〔大乗院寺社雑事記〕文明元年十一月二十一日
口遊南主蜂起、兄弟一所ハ吉野奥、一所ハ熊野、十方被廻宣云々、年号ハ明應元年云々、希有事也

 、の「兄弟」に該当するかは判りません。新発見の事柄は寡聞ですよね。


 由良哲次『南北朝編年史:上下』(高価ですが入手容易)以降の、仰るように「(主に)後南朝関係の戦争・事件等を
年代順に出典を明記して書いてある本」(後村上天皇崩御の正平23年(1368)から文明10年(1478)
までが様々な史書などを基に編年体で構成)です。小倉宮御息については独自の見解がなされていますが
詳細は後日。





962日本@名無史さん:2007/12/19(水) 08:56:19
口遊南主蜂起
口遊=「口ずさみ」位の意味だそうです。
963959:2007/12/19(水) 12:33:18
>>963
自分は菅政友全集が今手もとにあるので見てみたんですが
「晦日、京都一宮は鞍馬邊に近日中引退哉由、雑説且如何」とあります。

最近史料をいろいろ集めたりしてるんですが捜せば結構ありますね。
964959:2007/12/19(水) 12:49:19
>>961
そうやって仮説を立てるだけでも勉強してないと出来ないですからね〜。

自分はとりあえず史料できる限り集めて丁寧に見ていきたいなと。



965日本@名無史さん:2007/12/19(水) 13:33:23
 アマゾンで『後南朝編年史』が出品されていますよ(他サイト併売ですが)。
88,620円。以前「日本の古本屋」で12冊が12万円で取引されていたのでそれよりは安いですね。
後南朝資料としてはそもそも由良哲次氏の私家版なので稀少です。
966960:2007/12/19(水) 15:55:36
>>961
ありがとうございます!
今度図書館で見てみます
967日本@名無史さん:2007/12/19(水) 18:44:34
 検索すると五萬堂書店でも『後南朝編年史(12冊揃)』が58,000円で出品中です。
在庫の有無は判りませんが。
968日本@名無史さん:2007/12/21(金) 00:30:23
南朝の子孫がいたとして、
日本国籍なら皇籍の無い国民
元華族でもなく
よくて元士族
たぶん元百姓か元商人
法的手続きをふんで
現憲法下で
皇族に戻れる可能性あるの?
969日本@名無史さん:2007/12/21(金) 02:09:44
ない
970日本@名無史さん:2007/12/21(金) 03:37:14
>>968
十津川村民は全員士族だから平民の可能性は薄いな
971日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:07:10
「後南朝編年史」以外で手に入りにくい参考文献ないですか?
972日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:07:54
「後南朝編年史」以外で手に入りにくい参考文献ないですか?
973日本@名無史さん:2007/12/21(金) 16:54:12
 安井久善著の『後南朝史話―歴史と文学の谷間に 』笠間書院(昭和50年刊)はなかなか市場に出回りませんね。
974日本@名無史さん:2007/12/21(金) 23:06:22
〔大乗院寺社雑事記〕文明三年九月十六日の記事からも「二宮」の存在が確認出来そうです。

筒井律師來、對面、(中略)
筒井相語、新主方仁御請申入方々請文等取之、吉野一山返事、南都衆内少々、
其外諸國輩也、年號各別ニ被立之、八月御請共在之、又二宮御座之由在所見云々、

 
〔大乗院寺社雑事記〕文明四年正月廿一日の条で「京方(東軍)」「西方(西軍)」其々の要人が記載されています

東方本城室町殿御所也、主上并三種神器御座、
管領細川右京大夫勝元(略)

西方本城山名入道宗全屋形、南主、今出川殿御座(中略)、公家ノ輩ハ、三條中納言公躬卿、
西河前宰相房任、葉室大納言教忠、安野前中納言季遠、同中納言公煕、同息、四條藪中納言實仲

 『大乗院寺社雑事記』文明三年九月三日条では「四條殿」が南主に近侍している様子が判ります。

 文明年間の記録で後南朝方及び小倉宮御息の呼称として「南主」「南方」「南方殘黨」「南帝」「南朝」
が使われ、『大乗院寺社雑事記』文明三年閏八月九日に「新主上」その後も「西方新主」「新主」とは有りますが、
「西陣南帝」という呼称は後世の造語で史料にはないようですね。
975日本@名無史さん:2007/12/22(土) 16:42:07
西陣南亭は登場したときに「父と弟御座」とあったのだから、
当時すでに父(岡崎門主)と弟が生存していたことがわかっている。
で、兄弟はもとは吉野北山のあたりに潜んでいたらしい。
系統は全くわからないが小倉宮をなのるからには教尊の系統とも思われるがどうだろう。
まあこのあたりになると自称皇胤といっても過言ではないからな。
976日本@名無史さん:2007/12/22(土) 17:07:17
戦国大名に庇護された後南朝の人達って大義名分とかで少しは役にたったのかな?
977日本@名無史さん
>>975
「建内記」5月9日条を見る限り断絶、また禁闕の変で教尊が流罪になっているのに
子孫がいたとしてもそうやすやすと生き延びれたのか・・・。・・・わかりませんね。