1 :
◆ct1NeH0g :
って、どうやって決着していたの?
だいたい、平安時代の政治って、何をやってたの?
貴族は朝廷で何をしていたの?
出世速度は何で決まったの?
2 :
日本@名無史さん:01/12/25 02:32
2
3 :
日本@名無史さん:01/12/25 04:14
家柄と女関係
4 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/25 11:21
宇多天皇が頑張って政治改革しようとしたけど駄目だったね。
本人が退位したらほい、それまでよ、だもん・・・・
5 :
日本@名無史さん:01/12/25 11:23
一般民衆がどうだったのか気になる
6 :
日本@名無史さん:01/12/25 11:50
マターリと呪術なんかかけてたんだろ?
道長の兄貴(名前わすれた、道兼?)は弟の道長の出世を妬んで
足の裏に道長の名前を書いて毎日踏んであるいたそうだ
これも呪術の一種
失脚するときも「呪詛」の罪により流罪だろ?
出世はどこに婿入りするかによって左右されるから
一生懸命、有力者の娘に歌を贈る。和歌の勉強は必須(w
7 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/25 12:17
とりあえず尾張の庶民は結束力が強くて厄介だったらしい。>平安時代
8 :
日本@名無史さん:01/12/25 12:19
>>7 名古屋市立博物館には、例の藤原元命への訴状が展示してある。
昔は今と違って、血気盛んな県民性だったらしい。
9 :
日本@名無史さん:01/12/25 13:02
10 :
日本@名無史さん:01/12/25 13:42
仙一?(w
11 :
◆ct1NeH0g :01/12/25 23:48
血縁による贔屓と、性欲による贔屓ってことですね。
血族内の人気を高めたり、性的魅力を高めたりする手段が
和歌とか漢詩とか呪力(w)とかだったのでしょうね。
貴族間に駆け引きみたいな物はあったんでしょうか。
商人間の駆け引きなら、想像できます。実際の商品や貨幣をめぐって
駆け引きをしていたのでしょうから。
でも当時の政治家たちは?
12 :
◆ct1NeH0g :01/12/25 23:50
宇多天皇はどのような政治をするつもりだったんでしょうか?
中流貴族たちは、上流(大臣や大納言家)の家司となって奉仕することで
出世の足がかりにしたが。
たとえば、その家から女御が宮中に上がってて、懐妊すれば宿下がりして
出産するわけだけど、そのための邸を新築したり。
子供が産まれれば、お祝いに馬を何頭も献上したり。
ようするに賄賂だけどね。
駆け引きというとね。
道長の話だけど、自分の娘(上東門院)がまだ幼くて一条帝の子を産めない。
で、寵愛あつい中宮定子(道長の長兄道隆の娘)が懐妊すると困るから、
他の貴族をけしかけてどんどん娘を入内させた。
他家の娘の産んだ皇子なら、簡単に追い落とせるからね。
これも一種の駆け引き?
14 :
◆ct1NeH0g :01/12/26 03:55
>中流貴族たちは、上流(大臣や大納言家)の家司となって奉仕することで
>出世の足がかりにしたが。
現代風に言えば、公務以外にもアルバイト先があって、アルバイト先とコネを作る
でいいですか。それに賄賂、と。
>他の貴族をけしかけてどんどん娘を入内させた。
なるほどそういう戦略もありましたか。
性欲の権力配分に対する影響が強ければ、それに応じて作戦を立ててるわけだ。
ところで、大臣や大納言を決めるのは天皇?皇后や側室らを決めるのは天皇と
本人の合意?皇太子を決めるのは天皇の一存?
15 :
日本@名無史さん:01/12/26 04:21
>皇太子を決めるのは天皇の一存?
一条や文徳の例を見れば明らかなようにそうではありません。
>大臣や大納言を決めるのは天皇?
かなりのウェイトを占めますが、貴族間の調整、年臈なども必要条件です。
>皇后や側室らを決めるのは天皇と 本人の合意?
女房のうち誰がお手つきになるかは天皇の意志ですが
誰を皇后にするか、中宮にするか、女房になるかは
支配者層の政治的やりとりです。
16 :
◆ct1NeH0g :01/12/26 05:27
皆様、ありがとうございます。
平安時代には、京都でのクーデターを抑止する機構はあったのでしょうか?
また、一気に年代は飛びますが、平清盛はどうやって支配階級に入る事ができたのでしょう?
>1って教えてちゃん?
ちょっと調べれば簡単に判りそうなことをなんでここで聞くの?
質問の内容が低レベル過ぎて答える気なくなっちゃうなぁ。
18 :
日本@名無史さん:01/12/26 10:12
そもそも何故武士があんなに台頭できたのか
朝廷直属の軍は一体何をしていたのか
まぁいいじゃないの>17
幕末スレと天皇スレばっかりのなかで久々の平安スレだ
俺はここで遊ぶことにした
清盛が支配階級にはいったのは長くなるな〜
もとはといえば、後三条・白河院が摂関家の支配から逃れて
自分の思い通りに政治をしたいと思ったからだよ
後三条の母は、摂関家の出身ではなく、内親王だった。
白河の母も、摂関家ではなく傍系の閑院流藤原氏。
摂関家の勢力を弱めるために、それまで陽の当たらなかった中小貴族を
ひきあげた。その中に、北面の武士からうまく院に取り入った伊勢平氏も
いたわけよ。
清盛の父忠盛は正四位刑部卿右京大夫まですすんだけど
これは武士としては破格のことだった。
清盛自身は、保元の乱・平治の乱で武力をもって天皇(院)に仕えたが
この内乱のせいで天皇側が「武士を味方につけなければ」という危機感を抱いたんだな。
直接的には清盛の妻、これは武家平氏ではなく公家平氏(桓武平氏の嫡流)出身の平時子だけど
その妹が後白河に愛され(建春門院平滋子)、産んだ子供が高倉天皇で、
外戚として勢力を振るうというお決まりのコースを辿ったんだが。
21 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 11:40
清盛といえば、白河院ご落胤説あるけど、あれ本当?
あと、忠盛は少年時代、白河院のお手つき寵童だったって話、あるよね。
>12
>宇多天皇はどのような政治をするつもりだったんでしょうか?
藤原氏の専横を阻止しようとして、菅原道真をスピード出世させたりしてる。
22 :
日本@名無史さん:01/12/26 11:58
待ってました!平安時代スレッド\(^o^)/
日本史の中でこれほど面白い時代も無いと言えましょう!
23 :
日本@名無史さん:01/12/26 12:39
清盛の落胤説はまだどっちなのかわかってない。
平家物語には「御落胤だとも言われている」と書かれてあるね。
24 :
日本@名無史さん:01/12/26 12:56
池禅尼ってどこの家の出なの?
25 :
日本@名無史さん:01/12/26 13:02
隆家流?だっけ?
26 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 13:06
修理権太夫 藤原宗兼の娘 宗子 だっけ?>池禅尼
27 :
日本@名無史さん:01/12/26 16:05
サンクス!
28 :
日本@名無史さん:01/12/26 19:56
紀某之氏は、某竹取翁という人物を使って小説でライバルに仕返ししてたな
29 :
日本@名無史さん:01/12/26 21:33
宇多天皇って、もともとは陽成天皇の侍従か何かで、
その頃に在原業平と相撲を取って、ぶん投げられたりしてるんだよね。
いったんは臣籍に下ってさえいる。
現代で言えば、皇太子のご学友の元皇族がいつの間にか天皇になってたようなもの、
って言ったらちょっと飛躍しすぎか?
30 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 22:14
宇多さんは光孝天皇の第三皇子だったけど、18歳で臣籍に下って、確かに一度
源氏になってますね。ちなみに宇多さんが臣下だったのってたった三年か四年の事
みたいですよ。
その頃に確かに業平と相撲をとったらしいけど、ぶん投げられたのは知らないなぁ。
ただ、もみ合っている時に椅子にぶつかって、手すりが折れたという記述は見たことがある。
31 :
日本@名無史さん:01/12/26 22:23
たしか光孝天皇は60歳くらいになってから即位したんだよね?
在位も短かった・・・。
宇多天皇(源定省)が臣籍降下したのは、父が即位する前なのかな?
当時陽成天皇の子供が基経の外孫で、光孝天皇は基経に遠慮して自分の子を
みんな臣籍降下しちゃったとか、読んだおぼえがあるんだが。
32 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 22:28
ドキュソで有名な陽成天皇が宮中でうっかり人殺しをしてしまい、17歳の若さで
退位させられ、すでにとっしょり(55歳)だった光孝天皇が即位・・・
は、まぁいいとして。
なんで父親が天皇になった歳に息子の宇多さんが臣籍に下り、三年後の光孝天皇
崩御の同日、立太子→即位なんて回りくどい事になったのか?
誰か知ってる?
33 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 22:34
>31
>基経に遠慮して自分の子を みんな臣籍降下しちゃったとか
あ、そうなんですか!
(↑ワシったらリロードせずに32のレスを入れてしまった)
どうりでというか(; ´_ゝ`)
46人いる子供の内、数人(女性)以外は全員源氏に下ってる・・・・・
いま自分で調べてみました(すみません)
光孝天皇の即位が884年2月5日
で、臣籍降下が884年4月13日
やっぱり遠慮したんですかね。
35 :
日本@名無史さん:01/12/26 22:46
たしか光孝平氏ってあったよね・・・?
36 :
日本@名無史さん:01/12/26 22:48
たぶん30年くらい前の邦画の恐怖映画です。
飛行機が不時着してハイジャック犯?のヒタイがぱっくり割れてそこに
気持ち悪いミミズみたいな生物がズルズルっと入っていって吸血鬼に
なって人を襲うんです。
ラストシーンもかなりショックだったような気がするがどんなのか思い出せない。
ひたすら気持ち悪かった。
>36 けっこう笑える乱入者だな
すまん誤爆だ
39 :
日本@名無史さん:01/12/26 23:01
>>28 紀某之氏は、某竹取翁という人物を使って...
竹取翁物語の作者は、紀氏ではないのでは。平安朝初頭に政争好きの藤原氏に
不遇にさらされた氏族出身者では。
40 :
日本@名無史さん:01/12/26 23:11
陽成天皇には同母弟がいたのに、なんで後継者になれなかったんだ?
基経の娘を母とした異母弟もいたのに、なんで後継者になれなかったんだ?
わからん。全て基経がとりはからった
42 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 23:27
>40
よくわかんないけど、とりあえず陽成の母親の高子さん自身がかなりのドキュソだから、
同母の弟も似たりよったりだったのかも。高子は昔 業平と駆け落ちして、基経に
阻まれているから、兄妹仲はかならずしもよくなかったかもね。
ちなみに基経の母親と光孝天皇の母親は姉妹。
あと、これはポイント高いだろうなと思うんですが、基経は子供の頃から光孝天皇と
親しく、しかも尊敬していたらしい。
その上嵯峨源氏(融さんとか)が皇位を虎視眈々と狙っていたので、この場はいっそ
光孝天皇にお願いした方がいいと思ったのかも。
どっちみち光孝天皇→宇多天皇→醍醐天皇→朱雀天皇(基経の孫)と来てますし。
>基経の娘を母とした異母弟もいたのに
ごめん、陽成の同母の弟のことかと思った。失礼しました。
44 :
日本@名無史さん:01/12/26 23:46
これは仮説というか、
あるいは臆測(または個人的な妄想?)なんだけど、
皇統の移動があった時には、前の皇統の人たちって、
たいていネガティブな話がいろいろ伝えられるように思える。
例えば武烈天皇や孝謙(称徳)女帝みたいに。
陽成天皇とかその母の藤原高子もそうじゃないかって気がするんだけど。
宇多天皇からすると、かつての主筋で、
目の上のたんこぶ的存在でしょ。
あまり学問的でない発想ですみません。
45 :
日本@名無史さん:01/12/26 23:51
いちおう書いてみたりして。
清和天皇の皇子
陽成天皇 (868生、母基経の娘、高子)
貞保親王 (870生、母同)
貞辰親王 (874生、母基経の娘、頼子)
貞純親王 (873生、母棟貞王の娘)
貞数親王 (875生、母斎宮頭 藤原諸藤の娘)
貞固親王 (母治部大輔橘休蔭の娘)
貞元親王 (母参議藤原仲統の娘)
貞平親王 (母右中弁藤原良近の娘)
貞頼親王 (母木工允 藤原直宗の娘)
基経がなんで陽成の弟を皇位につけなかったか、実に疑問だ。
当時の公卿たちもビクーリしたらしい。
46 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/26 23:57
>44
>陽成天皇とかその母の藤原高子もそうじゃないかって気がするんだけど
いやそんな事はない。高子と陽成のことは完璧な史実。
武烈は古すぎるのでこの場合の例としてはそぐわないと思うし、
孝謙さんの場合は道鏡への侮蔑が端緒だから。
日本の歴史は万世一系なだけはあり、他国のように新王朝が旧王朝を
貶めるような改竄はほとんどしない。
>>46さん
レスありがとうございます。
藤原高子の場合、50代で善祐との姦通をとがめられて廃位され、
後に朱雀天皇の時に皇太后に復されてるけど、
ここに宇多天皇の政治的意図を読み取ってしまうのは、
考え過ぎでしょうか?
48 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 00:22
>47
ていうか、嘘の醜聞をでっち上げてまで高子の地位を貶める
理由がないと思うんだけど>宇多さん
高子を廃位にした翌年には宇多は醍醐天皇に位を譲っていますよね。
基経はすでに故人だし、そうまでして高子を追い落とす理由が
ないのでは?
>48
陽成/藤原高子の不徳を強調すればするほど、自分の王統の正当性を
強調できるというのは、なしでしょうか。
45にあるような清和?陽成の系統を排除するのに、「彼らが天皇にな
るにふさわしくない程、陽成/藤原高子は不徳であった」とすること
で、「光孝?宇多?醍醐の系統に移ったのは当然である」という論理
を強調したのではなかろうか、と。
まあ、嘘をでっちあげまでせずとも、針小棒大に宣伝するくらいはし
ても不自然では無いと思います。
50 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 10:55
>49
宇多が自分の皇位の正当性をことさらに主張する必要はありません。日本の皇室は
一応万世一系を謳っていますが、古代に置いては兄弟相続は当然であり、それは
奈良朝の頃までは親子相続よりも一般的でした。奈良朝の頃に大宝律令が完成して、
皇位争いでもめる事のないよう明文化されていますが、だからと言って、親子相続が
完全に主流になったわけではありません。兄弟相続の名残はその後鎌倉時代まで続きます。
//鎌倉時代以降もあったんだろうと思いますが、ワシ、室町以降はあまり勉強
していないので許してちょ//
陽成の跡継ぎを定める時、他に立候補者がいました。仁明天皇の弟である源融は
「私にも皇位継承権はある」
と主張しています。それを基経がはねつけて光孝天皇に決定したという故事から見ても
「皇位は天皇自身が決めるものではない」という事は判ると思います。
つまり光孝・宇多は選ばれた天皇であり、自ら簒奪した者ではないのです。まして、
宇多の父親である光孝天皇は仁明天皇のれっきとした皇子ですから、兄弟相続でさえなく、
ある意味れっきとして親子相続でもあるわけです。
天皇の孫・曾孫の世代や、形式ではなく源氏に下った皇子が皇位を継ぐというならともかく、
光孝天皇→宇多天皇の譲り渡しは、どう考えても正統です。
//宇多の三年間の源氏姓下賜はただの形式です//
つまり、宇多が「皇位の正統を主張する為に高子を貶める必要」は全くないのです。
//ちなみに天皇の后が空閨に男を引き入れてしまう事はよくありますよ。道長などは
入内した妹の不義密通を自ら調査し告発しています。//
51 :
日本@名無史さん:01/12/27 11:24
同意。
二条帝の中宮だった高松院は、未亡人になってから子供まで産んだ。
それに宇多天皇に高子を貶める理由はまったくないよ。
なるほど、と言いたいところですが、もう一回だけ突っ込ませて下さい。
「中国では皇太后は皇帝の廃立を行なうことが出来る」って、
菅原道真なら知っていたはずでは?
中国式の発想なら、藤原高子(皇太后)が宇多天皇を廃することが出来ると思います。
漢の昭帝の皇后とか、魏の明帝の皇后とかが、
皇太后として(臣下の要請に基づいて)そうしていたと思います。
53 :
日本@名無史さん:01/12/27 20:03
あほらしい
54 :
日本@名無史さん:01/12/27 20:23
>53
オマエガナー
55 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 21:34
>52
>「中国では皇太后は皇帝の廃立を行なうことが出来る」って、
> 菅原道真なら知っていたはずでは?
中国の法律と日本の法律は違うんですよ。
日本は確かに中国の影響を受けていますが、完全に影響されていたのは奈良朝の
頃の事であり、平安時代には影響はかなり薄れ、日本風にアレンジされています。
中国においての皇太后の権限がいかようなものであろうと、だから「日本の皇太后も」
というわけにはいかないのです。
あと、遣唐使の必要なしとして、その制度を廃止したのは確か菅原道真ではなかった
ですか?
>藤原高子(皇太后)が宇多天皇を廃することが出来ると思います
それは無理というものです。
天皇でさえ、後ろ盾がない場合、悲惨な目に遭うのが日本の皇室の歴史というものです。
氏の長者である兄の基経に見放された高子には、もはや何の権力も残ってはいなか
ったでしょう。
//だからこそ、そんな高子をわざわざ宇多さんが陥れる必要もなかったんですが//
ちなみに道真は、宇多天皇が退位した時は、大臣にさえなっていませんよ。
>>55 レスありがとうございます。
まだまだ色々突っ込みたいところはありますが、
52で「もう一回だけ」って言ったので、ここらで止めときますか。
陽成天皇退位の事情について、
今まで議論できる人が周囲にいなかったんで、
いろいろ疑問に思い続けて来たことを、書き連ねてみました。
もう一回文献を洗い直してから、また戻って来ます。
ありがとうございました。
57 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/27 23:28
>56
44さんは日本の天皇制というもの自体を色々誤解しているんじゃないかなと思います。
日本の天皇制をよく理解していたら、まず諸外国の王制(法律)を引き合いに出して
議論することが、そもそも無茶であると判ると思うのですが。
まして中国は・・・・・ 違いすぎです。
中国は、奴隷女でも皇帝さえ気に入れば翌日には皇后になれますが、日本の場合は
そうはいきません。奈良時代前期までは、皇后になれるのは皇女だけでしたし、身分の
怪しい女が妃になる事もあり得ませんでした。
天皇自体が、群臣たちとの会議によって定められましたし。
元はと言えば持統天皇と藤原不比等が作った律令制度(天皇がボンクラでも臣下さえ
マトモなら政務は滞りなく進める事が出来るという法律)のせいとも言えますが、
もともと日本の天皇家にはそういう性質があったわけです。
逆にいえば、天皇の地位は守られる変わりに、ワンマン的権力は亡くすわけで、
平安時代の最高権力者である藤原道真さえ、理由もなく天皇を廃位したり廃嫡したり
する事は出来なかったのですよ。
イジメて自分から退位するよう差し向ける事は頻繁だったみたいですけど( ´▽`)
*************************************************************************
陽成天皇の退位に関する事を書いておきますね。
元慶7年、11月10日。源朝臣蔭之の子 益が殿上で格殺(手で撃ち殺す)されるという
事件が起こる。益の母親は陽成の乳母である紀全子であった。
『日本三大実録』『尊卑分脈』『玉葉』の記事からみて、ほぼ疑いのない事実である。
基経は陽成の廃位を決め、淳和天皇の皇子を即位させようとしたが、本人が辞退した上、
嵯峨天皇の皇子で源氏に下っていた源融が立候補をしたので、急ぎ時康親王を
立てる事にした。(時康親王=光孝天皇)
その会議の席では、人々は異議を出して意見は一致しなかったが、藤原諸藤が劔の鞘
に手をかけて威嚇した為、一同怯えて基経の意見に賛成をした。
陽成は粗暴ながら、基経に無理矢理廃位させられたわけであり、当然基経批判の声は
高かった。『玉葉』によると、基経は天皇位を奪って無理矢理光孝天皇に授けたのだとして
批判的に書かれている。
基経に好意的な書き方をしたのは数百年後の『愚管抄』である。
***************************************************************************
高子はともかく、陽成の非常識な逸話は多すぎてとても庇い切れません(;´Д`)
あ、文章挿入忘れΣ(゚д゚)
乳母子の益を殺したのは勿論陽成天皇です。
59 :
日本@名無史さん:01/12/27 23:36
53だけど、44よ、さっきの「あほらしい」はあやまるよ。
中国の皇太后なんか持ち出されたから、つい・・・
いいから書けよ、おもしろいじゃん。
ところで角田文衛の王朝三部作のひとつ、「王朝の映像」って読んだかよ?
陽成天皇退位の裏事情について、面白い説が載ってたよ。
60 :
日本@名無史さん:01/12/27 23:45
補足。角田説は、基経と高子の不仲・陽成天皇に対する母后高子の影響力を
不満に思った基経が、天皇廃立を企てたというスゴイもの。
それによると、陽成帝は「物狂い」「病弱」ですらなかったらしい。
61 :
お言葉に甘えて復活します=44:01/12/27 23:49
中国と日本の事情が別だというのは了解。
だけどどうしてもよくわからないのが、
陽成天皇からその大叔父の光孝天皇に位が移った点。
文徳天皇や清和天皇の子孫たちは最初から無視されてたってこと?
>>60 実際には基経と高子の兄妹の対立だってこと?
そう考えると、陽成天皇の同母弟が後継とされなかったのも納得できる。
陽成天皇にしろ、年齢的にはそれこそ「厨房」だったし、
素行が悪くても矯正する余地はあるように思えてたんで。
でも基経には自分の外孫も確か一人いたはずだけど......。
何か藤原基経って、とんでもない大物に思えて来たよ。
64 :
日本@名無史さん:01/12/28 00:04
中国の皇太后たちは確かに相当な力持ってる。
本人が実権を掌握している場合もあれば
権臣が皇太后の権威を利用して皇帝を廃したりする。
南北朝時代には簒奪をやりたい臣下が皇太后に
「天命はもはや革まってしまった」という詔書を出させたりして
禅譲を強行する。辛亥革命も隆裕皇太后の詔書によって
「遜位」したという形をとった。
65 :
日本@名無史さん:01/12/28 00:21
清和天皇の皇子は、
>>45 のとおりで、
貞辰親王を皇嗣に立てなかったことが不思議なんだが、
角田説によるとこれも天皇の廃立に基経が私心のないことを示すための遠謀だという。
文徳天皇の子は早死にが多くて、884年に生きてたのは惟喬親王だけ。
母は紀氏だから、基経のお眼鏡にかなわなかったんじゃない?
仁明皇子は、孝光と、同母弟帝の人康、本康(母は滋野氏)しか生存していなかった。
あと些細なことかも知れないけど、
源融が立候補したっていうのは、融自身にとっては、
「マジ」だったんですかね。
それとも基経との間で仕組んだ芝居、「ヤラセ」だったんですかね。
まあどちらにしても、
自分の妹の子でさえ廃位してしまうくらいだから、
この時の藤原基経っていうのは、もの凄い「ド迫力」だったでしょうね。
こんな男が臣下にいたら、誰も天皇なんかになりたくなかったかも。
それで光孝天皇みたいな、温和な(人畜無害な?)人のところに、
落ち着いたんでしょうね。
(しかしそう考えると、やはり源融の「間抜け」ぶりが際立ってしまう。
そういう状況で野心を見せる奴なんか、誰も推さないに決まってるのに)
67 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 00:27
>61
>お言葉に甘えて復活します
みんなで語り合いたいな(´▽`) 平安時代大好きだから(ハァト
>文徳天皇や清和天皇の子孫たちは最初から無視されてたってこと?
文徳天皇の場合で考えると、ある意味、無視はされて当然かも知れません。
基経の姉妹や娘などは文徳天皇には入内していませんので。
文徳天皇の女御に、基経の従姉妹にあたる明子が入内していますが、明子の子供は男女ひとり
づつです。皇子は清和天皇となりました。
清和天皇に関していえば、妹の高子や、娘の佳珠子が入内しているようですね。高子は
三人(陽成含)の子供をもうけたようですが、基経と不仲ならば、高子腹の皇子が無視されたのも
判る気がします。
基経の娘の産んだ子は何故無視されたのか・・・・ この頃にはすでに死亡していたのかな?
と思わないでもありません。
その辺はサパーリ
68 :
日本@名無史さん:01/12/28 00:34
「ちかき皇胤をたづねれば、融らもはべるは」って融が云ったって、
なにかに書いてあったな。大鏡かな?
マジだったんじゃない?
嵯峨天皇は、皇室の「中興の祖」みたいな存在だったから、嵯峨皇子というのは
当時大きな存在感をもっていた。
王朝の映像、でかい図書館行けばあるから読んでみて。
細かいとこ忘れちゃったけど基経の姉妹のひとりが、なんと源定省、
つまり宇多天皇を猶子にしてたらしい。
だから基経は、はじめから全部シナリオを書いて、廃立劇をやったとか。
よくおぼえてないんだが、そんな内容だった
69 :
日本@名無史さん:01/12/28 00:39
>>68 細かいとこ忘れちゃったけど基経の姉妹のひとりが、なんと源定省、
つまり宇多天皇を猶子にしてたらしい
尚侍の藤原淑子だったかな?
70 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 00:47
>66
>源融が立候補したっていうのは、融自身にとっては、 「マジ」だったんですかね。
68に同意。
当然マジでしょう。
この頃の藤原氏は後の道長の時代ほどの権力は持っていなかった筈です。
(藤原氏は奈良朝の四兄弟の死後、勢力が一端衰えていますし、四家の子孫たちの
水面下の争いもありましたし)
嵯峨天皇の皇子である源融の勢力は大変なもので、清和・陽成の頃は、左大臣
でした。>融
源融は光源氏のモデルとも言われているし、河原院という大豪邸に住んでいたあたり、
当時はそうとうだったんじゃないのかなぁ。
確か芥川龍之介の「地獄変」に出てきた大臣って、この人でしたよね。
皆さんありがとうございました。
眠くなって来たので、お先に失礼します。おやすみなさい......
化けて出ないといいな、源融左大臣。
>50
でも、陽成院に、「当代は元家人ではないか」なんて聞こえよがしに
言われた、なんていう話が伝わっている訳ですよね、宇多天皇には。
ここまで言われた宇多天皇が、高子/陽成を殊更に貶めることで、彼
らの系統が王位にふさわしくないのだと主張するのは、むしろ自然な
ように思えますが。
誤解されているかもしれませんが、私は光孝->宇多の流れが正統でな
いために無理やり正統性を主張したのだ、と言ったわけではないです。
文徳->清和->陽成の流れから遡って光孝->宇多の系統に皇位が移った
以上、高子/陽成親子を貶めることは、宇多天皇の正統性を高めるこ
とはあっても、損になることはないだろう、と言いたかったんですが。
73 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 01:15
>72
>でも、陽成院に、「当代は元家人ではないか」なんて聞こえよがしに
それは大鏡にみえる記述ですよね。
その程度の事で恨みに思ってその母親を貶める行為に出る事こそ不自然じゃない
でしょうか。
「ここまで言われた宇多天皇が」と仰いますが、大した発言ではないと思います。
無礼といえば無礼ですが、相手は元天皇であり、間違っても自分より位の低い
人に嗤われたわけではありませんし。むしろ若くして帝位を奪われた陽成院を
哀れに思うのが関の山じゃないですか?
大宅世継もなるほど、「立派な家人をお持ちになった」とお世辞を言っている程度の
事だと思いますよ。
つーか、当代の天皇に対してそんな事を聞こえよがしに言ってしまうくらい、
陽成は分別のない性質だったいい証拠じゃないかと思います。
>誤解されているかもしれませんが、
了解しました。
74 :
日本@名無史さん:01/12/28 01:21
まぁ、僧と姦通するくらいのこと、高松院でもやったしな〜
廃后はちょっとやり過ぎかもね。
もしかしたら、陽成の皇子の誰かを皇位につけようと、何か画策するとか、
呪詛するとか、やったのかもしれないな。
孝光天皇はおとなしい温和な人だったが、宇多天皇はそうでもなかった・・・。
早めに醍醐に皇位を譲ったのも、陽成帝の皇子たちの存在が気になったせいかも。
75 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 01:47
【陽成と基経の確執】
貞観18年、基経は幼い陽成天皇を助ける者として、摂政を任じられました。
この時基経はすでに右大臣でしたが、源融は基経よりも更に格上の左大臣
でした。
本来「摂政」たるは、太政大臣、すなわち臣下としての最高位の者が更に
得られる任務であるところを、中途半端な位で任じられてしまった。
それが基経には気に入らなかったようです。
早い話が、太政大臣になれると思っていたらなれなかったのでムカついた?
結局は太政大臣にはなるのですが、基経は政務をほったらかしにし、陽成に
いやがらせに近い態度を取っていたようです。
阿部 猛 著
藤原佐偽っていたの?
77 :
日本@名無史さん:01/12/28 08:18
>69
>基経の姉妹のひとりが、なんと源定省、つまり宇多天皇を猶子にしてたらしい
>尚侍の藤原淑子だったかな?
基経の妹のようですね。
光孝天皇の即位はともかくとして、基経は宇多さんの即位には不満だったみたいですね。
それを強引に説き伏せたのがこの淑子さんだったみたい。
て事は、光孝天皇即位はあくまで中継的なものであり、基経としては最終的には
自分に都合のいい血筋の天皇を擁立するつもりだつたんですかねぇ。
78 :
日本@名無史さん:01/12/28 11:57
陽成廃位→高子排除→年寄りで温和な孝光即位→すぐ死ぬ→孫の貞辰親王即位→おらが春
という筋書きだったの?
だとすると、孝光天皇の在位してた4年て、すごく重要だね。
水面下で激しい政争が行われてたってこと?
孝光天皇は遠慮したんじゃなく、強要されて皇子に臣籍降下させられた?
でもいよいよ孝光が死ぬときになって、何らかの要因で
貞辰ではなく源定省を擁立したってことか。
79 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 12:45
>78
>陽成廃位→高子排除→年寄りで温和な孝光即位→すぐ死ぬ→孫の貞辰親王即位→おらが春
陽成廃位後すぐに高子が廃后になったわけじゃありませんよ。
正しくは、
陽成廃位→光孝即位→三(四?)年後崩御→宇多天皇即位→約10年後、高子が醜聞により廃后
が史実です。
ちなみに基経は宇多の治世四年後に亡くなっています。
80 :
日本@名無史さん:01/12/28 13:58
いや、そういう意味じゃなくて
母后としての高子の影響力を排除する、という趣旨。
たしか臣下で摂関職についたのは良房からだよね?
摂関家としての藤原氏の地位を確固たるものにするためには
廃帝すらやってのけた基経ってすげーやつだなぁ。
当時はまだ嵯峨源氏が巾を利かせていたし、別に摂関家として認められたわけでも
なかったわけだから・・・
摂関家としての地位を築いたのは時平・忠平からだろう。
高子廃后は、総仕上げかもね。
でも、廃帝に較べれば、大したことじゃない。
基経が阿衡事件のとき、あんなにこだわったわけが分かった気がする。
今までは、たんなる嫌がらせかと思ってた。
81 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:15
>>80 >母后としての高子の影響力を排除する
そこがよくわからん。
もともと高子には大した権力はなかったと思う。
皇后でさえないんだから。陽成が即位したから皇太后にはなったけどね。
後ろ盾なし、息子は廃帝になって10年。これでどうして「影響力」があると
思えるのか。
少女の頃から浮き名を流していた高子が、歳をとってから老僧と出来て
廃后になったって、なんの不思議もない。それをでっちあげと見なそうと
する君の心がわからない。
82 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:29
でっちあげとはいってないよ。よく読め。俺は昨日の44,49とは別人だぞ。
君の心、とは何事だべさ?
母后としての高子の影響力てぇのは、公卿に対するものじゃない。
陽成帝に対する影響力だ。
廃后の話じゃねぇ、廃帝の話だ。
高子と基経が対立していたならば、陽成を父の清和帝と同様に傀儡として
基経が全てを仕切るわけにはいかんじゃないか。
陽成帝は17歳だろ。もし「物狂い」云々でなければ、やがて成人して基経排除に
回りかねない。
嵯峨源氏が廟堂の高官を占めていて、まだ基経の摂関職も安泰ってわけでもない時期に
そんなことになってみろ、大変じゃないか。
廃后については知らん。
だが10年たてば陽成にも皇子が生れてるし
陽成の弟たちも成人してる。
念のため、高子を追い落としておいても損はあるめぇ。
83 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:31
>>81 なんの影響力もないのなら
不義をかさねようが
密通をかさねようが
夫を亡くした50過ぎのおばあさんなのだから
放置しておけばよかったものを。
84 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:34
天皇の母として、諸大臣達以上に発言力のあった女性なんてほとんどいないと思うよ。
いたとしても、天皇の力というよりは、後見の実家の力があってこそなんだから。
-高子の背景-
父→長良。生存時は権中納言。早世した為、位階はここまで。
兄→仲違い。
本人→皇后でさえない。
息子→廃帝。
大貴族の娘でさえ、両親に死なれると落剥して、遊女にまで身を落とすと言われていた
この時代。例え皇后になったとしても、実家が没落すると、その嫡男は皇太子にさえなれません。
これでどうして影響力が?
わざわざ排除するほどの力だろうか。
>>82 あ、そうなの?>別人
昨日からのやりとりで勘違いしちゃった。ごめんね。
86 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:40
歳をとってから老僧と出来たぐらいで廃后になるのか?
87 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 14:44
>86
なんでだろうね。
子供が出来るならともかく、出来るような年頃でもなかったろうし・・・>廃后
88 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:46
高子てぇのは少なくとも大人しい女じゃないからな。
どっちかというと気性の激しい女だろう。
兄の命令で恋人と引き裂かれて後宮に入れられたのに
こんどは天皇になった息子を兄に廃されてしまった。
何しでかすか分からんぞ、こういう女は。
俺の想像(妄想)
高子の不義相手の僧は、高子が発願して建てた寺の住職だというから、
実は「皇位を我が子(孫)に戻したまえ」という呪詛をやっていた。
それが発覚し、呪詛ではやばいから、密通ということで僧ともども処分した。
どうよ?
>88
それ、すごくイイ!
90 :
日本@名無史さん:01/12/28 14:54
91 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 15:01
>82
>陽成帝に対する影響力だ
陽成にはなんの力ものこっていないと思う。
廃帝になった時点、年若だったし、廃帝になってからは、その素行はますます酷くなった
そうだしね。庶民をいたぶる事はなはだしかったらしいから、復位なんて、それこそ無理
だったんじゃないかな。方や宇多は平安時代の中でも誉れとされるいい時代を築いてい
た訳だし。※宇多の成功の反動で、ますます酷くなったんだろうか、陽成……
「院」が権力を握るのは白河天皇からであり、平安初期のこの頃は、ただ権力を削がれた
だけでは?
現に宇多天皇さえ、上皇になってからは息子の醍醐天皇への影響力を無くています。
宇多が登用した菅原道真は、醍醐天皇の代で太宰府へ左遷される訳ですが、道真は
その前に宇多上皇の元へ駆けつけようとしています。宇多が状況を知った時にはどうする
事も出来なかったとか。
>88
>高子の不義相手の僧は、高子が発願して建てた寺の住職だというから、
>実は「皇位を我が子(孫)に戻したまえ」という呪詛をやっていた。
その発想すごくいいね。
ただ、ワシ的にはちょっと疑問が……
仏教に呪詛はナシです。
奈良朝の頃に唐から入ってきた道教(左道)が、平安時代にはすでに日本風にアレンジ
されて陰陽道になりました。呪詛をするのは陰陽師であり、お坊さんではないのでは
ないかなぁ。
それとも密教が入ってきた事で、呪術的色彩を帯びていた?>仏教
不勉強でよくわからないので教えてホスィ・・・
92 :
日本@名無史さん:01/12/28 15:16
裏づけのない憶測でスマンが。
基経の威勢は大したものだったけど、その死後、時平は内覧宣旨だけで関白には
なってないよね。しかも896年の高子廃后のとき、時平はまだ若い(26歳)
嵯峨源氏やら、南家式家やら、冬嗣流の別家やら、政敵は沢山いた。
基経はもう死んでるし、もし反時平勢力が結集したらどこにいく?
廃された陽成と高子のとこじゃないかな。
もともと陽成は嫡流だし、その子供のひとりを担ぎ上げれば、十分な対抗勢力になりうる。
そんなことにならないうちに、高子を貶めておく・・・くらいのことは、やりかねないと思うんだが。
>91
そうか。。。呪詛は寺ではやらんのか。
ずーっとあとで、後醍醐が文観僧正とかと幕府追討の呪詛をやったけど
あれは平安時代にはまだなかったのかなぁ。
俺も不勉強でよくわからん。
>90
呪詛でもやばくない・・・といえばそうかも(藁
ただ、臭いものにフタ、みたい感じで、極秘処理したのかもと
思ったんだ。
もういちど考えてみる。
94 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 15:39
>92を読んで、なんとなくそれが当たりのような気がしてきた・・・・>廃后の真相
て事は、高子廃后の黒幕は時平?
基経死後、92が書いているような水面下の政権争いが勃発したが、時平には泣き所があった。
それが叔母の高子と従兄弟の陽成。
この2人は基経によって二条院に幽閉されてたが、イギリスの王族がロンドン塔に幽閉される
のとはわけが違うから、2人は二条院で好き放題をしていた。
それが周辺では大変な悪評を立てていたらしいし・・・・
高子はともかくとして、陽成は確かに酷なと思う所がある。
貴顕の家に押し入って強盗まがいの事をしたり、攫った女を丸裸にして縛り上げ、池に浸けて
おいたりと、なかなか最低なことをしてるから。
//この時代、下級貴族のおっさんが病気になった時、医師に「胎児の生き肝(だったかな)を
食べると治る」と言われて、妊娠中だった嫁の腹を割こうとした上、大して非道とは思われて
いなかったみたいなので、そのくらいやるかもね・・・・>陽成//
しかし最高位の人間のやる事としては、外聞は悪いだろうな・・・・
時平としては、この泣き所を政敵たちに突っ込まれたくなかったが為、あえて叔母を陥れた。
なにしろ廃后になった高子は時平の館に引き取られているから。
て事だろうか?
>91
いやいや、本当にワシ、そのあたり、不勉強なので。疑問をていしたというより、マジで
知らなくて訊いただけなんです。
95 :
日本@名無史さん:01/12/28 20:18
宇多天皇や基経。
このスレ1から読むと、詳しくなった気になれますね。
ところで皆さん、平安時代で実はこの当たりが
一番興味あるってのどの辺なんですか?一番の得意分野というか。
戻って来たらこんなにレスが延びてたんで、ビクーリ!
この辺の話題でも結構語れるんだ、と思いました。
ところで、
やっぱり基経と高子って、何か普通の兄妹とはとても思えない関係って気がする。
羽振りのいい叔父のところに養子に行った兄に、
さんざん政治的にいいように利用され尽くされて、
それに対する鬱憤がついにどっかで決定的に切れちゃったのかな、妹の方は。
ところで、私個人としては、「藤原基経=とんでもない超大物」って意識があって、
それで基経の死後に出来た権力の空白を巡って、その後も一波乱あって、
それが高子の廃后と関係してるんじゃないか、
と仮定(空想? 妄想?)して考えてました。
でも逆に考えると、基経の存在があまりにも大き過ぎて、対抗馬もいなくて、
宇多天皇が親政を始めると、それまでの基経のイエスマンたちが、
そのまま宇多天皇のイエスマンに移行しちゃったんじゃないか、とも思えて来ました。
なんかいつも小説的な想像ばかり書き込んで申し訳ありませんが。
97 :
日本@名無史さん:01/12/28 20:37
44よ、君のいない間にどんどん話が勝手なほうに・・・(藁
ところで、嵯峨源氏は正直言って面白くなかったと思うよ。
孝光は仁明皇子だからまだしも、一度臣下に降りた宇多なんか、
嵯峨天皇の皇子である源融あたりから見たら、格下だもん。
文徳皇子の源能有とか、源氏がまだ勢力もってた時期だもんね。
むしろ、基経に死なれて、宇多天皇は恐ろしくなったと思われ。
基経自身が、臣下が天皇を廃する前例作ってるわけだし。
大急ぎでまだ13歳の醍醐帝に譲位したし、菅原道真を重用したのだって
本当は藤原氏を抑えるためではなく、源氏を抑えるためだったという研究もあるよ。
醍醐帝も大変な覚悟で親政を始めたんじゃないのかな。
>>97 これは個人的な好き嫌いの問題ですけど、
学者が政治に深入りするのは「?」って思ってしまうんですよ。
だから私自身は菅原道真にあまり好感は持てないんですが、
そこで皆さんにお訊きしたいのは、
菅原道真って、どこまでが道真自身の権力志向で、
どこまでが宇多上皇の言うままで動いてたんでしょうね?
怨霊話なんかあると、逆に、
「そこまで権力に執着したかったの?」とも思えてしまう。
「怨霊話がある」→「道真自身、相当な権力志向の持ち主=俗物だった」
なんて書き込んじゃうと、
「何を短絡的な発想してんの」って突っ込みが来るのは、
目に見えてますが、あえて。
道真は理想家だから
「天皇はこうあるべき」「まつりごとはこうあるべき」という
理想論で動いていたと思う。
それが現実にそぐわなくても・・・
菅原道真といえば藤原時平なんですが、
時平の政治家としての力量は、どんなもんだったんでしょうか?
101 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:30
>98
道真というのは非常に実直かつ潔癖性なんだと思います。周囲が権力を前にして
口を噤む中、敢然と自己の主張を述べるタマだったらしいので。つまり、自分が
不利になるのを承知で、恩義もない相手を、それが正しいと思うならば庇うという
峻烈さがあったという訳です。
まず彼が学者であったのは、単に家柄のせいだと思います。
祖父の清公は学問一筋に生きた男でした。父の是善は参議にまで上りましたが、
この人も文章博士であり、その資格ゆえに参議にまでなれた訳ですから、
つまるところ、学問で身を立てるのが菅原家の伝統だったのではないでしょうか。
光孝天皇が即位した3年後、基経の長男である時平が16歳で元服しています。
そして丁度同じ年、道真は加賀権守の任を解かれ、讃岐守になっています。
これは左遷とは言わないまでも、栄転とは言い難かったようです。
道真は菅家廊下(塾)を開いていましたが、その学閥を恐れた派閥が、道真を
地方へ飛ばしたとの見方も出来ます。
ちなみに、翌年宇多天皇が即位した時、道真は当然讃岐にいました。
102 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:44
>101の続き。
讃岐時代の道真は、学者としても政治家としても中途半端であると嘆いていたようです。
宇多天皇即位の四年後、ようやく人気が明け、都へ戻っています。
翌年、宇多天皇の側に使える式部少輔→蔵人頭→及び左中弁を兼ねました。
この時点で基経は亡くなり、20歳の時平は参議になっています。
道真のスピード出世が始まったのは、まさにこの頃からでしょう。
当時25歳、政治改革やる気満々の宇多天皇と、もともとやる気満々の道真は、恐らく
馬があったのではないかなと。
宇多天皇、31歳で退位し、息子の醍醐天皇に位を譲る。その二年後、道真右大臣に。
//時平左大臣→29歳//
//道真右大臣→55歳//
宇多天皇という後ろ盾を失った道真は、途端に他の貴族からいやがらせを受けました。
今風でいうとイジメ。それも中学生なみの。シカトとか村八をされたようです。
宇多条項はその状況を打開しようと、他の貴族たちを集めて説得していますが事態は
変わらず、道真は孤立していきます。
103 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 21:50
>102の続き。
更に二年後、道真はいきなり太宰府に左遷されます。
道真の罪状は以下でした。
「菅原道真は低い家柄の出でありながら、口上手くこびへつらい、手に入れた
大臣位を利用して権力を行使し、宇多上皇を欺いた。道真は大臣の器に非ず。
これは罪人として裁くべきである」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ちょっと非道すぎじゃありません?(゚∀゚)
なんだかやたら長文レスばかりして申し訳ないです。
実は・・・・
道長が好きなんです・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゴメ・・・・・
>101-104
いや、別にいいんじゃない?
>>104 ど真ん中の直球なんで思わず見逃してしまいそう、道長。
でもこのスレのためにはいいかも。
道長どんどんやって下さい。
>106
>道長が好きなんです・・・・・・・・・・・・・・・・・ ゴメ・・・・・
ごめん、道真だたよぉ(;´Д`)
道長よりは頼道のが好きです!
108 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 22:32
突然の道真左遷は、当然宇多抜きで画策されました。宇多が止めるのを恐れたからでしょうが、
しかしそれこそが、ある意味道真の罪状が虚実でしかなかった事を物語っています。
いかな道真びいきの宇多といえど、罪状が真実ならば、ちゃんと宇多に話を通したに違いありま
せんから。
流刑(ほとんどコレですよね)になったのは道真本人だけではありません。まず四人の息子は、
それぞれ流謫せられています。長男は一応左遷ですが、残りの三人は配流です。若年の
男女は道真についてゆく事をゆるされていますが、男の子の方は長旅が祟って、道真より先に
亡くなっています。
その二年後、道真自身も太宰府で亡くなったことは、広く人口に膾炙していますね。
>98
>「そこまで権力に執着したかったの?」とも思えてしまう。
>「怨霊話がある」→「道真自身、相当な権力志向の持ち主=俗物だった」
怨霊話→それほど道真が世間の同情を集めた→時平たちの横死、ざまぁみろと世間が思った
という変換の方が正しいと私は思います。
世間はひたすら亡くなった道真に同情的でした。それは生前の道真の人柄によるものではない
でしょうか。当時の天変地異や政敵の横死を「天罰だ」と言うことにより、藤原氏の横暴を世間が
詰ったのだと思います。少なくとも「祟られる程のことを時平らはやった」と認識されていたのだと
思います。
109 :
日本@名無史さん:01/12/28 22:56
時平の若死の後に藤原氏の家長の後継者となった忠平が道真派だったんでしょう?
忠平が道真の名誉回復に働いたと思う。
藤原氏全体が道真派に転換して、藤原氏の天下が強まったという筋書き。
110 :
日本@名無史さん:01/12/28 22:59
時平vs忠平兄弟の確執があったのかなぁ?
111 :
日本@名無史さん:01/12/28 23:13
藤原忠平の時代に、国外では唐の滅亡、渤海国の滅亡、新羅の滅亡が続き、
国内では平将門と藤原純友の乱が起きている。
忠平が関白になる頃には班田収授が全く行われなくなり、
荘園が乱立するようになる。
律令制国家が音を立てて崩壊していた時期なのだ。
時代の転換点を忠平が乗り切ったわけだが、
忠平自身は有職故実にこだわる消極的な政治家にしか見えない。
この落差はなんだろうね?
112 :
日本@名無史さん:01/12/28 23:21
時平は荘園整理令を出すなど、律令制の建て直しに積極的。
積極ついでに道真を追放したわけ。
一方、忠平は時平の努力を水の泡にして、律令国家制度を破滅させた。
おかげで藤原氏の繁栄が長続きすることになる。
時代の先取りという意味では、時平より忠平の方が上手。
113 :
日本@名無史さん:01/12/28 23:28
忠平は道真を師匠にしていた。
その道真は遣唐使の廃止を具申するなどして、
唐風文化及び律令制の未来を見限っていたのでは?
忠平は道真の路線で公地公民制から私有荘園制へと
ソフトランディングを図っていたとしていたら、
凄腕の政治家なんだが・・・・。
やっぱり有職故実にしか関心のない人物としか思えない。
114 :
日本@名無史さん:01/12/28 23:36
いや本当の忠平は大物なんだよ。
実は平将門や藤原純友とも裏で通じていたのだ。
忠平が将門とは面識があることは史料に残っているはずだし、
純友は摂関家の縁続きだから当然知り合いなのさ。
二人を操って日本をひっくり返そうとしたのだ。
陰謀家であることを隠すために凡人であるふりをしていただけなのだ。
だんだん、電波になってきた。
誰か止めてくれ・・・。
115 :
日本@名無史さん:01/12/28 23:45
時平は理想に燃えて力技で政治を切り盛りしようとしましたが、
忠平は現実主義でかつ問題先送り手法。冷めているところがあったような気がします。
116 :
日本@名無史さん:01/12/29 00:02
国立民俗歴史博物館で、貴族たちの日誌が展示してあった。
関白級の貴族はかなり優雅でまったりした日々を送っているが、
少し下級になると、連日雑務に追われて飛び回っているそうな。
117 :
日本@名無史さん:01/12/29 00:21
118 :
日本@名無史さん:01/12/29 09:30
忠平は藤原氏主流派に逆らって、菅原道真に心酔していたことは周知だった。
道真を左遷するなど強引さの目立った時平たち主流派の政策に世論の批判を浴びたものだから、
一転して「温厚な」忠平が抜擢された。
忠平は見せかけだけの温厚であり、実際は道真怨霊騒ぎで天皇を脅迫した陰謀家だったという話を読んだことがある。
119 :
日本@名無史さん:01/12/29 09:37
藤原氏一門に優秀な人材が多数排出したのが藤原氏の時代が長続きした原因だと思う。
時平政治が挫折しても、忠平のような非主流派を抱えていたために、藤原氏は力を失わなかった。
藤原氏は今の自民党みたいに幅広いのかも。
危機が訪れると、それに対応できる人材を祭り上げることができた。
120 :
日本@名無史さん:01/12/29 09:46
藤原氏は他の氏族と異なり、地方豪族としての基盤を持っていない。
ただ朝廷の官僚として出世するしかなかった。
官僚制に寄生して、他の豪族たちを圧倒するには、
それだけ勉学にいそしみ、
あらゆる政治学に長ける必要があった。
その分、優秀な人材を育むことになったと考えます。
121 :
日本@名無史さん:01/12/29 09:52
橋本派が小泉政権を支えているようなものか?
>>119
122 :
日本@名無史さん:01/12/29 09:56
平安時代、特に摂関政治の時代って、戦乱の少ない、文字通りの平安な時代なのかなぁ?
123 :
日本@名無史さん:01/12/29 10:07
今昔物語では盗賊が跋扈し、治安が悪い時代に見える。
源氏物語の世界では宮廷貴族は恋愛にうつつを抜かしており、
責任感を持った政治が行われていないように思える。
学校の教科書には官吏の責任感が衰退し、治安は乱れ、盗賊がはびこり、地方政治が混乱したことになっている。
そのくせ名のある戦乱が少なく、死刑すら少なかった。
しかも長続きしている。
オイラが思うに、各種の物語のイメージに引きずられ過ぎているのだ。
センセーショナルな報道や、芸能人ゴシップだらけのワイドショーで今の時代の全てを語ろうとするのと同じではないか?
124 :
日本@名無史さん:01/12/29 10:11
>>122 今でいう戦国時代の合戦を想像するなら、無いとも言えるんじゃないかな。
ただ九州では外国の海賊に襲われて太宰府が応戦したりしてた。地方で
豪族同士の小競り合いは頻繁にあったと思うが、中央政府は無関心だよ。
都でも貴族の使用人同士が殺しあったりしてるな。
125 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 10:16
>122
いや、庶民にとっては、かなり凄惨な時代だったと思います。
というのも、この時代は死刑がなかったそうですが、普通死刑にするだろう的な
犯罪者がいなかったわけでは当然なく、死刑にしてもいいような人たちも野放し
にしていたというのが真相です。
悪事→捕縛→放免→悪事→捕縛→放免→エンドレス
一応法律では死刑制度もあったのだけど、誰も死刑判決を受けなかったわけです。
まぁ、平安初期の承和の変とかは、死刑バンバンやりまくった奈良朝の匂いがまだ
残っていたのだと思いますが。
頼朝が庶民に歓呼で迎えられたのは、死刑にされてしかるべき罪人をかたっぱし
から斬首してくれたからという説もあります。
126 :
日本@名無史さん:01/12/29 10:19
そういえば刀伊の入寇があったね。
大宰府や九州豪族たちの奮戦で撃退できたのだが、
大宰府が中央の命令を待たずに侵略軍に応戦したという理由で、
恩賞を与えるべからずという論議が朝廷でまかり通っていたらしい。
形式主義というか、平和ボケの現代とそっくり。
127 :
日本@名無史さん:01/12/29 10:41
結局は「常識」が勝って、恩賞が与えられたんだけどね。<刀伊の入寇
現代は「常識」が通じるかどうか不明。
128 :
日本@名無史さん:01/12/29 11:03
なんで死刑執行がなくなってしまったの?
平安時代に死刑廃止論者がいたから?
129 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 11:55
>128
養老律令にはちゃんと死刑の制度が規定してあるんですが、仏教的慈悲心ムードの
蔓延していた宮廷では、処罰を軽くする事がよい事とされ、やたら恩赦や特赦を
行っていたらしいです。
貴族たちには来世の功徳でも、悪人を世に放たれては、庶民にとってはえらい
迷惑ですよね。
130 :
日本@名無史さん:01/12/29 15:00
武士だって仏教を熱心に信仰していたはずだが、
軟弱にならなかった。
貴族と宗派が違うのかしらん?
131 :
日本@名無史さん:01/12/29 15:09
>130
庶民だって仏教を信仰してたでしょ。
てか、貴族=法曹界であり、それ以外の人たちは、法曹界の人々のエゴに
振り回されていたという点では同類だったんじゃないかな。
だから逞しくなったんだと思う。
132 :
日本@名無史さん:01/12/29 15:10
平安末期に平氏が政権を握ったとき、
清盛の義弟、平時忠が検非違使別当となり、盗賊12人の右手を切断したことがある。
強盗、強姦、殺人を繰り返す非道な連中だったが、
時忠の処断は貴族たちに受け入れられず、非難を浴びた。
平安時代とはそういう時代だった。。。
133 :
日本@名無史さん:01/12/29 15:20
人権が大切だったんだね。
134 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 15:25
嵯峨天皇が「主義として死刑は行わない」という規則を作ったんです。
当時の法律では、ある一定以上のものを強奪した強盗は死刑でしたが、嵯峨天皇の主義によって
減刑され、懲役刑になりました。しかし、たとえその強盗が一定以上を盗んだとしても、一定以下
だったと上申され(慈悲のつもりか?)、何故か減刑されたりもしたのです。
この主義が嵯峨亡き後も一般化し、しまいにはとんでもない事になっていました。強盗が殺人を
犯しても、罪に問われるのは強盗罪の方だけで、殺人の方は問われなくなりました。人を斬り殺しても、
物盗りをしなければ無罪になったりしました(゚д゚)ポカーン。
ところでワシ、>125で嘘を書いてしまいました。
>頼朝が庶民に歓呼で迎えられたのは、死刑にされてしかるべき罪人をかたっぱし
>から斬首してくれたからという説もあります
頼朝じゃなくて北条時政でした。
時政は、罪人を検非違使に渡せば、それが無罪放免になると判っていたので、渡さずに独断で
斬り殺したらしいです。
そんで、京都の庶民が大喜び。
135 :
日本@名無史さん:01/12/29 17:00
あの、いまさら陽成退位についてなのだけど。
これを基経主導と考えるからわけがわからなくなるのでは。
光孝が即位したときに皇子をすべて臣籍降下させたのは、
彼が暫定的に立てられたことを示しているのだろう。
光孝が立てられた経緯を考えても、
これが予期せぬ事態だったことが明らかではないか。
宇多が突如即位したことからも、
これが基経の意向ではなかった(予期していなかった)ことがわかる。
そろそろ藤原氏中心史観はやめよう。
136 :
日本@名無史さん:01/12/29 17:06
>135
なんか勘違いしてない?
137 :
日本@名無史さん:01/12/29 17:08
>>136 何を?
まあ、あまりこの時代詳しくないので
ご教授願いたい。
138 :
日本@名無史さん:01/12/29 17:15
>135
すいませんが、君の説明は意味不明です。
>あの、いまさら陽成退位についてなのだけど。
ほんと、今更だね。
>これを基経主導と考えるからわけがわからなくなるのでは。
「これ」は「陽成退位」にかかるんですよね?
基経が主導以外の何者でもありませんよ。当時、天皇を廃位に出来る力を持っていた
のは基経だけです。ちなみにその事については誰も「わけわからなく」などなってませんが。
>光孝が即位したときに皇子をすべて臣籍降下させたのは、
>彼が暫定的に立てられたことを示しているのだろう。
それはそうでしょうね。だけど今更言うことじゃないですね。このスレで既出です。
>光孝が立てられた経緯を考えても、
>これが予期せぬ事態だったことが明らかではないか。
そりゃ基経も、まさか陽成が宮中で乳兄弟を殺すなんて事は良きしなかったと思います。
が、もともと陽成が即位した時から、基経は陽成に対して政治上のイジメをしていた
わけですから、退位させた事自体は、基経にとってはある放免では渡りに船だったと
思いますよ。
>宇多が突如即位したことからも、
>これが基経の意向ではなかった(予期していなかった)ことがわかる。
それもこのスレで思い切り既出。そして基経は結局は承知している。宇多が押し切った
わけじゃない。
>そろそろ藤原氏中心史観はやめよう。
意味不明。何がいいたいんだ?
>137
過去ログ、斜め読みしたでしょ?(´∀`)
140 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 17:21
>135
>あの、いまさら陽成退位についてなのだけど。
>これを基経主導と考えるからわけがわからなくなるのでは。
わけがわからなくなるというのは、一体なにについての事でしょうか?
141 :
日本@名無史さん:01/12/29 17:29
>>139 そのとおり。今はじめてこのスレ知ったから。
それは謝る。
でも何か基経を偉大な政治家とするところに違和感がある。
それでは陽成退位、光孝即位は基経にとっては喜ぶべき事態だったわけ?
光孝の前に恒貞が推薦されたのはどういう意味?
恒貞のこと誰も触れてないでしょ。
>141
ほんっとに過去ログ読んでないんだね〜
143 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 17:43
>141
いちおう過去レスでワシが書いてます。>恒貞親王のこと
名前じゃなくて、淳和天皇の皇子としかかいとらんけど。
144 :
日本@名無史さん:01/12/29 18:06
>いまさら陽成退位
歓迎だよ。ループはかなわんけど、新しい発想は大歓迎。
>藤原中心史観
そう、確かに平安初期はまだ藤原氏の勢力は確立していなかった。
いつどこでひっくり返るか、わからん危うさをはらんでいた。
俺たちはつい、摂関家の藤原氏の威勢を前提に判断しちゃうけど。
その権力が確立するのは、少なくとも忠平以降だろうね。
145 :
日本@名無史さん:01/12/29 18:08
恒貞親王は承和の変の時に廃太子になっているし、そもそも陽成廃帝、光孝天皇即位の
年に60歳で亡くなってる。恒貞親王の次ぎに白羽の矢を立てたのが、幼い頃から仲良し
だった時康親王。しかしこれも高齢。
基経が欲しかったのはやはり「暫定天皇」だったんだろうね。
146 :
日本@名無史さん:01/12/29 18:14
>144
>歓迎だよ。ループはかなわんけど、新しい発想は大歓迎。
いや、しかしな。
せめて過去ログは読んでから参加してほしいよ?
ループを防ぐ為にもさ。
>そう、確かに平安初期はまだ藤原氏の勢力は確立していなかった
それはそうなんだが、少なくとも良房-基経あたりは、一時的にでも
安定していたと思うよ。
基経の晩年は源氏の台頭で困ったろうけどね。
でもまぁ、道長の頃のような藤原一辺倒でなかったとは思うけど。
本当に謝る。
実はまだ聞きたいことがあったけど
ここでやめておく。
つまり恒貞も光孝も暫定だったから、
先に恒貞が推薦されたことは
あまり気にすることじゃなかったんだね。
ゆっくり過去ログ読んでくるのでさよなら。
>147
また来てね。
149 :
日本@名無史さん:01/12/29 18:50
平安初期の藤原氏って。。。
承和の変(842)では恒貞親王の皇太子を廃し、側近伴健岑、橘逸勢失脚。
で、道康親王(文徳天皇)立太子。
文徳天皇の時代には、天皇は惟喬親王の立太子を希望していたのにむりやり
惟仁親王(清和)が生後9ヶ月で立太子。
清和天皇の時代には、応天門の変(868)で、左大臣源信・良房の弟・右大臣良相・
大納言伴善男を失脚させる。
陽成天皇の時代になると、天皇自身が、884年宮中での殺人を機に基経に廃された。
次に来るのが昌泰の変(901)で、菅原道真の配流。
最後に安和の変(969)で、左大臣源高明が配流。
私見だけど、藤原氏が他の氏族を排除し、一族内での宗家が確立して、
摂関家としての権力を固めたのは、10世紀からじゃないかなぁ。
>149
それはそうでしょう。
つーか、このスレでもそうだって言われてるやん・・・・
道長の話題になったと思ってたら、そうじゃなかったんですね。
ところで、149が源高明の名前出したんで、この辺を語っていただきましょうか。
そういう私は源兼明と為平親王に萌える。
152 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/29 19:21
高明というと思い浮かぶのは、高明の屋敷の柱の稚児の手(((( ;゚Д゚)))ガクガクブルブル
153 :
日本@名無史さん:01/12/29 19:47
高明も陰謀に陥れられたんですよね。
でも怨霊にはならなかったの?
154 :
日本@名無史さん:01/12/29 20:09
>153
「怨霊になる」という事をどういう意味で言っているのかちょっと気になる。
A:本当に怨霊がいると思っている
B:民間伝承としての怨霊への転訛について問うている
どっち?
Bです
156 :
日本@名無史さん:01/12/31 13:52
>>149 藤原氏が...権力を固めたのは、10世紀からじゃないかなぁ。
良房の9世紀からでしょう。後世の冬嗣流北家藤原氏への一家権力集中を築造したのは。
良房の時代までは、北家以外の藤原氏はむろん、石上氏や大伴氏等の所謂古代氏族も廟堂に
列していたのですから。菅原道真は議政官の家柄でもないし、北家藤原氏を追い落とすような
権力志向政治家型でもないですから、除外です。
9世紀序盤の恒武〜仁明朝期は、外戚でもないし南家や式家流がとって替わっても不思議は
なかった筈なのですが。平城天皇の復位騒動が、大きかったのでしょうか。
さて、もう一度質問させてね。
基経によって暫定である光孝即位が進められたのであれば、
当然基経の心中には本当に天皇にしたかった候補がいたはずだよね。
で、宇多即位は基経生前。
となると基経の本命は宇多・・・?
しかし基経と宇多の仲は悪かった。
少なくとも宇多自身は基経流(?)藤原氏との協調姿勢は感じられない。
天皇家と藤原氏(嫡流)の協調が崩れたという意味で、
基経に偉大な政治家という評価は与えられない。
それでも陽成廃位からの一連の出来事は基経主導といえるの?
158 :
日本@名無史さん:01/12/31 16:42
>157
その前に質問させてくれ。
基経を偉大な政治家といった人物への質問なんだろうけど、どうして
その人宛のレスナンバーをふらないのか?
つっこみ入れたいんだけど、私自身は基経=偉大な政治家という
認識じゃないので、当然私あての質問と見なすことは出来ないしな。
>陽成廃位からの一連の出来事は基経主導
じゃないかという、過去レスの流れから、
基経ってすげーヤツだなって書いたおぼえはあるが。
このスレ検索してみたけど、「偉大」という単語は135さん本人が最初に
使ったようだ。単語の意味合いを主観で捉えて変換しちゃっているんじゃ
ないかな。
別に誰宛ってわけじゃないし・・・。
ただ雰囲気的にこのスレ全体が
>陽成廃位からの一連の出来事は基経主導
ということで合意していると勝手に考えていた。
だって基経主導ということにどう反論していた?
158さんのつっこみを期待。
137のとおりで、もっとこの時代知りたいので。
162 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 19:14
>161
陽成廃位は基経主導以外の何者でもないでしょう。
陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
じゃないですよ
基経は心中では孫を立てたかったでしょうね。だけど、源氏も橘氏も、他の藤原氏にも
立てたい天皇がいたでしょうし。甥の廃位はともかく、皇太子までは基経の一存ではなかなか
決められなかった。
現に光孝天皇(時康親王)擁立の時も、脅しがようやく事を奏したんです。
ですがこの力業も、時康親王ではなく基経の孫(貞辰親王)の名前を持ち出していたとしたら、
やはり脅しも利かなかったのではないかと自分としては思います。
時康親王は一見基経からは遠い人であり、他の勢力から見ても無難。だからこそ、脅しも利いた
のではないでしょうか。
陽成は廃位されても文句のいえないような事をして、廃位されたわけですし。
陽成廃位後、自分の孫の親王を皇太子に立てることが出来ていたらスゴイと思いますが。>基経
>>162 >陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
なんて思ってないけど。
殺人を犯した以上、
陽成の廃位は他の貴族にとっても当然だったのでは。
宇多という、反基経の人物を皇位につけなくてはならなかったところに
基経のすごさは見出せない。
阿衡の紛議も宇多と協調関係を取れない基経の焦りしか見えない。
失意のうちに基経は死んだと思う。
基経流の藤原氏が勢力を復活できたのは
菅原道真配流からだろう。
ここでようやく醍醐に娘を入内させることができたから。
164 :
日本@名無史さん:01/12/31 20:08
藤原組長マンセー!!
165 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 20:09
>163
>>陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
>なんて思ってないけど。
いや、貴方が思っていると言っているんじゃなくて、このスレの人たちが
そう思っていると思っているのかなと思ったんだけど違ったらゴメンね。
↑たった2行なのに「思ってる」が四回(;´Д`)
135がようするに何に対して絡んでいるのかわからん。
>163
「基経に偉大な政治家という評価は与えられない」
誰もそんな事いってませんがな。
「それでも陽成廃位からの一連の出来事は基経主導といえるの?」
基経が主導だったのはただの事実。想像じゃないの。 で、それは
別にすごくもなんともないって、このスレの皆さん、言ってます。
>>陽成廃位=それを出来る力が基経にあるからスゴイ
>なんて思ってないけど。
あなたが「基経凄いと思ってるの?」と聞いたから「そうは思ってない」
と答えたんでしょ。アフォさんが。
>殺人を犯した以上、
>陽成の廃位は他の貴族にとっても当然だったのでは。
だからそう言ってるじゃん。
>宇多という、反基経の人物を皇位につけなくてはならなかったところに
>基経のすごさは見出せない。
>阿衡の紛議も宇多と協調関係を取れない基経の焦りしか見えない。
>失意のうちに基経は死んだと思う。
キシュツです。
>基経流の藤原氏が勢力を復活できたのは
>菅原道真配流からだろう。
キシュツです。
てか、藤原氏の勢力復活は忠平からって出てたんだっけ、確か。
>>166 過去ログ読んでると、
「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」というのが
一般的なようなので、それはおかしいのでは、と。
163で言っているように、
基経は宇多との協調関係を作り出せていないのだから、
基経の政治的力量が優れていたとするのはおかしいだろう。
つまり陽成による殺人事件後、
基経は次の策を見出せないままだった。
こう見ると
「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」
とは言いがたい。
この混乱した状況から宇多は登場した。
>>167 全部既出だって?
そう読み取れなかったが・・・。
171 :
日本@名無史さん:01/12/31 20:54
>157,158,159
基経は、先代の良房が引いたレール(皇族以外からの摂政制度)の上を走ったに過ぎない
のでは。対抗しうる臣籍源氏以外の貴族政治勢力は、基経の時代には霧散していたはずです。
北家藤原氏が外戚では、天皇の他氏の引きたてもないし、良房が他の政治勢力を廟堂に任用しなかったので。
>当然基経の心中には本当に天皇にしたかった候補...
は、むろん自らが外祖父となれる親王ですが、該当者がいなかった。
172 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 20:55
>170
アフォからのお願いです。
レスナンバー付で文章を引用してからつっこんで貰えないでしょうか。
このスレ、立った時から参加しているんですが、頭混乱してきました。
>>172 いや、既出だと思えないから文章の引用はできない・・・。
169についてはどう思ってるのかな?
皇位選定も基経が主導だったら
宇多との対立はおかしいでしょう。
言いたいことは
「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」だとしたら
なぜ基経自身が選んだ宇多と仲が悪いの?ということ。
それについて教えてほしい。
>173
宇多と基経の不仲って?
なにか具体的な事実がある?
教えてくれ。
175 :
日本@名無史さん:01/12/31 22:36
ねーねー
ここに安倍清明ヲタの腐女子をいっぱい連れてきてもいい?
別にこのスレッドで意見統一する必要はないんだよ。
人の意見にからむより、自分の見解をまず述べたまえ。
俺自身は、基経ってすげーヤツだと思ってる。
それは(他のみんなの意見とは違うが)陽成帝「物狂い」すら
基経と典侍淑子の捏造だという角田説のせいなんだが。
陽成が乳母子を殺したのさえ、事故ではなかったかとも言われている。
ことあるごとに陽成の天皇不適格を言いふらし(噂は全部宮中の女官からでている)
周到な準備の上廃帝を行った・・・
断言はできないが、その可能性は無視できない。
上皇となった陽成と高子の「乱行」についても、基経らが噂を流すことは
至極簡単だったろう。
177 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 22:48
>173
じゃあワシなり。
>「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」というのが
>一般的なようなので、それはおかしいのでは、と。
>「陽成廃位以後の一連の出来事は基経主導」だとしたら
>なぜ基経自身が選んだ宇多と仲が悪いの?ということ。
基経自身が選んだ天皇は光孝天皇です。
>この混乱した状況から宇多は登場した。 皇位選定も基経が主導だったら
>宇多との対立はおかしいでしょう。
計算外に早く死なれてしまった事、他に適任者がいなかった事、宇多を猶子にしていた
尚侍(基経の妹)に説き伏せられた事、この三つの条件で、基経はしぶしぶ宇多の即位を
承知しました。自ら選んだとは言い難いですね。
宇多の登場は光孝天皇の早すぎる死が原因であり、陽成廃位とは無関係です。
参考になるか判りませんが、スレの>57・>69・>75・>77 も併せてご覧下さい。
>つまり陽成による殺人事件後、 基経は次の策を見出せないままだった。
とりあえずの中継ぎ帝は立てているでしょう。強引に。
>163で言っているように、基経は宇多との協調関係を作り出せていないのだから、
>基経の政治的力量が優れていたとするのはおかしいだろう。
光孝天皇を即位させた時点では、宇多を即位させるつもりはなかったでしょう。光孝は
中継ぎのつもりで擁立したのでしょうし、光孝、そして自分がそんなに早く亡くなる事までは
計算出来なかったでしょう。これは政治的力量が優れているかどうか以前の結果論に
過ぎないと思います。
ていうか、ワシは基経は、もともと政治的手腕が優れているとは思っていませんけどね。
>70・>145で何回か出てますけど。
>この混乱した状況から宇多は登場した。 皇位選定も基経が主導だったら
>宇多との対立はおかしいでしょう。
基経と宇多の仲が悪いのは、宇多即位後、橘広相と藤原佐世が関係しており、怒った基経が
政務を放棄。宇多が屈して、罪のない広相に罪を着せ、基経に謝罪しました。
//日記に文句をたれているようです//
178 :
アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 22:49
>175
政争に関係あるんですか?
179 :
日本@名無史さん:01/12/31 23:06
>174
>宇多と基経の不仲って?
>なにか具体的な事実がある?
阿衡事件。
あれは
他の天皇でも起こってたよ。
宇多だから起こった事件ではない。
関白というものの位置付けについて争ったんだから。
それに、橘広相(その娘義子は宇多の子を二人産んでた)を失脚させ
基経の娘温子を入内させることができたし。
基経のすごさが目立った事件だよな。
>135*173
過去ログ再読のついでに基経大物説を上げたレスを拾ってきた。
>何か藤原基経って、とんでもない大物に思えて来たよ。(>62)
>基経の威勢は大したものだったけど、その死後、時平は
>内覧宣旨だけで関白にはなってないよね。(>92)
>ところで、私個人としては、「藤原基経=とんでもない超大物」って
>意識があって、(>62=>96)
>むしろ、基経に死なれて、宇多天皇は恐ろしくなったと思われ。
>基経自身が、臣下が天皇を廃する前例作ってるわけだし。(>97)
>俺自身は、基経ってすげーヤツだと思ってる。 (>176)
人数にすっと四人かな?正味の数は4人以下って事になるか。
基経をどう思うかは人それぞれだよな。
でもさどう考えてもこのスレッドの総意とは思えないスヽ(´Д`)ノ
あと、>167の
>>阿衡の紛議も宇多と協調関係を取れない基経の焦りしか見えない。
>>失意のうちに基経は死んだと思う。
>キシュツです。
は撤回。なかったス。前に読んだ本に書いてあった記憶とこのスレが混ざってたかも。
いつの間にかこんなにスレが伸びていた・・・。
年末なのに。
>>176 角田説を読んでない以上何もいえない。
陽成不適格ってのは後付じゃないのかな?
>>177 >光孝天皇を即位させた時点では、宇多を即位させるつもりはなかったでしょう。光孝は
>中継ぎのつもりで擁立したのでしょうし、光孝、そして自分がそんなに早く亡くなる事までは
>計算出来なかったでしょう。これは政治的力量が優れているかどうか以前の結果論に
>過ぎないと思います。
>ていうか、ワシは基経は、もともと政治的手腕が優れているとは思っていませんけどね。
意見が合いそう。日記云々はまったくわからないけど。
>>182 >でもさどう考えてもこのスレッドの総意とは思えないスヽ(´Д`)ノ
総意に思えたけどね。
184 :
アフォ( ´_ゝ`):02/01/01 00:01
>176
>俺自身は、基経ってすげーヤツだと思ってる。
その角田説というの、興味深いですね。お薦め本、あります?おせーて
185 :
日本@名無史さん:02/01/01 00:08
>183
>日記云々はまったくわからないけど。
「朕ついに志を曲げ大臣の請いに随う。濁世かくの如し。大長息す」
と、宇多は日記に書いてます。
「漏れ、とうとう厨房基経に股を屈してヤツに謝罪しちまったよ(゚Д゚)ゴルァ!!
世の中どうなってんだよカス 欝駄氏脳」
>185
膝?(゚∀゚)
みなさん、基経さんのことで紛議しているようですが、そもそも、平安
時代の貴族の仕事とは何だったのでしょうか?
普段、出仕したら、どういう仕事をしていたのでしょうか?
(官位、官職によって内容は異なるし、時代によっても異なるとは想い
ますが)
>184
王朝の映像 角田文衛 東京堂出版 S45
王朝の残映 角田文衛 東京堂出版 H4
王朝の明暗 角田文衛 東京堂出版 S52
俺が勝手に王朝三部作とよんでいる本です
図書館(大阪では中之島にあります)で一部をコピーした分しか
もっていません。
京大の先生だったから、京都の古本屋に時々出るようですが。
7〜8千円するみたいです。
基経と高子の反目・陽成廃帝説は「映像」に出ています。
他の本も、おもしろい!
角田先生の本で、俺は日本史ファンになりました。
とにかく意表をつく解釈が好きらしい。東京での評価は分からんけど
京都では平安歴史資料館(だっけ?)館長です。
>188
>7〜8千円するみたいです。
うわ、たっけーーーーーー(゚д゚)
って、まさか古本屋価格がその値段なんですか?
でも、つまりはそれだけ読む価値ありなのかも。メモっときます。
ありがとう ぺこっ
>189
今の話題とは違うんですが
角田文衛の本、
中公新書で「承香殿の女御」
講談社学術文庫「平安の春」
同「平家後抄」
朝日選書「椒庭秘抄 待賢門院璋子の生涯」
が、面白いです。それに、安いです(w
>188
ネット通販考えて検索して出てきた本の中に、自分も持ってる本が
ありました。普段著者名見ないんでつい・・・
持っているのは講談社学術の「平安の春」なんですが、この人の本はすごく
読みやすくてお気に入りの一冊でした。この人の本なら8000円出しても
いい気がしてきます。お薦め本、GETしてみますね。ありがと。
ただいま無職なんで貧乏。入手に時間かかるかも(゚д゚) カナスィ・・
>190
レス書いてる間に!Σ(゚д゚) かえすがえすありがとうです!
188さんと190さんは同一人物でしょうか。
違っていたら、それぞれに。 ありがとうです。ぺこ
平安の春は、私もお気に入りです。
気楽な読み物としても楽しめますし、なにしろこの先生は読みやすい
文章を書く人ですね。ユーモアのある方なんだと思います。
日本の貴族の女性名を音読み(徳子=トクコ、定子=テイシ)にする
習慣が間違ってる、実際は訓読みなんだ! 音読みなんて狂気の沙汰である。
なんて怒ってたりするんですよね。いや、魅力ある人だなあ
196 :
日本@名無史さん:02/01/01 07:46
学問とは外れるけど、永井路子は平安貴族の政争を何度も小説にしてる。
「この世をば」が有名ですな。
197 :
日本@名無史さん:02/01/01 12:40
角田は妄想狂
学者とは言えない
198 :
日本@名無史さん:02/01/01 13:47
>197
ここまでの流れ的に、面白そうだから読もうかというのが
発露であり、なにも信者になるとかいう問題じゃないだろ。
だいたい文化系の論文なんて基本的に妄想じゃんヽ(´▽`)ノ
その中でじぶんの考えや嗜好とと一致する学説を信じれば
いいんだし、いいや自分はどれも信じない、俺の組み立てた
仮説こそが真実! でもかまーないんだよ。
それも妄想だけどナ>俺的仮説
199 :
日本@名無史さん:02/01/01 14:02
>だいたい文化系の論文なんて基本的に妄想じゃんヽ(´▽`)ノ
>その中でじぶんの考えや嗜好とと一致する学説を信じれば
>いいんだし、いいや自分はどれも信じない、俺の組み立てた
>仮説こそが真実! でもかまーないんだよ。
こういうこったからいつまでも書店の古代史コーナーには電波本ばかりが置かれてるし
井沢だの西尾だのの本が売れちゃうんだな
200 :
日本@名無史さん:02/01/01 14:17
>199
それより私としてはウメハラをどうにかしてほしいけどな。
角田先生の説ってたしかに意表をつくものが多いんだ。
でも、執拗かつ克明に(藁)、裏づけしてあるよ。
単なる憶測・妄想ではないと思われ。
俺自身は、角田ファンだけど信者ではない。
あの先生の発想って、ビクーリするような大胆な仮説で、
とにかく読んで面白いんだ。可能性の一つとして吟味する、くらいの
気持ちで読めば、たのしいよ。
202 :
日本@名無史さん:02/01/01 17:46
>200
もはや梅原は重鎮なので、手の施しようがない。
203 :
日本@名無史さん:02/01/01 18:00
>202
マジヽ(´Д`)ノ? キッツー いくらなんでもアレ(ウメ)はねぇだろと思うんだけど。
読む分には面白いけどな(色々な意味で)
204 :
日本@名無史さん:02/01/01 21:48
梅原を見ててつくづく思うんだけど、大御所がいつの間にか暴走し始めるのくらい、たちの悪いのはないね。
205 :
日本@名無史さん :02/01/01 22:04
>>204 師匠(梅原)の大暴走と、弟子(井沢)の大珍走は見事にリンクしてます(w
206 :
アフォ( ´_ゝ`):02/01/01 22:14
>187
神祇官・太政官・八省・被官・蔵人所・軍事警察・東西の市司・地方庁
とあり、それが各部ごとに細かくわけられて業務が決まっていました。
例)兵部省の朝刊は「卿」。軍事を司り、五司の統括。
また、国司ひとつを取っても、上国(大管)・上国(上管)・中国(中管)・
下国(下管)と分かれ、国司以下の職員のそれぞれ規定がありました。
任地に赴かない遙任国司と、任地で実務を取る受領の二通りあります。
国司の仕事は朝廷への一定の貢納を果たす事でした。
女官の場合も上臈・中臈・下臈に分かれ、それらは出自によって
定められたようです。
例)上臈は裁縫・奏請、伝宣など。
207 :
日本@名無史さん:02/01/06 01:01
そういう役所って、いつ頃まで正常に機能していたんでしょう?
役職だけあって仕事はなし、に、だんだんなっていくでしょう?
大内裏だってなくなっちゃうし、平安末期には大学寮すらなかったみたいだし。
班田収受やめてしまえば、民部省なんか、することないですよね。
ずっと正常に機能していたのは、弁官局くらいのものでは?
208 :
アフォ( ´_ゝ`):02/01/10 18:26
今日ようやくでかい本屋に行ったので捜したけど
角田本なかったよ〜 がっくし。
209 :
日本@名無史さん:02/01/11 01:04
211 :
日本@名無史さん:02/01/11 22:57
> 班田収受やめてしまえば、民部省なんか、することないですよね。
王朝国家体制ってヤツでは、民部省図っていうのが民部省に保管されているみたい
だったが。
平安中期くらいまでは、民部省にもすこしは仕事があったのかも。
212 :
日本@名無史さん:02/01/18 11:25
age
213 :
日本@名無史さん:02/01/27 18:30
age
214 :
日本@名無史さん:02/01/27 18:56
>>42 藤原高子は、息子の陽成が即位してから、在原業平を優遇してるんだよね。
業平が蔵人頭になったのは、陽成が即位してからだからさ。
この人事なんかを見ても、基経と高子は仲が良かったとは思えないよ。
結局、陽成廃位に関する基経のねらいがはっきりしてない。
高子との不仲説の根拠は何。当時の日記にあるの?後世の史料だけなら問題外だ。
光孝があくまで中継ぎなのだから、基経は次の天皇を模索中だったってこと。
決まっていたらそれを皇位につけりゃいいのだから。
最終的に基経は自分とうまくいく天皇を見つけられなかったことから、
ぜんぜん彼は「すごくない」ってことでいいんだよね?確認。
確認なんかとるなよ
ここで意見統一する必要なんかないだろ
>ぜんぜん彼は「すごくない」ってことでいいんだよね?
そりゃ、お前の意見がそれならいいんじゃない?
歴史ってのは、入手し得る史料から、いくつかの推論を立てて
さらに史料を読み込んで、その推論をひとつひとつ消去してゆくしかない。
この場合なら
「高子・基経不仲」という推論から陽成廃位を考えるのと
「陽成は精神の病気」説から考えるのとで孝光即位の背景が全く違ってくる。
高子・基経不仲説を取る場合、たとえば嵯峨源氏の立場はどうだったのか、
どこかに矛盾がないか、ひとつひとつ検証してゆかねばならない。
どちらの説が真実に近いかによって、基経の器量の大きさも変わってくる。
また、孝光天皇を中継ぎ即位させたあと、基経自身の外孫を皇位につけるつもりだったのか、
それが何らかの要因により源定省即位に変ったのか?
簡単に決め付ける問題ではないだろう。
基経はすごい、とか、全然すごくない、とか、
決め付けたがるのは、歴史向きじゃないと思うよ。
>>216 そうだね。誰も結論を出そうとしていないね。過去ログからは。
ただみんなはこの件をどう考えてるのかなあと思っただけなんだけどさ。
なんか男女関係が陽成廃位に結びつくってのが納得できなかったわけ。
まあ、自分が納得できないならそれはそれでいいや。
この議論はぶり返すべきじゃなかったか。
218 :
日本@名無史さん:02/01/31 18:38
なんかよーわからん人が1人いるよなぁ。
例え資料があったとしても、本人に聞かないと真相なんか分かるわけないじゃん。
現代のゴシップだって、あーだこーだと批評されている人一杯いるけど、
あくまで憶測の域を出てないだろ。本人にしかわからんよ。
「この人はこうだったのかなぁ」
「そうかもね」
「そうなのかな」
「そうかも」
って、絶対に本人や当事者にしかわからん事を、
後世の我々が憶測で話し合っているだけなのに、
なんで「決めつけ」とかいうんだか。決めつけてるのは君だよ、ったく・・・・
「私はこの人は凄いと思う」
そう思うのはその人の勝手。
「俺はこいつはすごくないと思う」
そう思うのもあんたの勝手。
誰も自分の意見押しつけてないのに、1人で自分の意見押しつけようとして、
ひょっとしてバカなんじゃねーの。
でもお前をスゴイと思っている奴も、ひょっとしたら世の中に1人くらいいるんだろ?。
その人からしたらお前は「スゴイ」、俺からしたらお前は「凄くない」。
それでいいじゃないか。
お前は俺を「こいつ、俺の事誤解してる、バカだ!」って思うわけだろ?。
それはお前の中の真実であり、「バカいえ、俺さまときたらこんなにも素晴らしいぞ、
崇めなさい(゚Д゚)ゴルァ!! 」なんて、俺は押しつけねーぞ。
そもそも平安時代なんて興味なかった自分が
たまたまこの事件に興味を持ってしまったのが悪かったんだ。
この時代の本なんて数えるほどしか持ってないし、
史料は簡単に読める環境じゃないし。
もっと勉強してからレスすべきだったなあ・・・。
>基経はすごい、とか、全然すごくない、とか、
>決め付けたがるのは、歴史向きじゃないと思うよ。
これが痛恨の一撃。いつもは結論付けは避けるようにしてたのに
なんでだろ・・・。鬱だ氏脳・。ごめんね。
俺が歴史が好きなのは
ありとあらゆる可能性があるから。
歴史に「もし〜なら」はないけど
「もしかしたら〜かも」は、常にある。
新しい発見がひとつなされれば、それまでの前提が大きく覆される。
すべての事件が違った角度から、検証しなおされる。
基経は、アホだったかもしれないし、すごい切れ者だったかもしれない。
みんなで意見を戦わせるのが面白いから、意見統一はやめようよ。
しかし、
この話題は今のとこ、煮つまっちゃってるから。
新しい話題を請う。
221 :
日本@名無史さん:02/01/31 18:45
>219
ちょっとまてよ、218にレスいれるなよ!
222 :
218-221:02/01/31 18:47
>219-220
217のレスを読まなかった上、216の後半部分を215のレスの一部と
誤解した上の長文が218です。
〈 ドモッ、スミマセン....。 〈 スミマセンスミマセン...。 〈 コノトオリデス!
∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ∨ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
(´Д`;)ヾ (´Д`;) ヾ
∨) (八 ) (´Д`;)、
(( 〈〈 ノノZ乙
しかも、あせるあまり、220も135のレスだと誤解 (´д`;)
欝出汁脳・・・ 小夜尾奈良・・・・
224 :
日本@名無史さん:02/01/31 18:56
まぁまぁ、マターリといきましょうや。
でも今年になってこのスレ沈みっぱなしだったし、
上がってくると嬉しいね。
なんか、話題ない?
225 :
日本@名無史さん:02/01/31 19:05
ではひとつ。
藤原北家興隆の祖?冬嗣は最終的には
どの程度の権勢を得たのかな。
たしか出世の糸口は嵯峨帝の信任を得て
薬子の乱のあたりで蔵人頭になったことだと
記憶しているが。
226 :
日本@名無史さん:02/01/31 19:21
平城天皇が弟嵯峨天皇に譲位した後も政治に介入したことから、
初代の蔵人頭になって嵯峨を補佐したんだよね?
薬子の乱の直前だったか・・・
227 :
日本@名無史さん:02/01/31 19:23
検非違使の設置も、嵯峨ー冬嗣の時代じゃないかな。
ネットで調べたら冬嗣は最終的には左大臣までいったらしい。
嵯峨には東宮時代からつかえてたみたいだね。
永井路子が小説書いてるから結構面白い人物かもね。
ところで嵯峨は晩年政治に対する意欲を失ったと
どこかで見たけどどうなの。
嵯峨が後継者育成しっかりやって権力の分散はかれば、
平安時代はまた違うものになったと思うんだけどな。
230 :
日本@名無史さん:02/02/01 11:52
内麻呂と冬嗣って
どうもよく分からん。
普通に考えれば、平安朝の藤原氏の主流は式家になるはずだった。
桓武天皇擁立の首魁は式家の百川。
桓武皇后は、式家良継の娘、乙牟漏で、平城・嵯峨帝の母。
百川の娘旅子は淳和天皇母。
もうひとりの娘、帯子は早逝したけど平城帝の東宮妃だった。
嵯峨帝の皇后は橘氏だけど、
べつに内麻呂や冬嗣が擁立したわけでもないし・・・。
閨閥とは関係なく、嵯峨帝の信任をえたということか。
百川の子、雄嗣は左大臣まで昇ったが(冬嗣の卒去後、淳和帝の時代)
結局その子らは公卿にさえなれなかった。
どんな策をつかったんだろ??
>>230 嵯峨は実力天皇とみられてるみたいだけど、
実は冬嗣の操り人形だったりして。
232 :
日本@名無史さん:02/02/01 22:53
>>230 嵯峨の皇后・橘嘉智子の姉の夫が、冬嗣の妻の兄弟だけど
それほど近い関係とはいえないよね。
233 :
日本@名無史さん:02/02/02 14:03
>>230 >普通に考えれば、平安朝の藤原氏の主流は式家になるはずだった...
は、桓武の死去と式家の薬子の乱で翻ったわけです。
内麻呂は息男をそれぞれ平城、嵯峨兄弟に付けて、薬子の乱で嵯峨流と冬嗣流が後世の本流となった
わけです。平城側の息男は真夏?だったか。
及び仲成暗殺後の式家が政治的人材を欠いていたのが、北家の本流化の2つ目の因子でしょう。
緒嗣は冬嗣に対抗しうる政治的人材ではなかったわけです。
嵯峨と冬嗣は江戸期における徳川家治と田沼意次のような
関係だったのかな。
嵯峨はなんか文人皇帝というイメージがあるもんで。
真夏って「まなつ」って読むのかなぁ。
236 :
日本@名無史さん:02/02/08 13:38
age
237 :
日本@名無史さん:02/02/09 14:28
>>230 >雄嗣は左大臣まで昇ったが(冬嗣の卒去後、淳和帝の時代)結局その子らは公卿にさえなれなかった。どんな策を...
良房の政策(政治的策略)でしょう。
>>233 >緒嗣は冬嗣に対抗しうる政治的人材ではなかった...
冬嗣にでなく、良房にが正確でしょう。
238 :
日本@名無史さん:02/02/09 22:30
だいたい冬嗣の父親、内麻呂があやしい男だ。
南家を一気に葬った伊予親王の謀反事件は一体誰がお膳立てしたんだ?
あれが誣告だったことから、平城天皇は神経衰弱になって
僅か4年で譲位したようなもの。
平城天皇というひとは、薬子に懸想したことを除けば、短かったが立派な治世を行っていたのに。
譲位後に再び勢力を保とうとしたため、孤立を深め、ついに薬子の乱となったが。
あれだって、式家を追い落とすための、内麻呂の筋書きかも。
内麻呂の長男、真夏はあの事件で失脚したが、
息子をひとりずつ、両賭けしてたんだろうか。
それとも真夏を捨てて、冬嗣を選んだということか?
気持ちの悪い親子だよな。
239 :
日本@名無史さん:02/02/09 23:24
真夏は日野家の祖だよね。
完全に捨てられたわけでもないんじゃない?
240 :
日本@名無史さん:02/02/09 23:31
真夏・冬嗣・秋継・桜麿
殆どギャグだな
241 :
日本@名無史さん:02/02/10 00:09
>>238 >平城天皇というひとは...立派な治世を行っていたのに...
とは、どの方面の施策を指しているのかな。少なくとも政略家の資質はなかった。父の桓武と違い。
薬子の乱も色ぼけ平城は神輿にすぎず、式家と北家の政争だった。
242 :
日本@名無史さん:02/02/10 09:48
>240
思わず言えてるとか思っちゃった。
でもまぁ、古い時代なだけに、ギャグもなかなか雅やかじゃないですか。
観察使の設置は悪くなかったとおもう
まー批判もいろいろあるだろうけど、勘解由使なんかよりは実効力があった。
地方行政に意気込みを示しただけでも、当時としては珍しいことだった。
中臣・忌部氏の長年の争いにもあっさりとケリをつけたし
平城天皇はけっこうやり手だったのでは・・・?
薬子の乱のアホさ加減のせいで、アフォ帝のイメージ強いけど
いわゆる権謀術数家ではなかっただけで、良政を施こうという意欲のある天皇だったと思う。
244 :
日本@名無史さん:02/02/14 05:18
官司統廃合や人員削減など、今で言う行政整理その他
反桓武的に頑張って、いろいろやったけど
結局嵯峨の時に元に戻されちゃってるんだよなあ。
245 :
日本@名無史さん:02/02/16 16:27
>>230 内麻呂と冬嗣ってどうもよく分からん
>>238 内麻呂があやしい男だ
桓武の子女の一人の良岑安世と冬嗣とは、異父兄弟。母は百済永継。
女御を家臣に下賜した所以なら判らぬでもないが、冬嗣の方が年上。内麻呂はあやしい男だ。
内麻呂の嫡妻って誰だったかなあ?皇女だったかなあ?
今冬、今上天皇の「韓国ゆかり発言」が話題になりましたが、五摂家も母系では百済からの
亡命人の末裔になるわけです。
246 :
日本@名無史さん:02/02/16 17:04
百済人=倭人でしょ。高句麗人(今のチョン)ではないでしょ。
247 :
日本@名無史さん:02/02/21 22:32
あげ
248 :
日本@名無史さん:02/03/03 14:44
>>246 いろんなスレで同じこと言ってるでしょ?
249 :
日本@名無史さん:02/03/03 18:03
250 :
日本@名無史さん:02/03/04 00:11
>>240 秋継・桜麿って母親は誰?。
永井路子の『王朝序曲』では内麻呂は坂上田村麻呂の妹と再婚して、
冬嗣達の異母弟をもうけてたような……
ソースが小説なので正しいかどうかは自信ない。
251 :
日本@名無史さん:02/03/06 21:38
>>250 田村麻呂の妹って、桓武天皇の後宮に入って高津内親王を産んだ坂上又子のこと?
253 :
日本@名無史さん:02/03/07 16:06
>>253 粘着ヲタが厨房に見事釣り上げられちゃってるじゃん(w
覚えよう、放置
とりあえずこの言葉を捧ぐ。
255 :
日本@名無史さん:02/03/09 22:32
>>250 坂上氏は、田村麻呂後、何故凋落したんだ?武門貴族の紀氏と違って。承平の乱なぞは
出番のはずだが。
256 :
日本@名無史さん:02/03/11 10:28
へたれな跡継ぎが幾代か続いてしまったんでは?>田村
259 :
日本@名無史さん:02/03/13 17:01
安和の変で兼家が源高明を失脚させたけれど、そのあと超子が高明一家を助けたって本当?「萌がさね」でみたけど。
260 :
アフォ( ´_ゝ`) :02/03/13 21:47
>259
その小説読んでないけど、ネタでは?
超子のエピソードは、甲申の夜に頓死したというくらいしか伝わってないような…
ネタ→小説のネタ
262 :
日本@名無史さん:02/03/14 05:05
娘の明子は詮子に養われ道長と結婚した。
263 :
日本@名無史さん:02/03/14 13:04
264 :
アフォ( ;´_ゝ`) :02/03/14 13:38
>263
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・(´д`)
>263
その論争、片方が笑えるくらい厨房だね。
女のいやらしさが出ててコワイす。
意見言うと厨房返しに合いそうなんで勘弁
して下さい(((((((( ;゚Д゚)))ガクガクガクブルブル。
も終わってるみたいだしね。
ま、あえて言えば倭姫が大海人と結婚って
どういう発想かてとこ。
>265
スレ違い。ここ平安だし
わしがいれば簡単に天下が取れたな・・・
儂が阻止しちゃうみょん(・∀・)>信P
269 :
日本@名無史さん:02/03/31 18:03
嵯峨天皇の第一妃だった高津内親王は、どうして後に妃位を
廃されたんでしょうか。誰か教えてください。
仁明の母親、橘嘉智子が権力握ってたからじゃないの?
271 :
日本@名無史さん:02/03/31 18:54
>270
仮にも桓武帝の皇女である女性を、なんの落ち度もなく
廃位にするとは考えられないなぁと思って。まして、嵯峨から見たら、
異腹とはいえ妹だし・・・
ていうか、高津内親王が早逝した為、嘉智子が皇后になったらしいんです。
つまり、高津が廃妃になったのは、嘉智子が権力を握る前のはず。
と思ったんだけど、よくわかんないヽ(´Д`)ノ
272 :
日本@名無史さん:02/04/16 00:05
age
273 :
日本@名無史さん:02/04/16 00:12
保元の乱後の信西の政治改革は意外と好評だったらしい。でも、アフォの信
頼とバカな義朝のせいで頓挫。もし、平治の乱が起こらなかったら・・・
平安末期の世の中はどう推移していったのでしょうか?
274 :
アフォ( ´_ゝ`) :02/04/16 00:16
>273
どうなったんだろうねぇ
後白河上皇は政権を掌握できないまま、死亡。それ以外はわからん。
276 :
日本@名無史さん:02/04/16 00:37
頼朝の武家政権は出現できたのかなあ?
>271
あの時代は、異腹兄弟姉妹は他人みたいなものだった。
だからケコーンできたのさ。
>>271 薬子の変の後始末だったと思う。
これにより嘉智子・冬嗣ラインの政権が完成する。
詳しいことは忘れた。
>277
いや、いくら余所余所しい仲でも、子供も産まれているわけだし、
落ち度もなく皇女を廃位にはできないでしょう。その『落ち度』ってなんだったの?
って質問だったのです。
>278
別のところで『高津の廃位は歴史上不明』と教えて貰い、納得してました。
なので、是非「忘れた詳しい事」を思い出して欲スィ
もしも思い出したらどうか教えてください。
バラ戦争?
281 :
日本@名無史さん:02/04/28 16:48
283 :
日本@名無史さん:02/04/29 14:14
>>270 橘嘉智子が権力握ってたという事実はないと思うが。
当時の表の権力者は藤原氏、後宮では、誰だったかな。
>>278 高津内親王は坂上苅田麻呂女の又子所生だから、薬子の変での係累はないだろう。
284 :
日本@名無史さん:02/04/30 15:19
>>270 橘嘉智子が権力握ってたら、橘氏がもっと政権上層部に登用されたはずだが。
奈良麻呂横死後、橘氏の公卿っていたっけ?
285 :
日本@名無史さん:02/04/30 16:03
>284
逸勢は?
あれは公卿にはならなかった?←知らない
トリップってこうやるんだっけ
287 :
日本@名無史さん:02/05/02 02:01
288 :
日本@名無史さん:02/05/02 02:31
>>283 永井路子の『王朝序曲』という小説に書いてあったのだが、
橘嘉智子の姉・橘安子の夫が藤原三守。
三守の姉・藤原美都子の夫が藤原冬嗣 だそうだ。
橘嘉智子は藤原氏(北家)に近い立場だったのかもしれない。
289 :
日本@名無史さん:02/05/02 02:39
>>284 橘嘉智子の兄の橘氏公が右大臣になってる。
290 :
日本@名無史さん:02/05/06 19:11
age
291 :
日本@名無史さん:02/05/11 15:22
>>288 藤原美都子は、南家武智麿−巨勢麿−真作−美都子。尚侍等の後宮要職にも就いているから、
冬嗣とさしずめ夫唱婦随で、自家の権勢伸張と他家謀略に勤しんだだろうなあ。
>>289 氏公は、嘉智子の従兄弟逸勢が失脚した承和の変後も安泰だったのかな。
292 :
日本@名無史さん:02/05/11 15:36
>>291 承和9年 承和の変 橘逸勢が失脚
承和11年 橘氏公、右大臣に任命される。
293 :
日本@名無史さん:02/05/11 15:55
>293
77は、別に同母妹とも言ってないと思うけど。
295 :
日本@名無史さん:02/05/13 22:54
淑子・有子・国経・遠経の母は、基経・高子の母より身分が低い家の出なんだよね。
家司難波連蘰麻呂の女、難波連淵子。
296 :
日本@名無史さん:02/05/16 23:01
誰も訊いてないのにいきなり語り出すヤシってヽ(´Д`)ノ
ただ内容なくアゲるよりいいじゃんか >296
299 :
日本@名無史さん:02/05/23 20:14
道長は貴族の中で一番汚い。
300 :
日本@名無史さん:02/05/24 05:21
5/21夜のNHK「その時、歴史は動いた」で、菅原道真が取上げられていた。
左大臣藤原時平と右大臣菅原道真の政争。もっとも藤原氏による一方的な他氏排斥だから
政争には当てはまらないか。律令制の公地公民制度の破綻理由が判りやすかった。
301 :
日本@名無史さん:02/05/24 10:39
>300
絶対見るつもりだったのに見損ねた(´・ω・`)ショボーン
302 :
日本@名無史さん:02/05/24 11:30
>301
下に同じく(´・ω・`)ショボーン
誕生日だったのに1人…酒呑んでヒックリかえてた(´・ω・`)ショボーン
夜中にでもすぐ再放送するやろ
近所じゃないけど、ちょっと
行ったところに時平神社ってのがある。
なんでもそこに彼の娘が住んでたそう。
305 :
日本@名無史さん:02/05/24 13:29
御所の側に道真さん生誕の地があった。
306 :
日本@名無史さん:02/05/25 10:58
>>118,
>>300 >忠平は藤原氏主流派に逆らって、菅原道真に心酔していた...
という時平・忠平兄弟の確執話は、5/21放映では出てこなかった。やはり、道真一人が
宇多・醍醐に重用される事への他の諸氏や皇親勢力の敵意が、道真左遷の原因だろう。
文章家の出身ではあるが、宇多やその皇子に自分の娘を入れるという行為は、堂上貴族家系の
他氏には、警戒されただろう。
307 :
日本@名無史さん:02/05/25 13:27
>306
>時平・忠平兄弟の確執話は、5/21放映では出てこなかった
>やはり、道真一人が
ていうか、時平と忠平は9歳違いだし、真ん中に仲平という兄弟もいる。
道真左遷事件の時は、忠平は20か21歳の若輩。確執なんてもともとなかった
んじゃないかな。「あ、道真さん気の毒ー、時平にーさん、きっつぅ。俺は
道真さん、いいと思うんだけどなー」程度の感慨ではないかと。
308 :
日本@名無史さん:02/06/05 00:18
age
309 :
日本@名無史さん:02/06/17 00:03
age
>>240, 250
桜麻呂などの母は、田村麻呂の妹、登子が系図にのっておりますです。
311 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/01 10:54
age
312 :
日本@名無史さん:02/07/12 11:25
あの・・・
映画の陰陽師を観て、平安時代に興味を持った初心者なんですが、
もし出来たら教えて頂きたいことがあるのですが・・・
醍醐天皇の第一皇子、克明親王が立太子できなかった理由が知りたいのです。
母親の封子が更衣だったのはやはり政治的理由からでしょうか・・・?
醍醐天皇は、時平が亡くなってからも穏子をとっても大事にしてますね。
穏子は時平ではなくて忠平が後押ししてたのでしょうか。
或いは、政治的思惑なではなくて、穏子の血筋のみ皇太子にしたかったのでしょうか。
的外れだったら、ごめんなさい。
歴史の知識が全くない上に、どこからどう調べてよいのかすら分からないので、
調べる手立てだけでも、教えて頂けると助かります・・・
313 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/12 13:41
>>312 「長男」という理由だけでは後継者になれないのが天皇家ですよ。
母親の身分が低い場合は尚更です。
ただでさえそういう伝統であるものを、持統・不比等が大宝律令によって、
天皇が例え幼少でも差し支えなく政治を執り行えるよう制定してしまったくらいですから、
それこそ「長男」である必要はなくなった訳です。
>醍醐天皇は、時平が亡くなってからも穏子をとっても大事にしてますね。
>穏子は時平ではなくて忠平が後押ししてたのでしょうか。
醍醐が穏子を寵愛したのは、単純に愛していたからでは?
ちなみに忠平にとって穏子は妹(時平にとってもそうだけど)。
妹を後押ししてもなんらおかしい点はないと思います。
>穏子の血筋のみ皇太子にしたかったのでしょうか。
忠平には娘は一人しかおらず、皇位を継ぐことなく亡くなった保明皇太子に嫁いでいます。
「穏子の血筋」というより、「自分の血筋」という感覚だったのではないでしょうか。
313さま
レス、どうもありがとうございます。
>醍醐が穏子を寵愛したのは、単純に愛していたからでは?
なるほど、そうですよね・・・
つい、昔の人にも感情というものがあったのだということを
忘れてしまいます。
忠平には、娘は保明皇太子の妻一人しかいなかったのですか。それなら、穏子を追い落として
自分の娘を、などとは考えないわけなのですね。
何となく、分かりました。封子が、光孝天皇の皇孫だったらしいので、その子供で
第一王子である克明親王が、皇太子になれなかったのが不思議だったのですが、
当時は第一王子であるということには、それほど意味はない、と・・・
知識のなさが恥ずかしいです。
又、このスレで勉強させてください。
どうもありがとうございました。
315 :
日本@名無史さん:02/07/13 02:39
崇道天皇と崇徳天皇。
二人の怨霊に挟まれた時代。
316 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/13 11:06
>>314 >何となく、分かりました。封子が、光孝天皇の皇孫だったらしいので、その子供で
>第一王子である克明親王が、皇太子になれなかったのが不思議だったのですが、
そもそも光孝天皇自体が、もともとは皇位を嗣ぐような立場の天皇ではなかったんですよ。
皇位を継ぐべき適当な人物がいなかった為、基経の引きで55歳でいきなり登極した
んです。つまり、ほとんど中継ぎとして立った天皇なんです。しかも在位は2〜3年で、
すぐに亡くなっています。つまりそれほどの力は持っていなかったお方なんですよ。
その息子の宇多天皇が、藤原氏の専横を嫌って菅原道真を重用していますが、
その息子の醍醐天皇は父親の意に反して道真を左遷に追いやり、藤原氏の専横に
力を貸してしまったくらいです。天皇自身は尊貴な存在に違いなくても、その子孫に
まで権威がついてまわる訳ではないのです。そもそも皇孫の封子さんが更衣にしか
なれなかったのはそういう事でしょう。
317 :
312=314:02/07/15 02:41
光孝天皇のことは前の方のログにもありましたね。
・・・天皇の子孫であっても、更衣にしかなれない・・・
で、藤原氏の血族は堂々と高い地位についている。
なんだか、理不尽な気がしてしまいます。
でも、藤原氏が栄華を誇っていたのも、道長までですよね。
栄枯盛衰の儚さ・・・ということなんですね。
そういえば、NHKの「その時歴史が動いたー菅原道真」を観ました。
陰陽師のコミックスでは、とんでもない怨霊として描かれていましたが
理想主義者の素晴らしい人物だったみたいですね(NHKによれば)。
宇多天皇が最後まで譲位しなければ、随分歴史はかわったんでしょうか。
(いや、なんでも、そうですよね・・・)
>藤原氏が栄華を誇っていたのも、道長までですよね。
んなこたあない。
>随分歴史はかわったんでしょうか
譲位しようがしまいが、クレオパトラの鼻が高かろう低かろうが
西軍が勝とうが負けようが、信長が生きていようがいまいが
大して歴史は変わりません。
319 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/15 10:27
道長が藤原氏の絶頂期だっただけで、あと下り坂になり、衰退してったわけじゃ
けっしてありません。幕末までガッチリ藤原氏が天皇家の後宮を席巻してますよ。
公家などとは言ってもそれは名目上の権威に過ぎず、そもそも政権は武家に
移っているではないかと言われたらその通りなんですけどね。
しかし、なんだかんだと、将軍家も御台所は公家からもらったりもしているし、
例えば足利氏が政権取っていた頃なんかは、基本として日野家(←藤原氏)から
御台所をもらうことになっていたし。
と、ゆっては見たものの、鎌倉以降の歴史には疎い俺。
320 :
日本@名無史さん:02/07/16 21:12
>316
封子が更衣なのは、ただ単に父親(源 旧鑒)の地位が高くなかったからだろう。
皇孫でも、父親が親王であるか、源氏でも大臣(最低でも納言クラス)になっていれば、
女御にはなれただろう(あの時代は親の地位が重視された)。
ただし、仮にそうでも、克明親王が皇太子になれたかというと、やっぱり、
無理だっただろうが…。
それから、蛇足ながら、忠平の娘は一人じゃないよ。
321 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/16 22:39
>>320 >封子が更衣なのは、ただ単に父親(源 旧鑒)の地位が高くなかったからだろう。
それも含めたレスのつもりだったんだけど。
>それから、蛇足ながら、忠平の娘は一人じゃないよ。
まじー?
嘘こいちゃった? 俺?
貴子って子が1人いるだけだと思ってた。
322 :
日本@名無史さん:02/07/17 14:21
平安とかの人がデヴだったのって本当?
栄養のかたよりが原因だって・・
323 :
日本@名無史さん:02/07/17 15:03
食べ物のせいというより、貴族だけなんじゃない?
牛車ばかり使って動かないし。
平安時代の禿テプ貴族女性の絵、見たことある。
女房に支えられて、やっと歩いてるの。
>321
他に重明親王妃(先妻)の寛子と藤原諸房室になった女子がいた。
325 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/18 10:18
>>324 さんくす。
じゃあ>312への解答的には、
「忠平は、妹にあたる穏子と、それを寵愛する名君醍醐に対し、
少ないコマ(娘)を使って無理矢理天皇の祖父たらんとするほどの
意識はなかった」
って事かな。
と、言うか、春宮(保明)には貴子を差し出している以上、
やるべき事はやってるわけで、この春宮が早死にしていなかったら、
当然貴子が産んだかもしれない親王が次の天皇になっていたんでしょうね。
903年:女御穏子腹に保明親王が誕生
・この時点で、更衣腹の克明親王より優位な保明親王の立太子決定か
・909年まで左大臣時平存命につき、翌年の立太子は時平が後押しか
(道真左遷後のこと、かつ、右大臣は仁明皇子の源 光)
909〜923年:保明親王が皇太子
・この間に、時平娘、忠平娘を皇太子妃に。しかし、時平娘にのみ王子(慶頼王)が生まれる
・時平死後、この間に、忠平右大臣まで出世
923〜925年:保明親王死後、慶頼王が皇太子
・保明親王の死の直後、穏子は中宮に立后(穏子腹皇子の圧倒的優位が決定)
・忠平、左大臣に。皇太子が幼少のため、妃は入れず
925年〜:穏子腹寛明親王立太子、その後天皇に。穏子腹成明親王立太子
・忠平は摂政に。女御には長男実頼の娘慶子を入れる
・皇太子成明親王妃には次男師輔の娘安子を入れる
忠平も、自分が氏長者になったら、結構しっかりやっている。
また、(穏子立后以降特に)穏子腹以外の皇子の入り込む隙は全くなかった。
ところで克明親王の生年、きぼんぬ。
ただ、穏子立后の923年当時、光孝天皇皇女の源 和子も女御で、
保明親王誕生の後に皇子数人を生んで、生存中なのに、
それを無視していくところが、史料だけを見ていて、やはりすごいと思った。
みなさま
色々と、ありがとうございます。
克明親王は903年保明親王の2ヶ月前に生誕と聞き及んでおります。
本当によく分かって嬉しいです。
このスレ、しばらくロムらせてくださいまし。
329 :
312=328:02/07/18 17:19
ごめんなさい〜
903年は確かなんですが、2ヶ月前っていうのは、まちがいです。
2ヶ月で、保明親王が立太子、でした。
すみません(涙
>>328 あ、良かった!
嘘こいてごめんなさいでした。
>330
ほとんど、常駐させて頂いちゃってます(知識不足のため、ロムばかりですが)
これからもよろしくです m(__)m
332 :
日本@名無史さん:02/07/18 21:44
出世する方法や流れはまあ理解できるんだけど、実際に政治ってどういう風に何を
行っていたんだろう。特に疑問なのが、朝議。
中納言とか参議とか雁首揃えて、なにもしなかったのではないかと思うのだが。
受領が働いてのは認めますが。
333 :
日本@名無史さん:02/07/18 21:50
殿上人は受領からの陳情を聴くのが仕事だったのでは?
>>332 たとえば、
「太政官では八省や諸国の統轄・政務・行政、天皇への進言や
詔勅の任、記録・典義を司る」
だそうです。
なんか細かく役職が決まってたみたいですよ。
335 :
日本@名無史さん:02/07/19 15:18
>334
そこに書いてあることは、要するにハンコをつくだけというのと殆ど同じだね。
江戸時代の将軍みたいに決裁するだけの機関なのかな公卿って。
それに例えば、右兵衛督とか近衛中将なんて役職は平安中期以降すでに機能して
いなかったと思うんだけど、そういう役職についた人はなにしていたんだろう。
336 :
日本@名無史さん:02/07/19 15:48
平安末期とか、室町時代〜戦国と進むに連れ朝廷は実際には政治をしなくなるわけですが、
その頃こういう公卿は何をしていたのでしょうか。
やはり御所には出仕していたのかな。
それに地下官人はいつごろまで実在(機能)してたのかな。
場合によっちゃコワッパでも高位について参内してたことを思えば、
やっぱりそう大層なことは出来てないんじゃないかなとワシも思ったりする。
338 :
日本@名無史さん:02/07/22 20:52
少なくとも、平安時代は、儀式と人事(苦情整理)はやってたみたいだが、
貧しくなった後は、日々の糧をかせぐため、
大名の客人となるか、源氏物語の書写をしていたか?
339 :
世界@名無史さん:02/07/22 21:38
江戸時代まで残った名門公家はほとんど藤原氏。
他、上源氏の久我家や中御門家などの数家だけ。
上源氏→村上源氏
341 :
日本@名無史さん:02/07/23 01:01
藤原頼長について教えて?
342 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/07/23 09:35
頼長はホモ。『台記』の著者。
343 :
日本@名無史さん:02/07/23 15:52
>>339 >江戸時代まで残った名門公家はほとんど藤原氏。
>他、上源氏の久我家や中御門家などの数家だけ。
中御門家は藤原氏頼宗流ですよね??
345 :
日本@名無史さん:02/07/23 21:18
’名門’といわれると、どうかと悩むが、
神職の吉田、医師の丹波あたりはちゃんと仕事してたようだ…。
>すまん、中御門→土御門だ。
なるほど、晴明様のお家ですね。
347 :
日本@名無史さん:02/08/02 11:41
age
348 :
日本@名無史さん:02/08/07 21:08
ageる。
平安貴族の話題ってすくないね。
上がったついでに、むかし自分が読んで面白かった、
手軽に読める平安関連本。
土田直鎮『日本の歴史 5 王朝の貴族』中央公論
保立道久『平安王朝』岩波新書
保坂弘司訳『大鏡 全現代語訳』講談社学術文庫
うん。349の本は、平安を語るには必須。
あとは、角田先生の本とか?
(特有のこだわりすぎの部分20%くらいを頭の中で差し引いて読む)
個人的に、講談社学術文庫から今鏡、水鏡もだして欲しいと願っている。
講談社学術文庫はコンパクトに古典の現代語文や解説まで載っている点で、すばらしい。
351 :
日本@名無史さん:02/08/09 21:37
このスレ見るような人には知ってて当然過ぎる「月やあらぬ」の和歌が、
他板で「これってなに!?」と訊かれていた。分野の違いってあるね。
352 :
日本@名無史さん:02/08/14 13:28
353 :
日本@名無史さん:02/08/21 09:45
354 :
周りは変わってしまった:02/08/23 22:54
ageついでだー。
>351
どういう意味で、「なに?」って?
有名な理由か、出典か、背景の真偽か、はたまた歌の意味か…。
「月やあらぬ」ってつぶやいて、「彼女と別れたか」と言われることは、普通、ない。
平安を語るにはどの和歌まで知ってるのが常識なのだろうか??
355 :
日本@名無史さん:02/08/23 23:16
>>354 俺も知りたかった。どんな文脈だったのか。
せめて「どの板」だったかだけでも教えて欲しい。
356 :
◆Z6jgZAEc :02/08/23 23:18
井沢の、 逆説シリーズはどうなのYO!?
>354
日本人が書いた三国志小説の副題に使われてたのを、
「これってどこからの出典?」と。
>355
三国志板っす。
//////////////////////以下抜粋////////////////////////////
677 :無名武将@お腹せっぷく :02/08/09 12:41
ところで「月やあらぬ」の意味と出典わかる人いるー?
教えてん
「上邪ー」と「淡雪は千重にー」はわかったんだけどね。「彼の蒼なるもののー」は
なんとなく見当つくっていう程度。
678 :無名武将@お腹せっぷく :02/08/09 12:55
伊勢物語の歌に
月やあらぬ春やむかしの春ならぬわが身ひとつはもとの身にして
(月は昔の月ではないのか。春は昔の春ではないのか。
私の身一つだけはもとのままであるのに、すべては移ろい行ってしまい、あの人もいないのだ)
というのがありますが…他サイトから転載。
//////////////////////////////////////////////////////////
358 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/08/24 09:51
>平安を語るにはどの和歌まで知ってるのが常識なのだろうか??
古文派じゃないなら、古今や伊勢物語全部を覚えてる事はないと思う。
ただ、藤原高子と在原業平のスキャンダルあたりは、
白珠か と、月やあらぬ は、セットで知らないとやっぱ
「え?」て気がしますね。
特にこのスレは、初期に高子の廃后ネタで盛り上がってたし。
359 :
日本@名無史さん:02/08/24 09:59
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360 :
日本@名無史さん:02/08/24 20:39
よその板で拾ってきたレス。
水中考古学の本で読んだ話だが。
琵琶湖の竹生島の周辺水域には水深数百mの水域がある。
平安朝の昔から竹生島に詣でた貴族の船が遭難し、
その遺体が揚がってこなかったという話が残っているが、
彼ら平安貴族など多くの水死体は、
ほとんど細菌が無く低温の琵琶湖の最深部の湖底で、
屍蝋となって今も死んだ当時の服装、
面影をとどめたまま残っている可能性があるということだ。
話半分としても、鬼気せまるイメージではある。
嘘っぽいけど、もしも本当なら見たいなぁ。
グロはヤダけど・・・
361 :
日本@名無史さん:02/08/24 21:08
竹生島と言えば、平家物語の平経正の場面で有名ですね。
363 :
日本@名無史さん:02/08/26 16:16
>>360 想像して、しばらくトリップしちゃってたんだけど、確かにカナ−リ見てみたいかも。
あくまで、グロくないのが前提だけど。衣装の色は抜けちゃってるんだろうなあ。
364 :
日本@名無史さん:02/08/26 17:04
>>360 その話、何かで読んだことがある。
うろ覚えで恐縮なんだけど、ごくたまに水流の関係で屍蝋化した遺体
が浮かんでくることもあるらしい。
かなり昔、平家の落ち武者(?)の屍蝋が漁師の網にかかったとか。
365 :
2チャンねるで超有名サイト:02/08/26 17:07
366 :
日本@名無史さん:02/08/31 12:08
>>339 >江戸時代まで残った名門公家はほとんど藤原氏
藤原氏勃興以前からの古代貴族系の氏族は、なぜ残れなかったの?
367 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/08/31 15:43
取りあえず、大伴氏は応天門の変で中央政権からグッバイ。
物部は、蘇我にあぼーんされ、
蘇我は、中大兄にあぼーんされ、
紀氏、阿部氏あたりは藤原に負けたー。
369 :
日本@名無史さん:02/09/01 22:05
>>368 いや物部氏は、守屋滅亡後も支流が、天武・持統朝で廟堂に列しているぞ。
蘇我氏も入鹿滅亡後も、紆余曲折を経て、奈良朝でも藤原仲麻呂の手下として
活躍しているぞ。
370 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/09/01 22:56
>>369 でも中央政権からは遠ざかってるんでない?
平安時代に突入する前に、すでに中央から去った一族は、
「江戸時代には名門ではなくなっていた」と判じて妥当だと思う。
371 :
日本@名無史さん:02/09/07 11:42
372 :
日本@名無史さん:02/09/14 20:45
373 :
日本@名無史さん:02/09/14 21:38
>>366 高い官位につけなくなって貴族社会から退場したんだろうが、
近世の地下官人の中にはけっこう残っているのでは?
374 :
日本@名無史さん:02/09/14 23:46
藤原、源平以外だと、菅原、大江、清原、大中臣、卜部、安部、丹波などが
堂上家として残ってます。
このうち、丹波氏(錦小路家)は坂上氏の支流だとか。
帰化系氏族が維新まで公家として残ったというのはちょっと意外な気がしました。
医道という家職があったのが幸いしたのでしょうか。
375 :
日本@名無史さん:02/09/14 23:59
政争に負けてもあまり死刑にならなかった
376 :
あらいぐま ◆lrrr3OOI :02/09/15 09:11
律令の死刑制度は残したままだったんだけど、
嵯峨天皇の方針で、
「慈悲をもって減刑」にしていたらしい。
自分の来世の功徳の為に。
庶民の強盗殺人者に対しても減刑やってたから、
庶民にとっては大変極まりなかった平安時代。
ハンドルネーム間違えた(*゚д゚)
378 :
日本@名無史さん:02/09/15 10:20
>>373 地下官人といえば「絵」をお家芸に
古墳時代の豪族、巨勢氏が存続してることには萌えだな。
379 :
日本@名無史さん:02/09/19 00:51
都の武力の元締め、検非違使の長官というのは
代々藤原氏が握っていたのですか?
かなり重要な地位のような気がするのですが。
検非違使別当(長官)は従4位上。
別に藤原氏ばかりって訳でもない気がするんだけどどうだろう。
他の役職との兼任が多かったような気がしたけど、ちがったっけ?>検非違使別当
382 :
日本@名無史さん:02/09/21 06:52
ほとんど唯一の軍事力を掌握してるのに、
あまり重視されていなかったのでしょうか?
「平安貴族はケガレがキライ」とかいうお話になるのかな……?
>>382 他国から戦争ふっかけられる事もなく、
せいぜい国内の小競り合い程度だったからかも。
>382
検非違使は実際はそれほどしっかりとした警察組織機能はもっていなかった。
平安時代の軍事力の中心は、有力貴族子飼いの武家集団。
検非違使は、下のほうはもともと軽犯罪の罪人を’放免’してつかっていたから、
組織として別当が軍事掌握ってハナシにはならない。
385 :
日本@名無史さん:02/09/22 04:48
382
>>384 おお、サンクス。
でも「武家集団」てそんな初期からいたんですか?
また、ある有力貴族が、政治的に失脚した貴族を捕らえる為
屋敷を囲んだり押し入ったりするとき(正式に)なんかは、
検非違使が派遣されたわけですか?
一応「政府公認の」軍事力としては検非違使が最高と考えてよろしいでしょうか?
386 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/09/22 10:36
>>385 謀反ならともかく、政治的失脚は別に罪じゃないから、
「捕縛」ってのはないのでは。単なる左遷とか失職だと思うし。
387 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/09/22 11:33
興味出てきたんで調べてみた。
史料によると、平安時代の軍事警察は弾正台、左右近衛府、左右兵衛府、左右馬寮、
兵庫寮、検非違使庁、左右京職と分かれ、それぞれで職務が分担されているようだ。
弾正台は左右大臣以下の朝臣を取り締まる権限を持っていて、
検非違使は巡検や、盗賊の捕縛、人や動物の死骸、町の汚物やゴミ処理が主な仕事
だったらしい。
でも、弾正台は、後に検非違使に職務のほとんどを奪われて、実質的には機能しなく
なっていたらすぃ。
(※検非違使を設置したのは嵯峨天皇)
左遷される空気はあっても、「聞いてません」といえば一応まかり通るみたいで、ヤバイ
事になった貴族は、徹底的に逃げ隠れした。その逃げ隠れと言っても、せいぜい
有力な擁護者の屋敷に匿って貰うとかだけど。居所がばれてると、国司クラスや
高位者に使える帯刀、滝口の武士ら、検非違使が屋敷を囲んで脅しつけながら、
朝廷の勅使が強引に屋敷に踏み込んで、「罪状と次の役職」を申し述べる、という形だったらしい。
例えば一条天皇皇后の兄伊周は、ヤバイ事になった時、皇后である妹のところに隠れていた。
でも、橘逸勢みたい、「謀反」で捕まった場合は、こんな悠長でもなかったろうな。
388 :
日本@名無史さん:02/09/22 13:05
>>385 検非違使って確かに”建前上”は都を守護する「政府公認」の警察力だった
と言えると思う。捜査権力を支えるために、別当の命令である別当宣は、太
政官と一線を引いて、勅宣に準ずるとされていた。でも384の指摘の通り、
有力貴族子飼の武家集団が専ら軍事力を掌握していたし、彼等の力の背景が
なかったら何ごとも前に進まなかったようだ。
387で少し触れてるけど、中宮定子の兄、内大臣伊周が捕まった時、屋敷に踏
み込んだのは検非違使だけど、都に馳せ参じて警戒にあたった(圧力をかけ
た?)のは、他でもない武家集団、例えば、摂津源氏・源頼光だったりした。
>>381 別当職は基本的に兼任。衛門督か兵衛督を兼任している中納言or参議以上の
人物が宣旨によって任官された。ってことで、別当自体、結構な高位官職に
なってたんだね。 従二位衛門督検非違使別当ってのもあったらしい。
>>380 平安時代、検非違使って藤原氏の任官ばかりなのかな。よくわからんのでな
んとも言えんけど。鎌倉時代の検非違使別当には、土御門家(村上源氏)か
ら多数出されていたようだ。
389 :
日本@名無史さん:02/09/23 02:04
382
おお、レス、サンクスです。
自分もちょっと検非違使について調べてみようかな。
専門書・論文でいいのがあったら教えてください。
390 :
日本@名無史さん:02/09/23 02:42
別に担当するから別当。
対義語は勾当。
時代が下ってくると、専任の別当や、兼任の勾当も出てくるけど。
>390
へぇー、そうか。
では、勾当内侍はなにをもって「勾当」?
かつては、別当といったら検非違使長官を指していたらしい。
無論広い意味では、他の職務の長官も指すらしいが。
392 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆lrrr3OOI :02/09/25 22:50
律令によれば、検非違使と蔵人所が長官も別当だね。
しかし身分には差があるようだ。
蔵人所別当→正二位
検非違使別当→従四位上
勾当は掌侍の第1位の名称だそうだけど、
つまり女性用の官職名という事か?
393 :
日本@名無史さん:02/10/02 09:52
395 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆9klrrr3OOI :02/10/04 09:43
>>394 俺のもってる史料には細かく書いてあるけど。
396 :
日本@名無史さん:02/10/04 16:50
397 :
日本@名無史さん:02/10/05 00:12
>>395 別当は他に本官を持ってる者がなるものであるから
また官ではないから(宣旨職その他)
それ自体には官位相当は設定しようがない。
例えば検非違使別当の場合参議もなれば中納言もなる。
ちなみに、その持ってる史料とやらの題名・著者教えてくれ。
どんなヤシが書いてるのか知りたい(w
399 :
日本@名無史さん:02/10/05 12:57
その別当職を兼ねる本官職がだいたい慣例上固定されてる場合、
その本官職に相当する位階が書かれてるんじゃない。
たとえば蔵人頭は左大臣・右大臣クラスだから、従二位かそこらとか
いうノリでしょ。
横レスすまん。
400 :
日本@名無史さん:02/10/05 13:09
400
401 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆9klrrr3OOI :02/10/05 15:44
>>398 「国語便覧」中央図書・東京大学教授 秋山 虔編
(↑表紙が単色の革張りなので、マウスパッドがわりにしている本だったりする)
律令官制官職・官職一覧表に書いてあった。
「別当」という名を使ってる部署が蔵人所と検非違使だったから、単純に比較しただけ。
蔵人所の長官は「別当」と「頭」の二通りの名があるけど、四位程度では
「頭」と呼ばれるらしい。
399さんが
>その本官職に相当する位階が書かれてるんじゃない。
>たとえば蔵人頭は左大臣・右大臣クラスだから、従二位かそこらとか
>いうノリでしょ。
と書いてくれたけど、まさにそういう事。
位階を基本に、各官職がそれに相当するように規定されていたそうだ。
たとえば左・右・内大臣は正二位か従二位、近衛府の大将は従三位てな風に。
こういう位階と官職の相関関係を『官位相当』と言うそうだ。
ただ、時々、官と位が相当しない場合もあり、その際は署名の折りに、その旨判るよう、
併記したんだって。
402 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆9klrrr3OOI :02/10/05 15:52
ゴメ、もともとの問いかけが
>別当に官位相当制はない。
これか。
するてーと、
>こういう位階と官職の相関関係を『官位相当』と言うそうだ。
これは釈迦説法やね。
403 :
アフォ( ´_ゝ`) ◆9klrrr3OOI :02/10/05 16:00
あくまで俺の持ってる史料をそのまんま写すと、
蔵人所別当(相当位階・正二位)定員不定及び不明
蔵人所頭(相当位階・四位)定員2名
検非違使別当(相当位階・従四位)定員1名
とこんな感じ。
>394
>別当に官位相当制はない。
蔵人所別当は「官」じゃなくて「職」だから、位階は無関係いう意味なのかな。
405 :
日本@名無史さん:02/10/11 09:29
「宇宙皇子」を読んでみよう!わかりやすい!
407 :
あらいぐま ◆9klrrr3OOI :02/10/11 10:47
408 :
日本@名無史さん:02/10/11 18:59
このスレでだいぶ前に出てきた藤原淑子を主役にした小説が、
文春文庫から発売されたね。
主役にするにはかなりマイナーな人物だと思うのだけど。
とりあえず上巻を買ってきたのでこれから読んでみます。
409 :
日本@名無史さん:02/10/11 19:31
おいおい,史料って・・・・(w
話は変わるが,頭中将とか頭の弁とかで呼ばれる人物って
なんだか若そうなイメージがあるね.
源氏物語だけじゃなくてさ.
実際にも,あまりご老体の頭中将なんていなかったんじゃないかなと.
>409
あくまでイメージの話で悪いが、
頭の弁は、チョット老けたイメージ持ってるけどな。
行成は30で辞めたけど、あの人はなんか若いころから老けたイメージ。
どこまでを若いかというかにもよるが。
少尉とか少佐少将って若くて美形のイメージある。
そういう感じかなぁ
宰相中将とかいうと美形のイメージある。
>413 なんで少佐が若くて美形のイメージなんだ。そもそも板違いだ。
治部卿はじじむさいとか?
実際はんなことばかりではないだろうがな。
関係ないが、なんで平安時代の女性名は、フツーでない漢字をつかってるんだ!
変換できない!!
>401
>蔵人所の長官は「別当」と「頭」の二通りの名があるけど、四位程度では
>「頭」と呼ばれるらしい。
そうなんですか?頭と別当は別なんだと思っていたけど、勘違いですか?
「官職要解」だと、別当が総裁で左大臣(左大臣が関白のときは右大臣)が補
せられるのが通例、頭は実務上の長で、弁官と近衛から一人ずつが通例、とい
う感じになっていますね。
実際には、頭か別当のどちらかしか置かれない、ということですか?
頭がいなかったら、回らんのではないか?
官庁で、大臣はいるが、事務次官がいないようなもんだろう、それは。
>>417 >>蔵人所の長官は「別当」と「頭」の二通りの名があるけど、四位程度では
>>「頭」と呼ばれるらしい。
>そうなんですか?頭と別当は別なんだと思っていたけど、勘違いですか?
俺の書き方が変だった。書き込んだ後でなんだかなと思ったけど
まぁいいかと思ってそのままに。すいません。418さんが説明してくださってますが、
そういう上手い表現を思いつかなかったもんで・・・
単に、検非違使別当より蔵人所別当の方が、同じ別当でも身分差があるんだなーと
思って、軽い気持ちで>392書いただけなんですよ。
>実際には、頭か別当のどちらかしか置かれない、ということですか?
いやいや。
あなたが思ってる通りで間違いないんじゃないですか?
俺は単に、深い意味もなく、官職一覧の相当位階をそのまま書き写しただけ。
平安貴族スレってもうひとつあるんだね。
気が付かなかったよ
>>414 おいおい、お前の脳内イメージなんかスレ違いだぞ。
>422
よく読め、
実際はんなことばかりではないだろうがな。
っていってるだろう。
治部卿はじじむさい→名ばかりの閑職 というほうが正解。
それなら、思い当たる人物がいる。
>>424 いやーほら、平安時代の「政争」スレだからでしょ
>425
じゃあ、>思い当たる人物、と「政争」をつなげてみる!
兼家
428 :
日本@名無史さん:02/11/02 15:50
429 :
日本@名無史さん:02/11/16 21:48
あげ
430 :
日本@名無史さん:02/11/21 02:07
431 :
日本@名無史さん:02/12/01 00:33
432 :
日本@名無史さん:02/12/17 15:00
age
433 :
日本@名無史さん:02/12/17 16:28
藤原良房は文徳天皇を毒殺した。
梅原猛氏の電波に感電されましたか?(w)
ソースきぼーん
435 :
日本@名無史さん:02/12/30 00:13
436 :
日本@名無史さん:03/01/02 22:45
>>341 藤原頼長と忠通の兄弟抗争は、未だ取り上げられいないね。
437 :
日本@名無史さん:03/01/03 00:11
親切な人がいれば教えてください。
三位以上になっても昇殿が許されない「地下の上達部」が居たと
読んだことがありますが、本当にあったんでしょうか。
438 :
日本@名無史さん:03/01/03 07:09
天皇に嫌われていれば昇殿は許されない。
439 :
日本@名無史さん:03/01/03 11:05
>438
天皇に嫌われながら三位以上に昇進できるもんでしょうか?
昇殿できずに公卿としての任をまっとうできるんでしょうか?
本題に関係なく、すいません・・。
440 :
日本@名無史さん:03/01/03 11:49
三位昇進後にうまの合わない天皇が即位する可能性はいくらでも
あると思うけどね。
>439
殿上人の定義をもう一度読み直せば、理解できるでしょう。
あと、「散位」についてもお調べになれば、よりよくご理解になれるかと。
442 :
日本@名無史さん:03/01/08 23:50
あげ
443 :
日本@名無史さん:03/01/08 23:57
>436
藤原忠通が関白、藤原頼長が内覧に任じられ、執政が二人並び立つ異常事態となった
444 :
日本@名無史さん:03/01/09 00:06
母系の後退と男系(皇親)の進出が背景にあった。
>>443 異常事態の発起は、兄弟の父の忠実の頼長偏愛でなかったですか。
>>444の理由でなく。
忠通と頼長は同母兄弟で。
446 :
日本@名無史さん:03/01/09 00:27
忠実が忠通に将来忠通の子息に返す条件で頼長への摂政を譲るよう迫ったが忠通が拒否した。
怒った忠実は氏の長者を忠通から取り上げ頼長に与えた
447 :
日本@名無史さん:03/01/09 00:54
悪人どもです。懲らしめてやりなさい。
448 :
日本@名無史さん:03/01/09 01:21
444の言うとおり、平安後期における父系重視による母系=摂関家の勢力後退及び
その挽回策を巡る考えの不一致が摂関家内紛の原因であったとされています。
449 :
日本@名無史さん:03/01/09 01:26
天皇の乳母の近親者であるという関係で院の近臣として勢力を振るう身分の低い公家が台頭した
450 :
日本@名無史さん:03/01/09 09:21
忠実は摂関家の財力回復、武力の統合など色々な面で努力してるよね!忠通は男子がなかなか生まれず、忠実としてはいったん頼長系に摂関をと考えるのはいたしかたなかったんじゃないかな。
452 :
日本@名無史さん:03/01/10 00:06
宇治左大臣ともいう
453 :
日本@名無史さん:03/01/10 00:31
>447
性格や人相が悪い人という意味ではなくて、押しが強く猛々しいという意味でしょう。
悪源太とか悪七兵衛とか。
454 :
日本@名無史さん:03/01/11 02:15
忠通の子基実が十代の若さで摂政を継承し、摂関家の権威は失墜した。忠実の摂関家復興の望みは完全に
絶たれ、基実死後にはその遺産を妻の平盛子が相続しようとしたことから、財産をめぐり後白河院や基実の
弟基房を中心に今度は忠通の子たちの間で対立抗争がはじまり、摂関家はいよいよ分裂しましたとさ。
>>445 忠通と頼長は異母兄弟です四
忠通の母は正妻で平安時代の風習に従い母方の家で育つ
頼長の母はいわゆる「家女房」で忠実が自分の家臣の娘に手をつけたのではなかったかな
(この辺り記憶が曖昧だが)よって頼長は忠実の手元で育つ、忠実が頼長をえこひいきし
たのはそれが理由だったそうだ
ちなみにこの頼長の母は後に浮気が発覚、その現場を見た忠実はショックから死んだとか(w
角田文衛さんの本で読んだ記憶があり
頼長の男色研究といえば五味文彦。
(^^)
>>455 >母はいわゆる「家女房」...
平安貴族は、妻問婚で普段は別居又は妻方へ婿入りと思い込んでいたが、そういう
方式もあったのですか。
貴族が、身の回りの世話役の若い女中に手をつけるというのは、今昔変わらない
男の生理現象だろうねえ。
460 :
日本@名無史さん :03/01/13 09:26
>>459 これがいまだにわからない。
橘氏のなかでも、逸勢と氏公・嘉智子の間には対立があったのかな?
461 :
日本@名無史さん:03/01/13 13:47
>>460 同じ橘氏とは言ってもかなり遠い親戚だからなあ
結果だけ見たら逸勢と氏公・嘉智子の間はそんなに仲は良くなかったと
見るしかないかなあ
462 :
日本@名無史さん:03/01/13 14:07
>>455 かみさんの浮気の現場を目撃したショックで死んだのは忠実じゃなくて
忠通じゃなかったっけ?
463 :
日本@名無史さん:03/01/13 16:16
どっちでもいい、かみさんのコーマン現場を覗く変態同士だ。
(^^)
465 :
日本@名無史さん:03/01/16 21:06
466 :
日本@名無史さん:03/01/17 02:16
頼長くんはえらい勉強家だったよね。
台記に今年一年読んだ本のリストを書いてたよね。
頼長君の母親は摂関家の家司筋にあたる人の娘だと記憶している。
467 :
日本@名無史さん:03/01/17 09:13
頼長もかわいそうだよね。謀反を起こして政権を握ろうなんてこれっぽっちも考えて無かったのにうまく「仕組まれた」感じだね。
でも当時、彼ってやはり異色な人と思われていたんだろうね。
468 :
日本@名無史さん:03/01/17 09:22
頼通流と教通流の確執もあるよね。
469 :
日本@名無史さん:03/01/17 12:08
教通は息子の信長に摂関を譲りたかった
470 :
日本@名無史さん:03/01/17 19:43
台記は一部しか残ってないのね・・・漢文読めないけど。
橋本、五味、棚橋の本になってるのは読んだけど、
外に素人にも読める本ないですかね>藤原頼長
471 :
日本@名無史さん:03/01/18 00:39
俺、史料大成の台記、全巻持ってるけど。
・・・ほとんど、もってるだけ(苦藁
頼長くんは、異色というか、かなり癖のあるきつい性格だったような感じが。
みんな避けてたんじゃない。
472 :
日本@名無史さん:03/01/18 01:20
書物の上での学問は、実践において試される。信西に敗れた頼長は残念。
473 :
日本@名無史さん:03/01/18 01:33
しかし、その信西は、あふぉの信頼に殺された。
現実は皮肉ですな。
474 :
日本@名無史さん:03/01/18 01:48
しかし、信西は、どういう国にしたかったのだろうか?
475 :
日本@名無史さん:03/01/18 02:12
頼長くんゲイゲイしいよね。
岩波新書の「平安王朝」はこれでもかこれでもかとばかりに
下半身関係のことが出てくる。源氏物語もそうだけど。
476 :
日本@名無史さん:03/01/18 02:21
保元・平治の乱は、時代の画期だった。
477 :
日本@名無史さん:03/01/18 08:27
(やっぱりちゃんと読めないんですけど)慈円が、生れる前とはいえ
父親と敵対した頼長の観念性や複雑さを評価している感じなのが面白いですね。
しかし忠実オヤジのは、「盲愛」というのは違うよねー。
どっちかというと利用したんでしょう。
死に掛けのとき会うの拒否してるわけだし。可哀相。
478 :
日本@名無史さん:03/01/18 11:08
頼長が男好きだったのは自分で言ってるから間違いなさそうだが
ちゃんと子供数人いるし両刀ってことだろう
まあ、当時の嗜みってことで。
忠実の「愛情」については477に同意。
あの状況での面会拒絶は摂関家の人間としては正しい判断だったかもしれないが
父親としてはダメだろ、と思う
>>468-469 不勉強で申し訳ないのですが
いろんなサイトとか入門書のような物を見ても教通流のその後がわかんないのです
哀れな私に、
娘を入内するタイミングを親兄弟に妨害され、摂関の主流になり損ねた
哀れな藤原教通の子孫のその後をご教示下され
480 :
日本@名無史さん:03/01/18 15:26
教通に子は
信家(権大納言)・通基(従三位侍従)・信長(太政大臣)
公卿に列せられたのは子の代まで
482 :
日本@名無史さん:03/01/18 19:02
摂関エリートの九条兼実と日陰者村上源氏の源通親
尊卑分脈では教通を一代として
六代目で絶えています
>>480,483
早速回答ありがt
教通の父の道長は四男と言う教通と似たような立場から
入内作戦とかで摂関家の主流にのし上がったのに…
兄・頼通はなかなか子供が産まれなかったので教通には
チャンスがあったのにね。公卿になれたのも息子までですか・゚・(ノД`)・゚・
485 :
日本@名無史さん:03/01/19 02:24
源通親が日陰者だとは思えないが。
兼実を失脚させ、外祖父として内大臣に昇進、関白並みの権勢を誇った・・・
ただ、この時期は頼朝の鎌倉幕府草創と重なるので京都朝廷自体が日陰者の
イメージがつき始めるころか。
486 :
日本@名無史さん:03/01/19 02:34
村上源氏は、院政初期には藤原氏を圧倒するくらい朝廷の要職を占めてたけど、
白河上皇の弟君だかを担ぐ陰謀に企てたとして、勢力が一気に失墜したんじゃ
なかった? それ以後は、いわば前科を持った日陰の身ですよ。通親自身は
中興の祖。
487 :
日本@名無史さん:03/01/19 02:41
それは村上源氏の話で、こと通親のみを見るならば日陰者ということではない
のでは?
488 :
日本@名無史さん:03/01/19 18:22
>>485 >村上源氏は、院政初期には藤原氏を圧倒するくらい...
源顕房の代で、女の賢子が堀河天皇を産んだからね。でも次の鳥羽天皇では、その外戚の地位を
閑院流藤原氏にとって代わられたからねえ。白河上皇の弟君って、誰のこと?
489 :
日本@名無史さん:03/01/19 18:23
源通親が長生きしていれば、後鳥羽院が承久の変で暴走することはなかった。
かえすがえす惜しい人を(略
490 :
日本@名無史さん:03/01/19 18:35
491 :
日本@名無史さん:03/01/20 01:50
しかし、後鳥羽院は、のんきだったね。
鎌倉側の反応はすばやかったのに。
492 :
日本@名無史さん:03/01/20 03:10
葉室光親は承久の乱の際後鳥羽上皇を再三諌めたが入れられず
やむを得ず北条義時追討宣旨を書いた。
追討宣旨を書いた為斬首されたが
ことの真相を知った北条泰時は後悔したといわれている
493 :
日本@名無史さん:03/01/20 03:28
君主があふぉだと臣下は大変ですな。
494 :
日本@名無史さん:03/01/20 03:42
失墜したのは俊房流で顕房流は村上源氏嫡流としてその後も続く
495 :
日本@名無史さん:03/01/20 21:09
後三条天皇のおかげです。
藤原摂関家にイジワルされた天皇が、復讐の意味をこめて
村上源氏を引き立てたのです。
496 :
日本@名無史さん:03/01/21 00:07
藤原氏としては藤原氏を外戚としない後三条天皇の即位を望まなかった
497 :
日本@名無史さん:03/01/21 19:50
>>495-496 山川教科書的にまとめるとそうなるのだが(w
内容はなかなか複雑だぞう
後三条天皇の母は禎子内親王。禎子内親王の両親は父・三条天皇、母・藤原妍子。
で、藤原妍子の父親というのが藤原道長。
禎子内親王は早くに両親を亡くし、伯母(妍子の姉)の藤原彰子は彼女をかわいそう
に思っていたようで手元で養育されている。祖父の道長も三条天皇を追いやった負い
目があったのかどうか、禎子内親王はまだ幼児の内に一品(皇族最高位)となった。
それで当時の皇女の多くが結婚しない中で、彼女は後朱雀天皇の後妻となった。これ
は先に亡くなった藤原嬉子(道長の四女で後朱雀天皇が皇太子時代の妻)の代わりに
嫁がされたと考えられている。
つまり、当初は後三条の母・禎子内親王はどちらかというと摂関家側だったのですな。
ところが、道長が亡くなり、頼通・教通の時代になると風向きが変わって、禎子は頼
通・教通の娘や養女に追い出されるような形で宮中を去らざるを得なくなってしまった。
んで、摂関家の手のひらを返したような仕打ちに禎子が激怒する中、近づいたのが
同じ道長の息子でも日陰の身だった藤原能信。こうして禎子内親王の元には摂関家に
反感を持つ連中が集まり、当然後三条天皇も反摂関家に成長…
ということのようです。
498 :
日本@名無史さん:03/01/22 01:23
院政は白河院から始まるといわれているが、白河帝が退位してすぐに始まった
わけではなく、かなり紆余曲折があったらしい。
499 :
日本@名無史さん:03/01/22 02:23
後鳥羽院は、鎌倉の権力者の追討宣旨を書くと言うことがどういう意味なのか
理解できてなかったね。ほんとに、頭悪そうだ。周りの人はいい迷惑だな。
後醍醐天皇にも、こういう無分別というか無思慮というか、感じるんだよな。
500 :
日本@名無史さん:03/01/22 12:45
後三条天皇の時代はまだ摂関家の勢力、統率力は強く、藤原一門の公卿にソッポむかれたりしている。
501 :
日本@名無史さん:03/01/22 17:29
道長の子供はみな長生きしすぎだよ。彰子が4〜50台で死んでいたらどうなっていたことやら
>>501 正確に言えば彰子と頼通と教通が異常に長生き。
ちなみにこの三人の母・源倫子も異常な長生き。
でも彰子たちの同母妹の妍子、威子、嬉子は短命なんだよね…。
503 :
日本@名無史さん:03/01/23 02:11
道長は強運だったね。
はやり病で公卿の半数が死去、加えて兄弟もなくなって、自然に道長に順番が
まわってきた。
504 :
日本@名無史さん:03/01/23 02:54
菅原道真公と藤原時平。
宇多帝と延喜の帝。
505 :
日本@名無史さん:03/01/23 03:53
506 :
日本@名無史さん:03/01/23 08:59
頼通の息子で他家に養子に出された方々のその後どうなったのでしょうか?不満は無かったのでしょうか?
507 :
日本@名無史さん:03/01/23 16:53
受領を歴任して裕福だったみたい。政争に巻き込まれる訳でもなく、彼等の方が以外と幸福だったりして
508 :
日本@名無史さん:03/01/24 01:52
延久の荘園整理令。
509 :
日本@名無史さん:03/01/24 02:48
こちふかば
にほひおこせよ、むめのはな
あるじなきとて、はるをわするな
510 :
日本@名無史さん:03/01/25 01:36
九条兼実と源通親。
ただし、鎌倉時代だが。
511 :
日本@名無史さん:03/01/25 01:53
近衛家と九条家
512 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:06
>>511 うーん、これも鎌倉時代に突入かなあ。
伊予親王の変、承和の変とかはすでにガイシュツ?
513 :
日本@名無史さん:03/01/25 02:13
伴大納言の失脚。
もえさかるほのお、口をあんぐりあけて眺める民衆。出向いてきた検非違使一
行。門の内側では貴族たちがほのおを見ている。
一転して静寂な中に束帯姿の後ろ向きの貴人。
・・・・
514 :
日本@名無史さん:03/01/25 23:15
>>513 そそ、黒田日出男氏の本では、あの人を誰と推理してたんでしたっけ。
早く立ち読みに行かねば(w
通説では「やつは藤原基経」ということのようだが…
515 :
日本@名無史さん:03/01/26 02:24
伴大納言。
天皇に犯人を密告したところ。
もちろん、真犯人は違うが。
この後に実は欠損があり、それでこの人物が謎になってしまった由。
516 :
日本@名無史さん:03/01/26 02:41
永井路子の小説とか読まないと
平安貴族政治の具体像なんか浮かんでこないよなぁ
517 :
日本@名無史さん:03/01/31 18:03
>>516 そうかあ?!
とか言って下がりすぎのスレの浮上を計るテスト
518 :
日本@名無史さん:03/01/31 18:30
>>515 欠損って、ヤバイところを藤原氏関係者が削除しちゃった
ってことなのかな。
藤原が悪だくみしているところを描いた図柄を見て、誰かが
「通報しますた」。
で、早速、絵巻の持ち主のところに削除人が急行。
519 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/31 19:17
>518
描かれたのは12世紀の末。しかも「宇治拾遺物語」と同じ原典を参考にし
た「説話絵巻」であって別に歴史的事実を描いたものではありません。
だいいち後白河法皇のサロンで生まれたという説もあったはず。
520 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/31 19:19
説話といえば、「今昔物語集」などでは伴大納言は何故か佐渡の出身で、元々は国
司ないしは郡司の召使いであったということになっていましたね。
521 :
日本@名無史さん:03/01/31 21:58
応天門の変
ともかく、結果だけは
藤原氏が大伴氏(=伴氏)を政界から駆逐した
とされる事件だが、実際のところはどうだったんでしょうね。
伴善男は、菅原道真と違って「陰謀にはまって追放された」とされる割りには
余り彼のことを良く書いている史料がないように思うし。
>>520 父の大伴国道の配流先で生まれたという説もあるようです
ttp://www.page.sannet.ne.jp/gutoku2/tomonoyosio.html 最も善男の生まれたときには父・国道は陸奥大掾だったので眉唾説の可能性も大かも
と言うか父親が連座で島流しにされていた事実とごっちゃに成っている?
522 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/01/31 23:00
>521
一応「御霊」とされたという説もありますね。「今昔物語集」には疫病神として登場
し、恐ろしい疫病が流行るはずであったのを国で受けた恩を思いだして風邪に替
えていた。
523 :
日本@名無史さん:03/01/31 23:58
>欠損って、ヤバイところを藤原氏関係者が削除しちゃった
>ってことなのかな。
そんなことはないでしょ。欠損部分は、伴大納言が天皇に密告している場面
の、清涼殿側で、さらに、その後には場面をわける雲か木立、あるいは詞書
きが、あったみたいだから。
この絵巻の詞書は、519の言う通り宇治拾遺物語とそっくりで、応天門の変か
らずいぶん後に作成されたものみたいだしね。
>藤原氏が大伴氏(=伴氏)を政界から駆逐した
>とされる事件だが、実際のところはどうだったんでしょうね。
偶然、駆逐する結果になってしまったというのが実際のところかも。
伴善男は、みずから墓穴を掘ったってことでしょ。
すでに、このころ、外戚と一世源氏によるみうち政治の時代に入ってきてる
から、すでに伴氏のような人たちは時代から取り残されてきていたんじゃな
い。そして、その最終的な事件が応天門の変かも。
524 :
日本@名無史さん:03/02/01 00:33
平安時代の政治って、老害がはなはだしい。
なんか今の日本みたいに、年寄りが権力を手放さん。
閣僚は当時で、60代、70代がざらにいたんだから。
極めつけは、清少納言の父だな。
82歳で能登の守になった。
525 :
日本@名無史さん:03/02/01 00:42
>閣僚は当時で、60代、70代がざらにいたんだから。
それはそのくらい生きなきゃ公卿になれなかった傍系連中。
権力者周辺は驚くほど若いやつもいる。
当時は老病を理由に致仕を願い出ても許されない。
>極めつけは、清少納言の父だな。 82歳で能登の守になった。
どこが閣僚なんだよ(w
典型的傍流。生きてる限り働かなきゃ食ってけん。
526 :
日本@名無史さん:03/02/01 00:49
閣僚とは公卿のことかい?
摂関期などは若いのも結構いたと思うし、能登の守を引き合いに出す
のもどうかと思うが。
公卿補任をぱらぱらとめくって見たが、ちなみにたとえば、白河帝の
御世の応徳二年では
関白 44
太政大臣 64
左大臣 51
右大臣 49
内大臣 24
大納言 53、51
権大納言 71
中納言 50
権中納言 43,40,32,56,42、27,24
参議 56,47,38,33,40,30、29,25
という年齢構成になっている。老害甚だしいというほどでもないよう
に思えるが。
まあ、平安時代400年の中のたった1年の公卿構成の例だけどね。
後冷泉天皇の末期ぐらいがすごそうだね。
道長の息子達が生き残ってるから。
528 :
たそがれ男爵:03/02/01 05:45
<<45
陽成天皇 (868生、母基経の娘、高子)
母高子は藤原長良〔基経の実父〕の娘です。
529 :
日本@名無史さん:03/02/01 12:05
左大臣藤原頼通
右大臣藤原教通
内大臣藤原頼宗
1047年以降兄弟で大臣を独占した時期があった
530 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/01 15:24
>527
彰子もそうでしたが、母親の源倫子に似て(?)長生きでしたからね。藤原実資と
いい藤原俊成といい長生きした人間は長生きしている。
531 :
日本@名無史さん:03/02/01 19:55
ふつう長生きしたら、その人は長生きだよ
532 :
日本@名無史さん:03/02/01 20:36
>>529 頼通=森塚敏
教通=藤木孝
頼宗=津村鷹志
大河ドラマ「炎立つ」でのキャスティング。この三人に、藤原経輔の
イッセー尾形が加わる朝廷での会議シーンが毎回楽しみだった。
頼宗が津村鷹志、経輔がイッセー尾形か。
全然わかってねえなあ。ミスキャスだな。
陣の狭さといい、無茶苦茶だったからなあ。
534 :
日本@名無史さん:03/02/02 12:00
>>521 >藤原氏が大伴氏(=伴氏)を政界から駆逐したとされる...
一般的には、利を占めた良房の謀略とされているが、次の書では、良房は無辜だと
かかれているね。左大臣源信の追い落としを図った伴善男の仕掛けた謀略だと。
「藤原摂関家の誕生」 米田雄介 2002 吉川弘文館
535 :
日本@名無史さん:03/02/04 19:36
>>534 つまり「ミイラ取りがミイラになってしまった」ということなんですね
>伴善男の変
当時の伴氏なんて、藤原氏がまともに相手にするほどの存在ではないでしょうね。
この後、伸びてきて皇室と外戚関係を結ぶようになったら怖いけど。
善男と信が潰しあって、勝手につぶれた、というところでしょう。
承和の変と応天門の変は藤原氏の他氏排斥事件じゃないわね。
537 :
日本@名無史さん:03/02/09 16:15
age
538 :
日本@名無史さん:03/02/09 17:06
承和の変
恒貞親王はかわいそうだと思う
本人は必死になって皇太子辞退してるのに周囲がそれを押しとどめ
お祖父さんの嵯峨上皇が死んだときに本人が知らない間に周囲が勝手に謀反?を起こそうとし
当初は「恒貞親王は知らなかったことだから」と無罪放免のはずが
二転三転して、ボーズにさせられて責任取らされ廃太子に。
結果損したのは恒貞皇太子とその取り巻き
得したのは急遽皇太子になった後の文徳天皇とその元で活躍した藤原良房だと思われますが
なんだか訳のワカラン事件ですたい
この事件で恒貞親王の母の正子内親王(嵯峨天皇皇女)が母親の檀林皇后に泣いて抗議したが、
結局言い分を聞いてもらえなかったようだが、やっぱりこの事件には檀林皇后が一枚かんでたん
ですか…ね?
しかし、恒貞があそこで即位していたら、両統迭立になって、さらに悲惨な事件が起こったかもしれませんね。
540 :
日本@名無史さん:03/02/18 11:28
age
541 :
日本@名無史さん:03/02/18 15:23
>>534 作家の南條範夫が、小説のスタイルで応天門の変について推理してるのを
たまたま昨日読んだ。
それによると、貧困に苦しむ民衆が朝廷を恨んでたまたま起こした放火を
源信失脚を企む善男と善男失脚を企む藤原基経とが利用しあったのでは
ないか、と。
既に功成り名遂げた良房には、わざわざ善男を追い落とす必要はないが、
ポスト良房を狙う野心家の基経にとっては、切れ者の善男は目障りな存在。
しかも善男は、良房の弟で右大臣の良相とも関係が良好。
一方、嵯峨源氏の兄弟も基経にとっては目障りな存在。左大臣の信は
ともかく、弟の融は後に皇位を望んだほどの野心家。
良相・善男の共同戦線と嵯峨源氏という二つの敵を秤にかけた基経が、
当時病気がちの良房が自分の言いなりになるのをいいことに、窮地に
陥った信を救って嵯峨源氏に恩を売り、返す刀で善男を失脚させ良相の
懐刀を奪った……という推理だった。
大内裏の中の門に民衆が火をつけられるとは、警備がなってないなぁ。
善男の嫁とか娘はどうなっていたんでしょう。
この時代は男だけではなく、女が重要だと思たりする。
543 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/19 18:11
「伴大納言絵巻」に思う存分描かれていますが、あれは後世の「説話絵巻」ですか
らね。当時流罪になった貴族の家族の様子はあんな感じだったのでしょうが。
544 :
日本@名無史さん:03/02/19 20:39
>>542 内裏じゃないけど、警備がなっていないといえば、
親王家の屋敷とかもそうだったみたい。
近所の子供が出入りして遊んでいたとか。
545 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/19 21:24
女盗賊二人が入れたぐらいだったから警備はしれたもの。火事場泥棒も居ましたし。
546 :
日本@名無史さん:03/02/19 21:24
大内裏に盗賊はいってるよね。内蔵寮からぬすまれたりしてるもんな。
応天門に火をつけるくらい、ちょろいもんよ。
保立道久の『平安王朝』は読んだ?
549 :
日本@名無史さん:03/02/23 11:45
>>548 その本、応天門の変を良房VS良相の兄弟の争いと解釈してたんだっけ?
550 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/23 13:01
>548
最近出た某書では「藤原氏→外戚→権力集中」といった単純な流れでは無かった、
と批判されていましたね。
551 :
日本@名無史さん:03/02/24 03:11
552 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/02/24 12:50
日本の歴史06「道長と宮廷社会」
553 :
日本@名無史さん:03/03/06 19:01
揚げ
まあ、道長は独裁者じゃなかったからね。
あの時代は、摂関でも独断で物事を強行するのは、やりにくい政治システムだっ
たからね。
555 :
日本@名無史さん:03/03/10 22:47
そうそ、あげるついでに藤原道長関連で質問しておこう。
やっぱり道長と三条天皇って中悪かったんすか?
556 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :03/03/10 22:58
>554
仰る通り。
>555
一条天皇の場合は死後に道長が「讒臣国を乱す」と書かれた書き付けを見付けてす
ぐに破いてしまったという話がありましたね。(「古事談」など)
>>554 だから道長は長いこと摂関にはならなかったんだよ
一上として権力を握り続けた
>>555 悪いどころの話じゃない
558 :
日本@名無史さん:03/03/15 15:39
ようやく見つけた
すくいageとこう。
559 :
日本@名無史さん:03/03/17 18:51
みなさまのお話を聞くと、
道長と三条天皇の仲はホントに悪かったようですが
それでも三条天皇が即位したのは、やっぱり後の後一条天皇が
幼すぎたから?
そいで、妍子が三条天皇に嫁いだのは、単なる懐柔策なの?
560 :
日本@名無史さん:03/03/17 19:56
門外漢です。ここ1年以内の『史学雑誌』に載ってた
応天門の変についての論文(研究ノートだったかも)、
あれって専門家の目からみて新説なんでしょうか?
561 :
日本@名無史さん:03/03/21 17:39
562 :
日本@名無史さん:03/03/21 22:27
564 :
日本@名無史さん:03/03/25 22:24
>>560-563 じゃ、試しにあげてみます。アカデミズムスレ見てるとこの板に専門家はいるんだが
このスレを見逃している可能性もある罠(w)
ちなみに私も最近の『史学雑誌』読んでないのでごめんに。
565 :
日本@名無史さん:03/03/31 22:06
月末揚げ
壊れた?
567 :
日本@名無史さん:03/04/03 22:21
ぼつぼつageてみるか。
ところで平安時代も最初も最初の頃の「政争」になるかと思うのですが
桓武天皇は当初弟の早良親王を皇太子としましたが、その後「藤原種継
の変」が起こり、早良親王は連座して自殺しました。その直後に桓武天
皇は自分の息子・安殿親王を皇太子とします。
しかし、晩年の桓武天皇は安殿親王より伊予親王の方をかわいがってい
たと言われます。では、桓武天皇はどうして安殿親王を廃して伊予親王
を皇太子としなかったのでしょうか。それともこの辺について論考した
論文などあるんでしょうか?
568 :
日本@名無史さん:03/04/04 15:17
>>567 伊予親王は南家藤原氏の夫人から生まれた第二皇子ですから、
皇位継承の可能性は本来決して低くなかったと思われますが、
桓武天皇は、父と己の擁立に功のあった式家藤原氏に対する恩義から
式家出身の后妃所生の皇子たち(安殿親王、神野親王、大伴親王)のほうを
皇位継承の有力候補と考えていたようです・・・と受け売りで書いてみる。
三親王にはそれぞれ異母姉妹が配されていますが、
保立道久氏によると、この婚姻は自らの血統から純粋な王統を作り出そうとする
桓武天皇の意図によるものだそうです。
569 :
日本@名無史さん:03/04/05 15:42
ふーむ。あの「とても内容がジュニア向きでない」と言われる(w)
『平安王朝』(岩波ジュニア文庫「日本の歴史」シリーズ)の抜粋ですな。
では、平安というより奈良時代末期の政変になる鴨なのだが
「井上内親王の変」で亡くなった廃太子・他戸親王。先日立ち読みした「別冊歴史
読本」シリーズの『歴代天皇后妃一覧』かなにかで所京子氏(いちおう斎宮研究で
は第一人者とか言われている人らしい)が
「他戸親王は実は井上内親王の実子ではなく養子だった」
という電波説を展開されていたのだが、これって学会ではどれくらい支持されてる
んですか?
養子だったら、井上内親王と一緒の屋敷に押し込められて死んだ(殺された?自殺?)
と言う理由が無くなってしまうように思うのですが。皇太子になる理由すら吹っ飛んで
しまうし。
安殿親王の妃に異母妹の朝原内親王がいた。
朝原の母は桓武の異母妹の酒人内親王。
酒人の母は聖武の皇女の井上内親王。
聖武---井上---酒人---朝原
| | |
光仁---桓武---平城
天智系と結びついて、というヤツですな。
あぁ、ずれたぁぁぁぁぁ。
光仁-井上
桓武-酒人
平城-朝原
ね。
『平安王朝』はジュニアじゃないのでは?
今はジュニアで出てるのかな。
『平安王朝』保立道久、岩波書店
『日本の歴史3 平安時代』保立道久、岩波ジュニア新書
ジュニアの方のタイトルは『平安時代』だね。
内容は『平安王朝』の簡易版ってところかな。
系図が本文中に入って見やすくなった。
>>569 「他戸親王は実は井上内親王の実子ではなく養子だった」
『本朝皇胤紹運録』では、「母不詳、井上皇后為子」とあるな。
574 :
日本@名無史さん:03/04/05 17:40
>>570 朝原内親王って、斎宮になった後に平城天皇の奥さんになったんだけど
平城天皇にはすでに藤原薬子という強力な愛人がいて、血統の割には
影は薄く、最後には自ら離婚を申し出てひっそりと亡くなった人でした
っけ。
>572
さんくすこ
>>573 そうそ、所京子氏もこの記述を「他戸親王は井上内親王の実子ではない!」説
の一番の根拠にしてられるみたいなんだが。。。でも、「他戸親王井上内親王
養子説」の史料って、たぶんこの一文しかなかったのでは。
光仁天皇ってこのほかにも「開城皇子」とかいうお寺の伝説にだけ出てくる皇
子とか、早良親王でも桓武天皇の実弟で無いという伝説もあるそうだし、、、
案外子供には謎の部分が多いですなあ。
575 :
日本@名無史さん:03/04/05 23:30
桓武天皇に対する他戸親王の血統的優位を覆そうとして
系図作成者が造作したのかも・・・
でも、わざわざそんなことする理由がないか(w
>いちおう斎宮研究では第一人者とか言われている人らしい
他にやってる人がいないだけ。
もっとちゃんとした人がやってくれるといいんだけどね(w
577 :
日本@名無史さん:03/04/08 20:26
まず養子と猶子の違いを勉強しましょう。
ついでに智仁親王がなぜ天皇になれなかったのか考えてみましょう。
平安初期に養子と猶子の違いがあったのかね?
織豊期の例を平安初期に持ち込まれても通用するとは限らないと思うが。
577はなんか誤爆っぽいが・・・?
580 :
日本@名無史さん:03/04/08 21:25
後陽成天皇の皇子、信尋が近衛家
同じく皇子の昭良が一条家を継いだ。
近衛信尋の13世孫くらいが近衛子爵家(文麿の弟秀麿の子孫)の
近衛大氏。(現在司法試験でがんばっているらしい)
一条昭良にも同じくらいの子孫がいる。
581 :
日本@名無史さん:03/04/09 08:27
577&580
誤爆なんだろ?
あぼーん
584 :
日本@名無史さん:03/04/09 09:49
所京子氏・・・あの人は国文学者だよね。和歌の研究のほうが多いと思う。
てか、斎宮って国文の分野なの?
斎宮と和歌は切り離せないところがあるからね。
斎宮関係だと西洋子とか榎村寛之あたりはどう?
何年か前、延喜式研究会の斎宮特集で発表してたよ。
スレ違い棚sage
「平安貴族の政争」からネタとしては脱線するのだが
たしかに平安時代の初期頃までは「養子」「猶子」ってそれ自体が少ないような。
藤原基経が叔父の藤原良房の猶子になったあたりからぽつぽつ「養子」「猶子」
と言うのが出てきて、院政期以降は「養子」「猶子」というのがすごく多いよう
に感じる。
やっぱりこれって、相続対策なんでせうか?
奈良・平安時代の養子は、蔭位の制をより優位に適用させるためだろ。
>>587 つまり、親の位がもう一つで、蔭位を適用されても低い位しかもらえそうにない
が!親戚に異常に出世しているやつがいて、そいつの蔭位を適用されると高い位になりそうな場合
その親戚の養子に収まっちゃおう!と言うことでしょうか。
うーん、しかし奈良時代はその養子の例自体が史書に余り見られないんだが。。。
奈良時代は知らないが、平貞盛は蔭位を利用したというのは有名。
かれは五位まで上ったから、孫や弟の子とかを全部養子にして、蔭位を適用させたね。
590 :
日本@名無史さん:03/04/15 20:48
蔭位は奈良時代にもあったの?
591 :
日本@名無史さん:03/04/15 22:51
>>590 ありました。
てゆーか、「蔭位」という制度自体が大宝令で導入された制度。
>>569 所京子氏が、「他戸親王は実は井上内親王の実子ではなく養子だった」
という電波説を展開されていたのだが、これって学会ではどれくらい支持されてる
んですか?
ほとんどの書物に、そう書いてありますよ、昔から。
所さんの説でもなんでもないと思いますが。
(^^)
>590
高校の教科書ぐらい嫁
596 :
日本@名無史さん:03/04/18 02:54
>>592 他戸親王は実は井上内親王の実子ではなく養子だったとしてもいいんだが、
ならば、他戸親王は誰の実子なんだよ?
聖武の血を引いてるのかいないのか。
白壁の血を引いてるのかいないのか。
>596
父を疑う必要はないだろう。母が井上じゃないってだけで。
実母の身分が低かったか、早く他界したかで、
別の夫人が面倒見た(見させられた)ってことじゃないかな。
598 :
日本@名無史さん:03/04/18 09:30
腹から生まれてきたのだから母は確定してる
疑うべきなのは父だな
∧_∧
( ^^ )< ぬるぽ(^^)
>598
?
母は誰なの?
601 :
日本@名無史さん:03/04/27 17:39
例えば、今の状況のまま承子女王が出産したとしても、
別の者が出産したことにして隠すしかない。
つまり、母親ですらその時の事情で隠して別の者にあてることもありうる。
603 :
日本@名無史さん:03/05/11 20:45
ageとくか
604 :
日本@名無史さん:03/05/22 00:20
605 :
日本@名無史さん:03/05/22 00:47
俺は平城上皇が好き
━―━―━―━―━―━―━―━―━[JR山崎駅(^^)]━―━―━―━―━―━―━―━―━―
607 :
日本@名無史さん:03/05/22 19:26
∧_∧
ピュ.ー ( ^^ ) <これからも僕を応援して下さいね(^^)。
=〔~∪ ̄ ̄〕
= ◎――◎ 山崎渉
609 :
日本@名無史さん:03/05/29 12:12
養子でも蔭位が認められるなんて、なんか悪用し放題だね。
610 :
日本@名無史さん:03/06/04 08:22
>>609 蔭位は貴族の再生産のためにある制度だから、
悪用とは言えないんじゃないかな。
611 :
日本@名無しさん:03/06/04 11:59
日本史にあたえた重要度から言えば、
平安貴族の政争などコップの中の嵐で意味なし。
律令制度の崩壊と荘園の増加、武士の発生の方が大事だ。
いや、興味を持っている人に文句を言ってるんじゃなくて、
どうも歴史の教科書の記述に疑問があるもんで。
612 :
日本@名無史さん:03/06/04 12:19
今の教科書は、平安貴族の政争については扱い小さいと思うけどな。
山川の現行版で1ページ弱。兼通・兼家の対立、道長・伊周の対立は欄外だし、
こんなもんじゃない?
あぼーん
>>589 「維」の字の付く人が貞盛の養子になっていると
何かで読んだことがある。
貞盛の子はみんな「維」を通字にしてる。
貞盛の弟の中に「維」の字をつけてる香具師がいるんで、
養子にしたんだな、ということね。
野口実「平貞盛の子息に関する覚書」(『史聚』8、1978/3)参照
617 :
日本@名無しさん:03/06/04 18:18
>>612 俺の弟が使ってた(一昨年高校卒業)のは結構詳しい記述があったよ。
全般的に詳しくてぶ厚い本だったが。
日本史概説だったかもしれない。
あぼーん
山川の教科書ったって、詳説から簡単なのまで
高校のレベルによって、何種類かあるしね。
620 :
日本@名無史さん:03/06/06 00:41
今は昔、醍醐天皇の御代、参議職に三善清行(公卿になる前は大学頭・文章博士)という人がいたが、
当時、紀長谷雄中納言は文章得業生であったが、
二人の間ににわかに口論が巻き起こったのであった。売り言葉に買い言葉・・・そしてついに・・・
清行>「無才の学者」などというもんは昔から今に至るまでこの世にはおらん。あんたがその最初の人や!
長谷雄>・・・・
それを側で見ていた人々は:
傍観者A>(ヒソヒソ話で)うわあ、あこまで言うかあ・・・すごいなあ。
傍観者B>あないにすごい学者の長谷雄はんのことをやで、あこまでばしっと言うてしまうんや、清行はんてよっぽどすごい学者なんやなあ。
傍観者C>ほんまやで。見てみ、長谷雄はん、一言も返す言葉ないやん。
当時、惟宗孝言という大外記(だいげき:書記職のような役職)
ですばらしい才能の文章得業生の人がいたのだが、この人がその話を聞いて言わく:
孝言>龍の食い合いいうもんは、たとえ闘いに負けて地に倒され、相手の餌食になるといえども、
負けた方かてまたすごい存在なんや。他の獣なんかとてもやないけど、その闘いの場に寄りつけもせえへんわいて。
これは、長谷雄(負けた龍)は相手が清行(勝った龍)であったからこそ、あそこまで言われたのであって、
他の学者(他の獣)など長谷雄の足下にも及ばないのだ、という意味だったのであろう。これを聞いた人は「なるほどなあ」と皆うなづいたのであった
(今昔物語 第24巻25話)
平安時代の学者は今の学者より大変かもな・・・・・・
621 :
日本@名無史さん:03/06/13 23:07
あげ
622 :
日本@名無史さん:03/06/27 08:33
623 :
日本@名無史さん:03/07/05 19:07
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
__∧_∧_
|( ^^ )| <寝るぽ(^^)
|\⌒⌒⌒\
\ |⌒⌒⌒~| 山崎渉
~ ̄ ̄ ̄ ̄
626 :
日本@名無史さん:03/07/17 23:58
627 :
日本@名無史さん:03/07/18 01:38
起きなさい、渉!
また、遅刻するわよ!
628 :
日本@名無史さん:03/07/24 10:01
629 :
日本@名無史さん:03/07/30 00:17
(^^)
631 :
日本@名無史さん:03/08/03 23:54
632 :
日本@名無史さん:03/08/04 00:04
平安貴族はプレイボーイ!
,,,--─===─ヽ/へ
/iiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡|≡ヾ ヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiiii彡≡≡≡≡|≡ミミヾ丶
iiiiiiiiiiiiiiiiiiii/ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄\ミiiiiiヽ
iiiiiiiiiiiiiiiiii/ \iiiiiiiゞ
iiiiiiiiiiii/ \iiヽ
iiiiiiiiiiiiiii《 ━━━'/ ヽ━━━ ヽミヽ
...iiiiiiiiii彡/ __,.:: :: __ ヽiiiii|
..iiiiiiiiiiiii》| ::: |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiiii|, |iii|
..iiiiiiiiiiiiiiiiii, ( ● ● ) .|iiii|
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii 》━━━━《 |iiiii|
iiiiiiiiiiiiiii《《《ヽ 》 / ̄ ̄\ 《 |iiiiiiii|
iiiiiiiii《《《《《《《《 《《 \ ̄ ̄/ 》》 |iiiiiiiiiii|
iiiiiiiiiiii《《《《《《《《《《《 》》  ̄ ̄ 《《 》》》》》iiiii|
iiiiiiiiii《《《《《《《《《《《《《《《《《《《《》》》》》》》》》》》》》》iii|
iiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》》》IIII
iiiiiiiiiiiiiiiiiiiiii巛巛巛巛巛巛巛巛》》》》》》》》》》》》iiiiiii
634 :
日本@名無史さん:03/08/10 18:11
635 :
日本@名無史さん:03/08/11 23:34
>>94 ここまでいくと清々しい。
後陽成なんて諡号を贈られた帝は何をしてこんな名前付けられたんだか。
636 :
日本@名無史さん:03/08/12 00:21
>>635 やっぱり猪熊事件で「全員死刑」と言い張って恥をかいたせいでは
ググったら女官の乱交とか出た。なにやら凄い。
よければ事の顛末を教えて下さい(スレ違いだけど)
638 :
日本@名無史さん:03/08/14 20:05
藤原 歴史群像
(⌒V⌒)
│ ^ ^ │<これからも僕を応援して下さいね(^^)。
⊂| |つ
(_)(_) 山崎パン
640 :
日本@名無史さん:03/08/16 00:36
641 :
日本@名無史さん:03/08/19 00:34
平安貴族は中田氏し放題
生まれた子供は妻方が育てる
ゴムつけたほうが、長持ちするよ。
643 :
日本@名無史さん:03/08/20 18:15
中田氏しまくっても、子供が生まれない頼通・・・
>宇治拾遺物語の多気大夫
貴族の娘を掻っ攫って罪に問われない、なんてことあります?
高階成順の娘にそれらしい人物がいないし、それどころか
当時の高階氏の婿の顔ぶれは、昇殿も許されない地方軍事貴族如きが
相手してもらえるレベルじゃなく、伊勢大輔女なら大中臣家の孫娘
そもそもこのは話は事実なんでしょうか?
仮に為幹と成順女の婚姻が真実なら、宇治拾遺の成立時期から
多気義幹の誅殺・失脚と関係あるかな
多気大夫為幹の余罪、紫式部異母弟藤原惟規の後家を強姦
こんなんが大手を振って天下を歩けんの?
為幹にはバックに大物がついてるからな。
それから、「強姦」はあくまでも後家の母(亡夫の母だっけ?)の言い分で、強姦とまではいかないある程度の合意だったと思う。
だんなの常陸介が現地で死んで、途方にくれたところを現地の有力者である為幹が保護したんだと思う。
金と力っていってしまえばそれまでだが、後家も納得済みだったんじゃないの?
最近ここ何人いるか不安なんだがネタフリ。
よく言われるけど、一条帝は本当に敦康親王の立坊を望んでたの?
どうもそう思えない・・・
だって立坊させたかったら、彰子と夜離れちゃうのが一番じゃん。
詮子没後は前ほど道長に気を使う必要もなかったろうし
顕光はともかく公季や実資あたりと縁組させて後見役に、
とか考えんかったんかね。娘がいなきゃ養女って手もある。
定子の妹の四の君はさくっと懐妊したのに、彰子はだいぶ後に
やっと子供生んでるから、あんまり気が進まなかった感じは
有りだけど、徹底してないよな〜
子供2人育ててもらってたから気を使ったか・・
どうざんしょ。これも広い意味の政争ってことで。
>>定子の妹の四の君はさくっと懐妊したのに、彰子はだいぶ後に
やっと子供生んでるから、あんまり気が進まなかった感じは
有りだけど、徹底してないよな〜
988年生れの彰子が第一子を生んだのが1008年なのは特に遅くもないと思うよ。
>647
まあ年のことはあるだろうが、入内して9年って考えると遅くない?
5年後くらいにはできてても・・と。
まあ特にそこだけにこだわってるわけじゃないんだが
>>645 強姦は惟通母(か経頼)の視点からみた書き方ですね
高階成順女との婚姻はどうですか?
通説(?)だと多気大夫=維幹とされてる理由なんかも知りたい
650 :
日本@名無史さん:03/08/28 21:46
>611
文化的重要性を忘れないでくれ〜
紫式部は世界5大偉人(By UNESCO)の
ただ一人の日本人だったと思うぞ
>ただ一人の日本人だったと思うぞ
全世界の全時代から、たった5人しか選ばれないのに、
日本人が2人も3人も選ばれたらびっくりだな。
653 :
日本@名無史さん:03/09/01 23:37
50レスほど前に出てる話題、蔭位について
貞盛(従四位下)の蔭位だと、子は21才になると無条件で従七位に
なれるってことですか?
654 :
日本@名無史さん:03/09/02 14:54
>653
このころは、すでに律令制そのままでは動いていないんで、
21歳で従七位をもらうわけではないよ。
が、蔭子として、叙位任官前から優遇される。
655 :
日本@名無史さん:03/09/02 22:27
貴族ではないが、慈円の「愚管抄」での実兄の近衛家への悪口は凄い。
656 :
日本@名無史さん:03/09/03 00:37
657 :
日本@名無史さん:03/09/03 12:12
慈円は藤原忠通の息子ですね。同母兄に九条兼実がいます。
近衛家と仲が悪かったのは腹違いの兄弟だったからです。
平安の腐女子は帝の寵愛を受けた女に帝の寝所までの
通り道をふさぐという嫌がらせをしたそうだが私も
同様の嫌がらせを受けた酒飲んで帰ってきたら親父が
家の戸を閉めやがった。現代の親父はまさに平安の
腐女子にも劣ると言うわけだクソ!
659 :
日本@名無史さん:03/09/04 19:46
660 :
日本@名無史さん:03/09/10 21:02
やや鎌倉に入るが、道元が土御門通親と木曾義仲の元愛人の子と知って唖然としました。
661 :
山野野衾 ◆F6mxNHihgE :03/09/10 23:08
道元の父の事跡と二条との血縁関係を知った時には驚きました。
662 :
日本@名無史さん:03/09/13 10:50
過去の話ばかりで済まぬが、何度も出てる話について
@忠平について
道真事件から時平の死後、忠平は氏長者の弟とは思えない程出世してません。
逆に時平死後、政治が混乱する過程で宇多法皇が再度政治的発言力を強め、忠平の昇進を支持した見方もあるようです。
(宇多は醍醐よりも1年長生きしており、「院政」とまではいえないが、朱雀天皇−摂関忠平の後見だった)
忠平と宇多天皇の関係にも注目する必要があると思います。
A藤原北家について
第一の要素は奈良末期の政争に無関係だったこと。
房前の子・真楯は橘諸兄の甥で奈良麻呂の変では(弟が仲麻呂の婿だったため)、罪には問われなかったが政治的主流から逸れた。
しかも仲麻呂が乱を起こす直前に件の弟が病死したため、勝ち組の孝謙上皇方に乗れたこと。
その功で大納言になったが、程なく没し跡継ぎの内麻呂が幼かったため、称徳〜桓武の政争の直撃を免れた。
北家は家の存亡を賭ける様な争いで良い意味で受身になって程よく衰退したのが他家の警戒から避けられた理由だと思う。
第二に良房の力量が他を勝ってたところだろう。
私は緒嗣は平安期では抜群の政治力を誇る政治家と思う反面、その父・百川の政治的策謀に対する他家の警戒や本人の厳格さ(自分の子息だからといって出世を甘くした様子がない)が北家に差をつけられることになったと思います。
(緒嗣自身も積極的に関与したといわれる「後日本紀」が天皇や大臣に対する批判も辞さない比較的公平な史書とされる反面、貴族達には敬遠され六国史中最も散逸が多いといわれています)。
その一方で良房が倒した政敵は本人の地位そのものよりも確実にライバルになる人物を狙い撃ちしています。
承和の変では「三筆」の橘逸勢ばかりが注目されますが、恒貞親王義父の大納言・藤原愛発や淳和天皇の(今日的に)官房長官格だった中納言・藤原吉野を追放したこと、そして自分の婿・道康親王を確実に皇位をつけていること。
応天門の変では急上昇した大納言・伴善男だけでなく、安直に左大臣・源信の逮捕をしようとした実弟・良相の発言力を削り取るなど常に2手3手先の戦略を打っているところは見事としか言いようがありません。
663 :
日本@名無史さん:03/09/13 11:52
>>662 概ね同意するが式家は良継・百川・蔵下麻呂が相次いで病死し、種継が暗殺されたことが
結構響いたのでは。
特に百川が長生きしていれば式家が覇権を握る可能性は十分にあったと思う。
それにしても百川はかっこいいよな。こういう陰謀家タイプの人物ははっきり言って俺の好み。
664 :
日本@名無史さん:03/09/13 12:20
別にはっきり言ってもらわなくてもいいから
665 :
日本@名無史さん:03/09/13 12:32
>>538 淳和天皇はこういう展開を予知していたらしく恒貞親王に皇太子辞退の上奏をさせたり、自分の遺骨を散骨させて自分達親子に政治的野心がないことをアピールしていたらしい。
だから恒貞もほとんど無抵抗で処分に従っている。
あと前に藤原忠通と頼長は同母兄弟とあったけど確か二人は20歳以上年が離れていた筈。
事実だとすれば、忠実の夫婦生活に注目してしまうところだ。
666 :
日本@名無史さん:03/09/13 13:14
忠通と頼長は異母兄弟だというわな。
667 :
日本@名無史さん:03/09/13 13:37
>>350 学芸文庫は「今鏡」も出ていますが、かなり昔に絶版で入手は無理でしょう。
668 :
日本@名無史さん:03/09/13 13:39
669 :
日本@名無史さん:03/09/13 17:54
いろんな意見があってええねん。
670 :
日本@名無史さん:03/09/13 19:00
忠通と頼長は異母兄弟だろ。
>>662 藤原八束(眞楯)は藤原仲麻呂とは不仲でその出世の仕方にも紆余曲折がある。
ところが、
「橘奈良麻呂の変」の後に八束→眞楯と改名し、重職である中務卿となり、官名
の唐風化にも関わるなど、奈良麻呂の変では仲麻呂側だったのでは?と言う形跡
もある。
「件の弟」こと藤原千尋(御楯)の出世を見ると同母兄の永手、八束の出世が止
まるのと引き替えに急速に出世しているように見え、この兄弟の仲が良かったと
は思えない。むしろ仲麻呂が婿としていた千尋と対立する中で、次第に永手・八
束兄弟は孝謙上皇に近づいていったのではないか?とも考えられる。
「仲麻呂の変」後数年にして没したため、奈良時代末期の政争を逃れられたという点は禿同。
但し、永手系や魚名系はその政争の直撃を食らって出世が止まったり左遷されたりしてます。
また、内麻呂自体も父親の後ろ盾がなかったために桓武天皇に妻を差し出したり、坂上田村
麻呂に接近したりと当初は苦労をしているようです。
平安時代のネタではないんで、この辺にて。
672 :
日本@名無史さん:03/09/18 17:35
>>671 確か魚名の子孫は結構繁栄してたと思うが永手の方はどうなったんだろう。
やはり断絶したのかな?
673 :
日本@名無史さん:03/10/01 08:39
>>672 『尊卑分脈』を見ると途中で切れていますね。正式な子孫は断絶かと。
平城天皇の時に永手の孫が政変に巻き込まれ流罪になったことで零落したようです。
675 :
日本@名無史さん:03/10/09 21:37
676 :
日本@名無史さん:03/10/17 00:30
677 :
日本@名無史さん:03/10/30 22:56
age
678 :
日本@名無史さん:03/11/03 17:37
>>665 陽成退位後、基経は恒貞擁立も考えたらしいが断られた。
679 :
日本@名無史さん:03/11/06 12:55
>>678 仏門に入っていて何十年も経っていたし、既に60歳だったし。
万が一彼が天皇になっても、年齢からして皇子誕生の望みは非常に薄いし
後継者問題がすぐに浮上した可能性が高かったかと思われ。
ちなみに基経の要請を断った年に恒貞親王は亡くなっていたとおもいます。
>>671 最近、奈良時代の藤原氏の動向についていくつか専門書を読んだけど本当に面白かったです。
書き込みした当時、魚名が北家だった事自体すっかり忘れていました。
本当にありがとうございます。
どもです
>>680 それにしてもネタ切れなのか盛り上がりませんですね。
そいう私もネタ提供できないんですが。
682 :
小泉純一郎:03/12/06 00:41
しかるべき時にちゃんとレスしますage。
首相こんなとこにカキコしてる暇あったら
答弁しっかりして下さいねsage
684 :
日本@名無史さん:03/12/13 12:04
>>259 大昔のレスで悪いが、安和の変で伊尹や兼家ら兄弟が関わったというのは俗説。
源高明の夫人は師輔の娘であり、首謀者とされる師尹のもう一つの狙いはは師輔系と源氏の関係を分断して師輔系の弱体化を図るところにあった。
従って詮子が明子の面倒を見たのは不思議でもなんでもない。
>>684 源明子と藤原詮子の関係に関しては
「高貴な女性が、かつて高貴の身分だった姫君を箔づけに雇う習慣があった」
というかなり萎え〜な説を、国文学者の先生が挙げていたという記憶があります。
何の本に載っていたんだろう…。講談社の『日本の歴史』だったかなあ?!
私個人の希望(w)としては、そうじゃなくて
詮子が慈悲の心で明子を養っていた、と思いたいんだけど。
>>685 私は詮子が明子を引き取ったのは、源高明の怨霊を恐れてって
何かの本で読んだ。タイトルは忘れた。
687 :
日本@名無史さん:03/12/18 07:58
>>686 ちなみに最初は高明の弟が引き取っていたらしい。
688 :
日本@名無史さん:03/12/21 10:26
>>686 実は安和の変後、源高明だけでなくその義父の藤原師輔も怨霊になったという話もある。
「小右記」に当時皇太子だった三条天皇の妃・娍子(師尹の孫、済時の娘)が懐妊したとき、
友人の観修僧都から著者・実資に「実頼と師尹の子孫に不幸が多いのは、(安和の変で娘婿・高明を流した事を恨んで)師輔が怨霊となって両家に祟っているのだ」という忠告(実資は実頼の孫で祖父に育てられる)を受けたという。
(ちなみに、「大鏡」によれば娍子が生んだ小一条院が皇太子を辞退するに関しては道長の息子達や高明の息子・源俊賢が一枚噛んでいる)
師輔と高明の怨霊が同類で語られたとすれば、高明の怨霊が師輔の孫娘あたる詮子に祟るのは明らかな矛盾。
ここは素直に叔父・高明の境遇に同情する親族の一人として、年上の従姉妹である詮子が明子を保護したと見るのが適当なのでは?
689 :
日本@名無史さん:03/12/28 20:36
>>500 頼通・教通兄弟の仲も関白の地位を巡って不仲だったから、後三条はそれを上手く利用して皇位を維持した。
オマケに道長ががっちり政権を固め、頼通が50年近くも摂関を続けたために道長以外の系統(例:小倉宮系・閑院系など)が没落して摂関の望みが失われたため、
貴族社会の中で摂関家の占める割合が減少したのも衰退の原因。
道長以前…師輔子孫の多くが摂関の可能性あり、一族全体で摂関家を構成→摂関家が議政官の多数を占める。
道長以後…道長の子孫に限定され、他の師輔子孫は摂関家から外れる→摂関家は上位こそ占めるが議政官の多数ではない。
690 :
日本@名無史さん:04/01/10 07:45
>>689 >一族全体で摂関家を構成...
っていうのは否。摂関家が一族集団ってのは、近衛等の5摂家成立以後の概念だろ。道長以前では、
その時々の摂関職に就いていた当人の家だけを指す。
691 :
日本@名無史さん:04/01/10 10:31
>>662 >良房の力量が他を勝ってたところだろう...
藤原氏の他氏排斥陰謀の網に、石上氏、石川氏は引っ掛かっていないようだが、
平安初期から廟堂に名が見えぬが、何の政争で凋落したんだ?
692 :
日本@名無史さん:04/01/10 10:36
>>674 >永手の孫が政変に巻き込まれ流罪になった...
藤原三起のことですか。
訂正:師輔→忠平(実頼の系統をを忘れていました)
>>690 あくまで表現の問題です。
私の使った「一族」というのはあくまでも摂関就任の可能性のある藤原北家の一部の貴族集団(限定すれば忠平流)ということを表現したかっただけです。
>>692 いま手元に史料が無くて、名前は思い出せない。申し訳ない。
『藤原氏千年』(講談社現代新書)には載っていたと思うが。
695 :
日本@名無史さん:04/01/12 00:01
巨勢上多可の書簡
696 :
日本@名無史さん:04/01/24 02:22
697 :
院政期スレは逝きました。:04/02/02 22:24
中世スレがんばれ。
698 :
日本@名無史さん:04/02/02 22:37
五摂家という形で五家の地位が固定された後も、五家の各家の中では
当主の座を巡って抗争が繰り広げられたんでしょうか?
古代スレです。
だよね、そういや平安て古代なんだよね。
「中古」という言われ方もされる
生活創庫みたいで嫌だw
702 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/02/04 23:54
まあこのスレでは院政期以降の話題もちらほら出ているようですが。
703 :
日本@名無史さん:04/02/04 23:55
704 :
日本@名無史さん:04/02/15 13:40
>>700 平安時代400年を古代か中世の二者択一にすることが一番の問題点。
705 :
日本@名無史さん:04/02/16 19:35
んじゃ、間違いなく古代の範疇に入る平安時代ね。
平城天皇と薬子の出会いって、東宮時代の平城に娘を容れる為に
付き添いしてた母・薬子を平城が見初めた、って何かの本で読んだ
覚えがあるのね。もしそれが本当だとしたら、その娘はその後
どうなったんだろう。母娘揃って平城のそばにいたのかなー。
どなたか知りませんかー?
>>705 実は娘の行方に関しては記録が無くて、全く分からないのだよ。
平城天皇の后であり続けたわけでもないようだ。
父親の縄主は薬子の変には全く連座しなかったから彼女も助かったと思われるが・・・。
俺は芋粥で有名な藤原利仁の子孫ですが。
708 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/02/16 23:46
>>707 (史実ではありませんが)新羅征伐の直前に何が見えたのやら・・・。
利仁の屋敷があっただろうところに先祖代々住んでいたし、寺創建時より過去帳あるんだぜ。なんといってもその近辺の大地主だったということだ。まあ家来かもしれないが
すごいね。
ぼくはイヴの子孫ですが何か?
712 :
日本@名無史さん:04/02/20 21:55
>>374 スレ違いだが、安倍氏は足利義満の側近の陰陽師・有世(真偽不明だが大内氏らの叛乱を予言)が義満をバックに公卿になった。
丹波・和気氏は経済力によるもの。医師としては中世以後ダメダメ(例外もいるが)で天皇ですら民間医師を招く事があった。
713 :
日本@名無史さん:04/02/25 21:28
>>684 実は兼家兄弟が安和の変に関わったという同時代の史料はないらしい。
初出は「愚管抄」だという話を聞いた事があるが、だとすると真偽不明ということか。
状況証拠ってやつだな。
源満仲が兼家に仕えていたらしいから。
715 :
日本@名無史さん:04/02/26 00:27
>>714 そりゃ、花山天皇退位事件の頃だろう。
満仲は兼家に仕える前は安和の変の首謀者・師尹に仕えていた。
師尹が死んでから鞍替えした。
716 :
日本@名無史さん:04/02/26 07:54
師尹との関係って史料に見えてた?
こんどの元木の新刊に書いてあるかな?
717 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:03
>>716 丁度今読んでいる山中裕の「平安貴族の古記録と貴族文化」って本にもその話があったぞ。
って…それ以前に兼家が兼通を追い越して大納言になったのはもっと後な筈だから、安和の変の頃の兼家は他人に取り入られるような官職にはなかったんじゃないの?
718 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:24
兼家はアンナのときに中納言兼蔵人頭。
かなり異例の存在だろ。
719 :
日本@名無史さん:04/02/27 22:47
>>718 でも、関白の実頼からみれば傍流だよな。
さて、このときの天皇の母親との関係から考えて、
すでに、師輔・兼家>実頼となっていると思うが。
>>720 師輔生前については同意。でも嫡流は実頼なわけだから、師輔と安子の死後は短期間とはいえ実頼側の巻き返しがあった。
安和の変はその過程での事件。
722 :
日本@名無史さん:04/03/01 12:39
>>715 花山天皇退位といえば、あの時点でやった最大の理由は兼家が藤原義懐の関白就任を阻止する為だ思うのだが。
723 :
日本@名無史さん:04/03/03 20:38
>>722 どうだろう、ただ花山退位のときの義懐の権中納言は次期摂関の最低ラインだろうね。
(兼通は権中納言→内覧内大臣(ワンクッション)→関白就任だし、5男とはいえ摂政の息子で花山朝を取り仕切っていた義懐だから花山天皇在位中に関白太政大臣の頼忠に何かあれば、兼家ら大臣達が一階ずつ上がって空いた内大臣に昇進して関白を兼ねたかも…)
訂正:摂政の息子→元摂政の息子
725 :
日本@名無史さん:04/03/03 20:51
>>721 安和の変については本来は実頼・師尹らの九条家排除の陰謀だったのではないかと思う。
ところが先に九条家側がそれを察知して高明追放を支持する代わりにそれをネタに伊尹を次期関白にすることを飲まされたのではと睨んでいる。
高明の追放後、源氏一族が連座らしい連座を受けていない上、高明自身も数年で帰京している。道長の存在があったとはいえ、高明の息子の俊賢も普通に昇進している。
恐らく高明にかこつけて九条家を追い落とすつもりが逆に九条家に弱みを握られて「本当の陰謀」は失敗に終わりかえって九条家の繁栄と小一条・小倉宮両家の弱体化を招いたのが真相ではと思うのだが。(だから、高明の処分もその場限りだったのでは)
明子に関して言えば、師輔の外孫なのだから師輔の子孫(孫娘)の詮子が面倒を見たのは当時からすれば普通だろう。
726 :
日本@名無史さん:04/03/13 12:29
>>704 平安を二つに分けるとしたら、どこを古代と中世の境目にする?
727 :
日本@名無史さん:04/03/22 22:18
親王・王が子供を臣籍に降す場合、王籍に残るのと臣籍に落っこちるのと、基準なんかあります?
日本史板はどうしょうも無いと思っていたけど、このスレ見て
アフォ( ´_ゝ`)氏を見てすごいなーと思う。
山野並みのコテハンじゃん・・・・。
あ、下までずっと見ていくと平安時代専門のアフォ( ´_ゝ`)氏が引退して
中世が専門の山野氏にスレ進行役が交代してる。
なんとも惜しい。2人のハイレベルなやりとりを堪能したかった。
読むのはえー
731 :
日本@名無史さん:04/03/24 21:56
源頼光が清原邸襲ったってマジですか
道長のパトロンが何の必要があって中流貴族を?
頼親の郎党が清原致信をやった事件のことを言いたいのか?
>道長のパトロン
おいおい・・・。
てゆーかミツグ君
もしくは宴会幹事
道長自身もあきれるぐらいの財力で進物を届けていました。
清原が襲われた事には彼自身が起したいざこざもあり、早い話がヤクザの抗争
の結果ああなったようなもんです。
735 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/03/25 13:50
見直してみたらこういう事でした。
実行指揮官は秦氏元。彼は源頼光の弟頼親の郎等でした。
一方清原致信は道長の家司藤原保昌(『今昔物語集』で「兵の家の人間でも無い
のに武芸を磨いていたので子孫が繁栄していない」と評価された人)の郎等。
致信は頼親の従者当麻為頼を殺害した行為に対する報復で殺害されたようです。
藤原保昌は和泉式部の夫。清原致信は清少納言の兄。
頼光としたのは『古事談』の巻二ですね。実際の事件については『御堂関白記』に記され
ている他、『今昔物語集』にも採録される予定であった事が伺えます。
トリビアネタか
あれ解りにくかったなあ
>736
見ていないんで詳細キボンヌ
「清少納言は下半身を出して女であることを証明したことがある」
男が尼僧に変装していたと思われたので命乞いをするために
>>736 あの番組見ていると「今の日本人は何を知ってるんだ」と情けなくなるので
すが・・・少なくともいちいち感心するような内容ではない。
そういえば
>>6の道長の兄貴って藤原道綱のことですね
源頼光の婿
>>735 > 『今昔物語集』にも採録される予定であった事が伺えます。
これって、何をみるとワカルンですか?
742 :
日本@名無史さん:04/03/26 20:57
743 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/03/26 22:58
>>741 表題だけで本文の無い説話がいくつかありますでしょう。それで分かります。
巻第二十五の「源頼親朝臣令討清原■■語第八」。
744 :
日本@名無史さん:04/04/02 14:23
>736
トリビアで「清少納言に詳しい」とか紹介されて出ていた先生は、
清少納言の研究者じゃなくって、説話文学の人なんだよね。
しらない分野のが出てたとき「へぇー」と感心してしまうが、
実は、今回のと同じで必ずしも正確な情報ではないのかもね。
745 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/04/02 17:18
>>744 どの先生でしょう。池上・小峯・黒田(敬称略)・・・とか?
746 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/04/02 17:33
遅レスですが、清原家襲撃事件については『日本歴史』144号(ずいぶん古い)
に論文が掲載されていた筈です。『今昔物語集における殺人事件二つ」とかいう題。
>745
共立女子の伊東玉美氏
749 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/04/03 17:38
>>748 これはどうも。どんなコネがあったのやら。
>>748-749 伊東先生、『古事談』のことで論文かいてるから、出るのはおかしくないんじゃないの?
「清少納言に詳しい」というのテレビ局の紹介の仕方が悪い。
751 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/04/03 21:59
>>750 成るほど。いえコネ云々というのはテレビ局が研究者にコネがあったのかと
いう意味でして。
752 :
日本@名無史さん:04/04/09 22:25
従五位上以上の者は氏族内の者を従五位下に推挙できる、というような事を
なにかで読んだきがするんですが
なぜ平氏など源氏以外の皇別氏族には氏爵がなかったんでしょうか。
753 :
日本@名無史さん:04/04/10 12:11
橘氏は皇別じゃなかったですか?あそこも氏爵の対象だったはずですが。
でも橘氏の公卿が存在しなくなって、是定とかいう名称で藤原氏の公卿が
代理をするようになったとか読んだ気がするのですが。
754 :
日本@名無史さん:04/04/10 12:27
藤原氏では4家それぞれが持ち回りだったらしい。(つまり4年に1度)
長徳4年には京家長者の輔遠が偽って京家の一員と名乗っていた男を事実を知りながら推挙したため、処分されている。
>>754 一応京家も残ってたんだ・・・
『尊卑分脈』では早い時点で系図が切れていたように記憶しているけど
ソースは「律令外古代法の研究」(長谷山彰著、慶応通信発行、1990年)から。
引用資料は「権記」より。
757 :
日本@名無史さん:04/04/10 18:20
岩波の日本史辞典より。
氏爵 うじのしゃく
9世紀中頃に成立した叙位制度。王氏・源氏・藤原氏・橘氏を対象とし、
氏長者・是定の推挙(氏挙 うじのきょ)によって、毎年定例の叙位で
一人ずつ叙爵(五位に叙すこと)させる。ほかに即位叙位・大嘗会叙位
などに伴う氏爵(和気氏・百済王氏・佐伯氏・伴氏)もある。
氏長者 うじのちょうじゃ
8世紀末、9世紀初以降の氏の首長の称。令制の氏上(氏宗)の系譜をひく。
氏中の官位第一の人を任じ、氏神の祭祀、氏社・氏寺の管理、大学別曹の
管理、氏爵の推挙などの権限を有した。氏長者は9世紀には諸氏に存在したが、
その後、王氏と藤原・源・橘・伴・菅原・三善・和気・小槻氏などに限定される
ようになる。なかでも藤原氏の氏長者は重要で、摂政・関白の任命と同時に
宣旨によって補任され、朱器台盤や渡領を相伝した。
たしかに平氏は氏爵の対象になってないよね。
そういや平氏長者ってのも聞いたことないし・・・
もしかして、平氏・在原氏など賜姓皇族にとっての氏長者って源氏長者?
758 :
日本@名無史さん:04/04/10 20:19
在原は王氏なんじゃなかったっけ?
759 :
日本@名無史さん:04/04/11 00:10
>>758 いわゆる王氏というのは親王や諸王のことをいうのでは?
在原氏は臣籍にあるわけだから一応区別されるのではないかと。
760 :
日本@名無史さん:04/04/12 20:01
>>757 源氏には1世源氏がいるけど、平氏には1世平氏がいるわけでない。
皇室にとっての重要度では源氏>>>>平氏だったのでは?
761 :
日本@名無史さん:04/04/16 20:35
>>754 藤原の氏爵は持ち回りだったが、その代わり勧学院は氏長者の管轄下だった筈。
762 :
日本@名無史さん:04/04/16 23:36
>>752 「しのぶれど・・・」で知られる平兼盛が平朝臣姓を賜わる以前に
王氏として氏爵にあずかっているけど、これはちょっと例としては不適当か。
763 :
日本@名無史さん:04/04/17 09:20
そうです、確か、橘氏の氏長者に関連して読んだんです
(従五位上以上の者が不在になったため、藤原道隆が橘氏長者も兼ねて氏爵を行った、と)。
つまり制度上は、長者が従五位上程度でも、氏爵は行われ
橘氏はこれに適う者が不在になっても廃止されることなく、血縁上の繋がりはあるが
他氏の藤原氏に長者を兼ねさせて、氏爵を保ったわけですよね。
平氏や在原氏も皇別であり、数代に渡って位階も三〜四位程度に安定していたのに
氏爵の制度から漏れたのはなぜなんでしょうか。
藤原・源・橘、という辺りで、后を出したことが関係するのかとも思いましたが
和気氏・百済王氏・佐伯氏・伴氏、にも氏爵が行われていたのなら関係ないし。
>氏長者は9世紀には諸氏に存在したが、
>その後、王氏と藤原・源・橘・伴・菅原・三善・和気・小槻氏などに限定される
>ようになる。
平氏や在原氏などは、廃されたということなんでしょうかね、何が契機になったんだろう。
兼盛は仁明平氏っていわれてますね。
765 :
日本@名無史さん:04/04/23 19:05
>>762 「平氏長者」ってのはもともといなかったんじゃないのかな。
竹内理三氏はこう述べている。
「源氏長者に對し、源氏と並んで同じ賜姓平氏においては、遂に平氏長者なるものを
傳えていないのも、亦注目すべきであろう」(「氏長者」『律令制と貴族政権2』)
766 :
日本@名無史さん:04/04/23 19:14
>>759 >いわゆる王氏というのは親王や諸王のことをいうのでは?
違うでしょ。
王号を持つけど、皇親の扱いを受けない人でしょ。
神祇伯在任中の白川家みたいな。
兼盛は光孝平氏だった、確めないで書くと大体間違えてる。
768 :
日本@名無史さん:04/04/25 17:54
>>767 て事は宇多の同母兄弟の子孫ですね。
(確か宇多の息子はみんな源姓のはず)
769 :
日本@名無史さん:04/04/26 23:36
>>766 759のでとくに間違いはないと思うけど。
伯家とか三條源氏が「王氏」とされるようになったのは
孫王の段階で賜姓されるのが通例になって、諸王の数が
減ってきてからの話でしょ。
770 :
日本@名無史さん:04/04/26 23:50
771 :
日本@名無史さん:04/04/27 21:09
ハイレベルな会話がつづいている中申し訳ない
「源平」と言われ、賜姓貴族の代表のように言われる源氏と平氏だが
宇多天皇以降は平氏を賜姓された人はいないような記憶がある。
また、天皇の息子・娘には源氏賜姓であり平氏賜姓はなかったような記憶がある。
源氏>平氏という考え方だったんでしょうか?
「基本的に」二世代以上離れての賜姓が平氏では。
「皇族の子だから源氏」と書いたのは『宇津保物語』でしたが、六国史を読
んでみてもおおよそこの原則に沿っている。(林睦朗氏説)
774 :
日本@名無史さん:04/04/28 07:44
でも、二世で源氏賜姓を受けた人もいるけど、その違いは?
ようするに、源氏は一世王以降、平氏は二世王以降
二世・三世で源氏に下る王はいても、一世で平氏に下る王はいない、てことでしょ。
776 :
日本@名無史さん:04/04/30 23:53
>>764 王・源・藤・橘の四氏に対する氏爵は、毎年正月の恒例の叙位であり、
特に有力な氏ならではの特典。
一方、和気・百済・佐伯・伴の四氏に対する氏爵は、即位式・大嘗会、
朔旦冬至の儀に伴う叙位で、儀式への奉仕ないし先祖の功労に
報いるためのものであったという。
したがって、平氏や在原氏などが氏爵の埒外に置かれたのは
単に有力な氏と認められていなかったためじゃないのかな。
それと族員が四氏より全然少ないってこともあるかも。
777 :
日本@名無史さん:04/05/02 18:04
778 :
日本@名無史さん:04/05/04 17:26
>>559 普通に道長の父親である兼家が三条のことを大切にしていたからだと思う。
年齢的には一条より三条の方が年長だが、三条の父親である冷泉が弟の円融に譲り、円融が冷泉の長子の花山に譲った事情がある以上、花山の次は円融の息子である一条を先に立てざるを得なかったのでは?
つまり、皇位継承でゴタゴタしないように、冷泉の子孫と円融の子孫が交互に皇位継承するという暗黙の了解があったのでは?
779 :
日本@名無史さん:04/05/04 18:58
源氏は嵯峨院が、「源が一緒」という意味でつけたと言われているが、
平氏はどうして「平」なの?
780 :
日本@名無史さん:04/05/05 21:01
>>774 二世孫王への源氏賜姓は、仁明天皇の皇子時康親王(後の光孝天皇)の子息が
初例なのですが、その際の時康親王の上表文には「苟為弘仁朝廷之苗緒、
因願同編於源氏之末」とみえ、嵯峨天皇の血統に連なることが源氏を賜った
理由となったようです。
781 :
日本@名無史さん:04/05/06 21:00
>>781 円融は即位当初、一代限りと見なされていたらしい
しかし、
・一粒種の一条が産まれたこと
・十年以上の在位により、円融の地位に重みが増したこと
・花山の外祖父伊尹が早世していたこと
などの理由から円融譲位→花山即位→懐仁(一条)立坊が可能になったそうな
783 :
日本@名無史さん:04/05/06 22:07
>>782 後の院政とは比較できないまでも、朱雀・円融は退位後も政治力があったという説があるし…。
784 :
日本@名無史さん:04/05/08 10:40
>>698 本当は6家(松殿家が潰れた)
近衛家は南北朝時代に分裂しています。
785 :
日本@名無史さん:04/05/08 14:37
寛平御遺戒の活字になっている刊行本ってありますか?
787 :
日本@名無史さん:04/05/10 12:49
>>782 あと、藤原兼家が自分の孫を皇位につけるため、花山の即位を早めて自分の孫をその皇太子にしようと画策したことも影響している。
788 :
日本@名無史さん:04/05/13 12:47
>>704 個人的には白河天皇が即位して、藤原頼通が出家した1072年を古代と中世の境目にしたらどうかと思うが。
>>787 それもあるとは思うが
兼家には三条という手駒もいたわけで
790 :
日本@名無史さん:04/05/14 12:44
>>789 ごもっともだが、円融を円満に退位させるには円融の子供を皇太子に立てるしかなかったのだろう。
むしろ兼家は一条よりも三条の方を可愛がっていたのだから、一条よりも年上の三条を皇太子に立てるという矛盾した行為をとったのではないか。
791 :
日本@名無史さん:04/05/14 20:37
ちなみに円融帝と兼家はそんなに仲が良いわけじゃない。
兼通が死ぬ間際の人事異動を認めた円融帝に兼家は反感を持っていた。
また、一条帝即位後も政治の主導権を握ろうと円融院が暗躍していた事も兼家の反感を買っている。
792 :
日本@名無史さん:04/05/14 21:34
円融は小野宮流の頼忠と協調関係にあったようだな
一条母の詮子ではなく遵子を立后したことにもそれが現れている
そういえば花山の外祖父伊尹との関係も良好とはいえなかった
793 :
日本@名無史さん:04/05/15 08:03
冷泉天皇の時代に安子の書付で「関白は兄弟順で」って事で兼通が兼家より先に関白になったことは当時皇太弟の円融天皇だって知らないわけがないのに、あっさり頼忠を関白にしちまうんだもんな…。
兼家は凹むよ、左遷と言ってもまあ太宰府行きにならなかっただけ幸いという見方もあるだろうが…。
794 :
日本@名無史さん:04/05/15 08:31
結果論だが、あの時兼通が強引にでも「自分を呪い殺して関白を奪おうとした」とか言って兼家を大宰府に流しておいて子供達も連座させておけば、息子・顕光の悲劇も無かったわけで…。
795 :
日本@名無史さん:04/05/15 13:38
>>794 兼家系を没落させたら、小野宮家が繁栄するかもしれん
そしたら顕光の出番などないかも?
796 :
日本@名無史さん:04/05/15 13:43
>>794 頼忠が死んだ後に伊尹の子の義懐が花山天皇の関白となるから、小野宮系が主導権を握れるかは疑問。
797 :
日本@名無史さん:04/05/16 14:38
>>796 これもifだが、花山が退位しなかったとして、
花山退位のときの義懐の実際の官位は権中納言だから、兼通の例からして頼忠が死ぬか引退して関白と大臣の座が空けば兼家が太政大臣に祭り上げられて、義懐が関白内大臣になっていた可能性もあると思うが、義懐の兄達は花山退位の時にはみんな死亡か出家していたんだっけ?
798 :
閑話休題(声優板より):04/05/16 17:02
「栄花物語」
藤原道長:保志総一朗
源倫子:川澄綾子
源明子:榎本温子
藤原兼家:中田譲二
藤原道隆:飛田展男
藤原道兼:平田広明
藤原詮子:白鳥由里
藤原伊周:鳥海浩輔
藤原隆家:鈴木千尋
藤原定子:田村ゆかり
藤原頼通:鈴村健一
藤原彰子:堀江由衣
藤原研子:斎藤千和
藤原威子:南里侑香
藤原実資:三木眞一郎
藤原顕光:関智一
藤原延子:能登麻美子
源雅信:堀勝之祐
藤原穆子(雅信正室):土井美加
藤原祗子:清水愛
紫式部:池澤春菜
円融天皇:石田彰
花山天皇:岸尾大輔
一条天皇:緒方恵美
三条天皇:水島大宙
後一条天皇:皆川純子
希望キャストだそうで…。
ヒマな奴…でも面白いので転載してみた。
799 :
日本@名無史さん:04/05/16 17:20
>>798 お前もな…。
でも丁度いいので新しい話題を。
頼通の時代って基本的に大臣の顔ぶれが替わらなかった訳だけど、その間って上位の貴族の人事が停滞していて問題とかは起きなかったのか?
800 :
日本@名無史さん:04/05/16 17:23
>>797 義孝もそうだが懐子も10年以上前に死去してるね
甥の行成はまだ10代だし
801 :
日本@名無史さん:04/05/16 17:52
>>797 >>800 挙賢・義孝兄弟は974年に同日に亡くなっているし、「大鏡」「栄花」にも彼らの兄は出てこないから花山天皇のときに生きていた外戚は義懐だけだったのでは?
(義孝の息子の行成は後に大納言になったとはいえ、花山天皇の頃は17〜19歳だし天皇の従兄弟では外戚としてのインパクトにはちと欠けるだろう。)
義懐もバカじゃないから自分の義妹の忯子を後宮に送った訳だが、結果は上手く行き過ぎてかえって自滅してしまった訳だ。
>>798 男向けの人気の無さそうな道長、妄想の激しそうな定子、変態&美形な実資、
二重人格でミニ四駆走らせそうな紫式部、へたれそうな円融院&後一条天
皇ですか(笑)。よくやるわ。
803 :
日本@名無史さん:04/05/16 19:09
>>802 「栄花」が出たところで質問だが、
藤原一族の墓は今の宇治の木幡にあって道長が寺を建てる前は木の墓標を立てただけみたいな記述があった筈だが、もしかして藤原一族の墓って今住宅地になってしまっていて跡形もないの?
804 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/16 19:19
>>803 日本古典文学大系本の上巻にある話ですね。「浦々の別れ」と「うたがひ」に
木幡が出て来ますが、そこには「石の卒塔婆」だけが立ち、卒塔婆や釘抜は整
理もされていない墓地の中に並んでいたので浄妙寺を建立するとある。
(これによって「平安貴族は墓参りをしなかった」とされたのが民俗学者の田
中久夫先生。最近では山田邦和先生もそうですが、私は水藤真先生の批判意見
の方を支持したいと思います。)
藤原一族の墓ですが、お寺こそ無いものの、道長のものらしいものも含めてち
ゃんとありますよ。藤原氏出身の后の墓だってありますから。
浄妙寺跡は木幡小学校の敷地内にありますが、お墓は宮内庁が管理しています。
鎌倉時代の偉い人は供養堂たてて、
その下に納骨とかしてたって聞いたけど、
平安時代はどうなの?
806 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/16 21:45
>>805 院政期から法華三昧堂や仏塔の下に納骨する習慣が登場するようになり、源俊頼
の歌論書『俊頼髄脳』にも「昔は怩ノ遺骸を収めたので」などと書かれるようにな
ります。
それ以前は怩フ上に角卒塔婆を立て、周囲に釘貫と呼ばれる柵を廻らせたらしい。
ただ院政期になってもこうした墓が廃れた訳では無く、貴族以外の富裕層も12
世紀頃には畿内を中心に怩ノ卒塔婆などを具えた墓をつくるようになっていまし
た。庶民は遺棄葬が中心でしたが、鎌倉時代になると地域によっては一応恟の
ものもつくられています。
注意しておきたいのが、「墓」と言いながらも墓所ではなく「葬所」、つまり火
葬にした土地を指している場合があった事。こちらは辞書類のほかに説話集の描
写からも窺える事で、ただの土地を「墳墓」と書いた例もあるからややこしい。
なお『中外抄』によれば葬所には松を立てて印としたようですが、墓所でも卒塔
婆を一年忌に引き抜いた後に松を植えたという事が、鎌倉時代には確認出来ます。
貴族や僧侶は稀に土葬(霊屋含む)を行うこともありましたが、基本的に火葬。
僧侶の中には身を鳥獣に施そうと遺棄葬を望む声もありましたが、五体不具穢を
怖れるような場所(都や寺社の近く)では遠慮されました。
中世後期には貴族層の葬法は土葬回帰の動きを示しますが、理由は不明。
なお天皇も基本的には近世まで火葬で、一条天皇は珍しく土葬を望んだのに周囲
が「忘れていた(本当か?)」為に火葬にされてしまいました。
なお愛宕寺などの四至内や氏寺の中に法華堂や塔を建てる習慣は院政期にはあり
ましたが、境内墓地が成立するのは戦国期になってからのことです。
807 :
日本@名無史さん:04/05/16 22:05
確か淳和天皇は散骨したんですよね?
ああ、書き忘れていましたが当然の事ながら浄妙寺にも法華三昧堂はありました。
>807
墓から魂が去り(普通ここまで割り切れませんが)、跡に鬼神が住まうのであれ
ばと、散骨を望まれました。周囲は「どこに参ればよいのか分からなくなる」と
いうので反対しましたが、結局散骨という事に。
摂関記に行わせた人物としては、自分の妻子(十五歳で亡くなった娘が『更級日記』
に登場する大納言の姫君)や母の散骨を行わせた藤原行成が有名。
809 :
日本@名無史さん:04/05/17 07:50
>>801 全訳の「大鏡」によれば、伊尹の長男・次男は親賢・維賢と言ったらしいが官職とか就いていたのか?
810 :
日本@名無史さん:04/05/17 12:39
>>808 後世、天皇陵墓を定めるとき仕方がないので山頂を陵墓としてでっち上げたらしいです。
淳和の遺言には兄・嵯峨上皇や藤原氏とのビミョーな関係が反映されているとも言われている。
>806
なるほどなるほど。詳しく五節めいありがとうございました。
812 :
日本@名無史さん:04/05/17 19:05
>>804 スレ違いになるかも知れないが、浄法寺を五摂家が再建しなかったのは?
一応、自分らの先祖の墓のある寺なのに。
813 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/17 20:27
>>812 「浄妙寺」ですね。中世になって各家が寺院を建立し、その四至内に墳墓が
設けられ、それぞれが祭祀を行うようになったのが大きいかと。
なお、吉地に一族の墓を設けると一族が繁栄するという信仰もありました。
これは『小右記』に書かれている事で、法華三昧堂が子孫繁栄に繋がるとい
う信仰も、『中外抄』に出て来ます。
「家」と祖先祭祀については、『日本史研究』381号の高橋秀樹先生の論文を
参考になさって下さい。
814 :
日本@名無史さん:04/05/19 12:29
とりあえず個人サイトに直リンしないようにね
816 :
日本@名無史さん:04/05/20 12:59
氏爵の話で疑問に思ったのだが、貴族のそれぞれの氏ごとにそういったのを登録する系図・家譜みたいのがあったのだろうか?
>>816 『群書類従』・『続群書類従』の系譜部に出ている面々は?
『尊卑分脈』(南北朝時代)・『系図纂要』(幕末)あたりは有名。
全面的に信用出来ない点もありますが。ちなみに紫式部を藤原道長の妾とし
たのは『尊卑分脈』が最初です。
818 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/05/20 22:41
浄妙寺の事ですが・・・すみません、近世に浄土宗になった時に大善寺と改称
して存続しておりました。具体的にどういう変遷を経たのかは不明です。
819 :
日本@名無史さん:04/05/21 12:51
浄妙寺は現在発掘調査が行われているらしいので今後を待てということでしょうか?
821 :
日本@名無史さん:04/05/22 12:40
宇治の教育委員会がそのうち何か報告書を出すのでは?
822 :
日本@名無史さん:04/05/23 16:25
>>118 忠平の奥さんである皇女が菅原道真の親戚だと言う話を聞いたことがありますが、本当でしょうか?
823 :
日本@名無史さん:04/05/25 12:32
先日系図を見ていたら、小倉宮家の系図が途中で切れていました。
実資の子孫なら、当然堂上公家として近世まで残っていたものだと思い込んでいたのですが、本当のところはどうなのでしょうか?
とりあえず堂上としては続いていません。
東京堂出版の「宮廷公家系図集」近藤敏喬著によると、
養子の資平が正二位大納言、その子資房が正三位春宮権大夫、その子公房が正三位参議。
資平の子資仲が従三位権中納言、その子顕実が従三位参議、その子資信が正三位中納言。
その後は公卿は出ていないようです。
その後も資房・資仲の兄弟のものを含めて大勢の子孫がいるようですが、
徐々に地位を低下させていき最後は衛門尉や兵衛尉あるいは無官で終わっています。
子孫は当然残っているとは思いますが、宮廷貴族社会からは消え去ったようです。
最近読んだ本によると、白河法皇に取り立てられた一族と入れ替わりに没落したようです。
道長のころの上級貴族は同じ運命をたどったものが多いです。
>>826 しまった書き間違えていました。
ご指摘痛み入ります。
828 :
日本@名無史さん:04/05/26 12:28
ところで、小野宮家って皇族でもないのに何で「宮」がつくの?
829 :
日本@名無史さん:04/05/26 13:47
>>828 所有している邸宅の名前が「小野宮」だったんだよ。
>>829 小野宮こと惟喬親王の邸宅を譲り受けたんだっけ。
831 :
日本@名無史さん:04/05/28 12:45
>>830 惟喬親王といえば、在原業平・藤原高子を思い出しますな。
832 :
日本@名無史さん:04/05/28 14:19
平安貴族間の性臭
日本史から声優まで、山野さんってストライクゾーン広いっすね
834 :
日本@名無史さん:04/06/01 01:07
「公卿補任年表」(笠井昌昭編・山川出版社)面白いですね。
「公卿補任」も欲しいのですが、なかなか売ってなくて(当方関西です)。
ところで、藤原頼宗って、何かエピソードあります?
同母弟の能信が、異母兄頼通と喧嘩したり、小一条院の東宮辞退に関わったりと
目立つ一方で、兄の彼はちょっと印象が薄い感じ・・・。
子孫は頼宗の方が栄えてるみたいですが(頼宗:右大臣、能信:権大納言という
極官の差でしょうか)。
>>834 普通、一般ピープルは図書館で『国史大系』の「公卿補任」読むと思う・・・
後は古本屋で探すとか
ちなみに笠石は漏れの担当教授だった
836 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/01 18:32
>ところで、藤原頼宗って、何かエピソードあります?
大江匡房の『続本朝往生伝』には、「生前の間、ただ後世の業をのみ修して、
天台の教門を学」んだと書かれていますが、彼も倫子腹の二人には官位を越
されて含むところがあったようです。
突然権中納言に昇進して『小右記』に「奇怪也」と書かれはしたものの、突
然職を辞そうとしたとか、頼通に面と向かって扇で板敷を叩きながら「歌な
ら負けんよ」と言って笑われたという話もあり。
実際歌人としても香道・音曲の人としても優れていました。伊周の女を室と
したのは、あてつけのつもりでしょうかね。
>>835 D大出身の方ですね。いや、最寄りの図書館に「公卿補任」はあるのですが、
初出時の経歴が面白いから、手許に置いてゆっくり読みたいな、と
(図書館のは持ち出し禁止なので)。やはり古本屋ですか・・・探してみます。
>>836 流石山野さん・・・。芸術的に優れていた、といえば、元服前、頼通と同じ場で
舞って、頼通より素晴らしかった、というエピソードもありましたね。
838 :
日本@名無史さん:04/06/01 19:56
頼宗といえば、幼少のときに頼通とともに舞を舞って云々て話があったよね?
あたた、株っちゃった
840 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/01 21:51
舞といえば、藤原道綱の舞が素晴らしかったと聞かされて喜んだ事があった
と『蜻蛉日記』に書いてありましたね。『栄花物語』では北の方に先立たれて
念仏三昧に入る事を考えた、などあまりいい話はありませんが。
『大鏡』には舞と容貌が良すぎて山の神に魅入られて若死にした人の話もあ
った。頼宗も『栄花物語』では美形であったとされているので、舞も素晴らし
く感じられたのでしょう。頼通もいいように書かれていますが、「どこの物語
に、内親王などを美しくないなどと書いてあるものでしょうか」と書いていた
赤染衛門の事ですから、どこまで信用出来るのやら(笑)。
藤原実資も含めて、当時の貴族は顔の傷をかなり気にしていたようです。明恵
上人が幼い頃仏門を志してわざわざ顔を傷つけようとした話は有名。
841 :
日本@名無史さん:04/06/02 07:51
イメージとしては突然全てを捨てて出家した顕信の方が強いのだが…。
頼宗は鳥目
843 :
日本@名無史さん:04/06/02 12:29
このスレの下限はどの辺ですか?
貴族の子供の出家というと土御門通親の息子の道元を思い出すのですが…。
>>843 1221年まででいいのでは?まあ話が広がれば少々外れてもいいんじゃないかと。
845 :
日本@名無史さん:04/06/04 12:39
「信長の野望天下創世」のPC・PK版の合戦トライアルモードに藤原忠通・頼長兄弟を総大将とする「保元平治の乱」というシナリオがある。
でも、2つの乱を強引にくっつけたものだから、忠通・信頼・義朝対頼長・信西・清盛というありえない設定になっていた。
846 :
日本@名無史さん:04/06/06 13:51
>>845 そういえば、頼長の息子って太政大臣になって平清盛に流されそうだが、父親がそれだけの事件を起こしてよく出世できたものだ。
847 :
日本@名無史さん:04/06/06 17:53
突然でスマソだが、笹山晴生の「日本古代史講義」ってどうよ?
848 :
日本@名無史さん:04/06/10 12:34
>>846 藤原師長ですね。
伊予権守・右近衛中将などを経て、仁平元年(1151)、参議に列する。
久寿元年(1154)、権中納言。
保元元年(1156)、保元の乱で父の罪に縁座し土佐に配流される。
長寛二年(1164)、許されて帰京。以後は後白河院に近臣として仕える。
仁安元年(1166)、権大納言。
安元元年(1175)、内大臣に就任。
治承元年(1177)、太政大臣となり従一位に叙せられる。
治承三年(1179)、平清盛のクーデタの際解任され、尾張に流されて出家。
どうやら、後白河院の後押しがあったようですが、逆に後白河院と藤原忠通やその息子たちとの関係はどうだったのかな?
849 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/10 19:35
今更ながら頼宗の話ですが、『栄花物語』巻第九には一条院の葬送で哀傷歌を詠
んだ事が記されていますね。この時の道長の悪意ありげな行動は有名。
(一条院が生前何度も「土葬にして、圓融院の陵墓の傍に葬って欲しい」と希
望しておられたにも関らず、岩蔭で火葬にされた。後日「うっかり失念して
いた」と述べているものの、どこまで本当であったのやら。
当時土葬はその場に死者の魂を留める行為であったとされていた可能性があり、
この世から追っ払いたがっていたので「失念」した可能性も・・・。)
三条天皇の時には、これまた生前に何度も屋敷の伝領を述べられていたにも関
らず、寝殿以外はさっさと取り壊させている。
850 :
日本@名無史さん:04/06/10 22:13
>>849 ずっと仲の悪かった三条はともかく、一条は道長最大の恩人・詮子の子供なんだし
葬送にも気を使って良さそうなものですが・・・。
やはり立后や立太子での緊張関係が原因?
ところで、能信の大臣昇進の可能性はなかったんでしょうか?
康平3(1060)年に、左大臣:頼通→教通/右大臣:教通→頼宗/内大臣:頼宗→師実と
変わっていますが、この時の頼通辞任は跡継ぎの師実を大臣にするためでしょうし
能信とは関係がなさそうですね(さぞ悔しかったでしょうが)。
後三条即位まで生きていればなれたんでしょうか。
>>850 兄弟が揃いも揃って長生きなんですよねぇ・・・
頼宗と六日違いで亡くなったみたいですけど
ここでひとねばりしていれば、内大臣には源師房でなく能信が任じられたのでは
852 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/10 22:48
>やはり立后や立太子での緊張関係が原因?
崩御されたのは6月22日ですが、7月17日には道長の宿所で源俊賢らが
一条院の事を誹謗中傷していたとか。・・・何があったんでしょうね。
>能信の大臣昇進の可能性
微妙な立場と行動ぶりでしたからね。難しかったかも。
>>851 >>852 やはり難しかったんですかね>能信の任大臣。頼通と仲悪かったみたいですしね。
頼宗死後まで生きていたとしても、競争相手が頼通の猶子・源師房では厳しいか?
同じ明子腹の顕信は出家しているし・・・どういう環境だったのやら。
855 :
日本@名無史さん:04/06/12 09:31
個人的な想像ですが、倫子は先に結婚した正室ですし嫡男頼通も一条帝中宮の彰子も産んでいる。
しかも、結婚当時倫子の父親・源雅信は現職の左大臣だったのだから、摂政の息子とはいえ4男である道長にとってはこの義父の後ろ盾というのも大きかったのでは?
856 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/12 15:51
ではも何も、当時は舅というか妻の実家方からの援助は重要でしたよ。
『大鏡』には財産目当てに老妻と結婚した話がありますが、分かり易いのが
『新猿楽記』に登場する三人の妻の描写でしょう。
妻@夫40歳に対して60歳。財産目当ての結婚であったが、夫への愛欲は旺盛。
妻A20代。美貌な上に、家内の事をよくとりしきる事が出来る。
妻B18歳。美人で若々しい。
服藤早苗先生は悪い意味でのフェミニストですが、妻@が財産目当てで結婚
されたのに同情する一方で、妻Bが年上の夫と結婚したのにも同情している。
妻Bも財産目当てだったのでしょうから、やってる事は夫と同じだと思いま
すが(それ以前に虚構の話ですけど)。
妻の地位が低下するのは、白拍子腹なども増えた12世紀末からでしょう。
それ以前だと、藤原師輔などは武蔵守の女の妻を得てコンプレックスがあっ
た為か、内親王に手を出しまくって大きなマラをおおいに活用している。
857 :
日本@名無史さん:04/06/12 20:19
>>856 「大きなマラ」w(何に出てくる話でしたっけ?度忘れしました・・・)
大鏡に、師輔が康子内親王(醍醐帝皇女)に手を出して、兄実頼が「宮の御前が
汚れている」と非難した話が出てきますね。そして康子内親王にできた子が
閑院流の公季・・・父の舅(醍醐帝)、義兄(村上帝)という強力なバックが
あればこその、高い家格ですよね>公季
858 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/12 21:16
>>857 >「大きなマラ」w(何に出てくる話でしたっけ?度忘れしました・・・)
『中外抄』です。体格が大きかったのは事実らしい。
康子内親王ってすごい晩婚で高齢出産だったという記憶があるのですが
860 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/12 23:36
>>859 求婚された時、数えで35歳。確かに遅いですね。
861 :
日本@名無史さん:04/06/13 12:17
皇女を結婚させないで尼さんにしてしまう習慣はもっと後世に始まったんですよね。
とはいえ、尼云々はさておき内親王との結婚はほとんどありませんでしたね。
皇族以外では師輔が最初。女王なら藤原実資などいくつか例がありますが。
863 :
日本@名無史さん:04/06/14 12:34
昔は内親王でも臣籍降下がありましたよね?
864 :
日本@名無史さん:04/06/14 19:18
>>863 今でもあるぞー!ってそいうことじゃないんだろうけど
昔っていつのことを言ってるの?
865 :
日本@名無史さん:04/06/14 23:02
至愚又至愚、悪霊左府の顕光も、村上帝女の盛子内親王と結婚していますね。
父・兼通が関白の時期にゴリ押ししたのかな?
全然関係ないけど、禎子内親王萌え〜。
866 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/14 23:42
>>865 禎子内親王とは、マニアックな(w)。当時の女性だと、赤染衛門や菅原孝標女
が好きですね。赤染の夫はともかく、孝標は割と意外なところで活躍している。
おまけに財力もかなりあったようで。
867 :
日本@名無史さん:04/06/15 17:54
>>864 嵯峨天皇の時は皇女も源姓を貰った様な…。
>>866 教えてちゃんで申し訳ないのですが
孝標って歴史の表舞台で活躍した事ってありましたっけ?
孝標女は父親も夫も受領なので財力があるのはなんとなーく分かる。
しかし日記は現状不満の文句たらたらだw
今の日本の鬼女に通じる物があるかも知れない。
870 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/06/16 20:59
>>868 >孝標って歴史の表舞台で活躍した事ってありましたっけ?
『小右記』や『御堂関白記』にたまに出て来ますが、出そうとすると見つからない。
>しかし日記は現状不満の文句たらたらだw
私には宗教性の方が眼につきましたが・・・そこいらの鬼女と同類扱いは酷い。
登録するのが面倒な人間が、とりあえず変換したらこうなりました。
義重の安種 源のためのり 身よした目安 大江の雅平 藤原の頼道
和泉式部 閼伽染め衛門 菅原の高末の娘 大江の正房 美福門院
体験門院 慈円 長元 抗弁 信濃の禅師行長 平重盛 平の乗り恒
ご不覚サイン二条 阿武津に 竹崎季長 北条時胸 蘭渓道隆 無学遡源
これぐらい入れておいて欲しい、というのは贅沢か。
まあ、加藤清正でもそのまま変換しようとすれば
「加藤きよmasa」
とか、なりますからねえw これってやはりカンコックからのクレームを(ry
ちなみに「金正日」はちゃんと「きむじょんいる」で変換できます罠
スレ違いなのでsage
最近のIMEは学習機能があるから、インストール直後の仕様で
比べてみないと一概には言えないよ。
檀君 天照大神 スサノオノミコト 憑く読みの巫女と 大国主命 荷に義の巫女と
此花の作や姫 岩魚が姫 大山済みの神 大日如来 アイゼン明王 代位徳明王
仏教関係の方が記紀神話よりまともに出ますね。まあ平安時代には記紀神話の神々の
「名前」が直接出て来る事よりも佛菩薩の出番の方が遥かに多いですが。
神々のフルネームが知られていないというのは、今でも同じか。
(追加:高弁ではなく、明恵だとちゃんと変換出来ます。)
875 :
日本@名無史さん:04/06/17 16:28
あと、漫画のキャラクターの名前も一発変換が難しいですね。
>>866 マニアックですかねぇ(この場合、禎子内親王がマニアックなんじゃなくて、
彼女に萌える私がマニアック、ということですよね)?
うちのATOK POCKETで、道長一家主要人物を変換してみると、
藤原道長、源の臨死、源の名詞、藤原頼通、藤原の乗り道、藤原の世リムね、
藤原の芳信、藤原の長い絵、藤原の焼死、藤原の剣士、藤原の意志、藤原の岸。
教通くらいまでは大丈夫かと思ったんだけどなぁ・・・。
みなさん、主要人物は辞書登録してあるんですか?
姓名を入力するときはたいてい「の」が邪魔になりますな
源平藤橘くらいは「の」入りで登録してもいいかも
源(みなもとの)、平(たいらの)みたいに
あるいは入力時に「の」を省くか
>>876 私は当子内親王が・・・というのも人の事は言えませんが、どうもきつい気が。>禎子内親王
>>876 私もすきですよ。禎子内親王
祖父道長や父の三条院に愛されながらもその後、後朱雀の后になってからは
頼通に疎んじれるが息子の後三条が即位し、女院になる。
すごい人生ですよね。
>>878 ちょっとキツいところがいいんです(Mなのかも)。「キツいだけ」は嫌ですが。
>>879 同志!内裏を退出する直前の歌「いまはただ雲居の月を〜」、大好きです。
まあ「待賢門院」と「美福門院」のどっちかを選べという選択などよりは遥
かにマシでしょうが(w
古文板では一時期「紫式部と清少納言のどちらが好きか」で盛り上がってい
ましたね。
882 :
日本@名無史さん:04/06/18 12:53
>>879 確か晩年の禎子内親王と孫の白河天皇は皇位継承を巡って不仲だったと聞きましたが…。
後三条天皇と陽明門院は白河天皇のあとは
天皇の弟実仁親王を天皇にしたかったが
実仁親王が死去したため、その弟輔仁親王を
皇太子にするようにいったが、白河天皇は
自分の子の善仁親王を帝位につけた
昔使っていたワープロ専用。
「南朝」は変換できたが、「北朝」はできなかった…。
885 :
日本@名無史さん:04/06/18 22:30
実仁・輔仁両親王の母、基子は後三条の長女の女房
だったんだっけ?そしてこの基子の祖父は小一条院で陽明門院同様
三条系の血を引くんだよね。
887 :
日本@名無史さん:04/06/20 18:05
図書館から借りてきた本(藤原氏と天皇の関係を記述)を読んだんですが、
文脈錯綜・誤字頻出・事実誤認の嵐(「藤原道隆の子・内大臣伊国」って誰だ!w
「源高明の子、左大臣俊賢」なんて書いてあるし)。
この時代の資料が少ない以上、推測部分が多くなるのは仕方ないにしても、
本出すんなら、人名や系図、官位くらいは押さえておこうよ、と感じました。
あまりのいい加減さに、自費出版か?とも思ったのですが、前書きに「編集者から
依頼されて云々」とあるし(それならちゃんと校訂してください>編集者)。
借りた僕はともかく、買った人(いたら)、憤慨しただろうなぁ(定価\3K)。
888 :
日本@名無史さん:04/06/20 18:41
>>885 白河院政は摂関政治に対抗というよりは皇位継承決定の主導権の確保が本来の目的だから。
>>888 私は院政について何も知らないんだけれど、
院政というのはキングメーキングの為に作ら
れた制度なんでしょうか?
>>887 興味あるなあ
著者・タイトル晒しキボンヌ
実名が駄目ならヒントだけでもよろ
>>890 題名はそのものズバリ「天○と○原氏」です。
しかしこの本に載ってる系図凄すぎ・・・頼通→頼道になってるし、顕信や能信は
倫子の子になってる。何より凄いのは、源高明の娘・明子と結婚してる道長の娘に
「源高明室」がいる!(道長第一子誕生時には既に高明はこの世には・・・)
初学者がこの本を手に取ったらかわいそうだけど、どれだけツッコめるかで
平安知識の理解度が分かるかも。
892 :
日本@名無史さん:04/06/21 07:38
>>891サンクスコ
で、検索してみたら
いや〜すばらしいトンデモぶりですね
この馬○朗って著者
他の著作を調べてみたら
「証言者は語る古代史の謎・天武・持統語る『私達は天智天皇の弟でも娘でもありません』」
なんてタイトルの本まであって……いや天智と天武の関係を云々する人は大勢いるけど
天武・持統 「 語 る 」
ってオイ……チャネリングでもやってんのか?
どうも在野研究者の間ではそこそこ有名な人物らしいのだが
だからってNHK教育番組の参考図書欄にまで載ってるとは……
http://www.nhk.or.jp/nihonshi/sensei/kyozai/43.html 正直ゾッとしますた
893 :
日本@名無史さん:04/06/21 07:41
チャネリングまで入っているのなら、それは立派な「トンデモ本」ですよ。
本人は真面目なのにどうしても笑ってしまう水準なのでしょうから。
紫式部の実家の子孫の藤原仲綱は平家政権のときに大納言
までいったようですが、その後、子孫はどうなりましたかね?
訂正 「藤原邦綱」だった
896 :
887=891:04/06/21 13:06
チャネリングとは凄いですね。妄想とミスの多さから考えると、I沢氏を上回る
トンデモ歴史作家???全編トンデモ、っていう訳ではないんですが、例えば
「嵯峨の娘、潔姫は良房に嫁し惟仁親王を生んだ」?
あのー、藤原氏が天皇の父になることはありえないと思うんですけど・・・。
ところでこの本の中で「蔵人頭」に「くろうどのかみ」とルビ振ってあるんですが
こう読んでる/呼んでる例は他にあるんでしょうか?
>>892 今ぐぐったら音声認識学の研究者で同名の人(松○電工勤務らすぃ)もたくさんヒット
そんなトンデモな輩と同名って、、、いやだろうなw あ、もちろん○下にお勤めの方の馬場さんがいやだろうなと
話変わるが出版元が「三一書房」という点で終わっているように思われ
898 :
日本@名無史さん:04/06/21 17:36
誰か「と学会」に知り合いいないの?
スレ残り少ないんだから電波学者の話なんか別スレでやってくれよ
このスレの名コテハンアフォ( ´_ゝ`)さん復帰してほしいっス
山野と薀蓄合戦きぼんぬ〜
つか次スレ立てれば済むだけの話だが
950踏んだあたりで良いか?
970あたりでいいのでは?
902 :
日本@名無史さん:04/06/23 17:35
摂関家の息子は大体何歳で貴族に昇ったの?
903 :
日本@名無史さん:04/06/24 12:06
904 :
日本@名無史さん:04/06/24 12:44
>>903 すみません、公卿の最低年齢記録を知りたかったのですが、誤記しました。
>>904 江戸時代あたりの『公卿補任』みるとすごいよね。
小学生かよ!ってなもんで。
907 :
日本@名無史さん:04/06/26 11:03
平安初期、藤原雄嗣が当時にしては異例の若さ(30前)で参議に任じられた時は、
桓武帝が「雄嗣の父百川には大変世話になったので云々」と言っていますね。
摂関家子息が20歳前後で公卿になるのは、道長、道頼、伊周、隆家位から?
908 :
日本@名無史さん:04/06/26 11:23
誰か公卿の最年少記録の変遷を調べてくれないかしらん
っていうかいまさらながら
>>1がたて逃げであることに気づいた。
910 :
日本@名無史さん:04/06/26 14:38
平家政権時代の藤原師家が8歳で中納言だったかになっている。
あと、だいぶ後のことだが豊臣秀頼が6歳で内大臣に就任している
と思った。
911 :
日本@名無史さん:04/06/26 15:39
平安初期でも藤原時平の出世は異常に早かったような
29歳で左大臣になっている
912 :
日本@名無史さん:04/06/26 16:51
>>908>>910 松殿(藤原)師家は8歳で権中納言になるが、親父の基房の巻き添えを食らって
その年に解官。
その後12歳で摂政内大臣に昇進するが、翌年頼朝と木曾義仲の内戦に
巻き込まれて解官。
その後61歳で出家するまで正二位前摂政内大臣のままで鳴かず飛ばず。
この人の人生ってなんだったんだろう・・・。
913 :
日本@名無史さん:04/06/26 17:05
>>912 13歳で解官されてから、一生散位だったの?
松殿家は、摂関家として残れなかったわけだ
914 :
日本@名無史さん:04/06/26 17:07
藤原基房(1145−1230)86歳
近衛基通(1160−1233)74歳
松殿師家(1172−1238)67歳
結構長生きしたな。
>>914 倫子の遺伝子が入ったおかげか長生きの人が
増えているよね、摂関家。
916 :
日本@名無史さん:04/06/26 21:13
>>913 摂関は以後出ていない、室町初め辺りには家そのものが消滅。
917 :
日本@名無史さん:04/06/26 21:51
>>913 松殿といえば、将軍御台所との密通事件で行方をくらました奴がいたな
918 :
日本@名無史さん:04/06/26 21:59
何気なく検索してみたら・・・平安時代を扱ったサイトにも電波系があるんですねえ。
『枕草子』にあやめの歌が出て来るのは定子の毒殺、つまり「殺女」を意味している
とか(w
>919
平安サイトは電波系多くないですか?
「○○さまラヴ」みたいな。
まともなのって1・2ぐらいのような・・・。
って、ここでまともなサイト晒して、
そこが荒らされるのは、悪いな。
たまに世話になってるし。
そうですねえ。どことは言いませんが、古代からの歌人をまとめてくれた
非常にありがたいところもありますね。
922 :
日本@名無史さん:04/06/28 07:56
>>山野さま
あそこはyahooの掲示板でも電波扱いされるけど
こりずにでてきて電波を撒き散らす人が主ですから
藤原系とか蘇我系とか
どこからあの電波系想像力がでるのでしょうかね?
電波ほど「量はこなしている」ところが多いですしね(笑)。
中世に何かの由緒でも記して遺してくれていれば面白かった気が。
925 :
日本@名無史さん:04/07/03 21:53
「医心方」を書いた丹波康頼って丹波哲郎の先祖だそうですが。
>912
しかし、関白ならまだしも、「12歳の摂政」ってのもすごいですな。
「摂政の摂政」の職が要りそうな気がする…。
>912
官職があがっていくことだけが人生だとすれば、
序盤で人生が終わったことになるな。
だが、今も昔も人生とはそれだけではないってことで。
928 :
日本@名無史さん:04/07/06 07:52
>912
政治がそれだけ空洞化したということだろう。
昨日、番組名が気になって『お伽草子』録画したんです。日本テレビの。
そしたらなんか人がめちゃくちゃ追われてて、(物語に)入れないんです。
で、よく見たらなんかテロップが出て、天禄三年常陸国、とか書いてあるんです 。
もうね、アホかと。馬鹿かと。
お前らな、天禄三年の常陸国に土蜘蛛が跋扈してんじゃねーよ、ボケが 。
天禄三年だよ、天禄三年(972年)。
なんか郎等連れとかもいるし。主従2人で山歩きか。おめでてーな。
我は源頼光一の郎等源綱、とか言ってるの。もう見てらんない。
お前らな、勾玉やるからその放送時間、空けろと。
平安時代ってのはな、もっと殺伐としてるべきなんだよ。
隣りの邸宅から、いつ数千の石礫が飛んできてもおかしくない、
刺すか刺されるか、そんな雰囲気がいいんじゃねーか。女子供は、すっこんでろ 。
で、どうにか入れたかと思ったら、安倍清明が、松虫、とか言ってるんです。
そこでまたぶち切れですよ。
あのな、安倍清明なんてきょうび流行んねーんだよ。ボケが。
得意げな顔して何が、安倍清明、だ。
番組名に惹かれて録ってみれば、案の定アニメだよ。
しかも25歳のいい大人な頼光が少女になってるし(実は頼光の妹で同名なんだと)・・・はぁ。
もう、少女頼光はいつ為幹(生まれてないけど)に強姦されますか?ぐらいしか言えん。
だいたい、源満仲が常陸守だったのって天元年間だよな。
930 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/08 01:52
空也が亡くなった年ですか。源綱は実在したかどうか分からないんですよね。
・・・まさかとは思いますが、藤原保昌が頼光に仕えてませんように。
>安倍清明
「晴明(はれあきら)」で無いのは、近世史を意識されたのですか。
931 :
日本@名無史さん:04/07/08 12:36
932 :
日本@名無史さん:04/07/08 12:44
>>912 >その後12歳で摂政内大臣に昇進するが、翌年頼朝と木曾義仲の内戦に
巻き込まれて解官。
木曾義仲に担がれたわけね。
天皇は安徳院(後鳥羽擁立後?)だから、
6歳くらい(後鳥羽だったら2歳?)の天皇と
12歳の摂政ですか。
院政期だから天皇も摂政もどうでも良かったか。
『今鏡』が賢帝としている二条天皇と後白河院の仲はよくなかったようで、
下賎の者にも院が平気で語りかけるのを苦々しく思った天皇が桟敷に板
を打ちつけて使えなくさせて嫌われた事もあったとか。
まあ、今様狂いで傀儡子まで呼び寄せるようでは、普通の人はよく思わ
なかったでしょうが・・・清盛がしっかり抑えていたから争乱にまではな
らなかったともいえる。
934 :
日本@名無史さん:04/07/08 18:14
息子の二条院が幼い頃から聡明だったから,
「いとさただしくお遊びなどありて」、「文にもあらず、武にもあらぬ四宮」
という風に、馬鹿な遊び人と見られていた父、後白河院が、
中継ぎとして即位できたんだよな。
>>930 恥ずかしながら素です。セイメイで変換して気にしてなかった。
今のところ頼光2人と綱。来週が貞光だから碓井定道(光)なんでしょう
というか、本物の頼光は病に臥せって逝きそう。
>>931 オタはどうでもいい。人の趣向にケチはつけないよ。
ただ、気合入れてそうなわりに、設定に穴があり過ぎないかな?て思っただけ。
能面とか、猿楽とか、アニメでも雰囲気出てて面白けりゃいいよ。
視聴してみれば穴も見つけられそうですが、ストレスも溜まりそうですね(w
満仲も出てタネ
貴族でいえば関白・左大臣・右大臣が登場してましたな
天禄三年でいえば、伊尹・源兼明・頼忠が該当しますが
あんまりキャラ設定には関係なさそうね・・・
娯楽作品として見れよ。
やばい、猿楽も平安時代からあったのか。
ミスするために書き込んでる気分
>>938 平安モノとして、期待すればこそというか。まあ言われるとおりですね。
ラスボスは大江山の酒天童子かしらん。
941 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/10 01:31
>939
『新猿楽記』や、『洛陽田楽記』、『梁塵秘抄口伝集』をお忘れなく。
>940
なお酒呑童子伝説が現在のような姿になったのは室町時代のようです。
当初は源頼光と、史実では頼光の弟と対立していた藤原保昌が征伐に向っている。
>野衾さん
最近乳即+で見ないと思ったら日本史板に居たのか・・・
943 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 11:42
次スレは970位でいいですか?
944 :
名無しさん@そうだ選挙に行こう:04/07/11 11:44
そういえば、先日の「そのとき歴史が動いた」が源氏長者の特集でしたが、初代の源氏長者は左大臣の源信でしたっけ?
945 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/07/11 12:37
>>942 最近、日本史ネタで書き込める事がありませんので。コテハンが名無し
さん達と同じような反応では意味がありませんし。
>>944 その筈です。
946 :
日本@名無史さん:04/07/15 12:34
村上源氏の世襲になるまでは源氏長者は嵯峨源氏だったのですか?
947 :
日本@名無史さん:04/07/24 15:05
清涼殿の落雷の時に亡くなられた貴族の方って誰でしたっけ?
948 :
日本@名無史さん:04/07/24 16:42
949 :
日本@名無史さん:04/07/25 17:44
>>948 大納言なのに業績については落雷死しか分からない
950 :
今岡誠の5代前:04/07/25 18:24
平安貴族の精巣
951 :
日本@名無史さん:04/08/05 12:41
>>934 後白河が政治的野心を持ち始めたのは院政を布いたあとだったと思いましたが。
>>936 歴史を扱った小説や漫画のツッコミを探すだけでスレが1つ立つでしょうね。
952 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/08/05 23:36
>歴史を扱った小説や漫画のツッコミを探すだけでスレが1つ立つでしょうね。
女流漫画家の場合、見てくれ重視なせいか登場人物を平気でざんぎり頭という
か今風の髪型にしていますね。餌取・非人でもあるまいし。
それとこれは男性もやる事ですが、実名で平気で呼んだり(字名でも問題)する。
名前も考えがたいものが多い。センスも酷いですし。
頼光が黒(紫)のホウを着てきたときはもうつっこむのがかわいそうになってきた。
954 :
日本@名無史さん:04/08/06 18:19
>>952 まあ、フィクションに余りツッコミばかり入れるのも大人げないですし…。
間違いならいいのですが、見てくれ重視でやられるとどうも・・・。
しかもそれを鵜呑みにする輩が出て来ると更に面倒。
956 :
日本@名無史さん:04/08/07 18:03
昨日のタイトル忘れたけれど、テレビ東京の所ジョージとおすぎの番組で紫式部の生涯が取り上げられていましたね。
番組紹介を見ただけで胡散臭さ爆発でしたけどね。民放には期待出来ません。
・・・もっとも、『その時歴史が動いた』がいいかといえばそうでもない。
『その時歴史が動いた』って
前に平○○二を呼んで
菅原道真にまつわるデムパ説をしゃべらせてましたな
もう少しマトモなゲストを選べんのかと小一時間(ry
>>959 956さんじゃないけど、その番組見たよ。内容はちょっとアレだった。
清少納言と紫式部が同時期に宮仕えしてたとか。確かかぶってなかったんだよね?
しかも清少は女官として、式部は私的に仕えていたってことはスルーだし
二人がお互いをライバル視していて、お互いの悪口を書き散らしてたとか。
違った点は今までこのテの番組で触れたことがなかった式部の娘の賢子のこと。
天皇の乳母になって出世したって紹介されてたよ。
>>959 何か東スポ見ている感じでした。
紫式部日記を拾っているあたりが評価してもいいのかもしれませんが。
男社会への批判=源氏物語、光源氏=ダメ人間という切り口は従来なかったものですし…。
>>961 >男社会への批判=源氏物語、光源氏=ダメ人間という切り口
瀬戸内寂聴氏が何年か前に「源氏物語」を現代語訳したときにこういう説を出したんじゃなかったかな。
清少納言が公式の女官とはしらなかったよ。( ・∀・)つ〃∩へぇーへぇーへぇー
清少納言の小納言は父親の官位らしいけれど、
彼女自身の肩書きは何だったの?
>>961 光源氏がダメ人間というよりも、そんな男のああいう物語をしつこく書きつづける
こと自体がダメ人間のうわなにをする尾sjが;fkあgdふじこ
>>963 清少納言の親族、特に親・兄弟などに少納言職を勤めた者はいないそうです。
短期間結婚していた男性が少納言だったという説があるそうです。
清少納言は命婦だったのではないかと言われています。
966 :
山野野衾 ◆UJr4Al4ZYM :04/08/09 10:05
>960
『源氏物語』が男社会批判だなんて、まともなゲストがいれば鎧袖一触でしょうに。
『枕草子』には女の出世はたかが知れたものだとありますが、紫式部や菅原孝標女
は宮仕えに気苦労を感じる人でしょう。
>清少納言と紫式部が同時期に宮仕えしてたとか。確かかぶってなかったんだよね?
敦康親王に仕えていた時に面識があったとか、道長のお気に入りであったのでしばら
くあちら側に仕えていた可能性もあるとかいいますが、推測止まりです。
>天皇の乳母になって出世したって紹介されてたよ。
大弐三位が出ていましたか。珍しいといえば珍しい。
>965
菅原孝標女の継母が離婚後も上総と呼ばれていたようなものですね。
967 :
日本@名無史さん:04/08/09 10:51
清少納言って本当に晩年は不明なの?
平安時代ほど精巣が似合う時代はないな
969 :
日本@名無史さん:04/08/10 20:59
次スレどうしますか?
平安スレは絶無に近いから、次スレは欲しい…
>>952 そういえば歴史漫画・小説を扱ったスレが凄く少ないですね。
「少年少女日本の歴史」を称えるスレはありますが…
「ここがヘンだよ歴史漫画」という突っ込みスレを立てられてみますか?
>>966 やはり面識云々は推測だけなんですね。道長と親しいと疑われて蟄居していて、
定子に出てくるように言われ、久しぶりに出仕して部屋の隅にいたら
定子に「あの人は新参?」と清少納言が気まずくならないように声をかけたことが
枕草子にありましたね。あの話、好きなんです。
清少納言の少納言だった夫については藤原氏だったのは覚えてるんですが
名前を失念してしまいました。この夫との間に子供がいなかったから
橘則光や藤原棟世のようにはっきり名前がわからないみたいですが、
まだ判明しないんでしょうかね。
973 :
日本@名無史さん: