残酷な天皇

このエントリーをはてなブックマークに追加
 陽成天皇は性格異常天皇として有名です。二条の后を母とする陽成天皇は奇行が
目立ち、十七歳で退位させられてしまうが、そのきっかけの一つとなったのが殿上で
彼の乳母(紀全子)の子である源益という者の命を奪ったことである(『尊卑分脉』
『玉葉』などによれば、陽成天皇が殴殺したとの風聞があったらしい)。
 今でいう高校生ぐらいの歳で在位し自らの乳母の子を撲殺....また、宮中で馬を
飼うのは禁じられていましたが陽成帝は飼育。ワルガキ取り巻きと言わば馬での
暴走行為も....
 見るに見かねた関白藤原基経はこの言わば狂帝を無理やり退位させ、壬申の乱以来
永らく冷や飯を余儀なく食わされていた天智天皇系の光孝天皇(当時既に40代)を
即位させます。
 『大鏡』や『中外抄』、降っては『神皇正統記』等の著者達も、夙に病弱説を排し、
暴君説を採っている。中でも慈円は、暴君説を強く主張し、「この陽成院、九歳にて位
につきて八年十六までのあひだ、昔の武烈天皇のごとくなのめらずあさましくおはし
ましければ、おぢにて昭宣公基経は摂政にて諸卿群議有て、『是は御ものゝけのかく
あれておはしませば、いかが国主とて国をもおさめおはしますべき』とてなん、
をろしまいらせんとてやうやうに沙汰有りけるに、・・・」 と述べ、この帝を廃し、
光孝天皇を擁立したことをもって、『藤氏の三功』の一つに数えているのである。
 なお江戸時代の初期の後陽成天皇は女官の密通事件に怒って相手の貴族たち
の処刑を強く主張したため殺人天皇陽成の再来ということで「後陽成」という贈り名
をもらった。

262親子が穴兄弟?「光仁天皇」「桓武天皇」(第49代・第50代):02/10/21 18:44
 光仁天皇はある時、皇后の井上内親王と双六で遊んでいた。
天皇は「わしが勝ったら、十人の若い女を(自分の自由にさせて)くれ」と言った。
皇后は「じゃあわたしが勝ったら、十人の若い男を下さい」と答えた。
 光仁天皇は勝つ自信満々でこう言ったのだが、実際に勝ったのは皇后だった。
天皇は冗談で済まそうとしたが、皇后は執拗に約束の実行を迫った。
困った天皇は、腹心の藤原百川に相談した。
 百川は、山部王(後の桓武天皇)を皇后のもとに差し向けることを提案した。
山部王は天皇の長男だったが皇后の継子にあたり、まだ皇太子ではなかった。
皇太子は光仁天皇と井上内親王の間に生まれた、山部王の異母弟の他戸親王だった。
山部王は初めは拒んだが、百川に因果を含められ言う通りにした。
皇后は継子の山部王と男女のことをし、いたく満足したという。 『水鏡』より
 なお、桓武天皇は、帰化朝鮮人(純粋な日本人ではない)との疑惑があった。
長い間、日本史最大のタブーとされた桓武天皇朝鮮人疑惑は、アキヒト氏の勇気ある
カミングアウトで近年公認された。『続日本紀』にも、桓武天皇は光仁天皇(父)が
死んだとき「哀号(アイゴー・チョゲッタ)」と言って泣いたと記されている。