残酷な天皇

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128人喰い魔人「綏靖天皇」(第2代)と人民の闘争
 これはいずれの帝の御時であったかというと人皇第二代の綏靖(すいぜい)天皇
の御時である。綏靖天皇と申す帝は、朝に夕に人を7人食らいなさったので臣下
の嘆きはこれにつきた。「誰と誰が生き残れるだろう」悲しいことに、それは誰
にもわからない。この帝は長生きをしたので、多くの人民がその間に滅びてしま
いはせぬか、と心配してある臣下がこの暴君を滅ぼそうと提議した。「この帝を
戴いていたら、国土は乱れ、人民の嘆きは絶えない。祖父の鵜羽葺不合尊(ウガ
ヤフキアワセズノミコト。あるいは、ウガヤフキアエズノミコト)は836412年
を治めなさった。人皇の代となってから、世も末になったのは悲しいことです
が、それでも神武天皇は120年を治められました。この帝も100年、200年、300年
と御在世なさると思うが、その間、多くの人の命が失われるだろう。
 『何月何日に火の雨が降る』と偽りの発表をして、諸国に使いを廻らしなさい。
いま命の惜しいものは、岩屋を作ってその中に籠り、難を避けよ」と告げられた。
 人々はみな心を迷わして、各々に岩屋を作り構えた。諸国に塚が多くあるのは
このときの岩屋である。都では、その日を定め、内裏の岩屋を作った。「国王も
その日が過ぎるまで、お入りになってください」と、公卿3人、殿上人2人、女
房2人を付け参らせて、摩利の柱(未詳)を立て、下から人が上がろうのも上が
れないようにしてその中に収めた。その後はどうなったともわからない。悪王と
善王とを引き換えてしまったのである。 「熊野権現の事」『神道集』より
129身内殺し・DQN・わがまま魔人「雄略天皇」(第21代):02/02/07 15:26
 古事記には国内のすさまじい闘争の歴史が克明に記されています。 これほど
恐ろしい闘争をよくも書き記したものだと驚くほど、残忍な悲劇が波のように押し
寄せてくるのです。 例えば、雄略天皇の記を見ると、彼は天皇に即位するまでに、
兄弟を二人殺してます。 従兄弟も全部殺してしまっている。 皆殺しにして、最終的に
自分1人残った時に天皇になったと記されています。
 また『古事記』の伝承によると、雄略天皇のとき、「伊勢の国の三重の采女」が、
宴会で天皇に捧げる盃に木 の葉が入っているのに気付かず、酒を注いでしまい、
天皇の怒りに触れて殺されそうになりました。そこで、采女は必死で天皇を讃え、
繁栄を祈った歌を即興で詠み、その歌が大層素晴らしい出来であったので天皇が
感心し 、命拾いをしたという記事があります。
 大泊瀬皇子(雄略天皇)は、反正天皇の皇女たちをわがものにしようとされた。
この時皇女たちが皆おっしゃるに、『あの方は日頃から乱暴で恐いお方です。に
わかにご機嫌が悪くなると、朝にお目にかかった者でも、夕方にはもう殺され、
夕にお目にかかった者でも翌朝には殺されます。いま私たちは容色が美しくなく
また気もきかぬ者です。もし振舞いや言葉が、毛の末ほどでも皇子の心に適わな
かったならば、どうして可愛がって頂けましょうか。こんなわけですから、仰せ
ごとを承ることはできないのです』といわれ、ついに身を隠してきき入れられな
かった 『日本書紀』「安康紀」からの抜粋
 『日本書紀』巻14雄略天皇7年是歳 雄略天皇は、吉備上道臣田狭の妻が美貌
であると聞いて彼女を欲し、夫田狭を任那の国司として送り出した後に、召し寄せた。
別本に、夫を殺して自ら召した、という。
130古代最凶の悪魔・日本のネロ・カリギュラ「武烈天皇」(第25代):02/02/07 15:26
2年秋、妊婦の腹を割いてその胎児をご覧になった。
3年冬10月、人の生爪を抜いて、山芋を掘らせた。
4年夏4月に、人の頭髪を抜いて梢に登らせ、樹の根本を切らせて、登っていた者が
 落ちて死ぬのを眺めるのを楽しみとされた。
5年夏6月に、人を池の堤の樋(ひ)に伏せて入らせ、外に流れ出てくるのを三つ又
 の矛で刺し殺してはそれを楽しまれた。
7年春2月に、人を樹に登らせ、弓で射落としてお笑いになった。
8年春3月に、女を裸にして平板に座らせ、馬を全面に引き出して交接させた。
 女の陰部を見て、潤っているものは殺し、潤っていないものは召し上げて官婢とされた。
そしてそれを楽しまれた。(日本書紀より)
131親子が穴兄弟?「光仁天皇」「桓武天皇」(第49代・第50代):02/02/07 15:27
 光仁天皇はある時、皇后の井上内親王と双六で遊んでいた。
天皇は「わしが勝ったら、十人の若い女を(自分の自由にさせて)くれ」と言った。
皇后は「じゃあわたしが勝ったら、十人の若い男を下さい」と答えた。
 光仁天皇は勝つ自信満々でこう言ったのだが、実際に勝ったのは皇后だった。
天皇は冗談で済まそうとしたが、皇后は執拗に約束の実行を迫った。
困った天皇は、腹心の藤原百川に相談した。
 百川は、山部王(後の桓武天皇)を皇后のもとに差し向けることを提案した。
山部王は天皇の長男だったが皇后の継子にあたり、まだ皇太子ではなかった。
皇太子は光仁天皇と井上内親王の間に生まれた、山部王の異母弟の他戸親王だった。
山部王は初めは拒んだが、百川に因果を含められ言う通りにした。
皇后は継子の山部王と男女のことをし、いたく満足したという。 『水鏡』より
132地獄に落ちた「醍醐天皇」(第60代):02/02/07 15:27
 醍醐天皇は死後、地獄へ堕ちたという伝承がある。『北野縁起』中に、
「我(醍醐)は父法皇(宇多)の御心に違へ、無実によりて菅丞相(道真)を流し
侍りし。かの罪によりて此の苦を受く。汝(日蔵)、娑婆世界に帰りて、我が皇子に
此の苦を助け給へと申すべし、とぞ仰せられける。
 我、生前に五つの罪あり。皆是れ大政威徳天の御事より出でたり。

一には、父法皇を嶮路に歩ませ奉りて、心神困苦せしめ申したりし事。
二には、我高殿に安座して法皇を地に据ゑ奉りし事。
三には、賢臣を罪なきに罪を与へし事。
四には、久しく国位を貪りてあまたの仏法を滅ぼしし事。
五には、我が身の怨敵の故に他の衆生を損害せし事。
是等の罪によりて先苦を受くる事かくの如し」 『北野縁起』より