平頼綱って悪者?

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1日本@名無史さん
大河ドラマではドキュソでハチだった平頼綱ですが、
実際はどうだったのでしょうか?
恐怖政治を行ったと聞きますが、具体的にどんな政治を
行ったのかまで触れたものを読んだことがありません。

日蓮を処刑していれば今の世の中は少しはマシになっていた
と思うのですが…
2日本@名無史さん:01/12/15 14:55
全国御家人大ジェノサイド
3日本@名無史さん:01/12/15 14:56
日蓮を処刑していれば彼は殉教者になってしまい、
その人気は今以上だったんじゃないの。
キリストと同じように彼の教えは弟子が伝えればいいんだし。
宗教ってそういうものでしょ。
4日本@名無史さん:01/12/15 15:00
安達泰盛を殺したから悪人扱いされる
それだけ。
5日本@名無史さん:01/12/15 15:02
平頼綱は、秋田城介(安達泰盛)父子を殺害後、全国各地の秋田城介派の御家人を殺害しました。例えば、大河にも登場した少弐景資とか二階堂行景・安達泰盛の親戚にあたる信濃の小笠原など。
6日本@名無史さん:01/12/15 15:04
>>3
皆殺しにするべきだったのでしょう
7日本@名無史さん:01/12/15 15:29
泰盛の子供で坊主だった人は捕らえられて明石沖に石を抱かされて沈められた・・・。こわ
8日本@名無史さん:01/12/15 15:39
時宗様の忠実なる僕であり、その遺志を継ぐ者である。
9日本@名無史さん:01/12/15 19:26
御家人でないから、自分の権力を確立するために反対派の御家人を粛清しただけ。
こんなことは歴史上よくあること。
得宗家御内人と御家人の対立は、江戸時代の幕閣(大名)と側用人(旗本)の対立と
同じで、日本の歴史を通じてあったこと。
平頼綱が死んでも、一門の長崎氏がその後御内人として権力を振るい続けたわけだし、
彼だけが特別悪かったわけでもない。
そもそも恐怖政治の原因は、得宗家への権力集中だな。
101:01/12/16 19:03
>>7
その話は初めて聞きましたが、確かにそれは恐い( ゚Д゚)。
111:01/12/16 19:05
皆さん、どうもありがとうございます。
行き過ぎた戦後処理っていうのは、多かれ少なかれいつの時代にも
ありそうなものなものなのに、なぜ平頼綱の場合に強調されるの
でしょう。霜月騒動があってから平禅門の乱までの間に、霜月騒動
の処理以外に、どんな恐いことをやったのだろう。

息子を征夷大将軍にしようとしたっていうのが恐怖とは言えないし…
似たようなことは北条時政あたりが目論んで失敗してるよね。
12日本@名無史さん:01/12/16 19:42
まぁ北条氏だって鎌倉幕府の中で権力を握る過程でいろいろやってるからな。
戦国時代で似たような例を探すと、
細川家 =源氏
 ↓    ↓
三好家 =北条家
 ↓    ↓
松永弾正=平頼綱
みたいなもんだろ。
13日本@名無史さん:01/12/17 02:15
長崎頼綱です。
14日本@名無史さん:01/12/17 04:10
平頼綱は出自不明ということになっている。
でも北条得宗家執事平盛綱の子で、実は盛綱の出自がよくわからんだけ。

吾妻鏡の元仁2年(1224)2月23日条に「平三郎兵衛尉盛綱」と出てくるのが
初見で、北条泰時の側近として政所寄人となったらしい。
四年後には「平左衛門尉盛綱」とあって、昇進したらしい。
1234年には尾藤景綱の辞任により、得宗家の家令に任ぜられている。

頼綱は1256年頃から吾妻鏡に頻出する。「新左衛門尉三郎」と号する。
1271年には時宗嫡男、貞時の乳母夫になり、
1284年に得宗家執事(内管領)となっている。
翌年、秋田城介安達安盛を誅殺している。

盛綱の出自は本当に不明。でも、吾妻鏡に源頼朝の祐筆として頻出する
政所寄人「民部丞平盛時」の子孫では?ともいわれている。
15日本@名無史さん:01/12/22 08:46
盛綱は平清盛の孫の資盛の系統と何かに書いてあった記憶が。
16 :01/12/22 14:07
>15
清盛の直系!?北条氏なんかよりずっと血筋正しいじゃないか。
17日本@名無史さん:01/12/22 16:50
だからそれは系図をつくっただけ。
徳川氏が系図上では新田源氏というのと同じ。
18日本@名無史さん:01/12/22 17:43
こらこら。清盛も北條も同じ桓武平氏だから、別に血筋正しいわけではない。
平家の生き残りを北條が抱えたとかいう話もよくきくが、さもありなん。
平盛国ー盛綱というのもその一つの話。
19日本@名無史さん:01/12/22 17:47
坊主をしずめたというのは、坊主を斬れないからじゃないか?別に怖い処刑法ではない。
お公家なんか、斬られて五体○満足になると成仏できないから、淵にしずめてくれ
とわざわざ懇願したりしている。>>10
20日本@名無史さん:01/12/23 04:12
>14,15
正衡の兄弟の子孫
21日本@名無史さん:02/01/02 12:13
age
22日本@名無史さん:02/01/10 22:30
正しくは長崎頼綱だよ。
23日本@名無史さん:02/01/22 17:56
age
24日本@名無史さん:02/01/22 17:58
長崎は地名?
25日本@名無史さん:02/01/22 18:40
伊豆長崎
26日本@名無史さん:02/01/22 18:41
本当はハチだよ。
27【^▽^】武蔵太郎ジョーカー@横濱:02/01/22 18:53
私の先祖は平時忠。
28日本@名無史さん:02/01/22 18:54
私の先祖は神武天皇。
29日本@名無史さん:02/01/22 19:13
私の先祖は、アフリカで直立歩行を始めた類人猿
30日本@名無史さん:02/01/22 19:21
単に北条時宗さまに萌えていたんでしょう。
>>1後半同意!

源氏本家が絶えた段階で、鎌倉幕府は終わってるからね。
遅かれ早かれ消えるから、好きにやらせておけば良かった。

31【^▽^】武蔵太郎ジョーカー@横濱:02/01/22 20:44
私の父方の祖母方の曾祖母方の曽祖父方の高祖母が、
能登の時国家の娘で、先祖が平時忠だというのは本当です。
32日本@名無史さん:02/01/22 20:56
>>1 はまだいるの?
文春文庫の高橋直樹「鎌倉擾乱」の2話目が、平頼綱が主人公で面白いべ。
33日本@名無史さん:02/01/22 21:35
大河ドラマ「時宗」を見ていて感じたが、頼綱:安達泰盛の関係って、秀吉:柴田勝家の関係に似ているような気がする。
秀吉は天下をとったため、秀吉=善、勝家=悪みたいな感じになったが、頼綱もその後ずっと権力を握っていれば、善人扱いされたかも。
歴史は勝者を善、敗者を悪としてかかれるからねえ。
34日本@名無史さん:02/01/23 03:19
日蓮宗系の信者には大変嫌われているだろうな−
35日本@名無史さん:02/01/23 04:07
でも名演技だったと思う。
たぶん俺は、あの俳優を心の中で「頼綱!」と一生呼び続けるでしょう。
36日本@名無史さん:02/01/23 11:30
正しくは平頼綱。
371:02/01/26 16:37
>>32
どうもありがとうございます。今度、書店で探してみます。
38日本@名無史さん:02/01/26 16:48
長崎円喜と高資は?
39a:02/01/26 20:51
sage
40遠山左衛門大尉:02/01/26 21:28
なんか出自がはっきりしない人ですね。
平氏の子孫らしいけど,なぜ身内人になったのだろう。

どの代で狩衣を着る貴族的平家的パーソナリティから身内人として
再出発したのだろうか?
41正しくは:02/01/26 21:43
長崎頼綱です。
42ホモツナ:02/02/05 01:25
age
43日本@名無史さん:02/02/05 10:59
正しくは平頼綱
44日本@名無史さん:02/02/21 20:24
age
45日本史@名無しさん:02/02/27 03:59
>>43
平頼綱と記した史料は無いよ。
46日本@名無史さん:02/02/27 11:33
>>45
長崎頼綱と記した史料は無いよ。
4745:02/02/27 11:50
>>46
俺は、長崎頼綱とは言ってないよ。
平頼綱と記した史料は無いと言っただけ。早とちりするなよ。
平頼綱も長崎頼綱も史料には無い。
しかし、ここのタイトルが「平頼綱」とあるから、
そんな名前は無いと書いただけ。
48日本@名無史さん:02/02/27 16:47
>47
吾妻鑑
49あのねそこには:02/03/02 01:48
>>48
平頼綱とは記されてないよ。よく見てみ。
50?�?I`?E¨?》?±?E´?I´:02/03/02 01:50
>46
藩斡譜
51 :02/03/02 14:30
北村一輝だろう。
52日本@名無史さん:02/03/02 16:15
北村一輝は海賊になりたかったらしいから、そっち方面の役で
大河ドラマに出してやってほしい(w
53北 一輝:02/03/02 17:00
じゃあ北村は、頼綱より、松浦党の役の方がよかったのかもしれない。
54大川周明:02/03/02 18:29
松浦亜弥と松浦党の関係を教えて下さい。
55日本@名無史さん:02/03/02 18:47
オレも牧瀬理穂とエッチしたーい。
56橘孝三郎:02/03/02 18:49
>>55
誰もエッチの話なんかしてないぜ。
57?un:02/03/02 20:54
最高だよ
58冬樹:02/03/03 06:30
飯島愛とやりたいね、
59平新左衛門尉:02/03/03 09:04
長崎頼綱にございます。
みなさまにおかれましては、お見知り置きを。
60円喜:02/03/16 16:57
そうだね、正しくは平新左衛門尉頼綱(へいしんざえもんのじょう・よりつな)。
平頼綱でもないし、長崎頼綱でもない。
強いて言えば、
平頼綱:頼綱の本姓による名前。平時宗と同じ。
長崎頼綱:頼綱一族の子孫が長崎を名乗り、後から頼綱も長崎姓にした。
61日本@名無史さん:02/03/18 15:17
だから「たいら の よりつな」。
62日本@名無史さん:02/03/18 15:39
>>14
>北条得宗家執事平盛綱の子で、実は盛綱の出自がよくわからんだけ

ドラマでは得体の知れない殺し屋を盛綱の養子にしたみたいになってたけど、
実子だったんですか?
63日本@名無史さん :02/03/18 20:59
>>61
じゃないんだよ。
もし、頼綱を、平頼綱と呼ぶのなら北条時宗も平時宗と呼ばなければならんのだよ。
ここでの問題は、頼綱における、時宗の北条に該当する苗字なんだよ。
長崎頼綱という表記が、頼綱一族の子孫の長崎氏の系図にはあるが、頼綱自身が
長崎を称したかどうかは未定ということ。
東鑑の記述は、「平新左衛門尉頼綱」で、この場合の頭の「平」は「源太義平」の「源」と同じく
通称の一字で、「源太」の源は「げん」と読むように「平新左衛門尉」の平は「へい」と読む。
つまり、「平新左衛門尉頼綱」という表記は、平頼綱とはならないということ。
64日本@名無史さん:02/03/30 14:13
北条氏の桓武平氏につながる家系図も
でっち上げがはっきりしているよ。
三浦氏や千葉氏上総氏等は間違いないけど
65日本@名無史さん:02/03/30 18:43
まだこの話題をやっているのか
66日本@名無史さん:02/03/30 19:38
どうでもいいだろ
67吾妻鏡によると:02/03/30 22:31
とにかく平頼綱でないことだけは確実だね。
68日本@名無史さん:02/03/31 00:13
>>67
同意。
史料に基づくかぎり、平頼綱というのはありえない。長崎頼綱もない。
69日本@名無史さん:02/03/31 00:30
人名辞典に載せるとしたら平頼綱とせざるをえない。
70歴史の勉強:02/03/31 01:42
平頼綱(何かなつかしい……また出ないかな?)は、
長崎頼綱と呼び慣わしたほうが好いと思う。
彼が長崎円喜と同族なのは間違いないし、他の士族の分類に従えば長崎とすべきだろう。
しかし、史書では圧倒的に「平頼綱」という呼称が用いられているので、
当座はこの呼称を使用しても構わないと思う。
もしどこかで決着をつける機会があれば、以後は長崎姓に統一したほうが好いと思うが。

しかし、長崎氏の出身地はまだ明らかになっておらず、
頼綱のころからその一統を長崎と呼んでいたかは皆目不明。
伊豆に長崎という地名があり、そこが「苗字の地」ならば、
頼綱を長崎と呼ぶことは支障ないと思う。

もちろん、指摘のとおり、「平左衛門」は「へい〜」と読むのが正しい。
熱海にある温泉は「へいざえもん地獄の湯」と読む。
71日本@名無史さん:02/03/31 02:19
>70
本人名乗ってないんだからやめたほうがいいだろう。
最近は北条早雲も言わなくなってきてるし。
そもそも長崎氏は頼綱より前の代の分岐なんだから。
子孫が名乗った早雲よりもふさわしくない。
72日本@名無史さん:02/03/31 04:59
しらないのでしつもーん

内管領の職は頼綱からはじまってるっていうけど、それまで得宗家の家令には職名はなかったの?
頼綱は、この地位の役割を実質的にどう変えたの?
73歴史の勉強:02/03/31 13:14
「内管領」と称したかは忘れたけど、尾藤景綱とかいう武士が
泰時の執事を勤めてたはずだ。
頼綱が何を変えた、と言うより、頼綱の生きた時代がちょうど得宗専制の完成期で、
それゆえに頼綱が絶大な権勢を誇ったのだろう。

頼綱を「平」とするか「長崎」とするかは、頼綱をどう把握しているかによる。
目下「平〜」が一般的だが、
「長崎〜」と呼ぶ人は長崎一族の一環として彼をとらえているのだろう。
僕個人としては、どっちでも好いと思う。
74頼綱:02/03/31 22:29
平頼綱の「平」は本姓の平であり、頼綱を平頼綱とするならば、
北条時宗も、本姓の平から平時宗としなければならない。
彼は、吾妻鏡に「平新左衛門尉頼綱」と記されている。
この「平新左衛門尉」の平とは、「鎌倉悪源太」の源と同じく
通称であり、本姓の平(たいら)と混同してはならない。
長崎氏は、頼綱の弟の光綱に始まり、後に長崎氏は、頼綱と光綱の
父親の盛綱を長崎氏の祖としている(藩斡譜)。

頼綱の生前においては、平頼綱も長崎頼綱も史料にはない。
頼綱の死後においては、長崎頼綱と記した史料はある。
75日本@名無史さん:02/04/01 00:22
得宗被官は以前から存在する。頼綱の家系では平盛時など。
祖を遡れば頼朝の右筆、更には清盛側近に至る。
去年出た『北条氏系譜人名辞典』の巻末に現在確認できる全得宗被官が載っている。

>74
平は名字。新左衛門尉が通称。
古代の姓がそのまま中世名字となった例は他にも多い。
『藩「翰」譜』の記載は不正確。.細川重男『鎌倉政権得宗専制論』参照。
7674:02/04/01 11:38
>>75
平新左衛門尉の平は、名字ではない。
名字なら、これは「たいらしんざえもんのじょう」と読むことになるが、
これは「へいしんざえもんのじょう」と読み、「鎌倉源太」などの源と
同じく、通称を構成する文字。梶原景時の「平三(へいぞう)」などとも同じ。
藩斡譜は、不正確だが、ただ、長崎頼綱という記載がある後世史料としてあげただけ。
もちろん、頼綱生前ではないから、ここに記されている長崎頼綱という名前は、
後世のもので、頼綱自身によるものではないかもしれない。
ただ、正確、不正確にかかわらず、平頼綱と記した史料は皆無だが、長崎頼綱と記した史料はあるという意味。
つまらない誤解を避けるために繰り返すと、頼綱の死後も含めれば、史料的にはそうなっているということ。
ほかに、これも正確とはいえな代物だが、長崎氏系図も長崎頼綱と記している。
しかし、後世のものなので、頼綱自身が、長崎という名字を名乗ったかどうかは不明。
77一応の結論は:02/04/01 11:47
要するに

平頼綱:史料としては無い。
長崎頼綱:頼綱死後の文書にある。藩斡譜、長崎氏系図。

吾妻鏡には、平新左衛門尉頼綱と記されているだけで、頼綱が平氏の出
ということになっているが、名字は書かれてなくて「平新左衛門尉」という
通称が記されているだけ。

以上からすると、
●「平頼綱」は、ありえない。史料的にも誤謬。
●「長崎頼綱」は、頼綱死後の後世から見た場合ある。

早雲を北条早雲と呼ぶならば、頼綱は長崎頼綱となる。
いずれにしても、平頼綱は、ありえない。
78歴史の勉強:02/04/01 12:58
僕が言うのは折衷案だけど、平でも長崎でも好いんじゃない?
平が「姓」で「長崎」が苗字なら、平頼綱というのは間違いじゃないだろう。
あれって絶対「たいら『の』よりつな」と読まれて、「たいらよりつな」とは読まない。

僕個人としては、長崎としたいが。
基本的に鎌倉時代以降は「源」「平」「藤原」は避けて苗字で呼ぶべきと思うので。
お公家さんは鎌倉中期ぐらいまで「藤原」「源」でもいいけど。

しかし、あれだけ偉かった人物の呼称がわからんとは。
79日本@名無史さん:02/04/01 16:14
頼綱は長崎と称していない。
後世の資料にいくら載っていても、粉飾したものであり、根拠とならない。

木曽義仲が当時は源義仲であったように、平頼綱。
悪源太義平が当時は源義平であったように、平頼綱。
80日本@名無史さん:02/04/02 01:02
平新左衛門尉が出てくる史料の前後見てごらんよ。
特に他の人間と列挙されてる所。
平が名字なのが一目瞭然だろう。
いったい平が名字じゃないっていうなら彼には名字なかったのかい?

>78
どっちでもよかないんだよ。
彼の一族が滅んだ後、庶流の長崎氏に内管領の地位が移ったわけで
両者は別流。それを一緒にするのは後世の長崎氏子孫の
連中の作為を認めることとなる。
彼は平が姓で平が名字。そんな例はいくらでもある。

>77
だから「翰」だってば。何で斡旋の「斡」書くの。信憑性薄れるよ。
当時の文書に平新左衛門尉頼綱はあっても、長崎新左衛門尉頼綱はないでしょ。
81歴史の勉強:02/04/02 01:26
その辺、ちゃんと解明されてるの? いや、つっかかってるわけじゃなく。
「平」が姓か苗字かは非常に重要な問題だから。
もちろん、「たいら」が苗字だっておかしかない。
鎌倉時代の武士の苗字なんて大半が地名だから、平って地名も考えられる。
それに対して姓の平は関東中にいっぱいいた武士が漠然と使ってたもので、
千葉・三浦・畠山(重忠の)なんかも平と名乗っていいわけだから。
この辺がどーも釈然としないのは、平頼綱が歴史に名を残すほどの家格じゃなかったから?
82日本@名無史さん:02/04/02 02:08
まあ頼綱はともかくとして、その息子の場合、

『一、寺社并京下訴訟事正応四、八、廿
 急可申沙汰之由、可被仰奉行人并五方引付、此上令延引者、
 可触訴飯沼大夫判官助宗、大瀬左衛門尉惟忠、長崎左衛門尉光綱、
 工藤右衛門入道杲禅、平左衛門尉宗綱歟』

この史料の人名部分を抜き出すと
飯沼大夫判官助宗
大瀬左衛門尉惟忠
長崎左衛門尉光綱
工藤右衛門入道杲禅
平左衛門尉宗綱      

この場合、宗綱の苗字は明らかに「平」じゃないか?
もし「平左衛門尉」が一続きの通称で、宗綱だけ苗字が省略されてるとしたら、
この位置関係からいって省略された苗字は直前の杲禅と同じく「工藤」ということに
なるのではないか?
83日本@名無史さん:02/04/02 02:23
>その辺、ちゃんと解明されてるの?
学界では定説。だから人名辞典の類も平頼綱とする。
75の細川氏著書が最近の研究。

>平って地名も考えられる。
そうなじゃないんだって。
古代姓がそのまま中世名字になった例は多い。
(太田亮によれば中世名字のうち一番多いのがこのパターン)
大江や三善など京下りの人間にこの例が多いことからすると
頼綱の祖が京下りで頼朝の右筆だったのも納得できる。

>82
その通り。フォロー感謝。
84日本@名無史さん:02/04/02 15:39
結論は出たようだね。
85目が怖い:02/04/02 17:20
2ちゃんで結論が出るなんて珍しいな.
86日本@名無史さん:02/04/02 18:57
 鎌倉北条氏のお膝元、伊豆の韮山には長崎っていう地名があるよん。
そこのお寺(長昌院@臨在宗円覚寺派)には長崎氏のお墓があるって
聞いた事がある。
 そこでは九州の長崎市のルーツはそこと伝承されているらしい。
 伊豆は苗字のルーツの総合商社なのでありかも・・・
87日本@名無史さん:02/04/02 19:59
平頼綱か長崎頼綱か、というと、長崎頼綱だろう。
平頼綱は、時宗を平時宗、足利尊氏を源尊氏と呼ぶ場合にのみ使用される本姓による名。
この場合は、もちろん、高時の内管領の長崎高綱(円喜)も平高綱という。
時宗が北条で、尊氏が足利、円喜が長崎と、名字で記される場では、頼綱もまた
名字で記さなければならず、平という本姓で記してはならない。
頼綱は、「平新左衛門尉頼綱」と吾妻鏡には記されている。この「平新左衛門尉」の平は、
当然ながら、本姓の平ではない。しかし、これを名字と見るのもおかしい。
名字のように使用されているが、名字ではなく、義平の「源太」の源が本姓でも名字でもなく
通称であるように、頼綱の平新左衛門尉頼綱の平も、通称と見るのが妥当だろう。
では、頼綱には名字はなかったのだろうか。
御家人は、すべて名字を持ち、頼朝は御家人たちの名字の承認を権威の拠り所の一つとしていた。
天皇が臣下に姓をあたえることに倣ったものだろう。
頼綱は、御家人ではなく、徳宗家の御内人であるから、そのあたりが微妙になる。
長崎円喜のように御内人も、その後は名字になっている。
考えられることは、頼綱にも名字はあったが、伝わらなかった。あるいは、頼綱は、
御内人が名字を使用する事態への過渡的な時の存在だった。このいずれかだろう。

結論は出ないが、いずれにしても、平頼綱という本姓による表記や呼び方は誤りか手抜き。
後世の視点を含めれば、長崎頼綱が妥当だが、本人が使用していた痕跡が資料的には無いため、
平新左衛門尉頼綱と記すしかなく、新左衛門尉を略す場合は、平頼綱ではなく、長崎頼綱と記すべきだろう。
88歴史の勉強:02/04/04 00:15
僕はもう「慣用として定着しちゃってる」ので、平頼綱と書いていいと思う。
絶対に長崎姓がおかしいと言うなら、もちろん使用は控えるべき。

ただ歴史上の人物の存命時と違う姓を使うのも許容範囲と思う。
たとえば、鎌倉時代の北条氏はやたら人物が多く、
全部が北条ではかえって把握しにくい面がある。
金沢、赤橋、塩田などの「苗字から更に派生した苗字」を使うほうがいい。
その際、北条実泰が存命時から「金沢殿」と呼ばれていたかは問題ではない。
金沢北条氏が実泰・実時どちらの代から始まったかなんて、当時の人も気にしなかった。
だから、これは便宜的に使うものであって、実態の反映された呼称ではない。

平頼綱を、後に活躍した長崎一族の一環と考えるなら長崎と冠してもいいと思う。
もし別系統として別個に把握するんなら、ほかに苗字がないだろうから、
慣用に従って「平」にしておけばいいと思う。
頼綱個人は歴史通か史学者が知っていれば十分な人物で、
この問題は提起するまでもなく既知だと思われるので。

もっと問題なのは、頼綱の次男が「飯沼」姓で呼ばれてることだと思う。
彼のばあい、一代で亡んでしまったし。
89日本@名無史さん:02/04/04 06:01
>88
あのさあ、そういうレベルの話じゃないの。
『吾妻鏡』正嘉2年正月11日条
十一日辛酉。被撰定御的始射手。(中略)
 一番 二宮弥次郎時元 知久左衛門五郎信貞
 二番 小笠原彦次郎政氏 横路左衛門次郎長重
 三番 平新左衛門三郎頼綱 加久帳小次郎
 四番 周枳兵衛四郎頼泰 小島弥次郎家範
 五番 多賀谷弥五郎重茂 横溝弥七郎
 六番 藤沢左近将監時親 横溝七郎五郎忠光
 七番 岡本新兵衛尉重方(遅参初五度不射之)
平頼綱としか、しようがないじゃん。もしこれが認められないんなら
平盛時など歴代被官も考え直さなくちゃいけないし、それだけじゃない。
前近代の人名殆どがおかしいってことになる。足利尊氏も徳川家康も。

金沢とは全然わけが違うよ。
金沢名乗り始めるのは貞顕からだけど、実時は称名寺も建ててるし
金沢に退隠してるし金沢文庫つくってるし、とまあ金沢に由緒深いし、
実際金沢称名寺殿って呼ばれてるし、実泰は系譜上分岐的位置にあるから、
まあ許されるだろう。

しかし頼綱を長崎とするのは、例えてみれば水戸家光っていうようなもので
全くおかしい。死者に対する冒涜である。とは言い過ぎか?
飯沼のほうがまだマシだ。子供が名乗ってるんだから。
しかしこれだっておかしな話だ。田安(あるいは一橋)吉宗とはいわんからな。

PS 飯沼の何が問題かわからん 嫡子以外の別家などよくあることだろ
90日本@名無史さん:02/04/05 21:02
>>87
>新左衛門尉を略す場合は、平頼綱ではなく、長崎頼綱と記すべきだろう。

根拠を示しなさい。
91歴史の勉強:02/04/05 23:38
だからとりあえず「平頼綱」とする分には問題ないんでしょ?
実否は知らず、彼らが平氏の末裔だと自称してたんでしょうから。
北条泰時と「平泰時」としたって、間違いとは言えないんだから。

まあ、頼綱一統のことはあまり注意しなくてもいいのでは?
飯沼助宗にしても、少なくとも中級以上の人じゃないと憶える必要もないでしょうから。
中学高校レベルだったら、憶えなくてもいいような人たちでしょう。
「平頼綱」「平宗綱「飯沼助宗」「長崎円喜」が親戚だってことは、
この時代の本を読む人なら既知であろうし。
「長崎頼綱」と書いても、これが悪名高い「地獄の湯」の主と別人と思う人もいないでしょうから。
92日本@名無史さん:02/04/06 00:26
平新左衛門尉"長崎"頼綱
ややこしいから長崎をミドルネームで行こう!!!
...だめ?
93日本@名無史さん:02/04/06 01:21
>91
分かんない人だなあ。とりあえずじゃないってば。
平泰時や源尊氏とは訳が違うんだよ。
平頼綱としか書きようがないの。
あなたは89で挙げた記事見てもまだ、平が名字とは認められないわけね。
それじゃあ、もう87と同類と見なすほか無い。
中級以上の人って何? あなたは上級な人間なの?

個人を識別できるならどう呼んでもいいというのならもう議論の必要はない。
私は長崎頼綱と呼ぶことは史実に反するから誤りだといっているのであって
どう呼んでもいいのなら別に飯沼頼綱だろうがどうとでも呼べばいい。
94歴史の勉強:02/04/06 10:47
上級じゃあなかんべえ。だっておれ門外漢だし。
少なくとも日本歴史研究で食ってこうとは思わない程度の人間。

おれの言い分も伝わってないようだ。
おれは「平頼綱」は問題ない呼称のはずだ、長崎頼綱に統一するのはまだ問題がある、
と言ってるつもりなんだが。

ただまあさ、史学者でない人間としては、わかりやすい統一された呼称が欲しい。
わかりにくい呼称が多いもん、日本の歴史って。
宗尊親王を、いきなり「中書王」と書かれてもわからないじゃないさ?
余談だが、「清少納言」とか学校で暗記させる必要ってないよなあ。

平頼綱のことで思ったんだが、足利庶流の「斯波氏」も同じじゃないか?
あれはもともと足利姓で呼ばれてたと思うんだ。
太平記の中でも「足利尾張守」(高経のこと)と呼んでる。
吉良にしても、鎌倉時代は「足利」と呼んでた。
でも、鎌倉時代の斯波先祖&吉良先祖は子孫の苗字で呼んでるじゃない?
これと同じ便宜を図るのは絶対的にいけないってことは無いと思うんだけど……。

ただ、おれはこの問題が決着するまで「平頼綱」を使う。
長崎頼綱では誰かわからん人が多いだろうから。
95日本@名無史さん:02/04/06 11:39
>>94
斯波高経が足利ともよばれていたのは知っているけど、
斯波と名乗ったことはないの?
96日本@名無史さん:02/04/06 14:04
大河が平頼綱を悪人風に描いていたなら、それは創価の圧力。
97歴史の勉強:02/04/07 00:27
足利一門でも、斯波が一番ハッキリしませんねー。
「武衛」とされる本も多い。斯波ってのは当時統一的に使われてなのかね?
あの家は「志和」とも呼ばれてるから、いまいち不鮮明。

ほかの足利一門の姓はかなり早い時期から使われていたと思う。
宗家・斯波家に次ぐ名門だったはずの吉良家は南北朝期には定着してたと思う。
ただ、鎌倉時代に守護にもなった吉良満氏は足利姓だった可能性が高い。
斯波と吉良は長男が分家した家だから家格が高いんだよね。
畠山はもともと畠山重忠の家系に養子入りして嗣いだもんだから鎌倉時代から、
渋川も御家人に認定されていたろうからやっぱ鎌倉以来。
高はもともと別の家。仁木・細川・今川も南北朝期には定着してたと思う。

武家の名字って、常に問題を含んでる。どんどん分家しちゃったからだろうなあ。
98日本@名無史さん:02/04/07 03:02
>94
しつこくて申し訳ないが
>「平頼綱」は問題ない呼称のはずだ、長崎頼綱に統一するのはまだ問題がある、

俺はあんたの意見は分かってるつもりだ。
問題あるとか問題ないとかじゃなくて、平頼綱しかない。
長崎頼綱なんてのは中書王とは訳が違う。中書王は史実だが長崎は誤り。
あなたはまだそれに疑問があるようだから、それはあんたの自由だし別にかまわん。
但し俺から言わせればそれは水戸秀忠って言うのと同様非常に間抜けな話だということだ。

斯波氏に関して言えば、泰氏の長男家氏が陸奥国斯波郡を所領としたのに
始まるから問題はない。いろいろ書きたいこともあるが
ご存じかもしれんが小川信『足利一門守護発展史の研究』
を参考文献として挙げておくに留める。
長崎と縁がないのにその名を冠せられる頼綱はお気の毒なこったと個人的には思う。それだけだ。
99日本@名無史さん:02/04/07 11:20
斯波が「武衛」と呼ばれるのは、
足利将軍家が「室町殿」とよばれるのと同様でしょう。
100歴史の勉強:02/04/07 12:10
ついでに、100もらいま〜す(サザエさんの口調)。

足利さんのお分家・斯波さんほど面倒かつ厄介な武家もない。
斯波は陸奥の国の郡名なのに、大崎は房総の庄園名から来てるというから。
これこそ「便宜的」な呼称なんでしょうね。

足利さんの親戚だと、うざいのが上杉氏。
山ノ内とか扇ガ谷とかを冠して呼ばにゃならんから。
あれだって「扇ガ谷氏」「山ノ内氏」とは言えないもんねえ。
山ノ内氏とか言っちゃうと、「山ノ内」首藤氏と紛らわしい。

室町殿は、感覚としては鎌倉殿と同じだったでしょう。
武衛は、細川嫡流の「京兆」と同じだと思う。
家の呼称としては、足利嫡流は「将軍家」でしょうね。
101チリから来ました〜:02/04/07 15:24
平頼綱でいいでしょう。
昔の武士が地名を名字にしたのは、そこの所有権を強調するため。
したがって、北条氏の家人の頼綱は、地名を名字にする必要性はなかった。
多分、平家の子孫ではなかったのかな。平家は壇ノ浦で全滅したわけではなく、捕虜になった一族もいたのでしょう。
それを、北条時政が家臣にしたと思います。北条氏は伊豆の小豪族から、急激に勃興し、家臣を増やす必要あったし、
敗者の平氏一族なら、扱いやすかったと踏んだのでは?
102日本@名無史さん:02/04/08 01:57
長崎頼綱の方が的確だろう。
103日本@名無史さん:02/04/08 05:12
そうだね。長崎頼綱に決まってるよ。
104日本@名無史さん:02/04/08 14:40
またかよ。
105日本@名無史さん:02/04/08 19:16
平頼綱は、本姓表記だから駄目。
長崎頼綱は、後世による名字だから駄目。
しかし、どちらかというならば、条件付きでということで、
長崎頼綱の方が歴史的に妥当だろう。
106歴史の勉強:02/04/08 22:58
僕が「平頼綱」より「長崎〜」としたい理由は、
そのほうが彼の属性がハッキリすると思うからです。
苗字って、今では記号みたいになっちゃってますが、
昔はあれでその人の「位置づけ」がわかるものでしたからね。
頼綱のばあい、彼の父祖の代はよくわかりませんし、
得宗専制時代に台頭した長崎一族の親戚だってほうが彼を理解しやすいと思うから。

それに、長崎姓の由来は不明瞭ですが、
伊豆の田方郡に「長崎」って地名があるので、苗字としてたかは不明ですが、
「家」を表す称としてはかなり遡れるんじゃないかと思うからです。

やっぱり長崎一族はまだまだ謎に満ちています。
107日本@名無史さん:02/04/08 23:01
すまんが、長崎一族が頼綱の親戚だという理解の方がわかりやすいがね。
自分の頭に都合がいいから、といって勝手にお話つくるんじゃなくて
もっと史料に忠実な方がいいと思うよ。長崎となのった事実がないなら
そのままにしといた方がいい。
108天之御名無主:02/04/08 23:21
なぜにも この話題にこだわるか
いまとなっては興味の先はそこにありますが、
ドラマの中で「平」とよばれることには
なんの問題もありません。日蓮遺文に残ってますので、
当時の人は「平」とよんでいたのでしょう。
109日本@名無史さん:02/04/09 03:00
平頼綱なんていねえよ
長崎頼綱だよ
110日本@名無史さん:02/04/09 09:23
単なる野次馬なんだけど、ちょっとまとめて見ると・・・
・史料上は「長崎頼綱」という表記は現存せず、「平頼綱」である。
・史料上、他者が明らかに苗字で表記されているところでも、彼は「平頼綱」である。
・彼は長崎一族であるらしい。

ここで彼を何と呼ぶか、という以前に、果たして史料にある「平頼綱」の
「平」とはいったい何であるかについて、2つの説が提唱されている。
・「平」は氏である。
・「平」は苗字である。

続く。
111110:02/04/09 09:24
「『平』は氏である」説
普通に考えれば「平」は氏であることは明白である。平頼綱は平氏であり、
また苗字を持たなかったため、このような表記になっている。
もしくは何らかの理由で苗字で呼ばれなかった、または、苗字での
表記がされなかった(彼が最後には謀反人になったことには何か関連がある?)

*この説の難点*
当時は既に苗字が普及していた時代であり、彼が苗字を持たなかった、
というのは不自然である。また、幕府は(朝廷に対抗して?)氏ではなく
苗字を通用させていたらしいので、ますます不可解である。
吾妻鏡によれば彼は「平新左衛門三郎頼綱」と表記されているが、
仮に「平」が氏ならば「新左衛門三郎平頼綱」となるのではないか?

続く。
112110:02/04/09 09:24
「『平』は苗字である」説
「氏である説」の逆であるが、彼のみが氏を名乗っていたのは変である。
また「平新左衛門三郎頼綱」という表記からも、「平」が苗字であることは
明らかである。

*この説の難点*
氏が苗字化した例というのは他にもあるが、「平」という苗字を彼があえて
使った理由は?「平」は幕府において特別な意味を持っていると思われる
(源平合戦や、御家人には平氏が多い)のに、波風の立ちそうな、
氏とも混同されるような苗字をあえて使った意図は?

続く。
113110:02/04/09 09:24
とりあえず、自分自身の理解を深めるためにまとめてみたのだけれど、
こうやって見ると、「『平』は苗字である」説の方に分がありそうな
気がする。
で、何か誤解があったら教えてください。
長くなっちゃってすまん。
114日本@名無史さん:02/04/09 12:23
>112
他の過去スレにもあったけど、
当時ほかに壱岐守護代も平景隆といい、「平」だった。
つまり幕府が苗字を云々というのは根拠がない。
115天之御名無主:02/04/09 13:11
平頼綱ではなくて、松平頼綱です。
116日本@名無史さん:02/04/09 21:26
幕府関係の要人(あいまいな言い方ですけど)で、苗字を持たなかったこと
が確かな人って、どれだけいるのでしょうか?
私は、源家の人たちを除けば、大江広元くらいしか知らないのですけど。
117日本@名無史さん:02/04/09 22:23
>>110
>「平」は氏である。
>「平」は苗字である。
何が違うんだ?同じ事言ってねーか?
訳のわかんねーこと書くんじゃねーよ。
118日本@名無史さん :02/04/10 00:27
>117
>>110の言っていることは同じことではないのです。
氏と姓と苗字(名字)は本来は違うものだったのです。

例えば
毛利陸奥守大江朝臣元就
の場合は
毛利は名字(名字)
陸奥守は官職
大江は氏
朝臣は姓
元就はいみな(漢字を忘れた。スマソ)
119日本@名無史さん:02/04/10 02:52
>>110
>史料上は「長崎頼綱」という表記は現存せず、「平頼綱」である。
史料上は「平頼綱」という表記は無いよ。
頼綱の死後なら「長崎頼綱」の表記の史料の方がある。
平頼綱の表記はなく、長崎頼綱は後世のものだから論議になってるんじゃないの。
120日本@名無史さん:02/04/10 04:47
長崎頼綱に決定
121日本@名無史さん :02/04/10 04:56
史料的には、「平頼綱」はありえない。
頼綱死後の史料では「長崎頼綱」はある。

伊勢長氏:○○頼綱
北条早雲:長崎頼綱
122日本@名無史さん:02/04/10 11:50
だからナに?
北条早雲は間違いだろ。
だから、長崎頼綱も間違いだといいたいのか?
12382:02/04/10 12:10
>>119、121
 「長崎頼綱」という表記のある史料といっても江戸時代のものだろう?
頼綱よりも円喜の方が有名になってしまい、頼綱はその親戚だから
一括して「長崎」と処理されてしまったんでは。
 「平頼綱」という表現はなくとも、「平左衛門尉頼綱」などはあり、
これは「平左衛門尉・頼綱」よりも「平・左衛門尉・頼綱」と考えるほうが
自然だと思うが。ほかにも頼綱を「平入道」「平禅門」と表現している史料は
存在し、当時の人々が「平」で頼綱を指していたのは自明。
 「長崎頼綱」は単なる後世の誤解だろう。例えば「北条時宗」を「赤橋時宗」と
表現してしまうのと同じくらいには変だと思う。
124日本@名無史さん:02/04/10 14:26
また結論がでたようだね。
125日本@名無史さん:02/04/10 14:32
長崎円喜=フランキー堺
長崎高綱=西岡徳間書店
これ定説
126日本@名無史さん:02/04/10 20:07
で、結局、平は氏なの、苗字なの?
127日本@名無史さん:02/04/10 20:39
ハチに敬意を表して北村頼綱でどうよ?
1281:02/04/11 01:55
結局、この話になっちゃうんですね(w。

平禅門ってなんて発音するんですか?
私は平頼綱から「たいらのぜんもん」って読むのだとばかり
思っていたら「へいぜんもん」と読む人がいて混乱に拍車が
かかったのですが…

> これは「平左衛門尉・頼綱」よりも「平・左衛門尉・頼綱」と考えるほうが

 源九郎義経を「みなもとのくろうよしつね」とか「げんくろうよしつね」と
呼ぶようなものですね。この場合は、どっちにしても源義経って呼ばれて
いますね。他の呼び方を挙げる人も、この場合はいないようですが。
129日本@名無史さん:02/04/11 07:10
長崎頼綱マンセー
130日本@名無史さん:02/04/11 11:12
頼綱の家は盛綱もそうだし、平盛時がこの一族なのかどうかわかんないけど、
やっぱ文官だったんじゃないの?京からきた人だっりして。だから、先祖伝来の所領じゃなくて
官職でよぶことが多かったんじゃ。だから平そのままで通用してたとか。
時政の旗揚げのときにはそれらしい人はいないんじゃないかな。
131日本@名無史さん:02/04/11 11:21
>>123
赤橋時宗と書く人はあまりいないだろうけど、赤橋重時ならやりかねない。
金澤義時とか。

132日本@名無史さん:02/04/11 19:43
>>130
大江広元みたいなもん? 彼も氏で呼ばれてるもんね。
大江広元のように最初は文官だったけど、その子孫は武士化して毛利とか
になってるけど、それと同じような感じ? 最初は文官で平という氏で
呼ばれてたけど、じきに武士化して長崎とか飯沼とか呼ばれた、と。
話の筋は通るけど・・・史料の裏付けが無いと、たんなる推測以上の
ことにはならないか。
133歴史の勉強:02/04/12 00:06
平左衛門が悪いやつ? って議論はどこ行った?
もちろん、僕も「平」「長崎」問題を加熱させた責任はあるのですが。

平か長崎かは、どっかで学者が会議して統一してってほしいです。
物理単位が「メートル法」で統一されてるみたいにね。
これからは日本史の研究がもっと進み、こちらの方々のような「通」でない
まったく教養とは程遠いお姉ちゃんなんかも頼綱を知る時代が来るだろうから。
また、今までは日本史は外人にあまり知られてなかったと思いますが、
将来は必ず日本史が世界全土の歴史研究の「参考」(註)になる時代が来る。
そういう時に備えるためにも、早い内に解決を見てほしい問題です。
外人さんが混乱すると困る。
歴史上の人名表記も、小説家が使う分には勝手ですが、
学術用語は統一する方向に向かってほしいですね。

(註)たかが戦後50年の経済発展を参考にする、程度のケチなものではなく、
日本の歴史も、海外のいろんな土地の歴史を探究する上で有効であるということ。
134日本@名無史さん:02/04/12 04:38
>132
推測じゃないよ。それであってる。

>133
統一されてるだろ。
今でも長崎って書いてる研究者がいるのなら教えて欲しい。
135日本@名無史さん:02/04/12 11:24
またまた結論が出たね。
というよりも、
結論が出ても、意味無くむしかえす愚か者がいるね。
136日本@名無史さん:02/04/13 01:35
源三位頼政(げんさんみよりまさ)
帯刀先生源義賢(たてわきせんじょうみなもとのよしかた)
137日本@名無史さん:02/04/13 07:17
で、結局やつは悪者なの?
138日本@名無史さん:02/04/13 09:13
歴史上の人物の善悪、なんてほとんどナンセンスだろう。
個人的は好き嫌いならともかく。
139日本@名無史さん:02/04/13 18:00
>>114
壱岐守護代平景隆って平内(へいない)景隆のこと?
140歴史の勉強:02/04/13 23:33
平頼綱はそんなに人気ある人物とも思えないけど、
あれは得宗の専制化に反発する当時の人の気持ちがあったのかなあ?
御内人は得宗の先兵となって専制化を推進したからね。
憎まれ役、と言いますか。

日蓮を弾圧したのは事実だけど、あれは頼綱の一存じゃないから。
宗教団体への弾圧は当時非常に多かった。
また、大河ドラマの中でチラッと言ってたけど、頼綱は念仏宗の信者だったから。
この辺に関しては極楽寺の重時も似たようなもんだったと思うけど。
ホントのとこは、得宗家に反発する名越氏が日蓮を助命したのだそうです。
のちに対立するようになったけど。
こういう宗教への偏見はまずいと思うんだが。

大河ドラマは「ウソ」作りすぎ。
いいとこは北村一輝のおかげで頼綱が人気者になったとこかな?
141日本@名無史さん:02/04/16 14:16
>139
142日本@名無史さん:02/04/16 20:51
我々は1が何故このようなスレッドを立てたのかという疑問を解決するため、
1の故郷である神奈川県鎌倉市に向かった。「日本にこんなところが
あったのか…」
思わず口に出てしまった言葉を同行した友人に失礼だと咎められた。
市街を歩き回る鎌倉の大仏、道端で殺し合いをしている平頼綱と安達泰盛、
ツギハギだらけの服を着ている奥田瑛二、ダブルブッキングを怒られている
執権北条時宗、そしてモンゴル兵に襲撃されている鎌倉市役所。
彼らは魔獣の様に破壊と殺戮を楽しんでいる。
阪神快進撃だの、ムネオハウスだの、サッカーW杯だので
浮かれていた我々は改めて鎌倉の現状を噛み締めていた。
モンゴル兵に放火され半ば焼け崩れた家に倒れていたのは老いた母親一人。
助け起こした我々を見るなり全てを悟ったのか、涙ながらに
「息子が申し訳ありません」と詫びながら息を引き取った。
我々はこの時初めて1を許そうと思った。誰が悪い訳ではない、
鎌倉の悲惨な現実が全て悪かったのだ。我々は1の母親から
切り取った遺髪を手に、打ちひしがれながら東京へと帰路についた。


1431:02/04/16 23:41
>>142
禿布くワラタ
鎌倉出身じゃないけどな
144日本@名無史さん:02/04/17 13:59
>>142
つまらん
145日本@名無史さん:02/04/20 17:32
〔平頼綱略系図〕 『系図纂要』関氏系図による

 平清盛─重盛─資盛─盛国─盛綱─┐
 ┌───────────────┘
 │ 平左衛門尉
 │ 杲円 ┌宗綱
 └┬頼綱─┤
  │   └助宗(頼盛とも記す)(飯沼)
  │       安房守
  └光盛─光綱─高綱─高資─高重(長崎)
146北村頼綱:02/04/21 01:57
飯島愛さんと親しくなりたい。
147日本@名無史さん:02/04/22 00:49
>145
ネタなんだろうけど一応突っ込んでおくね。
織田氏をはじめとして資盛に系をつなげる氏が間々あるけど
全て偽系。
内管領平氏は正度の子正衡(清盛の曾祖父)の兄弟の子孫。
148日本@名無史さん:02/04/22 12:33
ふーん
149日本@名無史さん:02/04/24 22:31
結局のところ、盛綱や頼綱は、京から招聘されて得宗家の被官となった
文官(の子孫)であった。武士ではなかったこともあり苗字は持たなかった。
ただ、幕府内では苗字が一般的に通用していたため、それに合わせるため
盛綱や頼綱の氏である「平」を苗字的に使ったことがあったかも知れない。
また、その子孫は武士化して長崎・飯沼などという苗字を名乗った。
というあたりが妥当な線でしょうか?
150日本@名無史さん:02/04/24 22:38
>>147

あんまり関係ないけど、どうして資盛は偽系図のダシとして人気あるんだろうか?
通盛や有盛じゃやっぱり地味なのかな。
151日本@名無史さん:02/04/24 23:22
>>150
女癖が悪かったとか……
152日本@名無史さん:02/04/24 23:25
平頼綱って、2ちゃんの荒らしと同じキャラだな!
153日本@名無史さん:02/04/24 23:41
>>149
というより、本来は地方の土豪だった北条氏と、かなり初期の頃から
家臣的な関係にあったと思う。そのため、さしたる家でもないにも
かかわらず、北条家の内管領になり得た。
長崎氏の系図によると、長崎氏の祖とされる盛綱は、平重盛の孫の
関盛国の子となっているが、怪しい。
長崎平新左衛門尉平三郎盛綱が官位をもらう際に、関氏や、また平氏
への系譜を作ったのが真相ではないか。
長崎平新左衛門尉盛綱の長子が、このスレの主人公の
長崎平左衛門尉盛綱(長崎平左衛門尉入道果円)。

 長崎盛綱===長崎頼綱===長崎宗綱
           +=飯沼為綱
           +=長崎頼基
      
      +=長崎光綱===長崎光綱===長崎高綱(円喜)===長崎高資 
154日本@名無史さん:02/04/24 23:59
>>153
 とりあえず頼綱に「長崎」の苗字がつけられている同時代の史料を
出してくれ。そうでないかぎり全く信用できない。
 同時代は頼綱存命中がベストだが、鎌倉幕府滅亡までの文書なら可としよう。
江戸時代に書かれた系図・文献は論外だぞ。
 どうも長崎説の人は議論を蒸し返すわりに根拠が弱い。
155日本@名無史さん:02/04/25 06:14
>>154
同意
156日本@名無史さん:02/04/25 11:50
出せるわけないよ。
妄想でしかないんだもん。
157日本@名無史さん:02/04/25 12:33
>>156
これまた同意
158日本@名無史さん:02/04/26 01:52
頼綱については

平頼綱:同時代にも後世にも史料無し。
長崎頼綱:同時代無し。後世にあり。

つまり、同時代の史料からは、平とも長崎とも言えない。
後世の史料においては、長崎になる。
159日本@名無史さん:02/04/26 03:23
>149
かなり妥当です。

>150
清盛の嫡孫は維盛だけど、例の富士川の陣の失敗とかあるから
先祖としてはちょっと、って感じなんでしょう。
で、弟の資盛に白羽の矢が、ってところじゃないのかな。
維盛同様頭中将にまでなってる貴人だし。
160日本@名無史さん:02/04/26 11:21
>>158
まだ言ってる。
進歩が無いね。あんたの主張で正しいのは、
>長崎頼綱:同時代無し。後世にあり。
だけ。

それとも本当に理解できないのか?
161日本@名無史さん:02/04/26 11:41
>>158
その論理で行くと「北条時宗」も「安達泰盛」も同時代では存在しないのでは?
鎌倉期の史料では「苗字・実名」の組み合わせは見たこと無いような……
だいたい「苗字・通称(または官職)・実名」 「苗字・通称(または官職)」
「通称(または官職)・実名」 「官職・氏姓・実名」 「氏姓・実名」 「氏・実名」
「通称のみ」 「官職のみ」 「実名のみ」 のどれかの表記になる。
162日本@名無史さん:02/04/27 02:11
結局、平頼綱説は、史料も根拠も無いみたいですね。
163日本@名無史さん:02/04/27 09:52
この時代については史料が乏しく不明な点が多いね
164日本@名無史さん:02/04/27 14:52
しかし「長崎頼綱」派もしつこいね。
同時代の史料として「○○平○○頼綱」(○○は官職や通称など、ない場合
もある)と表記されているものは多数あるのに、「○○長崎○○頼綱」と
表記されているもの無い(あくまで同時代の史料で)
これだけ明白なのに、「長崎頼綱」説はどこから出てくるんだ?
165日本@名無史さん:02/04/28 08:12
>どこから出てくるんだ?

妄想でしょ
あとはよくある、役所根性っていうの? 一度言い出したことは
間違いと分かっても改めない。哀れだねえ。
166日本@名無史さん:02/04/29 09:00
長崎派の名字が、
長崎くんていうんじゃないの?
167 :02/04/29 09:51
>北村一輝は海賊になりたかったらしいから、そっち方面の役で
>大河ドラマに出してやってほしい(w

じゃあ、実写版ワンピースを製作するときは出してやれ。
168日本@名無史さん:02/04/29 14:44
どっちでもいーんじゃないの?
169日本@名無史さん:02/04/29 15:48
どっちでもいーのは君の頭だけ。
170日本@名無史さん:02/05/07 01:39
頼綱に長崎を冠するだとか、資盛につなげるとかは仮冒でも
関氏が長崎氏の子孫てのは事実なんだろうと思って、長崎派の言い分聞いてたんだけど
調べてみたらそれすら出鱈目なんじゃねえか。ああ、アホクサ。
もう少しで間違った知識教えられるところだったよ。
長崎派ってろくなもんじゃねえな。江戸時代の系図贋作屋と同類。
171とりあえず:02/05/08 01:33
age
172日本@名無史さん:02/05/10 23:07
長崎頼綱を平頼綱というのは、京極道誉を佐々木道誉というのと同じだろ?
173日本@名無史さん:02/05/10 23:36
まだ言ってる‥‥
174日本@名無史さん:02/05/11 21:10
執権殿が危機だというのに8は何をしてるんだ!!
175日本@名無史さん:02/05/15 20:20
age
176日本@名無史さん:02/05/15 21:42
頼綱と言えば頼政のじいさんだよなあ、やっぱ。
177日本@名無史さん:02/05/15 21:50
雷光?
178鎌倉頼朝:02/05/17 20:29
やっぱ長崎だよな
179日本@名無史さん:02/05/21 15:30
ところで、長崎氏の初見は誰ですか?
頼綱とかいいうのはやめてね。
180日本@名無史さん:02/05/22 06:24
長崎頼綱が史的には妥当だろう。
181日本@名無史さん:02/05/22 11:25
予想どおり、また出たね。
182日本@名無史さん:02/05/22 15:50
ホントしつこいよね。
183日本@名無史さん:02/05/26 02:30
>179
時綱
184日本@名無史さん:02/05/26 18:33
まだ、このクソスレあるのかよ(W
北村頼綱でいいじゃん。
185平家清盛:02/05/27 23:39
>>184に賛成
186平泉義経:02/05/27 23:53
反対
絶対長崎だね
187ここをみよ↑:02/05/28 13:26
筧雅博 「平頼綱の時代」
(『日本の歴史10 蒙古襲来と徳政令』.講談社.2001年.p201以下)

ttp://www2.justnet.ne.jp/~jingu/kakehi-masahiro-yorituna.htm



長崎」を名乗る御内人は、平頼綱の父の代に、平左衛門尉の家から分かれた
、いわば庶子流であるが、兼時とともに六波羅に入ったと見られる人々の中
に、長崎新左衛門入道性杲(しょうこう)なる人物がいた。頼綱の従兄弟、
長崎左衛門尉光綱(みつつな)は、朝廷方の訴を得宗に取り次ぐ、五人の御
内人のメンバーにえらばれており、六波羅に入った新左衛門入道性杲は、た
ぶん、光綱の兄弟であろう。第二章「錯綜する領域支配圏」で触れたように、
探題の家人は、六波羅侍所(検断方)の上級職員として、洛中洛外の検断に
あたり、また探題分国の守護代を兼ねるのをならわしとしたが、性杲の場合、
そのような伝統的職務以外の権限が備わっていた形跡がある。
188だよね:02/05/28 17:33
源尊氏が足利尊氏
平時宗が北条時宗なら
平頼綱は長崎頼綱
189日本@名無史さん:02/05/28 20:30
>>188
んじゃ、源頼朝は?平清盛は?大江広元は?
190日本@名無史さん:02/05/28 22:15
保科正之は、父が徳川秀忠であるにもかかわらず、養子先の保科姓で死ぬ。
子孫は徳川一門の松平姓を名乗っているが、正之は保科のままである。
決して松平正之に訂正?されてない。
以上
191日本@名無史さん:02/05/28 23:01
>>190
で、それがどうかしたの?何を言いたいのかさっぱり意味がわからん
のだけど。保科も松平も徳川も苗字でしょ?
192日本@名無史さん:02/05/29 00:22
>179
時綱
193日本@名無史さん:02/05/29 00:38
>>189
だからぁ(w
伊豆頼朝、または鎌倉頼朝
六波羅清盛なんだよ
たぶん
194日本@名無史さん:02/06/06 12:14
徳川家康=豊臣家康
だよね。ある時期。
で、羽柴家康だっけ?
195日本@名無史さん:02/06/17 08:42
保全age
196日本@名無史さん:02/06/19 01:07
鎌倉時代、人を氏+諱で呼ぶのは間違っていない。
故に、平時宗・藤原泰盛・源家時などはいずれも間違いではない。但し
今の歴史用語では同じ氏の区別のため名字+諱で,北条時宗・安達泰盛・足利家時などと
便宜上呼ぶのが普通
(本当は>>161のとおり、リアルタイムではこの二つが連続して呼ばれることはなく
 【名字+通称】+【氏+諱】だったらしいが)。

頼綱の名字が「同時代の史料からは、平とも長崎とも言えない」のであれば
例え時宗や泰盛や家時とは呼称のルールが違っていても
氏+諱で「平頼綱(たいらのよりつな)」と呼ぶしかない。

なお、名字がない可能性は本当に否定できるものか?
高師氏(こうのもろうじ)の「高」は、氏の「高階」を唐風に短く言ったもの。
名字と言えるかどうか?
197日本@名無史さん:02/06/19 11:30
>>196
高氏ってたしか「高階⇒大高⇒高」ではなかったっけ?
そうだとすれば、苗字といって良いのでは?
198日本@名無史さん:02/06/20 00:32
そういえば、一般的に読みで氏と諱の間には「の」が入るって話しが
どこかにあったけど高師氏の場合は「の」が入っているね。謎が
1つ増えた?
199日本@名無史さん:02/06/20 11:48
本姓高階を略して高を名乗ったのがもともとだが、
「高」で「こうの」という苗字に転化した。
200その当時:02/06/20 22:59
平禅門って呼ばれてたから長崎ではありえないのでしょう。
長崎は頼綱がいきてたその当時、諸流だったから苗字で呼ば
れてた。それが平禅門の乱で滅んで変わりに長崎流がその地位
〔家令、内管領〕をついだ。
201日本@名無史さん:02/06/21 19:13
頼綱みたいなDQNを重用した時宗がボンクラってことでよろしいか?
202日本@名無史さん:02/06/21 20:04
っていうか、モトヤがぼんくら。
203和泉節子:02/06/21 20:24
>202
フッ、貧乏人が何を・・・
204日本@名無史さん:02/06/29 19:37
保全age
205正しくは:02/07/02 02:24
長崎平新左衛門尉頼綱
ながさき・へいしんざえもんのじょう・よりつな
206日本@名無史さん:02/07/13 10:15
保全age
207しったかぶり:02/07/13 19:14
霜月騒動に詳しい本はどれでしょうか?「北条九代記」?
 頼綱の恐怖政治はどの程度のものだったんでしょうか?
又、霜月騒動の時頼綱の手先となって働いた御家人の名前を教えて下さい。
208歴史の勉強:02/07/13 20:49
>198さん
姓名間に「の」が入るのは、いわゆる「うじ」だけとは限らないよ。
たとえば千葉氏の一族に「東」(とう)ってのがいますが、
これも姓名ともに呼ぶ時は慣用的に「の」を入れるね。
一番有名なのは東常縁(とうのつねより。じょうえん)ですね。
歌人として有名で、宗祇の師匠、1455年に幕張城を攻略している。

ただ、鎌倉時代あたりだと「の」を入れるか入れないかはハッキリしてなかったらしく、
和田義盛だって、「和田の義盛」とも呼ばれていたらしい。
武士の苗字はもともと地名なので、不分明なんでしょうね、境界が。
梶原景時も「の」が入ったり入らなかったりするよね。
どっかで境界線を設けてほしいな。
漢音一字で名字をますものだけ便宜的に「の」をはさんでよい、とか。
209日本@名無史さん:02/07/18 19:59
とよとみのひでよし
210日本@名無史さん:02/07/18 20:28
このスレの息の長さにチョッピリ感動したので保全age
211日本@名無史さん:02/07/18 21:17
>>208
苗字で「和田の」や「梶原の」など、「の」をつけるのは軍記物の影響。
平家物語が琵琶法師などによる語り物になって行く過程で、「の」を
つけたほうが緩急ついて、読みやすいから敢えてつけているだけでは?
やはり名字(苗字)はのをつけず読むのが通例だったかと。
212日本@名無史さん:02/07/18 22:16
悪く言われるのは、1.日蓮を弾圧した。2.本格的に徳政令を実施した、
安達泰盛を倒した。以上の2点が災いしたわけで、あとはどれほどの恐怖
政治であったかは疑問と思います。
仮に、恐怖政治であったにせよ、誰にとって恐怖だったかが問題です。
おそらく、日蓮宗と有力御家人にとって恐怖だったということかと思います。
他の、一般民衆には関係ないと思うのですが、いかがで
しょうか
213(^0^):02/07/24 05:13
長崎頼綱は最高だよ
214長崎頼綱:02/07/31 12:44
平頼綱って誰?
215長崎光綱:02/08/01 03:40
まだこのスレあるんだな(W

頼綱は、「平新左衛門尉頼綱」
名字は伝わっていないが、一族の子孫が長崎頼綱としているから、
それが正解。
平頼綱は本姓の名称で、名字とは別。
216日本@名無史さん:02/08/01 06:44
またヴァカ発見
217ずらもりたか:02/08/01 12:38
どーでもいい
218:02/08/06 00:36
はぁーーい

ボク、長崎頼綱です。
平頼綱なんて呼ばないでね。そんな記録は無いんだから。
219sage:02/08/06 00:52
無限ループみたいなスレだね。
末期症状?
220日本@名無史さん:02/08/06 01:20

こんにちは、平禅門です。

221長崎頼綱:02/08/06 03:25
勝手に後世の一部の人が、平頼綱なんて呼ぶけれど、
僕は、長崎一門だからね。
222(^0^) :02/08/06 03:30
長崎頼綱クンは最高だよ
223安達泰盛:02/08/07 03:36
まだやってるの?
長崎党と平党の諸君。
224北村一輝:02/08/07 08:09
不毛の議論はやめて
ハチと呼びませんか
225日本@名無史さん:02/08/07 12:14
日蓮の性格、どうみても日本人じゃありません。
他宗の弾圧を政府に強制するなど、えげつないにも程があります。
彼はおそらく千葉県に流れ着いた朝鮮人でしょう。
チョンが日本の慣習を無視して騒ぎ出し
政治権力を利用して日本をめちゃくちゃにしようとしたのです。
もし、当時の北条政府がチョンの新興宗教に洗脳されていたら、
と考えると、恐ろしいものがあります。
おそらく日本の仏教文化は壊滅的な打撃を受けたことでしょう。
だから日本人、平頼綱は危機意識をもって日蓮を弾圧したのです。

同様に、織田信長もあの激しい性格から察するにチョンです。
彼はおそらく愛知県に流れ着いた朝鮮人でしょう。
私も「信長は朝鮮人だった」というスレを見て初めて知った史実です。
だから、日本人である明智光秀は危機意識をもって
本能寺の変を断行したのです。日本のためでした。

ついでに幕末に尊皇攘夷を唱えた徳川斉昭、あれもチョンでしょう。
彼はおそらく茨城県に流れ着いた朝鮮人です。
攘夷だなんて李氏朝鮮と同様の主張をしてました。
だから日本人、井伊直弼は安政の大獄を断行せざるをえなかったのです。

平頼綱 明智光秀 井伊直弼
これらの人々を我々は悪役と見なします。
そんなことはありません。彼らこそ、日本の朝鮮化を企む
不逞鮮人どもから日本を救ってくれた英雄です。
もっと評価すべきなのです。
226長崎党の平新左衛門尉頼綱 :02/08/07 19:48
>>225
君は間違っている。
平頼綱ではなくて長崎頼綱。
平頼綱なんて史料に無い表記をした時点で×。
227:日本@名無史さん:02/08/07 19:57
>>225
電波警報発令
228日本@名無史さん:02/08/08 11:03
平頼綱などという呼び名の根拠は何?
同時代にも後世にも、平頼綱と記した史料は皆無なのだが。
229日本@名無史さん:02/08/16 01:45
保全age
230日本@名無史さん:02/08/16 02:27
平頼綱なんて言ってる奴等は、資料無しで歴史を語ろうとする連中。
231日本@名無史さん:02/08/16 08:36
長崎頼綱なんてことは絶対にありえない。当時の史料に無い時点で×。
だいたい分家の名字を本家に敷衍するなんて聞いたことない。
新田義貞を「脇屋義貞」と呼ぶくらい不自然。
232日本@名無史さん:02/08/16 08:39
>>196で結論出てるじゃん。
長崎厨はうざいから氏ね
233日本@名無史さん:02/08/18 02:03
>>231、232
平頼綱なんて史料に無い名前をデッチあげるなよ(笑)
ちゃんと史料に依拠して歴史を謙虚に学べよ。
平頼綱なんて名前、同時代にも後世にも史料無し。
長崎頼綱は後世に史料あり。
つまり、伊勢宗瑞を北条早雲と書くのと同じ性質のもの。

234日本@名無史さん:02/08/19 09:19
>>233
おいおいお前こそ嘘つくなよ(藁
ちっとは過去ログ読んでから話せ
235日本@名無史さん :02/08/23 03:16
>>234
いや233の言ってることは正しい。
平頼綱と記された史料はない。唯一近いのが吾嬬鏡の「平新左衛門尉頼綱」だが、
この先頭の「平」は、「たいら」ではなく、「へい」と読む。
長崎頼綱については、藩翰譜がある。
だから伊勢宗瑞を北条早雲と呼ぶのに問題がなければ、頼綱は長崎頼綱が妥当。
236長崎円喜:02/08/25 05:36
プププ・・・・このスレまだ生きてるの(W
237日本@名無史さん:02/08/30 20:21
無限ループです。
238日本@名無史さん:02/08/31 01:26
>>233 >>235
「新編 藩翰譜」(新井白石著 元禄十四年呈上)と
「吾妻鏡」の編纂された年代である1300年頃は、
およそ350年の開きがある。
史実の信憑性を後世の編纂物の方を より正しい
と主張するその尺度と見識に恐れ入った。

そんなの比較にならね−よバーカ。書くだけむだだ。  
239日本@名無史さん:02/08/31 01:39
>>235
>この先頭の「平」は、「たいら」ではなく、「へい」と読む。
これにはどういう根拠があるのか知りたい。

平頼綱でも長崎頼綱でもどっちでもいいから、そこだけ
教えてくれ。

しかし、このスレしぶといな。
240      :02/08/31 02:14
 層化のヤラセ大河なんてどーでもいい。
241日本@名無史さん:02/09/03 12:14
いや、彼は関盛綱の嫡子で、関頼綱です。
242長崎光綱:02/09/05 12:57
>>239
鎌倉源太義平の「源」を、「みなもと」ではなく「源」と読むのと同じ。
本姓以外で、役職や続柄(太郎、次郎)に付けて使用する場合は、源(げん)、平(へい)、藤(とう)で、
この場合、同じ文字だが、本姓使用の源(みなもと)、平(たいら)、藤原(ふじわら)と
同一視したり混同してはいけない。

平新左衛門尉頼綱
という書き方は、
源太義平(げんた・よしひら)
平三景時(へいぞう・かげとき)
と同じ。
243長崎頼綱:02/09/05 12:58
>>238
吾嬬鏡のどこに平頼綱という記述があるの?
あるのなら場所を教えてよ(W
244日本@名無史さん:02/09/05 13:10
>>242
平新左衛門尉頼綱
ってあるんなら氏は「平」では?
源氏が平左衛門を名乗るかな普通。
245日本@名無史さん:02/09/05 13:36
>>242
>>82を説明してみろ。

>>243
そもそも「吾妻鏡」には北条時宗などの「苗字+実名」という表記がないだろう。

246日本@名無史さん:02/09/05 14:05
>>242
何だ。そんなことが言いたいだけだったのか。ガカーリ
ショボーン(´・ω・`)
247日本@名無史さん:02/09/05 22:36
>>244
本姓表記の場合の「平頼綱」と、そうでない場合は違うだろう。
北条時宗だって、平時宗。
つまり、平時宗と言う場合に相当するのが平頼綱。
北条時宗と言う場合は長崎頼綱。
北条時宗と平頼綱を併記することは、
織田信長と源家康と書いているに等しいということ。
この程度の最低限の名字知識くらいは身につけろよ。
248日本@名無史さん:02/09/05 22:40
>>247
おいおい、君は
>源氏が平左衛門を名乗るかな普通。
という部分を見逃してないか?
249日本@名無史さん:02/09/05 22:47
>>248
44を読むと
本姓表記の場合の「平」と、
本姓表記以外で平氏であることを示す「平」を
あなたは混同している。
250248:02/09/05 22:53
悪い。俺は244じゃない。
244に答えるのは馬鹿らしすぎ。244は問題外だろ。
釣られ好きもほどほどにしたら。っていう横レスですた。
スマソ。
251日本@名無史さん:02/09/06 01:29
 「平」は氏が苗字に変化したものだろう。
そうでなくては>>82が説明つかない。

 同時代の文書の表記から考えると平頼綱は、
氏姓……平朝臣
苗字……平
官職(?)……左衛門尉(正式に任官してるか確認してないので、これも通称の可能性あり)
通称……三郎
実名……頼綱

以上のように考えるのが自然だろう。
252日本@名無史さん:02/09/06 03:50
平頼綱って書かれた史料がないから長崎だってよ。
ヴァカじゃねえか。
それだったら平清盛も源頼朝もいえねえよ。
人名辞典の見出しに全部、カバネ・通称・官職つけろってか。アフォか。
251氏のいうように82を説明してみろ。話はそれからだ。
ま、不可能だがなw
253日本@名無史さん:02/09/06 12:08
でも82って何の史料?
恣意的に抜き出して、訳してるんじゃないの?
254日本@名無史さん:02/09/06 12:31
>>253
新編追加。
下記のページから引用。
ttp://www2.justnet.ne.jp/~jingu/imai-masaharu-yorituna-01.htm
255日本@名無史さん:02/09/06 12:58
>>251
平が名字ということはないよ。
源平藤橘その他にしろ、姓が名字として使用されることはない。
姓は姓、名字は名字なんだがね。
256251:02/09/06 14:06
>>255
 近江守護の佐々木氏は宇多源氏なのか狭狭城山君の子孫なのかはっきりしない。
狭狭城山君説なら氏が名字に変化した例だろう。佐々木氏家臣の蒲生氏・建部氏なども
氏が名字化したものだ。
 下野の那須氏も那須国造の末裔、他にも宗像・穂積・小野などももとは氏だったものだ。

257日本@名無史さん:02/09/06 14:08
>255
>平が名字ということはないよ。
それはいつ頃の話?

少なくとも明治以降は氏=姓=苗字=名字だよね。
258日本@名無史さん:02/09/06 14:41
>>255
じゃ大江広元は?
259日本@名無史さん:02/09/06 16:15
まあ、これが絶対真実だーとか言って、嘘つくやつってどこにもいるよね。
みんな許してやれや。
260日本@名無史さん:02/09/06 16:20
>>253
君、吾妻鏡を目にしたことがないの?
261日本@名無史さん:02/09/06 20:11
>>255
「姓」じゃないだろ?「氏」だろ?
こういう用語をちゃんと使わないと、議論の相手にされないぞ。
262日本@名無史さん:02/09/06 22:45
>>261
どう違うんだよ。言って見ろよ。説明も出来ないくせに。
263日本@名無史さん:02/09/06 23:52
>>261,>>262
まあまあ、わしにめんじて、喧嘩両成敗ということでどうじゃ。


しかし、姓と氏の違いはわしもちと聞いてみたいな。
近頃、どうも人生おもしろいことが少ないものでの。
264日本@名無史さん:02/09/07 00:38
氏……祖先を同じくする集団の名称。ex.蘇我、物部、中臣、藤原、源、平、橘
姓……氏の階級・職掌。 ex.臣・連・首・君、真人・朝臣・宿禰など


現在、氏・姓とも苗字と同じ意味に使われているし、日常的にはそれでよいと思う。
しかし学術的、特に今このスレで問題になってるようなことを話題にするときには、
無用な混乱を避けるためにも区別して使用したほうが良いだろう。
265日本@名無史さん:02/09/07 01:12
この平新左衛門慰三郎頼綱、おぬしの教説に感じ入った。
今日より平朝臣と名乗ることをゆるすぞ。
266日本@名無史さん:02/09/07 12:16
頼綱は、平氏の出だけれど、名字が分からないということだろう。
平頼綱という言い方は、本姓だから、名字(北条時宗)と併記できない。
併記するなら、時宗も平時宗にしなければならない。
要するに「平新左衛門尉(へいしんざえもんのじょう)」が、何かということ。
当時の用法をみると名字のように使用されていることが分かる。
ただし「平新左衛門尉」の全体が名字式使用であり、ここから頭の「平」だけ
取りだして、それを名字だといってみたりするのは間違い。本姓と名字は厳密に別だから、
長崎頼綱という言い方には疑問が多すぎるが、北条時宗と併記した場合、平頼綱は絶対にありえない。
267日本@名無史さん:02/09/07 13:47
>>266
だからさ
平新左衛門尉が「たいら・しんざえもんのじょう」じゃなくて
「へいしんざえもんのじょう」だと断定できる根拠は何よ?
268日本@名無史さん:02/09/07 15:26

高校の同級生に「多比良(たひら)」というのが居ました。
これって「平」が転化したものなんですかねぇ。

269日本@名無史さん:02/09/07 15:51
ちがうだろう。九州の渡来系氏族じゃないのか。
270日本@名無史さん:02/09/07 21:29
頼綱の氏は「平」、これは問題は無さそう。では、名字は?
1.「平」、氏が名字に転化
2.名字は無い、名字が普及する過渡期のため。
3.名字はあったが、何らかの理由で伝わっていない。
4.「長崎」
説としてはこんなもんか?あと何かある?
271日本@名無史さん:02/09/07 22:46
2だと思うな。
で、しかたなく「たいら」と書いている。(>>吾妻鏡記述者)

平か長崎か論争すること自体無意味じゃねーかな。
272日本@名無史さん:02/09/08 12:31
age
273日本@名無史さん:02/09/08 12:47
>>271
「平」か「長崎」かって論争は無意味かも知れないけど、>>270
1〜3説の場合、なぜそうなのか、という理由を調べるのは面白い
と思う。
自分としては、上の方にあった「文官だったので名字を名乗る必要が
無かった。(全ての階層において名字が一般化するのはもっと後)」
という説が面白いと思う。
とすれば、得宗家における頼綱は、将軍家における大江広元みたいな
位置付けだったのかなあ(大江も氏だし)、と。
274あげ:02/09/08 13:17
最近急に良スレになってきた気がするなあ。
あげ
275日本@名無史さん:02/09/08 16:53
>273
過去レスにある平景隆は文官と言えないのでは?
276273:02/09/08 19:23
いや、だから「文官だったので名字を名乗る必要が無かった」とは
書いたけど、「名字を名乗っていないから文官だ」とは言ってない。
必要条件と十分条件(だっけ?)の違い。
277日本@名無史さん:02/09/08 20:06
>>276
横レスだが。
平景隆についても妥当性のある説明をする必要は感じるだろ?
文官でない例はどう説明するか?というハードルをクリアしないとな。
278日本@名無史さん:02/09/08 23:51
age
279日本@名無史さん:02/09/09 01:16
>北条時宗と併記した場合、平頼綱は絶対にありえない。

あんたこの時期の史料見たことないの?
平新左衛門尉が、名字で書かれてる連中と並記されてる
例なんて山ほどあるよ。
もちろん北条時宗なんて表記はないがねw
280日本@名無史さん:02/09/09 20:35
素朴に疑問。知っている方教えて下さい。
この時代、「左衛門尉」のような官職名を名前として使用することができるので
しょうか?戦国時代にはたくさん例がありますが。そうすると、官職としての
左衛門尉を除くと、「平新」だけが残るような気がするのですが。間違っていますか
281日本@名無史さん:02/09/09 20:56
 「新」がついてるのは比較的早い年代のときだから、
「新左衛門尉」は「左衛門尉になったばかりの」ぐらいの意味だと思われる。
ただ頼綱が正式に左衛門尉に任官したか確認できてないので、確実とは言えない。
ただ>>82に見るように御内人で衛門尉と名乗ってる例は多いので、
任官してたのではと思うのだけど、証拠がない。
282日本@名無史さん:02/09/09 22:27
>>281 「新」は「最近なった」ではなく、「もともとの身分では、その官位に
なれなかった家系の者が、その官位に成り上がった」の意味では?

283日本@名無史さん:02/09/09 22:33
age
284日本@名無史さん:02/09/09 22:42
再び迷走を始めてしまったなあ。
285281:02/09/09 23:16
>>282
盛綱・盛時も左衛門尉を名乗ってるので、三代目の頼綱が
「その官位になれなかった家系の者」に該当するとは思えないのだけど。
286日本@名無史さん:02/09/10 00:29
>>285
俺もそう思った。

要するに、自分の妄想を衝動的にポストするのでなく(w)、
自分の考えが資料などによって裏付けられるものか、
多少しらべて、それからポストするのが吉だと思うな。

どうどうめぐりとか、ポイントのずれをできるだけ避け
て、実のある議論をしようよ。
287日本@名無史さん:02/09/10 03:46
>どうどうめぐりとか、ポイントのずれをできるだけ避けて、実のある議論をしようよ。

いまさら議論することなんてないよ。
何度も結論出てるのに、長崎派の連中がループさせてるだけ。
ま、実のある議論といえば、個人的に興味あるのは
なぜ長崎派の連中(って何人もいるのか知らんが)は
そこまでこだわるのかってこと。
以前、本人の名字が長崎なんじゃないの、って意見があったが
どうもそれだけでは解けない点がある。うーん、謎だ。
288日本@名無史さん:02/09/10 06:51
歴オタ共必死だな(w
289日本@名無史さん:02/09/10 12:03
必死になることは素晴らしいよ。
290日本@名無史さん:02/09/10 12:15
>>280>>281
あれは官職名ではない。
官職風の通称。いわば「新左衛門」のこと。
291日本@名無史さん:02/09/10 22:41
age
292280:02/09/11 00:32
結局、「左衛門尉」は官職なのですか、官職風通称なのですか?
私の乏しい知識では、官職の価値が下がるのは、南北朝期以降であり、両朝が
官職をばらまいたからと思います。
それ以前は官職風通称および官職についていないものが官職を名乗ることは基本的には
無いのではないでしょうか
293281:02/09/11 01:15
>>292 結局、「左衛門尉」は官職なのですか、官職風通称なのですか?

 これは不明としか言いようが無い。頼綱の次男の飯沼助宗が左衛門尉より
格上の検非違使尉と安房守に任じられてるのは確かなのだけど。
ただ助宗も飯沼左衛門尉と呼ばれていた時期があり、同時期に頼綱の長男・
宗綱も平左衛門尉と呼ばれており、兄弟で同じ通称を同時期に使うことは、
ないのではないか、と思うので、「左衛門尉」はこの一族が代々任官している
官職であると私は考えてる。
 でも残念ながら明確な証拠はないので、あくまで状況からの推測に過ぎない。
294日本@名無史さん:02/09/11 14:13
>293
>これは不明としか言いようが無い。

たしかにそうですが、この時代何人の右衛門尉、左衛門尉がいたと思いますか?
衛門尉の定員が何人か調べたことがないのでわかりませんが、
彼ら全員が任官していたわけではないでしょう。

295281:02/09/11 14:49
>>294
ttp://www.sol.dti.ne.jp/~hiromi/kansei/o_fu_emon.html#Jo

上記によると最終的には数十人
296280:02/09/11 23:23
>>294 この時代(でなくと一般的にはそうですが)、任官もしていない者が、官職を名乗ることは
犯罪ではありませんか。日本史の中で、朝廷の官職を私称しだすのはもう少し、時代が下ってからと
思いますが。
297日本@名無史さん:02/09/12 11:32
>296
>日本史の中で、朝廷の官職を私称しだすのはもう少し、時代が下ってからと
>思いますが。

この時代に、官職名を名乗ることは無いという、根拠はなんですか?

それから、犯罪かどうかについてですが、
荘園を押領することと変わらないと思いますが。
298日本@名無史さん:02/09/12 18:57
ea
299296:02/09/12 20:06
>>297 官職を私称することは、世界どこでも一般的には犯罪です。
日本で官職の私称が横行し、かつ297のような主張がされること自体、研究
テーマとなりうるとすら思えます。

その上で、さらに根拠というなら、鎌倉幕府の成立基盤の問題があります。
鎌倉幕府の権力の基礎としては、本領の安堵と朝廷の官位の推薦権があります。
この朝廷の官位の推薦権は重要であり、義経が鎌倉から譴責を受けた理由のつに、
頼朝の推薦を受けずに、検非違使の尉に任官したためと言われています。
こうしたことから考えて、アウトロー的な立場な人間ならいざしらず、いやしくも
執権の身内人の有力者が官職を私称するとは考えがたいかと思います。
300日本@名無史さん:02/09/12 21:56
age
301日本@名無史さん:02/09/13 12:34
>299
>執権の身内人の有力者が官職を私称するとは考えがたいかと思います。

頼綱が私称しているかの根拠ではなくて、
>官職を私称しだすのはもう少し、時代が下ってから
という根拠です。
つまり、正確ではないとしても、具体的には誰が最初の私称したのかわかっている。
あるいは、何らかの形で調べたことがある。
その内容を知りたいのです。
302299:02/09/14 01:10
>>301 念のため頼綱が私称したとは主張していません。そんなことはあるはずない
との主張です。
頼綱の時代なぜそうなのかの論拠は述べました。
その上で、301のQは理解しがたいものがあります。
現在の刑法でも官名詐称の罪があります。まして近代以前で反逆と見られても
しかたがない行為です。
私称がまかりとうっていた時代の異常性が理解できませんか?

そうなった原因としては、南北朝時代、任命権者が分裂していたことがあげられます。
デジタルに論証することなど、中世の問題では不可能です。
303日本@名無史さん:02/09/16 04:03
>>296
>任官もしていない者が、官職を名乗ることは
>犯罪ではありませんか。日本史の中で、朝廷の官職を私称しだすのはもう少し、時代が下ってからと
>思いますが。
ここは
頼綱の時代以降は「官職を勝手に名乗ることが犯罪ではなくなったから勝手に名乗っている」という意見ですよね。
304日本@名無史さん:02/09/16 05:47
蒲池君とならぶニューヒーロー誕生。
その名は・・・ 長崎君!!
305日本@名無史さん:02/09/19 11:33
犯罪だと何だといいたいのだろう。
荘園を横領するのは犯罪ではないというのだろうか。
306296:02/09/20 22:22
>>305 そういうのを議論のすり替えっていうんだろうね
もともと「平新左衛門尉」とうい名称の分析の中の話。
「新左衛門尉」は「石川五右衛門」のような、官職名類似の通称という主張
に対して反論しただけのこと。
よく議論の筋合いを理解してものを言ったらどうだい。
307日本@名無史さん:02/09/23 01:31
>>306
君の意見は、
官職を名乗るのは犯罪→犯罪だから官職は名乗らない
という論理だろ?
308日本@名無史さん:02/09/23 07:00
>>306 そうだよ。だから?
それから、単に論理として言っているわけではなく、傍証はあげておいたから
前の方をよく読んでね。
309日本@名無史さん:02/09/23 11:33
>>308
じゃあ同時に
荘園を横領するのは犯罪→犯罪だから横領しない
という論理にならなければおかしいだろ。
310日本@名無史さん:02/09/23 17:18
>>309 だから前の方を読めといったのに。
単に形式論で言っている訳ではありません。鎌倉幕府にとって朝廷の官職
に対する推薦権は非常に重要な問題だと言っているのです。
(繰り返しで恐縮ですが)
義経の検非違使叙任問題や、それに次ぐ、関東御家人の無断任官問題は
たいへんな政治問題になっています。
まして、頼綱は鎌倉中枢の人間です。体制外の人物ならことさら、
そのような人物が私称する可能性は非常に少ないと思いますが。
311日本@名無史さん:02/09/24 11:30
>体制外の人物ならことさら、
>そのような人物が私称する可能性は非常に少ないと思いますが。

可能性はあるわけだ?
それに、体制内なら私称することは多いの?
312日本@名無史さん:02/09/25 23:53
age
313日本@名無史さん:02/09/26 06:15
>>311 そういうのを揚げ足とりというの。
歴史上の問題を数学的に100%証明することはできないから、
可能性が少ないといったまで。
「体制内なら私称することは多いの?」は「体制外」の誤り?
314日本@名無史さん:02/09/26 11:02
話をすりかえては駄目だよ。
315コギャルとH:02/09/26 11:05
http://tigers-fan.com/~pppnn

http://www.tigers-fan.com/~fkijjv

ヌキヌキ部屋に直行
  コギャルとヌキヌキ
  全国地域別出会い
316名無しさん@1周年:02/09/27 12:51
北村頼綱
317日本@名無史さん:02/09/29 08:03
>>314 別に話をすり替えてないと思うけど。
「体制内の人が私称することなどない」と言っているのに
「体制内には多いのか?」と聞かれても答えようがない。
318日本@名無史さん:02/09/29 10:17
神学論争だな。
319日本@名無史さん:02/09/30 06:49
>>310
>体制外の人物ならことさら、
なんて訳のわからん日本語書くから駄目なの。
320日本@名無史さん:02/09/30 21:43
てゆうかぁ
奥州征伐に従軍した苗字を持つ御家人たちの中に一人、苗字を持たない人物
「民部丞平盛時」が確認できるじゃぅぁん
てぇゆぅことはぁ、「氏」と「苗」を区別して書いてるのは明らかだしぃ

加ーえて、頼綱の記され方ーが
「平新左衛門尉」から「平左衛門尉」に変ーわってるってことは
「平新左衛門尉」じーゃなくて「平-新左衛門尉」っーて考えるのーが普通じゃん

追加で聞きたいんだけんど
江間北条家の四条金吾(四条中務三郎左衛門)も私称け?
四条  苗字
中務  親父の官職
三郎  通称 三男?
左衛門 自身の官職

江間家の家人が正式任官してるなら、頼綱の左衛門尉も正式任官だべさ
321日本@名無史さん:02/10/02 23:56
>>319 日本語がわからんのかい、君は。
国語の勉強やりなおしたら。
322日本@名無史さん:02/10/03 00:13
江馬だすな
323日本@名無史さん:02/10/03 03:05
>>321
あんたこそ日本語学校に通い直したほうがいいよ。
ことさら、ってのは、他と比べて特に、ってことだぞ。
体制外の人間のほうが、体制内の人間より私称する可能性は
高いだろ、普通。

>>320
私称が全くないかってゆうとちょっと難しいんだな。
ある御家人が京都に行くことになったときに
「自分はまだ正式任官されてないから名乗りをどうしよう云々」って史料がある。
結局は正式任官されるんだけど、鎌倉武士たちが
正式任官以前に鎌倉において私称していたのは事実。
但し結局その通り任官される。正式任官を前提としたものだから
後世のほんとの勝手な私称とはちがう。私称ではなく仮称とでもいうべきかな。
324日本@名無史さん:02/10/03 17:41
>正式任官以前に鎌倉において私称していたのは事実。
>但し結局その通り任官される。正式任官を前提としたものだから
>後世のほんとの勝手な私称とはちがう。私称ではなく仮称とでもいうべきかな。
ここのところは納得のいく内容だね。

325日本@名無史さん:02/10/04 16:51
326日本@名無史さん:02/10/05 05:22
310はたぶん
体制外の人物ならいざ知らず
とでも書きたかったんだろうな。
327日本@名無史さん:02/10/06 05:48
長崎氏は関氏の分流だから長崎頼綱も、関頼綱だったのだろうか?
328長崎光綱:02/10/06 08:00
そもそも頼綱は、平氏の誰の子孫なの?
329日本@名無史さん:02/10/06 09:20
系図上は清盛の長男平重盛の子孫ですよね。
330関太郎吉:02/10/06 13:06
>>329
じゃあ長崎(平)頼綱は、主の北条(平)時宗よりも、
平氏としてははるかに貴種に近いわけだ。
331 :02/10/06 13:08
↑ 関太郎吉=古今無双の大関、雷電為右衛門の本名
332日本@名無史さん:02/10/07 02:24
あのさあ、話がループするだけだから、過去レスぐらい読めよ。
>327
関氏と長崎氏は無関係。関氏が長崎氏流というのは関氏の仮冒。
関氏は有名な伊勢の平信兼の流れ。

>328
内管領(得宗執事)平氏は清盛の曾祖父正衡の子孫

>329
重盛の子資盛に系をつなげるのは、織田氏など他にもよくある仮冒。
333日本@名無史さん:02/10/07 14:06
>あのさあ、話がループするだけだから、過去レスぐらい読めよ。

ひと通り読んでるけどなあ。長崎氏の家系については「結論」が出ているようには
見えなかったが、俺が読みたりないのかなあ。

>重盛の子資盛に系をつなげるのは、織田氏など他にもよくある仮冒。

だから、わざわざ「系図上は」と断ったんだが。だれも本気にしてないだろうし
(w

>内管領(得宗執事)平氏は清盛の曾祖父正衡の子孫

これはどのように検証されてるのかなあ。やっぱ「定説」ですか。(w
334 :02/10/07 16:40
頼綱の話題が続きますね。
335日本@名無史さん:02/10/07 16:48
>>327-329
へえ同一人物なんだ。

>長崎氏の家系については「結論」が出ているようには
おいおいここは長崎氏スレじゃないぞ。
336日本@名無史さん:02/10/07 17:53
>>335
こういうのにこそ過去レス読めと言ってくれ。
337日本@名無史さん:02/10/07 18:17
>336
オマエモナー
338日本@名無史さん:02/10/07 22:57
>>327
関出羽守信兼(和泉守信兼)、山木判官兼隆の父親
長崎派は本気で吾妻鏡すら読んでない
339日本@名無史さん:02/10/07 23:34
>内管領(得宗執事)平氏は清盛の曾祖父正衡の子孫
の根拠をよろしく。
340日本@名無史さん :02/10/08 03:32
長崎頼綱に一票!
なぜなら、こっちの方がかっこいいから。
341日本@名無史さん:02/10/08 21:35
平・長崎一族は結局出自不明だろ。
342日本@名無史さん:02/10/08 21:36
>>341
何しろ、ハチだから。
343日本@名無しさん:02/10/08 22:03
上総介広常だって本当の苗字は吾妻鏡に拠る限りわからない。
だから平広常と書かれたり、上総広常と書かれたりもする。
分からない以上平と書くしかないではないか。
子孫が称したわけでもないのに長崎頼綱と書くのは変でしょう。
344日本@名無史さん:02/10/08 22:15
一応、平氏なんだろ。だったら平頼綱でいいよ。
345日本@名無史さん:02/10/09 05:26
>分からない以上

分かってるって。吾妻鏡みなよ。
並記されてる人間が苗字で記されてる中に
平って書いてあるから。
346通りすがり:02/10/09 11:50
ま、まだやっていたの?
もうすぐ1周年だけど。
347日本@名無史さん:02/10/09 22:48
>>345
過去レス嫁よー。
348日本@名無史さん:02/10/10 05:47
沈んだなあ、と思ってると
長崎君があげるからね
永遠におわんないよ
349日本@名無史さん:02/10/10 09:56
英仏の百年戦争みたいなもんだ。
350日本@名無史さん:02/10/10 11:22
なんで長崎にこだわるの?
自分の家と結び付けたいの?
351日本@名無史さん:02/10/10 12:19
誰に向かって言ってんの?
352日本@名無史さん:02/10/10 13:36
飯沼頼綱でいいよ。
353日本@名無史さん:02/10/10 21:11
いや、北村頼綱、ということでもう結論が出てるのだが。
354日本@名無史さん:02/10/11 02:01
ちがうよ。ハチってことで結論が出てるんだよ。
355歴史の勝者は北村:02/10/12 22:00
結局ハチが一番出世した
356 :02/10/13 00:59
関頼綱だね
357日本@名無史さん:02/10/16 12:13
平盛時−盛綱−頼綱
358日本@名無史さん:02/10/17 01:23
>>357
何が言いたいの。
359 :02/10/20 16:55
長崎頼綱
360 
保守age