神武天皇陵はただの寺跡だって?

このエントリーをはてなブックマークに追加
1近鉄橿原線
そのような話を小耳に挟みました。
どうですか?
2日本@名無史さん:01/11/28 22:48
文久年間の絵図をみると、とても墳丘だとは思えない。
3日本@名無史さん:01/11/28 22:52
黒岩重吾が神武陵は俺が作ったと言ってるよ
4日本@名無史さん :01/11/28 22:56
でも、神武天皇陵て、実在したのでしょう。延喜式にも記述があるし
5日本@名無史さん:01/11/28 23:02
今の垂仁陵が真の神武陵です。
6日本@名無史さん:01/11/28 23:04
歴史読本の別冊に詳しく載ってたよ。
7日本@名無史さん:01/11/28 23:05
天皇陵の多くが
偽物だけどね。
8日本@名無史さん:01/11/28 23:08
別冊歴史読本の説は、本当に正しいのだろうか。あれでは、藤原京内に
削平されず残った古墳が塚山(現綏靖陵)と神武田の2箇所になるが、
2箇所とも神武陵とするのだろうか。
9日本@名無史さん:01/11/28 23:13
だから神武田は墳丘じゃなくて、寺院の基壇だって話でしょうが。
ほんとに別冊読んだの?
10日本@名無史さん:01/11/28 23:21
神武陵内に礎石があるらしいですけど、それが寺跡の証拠になるのかな
だれか、くわしい人、教えて
11日本@名無史さん:01/11/28 23:27
神武陵の陵域に塔跡と思われる基壇状の高まりが存在するのは事実ですよ。
そこは明治年間に陵域になったが戦前までは、見ることが出来たらしいですね。
伊藤敬太郎「移された塔心礎」『瓦衣千年−森郁夫先生還暦記念論文集−』という論文がこの事についてふれていますよ。
12日本@名無史さん:01/11/28 23:27
>10

そのとおりです。あと、瓦も出土してます。
ただの寺跡をありがたく遙拝しているウヨは悲惨だね。(ワラ
13日本@名無史さん:01/11/28 23:29
神武田っていう地名は、神武陵に付されていた陵戸の田という意味ですから、
そこに陵そのものがあるわけないのです。
14日本@名無史さん:01/11/28 23:34
だったら本当の神武陵はどこにあったのですか
15日本@名無史さん:01/11/28 23:39
塚山(現綏靖陵)が真の神武陵。
あのへんは藤原京を造営するときに古墳を壊しまくっているのだが、
なぜか塚山だけは壊されずに残った。
つまり、当時の律令国家にとって重要な古墳だったから
壊されずに残ったと考えられる。

つい最近の橿原考古学研究所の発掘報道にもあったと思うけど?
16日本@名無史さん:01/11/29 00:02
条坊道路の下に無数に埋まっているらしいですね。
呪われた都市・藤原京
17日本@名無史さん:01/11/29 00:03
神武陵の研究といえば春成さんの論文が有名だが(かなり古いが)
最近また研究が進んでいるの。
伊藤さんの論文て面白いの
神武陵なんて、だれも入れないのだから、いいかげんなものではないの。
18 :01/11/29 00:05
仁徳は?
19日本@名無史さん:01/11/29 00:05
面白いですよ。是非ご一読を。

神武陵付近から出た瓦については、
大和の瓦オタク、保井芳太郎の本に出ています。
(『大和上代寺院誌』)
20日本@名無史さん:01/11/29 00:39
>13

つまりそれ神武陵の墓守りの給料がわりに支給されてた田ってこと?
それだとウヨは神武の墓じゃなくて神武の墓守りの墓を拝んでるのか?
21日本@名無史さん:01/11/29 00:43
>20

しかも、陵戸ってのは、古代の「五色の賤」のうちの一種。
つまり被差別民ってこと。
ますますウヨは悲惨だね。(ワラワラ

ちなみに、明治時代の神武陵修陵の時に、近所にあったB落を強制移転させたのは有名な話。
ま、ウヨ=ヤ=街道だから、みんな仲良しなんだけどね。(ワラ
22日本@名無史さん:01/11/29 02:03
Bは昔からずっと天皇陵にくっついて暮らしてきたんだね。フーン
石母田も言ってるね、天皇と賤民とは王民体制の両極なんだ、って。
23日本@名無史さん:01/11/29 02:03
>21

洞村のことでしょうか。
神武陵を見下ろす格好になるので山の裏側に移転させられたとか。

なんかあの一帯、ラブホとか林立してて、すごく怪しいオーラが漂ってるんすよね。
とても始祖王の墓とは思えない。
24日本@名無史さん:01/11/29 20:45
ということは、部落の起源て、天皇陵の墓守なのですか。
25日本@名無史さん:01/11/29 20:57
どうせ神武なんかいなかったんだから
26日本@名無史さん:01/11/29 20:57
直接つながるかどうかはわかりませんが、
古墳の近くに被差別地区が多く立地するのは事実。

誰か研究してみませんか?
27日本@名無史さん:01/11/29 20:59
>25

神武が実在したかどうかは、神武陵を語る際にはさほど問題ではないよ。
古代律令国家が、彼を始祖王と仰ぎ、特別な陵を築いて祀っていた、
という歴史的事実が重要なのです。

近世・近代の修陵事業は、そういったことを見えにくくしてしまっているのですよ。
28日本@名無史さん:01/11/29 21:11
なるほど、その通りだ。マジレスありがとう。
でも近世・近代の修陵事業もまた、類似の歴史的要請
のもと実施されたものと見ることができるのでは。
29日本@名無史さん:01/11/29 21:22
洞村に丸山というところがあり、
そこが、本当の神武陵だと季刊邪馬台国に書いてあったが
その真偽いかに
30日本@名無史さん:01/11/29 21:53
「本当の」神武陵っていうが、何をもって「本当」と言っているのかが問題。

神武の実在を認めた上で、あくまで神武が実際に葬られた墓が「本当」なのか、
それとも、天武朝以降に創作された伝説的天皇のシンボルが「本当」なのか。

それを明らかにしないと議論が噛み合わないと思われ。
31畝傍山:01/11/30 23:50
>11 伊藤敬太郎「移された塔心礎」『瓦衣千年−森郁夫先生還暦記念論文集−』
今日、大学の図書館で読んだよ。しかし、本当に神武陵内に礎石が残っているのか
誰か見た人いない?
それと、あの心礎の写真は、偶然写ったのか
32日本@名無史さん:01/12/01 00:01
>31

戦前の朝日新聞に載った写真のことですか?
あれは、搬出されて売り飛ばされようとしていた寸前に
「某皇族」が見咎めたため、売るのをあきらめて路傍に転がしたもの。
そのことが記事になった時に載った写真です。

神武陵内の礎石群は、エセ墳丘のほうではなく、
皇族が参拝するときに使うお車寄せの敷地内にある。
だから、見ようと思えば不可能ではないはずだが・・・
ちなみに、塔跡であることは一目でわかるらしい。
33畝傍山:01/12/01 00:30
では31さんは、実際にごらんになられたのですか
34日本@名無史さん:01/12/01 00:34
残念ながら未見です。
一度、宮内庁に正式に申し入れようという話があったらしいですが……
35日本@名無史さん:01/12/01 00:35
普通の天皇陵なら柵越えて無断侵入するんだがな。
何しろあそこは、畝傍陵墓管区の建物がぴったりくっついていて、
皇宮警察が四六時中ガードしてるもんだから、どうしようもない。
36畝傍山:01/12/01 00:39
じゃあ、宮内庁の人なら知っているのですかね。
個人的の古代寺院に興味がありまして。
それと、あの論文を書いた伊藤さんてどんな人かご存知ですか。
3732=34:01/12/01 00:42
いやー、宮内庁の人間が問い合わせに応じるとは思えないですけどね……

ところで畝傍山さん、よろしければメール送って下さい。
38日本@名無史さん:01/12/01 11:07
埴輪が出てるという話があるが。
小円墳だったのでは。
39日本@名無史さん :01/12/01 11:45
埴輪がでて、瓦がでて、この理由いかに
40日本@名無史さん:01/12/01 12:34
小円墳のあった場所(のそば)に寺ができた
41 :01/12/01 12:42
神武陵のそばに寺があったのは事実。

丸山のそばに、「東征とともにやってきた」という伝承のある村があった。
立ち退きが怖いので黙っていたとか。
42日本@名無史さん:01/12/01 13:36
洞村にまつわる、神武や神功の伝承は古代までさかのぼるのかな
よくわからない
43日本@名無史さん:01/12/03 22:45
上の方で話題になっていた本を手に入れたので、早速読んでみた。

歴史検証 天皇陵 (別冊歴史読本)
出版社:新人物往来社
ISBN:4-404-02778-8
発行日:2001年6月、価格:2,200円

「神武天皇陵」の項目を執筆しているのは花園大学の山田邦和氏。
あらましは以下の通り。

1. 近世までの神武陵候補地は以下の三カ所だった。
 a 山本村ミサンザイ 小字名「神武田(じぶた)」 =現在の神武陵
 b 洞村丸山
 c 四条村塚山 =現在の綏靖陵
2. 考古学的な見地からは次のように考えられている。
 b = 祠を建てるために造成した単なる平坦面であり、遺物散布も無し。古墳とは認めがたい。
 c = 四条古墳群のうち、藤原京造営時に削平されずに唯一残った古墳。
 a = 春成説が通説。
   それによると、現神武陵は近世に存在した二つの小丘を繋いで盛土したもので、
   これらの小丘はいずれも寺院の基壇と考えられている。
 以上の理由から、cを本来の神武陵(=7cに始祖王陵として祀られたもの)と見る説が多い。
3. しかし、aは本当に寺院の基壇なのか。近世の絵図では墳丘のように描かれているし、
 aの周辺からは埴輪片などが出土している。
 墳丘があり、古墳に伴う遺物が出ている以上、a=古墳と見るのが考古学的に妥当。

よって、現神武陵を近世になって偽作された荒唐無稽の偽陵と見るのは正しくない。
4443:01/12/03 22:51
山田説にはさらに続きがある。
aに隣接して白鳳寺院が存在し、
それが現神武領域内に存在する礎石群である、とする。
で、上のほうで挙げられている伊藤敬太郎氏の説などを参考にしながら、
その寺院が7cに建立された、神武陵の陵寺ではないか、と想定し、
結局、神武陵は今の神武陵でもいいのではないか、と結論している。
45日本@名無史さん:01/12/05 19:40
私も、山田氏の論を読んだのだが、ひとつだけ疑問がある。
藤原京期に塚山にも、神武田にも古墳があったとしたら、どちらかが、
神武陵になるのか。両方とも神武陵とするのか
4650:01/12/05 20:01
神武どころかカンムの墓もゴダイゴ天皇の墓も正直比定出来ないんだよねえ。
いったい何天皇からホンモノの天皇陵と断言できるのか?詳しい人いたら教えて。
(もしかして江戸時代初期の天皇陵から?)
47日本@名無史さん:01/12/05 23:16
>45
山田さんの言いたいことはよく分かるのだが、
やはり無理があるように思われる。

まず、神武田の丘が墳丘だったとする理由だが、
「江戸時代の絵図には丸い丘状に描かれている」
 =寺院基壇の上に土が積もって墳丘状になっているという
 例がある(只塚廃寺など)ので、決め手にはならない。
 第一、絵図の信憑性も検証不可能。
「埴輪などの遺物が出ている」
 =畝傍山周辺には藤原京造営時に破壊された埋没古墳が多数あるので、
  未知の埋没古墳に伴う遺物が見つかっても不思議ではない。
ということで、決定的とは言えないと思う。

また、神武領域内の寺院址(=塔垣内廃寺)が陵寺だった、としているが、
陵寺という墓制の成立自体かなり遅れる(平安時代まで下る)ことが
既に明らかにされており、これも根拠にはならない。

ということで、塚山説でいいのでは?
48日本@名無史さん:01/12/05 23:42
それ以前にさぁ、6〜7世紀頃の神武陵が古墳だという保証があるわけじゃないだろ。
仮に発掘ができたとしても、一体なにが出たら神武陵だと言えるのかという判断基準もないまま、
うだうだ言ってもはじまらんと思うんだよね。

なんだか、とてつもなく無駄な話をしてるのような気がするのだが
49日本@名無史さん:01/12/05 23:44
>>48
登記簿がでてきたら神武天皇陵
50日本@名無史さん:01/12/05 23:46
>48
おめえ、読解力ないのか?
27をよく読め。ヴォケが。
51日本@名無史さん:01/12/05 23:48
「洞村」の資料館が来春開館 「神武天皇陵」拡張で集団移転の村--橿原市/奈良

 近代天皇制の強化とともに「神武天皇陵」(橿原市)の陵域が拡張された大正
6(1917)年に集団移転させられた被差別部落・洞村(ほらむら)の歴史を
伝える資料館「おおくぼまちづくり館」が来年3月、移転先の同市大久保町に開
館する。同市が3日発表した。市は6日開会の市議会定例会に、観覧料などを定
めるまちづくり館条例案を提出する。
 「初代・神武天皇」陵の所在は論争の末、王政復古直前の江戸時代末=文久3
(1863)年=に幕府と朝廷が現在地に決定。拡張時、計画地内にあった洞村
(約200戸)はすぐ東へ移転させられた。「住民が陵を見下ろすのは許せな
い」との為政者らの差別思想も背景にあったらしい。現地は人権学習などで全国
の教員や地元小学生らが多く訪れる。
 資料館は、今年度で完了する地区改良事業の一環。周辺の住宅を次々と建て替
えた中で、最後まで残った移転当初の建物1軒を市が買い取って改装。移転関連
の行政古文書、洞村の地籍地図や模型などを展示する。
 同町在住で企画に加わった部落解放同盟県連の辻本正教書記長(52)は「天
皇制にかかわる重大な歴史を伝えたい」と話している。(毎日新聞)

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20011204-00000005-mai-l29
52日本@名無史さん:01/12/06 00:03
>>50
まっ、お下品。いやねぇ〜。

>>27
>古代律令国家が、彼を始祖王と仰ぎ、特別な陵を築いて祀っていた、 という歴史的事実が重要なのです。

この『特別な陵』が現代人の考える『古墳』と同一なものであるというのは、どこに書いてあるの?
53日本@名無史さん:01/12/06 00:19
>52

昔の大王の墓が古墳であるくらいの知識は律令貴族にもあったんじゃないの?
実際天武から何代か前までは前方後円墳だし。
天武以降もしばらくは墳丘きづいた陵だし。
54日本@名無史さん:01/12/06 00:27
>>53
ただの小山かもしれないし、ただ場所を囲っただけかもしれない。
27がいう『築いた』と書かれた史料を漏れは知らない。

>昔の大王の墓が古墳であるくらいの知識は律令貴族にもあったんじゃないの?

そうかもしれないけど、それにしちゃあ、平気で古墳つぶしてるよね。
平城京なんて、250mもある市庭をつぶして作ってる。

塚山って、ほんとにわざわざ遺したんだろうか。たまたま領域外だっただけじゃない?
55日本@名無史さん:01/12/06 00:42
>塚山って、ほんとにわざわざ遺したんだろうか。たまたま領域外だっただけじゃない?

藤原京の条坊は、畝傍山の西麓あたりまで検出されているから、
塚山は明らかに京内に取り込まれている。

山本ミサンザイ(現神武陵)の近世の絵図などを見ると、
非常に小さい土盛りに見える。(直径数m程度)
あれくらいなら、「たまたま残った」と言っていいかもしれない。
(実際、数m規模の小円墳らしき小丘が現橿原公苑内に
 いくつか残存していたらしい。)←森浩一編『天皇陵古墳』「四条古墳群」項参照
ところが、塚山は誰が見ても古墳と言える規模の墳丘を残している。(径30m)
周囲の四条古墳群がほぼ完全に破壊されているのと実に対照的。

よって、意識的に残したと見ていいと思われる。
56日本@名無史さん:01/12/06 00:49
>54
>ただの小山かもしれないし、ただ場所を囲っただけかもしれない。

なるほど。後者はちょっと‥‥と思うが、前者はありうるかもね。
古墳と自然丘を見まがうことはあり得るだろうし、
あえて自然丘と分かってて、てこともあるしね。
いや52の短い文章でいわんとするところがよく分かんなかったんで。
ご趣旨了解。レスかたじけいる。
57日本@名無史さん:01/12/06 00:54
でも、もし仮に自然丘だったとしても、
削り残されているのは神聖視されていたから、と言えるんではないか?
本当に「タダの丘」だったら、真っ先に潰されているはずだ。
古墳でさえ潰しているんだから。
58日本@名無史さん:01/12/06 01:55
>57
大神神社の例を出すまでもなく、本殿なんかが造られる以前の
太古は山自体がご神体ってことはよくあるから(あと大きな岩とか)
そうなんだろうね。

55ほかここまでのいくつかの話を聞いてると、塚山(現綏靖陵)が
天武紀に出てくる神武陵かなって気がしてきたんだけど
その場合綏靖陵はどこになるの。天武から間もなくの大宝令段階
(はやければ淨御原令段階)で歴代の陵は治定されて延喜式に
至ってるんだろうから。
59日本@名無史さん:01/12/09 13:23
>47
>陵寺という墓制の成立自体かなり遅れる(平安時代まで下る)ことが
>既に明らかにされており、

とのことですが、
この点についてもう少し詳しく教えてください。
論文などもあればお願いします。
60日本@名無史さん:01/12/09 22:11
森浩一先生によれば、神武陵には隣接して、陵寺(大窪寺)があり、これは、高句麗の王陵の
そばに、定陵寺があるのと一致する。見瀬丸山古墳に隣接して軽寺があり、これも陵寺になるのでは
となると指摘しているけど、この考えはだめなの
61日本@名無史さん:01/12/10 19:34
神武田が神武天皇ゆかりで古くから神聖視されていたのは事実です。
62日本@名無史さん:01/12/10 21:17
軽寺は渡来系軽氏の氏寺で、見瀬丸山とは何の関係もない。
既に昭和二十年代に故・福山敏男氏が指摘しているし、
出土瓦からも渡来系の氏寺であることは明白。
森浩一氏の認識は古すぎる。

また、神武陵の陵寺として「国源寺」というものがあった、
とする史料が存在するが、この所伝が古代まで遡る証拠は何もなく、
むしろ中世以降に作られた説と考えた方が妥当。

陵墓に寺が附属するのは平安時代の仁明天皇あたりからであることは、
京大の西山良平氏が書いている。
63日本@名無史さん:01/12/12 05:29
移転前の洞村の写真見ると、どうしてどうして豊かそうな集落だったな。
村では「丸山」を神武真陵と伝え、自分たちは日向からつきしたがった
陵戸の子孫と信じ、稜を守ってきた。
そんな皇室に対する崇敬の念あつい村を移転させたのも、現神武陵を
無理に「ホンモノ」化しようと言う「オカミ」の身勝手。

漏れは関西だけど、継体真陵今城塚を荒れ放題にし、
誰のもんか判らない古墳を禁足地にしている「オカミ」が
理解できない。それこそ不敬の極みちゃうんか。
不敬だろうが学術的に間違っていようが、役所としての面子さえ
保たれればいいってのか。
64日本@名無史さん:01/12/12 10:35
>>63
たしかに、陵墓の選定はあやふやなものがあり、
政府官僚どもの行動には疑念を抱かざるをえませんね。
実際、いままで発掘された陵墓の中に皇室ゆかりのものが
あった可能性も否定できないし、なにより皇室の陵墓
は既に何度も盗掘にあっています。

このうえは一刻もはやく学術調査を行い保存を行うことこそが
最善の道だと思います。
65日本@名無史さん:01/12/12 14:16
なんか景行天皇かどなたかの陵と、別の天皇の陵が間違っていて、
祟りで悪疫がはやったとか、正史に書いてなかった?
狂牛病と大不況は、神武真陵をまつっていないことの祟りだっ!
てなうわさを広めて、宮内庁動かそう。
66日本@名無史さん:01/12/13 23:53
>65
それなら神功皇后陵モナー

『続日本後紀』承和十年(843)四月
突如、陵が雷鳴の如く鳴動したため、調べたところ、
従来、神功の祟りに対して謝する際、世人の口伝に従ったため、
誤って成務陵を神功陵としていたことが判明。
使者を発遣し、あらためて祀りなおしたという。
67日本@名無史さん:01/12/14 18:08
>>66
神功皇后陵の例からいくと、神武陵も九世紀頃には既に間違って治定されていた
可能性もあるね。そうなると真陵かどうか(少なくとも天武朝の「神武陵」かどうか)
は、決定的な結論の出しようが無く、状況証拠から推測するしかないのかもしれない。
68日本@名無史さん:01/12/15 17:39
>67
そりゃもうあらゆる天皇陵について言えることでしょう。
令制の陵戸を置いた時点で既に間違っているかもしれないし。
69日本@名無史さん:01/12/16 15:34
宮内庁の限定陵墓公開って今でもやってるの?
70日本@名無史さん:01/12/16 16:26
やっとる。

あと関係ないが二、三年前に成務陵が単なる中世の砦だと言うことが判明したんじゃなかったっけ?
71日本@名無史さん:01/12/16 18:32
11月22日の毎日新聞奈良版によれば、塚山の北90mの所で、
藤原京の西六坊大路を検出、推定では、塚山の東15mの所を
西六坊大路は通過するそうな。
やはり、藤原京期の神武陵は塚山(現綏靖陵)なのかな。
でも、神武田と呼ばれた場所も神武という言葉が残るだけに、
なにかあったと思うのだが。
72日本@名無史さん:01/12/19 13:42
>71
「田」の字から考えて、陵戸田があったと考えるのが最も自然なのでは。
73日本@名無史さん:01/12/19 14:27
神武天皇の正式名「カム・ヤマト・イワレ・ビコ・スメラ・ミコト」は
「サマリアの大王・神のヘブライ民族の高尚な創設者」という意味らしいです。
74日本@名無史さん:01/12/19 15:24
>>70
それは安康陵だよ。
成務陵は前方後円墳、で、渡土手からも埴輪が出たんじゃなかった?
75日本@名無史さん:01/12/20 01:59
>>74
そだった。すまそ。
安康の墓は方墳と呼ぶにはあまりにもいびつなんだっけ?
76日本@名無史さん:01/12/20 02:04
>75
数年前に宮内庁の修陵調査が入って、中世の遺物しか出ないことが正式に確認された。
まあ、だからといって陵墓治定の見直しはどうせしないんだろうけどね。
77日本@名無史さん:01/12/20 13:46
>76
その調査って確か限定陵墓公開の対象になった筈。
テレビのニュースでもやってた。
見に行った人いるんじゃない?
78日本@名無史さん:01/12/20 20:43
あのさ、「神武天皇」はおらんかったけど、
「故国日向から亡命したサヌ」はおったと思うわけ。
「神」「ミコト」なんて仰々しい美称とったら
「ヤマトイワレヒコ」つまり「大和のイワレ地区の区長」てなもんじゃろ?
だから、その当時のお墓なんて、後世わからんようになったちまう。

で、「欠史八代」からミマキイリヒコ経て、当時の
「中枢」たるマキムクに進出した。八代の事跡を初代と祟神に集約しつまった。
んでもって
「マキムクを制する者は大和クニナカを制し
 大和国中を制するものはオオヤマト(関西)を制し
 大倭を制するものは日本を制す」
てなことで、拡大して言ったと思うだべ。
79日本@名無史さん:01/12/21 00:26
>78
このスレはもっぱら天武朝に治定された神武陵の話題で進んでおりますので、
あなたのような話題を展開する方にはあまり適していないように思います。
「神武の実在/不実在」を議論したいのならよそへ行ってください。

■■神武だけど朕に何用か?■■
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1002326930/

★「神武天皇を崇拝するスレッド」★
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1007107227/

神武天皇はね、ちょんなの ワカル
http://mentai.2ch.net/test/read.cgi/history/1007119331/
80日本@名無史さん:01/12/21 13:56
山田邦和さんが京都の文献史学系の研究会で
神武陵のことを報告されたらしいのですが、
どなたか内容ご存じありませんか?
まだ論文にはなっていないようです。
81日本@名無史さん:01/12/21 17:38
>80
それ、「葬儀・来世観研究会」ってやつじゃないかな?
漏れは行ってないけど。
82日本@名無史さん:01/12/22 00:21
山田さんの陵寺の理解はちょっと古いよね。
森浩一氏のお弟子だから師匠の説を受け継いでいるのだろうけど。
(軽寺=見瀬丸山の陵寺、等)
83日本@名無史さん:01/12/22 19:00
日本史を専攻されておられる現「ひつぎのみこ」が
天つ日継ぎを御受けになられたおりは、
是非各「陵墓」の調査、見直しを行うべきである。
あたらしきスメラミコトの御希望なら、宮内庁のメンツもたつ。

調査一号は「大山」。次に「現継体陵」または「神武陵」
84日本@名無史さん:01/12/22 22:51
「継体陵」(大田茶臼山)の被葬者は意富本杼王でほぼ決まりでは?
85日本@名無史さん:01/12/23 18:30
意富本杼王って誰ですか?
86日本@名無史さん:01/12/23 18:39
允恭のカミサンの兄貴だよ。

┌意富本杼王

└忍坂之大中津比売命
   ┃        ┌木梨之軽王
   ┠─────┤
   ┃        └穴穂命(安康天皇)
 允恭天皇
87日本@名無史さん:01/12/23 23:07
「允恭陵」と現「継体陵」って、平面形が全く同一なんですよね。
それで、同じ世代で姻戚関係にもある允恭天皇陵と意富本杼王墓に比定する説があります。
88日本@名無史さん:01/12/24 20:54
>87
それと墓山古墳を合わせて「三つ子の古墳」と言われてるね
89日本@名無史さん:01/12/24 22:03
>81さんへ
「葬儀・来世観研究会」とはどのような研究会なのですか。
連絡先とかわかれば、ぜひ教えてください。
私も山田さんの発表に興味があります。
90日本@名無史さん:01/12/24 23:35
オレ、橿原神宮近辺に住んでるのに何にも知らない(泣
みなさんよくご存知ですね・・・
オレにとって畝傍御陵はホットドックを買いに行くとこ、
藤原京はキャッチボールをするとこなんで・・・
そう言えば、皇室に慶事があったことだし、また橿原神宮に
来るんですか?それとも既に来た?
また近所のおばちゃんが朝から見に行くだろうな・・・
91日本@名無史さん:01/12/26 00:59
>90
そうそう、何故かホットドックの屋台がいますよね!
結構みんな車停めて買ってるのを見るけど、おいしいんかな。
俺はまだ食ったことないけど。
92日本@名無史さん:01/12/26 01:02
>89

葬儀・来世観研究会ですが、
例会情報は↓に載っていますので、一度連絡されてはいかがでしょう?

http://www.kyoto-phu.ac.jp/labo/kyouyou/eijuszk/kyotominka/kyotominka.html
9390:01/12/26 23:11
>>91
とてつもなくウマイです!
まさに、畝傍御陵の真ん前にいます。夏場はいませんが。
94日本@名無史さん:01/12/27 00:01
>>93
皇室ゆかりの材料とか入ってるの?
麻の葉っぱとか。
95日本@名無史さん:01/12/27 00:07
>93
そうなんか。ありがと。
ほな、いっぺん食べてみるわ。
9690:01/12/27 23:37
>>94
いや、普通(w
でも、カレー味のキャベツ(?)が絶品です。

>>95
ぜひ!でも正月にはニセモノが出てきますので要注意。
おいしいのは「ふじや」ですよ。
97日本@名無史さん:01/12/30 01:26
初詣は橿原神宮へ!
98日本@名無史さん:01/12/30 08:55
>>90
近所の万葉ホールの図書館は資料が充実してるぞ。
9990:01/12/30 22:37
>>98
近所なのに1回も行ったこと無し(w
1度行ってみます。
100日本@名無史さん:02/01/01 03:40
100ゲット&2002年TOP!
10190:02/01/01 20:27
今年も橿原神宮はDQNがいっぱいわいてるだろうな・・・
特に畝傍御陵の前はヤンキーの格好の溜まり場。
102日本@名無史さん:02/01/02 00:15
>101
右翼モナー(ワラ
……あ、ウヨもDQNだったか。こりゃまた失礼しました。
10390:02/01/02 01:04
>>102
そうそう!それがあったね(藁
でも確か彼らは元旦より後にくるね。
駐車場にドーンてなかんじでさ。
今年も、あの屋台の雑なお好み焼きと甘酒を買いに行かないと
正月が来た気がしないよ。
104日本@名無史さん:02/01/07 04:45
神武陵の参道はどうして曲がっているのだろう?
105日本@名無史さん:02/01/09 00:34
>104
ロケット弾による狙撃を防ぐためではないかと思われ (ワラ
106日本@名無史さん:02/01/09 02:47
宮内庁が陵墓指定を見直さないのは、
1. 天王星がらみで政治問題化する。
2. 新しい陵墓を追加する金もない。
ということだって。
107日本@名無史さん:02/01/09 16:41
>>106
明らかに間違っている陵墓を外せば(地方自治体に管理を押しつければ)
経費削減になるんじゃないの?
10890:02/01/10 01:39
>>107
我が橿原市にそんな金は・・・
109日本@名無史さん:02/01/10 14:30
>>108
ホットドッグ税を取れ。
11090:02/01/12 03:28
>>109
桜井から天理に行く道にも系列があるので是非!
おいし〜(*^o^*)
111日本@名無史さん:02/01/14 01:05
天皇は伊勢まで来たのに橿原には来なかったね。
伊勢志摩ライナーに乗る天皇皇后。
112日本@名無史さん:02/01/24 21:03
ホットドッグあげ
113日本@名無史さん:02/01/28 00:53
洞村の資料館、朝日にも載った。

http://mytown.asahi.com/nara/news01.asp?kiji=1779

移転前の洞村部落を再現した地形模型の写真がある。
畝傍山の山すそに広がっていた旧部落の様子がよく分かるのだが、
しかし、神武陵を見下ろすっていうほど高所にあるわけでもない。

要するにそれは強制移転の為の単なる取って付けの理由に過ぎないのだろう。
真の理由は言うまでもない。
114鳩子:02/01/28 01:56
このスレためになる。
神武陵域内に寺院跡があったなんて全然知りませんでした。

何年か前に、神武陵近くの大久保町に万葉集に出てる桜児の塚を探しに行った
けど判りませんでした。やはりもう残ってないんでしょうね。
まああくまで伝承にすぎないというのは判ってるんですけど。
115日本@名無史さん :02/01/28 21:19
>真の理由の中には、洞村にあった丸山こそが、神武陵であるという考えも
あったのであろうか。
116日本@名無史さん:02/02/01 12:27
117日本@名無史さん:02/02/04 21:05
>113
もう見れない (; _ ;)
118日本@名無史さん:02/02/21 21:04
神武陵拡張のために被差別部落だけが犠牲になった、
というのは俗説、誤りのようだ。
高木博志「近代における神話的古代の創造―畝傍山・神武陵・橿原神宮、三位一体の神武「聖蹟」―」
京都大学人文科学研究所『人文学報』83号、2000年において、
洞部落移転以前の1890年と1901年にすでに一般村の民家移転があったことが論証されている。
119日本@名無史さん :02/03/12 22:35
洞村の資料館は、もう開館したの。
だれか行った人いる?
120日本@名無史さん:02/04/10 21:21
ほぞんあげ
121日本@名無史さん
作られたのは慶応時代?