2 :
日本@名無史さん :01/11/17 15:14
2
3 :
日本@名無史さん :01/11/17 18:05
>前スレの979 >高群逸枝、関口裕子、義江明子さん達のご努力に関わらず、母系・双系論はあまり >支持者が無いが。。。まあ当然だろう。 つーかそのへんは「父系母族」論であって「母系」じゃないだろ?
4 :
日本@名無史さん :01/11/17 18:38
しかし尾張側にとっては協力したものの敗北という感じではないかね
5 :
日本@名無史さん :01/11/17 19:12
>>3 うん。正確に言えばそういうことだろう。しかし古代日本に母系・双系制があったと錯覚さ
せるような論を展開してるのも事実じゃないかな?
古代古代系譜様式論。。。「氏から家を貫く基層の親族原理として、双系性・非血縁性を論じ」
>>4 いや、単なる地方王族に娘をやったら、偶然にも天皇外戚に成ったんだ。
ハッピー。。。ってとこじゃないの?
別に継体擁立に努めたわけでもないし、磐井の反乱鎮圧に犠牲をはらった
わけでもない。
6 :
日本@名無史さん :01/11/17 23:40
しかし近江と越前が通婚し、さらに越前と尾張が通婚したってことは、当時の豪族 間の関係がかなり緊密だったことが窺える(ガイシュツか?)。 だが尾張にしても娘を越前クンダリにやるってことは、けっこう男大迹の将来性を 読んでいたのかも知れん(これもガイシュツ?)
7 :
日本@名無史さん :01/11/18 00:00
男大迹はもともと朝廷内ではそこそこの有力者だろう。 政治勢力としては馬の骨ではない。 ただ応神5世孫というのは血統的には馬の骨。
8 :
日本@名無史さん :01/11/18 09:54
>>7 はいはい。。。馬肉の骨付きカルビがお好きなようで(藁
応神五世孫として、朝廷(?)内でそこそこの有力者であり、他の有力者を差し置
いて結果的に大王に推戴された人物なんだろ?
その人物を馬の骨と言うのは勝手だけれど、それじゃ牛の骨ってどんな人物のこと
を言うんだろう。。。(藁
ニクコプーン?
>>8 「どこの牛の骨」って言う日本語は無い。知らなかったのか?
要するに、男大迹は応神系統の王族の中でも、安康・雄略の生母である忍坂大中姫を出して、 ある種の大王家外戚的な地位を得た一族の長であり、近江・越前に勢力を持った有力地方王族 として、倭国内でも良く知られた人物だったのだろう。。。だから東海の有力豪族である尾張 氏が娘を差し出し、百済武寧王もよしみを通じようとしたのではないか(隅田八幡鏡・・・・ ただし疑問点もあるだろうが。。。) 大王家の重臣達が危機にひんした大王家の後継者として彼を担いだのは、そう言った血統と実 力を認めたからでもあろう。(実力を持つ重臣達が自ら大王の地位を求め得なかったのは、や はり大王家血統と言う点で彼に比肩しえなかったからと見るべきだろう) 稲荷山銘文の解釈については、いろいろな議論もあったが、やはり三世紀から五世紀にわたる 8代(世)の男系血統系譜を示すものと考えるのが妥当だろうし、男大迹の即位当時の有力豪 族(王族)の血統系譜が衆知のものであったことを示す極めて有力な資料と考えるのが妥当で あろう。 ということで。。。男大迹は応神五世孫という大王家の血統と、近江・越前・尾張における勢 力を背景に大王家重臣達から大王に推戴され、先代大王の血統を保つ手白髪姫との結婚(さら に後継者足り得る男子にも同様の配慮を行い)により大王家重臣達に安心感を与え、その政権 基盤を強化した。 さらに結果的に双系を保つ嗣子(欽明)を得ることで、さらに血統的正統性を強化することに よって大王家の血統を53世(継体1世として)におよぶ現在に伝えた人物だと言うことにな るだろう。(神武1世としての72世は兎も角として。。。)
12 :
日本@名無史さん :01/11/18 21:56
百済ないスレ。
13 :
日本@名無史さん :01/11/18 22:10
神武天皇1世から今上天皇72世ってことは、万世一系を信じてるってことか?
14 :
日本@名無史さん568 :01/11/19 01:17
>>13 さん、丁寧によく読んでみましょうね。
「兎も角として。。。」って系譜さんがおっしゃってるじゃないですか。
肩肘はらずにもっと気楽に考えたいなあ。
15 :
日本@名無史さん :01/11/19 08:50
>応神五世孫として、朝廷(?)内でそこそこの有力者であり、他の有力者を差し置 >いて結果的に大王に推戴された人物なんだろ? 「応神五世孫」というだけならたくさんいただろう。 実際、倭彦王とか他の候補が居たろ。 「応神五世孫」だけでは武烈後の第一候補たるにはやや不足だったんじゃないか、 「朝廷(?)内でそこそこの有力者」だったことも大きいだろう。
おっしゃるとおりかと。。。
そう言う人物がどうして「血統的に馬の骨」なんだ? ってのが
>>8 の
文意。丁寧によく読んでみましょうね!
三国湊を通じて高句麗に影響を持っていたために推戴されたと聞きました
18 :
日本@名無史さん :01/11/19 09:20
>そう言う人物がどうして「血統的に馬の骨」なんだ?
しつこいね。じゃ牛の骨でもなんでもいいよ。
>>17 継体天皇が外国事情に通じていたようには思えないけど・・・
外交では失策の方が多いんじゃ・・・
19 :
日本@名無史さん :01/11/19 09:22
>熊襲 誰に聞いたの? 継体は即位後に新羅に戦を仕掛けたけれど、良かれ悪 しかれ高句麗とはあまり関係しなかったように思うけど?
20 :
日本@名無史さん :01/11/19 09:42
>>18 コメントにお答があれば「しつこい」っておっしゃるの?
なら・・・何のためにコメントなさったのかしら?
(これタダノ感想だから、ご回答はいらないけど・・・)
21 :
日本@名無史さん :01/11/19 10:15
「しつこいね」もタダノ感想なのでは?
22 :
日本@名無史さん :01/11/20 15:50
五世孫なんて二世孫、三世孫からみればただの馬の骨。
23 :
日本@名無史さん :01/11/20 18:34
やに馬の骨にこだわるじゃない(藁 いいか。。。足利尊氏なんてのはとても源家の嫡流とはいえない。アンタの定義 なら【ただの馬の骨】も良いとこだ。だが一旦北条の権威が揺らげば、源家の血 統がモノを言って、彼より力のある諸国の武士も挙って彼を武家の頭領に祭り上 げるんだよ! もちろん、同じように源氏の血統を受け継いでいても、既に落剥している奴はお 呼びじゃないが、かといって逆に勢力だけでは誰も武家の頭領とは認めない。 これが【血統社会】ってものなんだ。つまり足利尊氏は武士達にとっては【ただ の馬の骨】じゃあ無いんだよ!
24 :
日本@名無史さん :01/11/20 21:36
>>23 で、尊氏は誰の後を継いだの?どんな地位を継承したの?
北条は誰が祭り上げたの?
血統社会だって。。。(藁藁
25 :
日本@名無史さん・援軍 :01/11/20 22:04
>>24 足利尊氏は武家のトップを継承した。
戦になると、より権威のあるほうが人を集められる。
中下級の武士にとって「勝ちそうな側に味方する」
のか「敢えて逆の側に味方する」のかは死活問題。
鎌倉将軍と北条執権の関係は、
かつての「皇室と藤原氏」の関係に似ている。
トラの威を借りるキツネなんだよね、北条って。
ところで
>>24 よ、何でそうも「樟葉」さんや
「系譜」さんに敵意をあらわにするわけ?
自分の意見があるなら、ちゃんと主張しなよ。
他人の意見にチャチャ入れてばかりいないで、
自分の意見に至る理由を語ったらどうなんだ?
自分の意見を主張することと、他人の意見を
けなすのとは全然意味が違うんだよ?わかる?
26 :
馬の骨っていってる人 :01/11/20 22:28
>>23 あのー。「馬の骨云々」を言い出した者ですが
>>22 、
>>24 は漏れではないです。
継体天皇の頃と中世をいっしょには語れないでしょう。
まず、継体を「馬の骨」といったのは、血統に価値が無い、ゼロだということではなく、
「応神五世孫」程度の皇族は当時少なくなかった(馬の骨)だろう、だから
継体がその中で抜きん出たとすれば、血統とは別に(血統に加えて)
政治的な実力者という要素もあったのではないか。ということです。
足利尊氏は「源氏」という特定の筋が皇室への近さとは別種の権威をもっているので話が違います。
具体的には八幡太郎義家の武門の棟梁としての権威付け、神話化が鎌倉幕府開設までの間に
形成されたことによって、五世孫よりも遠縁であっても尊氏は名門出身とやはりいえるでしょう。
中世の話はスレちがいなので、文句のある人はこれ以上は他のスレでお願いします
こんな議論に余り関わりたくはありませんが、24さんのご意見は論点が少しずれ ていませんか? 23さんがおっしゃっているのは、尊氏が誰の後を継いだとか、地位を継承したと か言うことではありませんね?何故全国の武士達が北条打倒の旗を揚げた尊氏の下 に馳せ参じたのか。。。これは鎌倉時代において全国の武士から源氏の血統継ぐと 認められていた有力者は傍流ながらも足利尊氏であり、その血統が決め手だった。 (北条はそう言った血統を持っていなかったから、権力はあっても傀儡将軍を立て ざるを得ず、執権と言う地位に甘んじるしかなかったのですね。) こういった当時の血統の重さを「血統社会」と呼んだおられるのではないでしょうか? 確かに天皇や摂関貴族から見れば、源氏の末流尊氏は「ただの馬の骨」だったかも知 れません。応神五世孫の男大迹だって武烈から見れば「ただの馬の骨」だったかも知 れませんね。 でも鎌倉武士にとっては、足利尊氏は「ただの馬の骨」ではなく、鎌倉幕府の有力者 のなかで武家頭領の血統を保つ「貴種源氏の骨」だったと言えるのでは無いでしょう か? 同様に6世紀の古代社会における豪族達にとっては、男大迹は「ただの馬の骨」では なく、倭国の豪族のなかで大王家の血統をより濃く保つ「貴種応神の骨」だったと言 えるのではないか。。。とおっしゃってるのだと思います。 あなたは、どうして足利尊氏が鎌倉武士達から頭領として担ぎ上げられ、男大迹が大 王家の重臣達から大王に推戴されたとお考えでしょうか? 僕は、彼等の血統=言い換えれば「骨」によるものだと思いますが如何でしょうか?
>>26 了解しました。。。まさに貴方の言われる
>血統とは別に(血統に加えて) 政治的な実力者という要素もあったのではないか。
>ということです。
政治的な実力者であることを認めた上で、この「加えて」という要素の重さを言っ
てるんです。何故ならば「実力者」という意味では大伴・物部・阿部・巨勢・蘇我
等も決して男大迹に劣るとは思えないんですね。あるいは尾張や磐井だってそうか
もしれないでしょう?
しかし、彼等(磐井はさておき)は何れも大王家継承候補者とはなり得なかった。
だからそこには豪族社会が認める「血統」の重みがあったと思うのですよね。
また、仁徳系の王族は凄まじい継承争いによって殆ど自滅状態だったと思うんです
よね。その中では応神五世孫程度の王族は少なくなかった(馬の骨)。。。とは言
えない状況だったのではないでしょうか?
(決して皆無状態だったとは思いませんが、王族としての矜持を保ち、重臣達から
一目置かれているレベルの王族は、さほど多くはいなかったのでは?)
と言うことで、この問題は単なる「言葉」の問題のように思いますので、これくら
いにしておきたいと思います。
>>19 失礼しました。自分の説としては新羅に戦争を仕掛ける前提条件として
高句麗と手打ちをする必要があって、そのため高句麗との因縁浅からぬ
オオドノキミを天皇に迎えたのではと考えているのです。
30 :
日本@名無史さん :01/11/21 00:11
「高句麗との因縁」自体がかなりあやしい。直接の根拠はないと思う。
31 :
日本@名無史さん :01/11/21 02:40
熊襲氏の言うことは確かに論拠薄弱の面なきにしもあらずかも知れない。 ただその後の朝廷の外交政策の活発さなどを見ていると(結局成功しなかったが) この時期朝廷豪族達が半島の状況に明るい人間を推戴しようという意図は ありえたかもしれない。その点で越前に縁を持つ継体という要素もあったかも。
32 :
日本@名無史さん :01/11/21 09:19
>>25 チャチャにしろ反論にしろ
それを敵意と考えるとは。
なんとも心の狭い援軍だこと。
それにしても
鎌倉将軍と北条執権の関係を
虎の威を借る狐とは笑止。
33 :
日本@名無史さん :01/11/21 09:28
蘇我氏が有力な部族になったのは継体との結び付きが大きかったと 思われるが。 しかしいまいち蘇我と百済の関係がよくわからんのは辛いなあ。
この系図上でいえばオオドノキミの祖母、久留比売命が高句麗出身者だったのではないかとも考えています 乎波智君 ‖────振姫 阿那爾比売 ‖─────継体天皇 ┌彦主人王 ‖ 久留比売命│ ┌─手白香皇女 中斯知命 ‖───┘ │ 応神天皇─┐ ‖──乎非王 │ ┌─←─←─┘ ┌─意富々等王 │ └→若野毛二俣王─┴─践坂大中比弥王 仁賢天皇│ ‖──┬─安康天皇 ‖──┴─武烈天皇 允恭天皇└─雄略天皇┌春日大郎皇女 ‖──┘ 春日和珥深目女
35 :
日本@名無史さん :01/11/21 10:17
比売ってどういう意味があるの?
久留比売命のよみはおそらく「クルヒメノミコト」 よその土地から来航して久しくとどまっている姫と いう意味ではないでしょうか?
37 :
日本@名無史さん :01/11/21 12:52
>>36 熊襲さん
前スレ
>>255 、
>>874 でガイシュツだけど、久留比売は牟義都国造名伊自牟良君女子ってなってるね。
>生児乎非王、娶牟義都国造名伊自牟良君女子、名久留比売命、
これについては、
>>375 美濃の薄墨桜の話もでてたよ!
38 :
日本@名無史さん :01/11/21 21:25
>蘇我氏が有力な部族になったのは継体との結び付きが大きかった 蘇我氏が大臣になったのは宣化朝から。
39 :
日本@名無史さん :01/11/21 21:32
>>38 継体は宣化の親父。
親父の代にコネが出来て、息子の代で大臣まで昇りつめたわけだが、
レスの意味は何?
>>38 >>39 「書紀」履中紀二年条に「平群木菟宿禰・蘇我満智宿禰・物部伊呂弗大連・円大使
主、共に国事を執れり」とあり。。。その子蘇我韓子宿禰が新羅で戦死しています。
また「古語拾遺」雄略期に「更に大蔵を立てて、蘇我麻智宿禰をして三蔵を(斎蔵
・内蔵・大蔵)を検校せしめ。。。」とあります。
しかし円大臣家は雄略期に眉輪王事件で没落し、さらに平群大臣家も武烈期に凋落
しますね。そこで同じく武内後裔氏族で、財政担当として秦・東漢・西文等の渡来
系官僚を統括し、半島にも進出していた蘇我氏が円・平群の代替勢力として継体期
以降勢力を拡大したのではないでしょうか?
(言うならば、藤原南家・北家・式家・京家の対立のなかで、北家が抜き出たよう
なものだと思います。。。)
41 :
日本@名無史さん :01/11/22 00:44
つまり履中〜雄略期に、それなりに頭角をあらわしていたが、 その頃はまだ武内後裔氏族のひとつにすぎなかったと。 武烈〜安閑朝の間は、武内後裔氏族の総帥(平群氏の後釜)の座が確定しない調整期間だったのかも。 で、最終的に宣化朝で蘇我氏が武内後裔氏族の頂点に。・・・ということ。 継体とのコネが云々というのは、なんでそんな想定をする“必要”があるのかよくわからない。
42 :
日本@名無史さん :01/11/22 20:47
43 :
日本@名無史さん :01/11/23 01:02
安閑・宣化スレも同時進行のようだね。やはり今城塚発掘で注目されてるのかな。 ところで、前スレの1は発言してるんだろうか?
44 :
日本@名無史さん :01/11/23 01:24
熊襲さん、前に読んだ本で応神天皇五世の孫と記憶して いましたが、本当ですか?
45 :
日本@名無史さん :01/11/23 08:33
>>44 過去レス読んだうえでの含みのある質問か? それともただのアホか?
46 :
日本@名無史さん :01/11/23 08:58
強制連行五世の孫のパクリです。
さて。。。それでは
>>13 さんの挑発に悪乗りして、敢えて【禁断】の応神以前
の系譜に踏み込んでみたいと思います(W
ガイシュツのとおり「稲荷山銘文」「上宮記」系譜は次のとおりとなっていますね。
(開化) (孝元)
│ │
(崇神) (開化)
│ │
(垂仁) (崇神) (孝元)
│ │ │
(景行) 伊久牟尼利比古(垂仁) 意富比(土危)
│ │ │
(小碓) 大碓 伊波都久和希 多加利足尼
│ │ │ │
(仲哀) 押黒弟日子 偉波智和希 弖巳加利獲居
│ │ │ │
応神 XXX 伊波已里和氣 多加(土皮)獲居
│ │ │ │
若野毛二股 XXX 麻和加介 多沙鬼獲居
│ │ │ │
意富富抒 伊自牟良君 阿加波智君 半弖比
│ │ │ │
乎非――――――――久留比売 乎波智君 加差(土皮)余
│ │ │
汗斯―――――――――――――――――――布利比売 乎獲居臣
│
男大迹
あれ? スペースがずれて、わけ分からなくなってるけど。。。 まず稲荷山銘文の上祖【意富比(土危)】が【大彦】【大毘古】だとすれば、彼は記紀では孝 元の子で開化の兄弟とされており、阿部氏・膳氏らの始祖とされている。一方【武蔵国造】 は【膳氏】の支族とされているので、乎獲居臣は大彦を通して孝元に遡る系譜伝承を伝えて いる可能性がある。 また「上宮記」の布利比売は垂仁に遡る8代の系譜を示しているが、記紀において垂仁の子 である石衝別=磐衝別(伊波都久和希)は、羽咋君・三尾君の始祖とされており、これも垂仁 に遡る系譜伝承を伝えている可能性がある。 同じく久留比売は牟義都国造の出自とされているが、記紀において景行の子(垂仁の孫)で 小碓(倭建=日本武尊)の兄大碓は美濃の身毛津君の始祖とされているので、大碓を通して 景行に遡る系譜伝承を伝えている可能性がある。(先代旧事本紀にも同様の系譜伝承) これらの系譜に何らかの根拠を認めるならば、開化・崇神(あるいは孝元)までの大王系譜 についても、その真実性を考えるべきかも知れない。。。
49 :
日本@名無史さん :01/11/24 22:12
乎獲居臣の御先祖である意富比(土危)が【大彦】【大毘古】で孝元の子供だとしたら、 どうして御先祖を【国牽・国玖琉(孝元)】だと言わないんだろうか? 後世の言い方では桓武平氏とか清和源氏とか御先祖の天皇を氏族の名前にしてるし、 そのほうが氏族の格が上がるとおもうんだけど。
>>49 確かにそうですね。。。これについて次のように考えたんだけど、
@ 意富比(土危)と大彦は、たまたま時代や名称が類似してるだけで、まったく無関係の別人物。
A 意富比(土危)と大彦は同一人物だが、大彦と孝元には本来血統関係はなく、親子とするのは
後世の政略的系譜操作によるもの。
B 後世に桓武平氏とか清和源氏と言うのは、賜姓が「源・平」に固定したためで、その前の
真人賜姓時代は天皇名と結びつける習慣はなく、むしろこれが本来の分離氏族制度?
(例えば「淡海真人氏」は「天智淡海真人」なんて言わない。。。ただし系譜を示す時には
天智から始めるかも知れないから例証としては不充分。。。)
と言うことで、@は偶然にしては出来過ぎと言う気がするし、Aであれば国玖琉(孝元)に関
する系譜が別に存在した可能性が出てくる。
と言うことで一応Bの可能性もあると考えて見たものですが、疑問がのこるのは確かですネ。
継体天皇は本当に応神天皇のヒヒヒ孫だけど、 そんな遠縁見とめねぇよヽ(`Д´)ノワァァァァァンな勢 力によって畿内に入れてもらえなかっただけだと 思われ。
(続き) で。。。こういった上祖(始祖)表現についてみる場合、参考になるものとして船氏(船王後)、 石川年足、威奈大村の墓誌における系譜(始祖)表現があります。 船王後墓誌(668?)「惟船氏故 王後首なる者は是れ船氏中祖 王智仁の首の児那沛の首の子也」 石川年足墓誌(762)「武内宿祢命の子、宗我石川宿祢命の十世の孫、従三位行左大弁石川石足の長子」 威奈大村墓誌(707)「檜前五百野宮御宇天皇(宣化)の四世、後岡本聖朝の紫冠威奈鏡公の第三子也」 ここで、威奈大村は宣化四世と天皇家起源を示していますが、石川年足は当時公認されていた 「孝元」や「武内宿祢」ではなく、あくまで「宗我石川宿祢」を始祖として十世孫としています。 また船氏も中祖である「王智仁」を始祖としています。だからどうだと言われるかも知れません が、一つの参考になるかもしれません。 (武内宿祢)―蘇我石川―満智―韓子―高麗―稲目―馬子―倉麻呂―連子―安麻呂―石足―年足
53 :
日本@名無史さん :01/11/25 13:46
54 :
日本@名無史さん :01/11/25 21:07
宣化天皇の子孫てのは、どれくらい出世したの? もし安閑・宣化天皇と欽明天皇とが対立してたとしたらかなり冷遇されたろうけど?
55 :
日本@名無史さん :01/11/25 21:15
コピーやめれ。
56 :
日本@名無史さん :01/11/25 23:01
57 :
日本@名無史さん :01/11/25 23:30
まことにつかぬことをうかがいますが 「やめれ」というのは「やめろ」 という命令形が変化した何処かの方言ですか?
>>54 記紀では安閑には男子の記述がなかったと思う。
宣化の男子では上殖葉(恵波)皇子と火焔(火穂)皇子だけど、子孫はそれぞれ多治比・威奈真人
となってます。
多治比真人は4世孫の多治比島が天武により賜姓され正二位左大臣。その子池守が従二位大納言、
県守が正三位征夷将軍中納言、広成が従三位遣唐大使中納言、孫の家継が造東大寺次官等。。。で
結構出世している。
威奈(為名)真人は4世孫の威奈石次が壬申の乱で大友側について逃走、威奈大村が正五位越後
城司で惜しくも没。石次の子石前が右京大夫(従四位相当)。。。で余りたいしたことはないが、
特に冷遇されたわけでもないと思う。
59 :
日本@名無史さん :01/11/26 00:14
>>58 厚遇か冷遇かと問われれば、冷遇かと思われ。
大和系豪族や皇族出の母親じゃないからね。
何か論点がずれてるんじゃないの?。
宣化天皇の皇子達が母親の出自の関係で皇位に付けなかったとしても、これは継体天皇と先代の血を引く
手白髪皇女との間に生まれたピカピカの欽明天皇とではもともと勝負にならないだろうから、別に冷遇
ってわけじゃない(これを冷遇っていうなら天皇になれなかった皇子は全部冷遇されたって事になるよ)
それにここで問題にしてるのは、宣化天皇の子孫達が欽明天皇との対立関係で皇孫として冷遇されたかど
うかなんだよ。
漏れは
>>58 の言ってるのが事実かどうかは知らんが、仮に四世孫が大臣クラスで五世孫が大納言クラ
スになってるのなら、客観的に見て決して他の皇孫に比べて冷遇とはいえないんじゃないの?
61 :
日本@名無史さん :01/11/26 16:21
>>57 「やめれ」とか「思われ」とかは2ch用語
あんがとさんです。。。なにせビギナーなもんで。
63 :
日本@名無史さん :01/11/26 20:04
あと「見れ」とかも
64 :
日本@名無史さん :01/11/26 23:40
確かに冷遇とはいえないだろう。しかし気を付けないといけないのは、宣化天皇の 子孫が欽明系の天皇が続く中で冷遇されなかったとしても、だからといって直ちに 安閑・宣化天皇と欽明天皇との間に皇位継承を巡っての軋轢がなかったことを示す ものではないってことだね。 両者の間で和睦・融和が図られた結果かも知れないし、欽明系の皇子間の激しい継 承争いの中で、隠忍超然たる位置を占めていたことが幸いしたかも知れない。 (天武系皇子の粛清が続く中で、継承位置から離れていたことで、天智系の白壁王 がタナボタ的に皇位を得た例もある) しかし一般的に言えば、両統の対立というほどの事態があれば(仮に和睦があった としても)敗者の子孫は次第に疎外され凋落するだろうから、四世孫が天武時代に 至るまで朝廷内部で健在だったと言うことは、さほど深刻な対立はなかったと見る のが妥当だろうな。
ケータイ天皇
66 :
日本@名無史さん :01/11/27 10:19
何れにしても百済ないレスだ。早々にやめれ!
67 :
日本@名無史さん :01/11/27 11:02
またまた百済ない質問だけど(w 天智天皇と天武天皇の△だった額田女王って、宣化天皇の子孫だっての は本当?
68 :
日本@名無史さん :01/11/27 12:10
>>66 百済なくないよ。
戦国・三国志板と同レベルのスレばかりふえる昨今、数少ないまともなスレじゃないか。
69 :
日本@名無史さん :01/11/27 14:54
自問自答の多いこのスレのどこがまともなスレなのだ?
ハア? 少なくとも漏れはこのスレで自問自答したことはないよ。 「臣籍中最上位の皇位継承者は誰」ってスレでは自問自答よくやるけど。
71 :
日本@名無史さん :01/11/27 15:46
なるほど。そーいわれればそーゆー気がせんでもない。 これからは自答のまえにお前が他答してやれや。
66=69=71は前の方で論破されて無知をさらした恥かき厨房だろ(w ほっとけ、ほっとけ。
74 :
日本@名無史さん :01/11/27 16:47
>>73 論破とか無知とか厨房とか、貧相な語彙の持ち主だこと(藁
75 :
日本@名無史さん :01/11/27 17:05
どうでもいいけど漏れが自問したときは誰か自答してよ。 (日本語にナットランか?)
>>74 鸚鵡返しだね(w
百済ないと思うならくるなyo
77 :
日本@名無史さん :01/11/27 17:10
>>75 自答させていただきます。
日本語にナットラン。
78 :
日本@名無史さん :01/11/27 17:14
>>76 鸚鵡返しとは「相手の言葉をそっくりまねて応答すること」である(w
勝手に「=」でくくるなyo
79 :
日本@名無史さん :01/11/27 17:22
>上で喧嘩してる連中 訳分からんからやめてくれ
ここは継体スレであるによって持統やオウムに関するレスはスレ違いじ ゃ。。。速やかに逝くがよいぞ。
81 :
日本@名無史さん :01/11/28 10:56
けっきょく額田女王はどうよ?
82 :
日本@名無史さん :01/11/29 00:06
>>67 額田姫王はんどすか。彼の御人の消息やったらなんちゅうても天武はん2年の「天皇初娶鏡
王女額田姫王生十市皇女」どっしゃろ。はやい話が鏡王はんの娘はんどすな。
やっぱりお天子さんの末どっしゃろけど、かなんことに鏡王はんのことはなんも書いたあれ
しまへん。鎌足はんのご内室の鏡女王はんのご姉妹や言う御人もいやはりまっけど、これも
ようわかりまへん。
そやけど鏡王はんは威奈鏡公のことかも知れまへん。そないなったら宣化天皇さんの四世の
末になりまんなあ。あの御人の奔放不羈な御気性から見たら、なんやこの辺がええような気
もしまっけど、どうどっしゃろ。
83 :
日本@名無史さん :01/11/29 15:37
けったいな言葉遣いはやめましょう(W でももしかしたら姉妹の一方が天武・天智の愛人で大友皇子の姑、もう一方が藤原 鎌足の正妻だってこのなのね? 結構複雑な人間模様だ!
84 :
日本@名無史さん :01/11/29 18:03
漢風諡号を選定した淡海三船は大友皇子と十市皇女の子孫じゃね。 額田女王が宣化天皇の子孫ならば三船も宣化天皇に繋がるのだが 彼はそれを意識してたのじゃろうか。はたまた「宣化」てのはど ういう意味じゃろか。
85 :
日本@名無史さん :01/11/29 22:43
「宣化」は「徳政をのべ広める」という意味。「宣揚聖化」「奉法宣化」等々 「安閑」の「争いを好まず平穏に過ごす」よりはかなり良い意味を持つ。
86 :
日本@名無史さん :01/11/29 23:17
そら違いまっせ。 「何時までアンカンとしとるんじゃ ゴルァ。さっさと譲位センカい!」 ちゅうのが正しおす。
87 :
日本@名無史さん :01/11/30 16:54
>「徳政をのべ広める」という意味 ミヤケ設置の時に「黄金や財宝がいくらあっても衣服や食い物のかわりにならない」とか の詔勅のことをいってるのかな。
88 :
日本@名無史さん :01/11/30 22:48
なるほど、そうかもしれませんね。 宣化 「器宇(ウツハモノ)清く通りて、神襟(ミココロ)朗(アキラカ)に邁(ス)ぎたまへり。 才地(カド)を以て、人に矜(オゴ)りて王(オホキミオモヘリ)したまわず。君子の 服(シタガ)ふ所なり」 安閑 「墻宇(ウツハモノ)いつくしくして、窺ふこと得べからず。桓桓(タケク)寛大( ユタカニオホキ)にして、人君(スメラミコト)の量(ハカリゴト)有(マ)します」 何れも漢籍からの流用だけど安閑は寛大、宣化は君子と付合してるみたい。
89 :
日本@名無史さん :01/12/03 05:54
継体の祖は応神皇子のワカヌケではなく 成務皇子のワカヌケ。 安閑皇子は豊彦
89は「と」です。もしくはデムパなので放置してくだい
91 :
日本@名無史さん :01/12/03 17:28
デムパはデムパなりに史料を否定する理由があるんだろう? 何が出てくるのか、せめてその説明を聞いてやろうよ(藁
92 :
日本@名無史さん :01/12/04 01:34
ども、89=デムパです。 成務は自分の子供を跡継ぎにしたかったのですが 結局諸事情により(藁 兄の子に戻しました。嵯峨と淳和みたいだね。 その兄の子仲哀の子供二人カゴサカとオシクマは どこからともなくやってきた応神と神功母子に滅ぼされて 新しい王朝が始まりました。ワカヌケは大人しくしてたので 地方に封ぜられました。応神王朝が武烈で絶えて 後継者が問題になったとき前王朝の子孫を迎えることになり 継体に白羽の矢が立ちました。 でも前王朝の子孫じゃ都合が悪いので(何の都合やねん) 応神の子孫にすることにしました。おわり あなだらけやな。デムパなので突っ込まないでね
93 :
日本@名無史さん :01/12/04 22:42
どうせデムパ飛ばすなら、もちーと迫力だせよ! 井沢某なんか見てみろ。。。他人のデムパをパクッテ、あたりかまわず発信しまく ってるぜ! (あそこまで破廉恥になるのは一般人には無瑠可も知れんが)
やめて。デムパ度少ない数少ないスレなんだから。まあデムパ度ゼロではないが、ともかく。
そだね。。。下手な煽りをいれてゴメソ。
96 :
日本@名無史さん :01/12/05 01:08
ども89です。すいません、うそついてました。デムパじゃないです。 ていうかなれませんでした。まだまだ修行不足のようです。 PS 豊彦は紹運録にあります。もちろん仮冒であることはいうまでもありません。
97 :
日本@名無史さん :01/12/05 23:22
男大迹の子なんだから、勾大兄廣國押武金日尊なんて謚号ぽい名前より、豊彦の ほうが相応しいじゃない。
98 :
日本@名無史さん :01/12/08 00:13
AGETOKU
99 :
日本@名無史さん :01/12/08 00:53
100 :
日本@名無史さん :01/12/08 03:42
名前はあえていえば「金日」じゃないの。紹運録のはちょと。
101 :
日本@名無史さん :01/12/09 10:04
「神皇正統記」では、継体は応神第八子の隼總(ハヤブサ)別としてる。 これはどういうわけなんだろう?
102 :
日本@名無史さん :01/12/09 12:52
103 :
日本@名無史さん :01/12/10 16:20
「若野毛」系でなく「隼總」系にしたってことと電波本とは関係ないっしょ?
ただのまちがいで深い意味はない
105 :
日本@名無史さん :01/12/10 18:35
いや実はふか〜〜い意味があるんだけど、、、
106 :
日本@名無史さん :01/12/12 22:50
意味ないね(www
107 :
日本@名無史さん :01/12/13 15:11
隼別皇子の子孫だという説は中世におこったもので、古伝ではないよ
108 :
日本@名無史さん :01/12/13 15:20
109 :
日本@名無史さん :01/12/16 02:34
どうして応神第八子の隼總系という説が中世になってから流れたの?
110 :
日本@名無史さん :01/12/16 22:24
>>109 だからただの間違いで深い意味はないんじゃないかと思うけどねえ。よくわからん。
応神天皇───隼総別皇子───男大迹王───私斐王───彦主人王───継体天皇
↑これ。皇孫の「男大迹王」っていうのは実は継体の本名なので、あきらかにおかしい。
それに隼総別は反乱おこして滅ぼされているので子孫がない可能性もある。
(反乱皇子の子孫でも豪族になっている例もあるので絶対にとはいえないが)
ついでに私斐王は乎非王の誤りだろうな。
111 :
日本@名無史さん :01/12/18 10:05
確かに中世史料には間違いが多いし、特に「神皇正統記」はそれが書かれた状況から して間違いがあるのも当然でしょう。 ただ110さんのおっしゃるように、親房も隼総別が反乱を起こして滅亡してる事は知 っるわけです。それなのに敢えて若野毛ではなくこれを継体の先祖にしてるのは、ど うも理解できないところがあります。
112 :
日本@名無史さん :01/12/18 23:35
深いかどうかは別として中世になってこの説がでてきた のには歴史的意味があります。 隼総別説を採る諸書を見れば明らかなように
113 :
日本@名無史さん :01/12/18 23:38
はやいものでは水鏡が既にこの説を採っています。
114 :
日本@名無史さん :01/12/18 23:43
隼総別は伊勢神宮へ逃げましたとさ
115 :
亀レスですまんの :01/12/19 01:20
>>67 宣化天皇−火穂皇子−阿方王ー額田鏡王ー額田姫王
為奈真人系図(古代氏族系譜集成所収)
116 :
日本@名無史さん :01/12/19 23:24
要するに敗残者の子孫にも因果がめぐって栄える場合があるという 仏教的な歴史観ってことですか? 確かに若沼毛二派皇子はこれといった目立った実績がないので、 敗残皇子の隼総別の方が都合がよかったでしょう。 しかしこれは中世の政治思想史の問題であって 古代史の真相とはあまり関係なさそうですね
117 :
日本@名無史さん :01/12/20 09:31
うーん。中世的仏教歴史観って説明もあながちち否定できないけど、史観で史実(と 思われていたこと)を書き換えるって言うのも、しんどいような気がする。 何処かで混同・錯誤(?)の原因となった伝承の類があったようにも思うけど、誰か もっともらしい妄想を展開してくれないかな? 水鏡ではどのように記述してるの?
>もっともらしい妄想 具体的になにを期待してるの?
119 :
日本@名無史さん :01/12/21 02:48
むしろ伊勢神宮に関係あると思われ。 むろん仏教も無関係ではないが。
120 :
日本@名無史さん :01/12/22 13:45
伊勢神宮と何の関係があるの?
121 :
日本@名無史さん :01/12/22 21:04
平安期の「扶桑略記」では記紀を踏襲して、応神天皇五世孫としか書いていない。 ところが「愚管抄」は「応神天皇五世孫、彦主人王の御子母振媛也。応神天皇五世 の五世の孫といふは、応神、隼總皇子、男大迹王、私斐王、彦主人王、継体也」 としてるから、この辺が「神皇正統記」の種本だと思われる。 では慈円は何からこの系譜を記述したのか? ちなみに「一代要記」では継体を 含むところどころの天皇記が欠損してるので残念ながら分からない。 しかし、仏教史観とか伊勢神宮とは無関係に何処かで「隼總皇子」を祖とする見 解が生まれたのだろう。(すまないが適当な妄想が思いつかない)
122 :
日本@名無史さん :01/12/23 04:07
中世神仏習合思想・王氏藤氏相依説の発露ってことでいいのか一番古いのは水鏡なの? 妄想 本当はハヤブサワケの子孫だが、反逆者の子孫ではまずいので 記紀がワカヌケに変えた。 しかし真説は伊勢を中心に細々と伝えられていて 中世になって何かの拍子で京都の貴族にも伝わった。
123 :
日本@名無史さん :01/12/23 12:05
妄想はいい線かも知れないけど。。。記紀はワカヌケとは言ってない。 (「上宮記」逸文がそう言った配慮をしたかどうか。忍坂大中姫はワカヌケの 娘かハヤブサの娘か。。。ってとこかな?)
124 :
チュウボウ :01/12/24 20:20
失礼だけど、ちょっと話が歪んでるような気がする。確かに現在では鎌倉時代編纂の 「釈日本紀」で紹介されている「上宮記逸文」が正当とされてワカヌケが本命になっ てるけど、本居宣長がこれを主張するまでは、むしろ「水鏡」「愚管抄」に書かれて るハヤブサが本命とされていたんじゃないの? (ただ「皇代記」では両論併記みたいだけど)
なんだかなー 中世に歪んじゃってたのを宣長が直したんでしょうが。
126 :
日本@名無史さん :01/12/29 23:37
上宮記がせめて残っていればなあ
127 :
チュウボウ :01/12/30 00:40
そんじゃあ妄想を一つ。 「上宮記」のワカヌケ説は「一云」となっているみたいだ。つーことは元々 「上宮記」にも両論が併記されてた可能性がある(んじゃなかろうか)。 平安期には「上宮記」の両論が参照出来たので、水鏡・愚管抄はハヤブサ説 を採用した。しかし「釈日本紀」編纂当時には、この部分が欠落してしまっ ていたのでワカヌケ説部分のみが記載された(んじゃなかろうか)。 それじゃあもともと何故両論が伝えられたのかつーことだが(さらに妄想を 拡大すると)、ハヤブサは反逆で死亡したんだが彼には子供がいて、その子 を(仁徳了解のもとで)ワカヌケが親代わりになって養育し、最終的に継承 者とした(んじゃなかろうか)。言うまでもなく妄想だから証拠はないけどネ。
128 :
日本@名無史さん :01/12/30 04:37
若沼毛二俣の母は息長氏。隼総別とは生母の身分がちがう。 だから継体までの五世間も、皇室と縁組したり勢力拡大できた。 継体自身が(女系では)息長氏だから近江を基盤にしてた。
129 :
日本@名無史さん :01/12/30 11:07
某大王三世、四世、五世のミコなんて、 記録に残ってないだけでゴロゴロしてたと思うだ。 なんでオオドかというと、息長氏のプリンスで、琵琶湖水系から敦賀経て 越前まで支配した、当時第一の「富豪、権力者」だったからだと思うだ。 武烈女王……は「クレヨン王国」か、ワカササギ大王亡きあとの大混乱を 収拾するために、「越のお大尽」をかつぎだしたんとちがうか?
130 :
チュウボウ :01/12/30 13:11
>>128 う〜ん。よく息長氏って氏族名が出るんだけど、これほど定義の分からないものはない。
一般的には「息長真人氏」のことだと思うけれど、これなら若野毛を祖とする継体の親族
だよね。だから若野毛の母が息長氏とか継体が(女系では)息長氏って言うことは意味が
通じないと思う。
もともと、若野毛の生母は次の出自ってされてる。
景行―倭建命―息長田別王―河派仲彦―弟媛(息長真若中比売)
この息長田別王の系統を「息長氏」って言うのだろうか?
応神生母の神功やその父も息(気)長って名を持ってるけど、これは開化(彦座)系だか
らまったく系統が違った息長(?)氏だよね。
ようするに若野毛の生母は大王家一族だから隼総より出自は良いんだろうけど、いわゆる
後世の「息長真人氏」とはまったく無関係な系統だし、継体の生母である振姫をはじめと
する母系も無関係だと思うんだけど。あなたの言うところの「息長氏」って何なのかしら?
_
131 :
日本@名無史さん :01/12/30 18:44
息長真人氏は、若野毛の子孫(おそらく応神の3〜4世孫)である息長真手王の 系統で、継体即位後は息長君氏として同族としての待遇を受け、天武時代に真 人姓を受けた氏族だろう。(同様の氏族に坂田真人氏がいる) その後は敏達天皇の妃の広姫(舒明の祖母)を出した関係で、舒明天皇の養育 にも当たりその名前の「息長足日広額」のもととなっている。だから継体即位 以前には「息長氏」というものは存在しない。 いっぽう神功皇后は開化の5世孫で、 開化ー彦座王ー山代之大筒木真若王ー迦邇米雷王ー息長宿禰王ー息長足姫 とされており、神功の兄弟にも息長比子王と言う人物もいる。 何れも「息長」という部分を共有してるけど、両者には直接の関係は認められ ないから、おそらく吉祥名か近江地方の古地名だと思われる。 ということで、チュウボウ氏が指摘したとおり継体以前の系譜に関して息長氏 という氏族名を使うのは如何なものかと思われる。
132 :
>>131 :01/12/30 20:04
息長真手王の系図は「古代氏族系譜集成」に収録されていたよね。 継体天皇側室と敏達天皇皇后の両方の父親というのはちょっと無理かも・・ 「〜集成」の系図では継体側室のみの表記だったが。
133 :
131>>132 :01/12/30 21:41
確かに継体・敏達の両大王の妃の父親ってのは無理があるかも知れないけれ ど、まったく有り得ないとも言い切れないんじゃない? って言うのは、継体の妃の「麻積娘子」が真手王16歳の頃の娘で、敏達の妃 の「広姫」が真手王66歳の頃の娘としたら、この二人の娘には50歳の年齢差 が生じますよね。 そこで敏達即位(572年)の時に広姫が20歳だとしたら広姫の誕生は552年 頃になり、その時に真手王が66歳だとしたら真手王の誕生は486年頃になる。 そして真手王が16歳の時に麻績娘が誕生したとしたら、麻積娘の誕生は502 年になるでしょう? そうなれば麻積娘がお年頃になるのは520年頃だから、丁度継体が大和に宮殿 を遷した頃で、継体崩御(531年)の10年程前になる。 ということで、男性の生殖能力を16歳から66歳頃とすれば、真手王の娘が継 体・敏達の両大王の妃になることも理論的には有り得ると思うんだけど、どう でしょうか?
ことのついでにさらに極端なケースでいえば、次のように同一人の娘が4世孫の妃になるこ とだって無いとはいえない。 A大王の父 468年誕生 A大王 484年誕生 B大王 500年誕生(A大王16歳の子) C大王 516年誕生(B大王16歳の子) D大王 532年誕生(C大王16歳の子) E大王 548年誕生(D大王16歳の子) 564年に16歳のX娘(548年誕生)と結婚。 この場合に、X娘の姉であるW娘が50歳年上ならば、W娘は498年誕生となりB大王 とほぼ同年齢になる。つまりB大王の妃(曾孫での姉妹結婚)になることは充分考えられる。 もっと言えばW娘がお年頃(16歳)になるのは514年頃で、このころA大王はまだ30歳程度だ から、A大王の妃になっても全く不自然じゃあないし、もっともっと言うならA大王の父だ ってまだ46歳なんだから若い妃に迎えることだって無い分けじゃあない。 もちろん、このように16歳毎に男子孫が誕生するなんてことはチョット無いだろうけど、 これに近い現象が絶対に無いとも言い切れない(www (A大王の父からすればE大王は実に5世孫になるんだものね。。。)
135 :
日本@名無史さん :01/12/31 00:42
無いとはいえないからといって 有るとはいえない。
136 :
日本@名無史さん :01/12/31 08:57
有るとはいえないからって 無いともいえない。
137 :
日本@名無史さん :01/12/31 09:06
まぁ、奇妙な感じもするけど会えて嘘をつく必要は ないわけだから事実か誤伝でしょう。
138 :
日本@名無史さん :01/12/31 09:10
継体がロリコンで敏達がフケ専。
139 :
131>>135 :01/12/31 09:34
当たり前じゃないか。。。だけど現在のように一夫一婦・近親結婚忌避感覚に 慣れてしまうと、姉妹が祖父と孫に嫁ぐことさえ有り得ないような気がしてく るんだよね。 だけど一夫多妻・近親結婚容認感覚で考えてごらんよ。。。 ある男が20歳で長女・50歳で末女を得ること(姉妹の年齢差30歳)は少しも 不自然じゃない。それどころかごくありふれたことだろう? ある家系で祖父と男孫の年齢差が40歳(20歳間隔)も極めてありふれたこと だよね? そうするとA家の祖父が40歳の時にB家の長女が20歳、それから30年後に A家の孫が30歳になった時にB家の末女が20歳になるわけだよ。 だから古代系譜を考える時には、祖父と孫に姉妹が嫁ぐなんてことは、理 論的・実態的に全く不自然じゃないと言う感覚を持つべきだってことなん だ。 これをプロバブルと考えるか、単にポッシブルと見るかは、アンタの自由 だけどね。
140 :
日本@名無史さん :01/12/31 10:32
神話って基本は主役=王の先祖だと思う。 継体が別系統なら記紀神話も継体の先祖を称える神話でなくてはならない。 だから王朝交代説を唱える人の神話解釈は大変な力業が必要になる(w。
141 :
日本@名無史さん :01/12/31 11:12
142 :
日本@名無史さん :01/12/31 11:24
>>140 称えるような先祖がいなかったんでしょ(w。
143 :
日本@名無史さん :01/12/31 15:19
>>142 んなこたあないよ。先祖を称えようと本気で思ったら、針小棒大に神話的脚色をすれ
ば簡単なことじゃないか。継体の子孫達が「神武」と並んで特に「神功・応神」を神
格化してるのも、彼等の大王位の由来が「応神五世孫」にあるからと考えられるネ。
継体やその子孫達が、神武や応神を祖先じゃないと思っていた(王朝交替)のなら、
神話構成は全く異なったモノとなっていただろう。(つまり神武や応神は不法占拠
者とみなされ、継体が神の子として神の意志で神武・応神の子孫達を追い払ったと
かね。。。)
自分の祖先を無視して、他家の先祖を崇拝する神話や神事を継続するなんてのは、
古代人の先祖崇拝思想からは解釈出来ない(大変な力業どころじゃない)と思うね。
144 :
日本@名無史さん :01/12/31 15:25
>>143 んなことあるよ。
針があってこそ棒にできる。
一代や二代で成り上がった者には
先祖はいない、先祖はわからない。
145 :
日本@名無史さん :01/12/31 15:44
>>143 継体の出自がどうあれ手白髪の子孫達は間違いなく
神武や応神を祖先だと思っていたが、それが何か?
146 :
日本@名無史さん :01/12/31 19:20
>>144 先祖のいない人間なんていやしないよ。要は祖神神話(伝承)を捏造できるか
どうかだろう? 確かに捏造は簡単じゃあないだろうけど、その気になれば不
可能じゃない。ただ捏造の必要がなければワザワザ捏造なんてしやしない。
継体(の子孫)は完全に仁徳系統の神武・応神先祖神話を受け継いでいるネ。
これは捏造の必要がなかった(つまり男系同族)からか、捏造できなかったか
らか。。。ってことだよ。
ああー言っとくけど、秀吉や家康の例は勘弁してね!戦国時代には祖神信仰な
んて消え果ているし、既に先祖を捏造出来っこない社会情勢なんだから(w
>>145 ここでまた男系・女系論を繰り返すの? もう充分だと思うけどね。
(何なら女系継承の可能性についてのスレ前半を読みかえしてチョーダイ。)
147 :
日本@名無史さん :01/12/31 22:00
>>146 だから継体の子孫じゃないの。
手白髪の子孫なの。
継体自身が記紀を編纂したわけ?
ところであんたの先祖はだあれ?
そういや継体の兄弟姉妹や父方の叔父・従兄弟たちが皇族扱いされた形跡が みられないな。やはり入婿の色彩がかなり強いのか。
149 :
日本@名無史さん :02/01/01 01:05
>>148 継体パパは夭折したので継体に兄弟はいなかったと思われ。
一方、祖父の子孫(息長真手王など)は皇族扱いされている。
150 :
日本@名無史さん :02/01/01 11:57
>>131 >息長真人氏は...息長真手王の系統で、継体即位後は息長君氏として同族としての待遇を受け
君姓息長氏時代の特定人物名例は、何に記されてあるのでしょうか。
>「息長」...おそらく吉祥名か近江地方の古地名
複数の系統が称するから地名由来は訝しいが、湖東の坂田郡近江町に息長小学校があったような。
151 :
日本@名無史さん :02/01/01 15:20
皇統譜にはないが継体に兄がいたという話、歴史読本の別冊に書かれていたと思ったが・・
>>150 君(公)姓時代の息長氏としては、書紀に舒明天皇の誄を行った息長山田の
名前が記録されています。
また天武13年に13の公(君)姓氏族が真人姓を賜ってますが、この時に継体
・用明・敏達・宣化の子孫と並んで羽田公・息長公・山道公が真人姓を受け
ています。これらの公姓氏族は彦主王以前に分離した若野毛系統の支族です
が、継体以降の大王の子孫たちと同待遇を受けています(つまり皇族として
取り扱われているのです)。
なお、複数の系統が称しているからこそ地名(由来)説が有力なのですけど
ね?(息長地名の痕跡は、坂田郡米原町に残っているようです)
>>151 僕が知る限りでは少なくとも武列崩御にともなって、大王位継承問題が生じ
た時点で継体に兄がいたとする記録は無いと思いますが。。。どんな話でし
ょうか?
153 :
日本@名無史さん :02/01/02 01:55
根王(ねおう・ねのみこ)でしょ。
154 :
日本@名無史さん :02/01/02 02:17
子王(ねおう・ねのみこ)だったかも知れない。
155 :
日本@名無史さん :02/01/02 02:31
根王は系譜未詳では? でも継体系皇族だろうね。 彦主人(ウシ)王の兄弟かも。
根王・子王(?)彼が継体の伯父・兄弟(?)ってのは何に由来する話なの?
157 :
153=154 :02/01/03 12:16
文字は、根王だったか子王だったか念王だったか年王だったか忘れたけど、 読みは「ねおう・ねのみこ」。 彦主人の兄弟じゃなくて継体の兄弟だよ。
>>157 根でも子でも何でも良いけど、それが男大迹の兄弟だというのは何処
から出てきた話なの?
僕ちゃんの意見は分かったから、歴史読本別冊で誰が何の史料によっ
て、そう推理してるのか教えてよ!
ヲイヲイ、漏れは歴史読本別冊がどうのっていってた奴とは別人だぜ。 正月中は手許に資料ないから待ってろよ。 待切れないほどハァハァしてくれるのは有り難いが、逆ギレは勘弁な(w
160 :
日本@名無史さん :02/01/03 12:50
継体の叔父といったのは名前からの推察。 古代は動物名が多くまた兄弟は似たような命名が多かったから。 彦主人王は牛、根はねずみ。継体に妃を出した皇族のうち息長真手王 と坂田大跨王はいずれも継体系皇族。根王が妃を嫁がせたのは継体即位以前だろうから 彼もまた継体系皇族だろう。(ほかに皇族はあまりいなかっただろうし) ちなみに根=子というのは根王王女広媛の産んだ子が菟皇子であることからも分かる。
162 :
日本@名無史さん :02/01/03 15:50
根王ってのは、書紀に出てくる継体の妃「広姫」のパパでしょう? 「広姫」は兎皇子(酒人公の祖)・中皇子(坂田公の祖)を生んでるけど古事 記には出てこない。 おそらく息長真手王や坂田大跨王と並ぶ王族なんだろうけど、その系譜は明ら かではないし、その子孫の待遇からしても男大迹の兄弟や叔父と言うほどの近 親者とは思えないよ。 159氏は131氏が資料的に疑問だと言ったのを受けて、さらに「継体の兄弟だよ」 と言い切っているんだから、本来なら先ず(記憶の範囲ででも)資料を示すの が順序ってもんだろうな。
彦主人(ウシ)・汗斯(ウシ)王が「牛」で、根(ネ)王がネズミだから二人は 兄弟だっての? 継体パパの「ウシ」は「大人」と言う意味で動物の牛とは無関係じゃないかと思 うし、「根」が「ネズミ」ってのも、無理が有りすぎるような気がするよ。 孫が「ウサギ」だから「根」はネズミだっていったって、このころの命名には動 物名も珍しくないんだから、孫がウサギだからといって祖父がネズミとは言えな いし、まして「彦主人」がウシで二人が兄弟の証拠だって言われたって困っちゃ うよ!
164 :
日本@名無史さん :02/01/03 19:36
165 :
163>155・164 :02/01/03 20:34
「牛・鼠・兎」の珍説有難う。それじゃあそうさせて貰うよ!
まあ、その可能性もあるんじゃないか、程度の話だから 深く考えないで。継体と兄弟というのは良く分からんし。
あっ155=164ではないよ。 どうなんだろ根王が継体の兄弟、叔父といってるのは3人はいるんじゃ? 叔父といったのは私が最初だろうが。
ちなみに兎皇子はウサギ年生まれだから499年うまれ。 汗斯(ウシ)王は425年生まれ。(仁賢帝と同じくらい) 根王は424年か436年生まれかも。なんてね
仁賢帝と同じくらい→仁賢帝と同世代
根王がいようがいまいがどうでもいい気がするが?
171 :
日本@名無史さん :02/01/04 21:33
>>6 >尾張にしても娘を越前クンダリにやるってことは...
5〜6世紀といえど、越前クンダリというような狭い通交圏ではなかったでしょう。
特に現代とは逆に、当時は日本海側が先進文化の入口だったのですから、首長級の通婚圏として
不思議はありません。もっとも越前は継体の母方氏族の勢力地域で、継体の基盤地域は近江の
湖西か湖東でしょう。即位前の夫人連の出身氏族の分布からして。
>男大迹の将来性を読んでいたのかも...
は、読み過ぎでしょう。地域首長級の政治経済的連携の一貫だったのでしょう。
大和政権入後、姻戚の近江・尾張氏族出身者が政権の枢要な官職に見られませんから。
172 :
日本@名無史さん :02/01/04 21:46
>171 継体の夫人の出身氏族は、湖西の三尾君、湖東の息長君、尾張の尾張連だが、 そうすると継体の勢力地は何処だったんだ?
173 :
日本@名無史さん :02/01/04 21:53
継体天皇持ち運び便利
174 :
日本@名無史さん :02/01/04 23:20
>>173 この駄洒落って、このスレで何回目だろう?
>>172 父系では近江周辺から河内最北部、母系では越前東部、姻族では尾張とさらに河内北
部。。。そしておそらく忍坂大中姫の関係で、大和にも足掛かりを持っていたんじゃ
ないの?
175 :
日本@名無史さん :02/01/05 18:02
>174 河内北部って何氏のこと?。忍坂大中姫って、継体系でなくて息長氏じゃなかったっけ。
176 :
日本@名無史さん :02/01/05 18:43
>>171 湖西の三尾君と能登の羽咋君とが同族との伝承があります。越前・加賀を飛び越えて。
近江の能登川と関連あり?。湖西の安曇川は、阿津見族の移住の痕跡と思われ、古代交通の遠近は陸路より
海路でみるべきでは。出雲の大国主系と越後のヌナカワヒメの婚姻神話のように。
>>175 ほとんどガイシュツだけど。。。
河内北部というのは、継体妃の茨田連小望の女(妹)関媛の出自。茨田連は現在の大阪
府門真付近及び京都府乙訓付近を根拠地とする中堅豪族(神八井命の後裔を称する)。
また継体は河内馬飼首荒籠を使役しているが、これらは継体一族が河内に何らかの勢力
を有していたことを窺わせる。(継体陵とされている太田茶臼山古墳も本当は若野毛の墓
とする見方がある)。
忍坂大中姫は継体の曾祖父である意富富抒王の妹だから、継体と同じく若野毛の一族
(息長氏については
>>130 のとおりで、継体一族の一部が後世に得た氏族名だから、
継体以前に用いるのは疑問)
継体が忍坂に根拠を持っていたのは、隅田八幡鏡の「癸未年八月日十大王年 男弟王 在
意柴沙加宮時 斯麻 念長寿 遣開中費直 穢人今州利二人等(?)取白上同二百旱 作此
竟」 からの推定。(おそらく忍坂大中姫の庇護と遺産を受けたのではないか?)
>>176 これも前スレでガイシュツだけど。。。
継体の生母は布利比売とされているが、これは垂仁天皇皇子の磐衝別(伊和都久和希)
の系統とされている。この磐衝別は「国造本紀」によれば加賀・能登国造 三尾君の祖
とされているので、継体と越前との関係も肯ける。
178 :
日本@名無史さん :02/01/06 02:26
179 :
日本@名無史さん :02/01/06 19:22
>>177 磐衝別は「国造本紀」によれば加賀・能登国造 三尾君の祖とされ...
?同族主張群は、加賀(江沼臣)・三国君群、羽咋君・三尾君群のはずだが。能登国造家は、阿部比羅夫の
粛慎(中国東北部の粛慎族?日本海の対岸まで遠征?)遠征従軍戦死で有名な能登臣(七尾市域在住)のことで、
氏神が違う羽咋君とは別系です。「国造本紀」って、変だな。
>>152 羽田公・息長公・山道公が真人姓を受け...
彦主人王に三尾之別業(別荘?)を提供し、継体妃を2人も入れて、恐らく後援者一番手だった
三尾君が何故、漏れたんだ?
>>179 三尾君は垂仁皇子の磐衝別(伊和都久和希)の系統です。つまりは応神皇子の若野毛二派
の系統ではありませんから、当然ながら真人姓の対象とはなり得ませんネ。
(真人賜姓は血統に基づくもので、援助に対する論功行賞ではありません)
181 :
パート1の日本@名無史さん568 :02/01/06 21:41
お久しゅうございます、相変わらず盛り上がってますね。 ところで三尾君ですが、失脚などの記録はないでしょうか? 今、手元に資料が全くありません。ゴメンチャイ あと、ワシも「息長氏という呼び方」には注意すべきだと 思うぞ。 あれはガイスツのとおり、息長真人氏以降の呼び名だから 継体帝以前に使用するのは気が引けるね。 (別氏族説の人は使いたがるようですが、それでも「仮に 」であって、そう自称してはいないでしょう。) 「OO帝何世孫」は確かに地方に複数おられたでしょう。 倭彦王もそうでしょう。あの方、実は男大迹王の強力なライ バルだったんじゃないかな? 行方不明というよりは、大伴金村のライバルが擁立しようと していたのを、金村軍が蹴散らかしたんでは? 誰が擁立しようとしていたんだろう?平群氏の残存勢力? 脱線スマソ
>>179 続き
ゴメソ。。。「国造本紀」についての表現がまずかったようです。
加賀国造(加賀國)。。。三尾君祖石撞別四世孫・大兄彦君
羽咋国造(能登國)。。。三尾君祖石撞別子・石城別王
能登国造(能登國)。。。活目帝皇子大入来命孫
江沼国造(加賀國)。。。蘇我臣同祖武内宿禰孫・志波勝足尼
能登国造(能登)についてはイクメ帝皇子としていますが、大入来命は大入杵命
のことで、本来はミマキ帝とすべきでしょうから、おっしゃるとおり三尾君とは
別系とすべきでしょうね。
なお江沼国造(加賀)は、三国国造と同祖(つまりは蘇我系)とされていますが、
振姫は伊久牟尼利比古大王(垂仁)の六世孫である乎波智君と余奴臣祖名阿那尓比売
の間に産まれています。
この余奴臣は江沼臣と同氏と思われますが、振姫は三国坂井に住んでいたところから、
彼女は三尾君出自とは言いながら母の里である江沼氏の基にいたのではないでしょう
か?
「伊久牟尼利比古大王、児伊波都久和希、児偉波智和希、児伊波已里和氣、
児麻和加介、児阿加波智君、児乎波智君、娶余奴臣祖名阿那尓比売、生児都
奴牟斯君、妹布利比売命也。(水于)斯王坐弥乎国高島宮時、聞此布利比売甚
美人、遣人召上自三国坂井県、而娶所生、伊波礼宮治天下乎富等大公王也。」
なおこう見てみると、江沼・三国国造が蘇我氏の同族であり、継体即位の 後に新羅将軍となった近江毛野臣も蘇我氏の同族であるところから、欽明 期の蘇我氏の著しい台頭は、その他の武内後裔氏族の没落とともに、こう いった振姫・継体の養育関係にもあったのかも知れないと思う。
184 :
日本@名無史さん :02/01/06 23:22
。。。の押付けがましい独壇場。
185 :
日本@名無史さん :02/01/07 22:00
そのとおりだ。。。押し付けがましい意見にビシッと反論してやれ!
186 :
日本@名無史さん :02/01/07 22:24
べつに押し付けがましいとは思わない。それ以前になにがいいたいのかよくわからないから。 あんまり長いカキコは読む気がおこらん。2行くらいで簡潔にまとめてくれ。
187 :
日本@名無史さん :02/01/07 22:49
>>157 ところで正月もとっくに明けたが、根王兄弟説の【資料】とやらは見つ
かったのかい?
188 :
日本@名無史さん :02/01/07 23:37
>>186 三尾・加賀・羽咋を勢力圏とする三尾君出身の振姫が、どうして江沼・三国を勢力圏とする蘇我系江沼臣の地域で
育ちかつ継体を養育したかを、振姫の母の出自から考え継体朝における蘇我氏台頭の理由に敷衍したものでしょう?
189 :
日本@名無史さん :02/01/08 23:55
よーするに174が言いたいのは、継体擁立の黒幕は振姫の母の出身で三国・江沼・伊弥頭(射水)など越に勢力を 持っていた蘇我一族じゃないかってことだろうが、それならなぜ書紀はそう書かなかったのだろう?
まあ、それはそれでいいよ。じゃ次ぎ逝こうかい。
191 :
日本@名無史さん :02/01/09 23:44
次ぎに何処へ逝きたいのか存じませんが、どうしても逝きたいところが あるのなら、どうぞご自由に。
192 :
日本@名無史さん :02/01/10 15:03
>>191 次ぎに何処へ逝きたいのか知っていていただく必要は全くございません。
どうしても逝きたいところがございますので勝手に逝かせていただきます。
倭彦王一族はその後どうなった?
193 :
パート1の日本@名無史さん568 :02/01/10 22:16
>>192 どうなんでしょうなあ
後の億計王・弘計王の事蹟のように、相当な不遇では?
または更に後の山背大兄王のようになったか。
「行方不明」とあるので後者とも考えられるが、わざ
わざ事蹟の引き合いに出されるぐらいだから記紀編纂
当時に後裔がいたのかとも考えられるし、何か資料が
あるんだろうか。
。。。さんにお出ましいただきましょうかねー
>>193 書紀によれば、倭彦王は足仲彦(仲哀)の5世孫としてる。そこで仲哀の子供を見てみると
書紀では。。。籠坂・忍熊、誉屋別、誉田(応神)
古事記。。。香坂・忍熊、品夜和気・大鞆和気=品陀和気(応神)
となっており香坂・忍熊あるいは誉屋別の子孫と言うことになる。ただ香坂・忍熊は神功・
誉田に敗れているので、どちらかと言えば誉屋別の子孫である可能性が高い。
それでは後世に誉屋別の子孫を称した氏族を見ると姓氏録から「間人(ハシヒト)」があげ
られる。「間人」については丹後半島に間人皇后の遷座伝承をもつ「間人(タイザ)」と言
う地名もあり、丹波にも近接するこの辺りが倭彦王の子孫伝承を伝えているのではないかと
思う。
とすれば、一時は丹波から丹後半島に逃避したが、継体時代に中央官僚として復帰した(一
部はそのまま丹後に根付く)んじゃなかろうか??(妄想の類だけどネ)
195 :
日本@名無史さん :02/01/11 22:05
196 :
日本@名無史さん :02/01/11 23:51
自慰問答ともゆうらしい
197 :
日本@名無史さん :02/01/11 23:57
根王って坂田大俣王のこと? だったら継体の従兄弟
198 :
日本@名無史さん :02/01/11 23:58
倭彦さんのおかげで謎が解けました。
199 :
日本@名無史さん :02/01/12 11:18
>>197 まったく別人だよ!
で、根王(坂田大俣王?)がどうして継体の従兄弟なんだよ?
叔父・従兄弟・兄弟等々何でも良いんですけど、そう考える理由(十二支に引っかけ るならならそれでも結構ですよ)ぐらいは示しなさいよ。
201 :
日本@名無史さん :02/01/12 22:49
>>200 自分で調べて見なさいよ。
いやなら土下座して頼みなさいよ。
202 :
日本@名無史さん :02/01/12 23:39
継体が越前などに住んだのは大和王権内の皇位継承紛争に巻き込まれるのを 避けたためでは?
203 :
日本@名無史さん :02/01/13 00:01
>202 タナボタ天皇にそれはないだろ。
204 :
日本@名無史さん :02/01/13 00:04
203 202の可能性は否定できない。
>>202 その可能性は充分あると思います。武烈なら謀反の言いがかりをつけて、
殺りかねませんものね。
中央豪族の大王位推戴があった後も、軽率に載せられることなく慎重に
見極めを付けようとしていますしね。
>>201 残念ながら頼むつもりなどありません。理由が言えるモノなら言って御覧なさい
と冷やかしているだけのことです。(無責任な放言だと言うことぐらい、充分承
知していますからネ)
207 :
日本@名無史さん :02/01/13 16:23
>>206 無責任な放言? 言ってくれるじゃないの。
そりゃアンタは知らないんだろうが、それぞれ兄弟とか従兄弟とか自信たっぷりに言って
るんだから、その理由はちゃーんとあるんだよ!
今にワンサと出てくるからその時になって逃げ出さないでくれよな(藁
くだらない口論しなさんな
209 :
日本@名無史さん :02/01/14 12:11
そーだよ!倭彦王については自問自答か何か知らないけど、倭彦さんの説明があった から結構勉強になった。 根王についてもくだらん口論をしてるひまがあるなら、こういった説明をすればいい じゃん。土下座しなけりゃ説明できないようなご大層な意見なら最初からレスしなき ゃいいだろ。
ネ王については、ネズミ王ならともかく。ネズミをネと略称するのは後世のこと。 ウシ王のウシは「主人・大人」で、牛をいうウシとは発音がちがったはず。 そうすると動物名であることがたしかなのはウサギ王ただひとりしかいない。 これで十二支説が成り立ちうるのか? 皇族の名前は乳母か生母の出身氏族の名をつける、というのが普通。 十二支なんて思いつきの域を出てない。
211 :
倭彦>>210 :02/01/15 08:54
皇族の命名方式についてはチョット異論があるけどそれはともかくとして、 十二支説ってのは提唱者ご自身が思いつきだと言っておられるレベルですね。 その意味ではユニークかつユーモラスでいいんじゃないでしょうか? 自説について土下座しなくちゃ説明しないなんて人より、余程ましと言うべ きでしょうね。
212 :
日本@名無史さん :02/01/15 09:39
>>倭彦さん ご紹介のあった丹後の間人(タイザ)に興味があったので「京都府の歴史散歩」を見ていると、与謝郡の 加悦町に大伴金村を祭神とする國守神社というのがあるのに気付きました。こんなところに金村が祀られ ているのは不思議な気がしますが、これも倭彦王伝承と関係があるのでしょうか?
>>212 さん
僕も知りませんでしたが、大伴金村がそんなところに祀られているとは驚きです。地図で調べてみると
倭彦王が居たとされる丹波の桑田郡は現在の亀岡・園部付近ですから、そこから間人のある丹後町に行
くには9号線で福知山を抜け、さらに176号線に入って加悦町を過ぎ482号線で北上することになります。
つまり桑田から大江山の山地に入って丹後に抜ける途中になりますね。
あるいは倭彦王の逃走に関する金村の行動を暗示するモノかも知れませんが、後世の付会の可能性もあ
るので判断は差し控えさせて頂きます。どちらにしても古代のロマンを偲ばせる情報ありがとうござい
ました。(この周辺の方がいらっしゃいましたら、國守神社の祭神伝承についての情報をお願いします)
214 :
日本@名無史さん :02/01/16 00:39
215 :
日本@名無史さん :02/01/16 02:38
197です。しばらく見てなかったのですが もしかして私の書き込みが争論のもとになってるのかな。 えっと、197にも書いたように、もし根王が坂田大俣王と 同一人物なら、ってことです。娘の名が同じだし、共に継体妃だし 所生の兔皇子が坂田酒人公、中皇子が坂田公の祖となってるし。 根拠薄弱だし別に強論するつもりはないっす。2ちゃんだし。そんな喧嘩腰の論争しなくてもいいじゃん。 少なくとも干支説よりはましかなって思った程度です。
216 :
日本@名無史さん :02/01/16 10:52
うん。それでどうして継体の従兄弟になるの?
217 :
日本@名無史さん :02/01/17 02:17
え? どうしてって。 父親の阿居乃王が彦主人王の弟だから 父親同士が兄弟ってことは従兄弟なんじゃ
218 :
日本@名無史さん :02/01/17 09:23
うん。阿居乃王が彦主人王の弟で、坂田大俣王の父だったらそうなるね。 しかし彼が彦主人王の弟で、坂田大俣王の父だってことがどうして分かるの? 阿居乃王については確たる史料はないと思うし、彦主人王の叔父(乎非王の兄 弟)って推測もあるけど、これだって確証はないんじゃないの?
219 :
日本@名無史さん :02/01/17 09:32
確証=確かな証拠(w 確か=明らかで間違いのないさま。 証拠=事実・真実であることを明らかにするよりどころとなる事や物。
220 :
日本@名無史さん :02/01/18 08:34
「確証」に拘ってる人がいるようね。それじゃあ訂正。。。 「これだって確証はないんじゃないの?」 ↓ 「これだってさしたる根拠はないんじゃないの?」
221 :
日本@名無史さん :02/01/18 09:12
さしたる根拠のない推測は推測とは呼ばない。
>>212 さん
まだ見ておられますか? 金村関係の神社について少し調べてみたところ、次の神社が引っかかりました。
久米田神社[くめた]。。。「大伴金村大連」福井県坂井郡丸岡町下久米田字若林山内1-1
金村神社。。。。。。。。「大伴金村公」奈良県北葛城郡新庄町大屋213
坂井郡丸岡町は継体が即位前に住んでいたという伝承がある場所だと記憶してますが、北葛城郡新庄町(當
麻町の南)にどうして金村ゆかりの神社があるのかよくわかりませんネ。機会が有れば調べてみたいと思
います。
223 :
日本@名無史さん :02/01/18 22:20
金村神社は屋敷山古墳のすぐ南にあります。あるいは屋敷山古墳の主が 大伴金村だったりして。。。スマソさしたる根拠のない推測です(w
224 :
日本@名無史さん :02/01/19 02:47
>223 それは単なる憶測。
>>221 >>224 あなた「従兄弟説」の217さんなの? 確証だの推測だの憶測だのという言葉に拘ってらっしゃるけど一
体何が言いたいのかな?
ねんのため言葉の定義だけれど、「憶測」ってのは「根拠が不十分でいい加減な【推測】」のことだから、
「憶測」は「推測」の部分概念で対立概念じゃないんだよ。
あなたが彦主人と阿居乃が兄弟だって言うのならサッサとその根拠をお出しになればいい。そうすればこれ
が「推測」か、「単なる憶測=いい加減な推測」か、ひどい「戯言=電波」か、皆さんが判断するよ(和良
226 :
日本@名無史さん :02/01/19 11:51
227 :
日本@名無史さん :02/01/20 02:34
俗説っぽいので、ここのスレで便乗して聞いてしまいますが… 今週の、「週刊 金曜日」で紹介されていた、 倭王・武 (雄略天皇) = 百済の王族 昆支 という説は、何か根拠があるのでしょうか ? ざっと記事を読んだ 限りでは、両者を結び付ける根拠らしい根拠は書かれていなかった ので、どの程度信憑性があるのかな、と思いまして。 雄略天皇はワカタケルという、いかにも和風な名前を持って ますし、宋に百済の軍権要求したが認められなかったわけですから 百済の王族とは思えないのですが…。 その記事では、昆支は朝鮮側の史料、三国史記では百済で 亡くなっていることになっているが、それは虚構であると主張 しているので、トンデモなのかなぁ、って気はするのですが。
>>227 週金も落ちぶれたなあ。・・・ってことだ。それ以上のことではない。
229 :
日本@名無史さん :02/01/20 03:52
阿居乃王の系図は「古代氏族系譜集成」の息長公のところに書かれていたと思ったが・・
230 :
日本@名無史さん :02/01/20 05:31
>227 週金のその記事の元ネタは 石渡信一郎『応神陵の被葬者は誰か』(1989年、三一書房) 昨年改訂版が出た。大型書店に行けばあると思う。 改訂版はちょっと読んだだけなのでよく覚えていないけど、 原著は、今となっては凄いぞ。何しろ、弥生第V様式の終焉が 350年頃とされているからな。ある意味、小林惠子以上かも しれんな。 そんな本を購入して読んでいた俺も基地外だわな。
231 :
日本@名無史さん :02/01/20 05:41
>>227 左翼は歴史に思想を持ちこむから嫌われる。
騎馬民族説を利用したのはアホ左翼。
しんでほしい。
232 :
日本@名無史さん :02/01/20 05:42
昆支の死亡記事についてだけど、原著では、 『日本書紀』が昆支の帰国記事を掲載していないので、 『三国史記』の昆支死亡記事は虚構ではないか、 という論理だぜよ。 昆支=応神説については 『日本書紀』に昆支が「軍君(コニキシ)」とあり、コニキシは 百済語で大王・国王に通ずるから、昆支は大王であった。 昆支の来日した5世紀後半は、応神が大王の時代だった から(ここで、>230で触れた年代観がいきてくるわけじゃ、ワラ)、 昆支=応神である というものだぜよ。 凄いじゃろう。歴史の捏造や歪曲は許さないとほざいている 週金がこんな記事を掲載するのじゃよ。連中の歴史観とやらが どんなものかうかがえるのではないかのう。
233 :
日本@名無史さん :02/01/20 05:47
おっ、よく読んだら、倭王武が雄略となっているのう。 『応神陵の被葬者は誰か』では、 倭王武=応神=昆支だぜよ。 だけど、多分元ネタは『応神陵の被葬者は誰か』だぜよ。
>>229 >阿居乃王の系図は「古代氏族系譜集成」の息長公のところに・・・
根拠はよく分からないけど、古代氏族系譜の類では阿居乃王は意富富杼王の
子で乎非王の兄弟、そして息長真手王・坂田大俣王の父とされてる見たい。
それならば、息長真手・坂田大俣は彦主人と従兄弟と言うことになるネ。
ところで、あなたが「従兄弟説(阿居乃と彦主人兄弟説)」の
>>217 さんなの?
って聞いただけで戯言・電波って叱られちゃあ聞くことも出来ないけど(和良
>>232 >>233 どうも。金曜日、買ってはいないので、立ち読みで (汗、記事
を読み直してきました。
本文中には、武 = 応神 とは書いてなかったんで、私が頭の
中で勝手に定説の 武 = 雄略 と置き換えてしまってたんで
誤解を招いたようです。年表の方では 昆支 = 応神と書いてあり
ましたし、引用元も石渡氏でした。
それにしても、応神の次が継体ってのも、凄い説ですね。
間の 10 人の天皇は非実在ってことですか ?
確かに、各天皇陵の比定はいい加減で、年代合わないものも
あることは私も知っています。しかし、応神陵とされる古墳の
年代が 5 世紀末で記紀の記述と合わないのであれば、その古墳
は応神天皇のものではなく、5 世紀末の他の天皇 (あるいは他の
実力者) の墓だろう、と推測するのが妥当で、応神天皇が 5 世紀
末の人物である、というのはいくらなんでも大胆過ぎる仮設では。
何故に「応神天皇の墓」という比定は信用しているのでしょうか、
石渡氏は。現在の比定が間違っていて、正しい応神陵は○○古墳
である、ということは考えないのでしょうか ?
>235 応神が新王朝の始祖であるとか、誉田山古墳が応神陵であるとの見解は、 学界の権威(直木孝次郎や上田正昭など)の学説からのつまみ食いで ごわす。学界の通説を、都合の良い時には通説だといって承認、都合の 悪い時は「大和中心史観」などといって罵倒するのが、この人の癖 でごわす。 誉田山古墳が応神陵であるとの見解の根拠の一例は、『日本書紀』 「雄略紀」の誉田陵の記事でごわす。この説話は『新撰姓氏録』にも 掲載されていて、そこでは応神陵となっているから、誉田山古墳=応神陵 となるのでごわす。これも、既存の見解に依拠したものでござろう。 この人の論理は、応神は新王朝の始祖で、誉田山古墳は応神陵だが、 誉田山古墳は独自の年代観(ワラ では500年前後となるから、応神は 5世紀後半の大王、というものでごわす。継体は通説では実在とされて いるのでその実在を認めるが、応神とは実在年齢が近いから、越の出身 ではなく、応神の弟で応神の次代の大王となり、その間の仁徳〜武烈は 架空の人物である、という組み立てになっているのでごわす。 要するにご都合主義の典型のような珍説でごわす。歴史の捏造や歪曲は 許さないと言っているくせに、こんな珍説を好意的に紹介するとは、 週金の連中もご都合主義丸出しでごわす。トピズレなのでsage。
>>236 いろいろ、どうもありがとうございます。
独自の年代観で誉田山古墳は 5 世紀末の判定、ということ
ですが、定説では違う、ということなのでしょうか ?
だとしたら、完全にトンデモになっちゃうと思いますが…。
私は別に百済系の王族が天皇である説も、筋か通っていれば
構わないと思いますけど、こういう説を立てる人は外国文献との
整合性はどう考えてるんでしょう。昆支なんて、甥や息子が百済
の王に付いているのですから、百済の歴史から昆支が倭の大王に
なったことを隠す必要性なんて無いと思うんですが。
武の上奏文も、百済出身のようには読めませんし…。
だから最初にトンデモだっていってんじゃん。 トンデモ批判は新スレ立てれば?
239 :
日本@名無史さん :02/01/22 00:41
石渡って何者か知らないけど、くだらんトンデモ見たいだね。 ここは継体スレだから、238の言うとおり他スレで叩いてくれよ!
240 :
日本@名無史さん :02/01/23 12:37
キトラ古墳に十二支像らしきものが描かれていた。位置的には「寅」 だけど、どうみても「子」に見えるね。 日本にこういった十二支思想が伝わってきたのはいつ頃なんだろう? 仏教公伝あるいは四神伝来以前にこう言った思想は伝わっていたんだろうか? 十二支説の人はどう思われますか?
241 :
日本@名無史さん :02/01/23 22:59
十二支動物は、薬師如来信仰の十二神将と関係してるから 日本に入ったのは仏教公伝よりかなり後の事じゃろう。 おそらく欽明以前ではないと思われ。
242 :
日本@名無史さん :02/01/24 05:12
>>241 それは因果関係が逆では? 詳しいことは世界史板か中国板か民俗・神話板で聞くよろし。
応神5世の孫といっても その当時応神などという名称はないだろうから 「ホムタ王の5世孫」という言い伝えが一般にあったのではないか、と しかし、恐らくホムタ王自体、伝説的な大王だったために 真偽のほどを図れる人間はいなかった そんな感じ
244 :
日本@名無史さん :02/01/24 09:11
「応神」という漢風諡号が記紀編纂以降に制定されたものであることは古代史の 常識だから、ここでの議論もその前提で「便宜的名称」として使われているので す。 その上で後段の「誉田」と「男大迹」の関係について、上宮記系譜や稲荷山系譜 等いろんな角度から当時の系譜伝承の意味が検証されていますので、前スレと併 せて一度通読してみられては如何でしょうか。
245 :
日本@名無史さん :02/01/26 11:40
根王が継体の兄弟だとか言ってた
>>157 >>207 の威勢のいいアン
ちゃんは逝っちゃったの?
どんなこと言い出すのか結構楽しみにしてたんだけど音無しだね(藁
246 :
日本@名無史さん :02/01/26 22:46
漏れは207とは別人だよ。207は煽りなのかな?
248 :
日本@名無史さん :02/01/27 09:22
>>247 しょせん2chは匿名スレなんだから、別人か同一人かなんて誰にもわからん。
あんたが本当に157かどうかだって、あんた以外には誰にもわからんのだよ。
だからそんなことを詮索してみても意味がない。ただ、あんたが本当に157=159なら、
>彦主人の兄弟じゃなくて継体の兄弟だよ。
>正月中は手許に資料ないから待ってろよ。
ってカキコにけじめをつけたほうが良いと思うんだけど、どうだろう?
(201みたいに土下座してお願いしろなんて言わないでくれよな。これなんか詮索はし
ないが、たぶん別人の煽りなんだろう。)
249 :
日本@名無史さん :02/01/28 14:45
あれだろ、越前の継体天皇伝説遺称地の地元の民間伝承だろ。 「根王」という兄がいたっていうのは。『季刊邪馬台国』に出てたぞ。 それで隅田八幡宮画像鏡銘の「年男弟王」を「ねのをとみこ」(?だったかな?)と読んで 伝説の「兄」は実は「弟」だった、という論文が一緒に載っとったよ。
250 :
日本@名無史さん :02/01/29 03:19
兄弟や従兄弟かどうかはわからんが 息長真手王や坂田大俣王らと同様 継体と同じ一族(意富富等王の子孫)だろう。
251 :
日本@名無史さん :02/01/29 22:33
>>250 うん。男大迹の同族だって事については、あまり異論はなかったと思うよ。
そのうえで、兄弟や従兄弟ってとこまで特定できるかどうかが議論になって
るんだ。
>>249 男大迹王に「根王」って兄がいたっていう民間伝承があるの?
民間伝承もいちがいに否定は出来ないと思うけど、結構後世の好事家の捏造
もあるから要注意だな。隅田八幡の「年男弟王」については、もひとつ意味
が分からない。
252 :
日本@名無史さん :02/02/01 14:45
253 :
日本@名無史さん :02/02/06 05:21
ネタ切れ
254 :
日本@名無史さん :02/02/14 23:51
それよりも、百済から男大迹へ送られたというのが真実かどうかへ移ろうぜ!
255 :
日本@名無史さん :02/02/15 09:33
何が送られたの? 教えて欲しいだ
256 :
日本@名無史さん :02/02/22 02:44
百済の王から剣が送られてきたらしいよ。
257 :
日本@名無史さん :02/02/22 05:52
そりゃ天智天皇だろ。しかも百済滅亡の後。
258 :
日本@名無史さん :02/02/23 12:22
たしか百済王禅広が献上した肖古王の宝剣。高句麗を攻めて高句麗王を斬首したという。 これと「契」という魚型の割り符と伝国之璽がセットになっている。
259 :
日本@名無史さん :02/02/23 12:34
>>255 隅田神社に保管されていたシマ王何とかという銅鏡の事じゃないの。
260 :
日本@名無史さん :02/02/27 01:23
継体天皇が百済王からもらったやつだね
261 :
日本@名無史さん :02/02/28 00:55
>>181 三尾君ですが、失脚などの記録はないでしょうか?
壬申の乱で、近江朝廷側についたって形跡がなかったっけ。
262 :
日本@名無史さん :02/03/01 22:07
>>261 三尾君って、恵美押勝の乱の時も敗者側についたんじゃなかったっけ?
263 :
日本@名無史さん :02/03/03 00:45
おまたせしました。といってもハァハァしながら待ってくれてたのはひとりだけだが。 部屋掃除したら『季刊邪馬台国』のバックナンバー出てきたよ。 継体天皇に兄がいたという民間伝承の出所は、 近江の高島郡三重生(みよふ)神社(祭神は継体の父の彦主人と母の振媛)の中に ふたつの摂社があり足羽神社は継体を祭り、気比神社は継体の兄「彦杵王」を祭っているということだ。 ちなみにこれを紹介している永井氏は隅田八幡宮鏡銘文の 「日十大王」を「ひとのおおきみ」と読んで「ひと=ふと」の考証もしつつ継体天皇とし、 「年男弟王」を「ねのひつぎのみこ」と読んで継体の弟としている。 (これは「ねのいろどのみこ」と読んだ方がいいとは思うが) また民間伝承の方の「彦杵王」の「きね」も「ね」と読みうることを考証している。
440 名前:日本@名無史さん :02/03/03 12:31
>437
越前は母方の勢力圏で一時逗留していたにすぎない。
最近では、日本書紀が「越前からきた」ように書くのは
三尾君の家記などを採用したためで正確でない、ともいわれている。
古事記のように「近江(父方の勢力圏)からきた」とかく方がより正確。
(後の息長氏の先祖の本拠は近江であって越前ではない)
もっとも継体天皇本人はずっと以前から大和(忍坂宮)にいて、それなりの権力者だったという説もあり、
そうすると近江だの越前だのからいきなり出てきたというのは日本書紀の文飾の可能性もある。
詳しくはこれ↓みれ。(スレの本題と関係ないからsage)
継体天皇って先代達と血つながってんの?
http://mentai.2ch.net/history/kako/997/997471414.html
265 :
日本@名無史さん :02/03/08 04:15
age
266 :
日本@名無史さん :02/03/09 22:51
>>263 足羽神社は継体を祭り、気比神社は継体の兄「彦杵王」を祭っている...
気比なる名が残ってるって事は、継体の兄も越前の姻族があったって事?
気比の名は、出雲の日本海沿岸にも存在したような記憶が。
>>264 そのスレは、ここのパート1だってば・・・
>>267 知ってますが、何か?
漏れはパート1でもこのパート2でも常連だよ。
>>269 煽ってみるほどこのスレみてんなら、なんかネタふれや。
271 :
日本@名無史さん :02/03/20 02:23
継体の兄弟にあたるネ(年/杵)王と、古事記に出てくるネ(根)王は同一人物で問題ない?
272 :
日本@名無史さん :02/03/20 02:49
継体の祖に、允恭の后の忍坂大中津姫の兄、というのがいた。つまり系譜だけを見れば 応神5世の孫かも知れないが、実際にはもっと近い関係にあったと考えたい。 それから武烈の系譜にも注目。当時は葛城氏系と和邇氏系の勢力が強く、それと合わせて 天皇の系譜も履中系と允恭系の勢力があったと思われる。それらの系統を合わせた血を 武烈は持っている。つまりは両系譜が手を握った、期待の皇子が武烈だったと思う。 その武烈が夭折してしまったことの意味は大きい。仁賢には武烈以外に男子はおらず、 そのため両系の連合の維持という目的のためにも、親よりも賢に重きを置き、武烈の 同母姉・手白香皇女と結婚させたのだと思う。 どう見ても継体の後の安閑・宣化は、手白香の産んだ欽明までの中継ぎだったと思う。
273 :
日本@名無史さん :02/03/23 00:53
age
274 :
日本@名無史さん :02/03/28 00:22
>>272 >当時は葛城氏系と和邇氏系の勢力が強く...
葛城氏は、専制雄略が覆滅し代わりに大伴氏(室屋)を重用、和邇氏は后妃は出してはいるが
政治的覇権からは遠かったと思うが。
葛城氏系と和邇氏系は権力の有無(興亡盛衰)にかかわらず 伝統的に認められた氏族固有の職掌として后妃をだす家柄だったと思われ。
276 :
日本@名無史さん :02/03/28 19:11
森浩一氏は現在も継体=新王朝説を採っているんでしょうか。 新しめの本を読んでもなんだか煮え切らない論調ですが。
>>275 「氏族固有の職掌として后妃をだす家柄」って后妃候補製造業って意味なの?
278 :
日本@名無史さん :02/03/30 03:54
へえ、そんな職掌があるんだ(藁
>>276 森浩一は煮え切らないっていうより、いつも書くことが曖昧だったりするよね
>后妃候補製造業 もとは国津神を祭っていた大和の県主の職掌だろう。 葛城氏と和邇氏は皇別氏族だけど両氏が土着した勢力圏の中にはそういう古い県主がいて、 そいつらを上から包括した格好。おそらく血縁も結んだ。 (葛城氏は葛城県主と、和邇氏は磯城県主と)
281 :
日本@名無史さん :02/03/31 02:00
何で和邇が磯城なんだ? 添ならまだわからんでもないが。
森浩一は政治的な立ち回りもうまいし
283 :
日本@名無史さん :02/04/07 10:02
>>272 >安閑・宣化は、手白香の産んだ欽明までの中継ぎ
これまでの議論からみてそれが結論だろうと漏れも思う。
>履中系と允恭系の勢力があったと思われる。それらの系統を合わせた血を
>武烈は持っている。つまりは両系譜が手を握った、期待の皇子が武烈
武烈の父系=履中系(女系は葛城氏)=仁徳帝の嫡流としての武烈
武烈の母系=允恭系(女系は丸邇氏)=雄略の唯一の血脈たる武烈
>283 なるほど。272に述べられていることにかなり興味を抱いたものの、イマイチ理解できなかったが、 283の捕捉でかなり理解出来た。アリガト。 継体問題は日本古代史上の大きな謎の一つだけれど、武烈や手白香などの血統(というか人脈)、 の重要性を考えたら、本当に応神5世の孫かどうかはあまり問題でなくなる。むしろ継体が 手白香の「婿養子」であり、そしてその間の子の欽明が最終的にあとを継いでいることの方が 問題というわけか。安閑も宣化も、武烈の姉妹たちと婚姻関係にあるわけだしね。
285 :
日本@名無史さん :02/04/26 00:01
しかし、そうなると石姫の位置づけはどうなる?
286 :
日本@名無史さん :02/04/30 23:26
どうなるって、どうにもならんだろ? いまいち質問の主旨がわからんが?
287 :
日本@名無史さん :02/05/02 22:24
継体が別の血統だと主張するのは別に良いのだが、世界史的に見て そういう血統の詐称の例ってあるの? 新王朝を立てるならまだしも…。
288 :
>>287 :02/05/08 23:49
新羅第21代 宣徳王(在位780〜785) 初代の10世孫。母は17代の娘。 前王を殺した反乱者を倒し即位。 新羅第22代 元聖王(在位785〜799) 初代の12世孫で、先代の盟友。 前王の後継者がいなかったため群臣に推戴されて即位。
289 :
日本@名無史さん :02/05/09 14:39
>>288 それって実際の父方の血統はあったの?馬の骨?
平安初期くらいだね。
290 :
日本@名無史さん :02/05/10 00:08
>>父方の血統はあったの? こんなの言ったもんの勝。証明も、反証もできやしない。 でも、>>群臣に推戴されてって言うことは、文句を言わせなかったってことですよね。 ウチの継体さんの事例を真似たのかも知れません。
291 :
日本@名無史さん :02/05/10 15:25
継体天皇や宣徳王はまるっきりの庶民じゃなくて、そこそこの貴族なんだから 数代前の先祖ならはっきりしてるだろ。 庶民ですら爺さんの名前くらい知ってるだろうから いくらなんでも5、6代前の系図を偽れるとは思えないがな。
293 :
日本@名無史さん :02/05/22 11:53
ネタ切れか?
稲荷山鉄剣銘が何代だっけ ま、5代ぐらい当時は遡れるってこった
295 :
日本@名無史さん :02/06/02 09:06
応神天皇は「名替え」してるんだよ。気比神社の大神と。 つまり、気比神社の大神というのは、継体の5世前なんだよ。
296 :
日本@名無史さん :02/06/02 09:20
つまり、応神の名前は品陀別命、継体の5世前は大靹和気命。 別人だったのだ。
297 :
日本@名無史さん :02/06/13 00:48
age
298 :
日本@名無史さん :02/06/15 16:25
隅田八幡宮人物画像鏡銘って 「癸未年」=「443年」 「男弟王」=「意富富杼王」 「意柴沙加宮」=「忍坂宮」→忍坂大中姫命 「日十(下?)大王」=「允恭?」 じゃあないのか?
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300 :
日本@名無史さん :02/06/15 16:37
age
301 :
日本@名無史さん :02/06/23 20:08
>>298 ナルホドネ
でも「日下大王」=「允恭」の根拠は?
302 :
日本@名無史さん :02/07/05 23:36
>>295 >「名替え」してるんだよ。気比神社の大神と
記紀の神話譚ではね。編纂時に造話挿入されたんでしょう。
仁徳の平群氏との「名替え」と同じようにね。
歴史的には、応神には若狭湾勢力との交流痕跡はありません。
303 :
日本@名無史さん :
02/07/17 03:58 「名替え」それ自体が神話で、ほんとに名替えしたのかどうかはわからない。