考古学は科学になれるか?(旧石器考古学Part3)

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794783:01/12/11 02:04
>なんていう主張が根底から崩れてしまうなあ。

基本的根拠は、貝塚の盛衰だから、完全崩壊はしないと思いますよ。
その辺、興味ありますんで、暇だったら解説よろしく。
795723:01/12/11 02:34
>>782
縄文中期とそれ以降をごっちゃにしていませんか?
中期と後期には大きな変動があったと予想されています。
東日本では中期には大形の集落が存在していましたが、
後期になると集落は小形化し、移動性の強いものになってきています。
1集落あたりの住居址も同時数では2-3基程度になってきます。
そして同じく後期に入り関東では東海地方の影響を受けた土器や
北陸地方伝来と思われる長方形柱穴列(堀立型建物跡)が見受けられるようになります。
後期の縄文社会は環境変化により生産力が低下し、
中期の大形集落を形成することが出来なくなり、
互いに深い関わりをもった小集団に分裂したと考えられています。
加曾利貝塚や中里貝塚のような後期の大形貝塚は
同一の集団によるものでは無く、
複数の集団が採貝場あるいは加工場としていたのではないかと
考えている研究者もいます。

もし、中期に1集落1言語であったとしても、
後期に入り、集落間の交流が活性化した結果
言語数は大幅に減っていたものと考えられます。
796782:01/12/11 10:49
>>795
300の言語があったという言語学的推定に対して
300の盆地/平野がありそこに孤立集落があった
という古代史からの指摘がある。
で、1集落1言語だったのでは?というのは
私の仮説です。(ニューギニア、台湾はそうみたいです)

縄文中期と後期の平均的集落サイズと全国の集落数の
算定は考古学が行うべきものでしょう。

>中期の大形集落を形成することが出来なくなり、
> 互いに深い関わりをもった小集団に分裂した
これだと後期には集落数が増加したということになるが?
中期と後期の集落数をいくつと見積もっているのでしょうか?
797日本@名無史さん:01/12/11 11:16
>>790
>「9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。」
>この人達は、どうやって食っていたと思うの。
沢田推計のこの数値は「米を作っていた」人数です。
従って米を作らない(税金を納めない)蝦夷は人数に
入っていない。
この頃は稲穂の束を税金として納めていたので、その束の
数から逆算した。(正確には陸奥の国では戸籍と稲束数の両方の
記録が残っているので、稲束あたりの人数を係数として出し、
それを出羽の稲束数に掛けたもの)
同じ時期の陸奥は約20万人の人口。
越後出羽郡の設置は708年、出羽国への昇格は712年。これと
並行して関東や関西から相当数の移民が行われています。
この頃の秋田・青森は日本一の過疎地だった。(現在の過疎地
山陰は9世紀には35万人が住んでいた)
798日本@名無史さん:01/12/11 11:45
>>785
小山推計を信じていないという考古学者が多いのだが、
では縄文時代の人口はいくらが正しいと思っているのか?
三内丸山が騒がれているが一体あの集落の人口は何人だったの?

小山推計は遺跡数をもとに縄文・弥生時代の人口を推計した
もので、それ以外にデータがないから依拠せざるをえないのでは
なかろうか。

鬼頭宏の歴史人口学では、2世紀の秋田・山形の人口は5000人、
青森・岩手・宮城・福島の人口は3万人弱となっている。
この頃弥生人が稲作に渡来したとしても1集落せいぜい100人で
大勢に影響はない。大部分は蝦夷で狩猟採取だった。

蝦夷の人口が多くなかったことはアテルイの乱の反乱兵力数でも
わかる。14村落が反乱に参加し、総兵力は2000だ。(但し騎射が巧みで
兵は強かった)これは宮城北部から岩手南部にかけての反乱だが
蝦夷人口はせいぜい1万人程度と思われる。

つまり蝦夷は縄文時代と同じ生産様式(文化)を維持したので、
人口は増えようがない。そこへ弥生人が稲作をもってきてどんどん
人口が増え、土地を奪う。それで絶望的になって何度も反乱する
わけさ。
799日本@名無史さん:01/12/11 12:17
そういうわけで、
>>777
>縄文人がいっぱい居るところで武力制圧っていっても難しいような気がするけどね。

「縄文人がいっぱいいる」というイメージが大きな間違い。まず考古学者も考古学ファンも
これを訂正してほしい。
紀元前9世紀頃の人口は列島全体で8万人程度。その9割が東日本にいて西日本には
1万人以下しかいなかった。(200人規模の集落が50個か、100人規模の集落が100個か、
その程度のもの)だから実質的に無人地帯だった。衝突はまず起こらなかった可能性が
強いし、起こっても稀だから証拠が発掘される確率は低い。

だから弥生稲作は急速に西日本全体に拡がって名古屋あたりまで到達した。
それより東はだんだん縄文人の密度が高くなるから、稲作の普及は一旦停止した。
(この頃東日本には10万人位の縄文人がいた)
人口が増え、国家が整備されると土地を求めて武力進出するようになった。
それが5世紀以後のことで10世紀に青森を征服するまでこの歩みは続いた。
しかしこの全過程を通じて東北北部(出羽・陸奥)は過疎地で、縄文人(蝦夷)の
総数が10万を超えるということはなかったと思うよ。
定性的議論だけでなく、定量的議論が科学には必要だ。
800日本@名無史さん:01/12/11 12:43
>799
とっても、いい線いってると思うよ。

で、NHKスペシャルでは、縄文後期から古墳時代に
かけての一時期、西日本と東日本の平和的融合時代を想定していたのです。
論拠として以下のようなものがありました。
1)弥生後期において、西日本に、東日本形式の土器がたくさん出土している。
しかし、その土器の土は地元のモノを使っている。よって、東日本人が
土器技術者が西日本に移住した可能性が高い。
→土器技術者は農耕技術を学び、地元に伝えたのではないか??
2)弥生後期、関東の中里遺跡の農耕遺跡において、東日本と西日本の
両形式の土器や石器が出土している。そして、戦いの痕跡はない。
→一緒に稲作をしていた。
801790:01/12/11 13:22
>>797
779が以下のような発言をしていたから、779に確認したかったんだけど・・・。
どうやら、返事をくれた方は違う人のようですね。
779のレスがなかったら、発言撤回と理解します。

以下779の発言
>つまり秋田では出羽の国ができて稲作が再び導入され、今日に至る。
>沢田吾一の計算によると、9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。
>ほとんど稲作が行われていないことがわかるでしょう!
802775:01/12/11 13:25
>>776
>日本名で日本語を話せば日本人」という考え方が、「単一民族」神話の基盤に
>あるから戦後になって「単一民族神話」が生まれたというのは大きな勘違い

「生まれた」というのは言い過ぎでした。「定着した」というべきでしょう。
「日本人は混合民族で、天皇家は朝鮮から渡来した」と主張したのが久米邦武の
同僚教授だった星野恒(1890年)。久米も「日本人は北からきた先住民を南から
きた朝鮮南部とおなじ渡来民が征服し、それが日本人の中核となった」と主張した。
江戸期の新井白石も初期の柳田邦男も同様の主張をした。
1910年の日韓併合の時に、新聞は「日本民族は雑種で、多くの人種の長所を持つ点に
特徴がある」と主張した。明治大正はだから日朝同祖論・日本民族雑種論が主流だった。

この論調の転換は左翼の喜田貞吉の主張がきっかけ。彼は「差別解消」が生涯の
テーマだった。そこで「支配者である天皇家は、虐殺などせず、先住民族を混血に
よって同化した」と主張した。この説は著書「日本民族の成立」(1921)で全面的に
展開された。この頃、人類学の面で長谷部言人と清野謙次が「日本人は日本列島で
発生したもので、混血の影響は少ない」という説を立てた。長谷部は「石器時代人は
すなわち日本人である」と主張した。(このため彼は「明石原人」を再評価した。また
アイヌ=縄文人が先住民族という説を否定した。)
この主張は昭和の侵略主義にとって大変都合がよく、「日本人は純血なるがゆえに、
天皇と親子の関係にあり、他民族とは違う」という「単一民族」神話だが、彼らが思った
ほど国家はこれを利用しなかった。

戦後、戦前に弾圧された津田左右吉は雑誌「世界」(1946)に、「日本人は遠い昔から
一つの民族として生活してきたので、民族の混和によってつくられたものでない」
という論文を発表した。
戦後一国社会主義路線をとった共産党は、津田や長谷部の意見をたかく評価し、かくして
「日本人単一民族」論が進歩的知識人=学者の共通理解となった。
これを歴史学者井上清はこう表現している。「われわれ日本民族はほとんど単一の人種で
できており、この同一の日本人種が2千年来同一の地域に共同生活し」(1957).
このため歴史学会・考古学会は、混合民族論に立つ江上の「騎馬民族渡来」説(1949)は、
自分たちの教義に反するのでまったく評価しなかったが、一般市民には広く受け入れられた。

こうして戦前の学会では嘲笑の的であった「単一民族」は1950年代には肯定的な評価をうける
ようになり、1960年代になると論壇にも単一民族論が登場し、日本人論・日本文化論にも前提として
利用されるようになった。(「タテ社会の人間学」、「日本人とユダヤ人」など)
政治学者の神島二郎(1982)はこう述べている。「戦前は、大和民族は雑種民族であって、
混合民族だと誰でも言っていた。あの日本主義を唱道していた真っ最中にもそう考えていた。
ところが戦後になって、奇妙きてれつにも、進歩的文化人をはじめとして、日本は単一民族だ
といいはじめた。まったくもって根拠のない説が横行している」

つまり単一民族神話をつくり普及したのは戦後の歴史学会、考古学会、人類学会なのです。
この結論に反論するなら、戦前の体制系出版物で「単一民族説」を唱道したものをあげて
ごらんなさい。
803779:01/12/11 13:45
>>801
779は777の弥生の秋田稲作説は持続発展した根拠がないと
反論したのだよ。9世紀の出羽の稲作人口は約6万人。
これは7世紀以来稲作と植民が行われた結果だと述べている。
蝦夷が弥生時代から稲作を取り入れていたらもっと人口は
多いはず。
何が問題なのかわからんな。
804日本@名無史さん:01/12/11 14:00
>>802
ふーん、なるほど。それで歴史学や考古学の長老はいまだに共産党の
マインドコントロールから抜けきれないで、日本人は日本列島で
原人ー旧人ー新人と進化し日本人になったと考えているのか。
だから東北原人が「発掘」されてもそれが捏造と気づかなかったわけか。
よくわかるよ。

俺はあの事件とオームはよく似ていて、何だか宗教的雰囲気があると
思っていたが、大本にマルクス主義という教義があってそれが作用して
いるとなると根は深いな。あれも一種の宗教で科学とは無縁だから。
しかしそういう話を知らないで、いまだに「縄文・縄文」と唱えている
若い連中は悲惨だな。
805日本@名無史さん:01/12/11 14:16
802の主張は戦前は「日朝同祖論・混合民族論」が主流だった。
ところが戦後は戦前を否定するあまり、日朝同祖論の否定、混合民族論の
否定をおこなった。その結果、戦前は否定されていた「単一民族論」が
主流になってしまった。そういうことだね。

そのため旧人はおろか原人もいたはずということになり、長谷部の明石原人や
鈴木尚のいろいろな原人などが「発掘」された。
しかし人類学が科学的になってきた結果、それらの原人はすべて否定され、旧人
でさえも否定された。

ところが考古学はもっと隣接学問の進歩に無知だったために、1980年以後も
旧人・原人の発掘に夢中になり、遺跡捏造事件にまきこまれた。
これにこりるなら、人類学、遺伝学、言語学の進歩をきちんと勉強して、
「日朝同祖論・混合民族論」をきちんと科学的に評価しなければいけない。
その過程で「騎馬民族征服説」もちゃんと科学的に評価しなければいけない。
そういうことが問題になってくるということだろうな。
806802:01/12/11 14:35
>>805
戦前の否定は「記紀」の内容についても行き過ぎた否定がおこなわれた。
天皇制を憎んでいるから「嘘」を摘発するのが学者の仕事になった。
ちょっとでも中国の本に似た内容が書いてあったらすぐにここから盗作した
捏造だと決めつけるのもそう。
そのくせ天皇制以前の魏志倭人伝にはいっさい批判的研究を行わなかった。

だいたい記紀は漢文で書いてあり、中国の古典をすらすら読めたのなら
書いた人も中国人で話し言葉も中国語だったろう、ということになろう。
そしたら宮中の言葉も中国語だったかもしれない。そうなると「単一民族説」
に矛盾が生じるわけだが、イデオロギーを信じている場合はそういう
合理的批判精神がはたらかないわけ。
ちょうど東北の連中が藤村の単純トリックに簡単にひっかかったのと同じ
心理状態にあるわけだ。

記紀には嘘が書いてある、という認識がひろく広まっているが、これももう一度
洗い直しが必要になると思うよ。それをやらないでなし崩し的に「つくる会」の
歴史認識が一般化するのが怖いよ。それでは振り子が単純にもとに戻るだけで
進歩というものがない。
807日本@名無史さん:01/12/11 15:01
>>804
>しかしそういう話を知らないで、いまだに「縄文・縄文」と唱えている
>若い連中は悲惨だな。

意味不明。「縄文、縄文」と唱えるとはどのようなことを指すのか。

>しかし人類学が科学的になってきた結果、それらの原人はすべて否定され、旧人
>でさえも否定された
あのー牛川人とか葛生人が否定されたのはいつでしたっけ。ついこないだの新聞に
出てたような気がしますがね。教科書にも載ってたんじゃなかったのかな。
前に概説書の最たるものが教科書で教科書に嘘が書いてあるようじゃって言ってた
お方もいたけどその点はどうなのかな。
いくら考古学を批判したいといっても何でも人類学マンセーはいただけませんね。
そういうあざとい議論の持っていき方がデムパと言われる原因になっていることに
お気づきになったほうがよろしいのでは。

あ、そうか考古学をバカにしに来てるだけだからそんなことどうでもいいのか(藁
808ROMらーの疑問:01/12/11 16:32

(´○`)<季節性移動とかを考えたら、遺跡数での人口推定は
     少なく見積もったほうがいいのかなぁ?
809日本@名無史さん:01/12/11 16:48
>>807
>あのー牛川人とか葛生人が否定されたのはいつでしたっけ。ついこないだの新聞に
>出てたような気がしますがね。
批判は前からおこなわれていたが、決着したのが最近と言うことでしょう。
この分野でもやはり長老が邪魔になっていたのは同じでしょうね。
考古学も老害があるのでは?

>いくら考古学を批判したいといっても何でも人類学マンセーはいただけませんね。
人類学も長谷部以来大きなあやまちをおかした。ことに明石原人は石膏モデルしか
残っていなかったので、否定にはずいぶん時間を要したのだと思います。
バカにしているのではなく、バカにされないように頑張ってほしいといっている。
810新一:01/12/11 17:08
遺跡発掘は俺にまかせてくれ。かならず見つけだしてやるぞー。
811771:01/12/11 17:27
最近の考古学者は稲や稲作の実際を知らないでものを書いたり、
議論したりしているのではなかろうか?という発言をしましたが、
その実例があります。

寺沢薫「王権の誕生」(講談社)に以下の記載がある。
「ある時、一年も二年も放置された田んぼの稲株から、ヒコバエといって
穂が生え、落ちた籾からも自然と芽が出ているのを見つけた」(p71)
これは著者の体験として書いている。

ヒコバエというのは8月終わりか9月初めに稲刈りをおこなうと、その切り株
からまた稲が育って10月末にまた稲穂が実るのを言います。天候がよいと
そういうことが起こる。放置されて年を越した田んぼに起こるのではなく、
稲刈りをして2ヶ月くらいのうちにヒコバエが生じるのです。
稲は一年草なので年を越した切り株から芽が出るわけがない。
寺沢はこの部分では実物を見たことがないか、何か誤解して書いている。
この誤りが指摘されないできたのは、編集者も読者ももうヒコバエなんて
だれも知らないからです。
こういう人が縄文農業・弥生農業を論じているのだから怖いですよ。
812日本@名無史さん:01/12/11 19:14
>>811
ほんまや。今そこを読んだよ。なんちゅうアホ書いとるんやろう。
813762:01/12/11 20:38
話がだいぶそれてるようだ。
638が提起した事実関係問題に考古学からの意見はないのか。
>5)東北における水田稲作は4世紀以前には点として少数の存在が認められている。
>6)水田稲作が面として存在し始めるのは、環濠集落の北上前線以南においてである。
>7)紀元前4世紀以前に利根川以北に存在した文化は縄文文化の延長である。
> 8)記紀、風土記に見られる蝦夷が水田稲作を行っていたという証拠はない。
648は回答拒否かな?

これを事実として認めると面白い仮説が生まれるよ。

弥生人がもたらした東日本の早期の弥生稲作は後に消滅した。
蝦夷はその文化を引き継がなかった。
利根川以北の水田稲作は弥生人の5世紀以後の北への進出により始まった。
帰順蝦夷のなかには田夷も出て、大和国家体制に組み込まれた。そのなかには
武士や領主として頭角をあらわしたものもある。
混血は西日本からの強制移民、投降蝦夷の西方への強制移住などにより
東でも西でも徐々に生じた。また防人、源平の戦い、南北朝の争い、戦国時代、江戸期の
お国替えなどでも生じた。(それでも百姓は動かなかったから、西が弥生系、東が縄文系
というおおまかな区別は残った)
最後まで帰順ないし同化を拒否した蝦夷がアイヌとなって残った。
人口的には稲作を発展させた西日本の人口は急増し、7世紀には東日本を上回るようになった。

このような歴史的経過があるから、日本人は形質人類学的におおまかに西が弥生人、
東が縄文人の特徴を残している。また言語学的に日本語は西日本に方言が多いのに
対して、日本語が遅く普及した東北北部ではその内部での方言差が少ない。また
アイヌ語は琉球語とともに別の言語として認定されるようになった。

これは基本的には水田稲作を中心とする弥生文化複合体(土器だけではない)の
東への波及とその「征服」の物語だが、やっぱり抵抗があるかなあ?
814日本@名無史さん:01/12/11 23:03
>>804
馬場の書いた本を読んだことないのか?
人類学の旗手は、多地域進化論者だぜ
815802:01/12/11 23:17
蛇足だが、典型的な進歩的文化人である井上清と家永三郎の日本人論を
典型的進歩的出版社岩波の本から紹介しておく。

「日本人は、最古の時から現在に至るまで、同一の種族が、同一の地域、今の
日本列島の地で、生活してきた。その間にいくらかの多種族との混血はあったが、
征服・被征服による種族の交代も、大規模の融合もなく、日本人は原始の野蛮から
現代文明の一流の水準にまで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた。
これは日本歴史の大きな特徴の一つである」(井上清「日本の歴史」、1963)

「弥生文化の主体は新しく海外から移住して縄文文化人を征服した民族であろうとも
考えられている。しかしそう考える人たちも、その民族は数の上では少数であって
その文化は縄文文化を圧倒して日本文化の主流を占めることになったものの、
新来民族の血は結局多数を占める先住石器時代人の中に吸収されてしまい、
日本民族に新しい人種的要素を注入したにとどまって、全面的な住民の交替を
引き起こしたのではなかろうと、考えているようである。弥生文化の担い手が
何ものであるにせよ、弥生文化の渡来はたびたび繰り返される海外文化摂取の
一例にすぎないわけで、日本文化の連続性は失われていないと考えてさしつかえ
あるまい」(家永三郎「日本文化史」、1954)

彼らが単一民族神話の広め屋だったのだ、ということがよくわかる。
816804:01/12/11 23:35
>>814
本は読んでいないが説はしっているよ。ジャワ原人の系統から進化して
スンダ人になってそれがアジア人に進化したという説。
アジアでネアンデルタールが見つかっていないからそういう説を唱えた。
でも今はだんだんアフリカ起源説に傾いていると思うよ。
シャベル状の門歯だけじゃ証拠が弱いもの。
817日本@名無史さん:01/12/11 23:40
ローカルルール設定の方向で動いていますが、
アズマが必死で妨害しようとしています。

このままでは、アズマの大量の自演によりローカルルール
導入があやうくなります。

とりあえず、ローカルルール議論スレに来て一行だけでも
意見を述べて下さい。

是非ご協力を!
818日本@名無史さん:01/12/12 05:42
ちゅうか、20年くらい前までは、北京原人をなくした男、ワイデンライヒ
の唱えた多地域進化説が、世界的主流の考え方だった。
問題は、それに固執というか、何も考えなかった人々とその体質。
819日本@名無史さん:01/12/12 07:33
は?単一民族ですが?

純血な民族じゃないというだけで。
820日本@名無史さん:01/12/12 10:53
結局、単一民族神話に毒されているから弥生時代1000年に100万人が渡来、
ということになるとそれが崩れる。それで縄文の最大人口30万人、末期は
わずか10万人という小山推計が考古学者に評判が悪い。
そこで縄文人はもっと多かった、縄文時代はもっと豊かだった、という
方向へ話がつい言ってしまう。そうしないと縄文文化から弥生文化への
連続的移行という話が成立しないからね。
三内丸山遺跡がもてはやされ、しかもそれが相当な誇大広告であるらしい
のは、心理的にはそういう基盤があるように思えるな。

一方で、米つくりの日本農業が行き詰まっているのは誰の目にもあきらかで、
稲作農業を讃えるのは時代の風潮に合わない。また日本人の大部分が都市生活者に
なり、自然に対する無知とあこがれがある。そこで狩猟採取経済の縄文時代に
たいする賛美の念もうまれたんだな。

科学的考古学はそれに対して縄文生活がどれだけきびしくて、貧しいものだったか
をきちんと明らかにしなければいけないのに、現状はむしろそれを賛美し、ブームを
あおっているように思われる。
科学的考古学への道はけわしいなあ。
821日本@名無史さん:01/12/12 11:15
縄文生活が厳しくて貧しいという先入観を宣伝するのが科学的考古学?

あと、小山さん自身が三内丸山を誇大宣伝してると思うんだが。
822日本@名無史さん:01/12/12 12:05
確かに、近年、縄文の豊かさという概念によりすぎていたような
気もする。
縄文時代の食の多様性、社会的分業、交易ルートの確立、祭祀の広がりなど、
においても、豊かさがうんだ余剰という概念でとらえている人が多い。

しかしながら、これは、貧しさ故の技術進歩や神頼みと考えた方が良いのかも知れない。
823日本@名無史さん:01/12/12 12:14
釘をさしておくと、貧しいとか豊かとか定義もなしに使うと、
また子どもの喧嘩になるよ(w
824日本@名無史さん:01/12/12 12:16
>>822
こんなどっちにでも取れるような説明は全く説明してないのと同じ。
全然科学的じゃない。
豊かだったかどうかは骨を調べれば栄養状態が分かるでしょ?
縄文人の栄養状態に関する情報きぼ〜ん。

こうやって一つ一つ不確かさをつぶしていく作業が科学なのよ。
825日本@名無史さん:01/12/12 12:39
>>824
1)骨折の頻度は3〜7%で治療法がないから障害を残した。(身障者が
100人中5人)
2)平均寿命は15歳
3)変形性関節症などの老化現象が早くから見られる
4)糞石の分析から寄生虫感染が多かった(鈴木隆雄「骨から見た
日本人」講談社、1998)

骨や糞石の分析からは、「過酷な生活を送っており、乳児死亡率が高く、
平均寿命が短く、多くが寄生虫に悩まされており、老化も早い」現代から見て
あまり幸福とはいえない社会と思われる。
826822:01/12/12 12:55
>>824
>縄文人の栄養状態に関する情報
栄養状態いいわけないやろ。飢餓線とか言われる
骨格の変異がいくらでも出てる。

823さんの言ってるように、
豊かさっていっても、いろいろあるな。
摂取カロリー、労働量、文化活動、余剰食糧、嗜好品etc

まあ、現代人の尺度で考えると、失敗しそうだなあ。
827日本@名無史さん:01/12/12 13:06
>>820
確かにあの岡村さんも「縄文の生活誌」で
「最近は弥生文化に端を発する現代都市文明に疑問を感じる人々が増え、
都市から逃れ豊かな自然や人間性への回帰が求められるようになってきた。縄文
文化はそうした都市に暮らす人の心情のどこかに触れるものをもっているのだろう」
と書いている。
気持ちはわかるが、非科学的なブーム便乗は困るよね。

彼も「水田稲作は列島に水田稲作文化が受容されて百年経たないうちに、本州
北端の津軽半島まで伝播した」と述べ、縄文人の応用力のたかさを協調している。

一般人はこう書かれると、水田稲作が日本列島を縄文人の文化リレーで100年の
うちに北九州から列島を縦断して、青森まで伝わったと理解し「脅威のスピード」
とびっくりするわけよ。

しかしこのスレの議論で明らかになったことは、「北九州とほぼ同じ頃、弥生人が
舟で青森にも水田稲作をもちこんだが、長続きしないで途中で消えた」ということ
だろう。つまり「青森にあるから、途中の東北にもあるはず。関東にもあるはず」
という推測で学説を組み立てちゃったんだな。一般人だけでなく、考古学者が
ここで大きな錯誤をしているのだよ。

縄文文化論の一番非科学的なところはここだと思うよ。未証明の事実の上に
壮大な仮説を築いている。
828824:01/12/12 13:07
>>825
情報サンクス。
ただ豊かであるとかないとかの相対評価は、いつの時代のどんな人と比較するかによって言い方が全然違ってきますよね。
現代と比較するのはちょっと極端かなと。

やっぱりポイントは狩猟採集が中心の生活と農耕が中心の生活との比較だろうから、
弥生時代の人の栄養状態はどうなんだろう?
その本には書いてないですか?
829日本@名無史さん:01/12/12 13:27
>>828
残念ながら弥生人の骨のことは書いてない。
しかし著者は「健康度の指標として一番優れているのは平均寿命だ。
集団全体の健康状態が一番よく分かるのはこれだ」と述べ、
江戸時代や明治時代の日本人より縄文人が短命だったのは自明のこと、
と述べています。

さて弥生時代の人骨は数が少ないのか平均寿命を計算した文献を
知らないのですが、避妊法をしらないか知っていても実行しない
社会では「平均寿命が延びると人口が増える」という現象が起こります。
これから平均寿命を推定できます。

紀元前2世紀(縄文の終わり)の日本の人口は8万人。
2世紀(弥生時代)には60万人。
8世紀(奈良時代)には450万人。

これだけ急速に人口が増えていますから、弥生時代に平均寿命の著しい
延長があったことは自明です。つまり「縄文人よりも弥生人の方が
はるかに健康的な集団だった」というのが科学的結論です。

弥生時代には戦争があった、それは殺しあいだ、だから不幸だという
「定性的認識」に考古学者は引きずられているのでしょう。科学には
定量的考察が重要なのです。
830日本@名無史さん:01/12/12 13:36
>>821
確かに小山氏は若い頃の自分の人口推計を今ではあまり評価していない。
「データが一人歩きしている」とも述べている。
かれが評価を低めたから、縄文を高く評価するようになったのか、あるいは
その逆なのかはわからない。

しかし科学的に重要なことは、小山推計以外にデータがないということだ。
誰かが新しい遺跡データベースを用いて新たな計算をおこない、小山データを
否定する証拠を提出したときに初めて小山推計は葬り去られる。
それが科学の方法で、証拠もなくして好き嫌いでそれを否定してはいけない。
考古学者は小山データを疑うのなら、新たに計算をやり直してそれを論文として
発表すべきだよ。
831日本@名無史さん:01/12/12 14:03
>>829
俺は鈴木さんの本を読んでいないが、本当にそんなことが書いてあるのか?

>避妊法をしらないか知っていても実行しない
>社会では「平均寿命が延びると人口が増える」という現象が起こります。

そんな現象が一般的に起こるという説は聞いたことがない。
そういう説を主張する者がいるなら、20世紀のブッシュマンと
18世紀のヨーロッパ人の平均余命がほとんど同じことについて
どう説明するのだ?

また、狩猟採集から農耕へ生業の比重が傾くことによって、骨や
歯に残るストレスマーカーが増大するという例もたくさんあるぞ。
平均余命についても、狩猟採集社会の寿命が短いという一般論は
少なくとも否定されている。

健康を表す指標の変化についてはさまざまな要因を考え合わせて
評価すべきで、人口の多少と単純に結びつけるのは暴論。
832827:01/12/12 14:04
つづきだけども、「縄文の生活誌」を読むと、妙なギャップがあるなあ。
建物がでかい、食べ物は豊富、墓があると「豊かな生活」を強調して
いるけど、歯とか骨になると、「歯槽膿漏が多い」、「骨折が多い」と
一転して否定的になっている。
つまり自然科学的データとのギャップがもろ出ているな。

それにこんな変な表現もある。縄文人は死者を「生ゴミ捨て場・貝塚」に捨てた
という事実がある。それを「縄文人がゴミ捨て場に人の遺体も埋葬している
事実は、彼らがゴミを親しい人や身内の人とある意味で同等に扱っていたことを
示している」(p149)だって。
科学的には「死者に対する尊敬の念がなかったから、ゴミ捨て場に捨てた」と
考えるのが普通だと思うよね。
それを生ゴミを大切にするリサイクルの思想があり、遺体もリサイクルのため
そこに捨てた、と言おうとしているようだ。
これはもう現代の風潮に悪のりした、トンデモな悪徳商法かインチキ宗教に
ちかいなあ。
833日本@名無史さん:01/12/12 14:18
些末なことかもしれないが、単なる自分の意見に科学的とかつけるのはやめた方がいいぞ。
カガクカガクって言葉を単に冠すれば霊験あらたかになるわけではない。
834日本@名無史さん:01/12/12 14:20
小山先生と言えば
「縄文の女はオッパイ大きいの多かったから、縄文時代よかったでぇ」
とかおっしゃってた。
とても大学者に見えん。うううう………。
835>>831:01/12/12 14:27
>健康を表す指標の変化についてはさまざまな要因を考え合わせて
> 評価すべきで、人口の多少と単純に結びつけるのは暴論。
人口ではなく、「人口増加率」が平均寿命の指標となると述べている。
別に暴論でも何でもない。人口学の常識。
平均寿命が減少する社会では人口は減少する。増加すれば人口は増える。
なぜかというと近代以前は平均寿命は乳幼児死亡率で決まっていたからです。

集団の健康とは「集団死亡率の低下」で定義します。成人に病気が多いかどうか
ではない。ここでも考古学者は「ストレスマーカーの出現率」という一部の
変化を健康の指標と考えるという、「定性的思考」による間違いを犯している。

100人生まれてそのうち半分が15歳になるまでに死んでしまう社会で、20歳以後に
生き残った20人か30人が、江戸時代人より病気の頻度がすくなかったとしても、
その社会が健康とはいえない。なぜなら平均寿命のながい江戸時代人では縄文時代
なら当然死んだはずの弱い人が生き残ったため、病気になる率は高くなるからだよ。
要するに比較するなら母集団同志で比較しなければ意味がないのに、考古学者は
生き残ったもの同志を比較している。だから間違った結論になるのだ。

同じことを縄文時代と現代でやってごらん。現代は子供がほとんど死なない時代。
だから抵抗力の弱い大人がいっぱいいて、胃潰瘍だ、狭心症だ、精神病だ、癌だ
と半分以上の大人がストレスマーカーが陽性だ。
「だから現代人より縄文人は健康だった」というのが考古学者の主張。
この主張は科学的にはまったく根拠のない、一種のペテンだよ。

ただ考古学者はペテンに気がつかないで主張しているだけで、それはつまり
藤村遺跡でペテンに引っかかっているのに気がつかないで、本物だと主張した
のと同じことなのよ。悪意がないことは認めるが、端から見ると大迷惑に
なることに変わりはない。
836日本@名無史さん:01/12/12 15:01
>>835
あなたの常識を共有する人口学者がどれだけいるのかわからないが、
いるとすれば近代ヨーロッパや現代の発展途上国の事例以外に知らない、
やや視野の狭い人でしょう。生業の変化に伴う人口増減は、栄養摂取の方法、
授乳期間の変化、季節的な移動性、嬰児殺しや堕胎を含む人口調節、
初婚年齢や婚姻形態、生業に応じた労働形態、集団のサイズや集団間の
緊張関係など、生活の基盤となる様々な要因のセットによって影響されることは
歴史人口学および人類生態学の教えるところです。
近代の人口変化のように、死亡率の変化が決定的な要因となることは、
必ずしも普遍的なことではありません。

とくに狩猟採集社会が定住・農耕社会に移行する局面では、上の多くの
ファクターが変化することによって、人口抑制のタガがはずれることは、
さかんに指摘されるところです。土地あたりの人口支持力の増大が大きいが、
これは一人あたりの健康が改善されたことを即意味するわけではない。
以上はすべて、死亡率の変化によって推論されることではない。

ストレスマーカーが即健康の度合いを決定づけることにはならないのは
あなたの仰るとおりですが、他にデータがない状況では、考察の有力な
対象となることは自然なことでしょう。
少なくとも、人口増加を単純に健康に結びつけるよりは、はるかに有益です。
837836:01/12/12 15:13
これは蛇足かもしれないが、もし人口増加率によって死亡率を推定し、これを健康の指標とするならば、現代において最も健康なのはインドやアフリカの人びとということになる。

人口増加のペースだけで判断し、死亡率が確かでないとするならば。
しかしそんなことを考える人口学者がいるだろうか?
838日本@名無史さん:01/12/12 15:40
ていうか、人口の停滞あるいは減少の原因に、
絶滅を配慮に入れなければ意味がない。
地域や部族(集落)の絶滅は、よくあることだったのではないか。
縄文の時代だったら、鮭がある川を上らなくなったら
その河川流域の縄文人は一気に絶滅ということになるだろうし・・・。
839835:01/12/12 15:41
>>836
>近代の人口変化のように、死亡率の変化が決定的な要因となることは、
>必ずしも普遍的なことではありません。
「かならずしも」という言葉をつかうことで論旨をあいまいにしてしまうのは
考古学者のわるい癖です。
自然科学の各種概念は基礎になる基本概念の上に積み重ねられています。そこを
きちんと理解しないで末梢的事実だけを利用しようとするから、「考古学と
自然科学の提携」のように脂肪酸分析でも地磁気分析でもみじめな失敗を重ね
たのです。

人口は出生率と死亡率との差により増減が決まります。これが根本概念。
出生率よりも死亡率が低ければ、人口は増加します。
出生率はひとりの女が一生涯に生む子供の数により決まります。そして
これには生物学的な上限があります。20人の子供が産める女はいない。
ところが死亡率に下限はない。これが出生率と死亡率の大きな違いです。
従って近代以前のどの時代においても、人口増加は主として死亡率の
減少により生じたのです。
ですから貴方の冒頭の文章はまったくの誤り。

その死亡率は、乳幼児死亡率、青年・成人死亡率、老人死亡率に大きく
わかれます。未開社会の場合乳幼児死亡率が一番高い。この場合死亡個体は
子孫を残さないので、人口にもろに響きます。
乳幼児死亡率が50%の社会では仮に他の死亡率がゼロに近いとしても、女は
4人以上の子供を産まなければ、確実に人口は減少します。
しかし乳幼児死亡率が500/1000という社会はたったこの間までアフリカに
見られたので、未開社会では現実に存在したのです。
乳幼児死亡率は19世紀から先進国では低下させることに成功しました。
その次が青年・成人死亡率でこれは結核など感染症の治療に成功して
やっと減少しました。ついで癌、高血圧、糖尿病などの老化病の治療で
老人死亡率が低下したのです。歴史的にはこの順番で死亡率の低下が
起こっています。

縄文社会は中期の最大30万の人口が減少に転じ、末期には8万人位に
なりますが、それは死亡率が出生率を上回ったからです。一番考えられる
のは食料欠乏による乳幼児死亡率の増加です。飢餓は母体の健康をそこない
虚弱な子供がうまれます。その子供も食料が十分ないのだから、発育不良に
なり、これらが共同して乳幼児死亡率はいちじるしく高くなった。女が仮に
4人の子供を産んでも乳幼児死亡率が50%なら、2人しか生殖可能年齢まで生き
伸びれません。これだと人口は静止してしまいます。だから縄文時代には
これを上回る乳幼児死亡があったはずです。

なお明治時代の岩手県の乳幼児死亡率は30%位ありました。江戸期ではもっと
高い値が報告されています。(乳幼児死亡にはもちろん事故死亡、嬰児殺し
なども含まれます)

以上のように出生率、死亡率という概念は人口や健康を論じるさいのもっとも
基本的な概念です。両者の差が人口の増加・減少を決めているのです。
それなのに小山推計を批判しながら、考古学者は新たな人口推計を出そうとは
しない。これでは本当に科学をやる気があるのか、疑われると思います。
840日本@名無史さん:01/12/12 15:56
>>837
>もし人口増加率によって死亡率を推定し、これを健康の指標とするならば
だれもそんなこと言っていないだろ。平均寿命が健康の指標だということ。
インドやアフリカの平均寿命が長いか?
841835:01/12/12 16:22
書き忘れたが縄文人の平均寿命が15歳(生殖年齢ぎりぎり)とすれば
生まれた者の50%はそれ以前に死んだということ。つまり乳幼児と児童の
死亡率は50%だったということ。
この死亡率では女は5人こどもを生まないと、人口は増えない。
縄文時代の年間人口増加率がわずか0.1%と低い値になっているのは
そのせいだよ。1000年かかって10%位の人口増加しかおこらない、きわめて
静止的な社会が縄文社会なのよ。
842日本@名無史さん:01/12/12 16:40
>>841
なんか、ひとつの公式に当てはめてすべてを納得してしまう
似非科学系の発想だなあ。

ちなみに、人間女性は普通に生きれば10人以上を出産する。
また、どんな生物も充分な食料が確保されれば、劇的に増加する能力を持つ。
843836
>>839
なぜあなたが私のレスに対して的はずれな反論を繰り返すのかよくわからないが、
もしあなたが考古学者に敵対心を燃やす結果であるなら、私は考古学者ではないので無駄です。

「必ずしも」とつけたのは私が考古学者だからではなく、死亡率が一要因であることを
否定しないとともに、それが「一要因にすぎない」ことを表すためです。

あなたは、「出生率には上限があるが、死亡率にはない、よって死亡率の変化が
人口増加を決定する要因となる」という趣旨のことを述べているが、
出生率が生物学的上限まで上昇したら、大変なことになります。
定住生活をおこなう農耕民にとって、女性一人あたり10人の子どもを生むことは
十分可能です。もしそんなことが起こったとしたら、たとえそのうち7人が早死にしたとしても、
人口増加はハイペースで起こります。しかし安定した社会では、そんなことは普通起こりません。
それは死亡率で決まるのではなく、社会ごとに先に述べたようなさまざまな方法で
出産調整がおこなわれるからです。
「安定した社会では」と言ったのは、急激な人口増加が起こるケースはしばしば
生業変化や定住化、広大なフロンティアが生じたとき、またヨーロッパとの接触のケースでは
キリスト教受容に伴う出生観の変化などに付随して多く報告されるからで、
これらは出産抑制を促す要因が取り払われたことと深い関連があるとされています。
縄文と弥生の比較では、とくにこの点は健康うんぬんに結びつける前に
十分考慮される必要があります。

よって、あなたが最後に述べているように、人口の増減は死亡率のみならず
出生率に大きく左右されています。だからあなたの2段落目で述べていることは
誤った推論というべきで、こんなことを前提に考えた結果は、カガクと呼ぼうと何だろうと、
「みじめな失敗」に終わってしまいます。

あまり面白みを感じないので、レスはくださらなくとも結構です。
また、私は考古学者だとかどうとかには、あまり関心がありません。念のため。

なお、>>840 については、837を読み違えた上でのレスではと思います。