考古学は科学になれるか?(旧石器考古学Part3)
タイトルに異論もあることは承知ですが、主に旧石器考古学について
真の科学足り得るか?ということで議論しましょう。
まずはお願い事項から。
1特にコテハンにされる必要はありませんが、議論が成立する場合は、
せめて発言番号をその議論中は固定するなりしてください。発言者が
3名以上になった場合、何がなんだか分からなくなります。
2こちらは裏通りですから、表通りには迷惑をかけないで下さい。
(かといって、裏通りには裏通りの存在意義があると思います)
こんなところでしょうか?
3 :
日本@名無史さん:01/11/11 22:12
きました。2ゲット
4 :
日本@名無史さん:01/11/11 22:17
____________
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| 今だ!! 逝け!!
|__ _________
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.――――..-―――、
.// ∧∧//∧∧..||. \
__[//_ (゚ー゚*/[] .゚Д゚,,) .||__\__ (´´
lロ|=== |ロロ゚| ̄ ̄| 擬古∪動車学校 ||.) (´⌒(´
| ∈口∋ ̄_l__l⌒l____|___l⌒l___|| ≡≡≡(´⌒;;;≡≡≡
 ̄ ̄`ー' ̄ `ー' `ー' `ー' (´⌒(´⌒;;
__∧_________ ズザーーーーーッ
|
| はい先生!! 4getです!!
|____________
5 :
日本@名無史さん:01/11/11 23:06
6 :
日本@名無史さん:01/11/11 23:32
>1
まず「科学」の定義をしてちょ。
科学とは観察された事実または証明された事実に基づいて
検証可能な仮説をたて、それを新たな観察または実験により
検証していくプロセス全体を言います。
このプロセスのどこかで不確定な事実が紛れ込んだり、推論
の誤りがあると、全体が不確実なものとなります。
考古学が科学になるには、これらの条件を満たさなければ
なりません。
8 :
日本@名無史さん:01/11/12 00:05
9 :
日本@名無史さん:01/11/12 00:10
パート1とパート2が逆だった、スマソ
10 :
日本@名無史さん:01/11/12 00:13
理化学分析もあてにならんぞ。考古学者の話を聞いて分析結果を摺り合わせたりする。
11 :
日本@名無史さん :01/11/12 00:29
12 :
日本@名無史くん:01/11/12 00:39
漏れの1票でタイトル決まったようで。スマソ
13 :
日本@名無史さん:01/11/12 01:11
「科学になるべし」なんて思ってる考古学者はまずいないと思うのだが・・・。
「人文科学であり、歴史学である」でしょ。
14 :
日本@名無史さん:01/11/12 01:13
15 :
名無しさん@1周年:01/11/12 02:37
>>10 それは確立していないエセ手法の場合じゃないのか
難波に叩かれた脂肪酸分析による動物識別とか
電子スピン法で高句麗様式の檀君陵(笑)を計ったら半万年とかの類だろ
16 :
日本@名無史さん:01/11/12 02:45
17 :
日本@名無史さん:01/11/12 06:36
Nスペでやってたけど、プラント・オパールてのは大丈夫なの?
プラント・オパールそのものではなくって、年代の方ね。
6000年前とか言ってるけど、検証されてんのかな?
ミトコンドリアDNAから、熱帯種・温帯種の判別やらどこのデータに近いとか
検証できるんだから、やってみた方がいいと思う。既にされてるのかな?
土壌の状態によるとも思うけど、ATだってAso-4だって、火山ガラスの風化による
溶解はある。プラント・オパールだって、溶解の過程にあるものだったら、
少しは溶けて形が崩れてると思うんだけどね。わかんねえな。
18 :
日本@名無史さん:01/11/12 09:56
つーか,プラントオパールだって出りゃいいってもんじゃないって。TのおっさんがTVでやってたサンプリング方法は,乱暴じゃねーか?
植物遺存体に詳しい人どうよ。このままほっとくと旧石器の稲作もそのうち出るぞ。
今のうちにしっかりした検討やっとかんと,また一般のひとは NHKの情報空爆でころっといっちまうぞ。
科学の個別的方法は確立しているから、例えばプラントオパールについては
1)研究者が2グループ以上いて
2)結果が自然科学の学会でも発表・議論される
という前提があれば間違いは除去されると思う。
問題は判断力のない考古学者の学会で1グループだけが独占的に発表している
場合だな。
これだといつまでたっても科学にはならん。
それ以前に、論文のレフェリー制をおくとか、自由な学問的批判を認めるとか
科学の土台になっている制度をまず導入することだろう。
これはプラントオパールやDNAの細かいことを知らなくても、やる気になれば
すぐにできることだ。
それがやれるかどうかが、考古学「再生」の基本だろう。
考古学が人文科学だとか歴史学だとかいう議論は逃げ口上だ。
60年代にそれで問題が解決できないから科学的手法の導入を図ってきたのだからね。
科学的に確定された事実の集積のうえに考古学は歴史学を築くしかないと思う。
21 :
日本@名無史さん:01/11/12 12:21
理系では博士号持ってるってことが研究者の必要条件でしょ?
でも文系?の考古学は違うよね。学部出ただけでも埋文に就職したら,ちゃんとトレーニングされてなくても研究者になっちゃうんでしょ。で,大学側は,必ずしもその質を保証はしていないわけだ。
でもそれは開発に対応するするために「掘り屋」を増産する必要があったからであって,埋文行政はしのげたかもしれないけど,学問として考古学のレベル向上にどれだけ寄与したのだろうか?
考古学と埋文行政をドッキングさせて推進したのも悪いんじゃないの。全部が全部じゃないよ,行政でも博士号とる人がいるからさ。
でも,研究者として洗練されていない人間が行政発掘しているのも事実でしょ。
学問としての考古学と埋文行政は切り離す必要があると思うよ。みんなごっちゃになっているからさ。
こう書くと,みんな怒るだろうな。でもよく考えて欲しいんだな。
22 :
日本@名無史さん:01/11/12 12:34
そうだね。埋蔵文化財行政としての専門職員と、研究者としての存在は、別だわ。
行政機関には、9時5時考古学なんて、冷やかされる人もいる。
でも、研究職も大学や、よほどの博物館や機関でないと十分じゃないよ。
結局、職業としての専門職は、他の分野と大差ないだろうね。
職として研究者であるかということと、個人でがんばって、成果を上げ、
研究者として認知されるかは、別だろう。
23 :
日本@名無史さん:01/11/12 12:46
>>21 言わんとするところは分かるが
理系じゃ博士号を持ってるのが研究者の必要条件でも文系では
博士号はもう上がりに近い研究者がとるものという意識がまだある。
単純な比較はできない。
研究者と行政内の埋文担当者は当然別さ。研究者として洗練されていないものが行政発掘
しているという部分も否定はできないと思う。しかし一番の問題は、研究者が研究者足り
えてないということじゃないかな。
基礎的質問で恐縮ですが、石器文化談話会や東北旧石器文化研究所が手がけた発掘って、
大半が学術発掘だったのでしょうか。
多摩ニュータウン471Bが緊急発掘であり。それゆえもはや現場の再検証が不可能である
ことは知っていますが、ほかに藤村絡みの「旧石器遺跡?」の中でこうした例はいくつ
くらいあるのでしょうか?
それとこれは誰に聞けばよいのかわからないけれど、本来「学術的」であるべき学術発掘
がかくも低レベル足りえたのは、どこに根本的問題があったのでしょうか?
25 :
日本@名無史さん:01/11/12 14:40
捏造遺跡の多くはいわゆる「学術発掘」です。かくも低レベル足りえたのは,関わった考古学者が間抜けだったからです。
26 :
日本@名無史さん:01/11/12 14:50
言っとくけど25はネタじゃないよ。事情を知れば知るほど確信するよ。
全くマヌケぞろい。
27 :
日本@名無史さん:01/11/12 15:00
マヌケに混じって狡猾な蛇が混じってた、って可能性はないか?
学術発掘だとすれば科学研究費と無縁じゃありませんよね?
小さな科研費でも事前、事後の報告書提出の義務、けっこうやかましいじゃないですか。
報告書の提出が軒並み遅れていたっていうのが少々解せないんですよ。どうして
それがまかり通ってしまったのか? 1件や2件でないとすればなおさら・・・・。
29 :
日本@名無史さん:01/11/12 15:08
蛇がいた可能性はある。たしか文化財発掘出土情報だったと思うが,かなり前のコラムに○○が執筆していて,ある職場を退職したときに,
現役の人には報告書をくれて,俺にはくれなかった云々という恨み言が書いてあった記憶がある。有名になって見返してやりたいという動機は十分にある。
30 :
日本@名無史さん:01/11/12 15:12
>>28 科研もらってたら,その報告書はあるかもしれないけどね。でもこれは概報みたいな奴が多い。
でも考古学の場合,本報告書ってのがあって,こっちがほんとの報告書ですよってのがある。
これが出てなかったんじゃないの?
31 :
日本@名無史さん:01/11/12 15:43
科研の報告ってかなり簡単な内容でいいんじゃないか、考古の場合。
面白い研究があったんで、科研の報告を手に入れてみたらペラペラで
がっかりしたことがあるよ。
出てなかったというのは、発掘自体の報告書。
報告書が出てないということで一番問題なのは、
調査者の正式な見解である報告書が出ていないと批判が難しくなるということだ。
正式な見解が出ていないということは、批判する側も批判する対象がはっきりしなくなる。
批判された側もそんなことは言ってないとか「事実と違う」「報告書を見てくれ」とか言い訳できる。
「前期旧石器」が批判を逃れていられたのは、批判する対象となる報告書
が出ていなかったことも理由のひとつだろう。
>>25,26
当時東北大学の芹澤教授の指導下にいた考古学者は、他の考古学者に
比べてそれほど質が悪かったわけではありません。
芹澤さんのお弟子さんたちは、教授にも文化庁のトップ技官にもなっている
ではありませんか。
日本の考古学の底が浅かったということでしょう。
トップ技官が応援しているのだから、科研費なんて報告書が出なくても
もらえたのです。この人の恩恵にあずかったのは、日本の考古学者の
主だった人は全員でしょう。だから小田氏は研究分野を変えざるをえな
かったのです。
しかし今座散乱木まで再調査のターゲットに入ってきましたから、その
結果により国の「考古学行政」も厳しく批判される可能性があります。
33 :
日本@名無史さん:01/11/12 16:13
>日本考古学の底が浅かったということでしょう。
そのとおりだけれど、この期に及んでそういう言い方は、あいまいで良くないよ。
厳しいけれど結果として彼等は、石器を見ることもできなかったし、他分野のとの
連係も中途半端で、自分に都合のいい部分しか見ていない。
批判に対しても論理的、学問的な対応ではなかった。とても学問に誠実とは言い難い。
はっきりマヌケといったほうがいい。
そのマヌケが教授にも文化庁のトップ技官にもなっているわけだから「底が浅い」と
いうことになるのだが。
>>33 捏造事件の責任問題を議論するのであれば、
1.発掘関係者の責任
2.学会などピアー(同僚研究者)の責任
3.メディアの責任
と分けて議論した方がよいと思います。
一番責任が重いのはいうまでもなく1だが、再発防止とか
考古学を科学にするには、2,3のどこが問題だったか
きちんと把握しなければいけない。
35 :
日本@名無史さん:01/11/12 17:46
>>33 石器が見れないといいますが、それはおそらくT岡さん
の意見に影響されてのことだと思います。しかし、
T岡さんの論文に皆が影響されなかった原因の1つと
して、あの論文の批判の論拠になっているのは、彼が
実見してきたフランスなどの欧州や中近東の前期旧石器
と全く似ても似つかないという点でした。環境が全く
異なる地域のものをダイレクトに比較できるのか?とい
う疑問が当然つきまといますし、比較できる、と強固に
主張できるほど東アジアには類例がありません。特に
日本には皆無(愛知の加生沢などがありますが、学会には
認知されていなかったし)と言ってよい状況でしたし。
なんか、T岡さんが英雄視されていますが、彼だって、
とても科学とは言えない怪しい一歩間違えばデムパな
研究をしていた人なんです。
だから、少なくとも石器が見れないというのは、断定
できないことだと思いますが。パティナな薄いとか
については、トーホグの人たちも認めていたことだ
と思うし。
まあ、別にトーホグの人たちを擁護する気もないの
ですが、その点については多くの方が誤解を抱いて
いると個人的には感じているので、ちょっと述べて
みました。
それでも、T岡先生マンセーとおっしゃるのでしたら
ちゃんと旧石器考古学の原典読んでから反論してくだ
さい。
36 :
日本@名無史さん:01/11/12 17:48
37 :
日本@名無史さん :01/11/12 17:55
>>36 本当にだめだめちゃんだね。そういう切り捨て方をする
から、デムパ工事先生につけこまれるんだよ。
お勧めの文献、長くて読む気がおきないから、要約キボンヌ。
要約なんか面倒くさいから、一部抜粋(独断と偏見による)。
なお、どこかの教授が誉めてる『銃・病原菌・鉄』の批判である。
○このような粗雑な記述は、生物学の概説書ではよくあることかもしれないが、歴史学の本ではまずお目にかかれない。
○自然科学では、このような、論の根幹をなす用語に(暫定的なものでもいいから)定義を与える、という習慣がないようだが、人文科学ではさすがにそれは許されない。
○自然科学では、こうした基礎概念についての解釈の責任を読者に押しつけることが通常なのかもしれないが、人文科学では、混乱を招かないような表現を行なう義務は基本的に著者の方に課せられる。
○文学部なら卒業論文であってもかなりの減点になる/するのだが、医学生理学では全然構わないらしい。
○人文科学の概説書であれば、この後に「新しい経済システムや家畜の飼育方法」とはどういうものか、必ず説明が入る。しかし、自然科学ではそう書く習慣はないらしい。
○医学・生物学では、こういう表現しても、査読をすいすいと通るのだろう。うらやましい分野だ。
○「ちゃんとした地図がない」----自然科学系というのはこの程度の図で良いわけね。
○まったく、なんで、この程度の認識で、「歴史学とは」とか論じられる、と思い上がってしまうのだろう。まあ、「アリストテレス批判」と同じなのだけど。
あとは自分で読め!
ついでに、もう一つ引用。これは「デムパ工事先生」のことだな。
○誰も言ってもいない説を勝手に作って、それを否定しているだけである。
>>36,38
この東海大文学部春田晴郎という人は、
>私は、「理系の学問の方が文系の学問より優れている」という傲慢な思い込みがなくならない限り、「虚構の対立」の図式は再生産され、それに基いた超古代史は影
響を持ち続けるだろう、と確信している
ようですね。貴方もこれに共感されているのでしょう。
しかしこの方はインチキ・ジャーナリストのグラハム・ハンコック(「神々の指紋」)と
カール・セーガン(「人はなぜえせ科学にだまされるか」)の区別がつかず、ブリンクモンとソーカルによる
「ポストモダン」批判の論旨も理解できないようで「本を眺めた」ら「対立の構図」が
わかった、と書いていますね。
こういう人がピュリッツァー賞を受賞したJ.ダイアモンドの本を批評しようと言うのが
もともと無理なことで、やはり挫折していますね。
イソップの「青いブドウとキツネ」のキツネみたいな人で、わからないから毒づいているのです。
もともとソーカル事件というのは旧石器捏造事件とそっくりで、自然科学のことをわかったふりして
いろいろ本を書いていた人たちが、物理学者の書いたおとりの捏造論文にだまされて、それを
褒めちぎったという事件ですよ。
藤村さんもどうせやるならネイチャーに論文を投稿して、掲載されたあとで、「実はあれ捏造でした」
っていえば、罪は帳消し、和製ソーカルになれたのにね。
証拠もあげずに「理解できていない」と書いたら36に噛みつかれるから、
例を挙げておきます。
>「歴史は、異なる人々によって異なる経路をたどったが、それは、人びとのおかれた環境の差異によるものであって、人びとの生物学的な差異によるも
のではない。(上p.35)」
「プロローグ」で示されるこの書の要約である。
いっぽう、第11章は、病原菌・疫病について述べている著者の専門にもっとも近い部分であるが、上p.197には次のような記述が出てくる:
「歴史上、同じ病原菌に繰り返しさらされてきた民族は、その病原菌に対する抵抗力を持った人びとの割合が高い」
これは、この本のキーともなる主張であって、いろいろなところで、とくに18章で、形を変えて繰り返され、それが人類史にいかに大きな影響を与えたきたか何度
となく論じられていく……のだが……
「同じ病原菌に繰り返しさらされてきた民族は、その病原菌に対する抵抗力を持った人びとの割合が高い」というのは、「人びとの生物学的
な差異」そのものではないだろうか?
>いくら何でもここまで粗雑な概念で論じられたら困る。
と春田氏は論じています。
ダイアモンドは「3万年前の人類の文明の出発点では、人類に生物学的な差はなかった。
しかし家畜を飼育した民族は人畜共通病を経験することで、病気に対する抵抗性をつけてきたが、
家畜を知らない民族は抵抗性がなく、よって二つの民族が接触したときに片方(家畜飼育民族)が
圧倒的に優位に立つという現象が起き、かくして文化の優劣が決まった」と言っている。
天然痘ならそれに対する抵抗遺伝子は、当初は二つの民族に同じ割合で含まれていた、それが接触
の時点では、他方には圧倒的優位になっていた、という意味でこの部分には生物学的差があった。
しかしそれは出発点の差ではない。途中の環境による差できまったのだ、という意味。
春田氏は、文章の理解が出来ないので、」生物学的差」という言葉が一件相反する意味で語られて
いるような箇所を見つけ、「粗雑な概念」とけなしているのです。でもちゃんと読めば論理はとお
っているし、人種の優劣などないのだ、という著者のヒューマニズムがわかるはずです。
これがわからないとしたら、それは「粗雑な脳」の持ち主といわれましょう。
42 :
日本@名無史さん:01/11/12 20:15
>>35 加生沢の図面を原セ笠張の報告書で見たんだけど、粗い加工の尖頭状石器って
縄文早期の尖頭状石器に似てるね。層位は大丈夫なのかな?
どっかの掲示板で竹佐中原も縄文早期に似てるっていうのがあったけど、
どうなんだろう?層位が良く分からないんで詳細キボンヌ。
43 :
日本@名無史さん:01/11/12 20:36
>65年2月の調査で、井関弘太郎氏(名古屋大名誉教授)の地層鑑定では、
>第3氷河期(20万年前〜13万年前)前期旧石器時代とされた。」
とある。65年、つまり41年前の鑑定ですね。これの信憑性はどうでしょう?
例の早水台だって14〜15万年前といわれていたけれども、近年の調査では、
4〜5万年前というのはほぼ決まりです。早水台も確か60年代の調査でしょ?
旧石器人のものとされていた骨も、港川以外はほぼ壊滅ですね。
加生沢は、少なくとも、捏造とは無縁だし、調査者の努力も漏れ聞くところでは
相当なものです。しかし、石器だけでどうこういうのではなく、出土地点や層位
の可能な限りの検証をしないとまた同じ失敗を繰り返すかもしれません。
藤村石器を周口店に通じると言っていた研究家も多かったのですよ。
44 :
日本@名無史さん:01/11/12 22:21
45 :
日本@名無史さん:01/11/12 23:37
今さらながらに、思うのですが、
日本の旧石器考古学は、多地域進化説から逃れられなかったのが、
様々な誤謬を重ねてきた原因のような気がします。
90年代初め、アフリカ起源説が一世を風靡しはじめた頃、
藤森は、次々と訳の分からない遺跡を発掘しはじめ、
これは、日本の研究者は多地域進化説を支持する証拠だと飛びつき、
それまでの概念に基づき、旧石器時代像を構築し続けました。
そして、未だに、教科書には、多地域進化説しか載っていないようです。
なんだか、情けなくなってしまう。
46 :
日本@名無史さん:01/11/13 00:20
>>45 やはり世界の学説には注意しておかなくては。
まあ80年代は「ジャパン・アズ・ナンバーワン」の時代だったしね。
それより「科学になれるか」というテーマはどうなったの。
36みたいに開き直るのもいるようだけど。
いつまでも「ロマン」じゃね。
47 :
日本@名無史さん:01/11/13 01:19
>ダイアモンドは「3万年前の人類の文明の出発点では、人類に生物学的な差はなかった。
>しかし家畜を飼育した民族は人畜共通病を経験することで、病気に対する抵抗性をつけてきたが、
>家畜を知らない民族は抵抗性がなく、よって二つの民族が接触したときに片方(家畜飼育民族)が
>圧倒的に優位に立つという現象が起き、かくして文化の優劣が決まった」と言っている。
これだけでも充分にトンデモだと思うぞ。
ナンデモ伝染病か?
>>47 うむ、うむ、そのような混乱した認識が研究者の間でも流布
しているのでは、ないかと恐怖します。
まず、人類進化では、旧石器人という概念はありません。
旧石器時代というのは単に人類が石器を使っていた時代を指すもので、
その石器の形態で時代区分をしているだけで、人類の進化と
必ずしもシンクロしていませんし、この時代区分は現在、ほとんど
意味がありません。ちなみに、縄文は新石器時代です。
実際に、この言葉を世界的に使おうとなると、
アフリカでは後期旧石器時代がが20万年前に始まり、
日本では4万年前に始まったなどというわかりにくい説明になります。
また、人類進化の概念として、
日本語では、猿人、原人、旧人、新人と未だに分類していますが、
これは、段階的に人類が進化してきたという多地域進化説をベースに
生まれた言葉で、アフリカ起源説を説明するには似合わない言葉です。
すべて、これらの言葉は発掘物から時代編年を行い
世界中の進化がほぼ同時進行したという架空世界を前提とした
はるか昔の考古学的手法をベースにした概念なのが原因です。
そして、そんな言葉を未だに使い続けているのが
日本の考古学の世界なのです。
>>47 当初、旧石器時代と新石器時代の違いは、打製石器と磨製石器の違いだった(これ
だと縄文時代も旧石器時代になってしまっていた)が、東アジアでは旧石器時代に
局部磨製石器が存在したりしたなどのため、この違いでは分けられなくなり、農耕
の開始で旧石器時代と新石器時代を分けるようになった(いわゆるチャイルドの新
石器革命)。これだと縄文時代に農耕(日本では農耕イコール稲作的な観念が強い)
が認められなかった時代では、当然縄文時代は旧石器時代とされるべきはずだが、
なぜかそうされず、日本ではどうやら土器の使用で旧石器時代と新石器時代を区別
しているらしい。
いわゆる旧石器時代人という表現は、旧石器時代に生きた人という程度の意味で、
人種的な意味ではない。現代に生きる人を現代人と呼んだり、縄文時代に生きる
人を縄文人、弥生時代に生きる人を弥生人と呼ぶのと一緒。
また、ネアンデルタール人と新人は共存していた時期があり、石器も同じような
ものを使っていた。旧人と新人という人種的な側面では時代区分することは不可
能であり、文化的な側面で時代区分せざるを得ない。時代区分すると逆に時代ご
とに「何何(時代)人」と呼ぶ風潮はどうしても出てくるので、これを人種的区
分と勘違いしてしまうのも仕方がないだろう。リンク先の人は「旧石器人」を人
種的区分と勘違いしているところから、混乱していると思われる。
>>45(47)
ちょっとK合のレトリックにひっかかっていますね。
多地域進化説も単地域進化説(アフリカ起源説)も猿人、原人、旧人、新人と発展
段階説である点では変わりがありません。違いは、どこで進化(発展)したかとい
う点にあります。ちなみに世界でも未だに「猿人、原人、旧人、新人」という言葉
は使われています。
調べて書いたわけじゃないんで記憶ちがいだったら、スマソ。
51 :
日本@名無史さん:01/11/13 10:06
45>
デムバ先生、またはその支持者さん(旅2さん?)。いつもの馬脚が出てるよ。
>日本の旧石器考古学は、多地域進化説から逃れられなかったのが、
>様々な誤謬を重ねてきた原因のような気がします。
>90年代初め、アフリカ起源説が一世を風靡しはじめた頃、
>藤森は、次々と訳の分からない遺跡を発掘しはじめ、
>これは、日本の研究者は多地域進化説を支持する証拠だと飛びつき、
>それまでの概念に基づき、旧石器時代像を構築し続けました。
相変わらず「藤森」ですか。
まあ、それはともかく、多地域進化説から逃れられなかったというのは、
本当かな。少なくとも、どちらになるのか、趨勢を見守っているところと
思うけど。どちらも決定打はないし。
ちなみに、考古学者が最古の石器=多次元という図式を想定していると考える
のなら、既に実際の研究動向と異なっていると思うけど。
あくまで、現状で最古なのと、実際の最古は分けて考えないと。これは、
土器の起源についてもいえるなあ。表層的に見てると単純にひきつけたい人も
いるようだけど。
「気がする」だけで偉そうな事いわんこと。まあ、2ちゃんだからいいか。
>すべて、これらの言葉は発掘物から時代編年を行い
>世界中の進化がほぼ同時進行したという架空世界を前提とした
>はるか昔の考古学的手法をベースにした概念なのが原因です。
>そして、そんな言葉を未だに使い続けているのが
>日本の考古学の世界なのです。
とにかく、日本考古学を馬鹿にして、海外マンセーを叫びたいのね。
50さんが書いているように、磨製石器の出現が早くあることが確認され、
必ずしも欧州の連中が考えていたように同時進行で進化(ププ)が進む
訳でないことを示したのは、日本じゃなかったかね。
それから、文化的な発達と、生物進化は別ね。
まず、あなたの認識をUpdateしたら?だから、「文化で歴史を区切るのは
おかしい」とかいうデンパ飛ばすんだよ。議論がちがうでしょ。
さて、反応待ち。
52 :
日本@名無史さん:01/11/13 10:07
ごめん。長すぎた。逝ってくる。
>>50 わかりやすい、正確な解説どうもです。
しかし、人類進化の解説には。ちと、問題ありです。
>>51 少し、ばかり、デンパ飛ばしたようです。すんまそん。
そちらの方々とは、関係ありませんです。
今、時間がないので、また、後ほどということで・・。、
54 :
日本@名無史さん:01/11/13 10:43
53さん
あれ?違うの。
なーんだ。お決まりネタかと思ったのに。残念。
今日は不漁かなあ。釣れム。
スレてないブラックバス並みの反応きぼ〜ぬ。
歴史を「時代」で区切るのは進歩史観が流行した19世紀の名残ではありませんか。
石器時代、青銅器時代、鉄器時代なんて懐かしいですね。
それから古代奴隷制、封建制、資本主義、社会主義と進化していくって。
日本の歴史学にはこの進歩史観がまだ濃厚に残っていて、考古学も例外ではないと
思います。
「文化」はパッツと切り替わるものではなく、次第に推移し古い文化は新しい文化の
内部に包摂されていくので、時代区分には使えないのです。
縄文時代がいつはじまったかなんて議論するよりも、水稲栽培はいつ始まったか、
という議論をすべきで、それが「考古学が科学になる」ということです。
「縄文時代」、「弥生時代」、「古墳時代」は定義されていない高次概念(メタ概念)で、
研究者により意味が異なることは考古学の本を何種類か読めばすぐわかります。
自然科学は「要素還元主義」を原則としています。文化を構成するイネ、土器、金属などの
要素を抽出し、それの始まり発展、広がりをまずきちんと押さえることが追求される
べきです。
旧式の考古学者がそれをやろうがやるまいが、今後はそういう方法が主流になるでしょう。
前期旧石器時代、中期旧石器時代、後期旧石器時代という時代区分がまず
頭の中にあって、その固定観念で石器を見ていったから、「誰も石器が見れない」
という事態が起こり、「思いこみ」で土のシミが柱穴に見える、という
錯覚現象が起こったのです。
「時代区分などあらかじめない。あるのは具体的な石器とその推移だけ」
というスタンスなら、あんな事件は発生しようがない。
幽霊がいると思っているから、枯れススキが幽霊に見える、あれと同じ
現象なのです。
57 :
日本@名無史さん:01/11/13 12:45
最初は、わりとマトモなことを言ってた科学史家もだんだんデムパがかってきたな。
科学屍化さん。
また、名前変わったんですね。
ところで、文化と時代は違いますよねえ。
なにをおっしゃってんだか。
ちなみに、政体の段階と時代概念も違いますね。
>要素を抽出し、それの始まり発展、広がりをまずきちんと押さえることが追求される
>べきです。
>旧式の考古学者がそれをやろうがやるまいが、今後はそういう方法が主流になるでしょう。
それなら、旧式の考古学者はほとんどいないな。現状では。
時代呼称にこだわっている研究者いるんだろうか?
59 :
日本@名無史さん:01/11/13 12:55
>>51 のるなよ。ネタに。
デムパの分身なんだから。
60 :
日本@名無史さん:01/11/13 13:03
>>56 >「時代区分などあらかじめない。あるのは具体的な石器とその推移だけ」
>というスタンスなら、あんな事件は発生しようがない。
いやー実際に時代区分なんかあまり意識してなかったんじゃないの。
むしろ出土したとされる石器の推移をなんとか跡付けようとしてたんでしょ。
61 :
日本@名無史さん:01/11/13 14:25
なにやら、このスレ・空気がどんよりと濁って
きたような気がします。
批判すべき考古学会の体質と同じような…
62 :
日本@名無史さん:01/11/13 15:17
もとからじゃない?濁ってるのは??
そういうところですよ。多分。
考古学会っていうのは、なんだかわからないけどね。
東博のやつ?とかボケてみたりして。
なんでもひとからげに論じようとするはデムパ。
63 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:31
>>58 時代呼称にこだわっている例
後期旧石器時代=先土器時代=岩宿時代
海外だって
いわゆる中近東の無土器新石器(PrePotteryNeolithic)を
Aceramic NeolithicやProto Neolithicなどと書く人もい
るし、考えはさまざまでは?
64 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:33
どんよりするのはタイトルに問題あり。
だって「考古学が科学であったならねつ造は起きなかった」のですか?
ねつ造の衝撃から出発した議論が何か別の方向に向かっている感じです。
65 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:41
66 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:42
糞だね>51
学位もねーくせにエラそーに(藁
67 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:56
比較的中身のある書き込みができる少数のデムパとその周辺で騒ぐ、
煽りだけしかない何人かのデムパという構造は、
スレが新しくなってもかわらんな。
>>50 >多地域進化説も単地域進化説(アフリカ起源説)も猿人、原人、旧人、新人と
>発展 段階説である点では変わりがありません。違いは、どこで進化(発展)したか
>という点にあります。
ホモ・ネアンデルターレンシス(ネアンデルタール人)を多地域進化説を基に旧人と
名付けてしまったことによりすべての混乱の始まっています。
ホモ・ネアンデルターレンシスは、ホモ・サピエンスの本流から約50〜100万年前に
分岐した人類の亜種ということはほぼ確定しており、現代人と連続していないことは
明らかになっています。人類は進化の過程の中で、様々な亜種と共存してきており、
その中の生き延びた1系統が、ホモ・サピエンスだという認識が常識です。
現在のホモ・サピエンスの直系については、ホモ・ハイデルベルゲンシス(約50〜
20万年前)が有力となっています。
ちなみに、多地域進化説の理論(基本)では、世界中の人類が遺伝子交流をしながらほぼ
同時に進化の階段をのぼってきたという考え(こう説明しないと現代人の均質性が説明
できない)がベースになっており、どこで進化(発展)したという問題は2次的なもの
になっていたはずです。
しかしながら、日本の考古学(一部)は、この多地域進化説をも無視し、原人から旧人
そして新人へ、日本列島の中のみで進化を続けたという独自の理論(50年前への先祖
帰りかも)を構築してしまったのです。
(この理論は生物学のダーウイン進化論を真っ向から否定している事になる)
>ちなみに世界でも未だに「猿人、原人、旧人、新人」
>という言葉は使われています。
私の勇み足でした。古くからなじんだ言葉なので大まかな
分類や比較をするときには、これらの用語を使う人はまだ
まだいるかも知れません。しかし、人類進化等の問題を言
及するときは、地域性を配慮した8〜10程度の種に分類する
のが普通だと思います。
>>51 >まあ、それはともかく、多地域進化説から逃れられなかったというのは、
>本当かな。少なくとも、どちらになるのか、趨勢を見守っているところと
>思うけど。どちらも決定打はないし。
ネアンデルタール人のミトコンドリアDNAが調べられ、約50〜100万年前に
人類と分化した亜種だったことが証明されています。これに真正面から異
を唱えている人はおりません。
>>64 >「考古学が科学であったならねつ造は起きなかった」のですか?
発掘の現状を考えたら科学であっても捏造は起こると思います。
実際に科学分野でも捏造はあります。
しかし科学であったら20年も見過ごされ、主だった学者がぜんぶ
乗せられてしまう、ということはなかったでしょう。
そこが今度の事件の特異な点で、世界に類例がなく、注目に
値するのです。恐らく世界中の考古学者が事件につよい興味を
もって見ていると思います。
だから変な幕引きをしてほしくないのです。
70 :
日本@名無史さん:01/11/13 19:54
やっぱり素人の入り込める隙間がある時点で学問としては
なりたたないでしょう。考古学は他の分野と違って学者と
そうでない人間との垣根が低すぎて笑っちゃいます。
>>70 自然科学の分野でも、生物学とか生態学など、素人の入り込める分野はあります。
しかし蝶の分類など必要なら専門家がミトコンドリアDNAを分析して、近縁関係を
割り出すという態勢が整っている。
考古学も素人の熱意や努力は取り入れるが、それによって学問のレベルが低下しな
いようなシステムを築けばよいのです。
>>71 今までの考古学講座では、地質学系・分析科学系のカリキュラムは殆どありませんでした。
カリキュラムで全て解決するわけではありませんが、せめて地質・分析分野の研究者と
必要な事項に関して充分検討し、吟味する能力をつけておかないといけないでしょう。
都立大の小野昭教授が5月の考古学協会で「旧石器は理学部に・・・」といった発言を
した真意が今ならわかります。余りにも地質・分析科学その他の理学系分野について疎い
人々が多すぎました。もちろん全ての方にあてはまる訳ではありませんが。
>>72 文字以前の時代は狭義の歴史学の対象ではなく、モノの分析が中心
となりますから、科学を応用することが必要です。
その意味では(考古学を)純粋科学を根幹としている理学部に移す必要はなく
研究センターを新設してもよいのです。そこにいろんな科学分野の人が集まれば
よい。
文学部の考古学を改組してカリキュラムを大幅に変えることは、
財政・人事どの面から見ても、今の時期は難しい。文学部自体が生き残れるか
どうかが問題となっていますから。
74 :
日本@名無史さん:01/11/14 17:21
下手に理系の人間を取り込むと、環境考古学者のY田危険先生とか
T文研のH尾先生とか、わけもわからず、勝手なことを言い放つ
ドキュソが入ってくるからねえ、どんなもんでしょう。
んでさ、下顎屍化さん。さかんにミトコンドリアDNAを肯定的に
引き合いに出しているけど、まだ異論も多い研究方法ですぜ、あれは。
そこらへんの事情知っているのかな?計算方法によっちゃあ、全く
違う系統図が描けるという反論もでていますし。たしかに、
ネアンデルタール人でもミトコンドリアDNAの抽出をやっています
が、まだまだ類例が足りず、十分な根拠とは言い難いし。
また、仮にそのミトコンドリアDNAに論拠したとしても、オースト
ラリア出土の人骨を用いて、多地域進化説を裏付けるような研究結果
も出ていますし、さてどうでしょうか?ストリンガーとかも、東アジア
などは単一起源説では説明がつかない点が多いということは認めていま
すし。
どうも、下顎屍化といっても、半可通の厨房に思えてしようがないの
だが、アカポスにいる人なの?もしかして、デムパ工事先生?
>>74 私が持ち出した例は蝶の分類におけるミトコンドリアDNAの役割で、
ネアンデルタールではありません。
自然科学における間違いは、
1)測定における間違い(例えば数万年前の化石のDNAがもとのまま
保存されているかどうか)
2)推論における間違い(系統樹を描くのに用いた計算式は妥当か
どうか)
により生じますから、結果が間違っていることはあります。
しかしこの二つに間違いがなければ、結果は正しく、それは
やがて多くの人に追認されて確定します。
私はそういうシステムを考古学にも導入する必要がある、と言っている
にすぎません。
「多地域進化説」にしても、現生人類がアフリカ以外で誕生したかどうか、
が問題になっているので、例えば同じ人類の中で白人とモンゴロイドが別れた
場所が違うのは明らかで、これと混同してはいけない。
現生人類が単一種であることは生物学的にも医学的にも確定しています。
貴方の考えている「多地域進化」を説明して下さい。
>>73 まさかホントに改組しなくては・・・なんて思っていませんよ。
小野教授の言いたいことは解かるという程度です。
しかし、必要な理科系の基礎くらいは履修しておかないとお話になりませんね。
旧石器で有力者とされていた(過去形です)大家も、地質学的知識がないに等しい
こともあります。そんな人のコピーを何人つくっても意味がありません。
そういう意味です。
77 :
日本@名無史さん:01/11/14 23:39
>>25,26
竹岡も小田もキーリも結局同じことを言っているんだな。
南河内で電波先生の発言を読んでなっとくしたよ。
で、考古学者でそう思っている人はどの位いるんだろ?
>45氏
>>68 うーん、かなり勘違いしてるな。
ホモ・ネアンデルターレンシスが多地域進化説を基に旧人と名付けられたなんて話は
初めて聞くよ。多地域進化説は、たしか原人段階の化石人骨が各地(と言っても東ア
ジア、東南アジア、アフリカ)で見つかったのと、北京原人と現生アジア人に遺伝的
と見られる歯の形質があったのと、ホモ・エレクトゥスからホモ・ネアンデルターレ
ンシス、ホモ・サピエンス(クロマニョン)へという進化が(当時)考えられていた
ことなどから生まれた説だったはずだが? 逆じゃないかな?
それから、人種と発展段階の単位を混同してる。猿人、原人、旧人、新人は(もとも
とはそうかもしれないが)現在では人種的な意味合いではなく、発展段階の単位とい
う意味合いで使用されている。旧人にはホモ・ネアンデルターレンシスのほかにも45
氏の挙げたホモ・ハイデルベルゲンシスも含まれるため、ホモ・ネアンデルターレン
シスが現生人類への系統からはずれようと大枠では関係ないことになる。だから発展
段階説である点では変わりがないと言ったわけだ。
まあ、厳密にはホモ・ハイデルベルゲンシスの一部が原人段階に含まれるらしいので、
今後「猿人、原人、旧人、新人」という枠組み自体は崩れていくだろうし、人類学の
最先端では既に崩れているらしい。が、一般向けの概説ではそれはまだ先だろう。
どこで進化(発展)したという問題が二次的なものなら、それは既に「多地域進化」
説ではないよ。遺伝子交流うんぬんは多地域進化説の弱点である各地の現生人類の等
質性を補うために生み出された苦肉のアイデアに過ぎず、基本理論ではない。つまり
「別々の地域で進化したこと」と「(にも関わらず)各地の現生人類が似通っている
こと」という相反する事象を同時に成り立たせようとするための理論であり、あくま
でも「多地域進化」を守るための苦しい理論なのだ。
日本の考古学者が一部でも「原人から旧人そして新人へ、日本列島の中のみで進化を
続けたという独自の理論」を唱えていたという話も初耳。素朴な祖先観ぐらいあった
だろうけど、理論にまで高めてたとは思えないな。
考古学は長年文献史学の補助学として位置づけられてきたから、ある種の僻み根性が染みついているんだよ。
だからマスコミに変に媚びて地位向上を図ったのも今回の事件の一因。
それに考古学は文献史学とは桁違いに金が要るしね。国民の理解を得ようともがいていたのは解る。しかしそればかりに神経が逝ってては・・・。
>>80 上高森の終了報告を見ました。
でも、あの遺構の誤認説というのは強引に思えますね。
http://www.miyagi-ann.org/ktm/B_L16_2_2.jpg あれだけのマダラ模様をどうやったら都合のいいように誤認出来るのでしょうか?
マダラ模様に沿った形で掘り上げているのなら、まだ説明がつきますが、
堀形がマダラ模様を無視して強引に描かれています(描かれているのですよ!!)
柱穴も何もかも、誤認では説明がつかないお粗末なものです。
デジタルカメラと人間の目の反応は違いますし、PC画面の色構成も若干違いますが、
誤認と説明するのは、かなり強引でヒドイと思います。あれが誤認でまかり通るなら、
何でもかんでも誤認で大丈夫です。
それから、もっと客観的な観察をして欲しいなら、シミの線を釘でトレースするのは
やめて欲しかったですね。客観的観察を阻害してしまいます。これも、考古学の業界
でいまだにまかり通っている余計な風習です。調査員の主観で客観的観察を阻害して
います。人間の目の色反応とデバイスの色反応は違いますので、肉眼とデジタル画像
やリバーサル・モノクロ画像とでは、色調に依拠した土壌の境界が一致しないことも
多々あります。
旧石器発掘捏造問題に関する声明(2000年12月24日福島における共同声明:東北日本の旧石器文化を語る会他9団体)より
<日本列島における前期・中期旧石器時代の研究を推進するためには、固定的な観念にとらわれない新鮮な問題提起と意欲をもった多くの研究者・愛好家の協力と粘り強い努力が必要であると確信します>
そうです。N先生は、斯界が求めていた人、そのものです。
>>75 失礼、下顎屍化さんと
>>45さんを間違えていましたね。
漏れの言ってた批判は、そのまま
>>68へのものでした。
>>82 ともかく調査終了後数日でその内容がインターネットに公開される、というのは
まず大きく評価したいですね。特別委員会も努力しているのです。
報告書を見ると、
BA地点のA9・10でTm−14直下で検出されたという石器のまとまりのうち南端の2点は、じつはT
m−14を含む自然流路に重なって、すなわち流路上で見つかったことが判明した。Tm−14直下の石器と
降下後の石器が同一生活面に存在することは、ありえないことであり石器検出面で何らかの工作があったこと
は明らかである。
CB地点の旧調査区で遺構と認定されていたものは、地層がマンガンや酸化鉄の影響で変色した部分を誤認
したことが判明した。
DB地点14〜16層は同一地層であり、石器や遺構の誤認で認定された16層上面という生活面は存在し
ないことが判明した。
と書いてあり、発掘者が地質学をほとんど知らず、地層の判定や生活面の把握というような基本の所でミスを
おかしている、という印象を受けます。
流路の位置にあった石器は当然沈下するはずなのに、岸辺と同じ高さで(つまり空中に浮揚した状態で)見つ
かった。これはそこが流路であるという認識が発掘者になかったからでしょう。
そういうレベルの発掘なら、シミが柱穴に見えたという誤認の理由も納得できます。
そうかな?半月堀した反対側の円弧は、まともに見ようが斜めに見ようが絶対つながらない。これは誤認ではない。もしねつ造でないと言い張るなら、それは、創作活動である。おとぎ話を紡いでいたということだ。
87 :
日本@名無史さん:01/11/15 15:13
ななし様:
>半月堀した反対側の円弧は、まともに見ようが斜めに見ようが絶対つながらない。
素人にもわかるように出来れば終了報告の図番号を示して、説明してくれませんか?
「つながらない」の意味がわかりません。
「B地点で従来遺構と認定されてきた痕跡の検証結果」の中の建物跡としていた画像全部。半月形に掘っているから、あとの半分は掘り残しのはず。柱穴の一方が円形なら、残りの部分も円形かそれに近い形のはず。しかし、どう見てもそうは見えない。だから誤認では済まされない。
89 :
日本@名無史さん:01/11/15 16:17
そこには無いことを認識していたら「捏造」
そこにあった気になって掘ったら「誤認」
違いは作為があったかなかったか。
ただし、「誤認」に作為があったかなかったかそれは「神のみぞ知る」だ。
よくわかりました。しかし、半分残していたということは「柱穴」だと
信じていたということでしょう。もし捏造なら、すぐバレルから全部
掘って穴だけ残したはず。
どうして誤認したのか信じがたいが、ローム真理教徒には常人に
見えないものが見えたんじゃないでしょうか。
それなら
>>82 で埋納遺構氏が言っているように、何でもかんでも誤認でOKになる。
92 :
日本@名無史さん:01/11/15 17:18
考古学の発掘に参加すれば分かるけど、掘ってる連中
って、みんないっぱしの地質学者きどりなのね〜
「これは攪乱だ」とか「この層の成因は〜」とかね。
ろくにそういうトレーニングとかつんでいるとは思え
ないのに。先輩からの受け売りを、トレーニングと思
っているような連中だからな。
ちょっと考古のしかも旧石器の発掘に参加したことが
あったけど、そんなんばっかしで嫌気がさした。
93 :
日本@名無史さん:01/11/15 17:29
ななし様:
>あれだけのマダラ模様をどうやったら都合のいいように誤認出来るのでしょうか?
誤認と説明するのは、かなり強引でヒドイと思います。あれが誤認でまかり通るなら、
何でもかんでも誤認で大丈夫です。
という埋納遺構さんの意見ですね。
ですから彼らは「かなり強引でヒドイ」と普通の人には思われる発掘をやってきた
のではないでしょうか。それ、誰かも書いていましたよね。
教徒かそのシンパにしか発掘も石器も見せないで来たから、20年続いたのではないですか。
それで第三者が検証したらすぐにぼろがでたのでしょう。
でも「犯意」を証明しないと「捏造」とは言えない。
>>93 Fは色弱者で逆に微妙な違いがわかることがあるということだったが、遺構の
認定をFがやっていたのなら納得はいく。彼らの調査の仕方は知らないが、
総進不動坂でも人が住めない環境の場所を遺跡だと(恐らく相談して)言い張ったし、
下美蔓西でも相談して年代を勝手に決めた。必ず怪しい部分にはFが関わっている。
何せ、50万年前の地形が見える自称超能力者だった。
誤認のカラクリは以上のようなことだろう。しかしそれを疑いもしなかったことは
常識はずれである。
調査報告では、19層以下は水成堆積物だそうだが、それが正しいなら、19層上面より
下位は全て捏造ということになる。19層上面の場合は、最終離水以降に不整合が生じた
場合は、そういうことも若干だが可能性はある。しかしそれよりも下は全てダメ。
ななし様:遺跡の選択は藤村がやっていたのです。だから南向きの緩斜面で
付近に地層断面があるところを選んだ。(これが「50万年前の地形」の正体です)
「穴はみんなで検討して範囲を決めた」(毎日本)と述べています。
だから藤村にも、鎌田にも、梶原にも穴が見えたことは間違いないでしょう。
>19層上面より下位は全て捏造ということになる
いえいえ、上も下もぜんぶ捏造です。藤村には地質学の知識がなくでたらめに
埋めていたのです。
96 :
日本@名無史さん:01/11/15 20:39
>「穴はみんなで検討して範囲を決めた」(毎日本)と述べています。
>だから藤村にも、鎌田にも、梶原にも穴が見えたことは間違いないでしょう。
これは、「裸の王様」そのものだね。藤村が「見えた」と言えば、「見えない」とは
言いにくい。見えなくとも見えたふりをしてたんじゃないか。
「オレには見えないが、藤村にはきっと見えるんだろう」って。
あまりの無責任さに頭が痛くなるよ。
>>94 93はミステイク。19層上面より下位は、常識的な地質の基礎的知識を持っていたら
すべて捏造と最初からわかったはず。ということにしてください。
いずれにせよ何でもかんでも相談して決めた・・・です。
相談して全て決めるのは科学ではないですね。
一つずつずれた。
94→95 93→94 スマソ
99 :
日本@名無史さん:01/11/15 21:02
>>96 だから鎌田・梶原氏は誤認説に飛びついたんだよ。
>>96 だから竹岡氏が指摘しているように藤村はオームの麻原と類似した人物だと
考えれば納得がいきますね。
実際には藤村が遺跡を選び、石器を選び、埋め、埋納遺構も土坑も、全部演出して
いた。岡村、鎌田、梶原はそれに学問的理屈をつけていただけ。
取り巻きの偉い考古学者も。
で、そのきっかけというのが「目の前で石器を掘り出してみせる」という
実に単純な手品。これで皆コロリと信者になった。それが20余年も続いた。
そういうことになると「日本の考古学ってなんだったのだ?」となる。
だからこれは世界史的な大事件なのです。
ああ、そうそう。立花隆が鎌田には梶原に対する不当な学歴差別意識がある、
と指摘していますね。岡村の学歴意識はもっと強いそうです。
そういう偏見の持ち主だったことも、藤村の別の人物像を見抜き、捏造を
疑うことを不可能にしたかもしれません。
>>101 ということは、「Fに見えて俺に見えないのはおかしい」という心理が働いたとでもいうことかな?
ますます前期旧石器は科学じゃなくなってきた。
103 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:04
>>101 「鎌田には梶原〜」は「鎌田には藤村〜」な〜
104 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:08
デムパ工事=旅人2号=科学史家
バレヴァレ
105 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:13
>>102 そうじゃないよ。鎌田は藤村を良く鼻の効く犬だと思っていたんだよ。
よもや従順な犬が、(あるいは金の卵を生むがちょうが)捏造というかたちで
自分を裏切れるとは思ってなかったのさ。
そんな知識も度胸もないと思ってたのさ。
106 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:19
科学史家さんよ〜あんたの意見、どっかの本の
切り貼りなんだけど、やっぱりデムパ工事先生
だろ?
竹岡大先生の意見とかに傾聴しているようじゃあ、
科学史家の看板おろしたほうがいいぜ。まあ、
同じデムパ仲間なんだから、マンセーってこと
なのか(藁。
107 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:38
ほんと、104や106のいうように、科学史家の文体や書いてることの内容は、
デムパ好事大先生にそっくりだ。ほんとアンタ、正体隠すのヘタだねぇぇぇ。(プププのプ
竹岡がオーム??
藤村に騙された考古学会の方がよっぽどオームじゃん
偉そうに言える立場かい。
>>108 いったい誰に言ってるんだ?493なんてスレねえぞ。
だいたい、科学史家大先生は、竹岡俊樹大先生の
くされ著書とかをおそらく参照して藤村=オームの麻原
って言ってんだぜ。まあ、それもどうだかな、って
感じだけどな。
他人の発言をよく読めよ。
岡村と鎌田は類似点があり、カリスマ性もある。二人がそりがあわなかったのは
そういう点もあるのではないかと思います。
しかし鎌田には魅力があり子分とか仲間ができた。
岡村というひとはギラギラしているが、そういう人間関係がないように思われます。
その点で岡村の場合、藤村にだまされたという単純な関係ではないかも知れません。
まあ、このへんは上でわめいているクズには考えも及ばないことでしょうが。
情報が欲しければ言葉を慎むことです。
111 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:01
科学史家さんがN先生でもいいじゃない。楽しめば。
T岡氏の方法論は今のところは有効性があるかもしれないが、
万能ではないといことにも留意すべきでは。
と言って、次なる方法論が見えているわけでもありません。
T岡氏の方法論をたたき台にして議論されるべきでしょうか。
そこの辺り、新たな石器論をめざしている方がいらっしゃれば、
意見を聞きたいところですね。
112 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:04
>>110 あのさあ、岡村さんや鎌田さんと知り合いなの?
さも、知り合いのように書いているけど、どう
考えても考古畑の人には思えないし。
岡村にカリスマ性あるか?一度でもあのおっさんと
飲んだことのある人間なら幻滅する一方だぜ。よく
知りもしない時代のことにまでしゃしゃり出て、
偉そうに発言するし。
情報が欲しければって、どうせどこぞの本から
抜粋してきて、さも自分の意見のように言っている
だけでしょう?偉そうなことを言わんといて下さい。
どうも、阿呆な恫喝の仕方といい、オリジナリティの
ない意見といい、俺にはデムパ工事先生と同一人物
としか思えませんな、科学史家さんは。
113 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:06
>110
大概の人はO村氏のことはよく分かっていますよ。
O村氏がどの様に利用してきたかは。
別に情報を開陳しなくてもいいでしょう。
114 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:07
>>111 竹岡さんの方法論にどこが有効性があるというのかね?
あんたの考えている竹岡さんの方法論とはどういうも
のを言うのだ?
デムパ先生も本当に自作自演が好きですね。見方がいな
いからね。可哀想なお方だ。
115 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:10
>>113 だから、さも自分がものを分かっているような
ふりをしたがる、デムパ工事先生のいつもの
手じゃないですか。
O村にカリスマ性があるとか書いてあるのをみて
漏れは笑いが止まりませんでした。
116 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:12
>114
じゃ他にご存じでしたら、お教え願えますか。
117 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:13
118 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:15
>117
捏造についてのです。
119 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:19
捏造の検証ということに関して言うのなら、
全部アボーンなものに方法論もくそもない。
だいたい、自然科学の常識から言えば、再現性の
ない(=藤村などトーホグの連中しか検出していな
い)実験結果が捏造されていたなら、いくらデータを
出しても全てアボーン。
だから、上高森、総進不動坂がアボーンになった時点で
20年間はすべてアボーンである。
120 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:25
>119
>自然科学の常識から言えば、再現性の
ない実験結果が捏造されていた
その再現性がないと見破る術は全くなかったのでしょうか。
>>111 >T岡氏の方法論は今のところは有効性があるかもしれないが、
万能ではないといことにも留意すべきでは。
せっかくN先生をかばって発言されたようですが、こういうレトリックが
考古学が科学になりえないレトリックです。以下その分析です。
「有効性があるかもしれない」:有効性があるのかないのか?
彼の方法論で予言したことが的中したのだから、有効性があるに決まっています。
それを認めたくないから、「かもしれない」と逃げている。
「万能ではない」:そんなことは当たり前でしょう。すべての方法は適応限界を
超えたら有効でなくなります。万能の方法などどこにもありません。その有効性
と限界を熟知して駆使するのが真の専門家です。
つまり上記のレトリックは日本の考古学者(文系の学者)が、面ときって反対
だと言いにくい場合に常用する紋切り型の表現です。
若い考古学者はおぼえておくとよいでしょう。「Xの方法は有効かも知れない
が、万能ではないことに留意する必要がある」
XにはC14でも脂肪酸分析でも土器編年法でも、何をいれてもよいのです。
絶対に間違いだと気づかれません。(アホな考古学者にはね)
122 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:32
再現性がない、って書くだけだと、理解でき
ないと思ったから、(=藤村などトーホグの連
中しか検出していない)と付け加えたのだが、
それでも再現性がないことを見破れないひとが
いるのなら、日本語能力か情報収集能力が疑わ
しい人ですな。
おそらく
>>120さんは、押圧剥離がある云々という
ことも持ち出しているのだろうけど、竹岡さんの
説では原人は手の構造から考えて押圧剥離できない
ってことになってるけど、原人の手の部分の完全な
化石骨ってたしか検出されていないはずだから、
それはあくまでも推測の域を出ない発言だ。それ
にニポーン原人の骨は検出されていないのだし。
見れば押圧剥離かどうか分かると言うけど、国士舘
のO沼先生とかには疑問視されているし、さて、
どうかな?それにT岡さんがこれこそ前期旧石器
だ!!!って言ってる山形の富山遺跡って、慶応
の阿部先生に痛烈に批判されているでしょう?
123 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:38
馬鹿学史家さん、T岡さんの方法論が有効で
あるに決まっていますって、それは結果論
でしょう。
そもそもあんたは、旧石器考古学の彼の論文を
読んだことがあるのか?あれは批判になっている
とお思いか?
石器製作の痕跡というのは、人類の環境適応のな
かでの、一側面の一つであるという考えにたてば
彼が論拠としたヨーロッパや中近東の事例は、
説明のためには根拠たりえない。そこらへんが
しっかり理解できていますか?
124 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:47
>121
まずN先生は全くかばってもいませんし、そこから離れた話です。
>その有効性と限界を熟知して駆使するのが真の専門家です。
>彼の方法論で予言したことが的中したのだから、有効性があるに決まっています。
それを認めたくないから、「かもしれない」と逃げている。
ご丁寧な分析は有り難いのですが、T岡氏の有効性があったのは分かり切ったことです。
失礼ですが、T岡氏の著書は捏造以前から擦り切れるぐらい読んでいます。
ですから「次なる方法論が見えているわけでもありません。
T岡氏の方法論をたたき台にして議論されるべきでしょうか。
そこの辺り、新たな石器論をめざしている方がいらっしゃれば、
意見を聞きたいところですね。」
と問いかけているのです。
後期旧石器でも相当な時間幅もあり研究分野も多岐にわたっていますので、
問いかけをしたわけです。
125 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:51
>>124 T岡氏の著書って、オーム解体新書?(w
126 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:53
>122
>山形の富山遺跡って、慶応の阿部先生に痛烈に批判されているでしょう?
されていますね。ですからT岡氏の限界性も認識した上で、
新たなさらなる方法論が必要かと思っているのですが。
127 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:55
>>124 馬鹿学史家先生=デムポ工事先生=N先生
という風に同一人物なんだから、仲間ができたっ!!!
って嬉しかったんだよ。
128 :
日本@名無史さん:01/11/16 00:57
>>126 だから、方法論って何の?あなたも認めている
ように後期旧石器に限っても色々な研究視点
があるでしょう?
どうもそこらへんがよく分からん。捏造の防止
というなら、野尻湖でやっているような方法が
良いんではないかい?とは思うけど。
129 :
>87 >ななし さま:01/11/16 01:07
調査中に現場を一時間ほど見に行ったんですが、
ちょうど「シミ」の線引きしてるところでした。
「削るたびに形が変わる」と言いながら
線を引いてましたから、当時あるいは「シミ」が
そのような形に見えたということもあったかもしれません。
6次の調査目的にも挙げられているように当時上高森には
「小鹿坂」の「遺構」が念頭にあったことは間違いない。
上高森6次では始めのうちは藤村が半裁せずに
一人で遺構を掘り上げてしまったので、
あわててやめさせ、半裁して残すことにしたようです。
ところが、「本当に遺構なのか」と言う疑問は、
「土坑」の底面から掘り込まれ(ねつ造され)た
「埋納遺構」から石器が次々に発見されるに及んで、
「やはり藤村には土坑が見えたのか」
「俺にも見えるはずだ」
「見えなくちゃいけない」
となってしまったのではないか。
生活面の認定に際しても、
石器の出土を見て「ここに生活面があったんだ」
と考えることと全く同じ構図になる。
藤村トリックに魅了され、狂喜乱舞する姿が目に浮かぶ。
地層の成因や地質の知識があったら騙されなかったカモ。
キーワードは石器。モノが出てくると黙ってしまう考古学がそこにあった。
130 :
日本@名無史さん:01/11/16 01:12
>128
失礼、質問が漠然としていたかもしれません。
石器を見ていても見えない、という自分の問題があり、
簡単に言えば石器の見方と言えばいいのでしょうかね。
今、褐鉄鋼の付着とかが捏造疑惑の根拠に引き合いに出されますが、
石器そのものからできないかと(理化学分析ではなく)、
そのような研究を進めている方がいれば意見を聞きたいと
思っています。
131 :
日本@名無史さん:01/11/16 01:19
>>130 石器そのものから、分かることって何でしょう?
捏造していたかどうかってことでしょうか?
それは最終的には、しっかりとした客観的な調査
に基づき、地質学的な裏づけもある出土資料の
類例が揃った結果として、そこに入ってこない
ものが、捏造というふうに判断されるしかない
のではないでしょうか?純粋な考古学的な方法で
は。
ヨーロッパのものに似ているとか似ていないと
か、そういうことは何の判断根拠にもなりえな
いのは、自明の理だと思います。
お答えになっていたでしょうか?
132 :
日本@名無史さん:01/11/16 01:32
>131
遅くまでありがとうございました。
>しっかりとした客観的な調査に基づき、地質学的な裏づけもある出土資料の
類例が揃った結果として、そこに入ってこないものが、捏造というふうに判断される
また自分でもじっくり考えてみます。ありがとうございました。
133 :
日本@名無史さん:01/11/16 01:33
>>132 漏れももう寝ます。ありがとうございました。
>>129 >上高森6次では始めのうちは藤村が半裁せずに
>一人で遺構を掘り上げてしまったので、
>あわててやめさせ、半裁して残すことにしたようです。
そう、捏造だから勝手に掘り上げたのです。しかし、廻りの自称専門家は捏造遺構を追認してしまった。
具体的根拠のない、ちょっと削ったら形の変わる自然のシミを。
135 :
日本@名無史さん:01/11/16 03:35
>>122 >見れば押圧剥離かどうか分かると言うけど、国士舘のO沼先生とかには疑問視
>されているし、さて、どうかな?それにT岡さんがこれこそ前期旧石器だ!!!って
>言ってる山形の富山遺跡って、慶応の阿部先生に痛烈に批判されているでしょう?
角張理論では、大沼さんの分析(ハンマーと剥離の問題)は、粗いと言っている。
それは置いておいても、何十万年も形式の変わらない石器を信じる方がよほどデムパ。
50〜70万年前に押圧剥離に似たものがあったとしても、文化の発展性を無視して良い訳はない。
前期(石刃技法以前)かどうかという点については、ここの42〜44を読んだら?
加生沢も竹佐中原も縄文早期のものに一見良く似てるらしいね。
136 :
日本@名無史さん:01/11/16 09:14
>キーワードは石器。モノが出てくると黙ってしまう考古学がそこにあった。
これがねつ造を許した本質。ねつ造発覚後も「層位が形式に優先する」と言
っていたKは自説を変えただろうか。もう少し藤村を放置していたら東北原
人が使っていたボールペンとか出土したりして面白かっただろう。
石器を評価する能力がない。地層・地質から当時の環境を推測する能力がな
い。そもそも客観性を保ちながら発掘記録を残す能力がないし、批判に耐え
るような報告書を出す能力がない。ないない尽くしだ。考古学者がアホだか
らねつ造を許したのであって、それ以外に理由がない。私はアホじゃなかっ
た、と言えるひとはアホなトーホグ考古学会のために、どうすればアホが治
るのかお知恵を授けていただきたい。そういうお知恵が職人的な阿吽の呼吸
でなく教育で伝えることができれば考古学は科学になるであろう。
考古学者自信がない尽くしであることに気付いていたから藤村の言うことを
鵜呑みに信じていた。ハダカの王様の話みたいに、土のシミが柱穴に見えな
いのは自分がアホだからじゃないかと恐れていた。
137 :
日本@名無史さん:01/11/16 09:31
太古の昔に多少なりともロマンを感じる一人です。
全くの素人が口を挟んで申し訳ありませんが教えてください。
藤村が関わっていない前期あるいは中期旧石器遺跡って日本では
何箇所あるんですか?
もしあるとしたらそれらは間違いないのですか?
>>122 >見れば押圧剥離かどうか分かると言うけど、国士舘
>のO沼先生とかには疑問視されているし、
>山形の富山遺跡って、慶応の阿部先生に痛烈に批判されているでしょう?
これが日本考古学をダメにしている「権威主義」のよい見本です。
日本に石器が鑑定できる専門家がいなかったことは事件が証明した。
なのにまだ「権威」に依拠して発言している。
>>123 >T岡さんの方法論が有効であるに決まっていますって、それは結果論
>でしょう。
これも常套文句。予言(予測)を行ったのだからそれが正しいかどうかは
いつでも結果としてしかわからないのです。
「結果論でしょう」ということで、「まぐれ当たり」であって予測(及び
それを可能にした理論や方法)には意味がない、という主張を述べるときに
バカ文系が用いる表現。
これも「恒真命題」で、どんな場合にも使えます。
「アインシュタインが太陽光が重力により曲がることを予言した。皆既日食
の観察でそれが確認された。だがそれは結果論でしょう」てな具合に。
>石器製作の痕跡というのは、人類の環境適応のな
>かでの、一側面の一つであるという考えにたてば
>彼(竹岡)が論拠としたヨーロッパや中近東の事例は、
>説明のためには根拠たりえない。そこらへんが
>しっかり理解できていますか?
これもバカ考古学の常套文句。
「考えにたてば」と言う表現で、あやふやな自説あるいは
権威者の説を無批判に持ち込む。「石器製作は人類の環境
適応の一側面である」という命題は123自信も何を意味して
いるかわからない文章。どうしてそういう「考えにたつ」
必要性があるのかの説明もない。(論理性がゼロの文章)
竹岡氏は人類のアフリカ起源説を前提に、「日本に原人が
いたとすれば、それはアフリカやヨーロッパの原人と同じ
ような脳や手の構造をしていた。よってその石器は比較で
きるはず」という科学的推論に基づいて、石器鑑定作業を
行った。その結果、日本のは捏造と判断され、それは実際に
確認された。つまり、アフリカ起源説の正しさと多中心性
進化のあやしさが、これでより強化されたのです。
123は「そこらへんがしっかり理解できていますか?」
139 :
日本@名無史さん:01/11/16 11:46
50~68あたりのレスで議論されましたが、現存人類がほぼ均一な
遺伝子をもち、よって単一種だというのは確定された事実です。
ヒトゲノム計画は昨年完了し、ミトコンドリアDNAだけでなく核
DNAからもこれが支持されています。
アジア、アフリカ、ヨーロッパと別種の人類が誕生して、これら
が混血して、単一の遺伝子をもつようになることは、生物学的に
は「ありえない」ことなのです。(種が違えば、混血児は誕生して
もそれが生殖能力をもつことはありえません。例えばロバとウマの
混血によるラバ。ライオンとヒョウの混血によるレオポン。全部
種なしです)
従って現存人類は初めから単一種として誕生し、現在に至っている。
その前にいた猿人、原人、旧人は全部どこかで絶滅したのです。
現代生物学ではそうとしか考えられない。
ではなぜ多中心説(多地域進化説)が生まれたのか?それは遺伝子
を知らなかった19世紀から20世紀前半の古人類学が化石資料の解釈
だけで生み出したものです。化石資料は遺伝子の表現型だけを見て
います。遺伝子がほぼ同じ兄弟でも、大男もいればちびもいるし、
美男子もブオトコもいます。そこを比較しても、厳密な系統関係は
決められないのです。
要するに古人類学は骨の地域的変異を無批判に人類の差(人の種の差)
に結びつけてしまった。(その背景には人種差別意識もあった)
1970年代から遺伝子解析が人類学に応用されるようになり、古い学説
は今では崩壊してしまったのです。
だから日本に原人がいてそれが旧人に進化してさらに縄文人に進化した、
などという説はトンデモ学説だったのです。
141 :
日本@名無史さん:01/11/16 11:57
かわいそうに、南河内で誰にも相手にされなくなったから、
2chにまた移ってきたのね〜デムパ工事先生。
相変わらず話をすり替えて馬鹿みたいな内容の羅列が
好きですね。
142 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:09
科学史家様
140はまさにそのとおりです。
今回の捏造事件,少なくとも長尾根の墓とされたものは,日本の考古学者の無知が原因の一つになっていると思います。
学歴や教養の無さだけではなく,主たる興味が土器や石器に偏向しているという,研究領域のタコ壺的な狭さも問題ですね。
143 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:12
>だから日本に原人がいてそれが旧人に進化してさらに縄文人に進化した、
>などという説はトンデモ学説だったのです。
科学史家さんのおっしゃることの大筋には首肯できるのですが、このくだりはちょっと。
そんなトンデモ学説はどなたが主張しているのでしょうか。お教えください。
144 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:22
馬鹿学史家さんへ
相も変わらずどうしようもないことばかり言うてますね。
>これが日本考古学をダメにしている「権威主義」のよい見本です。
>日本に石器が鑑定できる専門家がいなかったことは事件が証明した。
>なのにまだ「権威」に依拠して発言している。
あのさあ、誰かの話を引き合いにだして話をしたら、そう
言われたら何も言えないじゃん。自分だって、竹岡さんの
話を論拠にだしているけど、あれは「権威」への依拠じゃ
ないの?まあ、そもそも竹岡さんが「権威」かどうかが
疑問だけどね。(w
>これも常套文句。予言(予測)を行ったのだからそれが正しいかどうかは
>いつでも結果としてしかわからないのです。
>「結果論でしょう」ということで、「まぐれ当たり」であって予測(及び
>それを可能にした理論や方法)には意味がない、という主張を述べるときに
>バカ文系が用いる表現。
> これも「恒真命題」で、どんな場合にも使えます。
>「アインシュタインが太陽光が重力により曲がることを予言した。皆既日食
>の観察でそれが確認された。だがそれは結果論でしょう」てな具合に。
っていってるけど、
>竹岡氏は人類のアフリカ起源説を前提に、「日本に原人が
>いたとすれば、それはアフリカやヨーロッパの原人と同じ
>ような脳や手の構造をしていた。よってその石器は比較で
>きるはず」という科学的推論に基づいて、石器鑑定作業を
>行った。その結果、日本のは捏造と判断され、それは実際に
>確認された。つまり、アフリカ起源説の正しさと多中心性
>進化のあやしさが、これでより強化されたのです。
アフリカ単一起源説が正しい(仮定)→日本にも原人がいた(仮定)
→原人がいたなら欧州や中近東、アフリカの原人と身体構造が
一緒だ(仮定)
っていうか、仮定を繰り返して出すことを科学的な推論って
言うのか?そんな風が吹けば桶屋が儲かる式の話は、結果的に
当たっていたとしても、どうなんだ?もっともらしくアインシ
ュタインの話を挙げているが、それとは一緒にできないでしょ
う?光が重力に影響されるというのは、仮定の繰り返しで出て
きた話ですか?文系の人間に全く関係ない理系の話を出せば
論破できると思ったら、甘いですぜ。
145 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:23
科学的に納得できる推論ならば、結果論とは言わないけど、
推論が論理的に破綻しているから、結果論だと言ってるんだ。
> これもバカ考古学の常套文句。
>「考えにたてば」と言う表現で、あやふやな自説あるいは
>権威者の説を無批判に持ち込む。「石器製作は人類の環境
>適応の一側面である」という命題は123自信も何を意味して
>いるかわからない文章。どうしてそういう「考えにたつ」
>必要性があるのかの説明もない。(論理性がゼロの文章)
あははははははははははははははははははははは。
ば〜か。これを読んで君がいかに旧石器考古学に無知な
まま発言しているかがわかったよ。人間の持っている物質
文化が環境への適応によって選択されるということを
簡潔に述べたまでだが、あやふやな自説や権威の学説
だって?要素還元主義的に個々の石器の成因とかしか
考えられないモノ中心の旧態然とした考古学者には理解
できないものかもしれないけど、それじゃあ説明できない
というのは、最近の研究成果だけでなく、たとえば、
反論は多いけどビンフォードなどの研究を見れば明らか
なの。馬鹿学史家さんも馬鹿なんだから、偉そうな発言
しない方がいいぜ。
それにしても、何か言うと、すぐ「これは考古学者の
常套句だ」って論を封じようとする芸風は全く変わって
いませんな。ナムバ先生。
みんなあんたに嫌気がさしているんだから、旧石器のみ
ならず考古学の掲示板全部から手を引けば?みんなあんた
みたいな馬鹿を相手にするのに疲れているんだから。
>>143 岡村道雄「縄文の生活誌」は原人が旧人に進化し、それが縄文人に進化した、
という観点で書かれています。しかもそれが日本国内で起こったように。
重要なことは、この本は「捏造」が発覚し、立花隆と丸谷才一により手ひどく
非難されたから実質廃刊になったので、もし捏造が発覚していなければ、
広く流布し多くの国民に読まれ、考古学会からは何の批判も行われなかった
だろう、ということです。
私は他の例をあげませんが、考古学の「常識」とはほぼそのようなものだった、
と思います。それはこの掲示板での他の発言からもうかがうことが出来ます。
147 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:34
>私は他の例をあげませんが、考古学の「常識」とはほぼそのよ
>うなものだった、と思います。
私は他の例は知りませんが、って正直に言ったら。
本当に知ったかぶりが好きだよね、ナムバ先生は。
>>142氏
>学歴や教養の無さだけではなく,主たる興味が土器や石器に偏向しているという,
研究領域のタコ壺的な狭さも問題ですね。
いつの話?偉そうな事言うなら、せめて、研究の現状押さえてからにして下さいよ。
そういう昔の考古学の概説書の「日本考古学の問題」の章に書いてあるような表層的な
理解はもうやめましょうや。
主たる目的が墓からのお宝捜しに偏向、とかいうなら、わかるけど(ワラ
で、ついでに教養と学歴を同一視するひん曲がった官学アカデミズムの残骸も頭から取
り去りましょうね。
149 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:56
140=142
またお得意の独り芝居実演中
だまされるな148。
発言して、別人なりすましで賛成ageして、議論を誘導するのは
もう飽きるほど見た常套手段だろ。
150 :
日本@名無史さん:01/11/16 12:57
>>148 どうですかね、いつの話ってわけでもないと思う
のですが、モノ偏向は。
縄文なんか、とにかくまず編年ありきで、山内清男の
業績の隙間を埋めるようなことばかりして、それ以上
なかなか進展していかないし、旧石器なんか、某T海大
のO先生みたいに、石器から全て分かります、ってな
時代錯誤もはなはだしいことをいけしゃあしゃあと
述べてる阿呆もいるし(それにしても、この先生、小鹿坂の
住居状遺構をとっつかまえて、トーテムポールとかいう
香ばしい発言していたな、たしか)、はずれではないかなと
いう気もします。ま、一部だけど。
研究領域がタコ壺的に狭いというけど、学問を突き詰めれば
どの分野でもそうなると思うぞ。研究の視野が狭いという
なら、同意はできるけどね。
151 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:00
ちなみに漏れは150だけど、ナムバではないよ〜ん。
147=150です。
もしかしてと思ったけど、140=142だったのかな、や
っぱり。やばいやばい、ナムバ先生を喜ばせてしま
うところだった。
>>150氏
はは〜ん。東日本の方ですな。多分。
で、モノ偏向と、石器・土器に偏向は違うと思うけど。
>山内清男の 業績の隙間を埋めるようなことばかりして、それ以上
なかなか進展していかないし
遺棄・廃棄論とか、貝塚の形成に対しての議論とか、色々あると思
うけど。編年は、基礎研究だから、進めていくのは当たり前なんじ
ゃ?それに、肉を付けていくのが必要なのではないかい?
まあ、変な肉つけるから、三内みたいなDQNも出るのかも知れんけど。
153 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:04
ナムバ先生の一日
出勤
↓
まずネットをチェック。半可通厨房文系を
論破したつもりになり、悦にいる。
最近のお気に入りコテハン:科学史家@2ちゃんねる
↓
仕事せずにネットに没頭
↓
昼飯
↓
またネットの世界に逆戻りする。
↓
ひたすら、デムパ説を垂れ流し喜ぶ。
勤務時間中もろくに仕事せず。
↓
帰宅
こんなんばっかりしていたら、独立行政法人化に
なったら、リストラ候補No.1ですぜ、ナムバ先生。
>>144 >自分だって、竹岡さんの話を論拠にだしているけど、あれは「権威」への依拠じゃないの?
私は石器は鑑定できませんが、竹岡氏の方法を理解し、それを評価して発言しています。それは
「権威」への依存とはいわない。
貴方は石器も見れないし、方法も理解できないで、大学教授が批判しているという「事実」に
依拠して発言している。それが「権威主義」そのものなのです。
>アフリカ単一起源説が正しい(仮定)→日本にも原人がいた(仮定)
→原人がいたなら欧州や中近東、アフリカの原人と身体構造が
一緒だ(仮定)、っていうか、仮定を繰り返して出すことを科学的な推論って
言うのか?そんな風が吹けば桶屋が儲かる式の話
「単一起源説」は現在ではもっとも合理的な仮説です(定説とか常識と読んでも
かまいません。誰もそれを見ることはできない、と言う意味での仮説です)
「日本に原人がいた」というのは「石器出土」という事実に由来するもので、
これは「いたとすれば」という背理法における仮説ですから、最初の仮説とは
異なり仮設と書くべきものです。
「日本に原人がいたら他の地域と同じ身体構造をもつ」というのは仮設では
ありません。「単一起源説」から演繹的に導き出される結論です。
これを仮定の上に仮定を重ねた推論で、「風が吹けば桶屋が儲かる」という
話と同じだというのは、科学的推論の何たるかをまったく理解できないことの
証明です。
>光が重力に影響されるというのは、仮定の繰り返しで出てきた話ですか?
そうです。相対性理論は当時仮説であって証拠はなかった。しかし理論が正し
ければ光は重力の影響で曲がるはずでした。それを天文学者が観測で確かめた
のです。相対性理論はまだ全部が証明されたわけではありませんよ。
>>145 >これを読んで君がいかに旧石器考古学に無知な
まま発言しているかがわかったよ。人間の持っている物質
文化が環境への適応によって選択されるということを簡潔に述べたまでだ.
「人間は環境にあわせて利用する物質を選択する」というのが「考え方」や
「学説」ですか?そういう当たり前のことを述べるのに考古学の知識が必要
なのですか?これも「恒真命題」で、要するにバカ考古学者は相手に反論す
ることをしないでケチをつけるのを常套手段にしていて、その際には恒真命題
をもっともらしく持ち出す、という証拠ではありませんか。
つまりこの程度のケチつけを「論争」と理解してきていて、真の論争がまった
くなかったということが、捏造事件の根底にあるのです。
サルでも学習しますよ。人間ならもっと学習効果があるはずです。
155 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:15
156 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:17
なーるほど。
ところで、昔言っていた研究室からアクセスしてないとかいう
セリフ、どうなったのかな。まさか、出勤してないとか(ワラ
それから、表掲示板で、脂肪酸について「素人に指摘されるまで
考古学者は気づいていなかった」とかいってたけど、どこかの報告
書で、疑義が出ていたと前に話題になっただろ。
その時は「疑義が出たかは問題じゃない」とかなんとか変なごまか
ししてたけど、それを忘れたのかどうか知らんがよく言うね。
発言は少なくてもいいから、責任は持って欲しい。
だれか、青森以降の議論を本にでもしないかね。
157 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:18
>>140 とかヒドイね。あんぐり。
種間雑種が生殖能力を持つ事例一つ取ったって無数にあるじゃん。
しかし他の記述もヒドすぎるね。
生物学や進化に関するいい加減な知識を広めないように。
まあでも電波先生の言うことを信用する人はいないか。
>>157 では「無数にある」中から哺乳類における種間雑種形成による種の癒合
の例を挙げて下さい。
ネアンデルタールと現生人類は種のレベルで異なっていたというDNAデータ
があり、これにたいしてポルトガルで「両者の混血」と見られる幼児の骨
が見つかっている、という事実がある(未確定)ということを考慮に入れ、
「混血児」生まれたかも知れないが、それが子孫を残すことはなかったろう、
と説明したまでです。
この掲示板は「考古学は科学になれるか」がタイトルです。
発言は科学的議論として行ってもらいたいものです。
159 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:49
恒真命題を常套手段というのは伝播センセのおはこだったけれど、最近は変わったのかな
160 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:54
>>159 逆手にとって、ばりばり引き合いに出しているじゃん。
161 :
日本@名無史さん:01/11/16 13:58
>>158 「種間雑種形成による種の癒合」とやらが、 生物学的に
ありえないとか、大風呂敷を広げておいて類例があること
がばれる(というか自分が知らなかっただけ)と、今度は
ほ乳類に限定して、とか話をすりかえる、そんな伝播工事
先生にマンセー
162 :
日本@名無史さん:01/11/16 14:01
「科学的議論」をするならその前に準備が必要なんじゃなかろうか。
例えば「考古学」の定義。それに「科学」の定義。そして「考古学」が「科学になれる」ための条件。それが定まらないで議論してる。
それから、「考古学は科学」でなければならないのかどうか、というもっと基本的な問題があるかもしれない。これは「科学」の定義に関わる問題だけれど。
みんなでそれぞれ異なる「科学」を前提に言い争っても・・・いや、だから面白いのかな。ナンバ先生は、議論も何も、既に自分の結論が先にあって、それに従わない奴=糞考古学者だし。
163 :
日本@名無史さん:01/11/16 14:02
>>152 漏れは150だけど、基本的には同意。
縄文でも素晴らしい研究やっている人がいるのは
確かだす。研究の基礎になるのが土器編年だと
いうのも、その通り。
そんでも、それにばかりかかずらわっている人って
東日本にやたらと多いのかな?漏れの編年が正しい
あいつは間違っているってな論文をみかけるのだが。
編年が大事なのは分かるけど、そればかり重視する
のは、モノ偏向って言われても仕方がないとは
思うのですが、いかが?
>>161=157
>類例があることがばれる(というか自分が知らなかっただけ)と、今度は
ほ乳類に限定して、とか話をすりかえる
人類の進化の話をしているのに人間と関係ない下等動物や植物の話をもち
だされても困るでしょ。せめて哺乳類の中で、あるものなら出せ、といったの。
論破されると「類例があることがばれると、今度はほ乳類に限定して、
とか話をすりかえる」というように、スカンクみたいに屁をして「逃げる」
生物学あがりの環境コンサルタントがいましたよね。
165 :
日本@名無史さん:01/11/16 14:24
>>154 馬鹿学史家さん
石器が鑑定できない人間がどうすりゃあ、竹岡さんの意見を
理解できるのかね?そもそも彼の石器研究法とか読んだこと
あんのか?旧石器考古学の論文も読んだことあんの?って
聞いてるのに、まったく返答がないしさ。本当は読んで
いなくて、新聞とか一般概説書で竹岡さんが吠えまくって
いることを読んで理解しているつもりになっているだけで
しょ?
人のことを石器が見れない、竹岡さんの方法が理解できない
っておっしゃいますがねえ、別に阿部先生の論文を理解できずに
盲信しているわけではなく、ちゃんとした根拠に基づいて、批判
しているから、理解しております。念のため。あと、大沼先生
の批判と竹岡さんの批判は結局水掛け論。押圧剥離かどうかな
んて100%完璧に判断できないって。実際に石器を製作した
ことがある人間なら、押圧剥離でできるような細かい細長い
剥離とかできることは知っていると思うし、そういう点からも
押圧剥離かどうか判断できないって主張している大沼先生の
方が正しいと理解しているつもりですがね。これでも、権威へ
の盲信?
166 :
日本@名無史さん:01/11/16 14:24
んで、原人がいたとしたら、同じ身体構造を持つってのが、
単一起源説から演繹的に導き出される結論ってあるけど、
その前の発言で他地域進化説を批判するのに、地域間での
形態の変化あるとか書いておいて、なんでそうなるの?
手の構造だけは地域・環境が変わっても不変なんですか?
だいいち、そもそも原人の手の化石人骨って完全な形で
は出土していないと思うのですが、そんな類例あるんで
すか?知っていたら教えてください。
>人間は環境にあわせて利用する物質を選択する
と俺が書いた人間の持っている物質文化が環境への適
応によって選択されるっていうのは、全く別のこと。だから
全然分かっていないって言うんだよ。本当に馬鹿ですね。
馬鹿なあなたにもわかる言い方をするなら、
「ヒトの持っている技術が環境への適応によって選択され
る」でもいい。
たとえば、石材環境が豊富なところでは、それほど石材を
節約するような剥片剥離は行う必要がないけど、そうじゃ
ない石材環境の劣悪なところでは、石刃技法など石材の
節約を図る技術を選択するようになるということなの、お分
かり?、この馬鹿学史家。理解できた?もう少し旧石器考
古学のこと勉強して出直してきなさい。話にならん。
167 :
日本@名無史さん:01/11/16 14:31
漏れは161だけど、157じゃないよ〜ん。
じゃあ、最初からそういやあいいじゃん、生物学的にとか
いうんじゃなくてさ。
あとさ、ネアンデルタールとホモ・サピエンスが別種だ
っていうのは、DNAで裏付けられたって言ってるけど、
いったいどれだけの試料を分析したって言うの?あと、
聞きたいんだけど、DNAでどの程度のレベルまで差が
あると別種と判断できるの?ヒトとパンはそれほど
DNAに差がないってのは有名な話じゃないですか。
>165=166=144=155(同じ名前を使え!)
>別に阿部先生の論文を理解できずに盲信しているわけではなく、ちゃんとした根拠に基づいて、批判
しているから、理解しております。
もしそうならその内容を簡潔に述べ、それで竹岡批判をするべきです。阿部先生が言ってるから、
というのでは説得力がありません。
>あと、大沼先生の批判と竹岡さんの批判は結局水掛け論。押圧剥離かどうかな
んて100%完璧に判断できないって。
もしそうなら竹岡批判の材料としては使えないはずです。それと「100%完璧に判断」
できる方法などこの世にありません。(これも恒真命題です)
科学では方法の比較はどちらがより確実に判定できるかで行います。
横圧剥離でないと言えないと大沼氏が言い、横圧剥離だと竹岡氏が主張し、結果は縄文
石器だったのだから、論争は大沼氏の敗北というのが普通の理解でしょう。で、それは竹岡氏の
方法が大沼氏よりもすぐれていた、という結論になるはずです。
>単一起源説から演繹的に導き出される結論ってあるけど、
地域間での形態の変化あるとか書いておいて、なんでそうなるの?
手の構造だけは地域・環境が変わっても不変なんですか?
原人がアフリカ起源の単一種だとすると、現生人類程度の表現型
変異しかなかったことになります。そこから脳や手の構造のような
沢山の遺伝子の協調を必要とするような器官はほぼ同じだったと
推定できます。アフリカやヨーロッパの原人に横圧剥離ができない
のにアジアの原人だけができたとは考えられません。
日本の前期旧石器にそれが見つかれば「ありえないこと=オーパーツ」
になり、捏造と結論されます。
ですから横圧剥離を確実に認定できる方法論が重要だった。日本では
それをもっていたのは竹岡氏などごく少数だった。それで事件の発覚が
20年もかかってしまった、そういうことです。
原人の指の骨は一部は見つかっていて、現代人とはずいぶん違いますが、竹岡
説は化石に依拠しているのではなく、本物の旧石器に依拠しています。
>石材環境が豊富なところでは、それほど石材を
節約するような剥片剥離は行う必要がないけど、そうじゃ
ない石材環境の劣悪なところでは、石刃技法など石材の
節約を図る技術を選択するようになる
それは大人の「現生人類」の論理です。原人にはそういう洞察力が
あったかどうかさえ不明なのです。脳の容量から見て、原人はそういう
将来を見越した計画的行動はできなかった可能性がつよい。
子供はお菓子をもらったらすぐ食べてしまうでしょう。一部を食べて、
楽しみを後に長引かすという考えが出来ない。
竹岡説はそういう原人の精神能力もちゃんと折り込んでいますから、
それに対する批判としては、貴説はまったく意味をもちません。
「この馬鹿XXX。理解できた?
もう少し考古学や人類学のこと勉強して出直してきなさい。話にならん」
169 :
俺も考古学やってる身だが:01/11/16 15:21
「考古学」擁護派、というか「前期旧石器」支持考古学者擁護派、分が悪いぞ!
もう少し頑張れよ。
かつて、竹岡を支持するやつは偉かった。
今では、大沼とかその他のマヌケを支持するのは偉い! かもしれない。
少なくとも勇気はある。
さあ、どんどん考古学の面汚しをしてくれ。
もうこれ以上汚れないかもしれないけどね。
170 :
日本@名無史さん:01/11/16 15:37
>>168 別にコテハンつかわにゃあならん取り決めはないでしょ?
まずね、横圧じゃなくて押圧剥離。簡単な間違いから。
何度も言いますが、竹岡さんの論文読んだことありますか?
それについて、あなたなりにどういう意見を持ちましたか?
何を根拠にして正しいと判断しましたか?人のことばかり
あげつらいますが、あなたの意見を聞かせてください。
んでさ、押圧剥離と判断する竹岡さんの方法論って何ですか?
私は理解しているって言っているので、説明できるでしょう?
説明してください。私の意見は、あれは彼個人の石器の見る目、
つまりあくまでも主観的な判断でしかないと考えています。
それは別に方法論というものではないと思うのですが。
171 :
日本@名無史さん:01/11/16 15:38
100%の方法はないと言いますが、竹岡さんはかなり強い
口調であれは絶対に押圧剥離だと主張しています。だけど、
根拠はない。あくまでも主観です。
原人が指の骨が一部なら出土しているはずですが、機能の
推定ができるようなものが出土しているのでしょうか?
んで、現生人類程度の表現型変異とありますが、それは
手の機能に全く影響を及ぼさないものなのですか?それ
が証明できますか?だいたいなんでその程度の変異しか
ないと決めつけることができるのですか?
んで、最後の環境適応の話なんだけど、あんたみたいな
馬鹿にわかるように例をとって話をしてあげたんだけど、
たとえば、森林環境か平原環境下かで、必要とされる
技術が異なってくるでしょう?それは原人には行いえな
いという風に証明できるんですか?そうだし、そういう適応が
できなければ、生存できないことになります。
原人の精神構造とかをずいぶん低めにみていますが、
たとえば、ドイツのビルツィンクスレーベンとか、かなり
高度な物質文化を持っていたのは明らかになっています。
一知半解を地でいくような人ですなあ、あなたも。
それに人にばかり証明を求めていますが、上記の点に
ついて説明をお願いします。
172 :
日本@名無史さん:01/11/16 15:40
>>169 この一連のやりとり読んで、デムパ工事先生の方が
分が良いと思うのなら、本当に考古学やっているの?
って思うけどね。ちなみに、専門は何よ?
まあ、デムパ先生がよくやる一人二役と俺は見ている
けどね。
>>161=167
>ネアンデルタールとホモ・サピエンスが別種だっていうのは、DNAで裏付けられたって言ってるけど、
いったいどれだけの試料を分析したって言うの?
1997年にネアンデルタール規準化石のミトDNAが分析された。(人との分岐:約60万年前)
1999年:別資料の分析で分岐は50万年前と修正
2000年:別資料の別研究者による分析でこれを追認し、DNAの種内変動を計算
私も詳しくありませんが少なくともドイツとロシアの資料について、独立した二組の
研究チームが同じ結論に達しているようです。
>DNAでどの程度のレベルまで差があると別種と判断できるの?ヒトとパンはそれほど
DNAに差がないってのは有名な話じゃないですか。
ミトDNAと核DNAは全然意味が違います。
人とサルで差がないのは核DNAの方。これはチンパンだと99%共通です。
ミトDNAはヒストンという保護タンパクを持たないので突然変異率が猛烈高い。
だから人の進化のような100万年程度の変化を見るにはこれが適している。
もしネアンデルタール同志のミトDNAの変異幅よりも、人類のミトDNAが著しく
かけ離れていれば(もちろん年代補正をやったあとで)それは別種ということに
なるはずです。
ネアンデルタールの種内変動は3.5%、現代人との差は23~25%。
この20%の差が両者が別の種だという根拠です。
人の第2染色体はチンパンジーの第12,13染色体が合体して生じたことが
明らかにされています。(このため人はチンパンより染色体数が2個少ない)
これがいつ起こったかまだわからないのですが、遺伝学は急速にすすんでいま
すから、将来はネアンデルタールの染色体が現生人類と同じかどうかも判明
するでしょう。
174 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:04
>>173 だから、検体数をたずねているの。どれだけの試料が
分析されていて、それはすべて一致した結果として得られて
いるのですか?
あと、ミトコンドリアDNAの種内変動って現生人類では
どの程度なんだ?あと、標準偏差は?どのくらい?
20%が別の種だという根拠らしいけど、それは有意な
閾値になんですか?
175 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:23
170・171は、誰に吹き込まれたのかな?竹岡氏に会った訳じゃないが、弟子の角張氏に会ってはなしを聞いた事がある。ハンマーと力と剥離の分類はとても明解だった。詳しくは角張氏のHPでも見てくれ。
>>171 >竹岡さんはかなり強い口調であれは絶対に押圧剥離だと主張しています。だけど、
根拠はない。あくまでも主観です。
まず結果として縄文石器だったのだから「押圧剥離」はちゃんとあった。
これは認めますね。そして上高森遺跡の石器12,13について竹岡氏が「押圧剥離」があると
鑑定したことは認めますね?そして「50万年前にこんな技術があるはずがない」と判断した
ことも。
この石器は素人の私が見ても、とても小さく薄くできていて、小さな割面が無数に見られ、大変
精巧にできていると思われます。石と石をうち合わすようなことではとても出来ない。道具を使って
「彫り込む」ようにしてつくったのでしょう。
こういう技術はアフリカやヨーロッパの原人文化(アシュール文化)にはまったくない。異質なもの
だ、と彼は主張しています。彼はそれらの石器を研究してきたのですから、日本の誰よりもその主張
には説得力があります。
日本に原人がいたとすれば、同じ原人だからアシュール文化とまったくかけ離れて新人の技術がそこに
あるはずがない。だとすれば、それは新人の石器が人為的に埋められたものだ、そうなるのです。
竹岡氏はアシュール文化の特徴を「現生人類の感性を超えたもの」と理解しています。それは原人の
脳に関しての解剖学的知識にも裏打ちされたものです。
そのような知識と経験に裏づけられた観察を「だけど、根拠はない。あくまでも主観です」
と切り捨てるのは、これも恒真命題で、「主観」と言う言葉の濫用です。
このように科学的行為の一部である「観察」を主観とはねつけ、判断を停止してしまうから、
自分の論理に自信がなく、結局理性的・科学的判断ができず、権威の盲信に陥るのです。それが日本の
考古学の過去でした。
大沼氏が押圧剥離はない、というのなら同じものをその技術を使わずに作ってみせればよいのです。
方法論についていえば竹岡氏が用いたのは「比較」と言う方法です。本物と比較した。
大沼氏は何と比較したのですか?今度は貴方が大沼氏の方法を説明する番です。
177 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:34
>>175 そういうあんたこそ、K張さんに吹き込まれているなよな。
たとえば、ハンマーの種類が同定できるわけがないだろ?
そんな研究はO沼さんたちだってやってるよ。でも、結局
剥離の状態とハンマーや力の加減とかの関係は、連続的に
変化していくもので、ここからが、ソフトハンマーでここ
からがハードハンマーだって、簡単には同定できない。
それにいわゆる身体技法的な考え方なのかもしれんが、
剥片剥離の角度で文化を規定できるようなこと言っていた
と思うが、そんなの石核(原石)の据え方によって、ハン
マーと剥離角の関係なんか変化するだろう?どこが、
明解なんだよ。このヴァカ。
だいたい自分で石とか割ったことがあるんか、お前は?
K張さんのHPなんか何度も見たことがあるけど、
とうてい承伏できないないね、あんな考え方は。
高知縄文探訪の石亭談話も読みました。でも、明らかに
おかしい(理由は上記)。
だいたいK張さんってまともな考古やってる人には
全く相手にされていないデムパオヤジだぜ。そんなこと
もしらんのか?
178 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:39
>だいたいK張さんってまともな考古やってる人には
全く相手にされていないデムパオヤジだぜ。そんなこと
もしらんのか?
読んじゃってるかなあ。
くれぐれも頭に来てこんなくだらん議論に巻き込まれないようにね! 角張さん
179 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:41
ナンバ先生ありがとう!
なぜ日本の考古学者が藤村のねつ造に騙されたのかわかったぞ!
世界の考古学者は多中心的に進化してきたのだ。
現代日本の考古学者はみな日本原人の子孫なので脳の容量も小さいし洞察力にも欠けるのだ。
180 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:43
>>176 まずね、縄文の石器がみんな押圧剥離じゃないの。
そういう風に思いこんでいるみたいだけどね。それに
押圧剥離は縄文から出現するわけではなく、後期旧石器
から出現しております。そこらへんも覚えておいてくだ
さい。
実際に石を打ち割ったことがないからわからんかもしれ
んが、直接打撃でもかなり細かい加工は可能です。まして
や大沼さんは日本でも並ぶ者がないほど石器を復元して
つくることができる方です。つまりそれだけ、石を
豊富に割った経験に支えられているからこそ、安易に
押圧剥離かどうか決めつけられない、って言っているん
です。これもあなたの言う「知識と経験に裏づけられた
観察」から得られた結論だと思いますがね。
181 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:51
>>176 そんで、竹岡さんが知識と経験に基づいた「比較」という
方法論だと言ってますがね、その比較が妥当かどうかが、
問題なんです。
何度も言いますが、竹岡さんの経験はヨーロッパや中近東
アフリカの前期旧石器。それが日本のものと同じという
証拠はどこにもない。同じ原人だからといって、同じような
石器を必ず作るという保証はどこにもない。原人だから、
できるわけはない、というのは科学的な証明なんですか?
脳の解剖学的知識といいますが、脳容量が小さければ、
それは機能の優劣を示すものなんですか?じゃあ、ネアンデ
ルタールが現生人類より平均の脳容量が大きいのはどうす
んだ?
一つ立場を鮮明にしておきますが、別に前期旧石器を支持して
いるわけではないですぜ、私は。ただ、その批判の論拠として
竹岡説が根拠薄弱だといいたいんです。
182 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:52
178=179=ナムバ
いいかげん、その使い古した手はやめろ。
面白くない。
183 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:54
>>178 じゃあ、関東、中部地方でK張さんのことを
考古学関係者に聞いてみな?良く言う人は
ほとんどいないぜ。
>>174 >検体数をたずねているの。どれだけの試料が
分析されていて、それはすべて一致した結果として得られて
いるのですか?
知りません。少なくとも2体以上が2施設で調べられたということでしょう。
後は自分で直接文献にあたってください。
> あと、ミトコンドリアDNAの種内変動って現生人類ではどの程度なんだ?
与えられた数値から2%だと読みとれるでしょう。
それも読めなかったの?
>あと、標準偏差は?どのくらい?
DNA測定はデジタルですから誤差がでないのです。
標準偏差って平均値を出した場合に必要なのですよ。
この場合は差異の幅が%で示してあるので、標準偏差はありません。
貴方は統計学知らないで、知ったかぶりで「標準偏差」などという
言葉を使っていますね。やけどしますよ。
>20%が別の種だという根拠らしいけど、それは有意な閾値になんですか?
有意な数値か? 種内の幅が2~3%しかないのなら、20%違えば別の種でしょうね。
常識的にはね。同一種だと考えると、この差をどう説明します?
185 :
日本@名無史さん:01/11/16 16:56
>>176 ましてやその根拠薄弱な竹岡説に便乗して、
さらにデムパが毒をまき散らすのが、気持ち
悪い。
186 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:05
埋納遺構ちゃん、やっぱりデムパ先生専用の
スレを作ればよかったね。大分あれちゃったよ。
ところで、・・・わけがない。なんていうのは、思考が停止するからあんまり言わない方が良いと思うが。
188 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:10
デムパ工事先生は自分のデムパをまき散らすことだけに
情熱を注いでいるのです。そのために、授業や学生が
犠牲になってしかたがありません。デムパ先生の言うこと
はいつも正しいのです。
デムパ工事先生マンセー
>>180 >実際に石を打ち割ったことがないからわからんかもしれ
んが、直接打撃でもかなり細かい加工は可能です。
じゃ、上高森の問題の石器を作って見せなさい。
>大沼さんは日本でも並ぶ者がないほど石器を復元して
つくることができる方です。つまりそれだけ、石を
豊富に割った経験に支えられているからこそ、安易に
押圧剥離かどうか決めつけられない、って言っている
ものは言いようです。発覚前にはそういう理屈も通用したかもしれないが、
横圧剥離を検出できなかったのだから、「それだけ石を割ったくせに」と
今なら言われるでしょう。つまりダメ学者の証明です。
他にもいっぱいそんなのが出たわけだから、大沼氏が心細く思うことはない
でしょうが。
私は竹岡理論が完成しているとは思っていません。自然科学的側面の弱いところ
は、角張氏が物理科学的方法を導入して発展させようとしていると理解しています。
やがてひとつひとつの石器が科学的言語で記述される時代になるでしょう。
138の竹岡「批判」への反論から始まった論争もこれで終わりですね。
本題に返りましょう。
おっとっと。白熱してますね。デンパびんびんですね(笑)。
論点は移っているようなので、皆さん無視してくださって結構です。
やっぱり電波先生の相手はしちゃイカンですね。
>>158 >では「無数にある」中から哺乳類における種間雑種形成による種の癒合
の例を挙げて下さい。
ニホンザルMacaca fuscata
タイワンザルMacaca cyclopis →雑種化 和歌山・下北半島で大問題
タイリクジカCervus hortulorum
ニホンジカCervus Nippon →雑種化 ヨーロッパのアカシカが全国で問題
ニホンイノシシSus leucomustax
ブタSus domesticus →イノブタ(笑)
イヌCanis familiaris
オオカミ Canis lupus →オオカミ犬
逆の例;
ヒグマとシロクマは別種にされているが、分子系統樹を描くとヒグマの
1亜種として位置付けられてしまう。
ちょっと知ってる例だけでもこれだ。ちゃんと調べたら大変な数だよ。
ブタとイノシシが別種にされてるように、だいたい「種」なんてのは、
人間が分類のために恣意的に決めてんだから、電波先生のように「別種だから交雑しても、
子どもに繁殖能力はなかっただろう」なんて単純な話はないのよ。「生物学的種概念」
みたいなのは単純すぎる概念だよ。
種や亜種の分類レベルにちゃんとした境界なんて無くて、連続的に変化しているのを
強引に「種」だ「亜種」だって決めてるだけなんだけど。
三中信宏の本は読んだの? 読んで理解してたら上のようなデンパ発言はないはずだが。
基本をちゃんと勉強してね(笑)。
「種間雑種に繁殖能力のないトラとライオン、ロバとウマなどの遺伝的距離は○○であり、
種間雑種が繁殖能力を持つニホンザルとタイワンザル、イノシシとブタなどの遺伝的距離は
△△である。これらに対してネアンデルタールのと原生人種との遺伝的距離は××であり、
◇%の危険率で有意に種間雑種ができない方に近い結果が得られている」
のようにちゃんと書いたらどうですか? それだったら納得できますが。
>>158 >この掲示板は「考古学は科学になれるか」がタイトルです。
>発言は科学的議論として行ってもらいたいものです。
という自分自身の発言をよく噛みしめてください(笑)。
忙しいんでこれにて終了。
デムパ先生のいい加減な発言には十分気を付けて下さいね。まあみんな分かってるか。
>>186 には全く同意ですね。
デムパ先生を隔離できないもんかなあ。
ちゃんとしたやりとりを見たいなあ。
191 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:32
>190
時間かかったけどなんとか捜してきたね。これで帰れるかな。
>186
やはりタイトルがトホホなので議論が混乱してると思われ。
ここはナンバ先生と190に明け渡して新スレ建設をきぼーん。
お父さん、もう掲示板荒らしはやめて、しっかり仕事して。
お父さん、いいかげんにしてください。もう親子の
縁をきりますよ
>>190=157
バカだね。君は。こんな馬鹿なことを33レス時間もかけて調べてたの?
君の挙げた例は、すべて古い系統分類学が間違って別種にしていた例ばかり。
地理的にちょっと隔離されているだけか、野性と家畜の差じゃないか。
2〜3万年の隔離じゃ別種に進化できないのだよ。
今の分岐分類学だと同じ種になってしまうのだ。
ネアンデルタールは現生人類の祖先かという議論に戻りたまえ。
あなた、もういい加減にしてください。実家に
帰らせていただきます。
192〜195
いくらなんでも個人の方のご家族まで勝手にHNにされるのは遺憾です。
もう少し考えてから書き込んでください。疲れます。
197 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:44
ほんとにね。論争に負けたからって、そうまで嫌がらせをしなくてもね。
考古学者の面汚しだ。
198 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:46
199 :
日本@名無史さん:01/11/16 17:46
やっぱりさあ、別スレたてましょうよ、埋納遺構さん。
名付けて、「デムパ工事隔離部屋」
さっそく削除されるに、1000ペソ。藁。
あなたの多重人格癖にはもう疲れました。
浮気がばれそうになると、俺は旅人2号だ、
と言い張って、何度うやむやにされたこと
か・・・
202 :
日本@名無史さん :01/11/16 17:49
>じゃあ、関東、中部地方でK張さんのことを
>考古学関係者に聞いてみな?良く言う人は
>ほとんどいないぜ。
だからー、よく言われてないから正しくないとかおかしいとか言うのは変だよ。
そこまで大きな話にはならんと思うが、地動説を唱えた学者は宗教裁判にかけられただろ?
でも今は地動説じゃないと色々なことが説明がつかない。今少数派で無茶苦茶言われても、
理論的におかしくなければ必ずいつかは見直される。頑張って欲しいと思ってますがね。
203 :
日本@名無史さん :01/11/16 17:50
>>202 見直されない方に、5000ガバス。藁。
>>191 いや探すのに時間掛けてたわけじゃないです。
デムパ先生のように仕事中におおっぴらに遊んでられないだけです(笑)。
別種だとちゃんと示すため、学名調べるのに20分ぐらいでしょ。
それにもうデムパ先生とやり合う気はないですよ。
生物学のインチキは許せないので見かねて出てきましたが、
本筋の議論と違いますしね。このところ忙しいしこの辺で。
>>194 >君の挙げた例は、すべて古い系統分類学が間違って別種にしていた例ばかり。(中略)
>今の分岐分類学だと同じ種になってしまうのだ。
おおーすげえ。言いきりましたね。さすがデムパ先生だ(笑)。
「DNA分析の遺伝的距離が○○だけ別れてたら別種とする」
そんなことが「国際動物命名規約」に書いてあったら凄いなあ。
分子分類によって、別種とされていたモノが同種レベルの遺伝的差異しか
なかったり、同種であるとされてたモノが実は個体郡内で別種程度の遺伝的
差異があったりすることはよくあることです。
それぞれを、同じ種であるとするか違う種であるとするかは「種」の定義は
何かをキチンと定めないとできません。
それはまさに今、議論をしてる最中で、デムパ先生が言いきったような結論
には、全然達していない。
だからとりあえず現行の分類基準を使ってんじゃないですか。
その議論中のレベルの話をあたかも確定した事実のように言いきってしまう
あたりは「前期旧石器」関係の方々を彷彿とさせますね。さすがです(笑)。
ま、ここは「種論争」をする場所ではないんで、もう私は登場しません。
「科学史家」氏のデンパを指摘するために出てきただけですんで。
205 :
日本@名無史さん:01/11/16 18:25
>204
こいつ明日になればまた出てくるよ。いや今夜また出現するかも。
アンチナンバもうぜーよ。無駄スレ延ばしすぎ。
おや157=204さん、退場ですか。
>それぞれを、同じ種であるとするか違う種であるとするかは「種」の定義は
何かをキチンと定めないとできません。
これはその通りで重要な問題です。私も深追いする気はありませんが、今日のまとめと
して種についての概念の変遷を簡単に書きます。(これも人類学との共通性があります)
種ははじめ形態学で規定されていた。形が大きく異なるものが種とされていた。
分類学の基礎を築いたのは形態学で、昆虫図鑑となんかこれによっている。
人類学も化石の分類をこれにより人類の種をわけた。だいたいこれは19世紀の仕事。
ダーウィンの進化論が広まってからは、種は生物学的に定義されるようになった。
つまり「交配して子孫を残せるもの」が種の定義となった。これだとニホンザルと
タイワンザルは子孫を残せるので、同一種となります。また「ネアンデルタールと新人は別種
なので、混血して子孫を残せない」という私のステートメントは、「人類学者が形態で分けた」
二つの人類は別種なので、子孫を残せないと、生物学的には当たり前のことを述べています。
ただ「別種」とする根拠はDNA(つまり分子遺伝学)に求められるので、157さんとの論争が起こった
のだろうと思います。
で、この形態分類と生物学的分類を総合したのが、系統分類学で1970年頃まで支配的だった。
それ以後遺伝学が急速に発達し、種を「祖先とその子孫」という進化論的時間の流れのなかで
定義することが可能となりました。これが分岐分類学です。
これら形態分類、系統分類、分岐分類はまったく違ったものでなく、より精密・正確になって
きたと言えます。その過程で今までの分類で規定されていた2つの種は、分岐分類学では
1種になったり、その逆に1種だと思っていたのが2種に分かれたりする現象が起こって
います。
イヌとオオカミ、イノシシとブタなどは19世紀以前に分類が固定していて、通俗的に「種」
として扱ってきましたが、生物学的には別種ではないことは、定義により明らかです。
だからこれらは生物学的議論では別種として扱ってはいけないのです。
繰り返しになりますが、ネアンデルタールと新人は19世紀の形態分類では同一種と
見なされていた。化石しかないのでそれについての生物学的否定証拠はなく、系統分類では
やはり同一種として扱わざるをえなかった。
しかしDNA分析に基づく分岐分類では別種と判定された。
それで最近になってネアンデルタールは、「ホモ・サピエンス」からはずされ、
「ホモ・ネアンデルターレンシス」と別種に分類されたわけです。
論争の出発点は、現生人類が単中心性に発生したか、多中心性に発生したか、
という問題でした。これについては遺伝子の証拠から前者であることにほぼ
決着がついた。現生人類は20万年前に一度だけアフリカで誕生し、それが世界中に
広まった。その他の「人間もどき」は全部絶滅し、広い宇宙に仲間がいない、
そういう孤独な存在だ、ということです。
そういう人類学の流れがきちんと理解できていたら、日本原人騒ぎは起こらなかったはず
なのですが。
なんだい、考古学者と生物おたくの連合軍は
タリバンみたいに総崩れか?
ちったあ見せ場をつくってくれよ。
208 :
日本@名無史さん:01/11/16 23:18
なんか荒れてますねー。
考古学板は閑古鳥が鳴き、2チャンネルが個人攻撃では
困ったものです。
209 :
日本@名無史さん:01/11/16 23:25
東北で原人やってた人たちって、他地域説をとっていたのかなあ?(何も考えてなさそうだが)
あと、他地域説の背後には本当に人種差別主義があるのかね。まあ、最近は無視されつつあるようだけど。
ミシガンの人類学科なんかいまどうなってるんだろうか。
考古学者レベル低すぎだよ。
石器の話は分からないが、生物学的な話は、科学史家の言うとおり。
DNAbの「偏差」??
なんじゃそりゃ。
それに、ミトコンドリアDNAが20%違えば、生殖可能な子孫を残すことは、
どう見ても無理だね。
もっと違うとこを攻撃しないと駄目だよ。
例えば、ネアンデルタール人の標本とされている2体が本当に旧人の
ものかとかさ。後、科学史家がかってに想像している旧人の手の構造とかさ。
↑
DNAbは、DNAの間違いね
せっかくの議論ですから「連絡舟」など使ってください。難波さんはいないし、私も邪魔しませんので
213 :
論争評論家:01/11/16 23:46
要するに敵は論理で勝負するつもりだからコテハンを使っているのに、
挑む方はバラバラなんですねえ。これでは相手を論破できません。
なんといいましょーか、科学評論家の作戦勝ちですかねえ。
あるいはタリバン連合の作戦ミス。
感情的になって個人攻撃(家族攻撃?)に走ったのも、ほめられませんね。
観客の共感を失いましたね。
勝てたかも知れない戦いを失いましたね。
リターンマッチが楽しみですね。
はい、みなさん。いかがでしたか。怖かったですねえ。
途中から突然生物おたくが出現して、ネアンデルタールと新人の
混血が可能だったか、という議論を「生物における種の混血」の
問題にすりかえましたね。お気づきでしたか?
科学評論家もうっかりそれに乗ってしまったんですね。
それを分岐分類学と系統分類学の違いとして受けて、乗り切ったと
ころは見事でしたね。
いやー論争って面白いですねえ。
では次週の論争にご期待ください。さいなら、さいなら。
淀長さんへ
「さいなら」が一回少ね〜よ。
そっか〜、あの世へ逝ってて久しぶりだったから忘れてたんだな、きっと。(W
ごめんなさいね。久しぶりなので、「さいなら」を一回忘れるし、
荻昌弘の口調は紛れ込むし、いやーめちゃくちゃなのだー。
いけない、小沢昭一の口調まで移ってしまった。
217 :
日本@名無史さん:01/11/17 00:51
よく引き合いに出される加生沢、竹佐中原、富山、早水台の前期中期旧石器と言われる石器と
どうしていつも縄文早期と似ていると言う議論が出るんだろう?
縄文早期人は原人並みだったのか?前期中期旧石器とされる遺跡は縄文早期と事実誤認か?
じゃ、考古学者はバカってことで
***************************** 終了 *****************************
>>217 なぜか石刃以前と縄文早期では、似ているものがあるということは事実のようです。
私の経験した遺跡でも、出土層位が全くかけ離れていることと大きさが全然違うということ
がありますが、ギョッとするくらい似ているスクレイパー?にお目に掛かったことがあります。
縄文早期人が原人並みということはないでしょう。精緻な押圧剥離の石鏃を大量に作っています。
220 :
T岡は考古学界のヤクザだよ:01/11/17 01:45
竹岡キャンペーンが始まるよ。
図説 日本列島旧石器時代史
☆A4判560頁(石器図340頁含)
11月下旬 竹岡俊樹 勉誠出版 30,000
221 :
日本@名無史さん:01/11/17 01:51
竹岡さん、顔があんなに怖くなければもう少しテレビに出してもらえたのに。
ねつ造以前に論文評価してもらえたかも。藤村の方が実直そうな感じだった
ので損してたね。
222 :
日本@名無史さん:01/11/17 02:26
つーか、今更もう遅い。
マスコミから竹岡は英雄扱いされとるからな。
223 :
日本@名無史さん:01/11/17 02:30
>>217-219 マジで、会話をしておりますか。
まだ、日本に原人とか、旧人がいたことを前提と
しているかのような議論ですよ。
まず、中期旧石器というのは、普通約20〜3万年前を指し、
ネアンデルタール人(旧人)および新人がほぼ似たような石器
(ルヴァロア技法)を作っていた時代と理解されています。
そして、後期旧石器(石刃技法)は約5〜1万年前であり、
この石器は通常、ホモ・サピエンス(新人)のみが作ることが
できたと考えられています。
(※ネアンデルタール人も、作っていたという説もあるが)
ということで、世界的常識で日本の石器文化を理解するならば、
日本で発掘された石器は、すべて新人の手によるものになります。
ただ、問題になるのは、日本列島における石器は、
どんな時代に、どのような経路でやってきた人々が作ったかということです。
まず、中期旧石器をつくった人々が大きな問題です。
約3〜5万年前になると思いますが、この時代は日本列島は
大陸とつながっていないので、南方(スンダランド?)からの
漂流者が想定されます。(筏は古くから使われていた可能性が高い)
また、約2万年前以降は、氷河期で大陸とつながっていたので、
シベリア方面から細石刃の技術をもった人々が
九州と北海道から2つのルートでやってきました。
てなわけで、日本列島内部においても数系統の石器文化が
共存(併存かも)していた可能性が高いわけです。
という前提で考えると、日本列島の中期旧石器をになった人々も
縄文の時代まで文化を継承し(石器の作り方を含め)、
北方系の人々と融合しながら縄文文化を担っていた可能性が考えられます。
224 :
国産鏡説は、少数説:01/11/17 02:32
>ネアンデルタールと新人の
>混血が可能だったか、という議論を「生物における種の混血」の
>問題にすりかえましたね。お気づきでしたか?
なもん無理に決まっておろうが。
そんな議論している段階で終わっとるな。
旧人とやらが発展したということは、遺伝上ありえんぞ。
226 :
日本@名無史さん:01/11/17 03:09
自分は今高校3年です、将来考古学をやってみたいと思っているのですがどうすればよいのかわかりません。
史学科に行けばよいと思うのですが国立も公立もレベルが高くて行けそうもないです、私立は金がかかるし・・・教育学部の社会科でも考古学ができるのでしょうか?
なにかいいアドバイスください。
>>224 >なもん無理に決まっておろうが。
>そんな議論している段階で終わっとるな。
いや、この問題は、今のところ、わからないというのが
生物学的には正しい見解のようです。
分岐してから約50万年という時間や遺伝子の変異率は、
不妊の指標にはなりますが、絶対的なものではないようです。
しかしながら、現代人のミトコンドリアDNAから、
イブ仮説から悦脱した(例えばネアンデルタール人のような)
データが発見されていないのが、
混血がなかったことの間接的な証拠でしょう。
※注)混血ができなかった事の証拠ではない。
>>225 >旧人とやらが発展したということは、遺伝上ありえんぞ。
う〜む、詳しくは知らないのだが、ヨーロッパではクロマニヨンの
オーリニャック文化の石器と同じものが、ネアンデルタール人の
遺跡から出たということで大激論になった事があります。
否定派は、発掘上の誤認(捏造ではない)という主張をしていたのですが、
肯定派は、ネアンデルタール人とクロマニヨン人とは
何らかの交流があり、学習により習得する事は可能だった。
と、主張していたようです。その後、結論が出たかどうか、実はしりません。
ちなみに、私は、どちら派でも、ないですよん。
ついでに、人類進化の謎(個人的かも)について、言及しておきます。
アフリカ起源説では、人類誕生は約20万年前といわれています。
そして、実際に化石等の考古学的成果でもそれに準ずる遺跡が
発見されており、約10万年前にアウトオブアフリカを果たし
中央アジアに進出し、亜熱帯エリアを東に広がっていきました。
そして、この間は、前述したような「ルヴァロア技法」という
石器が使われており、しかもほとんど進化した形跡がありません。
さらに、文化の形跡というものもほとんど見つかっていません。
しかし、約5万年〜3万年になると、石刃技法に進化すると共に
文化の発生を示す遺跡・遺物が生まれ、
その後一気に、文化が爆発し現代社会へと発展してきました。
私は、この転換点に、一体何があったのか大変疑問です。
実は、昔の人類学ではこの文化的転換点を基に
約5〜3万年前に新人が誕生し、新石器時代に移行したと考えていたのです。
アフリカ起源説では、新人の誕生が約20年万前、生物的な能力については
基本的に現代人と同じと考えますから、この約15万年間の文化的停滞が
謎になります。この問題の説明としては、文化の蓄積には時間がかかるとか、
その時代まで言語が現代人言語の前段階で意志疎通ができなかった。そして、
天才の出現ではじめて現代言語が生まれた。などという苦しい説明になります。
これからは、私の妄想です。
現代人類の先祖は約20万年前のミトコンドリアイブに由来する。
しかしながら、形質的(特に言語脳)には、現代人より劣り、
現代人間言語は話すことができず、文化を生み出す事はできなかった。
しかし、約5万年前、突然変異により現代言語を話すことが
できる本当の新人が誕生した。そしてこの形質は、当時の人類にとって
圧倒的な優位性を、持っていたので、人類全体に驚くほどのスピードで
広がり、この能力を持たないものは淘汰され、
人類全体の共通の形質となり、文化を爆発させ、現代に至る。
なお、この説の問題点は、そんなに早く遺伝子が全人類に広がるかという
事だと思うのですが、その当時の人類が数千人程度で、
遺伝子的交流があったとするならば可能だと思っております。
少し、場違いだったかな・・・。
最近思いついたんで、どこかに書きたかったもんで。
>>223 旧人・原人については、骨なりDNAの証拠が今のところありませんから、何とも
いえないと思っていますよ。石器の問題でも
>>217 で指摘もありましたし、
調査がずいぶん昔のものだったりしますので、層位的な認識が現在と違う場合は
ありはしないか?と思っています。それから、
>>223 で述べられている問題
についても、骨やDNAの証拠がありませんので、人類の種類もしくは人類の移動
の問題は断定できる段階ではないでしょう。人類の移動と文化の伝播は必ずしも
完全一致しないことは当然考えられます。全く何もないところにある年代から
突然人類の営みの痕跡が確認されるようになったり、文化の短期間での完全移動
が行われたのなら、人類の移動を考えなくては説明がつかないのでしょうが。
230 :
日本@名無史さん:01/11/17 13:28
>>223 >※注)混血ができなかった事の証拠ではない。
この点が科学的推論とトンデモの分岐点になるのだと思います。
ネアンと新人が混血したという証拠は遺伝子上は見つからない。
それが科学的事実です。
そこからえられる正しい推論は「混血はなかっただろう」という
ものです。
「なかったという証拠はない」から「あったかも知れない」
と推論するとトンデモに行ってしまう。
例:「UFOが存在していないという証拠はない」よって「UFOは
あるかも知れない」
>約5万年前、突然変異により現代言語を話すことができる本当の新人が誕生した。
そしてこの形質は、当時の人類にとって
圧倒的な優位性を、持っていたので、人類全体に驚くほどのスピードで
広がり、この能力を持たないものは淘汰され、
人類全体の共通の形質となり、文化を爆発させ、現代に至る。
面白い説だと思います。新人がアフリカを出たのはわずか5万年前
だったとすれば、新人が急速に旧人を絶滅に追い込んだということも
起こりえたでしょうね。
ミトコンドリアDNAの仕事では新人の出現が20万年か15万年前だと
は言えても、アフリカを出た時期はわからない。
アフリカ内部でも10万年前の文化と5万年前の文化に大きな落差が
あるから、脳と言語に一大変化が起こった可能性がありますね。
231 :
日本@名無史さん:01/11/17 15:08
あんまりこの問題詳しくないが、科学史家の言う
旧人のミトコンドリアDNAが2体調査され、現代人と20%以上違う
というのが本当なら、交雑及び現在人への進化は、ありえませんね。
この話が本当なのかをつついてみてはどうでしょうか?
223のいう5万年前の「知能突然変異」仮説を再検討してみたが、
難点があると思う。
1)アフリカ人と非アフリカ人の分岐はミトコDNA分析で11万年前と
計算されている。
2)考古学的にも新人化石が中東で見つかるのは10万年前。
従って5万年以上前に新人は旧大陸に広がっていた。
もし5万年前に脳だけが変異した新新人がアフリカに出現し、これが
先行の新人を置換したとすると、現存する民族の分岐年代は
5万年よりも小さくなるはず。これは1と矛盾する。
もう一つの説明として生物学的突然変異ではなく、「言語の誕生」を
考えられないか。
初期の新人は単語を並べただけの片言のような言語しかしゃべれなかった。
そのため単純な文化しか生み出せなかった。
ところが5万年前に文法をもち主語、術語、目的語、形容詞、副詞などを
そなえた複雑な言語が生まれた。そうなると文化の伝達は容易になり、
人間の意識も高度になる。これがこの時期の文化の大変容をもたらした。
新しい言語は学習可能だから既存の「片言新人」もこれを受け入れ、やがて
世界中に広まった。
この仮説だとなぜ「主語ー目的語ー術語」型の言語と「主語ー術語ー目的語」
型の言語があるか説明がつく。恐らく前者は「片言新人」の言語の名残だろう。
ハードウェアは同じでも新しいOSを搭載すればパソコンの使いやすさがすっかり変わる、
という現象と同じだ。
言語年代学のデータで「主語ー術語ー目的語」型の言語の起源が5万年前と
証明されればこの仮説はより確からしくなるだろう。
233 :
日本@名無史さん:01/11/17 18:35
>231
『出アフリカ記 人類の起源』の河合信和の解説によると、
「ネアンデルタール1号と現生人類との遺伝子の違いは、
現生人類どうしの違いよりも三〜四倍もあることがわかった」
とのことらしい。
現生人類間のミトコンドリアDNAの違いは3.43%だから、
現生人類とネアンデルタール人とのミトコンドリアDNAの
違いは、10〜14%といったところになるのかな。ただ、
「又聞き」なので、この計算は間違っているかもしれない。
因みに、標本数が3と少ないけど、ネアンデルタール人の
ミトコンドリアDNAの違いは3.73%で、相互の年代差は
少なくとも2万年あるそうだから、ネアンデルタール人は
現生人類以上に遺伝的に均質な集団だった可能性もある。
ネアンデルタール人は多様性を失い、進化の袋小路に
陥って滅亡したのかな?
>>232 >もし5万年前に脳だけが変異した新新人がアフリカに出現し、これが
>先行の新人を置換したとすると、現存する民族の分岐年代は
>5万年よりも小さくなるはず。これは1と矛盾する。
どうも、詳しい解説とご指摘どうもです。
無理矢理、自説を修正すると、
まず、ミトコンドリアイブの誕生を約15万年前に設定する、
そして、アフリカ人と非アフリカ人との分離を約7万年前とする。
これなら、ぎりぎり推定値の誤差範囲かなあ・・・と思います。
そして、約7〜5万年の間は人口が少なかったため
遺跡が発見されていないという事にする。まあ、苦しいシナリオですが。
>ところが5万年前に文法をもち主語、術語、目的語、形容詞、副詞などを
>そなえた複雑な言語が生まれた。そうなると文化の伝達は容易になり、
>人間の意識も高度になる。これがこの時期の文化の大変容をもたらした。
うむ、この説が有力だとは思うんですが、いまいちピンと来ないんですよね。
言語習得にクリティカルポイントがあったり、学習がないと言語が話せないのは
理解できるのですが、対人関係という刺激があれば、新新人(よい言葉だこれからはこれを使おう)
は、言葉を発するようになると思うんですよ。(何の根拠もなし)
>新しい言語は学習可能だから既存の「片言新人」もこれを受け入れ、やがて
>世界中に広まった。
>この仮説だとなぜ「主語ー目的語ー術語」型の言語と「主語ー術語ー目的語」
>型の言語があるか説明がつく。恐らく前者は「片言新人」の言語の名残だろう。
うわああ・・。面白い仮説です。言語学的視点は私にとって新鮮です。
じゃあ、交雑は、無理だね。
考古学者は、あきらめた方がいいよ。
DNAは、「動かぬ証拠」だからさ。
236 :
日本@名無史さん:01/11/17 22:35
科学史家さん、土日も登場をきぼーん
週休2日じゃツマラソ
237 :
日本@名無史さん:01/11/17 22:44
科学史家出てきてくれ
238 :
日本@名無史さん:01/11/17 23:01
 ̄ ̄| ̄\ ∩_∩ \
|| ̄ ̄\ \( ´∀`) \ ジサクジエンハ
|| ̄ ̄ ̄|__/( ⊃¶¶¶ / イッテヨシ
||___| | ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|
|____.|__〔〕))))))〕_|
>∪< ||
||
〔〇〕
/ \
〈∧_∧〉 タスケテー
(´Д` ) シニタクナイヨー
⊂ ⊂ )
⊂ ⊂ ,ノ ゴォォォォォォォ
________________
//| ...//|
// | 从从从 从从 // |
// 从|从. 从从从从从从)// |
|. | 从∧从∧从∧从∧从 |. | |
|. |(( (O皿O) (O皿O)从))|. | |
239 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:04
文字文化が発生してからたかだか5000年ほどしか経っていないんだから
言語の発達というのもあんがいゆっくりしたものだったのかもね。
240 :
日本@名無史さん:01/11/18 00:44
やはり考古学者は、終わっているな。
生物学の基礎知識もないとは、・・・
241 :
日本@名無史さん:01/11/18 01:27
230は科学史家。223はA社のK氏。
それも読み切れずコールするのはドキュソ考古学者。
242 :
日本@名無史さん:01/11/18 07:36
Oが文化庁辞めたって本当かい?
243 :
日本@名無史さん:01/11/18 09:00
>242
まさか、、、?
そんな情報聞いていないぞ。
どこからの情報だ?
>>223 >うむ、この説が有力だとは思うんですが、いまいちピンと来ないんですよね。
言語習得にクリティカルポイントがあったり、学習がないと言語が話せないのは
理解できるのですが、対人関係という刺激があれば、新新人(よい言葉だこれからはこれを使おう)
は、言葉を発するようになると思うんですよ。
新しい言語の成立の例として植民地のピジン・クレオールがある。
ピジンは幼児言葉と似ていて語彙が少なく、構文が単純で、語順も不定の片言言語。
しかし親がピジンをしゃべるとその子の世代になると、次第にそれが文法をもった複雑な
クレオールに進化するという。
面白いことにクレオールは語順が「主語・術語・目的語」型で、インド・ヨーロッパ語、
オーストロネシア語、セム語、中国語など世界の主な言語と同じ語順だ。
このことから言えるのは、
1)言語の発展段階には、ピジン段階とクレオール段階があった。
2)新新人はクレオール段階の言語を話した。
ということだと思う。
但しチョムスキーの「生成文法」理論ではクレオール文法はあらかじめ
脳内にセットされているとする(未証明)。
ピジンが自発的にクレオールに進化しなかったかどうかが問題と
なるが、進化の過程でこれは5万年前に一度だけ起こって、後は世界に拡散した
と考えたらどうだろう。
というのはニューギニア石器人でも教育を受ければパソコンが使えるから、新人の脳には
もともとそういう能力が備わっていたということになるだろう。(逆に、もっと進んだ
教育法が開発されれば我々の脳はまだ素晴らしいことがやれるのかも知れない)
インドヨーロッパ語の祖型は1万年くらい前に中央アジアで生まれたらしい。
その前に中東には原始農耕民族のクレオール型言語があったのは確実。
(以下は個人的妄想)遺伝子と言語の間には類似性がある。
遺伝子の多形性がもっともある地域が新人の誕生の地とされる。
そうすると言語が複雑でもっとも多様性のある地域がクレオール型言語の
誕生の地と見なせるだろう。
それはたぶんアフリカではないか。
5万年前にそういう言語がアフリカに誕生し、これとともに文化の大変容
が生じ、旧石器時代から新石器時代に入った。
一部がアフリカから出て中東に広がり、農耕をはじめた。
この言語は次第に周辺のピジン型言語に影響を与えたが、東に波及するに
つれ複雑さを失い、単純な中国語を生み、日本まで来るともっと単純な
「主語・目的語・術語」のピジン型の日本語となった。
日本語が緻密な論理構成や科学に向いていないのは、こういう歴史的
背景があるのではないか。
245 :
日本@名無史さん:01/11/18 14:40
>244
ピジン語、全く構造の違う言語間で、意志疎通を取る方法として、
自分の言語の発音や文法を簡単にして、また相手の言語の借用などを
行い、その場の間に合わせの言語。
しかし、それを聞いて育った子供たちが3世代も続くと、完成した言語となる。
それをクレオール語と言う。
240さん、それでよろしいでしょうか。
言語系統発生から人類の拡散の歴史を探るのは難しいような気もします。
チョムスキーの言語の非歴史化と言うのもあったような気もしますが。
でも、極めて興味のあるテーマです。
日本考古学の中でなかった視点です。
>日本語が緻密な論理構成や科学に向いていない
厳密な科学性を考古学に求めると逆に破綻してしまうかもしれません。
言語学の場合もそうなのでは。
246 :
日本@名無史さん:01/11/18 14:46
>>245、修正です
>240さん、それでよろしいでしょうか。
244さんの間違いです。
>245
>240さん、それでよろしいでしょうか。
はい、ピジン語とクレオール語の関係を私はそのように理解しています。
脳の中にセットされている「普遍文法」というのはクレオール文法だと
思います。
ピジン語は30年から100年ぐらいでクレオールに進化するのですが、
それは話し手に別の母国語があるからだと思うのです。
そういうきちんとした文法がなくてピジン語しかない状態では、果たして
自動的にクレオールに進化できたかというと無理だったのではないか。
実験的には片言を話すようになった子供だけを集めて社会を作らせ、
大人になったら一定の文法をもった言語をしゃべるようになるか、を
確かめればよいのですが。こんな実験はできませんよね。
でもオオカミ少年の例などから、これは起こりそうもないように思います。
すると、
1)文法が文化的規範としてまったく存在しない社会では、言葉は永遠にピジン語の
段階にとどまる。(文法のない社会)
2)すでに強い文化的規範として文法をもつ社会では、ピジン語(幼児語)は
固有の民族言語として発達・継続される。(文法がつよい社会)
3)固有民族言語の規範が弱い(文化的劣等などにより)場合には、ピジン語は
文法の強制力が弱いために、脳内にあらかじめセットされている「クレオール文法」
の影響を受けて、クレオール語に発展する。(文法が弱い社会)
ということが一般的に言えるのではなかろうか。
それで約5万年前に、恐らくアフリカで1)が突破され、文法をもった言語が誕生した。
それが文化大革命を起こし、旧石器から新石器への転換をもたらした。
その言語は短期間に格変化、語尾変化、時制、単数複数、代名詞、前置詞、副詞、
接続詞などをそなえた複雑な言語に発達した。
それがアフリカを出て世界に拡散する過程で、既存のピジン語に影響を与え新しい
言語の誕生をもたらした。(これは新新人がアフリカを出た5万年前以後の出来事で
、大まかに言うとセム語の祖語の起源は4~5万年前、ケルト語の祖語が4万年前、
それ以外の言語は3万年前以後に誕生したのではなかろうか)
その結果は、
1)新しい言語はより単純になる
2)内在のクレオール文法が作用するので「主語・述語・目的語」型の文法が主流になる
という現象をもたらした。
ということだと思います。
英語が世界言語になったのは、英米が強いだけでなく、印欧語のなかではもっとも
クレオール語化が強くて学習しやすいからだと思います。日本語もかつては学習
困難言語のトップに入れられていたが、クレオール語化のつよい言語で、学習しや
すいのは多くの外国人留学生が証明している。
大陸の両端で語順は違うが、似たようなクレオール言語が発達したのは偶然では
ないように思います。(日本語の方がクレオール度が高いとは思いますが)
人間自体に刻まれた「体内時計」としては遺伝子と言語がもっとも重要で、考古学は
この二つをもっと利用すべきではないでしょうか。
以上「妄想」をつらねました。
ケルト語は原始印欧語の仲間だそうです。
ヨーロッパ最古の言語はバスク語(エウシカラ語)だそうです。
訂正します。
言語学者によると人類の言語発展には3段階があるそうです。
第一段階:10万年前にアフリカから出た言語。
この「最初の言語」はまったく不明。
第二段階:5万年前の変化。この証拠は南米の言語、タスマニア語、パプア語などで
見つかるそうです。旧大陸にはもう残っていない。
第三段階:1万年前の氷河期以後の変化。
現存する言語のほとんどは第三段階で発生したようです。農耕・牧畜による環境の
複雑化、社会の複雑化がそれを生み出したのでしょう。
こうしてみると複雑な言語と文字の出現の間には、わずか5000年くらいの差しか
ないのかも知れません。
>>244>>247 いや、ほんとに、面白いです。
しかしながら、思いつきで、問題点を指摘しておきます。
まず、クレオール言語を話すことができる脳の形質を、生物的に一体いつ、
どのような原因で獲得したのかが、問題になります。
実際の所、ボノボやチンパンジーなどはこの能力はないようですし、
240さんの仮説によると、文法を持つ言語が発生した時点で
すべての新新人がこの能力をあらかじめ持っていたことになりますので、
人類進化の段階のどこかで、この能力を手に入れていなければいけません。
しかし、ダーウイン進化論では使用しない形質は、
遺伝的に選択されることはありませんし、遺伝的浮動(中立進化)で
説明するには無理があります。
唯一、説明可能となるのは、他の何らかの人間的形質の獲得が、
潜在的な人間言語能力に連動していたという説明になると思います。
とりあえず、私には適切な候補が浮かびません。
>遺伝子の多形性がもっともある地域が新人の誕生の地とされる。
>そうすると言語が複雑でもっとも多様性のある地域がクレオール型言語の
>誕生の地と見なせるだろう。
>それはたぶんアフリカではないか。
>5万年前にそういう言語がアフリカに誕生し、これとともに文化の大変容
>が生じ、旧石器時代から新石器時代に入った。
私の知っている限りでは、最も新しい人類到達地とアメリカ大陸も、
言語の多様性が多いと聞いたことがあります。ホピ語とか・・。
これは、どのように説明できるのでしょうか。
以下は、質問になるのですが、
文法の規範化と文化の発展の関係性がいまいちわかりません。
単純に考えると、最初のクレオールの段階では規範化が弱く、
文化が発展すれば、規範化が進行するような気がします。
240氏の説明では、文化が発展するに従い規範化が弱くなると読みとれます。
規範化の強い、弱いというのはどんな意味合いで使っているのでしょうか。
>実験的には片言を話すようになった子供だけを集めて社会を作らせ、
>大人になったら一定の文法をもった言語をしゃべるようになるか、を
>確かめればよいのですが。こんな実験はできませんよね。
>でもオオカミ少年の例などから、これは起こりそうもないように思います。
これが、一番の問題ですねえ。私は、どうも起きるような気がするのです。
オオカミ少年の場合(嘘だという説もあるが)は、
人間同士の交流ではないので、証明にはならないと思っています。
>244
言語をおそらくラボフの言語変化のプロセスを当てはめているのだと思いますが、
1.言語の獲得、変化の発生、2.拡散、普及、古形の部分的な残存、3.言語変化の完成、古形の消滅。
そのことから比較言語学による階段的発達論を展開されているように見受けられます。
249さんが仰るように、「言語の多様性が多いと聞いたことがあります」と意味は
エスキモー、オーストラロイドなんかでも後続部隊がなく、
言語が多様化する傾向は認められているようです。
つまり、その他からの影響無しでピジン的な社会の中で文法、単語の生成が発展する可能性はないでしょうか。
ピジン、クレオールの説明から人類の拡散、発達過程はその意味で、難しいような気もするのですが。
人類の発達と人類の属性である後天的文化(?)の発達段階は一律に扱うことは
難しい点があるのではないでしょうか、、?
確かに言語の獲得、能力の発生は、5万年前を遡ると考えられます。でも実証は難しいですね。
如何でしょうか。
>>223 >まず、クレオール言語を話すことができる脳の形質を、生物的に一体いつ、
どのような原因で獲得したのかが、問題になります。
しかし、ダーウイン進化論では使用しない形質は、遺伝的に選択されることはありませんし、遺伝的浮動(中立進化)で
説明するには無理があります。
少し誤解があるようです。私は言語の発展段階として
第一段階:10万年前にアフリカから出た言語。(ピジン語:新人:旧石器文化)
第二段階:5万年前にアフリカから出た言語。(新新人語:新人:新石器文化)
ピジン語と接触する過程で、沢山のクレオール語が生まれた。
第三段階:1万年前の氷河期以後の変化。現代語の祖型の誕生。
と考えています。
脳の形質は、第一段階で今と変わらなかった、と考えています。つまり「クレオール
文法」はこのときに用意されていた。しかし文法が実際に用いられるように
なったのは5万年前になってから。これが「新新人」だと考えています。(私の「新新人」
は生物学的には「新人」と同じものです。言語能力だけが違う)
こういう能力は表現型質としてあらわれていないので、自然選択の対象になりません。
例えば「自転車に乗る能力」なども11万年前から具わっていたが、100年前までそれは
淘汰されずに残っていたわけです。
>文法の規範化と文化の発展の関係性がいまいちわかりません。単純に考えると、最初のクレオールの段階では規範化が弱く、
文化が発展すれば、規範化が進行するような気がします。
日本語を例として説明します。
日本のピジン語を話す原住民(旧石器人)がいて、そこにオーストロネシア語を話す
民族が侵入したとすると、原住民の間にピジン語からクレオール語が生じます。
これが日本語の祖型でしょう。やがてこれが「日本語」として文化的に固定し、規範化が成立する。
日本語の場合これは平安時代に成立したと考えられます。
日本語はクレオール語だという説は、言語学者の田中克彦が唱えていることを
今夜知りました。「日本語こそは、その構造の多くの点において、クレオール語と
同類の言語なのだ」(「クレオール語」白水社、解説)
5万年前に新新人がアフリカから世界に広がっていく過程で、沢山のクレオール語が
でき、それが1万年前以後に、社会的規範化を強め、世界の主な言語が成立した。それが
現代まで続いている。(途中で文字の発明と普及があった)そういうふうに考えています。
もしこの仮説が正しければ、精神病の中に「ものの名前は正しく言えるが、意味のある
文章を作れない」という病型があるはずです。
>最も新しい人類到達地とアメリカ大陸も、言語の多様性が多いと聞いたことがあります。ホピ語とか・・。
>これは、どのように説明できるのでしょうか。
言語分類の方法により数は変わります。それと250さんが指摘しているように地理的隔離により言語の数は増えます。
「多様性があるから古い言語」だと即断はできないが、北米の言語、タスマニアの言語は
3万年くらいの古さがあることは間違いないでしょう。
アフリカが新新人の故郷だ、というのは考古学的資料にも支えられています。
>>250 >その他からの影響無しでピジン的な社会の中で文法、単語の生成が発展する可能性はないでしょうか。
私はピジン語社会が外部の影響でクレオール語化することで新石器時代が始まったと考えていますので、
旧石器文化をもつ現存人類が発見されないと(そしてその言語がピジン語でないことが証明されないと)
何とも言えないのです。
日本語をクレオール語だと考えると、
1)文法ことに語順は日本で独自に誕生した。従って近隣に類縁言語がない。
2)語彙は既存の旧石器時代のピジン語(これは名詞を中心とする片言言語と言う意味)と
オーストロネシア語由来の単語などからなる。
ということになります。
従って日本語は他に類縁のない孤立した謎の言語だ、という特徴が生まれるはずです。
253 :
日本@名無史さん:01/11/18 23:20
なんかよ〜後期旧石器革命があったことを前提に言語ヲタ
がよってきているけどよ〜最近の研究じゃあ、現生人類の
起源地であると考えられているアフリカでは漸進的な物質
文化の変遷(石器製作技法とかね)が認められているって
話ですぜ。
急激な変化が認められるのは、それに対し、当時の辺境に
あたる欧州や中近東。こういうことからも、単一起源説は
やっぱり正しいのかな、とは思う。
というわけで、言語ヲタは、言語学板に逝きなさい。
254 :
日本@名無史さん:01/11/18 23:59
ところで、O村が文化庁追われたって、ガセなの?
言語学はもう置いておこうと思いますが、少しだけ失礼。
考古学と言語学の繋がりは、ロシアのマルという学者に認められているようです。
言語の社会段階的発展論と考古学の時代区分の発展論の合体が認められているようです。
それが正しいかどうかは別にして。
言語学と考古学の関連性はもっと認められ研究されても良さそうですよ、240さん。
と言うことでおしまい。
スレ違いもいいかげんにしろよ
考古学と言語学の話がしたかったら、新しくスレつくれ
257 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:06
言語学の方からの評価はしらんが、
ロビン・ダンバー(Robin Dunbar)というおっさんが書いた
「言葉の起源」
原題 Gossip,Grooming and Evolution of language
という本があるぞ〜
他にも、スティーブン・ミズン(Steven Mithen)の
心の先史時代
原題 Prehistoric of Mind
↑原題うろ覚え。間違えてたら、修整きぼんぬ。
考古学的証拠と言語とか認知心理の発達に切り込んだ
面白い本ですぜ。
258 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:14
The Prehistory of the Mind
256がまた怒るよ。
>>258 やっぱり間違えてました。スマソ
そんでも、上の連中は行き過ぎだけど(というか、
まともな最近の考古学的知識はゼロのようだ)、
漏れのあげた本とかは、考古学は科学になれるか
ってなテーマには少しは沿っているかなあと。
260 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:24
258=250なんです。
実は考古学をやってて、言語も興味あり、です。
テーマが大きすぎたようです、失礼しました。
261 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:27
自分でもよくわからん。行き当たりばったり。
生半可が専門。
263 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:31
>>262 漏れは259。専門は一応旧石器だけど、だから
上の議論とか見て最近の知識がないのかなと
思っていたのだが、考古ではどこの時代が専門
なんだぞな、もし。
264 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:38
>260
学問てそういうもんだよ。それでいいとおもうよ。
別に縄張りにこだわる必要ないよ。
最近はやりの「学際的云々」ってのは好かんが。
>262
旧石器は超専門にあらず。
かじっている程度。だから最近の知識に欠けている。
266 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:43
>>264 そういやさ、考古学ってやたらと時代区分が好きな
人が多いじゃないですか?
縄文はここからだ!とかね。あれはどうなんすか?
面白いのかなあ?
267 :
日本@名無史さん:01/11/19 00:52
>>253, 256
だから現生人類は20万年前にアフリカで誕生し、11万年前にアフリカを出て
旧石器文化を築いた。それで5万年前に、言語の一大変化がアフリカで生じ
新言語をもつ群がアフリカを出て、その影響で新石器文化が生まれた。
それは考古学にものすごく影響があるじゃん。
そういう広い視野を日本の考古学者ももたなきゃ、という話だったんじゃ
ないの。
端から見ていても、この話は過去5年くらいの遺伝学、言語学の新知見に
基づいたトップレベルの議論だったと思うよ。
268 :
日本@名無史さん:01/11/19 01:01
>>267 はあ?何言ってんの、ぼく?
だいたい、アウト・オブ・アフリカした年代もそんなに
かっちり決まっているわけではないし、11万年前に
旧石器文化を築いたって、じゃあ、200万年前から
石器がアフリカで出土しているけど、あれは文化じゃ
ないんだ〜へ〜知らなかった。アシューレアンとかは
文化と呼ぶに値しないということなんだ。
5万年前に言語の変化が急激に生じて、その影響で新石器
文化が、それじゃあ4万年以上その影響はどこで溜まって
澱んでたの?馬鹿じゃねえの。
上の議論もそれなりに意味のあることだと思うけど、お前
みたいな一知半解なくされ厨房が訳知り顔でクビを突っ込む
のはお門違いなんだよ、ヴぁか。
広い視野って何でも言えばいい問題じゃない。阿呆。
何どもいいますが、アフリカでは後期旧石器革命というもの
が存在しなかったんじゃあないのか、という最新の学説が
あるの。
だいたい言語の進化だけで全ての説明がつくわきゃあねえ
だろうが、ヴぁか。環境とかの変動も考えに入れろ。
お前みたいな厨房に評価されると可哀想だわ、上で議論
した連中も。
たとえて言えばDOSでパソコンを動かしていたのが、WINで動かすように
なったようなものだ。
旧石器から新石器への劇的な変化を考古学者は、脳の変化か言語の変化
以外に何で説明するのよ。
223以降の議論は、脳の変化を仮定するよりも言語の変化を仮定する方が
新石器時代への移行が、より矛盾なく説明できるという話しに収斂した。
これが科学的議論というものだ。
捏造問題もネタが尽きたし、このスレもめっきりつまらなくなったな。
さて、寝るか...
旧石器かた新石器に移行した際に、新人の脳構造が
劇的に変化しているという研究例があるのか?
漏れは、知らんがね。
新石器から旧石器への劇的な変化というのを何を意味
して使っているのか分からんが、農耕や牧畜の開始という
点ならば、環境の変動、人口圧とかいろいろとありますけ
どね。
人間の複雑な脳構造を単純なパソコンのOSの入れ替えと
同一視しないようにね、ぼく。
272 :
日本@名無史さん :01/11/19 01:19
>>270 やっぱり、ナムバ先生スレたてるか?
ナムバ先生専用デムパ垂れ流しスレ。当然、
2ちゃんねらーの厨房考古学者は闘いを
挑まねばいけない。
273 :
日本@名無史さん:01/11/19 01:28
自分が理解できないとすぐに「ヴァーカ」としかいえない253=268
のようなピジン語しかしゃべれず、クレオール語をつくれない
低脳考古学者が日本考古学のかかえる最大の問題だな。
無知と低品位を広告しているようなものだ。
274 :
日本@名無史さん:01/11/19 01:28
>266
時代区分すること自体はいいと思うよ。歴史的認識には必要だろうから。
でもそのために自分の研究領域まで狭めてしまうのは本末転倒だと思うけどね。
それから旧来の時期区分や名称にしばられちゃうのも馬鹿げてるよね。
区分と制限とは違うよね。
>>273 あのさあ、おまえ267だろう?反論できなくなった
からって、そういう書き方するほうが無知と低品位
だよ。本当にお馬鹿さんね。267じゃないとしても、
上の漏れの発言を読んで低脳(低能?)だと判断する
ならそれでもいいけど、別に間違ったことは書いて
ないし、理解できないお前が低能。
そうやって自分のフィールドに逃げ込むなら、最初
から入ってくんな。阿呆。
276 :
日本@名無史さん :01/11/19 01:38
>>274 禿同。
時代区分は当然必要だと思います。でもねえ、
たとえば縄文の人って旧石器に全く興味を示さない
んですよね。居住形態は違うかもしれないけど、
同じ狩猟採集民なんだから、共通して議論できる
点は色々とあると思うんですが。
まあ、私の知っている大学ではそうだっただけで、
他の大学は別かもしれませんが。
>>267=269=273
もうちょっと勉強してから、発言しろよな。
うろ覚えの知識で偉そうにものを述べておいて、
自分の分からん内容になると別人を装って、
論点をずらした誹謗中傷って、ナムバ先生と
一緒だぜ。
というわけで、厨房の相手も疲れたから、寝る。
あとは勝手にデムパ流してくれや、
>>273
278 :
日本@名無史さん:01/11/19 01:52
>たとえば縄文の人って旧石器に全く興味を示さない
うんうん。まさにそういうこと。「自分の研究領域まで狭めてしまう」
ただそういうのって、現在のあらゆる学問分野で言えるんだろうけどね。
で、さらに言うと学問間でもね。本来理系・文系なんてないんだからね。
ま、そこまでは無理にしても、せめて文献史学と考古学と地理学ぐらいはね。
ま、最近では建築学や文学なんかとの交流も試みられてるから
どんどんやってほしいね。そういう時に、縄文だから旧石器は、なんて次元のことは
言って欲しくないよね。ていうか研究を進めていったら
興味を示さざるを得なくなるのが普通だと思うけどね。
279 :
日本@名無史さん:01/11/19 11:45
age
>>240 >例えば「自転車に乗る能力」なども11万年前から具わっていたが、
>100年前までそれは淘汰されずに残っていたわけです。
自転車の場合、サーカスに行けば、熊や猿でも乗ってます。
しかし、たぶん、馬にはどうやっても乗れないと思います。
では、どうして自転車に乗れる、乗れないの違いが出るかというと、
走り方や歩き方、前足の使い方などが違い、
それぞれが個別に環境に適応・進化した結果、
手足の形や骨格などが変わり、
たまたま自転車に乗る能力に違いが出たということになります。
言語の場合、チンパンジーやボノボなどと新新人を比べると
言語を使う能力に格段の違いがあります。
これは、どんな理由、どんな能力が原因となって
この差が生まれたかということを私は問題にしているのです。
例をあげるならば、時間の認知能力なんて可能性がありますが、
これは、チンパンジーも持っているようなので、
決定打ではなさそうな気がします。
つまり、新人(10万年前)がどのように進化し、
どんな能力を獲得したことによって、
将来(5万年前)人間言語を話すことが可能になる
形質的基盤を手にしていたか??
ということを説明できる理論が必要なのです。
他の部分の説明はおおむね理解できました。
281 :
日本@名無史さん:01/11/19 12:26
282 :
日本@名無史さん:01/11/19 12:27
284 :
日本@名無史さん:01/11/19 12:58
ナムバ先生戻ってこないね。珍しく仕事を
してるのかな?
>>223 >言語の場合、チンパンジーやボノボなどと新新人を比べると言語を使う能力に格段の違いがあります。
>これは、どんな理由、どんな能力が原因となってこの差が生まれたかということを私は問題にしているのです。
現在では類人猿、クジラ、鳥など高い識別能力をもち、言語体系をもっており、
「社会」を築いていることが明らかになっています。
その意味ではピジン語程度の単語を並べて交信する程度の能力は動物にもあります。
ただヒトのように明確な音節語を話さないのでそれと認知しにくいだけだと思います。
そうなるとヒトとサルとの一番の違いは「文法に基づき長い文を作れるかどうか」ではないか、
と私は思うのですが。これができないと脳内に複雑な概念の形成ができず、従って外部に複雑な
人間的あるいは社会的関係をつくり出すことができません。
>新人(10万年前)がどのように進化し、どんな能力を獲得したことによって、
>将来(5万年前)人間言語を話すことが可能になる形質的基盤を手にしていたか??
>ということを説明できる理論が必要なのです。
昔は「獲得形質の遺伝」が信じられていたのでエンゲルスの「サルが人間に進化する
に際しての手の役割」というようなことがまじめに論じられていました。現在の遺伝学
では変異は偶然に起こり、それが表現型に顕れれば淘汰の対象になるが、顕れなければ
中立のままとどまると考えているようです。
20万年前に出現した新人の脳には突然変異により文法をもつ言語を使える能力が備わって
いたが、その能力は5万年前まで開発されなかった、と考えたらどうでしょう?もちろん
この能力は潜在段階では自然選択の対象になりません。
こう考えると、10万年前に新人が一旦は西アジアに進出(カフール遺跡)したが、ネアンデルタール
を駆逐するほどの肉体的・文化的力がなく、両者が共存し、あるいは一時アフリカに押し返された
形跡さえあるという事実が上手く説明できるように思われます。
ではどういう突然変異が20万年前に起こったのかというと(推測になりますが)、現実に存在する
「モノ」と音声記号の間を結びつける機能(これは動物にもある)に、「モノ」としては存在しない
「関係」を音声記号に結びつける機能(ANDとかORやIFの概念)が付け加わったのではなかろうか。
つまり抽象概念の発生です。(脳科学的にはこれを行う特定部位があるようです)
脳研究が進めばこれがどういういう遺伝子変化によるものか、明らかになるでしょう。
私自身も知らないことが多く、上手く説明できません。お答えになったかどうか。
「関係」という概念、「部族」とか「たたり」のような概念は脳の中にしか
存在しません。そのような概念を生み出し、「文法」(これも脳内にしか存在しない)に
従い組み立てて「文」をつくれることを「発見」したとしたら、これは人類の
精神史における一大革命だと思います。
なぜならこれによりはじめて「自己言及能力」が生まれたからです。
これは「死の恐怖」を肉体的苦痛の問題としてではなく、はじめて「自意識の消滅」
として認識できるようになれたことを意味すると思います。(幼児がこれを認識
できるのは6歳から10歳位になってからです)
5万年前以後の人類には抽象概念があったことが遺跡から裏づけられます。
そこから宗教の発生、国家の誕生、文字の誕生、宗教・哲学思想の誕生
まではほんの一またぎだったように思われます。
もちろん1万年前の農業の誕生により余剰食糧が生まれ、「考える人」が誕生
したことは重要な条件ですが、「脳内だけで概念操作ができる」という能力の
開発が先行していなければ、それはできない。
恐らくこの能力は脳の発達期に開発しないと成人後では獲得不可能だったので
しょう(絶対音感やバイリンガル能力のように)。だから脳には具わっていたが
「発見」は5万年くらい遅れたのではないでしょうか?
新人の脳は最初の5万年間は小学生程度の機能しか発揮していなかったが、5万年
前以後に急速に成人の脳として開発された、そして現代につながっている、のでは
ないでしょうか。(これは養老孟司の「唯脳論」的説明です)
287 :
日本@名無史さん:01/11/19 16:46
>>285 ぷぷぷ、西アジアの「カフール」ってどこのことだよ。
「スフール」と「カフゼー」がこんがらがってんじゃないの?
うろ覚えの知識をひけらかすなよ。厨房。
288 :
日本@名無史さん:01/11/19 17:02
>>287 > うろ覚えの知識をひけらかすなよ。厨房。
同感!
いい加減、いい加減をやめろ。
自分じゃたいした知識だと思ってるようだけど。
確かにスフールとカフゼーがこんがらがっていました。
うろ覚えでしたね。お詫びして退散いたします。
290 :
日本@名無史さん:01/11/19 17:18
>>240 脳内デムパ飛ばすのは勝手だけどさ、ここのスレでは
やめてくんない?うざいよ。
思われます、とか推測でなら何だって言えるよ。
あとね、ガイシュツだけど、中近東や欧州などの現生人類
の揺籃の地ではないところでは(単一起源説に基づけばね)、
新人の移住により劇的な進化が生じたように見えるけど、
アフリカでの事例をみると、そうじゃない。中石器時代を
通してゆっくりと新人的な文化が作り出されていることが
明らかになりつつあります。
というわけで、上での後期旧石器革命にもとづくデムパ説は
意味がありません。すみやかに退場してください。もしくは、
これに反論してもいいけど、スフール、カフゼーもごっちゃ
になるような厨房には、反論できないだろうね。
291 :
日本@名無史さん:01/11/19 17:20
>>240 漏れは290だけど、289を確認したのは290を書き込んだあと
なので、とっとと退散してくれてどうも。
292 :
日本@名無史さん:01/11/19 18:15
>>290 >(アフリカの)中石器時代を通してゆっくりと新人的な文化が作り出されていることが
明らかになりつつあります。
教えて下さい。
ヨーロッパや西アジアのネアンデルタールの文化が「ルヴァロア・ムスティエ文化」で、
それに対応するアフリカの新人の文化が「中期旧石器文化」ですね。
アフリカ内部では中期旧石器から後期旧石器への文化的移行は漸進的に起こり、
「革命」などない。だから遺伝子変異も言語変化も仮定する必要がない、という
ご説明でしょうか?
もしそうならその根拠を教えていただけませんか。初耳なので勉強になります。
293 :
教えて厨房:01/11/19 19:03
>>286 分子時計から、現生人類のDNAが完成したのは、
12万年前という結論があります。その説とは矛盾しますね。
294 :
通りすがり:01/11/19 19:02
>>294 ありがとう存じます。しかしサリー・マクビーティ(コネチカット大)、アリソン・ブルックス(ジョージタウン大)
という二人の女性人類学者の「人間革命などなかった」という説は、革命説が「ヨーロッパ中心主義の偏見」と
断定しており、アフリカでは30万年前の中期旧石器時代から変化が徐々に起きており、「ホモ・ヘルメイ」がサピエンスの
先祖だと主張するなど、全くの異端的意見ですね。(異端が間違いとは言えませんが)
290さんはこの意見の支持者なのでしょうか?
人間革命は存在します。
>>293 12ないし10万年前にアフリカ人と非アフリカ人が分離した。(アウトオブアフリカ)
人類は生物学的にはこの直前から変わっていない。そして5万年前に(恐らく北東
アフリカで)脳の機能に大変化が生じた。ですから後者にはDNAは関与せず
矛盾はありません。
>>296 はいはい、「人間革命」の先取権は大作先生にありましたね。「human revolution」と書いてありましたが
中味は5万年前に起こった「精神革命」のことです。
299 :
日本@名無史さん:01/11/19 22:09
>アリソン・ブルックス(ジョージタウン大)
正しくはジョージワシントン大だったかな。
この先生は可哀相に上高森を信じ込んでたね。
すごくいい人なんだけどな。
300 :
日本@名無史さん:01/11/19 23:09
なんだ290は上高森信者でブルックス説の信奉者か。
えらそーによーゆーよ。
あほくさ。
301 :
通りすがり:01/11/19 23:25
>>300 それがバレてついでに身元まで割れるから、292に回答できないノダ。
旧石器の世界はせまいノダ。
302 :
日本@名無史さん:01/11/19 23:43
「うざい」と「ふぇいくちゃっと」でこゆ、たこ、はやを決めつけたのも
同一人物ですね。某談話室で近々アメリカに行くといってた東北出身の旧石器学者
みたいですね。
バージェス頁岩から、旧石器が発見される予感...
304 :
日本@名無史さん:01/11/19 23:55
>>303 数億年前の旧石器ね。
発見されれば最高!!
>>293 >分子時計から、現生人類のDNAが完成したのは、
>12万年前という結論があります。その説とは矛盾しますね。
これは、よくある勘違いです。
ミトコンドリアDNAの分子時計は
約12-10万年前に、遺伝子の均質化(ボトルネック)が起きた事を
示すだけであって、必ずしも遺伝子が変わり、完成したことを証明していません。
ミトコンドリアイブ説は、
この分子時計によるボトルネックの存在と
化石証拠などから類推される人類進化の過程を勘案し、
人類は約12-10万年前に新しい遺伝形質を持った新人が誕生し、
その後全世界に広がったという仮説を展開しているだけなのです。
ボトルネックの説明としては、
その時代に、他の同種の人類が死滅したとしても説明可能なわけで、
100万年前から同種の人類がいても別によいわけです。
(もちろん化石証拠から否定されますが)
また、イブ説の新人誕生後に遺伝形質に変化があっても、
ミトコンドリアDNAには何の影響も与えません。
ですから、人類の進化論を展開する場合は、
約12-10年前の遺伝子の均質化(ボトルネック)さえ、外さなければ、
ミトコンドリアDNAの分子時計とは矛盾しません。
すっかりスレ違いに石鹸されてしまったので、
新スレキボン
307 :
日本@名無史さん:01/11/20 01:42
しかし、290は、何をいいたいのだろうか?
生物学的に旧人と新人との交雑は、ありえないわけだが、
例えば、新人の奴隷として旧人が使われていたから、暫時旧石器文化が、
変化していたとかいうことなんだろうか?
>生物学的に旧人と新人との交雑は、ありえないわけだが、
そうなんですか?なぜ?
ネアンデルタール人と新人の混血の可能性については赤沢威も言及
していますが、赤沢さんはありえない可能性を指摘しているのかな?
>>308 「混血」という言葉には
1)雑種を形成すること
2)その雑種が子孫形成能力をもつこと
の二つの意味があります。
赤澤さんはどちらを考えておられるのでしょうか。
前者の可能性は否定できないのですが、後者については
証拠がないのです。
遺伝子距離からはどちらの可能性もきわめて低い、またはあり得ないだろう
ということだと思います。
310 :
日本@名無史さん:01/11/20 12:35
>>308 ガイシュツだけど、ポルトガルの遺跡から解剖学的新人と
ネアンデルタール人の混血ではないかと考えられる人骨が
出土しています。
311 :
日本@名無史さん:01/11/20 12:45
>>223 >イブ説の新人誕生後に遺伝形質に変化があっても、ミトコンドリアDNAには何の影響も与えません。
(核DNAに規定されている)遺伝形質に変化があっても、ミトコンドリアDNAの変化とは無縁だ、という
意味ですね?
ボトルネック仮説は
1)アフリカ人の遺伝子はミトコンドリアDNA、核DNAとも多形性に富む
2)しかしその他の地域の人の遺伝子はそのうちのわずかな組み合わせしか持たない
という集団遺伝学のデータがあり、その解釈として
1.アフリカから特定の遺伝子をもつ集団(つまり少数の人間)が外に拡散した(地理的ボトルネック)
2.全部が拡散したが、特定の遺伝子をもつ集団(つまり多数の人間)が絶滅した(人口的ボトルネック)
の二つが考えられる。けれども進化に関係ない「無意味遺伝子」を調べても、アフリカ以外の人間は
遺伝子の多様性が少ないので、2は考えにくく、結局遺伝的にきわめて近縁な少数の人間がアフリカから
出て世界に拡散したと考えるしかない(アウト・オブ・アフリカ説)。
それが10万年前。
アフリカもひっくるめた新人の起源は20万年前。
それと各民族のミトコンドリアDNAの分析から4〜5万年前以後、変異にピークが出現する
時期が認められている。(遺伝子の交流が急速に起こった):後期旧石器時代の開始(精神革命)に一致
こうしてみると現生人類の起源と発展の物語は集団遺伝学により大筋では見えてきたようですね。
「人間はどこから来たのか?」という疑問を解くために学問があり、そのために考古学、化石人類学、
形質人類学、集団遺伝学がつぎつぎに生まれたので、一般市民にとってはそれに答えを与えてくれる
科学であれば何でも歓迎です。
>>307 あのな〜全部の発言チェックしたか?小馬鹿。
どうすれば、そんなデムパ説がでてくるんだ?
煽りか?
前出の言語と考古学の接点に関する議論は、まず後期旧石器革命が
あったことを前提にして、ではその原動力になったものは、何でし
ょう、という点に関する仮説の述べあいだったと思います。
それに対して、上記のアリソン・ブルックスの論文など、アフリカの
中期石器時代を見ると後期旧石器につながっていくような事象が
認められていて、現生人類の誕生の地と考えられるアフリカでは
後期旧石器革命のような爆発的な変化は検出されない、という
ことなので、上での議論は成り立たないという指摘をしたまでです。
何をどう読んだら、奴隷とかそういう阿呆な言葉が飛び出して
くるか分かりませんが、書き込むならそのスレの発言をすべて
チェックしてから発言したほうがよいのではないのですか?
まあ、日本語がしっかり理解できないという可能性も指摘でき
ますが。
313 :
日本@名無史さん:01/11/20 12:50
>>310 だけどまだ1体しか見つかっていない。
それにDNAを抽出してネアンデルタールと新人の両方の遺伝子をもつこと
を証明しないといけない。
混血の証明は、それが子孫を残しえた、ということの証明ではない。
問題の決着は先送りでしょう。
>>292 ホモ・ヘルメイ云々はともかくとして、その意見が正しいの
では、と考えています。
>>300 んで、アリソン・ブルックスが上高森を正しいと考えたのと
彼女の業績は別でしょう?なんでもごっちゃにして話をする
なよ。
315 :
日本@名無史さん:01/11/20 13:00
>>312 あまり他人を罵るのは貴方が旧石器専門家とわかっているだけに損ですよ。
>現生人類の誕生の地と考えられるアフリカでは
>後期旧石器革命のような爆発的な変化は検出されない
これが正しいとしても、10万年前にアフリカからの新人の拡散があったこと、
5万年前にアフリカから新しい文化をもった新人の拡散があり、それが
他の地域に後期旧石器革命をもたらした、とする仮説と矛盾すると
思われませんが?
どうして「上での議論は成り立たない」と断定されるのでしょうか?
>>314 >その意見が正しいのでは、と考えています。
そう言われても。私が質問したのは「正しい」と判断された根拠です。
アフリカはまだ十分に調べられていないので「爆発的変化」が
見つかっていないだけかも知れません。
317 :
通りすがり:01/11/20 15:45
マクビーティとブルックスは
>This suggests a gradual assembling of the package of modern
human behaviors in Africa, and its later export to other regions
of the Old World.
と述べていて、「アフリカでは人間行動(脳機能)の変化が徐々におきて、
それが後に旧世界に輸出された」という説みたいだよ。
つまりアフリカが先進地帯で他は後進国だったと言っている。
クロマニヨン人の精神革命があってそれが世界中に広がったという
「ヨーロッパ中心主義」に反対しているだけかも。
だとすると脳や言語の変化で5万年前の精神革命を説明しようという
上の議論はいい線を行っていたのでは。
318 :
通りすがり:01/11/20 15:59
マクビーティでなくマクブリアテイ(Macbrearty)が正しいようだ。
訂正。
319 :
日本@名無史さん :01/11/20 16:41
>>315 何を革命とするかは、問題があるけど、すでにあった
文化が別の地域にもたらされるものを革命と言えるの
でしょうかねえ?
320 :
日本@名無史さん:01/11/20 16:45
>>316 >アフリカはまだ十分に調べられていないので「爆発的変化」が
>見つかっていないだけかも知れません。
アフリカはまだ十分に調べられていないので、っていったい
何を根拠に??発展途上国だからか?
現生人類の起源について以外にも多くの人類化石が発掘されて
いるのだから、それなりに調査例はあると思うのですが?
なんかデータでもあるんでしょうか?
321 :
日本@名無史さん:01/11/20 17:05
アフリカで発掘がすすんでいないのは事実だろう。
少なくともヨーロッパに比べれば格段の違いがある。
ラミダス猿人だってエチオピアで社会主義が終わって
ようやく出てきた。
322 :
日本@名無史さん:01/11/20 17:12
>>319 普通はゆっくりと変化するのをevolution(進化)といい
短期間に急激に変化するのをrevolution(革命)といっとるわな。
産業革命は200年前で、農業革命は1万年前と普通はいわれているじゃん。
人類の20万年の歴史のなかで5万年前に、期間が1万年か5千年かはしらんが
短期間に精神活動が活発化したという証拠があれば、それは革命といって
いいんじゃないか。
アフリカにもう発達していたとしても(これがホントかどうかしらんが)、
水がビンからあふれるように(人口増加圧かなんかで)、アフリカから
外へこぼれていったわけで、それが残りの世界を変えたとしたら「革命」
と呼んで不都合はあるまい。
323 :
日本@名無史さん:01/11/20 17:18
で、考古学は科学になれるのか?
324 :
日本@名無史さん:01/11/20 18:35
>>323 考古学は何をやる学問かということにかかっているのでは。
旧石器についていうと石器などをきちんと発掘し、その使用年代、
作製方法を確定し、しかる後に作製技法の変化を年代毎に位置づけ
るような作業(これが基礎として欠かせない)、では科学的になら
ざるをえないだろう。
自分たちだけの勝手な解釈はやめて、むしろ人類学者にデータを
提供する立場に徹した方がよいかもしれない。
科学になれるかどうかは、部外者にはわからん。
しかし集団遺伝学の最近の進歩はすごいね。レスを読んでいて驚いた。
325 :
日本@名無史さん:01/11/20 19:01
わしも少なくとも、人類学と考古学の垣根をとりはらうべきだと
思うね。
縄張り意識によって解釈にバイアスが生じ、学問の発展を
阻害する。
データ開示についても、業界の人間であるかどうかにかかわらず、
必要な人にはアクセスできるようなシステムをつくらないと
いけない。でもこういう計画には、だいたい考古に限らず
文学部系の人びとは反対する。
326 :
日本@名無史さん:01/11/20 19:56
1980年代の終わりに20万年前のミトコンドリア・イブ仮説が出たとき
人類学者は「新しすぎる」と反対した。しかしそれ以後遺伝学データ
はつぎつぎ出てきて、新人のアフリカ起源説を強化し、ネアンデルタール
との混血も否定している。
これからは集団遺伝学が理論を提供し、化石人類学や考古学がそれを
検証する時代に入ると思われる。
考古学者が抵抗してもやがて日本でもそうなるのではないかなあ。
あんまり抵抗してほしくないよ。
327 :
日本@名無史さん:01/11/20 20:36
昔は進化の袋小路に入ったり競争にまけたりして多数の
「人類」が亡んだと知らなかった。だから猿人・原人・旧人
・新人と一列に並んで行進している絵を描いたのだなあ。
日本旧石器物語は間違った図式に基づいたはかない夢だった
わけか。
328 :
日本@名無史さん:01/11/20 21:27
人類の進化、脳、言語の発達の意見が大分出揃ったようですが、
これらを今回の前期旧石器に絡めると、どの様なことになるのでしょうか。
果たして、日本には5万年前に人類は辿り着いていたのでしょうか?
そこな辺りが最も興味ある論点だと思いますが。
329 :
日本@名無史さん:01/11/20 21:44
面白いですね。私は10万年か9万年前にアフリカを出て、アラビア半島南端から
インドに広がったヴェドイドのグループが南から日本列島まで北上したと
思います。それは5万年前には無理だったのでは?2〜3万年前でしょう。
これが縄文人の基層ではないか。
北回りの移動がそんなに早くあっただろうか?
アイヌと琉球に遺伝的にも文化的にも共通点があり、ヴェドイドの言語とも
共通点があるのはそのせいでしょう。しかしその後も南から相当いろいろ
渡ってきていると思う。
日本列島に人が来た時期はアイヌと琉球人の遺伝子を調べたらわかるように
思いますが。データはないのかな。
330 :
日本@名無史さん:01/11/20 22:44
日本列島に人類が到着したのは、藤村の遺跡を除いた旧石器時代
約3〜4万年前というのが正解なんでしょう。たぶん。
しかし、日本列島が大陸と陸続きだったのは約2万年前(確実)。
その前につながっていたのは約10万年前(やや不確実)と言われています。
ですから、この約3〜4万年前と言うのが中途半端なのです。
この結果から、2つの考え方があり得る。
(1)約10万年位前に大陸から陸づたいに日本列島にやってきた。この場合、
アウトオブアフリカを果たした新人はまだ、アジアまでやってきて
いないので、ジャワ原人や北京原人の子孫と言うことになる。これが、
正しければ、旧石器遺跡は10万年位前までさかのぼれるはずである。
(2)新人が日本列島にやってきたとすると、年代的にはほぼ、現在の世界的
遺跡群(アウトオブアフリカ説)と矛盾しない。しかしながら、ある程度の
航海能力を想定しなければならない。東南アジア(中国かも)では、筏を
使った漁労を行っていた可能性が高く、黒潮で流れついた漂流民であろう。
そして、約2万年前には、サハリン、半島経由で新人が日本列島にやってきたのは、
確実である。
しかし、上記(1)になる可能性はほとんどないでしょうね。
藤村の捏造以来、他の遺跡でもある程度古い地層まで掘っているはずですけど
何も出ていないわけですから。どうなんでしょう。
331 :
日本@名無史さん:01/11/20 23:49
>約2万年前には、サハリン、半島経由で新人が日本列島にやってきたのは、確実
私などは不勉強でモンゴロイドは半島経由で弥生期にやってきたと思っているので
すが、2万年前に来たという証拠はなんでしょう?
遺伝学的証拠もあるのでしょうか?
333 :
日本@名無史さん:01/11/21 00:57
>>331 シベリアでは、4万年位前からバイカル湖あたりを中心に、寒冷型の狩猟民が
生まれ、マンモスやトナカイなどを追っていました。シベリアといっても
現在よりは暖かく、春夏は緑豊かな草原となり多くの動物がいたようです。
そして、約2万年前後に氷河期が進行し、環境相は南下しそれに伴い動物も
人間も南下し、海が後退し陸続きになっていた日本列島にやってきたというわけです。
証拠としては、細石刃(さいせきじん)と呼ばれる石器があり、シベリア様々な
遺跡、そしてアムール川流域、北海道の遺跡などで発見されており、その連続性が
指摘されています。また、朝鮮半島や西日本においても、その時代の石器は
系統性があるようです。
DMA分析でも、縄文人のミトコンドリアDNAの多くが、シベリアのブリヤート人
と一致したそうです。
334 :
日本@名無史さん:01/11/21 00:58
生物学の基礎も知らない考古学者がいるのには、呆れましたな。
335 :
日本@名無史さん:01/11/21 01:12
生物学者は、考古学の木曾も知らんでしょ。なんで呆れるのかわからん。
そんなに考古学者が憎いのか?
謎だ。
>>331 ちなみに、その時代(約2万年前)に日本列島にやってきたのは、
俗にいう新モンゴロイドとは違います。
あえて、名前を付ければ北方系古モンゴロイドというべき存在で
形質的には古コーカソイドに近いと考えられています。
(私はあんまり信用してないが・・・)
337 :
日本@名無史さん:01/11/21 06:38
>んで、アリソン・ブルックスが上高森を正しいと考えたのと
>彼女の業績は別でしょう?なんでもごっちゃにして話をする
>なよ。
えつ??。彼女がどんな業績をあげているか知らないが、
石器を見る目はなかったのは明白だと思います。
それに、精神革命はなかった説にしろ、
上高森の捏造によって強化されていた説ではないのかなあ。
そもそも、ここ10年くらい新しいアフリカ新人遺跡というのは
聞いたことないし、
石器なりなんなりを、彼女が再検討した結果、生まれた説なら
彼女の思いこみが生んだ妄想の可能性が高いと思う。
338 :
日本@名無史さん:01/11/21 06:40
339 :
日本@名無史さん:01/11/21 08:06
普通の生物学者は,考古学には首をつっこまないでしょ。といっても首を突っ込んでる人が以上というわけではないが。
でも考古学の場合,生業活動やらヒトの進化やらを考えるとき,生物学に首を突っ込むでしょ。
その突っ込み方が問題なんじゃない。
突っ込むんだったら基礎くらいは知ってて欲しい訳だ。そうじゃないとお互いが寄り掛かってしまうことになるから。
でも,基本的に生物学者が考古学に首を突っ込む必要性は,あんまりないからね。
ようするに,やるならちゃんと勉強しろよって,そういうことだろ。
340 :
日本@名無史さん:01/11/21 11:02
>>333 >シベリアでは、4万年位前から
>縄文人のミトコンドリアDNAの多くが、シベリアのブリヤート人と一致
このシベリアの新人はインド経由で到達したのでしょうか?
それとも東ヨーロッパ経由?
もし南から来たとすると、日本には同じ系統の新人が北からと南から入って
きたことになり、ミトコンドリアDNAが南方系と北方系の両方に似ていても
不思議でないような気がします。
>340
>このシベリアの新人はインド経由で到達したのでしょうか?
>それとも東ヨーロッパ経由?
まず、この説と根幹となるのは約5万年前くらいに人類に文化革命が、アフリカ
か西アジア(中東)で起きた事が前提です。そして、西アジア、中央アジア
一帯に進出し、それぞれ地域の環境(気候)にあった生活技術、食料調達技術を
手に入れながら、人種的にもある程度の分化(環境隔離)をしていったのです。
海沿いの亜熱帯エリアでは、まず漁労の技術を手に入れたかもしれません。
銛や釣り針、そして筏、丸木船などを発明したことにより、川を渡り、あるいは
海岸沿いに東へ進み、インド、そして、東南アジア、オーストラリアに進出しました。
また、比較的寒い温帯エリアに住んだ人々は、槍の発明や落とし穴、
待ち伏せ、集団狩猟など、大型動物の狩猟技術を手に入れると共に、
衣類の製作や住居などを発明し、寒冷地帯への進出が可能になりました。
そして、西はヨーロッパ方面、東はシベリア、そして東アジア、日本列島、
更にはアメリカ大陸まで到達したのです。
上記の話はいたってシンプルなモデルで、実際の所はもっと複雑でしょう。
高地に対応しシルクロードを超えた人もいるかも知れませんし、
各エリアへの進出も様々な部族(人種)が、
盛衰を繰り返しながら、新天地へ進出していったのでしょう。
てことで、約2万年前に日本列島にやってきた人は、
西アジア、中央アジア温帯エリアに住んでいた人が
ヒマラヤの北側をまわってきた可能性が大です。
しかしながら、最初は東南アジアに進出した人が、
その後、東アジア、シベリアまで北上し、日本列島にやってきた
可能性もあります。
342 :
日本@名無史さん:01/11/21 16:09
>>333 北から2万年前に縄文人の祖先が来た、というのは尾本恵市のグループの仕事では
ないですか?彼らは「東北原人」を信じていた人類学者でそれに影響された可能性
があるのでは?
埴原和郎はアイヌは東南アジア起源で一部はさらに北上してサハリンで東北アジア
グループと混血したと考えています。
日本人起源論でも石器データ、化石データ、遺伝子データ、言語データのすべてが
矛盾なく説明できる理論がほしいですね。
>>342 >北から2万年前に縄文人の祖先が来た、というのは尾本恵市のグループの仕事では
最近の成果は、NHKスペシャルなどもあり目立っているようですが、
以前から様々な方面から、それを示唆する研究はあったようです。
それらを、統合したのが尾本氏の仕事なんでしょうね。
>彼らは「東北原人」を信じていた人類学者でそれに影響された可能性
>があるのでは?
その辺はよく存じませんが、この説はほとんど「東北原人」の影響は
受けようがない説だと思いますが。
>埴原和郎はアイヌは東南アジア起源で一部はさらに北上してサハリンで東北アジア
>グループと混血したと考えています。
最近の著書では、2重構造説に必ずしもこだわっていないようで、
シベリア起源説と合わせた合理的な説を模索しているようです。
>日本人起源論でも石器データ、化石データ、遺伝子データ、言語データのすべてが
>矛盾なく説明できる理論がほしいですね。
その通りです。しかし、どうしても矛盾するデータは、データの
本質や理論を疑わなければいけないのでしょう。
それが、藤村の残した教訓です。
344 :
日本@名無史さん:01/11/21 17:17
>>339 考古学者の坪井清足さんはいいました。
「考古学者に自然科学の勉強をして、自分たちで
自然科学的な研究をしなさいと言うけれども、
そんなことをしたら、考古学者からは自然科学者
と言われ、自然科学者からは考古者と言われるよう
な、”こうもり”のような存在になってしまう」
それに対して、自然科学者の東村武信先生は、言い
ました。
「こんな研究(東村先生はサヌカイトの原産地推定など
の日本における考古科学的研究のパイオニアの一人で
す)をやっている自然科学者が”こうもり”と言われない
と思っているのか」
と言いました。
こうもりさん、出現きぼんぬ。
345 :
日本@名無史さん:01/11/21 18:57
>>344 やはり生物学や地学・物理化学をきちんと勉強して考古学に進むことが必要ではないかな。
今の考古学者に欠けているのは、最新の分析方法の原理を理解しデータを読む知識だと
思う。これは後から一夜漬けでは難しい。
大学の教養的科目でこれを考古学の必修科目にするのがひとつの方策。
しかし「文学部」ではそれは難しいか。
転機にたつ考古学、というわけだ。
346 :
日本@名無史さん:01/11/21 23:05
このスレおもしろいね。
この調子で難波ネタ、藤村ネタなしでやってください。
347 :
日本@名無史さん:01/11/22 01:03
>>322 いやただ単に時間の長さの問題じゃなくて、進化は遺伝子頻度の変化で、
進歩は学習結果の文化的伝達によるものという質的な違いがある。
もちろんそれは、結果的に時間の長さの違いとして現れるのだけれど。
(分かってて書いてたらスマソ)
生物学の基礎を勉強して欲しいと思うのは、こういう発言が気になるから。
考古学で旧石器以前とか人類学とかぶる時代の研究には「進化」を絡めて
考察するのが不可欠だと思う。正しく理解した上で議論を進めて欲しい。
348 :
日本@名無史さん:01/11/22 01:04
まあ、DNAは、嘘をつかないからね。
怖い学問だよ、考古学は。
科学史家は、どこいった
349 :
日本@名無史さん:01/11/22 01:27
>>348 考古学でも「遺物は嘘をつかない。嘘をつくのは人間だ。」という言葉がある。
[DNAは嘘をつかないが、人間は嘘をつく。」
350 :
日本@名無史さん:01/11/22 02:38
>>349 まあそういうことだな。
結局、知識や思考能力が足りないからドキュソ説になんだろ。
間違いを認められないクソプライドとか。
間違いはさっさと認めて謝れ。
それで謙虚に勉強しろ(w
351 :
日本@名無史さん:01/11/22 10:33
しかし、人類学における生物学(進化論)の理解もあやしいぞ。
有名所でも、淘汰、選択がなくても、人間の形質は数代で変化するから・・
なんて、言説が目立つ。(もちろん、考古学では当たり前)
それじゃ、獲得形質の遺伝だろ!!ゴッルッァ〜
>>347 ちょっと待ってくれ。5万年前に「文化革命」があったかどうかという319との
議論で、革命(revolution)と進展・進化(evolution)の概念の違いを述べたのだ。
進展・進歩(progress)と進化(evolution)の生物学的違いの話ではない。
>>351 確かにおっしゃるとおりで、古いタイプの人類学者ほど「獲得形質の遺伝」で
人類の進化や脳の進化を説明している。
遺伝子が変化しない限り脳の大きさは変化しないのだ。食べ物や環境で脚が伸びて
背が高くなるというのとはわけがちがう。
人類学や考古学の記述から「獲得形質の遺伝」を一掃することが、必要だ。
353 :
日本@名無史さん:01/11/22 12:04
>>349 >「遺物は嘘をつかない。嘘をつくのは人間だ。」
藤村事件はまさに「遺物が嘘をついた」事件だろう。
その嘘に考古学者がすっかりだまされた。
再発を防ぐために考古学が科学になることが
必要なのだよ。
>「DNAは嘘をつかないが、人間は嘘をつく。」
DNA分析はますます微量でできるようになるから、日本の
「旧石器人骨」がこれで鑑定されれば、本物かどうかも
わかってくるだろう。
354 :
日本@名無史さん:01/11/22 12:36
>>353 「遺物が嘘をついた」
どういう含意?説明きぼんぬ。
>DNA分析はますます微量でできるようになるから、日本の
>「旧石器人骨」がこれで鑑定されれば、本物かどうかも
>わかってくるだろう。
なるといいですね。フッ素とかも含め、問題のものを一括して
分類できるようになりませんかね。
DNAも含め、一つの方法では不安な点もあるでしょうし。
もういちど人類学などとの協業のあり方を含め関係を構築していく
場を提供する上でも、それを望みたいなあ。
>>354 >「遺物は嘘をつかない。嘘をつくのは人間だ。」
「遺物は嘘をつかない」とは「確定された地層から出土したから間違いない」
ということで、それに依拠した学説は「間違いかも知れないが」という
意味でしょう。
今回の事件では前提が問題で、そこに捏造石器や「誤認」があった。
それは一次資料の信憑性を科学的に検証する方法をもたなかったことに原因が
ある、そういう意味で「遺物が嘘をついた」のです。
自然科学でも測定資料が捏造の場合があり、それを信じて測定すると「DNAが
嘘をつく」ことが起こりえます。ことに最近では、特定の遺伝子配列を
合成することが簡単にできますから、悪意があれば化石人骨を汚染しておく
ことも可能です。そういうことは起こってほしくありませんが。
私がなんとかしましょう。
報告しなけれればいいんじやないの?写真図版満載の外報だけ、市民向けだけ作ればいいらしい。
358 :
日本@名無史さん :01/11/22 22:56
考古学は科学になれると思う(現に科学だと思う)が、日本考古学は今のままでは科学にはなれないだろう。
以上。
359 :
日本@名無史さん:01/11/22 23:06
>>356 「思う」だけじゃしょうがないの。理由を述べなきゃ。
356,357の発言は捏造事件で、考古学がいかに日本の知的社会の信用を失ったか
ということに無自覚だと思うよ。まあ、給料だけもらっていて、自分の本の
売れ行きなどに関係ない立場の人だと思うけど。
300人に1人くらいはトンデモ話を信じるという統計があるから、今後の考古学は
そういう人たちを対象とするしか生きる道がなくなるだろう。
つまりまともな人からは相手にされなくなる。
今のままではね。
360 :
日本@名無史さん:01/11/22 23:48
そう、考古学が売ってきたロマンは豊田商事やオレンジ共済が
売ってきたロマンと一緒なのだ。
361 :
日本@名無史さん:01/11/23 02:17
考古学者は、逃亡したな。
生物学の基礎も知らない者の末路は、哀れだな。
362 :
日本@名無史さん:01/11/23 02:32
>>360 考古学はあんまり金もうけにはつながらんぞなもし。
363 :
日本@名無史さん:01/11/23 07:54
>361
生物学者さん
折角、考古学関連の入ってきているのですから、
批判ばかりではなく、批判も重要ですが、
生物学からみた考古学のあり方、生物学のこう言ったところを
学ぶべきだよ、と指摘して頂けると有り難いです。
考古学の場合には、極めて周辺域との学問との関連が深い面があります。
ある意味では考古学は若い学問ですから(日本考古学はたかだか150年程度)
ですから、回りの学問を充分取り入れ、それを活かすことが出来ておりません。
現在の考古学はご存じの通り、人類学、進化論、心理学、社会学、言語学、民俗学、
地理、地学、古環境、岩石学等とう、関連分野は多岐にわたります。
出来れば、生物学からの視点をお教え願えれば、有り難いです。
2CHでもこのスレッドはもちろん褒貶はありますが、
考古学関連者が有益な情報を求めて、やってきています。
生物学者さん、あなたも研究者なら、そこの辺りを理解していただき、
考古学の一助になる意見をお聞かせ頂ければ有り難いです。
お願いいたします。
364 :
日本@名無史さん:01/11/23 12:51
>>363 私は361ではないが、363の意見に賛成。
生物学ではまず「目的論」を否定します。キリンの首は木の枝を食べるために
長くなったのではなく、長くなったから木の枝を食べられるようになった。
進化とは多くの子孫の中から環境に適合したものが、偶然に生き残っていく
プロセスを言います。また変化(突然変異)はランダムに起こります。
進化論の根底にある、ランダムな変異が環境により選択され、それが次の
世代に伝えられる、という考え方は神とか発展法則を前提として必要と
しないので、心理学(進化心理学)、言語学(進化言語学)、医学(ダーウィン
医学)にも応用されてきています。
考古学にも当然応用できるはずです。
考古学の記述で目立つのは原始人や古代人を現代人と同じ思考や論理の持ち主
だと考えた説明ですが、それは未証明なので、まずそういう説明をやめること
でしょう。
マルサスとダーウィンが考えた「はじめに多数のモノがあり、その中から
安定したモノが生き残っていく」という原理は、原子や素粒子の世界から
パソコンやケータイのような商品まで、広く適応できるメカニズムだと
思います。ぜひ考古学もきちんと学んでほしい。
365 :
日本@名無史さん:01/11/23 13:15
>>364 確かに、ダーウィン的思考方法は大切だと思うのですが、
社会学や歴史学ではダーニズムを、無理矢理、取り込んで
かなりの失敗をしています。
考古学の世界では、縄文土器が遅れていて弥生式土器が進化している
などという偏見が、一時は蔓延していました。
最近では、これは全くの間違いで、
縄文時代も弥生時代も、土器づくりの技術はほとんど変わっておらず
ただの文化的背景の違いや必要性がその形状を生みだしたとわかっています。
366 :
日本@名無史さん:01/11/23 14:09
>>365 >考古学の世界では、縄文土器が遅れていて弥生式土器が進化している
>などという偏見が、一時は蔓延していました。
縄文土器の子孫が弥生土器になったのなら、それは「進化」ですが、
そうじゃないでしょう。ですから明らかに進化論を理解できずに
考古学に適用したわけです。
進化には「優劣」の概念は含まれていません。優劣概念をもちこんだのは
「社会ダーウィニズム」で生物学とは別物。進化と進歩をごっちゃに
したのがマルクス主義。
どちらかといえばマルクス主義の方が、日本の史学・考古学が大きな悪影響を
与えてきた。
367 :
日本@名無史さん:01/11/23 18:29
>>366 >縄文土器の子孫が弥生土器になったのなら、それは「進化」ですが、
>そうじゃないでしょう。ですから明らかに進化論を理解できずに
>考古学に適用したわけです。
縄文土器をつくった人々と弥生土器をつくった人が違うという
意味でしたら、若干の誤解があると思います。
通常、稲作の伝播が縄文と弥生の分かれ目ですが、
必ずしも、人種が入れ替わって、稲作をはじめた訳ではありません。
特に、東日本では文化的伝播による稲作への移行と見た方が良さそうです。
しかし、それでも、土器の形態は変化しているのです。
それは、あくまで土器の使用形態および文化的役割が、
稲作によって変化した結果、それに伴い土器の形が変化しただけであり、
土器製作の技術が進化したわけではありません。
ある意味、土器の形は進化したと言うことは可能かも知れませんが、
それを、技術や社会の価値など、すべてに適用したことに無理があったのです。
※「縄文土器は厚手で焼成温度が低くてもろかった」というのは間違いという意味。
生物学では、進化論の中で、高等や下等などの価値観を排除してきたように
考古学でも、価値観を左右する思考方法を取り除くことが大切だと思います。
>>367 >人種が入れ替わって、稲作をはじめた訳ではありません。
>特に、東日本では文化的伝播による稲作への移行と見た方が良さそう
このことは水稲について本当に証明されているのでしょうか?
私は水稲栽培のような複雑な技術が「文化的伝播」で急速に青森まで
普及したという説に疑問をもっています。
ぜひ根拠をお示し下さい。
>土器の形が変化しただけであり、土器製作の技術が進化したわけではありません
「土器製作技術」とは具体的に何を指しているのでしょうか?
例えば江戸時代と現代では食器用陶器はすっかり形も模様も変わってしまった。
しかし陶器であることは同じだ、そういう意味でしょうか?
もしそうならこれは「食器の進化」だと思いますが。
369 :
日本@名無史さん:01/11/23 21:25
>>368 367氏が言う「人種の入れ替わり」に対する「文化的伝播」が何を指すか必ずしも
明確ではありませんが、弥生時代の比較的早い時期に水田稲作技術と弥生土器文化が
東北地方に伝わっていることは事実です。これをどう解釈するかですが、同時期に
東北で弥生人の特徴を持った人骨はあまり発見されていないと思います。
しかし、水田稲作技術が「技術」だけ伝わったということは、伝播の速度を考えると考えにくく、
「弥生人」(水田稲作技術を体得した人間あるいは人間集団)が「水田稲作技術」をも
たらした可能性が高いのではないかと考えています。
ただ、一種の「弥生人による縄文文化の征服」というようなことを考えておられるなら、
そのような「征服」を裏付けるような「軍事施設」の遺構や示す殺害されたこと
を示すような傷のある人骨は発見されていないことを指摘しておきます。
土器製作技術が縄文も弥生も本質的に同じだというのは、
縄文土器も弥生土器も粘土を練って、焚火のようなもので焼くという点では同じだということです。
表面についている文様が違うだけで本質的な違いはありません。
しかし、古墳時代に入り、大陸から轆轤と登り窯を使って焼く技術が入ります。それ以降のいわゆる
瀬戸物=陶器も轆轤を使って成形し、窯を使って焼くという点で須恵器も備前も伊万里も同じなのです。
この轆轤と窯という技術の有無から縄文と弥生は同じカテゴリーだと言っているのです。
370 :
日本@名無史さん:01/11/23 22:14
>>369 >「弥生人による縄文文化の征服」というようなことを考えておられるなら、
>そのような「征服」を裏付けるような「軍事施設」の遺構や示す殺害されたこと
>を示すような傷のある人骨は発見されていない
「蝦夷」はアイヌ系で縄文人の末裔でしょう?
蝦夷征伐の話は8世紀以後も何度も文献に登場します。
彼らは水稲を栽培していたのですか?東北からの税に「米」があったと
書いてないように思いますが。
そんなに古くから高緯度でイネを栽培していたのなら、寒冷地適応種を開発して
、江戸時代にあれほど悲惨な飢饉に苦しむことはなかったはず、と思うのですが。
弥生土器はろくろと焼き窯がない技術だ、ということはわかりましたが、
「だから弥生土器と縄文土器は同じだ」という論理は理解できません。
なぜこれまで縄文土器を作っていた人が弥生土器をつくりはじめたのでしょうか。
形の変化は土器機能と結びついているからある程度理解できますが、なぜ機能と
関係ない模様まで変えたのですか?
水稲が東北に波及した時期という「定性的」な話と、それが
農業の主体となった「定量的」な話は別だと思うのですよ。
考古学者の話はもっぱら定性的に行われることが多いように思う。
最古の土器、最古の石器、最古のなんとか、というふうに。
日本の歴史を変えたのは水稲の導入で、これが西日本の人口増加を
もたらし他方で中央集権国家を可能にした。
もし東北でも米が大量に作れていたら、縄文以来の東の優位が
続いたはずだ、と思うのですが。
>>370 >「蝦夷」はアイヌ系で縄文人の末裔でしょう?
>蝦夷征伐の話は8世紀以後も何度も文献に登場します。
これは、「大和朝廷による東北侵略」ですね。
時期が1000年もずれてます。
>なぜこれまで縄文土器を作っていた人が弥生土器をつくりはじめたのでしょうか。
>形の変化は土器機能と結びついているからある程度理解できますが、なぜ機能と
>関係ない模様まで変えたのですか?
昨日よりも模様の変化のほうが著しいです。
例えば、水着は機能は変わらないに模様は毎年変化しています。
また、もし「弥生式土器には縄文が無い」と思っておられるのなら、
大きな勘違いです。
東日本では弥生式土器でも縄文があり、
西日本では縄文式土器でも縄文がありません。
>>371 >もし東北でも米が大量に作れていたら、縄文以来の東の優位・・・
これはちょっと納得できませんね。ずっと前にも随分触れられていますが、
今解っている状況というのは、今までに発掘調査されたものから得られた情報
に過ぎません。東の優位云々は思い込みではないですか?もちろん西の優位云々
など主張する気もありませんのでお間違いなきようにお願いします。
>>372 >東日本では弥生式土器でも縄文があり、
>西日本では縄文式土器でも縄文がありません。
これもちょっといかがでしょうか?西でも縄文はいくらでもありますよ。
>>372 だから蝦夷(アイヌ)は米を作っていたのか?と聞いている。
東北を支配していたアイヌが米を作っていないのなら、
たとえ稲作遺跡が弥生時代に見つかっても、それは弥生人が
進出して自分で作ったか、作らせたと考える方が自然だと
思うが。
8世紀以後のアイヌは米を作らないが、弥生時代にはつくって
いたわけか?
>窯を使って焼くという点で須恵器も備前も伊万里も同じなのです。
チャチャ入れるつもり無いが、これは乱暴ですよ。
そもそも系譜が違います。窯も違うし・・・。
376 :
日本@名無史さん:01/11/23 23:41
>>373 縄文時代はサケ・マス、栗と食料の豊富な東日本が人口が多く、文化的にも
優位にあった。稲作の開始で気候・地理条件のよい西日本が食料豊富になり
人口も増え、6世紀頃に勢力が逆転し、以後今日までそれが続いている、
というのは、「常識」ではないのですか?
弥生時代の比較的早い時期に水田稲作が行われたのは、東北北部にその時期の水田跡
が発見されており明らかです。
しかし、その後水田は見られなくなります。その原因として弥生時代後期から古墳時代に
かけて寒冷期を迎えたことが原因と考えられています。
また、この時期は北海道からに本拠をもつ土器文化が南下しています。おそらく弥生時代に
入った水田稲作技術は寒冷化によって壊滅し、北海道の文化の南下を許すようになり、
再び古墳時代に古墳文化が北上するとともに8世紀頃に再び稲作が行われるようになるのだろうと
考えられています。
>なぜこれまで縄文土器を作っていた人が弥生土器をつくりはじめたのでしょうか。
これは難しいですね。土器の文様がなぜ変化するのか、何を意味しているのかについてはよく判りません。
文化人類学の講義の1時間目に必ず教わるのは、「文化」「言語」「人種」は別の
ものであり混同してはいけないということです。
たしかに土器の文様という「文化」に変化があったとしても、それが「人種」の違いを
意味しているのかわからないのです。直接「人種」を示す人骨についてはあまり明確な
弥生的な特徴は見られないことは既に指摘しています。
ただ、それまで狩猟採集をしていた集団が、水田稲作を受け入れるということは大事件
だったろうと思われます。そのため水田稲作を受け入れた東北の縄文社会の特性に受け
入れやすい下地(集団作業と指示系統の存在など)が無かったか検討すべきでしょう。
また、稲作文化の発信元である弥生文化の社会についても同じことが言えます。
>>375 たしかにそのとおりなのですが、ここでは、「縄文土器と弥生土器が同じカテゴリーだ」
ということを示すための説明でしたのでああいった乱暴な言い回しになりました。
ご理解ください。
>>376 西南日本でも栗は大量にあったでしょうし、アクヌキなしで食べられる木の実
も大量にあったようです。サケ・マス・栗などで優位を論じられてもどうでしょうか?
三内丸山などでは栽培といっていい状況だったようですが、西日本では栽培など
しなくても大量の野生の栗があります。栽培する必要性がなかったのかも知れませんね。
わざわざ栽培しなくてはならないということは、東日本の方が野生種が少なかったのかも
知れません。サケ・マス類は、そんなに昔の話ではないのですが、山陰では採れました。
>>369 >同時期に東北で弥生人の特徴を持った人骨はあまり発見されていないと思います。
東北では弥生期の人骨自体がほとんど未発見ですよ。
たしか唯一の発見例がアクバチ洞穴(名前違ってるかも)で、これは渡来系と言われてたね。
一方で、平泉の藤原氏は縄文系と言われていたはず。
>>370 >「蝦夷」はアイヌ系で縄文人の末裔でしょう?
>>374 >だから蝦夷(アイヌ)は米を作っていたのか?と聞いている。
エミシ(東北蝦夷)とアイヌ(北海道蝦夷)はごっちゃにしない方がいい。
エミシ(東北蝦夷)が人種的にどういう集団であったかは、科学的に判断できる根拠(つまり人骨)がないからね。
いろいろ盛り上がっていて面白いです。
しかし、縄文から弥生への移行は、未解決問題がいっぱいですね。
言い出しっぺとして、私見を少しばかり。
まず、土器の問題では、進化史観による誤解が長らく続いた事の指摘です。
(もしかしたら、いまだに教科書とかにそんな記述があるかも知れない。)
それは、縄文時代の土器は、焼成が甘く厚いつくりだったが、
弥生時代になると、固く焼けるようになって薄手のつくりになった。
そして、縄文(模様)がなくなったのも機能性を追求した結果で
時代の進化を物語っている。なんて記述です。
実際の所、どうだったかというと、
縄文時代でも、薄手の土器はあったし、固さもいろいろ、
形としても壺はもちろんあったし、太鼓さえあった。
そして、それぞれの土器は、使用目的において機能的であった。
弥生の時代になると、坪型、軽量の土器が増える傾向があるが
それは、稲作の普及により貯蔵や運搬のための使用が増えたため、
耐久性を軽視したための結果と考えた方がよい。
さて、誤解されがちな模様についてですが、
その変遷は、土器の祭祀的役割、あるいは富の象徴としての
理解が可能です。(証明できるとはいわないが)
まず、縄文早期には無文土器をはじめシンプルなものが多いです。
それが、縄文中期になると火炎土器に代表される
過剰装飾の芸術品が現れ、土器が最も祭祀的役割を演じて
いた時代と考えられます。
しかし、その後は、祭祀的役割は徐々に土偶に譲ったようで
縄文後期晩期に向けて、また、シンプルな形態に戻っていきます。
そして、弥生の変革の時代にはその傾向に拍車がかかります。
(とは言っても、模様が全てなくなったわけではない)
また、縄文晩期には、環状列石の出現もあり、信仰の対象が
自然(稲作を支える四季)に移ったという考えもあります。
381 :
日本@名無史さん:01/11/24 12:28
>>379 >エミシ(東北蝦夷)とアイヌ(北海道蝦夷)はごっちゃにしない方がいい。
>エミシ(東北蝦夷)が人種的にどういう集団であったかは、科学的に判断できる根拠(つまり人骨)がない
こういう訳知りが一番困る。
沖縄人とアイヌは近縁で縄文人の末裔であることが遺伝学的に証明されている。
弥生人の侵入以前には日本には縄文人がいた。
東北には蝦夷が住んでいて弥生人はそれを討伐した。
よって蝦夷は縄文人であり、現在のアイヌの祖先である。
蝦夷が縄文人であることの証明は、藤原三代のミイラの検索でえられている。
382 :
日本@名無史さん:01/11/24 13:03
>>377 >弥生時代の比較的早い時期に水田稲作が行われたのは、東北北部にその時期の水田跡
>が発見されており明らかです。
>しかし、その後水田は見られなくなります。その原因として弥生時代後期から古墳時代に
>かけて寒冷期を迎えたことが原因と考えられています。
>また、この時期は北海道からに本拠をもつ土器文化が南下しています。
弥生時代に東北北部で面として水稲が栽培されたかどうかが問題。定性的な話で学説を
組み立ててはいけない。
文化がそれ自体で移動するわけがない。一旦稲作をはじめたら、寒冷でイネが作れなくなったら
土地を捨て暖かい地方に移動する。その空白地帯に北海道からアイヌがまた戻ってきた。
こういう移動の結果として「文化が移動する」のだよ。
縄文土器と弥生土器の議論だって、縄文時代と弥生時代を時代区分と錯覚しているから
起こった議論で、弥生人の進入に伴い弥生文化が広がったが、同じ時代に東北では縄文人が
縄文文化を維持していて、その一部は弥生文化の影響を受けたということで説明がつくでは
ないか。
5世紀頃西日本には弥生人が住んでいて、東日本には縄文人が住んでいた。だから東と西の
土器が違うのは当然だろう。それをどっちも「弥生式土器」と考えるから混乱が生まれている
だけさ。
要するに今の考古学は人間抜きの「唯文化論」なのだよ。
383 :
日本@名無史さん:01/11/24 13:32
東北北部の稲作について網野善彦はこう書いている。
「こうした水田は、一時的ではあるが(弥生時代前期に)日本海をへて東北北部
にまであらわれており、この文化が海を通じて伝播したことをよく物語っている。」
(「日本社会の歴史」)
つまり弥生人が舟で渡り稲作の先進的コロニーをつくった、と言っている。
こうも書いている。
「列島東部の社会は、全体として弥生文化を受け入れることに強い抵抗をみせた。
それゆえ約200年ほどの弥生前期は、大まかに見ると列島西部の弥生文化に対して
列島東部では依然として縄文文化がつづくことになった」
文化が抵抗するわけがないだろう。要するに縄文人が弥生人に抵抗していたのだ。
考古学者はこの網野の説を批判してみろよ。
384 :
前スレの217:01/11/24 13:51
遺伝子から見た人類進化・日本列島集団の形成についてまともな知識が
無いくせに、出鱈目なことを書き続けている御仁がいますね。書くのは
勝手ですが、読む側はきちんと自分自身で確かめてくださいね。
385 :
日本@名無史さん:01/11/24 14:04
>>384 おもわせぶりしないで、ちゃんと指摘したら。
386 :
日本@名無史さん:01/11/24 15:40
381<蝦夷が縄文人であることの証明は、藤原三代のミイラの検索でえられている>は事実誤認ではないか?
系図的には、蝦夷の血を受けている筈なのに、そのような徴候が無く、がっかりした感じの報道だったと思う。
2チャンネルで出典を求めるのは野暮だが、表の議論では、出典明示希望。
>>381 >東北には蝦夷が住んでいて弥生人はそれを討伐した。
これは、その次に続く文との関連が不明なのですが、それは置くとして、ここで言う
「討伐」とは「征服」という意味でしょうか?でしたらわたしが369で「ただ、一種の
「弥生人による縄文文化の征服」というようなことを考えておられるなら、そのよう
な「征服」を裏付けるような「軍事施設」の遺構や示す殺害されたことを示すような
傷のある人骨は発見されていないことを指摘しておきます。」とすでにお答えしてい
ます。
また、人骨の形質的な変化からは大規模な人口移動は確認されていないことも指摘
しました。どうかもう1度369の発言をご確認ください。
>>382 >文化がそれ自体で移動するわけがない。一旦稲作をはじめたら、寒冷でイネが作
>れなくなったら土地を捨て暖かい地方に移動する。その空白地帯に北海道からア
>イヌがまた戻ってきた。こういう移動の結果として「文化が移動する」のだよ。
これについても、わたしは369で「しかし、水田稲作技術が「技術」だけ伝わったと
いうことは、伝播の速度を考えると考えにくく、「弥生人」(水田稲作技術を体得し
た人間あるいは人間集団)が「水田稲作技術」をもたらした可能性が高いのではない
かと考えています。」としていますので、なぜこのように蒸し返されるのか理解に苦
しみます。
>>383 >文化が抵抗するわけがないだろう。要するに縄文人が弥生人に抵抗していたのだ。
「抵抗」という言葉は、「武力的な征服」と「反抗」というイメージを喚起するき
らいがあり問題があります。(「武力的な征服」に具体的な物証がないということは
すでに指摘しています)
ですから当然「社会」や「文化」が拒否したという言い方になるのです。何の問題も
ないと思いますが?
>考古学者はこの網野の説を批判してみろよ。
こうしてみると、別に考古学者が網野氏の説を批判する必要がないことがお分かり
でしょう。他者の書きこみを理解しようともせず、こうして凄んで見せるのは、
「誰も主張していないことを批判する」とバカにされた”デムパ”に特有の
行動だと思いますがいかがでしょうか。
388 :
日本@名無史さん:01/11/24 17:06
>>369 >「征服」を裏付けるような「軍事施設」の遺構や示す殺害されたことを示すような
>傷のある人骨は発見されていない
歴史時代に入った「前九年・後三年の戦い」でも軍事施設は見つかっていません。
この頃の要害は「柵」と呼ばれているようにごく簡単なものだったのでしょう。
ですから弥生時代の東北の衝突で軍事施設があったと仮定するのが間違いかもしれ
ません。それに人骨は関東ロームのためほとんど見つかっていないので、「傷がない」
とは言えません。
この議論は367の
>縄文土器をつくった人々と弥生土器をつくった人が違うという意味でしたら、若干の誤解があると思います。
>通常、稲作の伝播が縄文と弥生の分かれ目ですが、必ずしも、人種が入れ替わって、稲作をはじめた訳ではありません。
>特に、東日本では文化的伝播による稲作への移行と見た方が良さそうです。しかし、それでも、土器の形態は変化しているのです。
という意見から始まった。
これは383が引用した歴史学者網野の記述とはずいぶん違っている。
網野は少なくとも弥生前期では、縄文文化=縄文人、弥生文化=弥生人と述べている。
だから少なくとも367は網野説を批判しないといけないだろう。
レスを読む限り383が「誰も主張していないことを批判」したわけでないのは明瞭。
まあ367は「かならずしも」というあいまいな定性的表現で「どっちつかず」の
主張をしたのかもしれぬが。それは詭弁に近いわな。
389 :
日本@名無史さん:01/11/24 17:30
>>387 >「征服」を裏付けるような「軍事施設」の遺構(は見つかっていない)
西日本に出現した環濠集落は弥生時代を通じて、当初は利根川まで、
それ以後次第に北上して行く。しかも北部では高地性集落になる。
これらは軍事施設で戦いの前線が次第に北上していったということ
だろう?
これらが弥生人の集落か縄文人の集落かについては意見が分かれると
しても、戦争がなければこんなものはいらないはず。
390 :
日本@名無史さん:01/11/24 18:07
東北の縄文人にも「戦闘」はあったようだ。
縄文中期:寛骨へ石の鏃がのめり込む(岩手・宮野貝塚)
防御骨折(尺骨骨幹部骨折)(岩手・宮野貝塚)
縄文晩期:寛骨へ石の鏃がのめり込む(福島・三貫地貝塚)
防御骨折(尺骨骨幹部骨折)(福島・三貫地貝塚)
但し鉄の刃物でスパッと切断された、西日本に見られるような
弥生時代の人骨は見つかっていないようだ。
もっとも東日本の弥生時代の人骨が何体見つかっているのかわからん
ので、「傷がない」とはいえんけど。
388、389と反論がありましたが、少し整理しておきましょう。
まず、「弥生人による東北の縄文人征服」について。
1)戦闘を伝える傷のある人骨は見つかっていない。
>388「人骨は関東ロームのために見つかっていない」
人骨自体の発見例が少ないので、否定、肯定いずれの根拠
にもならないということでよろしいでしょうか。
2)軍事施設は発見されていない。
>388
>歴史時代に入った「前九年・後三年の戦い」でも軍事施設は見つかっていません。
>この頃の要害は「柵」と呼ばれているようにごく簡単なものだったのでしょう。
>389
>西日本に出現した環濠集落は弥生時代を通じて、当初は利根川まで、
>それ以後次第に北上して行く。しかも北部では高地性集落になる。
>これらは軍事施設で戦いの前線が次第に北上していったということ
>だろう?
388さんは、「それほど大規模な軍事施設はなかったかもしれないから発見されてい
ないだけではないか」という主旨の発言と理解してよろしいでしょうか。
389さんは、「高地性集落」が「軍事施設」そのものだと主張されているとしてよ
ろしいでしょうか。
3)「弥生人による東北の縄文人征服」説
これについては、どのような主張か私にはよくわかりません。
「弥生時代前期に、弥生人が東北地方の縄文人を武力で征服し、縄文人と入れ
替わって(人種的に入れ替わって)水田稲作を行った。」という主張と考えて
良いのでしょうか。
>レスを読む限り383が「誰も主張していないことを批判」したわけでないのは明瞭。
388氏の「考古学者はこの網野の説を批判してみろよ。」が「367はこの網野の説を批
判してみろよ。」ならわたしもあのようなことは言わなかったのですが。
367氏の発言を「考古学者」という大きなくくりにすりかえて挑発するというやり方に
疑問を持たれないのは残念です。
383=388です。
1)人骨はまだ証拠にならない、という意見に賛成です。
しかしこれから刀傷がある人骨が見つかったら「平和的移行」仮説は
不利になります。
2)軍事施設に関しては、389の指摘を読んでから、
「大規模な城塞のようなものはなかったかも知れないし、環濠集落が
それに相当したかもしれない」と訂正します。
3)弥生人が弥生時代全体を通じて、東北地方の縄文人を征服したと思います。
もちろん皆殺しにしたのではなく、彼らに水田稲作をやらせた。
つまり支配者は弥生人で被支配者が縄文人という
集落ができたし、次第に遺伝子の交流も起こったでしょう。それは
縄文人の女が弥生人の子を産む、という関係だったでしょう。
しかし弥生時代の前半はおろか古墳時代に入っても、弥生人に抵抗する
縄文人の集落はあった。それは稲作をせず縄文文化に固執したと考えます。
彼らは蝦夷と呼ばれる人たちで、12世紀頃からは主力は蝦夷地(北海道)に
退却し、残りは弥生系に吸収されました。
縄文と弥生の戦闘力の差はあまりにも大きい。だから平和共存は考えにくい。
だいたいこのように考えています。
>367氏の発言を「考古学者」という大きなくくりにすりかえて挑発するというやり方に
>疑問を持たれないのは残念です。
それは失礼しました。何人が発言しておられるのかわからず、明らかに考古学者と
思われる方から、367氏に反論がなかったので、考古学者はみなあのように考えて
おられるのかと思いました。網野説に大きな反論がないのでしたら、結構だと
思います。
昔、佐原マコチンと話しているときのコメント
中国鏡の話の中で、
「ないものから、あれこれ類推するって、論調がどうしても苦しくなりやすいよ」
これが電波か科学か、非常に悩むけれども。
「馬鹿と天才は紙一重」そんな言葉を思いだした。
あ、独り言なんでね。ふと思ったから、ただそんだけ。
>>391 やよい時代の東日本に環濠集落があったという事実を
指摘しただけで、特に「仮説」はない。
気にしないで383氏との論争を続けてくれ。
>>392 どうもです。私は網野氏自体も存じあげず、392氏の主張も
いまいちわからなかったので、詳細のレスを躊躇しておりました。
しかし、392のカキコのおかげで全体像をつかめたので、反論します。
とは、言っても、「弥生人、縄文人征服説」は、あまり考えたことが
なかったので、392氏の説は新鮮に感じました。
ちなみに、知らぬ間に、考古学者の代表にされてしまいましたが、
私はただのマニアです。どちらかというと批判派のつもりだったんですが・・・。
まず、私の見解ですが、弥生人は比較的おだやかに日本列島に進出し
大きな紛争のないままに融合していったと考えています。
その説明としては、以下のような理由があげられます。
(1)初期の稲作では、湿地帯を利用していた、この土地利用は
縄文人の生活エリアと一致しないので闘争にならず、住み分けが可能だった。
(2)もし、渡来人が縄文人に征服を企てるなら、かなりの人数が必要である。
そして、弥生初期の船は、せいぜい準構造船であり多数の進出は考えにくい。
(3)また(2)の裏付けとして、実は弥生時代以前から大陸から稲は伝来しており
縄文人全体への稲作伝播までは500年位の時間の余裕が想定できる。
(4)弥生初期の戦闘を想定した場合、縄文人の方が弱かったとは考えにくい。
まず、縄文人の方が圧倒的な人数を確保できるのは確かですし、
狩猟を行っていれば、弓矢や槍などの使用技術は優れていたはずで、
例え、鉄器を使っていたとしてもそれほど戦力差はないと思われます。
(5)また、392氏は環壕集落を軍事基地と想定していますが、これは
どうでしょう。これは、あくまで、守備的なつくりで、縄文人を支配した
渡来人の軍事基地とは考えにくいです。稲作をはじめた弥生人同士
の争いから生まれた自己防衛施設と見るべきでしょう。
(6)弥生時代になって、忽然と現れたものに高床式住居群があります。
これは、明らかに渡来人の残したものと思われますがごくわずかです。
そして、弥生の遺跡の大部分は縄文の伝統を引き継いだ竪穴式住居です。
とりあえず、こんな所です。
396 :
通りすがり:01/11/24 20:35
>この頃の要害は「柵」と呼ばれているようにごく簡単なものだったのでしょう。
城柵についての全容は未だ解明されておらず、「柵」なる施設が「ごく簡単」な
ものであったかは、わかっておりません。
また、古代東北には「柵」以外にも「〜城」「〜塞」という名称の城柵も
存在していました。
ちなみに、城柵の起源は少なくとも大まかには大化頃まで遡ることができ、
平安中期頃までは機能していたようです。
397 :
日本@名無史さん:01/11/24 21:01
>>392 >弥生人が弥生時代全体を通じて、東北地方の縄文人を征服したと思います。
>もちろん皆殺しにしたのではなく、彼らに水田稲作をやらせた。
なるほどわかりました。しかし、これでは「人種の入れ替わり」は起きませんね。
>つまり支配者は弥生人で被支配者が縄文人という
>集落ができたし、次第に遺伝子の交流も起こったでしょう。それは
>縄文人の女が弥生人の子を産む、という関係だったでしょう。
>しかし弥生時代の前半はおろか古墳時代に入っても、弥生人に抵抗する
>縄文人の集落はあった。それは稲作をせず縄文文化に固執したと考えます。
>彼らは蝦夷と呼ばれる人たちで、12世紀頃からは主力は蝦夷地(北海道)に
>退却し、残りは弥生系に吸収されました。
>縄文と弥生の戦闘力の差はあまりにも大きい。だから平和共存は考えにくい。
>だいたいこのように考えています。
ここでいう「縄文」を「狩猟採集」、「弥生」を「稲作農耕」に置きかえると大部分は
納得できます。
稲作農耕をする集団が弥生時代の比較的早い時期に東北地方に入り、それまで狩猟採集
をしていた人達に強い影響力を持ち水田稲作を行う。(行わせる)そして二つの集団
の混血が起こる。
狩猟採集を主な生業にする人々は古墳時代から平安時代までも残り、大和朝廷の拡張
政策に抵抗する。が、やがて朝廷の影響下に入ってゆく。
というシナリオは、それほど奇異な説ではないと思います。
399 :
日本@名無史さん:01/11/24 22:08
(メインの流れとはちょっと逸れると思いますがお許しを)
>>395 私はいずれの立場も全面的には支持しませんが、あなたのあげられている
根拠には少々理解しづらいところがあります。よろしければご教示ください。
>(1)
湿地帯周辺、および川沿いへの弥生集落の立地は、タンパク源を水産資源に
依存する縄文文化の人びとにとっては、大きな競合相手といってよいのでは
ないでしょうか。もし、例えばプロセス考古学的な視点で「資源が競合しない」
という研究事例などが存在するなら教えてほしい。
>(2)
人口生態学的にみて、最も人口扶養力の高い生産形態をとる水田稲作民と、
漁撈に依存するとはいえ狩猟採集民の域を出ない縄文社会とでは、
土地あたりの人口密度に大きな違いがあったと推測するのが自然ではないか
と思います。これは同じ船で一どきにやってきたかどうかとは別の問題。
>(3)
生産基盤として考えた場合、イネそのものの伝播よりも、灌漑水田耕作
という技術形態が社会変化の要因としてはより重要と思われる。
縄文農耕論は「陸稲栽培」という主張が主要なものと思われるので一応。
>(4)
上に述べたことに関連しますが、人口は生産形態によって決定されると
私は考えますので、「縄文人の方が圧倒的な人数を確保できるのは確か」
という考え方には同意できません。条件さえ整えば、3、4世代で人口を
大きく増やすことは難しくありません。また、戦闘形態からいえば弓矢や
槍というのは、比較的原始的なものです。人類学者による通文化研究
でも、投擲武器よりも衝撃武器(刀など)が有利であり、より進化した
攻撃形態であることが指摘されています。
私的には、「征服」とか「おだやか」な「融合」がどこで線引きできる
のかわからないというのが正直なところで、392氏のいうように、女性を
とりこんだりしながら氏族(民族)集団の規模を拡大していくという
プロセスを仮に「征服」と呼ぶなら、そちらのほうが蓋然性が高いような
気がします。
>>367 >弥生人は比較的おだやかに日本列島に進出し大きな紛争のないままに融合していったと考えています
これが考古学の定説だとは存じています。しかしそこには「希望的観測」も入っているような
感じがします。
1)人間は必ずよそ者と争いを起こします。北米の場合も、当初は平和的だったが
白人移住者が増えるとインデアンを討伐しはじめた。
2)青森の水田遺跡は弥生人が舟で行って住み着いて耕作したと網野氏は述べています。
こういうコロニーはあちこちに出来たと思われます。
3)湿地に籾をまく程度のものは「水田稲作」とはいいません。畦や灌漑施設をもったものを
水田と考えます。それにはワンセットの技術がいります。真似してできるようなものとは
思われません。
4)私は圧倒的な戦力差のため、多くは戦争にならなかったのでは、と思います。
縄文人は本格的な戦争を知らなかったと思います。たとえば職業的兵士など。
5)もともと環濠集落は防御的なものだと思いますが、内部に兵士も住んでいるのだから
軍事基地でもあるわけです。小さな都市国家のようなものでしょう。
6)弥生人も初めは竪穴住居に住んでいました。(吉野ヶ里遺跡など)
私の説は「水田耕作は広い土地の占有を必要とするので、その文化の普及により
人口が増えれば必ず土地をめぐり戦いが起こる」という考えに基づいています。
縄文人には「土地の占有」という概念がなかったと思います。
もちろんきちんとした縄文遺跡でそこに整った水田が伴っていれば、
私の説はあやしくなるわけですが。
縄文と弥生というのは文化というよりも文明で、人間はそう簡単に別の
文明に乗り換えたりしませんよ。
>>397 弥生文化博物館(編)「弥生時代の集落」(学生社、2001)に、
石川日出志:東日本の環濠集落、という論文が含まれています。
これによると弥生中期に環濠集落は利根川の線まで達した。
それ以北では竪穴住居が数戸集合しその周りを木の柵で囲う
「柵囲い集落」が出現するそうです。
その機能はどちらも防衛でしょう。
>>399 >湿地帯周辺、および川沿いへの弥生集落の立地は、タンパク源を水産資源に
>依存する縄文文化の人びとにとっては、大きな競合相手といってよいのでは
>ないでしょうか。
縄文文化で重要な水産資源はご存じのように海産品です。
沼地でもフナなどは捕らえられるでしょうが、副次的なものだと思います。
そして、湿原は葦などが生え放題で、縄文人にとってあまり利用価値が
あったと思えません。
>「縄文人の方が圧倒的な人数を確保できるのは確か」
>という考え方には同意できません。条件さえ整えば、3、4世代で人口を
>大きく増やすことは難しくありません。
その論では、渡来人は100年計画で、縄文人の征服をもくろんだ事に
なってしまいます。それに、渡来人の人口が増えるまでは平和に
共存していたことになります。
>投擲武器よりも衝撃武器(刀など)が有利であり、より進化した
>攻撃形態であることが指摘されています。
そうなんですか・・。
でも、初期の渡来人も刀を持っていたとは思えませんが。
>>383 398氏も指摘しておりましたが、367氏の征服の定義がだんだん
弱くなってしまったので、合意できる事が多いのですが、
気になるところだけ。
>青森の水田遺跡は弥生人が舟で行って住み着いて耕作したと
>網野氏は述べています。
私は、渡来民の移住は否定しておりません
>湿地に籾をまく程度のものは「水田稲作」とはいいません。
湿地といってもそんなに簡単にいきません。葦などの草を引き
抜いて、畦道を作り、灌漑施設も作ったでしょう
>真似してできるようなものとは 思われません。
縄文人が稲作をはじめた原因は、渡来人との交流の結果と考えます。
>私の説は「水田耕作は広い土地の占有を必要とするので、その文化の普及により
>人口が増えれば必ず土地をめぐり戦いが起こる」という考えに基づいています。
私も別に、弥生時代に戦いがなかったとは言っていません。
しかしそれは弥生人(農耕民)同士のものであって、
縄文人対渡来民という構図ではありません。
>縄文と弥生というのは文化というよりも文明で、人間はそう簡単に別の
>文明に乗り換えたりしませんよ。
誰の指摘かは忘れましたが、弥生中期位に西日本に急激に
弥生式遺跡が 増えているそうです。これは、多くの縄文部族
が稲作に移行した時代だと考える事ができます。
(もちろん、大量に渡来民がきたという想定も可能ですが、
余りにも多すぎると言うことらしいです)
403 :
日本@名無史さん:01/11/25 04:04
>>401 早速のレスありがとうございました。
>縄文文化で重要な水産資源はご存じのように海産品です。
たしかに縄文文化期の人びとの人口を養っていた主要なタンパク源は海産資源
なのでしょうね。(1)についてはわたしも確かな知識を持たないので、お尋ねして
みた次第です。
しかしそれにしても、縄文文化の人びとの集落は(西日本に限っても)いったいどこに
立地していたのでしょう。全て海岸にあったとも思われません。
西日本の弥生期の集落動態などをみると、低地から丘陵地へ、さらに再び低地へという
流れがあるということですが、401氏のお考えでは、中期に丘陵地に出現した集落群は
「縄文人の文化変容」ということになるのでしょうね。私には今のとこ、判断材料が
ありません。
しかし、土器の様式まですっかり「弥生」になっているのですよね。「平和共存」
しつつ混血した結果、すべて弥生のライフスタイルになってしまったのでしょうか。なぜ?
>その論では、渡来人は100年計画で、縄文人の征服をもくろんだ事に
> なってしまいます。それに、渡来人の人口が増えるまでは平和に
>共存していたことになります。
こういう考え方は、どうも受け入れがたいです。前のレスにもでてきた「目的論」
というやつでしょうか?
人口や生産力である一方の文化が圧倒的に優勢であったとしても、別にそれらが最初から
征服目的でやってきたと想定する必要はありません。
第一、弥生前期の時点で、半島からやってきた人びとが、統一的な政治組織を持っていたと
考える根拠はそれこそほとんどないでしょう。
しかし、灌漑水田農耕のような土地生産性の高い生業形態を持つ人びとがフロンティアに
やってきた場合、短期間に爆発的な人口増加を喚起しうるという根拠は存在します。
>(もちろん、大量に渡来民がきたという想定も可能ですが、
>余りにも多すぎると言うことらしいです)
どのような仮定のもとに推論したのでしょうね。
>でも、初期の渡来人も刀を持っていたとは思えませんが。
私は考古学者ではないので詳しくないのですが、少なくとも中期くらいまでには
金属の刀も結構でてきているのではなかったでしたっけ?
(考古学の人は、「儀礼的なもの」とみなしたがるようですが)
まあそれはどうでもよいのですが、弥生文化くらいの社会のレベルだと、生業の道具
などから独立の武器が発達すると考える必要もありません。それより重要なのは、
それぞれの政治組織の持つ人口構成、すなわち最も重要な戦力の違いです。
前にも少々書きましたが、「完全な征服」か「平和共存から混血へ」かという二者択一の考え方は
やや観念論的な気がして、私にはあまりピンときません。
考古学関係の知り合いの話を聞いていても、よく理解できないところです。
(日本考古学者に限らないと思うのですが、考古学畑の人が戦争を極力否定する傾向
というのは、何に由来しているのでしょうか?)
400氏のいうとおり、生業文化や人口の異なる集団が隣接するとき、侵略や紛争というのは
ごく普通に起こりうることです。また同時に、個人やサブ集団のレベルで平和的な交流
というのも「共存」し得ます。しかし長期的にみると、生殖の頻度でも人口の多い集団が
他を圧倒していくのが普通です。
このような傾向性において同様の認識をお持ちなら、別にこれ以上申すことはありません。
ながながとすいません。寝ます。
404 :
アル・カポネ:01/11/25 04:26
折角の議論、裏の賭場ではもったいない。そろそろ、裏の賭場から表のカジノに座を替えたらどうか?カジノ・ド・舟はMT兄い一人が支えているし、南河内のカジノは素人衆ばかりで腕の振るいようがないとOディーラーが嘆いている。
腕の立つ親分衆のご到来をお待ちだ。座を移すのに忠治ゆかりの親分も異議は無かろう。ただ、劇画の天才児がカジノでは腕が振るえなくなる恐れがあるが。
(1)初期の稲作では、湿地帯を利用していた、この土地利用は
縄文人の生活エリアと一致しないので闘争にならず、住み分けが可能だった。
近年の低湿地の発掘調査で、縄文人が湿地をさまざまな形で利用していたことが
わかっています。利用目的は、トチなどの堅果類のアク抜き加工や魚類の捕獲です。
(栃木県寺野西、東村山市下宅部、新潟県三面、北海道紅葉山など)
(3)この話題の発端となった「東日本」あるいは「東北」には当てはまらないように思います。
ただし、東日本では縄文後期以降、環状列石や周提墓など大規模な土木工事を
伴う遺構がつくられますし、先にあげた低湿地の遺構もかなりの作業量を必要とします。
そのため、複数の集落を束ねる指導者の存在と共同作業の習熟が想定できます。つまり、
これらは水田稲作をおこなう場合の基盤になるものでしょう。つまり、陸稲がなくとも
集団でなにかの作業をするトレーニングは晩期末には十分できていたと考えてよいように
思います。
少し突っ込んで言えば、指導層が代わるかあるいは指導層に影響力をもつことができれば、
水田稲作はできるのではないのだろうかという気もします。その際に若干の武力衝突が
あったかもしれませんが、証拠がないというのが以前からのわたしの主張です。
406 :
日本@名無史さん:01/11/25 09:29
>>403 >日本考古学者に限らないと思うのですが、考古学畑の人が戦争を極力否定する傾向
というのは、何に由来しているのでしょうか?
日本においては、戦後のいわゆる平和主義の影響でしょう。
戦前は「蝦夷征伐」とかコロポックルとか先住民を和人が駆逐して「文明」を開いた
という論が盛んでしたからそうした考えに対する反発もあります。
このスレの議論もそうした「弥生>縄文」あるいは「弥生=文明」「縄文=野蛮」という
図式がないとは言えないんじゃないでしょうか。
(弥生は進んだ文明人だから少数で多数の野蛮な縄文人を支配できるはずだ)
その前の話題では、進化と進歩について議論がありましたが、そうした観点からすると
「弥生征服説」はどう評価されるのでしょう。
407 :
日本@名無史さん:01/11/25 09:51
>404
アル・カポネさん
ここでの議論は権威もなにも関係無しで、純粋に議論だけで
進めていけることで、2CHは極めて有効だと思います。
表の掲示板ではハンドルネームと言え、どの方かの発言であるか
ある程度の特定が出来るようです。
その意味では、捏造問題では権威に対して間違っていようとも、
発言できなかったのが、2CHは権威もバックボーンも無しで議論できます。
それに、少々見当外れの意見を勇気を開陳しても、罵声は出ますが、
それなりに軌道修正をしながら意見が交わされているようです。
表の掲示板ではそうはいかないようですので、
2CHに多くの活発な意見が、気軽に述べれる面がありそうですね。
その意味で、このまま続行してもらいたいですね。
楽しみにしています。
一晩でずいぶん議論が進みましたね。
>>367 >弥生時代に戦いがなかったとは言っていません。
>しかしそれは弥生人(農耕民)同士のものであって、
>縄文人対渡来民という構図ではありません。
わたしはここが一番の問題だと思います。西日本では弥生人同志の激しい
戦いの跡が認められる。彼らは高度に武装していた。
しかし東日本では同じような戦いの跡が認められない。
そこから367は平和共存による水稲耕作の波及を考える。
私は逆に戦いにならないほどの戦力の差を考える。
例えばヨーロッパ人による西アフリカの征服(奴隷狩り)の
ようなものです。戦いの跡などどこにも残らない。戦いの
跡が残るのは、戦力が均衡していて、ある程度持久戦になる場合
だけです。
征服という言葉が悪ければ「支配」と言っても構いませんが、
私が言いたいのは縄文人は自発的に稲作を導入したのではなく、
何度も抵抗しながら、それを受け入れざるをえなかった、と
いうことです。
どうも、ある種の方々は「征服」とか「支配」という言葉がお好きですね。
どうしても弥生文化の伝播には「征服戦争」が必要だと考えたいようです。
わたしは、この種の方々には、抜き難い「文明の優越感」のにおいを感じます。
>私が言いたいのは縄文人は自発的に稲作を導入したのではなく、
>何度も抵抗しながら、それを受け入れざるをえなかった、と
>いうことです。
「縄文は野蛮で頑迷だから、弥生文化を理解できず”抵抗”したに違いない」
「弥生は野蛮な縄文人を征伐して”文明”を広めたに違いない」
そこにあるのは「優れた弥生人」と「野蛮で頑迷な哀れな縄文人」というイメージ
です。
無いものを想定して論を組み立てることはいくらでもできます。
発見されていない戦いの後を想定し、発見されていない戦闘で傷を受けた
人骨の存在を想定し、「文明の力の下にひれ伏す哀れな縄文人」を想定する。
とても簡単なことです。
たとえばこのようなシナリオはどうでしょう。
約二千年前の東北地方に弥生人の集団(数十人程度)がやってきて、その地域をたばねる
部族の長というべき人物と交渉する。
「自分達は水田で稲というものを作る技術を持っている。とてもおいしいものだ。もっと
南ではみな食べている。ここでも作らせてもらえないか。その見返りに南から手に入れた
鉄製品を提供しよう。」
部族長は承諾し、自分の部族に彼らの稲作を手伝うように命じる。やがて、各地に水田が
作られるようになり、弥生人との混交も進む。
しかし、寒冷化により水田は全滅し、あるものは南下し、あるものは再び狩猟採集の生活に
戻る。
ここには「弥生=文明」の押し付けも縄文人の「抵抗」も必要ありません。このシナリオを
受入れ難いと感じるならそれは、「征服」というスパイスが入っていないことで「物足りなさ」
を感じているのだろうと思います。
しかし、スパイスなしでも食事はできるのではないでしょうか?
>>406 >日本においては、戦後のいわゆる平和主義の影響でしょう。
それはあるのかもしれませんね。406氏は、その結果生じる
バイアスに疑問を持たないのでしょうか?
人類学にも植民地主義の裏返しとしての未開社会の理想化傾向などが
存在しますが、過剰な戦争論者への反発として過剰な平和状況を
想定するなら、それは同じ穴の狢です。
より客観的な理解にとってはいずれも有害無益です。
409の「シナリオ」、なんだかまんが日本の歴史みたいな感じですね。
別に弥生文化の浸透過程のどこかでそのような交渉があったとしても構いま
せん。しかしあなたの考えている「シナリオ」が、まさにあなたの
おっしゃるところの「弥生=文明」図式であることには気付かれ
たほうがよいでしょう。
前の書き方がわかりにくかったようなので繰り返しますが、
政治的に統一されたわけではないいくつもの集団の接触過程
なのですから、交流もあり戦いもあったと考えるのが自然では
なかろうかということです。
(近代国家どうしによる戦争ですら、略奪などの逸脱行為は存在する。)
その上で、社会の人口編成に大きな違いがあるのだから、全体として
みれば縄文文化の人びとが飲み込まれてしまったとみるのが
蓋然性が高いだろうということ。
(これを「征服」と呼ぼうが呼ぶまいが、私にはどうでもよい。
アメリカに移住したスペイン人は、征服なのか同化なのか・・?
ひょっとしたら先住民が、「勝手に病気で減っていっただけ」かも
しれない(!!))
歴史的にみて、過去に人類学者が提唱した「農耕民・狩猟採集民
共生モデル」なども一部の考古学者に影響を与えているそうですが、
これらが戦争や暴力的な接触を否定するために専ら使われると
すれば、それは逆立ちした理屈でしょう。
人類学、霊長類行動学、また世界史の事例からみれば、一部の考古学者の好む
「平和共存モデル」はやや不自然なところが多いように思われます。
>人類学、霊長類行動学、また世界史の事例からみれば、一部の考古学者の好む
>「平和共存モデル」はやや不自然なところが多いように思われます。
なんか最近のレスは、どっちの側も、「科学」とはほど遠いような
気がする。
不自然なものを排除すりゃ、歴史なんて成り立たないし、証拠からは決定不能な
ことをあーだこーだと言い合っても、それは「科学」じゃなかろう。
学者のバイアスなんて、常に、どの側でもあるのであって、バイアスのゆえに
対立する側だけを否定しても、「科学」じゃない。
しょーじき、居酒屋の親父の話のレベルと大差ないところに来ているよーに思える。
門外漢のかんそーだが。
406=409のいうような「平和共存」モデルが戦後の考古学会の
主流であることは認めます。私のような「征服モデル」は異端でしょう。
どちらがより真実に近いかは、それが考古学データだけでなく、人類学・
遺伝学データ、歴史資料などをどれだけ矛盾なく説明できるか、という
ことで決めなければいけない。
これまでの議論はあまりに遺跡データに偏っていると思います。
「日本書紀」、「古事記」、「風土記」に東の蝦夷、南九州の熊襲を
討伐したという記事が何度も出てきます。それと土グモ族も。
これらは古墳時代のことだと思いますが、縄文人のことを言っている
と思います。この戦いはこの時代にこつ然と始まったものではなく、
弥生時代から続いていて、平安時代まで蝦夷との戦いはあったと
考えます。
それと遺伝学的データとしては、A型血液遺伝子は出現頻度が
北九州と出雲地方にもっとも高く、青森が最低になるという
見事な「濃度勾配」があり、この遺伝子が南から北に拡散した
証拠となっています。
さらにHTLV-1という母親から子供に伝達されるウイルスは、
南九州・沖縄と東北の一部・北海道アイヌに見いだされ、
彼らが比較的純粋な縄文人の子孫だということを示して
います。(保因者は100万人くらいでごく少数)
これらのデータは二つの文化圏が共存した場合には
起こりにくく、弥生人の遺伝子が積極的に東・北や
南に拡散した考える方が合理的です。
歴史料と生物学データからも「征服モデル」のほうが、
多くを説明できるのではないでしょうか。
>>410 >前の書き方がわかりにくかったようなので繰り返しますが、
>政治的に統一されたわけではないいくつもの集団の接触過程
>なのですから、交流もあり戦いもあったと考えるのが自然では
>なかろうかということです。
(近代国家どうしによる戦争ですら、略奪などの逸脱行為は存在する。)
>その上で、社会の人口編成に大きな違いがあるのだから、全体として
>みれば縄文文化の人びとが飲み込まれてしまったとみるのが
>蓋然性が高いだろうということ。
たいへん結構なお説だと思います。古墳時代までみれば「全体として狩猟採集を生業としていた
人達は稲作文化を生業とする人達に文化的に呑みこまれた」と言えるでしょう。
ただし、これまで述べてきたように「弥生時代に」「東北地方で」起こったことを、
現在までの考古資料からそのように解釈するのは難しいでしょう。
わたしは弥生文化が東北地方に伝播する過程での武力衝突については否定しません。
小規模のものはあったかもしれないと思います。
また、在地の統治層を傀儡としてコントロールするようなこともあったのかもしれない。
しかし、それを証明する考古学的根拠はありません。繰り返しますが、「想定すること」は
いくらでもできるのです。
問題は、弥生時代の東北地方では、武力による征服や全く違う文化による支配によっ
て引き起こされるであろう社会的混乱を示す遺構も遺物も発見されていない、という
ことです。
個々の事例では暴力的な接触もあったかもしれない。しかし、社会現象として認めらるほど、
多かったと考えられるほど証拠がない。それが現実です。それを越えて解釈しろというのは
考古学の仕事ではないように思いますが。
わたしのシナリオを「まんが日本の歴史」のようだと評価されましたが、まったく
そのとおりです。わたしのシナリオからはあなたのような「オトナ」が好む血や涙や抗争
というスパイスは除いてあります。
それを物足りないと感じたということは、まさにあなたが「スパイス中毒」になっている
ということではありますまいか。
>>412 あとでレスをすることになると思いますが、その「征服モデル」なるものを
改めてわたしの発言と比べて見ていただきたいと思います。
>これらのデータは二つの文化圏が共存した場合には
私が、主張していたのは弥生初期の共存です。
>起こりにくく、弥生人の遺伝子が積極的に東・北や
>南に拡散した考える方が合理的です。
誰も、それを否定している人はいません。(このスレでは)
対立遺伝子頻度の研究は、現在の遺伝子分布しか示す事ができず、
過去の人類分布は、考古学や歴史学の成果を基にした類推になります。
という前提で質問です。
>さらにHTLV-1という母親から子供に伝達されるウイルスは、
>南九州・沖縄と東北の一部・北海道アイヌに見いだされ、
>彼らが比較的純粋な縄文人の子孫だということを示して
>います。(保因者は100万人くらいでごく少数)
それが、正しいとすると、その他のエリアでは、
縄文人の母親由来の子孫は絶滅したことになってしまいます。
そんな説は聞いたことがありませんが、いかがでしょう。
どうも「征服モデル信者」は時間と空間をごっちゃにされる傾向が強いようですので
わたしなりにモデルを整理させてもらいます。
話しが複雑になりますので地域は東北地方に限定します。
1)弥生時代
弥生文化を持った集団が、東北各地に「入植」する。ただし、「入植」は縄文以来
の集団の構成を大きく変化させるような影響は与えなかった。指導層も大きく入れ
替わるということも少なかった。同時に弥生人と在来民の混血は進んだ。
やがて、寒冷期となり水田稲作をあきらめた人々は、狩猟採集に生業のウエイトを
置くようになった。
なお、入植は、統一された政治勢力の(つまりクニの)政策としておこなわれた
ものではなく、個々の事情によるものであった。
2)古墳時代
寒冷期が続き、水田稲作は難しい状況にあったが、水田稲作を基盤とする集団は
徐々に北上を始めた。これは古墳の分布によって跡付けられる。
やがて古墳時代末期には東北北部まで影響下にいれる。(終末期古墳の存在)
当然、遺伝子の流入も起こる。
3)平安時代
大和朝廷による勢力の再編成方針により武力制圧が始まる。(東北の環濠をもつ
防御性集落)やがて本州全土が大和朝廷の支配化に入る。
ここでわたしが問題にしてきたのは、1)の部分ですから、遺伝子の拡散を根拠にした
「征服モデル」にも矛盾しないと思いますがいかがでしょうか。また、410さんの言われるように
「全体として弥生が縄文を呑みこんだ」ということにもなります。(”全体として”というのは
便利な言葉ですね)
このように時間と空間をきちんと整理してみれば、わたしと「信者」の方の主張の間に
それほど相違があるとは思えません。
弥生時代に見つかっていない軍事施設や戦いで傷ついた人骨を想定しなくともよくなります。
あとはお好みに合わせて「血と涙」を振りかければよろしいのではないでしょうか。
>>412 ひとつだけ不思議に思ったので質問させてください。
>「日本書紀」、「古事記」、「風土記」に東の蝦夷、南九州の熊襲を
>討伐したという記事が何度も出てきます。それと土グモ族も。
>これらは古墳時代のことだと思いますが、縄文人のことを言っている
>と思います。この戦いはこの時代にこつ然と始まったものではなく、
>弥生時代から続いていて、平安時代まで蝦夷との戦いはあったと
>考えます。
こうお考えになる根拠はなんでしょうか。「自分はこう思う」という以外に
これは弥生時代の記憶であると言える根拠をお持ちでしたらお教えください。
>>406 >こうお考えになる根拠はなんでしょうか。「自分はこう思う」という以外に
>これは弥生時代の記憶であると言える根拠をお持ちでしたらお教えください。
例えば「常陸の国風土記」に茨木郡の説明がありますが、「古老の話」として
以下のようなことが書いてある。
「国巣山(国巣というのはクズという原住民に対する蔑称。土地の人はツチグモという)のふもとに
山の佐伯、野の佐伯という原住民が住んでいた。穴蔵に住んでいて、追われると穴蔵に
身を隠す。そこで黒坂命(朝廷の臣)があらかじめ茨(逆茂木)を穴に仕込んで、佐伯
どもを騎兵で攻めた。佐伯どもは穴蔵に飛び込んだが、茨に突き刺さって死んでしまった。
それでここを茨木という」
佐伯氏が蝦夷であることは他の資料からはっきりしています。(サエギ部というのは言葉が
アイヌ語でさっぱりわからないからそうなったと言われている)
ここでは蝦夷が土グモで、穴居または竪穴住居に住んでいた先住民族で、茨木の野や山に
「古老が生きていた時代」に生きていたことが記されています。
風土記の編纂が命じられたのが713年ですから、7世紀には茨木にはアイヌの祖先が住んでいたと
思われます。
また「この国の水田は上級は少なく、中級が多い。長雨が続くとたちまち稲穂が成熟しない」
ともあり、常陸の国が稲作に向いていないとも書いてあります。ですからこれより北はもっと
向いていなかったでしょう。
以上のデータから、弥生人の後裔である大和朝廷人により、茨木の原住民が7世紀に「クズ」、
「土グモ」と蔑称されていた蝦夷または「佐伯」であることがわかります。
彼は7世紀にこつ然と出現したはずがありませんから、少なくとも弥生時代からここに住んでいた
と思われます。弥生時代には弥生人の東限は利根川でしたから、「常陸の国」は蝦=縄文人に
とって安全でした。それ以後稲作が北進するにつれ、彼らは討伐されたことが、地名縁起から
わかります。
同じく「行方郡」のところには、クズが反抗して穴を掘り堡を作って抵抗した。
そこで一計を案じて浜辺で舟を連ね歌舞音曲を催したら、珍しがって全員が
ぞろぞろ出てきたので、その間に伏兵が堡の入り口を閉ざし、背後を絶って
全種族を虜にした。それで全員を殺した。
その殺し方で「痛く殺した」、「臨に斬る」、「安く斬る」、「吉く裂く」
所がそれぞれ地名になった。
そういう話が書いてあります。
相当残酷な話ですが、古代ではそれが普通だった(洋の東西を問わず)。
皆殺しして後どうしたかというと、墾田をやったと書いてあります。
ですから弥生時代にもそういう話はいくつもあると考えるべきでしょう。
>>406 >1)弥生時代
> 弥生文化を持った集団が、東北各地に「入植」する。ただし、「入植」は縄文以来
の集団の構成を大きく変化させるような影響は与えなかった。指導層も大きく入れ
替わるということも少なかった。同時に弥生人と在来民の混血は進んだ。
やがて、寒冷期となり水田稲作をあきらめた人々は、狩猟採集に生業のウエイトを置くようになった。
なお、入植は、統一された政治勢力の(つまりクニの)政策としておこなわれた
ものではなく、個々の事情によるものであった。
>2)古墳時代
寒冷期が続き、水田稲作は難しい状況にあったが、水田稲作を基盤とする集団は
徐々に北上を始めた。これは古墳の分布によって跡付けられる。
やがて古墳時代末期には東北北部まで影響下にいれる。(終末期古墳の存在)
当然、遺伝子の流入も起こる。
3)平安時代
大和朝廷による勢力の再編成方針により武力制圧が始まる。(東北の環濠をもつ
防御性集落)やがて本州全土が大和朝廷の支配化に入る。
大筋としては賛成ですが、弥生人は縄文人が素直に立ち退けば武力に訴えることは
しなかった。しかし古墳時代末期からは縄文人も武器が進歩し、本格的に抵抗する
ようになった。それが蝦夷討伐が平安時代まで繰り返された理由と考えます。
対立はしていても、そこには交易も混血もあったと思います。
要するに世界のあらゆる時代に見られたと同じ現象が起こったはずで、日本だけが
例外で平和的に縄文人と弥生人が文化交流した、というような話が信じられないのです。
「征服モデル」は「平和共存モデル」に対するアンチテーゼとして出しているので、
ジンギスカンの征服みたいな「流血とどくろの山」を主張しているのではありません。
その意味で406氏とあまり食い違いはないのかもしれないです。
419 :
日本@名無史さん:01/11/26 00:57
平安の所謂「征夷」と縄文→弥生への移行はまるで別な次元のものだ。
縄文から弥生への文化移行は古墳時代の古墳や土師器製法、金属器等の波及と同一と考えた方がいい。
古墳時代、各地の首長は大和朝廷とある種の契約的な従属関係を結ぶことで大和朝廷から技術や金属器などの威信財を得た。
大和朝廷が律令制を導入し、中央集権国家を目指すと、地方の首長たちは危険な存在となった。「毛」や「越」などの巨大首
長権は分割され、地方の首長は郡司や地方官人として生き残るしかなかった。東国の「蝦夷」は今まで極形式的な服属関係だ
けにとどまっていたのが絶対的服属を求められ、その軍事的軋轢が「征夷」なのであって、極めて政治的事件なのだ。
その証拠に律令期の「蝦夷」の領域である岩手にも古墳文化が波及している。
弥生時代での東北への稲作の伝播は組織的ではない。
というのには皆さん、賛成なのでしょうか?
以下、賛成の前提で意見を述べていきます。
稲作技術を持った集団(仮に弥生人とする)が東北地方に移住したとして、
稲作に不適な土地で敢えて先住の集団(仮に縄文人とする)を征服する理由はあるのでしょうか?
以下に纏めて見ます。
1.土地の簒奪
既出の話題ですが、狩猟採集を主とする縄文人と農耕を主とする弥生人では
必要とする土地資源が異なります。
大規模な開拓工事を行うならともかくとして、
小集団が移住してきた程度で土地を巡る争いが起きるとは考えにくいです。
2.奴隷の確保
これに関しては否定する材料が手元にないので確証は無いですが、
果たして東北地方で奴隷を抱えられるほど稲作の生産量は高かったのでしょうか。
独善的な考えですが、当時の東北地方では労働者1人の生産量が
食料1人分以上であるとは思えません。
他に征服の理由がある、または私の意見に間違いがある
というので無ければ征服というのは無謀な意見であると考えます。
本題からずれるが、416、417についての雑感。
表面に表れることはないが、利根川以東に位置する茨城に対する差別感は、古くからの東京人には存在する。
室町時代に書かれた「人国記」(岩波文庫)にも常陸の国は引用が憚られる程の表現で酷評されている。
そのような底流には416、417引用のような異民族居住地としての蔑視感があったのかもしれない。
行方郡の佐伯については、「白鳥伝説」(著者名:失念)にも取り上げられ、東北の蝦夷との関係が述べられているが、かなり後期まで、蝦夷の根拠地であった模様。
鹿島、香取の両神社は、行方郡の西方に接し、異民族征討(侵略)の前線基地として、適切な位置に存在する。
422 :
日本@名無史さん:01/11/26 05:33
>>420 いわゆる弥生時代に東北まで縄文人が(大規模に)征服されたなんていう
書き込みはないんでないの?
「征服モデル」と言っている人は、もっと全般的な意味で平和共存を
強調する見解に対する批判だろ。西日本で縄文人が利用する生態ゾーンを
相当脅かされたと考えるのは妥当だと思うが。
前にも誰かが書いていたかしらんが、弥生時代の半島系の人間たちが
ひろく東北で稲作できる技術を持っていたとは考えられん。
だから遺跡がちらほらでてるというのは、逆に不思議だ。半島や西日本
に大きなプッシュ要因があったのか、稲作は従で海洋資源に依存する連中
だったのか。いずれにせよそんなに東北で人口を増やしたことはないだろう。
西日本は全然別。
ちなみに、資源が異なるから争いがないという考え方はあやしいと思うけどね。
縄文人だって木の実ばっか食べてたわけではない。
狩猟採集民は人口密度低いから余裕があると思っている人もいるのかも
しれんが、ぎゃくに狩猟採集生活を維持するには広い土地が必要だから
人口が少ないのだ。
>>412 >これらは古墳時代のことだと思いますが、縄文人のことを言っている
>と思います。この戦いはこの時代にこつ然と始まったものではなく、
>弥生時代から続いていて、平安時代まで蝦夷との戦いはあったと
>考えます
改めて確認しますが、風土記が書かれたのは7世紀ですね。7世紀に起こったことを
書いているわけですね。
>>416 >以上のデータから、弥生人の後裔である大和朝廷人により、茨木の原住民が7世紀に「クズ」、
>「土グモ」と蔑称されていた蝦夷または「佐伯」であることがわかります。
>彼は7世紀にこつ然と出現したはずがありませんから、少なくとも弥生時代からここに住んでいた
>と思われます。弥生時代には弥生人の東限は利根川でしたから、「常陸の国」は蝦=縄文人に
>とって安全でした。それ以後稲作が北進するにつれ、彼らは討伐されたことが、地名縁起から
>わかります。
7世紀に「クズ」と呼ばれた原住民が茨木に住んでいたことはいいとして、その討伐は
7世紀に行われたわけで、弥生時代ではありませんよね。そのことは、
>弥生時代には弥生人の東限は利根川でしたから、「常陸の国」は蝦=縄文人に
>とって安全でした。それ以後稲作が北進するにつれ、彼らは討伐されたことが、地名縁起から
>わかります。
ということであなたも認めてらっしゃいますよね。弥生時代に縄文人にとって安全な地で
どうして弥生人による縄文人討伐が起こるのでしょうか。不思議ですね。
これはつまり、常陸の国での蝦夷(非弥生人)討伐は、7世紀以降に起こったのであって、
それは考古学的な事実によっても裏付けられるということなのではないでしょうか。
何度も言いますが「ないもの」を根拠にして説を組み立てるのは簡単です。「7世紀にあったことは
5世紀にも3世紀にもあったはずだ」ということは簡単なのです。
要は証拠があるのかどうかなのですが。それはどうやら難しそうですね。
424 :
日本@名無史さん:01/11/26 10:05
>>416さん
>佐伯氏が蝦夷であることは他の資料からはっきりしています。(サエギ部というのは言葉が
>アイヌ語でさっぱりわからないからそうなったと言われている)
ええっ?そうなんですか??初耳です。
はっきりしている資料の提示を是非お願いします。
あと、氏と、部民は全く違いますよね。なんか混乱しているように見えるのですが。
貴族としての佐伯氏とは違うのでしょうか。
>>412 HTLV-1遺伝子についての疑問について、お答えがなかったので
自分で調べてみました。すると、421氏の説明と若干事情が異なるようです。
(以前から興味はあったが、調べたことはなかった、)
以下コピペです。
日本人と人種的に近いはずの韓国人、中国人から感染者は殆ど見つからない。
モンゴロイド系のアジア人の中でHTLV感染者が発見されるのは、日本人のそれも、
ご く限られた地域の人である。 沖縄、五島列島、対馬、隠岐ノ島などの島では、
住民の4分の1前後が感染している。 九州の鹿児島、長崎や、四国、それに
紀伊半島に多い。 また、東北では三陸地方、日本海の佐渡、飛島、それから北海道のアイヌにも感染者が多 い事が分かった。
日本以外でHTLV感染者が多いのは、アフリカの黒人、カリブ海の原住民、南米の
イン ディオ、それにパプアニューギニアやオーストラリアの原住民アボリジニなどで
ある。 中南米のインディオの間には、HTLVと遺伝子構造の良く似たU型ウイルス
感染が多い 。HTLV感染者の分布と人類の起源との関係を考えるのも面白いかもし
れない。
上記、見解をベースに考えるといろいろと面白い縄文人と弥生人の関係が見える。
(上記分布の原因が、日本列島の縄文人にはHTLV感染がくまなく広がっており、
弥生人が進出したエリアにおいて、感染が少ない、という前提が正しいとして)
まず、面白いのが、最初に渡来人が訪れそうな、長崎、五島列島、対馬、隠岐などに、
HTLV感染が多いこと。これをどう判断すればよいか考えると、渡来人にとって魅力的
な土地ではなかったか、あるいは進出が難しかったエリアであった。という理由が考え
られる。しかし、このエリアにも、弥生遺跡(農耕)は存在する。このことは、支配を
伴わない文化の伝播の可能性を示唆するように思う。
また、このエリアは、海洋漁労によって縄文当時から栄えていたエリアであったと
指摘する事ができる。このことからは、初期の渡来人の進出(移民)は、縄文人の影響力が及ばないエリアを中心に行われたのではないかと思われる。
(対立的構図で考えれば、海洋漁労民は強かったのかも)
また逆に、関東圏では、思っていた以上(私見だが)に、渡来人が進出し勢力を
広げているように判断できる。
まだ、詳しく検討していないのだが、かなり面白い。
私は、科学的データには、結構、すり寄ってしまうのです。
皆さまの意見も伺いたいです。
>>425 そのデータに基本的に同意します。HTLV-1の分布は基本的に縄文人の末裔に
見られるということです。なお長崎、五島、対馬などは海民による移住が
考えられます。陽性者が見つかっている所はひなびた漁村がほとんど。
また台湾の北部でも原住民から陽性者が見つかっています。
427 :
日本@名無史さん:01/11/26 12:29
一連の論争は、368の疑問
>>人種が入れ替わって、稲作をはじめた訳ではありません。
>>特に、東日本では文化的伝播による稲作への移行と見た方が良さそう
>このことは水稲について本当に証明されているのでしょうか?
>私は水稲栽培のような複雑な技術が「文化的伝播」で急速に青森まで
>普及したという説に疑問をもっています。
>ぜひ根拠をお示し下さい。
から始まったと思う。
弥生時代を通じて利根川以北に陸路での弥生人の進出がなかった、という点では
意見が一致したのではないか。
だとすると弥生時代に東北に「弥生土器を伴った稲作」があるとすれば、
弥生人が舟でやってきてコロニーを作ったと考えるのが妥当ではなかろうか?
>>420 >弥生時代での東北への稲作の伝播は組織的ではない。
「組織的」という用語を軍隊とか国家のレベルで考えるのなら組織的でないだろう。
グループなり氏族が移住したという意味ではある程度組織的だろう。
それよりも東北における弥生時代の水田の実態をもう少し詳しく説明してもらえない
だろうか?それと土器の関係も。
428 :
日本@名無史さん :01/11/26 12:55
旧石器の捏造うんぬんという話から始まったスレのはずだが、
いつのまにやら、稲作の起源とか大分新しい話になってし
まったようですなあ。
別スレたてたら?
429 :
日本@名無史さん:01/11/26 13:11
>>428 よろしいでは、ないですか。
みんなで、科学的思考方法のトレーニングをしているのですよ。
何か話題があれば、旧石器に話を振っていただければ
ありがたい。
>>424 佐伯氏の起源が蝦夷(毛人)であることは私は司馬遼太郎「空海の風景」
で読みました。(空海も佐伯氏)サエギ部のこともそこに書いてあります。
大和朝廷は蝦夷を西日本のあちこちに強制移住させました。その中には和人(弥生人)
の社会に同化して、何代かたつと貴族になったり坊さんになったりするのも
出てきます。こうして縄文人の遺伝子は弥生人の中に吸収されたのだと
思います。
なお「前九年の役」の発端は、蝦夷出身の安倍氏に対して「家柄の卑しいものに
妹を嫁にはやれない」と陸奥の国司(だったと思いますが)が言ったことが戦の
発端だったと何かの本に書いてありました。
つまり「差別意識」は昔々の方がはるかに強かったので、太古の昔に縄文人と
弥生人が仲良く暮らしていた、という話は、戦後の考古学が作り上げた神話だという
のが私の基本的発送です。
431 :
日本@名無史さん:01/11/26 15:19
>>419 >平安の所謂「征夷」と縄文→弥生への移行はまるで別な次元のものだ。
> 縄文から弥生への文化移行は古墳時代の古墳や土師器製法、金属器等の波及と同一と考えた方がいい。
結局これが戦後日本歴史学の「マルクス主義」的発想なのよね。
要するに天皇制が成立して、階級対立や異民族討伐が生じたので、それ以前の弥生時代や縄文時代は
みんな平和で仲良く暮らしていた。進んだ文化は、争いもなく、自ずから広がっていった。
要するに「天皇制反対」という政治的主張に都合のよい学問だった。
もとをたどればルソーの「高貴な野蛮人」まで行き着くが、もういいかげんそういう「マンガ史観」から
訣別したらどうかね。21世紀だぜ。
断っておくが特定の政治思想を主張するものではない。要するに科学としての考古学はそういうもの
とは違うはずだ、と言いたいだけ。
432 :
日本@名無史さん:01/11/26 16:10
>>431 「征服論信者」ががんばっているな。(藁
言いたいことは分かるが、「科学」というならきちんと議論の枠組みをとらえ、
きちんとした根拠に基づいた話をすべきだよね。
419の発言は、東北地方という空間で起きたことについて述べたもので「弥生時代全体」
あるいは「日本全体」で起こったことを言っているわけではない。西日本では「信者」
お好みの「弥生文化による暴力的な縄文征服」が起こったのかもしれない。そこまでは否定しない。
(419も否定していない)
しかし、それが東北地方でも起こったという根拠がなにもないじゃないか。
419の発言は少なくとも、これまでの考古学的な知見に基づいていると思うが。
431もくやしいなら、具体的な証拠を挙げて、東北の弥生人と縄文人を戦わせてみたらいい。
イデオロギーをいくら担ぎだしても、それだけじゃあ東北の縄文と弥生は喧嘩しないぜ。
420が答えてくれないから俺も「東北における弥生時代の水田」について
調べたよ。それによるとすべて津軽平野でたった二つ見つかっている。
弥生前期:青森砂沢遺跡(水路をもつ水田)
弥生中期:青森垂れ柳遺跡(畦と水路をもつ区画された水田)
随伴した石器は縄文系・続縄文系、木製のクワは朝鮮半島系(西日本型)
これをどう解釈するかが問題で、
1)縄文人が津軽から舟で交易に出かけ、西日本の進んだ稲作を勉強して戻り
水田を作った。だから稲作以外の道具は縄文系。
2)西日本か朝鮮から舟に乗って稲作民が到着した。水田やその道具は自分たちで
作ったが、石器や土器は原住民から交易で調達した。だから文化的にはモザイクに
なった。
考え方はこのように二通りあると思うよ。(だからまだ結論は早すぎる)
>弥生時代での東北への稲作の伝播は組織的ではない。
という420の意見はそれ以外の水田遺跡があるのなら別だが、
津軽平野だけのデータでは「組織的」は問題にならない。
「弥生時代には東北には原則として水田稲作がなかった」
とするのが正解だろう。
そうすると陸路では利根川のところが民族的境になっていて、古墳時代以後弥生人の北への
進出が始まり、それに伴って水田稲作も普及したということでよいのではないか。
(このプロセスには和戦両方の場合があったということでどうだろう)
ついでに言うと純粋な縄文人は稲作文化に抵抗を示し、沖縄に稲作が伝わったのは
10世紀頃、北海道には17世紀に和人がはじめるまで稲作はなかったそうだ。
>>432 そうかね。私には419の主張は根拠のない憶測を積み重ねた
イデオロギー的観念論だと思うがね。
>大和朝廷とある種の契約的な従属関係を結ぶ
>東国の「蝦夷」は今まで極形式的な服属関係だけにとどまっていたのが絶対的服属を求められ
「ある種の契約的な従属関係」、「ごく形式的服属関係から絶対的服属へ」
そんなこと墓からわかるわけがないだろう。
契約書でも出てきたのか?
勝手に空想して概念をもてあそんでいるだけじゃないか。そんなの科学じゃないよ。
マルクス主義を科学的方法だと錯覚しているから、バカなことを言っているに気づいていないだけ。
しかし、今回、弥生のことは詳しくなかったのだが、いろいろ、調べました。
そして、また、ひとつ重要な問題点(事実)を見つけました。(以下、新説)
それは、渡来人と思われる人骨、つまり、背が高くのっぺり顔の人骨は、
弥生中期以降にしか発見されていないことです。
このことから、弥生初期、稲作の伝播は、縄文人みずからの手で成し遂げた
と考える事が可能になります。
誰が、それを行ったかと言えば、それは、西九州の島々にいた
縄文の海洋民です。このエリアは、現在でも中国からの漂流民があるらしく、
古代にも多くの漂流民がきて、その人々が稲をもたらし、
稲作が始まっていても何の不思議もありません。
そして、この稲作を広めたのは、縄文時代から続く海の交易ルートです。
日本海沿岸は、九州から、東北、北海道まで、
太平洋ルートは、瀬戸内海、紀伊半島、東海、関東と結ばれていました。
西九州にいた海洋民が、交易品として米を利用し、
全国の縄文人が、それを競って欲しがり、農耕技術も伝播したと
すれば、穏やかな稲作の伝播も何の問題もなく説明できます。
その証拠としては、伊豆諸島の新島、利島、三宅島、大島に弥生時代の
遺跡が確認されています。
特に、新島の田原遺跡では弥生前期から稲作が確認されています。
また、この観点で、東北の稲作問題もスッキリ説明できます。
このことから、初期稲作の伝来は縄文人(海洋民)が行ったものである。
弥生中期以降に戦闘的な渡来人が移住、進出したことで、
全国各地に争いが勃発(これが倭の大争乱)、渡来人が主導権を握り
古墳時代、そして、大和朝廷につながっていったのです。
この説では、弥生時代の枠組みが吹っ飛びますが、どうでしょう。
かなり、自分ではいい線いってると思いますが・・・。
367氏のいう「稲作」の内容が問題で、陸稲とか沼地利用のもみ撒き(天田稲作)
なら西九州の海洋民とか中国や台湾からの漂流民がもたらした、というのに賛成。
弥生人の渡来以前にそれがある程度縄文社会に存在した、というのも否定しない。
しかし縄文文から弥生文化への移行というのは、半島から畦、堰、水路を伴った
出来上がった水田稲作がセットしてもたらされて始まったと考える。これは
土地の占有を前提とするから人口の増大に伴って土地争いが生じた。弥生人が
好戦的なのではなく、そのよって立つ文明が好戦的にしむけたわけだ。
縄文から弥生への変換は、世界史的な「農業革命」に相当するわけで、そう
簡単に枠組みをとってもらっては困る。
水田稲作による余剰食糧が、各種分業を支え、知識人や官僚を生み出し、やがて
古代国家を成立させたわけだ。これにあくまで抵抗し、縄文文化を護ろうとしたのが
東北や沖縄の人たちで、彼らに対する差別意識は古墳時代にはもう存在していて、
今日まで完全には消えていないと思う。
>>436 いやいや、完全な水稲稲作技術です。
まず、稲作の始まりは九州では、縄文後期から晩期
(約3000〜2500年前)というのは、遺跡からほぼ確実になっています。
そして、渡来人の人骨化石は弥生中期(2000年前前後)以降でないと
発見されていないと言うことを問題にしているのです。
西九州にたったひとりの漂流民と稲籾がくれば、そこから
大陸と同じような稲作がはじまることは可能なのです。
(稲作の場合は、ひとりで全ての技術を習得しているのは確実)
そして、縄文人が稲作技術を手に入れれば、それが広まるのは
簡単だったのです。
なぜなら、その時点で縄文人は、集団作業を行い、土木技術も
手に入れていたからです。
また、433氏が指摘しているように、稲作の周辺技術(石器)は、
縄文系のノウハウをそのまま使うことも可能だったのです。
このことは、稲作の伝播は、稲籾とノウハウだけであった可能性が
言及できるのです。
そして、その背景には、縄文時代から続く交易ルートがあったのです。
>>435 だんだんとトンデモ説めいてきましたね。
弥生人骨の分析が主に中期以降のサンプルであることはそうかも
しれませんが(しかし土井が浜や中の浜は前期のものもあるだろう)、
人骨が出てこないから弥生人はいなかった、ですか?
灌漑水田祉と一緒に縄文系の人骨でもたくさん出てくれば、一考に値する
説と言うことになるかもしれませんね。
(ひょっとして、「初期稲作」が436氏のいう陸稲などの天水稲作を
さしているのなら、あえて反論することもないですが。)
>西九州にたったひとりの漂流民と稲籾がくれば、そこから
>大陸と同じような稲作がはじまることは可能なのです。
まるで1世紀前の農業起原論ですね。
あなたのお考えへの基本的な疑問点は、「なぜ縄文の海洋民が
労働生産性の低い水田稲作をあえて選ぶのか」という点に関する
説明が全くないことです。
前に、あなたのお考えが「弥生=文明」図式だと言ったのも、
そういうことです。一方でむりやり縄文人に「水田稲作の確立」
をおこなった人びととしての栄誉を与えようとしながら、その裏で
(おそらく気づかずに)水田稲作という大陸文化を「当然選択され
るべき、優れた技術」と思いこんでいる。そしてあげく「中期の
戦闘的な渡来人」に暴力の罪をなすりつけた上で、
「大人のスパイスたっぷり」の「征服説」に転向ですか?
私の憶測ですが、あなたは「より古くから列島に住んでいた」
縄文人に、ナショナリズムのよりどころを見ているのでは?
そのような心的傾向性があるなら、やめたほうがいい。
436氏の前半部の考えかたは、きわめて妥当だと思う。
>>437 >西九州にたったひとりの漂流民と稲籾がくれば、そこから
>大陸と同じような稲作がはじまることは可能なのです。
367氏はこれが「現生人類の多中心性発生」というすでに破産した
理論の焼き直しだ、といことに気づかれるべきでしょう。
イネの遺伝子解析が進めばその辺はもっとはっきりするでしょう。
アイヌや沖縄人を見れば胸毛がふさふさしているでしょう。
アイヌでは背中にも生えています。ところが今の日本人の
ほとんどに胸毛はない。
つまり日本人のほとんどは渡来した弥生人の子孫で、縄文人
の遺伝子はほとんど残っていないのです。HTLV-1の分布が
示すように。原人から旧石器人への進化だとか、旧石器
人から縄文人への進化だとか、縄文人から現代人への進化だとか
いいかげんにして下さい。
ちょっと目をはなしているうちになんだかすごいことになってますね。
まず、弥生前期段階での弥生人の渡来ですが、垂柳遺跡などでみられる水田は、区画
の大きさも形も西日本の同時期の水田と遜色ありませんから、これは弥生人が渡来し
て作ったものだと思います。やはりわざわざ縄文人が出かけていって水田の作り方を
習ってくるというのはいかにも苦しい。
それから、弥生人の渡来の仕方ですが、まず最初は交易だったと思います。東北地
方だけでなく北海道まで管玉などの弥生文化の文物が発見されていますから、まず比
較的少数の弥生人が海沿いに渡来して交易をおこなったと思われます。
そのうちに土着し水田稲作を試みるものも出てくる。この段階で弥生と縄文の間に
若干の摩擦があったかもしれない。また、その地域の支配層にとってかわることもあ
ったかもしれない。しかし、社会を大きく揺るがすような変化はなかった。おそらく
弥生人の目的はまだ殖民ではなく交易だったのでしょう。弥生中期からの寒冷化も殖民にはマイナスに働いたはずです。
それと、この段階ではまだ、殖民団を送り出し補給を続けられるような勢力がまだ
西日本に育っていなかったということも言えるかもしれない。
弥生時代の終わりから古墳時代になると、弥生社会がクニと言えるような規模をも
ち、縄文以来の狩猟採取民の社会とは生産力政治力軍事力において格段の差がつくよ
うになる。
弥生時代のなかで集団間の抗争とともにより強固なクニとなった古墳時代の弥生人
(変な言い方だがしょうがない)は、最初、刀などの「権威の象徴」を与えることに
よって形式的な主従関係を結ぼうとする。(なぜなら正面からの武力征伐はコストが
かかるし、また、「権威の象徴」を与える代わりに特産物を「朝貢」させるという大
陸風のやり方を知っていたから。)しかし、そのうちに完全な支配に乗り出す。(な
ぜならそれが律令制というものだから)
やがて、統一された朝廷によって国策として武力征服が意図され、実行される。こ
れが8世紀。
あとは、「征服論者」のみなさんお好きなように「縄文人」を殲滅してください。(藁
>>440 弥生人が舟で来て交易し、そこから発展して水田稲作のコロニーを作った、
という考え方に同意する。
水田稲作は紀元前3世紀に伊勢湾の東岸まで及んだらしい。渥美半島では
縄文人との軋轢があったらしく、殺傷人骨が出土している。
青森に水田稲作が見られるのはそれから150年ぐらい後のことだという。
また仙台平野でも紀元前2世紀頃に水田稲作があったそうだ。
これらも舟で到達した弥生人のコロニーと考えたい。
というのもこれらのコロニーから水田稲作が周囲の縄文人に広まったとすれば、
弥生時代のうちに東北は稲作農業に転換したはずだが、蝦夷がそれを受け入れて
いなかったから「常陸国風土記」に見られるような、墾田のための討伐が
古墳時代に行われたと考える。アイヌと沖縄人が最後まで水田稲作を受け入れなかったことも
東北の縄文人が稲作を受け入れなかった間接的証拠となる。
水田稲作が利根川まで及んだのが5世紀頃だろう。(この東漸は遠賀川式土器を伴っている)
この水田稲作の面としての東漸過程をきちんとデータで裏づけていけば、論争は解決するように
思う。基本事実を押さえずに理論を組み立てるから、お互いにかみ合わないのだ。
ただ古墳の東漸は葬式の方法が広まったということで、これだけ人間の世界観や価値観と
結びついたものが「文化」として異民族に広まるという考えには無理があり、やはり
弥生人が進出することでもたらされたと考える。
別に縄文人を殲滅するつもりはないが、弥生時代に結核が大陸からもたらされている。
これは免疫のない縄文人には致命的な影響があったと思われる。(縄文時代には結核を
示す人骨が見つかっていない)そのほかの疫病(天然痘、麻疹、癩など)もつぎつぎ
入ってきたから、殺戮しなくても縄文人はかなり減ったと思われる。
442 :
日本@名無史さん:01/11/26 22:28
,∩iii∩__ オメグミヲ…
/彡 ´Д`) /\
/| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄|\/
|;,青森りんご|/
""; :;;,,. "
弥生に負けた縄文人
>水田稲作は紀元前3世紀に伊勢湾の東岸まで及んだらしい。渥美半島では
>縄文人との軋轢があったらしく、殺傷人骨が出土している。
縄文人同士、弥生人同士は殺し合いしないの?
なんかすごい「科学」だこと。
>>431 根拠のない憶測という言葉は熨斗をつけてお返しします。漏れは今は関係ない仕事に就いているが、学生時代は考古学を専攻しており、学生時代に得たり卒業後に読んだ本から得た知識を述べたものだが。
君の論を読ませて貰うと、考古学はおろか歴史学全般に関する知識が全く欠如しているように見受けられるが如何かな?
>>432が言うように縄文から弥生への移行に暴力が伴わなかったとは漏れはコレッポチも思っていない。しかし、君が提唱する「弥生人による縄文人虐殺説」を裏付ける証拠は何もない。有るなら示せ。
記紀や風土記はあくまでも律令政府が編纂した後世のもので、古墳後期から律令期にかけての出来事を大昔のように感じている可能性は否定できない。序文で認めているように。律令政府による真実の改竄も念頭に置かないと逝けない。(歴史学では基本の史料批判)
統一国家として体をなしていなかった弥生時代に組織的に開拓団や遠征軍を派遣したなんて科学的に見てナンセンスなトンデモ以外の何物でもない。
古墳時代、地方勢力は大和朝廷とは朝貢形式の緩い服属関係にあったのはもはや定説。古墳を造成する技術や鏡や鉄製品などの威信財を服属勢力に配布することで大和朝廷は地方勢力を服属させていた。
弥生より統一がなってきたとはいえ、大和朝廷は吉備、出雲、丹後などの有力地方勢力と大和豪族集団との連合政権であり、まだ大規模な軍事動員はできる体をなしていない。
土師器の型式を分類すると、東日本に山陰や中部、近畿などの土師器が出土したり、強い影響を与えている。
豪族居館が出現しているが大規模な軍事的衝突があったとの考古学的証拠はまるっきり無く、豪族居館は成長した地方豪族の権力の象徴と見た方が無難である。(城があったからといって江戸時代に戦はなかっただろ?)
いい加減、マンガばかり読んでないで歴史書をたまには読めよ。
それから網野をヨイショして考古学を責めていたドキュンがいたが、網野は考古学に関しては素人で、考古学者から聞いた話をネタにその手の本を書いているんだからな。
>>433 お先の回答ありがとうございます。
弥生時代は門外漢なので、東北の稲作状況について
殆ど知らないままに書いてしまったのですが、
まさか2つしか遺跡が発見されていないとは・・・
ためになりました。
佐藤洋一郎氏が「DNA分析から縄文の米は熱帯japonicaで、弥生に入っても(しばらくは)変化しなかった」と述べている文献を見た記憶がある。
どこかの時点で、現代の温帯japonicaに切り替わらねば辻褄が合わない。稲作の2段階渡来を考えるべきであろう。その時期がいつか、それと水田稲作の”面”としての東漸過程や縄文人との関係がどうかかわるのか。
以下、トンデモ私説。
当初、の渡来人は、熱帯japonica/直播/粗放水田稲作であった。勢力範囲は西部日本・近畿までで、東国は範囲外。先住民の抵抗の痕跡は?
後に渡来した同系の人は、温帯japonica/田植え・管理水田稲作技術と武器を携えてきて、利根川まで範囲を拡大。
彼らが、高い経済生産性を背景にした強力な武力により作り上げた支配機構が、歴史時代に利根川以北を支配下に。
先住民の抵抗の痕跡は記紀・風土記などに。
447 :
日本@名無史さん:01/11/27 09:09
あの、447のリンクは、「渥美での殺傷人骨」→「弥生人と縄文人の殺し合い」という
推論への私の疑問とは無関係だと思うのですがね。
「文化の本質」から「武器が出土しない」というネガティブな証拠を無視して、立論する
ってのは、形而上学的な方法であって、「科学」とは無関係だというてんではリンク先も
似たようなものだと思うが。
それにしてもでかくて、アメニティの良い「捕虜収容所」だな。監視兵が何人必要なんだろう。
449 :
日本@名無史さん:01/11/27 14:33
>>448 いやーあの中には縄文時代の環濠集落のことも書いてあるので、「縄文人VS縄文人」
の戦いはなかったのかという疑問への参考にはなると思ってね。
それと東北への弥生人侵略論争に情報提供をかねて。
450 :
日本@名無史さん:01/11/27 17:36
弥生人が縄文人殺すのに専用の武器なんざつかわんよ
農具で十分です。
それに、べつに年中殺し合いしてるなんて考える必要もない。
仮想敵をつくって年中戦ってるのは弥生人ではなく、現代の考古学者です。
451 :
名無しさん@1周年:01/11/27 18:18
>>444 >弥生より統一がなってきたとはいえ、大和朝廷は吉備、出雲、丹後などの有力地方勢力と大和豪族集団との連合政権であり、まだ大規模な軍事動員はできる体をなしていない。
そうじゃないだろ、朝鮮半島に出兵するように、大規模な軍事活動をしているぞ
この時代には関東の住居遺跡が激減すると言う話で、巨大古墳の築造や
朝鮮などへの出兵に駆り出されたとの解釈が考えられるそうだ
452 :
日本@名無史さん:01/11/27 18:27
縄文人は山や海にすむんじゃないの?
弥生人は平地だからすみわけてたんじゃないの?
だから殺しあいなんてなかったときいたけど???
453 :
日本@名無史さん:01/11/27 19:47
基本的なこと訊いていい?
東北に水田が広まるのはいつ頃なのかな。
弥生前期に2遺跡あったってことはわかったけど、
その後どんなふうに水田は広まっていったの。
大和朝廷が征伐したのは狩猟採集民?それとも農耕民?
農耕民なら弥生が縄文を駆逐したという枠組み自体が崩れるんだけど。
>基本的なこと訊いていい?
ダメ。過去レス読んだら?
455 :
日本@名無史さん:01/11/27 20:42
過去レスにそんなこと書いてあったっけ?
>>455 例えば453は
>>419 の最初の一行だけでも読めば、文章を書き直した方が
いいと気付くだろう。
457 :
歴史あんまり詳しくない:01/11/27 21:02
明治以降の近代化の影響で和人化したアイヌ人
という話なら聞いた事あるが。
かつて(縄文時代?)の道南・北東北には
逆にアイヌ化した和人というのが、たくさんおったそうな。
(八戸の地元郷土史家から聞いた話)
458 :
419=444:01/11/28 00:32
>>451 書いたとき、少し興奮状態だったため、後で自分でも気付きました。確かに大和朝廷を中心とする倭国は5世紀には朝鮮半島に出兵しています。
まとまりに欠けた倭国内の勢力を結集して出兵するには構成諸勢力にかなりの見返りを与えないといけません。(戦国時代も同じ)
朝鮮半島には倭国では当時採れなかった鉄が採れます。また進んだ文物があり、国内諸勢力は軍事行動に賛成しやすかったでしょう。
それに対して当時の東国には「野蛮で遅れた」人間が住んでいるだけです。期待できるのは人的資源(奴卑)だけです。
しかし大和朝廷が大規模な奴隷獲得戦争を東国で行ったとの考古学的証拠は全くありません。この時期住居の減少は北陸でも見られます。
また、全国的に見ても7世紀、11世紀は遺跡数が少ないです。これらは何らかの原因で人口が激減したか、遺跡が発見されにくい冲積地に集落が移動した可能性の二つがあります。
古代に限らず、国力の源泉は広い国土より、多数の人民です。土地が広くても耕す人間がいなければ意味がありません。何時の時代も領主が第?氓ニするのは人的支配です。ですから自分の勢力を過度に削ってまで中央の古墳造成や遠距離への遠征に参加するとは思えません。
秀吉の朝鮮出兵でもかなり大名の反発が強く、豊臣政権崩壊を早めています。
少なくとも倭国の朝鮮半島出兵には東国からは参加していないでしょう。
>449, 450
441が消えたのならあまりこだわる気もないのだが、
>水田稲作は紀元前3世紀に伊勢湾の東岸まで及んだらしい。渥美半島では
>縄文人との軋轢があったらしく、殺傷人骨が出土している。
こういうことを根拠なしに書いて「科学だ」なんらただと述べるのに
愕然としたわけね。
次も酷い。
> ただ古墳の東漸は葬式の方法が広まったということで、これだけ人間の世界観や価値観と
>結びついたものが「文化」として異民族に広まるという考えには無理があり、やはり
>弥生人が進出することでもたらされたと考える。
この理屈が成り立つなら、キリスト教がローマに広まったのはユダヤ人が進出・侵略
したからだとも言えるわな。
460 :
日本@名無史さん:01/11/28 02:54
アルカの実測図は使えない。
ウソ書いちゃダメでしょ。
ま、行政でも酷いのはいくらでもあるけど。
商売にするなら一流のもの書けよ。
461 :
日本@名無史さん:01/11/28 12:50
>>460 前から疑問に思ってたんだけど、民間の業者って営利だのなんだのってよく言われるじゃない?
でも大学の研究者だって成果が業績になって助教授→教授と地位や給料が上がったり本を書けたりするワケで、それも営利の一種じゃないの?
本質的な違いがあるのか?
でもスレ違いだな。無反応でお願い。
462 :
日本@名無史さん:01/11/28 13:11
>>416氏
>>424氏
佐伯氏と佐伯部は違うのではないでしょうか。
中央豪族の佐伯氏は大伴室屋の後裔といわれる伝説があり、きわめて大伴氏と近い
関係をもっていたと考えられます。古代都城の門号氏族にもなっていますね。
佐伯部はおっしゃる通り、蝦夷を移したものという説もあります。
これを統括していたのが国造系の佐伯氏で、それを直姓(だったかな?)の佐伯氏が
統率していた、ということで、彼らは近畿・中四国に土着している人々です。
行論と関係ありませんが、参考に。
463 :
日本@名無史さん:01/11/28 13:21
○○部ってのは、○○氏族に隷属し庇護を受けてた人だっけ。
春日部、日下部、大伴部、人事部、俳句部………。
佐伯は「塞ぐ」とも「叫ぶ」とも言われてるけど、やっぱ縄文系新住民の代表姓だと思う。
他に「キミコ部」とか。
阿部氏も中央豪族とは別に、エミシ系の名とも呼ばれているしなあ。
「帝国」に順応した縄文系が、縁あった名族の名をもらったのかも知れないし
阿部=アペ=火みたいにサエキもなんか意味があんのかもしんない。
464 :
日本@名無史さん:01/11/28 13:46
上の厨房2人のようにいいかげんなことをいう連中に。
「部」といっても、様々なものがある。
中央豪族名がついたものも存在する。
縄文系新住民、なんのこっちゃ。デムパ飛ばすな。
「帝国」ってのはなんだ。
あと、何世紀の話しをしているのか、はっきりしてほしい。
まあ、ネタだろうから、もちっと勉強しろ、タコ、というのは
なしかもしれんが。
あちこち話が拡散しているが、縄文人/弥生人・融和モデルと征服モデルは一体、どちらが合理的となったのか?
人間的倫理観というか道徳規範というか、そのようなものが普遍化した現代でも、隣接する異民族間では憎悪が表面化した衝突が続いている。
これは、人間という生物に刷り込まれた本性であり、業であろう。
そのような規範とか、正義とかの概念が無かった時代は、異民族間の嫌悪、侮蔑がもっと凄まじかったであろう。
417の常陸風土記の話、430の蝦夷出身の安倍氏に対する侮蔑の話は、それを裏付けている。
縄文人と弥生人だけが、例外とは考えにくい。
縄文人は列島の両端に追いやられたとの見方が一般的だが、西日本では、徹底的な殺戮が行われ、根絶されたと見る方が合理的であろう。
融和モデルなら、西日本に縄文的遺伝形質やいわゆるアイヌ系地名が残存している筈。融和モデル信奉者は、西日本の現象をどう説明するのか?
466 :
日本@名無史さん:01/11/28 19:57
>>465 少なくともここの「融和モデル論者」は「西日本のでの弥生人による縄文人抹殺」は
否定してねーんじゃないの。よく読んでみたら?
「征服信者」はまともな証拠もないのに「弥生時代の東北地方における弥生人の縄文
人武力制圧」に粘着するから各個撃破されてるんだよ。そこが「信者」と呼ばれるゆえんだよ。
既出だがいくら「人間の業」を持ってきても東北地方の弥生人は縄文人を殺さんぞ。
東北地方での「人間の業」の証拠を示せ。
結局、465みたいな「信者」は、弥生人がどうこうというよりも、自分の
お好みの「人間という生物に刷り込まれた本性であり、業」を確認して
安心したいだけなんだろうな。
なんで安心できるのかよくわからんが。
468 :
日本@名無史さん:01/11/28 20:18
また最初からやりなおすのか・・・・・・・・?
>「征服信者」はまともな証拠もないのに「弥生時代の東北地方における弥生人の縄文
>人武力制圧」に粘着するから各個撃破されてるんだよ。そこが「信者」と呼ばれるゆえんだよ。
俺もたぶん過去レスにおいて「征服派」にカテゴライズされていたことだろうが、
この言い回しは無人島攻撃ではないかな。
こういう言い方をするから、平和「信者」と言われるんだよ。
もう事実レベルで同じことを繰り返す必要は全くないと思うが、少なくとも俺が
ずいぶん前に何回か言ったのは、征服、交易、混交、融和、そういったコトバで
縄文と弥生の関係を規定しようとする態度が、そもそも論理実証主義的な考え方
でいうところのカテゴリーミステイクだ。互いに背反しない命題を持ち出して、
不毛なディベートをしているのだから。
むろん、同じ意味で
>西日本では、徹底的な殺戮が行われ、根絶されたと見る方が
これも生物に関する知識が足りない。
繁殖において一方が他を圧倒するのは、なにも殺戮によらなくてもよい。もっといろいろな
理由も、同時に考えられる。
極端にいえば、アリの行動を観察するように対象を考察するセンスを全く欠いているのだ。
469 :
日本@名無史さん:01/11/28 20:30
・・・・・・
470 :
日本@名無史さん:01/11/28 20:35
弥生人が縄文人を駆逐ないし殲滅したと言う意見には同意しかねる。
縄文晩期まで西日本と東日本には系統のことなる縄文人が住んでいたと考えている。
無論東日本でも差異があるし、西日本は人口希薄地帯だった。
おそらく北方系小進化をとげた「弥生人」が南方系文化をもって
北九州、西山陰に渡来。人口希薄な西日本の縄文人と混交して「倭人」
になったのだろう。その倭人が一世紀以降当方進出。
暫時縄文系先住民族をとりこみつつ、関東から東北を併呑していった、
と言うのが、わたしには妥当な説に思える。
こう考えると言語特にアクセント、その他生活習慣、風俗
短頭と中頭、血液のクラインなんかが説明できる。
西日本のアイヌ地名、「四万十川」なんかがそうでしょう。
471 :
日本@名無史さん:01/11/28 21:04
472 :
日本@名無史さん:01/11/28 22:08
age
473 :
日本@名無史さん:01/11/28 22:22
AT下位の石器群に詳しい人、
情報提供、お願い。
474 :
日本@名無史さん:01/11/28 23:47
>>459 俺は健在だよ。要するに論点は縄文人と弥生人がどういう関係にあるか、という問題だろ。
弥生人が来る前は日本列島には縄文人が住んでいて、縄文文化をもっていた。(俺はこれは
縄文文明だと思うが)
それで紀元前5世紀以後、水田稲作をもった弥生人が1000年間に100万人ぐらい渡来した。
その結果西日本は弥生人が支配するところとなり、縄文人は東と西に分裂した。
ここまでは考古学・人類学・ウィルス学などが基本データで文字資料がない。
以上の事実関係についてはあんたも承認すると思うが?
それで紀元5世紀に水田稲作は利根川の西まで達した。そのころ東北には水田稲作は
なかった。また住民は縄文人の末裔だった。
これも意見が一致すると思うが?
この頃まだ常陸の国に「クズ」と呼ばれる水稲耕作を知らない先住民がいて、討伐された
ことは「風土記」に出てくるが、これは縄文人のことだ。これも異存ないと思うが?
「日本書紀」では景行帝の40年東国の「蝦夷」が反乱し、それをヤマトタケルが討伐する話が
出てくるが、それが風土記の「古老の話」と重なる時代のことだろう。
年代がはっきりしているのは敏達帝の10年(581年)の蝦夷の反乱。「景行帝の御代に服従を
誓ったのにまた背いた」とあるので、常陸の国あたりの反乱だろう。
これらの「蝦夷」は縄文人であることも異存がなかろう?
「日本書紀」斉明帝5年(659)には、安倍比羅夫が秋田まで征討の軍を進めたとある。
この年の遣唐使は「蝦夷」を献上した。中国皇帝の質問に答えて、「蝦夷には3種ある。
一番遠いのが津軽、その次がアラエミシ(荒蝦夷)、一番近いのがニキエミシ(熟蝦夷)
で、いづれも五穀なく、肉を食らう」と述べている。
また皇帝は「蝦夷の顔付や身体(入れ墨をしている)が異様なので奇異に感じた」と
印象をのべている。(つまり新モンゴロイドの中国皇帝は、古モンゴロイドの「蝦夷」を
初めて見た)
以上により6世紀の後半に東北地方が水田をつくらない縄文人により占められていたことは
立証されたと考えるが?
697-791のことを記した「続日本紀」には、蝦夷がいかにして解体されたかが具体的に書かれている。
端的に言えば、1)蝦夷人の中国および四国への強制移住、2)関東・東海の弥生人農民の東北への
強制移住だ。
細かい点には議論もあろうが、東北の縄文人=古代の蝦夷=中世の蝦夷=近世のアイヌ
であることには何の疑いもない。
現代の日本人とはそのような古モンゴロイドを圧迫・吸収しつつ形成されたもので、
遺伝的には新モンゴロイドが主体をなしているのだ。
476 :
日本@名無史さん:01/11/29 00:27
あのよ〜ガイシュツだけど、ここは旧石器考古学
をメインとした掲示板なんだからさ、縄文から弥生
への移行期とかの話をしたかったら、別スレたてな
よ。いいかげん、目障り。
>>473 AT下位って、もちろん後期の中でってことですよね?(藁
477 :
日本@名無史さん:01/11/29 00:38
>>476
旧石器はもうすんだの。捏造がなぜ20年間もわからなかったか、
といえば「単一民族」神話を疑いもせず、原人から現代人まで
日本列島で進化した、というイデオロギーに支配されていたから
だ、という話になっているの。
それを克服しないと考古学は科学になれない、という議論。
478 :
日本@名無史さん:01/11/29 01:10
>>477 ハァ?いったいどこでそんな話が出てきたのだ?
進化の話→縄文土器から弥生土器の変遷の話→縄文から弥生への
移行期の話という風に話は推移していったと思うのだが、それは
あなたの言っているような筋ではなく、デムパが乱入したせい
で話がねじまがってここまで進行しているんでしょ?
自分の頭の中で電波を飛ばすのは勝手だけど、それなら別の
ところに逝ってください。
479 :
日本@名無史さん:01/11/29 01:11
>>477 仮にあなたの述べているような話だったとしても、
やっぱりスレ違いだと思うので、自分でスレ立てて
ください。
480 :
日本@名無史さん:01/11/29 01:36
どうしたら考古学は電波から脱出できるんだろう?
やはり文学部という枠組みから解体するしかないと思うのだが。
>どうしたら考古学は電波から脱出できるんだろう?
>やはり文学部という枠組みから解体するしかないと思うのだが。
このスレを盛り上げているのは医学部デンパだと思うが...
>441
ぐちゃぐちゃ書いているが、
殺傷人骨→弥生人と縄文人の殺し合い、という論理のデンパには
変わりはなかろうが。
お前が何言っても、スペースの無駄。
>>480 >どうしたら考古学は電波から脱出できるんだろう?
>やはり文学部という枠組みから解体するしかないと思うのだが。
ただ単にねつ造スキャンダルに引き寄せられて外からデンパがむらがってるだけっしょ
だいたい縄文人と弥生人という対立項を設定している段階で、マスコミ経由の情報をうのみにしてるのが見え見え
弥生人が人種的に縄文系弥生人と渡来系弥生人に分かれるのは考古学の常識(もちろん出土人骨の人類学的研究の成果にもとづくものだ)だし、
東北における縄文ー弥生移行期の人種的な対立項を設定するのは、出土人骨が皆無に近い現状ではナンセンスだ
東北に弥生系文物をもってきたのが縄文系弥生人でないとどうして言える?
483 :
日本@名無史さん:01/11/29 11:15
>>482 >弥生人が人種的に縄文系弥生人と渡来系弥生人に分かれるのは考古学の常識(もちろん出土人骨の人類学的研究の成果にもとづくものだ
>出土人骨が皆無に近い現状ではナンセンス
言っていることが自己矛盾しているよ。
484 :
日本@名無史さん:01/11/29 11:26
>>482 禿同。
弥生対縄文などの一般論は聞き飽きた。耳が腐る。
>弥生人が人種的に縄文系弥生人と渡来系弥生人に分かれるのは考古学の常識
>(もちろん出土人骨の人類学的研究の成果にもとづくものだ)
こういう具体的な話が聞きたかった。
これの詳しい本とかサイト情報きぼ〜ん。
>人種的な対立項を設定するのは、出土人骨が皆無に近い現状ではナンセンス
まったく。
考古学の科学性がテーマなんだから出土物に注目しないで話を進めてどーすんの。
アイヌ地名だとか風土記だとかもういいっつの。
使うとしても出土物あっての話。
485 :
日本@名無史さん:01/11/29 12:45
>>484 「縄文系弥生人(縄文人)」=長崎、五島列島に居住(HTLV-1が現在も陽性)
「渡来系弥生人(弥生人)」=筑紫平野、山口県に居住(HTLV-1が陰性)
出典:埴原和郎「日本人の誕生」(吉川弘文館、1996)
東に進出するのは渡来系弥生人。
486 :
日本@名無史さん:01/11/29 12:51
487 :
日本@名無史さん:01/11/29 13:21
488 :
日本@名無史さん:01/11/29 14:21
結局「平和共存モデル」論者は、東北地方における水田耕作の起源について、
原住民(縄文人)の自発的選択によることを、事実に基づいて証明することができなかった。
「征服モデル」では弥生時代の終わりに、水田は利根川の西まで到達し、以後古墳時代に
弥生系農民の(自発的あるいは政策的)北進により水田は東北地方に普及していった、
ことが示されたのではないか。
弥生時代の東日本の人骨は明治以来50体も見つかっていないそうで、人骨の変化からこれを
証明するのは困難だが、少なくとも「征服モデル」に矛盾する証拠はないようだ。
489 :
日本@名無史さん:01/11/29 14:28
サントリー文芸賞をもらった小熊英二「単一民族神話の起源」
(新曜社、1995)では、日本人が単一民族であるという神話(
イデオロギー)がどのようにして生まれ、戦後の学会がいかに
それを広めたかが詳細に分析してある。
参考までに。
490 :
日本@名無史さん:01/11/29 14:36
>>489 ここの書き込みのどういうところが「単一民族神話」に
関連しているのか教えてくれよ。
参考までに。
491 :
日本@名無史さん:01/11/29 14:50
>>488 >結局「平和共存モデル」論者は、東北地方における水田耕作の起源について、
>原住民(縄文人)の自発的選択によることを、事実に基づいて証明することができなかった
結局、「征服信者」は東北地方において弥生人による「武力侵攻」を事実に基づいて証明する
ことができなかった。
>「征服モデル」では弥生時代の終わりに、水田は利根川の西まで到達し、以後古墳時代に
>弥生系農民の(自発的あるいは政策的)北進により水田は東北地方に普及していった、
>ことが示されたのではないか
考古学的知見によって弥生時代の終わりに、水田は利根川の西まで到達し、以後古墳時代に
弥生系農民の(自発的あるいは政策的)北進により水田は東北地方に普及していった、
ことが示されたが、それは「征服モデル」の当否とは関係が無い。この現象が大規模な武力
衝突抜きには不可能だと説明しろ。古墳時代に征服モデルが当てはまることを言いたいなら別な
言い方があるだろう。
何度も何度も何度も指摘されているが、古墳時代以降の「征服モデル」を正面から否定している
意見はない。だからといって「征服モデル」が弥生時代の東北地方にもあてはまるかどうか
別だろう。そのことについてはちゃんと根拠を示せ。
>>491 俺は488ではないが、人に反論しようというときは相手の
主張をきちんと読んでつかむくらいのことはしろ。
言葉面に興奮してしまうから、それができないんだよ。
493 :
日本@名無史さん:01/11/29 15:28
>>492 それ以前に根拠のない者同士の罵りあいは、目障りなので消えてほしい。
データから(考古学の場合は出土物か)何が言えるかを考察するのが科学であって、
平和共存だの制服モデル(Wだのを支持するとか矛盾しないとかどーでもいいんだよ。
そんなものどっちも起こってただろうし二者択一で言える訳がない。
根拠資料も示せないようなデンパはどっちとも逝ってくれ。
>>485はありがとう。
(´○`)<九大のクリスマス仕様埴輪は
( ) 誰が飾り付けしたんだろう・・・?
>>453 >大和朝廷が大規模な奴隷獲得戦争を東国で行ったとの考古学的証拠は全くありません。この時期住居の減>少は北陸でも見られます。
だれも「奴隷獲得戦争」があったなどと言っていません。
東北の縄文人が自発的に水田稲作を受け入れた、ということが間違いだと主張しているだけです。
8世紀に南から水田耕作民の急激な進出があったこと(「征服モデル」の証拠)を以下に示します。
8世紀には以下のようにかなり東北北部に大量の移民が行われている。(引用はすべて「続日本紀」より)
714年:尾張、上野、信濃、越後の国民を200戸、出羽の柵戸(きのへ)に移住させた。
715年:相模、常陸、上野、下野、武蔵、上総6国の民1000戸を陸奥の国に移住させた。
716年:信濃、上野、越前、越後の4国の人民400戸を出羽の国に移住させた。
717年:信濃、上野、越前、越後の4国の人民400戸を出羽の柵戸(きのへ)に移住させた。
719年:東海、東山、北陸三道の人民200戸を出羽柵に移住させた。
722年:諸国の国司に命じ、柵戸(きのへ)とすべきもの1000人を選ばせ、陸奥に送った。
この総計は2000戸と1000人になる。
1戸はだいたい5人家族と見るのが妥当だろう。従って人口換算すれば、11,000人が東北北部に移住したことになる。
ところで次の記載から、この200戸は当時の「郡」の人口だったようだ。
718年:常陸の国の210戸の郷を分離し、菊田郡とした。
越前国から4郡を分離し、能登国とした。
上総国から4郡を分離し、安房国とした。
陸奥国から5郡を分離し、岩背国とした。
陸奥国から6郡を分離し、岩城国とした。
そして4郡ないし6郡で1国が出来ているから、800戸ないし1200戸が1国の人口となる。
人数にして4000人から6000人程度だ。これから推定すると8世紀の陸奥、岩背、岩城(東北の大部分)の人口(戸籍に載っているもの)は陸奥が例外的に多かったとしても、3万人を超えないことになるだろう。するとなんと人口の30%が新来の移民から成り立っていたことになる。
この時期蝦夷の人口の激減が起こったことは、以下の証言でもうかがえる。
715年:陸奥の蝦夷の長「親族が死亡し、子孫が絶えそうだ。戸籍に入れてほしい」と嘆願。
蝦夷は戸籍民でなく、税金を払わないし、反乱を起こすから他の地に強制移住させられたことは
以下の記載から明らか。当時の郡が200戸程度でできていたことを考えると、相当な規模だろう。
725年:陸奥国の蝦夷の捕虜144人を伊予国に、578人を筑紫に移住させた。
なお蝦夷が別の言語を話していたことは、通訳が必要だったことで明らか。
722年:蝦夷征討に功績のあった蝦夷と通訳に勲位を授けた。
また征討軍に従った兵士も多くが土着したことは以下の記載からうかがえる。
724年:陸奥国鎮守の兵たちが、本籍をこの地に移して、家族を呼びたいと願ったのでこれを許した。
以上の証拠から、5世紀に利根川西岸まで波及した水田稲作は、その後200年をかけて次第に北上し、
東北に導入された。その主体となったのはすでに水田稲作を行っていた関東や東海地方の農民である。
もちろん狩猟生活をすて、戸民となった蝦夷もいた。しかし遺伝学的にみると、8世紀の大量移民により
東北北部には純粋の蝦夷人以外の遺伝子がもたらされたことは否定できない。このため東北人には
今日でも西日本に比べて蝦夷=アイヌ的な遺伝子が多いのだ。
(、要は民族とか国民というものは、混血して出来上がるものだから、差別的意味で言っているのではない。)
497 :
日本@名無史さん:01/11/29 18:08
>>490 結局「単一民族神話=みんな日本人で平等」という考え方が戦後支配的だから、
差別につながるとして、蝦夷やアイヌのことをきちんと書いたり議論したり
するのを避けてきたんだろうな。
それが東北における縄文から弥生へ(水田稲作の開始)の問題にからんで
いると思うよ。
>>497 いや俺が知りたかったのは、「みんな日本人で平等」という考え方
の結果、ここで具体的にどのような誤った見解がでてきているか
ということだったんだが。「基本的知識の不足」についてはわかるんだけど。
蛇足だが「差別につながるとして」というよりは、差別の結果、
議論が不在だったというべきだと思うけどね。
>>490 アイヌと蝦夷は異なり、東北の蝦夷は日本人だという説を唱えたのが、
人類学者の長谷部言人。
戦後の一時期この説が流行した(理由は497で述べた)。これを受けて
人類学者鈴木尚が「縄文人の小進化により弥生人ひいては現代人が
生まれた」と主張した。考古学者の多くはこの影響を受けた。
弥生人は渡来集団でそれが日本列島の縄文人を東と西に分断した、という
事実が明らかになってきたのは、過去20年ぐらいの成果。今では人類学者は
鈴木の説をまったく信じていない。
ところが考古学の世界では弥生時代の東日本の人骨が少ないのをいいことに
「縄文人が水田稲作を受容した。渡来人と縄文人の関係は至って平和共存的
だった」(寺沢薫「王権の誕生」、講談社)と考えている。
要するに考古学に情報ギャップがあると思う。
8世紀における東北の水田稲作成立過程を見れば、そんなことは言えない。
西日本の弥生時代には東日本は縄文時代だった。東北が弥生時代に移行する
のは7世紀以後だと思うよ。だから5世紀には東北に「征服モデル」が
適用できないのは当たり前の話だ。
断っておくが俺は「日本国籍のあるものが日本人」と考えているから、
アイヌももちろん日本人だと考える。
現在日本人と呼ばれている人たちが、どういう民族の混血により成り立ったか
ということを明らかにするのが、科学的日本人論だと考える。
それを大昔から日本人というものが存在した、と考えるのが「単一民族神話」
だと思っている。
それは学問にもいろいろ悪影響を及ぼしていて、その害がもっとも明確に
出ているのが考古学だと思っている。
>>499 情報ありがとう。
たしかに鈴木尚の説の影響というのは残っているのかもしれない
ね。寺沢さんがそんなことを書いているのだとしたら。
(寺沢さんの議論を批判する考古学者も多いと思うけど。)
502 :
日本@名無史さん:01/11/29 19:58
質問なんだけど、日本で発見された縄文人骨5000体のうち殺傷痕のあるのは15体。
弥生人骨では4000体のうち150体だそうだ。(両者はほぼ10倍の差がある)
但し後者は墓の中に散らばっている矢尻なども証拠としてカウントしている。
縄文時代の骨は大部分貝塚から見つかっているから、骨以外のところに刺さった
矢尻などは原理的にカウントできない。
しかし弥生人の場合は甕棺や石棺に遺体が入れられているので、骨以外のところ
に刺さったものもカウントできると思う。
そうすると両者の差は本当はもっと縮まるのではなかろうか。
それと鉄剣が出現してからの殺し方は、急所を刺せばよいので、骨を切る必要はない。
そうなると殺されても、骨には跡が残らないことも多かったろう。
何しろ弥生期には職業的軍隊(プロの殺し屋)が出現する。プロは殺すのに刃が
傷むような骨は切らないだろう。
どんなものだろう?
>何しろ弥生期には職業的軍隊(プロの殺し屋)が出現する。
今はじめて聞いた。本当か?502の新説?
504 :
日本@名無史さん:01/11/29 20:07
>何しろ弥生期には職業的軍隊(プロの殺し屋)が出現する。
本当か?
505 :
日本@名無史さん:01/11/29 20:50
>>497 >8世紀における東北の水田稲作成立過程を見れば、そんなことは言えない。
>西日本の弥生時代には東日本は縄文時代だった。
土器についてなんだけど。関東や東北においても中期以降は弥生土器
と呼んでいますが、これはどんな根拠で呼んでいるのでしょうか。
490氏の考えが正しければ、ただの年代区分だったということに
なると思うのですが、実際はどうなのでしょう。
壺や祭器の出土が多いとか、農耕と関連した傾向を認めてはいないの
でしょうか。
それに、弥生式土器は東京です。弥生時代の命名が吹っ飛んでしまいます。
(まあ、似たような事は良くあると思いますが)
506 :
日本@名無史さん:01/11/29 20:51
>>496 みんな呆れて何も言わないようだから敢えて言うけど、君が具体的に年代を上げたのはもう律令期(奈良時代)だよ。
律令期の「征夷」と弥生時代とか古墳時代を一緒くたにするのは関ヶ原の戦いと戊辰戦争を同列に論じるのと同じで意味がないこと。
それから君がレスつけたのは453じゃなくて458じゃない?
>>506 496ではないけど、どこが呆れるような内容なんだ?
別に弥生や古墳と律令をいっしょくたにしているようにも読めないけど。
読み違いではないの?
>>505 俺の考えって何のこと?
>>507 すんまそん。
505のレス文の中の490氏は、497(499)氏の間違いです。
>>506,507
496のはいっしょくたどころか、奈良時代の事しか説明していませんね。
関が原の戦いの話の中に、戊辰戦争に関するレスがまぎれたようなもの
>>509 一連の話がスレ違いだという点に目をつぶるなら、律令期の東北に
ついて書き込むのは少なくとも唐突ではないと思うが。
511 :
日本@名無史さん:01/11/30 00:59
旧石器に戻りましょう
旧石器ではもうスレ沈むしかないんじゃないか?
最近の書き込みを見ていていろいろ副産物もあったし、流れるままに任せてもいいと思うが。
513 :
日本@名無史さん:01/11/30 11:38
ねたふり、です。藤村の遺跡を除いて、旧石器時代を考えよう!!
実際の所、約3〜4万年前から、旧石器(中期)は、発掘されているようです。
で、今このスレでも話題の時代区分問題では、
約2万年位前から新石器時代(ナイフ型石器が基準でしたっけ??)
約12000年位前から縄文時代と呼んでいるように思います。
さて、この枠組みは正しいのでしょうか・・・。
世界的分類基準、あるいは人種的変遷、日本独自の視点などから、
いろいろ、再検討してみませんか。
自己レス
>約2万年位前から新石器時代(ナイフ型石器が基準でしたっけ??)
これは、後期旧石器時代の間違いです。たぶん。
515 :
日本@名無史さん:01/11/30 11:56
もともと石器に粗雑な(paleolithic)と精巧な(neolithic)と2種あると
思われたところから旧石器、新石器が100年以上前に区別された。
しかし今では旧石器のなかに原人が作ったもの、ネアンデルタールが
作ったもの、新人が作ったものがあることがわかり、もう「旧石器」
というくくり方は通用しないと思う。
人は同じ言葉は同じ内容を表していると思いがちだ。
東北の事件の背景には旧石器というくくり方の問題もあると思う。
旧石器がなくなれば、新石器も必要ない。
「前縄文文化」でよい。
欧米の場合「時代」という言い方はもうしていないのではないか。
「文化」と読んでいる。縄文文化でよいではないか。
従ってその次は弥生文化となる。
1.2万年前以前が:前縄文文化
1.2万年前~BC500:縄文文化
BC500^500:弥生文化(但し東北には縄文文化が持続)
516 :
日本@名無史さん:01/11/30 12:56
>欧米の場合「時代」という言い方はもうしていないのではないか。
>「文化」と読んでいる。縄文文化でよいではないか。
全くその通りだね。
しかしだとすると、「従ってその次は弥生文化となる。」とは
ならない。そういう言い方によって思考が誘導されてしまうこと
への批判として、「文化」という呼び方がでてきたと思われ。
些細な揚げ足とってゴメン。
そういえば、昔は、旧石器時代のことを、
先土器時代と呼ぶのが普通だったような気がする??
藤村の石器がわんさか出るようになってから、
旧石器どうのこうの言うようになったのかも??
518 :
日本@名無史さん:01/11/30 23:44
人類学者による
埴原和郎「日本人の成り立ち」(人文書院、1995)
山口敏「日本人の生い立ち」(みすず書房、1999)と
歴史学者による
菊池勇夫「アイヌ民族と日本人」(朝日新聞社、1994)
高橋崇「蝦夷」(中公新書、1986)
を全部読み比べて見たが、
人類学者は、1)人類学の先輩を根拠を挙げて批判している、
2)歴史学者の業績を引用または批判している、
のに対して、歴史学者が人類学や医学の業績を引用または
批判している例はない。また歴史学の先輩を根拠をあげて
批判している例も見られなかった。
このあたりに、歴史学や考古学が科学になれない大きな
「日本的理由」がありそうだ。
一つは他分野の進歩が理解できない「視野狭窄」、もう一つは
「過剰な保身」。
519 :
日本@名無史さん:01/12/01 01:00
>>518 俺は文学部出身で、以後さまざまな学部や研究所を転々と
しているが、あなたと同様の感想を持っています。
もちろん、皆がそうだというわけではない。
その点では網野などは例外の一だといえる。
ethnoarchaeologyはどうなんだろう・・・?
例えば菊池勇夫は上掲書で「エミシはアイヌか日本人か」という設問を
しているが、その結論は出していない。
高橋崇も「蝦夷の実体は東北辺境民(日本人)かアイヌ人か」と問題を立てているが、
「その解明は容易ではない」と答えを避けている。
間違ってもいいから「検証可能な仮説」を立て、次の世代がそれを土台として
学問を前進させることに期待する、という態度がまったくない。
これが人類学と大きな違いで、ひいては自然科学との違いとなっている。
学問は個人の技ではなく、学者共同体の仕事であり、それを前進させることが
個々の研究者の仕事だ、という思想が生まれない限り、考古学は科学になれない、
と思います。
522 :
僻地の住人:01/12/01 01:09
全く驚いた。あえて乱入します。あんまりひどい話なんで。
まったく、粟島や佐渡が隔絶されて見えるのはほんの最近の話で、日本海交易の重要港湾じゃないか。
明治時代の北前船の写真を見たまえ。まるで現代の高速道路だよ。
そして、新潟沖を通る多くの船が小木や相川、両津あるいは粟島の湊にも入るんだ。
日本海沿岸のほとんどの湊町に佐渡の引札が残ってるよ。海が荒れれば何日も逗留するんだ。
湊町に色町はつきもんだ。女性だってやってきていた。
沖縄、五島列島、対馬、隠岐ノ島 もちろんかつて海上交易が盛んだった土地だよ。
それから北海道のアイヌも狩猟採取民というより近年は交易民としての性格を言われている。
DNAを持ち出す前にこの辺をちゃんと理解しておいてもらわないと。
自分の目にはド僻地だから弥生人に征服されてない縄文人がそのまま現代までいたなんて捏造話だよ。
523 :
日本@名無史さん:01/12/01 03:21
岡村の76年論文をみよ。 座散乱木と馬場壇は岡村の前期旧石器編年のシナリオ通り。
藤村が気まぐれで埋めたなら、岡村論文の仮説にピッタリ合うかいな。
そこのところが、捏造の本質ではないかいな。
安齋も上手に騙されたわけがここにある。
皆さん、藤村の気まぐれで騙されたのではないのです。主犯は、シナリオを書いた奴でしょう。
524 :
日本@名無史さん:01/12/01 12:52
考古学をやっている人かわかならいけど518,519は正論。
日本考古学は早く「考古学」というdisciplineを築かないと空洞化してしまう。いつまでも歴史学・人類学・周辺科学におんぶにだっこではダメ。考古学者はモノから歴史が解るという妄想を一度捨ててみてはどうだろう?
521「学問は個人の技ではなく、学者共同体の仕事であり、それを前進させることが個々の研究者の仕事だ、という思想」をもっていたマルクスファン歴史学者や考古学者が科学者であるとは思わない。彼らはむしろ学問を後退させたにすぎない。そんな妄想も捨てよう!
>>524 別にマルクス学者の擁護をしたのでない。
自然科学で言うピア(同僚)の概念を説明したのだ。
526 :
日本@名無史さん:01/12/01 15:44
結局、今現在日本には前期、中期旧石器なるものは無いのだろ?
はっきりせーよ。
旧石器考古学者の面子や生活を思いやる必要は全く無いぞ。
ところで、土器編年というのは科学か?
後から投げ込まれたという鐙がそのまわりのガラクタ土器の編年から
4世紀初めといっているが、信用できるのか?
527 :
日本@名無史さん:01/12/01 16:18
>>526 奈良市教委は
1)出土層は固く締まっており、後世に上から落ち込んだとは考えにくい
2)出土層に含まれている土器片のうち、もっとも新しいのが4世紀初め
ということから「4世紀初めのあぶみ」と判断したようだ。
これまでの馬に関する常識を100年早めるだけに慎重だと思う。
4世紀の末に騎馬民族がやってきたという江上説の難点は4世紀に
日本に馬がいないという点にあった。これから面白くなるよ。
528 :
日本@名無史さん:01/12/01 20:43
土器編年というのは相対年代だろ?
絶対年代が判るのか?
土器ってのは穴を掘って埋めたり、環濠に投げ捨てたりする傾向が
あるようだが、何を根拠に絶対年代を決めたのだ?
C14とか使ってるの?
さらに編年だってあやしいもんだ。
縄文時代から高い芸術性が認められるのに、模様や形で新しい古いってのが
判定できるのかね?とっても疑問だ。
確かに君の言うとおりで土器編年法は相対年代だ。誤差は30~50年ぐらいある。
但し馬具の出土年代に関してはこれまで土器編年法で決められていたので、
同じ編年法では今回のあぶみは4世紀の初めになる、ということで土俵は同じ
と考えている。
将来的にはすべて絶対年代に翻訳することが必要だろう。今回のあぶみは
木製品なので年輪年代法で絶対年代を決められると思う。
530 :
日本@名無史さん:01/12/01 21:41
>>523 貴方の議論は藤村の単独犯行でなく、1976年に論文を書いた共犯者がいる
という主張だと思いますが、具体的証拠をあげて論じるべきでしょう。
531 :
日本@名無史さん:01/12/01 23:01
489が紹介している本は面白いよ。修士論文だって。
ずいぶん優秀な学生がいるものだ。
戦前は、朝鮮と台湾を日本国に含んでいたから「混合民族論」が
常識だったそうだ。
で、戦後の「単一民族論」は植民地が分離した後、生まれたそうだ。
人類学者の長谷部言人、清野謙次の説を、共産党系のねずまさしが「最新の学説」
として紹介し、志賀義雄が「国家論」で採用し、井上清、石母田正、後藤守一、藤間生大、
藤谷俊雄などの進歩的歴史学者に受け入れられたそうだ。
面白いのは長谷部も清野も思想的にはひどい帝国主義者だったが、進歩的歴史学者はそれは問題に
しなかったという。
「均質な日本人」という神話は1960年代以後、ひろく普及し、「日本人論」の前提に
なったそうだ。
ソ連崩壊後マルクス主義の価値がなくなるに伴い、また「混血論」がファッションに
なってきた。
土器編年ってどうやってやるの?
本当に信用できるんですか?
土器編年は正確さにおいても「相対的」なものだ。目安にすぎない。
まあ、C14なんかも誤差が大きくおおざっぱな推定しかできない
現状では、不完全であることを承知でもある程度頼らざるを得ない。
534 :
日本@名無史さん:01/12/02 01:34
>>
輪鐙で年輪年代測定?
樹皮かシラタのこってんの?
535 :
日本@名無史さん:01/12/02 01:35
年輪年代測定って、100年分くらいの年輪のこってないと測定できないよ。
536 :
日本@名無史さん:01/12/02 17:26
>>529氏
30〜50年というけれど、もっと大違いのものも多いよね。
6世紀とかでも、かなり土器編年は差があるよ。
ちょっと一休みしませんか。連絡舟に載らない情報です。
学究肌の諸兄の見ない庶民番組・日本テレビ・笑点(12/2夕)から。
イチローの国民栄誉賞辞退のバロディで、「私は……を辞退します」、そして「理由」を述べる問題。
楽太郎=考古学長老:私は考古学一筋でやってきましたが、文化勲章を辞退します。
円楽=司会:どうして?
楽太郎=考古学長老:実は、私も埋めていたのです。
観客席:爆笑
538 :
>533氏:01/12/02 18:59
でも、十年くらいの年限で区切った土器編年がありますね(寺沢氏など)。
ああいうのは、どうやって作るのでしょうか?
また、そんなに信用していいのでしょうか?
539 :
日本@名無史さん:01/12/02 21:18
>>518 歴史学者の著作だけで考古学者の著作を取り上げられなかったのは残念ですね。
工藤雅樹「古代の蝦夷」(川出書房新社 1992)
「蝦夷は中央政府の直接の支配の外の人々の呼称であり、早い時期には本州北部
から北海道にかけての地域はすべて蝦夷の地域であったのだが、中央政府の直接の
支配が本州の最北にまで及んだ段階で、北海道のみが蝦夷の世界となった。」
「そしてこの地域において、アイヌ民族が形成されていったのである。」
「東北北部の人々は、途中までアイヌ民族への途を歩んでいた人びととほとんど同じ
歩みをしていた。このような考え方をするならば、東北の古代蝦夷は最終的にアイヌ
民族になれなかった人びとであるといえる。また、別の言い方をするならば(中略)
もっとも遅く日本民族の一員となった人びとであるとすることもできるであろう。」
なお、著者は福島大教授(考古学)で、この本のなかで蝦夷アイヌ説・蝦夷非アイヌ説
の変遷を学史的に整理しています。
>>539 情報ありがとう。
問題は工藤氏の主張がどれだけのデータに支えられているかですね。
上記の主張は歴史学者の多くの意見と同じで、人類学者のそれとは
違いますね。
人類学者は古代の東北居住民とアイヌはほとんど同じ遺伝子をもっている
と主張している。またアイヌも「日本人」だと述べています。
蝦夷非アイヌ説は「日本人単一民族」神話とともに形成されたものです。
江戸期の中頃、青森・岩手を旅行した橘南鶏は
「南部・津軽の地名には蝦夷語のものが多い。昔はここも
彼らの領地だったのだろう。ウテツというところは今でも
蝦夷の風俗をしていて、津軽人は彼らはエゾ種だと卑しんでいるが
南部・津軽の村民も大方はエゾ種だろう。ただはやく公民となった
ところは風俗・言語が変わって、昔から日本人だったように
言っているのだろう」
と書いています。
これは現代の人類学者の意見と同じですね。
>>540 >人類学者は古代の東北居住民とアイヌはほとんど同じ遺伝子をもっていると主張している。
もし人類学者がそんなことをほんとに言ってるとしたら、それこそトンデモだね
「古代の東北居住民」のDNAが検出されたって話は聞いたことがないな(藁
>>542 現代の東北人、アイヌのDNAを調べれば推定されるのよ。
今に古人骨でも証明されるだろう。
揚げ足取りしかできないのか?
それに江戸期の秋田の学者菅柄真澄は縄文土器を研究し、
「これを残したのはアイヌだ」と結論しているよ。
544 :
日本@名無史さん:01/12/03 11:46
>>542さん
>現代の東北人、アイヌのDNAを調べれば推定されるのよ。
出典をよろしく。あれば信用します。
>今に古人骨でも証明されるだろう。
だろう話はなしね。事実と推測をごっちゃにしない、それが科学的姿勢なのでは?
>それに江戸期の秋田の学者菅柄真澄は縄文土器を研究し、
>「これを残したのはアイヌだ」と結論しているよ。
で、それが正しいのか、間違っているのか、なんなのか?
明治期の考古学の大家坪井正五郎は縄文土器を研究し、
「これを残したのはころぼっくるだ」と結論しているよ。(ワラ
権威を引き出して正当化するのはデムパ的だね。
ちなみに菅江だよ。あいかわらずこちらも・・・。ププ
542は分子時計の概念を知らないのか。無知な奴。
>>544 >出典をよろしく。あれば信用します。
とりあえず埴原和郎「日本人の誕生」(吉川弘文館、1996)を紹介。
「アイヌと東北地方人の間に(遺伝学的に)大きな差はない」、
「アイヌは異人種でなく、日本人の地域差の中に含まれるローカルな集団」
ということがDNA検索、イヌやネズミの遺伝子まで検索して示されている。
>それが正しいのか、間違っているのか、なんなのか?
> 明治期の考古学の大家坪井正五郎は縄文土器を研究し、
>「これを残したのはころぼっくるだ」と結論しているよ。
菅柄は菅江の変換ミス。それにしてもお前はバカだな。
菅江は18世紀の人で、「縄文土器」がモースにより発見されるより前の
話だよ。明治の坪井を持ち出してどうするのよ。
菅江は秋田・青森の考古学的調査を行い、「地名の分布から考えて
昔ここにはアイヌが住んでいた。発掘される縄文式土器(当時の名称は
違う)は彼らが作り・使用したもの」と結論している。
資料の記録の仕方、推論の合理性など、明治の考古学者はおろか、
今の考古学者よりはるかに優れているね。
それを「権威への盲従」としかとれないなんて、お前は本物のバカだ。
547 :
日本@名無史さん:01/12/03 12:15
548 :
日本@名無史さん:01/12/03 12:40
549 :
日本@名無史さん:01/12/03 13:32
>>542 恫喝と権威者を引き合いに出して自説を補強することしかできないのは、
不幸だねえ。あと、なりすましとうそつきと論点ずらしかい?
>菅江は18世紀の人で、「縄文土器」がモースにより発見されるより前の
>話だよ。明治の坪井を持ち出してどうするのよ。
あのねえ、別に菅江がどうこう言った問題ではないの。菅江真澄の事績くらいしってるわい。
ちなみに「考古学的調査」はおこなっていないから、よろしく。水戸光圀ならわかるが。
「誰誰がいっているから」正しい、ということについての皮肉だよ。
なんで坪井をあげたかは、お分かりでないようだね。
大体、帰納的推論の意味を取り違えている奴が多くて困る。必要なのは傍証じゃないだろ。
科学が聞いてあきれるよ。
「バカだ」「〜よりも優れている」とかレッテル貼りは戦後民主主義世代の
特徴と小坂修平がいってるけど、まさにその例だね。
縄文と弥生の問題なのに、7・8世紀とか江戸時代の人間の言葉とか
出してそれが根拠だといっていることに対していっているわけ?
おわかり?変なところに反応しないで、気づきなさい。
あと、興奮すると言い回しが共通するのは、書いた人がミエミエだね。
550 :
日本@名無史さん:01/12/03 13:51
追加:
言語と人種は必ずしも一致しない。
百歩譲って律令体制下としても、続紀に「蝦夷」とされているのは
大きくわけて3つ。どれのことを指しているの?
「縄文土器を研究」といったのはあなただよ。
あと、単一民族なんて命題、頭の中からまだ絶滅してない人いるんだね。
それをいまさらあげつらって、どうするんかなあ。
まあ、ちょっと前の政治家にもいたね。
>>549 >「誰誰がいっているから」正しい
そういう論法は一度も使っていない。ちゃんとその人のいう根拠を
挙げています。例えば539の引用では工藤雅樹の理論だけが引用され
その根拠が示されていない。
そういう考古学者と一緒にするな。
>縄文と弥生の問題なのに、7・8世紀とか江戸時代の人間の言葉とか
>出してそれが根拠だといっている
考古学者は視野狭窄だから「縄文と弥生」の遺跡しか比較できない。
そのレベルですら紀元5世紀に水田稲作は利根川以西までしか波及して
いなかったことは証明された。
この頃利根川以北には縄文人がいて、狩猟採取の生活をしており、弥生人の
北上に抵抗したことが、風土記や日本書紀・続日本紀などから証明される。
江戸時代にも青森や岩手にはアイヌがいたことが記録されている。
東北にはアイヌ語の地名があちこちに残っている。縄文土器はこの地方から
多数みつかる。記紀の時代の蝦夷がアイヌ語をしゃべっていたことも証拠がある。
そこで江戸時代にも蝦夷=アイヌが日本の先住民族だと考えた学者がいた。
現代の言語学者は縄文語はオーストロネシア語の系統で、アイヌ語と近縁だと
考える人が増えてきた。
人類学者は、DNAなどの証拠から東北人とアイヌは近縁で、縄文人の子孫だと
考えている。
そういう多面的な証拠による議論だよ。
悔しかったら一つずつ証拠に反論してみろ。
(´○`)<その何とかという学者の推論の合理性を判断する
材料がないんだなあ・・・。ROMらーには
553 :
日本@名無史さん:01/12/03 16:43
>考古学者は視野狭窄だから「縄文と弥生」の遺跡しか比較できない。
>そのレベルですら紀元5世紀に水田稲作は利根川以西までしか波及して
>いなかったことは証明された。
5世紀には利根川以東には水田は広がらなかったって?
誰が言ったか知らないが、それじゃあこれはどう評価するのかな?
http://www.iwate-np.co.jp/news/y2000/m200010/n20001013.html 7世紀に朝廷が「征伐」した「蝦夷」が「狩猟採集民だった」という記紀の記述を鵜
呑みにして論を展開してるけど、朝廷に従わない「農耕民」だったらそのときはどう
するのかな。
ああ縄文人の血を引く「古代の縄文族」だって言えばいいのか。生業は関係ないんだね。
便利なもんだ。
554 :
日本@名無史さん:01/12/03 16:52
>>552 工藤雅樹の話なら、すぐにも批判できますよ。
>「蝦夷は中央政府の直接の支配の外の人々の呼称であり、早い時期には本州北部
から北海道にかけての地域はすべて蝦夷の地域であったのだが、中央政府の直接の
支配が本州の最北にまで及んだ段階で、北海道のみが蝦夷の世界となった。」
古墳時代の人々に国家意識も民族意識もなかったと思われる。(あったのは部族意識
でしょう)蝦夷やクマソという呼称が、「支配外の部族」に対して用いられたのだ、
というのはよろしいと思うし、蝦夷の支配域が歴史的に後退したというのも正しい。
しかし支配外部族としての蝦夷は何であったか、という議論を避けてはいけない。
それは縄文人だったし、アイヌの祖先です。
「そしてこの地域において、アイヌ民族が形成されていったのである。」
しかしこの言明から科学でなくなる。「民族」とは何か。文化なのか、遺伝子なのか?
アイヌ民族は中世以後に形成されたと言っているのか?遺伝子で民族を規定するとすれば
こんなバカな話はない。また中世以後にアイヌの文化が形成されたというのも馬鹿げた話。
これは「アイヌという言葉は中世以前になかったので、アイヌはそれ以前にはいなかった」
ということを言っている。
日本という言葉は8世紀に作られたので、日本列島はそれ以前には存在しなかった、という
論理と一緒。アイヌに相当する部族は古代にもいて、それが「蝦夷」と呼ばれたことは疑い
ようがない。それをあっさり無視している。
>「東北北部の人々は、途中までアイヌ民族への途を歩んでいた人びととほとんど同じ
歩みをしていた。このような考え方をするならば、東北の古代蝦夷は最終的にアイヌ
民族になれなかった人びとであるといえる。また、別の言い方をするならば(中略)
もっとも遅く日本民族の一員となった人びとであるとすることもできるであろう。」
そしてこの言明になるともう学問を超えて、物事をあいまいにする、ほとんど政治的発言。
「ほとんど同じ歩み」という言葉は何を意味するのか?
「同じ部族だったが、東北の人は同化の道を選び国家に帰属した。同化を拒否した
部族が北海道を拠点に国家への帰属を拒み、明治以後にアイヌと呼ばれるようになった」
そういうことを言っているのなら、もっとはっきり言わなきゃ。
「日本民族」などという非科学的用語もおかしい。
555 :
日本@名無史さん:01/12/03 16:56
東北人が考古学に関わらないのならば、この分野はそれなりの
成果があるでしょう。
556 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:00
例によって、読み噛りの知識をもとに、知ったかぶりの独善的な議論が進んでいるようだ。少し情報を提供しておこう。資料が手元にないので、とりあえず記憶を元に示しておく。あとで確認して間違いがあったら訂正する。
宮城県石巻市にある五松山洞窟からは、6世紀末から7世紀初頭にかけての遺物(刀装具・須恵器など)とともに多数の人骨が出土している。
石灰質の洞窟であるため、骨がよく残った。サルの骨も一体分出ている。
骨の多くは一端整理してあるため、いわゆる再葬行為が行われたと見られている。
この一群の人骨に対して、調査にあたった山口敏氏(当時科学博物館)は、いわゆる倭人が主体であるが、それにいわゆるアイヌ系の形質をよく示す固体が混じっている、と捉えている(私も整理に参加し、実際に骨を手にしながら氏の話を聞いた)。
山口氏は、「倭」系の人々と「アイヌ」系の人々とが混住していたと見ていた(と記憶している)。
なお遺物については、全国の同時期の古墳から出土するものと完全に共通している。
こうした事例一つだけから何か一般的なことをいきなり引き出すのは危険だが、その点を押さえた上で、さまざまな解釈が可能だろう。
いずれにしても、はじめに自分の説があって、それに都合の良い生半可な知識を引っ付けて、それを「科学」だなんていうトンデモは、止めにしてね。
いくら2チャンネルにしてもさ。(まあ、他で延々とやられるよりはマシかもしれんが、少しは反省して欲しいな)。
557 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:02
>>521 >現代の言語学者は縄文語はオーストロネシア語の系統で、アイヌ語と近縁だと
>考える人が増えてきた。
>人類学者は、DNAなどの証拠から東北人とアイヌは近縁で、縄文人の子孫だと
>考えている。
うむむ。この言語学者の意見と、人類学者の意見はまったく対立
しているのではないかな。
オーストロネシア語のルーツは、普通、台湾だと言われているし、
縄文人のDNA起源はシベリア由来が主流なのではないでしょうか。
(人類学者は、縄文語はアルタイ語説を支持する人が多い)
558 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:10
>>553 >7世紀に朝廷が「征伐」した「蝦夷」が「狩猟採集民だった」という記紀の記述を鵜
呑みにして論を展開してるけど、朝廷に従わない「農耕民」だったらそのときはどう
するのかな。
蝦夷は「我々と異なり米を食わず肉を食う」という記載は記紀の記録に何度も出てくる。
また「蝦夷の子供が殊勝にも出家した」という記載も特筆されている。
ごちゃごちゃいわずに「蝦夷が田圃を作り、米を食った」という証拠をあるものなら
出して見ろよ。米を食うようになった段階で、「公民」に同化したのだよ。だから蝦夷の
風俗もすてた。
559 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:10
ちょっと質問。
「縄文語」って誰が録音したの?
560 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:18
>>557 >縄文人のDNA起源はシベリア由来が主流なのではないでしょうか。
>(人類学者は、縄文語はアルタイ語説を支持する人が多い)
はじめて聞く意見だな。出典を示してくれや。
縄文人はスンダ系で南方起源。但し一旦北上して北から日本に入った
可能性もある、という意見は聞いたことがあるが。
オーストロネシア語の起源は台湾とされていて、紀元前5000年くらい前から
拡散をはじめたとされている。
だから縄文の初めの頃はまた別の言語があった可能性もあるということだろう。
あるいはそれがスンダ語かも知れない。
561 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:34
562 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:36
あの〜、少なくとも東北から水田遺構は出てるんですが…
563 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:37
>日本という言葉は8世紀に作られたので、日本列島はそれ以前には存在しなかった、という
>論理と一緒。
自分の住んでいる国の国号がいつ出てくるかぐらい、しっとけや、厨房。
>ごちゃごちゃいわずに「蝦夷が田圃を作り、米を食った」という証拠をあるもの
>なら出して見ろよ。米を食うようになった段階で、「公民」に同化したのだよ。
>だから蝦夷の風俗もすてた。
あのーその証拠のひとつがこれなんですけど…
確認するけど、あなたのアタマには、「田圃を作ったり、米を食ったりする蝦夷」
ってのがありうるの?
もしかして蝦夷が田圃をつくったりや米を食べてましたよって言った瞬間
「それは蝦夷じゃない」って言い出すんじゃないの?大丈夫だよね。「蝦夷」
とは米を食ったり田圃つくったりしないもんなんだってのは無しだよ。
それと「蝦夷」の証明はどうしたら納得するの?
565 :
日本@名無史さん:01/12/03 17:56
結局、自分の都合の良いとこのみ強調して、説得できると思ってるんだね。
>考古学者は視野狭窄だから「縄文と弥生」の遺跡しか比較できない。
>そのレベルですら紀元5世紀に水田稲作は利根川以西までしか波及して
>いなかったことは証明された。
>この頃利根川以北には縄文人がいて、狩猟採取の生活をしており、弥生人の
>北上に抵抗したことが、風土記や日本書紀・続日本紀などから証明される。
無知だから、5世紀の実態がわかっていないようだね
同時代資料でないものを引き出して、どうやって証明するの?
大体、上の3つの史料が5世紀だとどうしていえる?
視野狭窄を馬鹿にする前に、トンデモを直せよ。
>江戸時代にも青森や岩手にはアイヌがいたことが記録されている。
>東北にはアイヌ語の地名があちこちに残っている。縄文土器はこの地方から
>多数みつかる。
だからあ、それは証拠にならないって。
宋銭の混入から縄文時代が中世まで続いていた、という昔の議論を思い出すねえ。
江戸時代のことを出してどうするのさ。物知りだ、って自慢したいの?
全く異なる時代の事象を例示しても証明にはならない、それを視野狭窄とみるなら、
その言葉全部お返しするよ。
>記紀の時代の蝦夷がアイヌ語をしゃべっていたことも証拠がある。
ほほう、その証拠を教えて欲しいですね。続紀とかはやめてね。あげてもいいけど(ププ
566 :
日本@名無史さん:01/12/03 18:39
あほか。
エミシには田夷(たえみし)と山夷(やまえみし)があるぐらい知らないのか?
よくもまあえらそうに議論してるな。
>>543 >現代の東北人、アイヌのDNAを調べれば推定されるのよ。
>今に古人骨でも証明されるだろう。
つまりまだ調べられてないんでしょ?
何の根拠もないうちから、もし
「古代の東北居住民とアイヌはほとんど同じ遺伝子をもっている」
なんて主張してたらトンデモだと言ってるんだよ
>>545 >542は分子時計の概念を知らないのか。無知な奴。
分子時計は、DNAの突然変異が定期的に発生するという仮定に基づいて、
ある生物種とある生物種がいつ分岐したのかを測ること(とその測定結果のこと)だよ
つまり分子時計は、測定対象が(祖先を同一とするが)別種であることを前提としているものだ
あれ? ということは、545氏は「古代の東北居住民とアイヌは別種である」と主張してるのか?(藁
>>559 >「縄文語」って誰が録音したの?
誰も録音してません
たしか「縄文語」はアイヌ語をもとにして復原されたものだったはず
(この件について情報きぼん)
>>558 証拠その2
「東北地方南半では、仙台平野の仙台市富沢遺跡、真野川上流域の福島県飯館町岩下A遺跡
において弥生水田跡が検出されている。
ことに富沢遺跡では大規模な調査によって中期前半から中期後葉、さらに後期にかけての
水田跡が層位的にとらえられている。(中略)第8次調査では、中期前半の幅2メートル,
深さ1メートルの水路と幅80センチメートルほどの畔が検出されており、中期前半に計画性
を持つ水田が営まれたことが確認された。(中略)このように東北地方では弥生後期に農耕社会が一層発展を遂げる。
須藤隆1992「4弥生社会の成立と展開」『新版日本の古代』角川書店
>>563 じゃ、それが弥生人によるものではなく蝦夷によるものだと
証明してみな。
570 :
日本@名無史さん:01/12/03 23:41
私は545ではないが、
>>567の無知にはあきれるね。
分子時計は遺伝子の突然変異率が一定なので測定対象の分岐年代が分かるというだけで、
別種とか同種とか全く関係ない話。
縄文から現代までの短期間で遺伝子はほとんど変わらないから現代人同士の比較で古代が十分推定可能であることは分子時計の意味を理解していればすぐ分かる。
567はその辺がぜんぜん理解できていない。
>>543と
>>545に教えてもらえ。(藁
571 :
日本@名無史さん:01/12/03 23:49
>>556 >石巻市にある五松山洞窟からは、6世紀末から7世紀初頭にかけての遺物(刀装具・須恵器など)とともに多数の人骨が出土している。
骨の多くは一端整理してあるため、いわゆる再葬行為が行われたと見られている。
この一群の人骨(は)いわゆる倭人が主体であるが、それにいわゆるアイヌ系の形質をよく示す固体が混じっている。
なお遺物については、全国の同時期の古墳から出土するものと完全に共通している。
要するに7世紀頃の石巻の洞窟が倭人(弥生人)の墓場として使われていた。そこに少数だがアイヌ系の骨も混じっていた。
副葬品は西日本のものと変わらなかった、そういう話だろ。
7世紀には弥生人が宮城県に進出していた。そして一部のアイヌ(蝦夷)それと同化していた、そういうことで弥生人北進説の反論には
なっていない。
572 :
日本@名無史さん:01/12/04 00:39
松本秀雄の研究でアイヌも日本人もほとんど遺伝子的には変わらないことが
判明しているんだけどなあ。混血とやらもほとんどないのがはっきりしている
はずだけど。
こんな議論意味あるの?
573 :
日本@名無史さん:01/12/04 01:34
>>567 >つまり分子時計は、測定対象が(祖先を同一とするが)別種であることを前提としているものだ
無知とは恐ろしいな。文系隔離教育の弊害だ。
574 :
日本@名無史さん:01/12/04 01:59
>>573 違うよ。
こんな間違いは、例の医学系デムパだって。(W
575 :
日本@名無史さん:01/12/04 02:06
>>574 いや、残念ながら567は文学部系デムパだ。
疫学的観点から567のような個体は医学部には存在し得ない。
576 :
日本@名無史さん:01/12/04 11:10
>疫学的観点から567のような個体は医学部には存在し得ない。
文章意味不明だが、確率は低い、位にしておいたほうがいいよ。
あ、医学部はまっとうだけど教養くずれの総合科学部ならいるってことか。
>7世紀には弥生人が宮城県に進出していた。そして一部のアイヌ(蝦夷)それと同化していた、
>そういうことで弥生人北進説の反論にはなっていない。
だから、何がいいたいの?まず歴史事象押さえろや。
566についてでいいから、反論してみろ。
7世紀に混在しているんなら、お前のいっている記紀の記録の状況と
矛盾するじゃないか。あれには郡表記の地名表記があったな。
自分でも7世紀は、っていってるじゃないか。
すぐに発言が変わるのはやめろよ。
あと、563の批判をちゃんと答えろ。
興奮すると冷静になれずにすぐに間違えるのがデムパ先生の特徴だが、
もうちょっと考えてから書き込みボタン押せよ。
577 :
日本@名無史さん:01/12/04 11:37
>>576 >566についてでいいから、反論してみろ。
田夷が水田を作っていたというのならそれを証明して見ろ。
「田」というのは昔は畑も含んでいたのだ。
563の批判は的はずれも良いとこ。答える必要もない。
>7世紀に混在しているんなら、お前のいっている記紀の記録の状況と
矛盾するじゃないか。
416では7世紀に常陸の国に蝦夷がいて討伐されたという事実が述べられている。
7世紀に海路、石巻近郊に弥生人のコロニーが作られていたという事実は、「弥生人の
北進」を支持するものであっても、常陸の国風土記の記述となんら矛盾はない。
要するにこの頃はまだ陸路は整備不良で交通には海路が用いられていた。(安倍比羅夫の
征討も海路行われている)
蝦夷は海岸部を押さえられて(そこは稲作に適している)、だんだん山奥に後退した
のだよ。三重県の奥にも孤立した蝦夷の集団が残っていて、他地域に移住させられたこと
が記録に残っている。東北もいきなり面として征服されたのではなく、しばらくはあちこち
に「山の蝦夷」が残っていたと思われる。
どうでもいいけど、いたづらに相手を推測して固有名詞を挙げたり、言葉尻をとらえて反論した気になっているのは
考古学者の品位を下げるだけではないかな。ちっとはましな内容的反論をしろや。
578 :
日本@名無史さん:01/12/04 12:06
結局406の提起したモデル
>地域は東北地方に限定します。
>1)弥生時代
弥生文化を持った集団が、東北各地に「入植」する。ただし、「入植」は縄文以来
の集団の構成を大きく変化させるような影響は与えなかった。指導層も大きく入れ
替わるということも少なかった。同時に弥生人と在来民の混血は進んだ。
やがて、寒冷期となり水田稲作をあきらめた人々は、狩猟採集に生業のウエイトを
置くようになった。
なお、入植は、統一された政治勢力の(つまりクニの)政策としておこなわれた
>ものではなく、個々の事情によるものであった。
この当否すなわちそれがどれだけ事実により裏づけられているかが問題となると思う。
入植が現地社会の構成に大変化をもたらさなかったとか、指導層の後退がなかったとか、
混血が進んだとか、水田稲作から狩猟採取に戻ったとかは、どういう証拠からの解釈
なのか?
もし縄文人と弥生人が融和して(弥生語を話していたのなら)、どうして7世紀以後
たびたび反乱が起き中央政府と対立したのか、それが説明できないと思う。
それに水田稲作文化から狩猟採取文化への逆行はないと思う。
議論が進んだ時点で、406の意見を聞きたいな。
例えば寺沢薫は紀元前3世紀の西日本で縄文人と弥生人は平和に入り混じって
生活していたという。(「日本の歴史02王権誕生」)
その根拠は縄文系土器と弥生系土器が同じ遺跡に見られること、同じ墓地の壺棺に
二種の土器が見られることなどにおかれている。
私はこれが考古学者の「平和共存説」の根拠ではないかと思う。
ここでは「人種が異なれば、違う土器を使う」という考えが前提とされている。
しかし土器はしょせん器具であり、必要に応じて交換で手に入れるという考え方も
成り立つと思うが、それは無視されている。
一方で「水田稲作」というような高度な技術文明が「縄文人による選択的受容」で東に
伝播したとも主張している。これは一種の論理矛盾である。
私はそれは逆だと思う。
土器は交換で入手できるが、水田稲作のような高度な技術文明は簡単には伝播しない。
(何しろ失敗したら1年の労働が無駄になり、飢え死にするのだから。土器つくりとはわけが
ちがう)
他方、人骨の解析では北部九州には響灘に面した土井が浜から吉野ヶ里に近い三津永田まで
弥生人が分布し、それより西、長崎の深堀、五島の浜郷、松原には縄文人が分布していたこと
が明らかになっている。
このデータは弥生集団が縄文集団を押しのけるようにコロニーを作ったことを意味している。
厳密に言うと弥生遺跡の人骨は10〜20%ほど縄文人の人骨を含んでいるという。
集落内に同居していたこの縄文人が何をしていたかを推測すれば、「弥生遺跡の縄文土器」の
謎も、556が紹介した石巻の洞窟の人骨の謎も解けると思う。
ただこのように階級化が非常に早くから始まったという考えは、一切の悪を天皇制に結びつけて
考えがちだった戦後歴史学のイデオロギーには都合が悪かったのだろう。
580 :
406=415:01/12/04 13:16
>>578 >議論が進んだ時点で、406の意見を聞きたいな。
こっちも議論に参加したいところですが、議論の整理をしてい
ますのでもう少しお待ちください。
ただこの点だけはいただけませんね。
>もし縄文人と弥生人が融和して(弥生語を話していたのなら)、どうして7世紀
以後たびたび反乱が起き中央政府と対立したのか、それが説明できないと思う。
縄文人が弥生人と融和したとき、縄文人が弥生語を話さなければならない理由は
あるのでしょうか?進んだ弥生人が劣った縄文人の言葉など話す訳がない。
最初から縄文人と弥生人の融和など在りえないという先入観がありはし
ないでしょうか。科学的にというなら「平和共存モデル」も「征服モデル」も
先入観には気をつけたいものです。
>>580 >文人が弥生人と融和したとき、縄文人が弥生語を話さなければならない理由は
あるのでしょうか?
これは舌足らずでした。古代人にとって敵か味方かの識別は、「同じ言葉を話すか」、
「同じ神を崇めるか」のどちらかでした。
蝦夷と大和人の言葉が通訳を必要とするほど、違っていたことははっきりしています。
記紀に見られる蝦夷が、縄文人と弥生人の混血により生じたものとすれば、弥生人が言葉を
失い縄文人の言葉を話していたと考えられます。弥生語を話していれば、容易に相互理解が
可能で紛争にはならなかったでしょう。
逆に弥生語を話していなかったということは、蝦夷が縄文人と弥生人の混血でないことの
証明です。
>最初から縄文人と弥生人の融和など在りえないという先入観がありはしないでしょうか。
「先入観」はあります。しかしそれは世界各地の古代の民族接触に際して起こったことに
依拠した先入観で、別に偏見ではありません。むしろ「平和共存モデル」の方が、日本だけに
特殊な状況を仮定しているという点で先入観とか偏見があるのではないか、と思います。
要するに学問では仮説として他の例とのアナロジーを用いざるをえないのです。
もちろん確固としたデータでそれが否定されれば、「日本だけに起こった異民族の融和」を
承認いたします。
582 :
日本@名無史さん:01/12/04 14:07
>田夷が水田を作っていたというのならそれを証明して見ろ。
>「田」というのは昔は畑も含んでいたのだ。
狩猟採集民と農耕民の対比ではなかったのか?
詭弁を弄するな。
青森/森ノ越野月・庭構、岩手/今松・田中、山形/西沼田・島、
宮城/山前・中在家南・押口・山王、福島/大森A
古墳時代の水田耕作の痕跡のある代表的な遺跡。一応いっておく。
ちなみに海岸部だけではないよ。
>水田稲作文化から狩猟採取文化への逆行はないと思う。
垂柳や富沢など、弥生時代に到来した水田技術が単発的なものに
終わったことは後続する集落がないことから理解できる。
この点、半島系の集落が出現し、短期間に消滅する、という縄文時代後晩期の九州と似た状況がある。
農耕から狩猟への変化はアフリカをはじめ、そういう例が存在する。前も出ていたが、
ジンバヴェとかエチオピアとか、内蒙古とか外的な影響で農耕をはじめるが、
放棄する場合も多い。
そういう素朴な新進化主義がイデオロギー操作の根拠となっていることをお忘れなく。
グレートジンバヴェの研究の過程を知って欲しい。
>ただこのように階級化が非常に早くから始まったという考えは、一切の悪を天皇制に結びつけて
>考えがちだった戦後歴史学のイデオロギーには都合が悪かったのだろう。
新しい本を読んで下さい。階級化の進展は弥生時代から、という考えのものが多い。
古い本ばかり読んで昔のテーゼにひっかかってませんか。
>416では7世紀に常陸の国に蝦夷がいて討伐されたという事実が述べられている。
>7世紀に海路、石巻近郊に弥生人のコロニーが作られていたという事実は、
>「弥生人の北進」を支持するものであっても、常陸の国風土記の記述となんら矛盾はない。
郡制に基づく記述が後世の創作である、という簡単な史料批判をしてみたもの。
学問的な操作もなく単純に都合のいいとこだけ持ってこないように。
ちなみに石巻は宮城県。
それから、霞ケ浦沿岸の中期古墳はどうするの?集落と水田も出てるけど。
稲作をする蝦夷なのかね?山なら、会津盆地や米沢盆地は?
583 :
日本@名無史さん:01/12/04 14:11
とりあえず、「平和」なんつう主観たっぷりの言葉を使っていると
すれば寺沢は全く間違っている。考古学が客観的な学問であるべきだとするなら、
研究者失格だな。
共存した時期があったということと、平和であることは全く
表現の意味するところが違う。
彼はヨーロッパ新石器研究の成果を知らないのだろうか?
(578のいうとおりのことが書いてあるとすればだが。寺沢の
あの本の何ページにあるんだ?)
>563の批判は的はずれも良いとこ。答える必要もない。
「日本」という国号の成立は7世紀だ、ということを指摘しただけなんだけど。
間違いは訂正しろよ。
>日本という言葉は8世紀に作られたので、日本列島はそれ以前には存在しなかった、という
>論理と一緒。
こんな論理、誰がいってるの?畿内と近畿地方の区別もつかんのかね。
工藤氏の説は擦文時代以降、南との文化的な接触があって、「アイヌ民族」が形成された、という
話だろ、民族と人種を混同するなよ。
585 :
日本@名無史さん:01/12/04 14:39
586 :
日本@名無史さん:01/12/04 14:42
>>584 民族と人種とどうちがうのよ。説明してくれ。
>570
>縄文から現代までの短期間で遺伝子はほとんど変わらないから現代人同士の比較で古代が十分推定可能で
>あることは分子時計の意味を理解していればすぐ分かる。
入り交じっていても推定可能なの?
おいら考古学者じゃないんで、分子時計って知らないんだ。
人種:地球上の人類を骨格・皮膚の色・毛髪の形など身体形質の特徴によって区別した種類。
民族:帰属意識を共有する集団。
じゃない?
589 :
日本@名無史さん:01/12/04 14:58
>>582 何一つ反論になっていませんな。
>古墳時代の水田耕作の痕跡のある代表的な遺跡。
水田に適した地域は斑状に存在するのでその地域は弥生人(古墳人)が住み、
蝦夷が他の地域に住んでいただけでしょう。
水田遺跡が消滅することは住民が狩猟採取に戻ったことの証明ではない。
住民はまずより温かい地域に立ち去るのです。
飢饉になれば山で狩猟採取すればよい、というものでないことは、中世の
飢饉で多数の流民が出たことを見ればわかる。
遺跡の継続性で物事を判断する考古学者は、人間には頭と足があるということを
忘れている。植物ではないんだよ。
>郡制に基づく記述が後世の創作である、という簡単な史料批判
「古老の話」が創作だと証明してみなさい。
君らは都合の悪い話はすぐに創作だ改ざんだと決めつける癖がある。
>586
>
>>584 > 民族と人種とどうちがうのよ。説明してくれ。
えっ???
そ〜〜〜なのか。こ〜ゆ〜奴が話に交ざっていたのか。
591 :
日本@名無史さん:01/12/04 15:04
>「先入観」はあります。しかしそれは世界各地の古代の民族接触に際して起こったことに
依拠した先入観で、別に偏見ではありません。むしろ「平和共存モデル」の方が、日本だけに
特殊な状況を仮定しているという点で先入観とか偏見があるのではないか、と思います。
要するに学問では仮説として他の例とのアナロジーを用いざるをえないのです。
五胡十六国の時代など、中国の歴史では、共存する期間も長いと思います。もちろん対立もあるでしょうが。
共存と衝突を繰り返しているということで、平和共存の段階も、武力衝突の時もあったのでしょう。
また、人種的な問題は関係ないと思います。同じ人種でも異なる人種でも争うことも
あれば共存することもある。それだけのことでは。
確かに、一部の考古学者はまだ原始共同体信仰を捨てていないと思うけれども、
それが全ての「考古学者」としてまとめられるのは頂けません。
「古老の話」が創作ではないと証明してみなさい。
7世紀に「郡」が存在していた事実を証明してみなさい。
こちらは「郡評論争」を下敷きにしていっている。反論するならこれを粉砕して
みなよ。
>水田に適した地域は斑状に存在するのでその地域は弥生人(古墳人)が住み、
>蝦夷が他の地域に住んでいただけでしょう。
5世紀に利根川(って、河道の変化知ってるんだろーな)以西にしか稲作が
ない、ということの反論であって、そういう話をしているのではない。
どんどん論旨をかえないで欲しい。
>住民はまずより温かい地域に立ち去るのです。
人工物の変遷から、水稲耕作を放棄したものと考えている。
津軽半島から、温かい地域にって、どこのことだよ。
垂柳遺跡と類似する人工物を保持した集団があたたかい地域に移動したことが
わかる例をあげてみて下さい。
>飢饉になれば山で狩猟採取すればよい、というものでないことは、中世の
>飢饉で多数の流民が出たことを見ればわかる。
知りませんね。近世と御間違いでは?近世でいえば、不作>自然資源の採集
を経て、それでも人口が維持できない時に飢饉になるのだと思うけど。
それから飢饉は都市と関連する、と思うのですが(藤田弘夫等)。
「米作民族」信仰が未だ払拭されていないんだなあ。
593 :
ROMらーの疑問:01/12/04 15:52
>>579 「おら稲作さやるだ」という方針になったら、狩猟はもう二度とやらないで
集落全体が稲作一辺倒になるのん?
見極めながら漸進とは行かないのん?
失敗を見込んで一部の人間が狩猟にも手を出すことはないのん?
594 :
日本@名無史さん:01/12/04 17:00
>>592 >7世紀に「郡」が存在していた事実を証明してみなさい。
はいはい、「日本史総合年表」には703年に「郡司任用法を改める」とありますな。
これは方の改正だから法自体はそれより前にあった。
685年には「郡司の消息を調査させる」とありますな。
669年には「百済人を近江蒲生郡に置く」とありますな。
以上ですが、まだ何かご不審でしょうか?
>5世紀に利根川(って、河道の変化知ってるんだろーな)以西にしか稲作が
ない、ということの反論で
貴方の言うのは「東北の古墳時代」でしょ。
絶対年代でそれらの遺跡の年代を示しなさい。
>垂柳遺跡と類似する人工物を保持した集団があたたかい地域に移動したことが
>わかる例をあげてみて下さい。
あのね、太平洋を渡ってペルーに行ったのです。
>近世でいえば、不作>自然資源の採集
>を経て、それでも人口が維持できない時に飢饉になるのだと思うけど。
>それから飢饉は都市と関連する、と思うのですが
一旦水田耕作が始まるとその食料生産力に依存して、人口は増え社会的分業も
発達する。飢饉で食料生産が途絶すると、その人口はとても自然資源の採取では
養えない。これは都市だけの問題でなく、天明の飢饉で津軽・南部の人口がほとんど
絶滅したことでも明らか。あれはホント農村だった。
人々は南へ南へ移動し、その途中で路傍に倒れた。
595 :
日本@名無史さん:01/12/04 17:58
縄文時代は平等で、戦争もなかった、という考え方は
考古学では佐原真が主張してきたようだ。
これに対して小林達雄は「縄文社会も階層社会で、奴隷もいた。
また戦争もあった」と考えている。
「縄文は自壊して自然に弥生を受け入れたのではなく、弥生の力に
圧倒されて稲作技術を中心とした弥生的世界観を受け入れた」と
述べている。(「遺跡は語る」角川、2001)
別に権威に依拠するつもりはないが、この考え方は「征服モデル」に
近く佐原説よりも合理的だと思う。
591の
>確かに、一部の考古学者はまだ原始共同体信仰を捨てていないと思うけれども、
>それが全ての「考古学者」としてまとめられるのは頂けません。
というのが佐原と小林の違いを指しているのであれば、納得する。
佐原真は捏造発覚のとき「私は性善説で疑うことをしませんでした」と
述べたが、この人が「人は善人で、平和であってほしい」と心から
願っていることはわかるが、それを学問に持ち込まれてもね。
>7世紀に「郡」が存在していた事実を証明してみなさい。
はいはい、「日本史総合年表」には703年に「郡司任用法を改める」とありますな。
これは方の改正だから法自体はそれより前にあった。
685年には「郡司の消息を調査させる」とありますな。
669年には「百済人を近江蒲生郡に置く」とありますな。
以上ですが、まだ何かご不審でしょうか?
残念でしたね。大宝令から「郡」であって、それ以前は「評」であったことが、
文献史学、考古学の両面の検討から明らかになっていますね。
大化の改新の詔の「郡」の表記を出さなかっただけいいか、ってとこかな。
もう少し、ちゃんと調べてくれないと困るね。
まさか、教科書とか、年表に書かれていること正しいなんて、厨房みたいなこと
思ってないよね?こんなDQN喜んで出してきて。
たぶんこうくる、ってのでネタふりしたのがわからんの?
ちなみに、私は考古学は研究してないよ。捏造するとこなぞしらん。
>5世紀に利根川(って、河道の変化知ってるんだろーな)以西にしか稲作が
ない、ということの反論で
貴方の言うのは「東北の古墳時代」でしょ。絶対年代でそれらの遺跡の年代を示しなさい。
では、まずあなたはいつだと考えているのですか?根拠は?
三角縁神獣鏡長期間伝世説でも唱えてみますか。
>垂柳遺跡と類似する人工物を保持した集団があたたかい地域に移動したことが
>わかる例をあげてみて下さい。
あのね、太平洋を渡ってペルーに行ったのです。
ごめん、ネタだよね・・・。エクアドルのcordmark potteryのこと?
それなら、縄文土器と弥生土器の方が似ているよ(ワラ
DQNやめてね。科学なら。ちなみに、縄文を施文するので共通点を出したいな
ら、中東とかも忘れずに。ちゃんと写真とか見てご覧。
>一旦水田耕作が始まるとその食料生産力に依存して、人口は増え社会的分業も
発達する。飢饉で食料生産が途絶すると、その人口はとても自然資源の採取では
養えない。これは都市だけの問題でなく、天明の飢饉で津軽・南部の人口がほとんど
絶滅したことでも明らか。あれはホント農村だった。
本読んでね「都市の論理」藤田弘夫。別に都市の飢饉のことをいっている訳ではないよ。
それから、中世ではなく、近世でしたね。同時代史料で中世がどんな食生活だったか、
みてみなよ。どの時代でもまぜこぜにするのはやめな。米食民族妄想者さん。
597 :
日本@名無史さん:01/12/04 18:30
>>595 佐原が「縄文人は戦争をしない」というのは無知に基づいていることについてはわかるが、
>「縄文は自壊して自然に弥生を受け入れたのではなく、弥生の力に
> 圧倒されて稲作技術を中心とした弥生的世界観を受け入れた」
という小林の説って佐原と矛盾するの?
縄文社会論とはまた別の話だと思うんだけどね。
598 :
日本@名無史さん:01/12/04 19:31
599 :
日本@名無史さん:01/12/04 19:41
>>582 >大宝令から「郡」であって、それ以前は「評」であったことが、
>文献史学、考古学の両面の検討から明らかになっていますね。
だから君はひとからバカだといわれるのだよ。
大宝律令(701)年で評が郡に変わったからといって、その前に評という
行政単位があったわけだろう。君は、町村合併で村が町に変わったから
合併以前は集落がなかったといっているのと同じジャン。
その評と郡が同じような単位だから記録者が郡と書いただけ。
それで「古老の話」を疑う必要は全くない。
バカはバカなりに古老の話が捏造だと証明して見ろ。
少し長いのですが杉原氏の論点を要約してみました。議論の進展に重要な事実を提供しています。
私はこの論文を科学的論文と評価します。
番号の後には事実認定のみが書いてあります。(考古学の方、
事実認定の誤りがあったら指摘して下さい)
1) (弥生時代の)環壕集落は、日本海側は新潟県まで、太平洋側は千葉県まで分布し、
内陸は長野県、群馬県まで発見されている。太平洋側では、宮ノ台式土器が基本的には
現在の利根川を越えないのと同様に、環壕集落も北関東の栃木県、茨城県からは発見されない。
2) 墓制においても方形周溝墓は利根川以北から発見されない
3) 金属器の出土も著しく低い。利根川を挟んだ南北の地域は、著しい相違を示す。
よって弥生文化前期の関東、東北の環壕集落の存在は否定され、北関東以北には古墳時代に
なって拡大する認定される。
これらの事実は弥生文化内の地域差として認識できる範囲を越えているとみるべきである。
南に弥生文化が想定されるならば、北には大森文化から伝統文化(縄文文化)の存在を考えるべき。
4) 弥生時代における南関東までの環壕集落は、古墳時代になると古墳や方形周溝墓とともに
宮城県付近まで分布が拡大する。土器も土師器となって従来の縄文ある土器とは大きく異なるものとなる。
5) 最近になって秋田県(高橋 1995)、岩手県(高橋他 1995)、青森県(三浦 1995、畠山他 1996)
において平安時代の環壕集落が高地性遺跡とともに確認された.
6) 佐原真、工楽善通らによって弥生前期の環壕集落として注目された群馬県注連引原2遺跡(安中市教育委員会1988、佐原他1988)の環壕は、
その後の再検討により古代の牧にともなう溝と土塁と判断されるにいたった(大工原 1994)。
(馬を逃げないようにするための構造が掘りとその外側の土塁であるならば、
環濠集落も人間にとって同様の機能を果たしたと考えるのが妥当である。
つまり環濠集落は縄文人の収容施設と考えられる。
真の弥生文化が土器、金属器、古墳を伴って北上していくにつれて環濠集落が姿を現し、
縄文人が最終的に征服された平安時代に津軽地方にそれが出現するという現象も、
この仮説に合致する。)
このかっこ内の部分だけ私がつけ加えました。著者の意見の要約です。
601 :
日本@名無史さん:01/12/04 20:27
>>599 なら、そうかけばいいじゃないか。
前でさんざん知ったかぶりして「郡」の類例かいてきたのは誰だよ。
無知を笑おうと、ネタとして狙って言ってるんだよ。
古老の話が捏造でなく、5世紀のことを書いていると証明してみろ。
記録者は、といっているが、見てきたようなうそつくなよ。聞いたのかい。
それが正しいと証明してみろよ。古墳の話はどうした。
本当にバカだね。正しい指摘があるとすぐにそういう態度に出る。
582の批判にも答えてみろよ。科学ってのはそんなくだらんものかい。
>君は、町村合併で村が町に変わったから
>合併以前は集落がなかったといっているのと同じジャン。
論点をすりかえるのやめろよ。だれもいってないぞ、そんなこと。
学問をするなら、きちんとした用語を押さえてしろよ。郡と評の区別もつかない
厨房のくせに偉そうなウソ言うんじゃない。
では聞くが、評はいつ形成されたんだよ。
記紀が律令政府の立場から書いていることぐらい、きちんと見抜けよ。
こういう手合いがいるから、下らないナショナリズムがなくならないんだな。
>>598 確かに面白い指摘もあるが、土塁が濠の外にあるということのみを以て「捕虜収容所」
と考えるのは、相当無理がないか?
ベトナム戦争から類例を引っ張ってるくらいだし(W
それに、「蝦夷の内部にもそれを必要としない主体的勢力が存在した結果としての可能性」て何よ?
考古学の人の思考方法て、よくわからん。
>考古学者にも「征服説」を唱える人がいて安心したよ。
岡本孝之の論を解釈する。
1)弥生時代には東北地方には環濠集落は無かった。
↓
弥生時代の東北地方では、環濠集落を必要とするような騒乱はなかった。
2)古墳時代以降北上を始め、平安時代には青森に達する。
↓
環濠集落を必要とするような騒乱は、古墳時代から北へ広がった。
そして平安時代には本州北端にまで及ぶ。
平安時代の騒乱(大和朝廷による蝦夷征伐)は、「征服論者」お気に入りの記紀
の記録とも基本的に一致する。ただし、平和主義の考古学者でも平安時代の国策
としての征服戦争を否定しているものは、居ない。(過去スレをよく見てください)
だから考古学者もこの時代以降については、最初から「征服論者」です。
弥生時代の東北地方にいたのは縄文人だった。というのは、「征服モデル」をとっていることを
意味しているわけではない。むしろ「東北の縄文人は、弥生文化に対し縄文文化を守った」
というニュアンスがある。
>>603 いや、「征服モデル」という意味はそうではないだろ?
さっきはじめてその論文を読んだが、「争いが弥生人どうしの
ものに限られると考える傾向」を批判している。だから西日本で
在来系の人間がまず征服されたと主張したいのは明白だ。
>>601 私は捏造でないと言っている。捏造だと言う方に立証責任があるのだ。
前から思っていたが君は日本語の読解能力が不足しているね。(表現能力
もだが)
「都市の論理」を挙げるところから全共闘崩れの左翼だと見るが(ここ
まで言うと君の身元がわれるね)、私は一度もナショナリズムを吹聴した
ことはない。
記紀に書いてあることの多くが事実であることは、次第に
証明されつつある。あんな何十年もかけて書いたものが、一貫して
政府の立場を貫いていると考えるのが左翼の陰謀史観だよ。
それに日本の記紀は間違いで、中国の魏志は正しいというのも、公平で科学的な
態度ではない。これも自虐史観のなせるわざ。
606 :
日本@名無史さん:01/12/04 20:54
最近レベルが低いぞ。
最近の論題は、学部生ぐらいのレベルだ。
いい加減、そんな奴の相手をするのはやめようぜ。
考古学は科学なのか同かが主題なんだろう?
文系ではまともだと思うがな。
史学(文献)出身だが、科学だなどと思っていないよ。
いい学問だとは思っているが。
軌道修正をキボーン。
>いや、「征服モデル」という意味はそうではないだろ?
うーんそうでしょうか。「争いは弥生人だけでなく、縄文人の間でもあった」ということを
いっているのではないでしょうか。だからこそ「弥生VS縄文」とか「弥生VS弥生」と
いった図式で解釈することを批判しているわけでしょう。
ただ、西日本での弥生人による在地人(縄文人)の「征服」は、当然東日本より早く起
こったと思いますから、「弥生時代の縄文人征服」は、西日本に限定すればそれほどおかしく
ないように思えます。
問題は、「東北地方で弥生人による縄文人征服」が起こったのはいつかということでしょう。
平安時代に武力侵攻が起こったことは事実だから、それがいつ始まったのか、弥生と縄文の
接触は最初から騒乱を伴うものだったのかということです。
608 :
日本@名無史さん:01/12/04 20:58
>>447 貴方が杉原氏だったら仕方ないけど、論文を読んだ限りでは
佐原らの平和主義考古学に対しての強烈なアンチテーゼで、
597の言うように「西日本の環濠集落も捕虜収容所」と考えていると
思われますね。
609 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:16
>「都市の論理」を挙げるところから全共闘崩れの左翼だと見るが
あっはっは。同名書と間違えているね。歳が割れるよ。先生。
>記紀に書いてあることの多くが事実であることは、次第に
証明されつつある。あんな何十年もかけて書いたものが、一貫して
政府の立場を貫いていると考えるのが左翼の陰謀史観だよ。
何十年もかけてないよ。よくみな。
なんなら、「前から準備してあるはずで」とかすり替えするかい。
お馬鹿さん。一貫して政府の・・・って、政府の本だから仕方ないだろ。
奈良時代に投影して書いているのは明らか。懲りないね。
陰謀史観だって。南米の縄文と同じく、日本史版でデムパまいてるより
、ムーとか読んでたほうがいいんじゃない?
>それに日本の記紀は間違いで、中国の魏志は正しいというのも、公平で科学的な
態度ではない。これも自虐史観のなせるわざ。
ところで、考古学者が魏書が正しいと思ってるなんてまた勝手にいちゃもんつけるなよ。
中国の史書の編纂過程位知ってるだろ。批判なく史料を信じてる奴は逝ってくれ。
610 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:20
>>606 禿同。ただ、だいぶ助かってるところもあるから、ここでやってもらっても
いいとも思う。大体、2ちゃんだから、ここで議論したってその程度の問題だよ。
電波スレになってきてるから、真面目な話は表でするなり、別スレでしようや。
611 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:23
>記紀に書いてあることの多くが事実であることは、次第に
>証明されつつある。
むしろその逆。実態と記述との乖離がみえてきた。
さっきからやられている郡評論争の話とか、どこが虚飾かは
明らかになってきている。
最も、あなたが証明していると主張するのなら別ですがね。(藁
>佐原らの平和主義考古学に対しての強烈なアンチテーゼで、
>597の言うように「西日本の環濠集落も捕虜収容所」と考えていると
>思われますね
困ったな、「征服論者」のひとは。
岡本さんが「西日本の環濠集落も捕虜収容所」と考えていたとしても、私の言っていることは
そのことと何ら矛盾しませんけど。(つまり西日本の弥生人による征服を否定していない)
604さんの主旨は「西日本で在来系の人間がまず征服されたと主張したいのは明白だ」
ということでしょう?
そのこと自体に対しては、別に反対も批判もしてませんよ。
私がいったのはその根拠としている「争いが弥生人どうしのものに限られると考える
傾向」を批判している。」というのは違うんじゃないですか?ということです。
しつこいようですが、、「争いが弥生人どうしのものに限られると考える傾向」を批判している。」
ということは、「西日本で在来系の人間がまず征服されたと主張したいのは明白だ」ということに
結び付かないんじゃないでしょうか?ということです。
誰も答えてくれない・・・
614 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:46
>>607 >平安時代に武力侵攻が起こったことは事実だから、それがいつ始まったのか、弥生と縄文の
>接触は最初から騒乱を伴うものだったのかということです。
戦後は「征服モデル」なんてなかったから、そういう観点での見直しがまだできていないと思う。
ただ見通しを述べれば、風土記の記載から、古墳時代の終わり(6世紀末か7世紀始め)
には利根川以北への武力進出が始まったと見てよいのでは?
最初の蝦夷の反乱は581年に記録されている。数千というから最大規模で、これだけの
蝦夷が住んでいた場所は、北関東を考えるしかないだろう。
また659年の遣唐使が蝦夷男女を皇帝に献上し、その際蝦夷には遠い順にツガル、アラエミシ
、ニキエミシの3種があると説明している。これは東北の北部、中部、南部に相当するのでは?
ニキエミシというのは恐らく北関東の縄文人だろう。この頃は熟(ニキ)していて、もう反乱し
なかった。アラエミシというのは宮城、秋田、盛岡にいたのだろう。
最初から騒乱を伴ったかどうかはわからない。
これから問題意識をもって見ていけば、衝突の痕跡が見つかるように思う。
特に面白いのは、環濠集落が収容所だったとすれば、環濠から見つかる人骨の解釈がこれまでとは逆で、襲われたのではなく脱出しようとして斬り殺された、ということになる。
それが縄文人骨だったら、文化の解釈がまったく変わる。
615 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:57
弥生人の征服があったとかなかったとか証拠は、ないんじゃない。
可能性はあるけどさ。」
616 :
日本@名無史さん:01/12/04 21:59
文系ってのは科学ってものが判ってないご様子だ。
(606のように中にはまともな人もいるようだが)
昔のわけのわからん文献を引用したり、勝手な想像を押し付けたり、
人を誹謗中傷しあったり、ぜ〜〜んぜん科学じゃないね。
お前達のやってることは脳内科学ってやつだな。
自分の考えが絶対真理だと思っているのね。
藤村とその周りの連中と何の変わりも無いな。
科学ってのは事実と事実をつきあわせ、あらゆる方向から見ても
間違いのない理論を打ち立てていくことだ。
そのためには、まず決して人を誹謗中傷しないこと。
他人の批判、反論を素直に聞き入れること。
感情的になると事実を見逃してしまうよ。
すくなくとも現在の考古学が科学であるわけがない。
真理を決定するほどの事実、物証があまりにも少なすぎる。
一つの事象を100倍にふくらませてああでもないこうでもない
ってやってるの、旗から観てると笑ってしまいますがな。
真剣に科学的考古学をやろうって思うなら、地道に事実を発掘して積み重ねていけ
617 :
日本@名無史さん:01/12/04 22:10
前レスでも、指摘されていたのだが、話題にならないので・・。
弥生初期、筑豊平野に稲作文化華やかし頃でも、
長崎、対馬、壱岐、五島列島などでは、
縄文系の人骨しか発見されていない。(現在でも遺伝子的縄文系らしい)
この時代は、魏志倭人伝でいう倭100国の時代である、
そして、倭とは海民と指摘されている。
さて、魏志倭人伝の解釈は別として、
この時代は、海洋漁労民(縄文系)と稲作民(弥生系)は共存
していたとみたほうがよい。
そして、人口が急増した稲作民は九州西部を制圧せずに
なぜ、東に向かったか、
それは、中国地方には、ほとんど縄文人がいなかったからである。
(誰かの推定では、西日本に縄文晩期は1万人)
それと、指摘しておきたいのは、骨格的に典型的な弥生人は
弥生時代以降ほとんど出土していない。
このことは、渡来人の種族は、時代によって変遷している
可能性が高い。このことは、田んぼの形式進化(湿地→低地)
および、抗争の激化にも対応しているような気がする。
何度も言うけど、アイヌだろうと沖縄人だろうと遺伝的には変わらないという
結果が出ていますけどね。
弥生人(何を指すのかよく分からないが、江南地方からの渡来人とすると)
との混血もほとんどないという結果が出ています。
ただ、それとは別に文化的な影響は、大きかったと言われてますがね。
>>618 言ってることが、よくわからないけど・・
日本人単一民族説ですか???
>何度も言うけど、アイヌだろうと沖縄人だろうと遺伝的には変わらないという
>結果が出ていますけどね。
それは、一部の研究者(松本氏?)が言っているだけでしょう。
大勢は2重構造説でしょう。
620 :
日本@名無史さん:01/12/04 22:41
>>618 遺伝的には変わらないというのはどういう内容?
DNA全体を見るなら、チンパンジーと人間は90%以上変わらないよ。
細かい所まで比べれば、チンパンジーよりも人間同士の比較の方が違いが多い場合もある。
平均的日本人とアイヌ、沖縄人とでは外観が明らかに違う。
沖縄人の目の色を見てみな。
アイヌ人の顔面骨格を見てみな。
明らかに違うだろ?
大勢というのは、ミトDNAの測定でしょ。
それは、母系しか分からんのですよ。
当然、松本の方が正確ですね。
622 :
日本@名無史さん:01/12/04 22:49
>>621 母系の方だけでも大きく変わってるんなら、
充分同じじゃないじゃないか。
何を言ってる?
>>616 >そのためには、まず決して人を誹謗中傷しないこと。
オマエモナー
624 :
日本@名無史さん:01/12/04 23:38
>>617 >この時代は、海洋漁労民(縄文系)と稲作民(弥生系)は共存していたとみたほうがよい。
基本的には縄文系の海民と弥生系農民が住み分けていた、というのは賛成。
しかし縄文系の陸民が追われて、海民になった可能性もある。
HTLV-1が残っているところは、だいたい海民の集落なんです。
内陸には北海道をのぞけばほとんど残っていない。
625 :
日本@名無史さん:01/12/05 00:12
>>612
「東日本の環壕集落を西からみて防御集落、防衛集落としか位置づけない。西からきた弥生人どうしの争いの防御集落としか考えない。争いは弥生人どう
しの間にしか存在しないと考えているかのようである。この一面的な位置づけに疑問がある」
この文章の理解については「弥生と縄文の争いがあった」ということをいわんとしているので、貴方の解釈が
正しいと思う。「西から見て」というのは西の環濠集落の機能から見て、といことかも知れない。
626 :
日本@名無史さん:01/12/05 01:28
戦争オタクよ!「環濠集落」みたいなものは西日本にいくつあると思っているんだ。
大抵「環濠!環濠!」といって騒いでいるモノはただの溝でしかない。一周した例はない。
君たち博物館のレプリカ見過ぎ。横山ホットブラザーズが「オ・マ・エ・ハ・ア・ホ・カ」と叫ぶのが聞こえてくるよ。
いい加減、「闘い」妄想はやめろ。一度自衛隊に体験入隊して「勝つための戦略」を学んできたら?
606,616に告ぐ
考古学は科学ではないよ。歴史学でもない。大学の史学科の中に考古学をやっている連中がいるだけよ。
モノから歴史がわかるわけがない。わかると錯覚しているのが考古学者です。ただの骨董オタクです。
新聞記事に載っている大本営発表をみればわかるだろ。彼らが求めているのは文化ではなく「いかに古いか、いかに大きいか、いかに珍しいか」です。かつて京都文博で機動隊と戦って破れた連中が現在に至るこんなちゃちな方向付けをしてしまったんだろうな。
だから君たちのような科学者が本当の考古学をやるべきです。
627 :
日本@名無史さん:01/12/05 01:43
> 京都文博で機動隊と戦って破れた連中
そんな連中いたかな?
628 :
日本@名無史さん:01/12/05 01:50
あと、環濠なんか出てこなくても「闘い」はあるよ。
それがわからず、出てこないと平和と言い張るのが平和オタクの考古学者だろう?遺物に執着しすぎるからだ。
横山ホットブラザーズが「オ・マ・エ・ハ・ア・ホ・カ」と叫ぶのが聞こえてくるよ。
戦争が好きな頭の悪い考古学者にまどわされてはいけない。
ちなみに、「地道に事実を発掘して積み重ね」たって、いつまでたっても「科学的考古学」
なんかにゃならないよ。
出土したものが自動的に何かを語るという思いこみが、科学を知らぬものの典型的な幻想。
文学部の枠をはずすことがまず効果的な一歩でしょう。
630 :
日本@名無史さん:01/12/05 08:01
631 :
日本@名無史さん:01/12/05 08:40
>新聞記事に載っている大本営発表をみればわかるだろ。彼らが求めているのは文化
>ではなく「いかに古いか、いかに大きいか、いかに珍しいか」です。
まあ、考古学の概説書すら読まず、新聞の記事だけみてりゃあそんな気にもなるかな。
>>406=415
東北における縄文・弥生移行について征服説と平和共存説で
議論が行われたわけですが、罵り合いに終わらないためにも
一致点と不一致点について、この辺でまとめたらどうでしょう。
もちろん科学的考古学といういう視点で。
633 :
日本@名無史さん:01/12/05 12:54
>>587 もちろん推定可能。ていうか普通交雑して入り交じってる。
mtDNAにしろ核DNAのマイクロサテライト領域にしろ、アイソザイムとかアロザイムとかの
タンパク分析でも、結局は複数の分子マーカーの出現頻度を比較して地理的な遺伝的勾配を
推定するんだから、混じってる場合は当然想定されている。
もちろん比較の結果、交雑が進んでいて遺伝的勾配がない場合があれば、
それは単一民族仮説を支持するってことだけど、結果はそうじゃない。
まあこんな細かい話はどうでもいいでしょ。
634 :
日本@名無史さん:01/12/05 13:13
>それは単一民族仮説を支持するってことだけど、結果はそうじゃない。
誰かこれを支持するっていった奴いるの?
いつのまにすりかえられているわけ?
京都のN文研くらい?
635 :
日本@名無史さん:01/12/05 13:16
>>629 考古学やってたら、こんなDQN書くわけないでしょ。
いつもの知ったかバカ君じゃないの?
>私は捏造でないと言っている。捏造だと言う方に立証責任があるのだ。
ともに証明する必要がある。学問は裁判ではない。
なんなら、神武東征伝にも屁理屈つけてみな。
>前から思っていたが君は日本語の読解能力が不足しているね。(表現能力
もだが)「都市の論理」を挙げるところから全共闘崩れの左翼だと見るが(ここ
まで言うと君の身元がわれるね)、私は一度もナショナリズムを吹聴した
ことはない。
ふーん。身元がわかるのかね。相変わらず勝手な決め付けが好きな先生だね。
ちゃんと日本語読めよ。誰もお前がナショナリズムを吹聴したなどといってないだろう。
どちらが読解能力がないか、よく考えてみろ。
637 :
日本@名無史さん:01/12/05 13:35
>>406 ご返事がないので勝手にたたき台を作ってみました。
以下の10の事実について合意できるでしょうか?
まず基本事実についての合意確認が議論の土台となると
思いますが。
1)紀元3世紀末(弥生終末)における環濠集落は日本海岸では新潟まで、
太平洋岸では利根川以南の南関東まで広がった。
2)4世紀から6世紀(古墳時代)に、環濠集落は利根川を越えて宮城県付近
まで北上した。(古墳と方形周溝墓を伴う)
(最初の蝦夷の反乱の記録は581年。)
3)8世紀以後(平安時代)、環濠集落は秋田、青森、岩手にも広がった。
4)環濠集落の前線の北進は記紀などにおける蝦夷との戦いの前線の移動とほぼ
一致している。
5)東北における水田稲作は4世紀以前には点として少数の存在が認められている。
6)水田稲作が面として存在し始めるのは、環濠集落の北上前線以南においてである。
7)紀元前4世紀以前に利根川以北に存在した文化は縄文文化の延長である。
8)記紀、風土記に見られる蝦夷が水田稲作を行っていたという証拠はない。
9)利根川以北に居住した別の文化をもつ人々が蝦夷と呼ばれた。
10)蝦夷が複数の「人種」または「民族」であるという文化的・人類学的証拠はない。
639 :
日本@名無史さん:01/12/05 14:41
>>634 支持するヤツがいるとは言ってないし議論をすり替えたつもりもない。
>>618系のDQNに対する念押しに反応しないように。
今どき支持する人はいないだろ。逆に京都のN文研はそうなのか? 根拠希望。
余計なことかもしれないが、そもそも征服仮説とかのテーマを持ち出して大ざっぱな議論をするヤツは相手にしない方がいいんじゃないのか?
もっと素人がうんざりするぐらいに緻密にデータや文献を示しながら進めないと科学的な議論とはほど遠いぜ。
2ちゃんでそれを要求する方が間違ってるかもしれんが。
>>638の努力には敬意を表する。
640 :
日本@名無史さん:01/12/05 14:55
>>639 >今どき支持する人はいないだろ。逆に京都のN文研はそうなのか? 根拠希望。
設立の中心人物が誰だかわかりゃ、すぐにわかるよ。
641 :
日本@名無史さん:01/12/05 14:57
>>639 >>638のどこが緻密なデータや文献なのかなあ。
なぜ利根川以北なのかな(そもそも利根川って基本的に南北に流れているんよ、あっ今の地図見てもだめだって)。
簡単に「環濠集落」って言わない方がいいよ。その認定にも定義にも標準がないんだから。
それから、分布に関する資料にはさまざまなバイアスがかかっているから、その評価をさきにしないと。
それに「東北」という地域的概念は、明治以降のものだぜ>南河内か広場で外出
いずれにしても
> そもそも征服仮説とかのテーマを持ち出して大ざっぱな議論をするヤツは相手にしない方がいいんじゃないのか?
には賛成。
642 :
日本@名無史さん:01/12/05 15:46
>>641 >638の評価は緻密さの話じゃない。
ちなみに緻密なデータや文献を用いた議論なんてここだけじゃなく考古学系掲示板ではほとんど見たことないな。
雑談や情報交換ばっかりだ。まあでもBBSをそう言う位置付けで使ってるんなら残念だがしょうがないけれども。
>>638に敬意を表するのは、内容はさておきこれだけトンデモが飛び交う中、何とか交通整理しようとしてるから。
でも議論に勝ちたいだけのデムパや皮肉っぽく揚げ足を取るだけで情報提供しない連中の中では努力は実らないだろうな・・・
643 :
日本@名無史さん:01/12/05 15:52
644 :
日本@名無史さん:01/12/05 16:04
643=641=636=626=609=皮肉っぽく揚げ足を取るだけで情報提供しない連中
645 :
日本@名無史さん:01/12/05 16:33
>「東北」という地域的概念は、明治以降のものだぜ
日本という名称は7世紀から生まれたので、それ以前は日本列島はないとか、
郡は8世紀に定められたので、風土記に郡が記載してあるのはそれが捏造の
証拠だとか、考古学者には凡人には理解できないことを言う人が多いのでしょうか?
自然科学の場合だとアメリカ大陸は16世紀に発見されたので、それ以前にはなかった
とか、マラリア病原体は20世紀に発見されたので、それ以前にはマラリアはなかった
というような主張をすると、精神科への受診を進められるのが普通ですが。
考古学の場合でも、100万年前の人骨がケニヤで出たとか、原人がリフトバレーを歩いて
いたなどと国際的には言っていますね。100万年前にケニヤもリフトバレーもなかった
なんてことをいう人はいない。
それともここでそういう発言をしている人だけが特殊?
646 :
日本@名無史さん:01/12/05 17:04
私は言語に関心のある精神科の医者ですが、面白いケースですね。
症例は現在と過去とが完全に切断されていて、現在を過去のある時代に投影して考える
ことが出来ないので、拒否反応を示しているようです。
遺伝的な言語障害として、現在形/過去形、単数/複数の文法規則を理解できない家系が
報告されています。この人たちは「ある」の過去形が「あった」であると教わっても、
「行く」の過去形が「行った」であると(脳内の文法がないから)、自分では導き
出せない。全部個別に学習しないといけない。
この人の場合は、東北という名称が明治以後だからそれ以前の時代に使うのはおかしいと
主張しているわけですから、過去から現在につながる客観的存在を認め、便宜的に
それに対して現在のわかりやすい名前を使う、ということが困難なのです。
ですからこれは一種の脳障害で、遺伝的に起こっている可能性があります。
こういうケースでは現在から過去を類推する、過去のある時点からより古い過去を類推
するということにも強い抵抗を示します。
もっとも上にあげた遺伝性の障害の場合も、他の知能は正常でロケット工学をやっている
例もありますから、この症例もIQは恐らく正常でしょう。
もっとも単なる揚げ足取りかも知れませんが、そういう論理が他人に受け入れられると確信できる
ということは、やはり遺伝性の脳障害の存在を必ずしも否定できないように思われます。
>>638 いまできる範囲で書いてみます。
1)紀元3世紀末(弥生終末)における環濠集落は日本海岸では新潟まで、太平洋岸では利根川以南の南関東まで広がった。
これは岡本論文からとったものですね。岡本氏は、ひとつの指標として「現在の利根川」を使ってますね。何らかの遺構
や遺物の分布がひとつの川できちっと分かれる
訳がありませんが、あくまでも目安として「現在の利根川」を使っているものと理解します。分布範囲に新たな情報があれ
ばどうぞお寄せください。その都度修正しましょう。
2)4世紀から6世紀(古墳時代)に、環濠集落は利根川を越えて宮城県付近
まで北上した。(古墳と方形周溝墓を伴う)
これも岡本氏の論文によるものですね。別な情報があればお願いします。
(最初の蝦夷の反乱の記録は581年。)
↓
出典きぼーん。
3)8世紀以後(平安時代)、環濠集落は秋田、青森、岩手にも広がった。
これも岡本論文から。
4)環濠集落の前線の北進は記紀などにおける蝦夷との戦いの前線の移動とほぼ
一致している。
5)東北における水田稲作は4世紀以前には点として少数の存在が認められている。
6)水田稲作が面として存在し始めるのは、環濠集落の北上前線以南においてである。
7)紀元前4世紀以前に利根川以北に存在した文化は縄文文化の延長である。
「縄文文化」の定義が問題です。この時期に東北にも木製あるいは鉄製の農耕具が出
土しますから農耕をやっていたと見られています。「縄文文化」「弥生文化」の定義は
とくに「征服論者」は曖昧で議論が紛糾する原因ともなっています。
8)記紀、風土記に見られる蝦夷が水田稲作を行っていたという証拠はない。
「七三八年(天平10)、七五八年(天平宝宇2)、政府は陸奥国に本拠地を離れて帰降
したエミシに種を与えて作田させて定着させることを命じたが(『続日本紀』)、この命
令を出すことができたのは、彼らが帰降前にすでに本拠地で稲作を行っていたからである。
七八九年(延暦8)征東将軍の報告に記された「いわゆる胆沢は水陸万頃にして、蝦虜、
生を存す」という有名な一文は、「胆沢の地は、水田・陸田が広くつくられ、エミシはそ
れによって生活している」という意味である。(同延暦8年7月・6月条)これらの事例
は、エミシが帰服する以前から稲作を行っていたことを明示する。ただし、稲作エミシ=
田夷といっても、稲作のみに依存していたわけではなく、狩猟・漁労・採集にも従事した
であろうことは注意すべきである。」今泉隆雄1992「7律令国家とエミシ」『新版古代の
日本 東北・北海道』
9)利根川以北に居住した別の文化をもつ人々が蝦夷と呼ばれた。
10)蝦夷が複数の「人種」または「民族」であるという文化的・人類学的証拠はない。
>最初の蝦夷の反乱の記録は581年
日本書紀敏達帝10年
但し景行記にはヤマトタケルが焼津から海路常陸の奥まで東征したという
記録があります。敏達10年にはこの事績にも言及してあるので、581年から
さほど遡らない時期に、常陸遠征はあったと思われる。(恐らく常陸風土記の
記載と重なる)
しかし年が特定できないのでこれは採用しません。
1)^3)は基本的に杉本論文に依拠。
但し1)は金関恕「弥生時代の集落」(学生社、2001、PP217-226)の
石川日出志「東日本の環濠集落」にも同じことが書かれています。
「(環濠集落の)東限は太平洋岸では現利根川流域まで」とあります。
7)この問題について、上記石川は「稲作を採用して緩やかに縄文文化
を解体させる東北地方」という前提で4世紀以前の利根川以北の
文化を「続縄文文化」と呼ぶのに反対しています。この「前提」こそ
今回の議論のポイントだと思います。
私は水田稲作が弥生文化の核心で、これがあれば縄文文化とはいえない
と考えています。貴方も縄文と弥生を定義して下さい。
8)手許に続日本紀の原文がないので、確認してお答えいたします。
649 :
日本@名無史さん:01/12/05 21:31
もうこのスレ、限界っていうか、もうどうでもいい。
新しいスレッド立ち上げようぜ。
根拠薄弱なというか、自分に都合のいいことをもっともらしく言う論説はもう結構!!
科学でなくてもいいじゃないか!?
駄目なの!?
649=606です
言葉足らずでしたが、
内容はともかく、科学はどうかはともかく、
もっと論理的に話してくれ。
飽きる!!
651 :
日本@名無史さん:01/12/05 21:57
631「まあ、考古学の概説書すら読まず、新聞の記事だけみてりゃあそんな気にもなるかな。」
学術雑誌への投稿論文も書かず、いや、読みもせず、害説書だけよんでりゃあこんな気になるんだろうなあ。
ふつうの科学者場合
科研費をもらう→実験・研究する→レポートを出す→レポートをもとに論文を書く→研究成果をまとめて本や教科書にする
考古学者の場合
税金あるいは民間人から金を巻き上げて発掘をする→大本営発表で大騒ぎする→講演に呼ばれて天狗になる→また戻って繰り返す
研究者人口がかなり多いにもかかわらず考古学には査読付きの学術雑誌の数が少ない。どうなってんの?
研究者人口が多いから害説書だけはよく売れる。
でもねえ害説書を読んで勉強した気になるのはやめなよ。研究者として恥ずかしいよ。学術雑誌に載った論文を読もうね。査読にパスするような論文書こうね。
652 :
日本@名無史さん:01/12/05 22:12
>日本という名称は7世紀から生まれたので、それ以前は日本列島はないとか、
郡は8世紀に定められたので、風土記に郡が記載してあるのはそれが捏造の
証拠。
事実を正確に捉えることから学問は始まるのです。
あなたのような人がいるから、捏造がおこる。そんなことどうでも、というのなら
研究者などできませんよ。
少なくとも、国号の問題については間違っていた訳だし。
上の人は、あなたの明らかな間違いを指摘しただけでしょ。ただ、話とはあまり関係ないような
気がするけど。
>アメリカ大陸は16世紀に発見されたので、それ以前にはなかった
>とか、マラリア病原体は20世紀に発見されたので、それ以前にはマラリアはなかった
ということをいっているのではないでしょう。文献批判として、後世の手が入っている、
という指摘をしただけでしょ。
まあ、江戸時代と現代を同じと考えることができるなら、まあ、いいでしょう。
言語学に教養がある心理学者さんだそうですが、
人の名前をごっちゃにしたり、(杉原+岡本=杉本!)
すぐに「バカ」と言う人もどうにかしてほしい。
精神とか言う前に、人間性の問題かもしれませんが。
これは議論をする以前の問題と思いますが、こういう人が考古学者なんですか。
まあ、2ちゃんでいっていても、影響がないから、いいとしますか。
653 :
日本@名無史さん:01/12/05 22:23
>>651 ちなみに、科研費も税金。
普通の科学者は血税を巻き上げたり、民間と結託してうまい汁すってるだけだろ。
歴史系はそれができないから、騒いでるだけ。
医学とか、工学系をみてみろよ。もっとひどいことしてるぜ。
大本営くらいで飯が食えるのは戦前の日本と歴史系くらいだね。
害説書は、研究者じゃなく、一般の歴史ファンによるところが大きいと思う。
税金、とかいっているなら、国立大の教官が暇に任せて大学の設備を使って
昼夜なく人の誹謗中傷しているのを告発しろよ。勤務時間中にそういうこと
やってていいのか。考古学は腐ってる。
654 :
日本@名無史さん:01/12/05 22:33
>>651 考古学者の場合
税金あるいは民間人から金を巻き上げて発掘をする→大本営発表で大騒ぎする→講演に呼ばれて天狗になる
→また戻って繰り返す
そんなやつ考古学業界にそんなにおるもんかい。事情通ぶるのもいいかげんにせいや。
それはあんたの頭のなかにいる「考古学者」だけじゃないの。
>言語学に教養がある心理学者さんだそうですが、
>人の名前をごっちゃにしたり、(杉原+岡本=杉本!)
>すぐに「バカ」と言う人もどうにかしてほしい。
>精神とか言う前に、人間性の問題かもしれませんが。
>これは議論をする以前の問題と思いますが、こういう人が考古学者なんですか。
いいえ違います。考古学者なら岡本と杉原を何度も取り違えるなどということはありません。
すぐ「バカ」というのは2ちゃんだからです。考古学者だろうと数学者だろうと同じです。
ほかの板をみてごらんなさい。「氏ねや」「逝ってヨシ」「ヴォケ」といった言葉が
飛び交っています。
655 :
日本@名無史さん:01/12/05 22:41
651〜653
の論調はVERY SPECIAL ONE PATTERN(VSOP)
もう聞き飽きた。(もっとも同一人物かもしらんが)
もっと中味のあることを書け。(脳に中味があるならば)
>>652 >人の名前をごっちゃにしたり、(杉原+岡本=杉本!)
>すぐに「バカ」と言う人もどうにかしてほしい。
>精神とか言う前に、人間性の問題かもしれませんが。
>これは議論をする以前の問題と思いますが、こういう人が考古学者なんですか。
え、なるほど、貴方のおっしゃる人物は岡本を杉原、杉本を言い間違えていますなあ。
大先輩のフロイトなら言い間違いの背景に性的問題を指摘するのですが、
たぶんこの方はあなたのお考えとはちがい、考古学が専門でないので、岡本という研究者に
関して記憶の助けになる具体的イメージを持っていないのでしょう。単語の丸暗記と一緒で
名前が記号となっていてそれが論文内容と結びついている。
想い出すときに、「本」だけ出てきてそれで杉がくっついた。杉が出てきて、それに原が
くっついたのでしょう。きっとよく知った人に杉原という人物がいて、それが干渉している
のだと思いますが。
恐らく初老の人物で記銘力が落ちているだけだと思います。まああなたが間違いを指摘して
あげるのは、この人にはボケ防止に役立っているので、バカと言われるのはちょっとお気の毒
にも思いますが。
657 :
日本@名無史さん:01/12/05 23:29
>>651 >税金あるいは民間人から金を巻き上げて発掘をする
文化財保護法で原因者負担が決められている以上、それはしようが
ないだろう。考古学者に文句を言う筋合いのことではない。
なんかやふー掲示板の喧嘩みたいだな
どうせやるなら2ちゃんらしくやれ
>>657 そんなこたぁ、法の文面に全くない
それこそが問題>学者が文句を言われる
なんだかこのスレ2chと違う、タンブンキボンヌ
660 :
日本@名無史さん:01/12/06 00:31
>>659 別のところの火事が延焼しているようですね。
>>精神科医さん
いやいや、失礼。つまらないこと突っ込みまして。
ただ、杉原、という呼称が出てきたので、てっきり考古学関係かと。
中身は読んでいけばわかるので、どうでもいいことでした。失礼。
埋納機構さんの
”主に旧石器考古学について真の科学足り得るか?ということで議論しましょう”
という願いと、関係者の品性と知的能力が然らしめる現状との格差は凄まじい。
1000に到達するまで、飽きもせず続くだろう。
1000到達で、埋納機構さんが新スレッドを立ち上げるか、どうか?
多分、立ち上げない。それまでに、どうぞ、十分なご議論を。
662 :
素人ですが:01/12/06 09:16
ところで考古学の意義って何?
古代のロマンを追い求める学問でしょ?違う?
(宇宙物理学も科学ではあるがやはりロマンを求める学問だ)
(史学などはロマンとはちょっと違うような気がするけど)
直接今の生活に役立つものではないが、ロマンさえ与えてくれれば
それはそれで十分社会生活に寄与してると思う。(税金使うのも許す)
旧石器人もかなりインパクトがあったが、いまや束の間の夢物語。
これは科学以前に学問ですらなかったようですね。
一部の似非学者の名誉欲と、村おこしをもくろむ自治体のよこしまな想念の
なせる茶番劇だった。笑かしてくれはしたんだけど、税金は無駄でしたね。
関係者の方々には謹んでお悔やみを申し上げます。
埋納遺構さんや科学史家さんは大学の先生なんですか?
1納税者として申し上げます。
おとぼけ考古学者を次々に論破される姿は痛快です。
税金の無駄遣いではありません。ご安心を。
あなた方の今後のいっそうの活躍を期待しております。
また私達素人の疑問にも判り易く対応して頂けると有りがたいです。
ところで考古学のもう一つの最大のロマンは邪馬台国でしょ?
畿内の古墳の年代が日に日に遡ってるようだけど、
古墳の実年代は何を根拠に割り出してるの?地層ってことはないですよね。
土器編年でしょ?あるいは埴輪?古墳の形態?
前レスにも疑問が出てたようだけど、科学的に信用できるの?
100年や200年の誤差は十分考えられるんじゃないですか?
土器編年を研究されてる方の努力には頭が下がる思いですが、
客観的に科学する考古学者としての見解はいかに?
宮内庁という最大の弊害・・・先生方もこれには逆らえないでしょうね。
でもこれを排除しなければ科学はあり得ないか。
決して邪馬台国論争をしかけてるんじゃないので勘違いしないでね。
俺は考古学をやっているわけじゃないが、考古学の存在意義が
ロマンだなんて思いたくないがね。
全ての基礎科学がある種のロマンだと言われるなら話は別だが。
だから考古学者には本来の意味でのプライドを持って仕事をしてほしいね。
現状はあまり褒められたものではないと思う。
664 :
日本@名無史さん:01/12/06 10:47
素人の雑感だが、考古学会には実務家がいないなあ、と思う。
まず、考古学全般を俯瞰し、現状を把握し問題点が
明確になっている教科書的な本が見あたらない。
ほとんどの著作物は、個人の説でバイアスされた読み物で、
バランスの良い理解とはなりにくい。
学説の対立の構図を理解するのでさえも相当の苦労をしいられるのだ。
基礎資料を探そうとしても、どこにあるのやら、
暗黒の海をさまようがごとくである。
(ネットに遺跡のデータベースがあるのだがせこくて涙がでた。)
専門家の方々、特に重鎮の方々にアクションを期待する。
665 :
日本@名無史さん:01/12/06 11:05
>>664 まったく同感する。
専門家と一般市民の間に介在して正しく情報を伝えるのが
ジャーナリストの役割だが、考古学にはそれがいない。
松本清張や黒岩重吾のような作家まで論争の当事者に
なってしまった。
立花隆のような人が必要だと思う。
>>647 >「七三八年(天平10)、七五八年(天平宝宇2)、政府は陸奥国に本拠地を離れて帰降
したエミシに種を与えて作田させて定着させることを命じたが(『続日本紀』)、この命
令を出すことができたのは、彼らが帰降前にすでに本拠地で稲作を行っていたからである。
「続日本紀」天平10年(738)にはこのような記載はありません。なぜこのようなミスが生じたかは後で明らかにします。
758年には類似した記載があります。
陸奥の国からの上奏で「昨年8月以来新たに帰順した夷俘の男女はおよそ1700人。
彼らを安定させるため天平10年の勅令を準用して、種籾を給付し水田を耕作できるようにさせて、
長く王民となし辺境の軍にも充てたいがよろしいでしょうか」というものです。
737年には多賀城を出撃基地として蝦夷居留地雄勝村を経由する出羽打通作戦が開始され、
その結果,陸奥・出羽道路(多賀城市と山形県尾花沢市を結ぶ道路)が完成します。
これで宮城と山形は中央政府の支配下におかれます。この領土内には多数の植民が行われましたから、
起伏蝦夷に稲作を命じたという事実そのものは、彼らが帰順以前に稲作技術をもっていたという証拠
にはなりません。
ところでこの上奏のなかに天平10年の勅令が引用してあり、著者は続日本紀の天平10年の項を
よく調べず「てっきりあるもの」と思い引用したのです。この人の書き方では、738年と758年
の両方に種籾給付の事実が記載してあるように受け取れますが、それは間違いです。今泉隆雄氏
のケアレスミスです。
長くなるので続きは別のレスにします。
>>647 >七八九年(延暦8)征東将軍の報告に記された「いわゆる胆沢は水陸万頃にして、蝦虜、
生を存す」という有名な一文は、「胆沢の地は、水田・陸田が広くつくられ、エミシはそ
れによって生活している」という意味である。(同延暦8年7月・6月条)これらの事例
は、エミシが帰服する以前から稲作を行っていたことを明示する。
789年の記載は胆沢(岩手県水沢市)を中心とした有名なアテルイの反乱にかかわるもので、
アテルイらは一旦は帰順して村落を構え水田稲作を伴う農耕生活に入っていたのです。
引用された部分は、勅語のなかに天皇が征討将軍の戦況報告書を引用するという形で出てきます。
そこは「最近の上奏を見ると『所謂胆沢者、水陸万頃、夷虜存生、大兵一挙、忽為荒墟』(以下略)」
と言っているが、事の経過を見ればこれはほとんど虚飾であると思う」という文章で、天皇が征討将軍を
しかっている下りなのです。このときはアテルイ軍の方が強くて、天皇軍はさんざんに敗北していたのです。
胆沢の地に帰順蝦夷が生活していたことが「夷虜存生」という言葉で表されています。アテルイの乱が
帰順蝦夷の反乱であったことは、諸家の意見が一致していると思います。
「水陸万頃」という言葉は、宇治谷孟訳「続日本紀」(講談社文庫)では、「川と原野が広大な土地」
と訳されています。帰順した蝦夷は水田や畑を作っていたとは思いますが、「水田・陸田が広くつくられ」
と解釈するのは行き過ぎです。
従って、
8)記紀、風土記に見られる蝦夷が水田稲作を行っていたという証拠はない。
という事実認定はそのまま残ると思いますが?
668 :
日本@名無史さん:01/12/06 16:14
>>661 残念だがたぶんそうだろうな。
しかしみんなさー何でこんなトコで電波先生の相手なんかしてんの?
まじめにやろうと思えば、とにかく議論をかき回す電波を排除するしかないよ。
連絡船はせっかく電波を排除して環境が整ったのにもったいないんじゃないの。
建設的な議論したきゃそっち使えよ。
化学屋さんの重要な問題提起にも船頭しか答えてないし、旧石器屋は試合放棄か?
建設的な議論よりも電波先生大好きってことなのか。(藁
>>662 またお得意の自作自演か。科学史家なんて覚えてるヤツいねーって。(藁
>>668 訂正。連絡船→連絡舟。
旧石器屋は試合放棄じゃなくて初めから不参加のような気もするな。
だったら、なおさらのはずだけどね。
670 :
日本@名無史さん:01/12/06 16:43
>>662さん
プロの研究者ではないが。1納税者としては、私は不満だね。
学問的なやりとりならともかく、個人の名誉毀損などがいままでの
過去ログとして記録されているのだから、きちんとすべきと思う。
確かにおとぼけ考古学者が訳わからんこといっているのを叩くのは
痛快であるけど。
要は、勤務時間(ってあるのかしらんけど)外にやってくれい、と
いうこと。
あと、このスレ自作自演の匂いは非常にするから、地理板とかみた
いにIDオープンしたほうがいいかもな。
どうやら軌道修正は難しそうだ。
捏造問題(科学する考古学)を闇に葬りたいんだろうか。
前、中期旧石器は無いことがほぼ確定したようだし、どうでもいいけど
蝦夷やアイヌを議論するなら荒らしが来ないように注意しろよ。
672 :
日本@名無史さん:01/12/06 17:02
>>671さん
もう、最近のレスはあらしみたいなもんだね(藁
>>662さん
>古墳の実年代は何を根拠に割り出してるの?地層ってことはないですよね。
土器編年でしょ?あるいは埴輪?古墳の形態?
前レスにも疑問が出てたようだけど、科学的に信用できるの?
100年や200年の誤差は十分考えられるんじゃないですか?
年代の推定できそうな資料と同時代と考えられる情況が認識され
た資料で年代を決めていますね。後漢鏡とか、魏鏡(とかいうと
おこられるかな?)や、銘文が入った大刀など。交差年代決定と
いいますが。ただ、混入や伝世、遺構の性格など問題もあり、注
意を払う必要があります。
そのような資料がわずかでは存在する古墳時代については、100
年や200年の開きは少ないか、と思います。年代が分かる資料は
それと共伴した資料の年代の上限になりますので。
いくら溯る、といっても、前漢の時代に後漢の年号入りの鏡は
作られないでしょうから。
ただ、それ未満の年代(数十年とか)については人によりかなり
大きな差が開いているのも事実。だから、単純にデータベース化
すると、どれを根拠にするべきかでまずつまづいてしまう。
データベースがしょぼい、という話もあったけど、まだまだそれが
確定できてない、また、それが研究課題である、ということで、
そんな状態になっております。
こういう点をきっちり押さえて、できる部分での基礎資料の蓄積を
しないと、科学的な考古学はできないのでしょうが、まだまだですね。
絶対年代も、説明上とりあえず提示する、という形のことも多いですね。
と言うわけで、科学になれるか、どうかはわかりませんが、一応、それを
目指している、ということです。
いいかげんな説明ですみません。何言ってんだ厨房、と思った方、
もっとわかりやすい説明キボンヌ。
673 :
日本@名無史さん:01/12/06 17:26
>>661 考古学は科学になれるか、というスレのテーマには「東北の縄文稲作」は
格好のテーマじゃないですか。
賛否両者ともそれを科学的に議論して見せてよ。
旧石器はもう全部ダメは誰も知っているのだから議論の必要なし。
674 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:19
675 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:26
なにまた東北大学!
676 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:40
>>668 捏造論争はもう終わり。来年の春に座散乱木発掘で全部捏造と証明され、
それでチョン。
だけど旧石器考古学だけがおかしかったなんて、それはないぜ。
考古学全部がおかしい。
縄文都市論、縄文人稲作受容論、邪馬台国畿内論。主流になっている学説は
ぜんぶうさんくさい。
考古学が科学になるとはこれらをきちんと再検討することだろう。
それとも考古学者は議論を避けて総逃亡か?
677 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:43
>>672さん 丁寧なご返答ありがとうございます。
きっと科学になれますよ。私が言うのもなんですが。
古墳内部を調査できるものはある程度(数十年=0〜50年?)
の誤差で推定できるということですね。
私は素人なもんですから、どうしても邪馬台国に関心が向きます。
宮内庁管轄の内部調査が出来てない古墳はどうなんでしょう?
現在でもデータがすくないと言われる中で、ましてや内部調査が出来ていない
ものの推定年代は全くあてにならんのでしょうか(失礼)?
で、畿内のそれらしき古墳の推定年代が卑弥呼時代にだんだと
近づいてきているようですが、この辺にうさんくささを感じるのは私だけ?
プロの考古学者にとっては「邪馬台国論争などは素人のお遊び」なんでしょうか?
自治体や似非学者などが素人を喜ばすために、あるいは煽って商売にするために
アドバルーンを上げ続けているだけなんでしょうか(学者を名乗って)。
また捏造ってことにならなければいいが。
679 :
日本@名無史さん:01/12/06 18:47
はいはい。デムパ先生これで2ちゃんも制覇しましたね。
満足ですか?
2ちゃんの住人ですら食傷させるとはまったく見上げたものです。
すべてあなたの言うとおりで、文化はすべて西から無知蒙昧な縄文人を
蹴散らして広がったものです。
捏造事件も野蛮な縄文人の血を引く東北人でなければ起こしえなかったのです。
これで満足でしょう。デムパ先生。あーよかったよかった。
>>667 えーと667さん、少し時間をいただけませんか。わたしも2ちゃんばっかりやってる訳も
いかないものですから、少し調べたり整理する時間をいただけませんか。
まあ、そんなこといってると、676さんみたいなせっかちな方に怒られそうですが。
681 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:15
>>679 667は著者が「蝦夷が帰順以前に水田稲作を行っていた」ということを証明したいばかりに
勇み足の引用をした、それは証明になっていない、そういう事実を指摘したので、それを貴方のように
「どーせそーよ」と謝ってもしょーがないと思うよ。
それに捏造と縄文人と東北人を結びつけるのはどうかと思います。誰もそんなことは言っていない。
東北人が不当な劣等感を持つ必要ない。ホモ・サピエンスは平等だ。
>>680 私も続日本紀の原文の漢文を探すのに手間取りました。
素人の私よりも反論の手間はかからないと思いますがどうぞごゆっくり。
そのとき残りの項目への御意見もお願いです。
683 :
日本@名無史さん:01/12/06 19:58
>>657氏
文化財保護法で原因者負担が決められている以上、それはしようが
ないだろう。考古学者に文句を言う筋合いのことではない。
たぶん貴殿は市町村で埋蔵文化財を担当している方だとお察しいたします。659氏の指摘にあるように「原因者負担」は文化財保護法の中で明文化されているものではない。
現状では保護法を盾に破壊されるかもしれない埋蔵文化財に対して保存するよう開発者に「協力」を求めているに過ぎないのです。
「協力」の中に「費用を負担させる」ことが含まれているのは周知の事実ですが、開発者が「発掘にかかる時間だけ協力してやろう。金は出さない。」と言われればそれまでです。
だから小さな市町村では開発者が民間人・会社の場合、遺跡が破壊されるかもしれないと判っていても、「試掘調査」で完結しているのが現状ではないでしょうか?
このような現状を打破するために保護法を改正し、「原因者負担」を明記し、きつい罰則規定を設けるか、調査にかかるすべての費用を文化庁が負担するかです。
どちらの今の文化庁の腰抜け役人にはできないでしょうけど。
貴殿が今後申請に来た開発者に対して「文化財保護法で原因者負担が決められている以上云々」というような説明をされないことを切に願います。また決してそんな間違ったことを一般大衆に流布しないでほしいと思います。
684 :
日本@名無史さん:01/12/06 22:49
>>676 君の問題提起に賛成。
この古代史の教授が初めて書いた共著(分担執筆)でこんな
いいかげんな資料引用をしていた。(素人に簡単に論破されるような)
それを見抜けなかった編者もおかしい。
これって旧石器事件のミニ番じゃよ。
こんな話が考古学にはきっとゴロゴロだろう。
685 :
日本@名無史さん:01/12/06 23:07
>>631,651
概説書だから間違いがある、詳しくは専門論文を読め、という議論が
ときどき考古学者からでるが、それは間違いだと思う。
概説書の最たるものは教科書だろう。それに同じことが言えるかい?
一般市民はもう教科書は読まないから代わりに概説書を読まざるをえない。
それに嘘が書いてあっては困る。
第一、専門論文に嘘が書いてなくて、どうして概説書だけに嘘が載るのよ?
専門論文や専門書に嘘があるから結果として概説書に嘘が書かれるのでしょ。
学校の教科書に嘘がのるということは専門論文に嘘が書いてあった結果だ。
馬場壇や座散乱木のことはそういう意味をもっているのよ。
今後は「概説書だから」というような、いいかげんな弁明をしないでね。
なんで日本の考古学者のマジョリティって日本とか朝鮮以外に関心持たないんだ?
オタクっぽい感じ。
687 :
日本@名無史さん:01/12/07 08:35
>>685 >学校の教科書に嘘がのるということは専門論文に嘘が書いてあった結果だ。
>馬場壇や座散乱木のことはそういう意味をもっているのよ。
>今後は「概説書だから」というような、いいかげんな弁明をしないでね。
オレ651だけど、概説書だからいいかげんなことが書いてあるということを
言った覚えはないからね。一応言っとく。
「最古」「最大」にしか興味のない一致半解の記者が書いた強烈なバイアス
がかかった記事だけ見てれば考古学者の関心はそれしかないと思うだろうな
あってことさ。
記事にしてもらいたくとも「最古」「最大」でないということではなもひっ
かけられない発見がどれだけあることか。
スマン、オレ631だった。
科学であるためには、変数の分離と実験が基礎だと思います。
無論、思考実験でもOK。
こういうコトいうと、史学にifはタブーなんて言う人が出て来るんだけどね。。
690 :
日本@名無史さん:01/12/07 09:25
>>687 >記事にしてもらいたくとも「最古」「最大」でないということではなもひっ
かけられない発見がどれだけあることか。
考古学者自身が何が重要な発見かということをわかっていないのではないか。
わかっていれば記者にちゃんと説明できるはず。
それと専門分野の内容をジャーナリストと一緒にわかりやすく説明した本を
もっと出すべき。文学部の書く文章は下手で、読みにくいよ。
>>689 思考実験も大切だが、まず論理学を勉強してほしい。
考古学には厳密な論理検証に耐えられない手前味噌の議論が多い。
科学は事実と論理が一番重要。
>考古学者自身が何が重要な発見かということをわかっていないのではないか。
>わかっていれば記者にちゃんと説明できるはず。
はいはい、貴重なご提言痛み入ります。
報道による人権侵害が頻発するのは、侵害される側の説明が充分でないからで、
記者やマスコミの指向には問題ないというわけですね。
発信する側の能力に問題なしとは決して思いませんが、簡単に記者に説明する
能力がないからだと切って捨てられると「何言ってやがる」って思いにもなり
ますが。
>それと専門分野の内容をジャーナリストと一緒にわかりやすく説明した本を
>もっと出すべき。文学部の書く文章は下手で、読みにくいよ
なんかこれだけ読むと、理学部、工学部の方の文章はすばらしく上手で読みやすい
ようですが、ついこないだまでパソコンのマニュアルなど理系の書くものの分かり
にくさということが随分言われていたような気がしますが、気のせいでしょうな。
それにしても『ルーシー』のような学者とジャーナリストが組んだ解説書というのは
必要ですね。(しみじみ)
>考古学には厳密な論理検証に耐えられない手前味噌の議論が多い。
>科学は事実と論理が一番重要。
これは、一言もありません。肝に銘じます。
>>691 文学部だから文章が上手いとご本人は思っているが、ジャーナリストの
方がはるかに上手くてわかりやすい、という意味です。
理系が上手と言っているのではありません。
(もっとも理系では論文の審査があり、文章もチェックされる)
マニュアルの分かりにくさは同感。あれは文系が通訳して書けば
もっと易しくなるはずです。
同様に考古学の概説書も、理系のジャーナリストが通訳して書けば
もっとよいものが出来るはずです。
>>678さん
>現在でもデータがすくないと言われる中で、ましてや内部調査が出来ていない
ものの推定年代は全くあてにならんのでしょうか(失礼)?
ううん。なかなか厳しい御指摘ですね。ただ、陵墓指定されている古墳でも、
指定範囲外まで延びているところもあり(箸墓が調査できているのはそのため)
、そこで得られたデータをもとに、推定することができます。特に埴輪や土器が
出ているといいですね。もちろん、発掘に進まぬまでも、立ち入り調査とかが
できれば、より蓋然性を検討することができるのですが・・・。
>で、畿内のそれらしき古墳の推定年代が卑弥呼時代にだんだと
近づいてきているようですが、この辺にうさんくささを感じるのは私だけ?
プロの考古学者にとっては「邪馬台国論争などは素人のお遊び」なんでしょうか?
自治体や似非学者などが素人を喜ばすために、あるいは煽って商売にするために
アドバルーンを上げ続けているだけなんでしょうか(学者を名乗って)。
昨今の例だと、卑弥呼の時代を突き抜けている例もありますね。(藁
それでも邪馬台国と関連させることで、衆目を惹く、という効果を狙った発表が
多いのは問題です。「素人のお遊び」とは思いませんが、どこにある、とかいう
議論よりも、この時代の個々の地域の状況を冷静に見ていくことからすべきだと
考えている研究者が多いかと思います。でないと、また吉野ヶ里や箸墓のように、
一回の発掘で右往左往する羽目になります。
>>638さん。
今泉氏の記述は、
>「七三八年(天平10)、七五八年(天平宝宇2)、政府は陸奥国に本拠地を離れて帰降
したエミシに種を与えて作田させて定着させることを命じたが(『続日本紀』)、この命
令を出すことができたのは、彼らが帰降前にすでに本拠地で稲作を行っていたからである。
でしたね。
638さんがまとめられているように
>天平10年の勅令を準用して、・・・
でありますから、続日本紀の記録から、この両年に勅が出ている、ということなのだと思います。
この引用方法はちょっと誤解を与える点でまずいとは思いますが、きちんと事実関係は押さえられ
ていると思います。
と言うわけでみなさま。
674・675のようなトンデモ説という誹謗はきちんと文章を読んでからにしてほしいですね。
ましてや、所属等は関係ない問題でしょう。
やや自虐的かと思いますが、考古学者に比べ、文献屋さんはまっとうな文章と、論理構成を
取られる方が多いと思います。自戒の念を込めて。
>>657さん
>>683さん
>だから小さな市町村では開発者が民間人・会社の場合、遺跡が破壊されるかもしれないと判っていても、「試掘調査」で完結しているのが現状ではないでしょうか?
このような現状を打破するために保護法を改正し、「原因者負担」を明記し、きつい罰則規定を設けるか、調査にかかるすべての費用を文化庁が負担するかです。
どちらの今の文化庁の腰抜け役人にはできないでしょうけど。
対象建築物が営利目的に使用する場合については、原因者負担をお願いしています。
その場合も、予算の一部は補助金がつくことが多いかと思います。
個人住宅などについては文化庁などのなんらかの補助金が出ることがほとんどと思います。
もし、そうでない場合は、それこそ担当者の責任かも知れません。
それから、保護法の改定は、土木利権が強い日本の政治では、いくら役人が頑張った
ところで無理でしょう。政治の問題です。立案はできるでしょうが。
>貴殿が今後申請に来た開発者に対して「文化財保護法で原因者負担が決められている以上云々」というような説明をされないことを切に願います。
最近、文化財保護法を読んでない人多いですね・・・。聞きかじりで問題起こしている例も多いです。面倒でも
一度はよみましょや。
696 :
666=638:01/12/07 12:50
638さんのレスを待つ間に、読み捨てに出来ないデマに反論します。
>>694 >続日本紀の記録から、この両年に勅が出ている、ということなのだと思います。
この引用方法はちょっと誤解を与える点でまずいとは思いますが、きちんと事実関係は押さえられ
ていると思います。
貴方は続日本紀を確かめましたか?いいかげんなデマを飛ばしては困ります。
指摘したように「続日本紀」天平宝宇2(758)年には、陸奥国から「帰順した夷俘に
天平10(738)年の勅令を準用して、種籾を給付し水田を耕作できるようにさせてよろしいか」
という伺いがあった、ということが書いてあります。しかし天平10年の項にはこの勅令も種籾給付の
ことも記載されておらず、他の資料からこの勅令の存在や内容を確認することはできない。
つまり「勅令があったらしい」ことは758年の記載でしかわからないのです。
勅令があったとすれば758年に一回しかない、それははっきりしています。
その内容は「夷俘に種籾を給付する」ことに関してのものであったことも
推定できます。しかし勅令を陸奥国が解釈した内容しか、続日本紀に記載されていないので
すから、勅令の実際の内容については推測にならざるをえない。歴史学者としては
ここは非常に慎重になるべきところでしょう。
それを今泉氏は、「738年と758年の2回にわたり、勅令が出て帰順蝦夷に種籾を給付し
水田を耕作させた」と記載し、そういう事実があったと認定し、そのうえに「水田が耕作
できるということは、蝦夷がすでに水田技術をもっていた証拠」と議論を進めている。
ありもしない738年の種籾給付を氏が記載したのは、758年の条項からの推測で資料調査が
不十分だった。
同じように789年の「所謂胆沢者、水陸万頃、夷虜存生」は天皇が征討将軍の報告書を引用して、
お前の言うことは信用できないという文章の中に出てくる。こういうものを注釈抜きで、ここだけ
抜き出して資料として使うというのは、もう歴史家としての資質が問われるべき問題です。
しかも「夷虜」と書いてあり、帰順蝦夷のことだとはっきりしているのに、「胆沢では非帰順蝦夷が
水田や陸田をひろくつくっていた」と解釈するのですから、もう無茶苦茶です。
このように今泉氏は一次資料の扱いが粗雑で、事実認定を誤り、その上に議論を組み立てているから、全体として
間違った議論になっている。
ですから694さんの言うような
>考古学者に比べ、文献屋さんはまっとうな文章と、論理構成を取られる方が多いと思います。
というのは今泉論文に関しては少なくとも当てはまらない。
ですから690さんが指摘した
>厳密な論理検証に耐えられない手前味噌の議論が多い。
>科学は事実と論理が一番重要。
というのは考古学だけでなく、古代史についてもたぶん広く言えることでしょう。
一次資料の確定が実にいいかげんで、それが諸説紛々の最大の理由だと思います。
674はそれを「トンデモ説」と指摘したのでしょう。私はそこまでは言っていないし、
694さんのように確かめもしないで「誹謗」だと決めつける意見が出てこなければ、
これを書く気もなかった。考古学と古代史は重なっているのだから、694は考古学関係者
としてちょっと続日本紀を開くくらいの誠意と学問的幅はもってほしい。
そういう誠実さが科学の根底に必要なのです。
>>696さん
勘違いをされているようですね。
続紀の記録は、758年であることは確かです。
ただ、これは738年の勅を準用する訳ですから、
内容の詳細はわかっていないのですが、この年に蝦夷についての
勅が出ているのだろう、ということを述べているだけ、ですが。
突然、デマ、といわれるといささか面食らいますね。
まあ、そんなに居丈高にならず議論を楽しみましょう。
>勅令があったとすれば758年に一回しかない、それははっきりしています。
その内容は「夷俘に種籾を給付する」ことに関してのものであったことも
推定できます。
その通りです。ので、勅は2回あったか、あるいは738年一回であったか、
ですね。758年にそれがもう一度準用された、ということでしょう。
蛇足ですが、古代には「勅」「勅書」は存在しますが、勅令はありません。
大日本帝国憲法下での天皇発布の命令が勅令です。
699 :
日本@名無史さん:01/12/07 13:23
旧石器考古学者だから石器はちゃんと見れる、
文献学者だから文献はちゃんと読める、
そういう思いこみを捨てないとね
石器がちゃんと見られるから旧石器考古学者
文献がちゃんと読めるから歴史学者
そういう理解が常識になったら
考古学も歴史学も科学になれる
あはは、書かれる前に更におこられてしまいました。
上で述べている通り、ちゃんと読んでますよ。
少なくとも、これを批判するのは勇み足と思いますが。
文章はよく読まないと。
なんなら、査読のある学会誌に投稿してみては如何ですか?
>>698 >勅令があったとすれば758年に一回しかない、それははっきりしています。
すみません、これは738年のうっかりミスです。
つまり758年の条に738年の勅令のことが陸奥の国により言及されている。
種籾を給付したいという陸奥国の願いを許可した、それが書かれていることです。
それを
>「七三八年(天平10)、七五八年(天平宝宇2)、政府は陸奥国に本拠地を離れて帰降
したエミシに種を与えて作田させて定着させることを命じた(『続日本紀』)(今泉論文)
と書くのは歴史学者として資料をきちんと押さえた誠実な仕事とはいえません。
まず738年の勅令の存在は間接的な推測によるものです。
758年には陸奥国の願いを許可したのであって、勅令で命じたのではありません。
(それとも歴史学では願いを許可することも命令と解釈するのでしょうか?)
それを2度にわたり「政府が命じた」と書くのはかなり恣意的です。
天皇の命令を勅令と一般に呼んでいます。それは勅ともいいますが、意味が正しく
伝われば用語名にこだわる必要はありません。
「原時代主義」、「現地用語主義」にこだわればあなた方は地獄を見ますよ。
だいたい天皇の名前なんて生きているときは絶対使わなかったのに、平気で使って
いるでしょう。あれはどう合理化するのですか?
702 :
日本@名無史さん:01/12/07 14:26
教えて下さい。
古いレスですが、
>>566 >エミシには田夷(たえみし)と山夷(やまえみし)があるぐらい知らないのか?
これは自発的に水田稲作を行ったいたのが田夷だ、という認識と思います。
それでよろしいでしょうか?
いつ頃から田夷という言葉は使われたのでしょうか?
>天皇の命令を勅令と一般に呼んでいます。それは勅ともいいますが、意味が正しく
伝われば用語名にこだわる必要はありません。
すみません。一般、の話だったのですか。勅と令は全く違うものだということを
ご理解いただけないのは、残念です。ちなみに、研究者相手に学術的な話をするの
であれば、そういう態度では説得力を持つとは思えません。私は話し相手を間違え
たようです。
もちろん、一般にというのであれば、結構かと思います。講演等、成果の公開の時
にはなるべくわかりやすい言葉を使うこともありますので。
学問的な体裁をみせかけつつ、こういう説明が市井に溢れているのは本屋に行けば
わかりますが、いいのかわるいのか・・・。理解者が増えることはうれしいのですが。
>「原時代主義」、「現地用語主義」にこだわればあなた方は地獄を見ますよ。
これ自体、無理な話ですので、こだわりはありません。
ただ、そのちょっとした言葉が重要な意味を持ってくることもあるので、それには
厳密に詰められた用語を使う必要があります。それが学です。
>だいたい天皇の名前なんて生きているときは絶対使わなかったのに、平気で使って
いるでしょう。あれはどう合理化するのですか?
一般にいわれる「名前」を「おくりな」であると判断して話を進めますが、
位についているときは固有名詞はほとんど付きません(「今上帝」等という
表現はありますが)。従って、日本史ではおくりな以外個人を表現する方法
がないために利用する、という決まり事があります。
では、お聞きしますが、あなたは在位中の天皇を「おくりな」以外でどう
表現するのですか?
それから、「絶対」ということはありません。後醍醐天皇など、在位中より
使用している例もありますので、事実認識に誤認があります。御確認ください。
もうひとつ。
地獄をみる、とか実効力のない脅しをするのは、
科学的議論に必要なんでしょうか。
心理学者さん、どうですか?
ちなみに、明治期の勅令は、天皇の命令ではないので。おまちがえなく。
これ、近代史の学者も間違ってることが多いのですが・・・。
ごめん、スレ違いもはなはだしくなってきた。
>>704 別に恫喝的意味で使ったのではありません。誤解されたことはこちらの不備で謝罪します。
「用語はその時代に使われていたものにする」という原則を守れば、各国の年号、自国の
年号を原音に忠実に発音しなければいけなくなる。人名の表記も発音も変わる。
しかも引用者がその時代の通称で引用していればそれももとに戻す作業が必要になる、
それやこれやでもう学問としての正確な情報交換に著しい支障を来すでしょう、
という意味でした。「地獄」というのはそういう事態のことです。
>勅と令は全く違うものだ
だれも令の話をしていません。勅と勅令が同じ意味だといっているのです。
「勅令」が勅と令からなるというのは貴方の新発見でしょう。
今泉論文の「蝦夷が自発的に水田稲作をしていた」という主張は
資料誤読に基づくもので、まったく根拠がないというのが論点です。
>議論を楽しみましょう
というのが本心からの余裕であれば、本題に帰って下さい。
さもなくば
>私は話し相手を間違えたようです
というのは、そのとおりですと申し上げるしかないでしょう。
647さんが調べている間に、638の10事実のうち、2)を修正します。
2)4世紀から6世紀(古墳時代)に、環濠集落は利根川を越えて宮城県付近まで北上した。(古墳と方形周溝墓を伴う)
利根川を越えたのは4世紀ではなく5世紀だと思います。
この北上が始まった時期は、478年以後ではない証拠が見つかりました。
以下少し長くなりますがそう判定する理由を述べます。
5世紀に茨城県に蝦夷が居住していた証拠
1)考古学的には利根川の線で環濠集落が停滞している。
2)常陸風土記には常陸国信太郡(現在の稲敷郡)が「もとの日高見国」だ
と記載されている。
この郡は白雉4(653)年に筑波・茨城の郡から700戸を分離して出来た。
すなわち霞ヶ浦の南に広がる平野だった。
3)日本書紀には以下の記載がある。
景行記25年:武内宿禰、北陸と東北を視察
景行記27年:武内帰国報告、「東北の日高見国に文身した蝦夷あり」
日高見国に蝦夷がいたことはまずこれで確認される。
4)常陸風土記に以下の記載がある。
崇神天皇(ミマキイリヒコ)の時代に東方の辺境の荒賊を平定するため、
タケカシマ命(那珂の国造の初祖)を遣わした。タケカシマは海路を進み
「安婆島」に露営した。霞ヶ浦の東側の浦に煙が見えたので、「天人の煙なら
こちらにたなびけ、荒賊の煙ならあちらにたなびけ」と言った。
煙が向こうにたなびいたので荒賊がいることがわかり、海を渡ってクズのヤサカシ、
ヤツクシという二人の指導者に率いられた荒賊を征討した。この記事は景行記の記事と同じ内容と見られる。
5)またヤマトタケルの東征は、上総から陸奥国に、海路玉浦を横断し蝦夷の地に入る。
日高見の蝦夷を平らげ、常陸から甲斐に入るとなっている。(日本書紀)
ここで日高見の蝦夷がまず討伐されたことが明らか。
6)同じく常陸風土記には「倭武天皇」について以下の記載がある。
行方という地名は倭武天皇が天の下を巡察し、海北の地を征討平定し、この地を通ったときに
生まれた。(ナメカタの由来説話略)テガという佐伯がいて、地名となった。ソネヒコという佐伯が
いて曽根という地名となった。オタカという佐伯が住んでいたところが地名となった。
7)478年、倭王武は中国皇帝に上奏文を送り、「東は毛人を征すること五十五国」と述べている。
8)倭王武と倭武天皇は同一人物と考えられる。またその「訓読み」がヤマトタケルと考えられる。
9)よって478年より前に征討が行われたと考えられる。
10)また日本書紀には以下の記載がある。
景行記51年:ヤマトタケルが連れ戻り伊勢神宮に献上した蝦夷どもが騒ぐので、
播磨、讃岐、伊予、安芸、阿波の5国に移住させた。これが佐伯部の先祖。
11)佐伯が原住民であったことは常陸風土記に記されている。
結論:以上により利根川以北の常陸の国には、蝦夷と呼ばれる顔身体に入れ墨をした原住民
が住んでいて、それが478年以前、恐らくは5世紀の中頃討伐され、捕虜が西日本各地に強制移住
させられたことは確かと考えられる。
708 :
日本@名無史さん:01/12/07 17:37
>>705 天皇の命令のうち「帝国議会の協賛をえないもの」を勅令という、
と言いたいんでしょ。
知識の出し惜しみをするんじゃない。いやらしいよ。
709 :
日本@名無史さん:01/12/07 18:37
>>707 すごい風土記、日本書紀の5世紀にあたる記述をすべてそのまま採用するとは、
喜田貞吉や黒板勝美も吃驚!
710 :
日本@名無史さん:01/12/07 18:38
>>708 こういうのは、文献オタがよくやる手だよね。
711 :
日本@名無史さん:01/12/07 19:03
>>709 貴方が思われるほど638さんは記紀を丸飲みしていませんね。
高橋崇「蝦夷」も資料は同じですね。
ただ日高見国を彼は東北に持ってきたいので「北上川」流域とこじつけ解釈していて、
常陸風土記に「此地本日高見国」とあるのを無視している。
要するにそんな南に蝦夷がいたことを信じたくないのです。
あ、この人も東北大学文学部卒業。
>>711 ふーんそうなの。
だけど、638が丸飲みにしてない根拠は、どこに書いてあるの?
あなたの言っているのは、「蝦夷」という本を書いた高橋祟と同じ資料を使ってる
ってことと、高橋祟は恣意的な(つまり資料そのままでない)解釈をしてるってことだろ。
資料の読み方の当否はさておき、638のほうが高橋祟より丸飲み(資料の記述そのまま)してる
ってことじゃないの。
むしろ、記紀や風土記の記述をそのまま読めばこうなるって638は言ってるんじゃないの?
それが、記紀を批判的に読むという津田史学流の解釈と違ってるから一生懸命書き込んでるわけじゃん。
そーいうのをひいきの引き倒しっていうんじゃないの。
筑波大学のマーク・ハドソン氏が、弥生農耕と日本語の起源について総説を書いていました。
日本列島には3つの言語しかない:アイヌ語、日本語、琉球語
ニューギニアの例から算定すると、もし言語消滅がなければ日本列島には300の
言語が存在しないといけない。
日本語の方言の乏しさから見て、原日本語は約2000年前に出現したと考えられる。
琉球語は日本語が農耕と共に伝わって6〜8世紀に成立した。
東北地方の日本語は日本語のなかでもっとも方言差が少ない。従って日本語がもっとも
最近に伝わった地帯である。(東北北部では12世紀までアイヌ語が話されていた)
縄文時代には沢山の言語が日本列島に存在したが、東北北部と北海道をのぞいてこれらの
言語は早く絶滅したと考えられる。
原日本語は弥生時代早期に水稲耕作と共に北九州に伝わったと考えられる。
北部九州の言葉とそれ以外の日本語の間には大きな差がない。
このことは原日本語が北九州に伝わってからすみやかに拡散したためと考えられる。
またこの東への波及過程で既存の縄文語は消滅したと考えられる。
原日本語は朝鮮北部の高句麗系の言語(絶滅)である可能性が高い。(復原単語の34/80が一致)
マーク・ハドソン:言語学から見た日本列島の先史時代.安田喜憲(編)「はじめて出会う日本考古学」
(有斐閣アルマ、1999 pp191-211)より要約。
もし水田稲作が東日本に日本語の普及なくして伝わったとすると、ここでは言語学的に説明
のつかない現象が起こったことになります。
縄文人の「水田稲作の選択的受容説」は、この矛盾を説明しないといけません。
714 :
日本@名無史さん:01/12/07 21:33
>>712 いいかい707は記載をそのまま引用しているのはその通り。(それは学問的には
正しいやり方だよ)
しかし論理を組み立てる際に、疑わしい事実は一切用いていないということがわかる。
2)は日高見国の所在地、
3)は「日高見国に文身した蝦夷あり」だけを利用。
4)は風土記の記事と日本書紀の記事が対応することだけ指摘。(結論には利用されていない)
5)はヤマトタケルが日高見の蝦夷を征討した事実を採用。
6)は倭武天皇が海北の征討平定をした後、常陸国行方郡を通ったという事実を採用。
7)は倭王武の上奏年
8)は倭王武と倭武天皇とヤマトタケルが同一人物であることの確認
9)は上奏年以前に征討が行われたという事実の指摘
10)は蝦夷が西国に強制移住させられたという事実
これだけが採用されて、これだけで結論が組み立てられている。
資料批判はきちんと行われていると思うよ。もちろん君が採用された事実に
間違いがあるというのなら、それを指摘すべきだろうが。
資料批判と恣意的な資料引用ととは別だと思うが。高橋氏は明らかに恣意的な
資料引用をしている。
戦後史学がダメになったのは、資料批判と恣意的資料引用の区別を忘れたから
だと思う。魏志倭人伝の読み方なんかひどいもんだ。原文を離れて自由自在に
解釈している。
>>714 ふーんそうなんだ。「事実」だけが採用されてそれで論が組み立てられているから
正しいというわけだ。
いや、別に採用された事実に間違いがあるということを指摘できるわけじゃないから
いいんだけど。たとえば3)の「日高見国に文身した蝦夷あり」が事実かどうか見てき
たわけじゃないから「事実」だと言われればふーんそうなのとしか言いようがないからね。
ただ、それが自説に都合のいい事実だけ取り上げているないのかどうかは、714でもよーわからん。
そこから先はお前が調べろということなんだろうけどね。
説明を小出しにしていくところは、文献オタの典型ですね。
>>715 あのね、日本書紀景行記25年に竹内宿禰の報告として、
「東夷之中 在日高見国」と書いてある。その後に「男も女も髪を椎のように結い、
身体に入れ墨をしていて勇敢です。これらをすべて蝦夷と言います」と書いてある。
この翻訳部分はすべての蝦夷研究家が蝦夷の風俗として引用しています。
それは事実だと一般に認められているわけ。
だったらそのすぐ前の日高見国も否定する必要ないでしょう。つまり「日高見国に文身した蝦夷あり」
は事実と認定されるわけ。
もちろん貴方の言うようにこれが間違っている可能性もあるのだけれど、その場合は
既存の研究家の仕事も全部否定されるわけよ。わかった?
>>715 貴方は縄文の土偶で髪を伸ばし、顔と身体に入れ墨をした人物像を
見たことない?
あれが蝦夷の風俗なのです。
なければ一度上野の国立博物館に行っておいで。明日にでも。
>貴方は縄文の土偶で髪を伸ばし、顔と身体に入れ墨をした人物像を
見たことない?
あれが蝦夷の風俗なのです。
ちなみに弥生人もね(魏志倭人伝)。
>文献オタの典型ですね。
レッテル貼り、すきだねえ。
ところで、上で話してた天皇の名前はどうなった?あれだけ自信
いっぱいに書いてるのに、答えられないの?
まあ、多分「郡」の記載喜んで書き込んで無知がばれた
手合いとか、他人の振りしてさも理解者がいるような
みせかけをするのと同一人物なんだろうけど。
そうそう、素人とかいって勤務時間中に誹謗中傷
書いてる奴を支持するバカもいたが、反応早すぎるんだよ。
大体、通常の感覚と違うだろ。
ちなみに、こういう決め付け方も真似だヨン。
このスレって非科学空想スレなのか?
神話の話をされてもね。
百年、二百年の差もおかまいなしだし。
しかし、ほんとに2ちゃんらしくねえな、ここ。
というわけでsage
まあまあ、デムパまいてる人にはいい居場所じゃない?
ついでにsage
722 :
日本@名無史さん:01/12/08 04:12
>ちなみに弥生人もね(魏志倭人伝)。
愛知県亀塚遺跡で人面土器(顔面入墨)が、でてますね。
いちおう自分の今見ている資料では2世紀になってます。
この遺跡は、銅鋤もでており稲作をしていたのは確実そうです。
てことで、縄文人稲作説を少しばかり主張します。
魏志倭人伝でいう倭人は、縄文人の文化や形質を強く引き継いだ農耕民でもある
(海民でもあるが)
723 :
日本@名無史さん:01/12/08 05:06
>>713 関西弁はどういう扱いになっているのでしょうか?
明らかに発音が異なっている方言ですが、
これも「大きな差ではない」という括りなのでしょうか?
また、「日本語の普及が最近である」というのは
「縄文人の水田稲作の選択的受容」と
矛盾するものでは無いように思えます。
1.弥生時代に稲作が伝わり、東北の縄文人が選択的受容を行った
2.大和朝廷の侵攻により日本語の使用が一般化した
といった感じで稲作と言語が別個に東北地方に伝来してきた可能性も
十分に考えられます。
それとも大和朝廷の支配下以前に東北地方で日本語が話されていたという
確かな証拠を論文内で述べられているのでしょうか?
>>723 日本語内の方言については名古屋あたりを境に東と西が大きく違っている
ことが(別の研究から)示されています。
ハドソン氏の論文では日本語が東北北部に広がったのは1000年前くらい、
という認識ですね。
「レンフルーの言語変化モデル」という原則があり、
1)稲作のような食料生産性の高い文化が伝わるときには、伝える側の言語が
伝えられる側の言語を置換する
2)優越民族が支配すると被支配民族の言語が置換される
3)二つの言語の接触によりクレオール語が誕生する
の三つとされています。
稲作だけ伝わって、言語が後から伝わるというのは「レンフルーの原則」に
反しているのです。
西日本はレンフルーの原則にあっているが、東日本には当てはまらないことに
なります。(考古学者の言うとおりだと)
大和朝廷は征服のたびに通訳を必要としたので、蝦夷は日本語を話していなかった
ことは明らか。
ですから言語学的には日本語は
紀元1世紀頃北九州に入りそれから速やかに伊勢湾東岸まで広がり、
そこで一旦足踏みした後、ゆるやかに東日本に広がり、東北北部
には10世紀頃広まった、と考えられるようです。
モデルが原則になっちまったな。
稲作が伝わると言語も変わるって原則って凄いね。
デンパとしか思えん。
アジアの稲作地域はみんな同じ言語を話していたってか?
高句麗語って何だよ?
証拠があるの
728 :
日本@名無史さん:01/12/08 12:40
結局、「史料批判」も結構なことですが、、
馬具が出たら、「騎馬民族」
古墳の場所が違うから「王朝交代」
ってな具合でなんでもありの捏造が蔓延しちゃったのは、
何故なんでしょうかね。
しかも上記のような電波説を民間人でなくて「東京大学教授」等
が大まじめに唱えてしまう考古学界って何なんでしょうか?
アカデミズムのいい加減さが電波が蔓延する一つの原因だと思いますね。
>>727 高句麗は新羅と違う言語だったそうです。朝鮮語は新羅の系統。
高句麗語はツングース系の言葉だったのでしょうか。
失われてしまい、文献から80語だけ復原されたそうです。
後はハドソン氏の論文をご覧下さい。
730 :
日本@名無史さん:01/12/08 23:16
>>718 魏志倭人伝の邪馬台国の記載はほんとに不思議ですね。あれは
本当に3世紀前半の北九州か畿内のことを書いたものだろうか?
対馬国には「良田少なく、海産物を食して自活す」と書いてあり、
水田はあっても補助的です。
邪馬台国はじめ他の国には水田稲作をやっていると書いてない。
全身に入れ墨して、ベンガラを身体に塗り、「冬夏生野菜を食っている」
と書いてある。
古墳時代が始まる前の弥生人が全身入れ墨なら、4世紀に騎馬民族が
やってきて文化がすっかり変わって入れ墨をやめたのだろうか?
731 :
日本@名無史さん:01/12/08 23:23
>>730 随分あとの話だが、人物形象埴輪でも、顔面に刺青と思しき線刻のあるものが存在する。
まず、前提に問題がある。妻がニュ−ギニアをしているので、あえて嘴を挟むが。
>ニューギニアの例から算定
という点だが、
ご存知の通り、ニューギニアは世界最大の島で、小さな大陸といっても良いくらいの面積を持つ。
なおかつ、多くの言語が存在することで有名だが、これは多くの民族の流入があったことが大きい。
もう一つ言えば、その複雑な地形も影響していよう。
このような所を引き合いに出すことが不思議だが、その論拠が知りたいね。
あと、東北地方の方言格差が少ないとういう点も疑問だ。
何を基準にしているのか?それ以外の地域との格差を何をもって計るのだろう。
もはやまともに相手しきれんな。
734 :
日本@名無史さん:01/12/09 01:28
本題に戻ろう。考古学の旧石器研究は科学になれるか。
僕は、近い将来科学になれると思う。しかし、今は無理だ。旧石器研究者と自称する人が、印象と想像で言説を述べるからだ。
悲観ばかりではない。改善は進むだろう。それは、石器の考古学に、説明が必要とされるからだ。
>>724 ではハドソン氏の論文と「レンフレーの言語変化モデル」から
「平和論」の可能性があると反論してみます。
便宜上以下の言葉を用います
「弥生人」稲作を行い、弥生文化を担った人々。
「縄文人」狩猟採集を行い縄文文化を弥生時代においても継続させようとしていた人々
>「日本語が東北北部に伝わったのは1000年前くらい」
>優越民族が支配すると被支配民族の言語が置換される
この2文から導き出されるのは
・弥生時代には東北地方に日本語が伝播していない
・よって(仮に弥生人が優越民族だとしても)弥生人は縄文人を支配していない
>「稲作のような食料生産性の高い文化が伝わるときには、
>伝える側の言語が伝えられる側の言語を置換する」
弥生時代に点で展開していた稲作は継続される事無く放棄された事から
稲作文化が東北地方においては生産性が高い文化であるとはいえない
(イネは熱帯性の植物)
1.弥生人が稲作技術を持って東北地方に渡来
2.縄文人と共存するも稲作文化は広まらなかった
3.やがて稲作が放棄される
4.近畿地方に大和朝廷が成立する
5.東北地方を制圧し東北地方で日本語が使われるようになる
という流れは言語学の面から見ても矛盾が内容に思えます
736 :
日本@名無史さん:01/12/09 01:54
今の日本史板の状況について一言コメントもらえるかな?
また言語オタが出てきてんの?
ダメだなこのスレ
だれか新しいスレたててくれ
>>735 賛成。
東北の縄文人(弥生時代の)が、稲作を行わず古墳時代にも
稲作をしなかったとすれば、言語学との矛盾はない。
そうすると「弥生時代に東北の縄文人が稲作を取り入れた」という
考古学の主張がピンチに立つのです。
>>732 ニューギニアの言語数を面積で割り、その値を日本の面積に掛けたようです。
台湾の面積は日本の1/10程度ですが、約30の言語が見つかっています。
ですから日本には300はないとおかしい。
それがたった3つというのは、297の言語は絶滅したということです。
およそ2000年前に原日本語を話す弥生人が列島に到着してから
比較的短期間のうちに言語絶滅が起こった。
そう考えるのがもっとも妥当でしょう。
740 :
日本@名無史さん:01/12/09 14:44
邪馬台国ではすでに階級社会が生じていて、入れ墨のない弥生人が
支配者で入れ墨した縄文人が庶民だったと考えれば、722のいう人面土偶
とか731のいう入れ墨埴輪の説明はつく。
日本書紀にも久米族(軍事集団)は入れ墨していたという記載がある。
目の周りに入れ墨していた(隈目)からクメというらしい。グルカ兵みたいに
傭兵集団だったのかな。
741 :
日本@名無史さん:01/12/09 16:28
>>739 300ってのは、いい加減すぎないかなあ。(このスレの本質的問題ではないが)
縄文文化の状況を軽視しすぎだとおもいます。
土器の流通圏においては100キロを超えるのは当たり前ですし、
海産物も山を越えて(日本海から長野など)います。
宝飾品に至っては、離島(沖縄や八丈島など)を含め、
日本全国に出土し、海のルートで結ばれていたことは確実です。
交易があれば、言語が統一されるとは主張はしませんが、
縄文の海洋民を中心に共通言語とも呼ぶべき言語があった
可能性は高いと思います。
そして、弥生の渡来人によって、言語がクレオール化したとは思いますが、
縄文語がベースになったと私は思っています。
また、言語学の世界では、言語の伝播と人種(部族)の入れ替わりは、
必ずしも一致しないと言うのが、主流な意見だと思いますが・・・。
なんか、一人エキサイトしてるのがいるね。
クソスレに1票
今日はさすがにデムパ氏はやすみか・・・。
744 :
日本@名無史さん:01/12/09 22:10
NHKスペシャルまさに、このテーマでやっておりましたな。
弥生初期、西日本では征服説、弥生後期、東日本では融和説でした。
痛み分けという感じでしたね・・・。
まあ、NHK説はいつも物議をおこすトンデモも内包しておりますが・・。
745 :
日本@名無史さん:01/12/09 22:13
ヤマトとアズマが激しく対立するのもまさにそういう理由からか。
746 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:00
>>741 300というと一見とても多いように思えるが、15,000年以上の年月をかけて
縄文の末期に至ったとすれば、列島の地理的状況を考えておかしくはない。
徳川時代にはそれくらいの藩があった。百姓の移動はほとんどなかったから
あの状態が2000年くらい続くと、300位の言語が誕生するだろう。
ヨーロッパの言語は5000年前にアーリア人の侵入があり、バスク語を除いて
後はそれ以後に分かれたと考えられている。それでも50位の言語がある。
ともかく日本には3つの言語しかない、という状況はきわめて異常だろう。
バスク語とかロマンス語が生き残った事情を見ると、日本では政治体制が一つだったから言語も日本語
で統一された、というような話ではないと思う。
強力な文化的インパクトか民族の入れ替わりのような特殊な原因を想定したいところだ。
747 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:04
このスレひそかに人多いな・・・
現在
削除人の更迭
ローカルルールの制定
に向けて活動中です
ローカルルールには
史観論争の禁止(政治思想板へ)
朝鮮差別の禁止(ハングル板へ)
皇室罵倒の禁止(最悪板へ)
の三条を盛り込みたいと思う
同意していただきたい
日本で言語が3つしかないって、いったい誰が何の根拠で決めてんだ?
年寄りの方言なんか全く別の言葉にしか聞こえないんだけどな
749 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:35
>>744 西日本は征服で、東日本は名古屋近辺で一旦停止した。それでフォッサ・マグナに
一致した方言ギャップができた。
弥生後期から古墳時代の初め(5世紀)にまた東への征服が始まる。
6世紀に福島県、7世紀に宮城県、8世紀に山形・秋田、9世紀に岩手、10世紀に青森
という感じで東北を進んだのではなかろうか。
西日本と異なり人類学的には置換が主体ではなく、混血が主体だろう。
このため東北と西日本の人類学的相違が生まれ、文化的違いも残った。
「水田稲作の東北への早期波及」という説を考古学が捨てれば、言語学、人類学の
証拠との間に大きな矛盾はなくなるのだが。
>>748 「縄文土器と弥生式土器の区別なんて、いったい誰が何の根拠で決めてんだ?
どっちもおなじ土でつくった壺にしか見えないんだけどな」
751 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:50
>>749 言語の境界線はフォッサマグナというよりもそれに沿う中部山岳地帯でしょうね。
高峻な日本アルプスを超えて、弥生人は簡単には東国へ進出出来なかったんだろう。
これが今日にまで至る東北日本と西南日本の人類学的、文化的相違に繋がっている
のはたいへん興味深いことですね。
752 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:52
アズマへの無関心は日本史板衰退につながる事をご理解下さい
厨房には関わりたくないという気持ちはよく分かりますが、
もう一年以上も被害が続いている以上、放置はできないという
のが率直な気持ちです
どうかローカルルール制定にご協力を
753 :
日本@名無史さん:01/12/10 00:58
>>749 名古屋に熱田神宮があり、茨城に鹿島神宮があるのは、こういう東の征服と
関連があるのだろうな。
754 :
日本@名無史さん:01/12/10 01:06
古代史スレの人と対話するのは不可能なのかな?
それとも、皆ブックマークして直接スレを見ているのでしょうか・・・
日本史板は末期的状態ですよ
一応ローカルルール設定に動いています
良かったらレス下さい
>>751 舟を使えば簡単に東国へ行けます。
土器でいえば、縄文早期くらいから海岸沿いに標識土器が比較的広範に分布
するものもあります。
方言の伝播などでは、海沿いにダイレクトに伝わることが知られています。
756 :
日本@名無史さん:01/12/10 01:44
日本海は道
>>754さん
みてますよ〜。
言語学者さん。
>「縄文土器と弥生式土器の区別なんて、いったい誰が何の根拠で決めてんだ?
どっちもおなじ土でつくった壺にしか見えないんだけどな」
ネタだろうけど、こんなの考古学者の便宜的な区分だよ。
本当は縄文土器と弥生土器、か縄文式土器と弥生式土器だけどね。
言語とか、心理とか、科学を叫ぶ御仁は人は概念規定に弱いのかね。
あと、同一人物が見え見えなのにころころ肩書きかえるのやめろや。
ID導入を要求したいな。そのあと、個々の連中がどうレスつけてくるかが
楽しみ。
>「水田稲作の東北への早期波及」という説を考古学が捨てれば、言語学、人類学の
証拠との間に大きな矛盾はなくなるのだが。
弥生以降の水田の存在は疑うべくもないのに、まだそんなこといってるの?
水田が作りやすいところには弥生人が・・・とか苦しい言い訳してなかった?
そもそも、本当に言語学してるんなら、人種と文化と言語との関係くらいおさえろや。
758 :
日本@名無史さん:01/12/10 12:05
>>754 私は政治的には自民党支持ですが、歴史的事実としては弥生人あるいは騎馬民族が
西日本だけでなく東日本を征服し、縄文人あるいはアイヌの祖先を支配したと
考えています。日本人単一民族説はまちがい。それに依拠した「皇国史観」も
まちがい。
しかしその論争は決着がつかないからやっても無駄。
歴史認識の基礎となる個々の事実の有無については科学的論議の対象となる。
但し757のように
>弥生以降の水田の存在は疑うべくもないのに、まだそんなこといってるの?
と事実の提示をさけて、延々と形を変え自分の主張だけ繰り返していると、
754が憂慮しているような事態になる。
このスレは「考古学の科学化」が話題なので、その趣旨にそって議論を続ければ
よいだろう。
759 :
日本@名無史さん:01/12/10 12:45
>>757 いやこれはね、東北の水田は弥生人がつくったもので、縄文人がつくったのではない。
という主張から出ている訳なんだな。
つまり最初に「縄文人は野蛮で頑迷だから弥生文化の選択的受容などできるわけがない。」
という主張があって、それに合わない縄文人による水田は否定したいのさ。だから
弥生時代や古墳時代の水田があってもそれは否定するか弥生人自身がつくったもので縄文人
のものではないと言ってみたりするんだな。
ただ、ざっとスレをみると弥生や古墳の水田が縄文人によるものだという証拠の提示は
弱いように思う。「疑うべくもない」に対して「それは入植(侵攻)した弥生人のものだ」
という主張があるわけだから証拠をあげて説明する必要があるね。
言語学からの矛盾というのは、つまるところ水田農耕技術は言語とセットでないと
伝わらない(水田農耕技術は、少数の技術者が通訳を使って伝えることなどは不可能
である。ある種の文化の伝播は、特定の言語と切り離すことは不可能であるという命題)
が正しいかどうか、またこの場合に当てはまるかどうかだと思う。
それを除けば10世紀ころまでに「日本語」が本州北端まで伝わったということだから
現在の考古学者・歴史学者の認識と違わないと思う。
760 :
日本@名無史さん:01/12/10 12:57
>>785 >私は政治的には自民党支持ですが、歴史的事実としては弥生人あるいは騎馬民族が
>西日本だけでなく東日本を征服し、縄文人あるいはアイヌの祖先を支配したと
>考えています。日本人単一民族説はまちがい。それに依拠した「皇国史観」も
>まちがい。
何かかんちがいされているようですが、現在の考古学者で「単一民族」なんて
考えている人はいないんじゃないでしょうか。
それと、騎馬民族でも弥生人でも大和朝廷でもいいんですけと「先住民の水田
稲作民による征服」というのは戦前の皇国史観と同じ構図(天孫降臨、神武東征)
になり、むしろ「アイヌを除いた単一民族国家」になっちゃうことは、意識して
おいたほうがいいと思います。
761 :
日本@名無史さん:01/12/10 13:26
>>758、ちょっとまてや!
>弥生以降の水田の存在は疑うべくもないのに、まだそんなこといってるの?
と事実の提示をさけて、延々と形を変え自分の主張だけ繰り返していると、
754が憂慮しているような事態になる。
いままでのスレ読め。実例も、研究史も出てるだろ。
簡単な間違いも認めずに、デムパ流すのがいるから、問題なんじゃないの?
>>このスレは「考古学の科学化」が話題なので、その趣旨にそって議論を続ければ
よいだろう。
上で言ってることにこだわってるじゃないか。何言ってるの?
逝ってくれ。
762 :
日本@名無史さん:01/12/10 13:55
そういえば、638が提起した
5)東北における水田稲作は4世紀以前には点として少数の存在が認められている。
6)水田稲作が面として存在し始めるのは、環濠集落の北上前線以南においてである。
7)紀元前4世紀以前に利根川以北に存在した文化は縄文文化の延長である。
8)記紀、風土記に見られる蝦夷が水田稲作を行っていたという証拠はない。
を事実として認定するかどうか、という問に対する648の回答はまだかな?
「帰順以前の蝦夷が水田稲作を行っていた」という今泉隆雄氏の説には根拠がない、
ということは同意が成立したと思うが。
763 :
日本@名無史さん:01/12/10 14:12
>>759氏へ
>つまり最初に「縄文人は野蛮で頑迷だから弥生文化の選択的受容などできるわけがない。」
という主張があって、それに合わない縄文人による水田は否定したいのさ。だから
弥生時代や古墳時代の水田があってもそれは否定するか弥生人自身がつくったもので縄文人
のものではないと言ってみたりするんだな。
少しバイアスのかかった論争の要約ではないでしょうか?
縄文人が「野蛮で頑迷」とは誰も言っていないように思います。
文化人類学的に見ると狩猟採取民と農耕民の落差はあまりに大きく、前者はそう簡単に
農耕文化を取り入れない。
ただ縄文農耕は高度に発達していて、その基盤があるから水田稲作も容易に取り入れられた
という意見があり、それに対して「水田稲作は灌漑などとセットになっており、一種の
プラント輸入だから技術者輸入なくして不可能」というのがもう一方の主張。別に民族や
「人種」の優劣にかかわる話ではないと思います。
この論争は貴殿が言われるように、東北に関して
>弥生や古墳の水田が縄文人によるものだという証拠
が提出されれば、容易に決着がつく問題だと思われます。
761のように証拠をだせないのが、悔しがって「デンパ」だとか「逝ね」とか
罵倒語をつらねて、品位を落としているだけです。
764 :
日本@名無史さん:01/12/10 14:53
>>760 >騎馬民族でも弥生人でも大和朝廷でもいいんですけと「先住民の水田
> 稲作民による征服」というのは戦前の皇国史観と同じ構図(天孫降臨、神武東征)
> になり、むしろ「アイヌを除いた単一民族国家」になっちゃう
ここが一番の問題でしょうな。科学としては、
「先住民の水田 稲作民による征服」が事実かどうかが問題になる。
仮にそれが事実であっても、天孫降臨や神武の実在性はまた別の問題。
日本は「征服国家」として始まったというのが事実であり、それが「天皇家による統一」
という皇国史観と同じ構図でも、事実である限り何の問題もない。(戦前の皇国史観では
天皇家は大和民族で朝鮮系ではないとされていた)
日本人が「アイヌを除いた単一民族国家」というのはむしろ戦後の日本史学や考古学が
唱えてきたことで、それを人類学(埴原和郎)や言語学が崩してきたというのが真実でしょう。
単一民族神話は1960年代以後に成立したという話はこのスレで前に誰かが紹介していましたね。
単一民族説は戦後の「一国平和主義」を唱えた左翼の歴史学・考古学が生み出したもので、それは
むしろ構造的には皇国史観と親和性があるのです。天皇制抜きの皇国史観、それが「縄文人稲作受容説」、
「少数の渡来弥生人」説の背後にあるイデオロギーです。
765 :
日本@名無史さん:01/12/10 15:20
ごめんごめん。
バカとかすぐに言う某国立大の先生の真似しちゃった。
逝ってくるわ。
766 :
日本@名無史さん:01/12/10 15:43
767 :
日本@名無史さん:01/12/10 16:01
>>766 還元論法というのはない。循環論法ならあるが。
還元主義あるいは要素還元主義というべきだろう。
自然科学では研究対象を、構成要素に還元して、その要素を分析する。
考古学の学説についてもそれを構成する主要事実を取り出し、それをひとつずつ
分析して真偽を確かめようという方法だろう。
考古学の科学化にはそういう手法も必要だろう。
還元主義に対する批判は「それでは全体が抜け落ちる」というものがあるが、
やってみないでは、そうなるかどうかわからないだろう。
「全体が抜け落ちる」というのは、例えばヒヨコをすりつぶしても、物質と
しては何一つ欠落しないが、それはヒヨコではないというものだ。
還元主義を導入すると同じ問題が考古学でも起きるだろうか?
起こるとすれば、それはどういう問題だろうか?
>>763 ・縄文農耕とか簡単に言っちゃうと小林たっちゃんにおこられるー
たっちゃんにいわせると「horticulture」らしいが(・_・;)
・縄文時代人は普通の狩猟採集民じゃなくて
complex hunter-gathererという説があるけどそれについてはどうなん?
・陸稲でも湿地でやれば水田になるらしいけど、とすると灌漑施設
はいるのん?
769 :
日本@名無史さん:01/12/10 18:03
>>768 >horticulture(園芸文化)、complex hunter-gatherer(複合的狩猟採取民)
ですか。
小林達雄自身が、「縄文人は食べられるものは何でも食べた」、それで狩りも
魚介類の採取も、木の実やキノコの採取も、簡単な野菜や穀類の栽培もやった。
しかしそれは農耕と言えるものではなく、「農耕は弥生時代、本格的な
水田技術が根付いて初めて始まった」と述べていますね。
(縄文社会は人口が減って自己崩壊したという説に対して)「縄文は負けたんです。
弥生の力に圧倒されて、稲作技術を中心とした弥生的世界観を受け入れたんです」
とも述べている。(「遺跡は語る」、角川、2001)
引用するなら正確にやってくれ。
>>769 いけんをのべたわけじゃないしー
引用しようとしたわけじゃないしー
なのでその批判はまとはずれ。
771 :
日本@名無史さん:01/12/10 18:20
>>763 >水田稲作は灌漑などとセットになっており、一種のプラント輸入だから技術者輸入なくして不可能
稲作は水田の水平面をつくるのに水準器を必要とし、他の畦、給水路、排水路を必要とし、
田をつくるだけで相当の工事(期間、労力)が必要となる。
農作業は、まず春先に乾田を耕し、ついで給水する。田植えの作業と草取りの作業がある。
秋には再び水を抜き乾田にし、それから稲刈りが始まる。当初は稲穂だけをつみ取っていたが、
この作業のタイミングも大事。その後も、脱穀しなければ米にはならない。
およそ6ヶ月間、休みのないスケジュールに追われる作業だ。
この技術がプラント輸入にも相当する、というのはその通りだと思う。
縄文人が陸稲から水稲に移行したとか、弥生人がやっているのをみてまねたとかいうのは、
およそ米つくりの実際を知らないから、そういうことが言えるのではないかな。
最近では籾を見たことがなく、お米はあのまま、田圃に実ると考えている若者も
多いそうだ。そういうのが考古学をやると、わやだわな。
772 :
日本@名無史さん:01/12/10 18:34
>単一民族説は戦後の「一国平和主義」を唱えた左翼の歴史学・考古学が生み出したもので
これは根本的な認識違いですね。
単一民族説は、明治国家が天皇を日本人の総本家とする神話を捏造し、
それを家族国家観として国民に宣伝する過程で生み出されたものです。
>>769 まあ小林たっちゃんの名を出しておきながらなぜhorticilture
と書いたかということについて述べておこうか。
たっちゃんはhorticultureを「栽培」と訳している。
だからたっちゃんの著作では縄文農耕ではなく「栽培」とする
意見が良く書かれる。
ただ、このhorticultureの訳に関しては佐原氏との対談の中でも
佐原氏が「菜園的農耕」を主張し、たっちゃんが「栽培」を主張し、
その訳自体のことで言い合いをしている。
(佐原真・小林達雄 『世界史の中の縄文』 新書館 2001)
したがってhorticulture=栽培とするにはまだ議論の余地が残されているわけだ。
そのような状況下では「栽培」とか書くよりhorticultureを使ったほうがいいわけさ。
下手に栽培とか書いて翻訳論争に巻き込まれたくないからな。
なのでまあ気にするな。
「菜園的農耕」は誤訳だし、「栽培」では訳になっていない。
775 :
日本@名無史さん:01/12/10 19:48
>>772 君の不勉強または誰かに洗脳されている。
前レス489,531を見よ。
明治憲法ができたのが明治22年、日清戦争の結果台湾が日本領になったのが
明治27年。このときすでに日本はアイヌ、台湾人という民族を含む他民族国家
になったのだ。だいたい帝国主義というのは多民族国家なのよ。
日本はけっして異民族間の「婚姻禁止」などという政策を採らなかった。
国家が「大和民族は単一民族だ」と考えていなかったからだ。
そんで戦争に負けて、朝鮮も台湾も樺太も満州も失って、はじめて「単一民族」
神話が生まれたのよ。「みんな一緒に頑張って、豊かな社会をつくろう」という
高度成長期にはそれは非常に有効だったのだ。
776 :
日本@名無史さん:01/12/10 20:19
>>775 そりゃレトリックだよ。建前は「大和民族は単一」なのよ。
ところが、775のいうような事態が進んだからアイヌも高砂族も
みんな同じ「大和民族」ということにしたの。
だから全部日本名にして、日本語を教えたわけさ。
人種は違っても同じ日本名で日本語を話すのが日本人というレトリック
を使ったのさ。
最近になっても「日本は単一民族」っていうおっさんが絶えないのは、
「日本名で日本語を話せば全部日本人」っていう戦前のレトリックが残ってる
からさ。
「日本名で日本語を話せば日本人」という考え方が、「単一民族」神話の基盤に
あるから戦後になって「単一民族神話」が生まれたというのは大きな勘違い
というか「なんでも戦後民主主義(が悪い)」の影響だね。団塊の世代に特有の
病気だよ。
777 :
日本@名無史さん:01/12/10 20:23
>水田稲作は灌漑などとセットになっており、一種のプラント輸入だから技術者輸入なくして不可能
>弥生人がやっているのをみてまねたとかいうのは、およそ米つくりの実際を知らないから、そうい
うことが言えるのではないかな
お説のとおりだと思いますが、そのようなことを言っている考古学者がどのくらい
いるのでしょ。教えていただけますか?
ちなみに手元にある「新版古代の日本」では、弥生前期の秋田県諏訪台Cと地蔵田B
遺跡の調査から「この集落は、農耕集落として定着・発展したと考えられる。晩期
終末に遠賀川式土器を使用し、稲作技術を身につけた農耕集団がこの地に渡来し、
晩期縄文文化の伝統を受け継ぐ在地集団と交流し、新たな農耕集団を形成したとみ
られる。」(「4弥生社会の成立と展開」須藤隆)
とありますが?
これはつまり弥生人が直接来たってことでしょ。まさにプラント輸出をしたんじゃないの?
まだ、クニ規模の後ろ盾を持たない殖民団は、縄文人と正面きっての武力衝突よりいっしょに
水田づくりをする道をえらんだんじゃないの?多勢に無勢だし、開墾するのに人手もいるから
そのほうが合理的だと思いますよ。
そうなると、弥生人が東北に直接入ってきてたことは異論がないわけだから、武力を背景にし
た「征服」か技術供与による融和かということになるような気がする。
縄文人がいっぱい居るところで武力制圧っていっても難しいような気がするけどね。
大和朝廷だって東北北端まで制圧するのに300年くらいかかってるわけでしょ?
国家事業で300年かかるものを小規模の殖民団がかんたんにできるのかな。
征服論に対する一番の疑問はそこなんだよ。クニができた8世紀以降ならわかるが、
何でもガチンコでぶつかっていくもんかね。
778 :
日本@名無史さん:01/12/10 20:34
日本融合以来の和の精神ですな
779 :
日本@名無史さん:01/12/10 21:11
>>777 568の本の再引用ですね。
弥生前期の秋田の水田遺跡が持続的にそこに定着して周囲に拡大した
という証拠がない。
筆者も「新たな農耕集団を形成したとみられる」と言っているが、証明は
できていない。
そこが問題になっているのです。
つまり秋田では出羽の国ができて稲作が再び導入され、今日に至る。
沢田吾一の計算によると、9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。
ほとんど稲作が行われていないことがわかるでしょう!
780 :
日本@名無史さん:01/12/10 21:26
>>779 >9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。
それは、ずいぶんと多い。縄文最盛期で30万人。
縄文晩期で10万人と言われているのに・・・。
この数字は、日本列島全体です。
781 :
日本@名無史さん:01/12/10 22:51
>>780 ほう、すると弥生稲作が導入されたとき37万平方キロの日本列島は
実質的に無人島だった。(だって1平方キロにO.3人の人口密度。
それで大部分は東日本にいた)
なら東日本はたんに稲作に向いていないから、物好き以外は入植
しなかったということにならないか。
東日本に8万か9万が暮らしていて、それで何が悲しくて地面に
張り付いて泥まみれになって水田稲作を取り入れるのよ?
言ってることが自己矛盾だろ。
782 :
日本@名無史さん:01/12/10 23:08
最大人口が30万人なら1000人規模の集落なら300あったことになる。
古代史学者の武光誠は古代では小盆地が宇宙になっていたと述べている。
関東平野、濃尾平野、大阪平野のような大平野の人口は別として、
実際には100人から300人程度の集落が日本全体に300程度散在していた
のだろう。そしてそれがお互いにほとんど孤立していて、言語も違った。
交易はその土地で産しないが絶対に必要なものについてほそぼそと
行われていた。
それが縄文時代の実相ではないか。
ともかく考古学者はもっと文化人類学を勉強すべきだ。
旧石器は進化人類学に無知だったため、世界史上にまれな赤恥をかいたが、
縄文考古学は文化人類学と言語学をしらないで、赤恥をかくよ。
783 :
日本@名無史さん:01/12/10 23:18
>>781 縄文時代のこと全然知らないみたいだから、少し説明するね。
まず、縄文時代で一番栄えたのが約4〜5千年前。
これは、縄文海進といって、今より海面が高かった。
その結果、干潟がいっぱい増えて、貝がいっぱいとれたんだ。
それで、安定した暮らしができ人口が増えたということらしい。
貝は一年中とれて、基礎食料になるんだよ。そして、佃煮??
みたいな者をつくれば、山の民とも交易ができる訳だ。
そして、その後、海面が下がって、貝がとれなくなった。
すると、狩猟中心、あるいは外洋漁業しかないんだな。
なぜだかしらんが、この頃は栗もあんまりとれなかった。
もしかしたら、栗の栽培は放棄していたのかも知れない。
そんなわけで、縄文晩期には人ひとりを養うのには
広大な面積が必要だった。(特に狩猟に頼った人々は)
そして、西日本では獲物も格段に少なかったのだろう。
あるいは、良質な漁場が近海にあるエリアしか縄文人は
住めなかったと言うことらしい。
てわけで、生活はとても大変だった。
お米なんて作れるなら、すぐ飛びつくでしょ。
(´○`)>縄文時代の人口を算出したので有名なのは
民族学博物館の小山修三氏だなぁ・・・
縄文中期に26万くらいといってなかったか?
>>784 >(´○`)>縄文時代の人口を算出したので有名なのは
> 民族学博物館の小山修三氏だなぁ・・・
小山の人口論なんて誰も信じてない
三内丸山をトンデモにしてる張本人だし
787 :
日本@名無史さん:01/12/10 23:34
>>783 残念でした。日本列島の太平洋岸はプレートが押し上げるので
遠浅海岸なのです。海面が下がればむしろ貝類はとれます。
縄文海進では海が内陸に進入したので干潟になるところは
減少したのです。だから貝塚は特定の場所にしか残されていない。
地球物理学も知らない考古学の大御所の意見をまともに
信じてはいけない。
じゃ西日本の縄文貧民は弥生農耕の福音を喜んで受け入れたわけ?
そうじゃないでしょ。弥生農民は無人の生態学的に空白のニッチに
まず進出したわけよ。東日本でも同様で、ただ人口増加圧が大きかったから
後に土地争いで武力進出になったと考えるのが無理がないとおもうけど。
788 :
日本@名無史さん:01/12/10 23:55
縄文末期の集落は当時の人口推計からみて300を超えることはない。
それは基本的には盆地か海岸の平野部にあった。武光誠の説だと
そういう地理条件を備えた場所は日本には300程度しかない。
ニューギニアから計算しても、台湾から計算しても縄文時代の
日本の言語は300位になる。
そうすると一集落1言語で計算はあうではないか。
後はその集落が弥生人のため絶滅するか、水田稲作を取り入れて
弥生文化に改宗する度に言語が一つずつ絶滅していったのだろう。
300言語が3言語に減少したのはちゃんと説明がつくではないか。
789 :
日本@名無史さん:01/12/11 00:21
>>787 縄文晩期の海退後には、貝塚はめっきり減ってしまうんだよ。
しかし、干潟は地球物理学か・・・すごいなあ。
>>788 なんで、そんなに、何もかも300になる??
縄文集落は、三内丸山など、大きな遺跡もありますが、
1〜3家族のものが、結構多かったようですよ。
特に狩猟中心の縄文人は・・・・・。
300人がいっせいに狩りをはじめたら狩猟エリアから
あっという間に獲物が消滅して、引っ越ししなくちゃいけない。
まあ、稲作やってたんなら、大丈夫だけど。(藁)
790 :
日本@名無史さん:01/12/11 00:58
>>787 787は、縄文人30万人説を受け入れたようだけど、
「9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。」
この人達は、どうやって食っていたと思うの。
稲作農耕を認めるの??それとも何か別の説ある??
791 :
日本@名無史さん:01/12/11 01:08
>>787 「日本列島の太平洋岸はプレートが押し上げるので遠浅海岸なのです。」不正解。
干潟は日本海沿岸より太平洋沿岸のほうが多いのはなぜか説明してみろ。
「海面が下がればむしろ貝類はとれます。」不正解。必ずしもそうではない。でも潮干狩りは干潮の時に限るね。
「縄文海進では海が内陸に進入したので干潟になるところは減少したのです。」でもまた内陸の沿岸で干潟ができます。
「だから貝塚は特定の場所にしか残されていない。」
海岸近くに貝塚を作っていたとして、ほんとうに海面が上昇したのならば、もとの貝塚は海に浸食されてなくなります。特定の場所とはどこでしょうか?
「地球物理学も知らない考古学の大御所の意見をまともに信じてはいけない。 」
プレートという語を並べたので「地球物理」などとほざいているが、君の説明の中には地球物理のかけらも感じることができない。さすが学部卒の地方自治体のエセ考古屋だね。
>>783さんへ
数百〜数千年のオーダーでわずか数m海面が上がったり下がったりしても、干潟が減ったり増えたりしないよ。急激に上下した直後は別だけどね。
>>791 >数百〜数千年のオーダーでわずか数m海面が上がったり
>下がったりしても、干潟が減ったり増えたりしないよ。
>急激に上下した直後は別だけどね。
うむ、地形にもよると思うけど、
洪水による土砂の流出→氾濫原(湿地)の増加→海進→
干潟の増加→海退→湿地の増加
少なくとも、関東地方ではこの構図だったと思うのだが。
それと、潮干狩りの件だけど、これは素人用のサービス。
漁師さんはもっと沖で、貝をかき集めております。
(たぶん、縄文人も同じ漁法でしょう。)
>>792 >うむ、地形にもよると思うけど、
>洪水による土砂の流出→氾濫原(湿地)の増加→海進→
>干潟の増加→海退→湿地の増加
>少なくとも、関東地方ではこの構図だったと思うのだが。
もちろん地形にも支配されている。
理解しがたい構図である。そんな単純なプロセスならば第四紀学者は苦労しないよ。50年くらい前の定説でしょうか?
まああんまり否定してやると君の「貝がいっぱい採れた。」とか「採れなくなった」とか、「縄文時代の生活はたいへんだった」なんていう主張が根底から崩れてしまうなあ。
>なんていう主張が根底から崩れてしまうなあ。
基本的根拠は、貝塚の盛衰だから、完全崩壊はしないと思いますよ。
その辺、興味ありますんで、暇だったら解説よろしく。
>>782 縄文中期とそれ以降をごっちゃにしていませんか?
中期と後期には大きな変動があったと予想されています。
東日本では中期には大形の集落が存在していましたが、
後期になると集落は小形化し、移動性の強いものになってきています。
1集落あたりの住居址も同時数では2-3基程度になってきます。
そして同じく後期に入り関東では東海地方の影響を受けた土器や
北陸地方伝来と思われる長方形柱穴列(堀立型建物跡)が見受けられるようになります。
後期の縄文社会は環境変化により生産力が低下し、
中期の大形集落を形成することが出来なくなり、
互いに深い関わりをもった小集団に分裂したと考えられています。
加曾利貝塚や中里貝塚のような後期の大形貝塚は
同一の集団によるものでは無く、
複数の集団が採貝場あるいは加工場としていたのではないかと
考えている研究者もいます。
もし、中期に1集落1言語であったとしても、
後期に入り、集落間の交流が活性化した結果
言語数は大幅に減っていたものと考えられます。
>>795 300の言語があったという言語学的推定に対して
300の盆地/平野がありそこに孤立集落があった
という古代史からの指摘がある。
で、1集落1言語だったのでは?というのは
私の仮説です。(ニューギニア、台湾はそうみたいです)
縄文中期と後期の平均的集落サイズと全国の集落数の
算定は考古学が行うべきものでしょう。
>中期の大形集落を形成することが出来なくなり、
> 互いに深い関わりをもった小集団に分裂した
これだと後期には集落数が増加したということになるが?
中期と後期の集落数をいくつと見積もっているのでしょうか?
797 :
日本@名無史さん:01/12/11 11:16
>>790 >「9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。」
>この人達は、どうやって食っていたと思うの。
沢田推計のこの数値は「米を作っていた」人数です。
従って米を作らない(税金を納めない)蝦夷は人数に
入っていない。
この頃は稲穂の束を税金として納めていたので、その束の
数から逆算した。(正確には陸奥の国では戸籍と稲束数の両方の
記録が残っているので、稲束あたりの人数を係数として出し、
それを出羽の稲束数に掛けたもの)
同じ時期の陸奥は約20万人の人口。
越後出羽郡の設置は708年、出羽国への昇格は712年。これと
並行して関東や関西から相当数の移民が行われています。
この頃の秋田・青森は日本一の過疎地だった。(現在の過疎地
山陰は9世紀には35万人が住んでいた)
798 :
日本@名無史さん:01/12/11 11:45
>>785 小山推計を信じていないという考古学者が多いのだが、
では縄文時代の人口はいくらが正しいと思っているのか?
三内丸山が騒がれているが一体あの集落の人口は何人だったの?
小山推計は遺跡数をもとに縄文・弥生時代の人口を推計した
もので、それ以外にデータがないから依拠せざるをえないのでは
なかろうか。
鬼頭宏の歴史人口学では、2世紀の秋田・山形の人口は5000人、
青森・岩手・宮城・福島の人口は3万人弱となっている。
この頃弥生人が稲作に渡来したとしても1集落せいぜい100人で
大勢に影響はない。大部分は蝦夷で狩猟採取だった。
蝦夷の人口が多くなかったことはアテルイの乱の反乱兵力数でも
わかる。14村落が反乱に参加し、総兵力は2000だ。(但し騎射が巧みで
兵は強かった)これは宮城北部から岩手南部にかけての反乱だが
蝦夷人口はせいぜい1万人程度と思われる。
つまり蝦夷は縄文時代と同じ生産様式(文化)を維持したので、
人口は増えようがない。そこへ弥生人が稲作をもってきてどんどん
人口が増え、土地を奪う。それで絶望的になって何度も反乱する
わけさ。
799 :
日本@名無史さん:01/12/11 12:17
そういうわけで、
>>777 >縄文人がいっぱい居るところで武力制圧っていっても難しいような気がするけどね。
「縄文人がいっぱいいる」というイメージが大きな間違い。まず考古学者も考古学ファンも
これを訂正してほしい。
紀元前9世紀頃の人口は列島全体で8万人程度。その9割が東日本にいて西日本には
1万人以下しかいなかった。(200人規模の集落が50個か、100人規模の集落が100個か、
その程度のもの)だから実質的に無人地帯だった。衝突はまず起こらなかった可能性が
強いし、起こっても稀だから証拠が発掘される確率は低い。
だから弥生稲作は急速に西日本全体に拡がって名古屋あたりまで到達した。
それより東はだんだん縄文人の密度が高くなるから、稲作の普及は一旦停止した。
(この頃東日本には10万人位の縄文人がいた)
人口が増え、国家が整備されると土地を求めて武力進出するようになった。
それが5世紀以後のことで10世紀に青森を征服するまでこの歩みは続いた。
しかしこの全過程を通じて東北北部(出羽・陸奥)は過疎地で、縄文人(蝦夷)の
総数が10万を超えるということはなかったと思うよ。
定性的議論だけでなく、定量的議論が科学には必要だ。
800 :
日本@名無史さん:01/12/11 12:43
>799
とっても、いい線いってると思うよ。
で、NHKスペシャルでは、縄文後期から古墳時代に
かけての一時期、西日本と東日本の平和的融合時代を想定していたのです。
論拠として以下のようなものがありました。
1)弥生後期において、西日本に、東日本形式の土器がたくさん出土している。
しかし、その土器の土は地元のモノを使っている。よって、東日本人が
土器技術者が西日本に移住した可能性が高い。
→土器技術者は農耕技術を学び、地元に伝えたのではないか??
2)弥生後期、関東の中里遺跡の農耕遺跡において、東日本と西日本の
両形式の土器や石器が出土している。そして、戦いの痕跡はない。
→一緒に稲作をしていた。
>>797 779が以下のような発言をしていたから、779に確認したかったんだけど・・・。
どうやら、返事をくれた方は違う人のようですね。
779のレスがなかったら、発言撤回と理解します。
以下779の発言
>つまり秋田では出羽の国ができて稲作が再び導入され、今日に至る。
>沢田吾一の計算によると、9世紀の出羽の国の人口はわずか58,000人。
>ほとんど稲作が行われていないことがわかるでしょう!
>>776 >日本名で日本語を話せば日本人」という考え方が、「単一民族」神話の基盤に
>あるから戦後になって「単一民族神話」が生まれたというのは大きな勘違い
「生まれた」というのは言い過ぎでした。「定着した」というべきでしょう。
「日本人は混合民族で、天皇家は朝鮮から渡来した」と主張したのが久米邦武の
同僚教授だった星野恒(1890年)。久米も「日本人は北からきた先住民を南から
きた朝鮮南部とおなじ渡来民が征服し、それが日本人の中核となった」と主張した。
江戸期の新井白石も初期の柳田邦男も同様の主張をした。
1910年の日韓併合の時に、新聞は「日本民族は雑種で、多くの人種の長所を持つ点に
特徴がある」と主張した。明治大正はだから日朝同祖論・日本民族雑種論が主流だった。
この論調の転換は左翼の喜田貞吉の主張がきっかけ。彼は「差別解消」が生涯の
テーマだった。そこで「支配者である天皇家は、虐殺などせず、先住民族を混血に
よって同化した」と主張した。この説は著書「日本民族の成立」(1921)で全面的に
展開された。この頃、人類学の面で長谷部言人と清野謙次が「日本人は日本列島で
発生したもので、混血の影響は少ない」という説を立てた。長谷部は「石器時代人は
すなわち日本人である」と主張した。(このため彼は「明石原人」を再評価した。また
アイヌ=縄文人が先住民族という説を否定した。)
この主張は昭和の侵略主義にとって大変都合がよく、「日本人は純血なるがゆえに、
天皇と親子の関係にあり、他民族とは違う」という「単一民族」神話だが、彼らが思った
ほど国家はこれを利用しなかった。
戦後、戦前に弾圧された津田左右吉は雑誌「世界」(1946)に、「日本人は遠い昔から
一つの民族として生活してきたので、民族の混和によってつくられたものでない」
という論文を発表した。
戦後一国社会主義路線をとった共産党は、津田や長谷部の意見をたかく評価し、かくして
「日本人単一民族」論が進歩的知識人=学者の共通理解となった。
これを歴史学者井上清はこう表現している。「われわれ日本民族はほとんど単一の人種で
できており、この同一の日本人種が2千年来同一の地域に共同生活し」(1957).
このため歴史学会・考古学会は、混合民族論に立つ江上の「騎馬民族渡来」説(1949)は、
自分たちの教義に反するのでまったく評価しなかったが、一般市民には広く受け入れられた。
こうして戦前の学会では嘲笑の的であった「単一民族」は1950年代には肯定的な評価をうける
ようになり、1960年代になると論壇にも単一民族論が登場し、日本人論・日本文化論にも前提として
利用されるようになった。(「タテ社会の人間学」、「日本人とユダヤ人」など)
政治学者の神島二郎(1982)はこう述べている。「戦前は、大和民族は雑種民族であって、
混合民族だと誰でも言っていた。あの日本主義を唱道していた真っ最中にもそう考えていた。
ところが戦後になって、奇妙きてれつにも、進歩的文化人をはじめとして、日本は単一民族だ
といいはじめた。まったくもって根拠のない説が横行している」
つまり単一民族神話をつくり普及したのは戦後の歴史学会、考古学会、人類学会なのです。
この結論に反論するなら、戦前の体制系出版物で「単一民族説」を唱道したものをあげて
ごらんなさい。
>>801 779は777の弥生の秋田稲作説は持続発展した根拠がないと
反論したのだよ。9世紀の出羽の稲作人口は約6万人。
これは7世紀以来稲作と植民が行われた結果だと述べている。
蝦夷が弥生時代から稲作を取り入れていたらもっと人口は
多いはず。
何が問題なのかわからんな。
804 :
日本@名無史さん:01/12/11 14:00
>>802 ふーん、なるほど。それで歴史学や考古学の長老はいまだに共産党の
マインドコントロールから抜けきれないで、日本人は日本列島で
原人ー旧人ー新人と進化し日本人になったと考えているのか。
だから東北原人が「発掘」されてもそれが捏造と気づかなかったわけか。
よくわかるよ。
俺はあの事件とオームはよく似ていて、何だか宗教的雰囲気があると
思っていたが、大本にマルクス主義という教義があってそれが作用して
いるとなると根は深いな。あれも一種の宗教で科学とは無縁だから。
しかしそういう話を知らないで、いまだに「縄文・縄文」と唱えている
若い連中は悲惨だな。
805 :
日本@名無史さん:01/12/11 14:16
802の主張は戦前は「日朝同祖論・混合民族論」が主流だった。
ところが戦後は戦前を否定するあまり、日朝同祖論の否定、混合民族論の
否定をおこなった。その結果、戦前は否定されていた「単一民族論」が
主流になってしまった。そういうことだね。
そのため旧人はおろか原人もいたはずということになり、長谷部の明石原人や
鈴木尚のいろいろな原人などが「発掘」された。
しかし人類学が科学的になってきた結果、それらの原人はすべて否定され、旧人
でさえも否定された。
ところが考古学はもっと隣接学問の進歩に無知だったために、1980年以後も
旧人・原人の発掘に夢中になり、遺跡捏造事件にまきこまれた。
これにこりるなら、人類学、遺伝学、言語学の進歩をきちんと勉強して、
「日朝同祖論・混合民族論」をきちんと科学的に評価しなければいけない。
その過程で「騎馬民族征服説」もちゃんと科学的に評価しなければいけない。
そういうことが問題になってくるということだろうな。
>>805 戦前の否定は「記紀」の内容についても行き過ぎた否定がおこなわれた。
天皇制を憎んでいるから「嘘」を摘発するのが学者の仕事になった。
ちょっとでも中国の本に似た内容が書いてあったらすぐにここから盗作した
捏造だと決めつけるのもそう。
そのくせ天皇制以前の魏志倭人伝にはいっさい批判的研究を行わなかった。
だいたい記紀は漢文で書いてあり、中国の古典をすらすら読めたのなら
書いた人も中国人で話し言葉も中国語だったろう、ということになろう。
そしたら宮中の言葉も中国語だったかもしれない。そうなると「単一民族説」
に矛盾が生じるわけだが、イデオロギーを信じている場合はそういう
合理的批判精神がはたらかないわけ。
ちょうど東北の連中が藤村の単純トリックに簡単にひっかかったのと同じ
心理状態にあるわけだ。
記紀には嘘が書いてある、という認識がひろく広まっているが、これももう一度
洗い直しが必要になると思うよ。それをやらないでなし崩し的に「つくる会」の
歴史認識が一般化するのが怖いよ。それでは振り子が単純にもとに戻るだけで
進歩というものがない。
807 :
日本@名無史さん:01/12/11 15:01
>>804 >しかしそういう話を知らないで、いまだに「縄文・縄文」と唱えている
>若い連中は悲惨だな。
意味不明。「縄文、縄文」と唱えるとはどのようなことを指すのか。
>しかし人類学が科学的になってきた結果、それらの原人はすべて否定され、旧人
>でさえも否定された
あのー牛川人とか葛生人が否定されたのはいつでしたっけ。ついこないだの新聞に
出てたような気がしますがね。教科書にも載ってたんじゃなかったのかな。
前に概説書の最たるものが教科書で教科書に嘘が書いてあるようじゃって言ってた
お方もいたけどその点はどうなのかな。
いくら考古学を批判したいといっても何でも人類学マンセーはいただけませんね。
そういうあざとい議論の持っていき方がデムパと言われる原因になっていることに
お気づきになったほうがよろしいのでは。
あ、そうか考古学をバカにしに来てるだけだからそんなことどうでもいいのか(藁
(´○`)<季節性移動とかを考えたら、遺跡数での人口推定は
少なく見積もったほうがいいのかなぁ?
809 :
日本@名無史さん:01/12/11 16:48
>>807 >あのー牛川人とか葛生人が否定されたのはいつでしたっけ。ついこないだの新聞に
>出てたような気がしますがね。
批判は前からおこなわれていたが、決着したのが最近と言うことでしょう。
この分野でもやはり長老が邪魔になっていたのは同じでしょうね。
考古学も老害があるのでは?
>いくら考古学を批判したいといっても何でも人類学マンセーはいただけませんね。
人類学も長谷部以来大きなあやまちをおかした。ことに明石原人は石膏モデルしか
残っていなかったので、否定にはずいぶん時間を要したのだと思います。
バカにしているのではなく、バカにされないように頑張ってほしいといっている。
遺跡発掘は俺にまかせてくれ。かならず見つけだしてやるぞー。
最近の考古学者は稲や稲作の実際を知らないでものを書いたり、
議論したりしているのではなかろうか?という発言をしましたが、
その実例があります。
寺沢薫「王権の誕生」(講談社)に以下の記載がある。
「ある時、一年も二年も放置された田んぼの稲株から、ヒコバエといって
穂が生え、落ちた籾からも自然と芽が出ているのを見つけた」(p71)
これは著者の体験として書いている。
ヒコバエというのは8月終わりか9月初めに稲刈りをおこなうと、その切り株
からまた稲が育って10月末にまた稲穂が実るのを言います。天候がよいと
そういうことが起こる。放置されて年を越した田んぼに起こるのではなく、
稲刈りをして2ヶ月くらいのうちにヒコバエが生じるのです。
稲は一年草なので年を越した切り株から芽が出るわけがない。
寺沢はこの部分では実物を見たことがないか、何か誤解して書いている。
この誤りが指摘されないできたのは、編集者も読者ももうヒコバエなんて
だれも知らないからです。
こういう人が縄文農業・弥生農業を論じているのだから怖いですよ。
812 :
日本@名無史さん:01/12/11 19:14
>>811 ほんまや。今そこを読んだよ。なんちゅうアホ書いとるんやろう。
話がだいぶそれてるようだ。
638が提起した事実関係問題に考古学からの意見はないのか。
>5)東北における水田稲作は4世紀以前には点として少数の存在が認められている。
>6)水田稲作が面として存在し始めるのは、環濠集落の北上前線以南においてである。
>7)紀元前4世紀以前に利根川以北に存在した文化は縄文文化の延長である。
> 8)記紀、風土記に見られる蝦夷が水田稲作を行っていたという証拠はない。
648は回答拒否かな?
これを事実として認めると面白い仮説が生まれるよ。
弥生人がもたらした東日本の早期の弥生稲作は後に消滅した。
蝦夷はその文化を引き継がなかった。
利根川以北の水田稲作は弥生人の5世紀以後の北への進出により始まった。
帰順蝦夷のなかには田夷も出て、大和国家体制に組み込まれた。そのなかには
武士や領主として頭角をあらわしたものもある。
混血は西日本からの強制移民、投降蝦夷の西方への強制移住などにより
東でも西でも徐々に生じた。また防人、源平の戦い、南北朝の争い、戦国時代、江戸期の
お国替えなどでも生じた。(それでも百姓は動かなかったから、西が弥生系、東が縄文系
というおおまかな区別は残った)
最後まで帰順ないし同化を拒否した蝦夷がアイヌとなって残った。
人口的には稲作を発展させた西日本の人口は急増し、7世紀には東日本を上回るようになった。
このような歴史的経過があるから、日本人は形質人類学的におおまかに西が弥生人、
東が縄文人の特徴を残している。また言語学的に日本語は西日本に方言が多いのに
対して、日本語が遅く普及した東北北部ではその内部での方言差が少ない。また
アイヌ語は琉球語とともに別の言語として認定されるようになった。
これは基本的には水田稲作を中心とする弥生文化複合体(土器だけではない)の
東への波及とその「征服」の物語だが、やっぱり抵抗があるかなあ?
>>804 馬場の書いた本を読んだことないのか?
人類学の旗手は、多地域進化論者だぜ
蛇足だが、典型的な進歩的文化人である井上清と家永三郎の日本人論を
典型的進歩的出版社岩波の本から紹介しておく。
「日本人は、最古の時から現在に至るまで、同一の種族が、同一の地域、今の
日本列島の地で、生活してきた。その間にいくらかの多種族との混血はあったが、
征服・被征服による種族の交代も、大規模の融合もなく、日本人は原始の野蛮から
現代文明の一流の水準にまで、社会と文明を断絶することなく発展させてきた。
これは日本歴史の大きな特徴の一つである」(井上清「日本の歴史」、1963)
「弥生文化の主体は新しく海外から移住して縄文文化人を征服した民族であろうとも
考えられている。しかしそう考える人たちも、その民族は数の上では少数であって
その文化は縄文文化を圧倒して日本文化の主流を占めることになったものの、
新来民族の血は結局多数を占める先住石器時代人の中に吸収されてしまい、
日本民族に新しい人種的要素を注入したにとどまって、全面的な住民の交替を
引き起こしたのではなかろうと、考えているようである。弥生文化の担い手が
何ものであるにせよ、弥生文化の渡来はたびたび繰り返される海外文化摂取の
一例にすぎないわけで、日本文化の連続性は失われていないと考えてさしつかえ
あるまい」(家永三郎「日本文化史」、1954)
彼らが単一民族神話の広め屋だったのだ、ということがよくわかる。
>>814 本は読んでいないが説はしっているよ。ジャワ原人の系統から進化して
スンダ人になってそれがアジア人に進化したという説。
アジアでネアンデルタールが見つかっていないからそういう説を唱えた。
でも今はだんだんアフリカ起源説に傾いていると思うよ。
シャベル状の門歯だけじゃ証拠が弱いもの。
817 :
日本@名無史さん:01/12/11 23:40
ローカルルール設定の方向で動いていますが、
アズマが必死で妨害しようとしています。
このままでは、アズマの大量の自演によりローカルルール
導入があやうくなります。
とりあえず、ローカルルール議論スレに来て一行だけでも
意見を述べて下さい。
是非ご協力を!
818 :
日本@名無史さん:01/12/12 05:42
ちゅうか、20年くらい前までは、北京原人をなくした男、ワイデンライヒ
の唱えた多地域進化説が、世界的主流の考え方だった。
問題は、それに固執というか、何も考えなかった人々とその体質。
819 :
日本@名無史さん:01/12/12 07:33
は?単一民族ですが?
純血な民族じゃないというだけで。
820 :
日本@名無史さん:01/12/12 10:53
結局、単一民族神話に毒されているから弥生時代1000年に100万人が渡来、
ということになるとそれが崩れる。それで縄文の最大人口30万人、末期は
わずか10万人という小山推計が考古学者に評判が悪い。
そこで縄文人はもっと多かった、縄文時代はもっと豊かだった、という
方向へ話がつい言ってしまう。そうしないと縄文文化から弥生文化への
連続的移行という話が成立しないからね。
三内丸山遺跡がもてはやされ、しかもそれが相当な誇大広告であるらしい
のは、心理的にはそういう基盤があるように思えるな。
一方で、米つくりの日本農業が行き詰まっているのは誰の目にもあきらかで、
稲作農業を讃えるのは時代の風潮に合わない。また日本人の大部分が都市生活者に
なり、自然に対する無知とあこがれがある。そこで狩猟採取経済の縄文時代に
たいする賛美の念もうまれたんだな。
科学的考古学はそれに対して縄文生活がどれだけきびしくて、貧しいものだったか
をきちんと明らかにしなければいけないのに、現状はむしろそれを賛美し、ブームを
あおっているように思われる。
科学的考古学への道はけわしいなあ。
821 :
日本@名無史さん:01/12/12 11:15
縄文生活が厳しくて貧しいという先入観を宣伝するのが科学的考古学?
あと、小山さん自身が三内丸山を誇大宣伝してると思うんだが。
822 :
日本@名無史さん:01/12/12 12:05
確かに、近年、縄文の豊かさという概念によりすぎていたような
気もする。
縄文時代の食の多様性、社会的分業、交易ルートの確立、祭祀の広がりなど、
においても、豊かさがうんだ余剰という概念でとらえている人が多い。
しかしながら、これは、貧しさ故の技術進歩や神頼みと考えた方が良いのかも知れない。
823 :
日本@名無史さん:01/12/12 12:14
釘をさしておくと、貧しいとか豊かとか定義もなしに使うと、
また子どもの喧嘩になるよ(w
824 :
日本@名無史さん:01/12/12 12:16
>>822 こんなどっちにでも取れるような説明は全く説明してないのと同じ。
全然科学的じゃない。
豊かだったかどうかは骨を調べれば栄養状態が分かるでしょ?
縄文人の栄養状態に関する情報きぼ〜ん。
こうやって一つ一つ不確かさをつぶしていく作業が科学なのよ。
825 :
日本@名無史さん:01/12/12 12:39
>>824 1)骨折の頻度は3〜7%で治療法がないから障害を残した。(身障者が
100人中5人)
2)平均寿命は15歳
3)変形性関節症などの老化現象が早くから見られる
4)糞石の分析から寄生虫感染が多かった(鈴木隆雄「骨から見た
日本人」講談社、1998)
骨や糞石の分析からは、「過酷な生活を送っており、乳児死亡率が高く、
平均寿命が短く、多くが寄生虫に悩まされており、老化も早い」現代から見て
あまり幸福とはいえない社会と思われる。
>>824 >縄文人の栄養状態に関する情報
栄養状態いいわけないやろ。飢餓線とか言われる
骨格の変異がいくらでも出てる。
823さんの言ってるように、
豊かさっていっても、いろいろあるな。
摂取カロリー、労働量、文化活動、余剰食糧、嗜好品etc
まあ、現代人の尺度で考えると、失敗しそうだなあ。
827 :
日本@名無史さん:01/12/12 13:06
>>820 確かにあの岡村さんも「縄文の生活誌」で
「最近は弥生文化に端を発する現代都市文明に疑問を感じる人々が増え、
都市から逃れ豊かな自然や人間性への回帰が求められるようになってきた。縄文
文化はそうした都市に暮らす人の心情のどこかに触れるものをもっているのだろう」
と書いている。
気持ちはわかるが、非科学的なブーム便乗は困るよね。
彼も「水田稲作は列島に水田稲作文化が受容されて百年経たないうちに、本州
北端の津軽半島まで伝播した」と述べ、縄文人の応用力のたかさを協調している。
一般人はこう書かれると、水田稲作が日本列島を縄文人の文化リレーで100年の
うちに北九州から列島を縦断して、青森まで伝わったと理解し「脅威のスピード」
とびっくりするわけよ。
しかしこのスレの議論で明らかになったことは、「北九州とほぼ同じ頃、弥生人が
舟で青森にも水田稲作をもちこんだが、長続きしないで途中で消えた」ということ
だろう。つまり「青森にあるから、途中の東北にもあるはず。関東にもあるはず」
という推測で学説を組み立てちゃったんだな。一般人だけでなく、考古学者が
ここで大きな錯誤をしているのだよ。
縄文文化論の一番非科学的なところはここだと思うよ。未証明の事実の上に
壮大な仮説を築いている。
>>825 情報サンクス。
ただ豊かであるとかないとかの相対評価は、いつの時代のどんな人と比較するかによって言い方が全然違ってきますよね。
現代と比較するのはちょっと極端かなと。
やっぱりポイントは狩猟採集が中心の生活と農耕が中心の生活との比較だろうから、
弥生時代の人の栄養状態はどうなんだろう?
その本には書いてないですか?
829 :
日本@名無史さん:01/12/12 13:27
>>828 残念ながら弥生人の骨のことは書いてない。
しかし著者は「健康度の指標として一番優れているのは平均寿命だ。
集団全体の健康状態が一番よく分かるのはこれだ」と述べ、
江戸時代や明治時代の日本人より縄文人が短命だったのは自明のこと、
と述べています。
さて弥生時代の人骨は数が少ないのか平均寿命を計算した文献を
知らないのですが、避妊法をしらないか知っていても実行しない
社会では「平均寿命が延びると人口が増える」という現象が起こります。
これから平均寿命を推定できます。
紀元前2世紀(縄文の終わり)の日本の人口は8万人。
2世紀(弥生時代)には60万人。
8世紀(奈良時代)には450万人。
これだけ急速に人口が増えていますから、弥生時代に平均寿命の著しい
延長があったことは自明です。つまり「縄文人よりも弥生人の方が
はるかに健康的な集団だった」というのが科学的結論です。
弥生時代には戦争があった、それは殺しあいだ、だから不幸だという
「定性的認識」に考古学者は引きずられているのでしょう。科学には
定量的考察が重要なのです。
830 :
日本@名無史さん:01/12/12 13:36
>>821 確かに小山氏は若い頃の自分の人口推計を今ではあまり評価していない。
「データが一人歩きしている」とも述べている。
かれが評価を低めたから、縄文を高く評価するようになったのか、あるいは
その逆なのかはわからない。
しかし科学的に重要なことは、小山推計以外にデータがないということだ。
誰かが新しい遺跡データベースを用いて新たな計算をおこない、小山データを
否定する証拠を提出したときに初めて小山推計は葬り去られる。
それが科学の方法で、証拠もなくして好き嫌いでそれを否定してはいけない。
考古学者は小山データを疑うのなら、新たに計算をやり直してそれを論文として
発表すべきだよ。
831 :
日本@名無史さん:01/12/12 14:03
>>829 俺は鈴木さんの本を読んでいないが、本当にそんなことが書いてあるのか?
>避妊法をしらないか知っていても実行しない
>社会では「平均寿命が延びると人口が増える」という現象が起こります。
そんな現象が一般的に起こるという説は聞いたことがない。
そういう説を主張する者がいるなら、20世紀のブッシュマンと
18世紀のヨーロッパ人の平均余命がほとんど同じことについて
どう説明するのだ?
また、狩猟採集から農耕へ生業の比重が傾くことによって、骨や
歯に残るストレスマーカーが増大するという例もたくさんあるぞ。
平均余命についても、狩猟採集社会の寿命が短いという一般論は
少なくとも否定されている。
健康を表す指標の変化についてはさまざまな要因を考え合わせて
評価すべきで、人口の多少と単純に結びつけるのは暴論。
つづきだけども、「縄文の生活誌」を読むと、妙なギャップがあるなあ。
建物がでかい、食べ物は豊富、墓があると「豊かな生活」を強調して
いるけど、歯とか骨になると、「歯槽膿漏が多い」、「骨折が多い」と
一転して否定的になっている。
つまり自然科学的データとのギャップがもろ出ているな。
それにこんな変な表現もある。縄文人は死者を「生ゴミ捨て場・貝塚」に捨てた
という事実がある。それを「縄文人がゴミ捨て場に人の遺体も埋葬している
事実は、彼らがゴミを親しい人や身内の人とある意味で同等に扱っていたことを
示している」(p149)だって。
科学的には「死者に対する尊敬の念がなかったから、ゴミ捨て場に捨てた」と
考えるのが普通だと思うよね。
それを生ゴミを大切にするリサイクルの思想があり、遺体もリサイクルのため
そこに捨てた、と言おうとしているようだ。
これはもう現代の風潮に悪のりした、トンデモな悪徳商法かインチキ宗教に
ちかいなあ。
833 :
日本@名無史さん:01/12/12 14:18
些末なことかもしれないが、単なる自分の意見に科学的とかつけるのはやめた方がいいぞ。
カガクカガクって言葉を単に冠すれば霊験あらたかになるわけではない。
834 :
日本@名無史さん:01/12/12 14:20
小山先生と言えば
「縄文の女はオッパイ大きいの多かったから、縄文時代よかったでぇ」
とかおっしゃってた。
とても大学者に見えん。うううう………。
835 :
>>831:01/12/12 14:27
>健康を表す指標の変化についてはさまざまな要因を考え合わせて
> 評価すべきで、人口の多少と単純に結びつけるのは暴論。
人口ではなく、「人口増加率」が平均寿命の指標となると述べている。
別に暴論でも何でもない。人口学の常識。
平均寿命が減少する社会では人口は減少する。増加すれば人口は増える。
なぜかというと近代以前は平均寿命は乳幼児死亡率で決まっていたからです。
集団の健康とは「集団死亡率の低下」で定義します。成人に病気が多いかどうか
ではない。ここでも考古学者は「ストレスマーカーの出現率」という一部の
変化を健康の指標と考えるという、「定性的思考」による間違いを犯している。
100人生まれてそのうち半分が15歳になるまでに死んでしまう社会で、20歳以後に
生き残った20人か30人が、江戸時代人より病気の頻度がすくなかったとしても、
その社会が健康とはいえない。なぜなら平均寿命のながい江戸時代人では縄文時代
なら当然死んだはずの弱い人が生き残ったため、病気になる率は高くなるからだよ。
要するに比較するなら母集団同志で比較しなければ意味がないのに、考古学者は
生き残ったもの同志を比較している。だから間違った結論になるのだ。
同じことを縄文時代と現代でやってごらん。現代は子供がほとんど死なない時代。
だから抵抗力の弱い大人がいっぱいいて、胃潰瘍だ、狭心症だ、精神病だ、癌だ
と半分以上の大人がストレスマーカーが陽性だ。
「だから現代人より縄文人は健康だった」というのが考古学者の主張。
この主張は科学的にはまったく根拠のない、一種のペテンだよ。
ただ考古学者はペテンに気がつかないで主張しているだけで、それはつまり
藤村遺跡でペテンに引っかかっているのに気がつかないで、本物だと主張した
のと同じことなのよ。悪意がないことは認めるが、端から見ると大迷惑に
なることに変わりはない。
836 :
日本@名無史さん:01/12/12 15:01
>>835 あなたの常識を共有する人口学者がどれだけいるのかわからないが、
いるとすれば近代ヨーロッパや現代の発展途上国の事例以外に知らない、
やや視野の狭い人でしょう。生業の変化に伴う人口増減は、栄養摂取の方法、
授乳期間の変化、季節的な移動性、嬰児殺しや堕胎を含む人口調節、
初婚年齢や婚姻形態、生業に応じた労働形態、集団のサイズや集団間の
緊張関係など、生活の基盤となる様々な要因のセットによって影響されることは
歴史人口学および人類生態学の教えるところです。
近代の人口変化のように、死亡率の変化が決定的な要因となることは、
必ずしも普遍的なことではありません。
とくに狩猟採集社会が定住・農耕社会に移行する局面では、上の多くの
ファクターが変化することによって、人口抑制のタガがはずれることは、
さかんに指摘されるところです。土地あたりの人口支持力の増大が大きいが、
これは一人あたりの健康が改善されたことを即意味するわけではない。
以上はすべて、死亡率の変化によって推論されることではない。
ストレスマーカーが即健康の度合いを決定づけることにはならないのは
あなたの仰るとおりですが、他にデータがない状況では、考察の有力な
対象となることは自然なことでしょう。
少なくとも、人口増加を単純に健康に結びつけるよりは、はるかに有益です。
これは蛇足かもしれないが、もし人口増加率によって死亡率を推定し、これを健康の指標とするならば、現代において最も健康なのはインドやアフリカの人びとということになる。
人口増加のペースだけで判断し、死亡率が確かでないとするならば。
しかしそんなことを考える人口学者がいるだろうか?
838 :
日本@名無史さん:01/12/12 15:40
ていうか、人口の停滞あるいは減少の原因に、
絶滅を配慮に入れなければ意味がない。
地域や部族(集落)の絶滅は、よくあることだったのではないか。
縄文の時代だったら、鮭がある川を上らなくなったら
その河川流域の縄文人は一気に絶滅ということになるだろうし・・・。
>>836 >近代の人口変化のように、死亡率の変化が決定的な要因となることは、
>必ずしも普遍的なことではありません。
「かならずしも」という言葉をつかうことで論旨をあいまいにしてしまうのは
考古学者のわるい癖です。
自然科学の各種概念は基礎になる基本概念の上に積み重ねられています。そこを
きちんと理解しないで末梢的事実だけを利用しようとするから、「考古学と
自然科学の提携」のように脂肪酸分析でも地磁気分析でもみじめな失敗を重ね
たのです。
人口は出生率と死亡率との差により増減が決まります。これが根本概念。
出生率よりも死亡率が低ければ、人口は増加します。
出生率はひとりの女が一生涯に生む子供の数により決まります。そして
これには生物学的な上限があります。20人の子供が産める女はいない。
ところが死亡率に下限はない。これが出生率と死亡率の大きな違いです。
従って近代以前のどの時代においても、人口増加は主として死亡率の
減少により生じたのです。
ですから貴方の冒頭の文章はまったくの誤り。
その死亡率は、乳幼児死亡率、青年・成人死亡率、老人死亡率に大きく
わかれます。未開社会の場合乳幼児死亡率が一番高い。この場合死亡個体は
子孫を残さないので、人口にもろに響きます。
乳幼児死亡率が50%の社会では仮に他の死亡率がゼロに近いとしても、女は
4人以上の子供を産まなければ、確実に人口は減少します。
しかし乳幼児死亡率が500/1000という社会はたったこの間までアフリカに
見られたので、未開社会では現実に存在したのです。
乳幼児死亡率は19世紀から先進国では低下させることに成功しました。
その次が青年・成人死亡率でこれは結核など感染症の治療に成功して
やっと減少しました。ついで癌、高血圧、糖尿病などの老化病の治療で
老人死亡率が低下したのです。歴史的にはこの順番で死亡率の低下が
起こっています。
縄文社会は中期の最大30万の人口が減少に転じ、末期には8万人位に
なりますが、それは死亡率が出生率を上回ったからです。一番考えられる
のは食料欠乏による乳幼児死亡率の増加です。飢餓は母体の健康をそこない
虚弱な子供がうまれます。その子供も食料が十分ないのだから、発育不良に
なり、これらが共同して乳幼児死亡率はいちじるしく高くなった。女が仮に
4人の子供を産んでも乳幼児死亡率が50%なら、2人しか生殖可能年齢まで生き
伸びれません。これだと人口は静止してしまいます。だから縄文時代には
これを上回る乳幼児死亡があったはずです。
なお明治時代の岩手県の乳幼児死亡率は30%位ありました。江戸期ではもっと
高い値が報告されています。(乳幼児死亡にはもちろん事故死亡、嬰児殺し
なども含まれます)
以上のように出生率、死亡率という概念は人口や健康を論じるさいのもっとも
基本的な概念です。両者の差が人口の増加・減少を決めているのです。
それなのに小山推計を批判しながら、考古学者は新たな人口推計を出そうとは
しない。これでは本当に科学をやる気があるのか、疑われると思います。
840 :
日本@名無史さん:01/12/12 15:56
>>837 >もし人口増加率によって死亡率を推定し、これを健康の指標とするならば
だれもそんなこと言っていないだろ。平均寿命が健康の指標だということ。
インドやアフリカの平均寿命が長いか?
書き忘れたが縄文人の平均寿命が15歳(生殖年齢ぎりぎり)とすれば
生まれた者の50%はそれ以前に死んだということ。つまり乳幼児と児童の
死亡率は50%だったということ。
この死亡率では女は5人こどもを生まないと、人口は増えない。
縄文時代の年間人口増加率がわずか0.1%と低い値になっているのは
そのせいだよ。1000年かかって10%位の人口増加しかおこらない、きわめて
静止的な社会が縄文社会なのよ。
842 :
日本@名無史さん:01/12/12 16:40
>>841 なんか、ひとつの公式に当てはめてすべてを納得してしまう
似非科学系の発想だなあ。
ちなみに、人間女性は普通に生きれば10人以上を出産する。
また、どんな生物も充分な食料が確保されれば、劇的に増加する能力を持つ。
>>839 なぜあなたが私のレスに対して的はずれな反論を繰り返すのかよくわからないが、
もしあなたが考古学者に敵対心を燃やす結果であるなら、私は考古学者ではないので無駄です。
「必ずしも」とつけたのは私が考古学者だからではなく、死亡率が一要因であることを
否定しないとともに、それが「一要因にすぎない」ことを表すためです。
あなたは、「出生率には上限があるが、死亡率にはない、よって死亡率の変化が
人口増加を決定する要因となる」という趣旨のことを述べているが、
出生率が生物学的上限まで上昇したら、大変なことになります。
定住生活をおこなう農耕民にとって、女性一人あたり10人の子どもを生むことは
十分可能です。もしそんなことが起こったとしたら、たとえそのうち7人が早死にしたとしても、
人口増加はハイペースで起こります。しかし安定した社会では、そんなことは普通起こりません。
それは死亡率で決まるのではなく、社会ごとに先に述べたようなさまざまな方法で
出産調整がおこなわれるからです。
「安定した社会では」と言ったのは、急激な人口増加が起こるケースはしばしば
生業変化や定住化、広大なフロンティアが生じたとき、またヨーロッパとの接触のケースでは
キリスト教受容に伴う出生観の変化などに付随して多く報告されるからで、
これらは出産抑制を促す要因が取り払われたことと深い関連があるとされています。
縄文と弥生の比較では、とくにこの点は健康うんぬんに結びつける前に
十分考慮される必要があります。
よって、あなたが最後に述べているように、人口の増減は死亡率のみならず
出生率に大きく左右されています。だからあなたの2段落目で述べていることは
誤った推論というべきで、こんなことを前提に考えた結果は、カガクと呼ぼうと何だろうと、
「みじめな失敗」に終わってしまいます。
あまり面白みを感じないので、レスはくださらなくとも結構です。
また、私は考古学者だとかどうとかには、あまり関心がありません。念のため。
なお、
>>840 については、837を読み違えた上でのレスではと思います。