藤原氏はなぜ権力を失ったのか

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1日本@名無史さん
天皇の外戚となることで権力を維持し続けた藤原氏、
このやり方であれば、天皇家に自らの娘に産ませた皇子がいさえすれば、
半永久的に権力を掌握することが可能だと思うのですが、
どうして平安後期実権を失ってしまったのでしょうか?
2日本@名無史さん:01/11/11 13:07
院政について学びなさい。
その後の武士の台頭についても。
3日本@名無史さん:01/11/11 13:11
九条さんも近衛さんも藤原氏だと思うが・・・
4日本@名無史さん:01/11/11 13:29
>3
九条さんも近衛さんも政治的権力なかったやん。
5日本@名無史さん:01/11/11 13:38
外戚じゃなくなった間に、院政がはじまって、
その間に武士が台頭し貴族政治が有名無実化したから。
6日本@名無史さん:01/11/11 14:28
>>5
どうして外戚でない天皇が即位してしまったのですか?
権力があれば、外戚の天皇を即位させることなどたやすかったように思うのですが。
7日本@名無史さん:01/11/11 15:12
>6
当時藤原氏出生の皇子がいなかった。
8日本@名無史さん:01/11/11 15:40
すべて白河法皇の淫乱おかげ♪
9鳥羽天皇:01/11/11 16:13
后が子供を産んだが、漏れには心当たりが無く…
淫乱ジジイの仕業か?
10日本@名無史さん:01/11/11 17:08
道長がいじめて退位させた三条天皇のこどもだっけ?
後三条天皇は(白河の父)。だからかな??
あれ?でも母親は道長の子供か・・。
11日本@名無史さん:01/11/11 17:52
>>10
道長がいじめて退位させた三条天皇の娘が生んだ子が後三条天皇。
だから摂関家を憎んでた。
12日本@名無史さん:01/11/11 17:59
即位するまでも藤原頼通ら摂関家から散々嫌がらせをされた。
春宮の象徴の「壷切りの太刀」をいつまでも渡さなかったり。
13日本@名無史さん:01/11/11 18:14
天皇(院)の権威と、武士の武力が直結すれば、その中間で権力を保っ
ていた摂関の権力は衰退する。。。三層構造が中抜きの二層構造に変化
したってことじゃないのかな?

メーカー(天皇)と小売り(武士)が直結すれば、問屋(摂関)の存在
意義が失われる。メーカー(天皇)と消費者(庶民)が直結すれば、ス
ーパー(幕府)の存在意義が失われる。(ツッコミなしね。。。)
14日本@名無史さん:01/11/21 14:04
後冷泉が即位したとき
たしか最初から弟(後三条)を東宮に立ててたんだよね

ということは,後冷泉がタネナシだったかどうかが問題なのではなく
後三条がなぜ東宮になれたかが問題なのである.
それにしても,後冷泉って在位二十余年もあるのに,かげがうすいなあ.
15日本@名無史さん:01/11/21 14:37
>1
精根尽きたから。
16日本@名無史さん:01/11/21 18:29
後三条が摂関を憎んでたっていう根拠あんのか?
実は後三条は父方も母方もかなりさかのぼらないと
天皇家と摂関家の血筋からはずれない。
つまり後三条は摂関家と密接な関係にある。
摂関家との関係が薄くなったのは白河こそがはじめて。
17日本@名無史さん:01/11/22 17:33
>>16
摂関家というより頼道を憎んでいたんじゃないかな。
18(〜^▽^〜)さん:01/11/22 17:46
藤原氏が衰退した原因
1.「右を見ても左を見ても藤原氏」「石を投げると藤原氏に当たる」
といった、藤原氏の過剰状態。
2.アンチ藤原氏の出現。
などです。
19(〜^▽^〜)さん:01/11/22 17:49
今でも「藤」のつく名字は藤原氏の血を引いている。
衰えたわけではない。
20日本@名無史さん:01/11/23 16:03
江戸期でも藤原姓の大名イパーイいたしな。
21日本@名無史さん:01/11/23 16:48
藤原氏って言うか摂関家が権力を失ったのは白河の時からではない。
実際白河は摂関家と仲良くしようとしている。続く鳥羽も同じ。
ここで政治舞台に武士が登場する。保元の乱である。
天皇家における崇徳と後白河、摂関家における忠通と頼長、
この内訌を解決したのが武士だった。
普通なら摂関家が主導権を持っていなければならないところで
武士が主導権を持っていったことが、
摂関家の権威失墜と武士の台頭を促したのである。
22日本@名無史さん:01/11/29 21:28
一億総藤原氏だよ。
23日本@名無史さん:01/11/30 01:20
>>22
オレ、藤氏流じゃないんだけど。
24あぼーんの信者:01/12/05 17:00
日本人の主流:藤原氏の血を引く人。
80%以上もいらっしゃいます。
みんな藤原氏の血を引いている。
直系から分岐した人も10%はいらっしゃいます。
25日本@名無史さん:01/12/09 15:24
藤原のせいで女帝廃止じゃないか!!
責任とってくれ!!
26日本@名無史さん:01/12/12 01:19
>>21
だけど将門の乱とかとは100年以上ずれてるよね
そのへんについてはどう思います?
27日本@名無史さん:01/12/12 01:28
>>24
普通、男系をたどるからありえないだろ。
28日本@名無史さん:01/12/12 01:31
>>24
直系から分岐してないのは他人だろ(ワラ
29日本@名無史さん:01/12/12 01:32
おれ、藤原道長だけどなにか?
30日本@名無史さん:01/12/12 23:42
現在、日本の政治混乱の始まりは細川元首相(近衛の孫)が原因…
十分未だに影響があると思うが…
31日本@名無史さん:01/12/13 00:33
摂関家は村上源氏においあげられ、白川院政で守勢にたったが、
それは堂上公家の世界。

武家藤原氏の躍進は目覚しい。武家藤原氏で日本中世史の大立役者は
やはり鎮西の小弐氏だろう。自身の出身も平家降人ということで平清盛、頼盛が
太宰大弐を歴任した平家知行国のメッカ九州をまかされ、太宰府において政務をとり
平家勢力のなかで関東勢力を根づかせた。小弐氏は戦国初期に大内氏と死闘の末
滅んだが、小弐氏武士団はほぼ龍造寺家、鍋島藩にひきつがれた。

都府を拠点とする一武士団がそのまま原型をとどめて明治維新をむかえたのは
ほかに例がない。鎌倉武士団は後北条氏、徳川のとき大幅に入れかわっている。
近畿は鎌倉期守護、足利奉公衆、織豊徳川でまったく初期の痕跡はない。
伊達政宗が大崎氏に近づこうとしたのも伊達氏が鎌倉以来の名門ではあるが
東北全般にゆきわたる権威の家柄ではないからだ。

小弐氏の歴史的重量感はまさに九州の歴史そのものといえよう。
32日本@名無史さん:01/12/13 00:36
よくわからんが武士の源平藤橘は本当に血統なの?
なんか都の有力者の系列に入って保護されたら
その氏を名乗ったりしてたのでは?
33日本@名無史さん:01/12/13 01:09
徳川大名であやしい家系は相当数にのぼる。ただ、鎌倉源氏、足利氏、
奥州藤原氏などが貴族化したのはやはり根拠あってのことだろう。

藤原秀郷の子孫が後代武家のなかでも最盛を誇った家系ということは
逆に誰でも田原藤太に先祖をもっていこうとしたこともあるようだ。
すくなくとも北部九州では龍造寺氏は最初から、鍋島にいたっては龍造寺にとって
かわってから、まず秀郷流に改姓し、二代勝茂の頃今度は小弐氏末裔を名乗った。

那須氏、小山氏、佐野氏、伊達氏、奥州藤原氏、佐藤氏、大友氏、武藤小弐氏ら
北部関東、東北、北部九州の武家大族は一円、秀郷流を名乗った。

藤原氏の祖、中臣鎌足が常陸のひとという伝説が京都の藤原氏のあいだでも
信じられており、「大鏡」にもその旨の記述がある。鹿島鹿取両神宮のある
下総常陸のちかくはその影響があったのではないでしょうか?
34( `.∀´)さん:01/12/13 13:08
「日本人は藤原氏の血を引く」というのは大うそ。
日本人の先祖の99%は、貧農などの農民。
かっこ付けて「私は藤原氏の血を引く」と思い込んだ
ドキュソ先祖が大半。
35日本@名無史さん:01/12/14 04:27
藤原氏はわれわれの血にはいっている。
36日本@名無史さん:01/12/17 04:19
藤原の女系って何人くらいいるんでしょう?
37日本@名無史さん:01/12/17 14:05
>>26
将門の乱・・・承平・天慶の乱はまったく性格が違うでしょ。
一族内部の争乱がもつれて、朝敵とされてしまった将門が
自らのの潔白を訴えるために立ち上がったもの。純友も似たようなもの。
同時期に中央でも皇位を巡る混乱があったことも重要。
ただし将門も純友も中央の動きに直接かかわっていない。
武士ははじめから天皇を守護することを目的とした存在である。
38日本@名無史さん:01/12/18 05:51
恒武平氏、清和源氏、奥州藤原氏、これらが影響しあってできたのが
鎌倉幕府だ。まず頼朝は足利将軍と違い、八幡太郎義家への尊崇より
むしろ鎮守府将軍頼義への追慕が強かったといわれる。だから、京侍として
不遇な晩年をすごした義家のように京都で王朝、摂関家に寄り添うように
家を繁栄させることより、むしろ質実剛健な気風の坂東の地に生存圏をもとめ
頼義の故地である鎌倉で営府を設立することに全力を上げた。

鎌倉幕府は奥州藤原氏の御館政治と京都の摂関政治のいずれをも
模倣したといわれる。おそらく東国政権としての在地性と朝廷に対する
補弼責任の理念を摂関政治に学んだとおもわれる。

そして、もっとも大事なのは、守護地頭なるものが頼朝の独創ではなく、
前代の平氏知行国各国に派遣された目代がオリジナルである。、
39日本@名無史さん:01/12/18 14:54
藤原と源氏は寄りつもたれつ
40日本@名無史さん:01/12/18 15:29
Fujiwara Family is defined either by economic ideas or political ideas.
Political one is its strong ties with Ritsuryo-regime.
Economical one is its dominating status over private land owners all over Japan
who donated thier lands willingly to Fujiwara family so that they protect thier
revenue share and exclusive influence over the private lands.
41日本@名無史さん:01/12/18 17:02
藤原王朝!!!!
42日本@名無史さん:01/12/18 17:29
藤原って先生いたね。
43憂国:01/12/20 07:20
藤原氏は貴族!
44日本@名無史さん:01/12/20 07:30
藤原紀香
45日本@名無史さん:01/12/20 07:58
いろんな偉人を出したけどやっぱ紀香が最高だな
藤原氏の造った最高傑作だ。
46日本@名無史さん:01/12/23 10:43
あれは藤原氏ではないような‥
47加藤あい:01/12/23 10:51
私は加賀の藤原よ。紀香なんかお呼びじゃなくてよ。
おほほほほ〜
48日本@名無史さん:01/12/23 21:27
>>47
まぁ間違いでもないが
加藤氏は加賀の斎藤氏の分家だよ
49日本@名無史さん:01/12/28 19:06
藤原→斎藤→加藤?
50日本@名無史さん:01/12/28 20:11
そうです、加賀斎藤家です(本家は越前)
富樫・林などもその流れです。
51日本@名無史さん:01/12/28 20:22
付け足し。尊卑分脈など系図を信じるならば、
藤原北家魚名から6代目に鎮守府将軍・利仁がいて、
その子叙用が斎宮頭(斎藤家の祖)
その子、吉信が加賀守。で、その子、忠頼が加賀介で加賀斎藤氏の祖。
忠頼の弟(だけど嫡男らしい)伊博が越前国押領使で斎藤氏を名乗った。
この伊博の子孫がから、疋田斎藤・河合斎藤・鏡斎藤・進藤・後藤といった諸家が派生する。
平家物語で有名な長井斎藤別当実盛も、ここの出身です。故郷で白髪首さらしたくないといって
髪をそめ、錦の直垂を着て木曽義仲軍に討ち取られるんですな。
52アフォ( ´_ゝ`):01/12/28 20:58
遅レスでスマソ

>1
>どうして平安後期実権を失ってしまったのでしょうか?

藤原氏の権力が最高潮に達したのは、平安中期の道長の時代であり、息子の
頼道の代から少しづつ陰りが見えてきます。
ですが、藤原氏自体は江戸末の孝明天皇の代まで、常に子女を入内させ、
少なくとも内裏内においては実権を握り続けたと思います。

平安末。
藤原氏の権力が衰えたというよりは、藤原氏が宿り木にしていた「天皇」という
ものの権力が衰えていったのが原因ではないでしょうか。

平安末、白河院が牛耳っていた時代は、天皇家の最期の盛り返しというか、輝きであり、
以降は平家、源氏、北条、足利、織田、豊臣、徳川と、武家に実権を奪われていた
わけですから。
53日本@名無史さん:01/12/28 21:01
ついでに付け足し。
忠頼のもうひとりの弟重光も加賀斎藤、略して加藤を名乗り、
その子孫は伊勢に移り住みます。
重光の5代目、景員・その子光員・景廉は、頼朝の挙兵に始めから
加わっていた鎌倉幕府御家人として有名ですね。
越前の斎藤氏から出た後藤氏にも、養子ですが後藤実基・基清親子が
平治物語・平家物語で源氏の家人として有名です。
54日本@名無史さん:01/12/31 13:14
藤原《南家》→入江・二階堂・工藤・相良・伊東・狩野など
│藤原《北家》→(五摂家:摂政&関白)
│         近衛・九条・鷹司・一条・二条
│       (秀郷の系列:39氏)
│         奥州藤原・波多野・後藤・尾藤・伊藤・佐藤・伊賀・
│         首藤・山内・近藤・武藤・大友・田村・足利・小山・
│         下妻・結城・下河辺・大田など
│       (利仁の系列:15氏)
│         斎藤・加藤・富樫・林・豊田・後藤・吉原など
│       (その他の分流)
│         日野・有馬・大村・御子左・冷泉・中御門・三条・
│         西園寺・小一条・勧修寺・四条・山科・伊達など
55日本@名無史さん:01/12/31 13:16
藤原南家も式家も細々と続いたようだけど、
京家だけは残らなかったんですね。
56日本@名無史さん:01/12/31 13:19
政治実権の掌握<血(系統)の存続

政治権力を自ら放棄したんでしょ。
57日本@名無史さん:01/12/31 14:12
>>52 「天皇」というものの権力が衰えていった...
のは、平安末でなく初頭の嵯峨天皇からでしょう。2代前の恒武は、皇族を重用し天智・天武に続く
天皇専制でした。嵯峨は政治に興味なく、親政を放棄したのです。
もっとも法皇制も形を変えた天皇実権期とすると、平安末の12世紀までですね。
そして、最終的に権力から転落したのは、承久の変でしょう。天皇も藤原氏も。
地頭制の全国展開により、権力の基盤たる所領も武力も失ったわけですから。
58日本@名無史さん:01/12/31 14:35
>>55 藤原南家も式家も細々と続いたようだけど...
南家は54の如く全国に土着展開もしているし、平安院政期の権臣連も南家流が多かったはずです。
式家の方は確かに、緒嗣以後は三位以上の堂上人に立身した人は、誰かいたっけ。
59アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 15:24
>57
>「天皇」というものの権力が衰えていった... のは、平安末でなく初頭の嵯峨天皇からでしょう。

権力をワンマンな専制君主のものとして見るなら、平安初期には天皇の力は衰えていたという見方
も出来ると思いますが、大宝律令の成立以来、天皇は神聖不可侵な存在とされましたので、その
存在に揺るぎはないと思います。ワンマンな頃より地位は向上しているでしょう。また、嵯峨天皇に
ついてですが、彼の皇后は橘氏ですし、後を継いだ淳和天皇の皇后は嵯峨の皇女です。嵯峨自身
の政治的野心についてはよく知りませんが、この頃は藤原氏が斜陽になっていた頃なので、嵯峨の
やる気はともかくとして、天皇の権威がなにか別の勢力に脅かされたという事はないと思います。
あったとしても蝦夷。嵯峨の皇子である仁明天皇の皇后がかの冬嗣の娘・順子ですが、この頃もまだ
藤原氏の勢力は、奈良の藤原4兄弟と光明子の頃ほどには盛り返していません。盛り返すのは
良房・基経の頃であり、しかも基経の後を継いだ時平の頃には、源氏と拮抗しています。
丁度宇多・醍醐の治世の頃です。なにをもって「天皇の権威」の衰えというのかは、人それぞれの
判断だと思います。藤原氏が本当の意味で勢力の地歩を固めるのは、平安初期であるとは思うので、
そういう意味に於ける57さんの「天皇の権威の失墜は嵯峨から」というのには承伏できないまでも、
「平安初期」という点には同意です。
ただ、私が回答したのは>1の「どうして藤原氏は平安後期に実権を失ったのか?」なので。
天皇家の衰えについての質問ではなく、平安後期の藤原氏の衰えについての質問なので、それより
以前の藤原隆盛時の天皇家との力関係は質問の埒外だと思いました。

>最終的に権力から転落したのは、承久の変でしょう。天皇も藤原氏も。

最終的にはそれがトドメなんでしょうが、衰えの最初は清盛が端緒だと思います。
清盛→頼朝→北条と来てトドメ。端緒をもって「天皇家の転落」というか、トドメを
もって「天皇家の転落」と見なすかは、人によって違うと思います。
60日本@名無史さん:01/12/31 16:21
院政期(白河・鳥羽・後白河)でも天皇家に実権がなかったのいえるの?
親政・院政の区分そのものが無意味なのでは。
天皇・上皇に分けるのではなく、天皇家として考えれば、
平安後期に天皇家の転落があったとは考えられないだろう。
61アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 17:05
>60
>天皇家に実権がなかったのいえるの?

藤原氏の実権の話をしてるんじゃないんですか?
62アフォ( ´_ゝ`):01/12/31 17:09
途中送りしてしまった・・・・

あと、後鳥羽天皇までは平安時代と見なしていますけど違いましたっけ。
63日本@名無史さん:01/12/31 17:40
>>58
式家は文章博士の家系で残ったような・・・もちろん堂上人は出ませんでしたが。
64日本@名無史さん:01/12/31 18:38
1さんの質問は、天皇との結びつきを持った摂関家としての
弱体化について語っているのでしょうから武家に転化したものは問題外でしょう。
やはり、天皇権威の失墜、逆にいうと武士の強大化が大きな原因ともいえますが、
院政を考えるとそこにも疑問の余地が有ります。
保元の乱において、頼長と忠実が逆賊となり、その息子の忠通の立場も弱くなった、
と大学では習ったのですがこの説でどうですか。
65日本@名無史さん:01/12/31 20:55
>60
>親政・院政の区分そのものが無意味なのでは...天皇家として考えれば
皇族を天皇家という氏族で括ればその通りですが、権力機構(政治権力執行装置)の観点では
区別されるわけです。律令制及び前例に則らない歴代の政治実権掌握者(仲麻呂、良房、白河、
頼朝、大久保利通)は、常にその権力維持装置を新築するわけです。

>64
>頼長と忠実が逆賊となり、その息子の忠通の立場も弱くなった...
は、政治権力の強弱に関しては違います。頼長と忠通の対立は、氏の長者争いですから
関白家(氏の長者)の権力の強弱とは、無関係です。前世紀の道隆(の子息)と道長の抗争と同レベルの
争いです。
>天皇権威の失墜、逆にいうと武士の強大化が大きな原因...
平安末期の時点では、武士の強大化は派生現象で、藤原氏衰退の主因は、武士の強大化の
元である院政でしょう。天皇の後見人のうち、天皇の名のもとに実権を執行する後見人が、摂政・関白から
上皇・法皇に交代したわけです。
なぜ白河上皇が、当時の関白を押しのけて実権者の地位を獲得できたかは、不案内なのですが。
6664:01/12/31 22:05
>65
道隆らと道長の抗争と違い、頼通は保元の乱で天皇に対して「弓引くもの」になっています。
普通、近親者が反逆を起こせば、連座を受けることもあるでしょう。保元の乱がすべてとまで行かなくても、
大きな要因のひとつだとは思います。
更に、上皇の力が強くなったのはまさに藤原氏の立后外戚の失敗によるでしょうが、
それ以前に、天皇と上級貴族による中央体制から、天皇家の血筋により在地で実力をつけた武家勢力の増長という政治体系の転換も見逃せない気がします。
67日本@名無史さん:02/01/05 00:33
後三条天皇の即位後に次のような資料が残っている。

「摂政関白ノオモクオソロシキハ、帝ノ外祖父ナドナルコソアレ、ワレハナントモ思ハムゾ」(『続古事談』)
68日本@名無史さん:02/01/05 00:43
 後三条天皇の母・禎子内親王は道長の孫にあたるが、頼道・教通に冷遇されて、
彼らの娘達(養女含む)が後朱雀帝に入内したあとは、後宮にほとんどいることができず、
夫の死に目にも会えなかったらしい。
 なので、例え血はつながっていようと摂関家に対する恨みは募ってただろう。
彼女は長生きで後三条帝の死後も存命。摂関政治なんて結局の所、息子の天皇に対する母后の影響力、
その母后に対する彼女の父兄の影響力に由来するのだから、母后と摂関が不仲の場合は成り立たない。
69日本@名無史さん:02/01/05 20:27
>68
確かに、道長流摂関家の勢威衰えの端緒は、外戚皇子欠落と、後三条とその母の道長流摂関家への敵意
でしょうね。
ただ何故後三条が親政を目論んだのか、そしてそれが次代の白河の院政開始へ継承される訳ですが。
道長流への憎しみなら、他の北家流を交替起用が通常策ではないでしょうか。宇多の道真起用の如く。
恒武を政治の師と仰いでいたのでしょうか。
70日本@名無史さん:02/01/05 22:21
>>69
摂関家を憎いと思っていなかったんだよ。
これで解決。
71日本@名無史さん:02/01/05 22:39
>>69
 村上源氏・閑院流藤原氏が後三条・白河あたりから登用されだしてる。
それから白河は即位当初は師実(頼道嫡男)の養女・賢子(実は村上源氏)を
中宮とし溺愛していたので、摂関家とは比較的うまくいっていた。
72日本@名無史さん:02/01/11 18:01
いまだと、藤原氏で誰が一番権力をもってるんだろう?
73名無しさん@藤原道長:02/01/12 01:32
藤原氏が権力の絶頂にあった頃、九州北部で「刀伊の入寇」という大事件があって、
この時道長が、権力の中枢にいたはずなんだが、効果的な対策って取ったのかな?
74日本@名無史さん:02/01/12 02:11
1019年、刀伊の入寇を藤原隆家(藤原伊周の弟・大宰権帥)が撃退。
大宰府の仕事でした。
75日本@名無史さん:02/01/12 02:17
何かここのレスみてると
個人の愛憎感情で歴史が動いてる見たい。
76日本@名無史さん:02/01/12 02:25
75
そうだよ。人間の虚栄心や懐疑心が全てを動かし、惑わす。
そして、それを正して安泰を求める。
歴史からそれを学び、それを現代に生かすのです。
77日本@名無史さん:02/01/12 02:40
光源氏は道長がモデルって聞いたのですが、
すると、その種が天皇に即位したという話しも
もしかしたら、あったのでしょうか。
78日本@名無史さん:02/01/12 03:08
>76
あははは、ワラタ
79アフォ( ´_ゝ`):02/01/12 10:39
>77
光源氏のモデルは一杯います。
道長・高明・融など。

その種ってなに?
80日本@名無史さん:02/01/12 16:21
道長の種・・
自分の娘である皇后と密通して・・?
まさか、馬鹿いってんじゃないよ。
81名無しさん@藤原道長:02/01/14 16:17
>>74
サンクス。しかし、この「刀伊の入寇」っていま歴史の授業じゃ教えないね。おれも
去年の大河ドラマで北条時宗で蒙古襲来が話題にならなかったら、知らないままだね。
更に平安期にかなりの外敵の襲来が、九州北部で頻繁にあったのも驚きです。
82日本@名無史さん:02/01/27 03:32
>>80
そういう間違いでここまでの日本の歴史があるのね
83日本@名無史さん:02/01/27 03:35
藤原氏は鎌倉以前に落ちぶれただろ。
84日本@名無史さん:02/01/27 04:50
つまり、摂関政治から院政に移った経緯ということですが。

よく言われるのは、後三条天皇の即位が院政の契機ということなんですが。こ
れは、頼通、教通の兄弟が何人もの娘を入内させたんですが、結局、皇子は産
まれず。三条天皇の皇女禎子内親王を母とする尊仁親王が即位して後三条天皇
となった。ここで、ついに摂関家が外戚の地位を失い、しかも天皇の母后が摂
関家の娘でなくなった。(と、ここまでは他の方も書かれていますが。)
8584の続き:02/01/27 04:51
こうなると当時の政治体制では権力の裏付けがなくなるわけですし(特別な臣
下からただの臣下になる)、皇位継承や摂関継承にも影響力を持つ母后も他人
になってしまうわけですね。こういう条件が成立したわけですから、後三条天
皇は親政がしやすくなった環境を手に入れたわけです。そして、実際に延久の
荘園整理令では摂関家領にも手を入れたわけですし、また、頼通と教通の関白
継承争いでは天皇の裁定を仰いだなんてこともあるわけです(摂関継承権を天
皇・院が手に入れたということ)。そして、このような実績の累積を通して、
次第に天皇そして、その父系である院の権威が増してくるというわけです。

8685の続き:02/01/27 04:53
一方、院が権威を増す過程で、その側近も台頭していくわけですが、彼らは、
例えば、大江匡房のような学者官僚や実務官僚、あるいは受領など、天皇や摂
関家との血縁で出世した訳でなく、実務能力や財力で登用された人および院の
庇護で成長した人たちであり、天皇の身内であることが権力の源泉であった時
代とは、時代が変わってしまったんですね。もちろん、政治体制も、それまで
の内裏・太政官の一体型から、院が最終的決定権を有した形で天皇・摂関と三
者の間で連携する体制に変わっていってます。
実は、院政期になっても摂関家の息女が入内することはあったんですが、つい
に昔日の栄光を取り戻せなかったのは、この辺りの事情が関係しているのでは
ないかと。

あと、宇多帝時代の菅原道真と院の近臣や側近との違いは、彼らは、摂関家と
は、深刻な対立関係になかったこと、藤原一族vs宇多・道真というような対立
図式が存在しなかったこと。で、藤原一族が結束して院政に対抗するというこ
とはなかった。

長くなってスマソ。
87日本@名無史さん:02/01/27 14:04
ageといたほうがいいよ。

88日本@名無史さん:02/01/29 02:07
職事弁官政治論age
89日本@名無史さん:02/02/08 13:59
禎子内親王は可愛いくせに全てを狂わせた!
90日本@名無史さん:02/02/15 16:37
だれか傷心の禎子ちゃんを労ってやってくれ
91日本@名無史さん:02/02/24 00:30
禎子内親王殿下が藤原に嫌われた原因について知りたいです
92日本@名無史さん:02/02/24 00:41
>>91
 自分の娘や養女を後朱雀帝に入内させた頼道・教通にとっては
実の姪とはいえ皇子を産んでる禎子内親王は邪魔者だから。
93日本@名無史さん:02/03/01 03:36
娘同様に可愛がって、禎子内親王を通してその息子を支配する手もあったのでは?
94日本@名無史さん:02/03/06 09:59
姪って、他の時代ならばかなり近い身内での有力者扱いではないか?
95日本@名無史さん:02/03/07 00:35
姪じゃあ親権を行使するわけにはいかないからでしょうかね。

それはともかく、彼等の父親である道長の世代のように、兄弟間で権力争い
していた時期には、皇子を産んだ姪などというのは最も邪魔な存在なのでし
ょうね。
96日本@名無史さん:02/03/08 23:49
>>94
 たしかに他の時代なら姪はかなり近い血縁者だが、
平安時代、特に摂関政治全盛期はいたるところ親戚だらけ。
藤原道長と皇后定子も叔父・姪の関係だったが政敵でもあった。
頼通にとっての禎子内親王もそうだったのでしょう。
 さらに禎子内親王は頼通と仲の悪い異母弟の能信を後見人にしてたしね。
道長の息子たちも団結していたわけではなく、むしろ対立してたのでしょう。
結局のところ摂関家は内部分裂で弱体化したとも言えるのではないでしょうか。
97日本@名無史さん:02/03/09 18:57
摂関家は常に内部対立していた気もするが。
98日本@名無史さん:02/03/19 00:37
ある意味ね
99道長:02/03/19 19:29
100 :02/03/19 19:29
100げっとー
101道長:02/03/19 19:31
悪い、間違えた

http://www.geocities.co.jp/Bookend/5854/top.htm

でした・・・ごめん。
102日本@名無史さん:02/03/29 13:05
道長のときって、実は下り坂にすでに入っていたように思うのだが‥
103日本@名無史さん:02/04/12 22:02
道長は西暦1000年でしたよね
104日本@名無史さん:02/04/23 21:30
105日本@名無史さん:02/04/23 21:47
道長
106  :02/04/30 00:21
>>81
俺は高校生だけど「刀伊の入寇」は、高校の教科書(桐原書店)に載ってるよ。
しかも太字で。
107日本@名無史さん:02/04/30 08:02
藤原氏って言うか摂関家が権力を失ったのは白河の時からではない。
実際白河は摂関家と仲良くしようとしている。続く鳥羽も同じ。
ここで政治舞台に武士が登場する。保元の乱である。
天皇家における崇徳と後白河、摂関家における忠通と頼長、
この内訌を解決したのが武士だった。
普通なら摂関家が主導権を持っていなければならないところで
武士が主導権を持っていったことが、
摂関家の権威失墜と武士の台頭を促したのである。


108日本@名無史さん:02/04/30 11:51
藤原氏はなぜ権力を失ったのか
109日本@名無史さん:02/05/06 03:35
承久の乱はかなりの転換点だったと思うけどどうですか?
110名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/06 05:33
>>109
京と鎌倉の地位が逆転したのは承久の乱だね。
その後は御家人以外(反北条)の勢力が育つのを待つ必要があった。
111名無しさん@お腹いっぱい。:02/05/06 05:39
>>110
あと、権力は好き嫌いとか主導権とか議論しても意味ないよ。
結局誰が金をもってたかの問題。そういう意味で、
北条氏がうまく五摂家を対立させて摂関家の荘園をわけてしまったのと、
鎌倉時代後期から経済が発達して荘園/農民の役割が低下したことが
その後藤原氏がふるわなくなった一番の理由だと思う。
112日本@名無史さん:02/05/10 23:03
のりかage
113日本@名無史さん:02/05/14 01:22
>>102
頼道の時代からだろう。頼道は息女に恵まれなかった。
114日本@名無史さん:02/05/14 05:57
115日本@名無史さん:02/05/14 05:59
藤原氏はなぜ権力を失ったのか
116日本@名無史さん:02/05/14 23:32
From: [2] 日本@名無史さん <sage>
Date: 01/11/11 13:07

院政について学びなさい。
その後の武士の台頭についても。

《以下省略》
117日本@名無史さん:02/05/19 15:49
>>110
>鎌倉時代後期から経済が発達して荘園/農民の役割が低下した...
貨幣経済が発達という意と拝察するが、発達すると何故、荘園の役割が低下するんだ?
118日本@名無史さん:02/05/20 06:11
藤原氏
119日本@名無史さん:02/05/21 06:25
>>117
荘園に属さない人たちが経済を左右するようになったからです。
代表的なのは金融業者や悪党の類など。
120日本@名無史さん:02/05/22 15:30
藤原氏はなぜ権力を失ったのか
121日本@名無史さん:02/05/22 20:24
藤原氏は鎌倉以前に落ちぶれただろ。
122日本@名無史さん:02/05/22 20:25
荘園の実質支配を失ったから
123日本@名無史さん:02/05/26 02:15
>119
荘園が当時の流通経済の中心だったことを知らない人発見
124日本@名無史さん:02/06/01 18:50
>>123
なぬ?その後荘園の相対的な地位がさがったといっているのだが?
日本語の読めないバカですか?
125日本@名無史さん:02/06/05 13:15
源氏も平氏も旧華族もみんな藤原鎌足の子孫だよ
126日本@名無史さん:02/06/08 00:48
私は、藤原氏の子孫だが、何か?
源平合戦の折に、広島界隈の島に流れ着いて、住みついています。
知っている人は知っているでしょうけど、内のまわりは藤原の性ばかりです。
古い倉の名かには、鎧や巻物、刀等色々有ります。小学生の時に一度入っただけで
開かずの倉です。国宝級の品もあります。でも秘密!
127日本@名無史さん:02/06/22 00:33
age
128日本@名無史さん:02/06/23 00:20
>藤原氏はなぜ権力を失ったのか。
美人の種が尽きたからではないだろうか。
ブスばかりで天皇が萎えて立たなくなり孕めなかった(稾
129日本@名無史さん:02/06/23 13:52
中学校の歴史の時間に「ふじわらのかたまり」って読んだ。
130日本@名無史さん:02/06/23 13:54
電通社員の中に子孫が多いと思われ
131日本@名無史さん:02/06/24 16:14
直系は、近衛氏。
132日本@名無史さん:02/06/24 16:16
菅原道真の怨霊がとりついたためです。>1
ちなみに道真は福岡の大宰府で死んだことになっているようですが、
これは違います。
 薩摩で死んでます。
133日本@名無史さん:02/07/06 22:30
中臣鎌足って、中臣の本家でないのに、なんでなの?

中臣鎌足が死んだ後は甥の中臣金が大臣になったわけだけど、
藤原金と名乗っていたみたいよ。
134pt:02/07/06 22:32
古代中臣家と中臣鎌足は血縁関係はないよ
135日本@名無史さん:02/07/20 23:53
それは大中臣じゃないの?
136日本@名無史さん:02/08/03 07:57
中臣と不比等にいたっては、なんら関係がないと思われる。
137日本@名無史さん:02/08/03 10:59
鎌足直系以外は「藤原姓」を名乗ってならないと訴えたのは不比等自身。
この訴えが認められ、他の中臣氏は「藤原」を名乗れなくなった。
このため金は藤原金から中臣金へ戻っている。「藤原」が獲得しつつ
ある特権を独占していくことが狙いなのでしょうね。
138日本@名無史さん:02/08/03 11:12
>>1
武力を持たないからだろ。
139日本@名無史さん:02/08/03 11:21
近衛や九条ってのは分家なんでしょか?
だとしたら藤原を名乗り続けた本家はどうなってしまったのでしょうか?
140日本@名無史さん:02/08/03 11:23
>>139
近衛が嫡流。
藤原姓が増えすぎたので、それぞれ住所などにちなんだ呼び名が苗字になった。
141日本@名無史さん:02/08/03 11:32
私の学校には血縁関係のない藤原さんが4人います。
でも、下の名前は「あ●ら」、「さ●し」、「み●」、「しょう●ち」と、威厳もへったくれもないです。
142日本@名無史さん:02/08/03 12:31
現在「藤原」で住民登録してる藤原氏なんていないだろ。
143日本@名無史さん:02/08/03 12:59
>>1
「おごり」じゃないの?権力持ったはいいけど、その後は、堕落と保身の歴史だからね。中には賢人もいるかもしれんけど。
ただ春の世の夢のごとし、、、、、、、
144日本@名無史さん:02/08/05 11:07
>>140
藤氏の氏長者を表す長者印・朱器・台盤といったお品は
今はどちらの家がお持ちなのでしょうね。
ご存知の方がいたら教えてください。
145日本@名無史さん:02/08/05 12:16
ん?やっぱ、頼朝の奥州征伐のために滅んだんじゃないの?
あ、それは欧州藤原市か、
146日本@名無史さん:02/08/18 07:27
藤原金の子孫って続いていますか? 女系でもいいです
147日本@名無史さん:02/08/18 07:29

NHK受信料を払わなかったからに決まってるだろ、バカか?
148日本@名無史さん:02/08/18 10:44
摂関家、精華家、英雄家・・とかいう序列があったような。

鷹司、九条、西園寺、近衛、二条、一条、日野、閑院、花山院、冷泉などなど・・・
いずれも他氏の完全な排斥後に成立した藤原氏の‘高貴’な流れだけど、微妙な格付けがわかりません。
149日本@名無史さん:02/08/22 01:40
age
150日本@名無史さん:02/08/22 20:54
格付け
1.摂関家(摂政、関白になれる) 近衛、鷹司、九条、二条、一条
2.精華家(大臣と近衛大将を兼任できる)
久我、三条、西園寺、徳大寺、花山院、広幡、他3家(忘れた!)
3.大臣家(大臣になれる) 正親町三条、三条西(嵯峨)、中院
151日本@名無史さん:02/08/22 20:56
公家は朝から晩まで酒宴と恋にうつつをぬかせるから

良いぞ
職業としては最高
152日本@名無史さん:02/08/22 20:58
上記の内、久我、広幡、中院は、藤原氏でなく、源氏ですので念のため。
153日本@名無史さん:02/08/30 00:52
保守あげ
154日本@名無史さん:02/08/30 01:31
摂家:摂政関白を出す。皇后は親王家もしくは摂家から出す。
   皇室の親戚同様で、宮中の席次は親王より上。
   近衛・鷹司・一条・二条・九条。すべて藤原北家の本流だが、
   近衛・鷹司・一条は皇室から養子が入ったので血統的には皇室。
清華家:太政大臣まで昇進できる。
   公卿社会のトップクラスを構成する家柄と言える。
   醍醐は藤原北家の本流。
   三条・西園寺・徳大寺・菊亭(今出川)は藤原北家の閑院家流。
   大炊御門・花山院は藤原北家の花山院流。
   久我は村上源氏。
   広幡は正親町源氏。
大臣家:左右大臣が極官だが実際は内大臣止まりで昇進例も3割強。
   公卿社会の上流にあるというのは名目に近い。
   正親町三条(嵯峨)・三条西は藤原北家の閑院家流。
   中院は村上源氏。
155日本@名無史さん:02/08/30 01:37
>>154
公卿 >> 公家
156日本@名無史さん:02/08/30 01:38
>>154
「血統的には皇室」とはどういう意味?
157日本@名無史さん:02/08/30 03:55
>>156
男系祖先をたどると養子関係が出てくるので、
家名としては藤原氏だが、実の血統は皇室になるということ。
近衛信尋と一条昭良の実父は後陽成天皇、
鷹司輔平の実父は閑院宮直仁親王。
158日本@名無史さん:02/08/30 05:32
>>154

>宮中の席次は親王より上

摂関家だから親王より上ではなく、大臣の席次が親王より上でしょ。

親王と大臣で席次の争いがあったところ、
江戸幕府が「禁中並公家諸法度」で決めてしまった。
三公>親王>前官大臣>諸親王 と言う具合に。

159日本@名無史さん:02/08/30 05:41
>158
親王と諸親王の違いは何?
160日本@名無史さん:02/08/30 14:12
>>157
それは知っているが、それを「血統は皇室」というものだろうか。
なにか、源氏は「血統は皇室」だと言われているのと同じような。
非常に違和感を感じます。
ちなみに上記のお二方は母君はどちらも近衛家の方ですね。
161日本@名無史さん:02/08/30 18:16
閑院流の祖公季って道長や寄道の陰に隠れて存在感が薄いのに、子孫は結構
栄えてるんだよな。実力者の子孫でも消えてったのが多いのに。
でも公季のあとは、近衛天皇の時代、公季から5代目の三条実行まで
大臣が出ていない。西園寺家だと後鳥羽院政の頃、公季から7代目の実宗になってから。
院とうまくやって家格を上昇させたのだろうか。
162日本@名無史さん
白河・鳥羽・後白河の生母が閑院流の出だからね。
大臣がいないのは早死にが多いからかもね。