大阪冬の陣で正攻法で大阪城を落とす方法ってある?

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93日本@名無史さん:01/11/08 23:15
家康のやり方が正攻法。
94日本@名無史さん:01/11/08 23:20
城の防御力を削ぐための策略は立派な正攻法だろう。
>>1は「正攻法で」ではなく「力攻めで」とすればよかったな。
9551:01/11/09 00:04
>93, 94
同意。
孫子にも「抜人之城、而非攻也。」とあるくらいで、
城を力攻めするのは可能な限り避けるのが正攻法で
しょう。

>92
51にも書いたけど、会津若松城の天守も付近の門や
塀も、手ひどくやられているものの倒壊したりはし
ていないんですよね…。
幕末〜明治初頭なら、もっと強力な大砲があって、
城など一発で吹き飛ぶようなイメージを、昔はもっ
ていたんですがね。
96日本@名無史さん:01/11/09 00:59
射程がどんなものかは知らないが
大砲がダメならば投石器による城壁破壊、のち曲輪の確保はどうだろう?

射程が許すのなら夜陰にまぎれて人を城内に空挺の要領で投石器で投げ込み、
ある人数に達したら内部で放火、暗殺、開門等の撹乱をさせる。または、
伝染病死者の体を切り刻み、城内の井戸等に伝染病を発生させる。

などはどうでしょうね?まぁ射程次第だけど。
97日本@名無史さん:01/11/09 01:31
>伝染病死者の体を切り刻み

東軍の陣地に先に死亡者が出そうですが…
98空挺:01/11/09 02:15
>夜陰にまぎれて人を城内に空挺の要領で投石器で投げ込み、

そんなこと出来るんですか?!
9990:01/11/09 06:03
>>91>>92
オレは士気が崩壊するほどの効果があるなんて一言も書いてないぞ。
士気が高まるだの回復するだのとふざけたことを書いてる連中に
反論しているだけだ。
100e:01/11/09 06:12
>士気が高まるだの

誰もそんなこと書いてないでしょう。
「戦闘意欲の減退は回復する」という記事は見たが。

>士気が崩壊するほどの効果

レスの流れを読めば、そういう意見に対するリアクションだ
ということくらい分かるでしょう(鬱
101日本@名無史さん:01/11/09 06:40
>>96
これは煽りですか?本気ですか?
鬱だ
102 :01/11/09 07:42
アホばっか
103日本@名無史さん:01/11/09 11:30
だから、大阪方を場外に引きずりだす方法を考えろよ!!
城攻めで、大阪城は落ちません!!!
城攻め、好きの秀吉が、自分が落とせない城を作ったんだから。。。
104日本@名無史さん :01/11/09 11:37
家康のやった方法は、秀吉に、「攻城戦の達人の秀吉様でもこの大阪城は、落とせませんよね?」と聞いた時に、教わった大阪城の落とし方を実践しただけのことで、正攻法では無理だと秀吉も考えた上で築城されているはず。
正攻法で落城させるには、じっくり時間をかけて、城方の守備兵が減っていくのを待つか、内応者の数を増やして城内から反乱が起きるのを待つしかないでしょうね?
おそらく、1年かければ、みんな飢え死にするか、城内で反乱が起きるでしょう。ただ、こんなに時間はかからずに開城されるでしょうがね。
当時の大阪城は、確か大砲でとどく射程外に本丸が築かれていたはずなので、音で淀殿を驚かせ続けるぐらいの効果しかないことはわかっていたはず。
10日間、昼夜問わず、撃ち続けられれば、頭がおかしくなる人が現れて城内では大騒ぎになるでしょう。
同士討ちが始まるかもしれないし、逃げ出す人も増えるでしょう。時間をかければ大阪城は落とせます。(当たり前のことです!)
105日本@名無史さん:01/11/09 12:07
つーか、みんな「坂」の字間違ってるよ・・・・・・。
この時代は、
大坂○
大阪×
106日本@名無史さん:01/11/09 13:02
>>105
いつから「坂」から「阪」に変わったの?
107日本@名無史さん:01/11/09 13:28
土に反るのが嫌だったので、漏れが変えた!
108 :01/11/09 13:38
は?
109日本@名無史さん:01/11/09 15:13
>>96
古代ローマの攻城戦にも伝染病者の手足を投げ込み陥落させるという戦法が取られたことがあり、
見事成功している。勿論、自軍から発生した伝染病者がこの戦法の発想点らしい。
戦国期の中国でも投石のかわりに投人する(パラシュートのようなもので)という発想はあった。
よって、みんなが貶しているような奇抜な戦法ではなかったということだ。
110日本@名無史さん:01/11/09 16:00
>>1
正攻法で落ちた城なんかあまり無いんじゃない?
何を正攻法とするかによるが。
111日本@名無史さん:01/11/09 16:11
穴を掘る。食料をたつ。短期間では無理でしょう
112日本@名無史さん:01/11/09 17:01
 正攻法で落とすって…攻城兵器って日本じゃあまり発達しなかった
けど,外国には沢山あるんじゃないのかな?
113>109:01/11/09 19:33
だから中国人はDQN
114日本@名無史さん:01/11/09 22:37
>>100
>誰もそんなこと書いてないでしょう。
>「戦闘意欲の減退は回復する」という記事は見たが。
>>78を読め。
115日本@名無史さん:01/11/09 22:40
西洋や中国みたいな城塞都市が無いんだから
攻城兵器は発達しなかったんじゃないの?
日本の攻城戦って総構えをどう突破するかが問題。
116日本@名無史さん:01/11/09 23:37
>>115
強いて言えば石山本願寺は広大な寺内町を抱える城砦都市だったね。
で、突破できるわけもなくて信長はひたすら囲むしかなかった。
これが結論だよ。
117日本@名無史さん:01/11/09 23:42
>>96 伝染病死者の体を切り刻み、城内の井戸等に伝染病を発生させる。


 原始的な生物兵器だね。ただ開城したあとに味方にも影響が出そうなのが
問題だけど。
118日本@名無史さん:01/11/09 23:43
つまり大阪城も本気でやってれば十年戦争になってた。
当然家康の方が先に寿命で死ぬ。
119日本@名無史さん:01/11/09 23:53
>>106
阪の字が確立したのは明治時代のようだよ。
江戸末期頃からも少々使われてたみたい。

以下、大阪市のHPから抜粋
>江戸時代には、大坂三郷というように大坂が多く使われており、
>大阪も混用されてきましたが、明治10年ごろになって、
>ようやく「大阪」に落ち着いたようです。
http://www.city.osaka.jp/html/profile/profile/ocp002r.html
120日本@名無史さん:01/11/09 23:53
>>118
まあ石山は間に休戦を挟みながらだったけど
それでも1576年から1580年までの包囲を考えると
大坂城も5年はかかりそうだね…
121日本@名無史さん:01/11/10 12:44
例の明+朝鮮軍vs秀吉軍で、中国流攻城戦術と日本流築城術が激突してる。
具体的にどんな感じだったんだろうね。
中国式攻城兵器は日本の城を攻めるのに向いていないんじゃないかと
おもうので。
122日本@名無史さん:01/11/28 22:26
糞スレと分かっていたら立てるなっちゅうの。
123名無しさん脚:01/11/28 22:53
>西洋や中国みたいな城塞都市が無いんだから
>攻城兵器は発達しなかったんじゃないの?
当時の都市は堀と土塁で防御されてるよん。
江戸時代に埋めてしまったので残っていないだけ。
124qqq:01/11/29 03:45
上のほうで、砲撃音で人々は混乱に陥る云々との意見がありましたが、
間違いだと思います。
有名な「おあん物語」という関が原の際、大垣城に篭った女性の語りがありますが、
最初は驚いて女共はざわめいたが、慣れてしまうと何でもなくなり、
天守閣で鉄砲玉を作ったり、取った首にオハグロをつけたりと悠々たる
ものだったようです。
女でも戦国では肝っ玉が据わっていたのでしょう。
125VIVA:01/12/02 22:46
以前にも何人かが書いていたように、家康の生死が勝敗の趨勢を握ったと思われ。
野戦の大家といわれた内府が存命だったにも関わらず豊家恩顧の大名は兵糧などを大坂に
送って一定の誠意を見せていたくらいだから、もしも内府が病気で陣没でもしようものなら
凡将秀忠と太閤の遺児を計りにかけて、後者に諸大名がつくことは必至。
伊達政宗など、秀忠ごときの下知で大人しくしていたとは考えにくい。
大坂方不利は、外部に味方のいないろう城によって生じている不利であって、城外に内応する
勢力がでてくれば話しは変わる。
126日本@名無史さん:01/12/02 23:22
>>125
内府って誰だよオイ・・・・・・。
127VIVA:01/12/02 23:34
>> 126
内府は家康のこと。役職名から内府公と呼ばれたり、もしくは前将軍なので
大御所などとも呼ばれていた。
あ、ごめん。「内府」は関が原当時の呼ばれ方だったかも・・・・・!?
はっきりしないで申し訳ない。
128日本@名無史さん:01/12/02 23:56
>>127
>内府は家康のこと。役職名から内府公と呼ばれたり、もしくは前将軍なので
>大御所などとも呼ばれていた。

いちいち解説せんでも、んなこと誰でも知ってるよ。
「かも」でもなんでもなく、この当時家康は内大臣ではないぞ。
129VIVA:01/12/03 00:20
>>128
面目ない。失礼しました。
130日本@名無史さん:01/12/03 01:13
>>121
明軍による日本式城郭の攻撃については
『倭城の研究』に詳しいよ。
131日本@名無史さん:01/12/03 02:01
>>130
かなり以前の本だったような。
どういう解説だったのだろう。

ただし、あの本、後世になって発見された「ウルサン城」の攻防
の絵を信用しきったり、戦後の日本国内の状態を妙にネガティブに
説明したりしていなかったっけ?
手元にないので確認できないが、かなり恣意的な表現なきにしもあらず
の印象だが、反論頼む。
132日本@名無史さん:01/12/04 15:33
「異・戦国志」で信長が小田原城を攻めた時に使った、
巨大な車盾(強度は鉄甲船の装甲並)を置いて、
城内からの攻撃を防ぎながら堀を埋めていくって方法はどうだろ?
ドキュソ小説だったけど、これは結構使える手では?
133                     :01/12/04 16:21
 冬の陣の状況をみれば、豊臣絶体絶命というわけではなかった。関が原の戦い
の後、取り潰された大名あるいはその遺臣が続々と入城していた。豊臣の戦力は、
何百万石の大名相当のものに達していた。孤立無援で徳川と戦わねばならな
かったわけではない。幸村は出撃策を唱えたが、私としては篭城策の方が正し
かったと思う。出撃策は野戦の名人である家康の思う壺にはまることになる。
篭城してまずやることは、福島正則の暗殺であろう。そうすれば福島家の遺臣
は必ず安芸で挙兵する。色々、他にも策はある。まずは篭城策をとるほうがお
もしろいのは確かだ。
 大阪城は正攻法では落とせない。食料がつきるのを待つしかないだろう。
しかしこれは一年以上、囲んでいなければならない。正直言って大変だ。
総大将に人を得ていれば、豊臣家は勝てるかもしれない。絶望的な状況
ではなかったのは確かだ。家康は豊臣家にずっと手をだせなかったとみる
のが正しいと思う。
 
134日本@名無史さん:01/12/04 16:45
>>131
かなり以前の本って『倭城』T(倭城址研究会)のことでは。
あれは、70年代くらいに出たんじゃないかな? 最近は、
倭城研究がぐっと進んでいるので、既に古典でしょう。
だらか、内容も現在の水準から見ると・・・。
 『倭城の研究』1号〜4号続刊中(岩田書院)は、最新の
研究を盛り込んでいる。で、順天倭城の攻防戦なんかは、
戦闘参加武将の回顧記録があって、明軍の大砲で櫓が
傾いたとか生々しい描写が多く、読んでいて面白い。
135日本@名無史さん:01/12/15 16:10
age
136日本@名無史さん:01/12/15 18:52
あげてもいいけど・・・。
なんか話題を提供しないと、すぐさがるぞ。
137日本@名無史さん:01/12/29 11:16
後水尾天皇は「やめろやゴルァ!!」と勅使を遣わしましたが、
家康は「うるせーバカ」とこれを無視しました。
138日本@名無史さん:02/01/10 15:02
まず不可能に近い!
唯一米の搬入路遮断しかなし!!!
何年もかかるのでよしとしない!
139日本@名無史さん:02/01/10 15:03
138=1
140日本@名無史さん:02/01/10 16:54
138=1
ハズレ!!!
141ななし:02/01/22 11:34
あげるか・・・。
142日本@名無史さん
大坂方には兵糧も金銀もたくさんあった。

ただ、鉄砲の弾だけは不足していた。