駄スレたてて ごめん
もし、停戦がなかったら家康は、どうやって落とすのかなっと
ふと思った 今日この頃;;
兵糧は 何年分 在庫があったのかな?
家康の寿命まで落ちなかったら 面白い展開になるんだけど^^
普通に落とすのは無理でしょうね。
しかし、大砲を大量に欧州諸国から
輸入して昼夜を問わずに大阪城に向けて発射して城内の守備兵を
精神的に疲れさせ(特に真田丸)敵が怯んだ所を一斉に大阪城の南方
から進入して本丸を占拠する方法これが最善だと思います。
大阪城の弱点は南方の防御が薄い点にあって、だから真田信繁は南方に
真田丸を築いて防衛にあたった訳ですから、南を攻略するのが最善
>3
でも、昔、宰相山公園と真田山公園に行ったけど高台になって
落ちそうな感じには 見えないけどどうなのかな?
5 :
日本@名無史さん:01/11/02 21:29
カルバリン砲の最大射程は 6300m
下手な鉄砲 数打ちゃあ 女狐にあたるってw
6 :
日本@名無史さん:01/11/02 21:29
もぐら作戦も考えてたみたいだね。徳川方は。
金と時間さえかければ、落ちない城などこの世に無い様な・・・
8 :
日本@名無史さん:01/11/02 21:48
夏の陣での記録によると後10年は大坂城は戦えたらしい。
9 :
日本@名無史さん :01/11/02 22:17
囲んじまえばいっしょ
囲まれないように外交してれば安泰
10 :
日本@名無史さん:01/11/03 00:03
10年分の兵糧って すごいなあ
弾もあるのか?
11 :
日本@名無史さん:01/11/03 00:08
内応策を練っていたんだよ、きっと。
12 :
日本@名無史さん:01/11/03 00:11
当時は海から城が見えたらしいね。
どかんどかん、うるちゃーい。
ばば様いなくなれば、10年は頑張るよ。
大阪城の東側の今の平野川の大阪城公園駅の辺りを攻める。
守ってるのが 南部信連、浅井長房、野々村安吉
激しくあぼーんして欲しかった
>秀忠さん
現在の大阪城は大阪冬・夏両陣において陥落炎上して、ほとんど秀吉時代の
城内建造物は無くなってしまったので、家康が両陣の後に土を元の大阪城
の上に盛って新たな大阪城を築いたわけで、豊臣滅亡事本来の地層は
地下にあります。ですから、今のきちんと整備された城址公園は本来の
地層にある訳ではないのです。
16 :
小早川金吾中納言秀秋:01/11/05 19:20
押して何歩。埋めて何歩。
17 :
日本@名無史さん:01/11/05 19:51
じゃあ 物理的に何万人で一斉攻撃しても 無理なの?
内応とかも 戦のうちだけど ああいう平城で落ちないのが
信じられない。鉄扇や竹の束を使えば? 素人でごめん
18 :
日本@名無史さん:01/11/05 19:57
往年の秀吉みたいに 大阪城の隣にでっけえ城を建てるんだよ
希望地は、心斎橋辺り 名付けて心斎橋城
イイ?
19 :
日本@名無史さん:01/11/05 20:50
戦国時代の篭城で一番長かったのはどの戦いだろうか?
3年ほど包囲していれば内応者が出て崩壊するのではないか。
20 :
日本@名無史さん:01/11/05 21:16
篭城する方もだけど、囲む方もどれだけ頑張れるかが
問題だね。特に大阪攻めぐらいの大軍を維持するのは
大変だろうし。
>19
石山本願寺は確か10年篭城してましたよ。
本願寺があった場所は後の大阪城。
つまり大阪方に十分な武器弾薬食料の備蓄と
裏切りが出ない心理的支えがあれば・・・
家康が先に寿命で死んだ。
>17
一般的に城攻めする際の攻城側兵力は、守備兵力の倍は必要だといわれています。
しかし、城郭の規模と城内の物資の大小又は城を落とす作戦によっても
兵力の増減があります。水攻めや兵糧攻めがこれにあたります。
山城はその立地から狭い構造(一部を除いて)をしています。ですから、いざ敵が侵入してきた際
守るのには限界があるわけです。
しかし、平城は専ら大規模城郭を形成しており、ひとつの場所より進入しても
本丸はずっと先のように、攻めるほうとしては山城より多くの兵力を要する
訳です。また、曲輪も計画的にきちんと整備されているので敵の反撃を受けやすい
と考えます。
23 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:14
さ さすが大阪城 難攻不落のカコイイー!
と言うことで 大阪城萌え
24 :
そごうちゃん:01/11/06 01:20
夏の陣の翌年に家康が死んだから(食あたりだけど;;)
家康 死んだら面白くなったのになあ それが歴史の面白さだね
秀忠の采配に見てみたいね(藁
25 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:22
大阪城の外堀を埋める事って、三国志にあるみたいに包囲してる最中でもできなかったのかな?
>>3 賛同いたしますが、必要な大砲の数はどのくらいでしょうか。
かなりな門数と弾薬が必要と思われます。
当時の砲弾は石組みの構造物を崩壊させたり花火程度の炸裂で人員を殺傷
する効果しかありません
でしたから、それで真田丸の完全破壊をするには相当長期の日数を
要するでしょう。
そうやって一つずつ堡塁を取り、砲台を築いて前進するしかありますまい。
問題は20万に及ぶ攻囲軍をその期間維持できるかどうか。
一時でも退けば、大阪方の気勢は上がり「撃退」として勝利宣言。
家康も政治的にまずいことにはなりませんか。
27 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:31
>>21 それは毛利や根来衆など、外部からの支援と補給があったため。それがなければ小田原城と同じ運命をたどった事だろう。
家康は一度で攻め落とそうとは毛頭考えてなかったのであろう。
福島正則も大阪方に意地でも、味方して欲しかった
根性なし 正則のばかーー 逝ってよし
29 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:49
>>28 お前は小学生か(ワラ
つーかマジな話、奴は大坂に来てたっけ?
30 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:50
秀頼って右大臣だよね?当時、秀頼討伐の勅書は、天皇から出たの?
右大臣と征夷大将軍って どっちが偉いの?
初歩的な質問かもしれないけど、誰か教えてください
31 :
日本@名無史さん:01/11/06 01:56
右大臣は官職名
征夷大将軍は役職名
だっけ?
32 :
日本@名無史さん:01/11/06 02:49
>>25 堀を埋めようと近付いたら鉄砲と矢が雨あられだろう。
>>27 本願寺を支援したのは根来衆ではなく雑賀衆な。
33 :
日本@名無史さん:01/11/06 02:54
どっちも官職
官と職、そして位はそれぞれ別。
例えば尼子晴久。
官は修理大夫
職が出雲以下八ヶ国守護
位が従五位下
右大臣は官
将軍は職
関白は職
違ってたらごめん。
35 :
日本@名無史さん:01/11/06 03:49
将軍も関白も令外の官。
授業で習わなかったかい?
36 :
訂正あったらよろしく。:01/11/06 03:58
この時点では
家康 : 前右大臣 従一位
秀頼 : 右大臣 従一位
のはず。
秀頼は関白じゃなかったよね。もちろん家康はもう将軍じゃないよ。
37 :
日本@名無史さん:01/11/06 10:44
>28
当時監禁されていてきていません
>29
私戦であったと思いますよ
天皇は豊家贔屓なので
官位の序列としては
現職優位で秀頼ですが
38 :
日本@名無史さん:01/11/06 11:09
まず川をせき止める。て円上に囲む。
次に堀に大量の油を流し込んで、火を放つ。
そしたら、大坂上が落ちちゃったと、はやとちりした
白狐隊が、勝手に自殺して
しゅうせーん。
39 :
日本@名無史さん:01/11/06 18:52
38>
でも 大阪城の周りの川を堰き止める前に鉄砲で狙い撃ちされないのか?
大阪側が幾ら 鉄砲持ってたが知らないが、当時の日本は、世界で一番の
鉄砲保有数を所有してたから無理だろ?
40 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/11/06 19:30
家康が太政大臣になったのは夏の陣の後。
41 :
日本@名無史さん:01/11/06 19:39
>>39 上流せき止めるに決まってるでしょ。
だいたい、大阪城の外堀に油流し火をつけても
全く意味が無いよ。(馬鹿でかいんだか)
マジレスくれてありがたいけど…ね。
42 :
日本@名無史さん:01/11/06 20:06
大坂城を攻略する方法が無いでもない。
ただし正攻法ではないので教えるわけにはいかんがな。
BYま・くべ大佐
43 :
日本@名無史さん:01/11/06 20:36
東軍は20万以上の兵力を大坂表に展開させたが、
大坂城はその広大な縄張りと対照的に戦闘正面が
非常に限られている大城砦である。
つまりどれほどの大軍をつれてきても、一度に
戦闘に投入できる兵力は限られてしまうということだ。
これでは何百万の兵力を投入しても
力攻めの結果は同じになると思われる。
そして兵糧攻めをするとしても、自前で兵糧を
準備しなければならない当時の軍役では
脱落する諸将が続出する事態は十分考えられる。
また強力な威嚇兵器となりえる大筒に関しても
当時の幕府軍所有の大筒の数は限られており、
外国勢力を頼ろうとしても通商船しか来ていない状況では
たかがしれているだろう。
というわけで十分な兵力と兵糧を備えた大坂城を落とすには
やはり家康のとった虚偽の外交による
戦力削減しかなかったのではないだろうか。
ちなみに実際の大坂城では大野治長派、真田信繁派、
後藤基次派の三派が激しい権力闘争を行っていた。
長期戦になれば、内通者の多かった大坂城内ならば
これを利用して内乱を起こすことも
可能だったのではないかと思われる。
44 :
日本@名無史さん:01/11/06 21:09
無理です
大砲を使っても外堀外から打った場合
郭までとどかないので殆ど効果はありません
大砲で攻撃する狙いは、ただ当てるだけでなく城守備兵の精神的
疲労を与える役割もできると思うのです。第一次世界大戦中の欧州戦で
イギリスやドイツの兵士の中で砲撃による精神障害(シェルショック)なる精神病
にかかる兵士が多発した。このように精神的打撃を与え怯んだ所を責める。
これが大砲の役割であると思います。
ただ、火薬の原料となる硝石が当時日本では生産されておらず、この火薬の補給
がうまくいけばこのような作戦もできます。
46 :
日本@名無史さん:01/11/06 23:19
で、天皇の秀頼討伐の勅書は、降りたの?当時
47 :
日本@名無史さん:01/11/06 23:29
>>46 出てないはず。
どっちにしろそんなに変わりないと思うけど。
家康も当然朝廷を抱き込もうとするでしょ。
天皇による調停はまずない。
だいたい、どうやって豊臣方が京に行くのか。
>>45 当時のどのような砲撃能力の高い国によっても(トルコか)
第一次大戦当時の砲撃量とは比較できない。
精神的打撃が決定的な戦術成果をあげるものではないことは、
第二次世界大戦の日本軍による孤島での抗戦などで明らか。
ましてや、微弱な16世紀の砲力では。
やはり、物理的な破壊力こそ砲撃力には期待すべきでしょう。
大砲というもには発射限度があって無限に打てるものでもない。
何百門という大砲を仮にそろえることができても、永久に
その砲列で打ちつづけることはできない。
おのずと限界が訪れる。
無尽蔵な砲撃というのは第一次大戦以降の大物量戦でないと
不可能。
効率的な砲撃を継続し、長い時間をかけて前進してゆく。
そういう戦いになるでしょう。
その場合、やはり時間との戦いが両軍双方に課題となってくる。
>44
記憶が確かなら、冬の陣で大阪城に大筒の弾が命中していたような。
たしか片桐が大砲打ってなかったかしら。
51 :
日本@名無史さん:01/11/06 23:42
当時の大砲って、どの程度の威力なんでしょう。
大分時代が下りますが、明治初頭の会津若松城天守の写真などをみる
と、軒などかなりやられてはいるものの、全体としてはしっかり建っ
ているように見えます。
まあ小火器が中心だったんでしょうが、あれをみて、日本の城も意外
に丈夫なんだな、と思いました。
52 :
日本@名無史さん:01/11/07 00:01
豊臣方 10万VS徳川方 20万(秀忠含む)藁
うむ、いい勝負だな^^
当時の弾丸は実体弾、打ち上げて終速の威力で構造物を破壊するのですが、
人員殺傷力の面からはさほどの威力は発揮しない。
その砲撃効果が知られるようになってヨーロッパでは野戦では16世紀
初頭まで評価されなくなり小銃中心となっていた。その点、日本と同じ。
構造物破壊が主目的となり城の堅牢さと競争することとなった。
しかしあの広大な大阪城を砲撃で破壊し尽くすことは不可能でしょう。
集中攻撃で城壁の一部を破壊し突破口を作り、拠点確保に成功したら、
次に写って行くという戦術の支援とはなったでしょう。
が、砲弾の終速力は衰えますから、土塁の完全破壊には相当な砲撃量が
必要だと思うのです。
54 :
日本@名無史さん:01/11/07 06:12
大筒の射撃というものに慣れていない(初体験者多数)当時としては
数十門の砲撃でも集中射撃を実施すれば充分以上に精神的打撃になります。
また当時の砲弾は球をよく焼いておき傷痍効果を狙って撃ちこむので
木造建築物の多い当時の城砦では多くの火災も起こったでしょう。
ただ広大な大坂城ではあくまでも限定された効果しかあげられないと思われます。
その限定された効果を淀君のいる部分に限定させたのが家康の見事な点。
55 :
日本@名無史さん:01/11/07 06:45
それは夏の陣の話し
ここでは完全な大坂城を落とす事が前提
音による精神的ダメージは野戦の場合に期待される戦略である
(兵を散らす効果がある。しかし城内では散り様がない)
広大な大阪城に、点みたいな砲弾がおちた所で戦闘力を
そぐ効果は兵の動揺で見ても最初だけと思われる
焼玉を打ち込んだらどうか?の意見は
(焼玉自体、使えたかどうか疑問視されている
火縄銃を大きくしたのが当時の大砲だから
熱くなった弾を込めた時点で暴発する)
延焼するような建物の配置になってないのでこれも無意味
あらゆる可能性を考えても力攻めは不可能
やはり政治力で落とすしかない
夏では結局、破壊力よりもブラフとして大砲を使っている
では当時に射程距離6キロの大砲があれば落とせたか?
それも不可能
設置すること自体が無理だから
(制空権で考えれば分かり易いと思う)
56 :
日本@名無史さん:01/11/07 11:42
周りを囲んだ兵隊みんなで、楚の歌を歌うのさ
そしたら、秀頼があきらめてくれるのさ。。
>大筒の射撃というものに慣れていない(初体験者多数)当時としては
数十門の砲撃でも集中射撃を実施すれば充分以上に精神的打撃になります。
数十門の砲撃で広大な大阪城の一体どれだけのスペースを
カバーできるというのでしょう。
発射速度も遅いし、総ての砲門を連続砲撃したとしても
せいぜい1分に1発。あの広い敷地のどこかに落ちるわけです。
(集中砲撃したくとも今の様な正確な命中精度ではありません)
最初は驚くかもしれませんが、ほどなく、それらの効果は
十分に見極められるでしょう。
あのソンム、ベルダンの戦い(第一次大戦)のごとき
精神的ショックなど受けようはずはありません。
技術的対処がなされるだけです。
大砲は、あくまで構築物の破壊という点にしか効果は
ないといって過言ではありません。
58 :
日本@名無史さん:01/11/07 12:18
つーか
大阪城が東軍陣地からでも、射程に入る大砲っていつできたの?
それが、できれば、開城だったんでしょ。
だったら、大砲の開発に専念するのが
正攻法じゃないの?
59 :
日本@名無史さん:01/11/07 15:13
暗殺
>58
関が原で 光成の笹尾山から大砲打ってたよ。効果は知らないけどね
当然、大阪の冬の陣でも大阪城の全部、射程圏内だよ。
でしょう。せいぜい。
砲弾の弾着点での速度は。
だとしたら、目で見えるし、かわせます。
音を聞いて、その方向にめをこらせば、黒い玉が見えます。
余裕でかわせるでしょう。
第二次世界大戦当時の砲弾も目で見えたのですから。
そうなると、人は恐怖感はうすらぐもの。
恐怖とは何も対処できない対象に抱くもの。
そうなると夜間砲撃しかないでしょう。
でもそれでは弾着が確認できなくなるから、打つほうも効果なし。
結局、人員への決定的ダメージは与えられない。
62 :
ドカンドカンドカン!:01/11/07 18:49
ごく狭い範囲(十メートル単位での)への間断ない集中砲火!
こんなものは映画で見る第二次世界大戦当時の話で、
当時、どんなに大砲を集めてきても出来ない芸当。
大砲攻撃が破壊力に欠けるのであれば、大砲攻撃と共に穴掘り戦法を用いるべきです。
その穴掘り戦法は、当時の穴掘り戦法(穴を掘って、城内侵入)とは少し違って、
欧州で大砲ができる前に実施されていた穴掘り戦法を用いてはどうでしょうか?
その作戦の内容は、穴を城の下まで掘って爆薬をその穴の中に詰めて順々に爆破する。
すると穴の内部にある補強用の木材が破壊されその穴の真上にある建物ごと陥没
させる戦法です。
これの戦法をうまく使うことができれば、あの堅固な大阪城の堀・櫓又は石垣を
効率良くまた広範囲にわたって破壊することができると思います。
この作戦後隙を見計らって突入すれば落ちるのではないでしょうか
64 :
地質が違います:01/11/07 22:05
大阪城は確かに大阪で最も小高い場所に建てらました。
ところが周辺は湿地帯。
そもそも日本の大都市の地盤は欧州=大陸(岩盤の地質)に比べて柔らかいのです。
このことは今の土木技術専門家に聞いても分かると思います。
濠をめぐらした大阪城に坑道を掘って接近するのは、今の技術でも
大変むずかしいものです。深く掘ると地下水が湧く。水で埋まります。
結論=不可能
です。
65 :
地質が違います2:01/11/07 22:08
今でも確か、大阪ではビルを立てるとき、杭を20m〜30mくらいは
打ち込むのではないか。
すくなくなくともそれ以上の深さのトンネルを掘らなければならない。
当時の世界のどんな技術を持っても、これは不可能でしょう。
66 :
日本@名無史さん:01/11/07 22:09
でも、穴掘りも時間かかるやろ?問題は 10万の兵をいかに減らすかでしょ
結局さー家康の寿命 考えたらねええ
榴弾が初めて明確な効果を発揮した戦いはヨーロッパにおいて、
夏の陣から30年近くたってからのことです。
それによってはじめて大砲が人員殺傷に威力を発揮するよう
になります。
それとて限定された用兵だったと思います。
同じ頃、日本では島原の乱が起きていましたが、幕府軍は
手持ちの大砲では威力少なしとみて、オランダ船から
大砲の支援をあおぎました。それも効果なく、
結局力攻めをして失敗を繰り返しました。
城とはなかなか落ちないもののようです。
燃料気化爆弾を使う
69 :
日本@名無史さん:01/11/07 23:26
城門に向けて大砲を水平発射。城門をぶち壊す。
んで、突入。
これの繰り返し。
籠城側より兵力が十分に勝っていればいつか本丸に辿り着けるだろう。
70 :
金日成@名無史さん :01/11/07 23:29
テポドン発射。
偉大なる領導者、金正日同志マンセー
69さんは、お城は城門だけだと思ってるコーエーオタですか?
一度、姫路のお城見るといいです。
じじが運をつかんだ出世城です。
72 :
日本@名無史さん:01/11/07 23:32
>>71 それでも城門付近の攻防が一番兵力を損耗すると思うが
73 :
日本@名無史さん:01/11/08 01:14
だいたい、10万の兵が一つの城にロージョーするじたい 想像がつかん
小田原城は 何万の兵が篭ったんだっけ?
じじのつくったおうちは、大砲で水平射撃で命中できる距離まで
近づけるほどねうんこたれなつくりにはなってないです。
おうちにも大筒ぐらいあるですよ。
鉄砲もいーぱい。
門を破っても、何重にも立体的に組まれた射線の通路を、
生きては通れないです。
江戸のじじのやり方が、一番正解です。
しまったです。ワシじゃないです。国松です。
76 :
日本@名無史さん:01/11/08 06:13
>>57 >>54は数十門の射撃って言ってるでしょ?それで一分に一発?
当時の大筒って一発撃つのに数十分かかったってこと?
それにいくら命中精度が悪くても数百メートル範囲内に
落とすことは可能でしょ。充分一部隊の展開範囲内に落ちると
思うんだけど。もちろんソンム、ベルダンの戦いのときのような
砲弾病とも言うべき大ショックは与えられないと思うけど
士気を落とすには十分だろうよ。
15年前の関ヶ原での石田隊の4門の大筒の射撃によって
徳川軍は突撃を一度断念させられてるんだからさ。
77 :
日本@名無史さん:01/11/08 06:58
>>76 関が原の話しって、出所はどこなの?
確かな史料があるの?
78 :
日本@名無史さん:01/11/08 09:49
>>76 野戦と攻城戦の違いを考えろって
関が原の兵隊と大阪城の兵隊の志気は違うだろ
小学生の算数じゃないんだから
もう少し想像力をふくらませろ
お前幾つだよ
数百メートル範囲に5分に一発落ちて
お前は逃げるか?
逃げないだろ。
逆に戦闘意識が高まるだろうが
あのころの城攻めの基本は,わざと相手の逃げ道を
残して攻撃するんだよ
そのほうが両方とも損害を最小限にくいとめられるからだ
そこを考えて関が原では武将が家康に付いたわけだ
79 :
日本@名無史さん:01/11/08 09:52
たぶん、タヌキも、似たようなこと考えたんだね。。。
そしたら、
「 無理 」
って結論がでて、じゃああ、つって、
講和♪♪♪
堀埋め♪♪
因縁♪♪♪
再戦♪♪♪
って、プラン立てたんじゃない?
80 :
日本@名無史さん:01/11/08 11:06
暗殺
81 :
NHKの影響力はすごい:01/11/08 11:45
>>76 かりに関が原の事実があったとしよう。
しかし、その程度の戦闘意欲の減退はじきに回復するものだよ。
野戦は一瞬の態勢の乱れが戦局に影響するかもしれないが、
城攻めは異なる。
それよりも野戦での当時の砲の威力は限定されたものであり、
それが判明していたからこそ、17世紀初頭まで欧州でも
野戦の主兵器は小銃だった。
精神的ダメージうんぬんというのは、NHKの「20世紀の映像」
を見せられての誇大妄想。
82 :
日本@名無しさん:01/11/08 12:29
>>78 >>81 戦場に行ったことがない厨房が知ったかぶりしている
と思われ。戦闘意欲が回復?ぷぷぷ。お前は江畑謙介か?
何見てきたようなこといってんだよ。
あと
>>78 この時代は城の包囲をしないものだ、とか馬鹿
言ってるけど、孫子読んだことあんのか、馬鹿厨房。
>>82 世間知らずのお前は生きている世界が狭いからそういうのだろうが、
私はちゃんと見てきているのだよ。
素人どもが昔の戦をニヤニヤしながら語ってるんじゃねぇよ。
戦った方々に失礼だ馬鹿者。
85 :
日本@名無史さん:01/11/08 17:24
暗殺
86 :
日本@名無しさん:01/11/08 17:36
>>84 禿同。
なんでデムパって83みたいなヴァカが多いんだろう。
あのさあ、じゃあ聞くけど、大阪冬の陣とか見てきた
ってえのかい、デムパ君。まあ、デムパだから、そう
だって答えるかもしれないなあ。
それは世間が狭いとかとは関係ないので、逝ってくれ。
87 :
日本@名無史さん:01/11/08 18:47
自分の死期が近いことを悟った家康は、見舞いに来た諸将に向かい
「わしの天寿も終わろうとしている。もし、秀忠の政道に誤りがあらば、
誰でも変わって天下をとれ。天下は一人の天下でなく、天下の天下であるから、
わしは少しも恨みに思わない。」と言って、諸将を見据えたという
面白いスレと思ったが、つまらない輩が出てきて萎えた。
こうして2chがつまらなくなってゆく。
>84
歴史学の発展に推測も必要。
すべての歴史的出来事に文献があるわけではない。
机上の推論というは学術発展の障害となる輩その者である。
歴史学を一からやってみれば推測の大事さもわかるはず。
90 :
日本@名無史さん:01/11/08 21:34
>>84 同意。
どんな歴戦の勇士でも自分に向かってくる「かもしれない」矢玉
(それが鉄砲の数倍の大音響を響かせる大筒であればなおさら)
には身がすくむ思いをするはずだ。こればっかりは慣れようがない。
戦闘意欲が高まるだの回復するだのってのは机上の空論。論外だ。
>>90 では、欧州において野戦における大砲の威嚇に効果がないことが
判明しその後小銃の時代が来たということをどう説明する?
大阪城を陥落させるほどの士気の阻喪は起きない。
これさえ机上の推論というなら、歴史は全く語れないよ。
明白な事実から、推論によってIFを考究する。これは常道。
当時の大砲というものの威力を過大視しすぎていますね。
すでに15世紀のヨーロッパ人はそのことを知っていましたから、
今の日本人は彼ら以下の認識しか抱いていないわけです。
時代が進んでも退化する知識というものがある証明ですね。
17世紀初頭の日本人もすでにそのくらいのこけおどしは見抜いていましたよ。
16世紀の末、日本の武士は朝鮮半島で本格的な砲戦を経験しております。
日本側は小銃で対抗し相手側の砲力を凌ぎましたが、戦後、戦訓は貴重としました。
家康の生きている大阪の陣には朝鮮役を知る武士、浪人はひしめいていました。
すでに15世紀に大砲の音に驚いて崩壊したイタリア兵のような動物ではなかった
のです。
さて、時代は下って、戊辰戦役。官軍は会津若松城を50門の大砲で
2日間に渡り、攻撃し建物は蜂の巣にはなりましたが、
陥落はせず、会津側の死者はわずかに12名でした。
城の陥落は政略によるしかなかったのです。
これは推論ではなく、事実なのです。
93 :
日本@名無史さん:01/11/08 23:15
家康のやり方が正攻法。
94 :
日本@名無史さん:01/11/08 23:20
城の防御力を削ぐための策略は立派な正攻法だろう。
>>1は「正攻法で」ではなく「力攻めで」とすればよかったな。
>93, 94
同意。
孫子にも「抜人之城、而非攻也。」とあるくらいで、
城を力攻めするのは可能な限り避けるのが正攻法で
しょう。
>92
51にも書いたけど、会津若松城の天守も付近の門や
塀も、手ひどくやられているものの倒壊したりはし
ていないんですよね…。
幕末〜明治初頭なら、もっと強力な大砲があって、
城など一発で吹き飛ぶようなイメージを、昔はもっ
ていたんですがね。
96 :
日本@名無史さん:01/11/09 00:59
射程がどんなものかは知らないが
大砲がダメならば投石器による城壁破壊、のち曲輪の確保はどうだろう?
射程が許すのなら夜陰にまぎれて人を城内に空挺の要領で投石器で投げ込み、
ある人数に達したら内部で放火、暗殺、開門等の撹乱をさせる。または、
伝染病死者の体を切り刻み、城内の井戸等に伝染病を発生させる。
などはどうでしょうね?まぁ射程次第だけど。
97 :
日本@名無史さん:01/11/09 01:31
>伝染病死者の体を切り刻み
東軍の陣地に先に死亡者が出そうですが…
>夜陰にまぎれて人を城内に空挺の要領で投石器で投げ込み、
そんなこと出来るんですか?!
>>91、
>>92 オレは士気が崩壊するほどの効果があるなんて一言も書いてないぞ。
士気が高まるだの回復するだのとふざけたことを書いてる連中に
反論しているだけだ。
>士気が高まるだの
誰もそんなこと書いてないでしょう。
「戦闘意欲の減退は回復する」という記事は見たが。
>士気が崩壊するほどの効果
レスの流れを読めば、そういう意見に対するリアクションだ
ということくらい分かるでしょう(鬱
101 :
日本@名無史さん:01/11/09 06:40
アホばっか
103 :
日本@名無史さん:01/11/09 11:30
だから、大阪方を場外に引きずりだす方法を考えろよ!!
城攻めで、大阪城は落ちません!!!
城攻め、好きの秀吉が、自分が落とせない城を作ったんだから。。。
104 :
日本@名無史さん :01/11/09 11:37
家康のやった方法は、秀吉に、「攻城戦の達人の秀吉様でもこの大阪城は、落とせませんよね?」と聞いた時に、教わった大阪城の落とし方を実践しただけのことで、正攻法では無理だと秀吉も考えた上で築城されているはず。
正攻法で落城させるには、じっくり時間をかけて、城方の守備兵が減っていくのを待つか、内応者の数を増やして城内から反乱が起きるのを待つしかないでしょうね?
おそらく、1年かければ、みんな飢え死にするか、城内で反乱が起きるでしょう。ただ、こんなに時間はかからずに開城されるでしょうがね。
当時の大阪城は、確か大砲でとどく射程外に本丸が築かれていたはずなので、音で淀殿を驚かせ続けるぐらいの効果しかないことはわかっていたはず。
10日間、昼夜問わず、撃ち続けられれば、頭がおかしくなる人が現れて城内では大騒ぎになるでしょう。
同士討ちが始まるかもしれないし、逃げ出す人も増えるでしょう。時間をかければ大阪城は落とせます。(当たり前のことです!)
つーか、みんな「坂」の字間違ってるよ・・・・・・。
この時代は、
大坂○
大阪×
106 :
日本@名無史さん:01/11/09 13:02
>>105 いつから「坂」から「阪」に変わったの?
107 :
日本@名無史さん:01/11/09 13:28
土に反るのが嫌だったので、漏れが変えた!
は?
109 :
日本@名無史さん:01/11/09 15:13
>>96 古代ローマの攻城戦にも伝染病者の手足を投げ込み陥落させるという戦法が取られたことがあり、
見事成功している。勿論、自軍から発生した伝染病者がこの戦法の発想点らしい。
戦国期の中国でも投石のかわりに投人する(パラシュートのようなもので)という発想はあった。
よって、みんなが貶しているような奇抜な戦法ではなかったということだ。
110 :
日本@名無史さん:01/11/09 16:00
>>1 正攻法で落ちた城なんかあまり無いんじゃない?
何を正攻法とするかによるが。
111 :
日本@名無史さん:01/11/09 16:11
穴を掘る。食料をたつ。短期間では無理でしょう
112 :
日本@名無史さん:01/11/09 17:01
正攻法で落とすって…攻城兵器って日本じゃあまり発達しなかった
けど,外国には沢山あるんじゃないのかな?
だから中国人はDQN
114 :
日本@名無史さん:01/11/09 22:37
>>100 >誰もそんなこと書いてないでしょう。
>「戦闘意欲の減退は回復する」という記事は見たが。
>>78を読め。
115 :
日本@名無史さん:01/11/09 22:40
西洋や中国みたいな城塞都市が無いんだから
攻城兵器は発達しなかったんじゃないの?
日本の攻城戦って総構えをどう突破するかが問題。
116 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:37
>>115 強いて言えば石山本願寺は広大な寺内町を抱える城砦都市だったね。
で、突破できるわけもなくて信長はひたすら囲むしかなかった。
これが結論だよ。
117 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:42
>>96 伝染病死者の体を切り刻み、城内の井戸等に伝染病を発生させる。
原始的な生物兵器だね。ただ開城したあとに味方にも影響が出そうなのが
問題だけど。
つまり大阪城も本気でやってれば十年戦争になってた。
当然家康の方が先に寿命で死ぬ。
119 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:53
120 :
日本@名無史さん:01/11/09 23:53
>>118 まあ石山は間に休戦を挟みながらだったけど
それでも1576年から1580年までの包囲を考えると
大坂城も5年はかかりそうだね…
121 :
日本@名無史さん:01/11/10 12:44
例の明+朝鮮軍vs秀吉軍で、中国流攻城戦術と日本流築城術が激突してる。
具体的にどんな感じだったんだろうね。
中国式攻城兵器は日本の城を攻めるのに向いていないんじゃないかと
おもうので。
122 :
日本@名無史さん:01/11/28 22:26
糞スレと分かっていたら立てるなっちゅうの。
123 :
名無しさん脚:01/11/28 22:53
>西洋や中国みたいな城塞都市が無いんだから
>攻城兵器は発達しなかったんじゃないの?
当時の都市は堀と土塁で防御されてるよん。
江戸時代に埋めてしまったので残っていないだけ。
上のほうで、砲撃音で人々は混乱に陥る云々との意見がありましたが、
間違いだと思います。
有名な「おあん物語」という関が原の際、大垣城に篭った女性の語りがありますが、
最初は驚いて女共はざわめいたが、慣れてしまうと何でもなくなり、
天守閣で鉄砲玉を作ったり、取った首にオハグロをつけたりと悠々たる
ものだったようです。
女でも戦国では肝っ玉が据わっていたのでしょう。
以前にも何人かが書いていたように、家康の生死が勝敗の趨勢を握ったと思われ。
野戦の大家といわれた内府が存命だったにも関わらず豊家恩顧の大名は兵糧などを大坂に
送って一定の誠意を見せていたくらいだから、もしも内府が病気で陣没でもしようものなら
凡将秀忠と太閤の遺児を計りにかけて、後者に諸大名がつくことは必至。
伊達政宗など、秀忠ごときの下知で大人しくしていたとは考えにくい。
大坂方不利は、外部に味方のいないろう城によって生じている不利であって、城外に内応する
勢力がでてくれば話しは変わる。
>> 126
内府は家康のこと。役職名から内府公と呼ばれたり、もしくは前将軍なので
大御所などとも呼ばれていた。
あ、ごめん。「内府」は関が原当時の呼ばれ方だったかも・・・・・!?
はっきりしないで申し訳ない。
>>127 >内府は家康のこと。役職名から内府公と呼ばれたり、もしくは前将軍なので
>大御所などとも呼ばれていた。
いちいち解説せんでも、んなこと誰でも知ってるよ。
「かも」でもなんでもなく、この当時家康は内大臣ではないぞ。
130 :
日本@名無史さん:01/12/03 01:13
>>121 明軍による日本式城郭の攻撃については
『倭城の研究』に詳しいよ。
131 :
日本@名無史さん:01/12/03 02:01
>>130 かなり以前の本だったような。
どういう解説だったのだろう。
ただし、あの本、後世になって発見された「ウルサン城」の攻防
の絵を信用しきったり、戦後の日本国内の状態を妙にネガティブに
説明したりしていなかったっけ?
手元にないので確認できないが、かなり恣意的な表現なきにしもあらず
の印象だが、反論頼む。
132 :
日本@名無史さん:01/12/04 15:33
「異・戦国志」で信長が小田原城を攻めた時に使った、
巨大な車盾(強度は鉄甲船の装甲並)を置いて、
城内からの攻撃を防ぎながら堀を埋めていくって方法はどうだろ?
ドキュソ小説だったけど、これは結構使える手では?
冬の陣の状況をみれば、豊臣絶体絶命というわけではなかった。関が原の戦い
の後、取り潰された大名あるいはその遺臣が続々と入城していた。豊臣の戦力は、
何百万石の大名相当のものに達していた。孤立無援で徳川と戦わねばならな
かったわけではない。幸村は出撃策を唱えたが、私としては篭城策の方が正し
かったと思う。出撃策は野戦の名人である家康の思う壺にはまることになる。
篭城してまずやることは、福島正則の暗殺であろう。そうすれば福島家の遺臣
は必ず安芸で挙兵する。色々、他にも策はある。まずは篭城策をとるほうがお
もしろいのは確かだ。
大阪城は正攻法では落とせない。食料がつきるのを待つしかないだろう。
しかしこれは一年以上、囲んでいなければならない。正直言って大変だ。
総大将に人を得ていれば、豊臣家は勝てるかもしれない。絶望的な状況
ではなかったのは確かだ。家康は豊臣家にずっと手をだせなかったとみる
のが正しいと思う。
134 :
日本@名無史さん:01/12/04 16:45
>>131 かなり以前の本って『倭城』T(倭城址研究会)のことでは。
あれは、70年代くらいに出たんじゃないかな? 最近は、
倭城研究がぐっと進んでいるので、既に古典でしょう。
だらか、内容も現在の水準から見ると・・・。
『倭城の研究』1号〜4号続刊中(岩田書院)は、最新の
研究を盛り込んでいる。で、順天倭城の攻防戦なんかは、
戦闘参加武将の回顧記録があって、明軍の大砲で櫓が
傾いたとか生々しい描写が多く、読んでいて面白い。
135 :
日本@名無史さん:01/12/15 16:10
age
136 :
日本@名無史さん:01/12/15 18:52
あげてもいいけど・・・。
なんか話題を提供しないと、すぐさがるぞ。
137 :
日本@名無史さん:01/12/29 11:16
後水尾天皇は「やめろやゴルァ!!」と勅使を遣わしましたが、
家康は「うるせーバカ」とこれを無視しました。
138 :
日本@名無史さん:02/01/10 15:02
まず不可能に近い!
唯一米の搬入路遮断しかなし!!!
何年もかかるのでよしとしない!
139 :
日本@名無史さん:02/01/10 15:03
138=1
140 :
日本@名無史さん:02/01/10 16:54
138=1
ハズレ!!!
あげるか・・・。
142 :
日本@名無史さん:
大坂方には兵糧も金銀もたくさんあった。
ただ、鉄砲の弾だけは不足していた。