百済はアジアのローマ帝国なり

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493転載くん
879 :日本@名無史さん :03/10/21 21:54
>>872
百済は538年に国号を南夫餘と変えたんですか?

882 :日本@名無史さん :03/10/22 00:35
>>879
南夫餘じゃなくて南扶餘。日本書紀もこの頃の百済を「扶餘」と書き「くだら」と読ませている例がある。
494転載くん:03/10/26 23:26
255 :名無氏物語 :03/10/25 08:57
日本書紀の中に一ケ所だけ百済を「扶餘」(でも読みは
「くだら」のまま)と書いてるところがあったけど、
あれ、どの巻でしたっけ?ご存じの方いらっしゃいませんか?

256 :255 :03/10/26 23:18
>>255
継体二十三年だった。自分で見つけてしまった・・・・しかしこの板はあいかわらず人がいないな…
495日本@名無史さん:03/10/28 13:56
>>493-494
「538年に百済が南扶餘と改名した」というのは、この年にのちに扶餘と呼ばれた泗批に遷都した年だから
三国史記がこじつけたものと思われ。日本書紀にあるとおりもっと以前から「扶餘」とも呼ばれていた。

日本書紀の記事は四県割譲の条にでてくる。この文のある継体二十三年は529年に当たるが、
日本書紀の編年は誤りが多く信用できない。百済は四県に相当する地域に490年にはすでに七人の王侯を立て
王族や貴族に分け与えているから、四県割譲は遅くとも490年には終わっていたと見なければならない。
この時すでに「扶餘」と呼ばれていたことになる。
百済が南扶餘と称したのは、346年に夫餘が一時壊滅して東扶餘が分立した時ではないか。
これで夫餘(北扶餘)・東扶餘・百済(南扶餘)が高句麗を囲むような配置になった。