1 :
日本@名無史さん:
幕府は長州藩に度重なる不祥事の責任を追及、10万石改易を提示。
これに対しそうせい侯は交戦派の部下の無謀な意見に「そうせい」の一言で了承しこれを拒否。
幕府は倒幕派の引き篭もる長州藩に引導を渡す口実を得ることとなった。
十万以上をいわれる圧倒的戦力を以って山陰石州・山陽芸州・四国大島・九州小倉の四方から侵攻した幕府と
緒戦で連敗し崩壊寸前の長州藩の戦いがいま始まった
緒鼻でレスがつかず、崩壊寸前の当スレの戦いはもう終わった
3 :
日本@名無史さん:01/10/21 12:03
>>1 10万石の改易?
改易って家の取り潰しって意味じゃなかったか?
4 :
日本@名無史さん:01/10/21 12:06
10万も逝たっけ?
5 :
日本@名無史さん:01/10/21 12:09
>4
「号して10万」というヤツでしょ。まあそれでもサバ読み過ぎだが・・・
6 :
日本@名無史さん:01/10/21 12:13
>>5 ヤパーリ間違いじゃなかったか、ありがとう。
俺の記憶では,2万人だったかな?
戦争は単なる兵士の数比べじゃないしね。
8 :
日本@名無史さん:01/10/21 17:34
この時、大村益次郎の活躍は有名だが、
桂、伊藤、山県、井上とか大久保、岩倉は何をしていたのだろうか?
9 :
日本@名無史さん:01/10/21 18:02
大久保は京都で朝廷工作に奔走
征長妨害のために戦ってるよ。
10 :
日本@名無史さん:01/10/21 18:10
そうだね
大久保は確か京都所司代(誰か忘れた)と
派兵するしないで交渉してたな
11 :
日本@名無史さん:01/10/22 18:22
そう言えば関所の番人が一人だけ立ちふさがっていたので、その勇気に敬意を表して
脇道を通ろうとしたけど血気にはやった兵士に射殺されたという話を聞いたことがある。
12 :
日本@名無史さん:01/10/28 00:31
13 :
日本@名無史さん:01/11/01 22:44
長州はやっぱり過大評価されてるように感じる。
幕末での薩摩との交戦で二度も惨敗してるのに、討幕で薩摩を差し置いて主導権を握っていたかのように見なすのは電波くさい。
そういう事を指摘しただけで、薩摩マンセーとか言い始める人が、長州を過大評価してるだけに見える。
長州は思想的には先見性が見受けられるが、実行力は一貫して薩摩以下じゃない?
14 :
日本@名無史さん:01/11/01 23:15
>>13 長州スレに来てまでやるなよ。
薩摩マンセーしたいのなら、薩摩スレですればイイじゃん。
何か長州にコンプレックスでもあるのか?
15 :
日本@名無史さん:01/11/01 23:39
逆賊毛利は賢き処から尋常でない御勘気を被り、朝敵とされたのに、よく切腹せずにおめおめと生きていられたものだ。
恥知らずもいいところだ。
16 :
日本@名無史さん:01/11/01 23:54
13の文を別のスレに書いたのは俺だけど、ここにコピペしたのは俺じゃないよ。
別にコンプレックスなんてないよ。
薩摩マンセーのつもりでもないし。
俺なりに客観的に評価してるつもりなんだが、
それが薩摩マンセーにしか見えない方にこそ、薩摩に対するコンプレックスを伺わせるな。
>15 誰も乗ってこない恥ずかしさを味わえ
18 :
日本@名無史さん:01/11/02 00:08
>>15 まあ、天皇を玉と呼び、道具にしか考えてない連中ですから。
別人だったのかスマン。
煽りを入れに来たのかと思ったんだ。
20 :
日本@名無史さん:01/11/02 11:53
長州兵が小倉を落とした時、小倉兵は城と町を捨てて退去した。
攻めてきたのは、薙刀を携えた若い女が一人。
長州の隊長は天晴れと思ったが、一刀のもとに首を打ち落としたという。
薩摩兵だったら、たちまち慰みものにして心行くまで料理し、
女を斬ったら刀が穢れると絞め殺しただろう。
21 :
日本@名無史さん:01/11/02 11:56
>>15 まあ、そう考えると10万石減知された彦根藩や、挙藩流罪の会津は憐れだなあ。
>>20 妄想で薩摩人を強姦魔呼ばわりする事しか出来んヘタレは、どこの劣等種族だよ?
23 :
日本@名無史さん:01/11/02 13:23
そうだ、そうだ!
強姦魔が開き直るとコワイぞw
そうだ!!そうだ!!
強姦魔薩長おおおおおおお!!!!!!
会津の栄光を返せええええええええええああああああああああ!!!!!!!!
25 :
日本@名無史さん:01/11/02 13:36
>>23 >>24 つくづくヒネリがねーな。
大脳新皮質に事欠いておる様では、指導種族のダンナには太刀打ちできないぞ。
ガンバリ−な
26 :
日本@名無史さん:01/11/02 13:48
27 :
日本@名無史さん:01/11/02 19:20
>>13 碌な思想が無く、実行力だけある所は暴走するだけじゃないのか?
28 :
日本@名無史さん:01/11/02 21:20
四戦闘地域の戦力比を教えてプリーズ
29 :
日本@名無史さん:01/11/04 01:50
大島口では幕府軍による、農民にたいする虐殺、放火、略奪、強姦のオンパレード。
30 :
日本@名無史さん:01/11/04 20:36
31 :
日本@名無史さん:01/11/05 00:21
全ては総指揮をしていた小笠原が不甲斐ないせいです。
小笠原家なんか武田に滅ぼされた時に絶滅してりゃ良かったんだよ。
32 :
日本@名無史さん:01/11/05 01:52
>>32 東北での悪行は、全て会津人の自作自演です。
34 :
日本@名無史さん:01/11/05 20:04
>32
そんなことはない。
一万人くらい虐殺してる。
35 :
日本@名無史さん:01/11/05 20:10
会津の侍は別名外道侍と言います
36 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/11/05 20:23
俺は長州人だったら俗論党は嫌いだな。
ただ、佐幕派としては彼らに頑張って欲しかった(藁
37 :
日本@名無史さん:01/11/05 21:05
松平浜田藩のことに詳しい人いますか?
津山近辺の飛び地に逃げて行きましたが。
38 :
日本@名無史さん:01/11/06 00:01
>>27 おいおい、それ言っちゃイカンでしょ。
思想で暴走したのはどっち?
現実指向でバランスを保ってたのはどっち?
ていうか、若さ・純粋さでつっぱしったとこが
長州のいいとこなんじゃないの?
39 :
【^▽^】足軽浪士ジョーカー@長屋:01/11/06 00:08
長州よりもしたたかだったのが薩摩。
40 :
日本@名無史さん:01/11/07 00:03
岸・佐藤兄弟の御先祖は、俗論党でした。
41 :
日本@名無史さん:01/11/07 12:51
俗論党ってやな言い方だけど今も通用してるの?
42 :
日本@名無史さん:01/11/19 03:27
age
43 :
日本@名無史さん:01/11/29 20:52
糞スレに認定しマース。
来週もまた見てくださいねー。
うがっぐっぐ。
44 :
日本@名無史さん:01/12/05 01:43
アズマは第三次長州征伐を実行します。
山口県の人は注意してくださいね。
45 :
日本@名無史さん:01/12/05 02:51
>>44 実のところ長州征伐は第3次、第4次と、もうすでにありました。
第3次長州征伐というのは、大正デモクラシーの時代から終戦まで。
この時期、長州閥が陸軍から放逐されてしまったのです。
そのため軍人を志す山口県人は、海軍を志願するようになりました。
官界でも似たようなことがあったと思う。
第4次長州征伐というのは、佐藤栄作の後継者を福田と田中が争って
田中が勝ったときです。これ以降、山口県人は中央政界の主流から放逐され
不利益を受けることになりました。
46 :
日本@名無史さん:01/12/05 05:04
韓国に山口県を割譲するのが一番効果的な長州征伐だな。
47 :
(~-~;A:01/12/05 06:10
>46
マジでやめてくれ!シャレにならん。
>44
あなたの理屈でいけば昭和の陸軍の暴走ってってやぱーり・・・。東人てププ
48 :
日本@名無史さん:01/12/10 18:22
ー―
●
● ●
49 :
日本@名無史さん:01/12/18 00:39
>>45 今の内閣や党内の要職に、山口県民が結構多いよ。
50 :
日本@名無史さん:01/12/18 11:52
>>45 田中角栄って、今の日本を公共事業漬けにした、
最低の人物だと思われるがな。
>>50 角栄は何もない新潟に新幹線と高速道路を造った神だぞ!
公共事業なくして日本の発展はありえない!
52 :
日本@名無史さん:01/12/18 12:06
長州って薩摩が倒した幕府後の新政権にずうずうしくど真中に入り込んで行って
薩摩はドキュソとか言いがかりをつけて西郷ともども葬って政権を乗っ取ったイメージがある
やり方がチョソそのまんま
53 :
日本@名無史さん:01/12/18 12:24
>>51 ネタだろうけど、有効な公共事業はともかく、
カラー農道は行き過ぎだろう。
54 :
日本@名無史さん:01/12/18 12:45
アズマによる離間の策か>52
なんでもアズマのせいにするのかよ・・・
被害妄想もここまでいくと怖いな
56 :
日本@名無史さん:01/12/18 13:11
>>54 本来薩摩と長州は犬猿の仲だろが。
たまたま反幕府で利害が一致して同盟しただけ。
幕府が滅びれば仲たがい必至だった。
57 :
日本@名無史さん:01/12/22 21:49
長州兵は5千人もいなかったんだけど、
大村は一万丁も最新の小銃をあつめていたとされています。
どうしてこんなにも集めたんでしょうか?
58 :
日本@名無史さん:02/01/12 12:23
>13、39、52
負け犬の遠吠え。
風見鶏薩摩はうんこ以下。
59 :
大でこ凸次郎:02/01/12 14:58
負け犬のクズどもと長州様につかわれた不細工薩摩。
ま〜そう嫉妬すんなって(ケッケッケッ
60 :
日本@名無史さん:02/01/12 15:26
おいでませ 山口へ
61 :
日本@名無史さん:02/01/12 15:26
中村彰彦が、奇兵隊が最後に「大反乱」を起こし、「虐殺」されたと書いている。
打ち首にならなかった連中は海賊になったということだが、どういう海賊なんだ、だれか知らないかい。
62 :
日本@名無史さん:02/01/12 15:36
>>62 それは正解だけど。
ある程度の自主性が見られる。
馬関戦争のときには、農民や町民が自主的に大砲の材料の銅などの持ち寄ったらしい。
(なんとなく戦時中の日本に似ている)
64 :
日本@名無史さん:02/01/12 15:51
>>57 奇兵隊が5000人程度ということらしいよ。
藩兵とか諸隊を合わせれば、1万の銃が必要というのもわかる気がする。
>>63 結局長州藩は、協力した住民にどれくらいの還元をしたの?
萩の乱とか、よく知らないんだが、結局出来あがったものに、
武士も住民も不満を持ったとか?
>>64 >結局長州藩は、協力した住民にどれくらいの還元をしたの?
あんまり報われたって話聞かないな。
地租改正は真っ先にやられたし、萩城も打ち壊し。
長州藩に限れば税金もどちらかと言えば、増税に近い。
騎兵隊は解散、せっかくなったのに武士階級も廃止。
色々改革し、財源的に黒字になっていたのに、それもおじゃん。
相当な黒字を溜め込んでいたのに、明治新政府に取り上げられるし、
碌な目に遭ってない。
遭えてあるとすれば、中央への道が開けたって事かな。
その結果、地元にいるよりも中央の方がいいから、皆中央に行ってしまった。
確か過疎化率は日本屈指だったはずだよ。
66 :
日本@名無史さん:02/01/27 23:14
幕府の兵力誰か知りません?
第二次長州征伐参加兵力:幕府軍
総督:紀州和歌山藩主・徳川茂承
芸州口(先鋒 彦根藩・越後高田藩 約3千)
(本隊 紀州藩歩兵、美濃大垣藩歩兵、幕府歩兵連隊 約5千)
石州口(浜田藩、福山藩 約7千)
大島口(幕府海軍:富士山丸、翔鶴丸、旭日丸、大江丸、八雲丸)
(上陸部隊:松山藩、幕府歩兵連隊、幕府野戦砲兵 兵力不明)
小倉口(小倉藩・肥後藩、柳川藩、久留米藩、中津藩、福岡藩、唐津藩、千人隊 約5万)
補足:
・その他参加した藩(安濃津藩・安志藩・今治藩・徳島藩)
・富士山丸 (木造機帆軍艦 1000トン 幕府所有)
・旭日丸 (木造帆走船 500トン 幕府所有)
・翔鶴丸 (木造外輪汽船 350トン 幕府所有)
・八雲丸 (汽船 トン数不明 松江藩所有)
・千人隊は八王子千人同心の流れをくむ幕府の部隊だそうです。
とりあえずこんなところでしょうか?
68 :
日本@名無史さん:02/02/05 16:12
>>67 うへえ、ハターリでも10万の大軍ね。
正確な資料産休!
しかし、これだけそろえて一会桑&バクーフはなぜ負けたのか・・・
鬱だ。
69 :
日本@名無史さん:02/02/05 21:43
>>67 これだけの大軍を用意したから、
幕府はその後は青息吐息だったんだネエ。
70 :
日本@名無史さん:02/02/07 15:02
関門海峡を毛利に残してやったのが、
狸親父家康の最大の誤算だったのよね
71 :
日本@名無史さん:02/02/13 23:56
日本@名無史さん
72 :
日本@名無史さん:02/02/14 00:01
>>70 だろうね。
島根か鳥取にしておけば良かったのにね。
73 :
日本@名無史さん:02/02/24 03:31
長州が逆襲して侵略した領土
1 小倉藩
2 浜田藩
3 大森代官所領
74 :
日本@名無史さん:02/02/24 14:16
75 :
日本@名無史さん:02/03/01 06:36
76 :
日本@名無史さん:02/03/04 21:08
津和野藩(森鴎外・西周の故郷)は
第2次腸州戦争のけっか、どうなったの?
77 :
日本@名無史さん:02/03/05 18:56
>>73 芸州口は一進一退の攻防だったから、
逆襲までは、行ってないんじゃない?
>>76 浜田の辺りまでは、長州の占領下。
津和野藩は長州と仲が良かったので、そのままじゃないかな。
78 :
日本@名無史さん:02/03/19 23:39
>>77 まあ一応敵地に攻めこんだので
逆襲でいいんではないかと思われ。
79 :
日本@名無史さん:02/03/19 23:58
俺は徴収に侵略された石見の国益田の者です。
80 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:02
最初に殴った方が侵略されたと言えるのか?>79
その理屈なら日本はアメリカに侵略されたと言えるぞ。
81 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:07
朝敵の癖に他の領土まで兵を進めるのはいけないな。
82 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:10
83 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:18
>>82 元はと言えば、関が原の時の毛利輝元の優柔不断がいけないんだ。
84 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:20
輝元が3万の兵士を率いて大阪城をでて関が原に進軍していれば、
歴史は変わったかもしれない。
85 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:24
86 :
日本@名無史さん:02/03/20 00:43
幕末の論功行賞でも一番長州が多かったのは、
これが評価されたからかな?
87 :
日本@名無史さん:02/03/20 04:29
幕府のフランス式歩兵隊は戦ってねーよな。
88 :
日本@名無史さん:02/03/20 20:06
この長州征伐さえしなければ、
幕府もあんなにもろく崩壊する事もなかっただろうに。
89 :
日本@名無史さん:02/03/22 19:39
無理に長州を征伐しなくても良かったと思うんだけど、
なんで侵攻したのでしょうか?
90 :
日本@名無史さん:02/03/22 19:44
幕府の沽券に関わると思われていたことと、実戦はなくとも大軍勢を大坂に
駐屯させるだけで長州が折れると楽観視していたため。
91 :
日本@名無史さん:02/03/22 19:54
甘く見たわけね。
92 :
◆kaori4OA :02/03/22 21:02
しかし長州藩が強いのか、幕府軍が弱過ぎるのか?
いくら武器の差があったとはいえ、37万石の藩を
四ヶ所から責めてそのどれも長州藩領に入ることも
出来なかったわけだからなぁ・・・
長期戦に持ち込んでも良かったんじゃないかな。
高杉は死んだ訳だし・・・
93 :
日本@名無史さん:02/03/23 00:21
大村がいるかぎりむりじゃない?
94 :
日本@名無史さん:02/03/23 00:26
>>92 四境戦争の天王山となった小倉口の幕軍総督・小笠原長行が
征長諸藩に無断で江戸に逃げ帰ってしまったからなあ。
95 :
日本@名無史さん:02/03/23 00:36
96 :
日本@名無史さん:02/03/23 00:47
あれは小笠原の汚点だよね。肥後藩だけがまじめに戦っていたんだが
呆れて兵をまとめて帰ってしまったし。
97 :
日本@名無史さん:02/03/23 13:16
一ッとせ、人のいやがる交易を、すました掃部(直弼)は首がなし、この心よさ
四ッとせ、よもや下へは行かれまい、浪花のあたりをうかうかと、このひきょうもの
八ッとせ、やたらに進発進発と、やがて神罰あたるぞよ、この末知らず
↑は第二次長州征伐の時に流行った数え歌だそうですが
上記以外の番の歌詞を知ってる人がおいででしたら教えてくださいなー。
98 :
日本@名無史さん:02/03/23 23:06
数え歌とは違うけど、
長州征伐、女の夜這い 行けばやられる、行きなんな
ってのもあるよ。
99 :
日本@名無史さん:02/03/23 23:44
>>96 後に官軍に寝返っているから、そうとう頭に来たのかな?
100 :
日本@名無史さん:02/03/24 00:00
100高杉ゲドー
101 :
日本@名無史さん:02/03/24 02:45
関が原の時に毛利は断絶しとけばよかったのに・・・
一応西軍の総帥でしょ?家康一生の不覚。
102 :
日本@名無史さん:02/03/24 11:10
幕府:幕府に逆らうと痛い目にあわせるぞゴルア!!(゜Д゜)
--------征伐軍派遣---------
諸藩:長州みたいにはなりたくないな (((((((( ;゚Д゚)))))))ガクガクブルブル
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・征伐シパーイ後
諸藩:征伐されると領土が増えるのか (゜Д゜) ウマー
103 :
日本@名無史さん:02/03/24 11:34
幕府「お前目つきが悪いな、少し教育してやろう、校舎裏にこいや!」
長州「勘弁してください」と言いながら金を上げる。
幕府「今回はこれで勘弁してやろう」
後日
幕府「まだ教育が行き届かなかったようだな、今度は財布ごと遣せや」
長州「今度は勘弁ならねえ、やれるもんならやってみろや!」
幕府「長州の癖に生意気な!表にでろ!」
喧嘩に幕府が負けた後、
長州はノックアウトした、幕府の財布を奪う。
幕府は気がついて、
幕府「ふん今回はこれで許してやろう」
スタタタタ。
104 :
日本@名無史さん:02/03/24 11:43
喧嘩売って負けた。
幕府って恥ずかしいな。
105 :
日本@名無史さん:02/03/24 14:43
しかし、徳川軍も280年振りの負け戦だね。
武田信玄に負けてからは負けて無かったわけだから・・・
106 :
日本@名無史さん:02/03/24 20:20
真田に負けてるじゃん。
107 :
日本@名無史さん:02/03/24 20:24
>>106 秀忠のことか?負けては無いね。遅参したけど。
>>107 それは第二次上田城攻めだね。
徳川軍本体といっても、その実態は2軍だったしね。
1軍の榊原さんも同伴してたけど、家康の言い付け通り上田城は無視して
城攻めには加わらなかったしね。
でも、その他総大将以下2軍勢がやる気満々で攻め立てたけど、
昌幸さんにかーるくあしらわれちゃったと。
ま、そんなこんなで関が原に遅参っと。
尤も、お城を無視しても、間に合ったかどうかは微妙だけど。
でもこりゃ徳川勢の負けだわな。上田城も落せず、決戦前に東軍先発隊との
合流も阻まれたんだから。
だって、「第二次上田城攻め」という合戦の目的を達成したのは昌幸さんだもんな。
109 :
日本@名無史さん:02/03/24 21:45
関ヶ原自体、秀秋が裏切らなかったら負け戦だしね。
110 :
日本@名無史さん:02/03/28 22:36
111 :
日本@名無史さん:02/03/28 22:40
唐突だが村田蔵六のおでこは広い。
>13
>幕末での薩摩との交戦で二度も惨敗してるのに
幕府軍(薩摩、会津連合軍)に負けたことはあるが
単独同士の戦いで薩摩に負けたことはないんだが。
兵力自体も相当な差があったね>112
>13
連合軍と薩摩(単独)軍とを一緒にしないように。
>113
単独同士の戦いで薩摩に負けたことはないのは事実。
116 :
日本@名無史さん:02/03/28 23:26
>113
それをいったら
第二次長州征伐時の幕府軍と長州軍との
兵力の差も
幕府軍>>>>>>>>>長州軍
必ずしも兵力の差で勝敗が決まるものではない。
118 :
日本@名無史さん:02/03/29 22:48
関が原 負け
四国艦隊戦 負け
禁門の変 負け
小倉城攻防戦 勝ち
浜田城攻防戦 勝ち
負け越し〜
119 :
日本@名無史さん:02/03/29 22:51
そうか、長州は禁門の変以来一度も負けてないんだ。
東北諸藩 戊辰戦争でぼろ負け。
幕府 鳥羽伏見でぼろ負け。
薩摩 西南戦争でぼろ負け。
長州には、学習能力があります。
それに比べ、薩摩、東北諸藩、幕府は、ただの能無しです。
長州の対戦相手〜強大な幕府連合軍、英米仏欄といった世界選抜→負け
幕府の対戦相手〜長州藩たった1藩→負け(プッ
122 :
日本@名無史さん:02/03/30 06:20
123 :
日本@名無史さん:02/03/30 07:43
長州の観念先行型行動決定は幕末からポツダム宣言受諾に至るまで
懲りることなく続いている。
124 :
日本@名無史さん:02/03/30 07:44
>124
その通り
126 :
日本@名無史さん:02/03/30 14:11
普通は圧倒的少数なのに野戦で戦おうとは思わないよな。
しかも海峡を渡って攻め込んでいるし・・・
天才と気違いは紙一重だわ
127 :
◆RikaGSMY :02/03/30 17:52
芸州口で竹中重固の率いる幕府歩兵隊はフランス式近代装備で善戦した。
さすがは竹中半兵衛の末裔だね。
128 :
日本@名無史さん:02/03/30 18:49
石潰しの旗本・譜代大名の筆頭とされる小笠原家について
小笠原氏・・弓馬および礼式の名家。
小笠原長時が武田信玄と戦い遂に破れ、
林城を追われた後、上杉謙信を頼り越後に逃れた。
長時の子貞慶は家康に仕え、松本の地をもらう。
大阪の役で貞慶の子秀政と孫の忠脩が戦死。
その忠功を認められて、秀政の次男忠政が宗家を継ぎ
播磨国明石で十万石を領した。
のち、肥後に移った細川にかわって豊前小倉十五万石に
転封され、小倉小笠原氏となった。
小笠原家は名門ではあるが実力には乏しい。
平たく言えば運だけで生き残った数々の能無し大名の一つ。
徳川に拾われ、大した功も無いのに15万石をもらったにもかかわらず、
幕末に長州討伐軍の指揮を放棄し、敵前逃亡をする失態は
あまりに情けない。
家康が(毛利)を関が原で残していたのも幕府滅亡の因子と言われるが、
(小笠原)に温情をかけたのも幕府滅亡の因子といえなくも無い
129 :
日本@名無史さん:02/03/31 03:22
第二次征長での幕府の笑い話として
副総督の本庄が長州人の捕虜を独断で
釈放したことがある。あれにはワラタ。
130 :
日本@名無史さん:02/04/06 12:05
大島口の連中はなんで逃げた後
また戻ってこなかったの?
131 :
日本@名無史さん:02/04/07 05:22
>>128 >幕末に長州討伐軍の指揮を放棄し、敵前逃亡をする失態は
>あまりに情けない。
ん? 老中小笠原長行は小倉藩主じゃないよ。
小倉の小笠原氏と混同しているな。
132 :
日本@名無史さん:02/04/07 05:32
俺も混同していた(w
唐津小笠原家の世子だね、長行は。
133 :
日本@名無史さん:02/04/07 05:36
>>128 つーか、どうして毛利や小笠原を丸括弧で括るの?
珍しい使い方だね。
135 :
日本@名無史さん:02/04/07 09:39
分家の一つ唐津藩小笠原の二代目は老中になって
必死にがんばっていたというのに
宗家の小倉藩小笠原の当主はまったく無名
何をやってたんだ?
秀忠が率いていた軍勢が2軍だと思ってる人がいるみたいね。
まあ、誤解してる人が殆どだから仕方ないんだけどね。
137 :
日本@名無史さん:02/04/08 22:43
第二次長州征伐の英雄は小倉に責め込んだ高杉かと思うが事実上の軍事責任者は村田蔵六
になってますよね。いったい高杉と大村は当時の長州ではどっちが偉かったのでしょうか。
138 :
日本@名無史さん:02/04/08 22:51
日韓併合は、長州と朝鮮は同一祖先の同民族だという共通認識があってはじめて可能だった。
長州人は異民族・東国人よりも同民族・朝鮮人に対しはるかに近親観を感じていたためこのような政策を展開したのだろう。
ちなみに、同じ植民地でも、中国・台湾人に対しては民族同化政策はとられていない。
139 :
日本@名無史さん:02/04/09 00:03
>>131 その通り、小笠原長行は小倉藩の人ではないよ。
長行が戦場を捨てて京都に逃げ帰った後も、取り残された小倉藩は
ゲリラ戦を続けていたので、同一視しては可哀想だ(w
140 :
日本@名無史さん:02/04/09 00:29
>>137 えーと、病に伏せりがちな高杉に代わって、実質的に小倉戦争の
総指揮を執っていたのは、前原一誠(佐世八十郎)だよ。
ドラマ等ではもちろん、高杉が大活躍しているけど。
病床から前原に指示は出していたけどね。
141 :
日本@名無史さん:02/04/09 00:38
長岡藩が参戦してたら互角以上に戦えただろう。
142 :
日本@名無史さん:02/04/09 02:07
>>141 ガトリング砲の威力を持って門司では長州軍を撃退する。
しかし、追撃しようと海峡を渡ろうとするが、
関門海峡の浪に揺られ二門のガトリング砲を落とす。
何とか本州にたどり着くものの待ち伏せにあい、結局撤退。
帰郷後、河井は「海峡に眠る三種の神器にガトリング砲を加えてきた」
と豪語したが、影で泣いていたという。
143 :
日本@名無史さん:02/04/09 02:15
老中
板倉阿波守勝静(備中松山藩主)
老中格
小笠原図書頭長行(肥前唐津藩世子)
144 :
日本@名無史さん:02/04/09 02:30
>>142 残念だが四境戦争の頃は、まだ長岡藩もガトリング砲を入手していないよ。
IFとしても苦しいかな。
145 :
日本@名無史さん:02/04/09 23:30
>>140 なんだぁ…… (´・ω・`)ショボーン
146 :
日本@名無史さん:02/04/10 03:36
147 :
日本@名無史さん:02/04/10 10:39
ということは高杉より大村のが偉なんですかね---!?
148 :
日本@名無史さん:02/04/10 23:15
乃木と児玉どっちが偉いかという事に似ているな。
149 :
日本@名無史さん:02/04/11 00:35
150 :
日本@名無史さん:02/04/11 00:40
小笠原ってヘタレだね。
151 :
日本@名無史さん:02/04/16 04:14
>>138 長州全体がチョンの末裔というのは、無理がねえか?
在日は必死なんだろうが、キバッテ糞もらすなや。(W
152 :
日本@名無史さん:02/04/16 05:09
またウヨのヒステリーだよ。
>>151 最近、その系統の話題は受け付けてないので安心してくれ。
154 :
日本@名無史さん:02/04/24 22:28
この戦の直接の敗因は
指揮官が逃げたからです
でも真の敗因は将軍が死んだからです。
お荷物将軍ワショーイワショーイ
155 :
日本@名無史さん:02/05/05 10:31
せめて芸州口を突破できていれば・・・
156 :
日本@名無史さん:
徴収征伐が成功していたら、アズマどもが騒ぐこと以上のことを幕軍のDQN
どもは行ったと思われ・・・