1 :
日本@名無史さん:
歴史に疎いんですけど、古田の九州王朝説に興味があります。
かなり、古田批判が有るんですけど、
九州王朝説自体のどこがおかしいのでしょうか?
東日流とかはちょっと賛成できないけど、
九州王朝説自体はどこが間違ってるんでしょうか?
東日流なんて信じてる奴の説だから、
古田の九州王朝説も間違っている!!
ってのは無しで、基本から教えて下さい。
また、詳しい資料を知っている人間には、間違いが明白!!
ってのも無しで、基本からよろしく。
2 :
日本@名無史さん:01/10/17 07:56
糞スレ乱立させるなよ。
これでまたひとつ名スレがdat落ちしたと思うと涙がでるぜ。
ちょっとでも勉強してからスレは立ててください。
4 :
日本@名無史さん:01/10/18 07:24
糞スレを立てて名スレを落とした1です。
えー、勉強したいと思います
で、どれから勉強をしたら宜しいのでしょうか?
まさか教科書?それぐらいは・・・
たのむから、ちょっとでも具体的なレスを下さい
5 :
日本@名無史さん :01/10/18 09:19
>1
九州王朝は実際にあったよ。
阿蘇と櫻島が何よりの証拠。
今から2万年前ぐらいに火星に移住したという説が今のところ有力視。
6 :
日本@名無史さん:01/10/18 19:31
8 :
日本@名無史さん:01/10/18 19:37
9 :
日本@名無史さん:01/10/18 19:43
「第5章 推古朝の謎」。ずいぶん時間たつけどまだかな。
はやく読みたいんだけど。
10 :
日本@名無史さん:01/10/18 19:58
11 :
日本@名無史さん:01/10/24 06:28
>6
資料群の批判を点でされてもなー?
12 :
日本@名無史さん:01/10/24 06:34
「点で」ってなーに?
九州王朝説を支持する資料群なんて存在しないんだけど。
13 :
日本@名無史さん:01/10/24 19:12
>>9 ども。
>>6で紹介していただいたHPの管理人です。
第5章の原稿は大昔に作ったのが「ワープロ専用機」の中に眠っているのですが、
探してDOSに変換するのがうざいのでそのままになってます。スイマセン。
>>11 線や面で批判すると、もっとヒドいことになると思いますよ(中国史書の外国記事
がいかに当てにならないかを思い知る、という意味で)。
>>13 「第5章 推古朝の謎」ですが、是非読みたいです。
でも、既存の解釈では納得できません。納得できないから九州王朝説なんです。
後、古田氏の天孫降臨や神武天皇実在の論証をどう思いますか?
15 :
日本@名無史さん:01/10/24 23:42
>>14 どうも、13です。論点の中心は古田氏の「推古紀の12年のずれ」問題に対する矛盾
点の指摘です。私も既存の解釈では納得できませんが、そのことに気づいてからは、
九州王朝説でも納得できなくなったんです。だからこの問題は私にとって「未解決」
のままです。
16 :
日本@名無史さん:01/10/24 23:49
> 後、古田氏の天孫降臨や神武天皇実在の論証をどう思いますか?
前言の続きです。いわゆる神話の信憑性ですが、一般に世界の古代史
に目を移すと、神話というのは、もちろん実話が元になっているものも
あるのですが、主人公が入れ替わったり複数の人間が一人にされたり、
逆に同一人が複数の人に分かれたり、違う時代の話が混ざったりしてい
るのが通例のようです。ですから、古田氏が神武説話に弥生時代の地勢
を知らなければ書けないはずの記述があったと主張しても、それは、そ
の時代を背景にした説話が使われたことの証拠にはなっても、神武なる
人物がその時代に存在して活躍したという証拠にはならない、というこ
とです。そんなに単純な話ではないわけです。古田論証によって否定さ
れるのは、「神武説話が8世紀の史官の全くの創作である」という津田
のような極端な立場だけでしょう。
17 :
日本@名無史さん:01/10/25 00:11
「弥生時代の地勢を知らなければ書けないはずの記述」ってのも眉唾
弥生時代はおろか6世紀ごろまで日下津には船が入れたと思われる。
大船の出入りこそ出来なくなったものの日下津周辺はずっと後世まで大池+湿地帯で残ってる。
奈良時代なら、ここまで船で入ってきていたという老人の昔話くらい聞けたろう。
>>17 そう、それも問題ですね。古田氏は弥生時代の海岸線の図は載せていますが、その
地勢がいつまで続いたかについては述べていません。慎重に議論するなら、その後の
古墳時代や7世紀あたりまでの地形の変遷についても詳しく調査するべきでしょうね。
19 :
日本@名無史さん:01/11/04 04:18
いわゆる後に九州年号と称された一連の年号の存在が、
中華主義から独立した日本の証である。
20 :
日本@名無史さん:01/11/04 04:24
私年号もたくさんあるね。
21 :
日本@名無史さん:01/11/09 03:17
九州王朝の男王が隋へ書を送ったわけですね。
22 :
日本@名無史さん:01/11/09 06:40
それも妄想。
23 :
日本@名無史さん:01/11/09 09:49
>>21 男王であることについては隋書の文面をそう解釈できるから、一定の根拠がある。
しかしそれが「九州」の王だ、という主張には文献上も考古学上も何の根拠も無い。
24 :
日本@名無史さん:01/11/12 05:52
>>23 しかし近畿では女帝であったわけなので、
少なくとも近畿以外であることは確実。
25 :
日本@名無史さん:01/11/12 06:41
男王と解釈できるというだけで確実に男王ってわけではないので
それも妄想。
26 :
日本@名無史さん:01/11/12 11:05
24氏の論には3つの難点がある。
その一つは既に25氏が指摘しているとおり。ただ「比孤」又は「北孤」は男の名
前ではあるから、解釈といってもかなり蓋然性の強い解釈といってよい。
他の難点の1つめは「隋書の記述は正しい」と考えてよいかどうかだ。もっと後
の中国正史で、日本国の時の王の名は「スメラミコト」という、という誤解記事も
あるくらいだから、「タリシホコ」という男王が、その時点の王の個人名だったと
「書いてはある」が「本当かどうか」はわからん、とするべきであろう。
またもう一つの難点は、日本書紀の記事が正しいかどうか、ということ。王統の
改竄はいつの時代でも日常茶飯事であるし、当時は仏教の伝来が古来の価値観と衝
突した時代でもあり、「本当に当時の倭王が推古であったか」というのは大いに疑
いが残る。だから、この3番目の難点は「苦しい言い訳」ではなくて、マジで検証
すべき問題なのだ。
27 :
日本@名無史さん:01/11/12 21:59
>もっと後の中国正史で、日本国の時の王の名は「スメラミコト」という、という誤解記事も
あるくらいだから、「タリシホコ」という男王が、その時点の王の個人名だったと
「書いてはある」が「本当かどうか」はわからん、とするべきであろう。
「隋書倭国伝」の地名に都斯麻国(つしま)、竹斯国(ちくし)とかでてきますけど、
都斯麻国(つしま)は正確。竹斯国(ちくし)は九州における現地音を正確に表音表記しています。
裴世清は阿毎多利思北孤に接見していますから王名しかり、男か女かとか「隋書倭国伝」
においてはそれほど大きな間違いはないように思うのですが。どうですか?
28 :
日本@名無史さん:01/11/12 22:10
>27
それは音が割と正確に表記されているということを証明する
ものではあっても、その名称の持つ社会的な意味を正確に
理解できて記述したことを証明するものではないと思います。
29 :
日本@名無史さん:01/11/13 10:31
>>27 隋書でも大礼の「カタヒ」とか小徳の「阿輩臺」みたいに実際に中国の使者が
会っていながら不明な人名(これは記紀に出てこないというだけでなく、日本語と
しても少しおかしい)があるし、軍尼とか伊尼翼とか今でも何のことか判明できて
ない官職名がある。だから固有名詞ですら正確に把握できてるという主張は疑わ
しいと思う。
30 :
日本@名無史さん:01/11/13 12:43
過去スレ(?)で誰か言っていたことだけど「天たりし彦」て普通名詞のような。
31 :
元古田ファン……:01/11/13 15:25
すんばらしい↓
tp://village.infoweb.ne.jp/~fwiz0276/kyusyu.htm
32 :
日本@名無史さん:01/11/13 15:37
九州王朝が大和朝廷に服従するようになったのはいつ?
九州vs大和の戦争といえば、磐井の乱の後は
奈良時代の藤原広継の乱ぐらいしかない。
筑紫に独立した王朝があったとしても、
遅くとも磐井の乱をもって独立を失ったと考えざるを得ないのでは。
34 :
日本@名無史さん:01/11/17 21:57
>>33 それだと、隋書と記紀の記述に矛盾するので、
磐井の乱をもって独立というのはおかしい。
35 :
日本@名無史さん:01/11/22 22:02
やはり聖徳太子の時代には九州は別王朝だったのでは?
36 :
日本@名無史さん:01/11/29 14:10
>>35 それを、日本史学的には便宜上、九州王朝とよんでいます。
37 :
日本@名無史さん:01/11/29 19:57
日本史学的に九州王朝というものはありません。
古田私学的にはあります。
38 :
日本@名無史さん:01/12/03 18:44
九州王朝という名称がよくないとすれば倭国と呼びましょうか。
39 :
日本@名無史さん:01/12/03 18:47
よくないから倭国と呼べば
40 :
日本@名無史さん:01/12/03 18:48
62 :無責任な名無しさん :01/11/18 00:49 ID:doqdaWjA
掲示板の運営者のすることは管理することなんだから、全部に
目を通せないなら運営すべきじゃない。また削除依頼を公開する
必要もないしなかなか削除しない理由もない。
つまり確信犯で不法行為に荷担しようとしてるとしか思えない。
金儲けはする気はないといっていたが、だったらやっぱり
彼は子供というか、人が困るのが好きなのかもしれない。
63 :無責任な名無しさん :01/11/18 07:00 ID:VZdC2q47
>人が困るのが好きなのかもしれない
俺にもそういう人間にしか見えないよ
違法性の程度は違うが
放火犯のような愉快犯と同じような
気味悪さを感じる
64 :無責任な名無しさん :01/11/18 12:59 ID:OxVkCF27
>>62,63
同意。
知人の警官もひろゆきを気味悪い程の女性気質と評していた。
ガキの頃のひろゆきを想うと、面と向かって喧嘩は出来ないが、上履きを隠したり
して喜んでたタイプだと思う。
どうでもいいけど、ひろゆきの笑った黒目がちな焦点のない目が守大介と似てるの
が妙に気になる。
41 :
日本@名無史さん:01/12/03 19:17
42 :
日本@名無史さん:01/12/09 00:44
>>38-39 とすると、倭国でも九州王朝でも呼び名はいいけど、
大和政権と並列の時代はあったのですね。
ないよ
44 :
日本@名無史さん:01/12/13 00:58
仮に大和政権と並列の時代がなかったとしよう
すると年号が同時に二系統あったということになるのか??
45 :
日本@名無史さん:01/12/13 01:16
どちらにしろ、越の大王に滅ぼされたわけだ。
47 :
日本@名無史さん:01/12/13 03:45
ないもんは滅ぼせないっす。
48 :
日本@名無史さん:01/12/13 09:37
>>41 文献上は何とでも言えるよね。でも物証から見たら九州に近畿と独立した政権
があったという証拠はない。逆に、九州は5世紀にも7世紀にも近畿勢力に従属
していた、という根拠ならいくらでもある。
49 :
日本@名無史さん:01/12/16 02:30
>>48 でもそれはあくまでも記紀をまるっきり信じた場合のみ?
50 :
日本@名無史さん:01/12/16 19:06
推古朝の記紀をまるっきり信じてるから九州王朝説なんでしょ?
51 :
日本@名無史さん:01/12/16 23:39
記紀と中国側文献との矛盾を埋める仮説が「九州王朝説」なのでは?
畿内説論者で「九州王朝説」以上に整合性が見出せる著書(仮説)あれば是非
教えて。
ただし、中国側文献を無視、あるいは軽視するものは不可。
何故なら卑弥呼や倭の五王、そして阿毎多利思北孤の名前は、記紀にも考古資
料(日本側)にも一切出現しないのだから。
52 :
日本@名無史さん:01/12/16 23:51
古田信者うぜえ
53 :
日本@名無史さん:01/12/17 09:47
>>49 > でもそれはあくまでも記紀をまるっきり信じた場合のみ?
違います。記紀も中国史書も信じず、純粋に考古史料のみから言える事実です。
例えば前方後円墳時代の全盛期に鉄が輸入されていますが、そのほとんど全てが
畿内に集中していますし、そもそも前方後円墳体制自体が畿内と吉備から全国に
伝播している、といった状況があります。これは文献とは関係ない「考古事実」
です。
>>51 > 記紀と中国側文献との矛盾を埋める仮説が「九州王朝説」なのでは?
古田氏の本を読むとそのように見えますよね。でも「九州王朝説」自体が中国史書
との間に新たな矛盾を生じます。古田氏は九州王朝説と矛盾する中国史書や記紀の史
料を伏せている(あるいは気づいていない)だけです。
これらの史料の存在を知っているプロは騙されませんが、知識の不足する素人は、
ついつい本当かなと思ってしまうのです。
54 :
日本@名無史さん:01/12/17 09:49
> ただし、中国側文献を無視、あるいは軽視するものは不可。
そういう九州王朝説支持者は、中国文献である『通典』の「倭一名日本」を無視
しないようにね。
55 :
日本@名無史さん:01/12/17 09:53
>>51 > 畿内説論者で「九州王朝説」以上に整合性が見出せる著書(仮説)あれば是非
教えて。
古田説信者の方に間違って欲しくないのは、いわゆる5世紀以降についての「畿
内説」は文献と整合性がないことは古田説批判者も知っているのです。
ではなぜ古田説に批判的なのかというと、古田説「も」文献と整合性がないから
です。古田氏は、自説も文献と矛盾していることを隠しているので、直接文献を見
たことのない人は気づかないだけです。
何度も言います。文献と整合性のある説や著書は、現在のところ(古田説も含め
て)一つも存在しません。
私は、古田信者ではありません。特に『隋書』の解読は『魏志倭人伝』の
記述に拘りすぎていると考えています。内外の文献に各種の矛盾があることも
理解しています。では、なぜ矛盾しているのか、どんな仮説がそれを合理的に
説明できるのかと渉猟した結果、「九州王朝説」にたどり着いたのです。
もちろん、古田説が最終到達地点などとは考えていません。畿内説の方も
それは同じでしょう。しかし、往々にしてこのような論争は、他説批判に終始
する傾向があります。両陣営が互いに認め合う一点すら見出せません。
ですから、焦点を絞って論争していただきたいのです。たとえば里程論。
古田説は、里程論をくずせば、その基盤を失うのです。多分畿内説の方は、
川村氏の論文を以ってこれに充てるのでしょうが、最終目的地が「不弥国」
では納得できません。単利説と併せて論破してみてください。
57 :
日本@名無史さん:01/12/17 13:34
>>56 > たとえば里程論。古田説は、里程論をくずせば、その基盤を失うのです。
この「里程論」ってどの文献の里程のこと?「不弥国」と言ってるから
魏志倭人伝のことかな?でもそれじゃ「九州王朝説」とは関係ないよね。
もう少し丁寧に説明してくれない?
>>57 言葉足らずですみません。もちろん『魏志倭人伝』のことです。古田氏は、
『魏志倭人伝』の解読により、卑弥呼の都は北部九州であり、西暦700年ごろ
までは、北部九州に連続した王朝が続いたとしています。そして、『魏志倭人伝
』解読の要諦が「里程論」なのです。つまり、総里程の万二千余里は部分里程の
総和であるという命題を、畿内説論者はどう解釈するのかお聞きしたいのです。
最終目的地が「不弥国」というのは、川村明氏の論文「『漢書』西域伝と魏志
倭人伝」を読むと、魏使の行き着いた国は「不弥国」になるのでは、という意味
です。
58番さん、はじめまして。57番さんに教えられてやってきました。
私の論文を読んでいただいて光栄です。ただ、ちょっと誤解があるようですので
補足説明させていただきます。
私の同論文の趣旨は、古田氏のいわゆる「主線傍線」読みは漢書に根拠を持つ、
というものです。で、これによれば不彌國から投馬國までが水行二十日、不彌國か
ら邪馬壹國までが水行十日、陸行一月だ、ということになりますが、邪馬壹國は女
王之所都とありますから、当然邪馬壹國は目的地であると思います。つまり、これ
は「傍線行程」の一つではありますが、傍線行程の一つに目的地がある、という理
解でよいと思います。
なお、邪馬壹國の位置ですが、もし魏志倭人伝の記述が正しいと仮定するなら、
九州北部〜中北部にかけてのどこかにあった不彌國の南に水行十日、陸行一月の所
に邪馬壹國があったことになりますよね。しかしこの日数表示が実測でどのくらい
になるのかわかりませんから、九州南部かもしれないし、沖縄かもしれない(笑)。
ただしこれは文献の分析だけの話であって、考古学という物証面からの考察も必
要です。それには鏡の問題も詰めなければなりませんが、古田氏のような北部九州
の前漢鏡出土遺跡を邪馬壹國とするのはいただけません。前漢鏡出土遺跡と後漢鏡
出土遺跡ははっきり分かれており、前者を卑弥呼の時代に当てることは、鏡の問題
だけでなく、土器編年や銅剣などの編年から考えても全く無理です。では後漢鏡の
遺跡ならOKかというと、これも後漢鏡の編年によると、日本で大量に出土する後漢
鏡の最新のものは卑弥呼の時代にとどかない、というのが実情です。ただし倣古鏡
の問題もあるし、また卑弥呼の鏡の候補はTLV鏡、内行花紋鏡といった後漢鏡以
外にも、画紋帯神獣鏡などもあり、どれが卑弥呼の鏡かの特定はできていません。
これらの鏡の日本列島出土地は、九州中北部だけでなく、畿内にも集中しており、
九州か近畿かの決め手にはなっていないというのが現状です。
長文失礼しました。
川村さん、はじめまして。直接ご本人に書き込みいただけるとは思いません
でした。川村さんの論文は、古田説を検証するのに好個の指標であり、私を古
田説の呪縛から解放してくれました。心よりお礼申し上げます。
さて、「邪馬壹国は目的地ではあるが傍線行程」とのこと。これは「魏使は
邪馬壹国には行ったが、陳寿はそれを傍線行程で記した。」と理解してよろし
いのでしょうか。しかし、これでは結局、主線行程の終着点・不弥国までに要
した距離に、(傍線行程で記されてはいるが)不弥国ー邪馬壹国間の移動距離
を加えたものが「万二千余里」ということになり、「連続式」の解読方法から
「奴国」と「投馬国」を傍線行程に落としただけということになりませんか。
私の理解不足なのかもしれませんが、どうにも合点が行きません。今一度ご教
示ください。
もちろん、物証面での考察も重要でしょう。しかし、考古資料の素性を判定
するには、文献による検証が不可欠なのではないでしょうか。『倭人伝』中に
書かれた鏡や卑弥呼の都を探すのに、『倭人伝』による検証を経ずして求め得
るとは思えないのです。しかし現在の状況は、『倭人伝』自体の素性が不明確
なのだと、私には思えるのです。
正直に言えば、鏡や土器の編年に対しては、勉強不足でお相手できないと考
えています。特に土器の編年に関しては、解りやすいテキストか詳しいホーム
ページのアドレスでも教えて頂けないかとさえ思っております。よろしくお願
いします。
61 :
日本@名無史さん:01/12/23 04:13
俗に九州年号と呼ばれているものは、どうして否定されがちなのでしょうか?
62 :
日本@名無史さん:01/12/23 09:16
そんなもの無いからだよ。
63 :
日本@名無史さん:01/12/28 02:51
白村江の戦いで滅ぼされたところで年号おわってます
創作すんなよ
65 :
日本@名無史さん:01/12/28 09:12
> 白村江の戦いで滅ぼされた
そんなことを書いてある資料はありますか?古田氏がそう言ってるだけでしょう?
もう少し補足しましょう。白村江の戦いで百済と高句麗が滅びたこと
は、『旧唐書』にはっきり明記されています。しかし倭が滅んだなど
とは『旧唐書』にも他の史書にも一切書かれていません。それどころ
か『旧唐書』に半世紀遅れて成立した『唐会要』には、『旧唐書』と
同じく倭と日本が別立てで書かれていますが、倭国も日本も白村江ど
ころか奈良時代を通り越して平安時代まで存続したように書かれてい
ます(中国への朝貢記事)。これが史料事実です。
67 :
日本@名無史さん:01/12/28 09:35
九州王朝(倭国)は平安時代まで続いてたんだ‥
68 :
日本@名無史さん:01/12/28 09:38
見え透いたUSOをつくのは止めましょうね(WWW
69 :
日本@名無史さん:01/12/28 09:39
大和に調を貢ぎながらかい?
>67
だから遠の朝廷と言われたんだ...
72 :
日本@名無史さん:01/12/28 18:30
天武天皇の「朝臣」は九州王朝での称号
懐良親王政権(年号:洪武?)
74 :
元古田ファン:01/12/28 20:55
「九州王朝」なんて言うと、本当に人格すら疑われる。
ツガルで目覚めて調べ直し、九州王朝の虚構性に唖然ととした。
信じていた自分への嫌悪と反動で、引き裂かれそうになった。
古田説の神話解釈にはみるべまものがあると思う。
しかし九州王朝と東日流云々は、
遺跡捏造をはるかに上回る犯罪だと思う。
7世紀まで続いていた、といのはデマ
どう考えても、倭国は5世紀初頭に一度大きな統合を経験している
それ以降、若干各地域の独立性は高くなったかもしれないが
それも、イワイの乱で終わった
隋書倭国伝は、どう考えても畿内王朝の記録
77 :
日本@名無史さん:01/12/28 21:16
その神話解釈も捏造なんだよ。
78 :
日本@名無史さん:01/12/28 21:28
>>76 どう考えてもってのは言い過ぎだろ。
畿内に阿蘇山があるか?
堆古天皇は妻を持つ男だったのか?
79 :
日本@名無史さん:01/12/28 21:39
阿蘇山が都の近くにあると書いてあるか?
倭国王に妻がいると書いてあるか?
80 :
日本@名無史さん:02/01/04 12:10
81 :
日本@名無史さん:02/01/07 11:15
推古時代の文献にいろいろ謎があるのは事実。
確かに隋書には記紀に見られない官職名や人名が出てくるし、王の名として男王の
名らしきものしか書かれてないし、夜政治をして昼はおてんと様に任せようなどと
いう政治形態が書かれていたり。
だけど、これを九州王朝説を導入して解決できたと思うのは早とちりもいいとこ。
そんなことをすれば別の矛盾が生じる。これはそんなコロンブスの卵みたいに簡単
に解決できるような謎ではないのだ。
82 :
日本@名無史さん: