まず始めに、私は史学は詳しくありません。質問なのですが、古代
日本において、西洋などに見られるような「盾」はなぜ普及しなか
ったのでしょうか?剣や槍などは、多少の違いがあるも、どの地方
にも見られていますが、「盾」は地方によって違うと聞きました。
詳しく教えてくれたら感謝します。
邪魔だったんじゃない?
日本でも今から2000年前の弥生遺跡から見つかってるから西洋と劣らず昔から存在してたんだけどね。
矢を防ぐ木の盾は陣地に置いてあるけれど、侍が
腕にはめて持つ盾はないね。
日本刀は片手では扱えなかったのかな?
攻撃は最大の防御也。日本人の発狂気質によるのかもね。
5 :
キリスト教徒など:01/10/16 22:38
体格の上で、やはり日本人はそれほど恵まれていないので、
武器を上手に扱うには両手で持たざるを得なかったとか・・・・・。
6 :
日本@名無史さん:01/10/16 22:41
大規模の戦闘がなく、一過性の局地戦が多いと
防御の思想は育ちにくい。
自分の犠牲を減らすより
とにかく相手を打ち負かす。
ボクシングと喧嘩のようなもんかな。
7 :
日本@名無史さん:01/10/16 22:50
命を惜しむ弱虫扱いを受けるのが嫌とか?
ところで、重鎧と盾で身を固めての戦いが主流だった
地方の武人って可児才蔵みたいな「〜人斬りの猛者」
みたいな人っていたのかな?
8 :
日本@名無史さん:01/10/16 22:51
>1>3
楯自体は古代からあったはず。
ただ、「弓馬の道」というように、戦闘の基本が騎射で両手を使う必要が
あったため、武士が使う楯は鎧に吸収される形で消えたとか。
大鎧に大きな袖がついているのも、楯を組み込んだものだ、という話らし
い。
9 :
日本@名無史さん:01/10/16 23:09
大鎧には可動性の大袖ってのが付いてるね。あれは一種の楯なのよ。
10 :
Be名無しさん:01/10/16 23:56
こんなサイトがありました。
侍が盾を使わないのは
http://member.nifty.ne.jp/bintaro/touken/zadankai21.htm 上記のサイトで挙げられていた理由の他に、日本の武術は半身で構えるということもあるんじゃないでしょうか
ヨーロッパのように正面を向いて立ち会うと、剣を持たない左半身を防護する必要が出てくると思います。
またヨーロッパでは、アーサー王の時代から馬上試合(トーナメント)が盛んです。
ルールでは、槍をお互いの楯に突き当てて相手を落馬させた方が勝ち、というこになっているようですが、
楯がメジャーな武器だったのは、このあたりにも理由があるかもしれません。
11 :
日本@名無史さん:01/10/17 01:31
集団戦の体系化というか高度化が進まなかったため、
盾による防御を基本とした密集陣形が普及せず、
>>8の理由と相まって、手持ちの盾が日本では発達しなかったのでは?
12 :
日本@名無史さん:01/10/17 01:53
このスレ面白いね。 前から俺も疑問に思ってたことだ。
>11
これに関することとして、地形が山がちだ、てのがないかな。
平地での大会戦みたいのがし難いから、敵の手薄を狙っての
夜討ち朝駆け、待ち伏せ、みたいな小部隊での襲撃の戦術を
多用した、とか。帝国陸軍も似たような発想しているかも。
13 :
日本@名無史さん:01/10/17 02:16
古代だと、「隼人の盾」なんかが有名。
装飾古墳にも盾っていっぱい描かれていますよね。
古来から射撃戦がメインだったからだよ。
15 :
日本@名無史さん:01/10/17 20:21
Up
16 :
日本@名無史さん:01/10/17 20:35
敵の斬撃を受け流せるような形の盾を作れなかったから?
西洋の盾は、曲面の盾が多いよね
17 :
日本@名無史さん:01/10/18 00:48
片手で盾を構えるのはそれほど難しくないれすが、片手で太刀や槍を扱うのは
一般的な日本人の体格では不可能なのれす。
18 :
名無しさん脚:01/10/18 01:08
14のいうとおり、古来から射撃戦がメインで置き盾が発達していたから。
19 :
Be名無しさん:01/10/18 01:20
>>17 体格は関係ないと思うんですけど
道具は使う人にあわせて作るもの
人間より先に武器があったわけではありません。
銃のように機能上ある程度制約のあるものならまだしも、武器は短くしたり
金属部を減らしたり、軽く作る方法はいくつもあります。
古流柔術で免許皆伝の証に鉄扇を渡されると聞いたけど、あれが盾の代わりでは?
・・・まあ、合戦では使えないけど。
21 :
日本@名無史さん:01/10/18 12:09
射撃戦がメインじゃないでしょ
ある程度離れた所から打ち合ったとしても、結局は接近しての戦闘になるんだし
西洋のは古代ローマの時代からの伝統的な剣闘士のスタイルから来てるのでは?
22 :
日本@名無史さん:01/10/18 14:01
「日本における青銅器時代が極端に短かったから」という説あり。
いわく、青銅製の剣なら片手剣で敵の弱点を狙って突くのが有利だが、鉄で両手剣を作れば木の盾や革の鎧は押しつぶせるので、自然両手剣の闘法に発展した云々。
23 :
名無しさん脚:01/10/18 19:37
>ある程度離れた所から打ち合ったとしても、結局は接近しての戦闘になるんだし
出土品とかから見ると、弓矢・矛とかが中心ぞな。もちろん近接戦闘用に剣も装備していたろうが。
弓矢部隊が打ち合い→矛で乱戦→剣でとどめだとオモウヨ。
>22
古墳時代の戦闘でも、剣は主戦兵器じゃないと思うよ。
24 :
名無しさん脚:01/10/18 19:56
25 :
日本@名無史さん:01/10/18 23:37
>>24 >って、よく考えると、でかい置き盾に身を隠して弓をうったり
>槍でついたりしたほうが安全かつ攻撃力たかいじゃん。
それを言ってしまうと、なんで西洋や中国には手持ち盾があるのかという疑問が出てくるが?
26 :
日本@名無史さん:01/10/18 23:46
>25
安全ならいいってもんじゃないだろ。籠城戦ばかりじゃないんだから。
迅速な移動、果敢な追撃をしなければならない局面もあるし・・
27 :
日本@名無史さん:01/10/18 23:47
平原国家群の場合:
敵に側背をつかれる場合があるので置き盾は使えない&都市を守るのに城壁が必要
山岳国家群の場合:
置き盾で防御しても横から撃たれたりしない&要地に関所でも置いておけば都市は安泰
ということなのでは?
>>24 >>25
28 :
日本@名無史さん:01/10/18 23:57
>>21 白兵戦までもつれ込む事の方が少ないのが日本。
なぜか?
戦で死んだら嫌じゃん(笑)
だから弓矢(後に鉄砲)で撃ち合って適当な所で逃げてお終い。
負傷して逃げられなかったりすると首を取られるYO!
29 :
日本@名無史さん:01/10/19 00:13
>>25-26 西洋で中世に楯が発達したのは
当時のいくさにおいて相手の楯を狙って攻撃することで
凄惨な殺し合いになることを避けようとした、という説がある。
ヨーロッパでは戦争は貴族の最高のスポーツ・遊びだった。
領土や金を賭けて、命は賭けなかったのだ。
中国の場合は・・・良く分からないのだが
持ち楯が使われたのは紀元前かな?
強い甲冑を一人一人に配備するより
裸同然のヨロイと楯を渡した方がコスト・パフォーマンスが
良かったんじゃないかな?
これはローマと一緒でしょう。
安全性で言えば丈夫な甲冑を着るに越したことはない。
30 :
日本@名無史さん:01/10/19 00:52
うーむ、名スレの予感。
27に一票。
31 :
日本@名無史さん:01/10/19 10:55
>>19 >道具は使う人にあわせて作るもの
確かに道具ならね。
武器であるからには一撃必殺の殺傷力を発揮するには最低限の長さと重さ
ってものがある。
32 :
日本@名無史さん:01/10/19 11:15
それと強度モナー
すぐ壊れたら意味ないじゃん
33 :
日本@名無史さん:01/10/19 13:12
金属資源が少ない国だからじゃないのかな?
古代に限らず、その後の歴史を見ていくと武器で防御する闘い方になっていっているのがわかる。
時代が下って、日本の戦国時代くらいの年代になると、
西洋刀が「突く」「ぶった切る」という「盾を必要とする形態」になってるのに対して
日本刀は「斬る」「受ける」という「盾のいらない形態」に発展してる。
この時代も盾は木製の「置き盾」を使用している。
盾文化が根付かなかったのは、少ない金属資源を武器の方に回していったからじゃないかな?
木製の盾じゃ飛び道具の攻撃は防げても斬り合いには弱いからな。
日本は中世当時、世界有数の鉄産出国だったが?
35 :
日本@名無史さん:01/10/19 15:31
盾は防御力、機動力、攻撃力のトレードオフがあるので、
盾の有無、種類の選択は敵味方の戦法の選択や戦場の地形によって決まります。
で、古代日本では剣&矛から刀&槍への移行にしたがって手持ち盾が
選択される事がほとんど無くなった、というのが私の考えです。
ところで似たような疑問として、なぜ日本では弩が普及しなかったか
というのがいくら考えてもわかりません。わざわざ新スレをたてるのも
なんなので、ここで盾論議と平行してもいいでしょか?
蒙古は盾使いまくりのようで。
37 :
日本@名無史さん:01/10/19 16:10
38 :
日本@名無史さん:01/10/19 16:30
集団戦だろうが1対1だろうが、剣対剣の戦いで盾が必要とは思えん。
むしろ邪魔。
剣道やれば実感できると思う。
39 :
日本@名無史さん:01/10/19 16:32
既出でスマンが、
鎧が楯の役割を兼ねていたぞ。
戦国末期の関ケ原の戦いで、家康や、その周りの親衛隊が身に付けていた
鎧は、火縄銃の弾丸も跳ね返したと聞く。
>>35 大小の弓矢を、状況に応じてセレクトした方が、射程距離が伸び、実用的でもあり、
携帯性も良かったからでは、ないのか?更には、生産コストも安く済む。
楯といい、弓といい、日本の古来からの軍隊は、”なるべく軍隊コストが安く済み、機動性に富む”と言う
事に、力点を置いていたような気がする。
これも既出だが、地形や、風土とも多いに関係がありそうだ。
以上の事は、現代の”日本人の物作り”にも通じる考えのような気がするが。
40 :
日本@名無史さん:01/10/19 16:59
>>39 >鎧は、火縄銃の弾丸も跳ね返したと聞く。
そのかわり重くて走れない。
家康の親衛隊は戦闘要員ではなく動く盾。
普通の兵士はそんな非常識な鎧は身に付けない。
41 :
日本@名無史さん:01/10/19 17:00
ドラクエやると盾の有り難味がよく分かるよね。
42 :
日本@名無史さん:01/10/19 17:11
日本における弓の歴史は、待ち伏せを主体とした狩猟方法と
密接な関係があります
そのために一撃で獲物を仕留めることができる長い弓を用いる
ようになったらしいです
日本の弓が走る馬の上から撃つのには向いていないのは、
そこに原因があるのでしょう
43 :
日本@名無史さん:01/10/19 17:13
>>34 中世当時でしょ?<鉄産出国
>>33の「金属資源が少ない」を「金属を精製する技術力がなかった」
って読み替えれば
>>33の説もわかるような気もしないでもない。
でも
>>39が
>>35にレスしている部分の説がもっともかな??
>>38 >剣対剣の戦いで盾が必要とは思えん。
の部分は、古代に盾が普及しなかった結果じゃないのかな?
日本人の剣の使い方や日本の剣の形状が盾を用いない方向に進化したからじゃないかな?
日本の「斬る」じゃなく西洋の「突く」ならば盾は有効な訳だし。
流鏑馬というものもあるが、あれは儀礼的な意味合いが強いもの
なので、実戦ではどうだったのでしょうか
弓を引いている間にやられてしまいそうですね
>>38 剣道は両手持ちが基本の日本刀を前提とした剣法。
盾と同時に用いる片手剣(刀)の剣法は一撃必殺系の剣道とは大きく異なる。
例えば中国拳法の剣法なんかは体を激しく動かしながら青龍刀を
ひゅんひゅん振り廻すでしょ?
>>39 射程距離は弩と弓ではどうあがいても比較にならないですよね。
弩は木の置盾なんて数枚まとめて貫通するくらいの威力があります。
紀元前からある武器だから仕組みも単純だし、そう大したコストじゃない。
少なくとも、鉄砲が入ってきた時にあんな高価で高技術の兵器が
注目されたのだからそれ以前に弩が注目されないのは不思議です。
特に拠点防衛には凄まじく効果があると思うのですが。
10世紀までは、日本でも弩が使用されていました。
太宰府には弩を管理するための職人が常駐しておりました。
47 :
日本@名無史さん:01/10/19 17:36
>>45 古代にも弩はやっぱりなかったのでしょうかね??
時代が下ると儀礼を重んじる闘い方になってきたから
弩は卑怯って意識になった(もしくは技術的に忘れられた)のではないでしょうか?
蒙古襲来の時に日本の武士は名乗りを上げてる間に襲ってこられて
ボロボロになった位、儀礼を重んじるのが一般的って意識になっていた訳だし。
古代史詳しくないから間違ってたらごめんな。
あ、大宰府ですね。この場合。
>蒙古襲来の時に日本の武士は名乗りを上げてる間に襲ってこられて
>>46 なるほど、10世紀と言うと将門や純友の乱が発生、鎮圧されて
藤原氏の興隆が始まるころですから、比較的平和な時代で
>>47の
儀礼化を受けて一時的に廃れた可能性は考えられますね。
こうなるとなぜ室町末期からの戦乱の時代から鉄砲が伝わるまでの間に
弩が再注目されなかったのかが疑問になってきますね。
手持ちの盾もまだ剣が使われていたような時代には使われていたはずですよね。
手持ちの盾がいつ頃から姿を消したかは分かっているのでしょうか?
刀の発達と時期を照らし合わせれば意外に呆気無く疑問解決しそうな。
>>46 そうなんだよな。本で読んだ事あるよ。何故、戦国期に普及しなかったのかと考えれば、
弩に比べて、弓のほうが命中精度が高かったんじゃないか?
幾ら破壊力のある飛び道具も、当たらなければ、ただのゴミだし。
>>45 >特に拠点防衛には凄まじく効果があると思うのですが。
そうだよなあ、野戦では余り効果なくても、集中運用すれば、
効果は大きいと思うな。
誰か、いないか?弓道関係者は。
53 :
日本@名無史さん:01/10/19 18:37
盾なんて持って箱根や倶利伽藍峠で戦いたくはないね。
54 :
日本@名無史さん:01/10/19 20:07
>なぜ日本で弩が普及しなかったか?
おそらく馬車が普及しなかった事と無関係ではないでしょう。
人力だと戦場まで持っていくの不便だし。
55 :
名無しさん脚:01/10/19 21:02
弓の方が速射性が上だからと思うよ。
100年戦争の時はイギリスのロングボウ部隊がフランスのクロスボウ部隊に圧勝したし。
56 :
日本@名無史さん:01/10/19 21:33
>>54 スレ読んでいて、「弩」についてのイメージが曖昧だな。
人間が運べるサイズの、ボーガンみたいので良いのか?
それとも、攻城戦のでかい奴か?
57 :
日本@名無史さん:01/10/19 21:38
>>11の言ってることが一番近いと思う。
ローマみたいな密集陣だと隊列を組んだ部隊同士の戦闘は
●●●●●●槍 槍●●●●●●
●●●●●●槍 槍●●●●●●
●●●●●●槍 槍●●●●●●
●●●●●●槍 槍●●●●●●
●●●●●●槍 槍●●●●●●
こんな感じの隊列で前列のやつは逃げられない
だから盾が必要だった。
みんな言ってるように日本は平坦な土地が少ないから戦線が一定してないし。
俺、弓道やってたけど矢を放つまでの動作に時間がかかるし
射程も意外と短い両手が長いこと塞がってしまうから 弩の方がいいと思うけどなぁ。
あ、弩はセットしてから放つのは速いし、ずっと威力はあるけど
二射目をセットするのに弓より時間がかかるな。
うーん、やっぱーり、
”なるべく軍隊コストが安く済み、機動性に富む”
から外れるゆえに普及せずといったトコロか。
58 :
日本@名無史さん:01/10/19 21:51
>>54 おお、たしかに馬車って見た記憶ないなぁ。
なんでだろ?
59 :
日本@名無史さん:01/10/19 21:51
弩か・・・。
ただ単にオーバーテクだったから廃れたんだと思うが。
だいたい日本には「てこの原理」を応用した道具がほとんどない。
投石器もポンプもはさみも。
日本史の教師が戦においては弓矢が基本で刀で斬り合うのはずっとあと
というか、江戸の武士道から来たものだといってたよ
ポンプはてこじゃねぇな。スマソ。
62 :
名無しさん脚:01/10/19 22:09
>弓道やってたけど矢を放つまでの動作に時間がかかるし
弓道の弓と重藤弓は殺傷力・射程とも異なると思われ。
そもそも騎乗で動く的を射るから、弓道みたいに時間をかけて狙いをつけるのは困難でないかい。
63 :
日本@名無史さん:01/10/19 22:10
龍吐水はポンプだろ。
64 :
ttttttttttttttttttt:01/10/19 22:14
jjjjjjjjjjjjjjjjjjjj南ブロック会員名簿
... 光洋ハウジング, 川畑富男, 大津市大萱1−20−15, 543−3457. 佐和興産(株), 澤 英明, 大津市大江4−14−31, 543−2336. ...
http://www.takken-shiga.gr.jp/minamimeibo.htm 北西支部
... 有)光洋ハウジング, 森沢 袈裟美, 高知市福井町732−9, 088-824-8433, 088-824-8443, コスモ商事, 東川 正弘, 高知市小津町8−7, 088-823-5506, 088-823-5238, ...
http://www.shikoku.ne.jp/kctakken/hokuseisibu.html 大津支部
... jp. 光洋ハウジング, 〒520-2144大津市大萱1-20-15, 077-543-3457, 佐和興産株式 会社, 〒520-2141大津市大江4-14-31, 077-543-2336,
[email protected]. 株式会社栄 住宅, ...
http://cgi.shiga-takken.or.jp/contents/meibo/meibo.php3?sb_code=0203 hhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhhh
>>58 車輪の走行に耐えられるまともな道路が作られなかったのが原因だと思う。
その理由としては
@強力な統一権力が存在しなかったこと。
A馬が小さかった。
B自然の水路を利用した水上交通がメインだった。
>>59 水車は立派な梃子の原理の応用だよ。
野戦で盾が採用されなかったのは地形、戦法、武器の点から見て
理解できるんですが、個人的に気になるのが砦や要所の攻略の時には
相手の弓や投石などの攻撃を受けながら接近する必要がありますよね?
こういう場合は小型の盾がそれなりに便利そうな気がするんだけど、
どうなんでしょう?
>>58 馬車が無かったのは道が整備されていなかったからですね。
山がちな地形なのと、四方を海に囲まれていて運搬には船の方が遥かに
効率がいいのとで、馬車を通すほどの道を整備する必要性が近代まで
生まれなかったのでしょう。
>>59 弩がオーバーテクってことはあり得ないでしょう。紀元前の技術ですよ。
強い弓撃がほしいと思えば誰でも考え付くレベルだと思います。
>>55の話はちょっと気になりますね。詳しい方はいらっしゃいますか?
回答ありがとう御座いました!! 今までのやり取りで自分なりに納得を得る
手がかりが掴めいい刺激になっています。引き続き、弓関連、盾関連へのレス
お願いしますね。
>57
昔の実戦弓術では、今の弓道のようにゆったり構えてじっくり狙ってなんて
ことはしなかったのではないかと思うが、どうでしょう?
「通し矢」の話など読むと、4万本以上放って数千本通したというような話
があります。それなりに割り引いて考えたとしても、数秒に1本位のペース
でないと、とてもこんな本数はうてないはずです。
>42
和弓は、もともとは馬の上で使うものですし、騎射の技術(弓馬の道)は武芸
の基本だったそうですが。
後、城塞に据え付けて使うような大型の弩はともかく、手持ちで使えるよう
な小型の弩と長弓では、射程・速射性のいずれも長弓のほうが上ではないで
しょうか?
(騎射の場合は接近戦だから、射程はあまり関係ないかもしれないが。)
近距離での貫通力では弩に劣っているとしても、野戦で使うならば、速射で
き、馬上でも使える方が便利ということかなと思うが、どうでしょう?
69 :
日本@名無史さん:01/10/20 00:58
機動隊といってイメージするのは、あの鉄の盾でしょう。
う〜ん、と。まず弩は導入時(奈良時代)の日本では引き金部分の量産が不可能で
あったので普及しなかった、と聞いたことがあります。また弩の弓引き作業は時間が
かかりますし(ちなみに1分間に弓は6〜12本。対して弩は1本)、馬上で行うに
は困難な作業と思われます(鐙を踏んで弦を引っ張る、山羊脚レバーを使う、キャプ
スタンを巻く等)。武士が騎射戦を重視していたにも関わらず弩を使わなかったのは
こんな所で、弓は当然、両手を使わなければならないから盾を使わなかった、っての
はどんなもんでしょうか?ただ、これも野戦のみで城攻めなんかの場合は説明できま
せんね。
71 :
日本@名無史さん:01/10/20 02:22
>>66 弩はヨーロッパでは一度廃れたんですよ。ローマが崩壊したあたりで。
再び使われだしたのは10世紀ごろから。
中国人はずっと使ってたけど、厳重な禁輸措置が取られてました。
あと
>>55は有名なアジャンクールの戦い。
>>68 手持ちの弩でも射程は弓よりずっと上ですよ。
72 :
日本@名無史さん:01/10/20 02:27
>>70 技術が弩を可能にしたときには戦争のプロたる武士階級が成立してますね。
彼らからすれば、弩なんつう素人でも扱える代物は自分達の拠って立つところを
危うくするものにしか見えなかったのかも知れません。
73 :
日本@名無史さん:01/10/20 03:17
楯関連は、鎧の性能に吸収されたとすれば、かなり合理的だよな。
兵士の機動性から言っても、それは正しいと思う。
弩はなあ・・
71さんの言っている「射程が弓より長い」とすれば、
命中精度や、速射性がやはり弓より劣っていたのではないか?
実際に戦場で評価されるのは、案外、「下手な鉄砲、数撃ちゃ当たる。」的な
速射性能や、命中率のような気がするが。
>>72 まあ、鎌倉、室町(戦国以前)時代なら、そういう規制も階級支配のため
あったかもしれないが、戦国時代になると、意味が消える。
戦国の後半は、完全に部隊の役割が、セクショナリズム化していたのにも関わらず、
軍隊運用の天才的な信長ですら、弩に目をつけなかったのは本当に不思議だ。
弩組(部隊)くらいあっても良さそうなのに。鉄砲のように高価ではなく、
天候に左右される事もない。守城戦で集中運用すれば、それなりの効果は、期待できるはずだ。
74 :
日本@名無史さん:01/10/20 03:20
おっと、間違い。
>速射性能や、命中率ー>速射性能の命中率。
>71
昔、「弩は近距離での威力は大きいけど、抵抗が大きいから云々」と
いうようなもっともらしい話を聞いて、鵜呑みにしちゃってました。
手持ちの弩だと、有効射程はどのくらいなんでしょう?
弓よりずっと上というと、200m位?それとももっと長いんでしょうか。
和弓でも飛ばすだけなら450m近く飛ぶみたいですが、通し矢や遠的な
どの競技が60~70mくらいの距離だったと思うんで、実用上は80~100mく
らいだろうと思っています。人によっては200mくらいともいっている
ようですが。
76 :
日本@名無史さん:01/10/20 05:30
素人考えなのでおかしかったら指摘していただきたいのですが、
徒歩戦から馬上戦へ、というのが大きいのではないでしょうか。
当然、盾は使い難いので大鎧へと進化。
刀は直刀から片手撫で斬りのできる太刀へ。
馬上で扱いにくく、発射準備に時間が掛かる弩は弓へ。
大鎧、太刀の出現、弩の消滅、と全て10世紀頃に起こってるような
気がするんですが、全ては馬のせいではないかと…。
なぜ馬上戦が主流になったか、は私には謎ですが。
77 :
日本@名無史さん:01/10/20 05:50
>75
参考
クレシーの戦いにおける弩と長弓の比較だそうです。
長弓(イングランド軍)
有効射程距離:256m
射出速度 :一分間に10本
横向き射出 :可
弩(フランス軍ジェノヴァ兵)
有効射程距離:320m
射出速度 :一分間に1本
横向き射出 :不可
>>68 >和弓は、もともとは馬の上で使うものですし、騎射の技術(弓馬の道)は武芸
>の基本だったそうですが。
「騎射の技術」が「武芸の基本」なのは知っています
(その鍛錬のために流鏑馬が考案されたのですよね?)
しかし、実戦においてはどうだったのでしょう
「将を射んとすれば馬を射よ」という言葉があるように騎馬武者の弱点は
馬であることは明白です
「蒙古襲来絵詞」に傷ついた馬を御すのに苦心する武者の姿があります
これを見る限りでは、日本の弓は馬上で使うのには向いていないのでは?
と考えざるを得ません
http://www.lib.nakamura-u.ac.jp/e-lib/sato/funsen.jpg
79 :
日本@名無史さん:01/10/20 10:04
今のところ・・
盾については・・
重たく扱い辛い金属(青銅?)盾から
(本陣を守る為に)木製の置盾、(機動性を考えて)鎧の一部に組込
に変化していった。でよろしいのでしょうか?
弩については
戦の儀礼化、生産性の悪さ、命中率
で廃れたでよろしいのでしょうか?
ん?古代日本に普及しなかったと言うよりそれ以降の時代に廃れたって事か?
戦国期に何故、弩が見直されなかったか?の方が(今後の)議論としては面白いかもしれないね。
弩、長弓、そして短弓(南九州に残っているらしい)の自分なりの比較。
射程 :弩>長弓>>短弓
命中率:短弓=?弩>長弓
速射性:短弓>長弓>>弩
弓にくらべて弩は制作費もかかるし速射で断然劣る。コストパフォーマンスの悪さがネックね。
さらに、鉄砲が入ってきたから、そっちの方に興味がわいたかな?
銃身?の強度、矢を装填するときの腕力の必要性、強力な射撃力に耐えられるだけの弦の調達、弓部と銃身の接続部強度、
当時の技術でクリアーせねばならない課題も多い。
81 :
日本@名無史さん:01/10/20 10:49
漠然としていて曖昧な意見ですが、
(ほぼ)単一の民族の中で争っていた日本と、
異民族で争っていた西洋や中国とでは戦略とかが違ったとかそう言うのは
なんか関係してそうな気がするのですが。
時代はかなり下りますが・・
西洋のチェスは捕った駒を再利用できないけど
日本の将棋は再利用しますよね?
なんかその辺にも原因がありそうな気もするのですが・・
82 :
日本@名無史さん:01/10/20 11:08
>>70 あのー、初期の弩って、現在のクロスボウと違って銃の形を
してなかったはずですが・・・・・。
それでも、弦の止め具の量産が難しかったんでしょうか?
83 :
名無しさん脚:01/10/20 13:13
アフリカの原住民でクロスボウ形式の弓を使っているところもあるよ。
>弦の止め具の量産が難しかったんでしょうか
木で充分みたいだった。
それよか、西洋の大型クロスボウの射程は400mとか書いてあるけど、矢が大きいから400mくらいだとかなり失速するのでは?
84 :
日本@名無史さん:01/10/20 13:19
85 :
名無しさん脚:01/10/20 13:24
↑を読む限りだと、けっこう配備されていたけど実戦の経験から廃れていったというところかな....
原因は何かだよね。
>>82-85 弩の「機」、つまり発射装置(引き金部分)ですね。導入時は青銅製で
奈良時代の日本の技術では量産不可能だった。突撃銃を模倣せんとする者
がボルトアクションのライフルを作成する訳がないと同様に機を木で作ら
ないのでは?
廃れた原因は前出の装填作業と建造物が石造と木造という差異も関係して
いると思われます。日本の建造物は火という致命的な弱点があったので、
弩+城という守城側に対して攻城側は火矢+弓、というローコストで有力
な対抗手段があったせいでは?火矢+弩って聞いたことがありませんね。
あと、これは妄想が入っているかもしれませんが………。
弓⇒曲射
弩⇒直射(?)
ってのも関係しているかも。ゲームのやりすぎっていやそれまでですが
88 :
日本@名無史さん:01/10/20 14:31
盾がない代わりに陣笠があるじゃないか。
・・・西洋に陣笠がないのは西洋人の首が弱いからだろうか?
陣笠は雑兵用の兜なんで盾と比べるのには無理があるでしょ。
盾を持てば兜が要らないと言うわけでもないし。
メールアドレス欄は無視してくだされ。
別スレで煽ったときの名残・・・
91 :
日本@名無史さん:01/10/20 17:05
>>88 西洋にも兜とか鉄仮面とかあるじゃない。
首の強さなら(全てではないけど)西洋人の方が強くないかな?
陣笠は兜の簡易版みたいなものだから、盾とは別でしょ。
みなさんのおかげで具体的なデータが集まりだして
ちょっと自分なりのイメージができてきました。
まず、日本においては弩が軍隊以外に普及する理由はあまりなさそうです。
で、古代において弩の普及が進まなかったのは中国の禁輸方針と
関わりがありそうですね。
そして、量の多少は不明ながら少なくとも7世紀から10世紀頃まで
ある程度配備されていた弩は次第に姿を消していったと。
私の認識では弩そのものはローテクだと考えています。
仮に当時の日本の技術で大陸製の最新式と同様の物が作れなかったとしても、
日本の技術でできるレベルの弩を製造しようとしなかったのは技術の
問題では無く、やはり需要が弱かったと考えるべきだと思います。
で、私の現在の予想。
殺傷力の強い弩は蝦夷征伐や沿岸防備など主に異民族対策に使われ、
日本人同士ではあまり使われなかった。特に本州の支配が概ね完了し
平安文化が最高潮に達したころ、武家と公家との分化が進み、名誉を重んじる
武士道の発生と絡んで弩は卑怯なものとのイメージが作られ衰退した。
(これにはもちろん武士と平民の差別化を維持する目的を含んでいる)
結果、武士中心の戦争が展開された平安末期までは弩を使用するという
発想は生まれなかった。
そして応仁の乱以降の、足軽をからめて何でもあり的な戦争の時代を
迎え、このままならどこかが弩を導入するだろうというころになって
鉄砲が伝来したため、弩の有意性が大きく薄れて結局復活はならなかった。
つまり、鉄砲の伝来が数十年遅れてたら弩はやっぱり復活してたのでは?
というのが私の現在の結論。
これならワタシ的に納得いくんですが、どうでしょ?
93 :
日本@匿名将軍:01/10/20 20:17
そういえば、クロスボウって現代日本では有害「玩具」扱いなんだよね・・・。
日本刀以上に歴史のある武器なのに「玩具」・・・。
教育上問題があるなら「銃刀剣等所持法」に抵触する「武器」として扱えばイイのに。
「玩具」なんて中途半端な扱いするな!
94 :
日本@名無史さん:01/10/20 22:50
弓術が武士の必須技能とされたことにより、個人の鍛錬を重んじる風潮が
生まれ、誰が使っても差がない弩が使われなくなったのでは?
>78
馬が弱点なのは、刀を使おうが槍を持とうが同じなのでは?
であれば、少しでも遠くから戦うことができる武器を選ぶ
方が合理的なように思います。
実際、騎馬弓兵はアジア一帯ではごく一般的だったという
話もありますし。
(もっとも、日本の馬は体高140cmもあれば「格別の大馬」
だったらしいんで、今時の馬よりは目標になりにくいかも
しれませんが。)
であれば、日本の弓が他国のものと比べてどうか、という
話になると思います。
上下非対称で扱いにくく、正確な射撃に向いていないとい
うことはあるにしても、私は、
・「日本人/日本馬の体格で扱える範囲で」できるだけ威力
ある弓をつくる
という目的には十分合致していると思うのですが。
馬上で使うならば、威力は落ちるでしょうがもっと小型の弓でもよかったのでは、
と思えてなりません
矢筒から矢を取る→矢をつがえる→弓を引き絞る→狙いを定める→矢を撃つ
これらの一連の動作を手綱から手を離し、走り回る馬の上で行うにはあの弓の
形状では実戦的ではない、と判断したからです
『陸奥話記』にも弩が登場します。
使っているのは安倍軍ですが。あと、
>武士道の発生と絡んで弩は卑怯なものとのイメージが作られ衰退した
元和年間に書かれた『後太平記』にも弩が登場しますね。
「1392年、千早城攻めに射程が長い弩を使用した」というものです。
記事は史実ではないでしょうが、当時の武士は「射程では矢<弩」ということを知っていたことに変わりはありません。
『平家物語』延慶本の記事を重視し、「速射性から弩が廃れた」に一票。
和弓の中には、半弓などもっと小さな弓もあります。
その中で、敢えて普通の弓を選んで実戦に使用する人がいたわけで
すから、「実戦的でない」とまで評するのはどうでしょうか。
もっとも、吾妻鏡の建久2年8月のところに、大庭景能の昔語りとし
て、「縮め用ゆべきものは弓箭の寸尺なり」とありますから、騎射
に長すぎる弓は不向きだというのは、78さんの仰るとおりでしょう。
源為朝に弓手の側で遭ったとき、「為朝は弓の名手だが馬には不慣
れだろう」と判断してとっさに反対に回り込んだところ、(弓矢が
長すぎたためか)ねらいが外れ、膝にあたっただけで助かった、と
いう思い出話で、「長すぎる弓箭よりも短めのものの方が使いやす
い」という趣旨ですから。
後、68の通し矢の話で「4万本以上」と書きましたが、24時間で1万
3千本以上の間違いでした。(3倍に膨らませてしまっていた)
(それにしても、1分間に9本のペースで24時間というのは、想像を
超えていますが。)
「当時の武士」=「『後太平記』が書かれた元和年間の武士」
紛らわしい書き方ですみません。
100 :
日本@名無史さん:01/10/21 02:16
まぁ弩の方が有利なら、いんであんやあまぞねすとかも使ってる筈だし。
小人数戦だと弓の方に分があるのでしょう。やっぱ。
101 :
名無しさん脚:01/10/21 15:09
古代は徴兵した農民主体だから、値段が高くても弩で練度の低さをカバー。
中世は戦争のプロの武士主体だから、弓で連射をきかす。
というところかな。
問題は、攻城・狙撃用の特殊兵器としても弩を使わなかったのかだな。
98氏の語っていることについて詳しく知りたければ、
『弓矢と刀剣』(吉川弘文館)をご覧ください。
>大庭景能の昔語り
為朝の使用していた弓は、なんと八尺五寸です(『保元物語』半井本)。
通常の七尺五寸程度の弓が長いと言っているわけではないので注意。
104 :
日本@名無史さん:01/10/21 23:57
>>81 井沢の本を読みすぎです。
逆にヨーロッパの日本史の研究者は
日本人は裏切り者が多すぎると言っています。
それにヨーロッパは十字軍以外はセコイ戦闘ばかりです。
>井沢の本を読みすぎです。
いや、81さんは読んではいないでしょう。
井沢の結論は「将棋は戦争ゲームではなくマネーゲームだ」
です。
またマテリアルな話ですが………。
マール社の「武器」にすると、弓は作成方法によって4種に分類されている様で、
1.単 弓…1種類の材質(普通は木)で出来た弓。
2.強化弓…しなやかな他の材質(主として動物の腱、または他の木)を裏打ちして強化したもの。
3.合板弓…同じ材質(普通は木)の薄板を3枚以上、はり合わせたもの。
4.合成弓…3種類の材質(木、腱、角の組み合わせが多い)をはり合わせたもの。
1〜3は威力を高める為に大型化、4は威力を構造的に高めた、という感じで、
イラストを見る限りでは1〜3は長弓、4は短弓となっており、日本の和弓は合板
弓と紹介されています。で、ここで私見ですが、日本では屠殺文化がない故に合成
弓を作成するに必要な材料(腱・角)が得られなかった。そこで装甲に対抗する為、
合板弓のさらなる大型化と独自の形状をもつに至った、と思うのですが?
107 :
日本@名無史さん:01/10/22 13:39
35さんの
>>92に同意。
>>81の将棋とチェスの例えは、
>>92の
>殺傷力の強い弩は蝦夷征伐や沿岸防備など主に異民族対策に使われ、
>日本人同士ではあまり使われなかった。
の部分の事を言いたかったんじゃないかな?
>>104の
>日本人は裏切り者が多すぎると言っています。
は同一民族内での戦いが多かったから、兵士レベル(特に半士半農)では
殺す(使い捨て)よりかは生かして自分の兵とする(再利用)方を選択していった結果だと思うのですが。
>>105の
>81さんは読んではいないでしょう。
は多分正解。井沢さんの本以外でも将棋とチェスの違いについて書いてある本っていっぱいあるし。
せいぜい読んでてもマンガの「月下の棋士」レベルじゃない?(W
108 :
日本@名無史さん:01/10/22 14:07
>日本では屠殺文化がない故に合成 弓を作成するに
>必要な材料(腱・角)が得られなかった
鎌倉時代にも鹿や猪の狩猟は行われていました
その肉や皮も利用されていましたので、角や腱を入手することはそれほど
難しくなかったはずです
それをなぜ使わなかったのかはわかりませんが、「屠殺文化がない」からでは
ないと思います
109 :
日本@名無史さん:01/10/22 16:22
はじめまして。弓道四段です。「屠殺文化の欠如」は弓の長大化には影響なかったと考えます。なぜなら
正倉院に収められている弓を見ますと、すでに長弓となっていることが確認できるからです。では、原始
の弓はいかなる形状かと言うと、これもまた日本では長弓を使用しています。しかし、同時期に大陸では
短弓を使用していました。日本と同じ長弓を使用していたのは南方系の部族だけです。つまりここから
アジアにおける弓の形状は大陸系と南方系に分類することができます。
また、おもしろいことに南方系文化には髑髏崇拝、首狩りといった特徴があり、ここからも日本と南方系
の弓文化の一致を見ることが出来ます。
さて、問題の合成弓と合板弓の差ですが、合成弓はいわゆる大陸系の弓製造技術の一つです。弓に木材
だけでなく異物を入れてまで強化するという考え方は日本には浸透しなかったのではないかと私見します。
それは、合成弓はその加工上、短弓化するという宿命を背負っているからです。神武天皇像のように長弓
の先に鷲が控えているというイメージのように長弓尊重の姿勢は前述の南方文化の記憶と同時に、長弓
を神と同格にした特異な日本文化における心理的なもの、ただの武器として扱かわない美的、精神的な感性
によって支えられてきたのではないでしょうか。
111 :
日本@名無史さん:01/10/22 23:12
↑なんだこのページ(藁
katakamu.htmlなんてあるから、てっきり「ザブングル」のカタカム・ズシムのファンページか?と思って期待したのに(藁
113 :
日本@名無史さん:01/10/23 00:53
>>109 ハァ?
丸木弓なんて平安の途中で姿を消している。以降はずっと合成弓。(木と竹)
114 :
日本@名無史さん:01/10/23 02:12
>>113 >以降はずっと合成弓。(木と竹)
君は合成と書いてあるが日本の弓は合板弓だ。だいいち、丸木弓の話題なんて出てねーぞ。
>>106の
>ここで私見ですが、日本では屠殺文化がない故に合成弓を作成するに必要な材料(腱・角)が得られなかった。
>そこで装甲に対抗する為、合板弓のさらなる大型化と独自の形状をもつに至った、と思うのですが?
という問いに対しての流れだろうが。
ワンポイントアドバイス「スレの文脈をよく把握してから書き込もう!」(田原総一郎風に)
やはり両手武器のスペシャルアタックが強力だからでしょう。
あるいは片手武器で戦う場合、盾よりほかのスキルに
回した方がPotも使用できるし効率がよいからです。
↑は何というゲームの話?
117 :
日本@名無史さん:01/10/23 20:38
日本で集団戦やる頃には、槍の長さが5m超えてたって聞いてるんだが、
5m超の槍って片手盾片手槍のスタイルで持てたりするんだろうか?
持てなかったとして、ローマスタイルの歩兵と戦国の長槍兵、戦わせたらどっちが強い?
118 :
名無しさん脚:01/10/23 23:55
>ローマスタイルの歩兵と戦国の長槍兵、戦わせたらどっちが強い?
カエサルの時代には槍を投げてたみたいよん。
長槍もって密集陣形というのは、紀元前3世紀とか古い時代のことでは??
武装や戦術の進歩があるから、ローマ帝国全盛時の軍隊でも、戦国時代の軍隊には鎧袖一触だと思うよん(例え火縄銃がなくても)。
119 :
日本@名無史さん:01/10/24 19:30
age
120 :
名無しさん:01/10/25 16:12
戦国時代の鎧は弓矢の貫通力を弱める「柔構造」と思われ。
対して西洋の鎧は硬革や金属製による「剛構造」と思われ。
121 :
アズマ騎士:01/10/27 00:07
中世ヨーロッパの騎士は片手に楯を片手に長槍を持っていた。
これが可能だったのは鎧に槍を引っ掛けるフックがついていて
槍を持つ手は槍先の方向を決めるためだけに使っていたから。
槍の貫通力は馬の突撃力が鞍を通じて騎士の鎧、フックを通じて
槍に伝わって得られた。
これを可能にした戦闘法は一撃離脱。
日本の馬上の武士のようにチャンチャンバラバラはやらなかった。
122 :
日本@名無しさん:01/10/27 13:50
日本人にも「盾」についての概念はあったんじゃないかな?
講談から、宮本武蔵の剣を塚原ト伝が鍋の蓋を「盾代わり」にしたという話がある。
時代があわないからフィクションなんだけど、「盾」の機能を理解できないとこういう話は作れない。
また、江戸時代の剣術は両手持ちの太刀より二尺三寸の小太刀・片手剣が主流になってきたと。
江戸時代後期、六尺の竹刀で道場荒らししていた大石進なる輩に対し、二尺四寸の鍔つき竹刀で対抗したとある道場主がいたそうな。
二尺四寸の鍔となると、もはや「盾」と同じ。
実は大石進の六尺竹刀も先端に鉛を仕込んでやたらとしなる「ヌンチャク」「乳切木」「フレイル」「モーニングスター」のような武器だったらしい。
123 :
日本@名無史さん:01/10/27 14:49
弩は古墳時代でもすでに使われていたようだよ。
124 :
日本@名無史さん:01/10/29 13:42
日本の神話で有名な盾ってあります?
つうかそもそも盾って出てきます?
神剣とか宝剣とかなら思いつくんだけど
盾って記憶にない・・・
125 :
日本@名無史さん:01/10/29 23:43
>121
日本の馬上の武士も、チャンチャンバラバラなどやっていなかったというの
は、思いっきり既出。
平安〜鎌倉頃には騎射が中心、以降は戦闘の前に馬をおりてしまったとか。
(後は、決着が付いて追撃したり、逆に逃げ出したりするのに馬を使う。)
平安〜鎌倉頃の武士が使っていた大鎧についている大きな袖は、楯を鎧に組
み込んだものだ、というような話は、8, 9, 13, 14あたりで出ている。
これは、騎射のために両手を自由に使うためだとか。
>122
日本の場合、ちゃんばらでなく射撃戦が中心だったため、白兵戦用の手持ち楯は使われなかったが、射撃戦用の置楯は広く使われていたらしい。
126 :
日本@名無史さん:01/10/30 00:07
>125
日本の馬上の武士の騎射も一本弓を放ってさっと逃げるのは流鏑馬だけで
実戦では必ずニの矢を持っていてバラバラと何本も矢を互いに射ち合っていた。
後に打ち物合戦が盛んになるとそれこそチャンチャンと刀で打ち合いになった。
刀や長柄で打ち合うなら持ち盾が発達しても良さそうなものだが・・・・
127 :
日本@名無史さん:01/10/30 00:17
>>126 日本の合戦は常に飛び道具が主力兵器。
打ち物がはやったのは講談の世界だけ。
西洋で持ち盾が使われたのは白兵戦がメインになったからだが、
これは降参させた相手を捕虜にして身代金をせびるため。
日本では殺して首を取るのが手柄だったが元気な相手と
チャンバラするリスクを犯すよりは射撃兵器でケガをさせて
弱った所で首を取る方が多かった。
合戦のスタイルが違うのが最大の原因だろう。
>>126 まだこんなこと言ってる人がいるのか・・・
129 :
日本@名無史さん:01/10/30 00:30
>127
古代ギリシャ、ローマの重装歩兵は整然と隊伍を組んで戦い
白兵戦とは無縁だったように思うけど・・・・
それに敵兵を捕虜にして身の代金を取るんじゃなくて
相手ポリスを征服して女、子供を奴隷に叩き売ったはず。
>>129 127氏はここでは
古代ローマ・ギリシャを『西洋』の例として出していないと思うよ。
131 :
見るにみかねた:01/10/30 22:28
ざっと見たところ、ここの皆さんブツギリの知識と思い込み、加えて最低限の日本歴史体系、世界歴史体系に触れていないので、プロからみると荒唐無稽
な意見ばかりです。盾など弥生時代からありますよ。弓についても縄文時代からあるのはいうまでもなく、古墳時代では3mを越える鉄弓(儀礼用)だって
奈良のメスリ山古墳から出土してます。もっと博物館にいきましょう。税金で
つくってんだから。
132 :
アズマ騎士:01/10/30 23:12
日本でも馬上の武士が槍で戦うことはあったが、
これも一撃離脱ではなくチャンチャンバラバラ方式。
「槍繰り」をするために両手で槍を持つから楯は持てない。
ところが馬上で槍を使うと困るのが「横槍を入れ」られた時。
右側に槍を持っているとして左側から攻撃されると
自分の乗った馬の首が邪魔して直ぐには対処できない。
ヨーロッパ中世の騎士は左手に楯を持っていたから
横槍は楯で防いだ。
日本では馬上の武士の弱点を補う意味で従卒が槍を持って
徒歩または馬上で主君の左側に付いて参戦した。
従卒はほとんどチャンバラには参加せず
槍を構えて殿様の左側にいるのが仕事。
横槍が入りそうになると「エイッ!」とその槍を
自分の槍で叩いて「鉾先をかわした」。
で、1への答え:従卒が楯の代りになった。
133 :
アズマ騎士:01/10/30 23:27
すまん、このスレは古代日本のことだったな。
どうも的外れなレスを付けてしまっていたようだ。
中世以前のことはまだ生まれていないので良く分からん。
135 :
日本@名無史さん:01/10/31 00:29
137 :
日本@名無史さん:01/10/31 02:23
古代日本の武器は銑鉄。チャンバラしたら曲がっちゃうから攻撃は
盾で防ぐ。でも鋼がすぐに出てきたから、盾がいらなくなった。
西洋では中世の始めぐらいまで銑鉄の剣だったから盾が必要だったとか?
138 :
名無しののたん:01/10/31 03:02
139 :
日本@名無史さん:01/10/31 09:21
プロなら客の要求に応えんかい!
140 :
日本@名無史さん:01/10/31 09:23
プロなら奉仕しろ!
141 :
日本@名無史さん:01/10/31 09:32
>>133 イメージが沸きやすいから、中世ヨーロッパとの比較は有意義だと思います
少なくとも自分の意見を書かない「自称プロ」よりはましだと思います
142 :
日本@名無史さん:01/10/31 10:40
陣笠を手に持って盾代わりにしたと言う話、昔古武術の本で読んだことある。
でもそういった使い方がマイナーだってことは役に立たないって事かな?
143 :
日本@名無史さん:01/10/31 10:43
>弓についても縄文時代
石器時代からあるだろ!
お久しぶりです。
>>131の書き込みは内容的にとても日本語を解する人がこのスレをざっと見して
書いた結果とは思えないので、あんまし気にしない方がいいでしょう。
盾については
>>35でもかきましたが、盾を採用するかどうかは敵味方の
武器や戦法次第です。炸薬導入以前の戦争で歩兵の装備に手持ち盾が
検討されないことはあり得ないと思います。
これを前提に議論しないと、131のような意味不明な内容になってしまいます。
あと、盾について考えるのに騎兵を考えるのもあまり意味がないと思います。
古代日本では馬に乗っていたのは武将クラスと伝令くらいのはずです。騎兵の
まわりには当然護衛の歩兵が大量にいるはずです。彼等の装備を考える方が
重要だと思います。
また、西洋騎士のランス戦法や装備はその背景があまりに特殊すぎて
比較対象としてはあまり意味がないと思います。
ところで陣笠って私のイメージでは鉄砲導入後の装備だと思ってたんですが、
もっと昔から(ただの笠は別として)使ってたんですか?
145 :
日本@名無史さん:01/10/31 23:44
おもしろいのであげ
146 :
日本@名無史さん:01/11/01 00:21
>>131 >盾など弥生時代からありますよ。
そんなの既出。
その上で「でも持ち盾って使ってないよね」って方向に話が進んで来た。
君は読解力ゼロ。
148 :
日本@名無史さん:01/11/01 00:25
>ところで陣笠って私のイメージでは鉄砲導入後の装備
つーか、足軽の装備だったんじゃなかったか?
足軽出現は応仁の乱以降だろ。
いやはや私は妄想がひどいようで、恐縮です。はい。
ところで
>>148 どうも鉄砲導入以前は鉢巻や烏帽子が標準装備だったそうです。
150 :
日本@名無史さん:01/11/01 11:35
151 :
足軽の装備について:01/11/01 12:33
152 :
日本@名無史さん:01/11/01 12:38
>>127 そういうのが、150の言う最近はやりの「珍説」の一つだろう。
自分たちのわずかな調査結果を喧伝している学者
たちの言うことですよ。
聞きますが、多くの絵巻物で白刃を交し合っているあの姿は何?
江戸時代の初期にはまだ戦国の実情を知る人物も多くいたし、
別にウソを描く理由もない。
153 :
日本@名無史さん:01/11/01 12:43
>>127 少ないサンプルから刀傷の跡を統計にしても、真実は見えてこない。
局所的な事実があるだけ。
そんなもので歴史の全体像を決め付けるのは詐術に近い。
154 :
日本@名無史さん:01/11/01 12:47
現代風、新たな講談か。
155 :
日本@名無史さん:01/11/01 12:52
盾が普及しなかった原因は逆の解釈も出来るのであって、
「遠戦志向」に価値を見ず、接近格闘戦闘の両手持ち白刃、
ないし組討に、機動コストの面からマイナスのため廃れた、
というふうに。
>>152 だから講談や絵巻物と言った娯楽作品のみと言うことだろ。
157 :
日本@名無史さん:01/11/01 13:08
議論の中で古代・中世がごっちゃになってるな。
弥生なら実際木製盾の出土はあるし、以後古墳時代あたりまで
使われたのだろう。
平安期に武士が台頭してくれば、馬上戦で盾は邪魔になるのと、
歩兵は弓と槍で長・中距離戦をやれば盾いらないしね。
158 :
日本@名無史さん:01/11/01 14:30
いや、日本の槍は木製だし、すぐに折れてしまう
可能性が高い
最低限度の接近戦用の武装は必要だよ
みんな何を主張しているのかさっぱりわからない。
一言づつではなく、自分の考えを論述しよう。
>>157 槍って近距離だろ
歩兵が長・中距離戦限定なんてできないんじゃないか?
釣られたついでに最近よく見る射撃戦中心説についてもちょっと
疑問を述べさせて下さいな。
日本に限らず戦争において常に射撃が重要であったことは当然だと思います。
しかし、どうも射撃中心説を述べている人の書き込みを見ていると、
射撃戦とは射撃のみで勝負を付けているという前提のような気がします。
炸薬導入以前の戦争では、射撃だけで勝負が付くのは地勢が悪い上に
戦力で大きく劣っているとか、木造建築に立てこもって火矢をかけられ、
消火が間に合わないとか、はなから優劣のついた特別な状態だけのはずです。
普通射撃戦というのは、攻勢側が地形や盾を利用しながら援護射撃の中を
少しずつ距離をつめて、十分な兵力が敵に近付いたところで散開突撃を
しかけて陣地を奪うという流れのはずです。中世以前に限らず、機関銃が
発明されるまで世界中で共通に見られる戦術です。
この場合、特に鉄砲導入以前の射撃戦なら距離をつめるときにも、突撃後に
起こりうる白兵戦にも軽量の盾+片手剣(刀)は十分選択肢に入る装備だと
思います。射撃戦自体を根拠に盾不要を主張するのはかなり疑問が残ります。
あともひとつ、そもそも私が日本で弩があまり普及していなかったことに
注目したのも射撃中心説への疑念が発端だったりします。
やはり日本においても白兵戦は無視できない頻度で行われていたと考える
べきではないでしょうか?
しっかし、私の書き込みっていつも長いな。。。
162 :
名無しさん脚:01/11/01 21:05
>射撃戦自体を根拠に盾不要を主張するのはかなり疑問が残ります。
置き盾が活用されていたので、盾は重要な武器として認識されていたと思います。
置き盾+弓矢・両手用武器の方が手持の盾+片手武器より有利だから手持ちの盾が廃れたかと。
つまり、すたれたのは盾一般ではなく「手持ちの盾」ということで。
>注目したのも射撃中心説への疑念が発端だったりします。
やはり戦闘というのは射撃戦が中心では。
もっとも、地形の制約とか乱戦の場合とかのように射撃の効果が低い戦闘もありますから 、白兵戦も無視できない頻度で行われていたというのは正しいと思います。
つーより、射撃戦だけでカタが付く場合はほとんどないかなと。
>>162 ちょっと長文になって分かりにくくなってしまいましたが、
私のいう「射撃中心説への疑念」とは、「白兵戦希少説への疑念」と
置き換えて下さい。
射撃戦が重要なのは認めています。これは地域時代に関わらず一般的です。
しかし私としては、古代においては射撃戦の割り合いが高いほどむしろ歩兵の
手持ち盾+片手武器の優位性は高まると感じます。
結局、日本において盾や弩の使用頻度が低いのは、地形の複雑さや狭さのために
一戦闘における射撃戦から白兵戦への展開が外国に比べて速かったからでは
ないでしょうか?
164 :
日本@名無史さん:01/11/01 22:20
程度の良くない学者は自分のちょっとした「発見」を針小棒大に主張したがるもの。
刀傷の痕跡を遺骨からいくらか見つけて数値化したところで全体像が
把握できるものではない。
実際の歴史の流れ(事実の集積)を見れば、
「射撃して傷ついた者の首を取るのが日本刀の役割」
なんて無造作な一般化はできない。
文禄慶長の役が良い例。あれは日本式戦法の集大成のような
対外試合であったが、鉄砲の威力をのぞけば日本側の戦力の
中核をなしたのは槍、刀であり、このことを敵側の文献が明示している。
それをどう解釈するのか。
また朝鮮が自分たちの「偉効」として残す「亀甲船」とやらも、
「日本側の切込みを防御する工夫」
を強調している。
日本人がどうやって戦うのが得意だったか、どう説明するのだろうね。
とても「射ちあってお終い」なんて思えない。
どうも、ああした説には、それを出した学者の個的な体質を反映している
ように思える。今の学者の肉体と意識そのものを相対化して考えるのも
おもしろい。
165 :
日本@名無史さん:01/11/01 23:58
>>164 陸戦と海戦をいっしょくたにするのもどうかと。
朝鮮側の記録でも海戦のほとんどで「日本の軍船は鉄砲を撃ち掛けて来たが」
と始まって「矢と火矢で応戦した」「大砲で撃ち崩した」と来るやつが多いぞ。
167 :
日本@名無史さん:01/11/02 01:04
>>164 >刀傷の痕跡を遺骨からいくらか見つけて数値化したところで全体像が
>把握できるものではない。
ところで、遺骨の調査って誰がやったの?
オレの知る範囲では鈴木眞哉氏が「軍忠状」の分析ならやっていたが、
遺骨の調査をした人がいるの?
かなり興味があるよ。
168 :
名無しさん脚:01/11/02 14:08
仮に射撃戦中心でもとどめは槍・刀でさしていたろうから、遺骨の調査だけではわからないと思われ。
やよひ時代の人骨に、矢じりの跡とか矛の傷があるのとか出土あり。
>文禄慶長の役が良い例。
もう少し古い例を提示していただけませんか。
南北朝時代以降、小具足の発達・普及が見られ、接近戦の割合が増加しているのは(あなたが述べるまでもなく)明白ですので。
>日本人がどうやって戦うのが得意だったか、どう説明するのだろうね。
『蒙古襲来絵詞』に登場する連中は、だいたい片籠手ですね。
片籠手で接近戦……うーむ。
ゼロではないでしょうけれど。
171 :
戦術好きな軍事オタ:01/11/02 19:01
>>161 対峙して盾が射撃要員を保護する。
火力(弓矢も含めて)が弱ければ敵の正面火力を無力化若しくは
殲滅するまでに白兵戦距離に詰り、それによって白兵戦へ移る。
だから彼我の射撃戦能力の差によっては射撃戦距離の内に敵射撃要員
が制圧されることもあったかもしれないが戦国期以前の多くの場合は
は白兵戦移行が恒常的に行われていたと考えています。
>>164 太平洋戦争でも豪海軍と日本海軍との間に小銃で射ち合うほどの
接近戦が起きてる程だから戦国時代ならなおさら海戦が
高い頻度で接近戦に突入したことでしょう。
戦国当時の日本水軍は船の都合と国内では接近戦が一般的
かつベターだったので朝鮮でも海戦を国内と同じやり方で
やったまでだと思います。朝鮮水軍は接近戦に移行される
と弱いのと、大砲が相対的に優れていたことを
・敵が乗り込むのを半ば不可能に制限する「亀甲船」
・大砲等による射撃戦を攻撃の中心とする
と言う形で克服&活用しようとしたので165さんの言わ
れるような戦闘になったのだと考えます。
172 :
日本@名無史さん:01/11/03 00:21
海戦ってどういう形で行われていたんでしょうね?
モーターのない時代に都合よく乗りつけたり、横に並んだり出来たのでしょうか。
当時の軍船では動力要員、指揮者、舵取りと戦闘員が
どのように連携をとって戦闘行動を行っていたのか?
海戦での勝敗はどう決まったのか?
う〜ん、謎だらけだ。
173 :
日本@名無史さん:01/11/03 03:49
>射撃中心説への疑念
弓の有効射程は長くて百メートルかそこら。
これ以上だと上からフラフラ矢が降ってくる状態になる。
弓隊というのが集団で存在し、一斉に矢を放つならこれでも良いだろうけど
敵を一人ずつ狙って攻撃するには数十メートルまで近寄らないと無理。
もしも敵が走り回っていて、自分も攻撃されていて、それを避けながらだと
慌ててるから有効射程はさらに縮まると思う。十メートル位か?
この距離なら一本外したらもう白兵戦。
174 :
日本@名無史さん:01/11/03 04:04
>>173 >弓隊というのが集団で存在し、一斉に矢を放つならこれでも良いだろうけど
ならいいじゃん
175 :
日本@名無史さん:01/11/03 08:08
拳銃でもそうらしいが、こちらに向かって進んでくるのに
当てるのは難しいらしいよ
「射撃中心説」の根拠は、そうした理性的、軍事技術的な視点よりも、
提起した学者の性向と特有の先入観によって生まれたと見る。
これを唱える学者は「兵隊も人間だから惰弱で死ぬのは怖い。だから遠くから
戦闘する」という観念を吐露している。
これが論の中核にある思念なのだから、その辺を斟酌して考えるべし。
人間というものは、禽獣と紙一重である。
現在のイスラム過激派やそれに追随する信徒たちのように、
時と場所が変われば人間の性向などはわれわれの想像を逸したものがある。
平和な今の日本の空間で想像される戦場の姿なるものは常に疑われるべきだろう。
>>172 海戦については大砲導入前と後で区別した方がよさそうですね。
大砲があれば遠距離から船を沈めることができますし、敵の船が沿岸に
浮いているのを許せば艦砲射撃を食らいますから、積極的に沈めにいく
必要があります。
大砲がなければ別に沖合いに船が浮いていたところでどうということはないし、
上陸際をたたく方がよっぽど有利なので、とくに理由がない限りどうしても
死者が増えがちな海戦は避けたがるのが普通でしょう。
一番ありそうなのはやはり補給線をつぶすっていう目的でしょうから、
海賊戦法が有効でしょうね。小型船で縄を使って寄せるとか、先っちょが
平らな船にかぎをつけて相手の船に突き刺すとかして、そこから乗り込む
とかいう話を聞いたことがあります。
壇の浦ってなんで海戦になったんでしょうかね?スレ違いですが。
海に逃げたのを間を置かず追撃したんでしたっけ?
179 :
日本@名無しさん:01/11/03 14:31
>>177 「一神教イデオロギー」は人をより禽獣化させる傾向が強いように思う。
なにしろ、「自分が正義、向こうは悪」の単純二元論が根元にあるから。
・・・スレとは無関係でした。
あ、普段の食生活・食文化も原因かな?
カルシウムが慢性的に不足しがちな地域ほどキレやすいから、盾も持たず飛び道具も使わずバンザイアタック仕掛けたりして。
180 :
滅びの美学:01/11/03 14:38
先手必勝、攻撃は最大の防御なり。
重い盾を使うほど日本人の体力が無かったからでしょうか。
相手の攻撃を刀で受けないで、盾で受けて相手を攻撃できれば当然有利ですからね。
実際検討した結果でしょう。
>弓隊というのが集団で存在し、一斉に矢を放つならこれでも良いだろうけど
敵を一人ずつ狙って攻撃するには数十メートルまで近寄らないと無理。
『平家物語』では、「矢ぶすまを作る」という表現がある一方、
騎射による一騎打ちは皆無です。組み討ちはあります。
183 :
日本@名無史さん:01/11/03 23:29
>182
「矢ぶすまを作る」だと誰の矢が誰に当ったか分からないから恩賞で揉めそう。
日本の「名乗りを上げて一騎討ち」って恩賞を確実に貰うためだったそうだけど
184 :
日本@名無史さん:01/11/03 23:37
>>182 保元物語で為朝は馬を降りて弓をうってたっけ?
185 :
日本@名無史さん:01/11/04 00:48
>182
98で挙げた吾妻鏡での源為朝と大庭景能の一騎討ちは、
騎射によるものだと思うが?
>181
では、体力に自身のある日本人(個体差)にとっては、
絶対の武器になるはずだから、そういった連中は使用したはずだし、
特別な部隊を編成したはずではありませんか?
「体力」に合わせた盾だって考えたろうからね。
そんなことではなくて、やはり戦闘形態が盾を必要とするものではなかった
と考えるのが自然。
山岳攻めや狭隘な谷間での戦闘、夜襲といったケースが多かったからではないか。
また、盾をかざして戦うのは「卑怯」といった意識があったのかも
しれない。
187 :
アズマ騎士:01/11/05 00:21
>>181 >重い盾を使うほど日本人の体力が無かったからでしょうか。
それより気候の問題はどうよ。
古代ギリシャの重装歩兵なんかは兜、盾、脛当てにサンダル履きで鎧は着ずに
裸だったと思う。
もともとギリシャ人はもっと北方から来てギリシャを征服し、先住民を奴隷に
して住み着いたわけだからギリシャの気候は彼らには暑かったんじゃ?
暑いから鎧は着たくない→盾が必需品に
そのギリシャの密集方陣があまりに有効な戦術だったので
ヨーロッパで引き継がれ、ついでに盾も習慣化した。
日本の夏も暑いから、この説はちょっと無理かな?
ってーか、盾って身を守るのが第一義的な武具じゃないよ。
集団で盾を構えて突進し、相手を盾で抑えつけた上で槍や刀剣で攻撃する。
盾は相手を抑えつけたり、生け捕りにするときに最適の武器なんだよ。
日本は山地が多いからじゃねぇの?
こんだけデコボコした国土で重くてデカイ盾なんて持ってたら
機動力が期待できないんでは?
190 :
日本@名無史さん:01/11/05 07:58
>188
団塊世代らしい電波だな。
反安保デモで機動隊にボコられた時の体験談か?
>相手を盾で抑えつけた上で槍や刀剣で攻撃する
刀剣はそうかもしれないが、槍もというのはデムパだろ。
相手を盾で制圧した至近距離では槍は長過ぎて何の役にも立たないぞ。
192 :
日本@名無史さん:01/11/06 04:11
>>191 他の味方に槍で突いてもらうんだべ。w
まぁ盾で相手の動きを封じ込めるってのは同意だな。
北条時宗見ててそう思った。<蒙古兵の盾さばき
>185
大庭景能は、為朝に狙われているのに気がついて逃げただけです。
一騎打ちですかね、コレ。
194 :
日本@名無史さん:01/11/06 17:30
元寇のとき、元軍は盾を使っていたと思う。
これを取り入れないのだから、それなりの理由があるのだろう。
答になっていないが。
日本刀は両手で握って切り結ぶ。ローマなどでは片手操作かね。
盾は刀を片手で操作しないと使えない。
日本刀は長過ぎた。
このあたりはどうでしょうか。
196 :
日本@名無史さん:01/11/06 21:43
>193
あの記事では、確かになぜわざわざ為朝に近付いたかまでは語って
いませんね。
保元物語では、景能兄弟は一騎討ちを挑んだことになっていますし、
他にも大勢が為朝に挑戦して射殺されています。
もっとも、軍記をそのまま信じてよいとも思えませんし、仮に真実
であったとしても、一騎討ちが盛んだったという証拠にはなりませ
んが。いずれ、一番絵になる珍しい場面を書くでしょうから。
実際には、為朝の剛勇を描くためにそうとう誇張しているでしょう
し、物語の中でも為朝の奮戦むなしく敗退していることからして、
戦いは一騎討ちとは違うところで進行していたんでしょう。
古代ギリシャの盾は重装歩兵の密集陣があるからな
日本の歩兵であのような密集陣の例は皆無に近いと思ったが
散兵戦、悪く言えば乱戦で盾が有効かどうか・・・・・
というか古代ギリシャ世界以外では長兵器は盾無しで短兵器は武器+盾と
みてもいい気がするが・・・
弩は湿気に弱かった気がしたが
198 :
日本@名無史さん:01/11/06 23:49
>192
>他の味方に槍で突いてもらうんだべ。w
ということは、盾を持った兵の武器は刀ですか?
それとも盾だけ?
それとも盾に槍?
その場合、盾で相手を制圧している間、なが〜い槍の鉾先はどこに向けとくの?
変な方向けとくと味方の邪魔になるよ。
199 :
日本@名無史さん:01/11/06 23:57
>>195 元の鎧は革でできた軽いものだから、盾が欲しいんじゃないかな。
日本の鎧は固いからな〜
相手の剣を胸で受けていた男だの相手の刀を篭手で受けていた男だの、
鎧がいかに頑丈か示す逸話は多いよ。
200 :
日本@名無史さん:01/11/08 05:34
結局、盾は鎧に吸収されていったというわけですね。
漠然としたイメージで悪いんですけど、西洋の一騎打ちって、
馬上で鎧に身を固め、槍をもって突撃ですよね。
で、そのとき盾は持っている。槍の攻撃を防ぐためですよね。
馬で走ってくる突撃の勢いは日本のように駆け寄っても刀を振り下ろす
戦法に比べれば、はるかに威力があるわけで。
振り下ろしと突きという、武具の使い方の差が盾を不要のものに
していったのではないでしょうか?
201 :
日本@名無史さん:01/11/08 05:44
雑兵も盾を持ってなかったんだが...。
202 :
厨房アズマ:01/11/08 05:52
>200
中世の西洋の鎧って日本の鎧以上に丈夫だったような気がします。
日本のは鉄板や皮板を何枚も綴り合わせて漆で固めてあった。
西洋のは鉄の一枚もの。
槍で突いても西洋のは凹むだけで貫通しなかったような。
あれだけ丈夫でなぜ盾まで必要か良く分かりません。
203 :
日本@名無史さん:01/11/08 06:07
>>201 確かに雑兵も持っていなかった。で、思ったんだが、この当時、
雑兵というのは戦闘専門ではなかったから、当然武士階級の
真似をすることがそのまま戦でのスタイルになったんじゃないかな?
武士がもっていないから自分たちも持とうとは思わなかった。
>>202 西洋の鎧のほうが頑丈そうだけど、槍でつかれると、外傷は負わなくても
打撲等のダメージを受けたり、最悪落馬するわけで・・・・そうなったら、
動くにも動けないほど重いっていうのもなにかで読んだような。
槍の切っ先を受けとめるあるいは、横にそらすために盾が必要だった
のでは?
あと、思ったんだけど日本刀みたいに”振る”事を前提にした武器を
扱うときって、ただ突くよりも遠心力が加わって、片手で扱うのは、
難しくなるのかな?って思ったんですよ。だから両手で扱う必要性が
出てきて、盾をもてなくなったと。
204 :
日本@名無史さん:01/11/09 01:07
西洋の剣って、斬るよりも砕くことに重点がおかれたって言うから、
篭手や鎧で受け止めることがそもそも不可能なのかも。
こうなると、日本刀と西洋の剣の違い(攻撃方法)というものが、盾
の要、不要を決めたんじゃないでしょうかね?
205 :
日本@名無史さん:01/11/10 14:31
私、弓道をたしなんでいて、弓の故事を調べたりしていますが、前述の射撃中心戦闘を否定する意見には同意
しかねます。鎌倉期の男衾三郎絵巻に描かれている山賊と戦う吉見勢の場面では、吉見勢が騎射をし、山賊も
歩射をしています。打物を持ったものは画面に登場する人物の約一割程度です。
また、後三年合戦絵巻で義家が空を飛ぶ雁の列が乱れたのを知って清原勢に攻撃を仕掛ける場面でも、打物を
持っている武者はおらず、矢は見事に兜の下の右目に命中しています。
接近戦の場合、打物で攻撃するというのがここでの常識のようですが、ほんとど目と鼻の先の清原勢に対して
突撃した義家勢は弓矢で戦っています。奇襲するはずだった清原勢も同様に弓矢を装備しています。我々から
見ると近接戦闘の際は打物で戦った方が有利なようですが、この条件下でもそれは行われませんでした。
これは、近接戦闘時でも中世では打物で戦うことは稀だった。ということを表しているのではないでしょうか。
これを裏付ける証拠に、今昔物語に源充と平良文の一騎打ちの逸話が収録されていますが、驚いたことにこの
一騎打ちは打物によるものではなく、狩股の矢(鋭く相手の肉体を斬る矢)でお互いすれ違いざまに矢を放つ、
馳組みの一騎打ちでした。結果は勝負がつかず、互いにお互いの健闘をたたえ合ったとされています。
このように、中世は射撃中心の戦闘法の時代でした。なので、
>>176のような「死が怖いので、遠距離戦と
提起した学者の性向と特有の先入観によって生まれたと見る」というのは大きな誤解と思いますし、研究者
の間では日本には刀剣の接近戦様式は無かった。と述べられる方もいます。
さて、本題の盾の話ですが、中世の戦闘には一見すると盾は姿を消したかのように見られます。
しかし、南北朝期の太平記には、新田義貞が越前で討ち取られたとき何が原因で死んだがというと
ご承知の通り敵の伏兵の弓兵の攻撃によってです。そして、注目すべきは「盾を持っていれば
こんな目にはあわなかった」という記述です。つまり、盾を持っていなければ犬死せずに済んだ
という意味合いです。ですが、徒歩の兵が盾をもって戦うという記述は私の知る限りではありま
せんでした。では、当時の戦闘の様子を伝える絵巻を調べてみましょう。
まず、前述の男衾三郎絵巻では、郎党が三人がかりで弓を張る場面の右に大きな盾があります。
後三年絵巻の金沢柵を攻める場面にも義家方の武者が盾の下敷きになって死んでいます。しかし、
これは清原方の門の上にいる弓兵を守るため設置してある盾が投げられたようですので持ち運び用
ではないようです。
さらに、室町後期の応仁の乱を描いた真如堂縁起絵巻にも弓矢の大量使用とともに大将と見られる
人物の脇には大型の盾が設置してあります。
これらの絵巻から推測するに、弥生前後で使用された盾は個人用のものであったが、武者の出現と
射撃戦の世となってからは大将や本陣、館の門上の拠点防衛のために大型の盾と移行していったの
ではないでしょうか。そして、その後の鉄砲中心の世になってからは防御力への疑問から姿を消し
たのではないかと考えます。なので、盾は戦国前期までは姿を変えながら使用され、その後に使用
されなくなったものと思われます。
207 :
日本@名無史さん:01/11/10 15:07
なるほど。説得力のあるご意見どうもです。やっぱり映画とかの接近戦で
皆殺しみたいなのがカッコイイからどうしてもイメージ的にはそうなちゃ
うだよね。
永井豪の天と地は突撃して人間にピラミッドできてるよ〜(藁)
208 :
日本@名無史さん:01/11/10 16:02
>研究者
>の間では日本には刀剣の接近戦様式は無かった。と述べられる方もいます。
それはいくらなんでも言いすぎでしょう。
だから疑われるのです。
209 :
日本@名無史さん:01/11/10 16:03
>206
雑兵物語を読んでください。
210 :
名無しさん脚:01/11/10 16:29
>そして、その後の鉄砲中心の世になってからは防御力への疑問から姿を消し
>たのではないかと考えます。
鉄砲対策に竹をたばねて盾にしていたと思うのですが...
211 :
日本@名無史さん:01/11/10 16:47
>>208 神奈川大学の院講師の近藤好和氏は弓矢の研究の第一人者だが、そうおっしゃっているよ。
>>210 皆さん、こういうのを揚げ足とりというんですよ〜(W
212 :
名無しさん脚:01/11/10 19:45
>>211 集団で射撃戦をやるんだったら、盾ないし柵・壕とかの遮蔽物が不可欠と思うのですが。
213 :
日本@名無史さん:01/11/10 21:55
>205, 211
私も、射撃戦主体説に説得力を感じる者ではありますが…。
近藤好和氏の著書「弓矢と刀剣」には、「打物戦」の節もありますし、
「そもそも騎射戦だけで決着がつくのであれば、太刀や刀を所持する
必要がないであろう。」
と書いていらっしゃいますが、その後(同書は97年)見解を変えられた
のでしょうか。
どっかの戦国時代の話で、
まず射撃戦で飛んできた弓の量の違いで
既に逃げ出す兵が居たため、実際に肉弾戦になる前に
決着がついたとかというのがあったのですが。
あと、刀についてもむしろ、西洋と一緒で「斬る」の感覚より
「叩く」「突く」の方が多かったので死者が割と少なかった。
(気絶させていた)という話を聞いたのですが
真実なんでしょうか?
215 :
アズマ厨房:01/11/10 23:24
絵巻物から実戦を語るのは注意が必要だと思います。
画面の大きさに収まるように距離を縮めて描いてある可能性を指摘しておきます。
今昔物語の源充と平良文の一騎打ちの逸話は、二人とも弓自慢でそれが
決闘の原因ではなかったですか?
216 :
日本@名無史さん:01/11/10 23:30
結論は
古代は個人防御用の盾で弓、刀混在。
中世までは合戦では槍刀も使用されていたが射撃中心。盾は大きく、周囲防御用。
近世は鉄砲と歩兵集団化。盾は火力対応型に特化。
近代は軽装化と火力、破壊力の増大のため、盾は使用されず。
で、いいですね!!
217 :
日本@名無史さん:01/11/10 23:34
>>215 確かに絵巻は小さい。たが、接近射撃だったことは周知の事実。
弓自慢=弓が当時の主兵器ということの証。
斎藤別当も平家の大将に「お前ほどの弓引きは、東国にいくら居る」と
たずねられている。
218 :
日本@名無史さん:01/11/10 23:38
歩兵=雑兵だったんで、歩兵保護の観点が薄かったから盾普及しなかったんじゃないの?
219 :
名無しさん脚:01/11/11 00:21
というより、盾(置き盾)は普及していたけど、しょぼいものだから後世に残らなかったというのが正しい気も。
板切れとか竹とかその辺にあるようなものだし。
また、野戦のときでも柵とか土塁で陣地を固めるようになったから、必要性が少なくなったというのもあるかも。
>>205 何度も書いてるんですが、飛び道具が重要であるのは時代や地域を問わず常識的です。
飛び道具で済ませられるのならそれに越したことはありません。
そういった時に置き盾を使用していたのはまっ先に既出です。誰もが認めてます。
従って、今さら飛び道具で済んだ戦いの例を挙げられてもほとんど意味がありません。
野戦での遭遇戦や一騎討ちのような戦いは戦争の一部分に過ぎず、戦争の本質は
拠点の確保です。よほどの戦力差がない限り、拠点攻略が弓矢だけで成功することは
ほとんどないと思われます。
ちょうど今日(昨晩)NHKで聖徳太子が放映されていましたが、城攻めはやはり
弓兵の支援を受けながら盾&片手剣(刀?)が寄せていましたね。
また、主要人物の近衛兵も多くが盾を持っていました。
これらの描写がどの程度の確証を持って行われたのかは私には知る由もありませんが、
その他の武具や服装などの描写から見て全く検証無しということもあり得ないでしょう。
このスレでも古代の持ち盾については既出です。その後の衰退はなぜ?というのが
現在のこのスレの流れです。
221 :
日本@名無史さん:01/11/11 00:35
だから、
>>217で結論は
古代は個人防御用の盾で弓、刀混在。
中世までは合戦では槍刀も使用されていたが射撃中心。盾は大きく、周囲防御用。
近世は鉄砲と歩兵集団化。盾は火力対応型に特化。
近代は軽装化と火力、破壊力の増大のため、盾は使用されず。
で、いいですね!!
って書いてんじゃん。
>>221 つまり「なぜ衰退したのか?」の結論が「衰退した」なんですか?
223 :
日本@名無史さん:01/11/11 00:59
>>202 西洋の鎧は鎖かたびらのような、敵の攻撃を「受け止める」構造の鎧と、
板金甲冑のような「受け流す」構造の鎧の2種類があります。
また楯も、軽くて取り回しの良い受け流し用の楯と、重く頑丈な受け止め用の楯に大別されます。
受け止める構造の鎧を着ている時は、敵の攻撃を受け流す為の楯(徒歩用の丸い楯など)を持ち、
受け流す構造の鎧を着ている時は受け止める用の楯(馬上の騎士が脇に構えるナイトシールドなど)
を持って防御力を補い合うのが一般的です。
224 :
日本@名無史さん:01/11/11 01:30
人口の増加と技術革新(兵力増大)により、激突戦闘から質の高い戦闘の移行が行われた。
それと同時に、射撃力の増大と拠点占領のための白兵戦の兵質が向上した。
当時、日本では騎射が重んじられた。騎射には盾が戦闘の邪魔であった。なので鎧が発達した。
鎧に頼った戦闘方式と馬上主義、長打物戦闘の減少は、盾の必要性を薄めた。
その後、不向きとされ拠点防衛、特殊化が進んだ。のちに鉄砲が伝来した。
でしょ?
225 :
日本@名無史さん:01/11/11 01:35
>>220 今日の聖徳太子は架空の人物が聖徳太子に知識を授けるトンデモ番組。
考証なんぞ無いに等しい。
226 :
アズマに一票:01/11/11 07:24
>弓自慢=弓が当時の主兵器ということの証。
なんだかな〜
ハゲ頭自慢のオヤジがいてもハゲが流行っている証拠にはならないぞ
弓が主兵器というのは事実そのとおりだろうが
なにしろ武道のことを弓馬の道といったくらいだから
227 :
勘弁してくれよ:01/11/11 08:36
>今日の聖徳太子は架空の人物が聖徳太子に知識を授けるトンデモ番組。
ていうか、聖徳太子自体が実像はようとして知れず・・
228 :
名無しさん:01/11/11 09:16
>>225 そんなこと言ったら、世の小説全て「考証が無いに等しい」のか?
ドラマをドラマとして観賞できないヤツこそ不寛容で考証が無いに
等しい。
不自然なのはXだと俺も思うよ。でも一部分だけを取って全体を評
した気分に浸るって、俺にはできねぇ。
史実のまま過ぎたってドラマになんねぇだろ。
229 :
名無しさん:01/11/11 09:18
追伸:
あくまでも、不自然なのはXだ。今の大河は不自然なところが多すぎる。
以上で脱線を終わる。みな本題に戻ってくれ。
230 :
名無しさん脚:01/11/11 11:11
>鎧に頼った戦闘方式と馬上主義、長打物戦闘の減少は、盾の必要性を薄めた。
平安・鎌倉はなぎなたも補助武器として広く使われていたから、武将クラスの戦闘が騎射戦中心ということで。
長打物戦闘自体はけっこうあったと思われ。
231 :
日本@名無史さん:01/11/11 12:50
>>230 204には奇襲する方も、突撃するほうも打物は使用していないとあるが。
この両戦法はどっちみち白兵戦になるのだから打物を使うというというのが我々の愚見だが、
どうやら違うらしいし、互いに近距離で馬で突っ込んで矢を放ち、弓で応戦している。
では、下級兵士による長打物戦があるという一方で、馬上の武者はあの長弓を白兵戦の間、
どこにしまっていたのだろうか?地面に置くということは考えられないし、従者に持たせて
打物と取り替えて突撃というのも聞いたことが無い。やはり弓矢で戦ったのだろうか?
>>224 うーん、これはマジレスしていいのか悩むところですが、一応マジレスしてみます。
>人口の増加と技術革新(兵力増大)により、激突戦闘から質の高い戦闘の移行が行われた。
人口の増加>まあOK
技術革新>? 具体的な記述が必要。仮に兵力増大のことだとするとこれは戦闘低質化の要因。
激突戦闘から質の高い戦闘の移行>?? 具体的な記述が必要。
>それと同時に、射撃力の増大と拠点占領のための白兵戦の兵質が向上した。
射撃力の増大>? 具体的に。
拠点占領のための白兵戦の兵質が向上>?? 具体的に。
>当時、日本では騎射が重んじられた。騎射には盾が戦闘の邪魔であった。なので鎧が発達した。
突然出てきた「当時」が明らかでないのですが、まあ平安後期から鎌倉時代あたりのこと
だろうということで、「騎兵については」とりあえずOK
>鎧に頼った戦闘方式と馬上主義、長打物戦闘の減少は、盾の必要性を薄めた。
鎧に頼った戦闘方式>??? 具体的に。日本では聞いたこともないですね。
馬上主義>? 軍隊における騎兵の割り合いを示す必要があります。
長打物戦闘の減少>これはこのスレの現在の論点なので224の主張としてOK
ただし、盾論議に結び付けるには説明が必要です。
>その後、不向きとされ拠点防衛、特殊化が進んだ。のちに鉄砲が伝来した。
その後、不向きとされ拠点防衛、特殊化が進んだ。>??? もはや文としての体を
なしていないです。何を言いたいのかさっぱりわかりません。
のちに鉄砲が伝来した。>鉄砲伝来後に盾が廃れたことについては特に疑問はないのでOK
>>231 >204には奇襲する方も、突撃するほうも打物は使用していないとあるが。
>この両戦法はどっちみち白兵戦になるのだから打物を使うというというのが我々の愚見だが、
まさか「我々」に私は入ってないですよね。205ではたくさん例を挙げているようで
実は対伏兵戦、対山賊戦、一騎討ちなど、やや特殊、もしくは非常に特殊な戦闘の例です。
対伏兵戦というのはつまりどちらも特別な防塞なしでの戦いということです。戦いが長引けば
どちらも大きな被害が出るので、一般には戦力に劣る側が早めに退却します。つまり、飛び道具のみで
決着が付きやすい例になります。
山賊戦は問題の絵巻を見ていないのでなんともいえませんが、一般には山賊側の装備や兵力など
戦力が圧倒的に劣っているでしょう。
一騎討ちが特殊であることはいうまでもないですね。
>では、下級兵士による長打物戦があるという一方で、馬上の武者はあの長弓を白兵戦の間、
>どこにしまっていたのだろうか?地面に置くということは考えられないし、従者に持たせて
>打物と取り替えて突撃というのも聞いたことが無い。やはり弓矢で戦ったのだろうか?
これはわたしも興味のあるところです。わたしのイメージでは馬に乗るような武士は
指揮系統であって、直接的な戦闘にはあまり関わっていないだろうと思うのですが。
やはり、騎兵の比率を調べる必要があると思われます。
なんにしても、盾について考えるのなら歩兵について考えるべきでしょう。
234 :
日本@名無史さん:01/11/11 21:13
歩兵(足軽)の主武器が槍のような長打物なのは、騎馬の大将格の
敵に対して有効だったからではないのか、という気がします
集団で馬の回りを取り囲み、下から槍で突く、というのが基本的な
白兵戦で、大将の首さえ挙げてしまえば残った雑兵を追い払うことは
たやすかったのではないでしょうか
こういう状況なのだったとしたら、騎馬の大将、徒歩の雑兵どちらに
とっても盾はそれほど有効な防具ではないと思います
235 :
日本@名無史さん:01/11/12 15:38
>>233 >実は対伏兵戦、対山賊戦、一騎討ちなど、やや特殊、もしくは非常に特殊な戦闘の例です。
>対伏兵戦というのはつまりどちらも特別な防塞なしでの戦いということです。
とあるが、会戦としては将門記に将門は、追討軍の風上への迂回作戦の成功により矢が右目の上に当り、戦死した。
とされている。後三年絵巻の金沢柵は堅牢な拠点として描かれ、門上の兵を守る盾には百本近くの矢が義家方から
打ち込まれている。また、義家方の将も敵の矢を大量に受けているし、門から出て戦っている清原方も馬上で弓を
用いている。門のに近いづいた武者は首を落とされている。
興味深いのは義家の警護は長打物を装備している点。(義家自体は弓)
この特殊戦闘でない二点でも弓は多用されている。>兵力の少ないほうが飛び道具のみで退却する。と書かれているが、
藤原、平連合軍は四千、将門軍はごく少数といわれても序盤は連合軍を打ち破る勢いであり、打ち破る勢いとは
激しい白兵戦があったに他ならない。
236 :
日本@名無史さん:01/11/12 17:23
>徒歩の兵が盾をもって戦うという記述は私の知る限りではありま
せんでした。
灯明寺縄手で義貞を迎撃した徒歩の射手は「持ち楯」を持っております。
> 鎧に頼った戦闘方式>??? 具体的に。日本では聞いたこともないですね
大袖を使うんでしょうな。
絵巻物にあったんだけど……。ちょっと調べてきます。
>>234 騎兵に対して歩兵が対抗するには長柄の武器か、飛び道具が重要なのは間違いありません。
大将格が白兵戦に持ち込まれるような状態は既に危機的ですので、部将格に置き換えて
おきますが、部将を討てば指揮系統が途切れるので従う歩兵団は大幅な戦力ダウンです。
そのような状況では他部隊に取り込んでもらうのも難しいでしょうから、自陣への逃走を
前提とした行動を取るのが普通でしょうね。理想的には後続の部隊が速やかに入れ代わります。
というわけで、当然そうならないように騎兵の周りには普通護衛兵がごそっといます。
護衛兵は敵を近付けさせないのが第一ですから、普通長柄の武器が主体です。そして、
世界的に見ても盾を持っている例が多いと思われます。守備重視といった面からも、
指揮官への弓攻撃を防ぐ意味でも極めて自然な装備だと考えられます。
このあたりでも日本の場合いつのまにか盾の姿が消えているようだというのはひとつの謎ですね。
>>235 私の主張してきたイメージをほとんどそのまま裏付けるような内容で、なぜ私への
反論形式になっているのか謎です。
>興味深いのは義家の警護は長打物を装備している点。(義家自体は弓)
上記の通り、近衛兵が槍系中心の装備なのは常識的ですね。盾は持っていますか?
>>236 大袖(脇盾?)で矢を払うという使い方のことですか。これをもって鎧に頼った
戦闘方式と表現するのはどうなんでしょうね? 大袖の対矢効果は範囲としても
効果としても限定的ですよね。だから置き盾があるわけで。あと、大袖をつけい
ていない武士も散見しますし、雑兵になるとつけていない方が多いのでは?
まあ、大袖がある程度盾の役割を果たしたのは間違いないですが、単純に代替品には
ならないと思います。
>灯明寺縄手で義貞を迎撃した徒歩の射手は「持ち楯」を持っております。
結局、実は持ち盾にしても弩にしてもそれなりに使っていたという結論だったりして。
絶対そうでないともいえないんですよね。
238 :
日本@名無史さん:01/11/13 15:45
>大袖(脇盾?)で矢を払うという使い方のことですか。
「矢を払う」?
真向に当てることだろうか。
239 :
日本@名無史さん:01/11/13 17:17
小林よしのり「戦争論2」で、「日本刀を片手で振っても首は斬れない」という記述があったのですが、
これはよしりんがドキュソなせいですか?
それとも宮本武蔵はドキュソなのですか?
240 :
infoseek速報より:01/11/13 17:34
奈良県橿原市で10基の古墳群発見。
うち1基から石見型盾形埴輪のみ12点が出土 17:15
盾型埴輪が出土するということは
それだけ盾が使われていたことじゃないの?
形が盾に似ているだけで制作者の意図としては
盾のつもりじゃないとか?
古代の埴輪の時代の歩兵はどうだったのかね?
日本刀の構造も進歩がないね。
柄部分の弱さをなぜ一体刀身にして強化しなかったか。
少しでも軽い方がよかったのか。
あまり使われなかったから、進歩がなかったのだろうか。
謎ですね。
242 :
協力しよう!:01/11/13 21:21
>>241ここで日本刀批判するの止めとけ、スレが荒れまくる、、、
244 :
日本@名無史さん:01/11/13 23:34
持ち盾は白兵戦闘で使う。
置き盾は射撃戦闘で使う。
弓が主力兵器として完成される以前の時代には持ち盾は使われていたはず。
ふと思ったんだが、中国式の突撃陣形を見てみると
前列は剣と盾を持って突進し、後列が弓で曲射による援護を行なう。
白兵戦闘が前提で弓がその援護ならば、これが正しい隊形だろう。
然るに日本では弓を先頭にしてしまう。
この時点で日本では白兵先頭は前提に無いのだとは考えられないか?
だから重い盾をわざわざ携帯しない。
私は、太刀を防ぐような「手に持つ楯」を想像していた。
なお、問題の場面は『聖徳太子絵伝』である。大鎧の武者が、射手に向かっていく部分である。ご存じと思うので、省略。
>あと、大袖をつけていない武士も散見しますし、雑兵になるとつけていない方が多いのでは?
諸籠手ですのう。それを買えない連中のことはさておき。
軍記物を見ていると、結構「持ち楯」「手楯」というのが出てくる。城攻めの場合は特に(当然か)。
『法然上人絵伝』漆間館夜討ちの場面でも(斬り合いである)。
246 :
日本@名無史さん:01/11/15 08:57
>244
オモシロイ
>問題の場面は『聖徳太子絵伝』である
というわけで、記憶違いでした。対矢ですからのう。すみません。
>結構「持ち楯」「手楯」というのが出てくる。
例えば、『太平記』ですと赤坂城の合戦(楠木正成の方)、笠置山合戦(後醍醐天皇)、千早城合戦にも登場します。
赤坂城の場合、幕府軍は「盾に動物の皮を張り付けて」補強しているのですな。
軍記物ですから合戦の詳細な経過についてはともかく、矢を防ぐための盾はよく使用されていた、ということで。
最初に義貞の例を挙げたのは、「攻城戦のみならず平野でも使用されていた可能性がある」ことを示すためです。
>大袖の対矢効果は範囲としても効果としても限定的ですよね。
いや、以上の合戦における対矢用手盾の使用はご存じのはずですが。
248 :
日本@名無史さん:01/11/15 23:12
板楯の小さいものを携帯する発想は当然あっただろうね。
でそれをどう使ったのか?が問題。
記録に残る限りではいずれも矢を防ぐためのものであるようだ。
モンゴル騎兵や中国歩兵のように剣とセットの白兵戦用ではないのである。
(もっとも彼らの盾も突撃時に敵の飛び道具を防ぐためのものかもしれないが)
となれば……
現在の機動隊が使うジェラルミンの盾が近いかもしれない。
機動隊の盾はズラリ並べて相手の投擲攻撃を防ぎ、かつそのまま間合いを詰めて
相手を追い込む。
当時も同じではなかったか。
新田義貞を仕留めた徒歩の者たちは盾を持っていたようである。
つまり携帯できる小型の盾を連ねて間合いを詰めてくる相手のために
進退極まり、そこへ矢の集中攻撃を受けて仕留められたのであろう。
当時の主武器はあくまでも弓矢であったから、義貞も「こちらも盾を
持っていれば…」と悔やんだのであろう。
実際のところ、赤松勢・楠木和田勢・野武士といった連中が「一枚楯」という簡単な盾をよく使っています。
これは「攻城戦」に限らず使用されています。
それぞれ一例ずつ挙げておきましょう。『太平記』だと、
赤松勢なら対六波羅探題戦(三月十二日)、和田楠木勢なら結城氏への夜襲(巻三十四)。
後者は「掻楯を踏み破って接近戦へ移行する段階」での使用と見ていいでしょう。
>かつそのまま間合いを詰めて相手を追い込む。
そういう感じでしょう。
251 :
日本@名無史さん:
隼人の盾があるだろうが。
こないだのドラマでも出てきたけど。