1937年のロコウ橋事件について

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1名無し
歴史的な事件は前後を理解しないと意味がわからない。
19世紀、支那では清朝が衰退していた。日本は1900年の義和団事件
で、多くの日本人が殺されたため、清朝政府との義和団議定書で、
他の米英仏伊露とともに、北京に国際的な守備軍をおき共同で治安の
維持に当たっていた。治安が良いので外国だけではなく、無警察状態に
苦しむ支那人が集まり安心して暮らしていた。1912年清朝が滅亡し、
無政府状態が始まった。地方政府間は内戦状態で、無警察状態になった
から、外国は自警のため、守備軍を各地に駐屯させていた。
こうして支那では内戦が行われる中で、一般人、外国人は通常の生活、
通商活動を行っていたのである。内戦は集約され1934年には蒋介石の
国民党軍が毛沢東の共産軍を壊滅寸前に追い込んだ。そこで毛沢東は
矛先をかわすために、1936年12月、西安に蒋介石をおびき出して
逮捕し、強引に、日本との戦争を行う密約を結ばせた。これが西安事件
と国共協力である。そして1937年からはナチスドイツの軍事顧問団
の指導で、上海に対日戦用の陣地の建設を始めた。
そして1937年7月8日に北京近郊に駐屯している国際守備軍の
日本守備隊に対し、夜間演習中に銃撃を行った。このとき日本軍は
演習なので実弾を持っていなかった。そこで本部の応援を得て守り、
7月8日午前6時戦闘が停止された。しかし中国軍は同日午後3時、
午後6時に攻撃を再開した。9日、現地日本軍と中国29路軍との間で
停戦が結ばれた。ところが10日午後5時から午後10時に200名以上
の中国兵が迫撃砲を持ち出し再度攻撃してきた。しかし7月11日、
休戦協定が結ばれた。というのは日本は戦争を望まなかったからである。
当時の国家としての軍隊を見ると日本はわずか17個師団、30万人で
あり、中国は198師団225万人の軍隊を持っていた。そして中国軍には
多くの西洋人顧問団が雇われ、多くの軍用機、新型兵器を保有していた。
7月19日、蒋介石は現地停戦を認めないと通報してきた。7月21日、
蒋介石は南京で対日戦を決めた。7月25日、北京近郊で日本守備隊の
通信線が切断され、その修理中に日本の工兵隊が中国軍の攻撃を受けた。
日本軍は航空機で救援した。中国軍は従来の協定を破って日本人を攻撃
してきた。そして7月29日、中国軍はあの残虐な戦争犯罪テロ、
通州日本人婦女子幼児一般人大虐殺を引き起こすのである。そして
同日天津の日本人居住区に奇襲攻撃をしかけてきた。さらに8月12日
に上海の日本人居住区に20万以上の大軍で奇襲攻撃してきたのである。
これで日本は自衛のため本格派兵に踏みきり、1937年12月13日
中国の大軍を破り、南京を陥落させたのである。これがロコウ橋事件
前後の事情である。宣戦布告なき戦争の開戦責任が中国側にあることは
当時の西欧でも常識であった。
2日本@名無史さん:01/10/06 09:19
盧溝橋事件くらい漢字でお願いしますよ・・・。
3日本@名無史さん:01/10/06 13:39
いつものコピペね。
まったく進歩がない。
4名無し:01/10/06 20:46
時間系列で事件を並べるとなるほどと思う。
学校の教科書は流れがないから、何故日本が真珠湾攻撃したか分からなかった。
歴史教科書は日本の独立史観で書いたものが必要だ。
5日本@名無史さん:01/10/06 21:06
でもね、上海事変の方がえげつないよ!

陸戦隊と中国の中央軍の数、ドイツ軍事顧問団による
第一次世界大戦の経験をもとにした陣地構築の指導。
はっきりいってどっちが負けてボコボコにされるか明白だったのに。

死ぬ気で..いや、実際にたくさんの方が死んだおかげで
租界の日本人は無事だったんだから..
でも、蒋介石も中国国内で各勢力が反日を煽りまくっているから
不利な条件での講和もでききない。もししたら売国奴になっちゃうし。

不謹慎な云い方したら、上海で陸戦隊が敗北して
外人が見ている前で日本人が皆殺しにされていたら
国際輿論も変わっていただろうに..
通州で事件が起こっても外国メディアが取材しない限り
意味が無い、国際通信は外国が好きに操作できるから
日本の主張など誰も耳を貸さなかったのだから..  なんか、むなしい。
6日本@名無史さん:01/10/06 22:47
ごめんなさい
5は上海事変じゃなくて日中戦争初期の上海の戦闘のことです。
7名無し:01/10/07 14:07
小泉首相は中共へ行くようだが、支那事変の経緯が分かれば、謝罪する必要
は無いことがわかるだろう。

これを機会に、日本人は支那事変の周辺から20世紀の北東アジア史をどんどん
調べるとよい。
歴史に反する占領史観の歴史教科書は、とても日本人生徒には使えない。
8名無し:01/10/08 12:40
小泉首相に野中や橋本が行くように言ったと言うが、逆効果になりそうで
面白い。中共の狙い通りには行かないよ。
9日本@名無史さん:01/10/08 19:44
なんでろこう橋なんかいったんだ?
ろこう橋事件は偶発的なものだし、満州事変はともかく日華事変
は侵略とは言えないだろうに。
10世界@名無史さん:01/10/08 19:48
 小泉は謝罪したらしいね 売国奴だ
11日本@名無史さん:01/10/08 20:37
いつ義和団事件で多数の日本人が殺されたのだ?公使一人だが…
但し公使を殺すという事は日本国に戦争を売ったのと同じだが…
12名無し:01/10/11 21:00
>9
ロコウ橋事件は偶発ではない。中国軍の射撃は翌日まで何度もあり、機関銃まで
持ち出している。

戦争には偶発はない。すべて命令で行われる。
軍隊は私兵ではないからね。勝手な行動は軍法会議で処罰される。

中国側の中日戦争の対日奇襲攻撃の始まりだったのだ。
中国側は、既に1936年12月の西安事件で蒋介石が共産党に捕われ、日本攻撃を
約束させられていた。いわゆる国共協力だ。
日本は知らなかったので、停戦したりしていた。
7月は全土で日本人への攻撃が起こり、日本人は天津や上海に脱出してきた。

いまの日本人は平気で中共にいくけれど歴史を知ったらちょっと
気をつけると思うよ。沢山の日本人の骨が埋まっているのだから。
13日本@名無史さん:01/10/11 21:12
マルコポーロ橋と正しく呼ぶべき
>ロコウ橋事件は偶発ではない。
肥沼茂『廬溝橋事件 嘘と真実』
「中国警備兵は街外れの大きな河の洪水跡地で灯り一つない
処に歩哨に立つ心細さ。日本兵は夕方から同じ人間たちだ。
だが彼等中国兵は二時間交代であり、昼勤務隊と夜勤務隊は
交代していた。筆者と同じ見解を、第一連隊河辺又四郎副官
少佐が書いていることを、江口教授の『岩波ブック』で後に知った
。仮設敵のソ連の二つの陣地から日本軍演習の攻撃阻止役と
しての空砲一斉射撃が、攻撃隊が現れないままに続き、発火光
が大きく激しかった。演習隊は右方に集結し、知らずに中国警備兵に向かっていったのである。河辺少佐も、日本演習兵が居なか
ったこと、夜間発射光は空砲でも音が近く大きいこと、が中国兵の警告発砲を呼んでしまったと記しているのだ。」

『北平駐在日本陸軍機関業務日誌』1937(昭和12)年
七月八日
前〇、一〇 河辺旅団ノ小野口旅団副官ヨリ電話
        豊台第八中隊ハ盧溝橋竜王廟附近ニ於テ夜間
        演習中午後一一時頃突然支那側ヨリ一八発の
        射撃ヲ受ケタリ中隊長清水節郎大尉ハ直ニ中隊
        ヲ召集応戦ノ態勢ヲ執リシ処兵一名行方不明ナル
        コトヲ発見セリ。目下相対峙中
前〇、二〇 牟田口連隊長ヨリ盧溝橋事件ニ関シ機関長ニ電話アリタリ
        電話ヲ以テ直ニ時態拾収方ヲ通告セラレタリ因ニ
        支那側部隊ハ第三七師第一一〇旅二一九団第三
        営ナリ。
前一、一〇 林耕宇ヨリ機関長ニ電話秦市長ヨリ現地部隊ニ拡大
        セサル様下命セリ
前一、四五 林耕宇ヨリ連絡アリタルヲ以テ機関長ハ支那側及
        日本側ノ代表者ヲ現地ニ派遣シ事件拡大防止ニ
        努力スル様慫慂セリ林耕宇ハ魏主席ノ意見トシテ
        「日本軍ノ行動停止ヲ取計ラレ度」ト申出タルニ対
        シ機関長ハ「現地ノ軍隊ハ目下盛ンニ活動中ナル
        ヲ以テ速ニ責任アル代表者ヲ派遣スル様日本側
        ヨリモ直ニ代表者ヲ派遣スヘシ」ト通告セリ。
        (引用者−以下続く−)
        
以上の続き
前一、五五 旅団副官ヨリ
        1、目下通州ニ於テ演習中ノ連隊主力ヲ自動車ニ
        射撃場ニ集結シ爾後ノ行動ニ備ウ
        2、豊台部隊ハ盧溝橋東方五百米大道交叉点附近
        ニ位置シ前方敵情捜索中
        3、射撃場ニ集結中ノ部隊通過ノ為朝陽門ノ開門ヲ
        支那側ニ通告セラレ度
        4、日支代表者現地ニ赴ク場合旅団ヨリ森田中佐ヲ
        差出スヘシ
        前二、一五 輔佐官ハ綏靖公署周永業ニ電話ニテ
        連絡朝陽門ノ自由交通ニ関スル交渉ヲナス桜井顧
        問ハ斉藤通訳ヲ伴ヒ秦徳純及馮治安ヲ訪問ノ為メ
        外出
前二、二〇 旅団小野口副官ヨリ電話
        1、行方不明ノ兵ハ無事ナルコト判明セリ従ッテ我軍
        ハ何等ノ損害モナシ。
        2、解決ノ条件トシテ旅団ハ日本軍ノ演習ヲ害シ不法
          発砲セルハ皇軍ニ対スル最大ノ侮辱ナルヲ以テ
          最小限度 (1)、師団長ノ謝罪
                 (2)、第三営ノ即時撤退
          ヲ要求シ度カ機関長ノ御意見伺度ト。機関長ハ
          之ニ対シ(1)項ハ何等異論ナキモ(2)項ハ軍ト
          相談ノ上決定スヘシト。
前二、二五 外交委員会魏主席及孫委員来訪恵通公司職員ヲ
        招致概況ヲ説明スルト共ニ飛行機保護打合セヲナス
前二、四〇 小野口副官ヨリ電話
        旅団ヨリ軍ニ指示ヲ仰キタル所大木参謀ハ「不法射撃
        ニ対シテハ断固支那側ノ陳謝ヲ要求スヘシ
        交渉ニ赴ク時ニハ一ヶ中隊を帯同シ必要ニ応シ武力
        発動ヲモ敢行スヘシ」トノ指示アリ
前三、〇〇 橋本参謀長ヨリ機関長ヘ電話アリ機関長ヨリ概況
        説明ノ上指示ヲ仰ク 周永業来訪
前三、一〇 桜井顧問秦徳純ト会見シ帰館ス秦徳純ト約束セル
        状況
           1、他部隊ヲ動カサス
           2、盧溝橋部隊ハ外部ニ出サス
           3、事件拡大ヲ極力防止ス
前三、三五 日支代表現地ニ赴ク
           日本側
           桜井顧問、寺平補佐官、斉藤通訳、赤沢隊長、
           憲兵五名、森田中佐、大塚通訳生、一ヶ分隊
           支那側
           王宛平県長、周副処長、林専門委員
           (引用者−以下続く−)         
前四、〇〇 鄭文軒ヨリ電話
        現地ノ状況不明ナルモ原因ハ些細ナル誤解ニ基ク
        コト明ナルヲ以テ張壁氏等事件ノ拡大ニ懸念シアリ
        宋哲元氏ニ電話ニテ状況ヲ連絡シ支那側部隊ニ対
        シ軽挙セサル様厳命ノ電話ヲナセルニ付機関長ニ
        於テモ可然ク日本側ヲ指導サレ度ク希望セリ
前四、三〇 軍鈴木少佐ヨリノ電話
        豊台駐屯ノ我部隊ハ七日夜間演習中午後一一時
        四〇分頃盧溝橋附近ニ於テ支那軍ヨリ不法ニモ
        不意ニ数十発ノ射撃ヲ受ケタルヲ以テ直ニ演習ヲ
        中止シ取敢該支那部隊長ニ対シ謝罪ヲ要求中ナリ
        以上
前四、二〇 憲兵隊ヨリ市内状況偵察ノ結果
        1、西直面附近 一ヶ営ノ兵隊演習ヨリノ帰来カ?
                   西苑ニ向ケ行進中ナリ
        2、西苑 兵舎ハ全部点燈シアリテ兵ノ相当動クヲ
              見受ケラレタレハ或ハ準備シアルナラン
前四、二八
        3、海壇寺兵営変化ナシ
        4、綏靖公署変化ナシ
        5、憲兵司令部点燈セラレタルモ門ハ閉鎖セラレタリ
        6、市内変化ナシ
前五、〇〇 現地ニ赴キタル桜井顧問ヨリ一報
        1、日本側ハ前記箇所ニテ依然待期中
        2、支那側ハ全部城内ニ入リアリテ部署ニ付キ居ラス
        3、城外ニ若シ支那兵居ルニ於テハ日本軍攻撃スルナラン
        4、日支代表団ハ支那側ニ阻止セラルコトナク城内ニ入ル
        5、此ヨリ営長ト会見ノ上共同調査ヲナス
        6、城ノ北方ニ於テ五、六発発砲セルモ該方ニハ日本軍モナク
          状況不明ナリ
前五、三〇 寺平補佐官ヨリノ報告
        一行ハ城内ニテ交渉中ノ所城外ノ日本軍ト支那軍隊
        ノ間ニテ射撃ヲ開始セリ一行ハ城内ニ在リテ極力事態
        不拡大防止ニ任ス
前六、〇〇
        1、六時五分頃彼我ノ射撃停止ノ勢ニアリ
        2、大隊本部ハ盧溝橋鉄橋ノ麓迄進ム
        3、城内営本部其他部隊ハ白旗ヲ掲ケアルモ城壁ニ
          依ル一部隊ヨリハ時々射撃ヲ受ク
>ロコウ橋事件は偶発ではない。
「龍王廟の中国兵はその日防禦工事をしていたというから、
日本軍の攻撃を予想、戦々競々としていたものと考える。
昼間なら龍王廟と大瓦窰の距離は一〇〇〇米あるから、小銃
[ 軽機関銃 ]発射はさほど感じなかったであろうが、当夜は
真の暗夜であり、銃声はすぐそこのように錯覚する。我が仮装
[ 設 ]敵の空砲をソレ日本軍とばかり反射的に射撃したもの
と想われる(水鳥の羽音を敵襲と誤りし平家の如く)。」
18>1:01/10/13 19:00
 たかが出所不明の銃声だけで相手にいちゃもんをつけ相手に
撤退を要求し始めたのは牟田口廉也大佐です。そしてまた、
銃声が聞こえただけで戦争を「シナ」兵に仕掛け、悪名高い
「シナ」第29軍に高圧的な停戦協定を「シナ」第29軍に押し
付けたのも日本軍です。
 その停戦協定だけでなく排日徹底排除の細目まで押し付けた
のも日本軍です。その結果主権侵害は断固として拒否するという
蒋介石の煽動に踊った第29軍第38師主戦派が日本軍の郎坊
軍用電線修理を妨害するに至りました。事件勃発場所が「シナ」
であり、かつ日本軍が「シナ」第29軍に排日言論排除を「シナ」と
いう場所で強制している限りにおいて、日中戦争を起こした第一
要素は日本、第二に日本軍と中国国民党/旧軍閥軍をぶつけて
「抗日」戦争を煽動して漁夫の利を狙う中共にありました。
「=略=
 兵隊は見つかって異状はないという報告であった。だが私の
考へとしては部隊長からも交渉しろという命令を受けていますし
又、これで打切ったということになると支那側は何と宣伝するか
分らぬ。豊台事件の前例もあって、実包射撃をやれば日本軍は
演習をやめて逃げてゆくという観念を彼等に与へるのは遺憾だ
からこれはどうしても厳重に交渉しなければならぬ。私の方は
一文字山を占領してから交渉しようといふので、部隊は三時少し
前に到着しました。」
以下続く
以上のつづき
「三時前後に一文字山を占領して夜の明けるのを待たうといふ
時にふたたび敵の方から何を射ったのか分りませんがぱんぱん
と射った。そこでこんなことをやっていたんでは明日交渉すると
いったところで容易に交渉には応じないだろうと私の方では証拠
がないから唯 "射たれた" というだけでは誰が射ったのか、どう
いふ証拠がいるのかといふことも分らぬ。何とかして証拠を握らう。
それでなければ断然盧溝橋攻撃をして一つ引ぱたいて置いて
交渉しようと考へてをった時に牟田口部隊長から電話に出ろと
いふことだった。
=略=」
21名無し:01/10/15 23:13
ろこう橋事件の原因は、もはや当時の体験者が云々する問題ではない。
というのは、歴史の事実が明らかになっているからだ。
当時は、すでに1936年12月の国民党と共産党の対日戦密約が出来ている以上、
対日戦の開始は時間の問題だった。
それが翌年1937年7月8日のろこう橋事件である。
これは予定どおり、日本軍へ中国軍が攻撃したのであり、そのとき日本軍に
何があろうと関係がない。軍隊の戦闘はすべて命令によって行われる。
命令に違反すれば軍法会議である。偶然はないのである。

日本軍は現地停戦したが、蒋介石は現地軍に停戦を禁止し、大軍を北上させていた。
対日戦開始のシナリオは出来ていたのである。
7月の対日挑発は7月29日の通州日本人大虐殺と天津日本人居留地攻撃となり、
8月13日の中国軍20万人による上海日本人居留地奇襲攻撃と発展する。
20万人の軍隊の攻撃は数ヶ月前から準備しなければできない。
実際中国はナチスドイツの軍事顧問団の指導で対日戦の戦略を練っており、多数の
コンクリート陣地を上海に建設していた。

全体を見ないと個々の事件は理解できない。これは良い例である。
22厨房より質問します:01/10/16 00:21
後学のため、ぜひ教えてください。

1936年12月の国民党と共産党との密約について、明らかな文書など
あるのでしょうか。

また、中国軍から日本軍へ攻撃をかけたと言われるのは、何がソー
スですか。中国軍の誰が日本軍への攻撃を命じたのでしょうか。

最後に、蒋介石が、数ヶ月前から戦争準備をしていたとのことです
が、その命令はいつ出たのでしょうか。
一木清直「中国軍が射ってきました。射っていいですか?」
牟田口廉也「射ってよろしい」
一木清直「ほんとうに射っていいのですね?」
牟田口廉也「射ってよろしい、間違いない。今午前四時二十三分」
第11号1985年8月『盧溝橋事件五〇周年特集号』
第八中隊第一小隊第一分隊長佐藤一男軍曹手記
「=略=
我々がこの時受けた大隊命令や指示の概要は、
@大隊は演習と称して、永定河左岸に前進する
A第八中隊は右第一線、前進目標は竜王廟
B実包を装填しない。着剣もしない。こちらから発砲をしてはならない。
以上の要領で西五里店から竜王廟に向かって前進した。龍王廟
のトーチカの手前約一〇〇米か、一五〇米の地点で中隊は一時
停止した。そして中隊の右第一線だった第一小隊長野地少尉が
トーチカに向かって手ぶりで呼びかけ合図をした。
呼びかけに応じて、一名の連絡兵が駆け寄り、野地少尉も前進
して対話した。
「我が部隊は演習の為、竜王廟に前進するからそこを通して
もらいたい・・・・・・」と、連絡兵は片手を上げてOKをした。そして
駆け足でトーチカへ戻った。
 だがトーチカからチェッコ銃で一斉射撃。(幸いに我々に当らな
かった)不意を突かれて我々は周章狼狽、着剣をしないまま一挙
にトーチカへ突撃を敢行した。
=略=
爾後中隊は左岸の敵を突撃に次ぐ突撃をもって宛平県城まで
撃退した。この時宛平県城の銃眼や永定河右岸地区、主として
京漢線の鉄橋付近から猛射を受けた。
=略=」
第11号1985年8月『盧溝橋事件五〇周年特集号』
第八中隊第二小隊第四分隊長安保喜代治軍曹手記

「@中隊は竜王廟北側堤防を占領する目的で、機関銃二台の
配属を得て攻撃開始地点に進出待機、Aこの間細部の命令指示
を小隊長から示され、B鉄道線路や堤防中国陣地を確認すると、
中国兵は堤防陣地一帯に戦闘配置を完了して散兵壕には中国
軍が充満しておりました。C午前五時三〇分頃、攻撃命令で発進、
第一小隊左、第二小隊右で一列縦隊で併進し、平素の演習その
ままでした。こうして中隊は敵陣地に対し攻撃前進して行きますと、
この状況を壕外に出て私達中隊の行動を監視しておった敵の
将校が中隊に対し、前進を停止せよと呼び掛け、野地少尉は
我々は演習であるから通して欲しいと云い乍ら前進、敵前約二〇
米位の地点に至った時、D監視の敵将校が壕内に飛び込んだと
同時に敵銃火による一斉射撃を受けた。中隊は一挙に敵陣地に
突入、逃げる敵を追撃して鉄道橋頭北側竜王廟南側に進出、こ
の間約四、五分ぐらいで演習より楽でした。Eこのころようやく
歩兵砲や機関銃の射撃も始まり中隊は逃げる敵に追撃と突撃を
繰り返しながら前進し、鉄道橋の敵陣地を占領。付近には炸裂す
る迫撃砲弾の猛射を受けながら追撃をゆるめず、濁流でうず巻く
永定河を渡渉し、一段と烈しくなった敵放火、側防機関銃の猛火
を冒しての永定河右岸に進出し中の島を確保した。
=略=
26厨房よりもう一度:01/10/17 23:32
>こう橋事件の原因は、もはや当時の体験者が云々する問題ではない。
>軍隊の戦闘はすべて命令によって行われる。
>命令に違反すれば軍法会議である。偶然はないのである。

どの国の軍隊でも、命令によって戦闘を行うはずですから、戦友会誌のコピーなど
ではなく、日中戦争勃発時、中国軍の誰が何時何分に日本軍への攻撃を命じたのか
命令の内容とともに教えていただければ幸いです。
 私は21>>21氏ではありませんので26>>26さん、よろしく。
21氏に期待しても仕方ありません。あの方は裏付け抜きの
結論先ありきの方ですから。
27さん、いろいろと資料を出していただいたにもかかわらず、勘違いいたしまして
失礼しました。

ただ、質問自体は、当然21氏に向けて書いたものです。
さて「裏付け抜きの結論先ありきの方」かどうかは、ご回答によって判断できると
思いますので、もう一度質問させてください。
21氏は「もはや当時の体験者が云々する問題ではない、軍は命令によって動く」
とおっしゃいました。
当然、中国軍も命令によって、日本軍に攻撃をかけたと思いますので、中国軍の誰
が何時何分に日本軍への攻撃を命じたのか、命令の内容とともに教えていただけれ
ば幸いです。
私自身、無学にてそのような情報は得ておりませんので、教えていただければ、大
変ありがたいのですが。日中戦争に対する見方も変わるでしょうし。