江戸時代の無名将軍たち教えて

このエントリーをはてなブックマークに追加
1マイナー好き
教科書・大河ドラマなどにでる有名将軍飽きた
無名なの知りたい。江戸幕府に照準を当てる。
必ず1〜3代飛んで5代という待遇の4代家綱、
犬公方からまた飛んで米将軍の間、短命政権の
6代家宣・7代家継(子供)、吉宗からは最後
の慶喜まで省略、9〜14代までの将軍、詳しい
方いましたらどうか講釈のほどを
2日本@名無しさん:01/09/18 22:06
俺は14代将軍家茂が好きでね。

将軍ともなると、さまざまなお稽古事をさせられる。
行儀作法から武技、学問など。
これを教える役は旗本の中からその分野に最も優れた人が
選ばれ、それは大変な名誉だった。

家茂と彼に書道を教える役の戸川肥後守のエピソード。
戸川が家茂に教えていると、突然家茂が戸川に墨を磨るための水
を頭からかけた。驚く近臣を尻目に、家茂は
「戸川、明日また来い」
と言い捨てて出て行ってしまった。
そのあと、戸川が泣いているのを見た近臣たちは、
あまりの仕打ちに悔し泣きしているのかと思い慰めると、
彼は首を振って言った。
「上様のお情けに感激しているのです」
よくよく聞くと、戸川はなにぶん老齢のため、
指導の最中にくしゃみをした拍子に小便を漏らしてしまった。
例え老人でも将軍の御前で小便を漏らしたとあっては
処分は免れない。
それを察した家茂がわざと水をかけて不問に付し、
重ねて翌日も来るように言葉をかけたというその思いやりと
気配りに感涙しているのだと。

家茂はこういうエピソードが他にもあり、
非常に聡明で素直で情のあった人らしい。
和宮が嫁いでから本気で愛するようになったのも、
勝海舟はじめ、多くの家臣が彼の話をすると
涙したというのも頷ける。

病弱と辣腕に欠けたところが難点だが、それを補って
余りある魅力がある。
俺が歴史上の誰かに仕えるなら一番は家茂だね。



戸川は当代屈指の書の達人だったが、いかんせん老齢だったため、
あるとき指導の最中に
3日本@名無史さん:01/09/19 10:00
唯一の子供将軍・家継の情報キボ〜ン
4日本@名無史さん:01/09/19 13:32
>>2
いい話じゃのう
よろしかったら,出典を教えてくれんかのう.
5日本@名無史さん:01/09/19 14:11
>>2
大谷吉継の話ばりに泣けたよ。
6日本@名無史さん:01/09/19 22:06
間に挟まれた4代家綱の情報希望
7日本@名無史さん:01/09/19 22:15
>>5
大谷吉継の話って?
8日本@名無史さん:01/09/19 23:00
将軍そのものが面白いとは言えないが
6代家宣の治世は、わずか三年余だったけど面白いよ。
家宣の正室は前関白近衛基熙の娘だったので、岳父近衛と協力して
政治をおこなった。近衛の入れ知恵で服忌令を独自解釈して幕府の思惑通り
東山天皇から将軍宣下を受ける事ができ近衛はその力を増し江戸に入ってから
初の太政大臣になっている。
また子の7代家継の治世でも近衛基熙、家熙が影響力を残していたので
家宣、家継親子の治世が長く続いていたら新たな形の摂関政治が出来てた可能性
があり興味深い。
9:01/09/19 23:05
6代綱豊(家宣)サンは、
師の新井白石が”名君”と絶賛してます。
身内びいきというこtもあると思いますが。。。。

綱豊については、白石と彼を主人公にした小説
”元禄歳時記”杉本宛子があります。
10:01/09/19 23:08
11代 大御所 家斉を無名とはいえないだろう。
寛政時代の松平定信から化政時代まで、
小説などの素材とおもしろしことだらけでしょう。
11>6:01/09/19 23:10
4代 家綱
そうせい様。。。
下馬将軍”酒井忠清”が権勢を欲しいままにしました。
12>3:01/09/19 23:18
7代 家継

実の母月光院と間部詮房に間に男女関係はあったのか?
家宣遺臣団 間部や白石に対する 門閥グループの反発
そのからみで8代擁立をめぐる暗闘
その結果作られた?絵島スキャンダル。。

これも実話週刊誌ネタとしては面白い。
13日本@名無史さん:01/09/19 23:22
>>10
家斉っていうか親父の治済に興味あるなあ。
史実でも小説みたいに暗躍しまくってたのかな?
14>6:01/09/19 23:30
家綱のエピソード 少年時代
天守閣から望遠鏡で景色を眺めるようすすめられて

”将軍が四方を見下ろしていると知ったら
 庶民は嫌な気分になる”
とこれを使わなかった

子どものころは名君だったのに、成人してからは
政務は老中にまかっせきり、趣味に没頭
”左様せい”様と呼ばれた。

将軍親政ではなく老中等幕閣が政治をやるというスタイルを確立した将軍
15>13:01/09/19 23:33
息子が将軍になったってことで、
しゃしゃり出てえらそうにして
幕閣の顰蹙をかったおじさん。

今日でいうと
宇多田とか倉木とか鈴木あみのオヤジ
あるいは”チチロー”
16>14:01/09/19 23:41
家綱時代の事件簿
  慶安事件(由比正雪事件)
  伊達騒動
  明暦の大火
  佐倉惣五郎の一揆
  シャクシャインの乱
  寛文大震災

  三井財閥の祖 越後屋創業
玉川上水竣工
  河村瑞賢創業

  上杉綱勝変死および削封
  男色売春の温床だった男の歌舞伎禁止

エピソードには事欠きません
  
17某大学史学科の学生:01/09/19 23:46
家慶はたぶん無名と言われてしまうでしょうね。
彼についてのエピソードは、全く聞いたことがありません。
誰か教えて下さい。
18>1:01/09/19 23:47
9代 小便公方 家重は
95年の大河ドラマの 梅雀サンの怪演の印象が強烈
19>18:01/09/20 00:03
ずうと父大御所が君臨していおり
かなり鬱屈していたのではないかな?
将軍就任が44歳、大御所没がさらにその四年後。。。

家慶のエピソード
 1 中野硯翁一派による強制隠居陰謀。

 2 天保時代なので水越とは深い関わりがある。
    天保改革でゼイタク禁止で初物禁止
    そのため好物のメショウガが食膳から消えた
    事情を家来から聞いて沈思。。
     初鰹とかメロンじゃなくメショウガぐらい
    好きにくわせてやれよ。将軍なんだから。。。

  
20>18:01/09/20 00:12
家慶の苦悩といえば、
水越の天保改革失敗よりも
子どもがたくさんいながら将軍跡取が”あの家定”ってことだろうな。
天保末期といえば、やがてくる幕末の騒動の予兆として
外国船しだした時代で、政治が難しくなることが見えていた。
そんなおり ”あの家定”を次期将軍というのは
かなり我が子ながら不安だったのかな。。
21日本@名無史さん:01/09/20 00:13
6代家宣の弟清武はなぜ将軍になれなかったの?

7代家継と婚約していた皇女はどうなったの?
22>10:01/09/20 00:14
あと でてないのは 10代家治。。。

田沼意次の時代ということで、いろいろあるかな。
23日本@名無史さん:01/09/20 00:16
>>22
歴代将軍の中では珍しく母親が公家だったりする。
24>6:01/09/20 00:18
綱豊と父母を同じくするとはいえ、
臣下の家に養子に言った時点で資格なし。
というのが建前論


実相は

正徳遺臣団(間部、白石、月光院)に反感をもっている
門閥層や天栄院
とこれを手を結んだ、みかん国
の陰謀が勝利したということでしょう。
25>21:01/09/20 00:26
八十の宮吉子は他へ嫁ぐこともなく
45歳の若さでなくなりました。
26日本@名無史さん:01/09/20 00:37
>24
尾張vs紀伊ということで候補にすらあがらなかったのかな?
27日本@名無史さん:01/09/20 00:40
>25
若くはないとちょっとだけ突っ込んでみる。
28日本@名無史さん:01/09/20 18:43
>>15
そうそう。一橋治済って、かなりのトンデモ親父だったらしいね。

将軍の父親ということで「大御所」の称号を望んだが、「大御所」
は元将軍に与えられる称号なので却下だと主張する幕閣と大揉めも
揉めた。
29:01/09/21 13:07
家定と家重ではどちらダメか?
家重は子供を作っただけマシ?
30日本@名無史さん:01/09/21 20:57
小便公方・家重は、「将棋考格」という著書がある程の将棋好き。
31日本@名無史さん:01/09/21 21:16
>>30
それは昭和天皇の海洋生物好きと同じレベルですか?
32日本@名無史さん:01/09/21 23:07
家重は能も玄人はだしと聞いた
33:01/09/21 23:12
家定の趣味
  豆や芋を煮ること。。。
  饅頭やカステラ作り。。
 あまり上手じゃなかったらしい。
34>13:01/09/21 23:22
田安の子ども(後の松平定信)を田舎の養子に出したのは
自分とこの子どもを将軍にするためのこのオヤジと田沼意次が手を組んだ
陰謀という風説はあるな。
35:01/09/21 23:26
不肖の息子 家重に代わって
吉宗は孫の家治に期待していたようだが
この人も事跡あまり伝わってないね。
36日本@名無史さん:01/09/21 23:40
家冶は将棋がめちゃめちゃ強かった。
37日本@名無しさん:01/09/22 00:03
>>4
遅レスですまんが、
出典は綱淵謙錠が書いた歴史エッセー。
38日本@名無史さん:01/09/22 01:17
家斉は牛酪(バター)が大好物だった。
39日本@名無史さん:01/09/22 04:20
なんか・・・失敬ながら「ダメエピソード」しかない、悲しい将軍がいるなぁ(涙笑
40日本@名無史さん:01/09/22 04:48
実はそこそこ長い家綱在位期間
41日本@名無史さん:01/09/22 04:54
家継は、能舞台に上がって遊ぶのが好きだったらしい。
能好きだった父親を偲びたいかららしく、
よく「トトポン、トトポン」と鼓の口真似をして、周囲の涙を誘ったそうな。
42>38:01/09/22 08:23
バターは超精力剤と思われていた?
4338:01/09/22 12:27
>>42
そうみたいだね。
元々は、牛乳に栄養分が豊富にあることを知った吉宗が千葉の方で
乳牛3頭を飼育させ、それが家斉の頃には70頭に増えて
そこからバターなども作られ、それらを好んで食してたらしいね。
44>43:01/09/22 13:33
家斉がたくさん子供つくったのはバターのおかげですね。
乳製品メーカがキャッチフレーズにしないかな。。。。
45日本@名無史さん:01/09/22 14:02
>>39

家定の馬鹿ぶりは松平春嶽と水戸斉昭が一橋慶喜を次期将軍にするために
広げたものだからねえ・・・天篤院(家定の正室)や井伊直弼、小姓の朝比奈某らは
「世間で言われるような方ではない」と断言しているし、家定の生母、実相院も、
「御一門でありながら上様をかように悪しく申すとは畜生のごとし」と言っている。
46日本@名無史さん:01/09/22 14:02
>>30
著書は有っても、家重作の書画は一つも見つかってないね。
成人した他の将軍たちは、みんな何らかの書画を書き残しているのに。
まあ家重は脳性マヒだったらしいから、絵を書けないのも仕方ないか。

あと増上寺の将軍家墳墓の発掘調査によると、
家重の遺骨は歯並びの悪さと歯の擦り減り具合が凄かったとか。
これも脳性マヒによる強力な咬筋作用のせいみたいだけど。
47日本@名無史さん:01/09/22 14:14
>>45
でも、家定と対面したハリスはその時の様子を
「短い沈黙ののち、自分の頭をその左肩を超えて後方へ
グイッとそらし始めた。同時に右足を踏み鳴らした。
これが3、4回繰り返された。」と日本滞在記の中で言っている。
バカかどうかは別にして、挙動不審なのは間違いない(w
48日本@名無史さん:01/09/22 14:14
>>33
趣味=豆や芋を煮ることって・・・・(藁
49日本@名無史さん:01/09/22 14:21
天篤院様のためにカステラや豚の角煮を作ってやったこともあったそうな。
ただし小姓が味見したらとても食べられず・・・・
50日本@名無史さん:01/09/22 14:23
徳川家達は・・・・違うか。
51>48:01/09/22 14:25
それがうまくなくて、
生煮えだったり、たきすぎだたったりで、食えないシロモノなのに
家来にあげていたから、家来どもは大迷惑。。。
将軍から賜ったものだから、おいしそうに食べて見せるしかないからな。。
52日本@名無史さん:01/09/22 21:42
無名将軍が無名といわれるのは側近の老中に政治を委任したため
そちらの方が目立ってしまったからである、だからネタも政治の
話しはあんまりない、趣味や日常の生活・本人の性格などである
だから教科書に載るわけないし、ドラマにもならない
53日本@名無史さん:01/09/22 21:45
54日本@名無史さん:01/09/22 23:54
>>52・・・ドラマにもならない

いや、それはどうかな
55日本@名無史さん:01/09/23 00:13
影の軍団パート1・・・・・・家綱時代
                 主な敵・・・酒井忠清、紀州頼宣
 影の軍団パート2・・・・・・家重時代
                 主な敵・・・大岡忠光26人衆
                        公儀御庭番 椎名組
 影の軍団パート3・・・・・・・家綱時代
                 主な敵・・・紀州光貞、久世大和守
 影の軍団パート4・幕末編・・・・家定・家茂時代
                     主な敵・・・・井伊直弼
                            小栗上野介忠順
                            楯岡道雪
                           
56日本@名無史さん:01/09/23 00:58
>>55
パ−ト1は由井正雪もいただろう。
あれはインパクトあったよ。
当時小学生で正雪知らなかったんだけど
後に歴史の授業で再会。
正雪というといまだに陰の軍団のイメ−ジあり(笑)。
57日本@名無史さん:01/09/23 01:00

失礼。影の軍団ね。
58>50:01/09/23 02:35
家達公を無名とはいえんだろう。
59日本@名無史さん:01/09/23 10:25
家達公を将軍とはいえんだろう。
60日本@名無しさん:01/09/25 04:55
>>2ですが、
ちょっと訂正を。
戸川肥後守→戸川播磨守の間違い。
もともとの出典は戸川残花の「幕末小話」。
それを綱淵謙錠が「幕末風塵録」(文春文庫)で書いてます。
戸川と綱淵、両方読むことを勧めます。
微妙にニュアンスが違うんで。
61日本@名無史さん:01/09/25 14:16
8歳で病死した7代将軍家継で大河ドラマしたらすげえ
史上初、幼年期で終わっちゃう大河ドラマ、短期集中放送
でお願いしますよ、NHKさん
62日本@名無史さん:01/09/25 23:45
治済・・・・大御所になれなかったオヤジ
で大河ドラマを!
63日本@名無史さん:01/09/26 00:28
徳川三代に対抗して徳川末代。9代〜15代までを1年かけて大河。
大政奉還で終わり。
64日本@名無史さん:01/09/26 12:38
九代将軍家重。
障害者の苦悩、葛藤、性を赤裸々に描く問題作。
65>61:01/09/26 14:53
周辺人物 間部とか白石とか月光院とかを描けばそれなりの
ドラマになる。
 絵島事件とか八代擁立抗争とか
 間部と月光院はできていたかとか
スキャンダルと陰謀の宝庫だよ、
66日本@名無史さん:01/09/26 15:12
>>63
超見てぇ!
67日本@名無史さん:01/09/28 23:15
真面目に政治してない将軍は本人お飾りで側近老中ばかり目立ってる
だから少なくとも本人を中心にしたドラマは難しいのでは?
68日本@名無史さん:01/09/28 23:24
大河初!!ラブストーリー!!
家茂と和宮の恋物語!!
69日本@名無史さん:01/09/30 18:40
徳川綱重
70日本@徳川家〜い!さん:01/09/30 22:21
>>68
家定&天璋院篤姫、家茂&静寛院和宮さんの2本柱で見てみたいっす。
この場合、水戸斉昭、慶喜がすっげーやなやつになりそうだが。

20:44からは、家定ぐるめ紀行「カステラ」ほか
71日本@名無史さん:01/09/30 22:48
>>70
>20:44からは、家定ぐるめ紀行「カステラ」ほか
本編よりもそっちが見たい。
72   :01/09/30 23:08
家綱の平和ぼけ大老政治やれ
73日本@名無史さん:01/09/30 23:37
>>71
フジ福井アナをフリーにしてナレーションを
with太田真一郎(だっけ?)
74日本@名無史さん :01/10/03 19:59
>>63
「五体不満足」なんぞよりも反響ありそうだな
75日本@名無史さん:01/10/03 20:11
徳川いえひげ(家重)やんないのかなぁ。
76日本@名無史さん:01/10/03 23:50
>75
ヤバい方向に行くのでやんない。
吉宗の時の中村孔雀の家重見たか?
77>76:01/10/04 21:27
家重を演じたのは 梅雀 でござる。
78日本@名無史さん:01/10/04 21:39
幻の11代将軍 徳川家基 
79>:01/10/04 21:55
幻の将軍
  結城秀康
  駿河忠長
  甲府綱重
  紀州綱教
  松平清武
  尾張吉道
  前田犬千代(溶姫の子)
  松平定信

番外
  有栖川幸仁親王
80日本@名無史さん:01/10/04 23:09
>79
確かに(笑)。
81>:01/10/05 01:59
幻将軍
紀州頼宣 もだな。

 もし 慶安の由比正雪一味のクーデターが成功していれば
 
82 :01/10/05 11:43
13代将軍家定は、今で言う精神薄弱者だったようです。
当時の諸侯、諸士の間では「首振り将軍」と影では呼ばれていたようです。

>家定の馬鹿ぶりは松平春嶽と水戸斉昭が一橋慶喜を次期将軍にするために
>広げたものだからねえ・・・天篤院(家定の正室)や井伊直弼、小姓の朝比奈某らは
>「世間で言われるような方ではない」と断言しているし、家定の生母、実相院も、
>「御一門でありながら上様をかように悪しく申すとは畜生のごとし」と言っている。

是については、身内や侍臣が主を悪く言う事はなく、欠点をカバーするのは
当たり前なので鵜呑みには出来ないです。
83日本@名無史さん:01/10/05 14:16
14代徳川家茂ってマイナー?
公武合体のため皇女和宮と結婚
勝海舟をして「あの人のためなら死んでもいい」と言わしめ
高杉晋作も幕府を倒そうとするのに「あの歳若い将軍には気の毒だが」とまで言わせ
誠実、温厚にして悪口などほとんどなかった
平和な時代であったら名君だったに違いない
84日本@名無史さん:01/10/05 14:19
>83
いい人だったと思うけど
名君はいいすぎ。
8525代 将軍:01/10/05 17:53
和宮のエピソード
彼女が亡くなったあと、改葬か調査かをした時、彼女の遺骸にある写真が握られていた。
関係者の話によると、それは夫である将軍・家茂だったという。
しかし、当時の写真技術のため、外気に触れたことで、その写真は消えてしまった・・・
和宮が死してなお、思いを抱いた夫。
家茂が愚鈍ではなく、妻に慕われていた証拠とも言えるだろう。
86日本@名無史さん:01/10/05 18:42
>85
許婚だった有栖川宮の写真だったという話もあるけどね。
87日本@名無史さん:01/10/05 22:52
>84
とりあえず「江戸将軍」としての器は兼ね備えていたんじゃないかな。
あの当時にしても、ある程度の事はクリアーしているし。
平和だったらきっと名君と呼ばれたかも……。

>85
亡き家茂を偲んで和宮が詠んだ歌
「空蝉の 唐織衣 何かせむ 綾も錦も君ありてこそ」
「三瀬川 世に柵のなかりせば 君もろともに 渡らましものを」
あと一首忘れた……。

て事でやっぱり慕っていたんでしょうね。
もっともこれも後世の作り話だって説もあるけどね。
88東証大権現:01/10/05 23:08
そう。家茂と和宮には不仲説もちゃんとある。
その辺をヒントに書かれたのが
有吉佐和子の「和宮様御留」ね
89日本@名無史さん:01/10/05 23:34
>88
有吉佐和子ねえ。
はるか昔、静寛院宮奉賛会の人とお話する機会があったんだけど
有吉佐和子のことすごく怒ってたよ。
そのとき「宮さま(和宮)が有栖川宮をお慕いしていたなどというのは
根も葉もないこと」とも言ってたなあ。
実際、本当のところどうなんだろ。
>87
「世の中の憂きてふ憂きを身一つに取りあつめたる心地こそすれ」
じゃなかった?
9087:01/10/06 00:42
>89
……じゃなくて、もう1首も下の句が「綾も錦も君ありてこそ」なんだよね。
ど忘れ。


でも結局和宮と有栖川宮の婚約って「口約束」なだけで実際あった事もないわけだよね。
実際そんな人に惚れるかって言ったらちょっと疑問だよね<和宮、有栖川宮ラブ説

勝海舟が和宮が家茂の草履を裸足で庭に降りて揃えたっていうエピソード言ってるしね。
まぁこれも嘘だって説もあるけれど。
不仲説は、最後まで和宮を認めようとしなかった江戸城大奥の女中が言い始めたもの
だってあったってゆうけど……。

家茂は京都に行ってすぐに和宮の御土産である西陣の織物買ってるし、
和宮の遺言で、墓は家茂の隣に……てのもあるし、個人的には愛し合っていたと
思いたい。
91日本@名無史さん:01/10/06 00:50
>>90
 「着るとても今は甲斐なき唐衣 綾も錦も君ありてこそ」
だったかな。自信なし。
 「よそおわん心も今は朝鏡 向かう甲斐なきたがためにかは」
とごっちゃになってるかもしれない。こっちもあやふや。
漢字や仮名の表記を間違えてる気がする。
9290:01/10/06 01:41
>91
それだ!!
最初の和歌です!!
ありがとう〜〜。
932:01/10/06 04:44
家茂のエピソード >>2 を是非読んでください。
きっと彼の優しさに惹かれることでしょう。
勝海舟が彼のためなら死んでもいいとまで思ったのも、
和宮が彼を心から愛したのも無理からぬことです。
94日本@名無史さん:01/10/06 10:29
どこかに元ネタがあるようなうそくさいエピソード。
95日本@名無史さん:01/10/06 12:43
>79
将軍候補者、ほかにもいないのかな?
96>:01/10/06 13:24
将軍候補といえば、、
1) たやす かめのすけ ちゃん
つまり 家達

慶喜ぎらい水戸ぎらいの人たちは15代に彼を擁立しようとしていた。。。
幕府崩壊のドロをかぶりたくなかった慶喜自身も、
15代は亀坊にやらせて
自分はもうちょっと安全なポシションを保とうとかんがえていた節がある

2) 俗説の柳沢騒動を信ずれば
 柳沢吉里
も幻の将軍
97日本@名無史さん:01/10/08 16:57
家茂の跡目には、家茂自身田安亀之助を押してたんだよね。
時局を考えて慶喜になったけど……。
和宮が慶喜押したって説と、亀之助押したって説両方あるけどどっちが正しいんだろう。

徳川幕府降伏後、田安亀之助改め家達は天璋院に育てられたんだよな。
亀之助から見れば曾ばあちゃんにあたるのか?
家定・天璋院夫妻の養子に家茂が入って、家茂・和宮夫妻の養子に慶喜が入って、
その後家達だから……。
98日本@名無史さん:01/10/08 16:59
イスラム教徒の将軍様がおられたとか
99日本@名無史さん:01/10/08 18:15
なべ将軍
100歴史の勉強:01/10/08 18:24
100番、ゲッチュー!
101日本@名無史さん:01/10/08 18:28
>>100
あっ いいなー
102歴史の勉強:01/10/08 18:33
すんません! つい魔が差して……
真面目にやりましょう。
僕が思う無名将軍は:
家綱(4)、家宣(6)、家継(7)、家重(9)、家治(10)、
家慶(12)、家定(13)
このうち、家宣は真面目に改革やろうとしてたみたいだから外すべきかも。
たーだ、家茂なんか、単に幕末の将軍だから有名って観も無きにしもあらず。
綱吉なんか、「生類憐れみの令」でしか知名度ないしなあ(真面目な人だったらしいけど)。
103日本@名無史さん:01/10/08 21:55
>102
家茂は結構マイナーらしいけど?
104歴史の勉強:01/10/08 22:08
でも、幕末を舞台にした歴史小説で、井伊直弼がらみで出てくるじゃない?
一ツ橋慶喜と公方の位をめぐって争った、という。
武田鉄也/小山ゆう「お〜い、龍馬」にもよく出てきたよ。
お人好しの公方さまって感じで。
105日本@名無史さん:01/10/08 22:13
>104
でも、所詮は脇役。
一般的にはメジャーじゃないよ。
106歴史の勉強:01/10/08 22:20
でもさ、(北条氏、)足利氏に比べて、
これだけ無名将軍が多いってことは、
逆に、将軍が無能でも治まる世の中だったってことだよね?
官僚制がよく整備されていた、ってことか。
107日本@名無史さん:01/10/08 22:51
>106
そういうように、家康、秀忠、家光の代に作っておいたからね。
というか、北条、足利もマイナーな将軍多くないか?
私が知らないだけかもだけど……。
108日本@名無史さん:01/10/08 22:52
足利だって無名将軍多いじゃん。
109日本@名無史さん:01/10/08 22:56
>>108
そういう話ではない。
つーかage荒らしかい?
110日本@名無史さん:01/10/08 23:07
北条まったく知らない・・・
111日本@名無史さん:01/10/08 23:14
>>109
そういう話ではないならどういう話よ?
あんたこそ荒らしかい?
112歴史の勉強:01/10/08 23:19
北条は知名度高いじゃん?(将軍じゃないけど)
時政、義時、泰時、時頼、時宗、貞時、高時、だぜ?
嫡流だけでも、こんだけ有名でしょが。「得宗専制」に興味ないと、貞時知らないかな?

足利将軍ですと、尊氏、義満、義持、義教、義政、義昭の6人は誰でも知ってるわな。
南北朝に関心あれば義詮を知らないこたないし、応仁文明の大乱を知ってれば義尚も入るか。
あとはその将軍の在位した時代にどんだけ関心あるかだね……。
義材(義稙)、義澄、義晴、義輝、は政治的にけっこう活躍してるから、
畿内戦国史に関心ある人なら知ってるでしょう。
義量(5)、義勝(7)、義栄(14)は仕方ない。
でも、足利将軍のほうが徳川将軍よりはいいよ。少なくとも顔は見えるから。
113日本@名無史さん:01/10/08 23:27
>>112
そうかな?
知名度は
徳川>足利>北条
だと思うけど。
114日本@名無史さん:01/10/09 00:19
あぁ、北条のは将軍じゃないんだ。
だったら知名度高いもわかるけど……。
でもそこまで高いかなぁ……。
結局どの時代の将軍(執権)も世間的にはマイナーな人沢山いると思うけど……。
というか、「歴史の教科書」に名前が出て来る、来ないを世間一般としてとらえるなら
徳川幕府が一番メジャーとか思われ。
歴史好きにとってみたらそれぞれ好きな分野があるし、一番世間的とゆう面では
歴史の教科書が手っ取り早い。
115日本@名無史さん:01/10/09 14:24
鎌倉幕府は源氏が3代で絶えてしまったので後は形だけの宮将軍
執権北条に実権持ってかれて単なるお飾り、4代以降は全員無名
でしょ、この将軍達の事知ってる人いますかね、いたらすごい
116日本@名無史さん:01/10/09 16:05
>>115
宮将軍の前に摂家将軍がいますが。
それはともかく一人有名(?)な宮将軍が・・・・・宗尊親王。
117歴史@時輔 ◆y554YKT6 :01/10/09 16:07
某も家茂に1票。
118日本@名無史さん:01/10/09 16:19
将軍ではないけれど暗殺された(?)徳川家基に1票。
119日本@名無史さん:01/10/09 16:53
六代将軍・宗尊親王
1252(建長4)4月〜1266(文永3)7月
120日本@名無史さん:01/10/09 21:30
>118
その人ってどの将軍の時代の人?

>116
宗尊親王はただ大河であのキャラだったからでしょ(笑)。
まぁあれで印象づいたけどね。私も。
121歴史の勉強:01/10/09 21:34
宗尊親王が比較的有名なのは、彼の時代、まだ得宗専制が未完成で、
将軍にも少しは権限が残っていたから。

しかし、大河の親王は「つくりすぎ」ですよ。いい意味で。
役者さんにはおいしい役でしたね〜。
また復活しないかな?
122日本@名無史さん:01/10/09 22:05
>120
徳川家基は十代将軍家治の唯一人の息子です。
18歳の時、鷹狩の帰りに急死。死に方が尋常ではないので、
暗殺ではないかと噂された。
これにより一橋治済の子、豊千代(家斉)が家治の養子となり、
十一代将軍になりました。
123日本@名無史さん:01/10/09 22:07
>>120
10代将軍家治の跡取息子。
なぜか18歳で急死。
124歴史の勉強:01/10/09 22:48
これけっこう、ややこしいんだよね〜。
日本で天皇制が続いたこともそうだが、北条氏の執権政治。
なして、将軍家執事(?)の北条氏が絶大な権力を行使できたか。

英語だと、将軍政治「shogunate」に対して(もちろん、幕府、の意もある)、
摂政政治「regency」と訳されとった。
将軍さまが「国王」で、執権は「摂政、関白」なんだろうね、外人さんには。

115さん。
どうでもいいことですが、鎌倉の4〜5代は藤原氏です。
宮将軍は宗尊親王から。
125120:01/10/10 00:02
>122,123
サンキュウ。

>124
天皇制を残しつつも、武家社会制度が出来あがって行くって構図がもうすでにややこしい
しねぇ……。
幕末に開国を迫られた日本が逃げる為に日本のトップはどこか(幕府か朝廷か)で
もめたし。
さらに鎌倉時代は執権が事実上の将軍みたいだったからさらにややこしい(笑)。
126>102:01/10/12 23:15
綱豊 (家宣)
は 新井白石先生自慢の教え子なので
  ”折りたく柴の記”のなかで 白石センセ べたほめしてます。

彼を主人公にした時代小説もあります (元禄歳時記 杉本苑子)
元禄時代に甲府宰相だったので、
 元禄時代の物語には脇役で結構出番あります
  (水戸黄門や赤穂浪士ものといった定番に登場します)
127:01/10/12 23:22
足利の末裔は江戸時代も
なんたら公方 てよばれていたから 将軍か
128トム:01/10/13 00:31
>>98
オ〜マイガッ
129A:01/10/13 00:59
昔、修学旅行で日光に行ったとき、ペナントに、初代家康からずーっと将軍名を並べて
徳川16代×× 17代○○ 18代△△ とか書いてあったの見たのを思い出した。
16代以降の話って出てない(出てる?)けど、知ってる人、いますか?
130鎌倉:01/10/13 01:26
天皇が番長かと思いきや、裏番に征夷大将軍っていうのがいて、
そうかと思えば執権とかいうのが裏裏番長で(藁。
でも、裏裏裏番長に得宗っていうのがいるんだよ。
で、このへんで黒幕さんの登場は打ち止めだろうと思ったらよ、
今度は内管領とかいうのが裏裏裏裏番長だってさ。
もう、何が何だかワカんねぇよ(藁
形を重んじる不思議の国、日本。

えっ、天皇の裏番には上皇とか法皇だとかもいるって?
参ったねぇ
131歴史の勉強:01/10/13 01:36
だから、鎌倉時代は初心者には非っ常に説明しにくいんだよね。
石井進先生が中公の「日本の歴史」で指摘してた、
「鎌倉幕府の職制を図式で表していることが多いが、現実と一致したことがない」

だから、歴代執権を全部おぼえるのは奥富先生みたいな方だけで十分で、
史学者だって得宗しか知らなかったりする。

これは京都貴族も同じで、歴代天皇知ってても歴史の勉強には役立たない。
とても大事なのが「実権を握った上皇」で、これがいわゆる「治天の君」。
上皇ったって、実権ゼロで単に即位しただけの人もいる。

鎌倉後期は、ありとあらゆる「位」が実権と乖離した観さえある。
132康煕:01/10/13 03:05
>>129
別スレでも出てますので、知っておられる方が多いと思いますが、
16代 家達 さんは貴族院議長、ワシントン会議は全権を勤められ
      ジーメンス事件で、山本権兵衛内閣が倒れたときに
      組閣の大命が下ったもののこれを固持。
17代 家正 さんはそのご子息でやはり貴族院議長
18代 恒孝 さんは家正さんの孫にあたり、現在は日本郵船の常務(社長候補とか)
19代の方は名前は存じ上げてますが、今は公人ではないので。

17代家正さんのご子息で家英さんというのが、夭逝されているんですね。
直系で3-4代で一旦途切れて養子を迎えるパターンが続いているという意味で
非常に不安定な家系ではあります。
133康煕:01/10/13 03:54
>>131
実際、貞時以後は、内管領の意向でころころ執権が交替。
得宗(高時)に戻ったときには執権は完全に内管領の傀儡に。
これって、最近では経世会の実力者が総理大臣を決めて、
ころころ総理が変わったいわゆる失われた10年の構造と
共通するものを感じます。
これが日本の政権が創生期から安定期にかけて変化する構造なんでしょうね。
ポストと実権の乖離。強力且つコンセプチュアルな指導者を嫌う構造。
実務方、調整者タイプのキーマンによる運営は
平時は有効な仕組みとして機能しますが、
肝心なときに変化に対応できない硬直した仕組みになります。
創業者タイプの指導者の出現も阻み結果としてその組織が
弱体化してしまうということでしょうか。

江戸時代に話を戻すと将軍-側用人という仕組みが有効に機能していた
ものが、田沼意次の失脚以降、側用人制の喪失によって幕政が硬直。
幕閣運営といっても実際はその下にいる有能な陪臣達によって政策が
調整されていくなかで、変化への対応能力を失って幕末の混乱へ。

将軍-幕閣、天皇-将軍、
家茂さんって、時代が強い政権を望む中、700年来の平時の
政権構造の仕組みの矛盾を一人で背負い込んだ感がありますね。
最後は暗殺だったという話もありますが、ほんとに気の毒といえば
気の毒な将軍だったと思います。
134日本@名無史さん
徳川夢精