1 :
日本@名無史さん:
元寇の際、日本側の記録では夜間に船へ引き上げた元軍を暴風雨、
台風が襲い、元軍の艦隊が壊滅したとなってます。
では、中国やモンゴルの記録ではどうなってるのだろう?
本当に神風だったのか、何か重大な理由があって撤退しただけなのか、
それとも、まずないだろうけど、鎌倉軍に恐れをなして退却したのか。
わからん・・・。
2 :
日本@名無史さん:01/09/09 20:54
1最初は威嚇の為に来た
2オモタより日本の武士は勇敢なので大量の犠牲を恐れた
3上陸しても補給線が確保できないと判断した
4早く戦争終わらせて故郷帰りたくなった
3 :
日本@名無史さん:01/09/09 20:57
元軍は壱岐・対馬を永続的に支配しなかったのか?
4 :
日本@名無史さん:01/09/09 20:58
1はありえますね。
2はちょっと考えにくいんですよねぇ・・・。
3はどうでしょう? 高麗からの制海権は元軍にあったわけだから、
補給線は確保できると思いますけど・・・。
4はちょっと^^; 元軍って言っても、ほとんど高麗人だったわけで、
出征してからまだ日が浅かったし^^;
5 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:00
何故元軍が壱岐、対馬を恒久的に占領しようとしなかったのかが、
不思議ですよね。
占領しておけば、次の出征にも便利だったろうに。
6 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:00
ドラマでは日本側が、一方的に押し捲られていた感じだったが、蒙古側
も思わぬ被害を受けていた。歩兵同士の乱戦になった時は、日本側の方
が強かったが、蒙古側は個々の兵の弱さを数で押していた。それから、
鋳造の青龍刀では日本側の鎧武者を鎧の上から切るのは不可能だが、
太刀や長刀では、蒙古軍の皮や布製の鎧は楽に切れた。それと、副将の
劉復亭が重症を負ったのも大きいだろう。実際は、劉復亭が従卒と小弐
の軍を騎馬で負ってきたのを小弐が自分の弓で射倒したのが史実でしょ。
射程距離よりは発射速度優先の蒙古の弓より、和弓の方が、射程が長かっ
たわけだしね。
7 :
流浪の鉄ちゃん:01/09/09 21:04
>3
壱岐・対馬の永続的支配に必要な負担>>得られる利益、なら
流石に元でも維持する気にはならないと思われ・・
8 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:05
ドラマでは元軍の兵力は4万でしたよね。
それって、大軍なんでしょうか?
鎌倉幕府が本気で兵を集めたら、最低でも十数万は集まったと思うんです。
それに、わざわざ上陸地点で迎撃するのではなくて、博多をタダで元軍に
占領させて、そこを周囲から一斉に攻囲すれば容易に殲滅可能だったはず。
元軍お得意の騎馬軍団もないわけですしね。
9 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:09
>7
そんなに負担かかりますかね?
金人や高麗人を適当に送り込んで支配させるくらいなら、元の国力を
もってすれば容易なような気もしますが・・・。
10 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:10
高麗軍だから元にいやいや戦争に駆り出されてるからそんなにやる気
なかったのでは?
自衛隊がアメリカに「北朝鮮攻めて来い」と言われたら同じ心境なのでは?
元のフビライに日本を攻めるよう御注進したのは高麗の王様だそうです。
韓国にはきっちり謝罪と賠償をしてもらわんとね。
12 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:14
>10
それもそうですね(笑)
元は極一部の蒙古人とウイグル人などの支配階級が、金人、南宋人、高麗人を
締め付けてましたからね。
13 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:14
>>10 私も高校の世界史の時間にそう習いました。
4万の軍勢ていったら大軍だと思うよ。船の乗組員とかも含めての
話だと思うけど。ただあの時代にそれだけの人間を自由にあやつる
ことなんかできたのかなあ?
大体文永の役の時は高麗の兵士が大多数を占めてたそうですな。
どう見てもやる気満々なようにしか思えません。
16 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:21
>7
日本の反撃を考えれば守るのに数万の軍を置いておかねばならないが、それだけの
軍を壱岐や対馬で養うのは無理だから、兵糧の輸送にかかるコストもバカにならない。
しかも兵士達は故郷を遙か離れた小島に駐屯させられるわけで志気の維持が極めて
難しい。
実際、弘安の役の後で壱岐や対馬に残っていた兵数万人が日本軍に掃討されて全滅
しており、間違いなく同じ結果になっただろう。
17 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:21
>14
三国時代の資料だと、数に誇張はあるでしょうが、各勢力が平気で
十万単位の兵力を運用してましたよ。
日本でも鎌倉幕府が十万単位の兵力を動かしたことはあります。
だから、どうしても4万が大軍だとは思えないのですよ・・・。
元は本気で4万で日本を征服できると考えたのかな・・・。
19 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:24
高麗軍の将軍はむしろ戦意旺盛で、弘安の役の時は撤退を主張する
モンゴル側に対して攻撃を主張し、その結果傷口を広げている。
彼らにしてみればモンゴルの過酷な攻撃で荒れ果てた祖国を建て直す
為に日本に侵攻したいと考えても何ら不思議ではない。
20 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:25
元軍は艦隊に慣れて無い上に、船内で疫病が流行った。
食料はビタミン類が不足した為かなりの兵士が体調不良をおこした。
玄海は荒れるので元の兵士は船酔いがひどかった。その上台風。 副将の重傷。
・・・・せめても割に合わないと、思ったんじゃない?
21 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:25
高麗は謝罪すべきですね。
22 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:26
高麗は無謀
23 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:27
>19
高麗人の地位を元の中で少しでもあげたいという思いが、
日本への侵攻を促進させたんでしょうね。
手柄を立てれば、元での地位が上がると考えたのでしょう。
もっとも、たとえ高麗軍が日本への侵攻を成功させたとしても、
蒙古人たちによる元の独占支配体制は全く変わらなかったでしょうけど。
24 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:27
>大体文永の役の時は高麗の兵士が大多数を占めてたそうですな。
>どう見てもやる気満々なようにしか思えません。
当時、高麗人にとって日本なんか海の果てのどーでもいーよーな国だろ。
それに対して恨みや憎しみすら持ちえない海中の蛮国。
25 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:28
>20
元軍が船に弱いというのは、ちょっと違うと思います。
蒙古人ならともかく、ほとんどが高麗人だったわけだから、蒙古人ほど
船に弱かったとは考えられません。
26 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:31
フビライ自身は文永の役を失敗とみなしていないことから、最初から
日本に対する脅しだったという説もあります。
27 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:31
>23
それはさ、あの若い王様の話でしょ。元のお姫様もらって、
衛星国として忠誠心を見せたかったわけだ。だけど、それと
徴用された一般兵士の意識とは全く別だったろう、と
言いたいわけだ。
28 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:33
>26
文永の役が元軍の敗北とは絶対言えませんね。
でも、脅しなら、博多周辺を一時的に掌握したほうが効果はありませんか?
ただ一戦しただけで撤退するのは、脅しにしてもリスクが大きすぎる気が
しないではないですが・・・。
29 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:35
>27
高麗の野心家と高麗の一般市民の思いは全く違ったと・・・。
それはそうでしょうねぇ・・・。
野心家なんて、市民のことなどほとんど考えませんからね。
30 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:36
>27
それだったら元軍の殆どがそうだよ。
モンゴル民族は元々数十万人しかいない少数民族だから、帝国の兵士の圧倒的大多数
は侵略した地域の現地人だよ。
31 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:37
>>2 俺も今日みたけど1.かなあ??
本気で日本を占領するなら4万の兵では少なすぎるでしょう。
そもそも元ははじめから日本を占領するきなかったのでは??
貿易の自由化を求めてはじめは交渉してたが決裂して、元の恐ろしさをしらしめる
パフォーマンスのような戦であったのかもしれない?
ホント判らないけどね。>>
32 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:38
33 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:39
>30
元の母体である大蒙古帝国の蒙古人による総兵力は十万くらいだったと
言われてますしね。
蒙古騎兵の機動力と、イスラム商人の協力が、あの巨大国家を築けた
要因です。
だから、蒙古人は、現地に現地人による傀儡政権を立てることによって
しか、巨大国家を築くことは不可能だったんでしょう。
まあ妥当な線としては、日本側の抵抗が予想以上でかつ、どの程度の援軍
がいつやってくるのか元軍が把握していなかったために、慎重策をとって
引き揚げたと見るべきでしょうな。
脅しであるなら対馬・壱岐で殺戮を行い博多を焼き払い、日本軍に大打撃
を与えた時点で「戦果は十分」と判断しても別におかしくありません。
元ってインドネシアのほうまで来てたってほんと?
36 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:42
あっそうそう。
秀吉が朝鮮征伐したときの兵の数って何人なの?
本気で日本を占領するきがあるなら4万人じゃ少なすぎるのでは?
秀吉は本気で朝鮮を支配したいと思ったらしいから秀吉の時の兵の数くらいは
必要なのでは(30万人くらいか??)どちらにしても朝鮮出兵の時の兵力の数が参考になるのでは?
無理に占領しなくたって交易ルートが確立できればそれでいいんじゃ
ないの。
4万の兵っていうけどペリーは黒船4隻で日本びびらせたんだし。
38 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:44
>34
なるほど・・・。
>35
聞いたことはありますけど、これも失敗したはずです。
蒙古帝国が支配できたのはユーラシア大陸で、南宋、アイユーブ朝、インド、
それから西ヨーロッパ以外の地域で、元になってからもユーラシア大陸のみ
支配していたはずです。
39 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:45
40 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:46
ちっぽけな島国相手には先遣四万程度で充分だと思ったんじゃないっすか。
中国破った後だから日本の事甘く見てたのかも。
と、思ったら予想以上に手強い”武士”がいたと。
41 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:47
>36
朝鮮出兵は、十数万から二十万弱くらいだったはずです。
もっとも、朝鮮水軍にえらい苦戦しましたが^^;
>37
それは、江戸幕府がしばらく戦争を経験していなかったことと、
アメリカ合衆国と江戸幕府では国力、科学技術力など、すべてが圧倒的に
劣っていたからでしょう^^;
元軍がもしペリー艦隊を見たとしても、びびると思いますよ(笑)
42 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:47
フビライが日本を侮って少ない兵しか送らなかったというのは?
43 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:50
>40、42
元が鎌倉幕府を侮っていたことは十分考えられますね。
確かに、金、南宋を破ったわけですから、鎌倉幕府などちっぽけな
存在だったんでしょう。
44 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:51
確かに元って地図を見ると広大なんだけどさあ。
>>33さんが言うように本体ってそんなもんじゃないですか。
広大な土地を支配してもそこに住む人間って多民族でしょ。
言葉も違う多民族を権力で抑えつけて大帝国作ってもあちこちで
また革命起こされる可能性があるから、そうだなあ、判りやすく言えば
元の本体は持ち株会社で案外小さくてその周りに高麗などの傀儡政権で
間接支配してる状況(親会社の下にある子会社のようなもの)といったところか?
45 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:52
輸送の事考えると、いくらインプットしたくてもアウトプットの
問題がね〜
46 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:53
韓国は文永の役に関して日本国に対して謝罪と賠償をすべきです。
それができないなら、朝鮮征伐と、韓国併合は日本の「成敗」だったのですよね。
元寇について、日本を「成敗」した、と教科書で教えている韓国の皆さん!!
47 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:55
>44
帝国を形式的に支配していたのは蒙古人。
帝国を実質的に運用していたのはイスラム商人。
帝国を分割的に統治していたのは各傀儡政権。
こういう考え方が実際のとこでしょうね。
48 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:57
>45
輸送や情報流通に関してですが、蒙古帝国はあの時代としてはすばらしく
発達していたようですよ。
ユーラシア大陸を東西に街道で結び、馬を乗り継いで驚くべき速度で
情報などは伝わっていたようです。
出来る範囲において最大限のことはきっちり出来てたみたいですね^^
49 :
日本@名無史さん:01/09/09 21:59
韓国の教科書では元寇は「ウリナラも被害者ニダ!」らしいな(藁
歴史歪曲もいいとこだ。
50 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:03
元に戻っちゃうけど
脅し兼斥候(偵察)が主目的だったのでは?
脅せば日本は屈服するとオモッタのでは?
また島国占領するにはイッキに攻めこんだら大量の犠牲が想像される訳だし
何が出てくるか解らん国と思われてたろうし、斥候だす必要もあったとオモワレ。
戦時中の米軍だって本土決戦は躊躇したくらいだし。
壱岐、対馬が沖縄の様に犠牲なったわけですね…
51 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:08
っていうか、輸送船がそれだけ用意できなかったからじゃないの?
元軍の圧倒的兵力より、むしろ用意できる船の数が政治的行動の
判断材料だったのでは?
52 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:08
壱岐、対馬のどっちだか忘れたが鶏が鳴いたために家人が敵に
見つかって殺されたところでは今でも鶏を飼わないそうだ。
53 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:10
文永の役では輸送船の製造その他雑用はすべて高麗持ちだったんだそうで。
元のお財布は関係なかったんだろ。
>52
鷹島じゃなかったっけ?
55 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:16
結局のところ間接支配したか、差別して奴隷化したかの違いでは
元が高麗支配したとき元の王様を日本の現人神みたいにタテマツレ!!
と脅してすかして支配したの?創氏改名したり。違うでしょ。
日本のチープな天皇制で朝鮮人、シナ人を差別したから中国、朝鮮の人たちの世論を
見方につけることが出来ずに日本は敗戦の目を見たのでは。
本当に解放戦争なら元の大帝国のように間接統治でしょう。
アジアといっても多民族なのだから、日本のように単一民族しか通用しない天皇制を
アジア大陸に持ち込んで八紘一宇の理想が実現できるわけない。
>55
ハァ?
ヤクルトが負けてるのは広島が優勝するためだよ?
何勘違いしてるの??
57 :
日本@名無史さん :01/09/09 22:22
・・・・・・
58 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:24
>>52
えっ! 内の親の実家が先祖代々なぜか「鶏飼っちゃいけない」とゆうのが
家訓らしいんだけど…
九州じゃないんだけど先祖は大宰府菅原道真だってゆうんだけど。。。
勉強ナタ。
59 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:25
>>55 言ってることは現代史に関しては概ね正しいと思うが、
そんな事を強引にこの元スレと結びつけるところに
常識あるいは思考力の欠如が明らかですな。
朝鮮の王様なら何度も中国に言われて改名してるけどそれがなにか?
創氏改名ってどうやってするの?ある日突然敵兵がやって来て
おまえは明日から○○だとかいうのかな・・・・
のんきな敵兵ですな
63 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:30
>>61 アフリカ黒人は奴隷にされてそれをされてるね。
ある日、異国に連れて行かれてお前はジョンだとかボブだとか。
そこまで唐突じゃないって。元々は一部の黒人部族が欧米の支援を受けて
他の部族を滅ぼし、そいつらを奴隷としてうっぱらっていたんだよ。
創氏改名は朝鮮では許可制だったと聞いたが?
「したけりゃしてもいいよ」ってくらいのものだったとか。
だいたい本名で日本軍の少将だかをやってた朝鮮人がいただろ。
>>66 ほとんどの人は
朝鮮のそのままの名前を日本名にしました。
69 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:43
>>66 同じ伝で、神風特攻隊は”志願制”だったね。
今でもこの手の我が日本的伝統はサービス残業とかに
残ってるなぁ。 藁)
70 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:45
日本軍の士官学校卒業者名簿によると朝鮮人の半分は朝鮮式の姓で
卒業している。
強制性が全くないのは明らかだ。
71 :
日本@名無史さん:01/09/09 22:49
>>69 神風特攻隊は拒否できない
改名は20%は朝鮮名のまま
つまり拒否可能だよ
朝鮮での徴兵も1944年頃からでしかも志願制、定員枠を遥かに超えた応募がきたとも聞いた。
元寇に関係ないのでsage
600倍でしたっけ?>72
そういえば他のところでそれを指摘されたヤツが
「大勢志願したのは軍に入らないと命がない状況におかれたからだ!」
と力説して
「それじゃ志願の枠に漏れたヤツはみんな死んだのか?」
と問われてバカにされまくっていたなあ。
「黄金の国ジパング」伝説がフビライの侵略を後押ししたというのは・・・ない?
76 :
日本@名無史さん :01/09/09 23:00
>>75 正直、あると思ふ。
じゃないとわざわざ海越えてまで来る利益がない。
77 :
日本@名無史さん:01/09/09 23:03
>73
俺もそれ読んだことあるけど、どう取るか考えさせられるね。
GHQならぬ総督府の占領思想に洗脳され、内面化した
哀れな韓国版”サヨク”たち、ということのような気が・・
78 :
日本@名無史さん:01/09/09 23:04
また、コヴァがわいてるよ(ワラ
今回の時に元軍は実際に高麗に帰ってるの?
かなりの数が消えてたんなら、要するに風にやられたんだよ。
そうでないとすると、2みたいな選択肢を考える余地が出てくると思うよ。
その辺の基本的な知識を誰か教えてください。
80 :
日本@名無史さん:01/09/09 23:21
どうも6の言うことは胡散臭い
太平洋戦争でも聞いたような話だな>日本兵は最強である・元は個々の兵は弱いが
それを集団でカバーした・日本刀はよく斬れる(但し、使い手が使った場合のみ)
・・・・
日本刀がよく切れると100人切り伝説の裏付けができてしまう(藁
でも、あの重い青龍刀より堅いんだよね
83 :
日本@名無史さん:01/09/09 23:50
>>80 まぁ実際は実力は五分五分、日本軍は基本的にバラバラな攻撃=ゲリラ的な攻撃を仕掛けてる。
土地に不慣れで補給の厳しい元軍にとってはもっとも嫌な攻撃といえる。
不意にされる攻撃にいちいち動き制限され、少しづつ戦力をすりつぶすだけだからね。
こうなると数に勝る日本軍が圧倒敵に有利。
やはり昔からの通説にある通り、「神風」が吹いたからだと思う。
台風のシーズンではないというのはもっともらしく聞こえたけど、
実際、調べてみるとそうではなかった。専門家
のいうことは結構あてにならないことが多い。
↓
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/genko.html この「嵐」に関しての福岡市在住 yasuyukiさんからのメールを紹介します.)
(元寇が起こったのは,今の暦でいえば,一方が台風シーズン,もう一方が11月にあたるはずです.実際福岡に住んでおりますが,11月ごろ台風並の低気圧が発生し,秋の嵐ともいうものが起こります.2度の暴風雨が元軍を退けたことは確実ではないかと思います.)
文永の役(文永11年10月05日)西暦1274年11月04日
弘安の役(弘安04年07月01日)西暦1281年08月16日
下にyasuyukiさんが新聞から調べた11月の天気に関する表を示します.確かにこの時期の北九州には低気圧が多く発生し,海が荒れることがわかります.文永の役ではこの嵐で元軍が大打撃を受けたものと思われます.yasuyukiさん,有難うございます.
1999年/2000年11月の福岡地方の天気
1999年の11月1日は,996hpの低気圧が東に遠ざかり,雨,雷を伴うとの記事.
2日は北よりの風強いとの記事あり.12日には1008hpの低気圧が対馬付近を通過,午前中まで雨.
16日は,曇りで北よりの風強く,海上は波が高いとの記事.
26,27日には,季節風強く,しぐれる.海上は波が高いとの記事.
29日も海上は波が高いとの記事.
2000年の11月1日は,台風20号の影響で雨,雷雨を伴い1時間に30mm以上.気圧は1016hp.気象災害に注意との警告が出されています.これは,2日には温帯低気圧に変わっています.
11日,15日,17〜19日は海上は波が高いとの記事.
15日夜は,雨で雷を伴い,低気圧の動きは速いとの記事.
鎌倉武士が勇敢だったから勝てたんじゃないのかよ・・・ガクッ。
あ、そうそう、今も残る防塁はどれだけ役に立ってた?
水際で上陸を阻止するのにはずいぶん役立ったのではないか?
87 :
日本@名無史さん:01/09/10 00:06
>>84 ちゃんと元軍が上陸し、船も入り江に接舷してれば嵐はやり過ごせる。
鎌倉軍の圧力に負けて海上に撤退した以上元軍に勝ちはなかった。
嵐はダメ押しでしかない。
>86
防塁が役にたつのは弘安の役の前
まだできてませんよ
89 :
日本@名無史さん:01/09/10 00:17
でも最初の奇襲攻撃を撃退した時点で神風が吹かなくても日本の勝ちが確定してる。
上陸作戦では最初の奇襲攻撃で上陸用陣地を作れなければ攻撃側は絶対勝てないからね。
90 :
日本@名無史さん:01/09/10 00:39
>>79 >今回の時に元軍は実際に高麗に帰ってるの?
>かなりの数が消えてたんなら、要するに風にやられたんだよ。
そうそう。結局は、それだよね。アチラ側の記録ではどうなっているか。
本当に暴風雨に見舞われたのか。
現在の蒙古史研究ではどうなっているの?
NHKでも、それを曖昧にしたってことは、真相は不明ということ?
91 :
日本@名無史さん:01/09/10 01:14
>>90 多分、何の異常もなく普通に帰って解散したんじゃないの
生き残って帰ったのが何人ほどなのかを調べればわかるんじゃないの?
戦死したと思われる数以上に死んでれば何らかの事故で死んだと考えるのが妥当でしょう。
93 :
日本@名無史さん:01/09/10 01:39
>>90 中国側の記録では、帰りに海上で強風にあって多少船の損傷があった
程度。弘安の役では、返る者10の内2、3と書居てある同じに資料に
だぞ。戦闘で被害が出たと報告するより、天災のせいにした方がまし
なのに、あえて言及してないのは、とても嵐のせいに出来る程じゃ
なかったからだろう。蒙古の主将の欣都が、思わぬ抵抗による被害
が大きいと報告しているしね。蒙古側が驚いたのは、彼らが今まで
戦ったどの民族も兵士は自分が死なない様に戦闘(形成が不利なら逃
げる。囲まれれば投降する。)したが、鎌倉武士は周りを囲まれても
怯まずに抵抗したことにカルチャーショックを覚えたと言う記録も
あるぞ。
94 :
日本@名無史さん:01/09/10 01:47
弘安の役では防塁を使って鎌倉武士は勇敢に戦ったの?
詳しい人、教えて!!
95 :
韓国の若者に支持されてる北朝明仁は左翼ではナイ:01/09/10 01:59
だから神風なんて旧日本軍が作ったチープな妄想カルト天皇教の造語だってばあ。
麻原の終末論並みの洗脳で・・・
差別された側(シナ人、朝鮮人)はたまったもんじゃないって。
元のように広大なアジアに住む異民族を束ねるには間接支配しかないのに
天皇制で奴隷化するから反日運動起こるだろうよ。やはり差別はいけない。
マア、結果の反アジアの解放戦といったところ。
日本がアジアの諸国の独立化に貢献したなどというキxチガイは石にアタマうって病院いけよ。
文永の役はともかく、弘安の役は水際で敵を阻止した鎌倉武士の勝利だな。
元軍は長門までちょっかいだしてるけど、結局上陸できなかった。
で海上をうろうろしている時に台風が来てあぼんぬ。
もし台風が来なくてもどの道日本の勝ちだな。
97 :
日本@名無史さん:01/09/10 02:36
>>49 ★被害者説
洪茶丘−高麗人にとっての裏切り者洪福源の息子で、
高麗王族永寧公の讒言によって父親を処刑された
恨みからか、高麗に対し過酷な態度をとった
興味深い男。
この男が人夫を追い立てつつ、突貫工事で
船九百艘を建造した。文永の役で、
その洪茶丘と金方慶の対立が表面化。
1277年の誣告事件で、洪茶丘が乗り込み、
忠烈王の面前で金方慶父子を拷問にかけて、
彼らを流刑に処し誣告者を高官につけよう王に
強要した。忠烈王はフビライに直訴して、洪茶丘の
横暴と金方慶の冤罪を主張した。
フビライは金方慶の無罪と引き換えに、王から
「日本遠征に積極的に協力する」という言質をとった。
ちなみに、フビライは弘安の役の失敗の後も、
征東行省再建の際、洪茶丘をその右丞(左丞は忠烈王)に
任じている。
と、まあ、こんなところか?
続き・・・
★積極説
元寇は、大元ウルス下の諸勢力の権益獲得戦争
であるという意味なのか?
中央政府が出先機関(高麗など)の申請を
請け負うという形で遠征が行わた。
例えば、弘安の役では「江南軍」兵士は鋤や鍬を持っていたので
少なくとも屯田計画はあったようだが、これを集団移住計画
(厄介払いなのか?)とみる。
この説に従えば江南人民は造船にあたり、
移民団を溺れさせるために手抜きをしたという揶揄も
成立するが・・・・
どっちなんだろうか?
99 :
世界@名無史さん:01/09/10 02:39
>>75 黄金の国ジパングってのは奥州藤原氏が大陸向けの輸出品(献上品かな?)として
金を送ってた所から発生した伝説って聞いた事があるけどどうなんだろう?
100 :
日本@名無史さん:01/09/10 03:17
>>99 私は、「家中が金で覆われている」ってとこで、「そりゃ金閣寺だろ。」って思ったが。
101 :
日本@名無史さん:01/09/10 03:27
非科学的なことを否定したいのは分かるが風が吹いたのは間違いない。
科学では説明できん。だからNHKは「武士が勇敢に戦った」なんて
向こうの資料ひっぱりだして苦しい解釈をする。
102 :
日本@名無史さん:01/09/10 03:29
実は元軍は、朝廷まで攻めいって天皇を殺してしまっていたっていう俗説を
かなり昔に聞いた覚えがあるんですが、この話の出所はどこなんでしょう・・・
空想戦史ものかなにかでしょうかね?
ほんとだったら大変ですが。
元、高麗軍は日本軍に上陸を阻まれて、3ヶ月も海を漂っている。
3ヶ月の間に一度も嵐がなかったらその方がおかしい。
船酔いで、食い物うけつけなくなって餓死したんじゃねえの?
105 :
日本@名無史さん:01/09/10 05:01
>>103 うんうん今年はいくつ台風きったっけねー
106 :
日本@名無史さん:01/09/10 06:26
一回目は脅しと威嚇。
二回目は征服に来たけど、上陸前暴風雨で全滅!(神風)
がホントだとオモワレ。
107 :
日本@名無史さん:01/09/10 06:34
1回目文永の役は暴風雨起こってなかったはず。
108 :
日本@名無史さん:01/09/10 06:45
当時の鎌倉時代の気候は今と違ってもっと寒かった。
鎌倉で現在の北海道くらいの気候。
今の常識で台風の数計算うるのは危険。
元が日本に攻めてきたのもシベリアからの大寒波の影響もあったとオモワレ
日本が元を退けたのは高麗人がわざと消極的に戦ったり
元の兵士の邪魔したからだ。
日本は韓国に感謝しろ。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・とゆーのが韓国の国定歴史教科書の見解だそうで。
110 :
名無し東シナ海:01/09/10 11:23
>>106 上陸前というより、幕府軍に上陸を阻まれて橋頭堡を築けないまま、
船上に留まっていたところを、台風に襲われたもの。
強襲上陸戦闘の場合、上陸側が海岸に橋頭堡を築けなかった時点で、
作戦は失敗です。元軍は日中こそ地上で戦闘したものの、夜には船に
戻らざるをえませんでした。
最後は台風で大損害を受け、遠征を断念しましたが、それは幕府軍の
勇戦あってのものです。
111 :
歴史@時輔:01/09/10 12:14
4万じゃ兵士は壊滅させる事は出来るが九州さえも占領出来ない。
112 :
日本@名無史さん:01/09/10 12:25
>>106 >一回目は脅しと威嚇。
相手を警戒させるだけの結果に終わった。
>二回目は征服に来たけど、上陸前暴風雨で全滅!(神風)
一回目に相手の戦い方を知った日本軍が完璧な防備を構築。
結局上陸する糸口もつかめないまま3ヶ月も海上を漂い、ついに海の藻屑に。
113 :
日本@名無史さん:01/09/10 13:41
>>2 そのなかでは2だろ。
高校の時に俺の使ってた詳説日本史(山川出版社)と言う教科書によれば以下の様に記載されている。
「しかし、幕府の執権北条時宗はこれをしりぞけたので、元は徴発した高麗の軍勢をもあわせて、
1274年、まず対馬・壱岐をおかした後、大挙して九州北部の博多湾に上陸した。幕府は九州地方に所領を持つ御家人を動員して、これを迎え討った。元軍の集団戦法やすぐれた兵器に対して、日本軍の一騎討ち戦法はあまり効果を上げず、日本軍は苦戦した。
しかし元軍も損害が大きく、たまたまおこった大風雨にあってついにしりぞいた(文永の役)。
元軍のしりぞいた後、幕府は再度の来襲に備えて博多湾沿岸に石塁を構築するとともに、九州地方に所領を持つ御家人に異国警固番役を課し、九州の要地や長門の防備に当たらせた。
その後、南宋を滅ぼした元は勢いに乗じて再び大軍を送ってわが国を侵略しようとし、1281年、朝鮮半島からの東路軍と中国本土からの江南軍との二軍に分かれ、大軍を以って博多湾に迫った。
しかし、日本軍によって上陸を阻まれている間に、今度もまた大暴風雨がおこって大損害を受け、再び敗退した(弘安の役)。この2回にわたる元軍の襲来を元寇と言う。
再度にわたる襲来の失敗は、海を越えての戦いになれない元軍が弱点をあらわしたことや、元に征服された高麗や南宋の人々の抵抗によるところもあったが、
幕府の統制の下に、主として西国の武士がよく戦ったことが、大きな理由であった。」
ここからするならば、やはり、損害もでかかったし台風もあったりで撤退したんだろ。
脅迫説は高校の教科書に載るような説ではないということなので少数説だろう。
やはり日本の武士の力によって元軍は退いたんだと思いますよ。
元は軍事費の使いすぎでカネが無くなったか、又は日本が強く抵抗したので
やる気が無くなったのでは???
アイヌ・ジャワ島・ベトナム・ミャンマー、手を広げすぎた。
115 :
日本@名無史さん:01/09/10 15:57
>114
高麗相手には40年間に渡り5度も侵攻しているし、南宋相手にも長年戦っている。
116 :
日本@名無史さん:01/09/10 17:32
>>93 ドラマやマンガで「死んだら終りだ」が多いような気がするんだけど
そういった文化をなくす為なのかな
最近のキャラがタバコを吸ってるのはJTからの金だと言うし
117 :
日本@名無史さん:01/09/10 18:57
日本の抵抗力を削ごうとする朝鮮、中国の仕業です。
118 :
日本@名無史さん:01/09/11 00:48
うーん、フビライとしてはそれまでの経験で、自分達の強大さを思い知らせる
事で日本は屈すると思ったんじゃないのかな、ほんとは侵略までいっちゃうと
ある程度泥沼化は避けられず、下手するとそれが原因で元の基盤が脅かされる
可能性があったから、慎重に最初は文書で威嚇して、それでも駄目なら軍事
行動で威嚇するって事にしようと思ったんだと思う。
フビライとしてはここまでの計画で経験上ほぼ確実と思ってたのではなかろうか?
ところがそこは世界の非常識国日本(w、彼らの予想を裏切り徹底抗戦の模様、
こいつ等マジで俺様とやるのかよ?と思いつつも結局後戻りできない二回目の
本気侵略へ進んだのでは?まあ、台風の影響もあったかもしれないけど、
どのみち、台風で大打撃食って退散するような軍では、鎌倉まで突き進む
道程で絶えず後方支援に対する致命的なリスクを抱える事になる訳だからな・・・
120 :
日本@名無史さん:01/09/11 06:40
威嚇ノタメニ苦労シテ大軍ヲ送ッテクルダロウカ?トテモ考エラレン。
121 :
日本@名無史さん:01/09/11 12:26
>>120 100人くらいで攻め込んでも威嚇にならんだろ(w
122 :
日本@名無史さん:01/09/11 12:34
日本の武士が怖かったんだよ。
123 :
日本@名無史さん:01/09/11 12:50
海というのは日本にとって最大の防塁ようだ。
陸続きなら簡単に征服されただろう。
海ってありがたいねえ。
125 :
日本@名無史さん:01/09/11 18:13
>119
だから高麗には5回も侵攻したんだって。
フビライにすれば「日本がこれで屈服すればもうけもの。屈服しないなら二度三度と侵攻すればよい」
という考えだったと思われる。
日本と高麗の条件が一緒という事はないだろ?日本を攻める場合には、ある程度
輸送問題やそれに付随する諸処の問題、その時の対外状況とかいろんな要素が
あるんだから。どうも各論逃げした議論になりがちだな・・・・
127 :
日本@名無史さん:01/09/14 01:04
船酔い
どうでもいいことだがハングル板の差別野郎は世界史板にもう来ないでくれ。
いつも謝罪だの歪曲だのニセチョンぶりしてウザイんだよ。
俺はおまえらが韓国人よりウザイ。
129 :
日本@名無史さん:01/09/14 11:57
あ、日本史板にも来ないでください。
130 :
アズマうんち:
蒙古軍は遊牧民ということを思い出してね
彼らは土地を取られたら自然に立ち枯れる農耕民とは戦い方が違う
遊牧民にとって大事なのは家畜
土地の重要性は二の次
今いる土地を離れても家畜さえ無事なら損害はゼロ同然
その結果彼らは逃げることを恥じと思わない文化を築いた
逆に相手が逃げたら徹底的に追って皆殺し
元軍にとって撤退なんて負けの内に入らない
むしろ遊牧民は農耕民より数が少ないから兵の損耗を避けたい
そして兵が無事なら何度でも再攻撃は可能
そういう考え方なの