ビッグイシュースペシャル対談 上山和樹さん×斉藤環さん
いかに生き延びるか?これだけでいい ――――ひきこもりの未来を考える
「オフとオンの切り替えのために交渉を」(上山さん)。
「いかに生き延びるか、これだけでいい」(斉藤さん)。
ひきこもり経験者にして、サイト"論点ひきこもり"代表の上山和樹さん、ひきこもり問題の
代表的論客である精神科医の斉藤環さんの二人が、"ひきこもり"の未来をめぐって本音の
激論を展開する。
"やらなくちゃ"が強迫観念に 24時間オン、不自由の極限
BI(ビッグイシュー) 上山さんが感じておられる、ひきこもりの今、その問題点は何で
しょうか?そこからまず、口火を切っていただけたらと思います。
上山 とにかく、長期化と高齢化です。私は今37歳なのですが、イベントや講演会にお邪魔
した先でも、ひきこもっているご本人が私と同い年というのは、まったく珍しくないです。
私が親の会に初めて参加したのは2000年の初夏なんですが、それ以降、厚生労働省からガイ
ドラインが出るなど、社会的な環境は少しずつ動いてきていますが、親御さんから受けるご
質問、ご本人にとっての苦しみのポイントは、驚くほど変わっていない印象があります。
世間的には、ひきこもりというのは甘えと見られている。しかし実際には逆で、「○○で
なければならない」という規範意識が強迫観念化して、まったく動けなくなっている。親や
周囲が言いたくなるような説教は、本人はもう自分に向かって100万回も繰り返して言ってる
わけです。ところがそれが周囲にはわからないから、本人がすでに病的に気にしていることを、
さらに畳みかけて言うことになる。言えばいうほど逆効果で、働かなきゃいけない、社会参加
しなきゃいけないと思えば思うほど硬直していく。
元気に社会生活している方にとっては、家にいるのは「オフ」なんだと思います。だからひ
きこもりがうらやましいと言うんですが、これは実際には逆です。ひきこもりというのは、む
しろ「24時間ずっとオン」の、異様に不自由な状態なんですね。彼らに社会へ出ろと言うのは、
強迫的なオンの上にさらにオンをしろと言うことになって、何かありえないようなものすごく
無理なことを強いている。こういう状態から一歩も動けないまま、最近では親と本人との高齢
化が進み、最悪の場合には命にかかわる話になっている。「このままでは、自分も家族も死ぬ
かもしれない」と思っても、動けないわけです。
少しでも自由を取り戻すために、なんとかオンとオフの交代ができるようにしたいのですが、
フィールドは家庭内に限定され、オンが24時間続き、家族もご本人もヘトヘトになっている。
世間はひきこもりを「オンにしろ」というのですが、実際の課題はまったく逆で、元気になる
ためには、むしろ「どうやってオフにするか」を考える必要がある。
斉藤さんは、ひきこもりの状態というのは精神の自由度が非常に小さくなっていることが問
題なのであって、精神の自由度を高めるという意味において、治療には一定の価値があり得る
とおっしゃった。「治療」という言葉には何か社会順応を強制する響きがあり、否定的に語ら
れることが多いのですが、「自由度を高める」というモチーフが基本であれば、きわめて柔軟
に考えられると思ったのですが。
現象は深刻化、言葉では風化の危機
BI 自由度を高めるということについて、斉藤先生、ご意見をいただけますでしょうか。
斉藤 少し話が遡りすぎるかもしれませんけど、結局、不登校の議論では、治療主義とフリー
スクール派の人権主義の対立、せめぎあいがあったわけです。ひきこもりについても、これを
くり返す2度目の茶番は止めようというわけで、いわば双方代理的にといいますか、ひきこもり
側にも立つし、批判側にもまったく対立はしない、という方向で、大げさに言えば、現状を変え
ようとしたということがあります。
状況を変える場合の戦略として、私が考えるのは接線方法の戦略です。つまり正面衝突しても
物事は変わらないどころか、今起きていることを逆に強化してしまう。僕としては、相手がもっ
ている固定観念にある程度寄り添いながら、少しずつ異物を注入していく手法で、変えていけな
いかと考えました。
当事者に関しては、僕はそれまで十数年のかかわりの実績がありましたので、ある程度一般化
できる程度にはわかってる自信があった。一方で、規範をおしつけるものが何かというのは、大
体予測がつく。ラベリングというのは10年一日のごとく起こっている現象ですから。週間文春と
か週間新潮がどんなことを言い出すか、紋切り型あるいはパターンとして定着しているわけです
ね。どちらのロジックもある程度、押さえているという自負があったので、その状況をどう改革
していくのか、それなりにわかっていた。
今やひきこもりが現象レベルでは風化していないどころか、場合によってはより深刻化してい
るのに、言葉としては磨耗しつつある。この状況は僕はまずいと思っています。具体的に言えば、
現場の支援のレベルでの志気の低下が起こってきているからです。例えば、横浜では公的機関と
民間が一体化して盛り上げていこうという動きがあったにもかかわらず、精神保健福祉センター
のデイケア活動は閉鎖となり、リロードという支援団体への助成金も打ち切りになったそうです。
有意義な活動をしている団体が、ニーズはあるのに次々につぶれていく。
もっとも自由を失う病がひきこもり
斉藤 ひきこもりに関して一番わかりやすい言い方は、脳も正常、身体も正常、おそらく心にも
はっきりした原因がない。にもかかわらず、動けないということです。
臺弘さんという精神病理学者が、統合失調症のことを「自由を失う病」と表現しました。精神科
の病というのは、自分が適切であろうと思う方向に動けない、行動や認識の面においては、そん
なに障害があるわけではない。だけどなぜか問題が起こるのが精神の病です。この状態は、やは
り自由を失っていくという考え方が一番近いんじゃないかと思ったんです。
ひきこもりは、動くための条件は問題ないのに、動けない。何が障害なのかというと、自由が
障害されているとしかいいようがないわけです。そういうエッセンスを極めていくと、ひきこも
りこそがまさに「自由を失う病」。統合失調症に関しては、今後精神薬理や脳科学のレベルで新
しい治療薬が開発される可能性はある。でもひきこもりに関しては、そういう期待は一切できな
いわけですよ。障害部位を特定できない、ただ自由が障害されているとしかいいようがない。そ
ういった意味ではひきこもりこそが、比喩的な意味で最も自由を失う病ではないかと考えます。
では、なぜ治療が必要、介入が必要か?上山さんが問題にされたように、本人と家族だけの関
係に閉じこもっている限りは、それこそオンの状態で釘付けになってしまう。そういう中に自由
を持ち込むとしたら、外から介入するしかないというのが僕の考え方なんです。その介入は、僕
は精神科医だから治療でしかそれができませんし、治療という方面の専門家としてアドバイスし
ていかざるを得ない。
この立場性についての話はずいぶんしているのですが、つまり精神科医からアドバイスを聞き
たい人は聞けばいい。実はここには欺瞞があって、僕としては「自由に選んでください」と言っ
ているんだけれど、結果的に僕の発言の影響力が自分の予想以上に大きくなってしまったため、
結果として選択を強制しているところがある。でも、それを明らかにしながらやっていかざるを
得ない。
悲観論をこえる保険としてのサバイバル
斉藤 今、ひきこもりに対して、私の考えている戦略は「サバイバル」です。いかに生き延びる
か?これだけでいいと思っています。これからも考えるべきことは、いかに生き延びるかだけで
十分じゃないか。
この結論がどこから来たかというと、不登校の議論なんですよ。不登校の議論がなぜ膠着する
かというと、結局再登校、是か否かという話で膠着しちゃうんですよ。ある臨床心理学者はそう
いうことは問題じゃないと、どうすれば子供が元気になるのか考えればいいんだと言いました。
まさにその通りなんですよ。そういう視点があまりにも欠けていた。この子はフリースクールで
元気になるかもしれない、この子はオフにして家にいることで元気になるかもしれない、この子
は 再 登 校 で 元 気 に な る か も し れ な い、で、話は簡単になる。フリースクール派に
も再登校推進派にも欠けているのが、この視点です。
ひきこもりに関しても、議論は社会参加か否かという話になってしまう。だけど、最大限の健
康度・自由度を保ちながら、いかに生き延びることができるかということだけを医者としては見
ていく。そうなってくると、問題設定がガラっと変わるわけで、結果としてこの人が社会参加を
して元気になるのであればその方向にいけばいいし、ひきこもって元気になるならそれはそれで
いいと。
例えば、ある親御さんの実例で、本人が、30歳代後半になってどうしようとなったときに、か
なり果断な結論を出された。それはマンションを買い与えて、年間100万円の援助を向こう30年間
続けます。そのころには年金受給者になっているから、やっていけるでしょうと。私はこれには
驚いたわけですね。この選択もありだと思うんです。別にそれは、ひきこもりのおしつけにもな
らないし、かといって、社会参加を阻むわけでもないし、少なくともサバイバルに関しては安定
した保証になるわけです。それ以降、私はかなり考え方が変わって、保 険 と し て の サ バ
イ バ ル 術を今後は提案していこうと。単に「社会参加ができない可能性を考えましょう」と言
えば、どうしても悲観論になる。でもこれは悲観論ではなく、「保険」なんですね。
プライドをどう維持する?”自由、自発性を押し通す”しかない
BI サバイバルは、就労、ボランティア活動などのさまざまなレベルの社会参加がまったくか
なわないとしても、元気で生活できるということなわけですね。
斉藤 これは、半分戦略なんです。長いひきこもりを経験した人にとっては、不安の大きな源泉
は二つあって、まずは 親に万が一のことがあったらどうしようかという、生存可能性の不安。も
う一つはプライドをどう維持するかというやや抽象的な問題意識。その二つの問題があると思い
ます。
僕の目指しているのは、とりあえず生存可能性の恐怖を解除することなんです。そして、 プラ
イドの問題に集中してもらう。恐怖の源泉が二つもあったら、パニックになって考え がまとまら
ない。とりあえずプライドだけをと考えた結果として、当分はひきこもったままで、読書なり 映
画なりでやっていくのがいいだろうという結論になった人もいます。一方では、就労 しないと尊
厳が維持できないと考える人もいる。最初は確信的にひきこもろうと思った 人でも、時間が経っ
て自分の尊厳をどう維持するかということにぶち当たって、やっぱり 就労もいいんじゃないかと
移行することもある。それはあくまでも自由をおし通した結果 としての話、自発的な動きが大事
なんであって、周囲からのおしつけによって動くという 可能性は、もうほとんど私は信じられな
くなってきています。
だから、自発性そのものを引き出すという目的で、就労支援とか、就労意欲、それこそ
インセンティブを高めましょうとか、そういう議論はほとんど信用していません。
BI 保険としてのサバイバルと言われ、マンションを買い与えるといった例をあげられましたが
、経済的に恵まれない家庭の場合は?
斉藤 別居している分にはコストが要りますけれど、同居している分にはもっとローコストでもす
みます。もう一つは、とりあえず病人になっていただいて治療を受け、生活保護の受給を可能にで
きないことはない。この場合はむしろ同居してないほうが受給できる。可能なものはもうなりふり
かまわず利用して生き延びたらどうですかと、私は思っているわけです。
孤独死と心中からのサバイバル
斉藤 30歳を過ぎると、社会参加しない可能性というのはかなり確率として出てくるわけです。で
、その延長線上に何があるのか、つまり究極に追い詰められて何が起こるか、一つは孤独死です。
最近、中高年者の孤独死が増えている。死の直前のかなりの期間はひきこもりと同様の状態になっ
て 、孤独死の状態に陥った。これはかつて、上山さんも餓死の問題として、私に教えてくれたこと
がありました。
もう一つは心中の問題。家族が寝たきりの病人を一人抱えるだけで、ぎりぎりのところに追い詰
められてしまう。例えば一昨年の暮れに、大阪と茨城で3件ぐらい連続して、ひきこもりの子供が親
を殺害した。これはすべて心中未遂と解釈しているんです。つまり、自爆だったわけで、ひきこも
り本人はたまたま生き延びたにすぎないわけで、追い詰められた末に起こりうる状態です。
サバイバルという観点がないから、このような追い詰められ方が現に起こってしまう。ですから、
どうすれば、働かなくても生き延びられるか、家族はある時点でそれを選択するか、つまりそういう
モードへの移行、これもご家族の選択でしかないわけですよ。何が有効な社会参加につながるのか、
マニュアルも実証例もない以上は、サバイバルという保険をかけた上で本人の出方を待つということ
ですね。これもある意味、社会参加させるかしないかという強迫観念、それから家族に自由になって
もらうための一つの発想だと思っています。ですからサバイバル中心の発想に移行しつつあるという
のが、私自身における最近の変化です。
非社会行為から家庭内での交渉と契約へ
上山 私自身はよく、あなたは以前ひきこもっていたのに、今は社会参加をして偉いですね、と言わ
れるんですが、私からすれば反対なんですね。お金をうまく稼げていないので、そういう意味では何
も解決はしていないのですが、今の方が楽なんです。なぜかと言うと、社会参加、社会行動を知った
ことによって、オフを知った。それが以前より、はるかに楽です。「お疲れ様でした」と言った瞬間
に楽になるというのは、ひきこもっているとあり得ないんですよ。社会行為が失われた状態で24時間
オンだったのが、「仕事」の緊張関係が発生したことによって、逆にオフを覚えた。
そこで私からの提案の一つは、「交渉」をキーワードにすることです。将来に向けた訓練という
意味ではなくて、家族というフィールドにおいてお互いの自由度を高めるために。
ご家族も支援者も、そして本人も、「解決」っていう言葉をキーワードにしたがる。でも、さきほ
ど申し上げたように、それは逆効果だと思うのです。将来のどこかの時点で「解決」するということ
はあり得ない。例えば就職は、本人にしてみれば「新しい問題の開始」にすぎない。ですから私は、
「解決」ではなく、「取り組みが始まり、それが続くかどうかだけの問題だ」と思っているのです。
ずっとオンというのは、実は逆に何も始まっていないという状態ですから、意図的に「社会行為」
を導入することで、オンとオフをつくれないか。ひきこもりそれ自体は違法行為ではないのですから、
ひとまずの問題は、家庭内での交渉・契約関係のはずです。
家族とのコミュニケーションはこじれていることが多いですが、憎しみの気持ちを持った場合はと
もかく、感謝の気持ちを家族に持ってしまうと、これは100%罪悪感に転じてしまう。ここまでしても
らっているのに、自分は家族を巻き込み、こんなていたらくにしかなれていない……。交渉関係に取
り組み、まがりなりにも契約関係を取り結ぶことは、耐え難い心理的負債感にも効果を持つように思
うのです。
ひきこもりに関連しては、政策レベルをどうするかというマクロな問題と、本人と周辺がどうする
のかというミクロな問題があると思うのですが、斉藤さんのおっしゃる「サバイバル」も含めて、自
分ひとりで決められることではない。
実際に交渉関係に入ってそこで揉めてみないと、どこでこだわるべきなのか、何ができるのかも見
えてこない。本人の「ニーズ」というのは他人との緊張関係にある問題ですし、逆に言えば契約関係
さえできれば、過剰に負い目を感じる必要もない。
世間的には、ひきこもりに対しては「自発的に頑張れ」と言われるわけですが、これはよく考える
とへんな理屈で、「自発性を持つことを強要されている」わけです。でも当事者本人も、「自分に自
発性が湧かないのはどうしたことか」と強く焦り、混乱している。家族との交渉関係に巻き込まれる
ことで、初めて整理できるニーズもあるのではないか。
”したい”欲望は磨耗、もはや動機づけは不可能
斉藤 家族にはニーズがあると思うんですよ。
上山 家族にはニーズがある、しかし本人にはニーズはあるのか。実はそこが一番悩ましいジレンマ
じゃないでしょうか。斉藤さんのお立場としては、ひきこもり支援の半分以上はご家族への支援とお
っしゃっているわけですが、そのご家族が一番苦しむポイントはどこか。それは、「本人を動機づけ
る」ということだと思うのですが。
斉藤 僕の家族対応というのは本人と対等で、一方的にならない交渉の回路をどうつくっていくかと
いうことに尽きるんですよ。僕は最近、コミュニケーションのことをいうのはいい加減うんざりなん
で、まず、交渉と契約ですね。ひきこもりの人に対して、あなたは何したいのと聞いても、答えがま
ず返ってこない。
上山 そこが一番わからないんです。
斉藤 だからサバイバルなんですよ。つまり多くの場合、人々は本人に聞きたがるんです。あなた、
これからどうしたいの?って。でもこれは、問いのたて方が間違っている。未来のことを語れるのは
親だけなんです。本人には語る材料が何もない。お金も 立場もない。未来のことを語りようがないん
ですね。未来のことはある程度現在の 状況から外挿できる人だけが、ありうる未来を語れるのであっ
て、欲望といっても 実現の可能性が低いことが本人もわかってる。何かをしたいという欲望なんてと
っく に磨耗しているわけです。
未来を語れるのは家族、しかもそれは経済的にしか語れないわけですよ。今後、収入は、資産は、借
金、そして相続はどうなるとか、そういう経済的な数字で未来をしゃべっていただこうと。それは外枠
、欲望の器ですよね。でも確実性の高い未来のイメージと環境を示すことができる。その範囲内で何が
できるかを考えると、一つの足場になるわけです。
また、一つはっきりしていることは、直接の動機づけはもはや不可能ということです。直接本人を説
きつけるということは方法論的には不可能というか、それは上山さんも指摘されたように、いじめに近
いんですよ。となってくると、今できるフェアで確実性が高い方法としては、外堀を埋めるってことで
すよね。というのは、今申し上げたように、家族が先に未来を示す、経済的にはこういうことになるだ
ろうということです。
私が一番最初の本で、家族に、早い段階で遺言状を書いてくれと書いてあるのは、そういうことなん
ですよね。親が死んだらこうなるよってことを、だからがんばってとかは言わずに、こうなりますよと
いう要件だけを示すと。そういうことが間接的にですが、最終的には本質的な動機づけになるだろうと
いう予測で、僕はそういうことを書いたんです。ですが、残念ながらいまだに理解した方は一人もいな
いですけれど。
(終)