斎藤環 Part19 ──ループと二枚舌と重大疑惑と
六 治療を要する不登校もある────〈医者〉の立場
以下では、〈医者〉による不登校論を検討する。不登校の問題化は、一九五〇年代に
学校恐怖症として病理化されたことに端を発する。そこでは、不登校は治療対象と
され、投薬や強制入院などを含む対応がなされた。その後一九八〇年代末に「不登校
は病気ではない」とする議論が盛り上がりを見せ、一九九〇年代に入ると文部省が
「不登校はどの子にも」との認識転換を表明し、不霊の脱病理化が合意されるように
なった。しかし、それによって不登校と医療の関わりが消滅したわけではなかった。
不登校の脱病理化と平行してひきこもりが注目され始め、一九九〇年代後半に「不登
校は、まあ、何とかなる。でも、ひきこもりは困る」という認識」[奥地:二〇〇三]
のもとに、ひきこもり予備軍としての不登校が、治療対象として再発見されるように
なった。
こうした状況のなかで、〈医者〉たちの主張は、病理化言説・脱病理化言説双方か
らの距離を問われている。ひとくちに〈医者〉といってもさまざまであるが、以下で
は、そうした病理化批判を経由した「良心的」な精神科医である斎藤環を中心に見て
ゆく。
斎藤はひきこもりの研究者・治療者として知られており、二〇〇二年からの文科省
の「不登校に関する調査研究協力者会議」(協力者会議)の委員のひとりである。不
登校については、診断名ではなく「状態」を示すとの用語法を確認した上で、「病気
の不登校」と「健常な不登校」を区別し、「健常な不登校」は治療を必要としないが、
「病気の不登校」には治療と配慮が必要だとしている[斎藤;二〇〇二]。具体的に
は、精神症状や家庭内暴力が著しかったり、長期的なひきこもり状態への移行が予期
されるなどのケースは治療対象であると言う。
そのように、治療的介入を肯定する斎藤は、〈「居場所」関係者〉による病理化
批判を、行き過ぎたバックラッシュ(揺り戻し)と捉えている。
あえて申し上げたいのは、不登校の子どもが集まるフリースクールの草分け的
存在である「東京シューレ」のあり方とか、一部の精神科医のあり方もそうです
が、稲村的な言説に対して徹底的に叩いてくれたのはよかった。でも、イデオロ
ギー的に「不登校」を持ち上げていき過ぎたところはなかったか、と思うのです。
いまの制度としての教育の誤りを示してくれる存在として、「不登校はすばらし
い」であるとか、「不登校にならない感性の鈍い子たち」とかいうような言い方
はいきすぎがあったのではないか、と。
(『月刊子ども論』2001年9月号)
斎藤の発言のもとにあるのは、「見事に自立し、社会参加を果たした不登校児の
「エリート」たちのかげには、焦りを感じつつも社会に踏み出すことのできない、膨
大な数のもと不登校児たちがいるような気がします」[斎藤:一九九八:三七]という
現状認識である。斎藤はこうしたいわば不登校の「底辺」には医療が有効であるとし
ており、「不登校は病気ではない」とする認識を「不登校の問題を政治的な問題に重
ね過ぎるため、治療的な視点が締め出されてしまいがち」[斎藤:一九九八:三七]と
批判する。
同様の発言は、精神科医の河合洋も行なっている。河合は、安易な母子関係原因論
や非受容的な登校強制を否定しながら、一方で「不登校児は病気ではない」とする
「スローガン」「運動」を「おどろくほどの無責任な楽観論」として批判し、「こう
した運動の一方で、心ある専門家や現場でもくもくと労働している精神科医は、二〇
歳、三〇歳を超えてなお閉居をつづけたり、精神障害などのために悩んでいるかつて
の「不登校児」たちの心に寄り添いながら、後始末をさせられている」と言う[河合:
一九九八:二二一]。
こうしたいわば「ポスト「どの子にも」」の精神科医による不登校の論じ方には、
次のような特徴がある。
第一は、不登校の二極化の指摘である。そこでは、「健常な不登校」と「病気の不
登校」が分離され、後者がひきこもりや精神症状を伴う状態として、治療対象として
見いだされている。
第二は、「運動」や「イデオロギー」に拠らない「中立」で「フェア」な立場の強
調である。彼らは不登校を全面的に治療や矯正の対象とする主張とは距離をとりなが
ら、東京シューレや奥地に代表される〈「居場所」関係者〉の議論を特定の立場に
「肩入れ」する「一部の」「偏った」主張として批判することで、みずからをそのど
ちらでもない「中立」と位置づける。
第一の点は、不登校の「裾野」の広さをうかがわせる点で重要である。「明るい不
登校」を強調する〈「居場所」関係者〉的な主張が、暴力や精神症状を伴う状態やひ
きこもりといった「明るくない不登校」を、「明るい不登校」に至る道筋と捉え二次
的な扱いしかしてこなかったことは、おそらく事実だろうからである。
しかし、第二の点は、「誰が」「どの立場から」論じるかという視点が欠如してお
り、問題である。例えば、斎藤は「「すべての不登校が病気とはいえない」という穏
当なものでしたら、私も完全に賛同できるのですが」[斎藤:一九九八:三七]として
奥地の過激さや偏向を指摘するが、『登校拒否は病気じゃない』[奥地:一九八九]
というこの著には「私の体験的登校拒否論」という副題が付いている。奥地は「客観」
「中立」の立場から不登校一般について語っているのではなく、あくまでも不登校児
たちと関わってきた〈「居場所」関係者〉として、不登校の子を持つ〈親〉として、
「私の体験した不登校は病気ではない」と語っているのである。
では、斎藤の依拠する立場とはいかなるものだろうか。
第一に、いうまでもなくそれは〈医者〉の立場である。斎藤は、ひきこもりへの対
応として「治療する」「放り出す」「全面肯定する」という三つを挙げ、「私には
「ひきこもりの治療」を語ることしかできません」[斎藤:二〇〇二:八]と、「治療
主義」の立場を表明する。
第二には、〈親〉の支援者としての立場である。斎藤は、治療を子どもの経済的保
護を行なう「〈親〉の権利であり、最終的にはご本人の利害と一致するはずのこと」
[斎藤:二〇〇二:二三四]と位置づける。治療とは〈親〉の依頼によって〈当事者〉
に対して施されるものであり、治療者は〈親〉の利益に従って行動する。「本人の利
害と一致する」かどうかはそこでは少なくとも事後的な問題である。
「治療が必要」とする斎藤の主張は、このような立場からなされているのであり、
奥地に比してある立場への「肩入れ」からより自由だとは言えないのではないだろう
か。
さらにいえば、奥地自身が主張しているように、斎藤が指摘する「不登校はすばら
しい」「不登校にならない感性の鈍い子たち」といった表現は、実際には〈「居場所」
関係者〉には見られない。例えば、以下のような主張は奥地の主張とは異なる。
よくマスコミで登校拒否の子は自我が未熟でどうのこうのと言っていますが、
いったい登校拒否の子が本当に未熱なのか。ゆがんだ学校教育に対して何も感じ
ないで、家族の要求や社会通念に従って、それに対するなんの批判もなしに大学
まで行ってしまう人間が成熟なのか。これは比較検討してみる必要があるんじゃ
ないかと思う。……そういう行動(登校拒否)を積極的にとれる子どものほうが
未熟どころか、むしろ健全なんじゃないか。[渡辺:一九八二:五三]
このメッセージの発信者は、不登校に一貫して積極的な価値を与えてきた精神科医
の渡辺位である。奥地は渡辺のように「むしろ健全」と「不登校肯定・学校否定」の
主張をしてはいない。むしろ奥地はさまざまな場で「学校否定ではない」と自らの無
害性を「釈明」していたのであり、学校を批判するにあたってさえ、学校に配慮せざ
るをえない立場にあった。その意味で、こうした言説は決してしばしば誤解されるよ
うな〈「居場所」関係者〉による「自己賛美」ではないのだ。
みずからを「中立」と提示する権利を持つ者が〈医者〉という権威ある立場である
とすれば、「堂々と偏る」権利を持つ者もまた〈医者〉である。
「ポスト「どの子にも」」時代の精神科医が、不登校の病理化・脱病理化を調停
することで装う「中立」的態度は警戒に値するし、またそうした「中立」的立場から
しか「明るくない不登校」が問題化されえないとすれば、そこにはいまだ新たな主張
がなされる余地と必要があるだろう。
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引用終わり。
これは、従来の文脈における当事者擁護言説・稲村-斎藤批判言説とは違い、
奥地的な言説・稲村-斎藤的な言説、どちらからも声高に聞こえてくることのなかった
当事者の「声なき声」に耳を傾けるための方法を探る試みである。
たとえば「東京シューレ」などが提案してきたフリースクールのありかたに
違和感を感じたり、疎外感を感じてきた人こそ、むしろ読むべきところの多い本に
なっているはずだ。
もっとも、ここは斎藤環スレである以上、ここにその一部を引用した意図はもちろん
彼らの「治療」の妥当性を問うためだ。
「中立」のフリをしつつ、結局のところ旧態依然の悪しき「治療」に誘ってゆく
斎藤たちの欺瞞をよくぞ指摘してくれたと思う。
彼の立場というものを考えたとき、中立などありえないのだ(引用3-4)。
むしろその振る舞い自体が、きわめて政治的といえる。
そして、その「中立」的な振る舞いによって、ひいては「治療」の暗部が隠蔽されて
しまうのだとしたら。
本人のためにならない異常な「治療」の被害に遭っても、なお泣き寝入りを
余儀なくされているケース、なかなか公然化しにくいケースは、山ほどあるはずだ。
>>9-11のような情報。
>>109のような情報。さらに過去には
><向精神薬>不登校やひきこもりに過剰投与、心身不調相次ぐ
http://www.med-apple.com/news/syonika/syo2003.01_/syo01.23.03.html のような報道もこのスレで紹介されていた。
他院に比べてあきらかに重篤な「診断」を連発し、薬漬けにするような医師から
権威然として「病気だ!」と決め付けられたとき、我々はどのようなかたちで
当事者性を発揮し、自分の身を守っていくことができるのか。
そのようなことをいま考える際の、ひとつの参考になるのではないか。
長文スマソ。では。