キングカズ「引きこもりは積極的にケアすべし」

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41(-_-)さん
中学校卒業の年、カズはクラスで進路志望を書かされたとき、第一志望の高校の名前を書く欄に「ブラジル」と記入した。

カズはサンパウロにある「ジュペントス」というクラブの寮で、5人の少年達と小さな汚い部屋の2段ベットで寝る生活が始まった。
免疫の無いカズの体にはノミとダニがいっぱいたかって、はじめの頃は痒さでまともに睡眠すら取れなかった。
苦労はフィールドでも同じだった。チームメイトは誰も彼にパスをしようとはしなかった。偶然ボールを自分のものにして
ドリブル突破を試みても、すぐに奪い取られた。
スタンドの声がカズの耳に届いた。「 Futebol japones! 」

ブラジルには大きな日本人社会が築かれていた。彼らは農場を開拓し、勤勉に働き、多くの人がビジネスでも成功し、
リトル・トーキョーという名で知られるサンパウロの高級住宅地で暮らすようになっていた。
 しかし日系人たちはサッカーに対しては全く影響をおよぼさなかった。
“Futebol japones”という言葉は「日本人にしか出来ないくらい下手糞なプレー」という意味で用いられていた。
チームメイトたちも「 Futebol japones! 」と彼をあざけるようになった。
それが限界だった。カズはごく稀にしか試合に起用されなくなり、練習試合にすら出られなくなった。たまに試合に起用
されても、最初の試合と同じような扱いを受け、同じような野次を飛ばされた。
「ヘイ、ジャポネス!リトル・トーキョーに帰って天ぷらでも揚げてろ!」「そんな細い目でボールが見えるのか?」

それでもカズは、陽が沈み暗くなったあとまで一人で居残り練習を続け、何時間もシュートやドリブルの練習を繰り返し、
1日に何百回もの筋トレを、毎日続けた。
チームメイトとのコミュニケーションを改善するためにリトル・トーキョーにある学校でポルトガル語の授業を受け、夜も勉強した。
小さな傾いた寝台に横になり、辞書から単語を見つけ出して小さな声で発音の練習を繰り返し、本を手にしたまま眠りにつくと
いう日々がつづいた。
42(-_-)さん:04/12/08 13:20:04 ID:???
それでも目に見える進歩はなかった。彼は孤独だった。彼は情熱を失い始めた。ブラジルでの生活は2年3ヶ月経過した。
彼はジュベントスから「キンゼ・デ・ジャウー」というサンパウロから300`も離れた小さな町のチームに移った。
が、そこでも大きな活躍はなかった。

希望を失った彼は、ブラジルへ渡って以来はじめて母親に電話をかけた。そして「もうこれ以上は耐えられない、家へ帰る」
と伝えた。母親は、サッカーショップを経営し少年サッカーチームの運営にも携わっていた叔父に、このことを伝えた。
叔父はカズに電話した。「何を寝ぼけたことを言っているんだ!帰ってくるな!わかったな!」
カズはバスに乗り、サンパウロで暮らしていた父親に会いに行った。同情して欲しかったし、自分の気持ちを理解して欲しかった。
しかし父親は叫んだ、「日本に帰るだと?わかった。お前がそんなに弱虫だとは知らなかった。だったら、日本へ帰れ!」
そしてカズの右の頬を殴りつけた。カズは初めて父親に殴られた。
「わかったよ。じゃあ、帰るよ」とカズは答えた。「もう、それ以外にない」と思うしかなかった。

カズはブラジルを永遠に離れてしまう前に観光をしようと思った。そこでカズは、聖地マラカナン・スタジアムに足を運んだ。
スタジアムを見た後、リオの裏通りをぶらぶらと歩き、小さな公園のベンチに腰をおろした。目の前では20人くらいの子供達が
草サッカーに興じていた。12歳前後の少年達は汚くほころびたシャツを着ていた。靴を履いていない少年も半数近くいた。
そんななかに一人の少年がいた。
彼は片足しかなく、それでもピョンピョン跳ねながらボールの後を追いかけ、プレーに参加しようとしていた。
そのときカズは胸の奥から熱いものが湧き出してくるのを感じた。「俺はなんと恵まれているんだろう…!」
そう思ったあと、自分自身に腹が立ってきた。「それなのに、俺は…」
そのとき彼は「もう一度ブラジルに挑戦しよう」と心に決めたのだった。
43(-_-)さん:04/12/08 13:22:29 ID:???
「キンゼ・デ・ジャウー」に戻った時、カズは胸に新たな決意を抱いていた。そして一気に走り出した。
アマチュアの大きな大会に出場し0-1で負けている時、ペナ内で反則を受け、PKを見事に決めた。「カズー!カズー!」
と叫ぶスタンドの声が彼の耳に届いた。それは彼が「ジャポネーゼ」という国籍ではなく、名前で呼ばれた最初の出来事だった。
そして翌月、19歳の誕生日を迎える直前、サントスからプロ契約のオファーが届いたのだった。

しかし苦闘が終わったわけではなかった。サントスに入団して半年、たった2試合しか出れなかった。
しかもその試合での彼のプレーに対する新聞の評価は、10点満点で2点。フィールドに出ていた選手の中で最低で、
次に低い点数は4点だった。「カズはプレーが遅すぎる。日本に帰ったほうが良い」

その後数年間、彼はブラジル各地を自分を採用してくれるクラブを転々とした。
アウェイの遠征で悪路バスで片道8時間などはざらで、片道23時間バスに揺られ続けたこともあった。

数チームを転々とした後、彼に古巣の「キンゼ・デ・ジャウー」から契約の話が舞い込んだ。サンパウロ州のチャンピオン
シップをかけて、強豪コリンチャンスとの大一番が控えていた。この試合は何台ものカメラで中継され多くの人々が見る大試合だった。

その試合に出場したカズは、元ブラジル代表エジウソンのマークを受けた。が、彼はフェイントを駆使し、ドリブル突破し、
次々とパスを成功させた。そして右からのクロスにヘディングで合わせ、見事ゴール左隅へ突き刺した!そのゴールによって
ジャウーはコリンチャンスに3-2で勝利した。
そして翌日の新聞には大きな見出しとともに、彼の物語が掲載された。『カラテ・キッドがサッカーを!』
44(-_-)さん:04/12/08 13:24:07 ID:???
その後コリチーバFCに移籍。88年、シーズンを通してレギュラーで活躍。
フラメンゴと対戦した時には、相手チームにはジーコがいた。彼はハーフタイムのときにカズに近づき、
「 sucesso!(よくやったね!) 」と言葉をかけ、握手をしてくれた。

翌日、ブラジルで発行されている日本語新聞には、二人が並んでいる写真とともに『日系ブラジル人の誇り』と賞賛する記事が掲載された。
それを読んだカズは、涙があふれ出るのを止められなかった。



■日本式サッカー革命  
決断しない国の過去・現在・未来

著者 セバスチャン・モフェット  訳 玉木正之