>>655-657 山登氏の「懺悔文」について。
15年前と書いてあるが、確か83〜84年頃の出来事だったはず。
対外的に、このような形でいつまでも懺悔を表明せねばならないほど、
稲村氏を師匠と仰いだ者たちの側にとっては、トラウマとして残る事件だった。
>「病院には君みたいな子がたくさんいて入院は修学旅行のように楽しいよ、
>と言われて来たのだという。」
ここだけ読むと、まるで自発的な意志で入院先の病院を訪ねたように読めるけれども、
彼女本人が自ら公にした話によると、違う。
ある日、親が「ドライブへ行こう」と言って彼女を車で誘い出した。
目的地はわからなかった。
着いた先は、全くどこだか知らない場所の、見た事もない病院だった。
彼女はとても不審に思ったが「親がついているのだから大丈夫だろう」と考えて
病院の中に親と一緒に入っていった。
着いた先に居たのは、主治医の稲村氏ではなく、部下にあたる山登氏だった。
彼女は、もちろん見ず知らずであった。
山登氏は、
>>655にある通り、彼女に対して淡々と入院の準備をすすめていった。
しかし、なぜか親は全く止めなかった。
このとき「謀られた」と彼女は感じた。
親は事前に主治医たちと相談済みで、入院について全て了承していたのである。
ほとんどの病院は、保護者だけの受診というものを受け入れたがらないが、
稲村氏たちは、これを積極的に行っていた。(いまだにこの点は変わらない)
彼女の親もまた、本人に内緒で、事前に主治医と入院の手順を細かく話し合って
いたのだった。
ただ不登校であるというだけの理由で。
>>657で
「だまし討ちのように入院させられた」
「入院によって自分と親との関係が決定的に引き裂かれた」
と、退院後の彼女が語っているのは、つまりはそういうことだ。
山登氏は、上記の通りに立ち振る舞ったので、その後も仕事自体は続けられたが
もとの職場は退いているはずだ。現在は河合洋氏のクリニックに勤務している。
稲村氏は、この事件も一つの大きなきっかけとなって、医療・教育・マスコミ
関係者や、不登校当事者団体などから糾弾された。
さらに、学会の調査委員会の手が及んだというのだから、当時の彼らの立場は
推して知るべしである。
こうして、やがて実質的に失脚していった。
84年に発足した「登校拒否を考える親の会」は、
>>657にある通り
全国ネットワークで包囲網を敷き、この問題を一般社会や教育・医療・行政などに
訴えていった。この会は、翌年に設立される東京シューレの母体となった。
長い確執の、ほんのはじまりだった。
「稲村失脚は新聞報道のせい」などという斎藤環氏の著書の説明は、
こうした深いトラウマを隠しているのである。