高岡氏には、ぜひとも中島義道氏の著作を読まれることをお勧めしたい。中島氏
は本来の意味でのひきこもりを経験し、そこから立ち直った経験を持つ哲学者であ
る。氏がその著作の中で、働くことの必要性には懐疑的な態度を維持しながらも、
人間とかかわる必要性だけは肯定する意味がおわかりだろうか。
高岡氏は私が「揺るぎない存在が必要」といった信念があるのではないかと批判(?)
している(34P)。私に思い当たることがあるとすれば、「人間は空気のように人
間関係を必要とする」という個人的信念がそれにあたるのだろう。だからこそ、す
でに何度か述べてきたように、ひきこもりの治療目標を就労や就学でもなく、まし
て「打ち込める何かを見つけること」でもなく「親密な仲間を作ること」という一
点に設定しているのだ。これは経験論的な結論に見えて、実は精神分析的な要請で
もあり、さらにいえば倫理的要請でもある。
倫理的要請?おそらく高岡氏は首を傾げるだろう。しかし、そうなのだ。どのよ
うに生きたとしても、人間は社会的存在であることを免れない。「孤立」の美学は、
一種の甘え上手にのみ許された特権でもあるという逆説をおわかりだろうか。高岡
氏が精神科医として孤立を推奨するのなら、言いっぱなしではなく、いかに社会と
折り合いをつけながら孤立すべきか、そのためのスキルを伝えていくべきではない
だろうか。その際「集団」と「個」とが、分離可能な対立概念であるという視点の
ナイーヴさについても、臨床家として一度は疑ってみることをお勧めしたい。
ひきこもれ?
吉本隆明氏が『週刊文集』2001年3月29日号に寄せた「ひきこもれ!」という能
天気なコメントについて、高岡氏は「あとがき」で絶賛する。これこそが氏の言い
たかったこと、なのだそうだ。実は私もこの号に、ひきこもりに関するコメントを
寄せているのだが、なぜか高岡氏の目には止まらなかったらしい。
それはともかく、吉本氏の発言は正論には違いない。ただし、それは世間知らず
の正論である。ひきこもって本を書いたりコメントしたりして生活が成り立ってい
る人が、「ひきこもり」は素晴らしいと主張するのは構わない。誰にでも自己愛は
あり、そこから語ることしかできないのだから。ただし、吉本氏のひきこもりは編
集者とか高岡氏のような熱心なファンによって暗黙裡に絶大な支持を受けている。
つまり、吉本氏は実際にはひきこもりではない。孤立もしていない。そういう認識
をもって「でも、ひきこもりもそう悪くはないよ」と呟くだけなら、私もそれを支
持しただろう。しかし「ひきこもれ!」というアジテーション化は感心しない。自
分は安全圏にいて、若い連中にはあえてリスクをおかせというような独善的な説教
に、誰が納得するものだろうか。
イデオロギー的な態度について問われれば、中井久夫氏が若い頃、幼いマルキス
トたちにオルグされるたびに、ヴィトゲンシュタインを引用して論破していたとい
う逸話が好きだ、と述べることにしている。だから精神科医の書いた政治的文章で
最も見事なものが中井氏の昭和天皇論「昭和を送る」であると信じている。
左翼的なイデオローグたちを「可愛そうな連中」(浅田彰)と切って捨てるほど
傲慢ではないつもりだが、そこから新しいものが生まれてくるとも思わない。その
印象は、高岡氏の著作を読んでもほとんど変わらなかった。というか、むしろ強化
されてしまった。とはいえ、もし「彼ら」に対話を求められたら、拒むつもりはま
ったくない。話し合いには応ずるし、笑って握手もするだろう。
しかし悲しいことに、私は「彼ら」に嫌われている。フリースクール活動で知ら
れる某女史は、私との対談企画がもちあがった際に、きわめて感情的に拒否した
と伝え聞いた。噂だから真偽のほどはさだかではないが、多分事実なのだろう。
それにしても、なぜ拒否されるのかがわからない。私は妥協はしないが、誰とで
も対話する準備はいくらでもある。これまでタメ塾の工藤定次氏や、哲学者の村
瀬学氏ら、論点が対立する論者ともうまくやってきた。論点においては一切妥協
することなく、しかし和気藹々と対話をするという技術に関しては、自分の中で
定評がある。
だから彼らも、物陰で批判していないで私を対話の場に読んでくれれば、それ
ですむことなのだ。あえてそれをしないとすれば、わたしにはよくわからない、
何らかの恐れか脅えが、彼らの中にあるとしか思われない。