星空のメモリア-Wish upon a shooting star-party17
そもそも、『間違い』という概念そのものが100年後では全く違うものになっている可能性もあるわけで、ひょっとしたら我々の思想などは
100年後の者からすれば至極当然、真っ当な、ごくごくありふれたものになっているに違い無いのだ。さて、そのメアであるが
このメアの愛しさ、かわいさをどのように表現すれば全く互いに齟齬の無い伝達が可能となるのだろうか。情報とは伝達するその時点で
一種の劣化やらビット落ちなどによる欠落があるものなのだが、出来うることなら私はメアに関しては完全な方法で一分の隙もなく
そのかわいさをいとおしさを皆皆に伝えたいのである。それはたとえば長大な黄河が如き、絢爛、荘厳しかしながらそれは実は素朴な本質なる修飾でもってメアのかわいさを
余すことなく並べて伝えることであるとか、我が愛情を否我々の抱く愛情を熟々と述べるとか、方法は有るのだろうがそれでは意味がないのだ。
というのも、メアのかわいさとは真実、どれだけの時間を掛けてもその魅力というものは表現しきれるものではなく、事実メアの魅力容量Mを
時間で微分すると無限という値がはじき出されることからも分かるであろう。即ち、メアの魅力を真に劣化無く相違なく表現しようとしたところで
それは永久に終わらない作業でしかないのだ。しかし誤解しないで欲しいのそれは不毛な作業ではないのだ,むしろ名誉溢れることなのだ。
魅力が永久不変のものなら我々の愛もきっと永遠のものであるに違い無いからである。
しかしである、それでも私はメアの魅力を有限の時間で伝えたいのだ。その方法を私は模索したのだ。そして有る事実に気付く。
メアとは宇宙である。そうだ、宇宙なのだ、宇宙である、メアは宇宙なのだ。それは彼女の本質が隕石であるとか、そういったことではない。
先に説明したとおり彼女の魅力のオーダーはつ無限大である。即ち、彼女のキャパシティは限り無いものであり、それは全く宇宙と同義であることに気付かないだろうか。
少なくとも現状では宇宙は無限の象徴である。最大の譲歩をしても無限に近い存在である。メアとは地球に存在する宇宙であったのだ!
そしてそれがどう解決へと至るのか。こうである。彼女は宇宙である。我々の始まりはさかのぼれば海に至るのだろうが、ではその海の始まりは何か。
……宇宙じゃあないか……我々の祖先は宇宙で全く問題無いのだ……ゆえにわれわれは真実一緒の存在であったことが事実として分かるだろう。
我々は本質つながりを持っている。同一の基盤を持ちその上に何層も何層も得体の知れないペルソナだかブルセラだかを被っていけしゃあしゃあと生きているのだ。
だからそのベールを脱ぎさえすれば良いのだ。そのベールを脱ぎ去り裸一貫で我々は触れ合い意識を共有しようではないか。
そこに伝達の齟齬は無く100は100のままありのままを伝えることが可能になる。一は全にして全は一である。深いようで実は適当なことを言っているのではないかと
私はこれまで思ってきた言葉だが、これはまったく本質であったのだ。この必要十分条件の関係こそが我々の根底としてあるものであり
また我々はメアでもある。メアは宇宙だからだ。我々はメアでもあった!何という神の奇跡だろう、いやその神すらメアであるかもしれないのだ、宇宙かもしれないのだ。
メアこそが宇宙なのか、宇宙こそがメアなのか私には分からないが先の「一⇔全」から考えるにどちらでも同じことなのだろう。メアは私だ、私はメアだ、
そしておまえ達もメアだ、メアとはおまえ達だ、我々はメアだ、メアとは我々だ、宇宙の始まりより連綿として続くこの一大スペクタルの全てはメアであったのだ……
さあ、服を脱ぎ捨て外に出てみよう、皆皆晴れ晴れとした気分であるに違い無い。この世界はもはや種族の差別も宗教論争もジェンダーも大人も子供も
有機無機の差も生物としての垣根も何もかもから解き放たれた。全てが自由で同一で平等で、何もかもがメアであり我々であるようなそんな
誰もが夢見た理想郷が有るのだ……。アッ……メアッ……メアだぁ……こっちを見たぞ、メアだ、メアだぁ……