>>809 なぜ、ストレートの公共の福祉で攻めてこないの、えこーおぶですおにいちゃん
結局これでしょ。
この手の議論には二つの次元があることを認識しておく必要がある。
一つは、理論的な次元。要するに「あるべき」論。
最高裁が出した判決は、一つの法的な根拠を形成するけど、必ずしも全てではない。
175条は主流説と裁判所の判決が乖離している数少ない例だ。
そうなると、法哲学的なレベルの問題にならざるをえないが、現代の思想家や法哲学者は、
通常、道徳による表現の規制を肯定しない。反対派はそうした法哲学の理論に基づいて議論を展開してきたが、
規制派はラディカル・フェミニズム以外に依拠する理論を持たない。
さらに百歩譲って、175条を認めるとしても、175条に対して裁判所は
「最低限の規制」とみなしているのであって、逆に言えば、他の表現規制は裁判所の判決を根拠にすることはできず、
既存の憲法理論によるしかない。しかし、僕が知る限り、表現規制を「公共の福祉」の名の下に拡大してもかまわないとする理論は、
ほとんど存在しないか、少なくとも主流派の議論ではない。
もう一つは、国民運動が盛り上がったかどうか、というような現実政治から見た次元。
しかし、ここも規制派としては難しい問題がある。理論的に175条を持ち出すにしても、
現実問題として、175条をめぐる裁判は、吉行淳之介や大江健三郎といった著名な表現者が声をあげたことで、
法廷闘争では勝利を収めたものの、現実にはポルノ解禁に大きく近づいた。
現実の規制派が、なぜ理論的にスマートな公共の福祉論を持ち出さないかというと、
先の175条に関する裁判闘争が、政治的敗北を招いたことを知っているからだ。
だからこそ、強力効果論のような誤った理論や外圧を持ち出さないと、自らの理論を正当化できない。
ゆえに、175条の延長は、理論的にはスマートでも政治的には非現実的であり、
それ以外の議論は理論的脆弱性を抱えるという、重大なアンビバレンスを規制派は抱えることになっている。