いちおう、表現の自由とゾーニングの関係について、
一般的な法学上の議論を、少し整理して書いておこうと思う。
芦部憲法学以来、刑法175条やゾーニングの法理を、「見ない自由」の保護として解釈するのは、
非常に有力な学説として学界や裁判所で受け入れられている。
それでは、「見ない自由」とは、憲法のどこで保障される権利なのだろうか。
これには二つの考え方がある。
(1)表現の自由の一部=表現の自由とは、表現を「選択」できる権利のことであるとする
(2)幸福追求権=憲法十三条で保障される諸々の「新しい人権」
(1)の議論は、例えばある特定政党の主張に立つ番組を、全国民が強制的に見させられている状況を考えてみよう。
もし仮にそこで他の表現が自由に流通していたとしても、十全に表現の自由が保障されているといえるだろうか?
表現の自由をより十全に担保するためには、表現の享受者の側の選択性も可能な限り広げ、
かつまた、羞恥心や嫌悪感を煽る内容であり、「見ない自由」が必要となる蓋然性の高い表現については、
視聴を回避できる余地が保障されているべきであろう(これがゾーニングの必要を導出する)。
(2)の議論は(1)と比べて非常に脆弱である。
「ポルノのない社会に暮らす権利」のような新しい権利を幸福追求権に加え、内容規制をも肯定してしまう可能性があるからだ。
「見ない自由」を表現の自由と異なる概念であるととらえる法学者は(例えば芦部)、
「表現の自由」はあくまで表現者の権利であり、消費者の権利ではないとする。
ある種の表現が一切流通しない社会は、表現という行為そのものを禁止しているのと実質的に同じであるが、
表現の場所や時間に対する制限は、表現者の側の自由を束縛するものとまでは言えず(表現という行為は許されているから)、
あくまで消費者の側のアクセシビリティに制限が加わっているだけである。
それでは、ゾーニングに対抗する権利は何かというと、それは消費者の側の「知る権利」だ。
「知る権利」と「見ない自由」という、幸福追求権の均衡によって、ゾーニングの規模が決定される。
いずれの立場に立つとしても、表現の自由と矛盾しない形で、
「見ない自由」を観念することは可能であるといえる。