体験者による情報や感想をお願いします
2取りー!!
シルディサイババ像は指定された産地の大理石を使い 正式な認可を受けたもの以外はニセモノです。 つまり・・・
つまり?
もうすこし詳細にお願いします
あぼーん
7 :
癒されたい名無しさん :2010/11/27(土) 06:34:03 ID:QSyFBPNW
>3
対人緊張や社会恐怖障害を理由に、職に就いていない状況が長く続いている超ニー
ト。
偽りのインド聖者カレスワーラのイニシエーションを受け、金儲け主義の阿部氏、脱
税の協力者の須藤氏を師と仰ぐ。
http://www.kaleshwar.org/ja/index 今だ創作好きの須藤氏の書き込みを真に受け、それを判断材料にしている。
友達もいなくネット上でしか暗躍できない厨房。
シルディ・サイババのお試しに落ち、その信仰も捨てた。
【ゲームオーバー】
┐(´∀`)┌
水上恵 様 こんにちは。 削除依頼を拝見いたしました。 念のために確認させていただきますが、最悪の場合には訴訟を視野に入れているという理解でよろしいでしょうか?
実害が出た時点でまずは警察に通報ということになると思います。
10 :
消去マン☆ :2010/11/27(土) 15:16:59 ID:9hU+n/Jj
水上恵 様 こんにちは。 さきほどの削除依頼に対する冷やかしではありません。 訴訟を視野に入れているか否かで削除人の判断が異なることになります。 よって、訴訟を視野に入れているか否かを確認しているわけです。
削除マン☆は単なる冷やかしで、運営の人間ではありません。
消去マン☆ね。 訴訟になったら、あなたもその対象になるだろう。
削除マン☆は削除依頼されているものを「削除できなく」させるのを目的にしている人物です。
>>9 を依頼人が書いたら証拠保全の為に「削除できない」ものになります。
水上恵 様 こんにちは。 便乗によるイタズラの書き込みではございません。 誤解です。
便乗によるイタズラの書き込みではございません。 誤解です。
ディバインソウルの、 愛内清隆・かこ のどちらかが削除された書き込みをしでかしたのかね? だとしたらヒーリング稼業に従事する人間の実態がよくわかる恰好の事例だな。
犯罪者:愛内清隆
サイババがチャネリングで話しかけてくる、なんてことは絶対にありません。
サイババ自身がそのことを否定しています。
サイババに限らず、有名どころの聖者や覚者が話しかけてきたら、 それは低級な霊的存在による惑わしとしして切り捨てることが肝要です。
ラクシュミが現れた、ガネーシャが現れた、ドゥルガが現れた、というのも同じです。 それはマーヤです。
また、形式だけのマントラをいくら唱えても無駄です。 マントラというメソッドに拘泥しているうちはそれはマントラでさえありません。
マインドが道に迷い、マインドが家に帰り着くのだ。 「迷う」という言葉さえ的確ではない。 マインドはそれ自身のあらゆる気分を知らなければならない。 繰り返されないかぎり、何ひとつ間違いということはないのだ。 『私は在る』(p294)
世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。 それは在り、しかもそれはない。 私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこに在る。 私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。 それは原因がなく、何の目的にも仕えない。 それは私たちが放心しているときに起こる。 まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味もない。 ただその傍観者だけが実在なのだ。 彼は真我ともアートマとも呼ばれる。 真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、 ただの色鮮やかなショーにすぎない。 何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、あるいは 笑い転げさせようと、常に彼はそれがただのショーだと知っている。 欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。 『私は在る』(p196)
すべてを夢として見なすことは、あなたを解放する。 夢に現実性を与えるかぎり、あなたはそれらの奴隷だ。 ある特定のものとして生まれたと想像することで、あなたは特定のものとし て在ることの奴隷になってしまう。 あなた自身を過程として、過去と未来、そして物語をもつ者として想像する ことは奴隷状態の本質なのだ。 実際には、私たちに物語はない。 私たちは過程ではなく、発展もせず、崩壊もしない。 すべてを夢と見て、動じずにいなさい。 『私は在る』(p207)
厳しい試練が大きければ大きいほど、我々の力は強まり、行き渡っていくのです。 苦しみによって得られたものこそが、我々の精神にとって、本当の宝になっていく タゴール(インド・詩人)
「国家のため」という圧力に押しつぶされて、国家の悪を見逃してはいけない。 いやしくも、正義人道に反する方向に行きそうな場合は、国家にだろうが、親にだろうが、 夫にだろうが、敢然反対して、これらを正道に戻すような人間をつくらねばならぬ。 ・・・そしてそういう人こそが世界中から尊敬せられ、愛せられる人である。 尾崎行雄『民主政治読本』
人間と言ふものは棺桶の中に入れられて、 上から蓋をされ釘を打たれ、 土の中に埋められて、それからの心でなければ何の役に立たぬ。 河井 継之助(幕末の志士)
あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ って自覚するだろう。 結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという 感覚があるのだ。 関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、 そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心 は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。
「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。 こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新 しい知識とともに振動するのだ。 すべては自発的にやってくる。 ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。 眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは 休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする ようになったのか説明ができない。 真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか を説明できないのだ。 あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。 「私には、もはや何も間違ったところがない」と。 ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。 そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。 ほかの人たちに伝えようとしてはならない。 もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。 沈黙しなさい。 そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。
何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるの か言うことができるだろうか? あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。 自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。 過去も未来も考えず、ただ在りなさい。
変化の絶えないなかにあっては、変化は不可避だ。 だが、あなたがそれに支配されることはない。 あなたはそれに対して変化が知覚される、不変の背景なのだ。
もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。 しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。 あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろ う。 何がそれを蘇らせるのだろうか? 朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか? 意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。 もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。 その隙間のなかには何があるのだろうか? ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。 それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。
唯一、正しい場所は内側だ。 外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。 どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて いきはしない。 未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。 完全に、今に集中するのだ。 起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさい。
夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。 いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。 これが絶対的な真理なのだ。
絶対なるものの体験などありえない。 それはすべての体験を超えているからだ。 その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。 それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。 世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。 だが、誰も買う人がいなければ、それに価値はない。 絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。 体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。 それを現実のものにするのが真我なのだ。
欲望の間に段階はありうる。 しかし、もっとも崇高な欲望とすべての欲望から自由になることの間には、 渡らなければならない深淵がある。 実在ではないものが実在に見えることはあるかもしれない。 しかし、それは一時的なことだ。 実在は時間を恐れてはいないのだ。
犯罪者が焦って不都合な書き込みを長そうとしているようだ。
どうしてそう(非実在が実在の表現などということが)ありえよう? それは、あたかも真理は夢のなかでそれ自体を表現すると言うようなものだ。 実在にとって、非実在は存在しない。 あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。 疑ってみなさい。 そうすればそれは消え去る。 誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。 あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。 それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って いたが、そうではなかった」と。 一時性は非実在の最高の証拠なのだ。 時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在ではない。 実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。
実在にとって、 非実在は存在しない。 あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。 疑ってみなさい。 そうすればそれは消え去る。 誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。 あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。 それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って いたが、そうではなかった」と。 一時性は 非実在の最高の証拠なのだ。 時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在ではない。 実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。
ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。 あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだろう。 在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。 そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。
それを実在と見なすことで、あなたはそれに実在性を分け与えるのだ。 あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されてしまうのだ。 日が照るとき、色彩が現れる。 日が沈むとそれらは消え去る。 光なしに、色彩はどこにあるだろうか?
考えることはすべて二元性のなかにある。 本質のなかではいかなる思考も生き残らないのだ。
あなたはあなた自身を名前と身体だと見なしている。 だから、あなたの知覚するものすべては名前と身体なのだ。
(もしラマナ・マハルシに出会うなら何が起こるか、というなら) おそらく、私たちはまったく幸せに感じるだろう。 二、三の言葉を交わしさえするかもしれない。 人が人を認識するように、ジニャーニはジニャーニを認識するのだ。 あなたはあなたが体験したことのないものを賞賛することはできない。 あなたはあなた自身であると考えているものだ。 だが、あなたはあなたが体験していないものをあなた自身として考えること はできないのだ。
(神となるためには何を学ばなければならないのか、というなら) あなたはすべてを忘れなければならない。 神はすべての欲望と知識の終焉なのだ。
すべての欲望が放棄されなければならない。 なぜなら欲望を持つことで、あなたはあなたの欲望の形を取るからだ。 何の欲望も残っていないとき、あなたは自然な状態へと戻るのだ。
(完成に到達したということをどうやって知るのか、というなら) 完成を知ることはできない。 あなたは未完成だけを知ることができるのだ。 知識が存在するには、そこに分離と調和がなければならない。 あなたはあなたではないものを知ることができる。 だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。 あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。 そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。 それは偽りを偽りとして見るというものだ。 しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。
非顕現の知識といったものはない。 それは不可知だ。 知ることができるのは現実のものだけなのだ。
あなたはあなたが反応することだけを知っている。 誰が何に反応するかを知ってはいない。 あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。 「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。
ホタルが世界を照らすというのかね! あなたが世界に意味を与えるのではない。 あなたはそれを見いだすのだ。 あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。 そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。 間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。
全体は開いていて、手に入るものだ。 だが、あなたはそれを手にしない。 あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。 あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。 結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう? 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。 あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。 全体としてのあなた自身を知りなさい。
結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう? 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。 あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。 全体としてのあなた自身を知りなさい。
ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。 許容量に欠けることはない。 自己限定だけが唯一の問題なのだ。 しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。 どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。
どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか? 獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか? 一方は隷属させ、他方は解放する。 動機がもっとも重要なのだ。 自由は放棄を通してもたらされる。 すべての所有は束縛なのだ。
(放棄は弱者のためのものだ、というなら) もしあなたが放棄する智慧(ちえ)と力をもっていないのなら、ただあなた の所有物を見てみなさい。 ただ見るという行為がそれらを焼き尽くすだろう。 もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望 を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。 あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若 く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。
あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。
もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望 を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。 あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。
(どのようにして無欲の訓練をすればいいのか、というなら) 訓練の必要はない。 放棄という行為さえ必要ない。 ただ、あなたのマインドをそらしなさい。 それだけだ。 欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。 それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
(無欲の)訓練の必要はない。 放棄という行為さえ必要ない。 ただ、あなたのマインドをそらしなさい。 それだけだ。 欲望とは単にある想念にマインドを固定させることだ。 それに注意を払わないことで、その常道にはまる習慣を捨て去りなさい。
欲望や恐れが何であれ、それにとどまっていてはならない。 自分で試みてみなさい。 ときおり、あなたは忘れてしまうかもしれない。 だが、それは問題ではない。 すべての欲望と恐れを追い払うまで、すべての反応が自動的になるまで試み ることだ。
あなたは欲しいだけすべての感情をもつことができる。 だが、引き起こされた感情の反応に注意しなさい。 完全に自己決定し、外面からではなく、内面から導かれなさい。
犯罪者:愛内清隆によるスレ流しが続いています。
より良いものを確保するために、ひとつのものをあきらめるのは本当の放棄ではない。 あきらめなさい。 なぜなら、あなたはそれが無価値であることを理解するからだ。 放棄していくにしたがって、あなたは自然に知性と、力と、無尽蔵の愛と、 喜びのなかに成長していく自分を見いだすだろう。
それら(すべての欲望と恐れ)は自然なものではない。 完全にマインドによって作られたものだ。 あなたに必要なものは何もないということを知るために、すべてを放棄しな ければならないのだ。
あなたが必要とするものは非実在であり、あなたの努力は無意味だ。 あなたは所有物があなたを守ると想像している。 実際は、それらがあなたを傷つきやすくするのだ。 あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離 れたものであることを自覚しなさい。 あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。 それから立ち去りなさい。 人格化を拒否しなさい。
あなた自身が「あれ」や「これ」として指し示すことができるすべてから離 れたものであることを自覚しなさい。 あなたは感覚的体験や言語的解釈によって到達することのできないものだ。 それから立ち去りなさい。 人格化を拒否しなさい。
聞くことだけでは本当の助けにならないだろう。 それを心にとどめ、熟考し、私が語っていることを私に語らせようとするマ インドの状態を理解しようとしてみなさい。 私は真理から話している。 両手を開き、受け取りなさい。 あなたはあなたが考えているものではないのだ。 私が保証しよう。 あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまったく偶然の産物なのだ。
あなたはあなたが考えているものではないのだ。 私が保証しよう。 あなたがもっているあなた自身のイメージは記憶によってつくられたまったく偶然の産物なのだ。
一見、あなたであるように見えるもの、それはあなたではない。 カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。 あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。 あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。 自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。 あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?
カルマは、あなたが繰り返し学んできたひとつの言葉にすぎない。 あなたはけっして今まで、そしてこれからもひとりの個人ではないのだ。 あなた自身を個人だと考えることを拒絶しなさい。 自分が誰それだということを疑わないかぎり、希望はもてない。 あなたが目を開くことを拒むとき、何を見せられるというのだろう?
(カルマが完成へとつき動かす神秘の力だというなら) それは人びとがあなたに言ったことだ。 あなたはすでに今ここで完成している。 完成することができるようなものはあなたではない。 あなたはあなた自身ではないものをあなただと想像しているのだ。 やめなさい。 重要なのは停止そのものであって、あなたが何をやめようとするかではないのだ。
(カルマが自分である者に成るよう駆りたてたのだ、というなら) 何も駆りたててはいない。 あなたはあなただと信じるものだ。 信じるのを止めなさい。
何ひとつ、私に強いるものはない。 私はする必要のあることをするだけだ。 だが、あなたはたくさんの不必要なことをする。 調べることを拒むことがカルマをつくり出すのだ。 あなた自身の苦しみに無関心であることが、それを永続させるのだ。
(自分の苦しみへの無関心に終止符を打てるのは何かというなら) 無執着、あるいは慈悲の波が内面から衝動として起こらなければならない。
(無執着への衝動に自分から出会いに行くことができるか、というなら) もちろんだ。 あなた自身の状態を見てみなさい。 世界の状態を見てみるがいい。
(カルマ、輪廻、進化、ヨーガ、師と弟子、といったすべての知識をどうす ればいいのか、というなら) すべてを捨て去っていくがいい。 忘れるのだ。 概念や信念の重荷を捨て去って、先へと進んでいきなさい。 すべての言語的構造、すべての相対的真実、すべての実体的な対象物を放棄しなさい。 絶対なるものは、絶対的な献身によってだけ到達できるのだ。 半端な気持ちではいけない。
概念や信念の重荷を捨て去って、先へと進んでいきなさい。 すべての言語的構造、すべての相対的真実、すべての実体的な対象物を放棄しなさい。 絶対なるものは、絶対的な献身によってだけ到達できるのだ。 半端な気持ちではいけない。
(そこから始められるような何か絶対的な真実があるか、というなら) ある。 それが「私は在る」という感覚だ。 それからはじめなさい。
(「私は在る」という感覚以外の何も真実ではないのか、というなら) ほかのすべては真実でもなければ、偽りでもない。 それが現れると真実のように見え、否定されるとそれは消え去るのだ。 一時的なものは神秘的だ。
(実在は神秘的なのだと思っていた、というなら) どうしてそうありうるだろう。 実在はシンプルで、オープンで、明らかで、優しく、美しく、そして喜ばし いものだ。 それは矛盾からの完全な自由なのだ。 それはつねに新しく、つねに新鮮で、かぎりなく創造的だ。 存在と非存在、生と死、すべての区別がそのなかで溶けあっている。
(すべてが偽りだと認めてもそれでマインドは消え去らない、というなら) マインドとはそれが考えていることなのだ。 マインドを真実にするために、真実を考えなさい。
(形が単なる現れでしかないなら実際には物事とは何なのか、というなら) 実際には、知覚だけがある。 知覚する者と知覚されるものは観念であり、知覚しているという事実は現実 のものだ。
絶対なるものは知覚の誕生する場所だ。 それが知覚を可能にするのだ。
しかし、分析のしすぎはあなたをどこへ導きもしない。 あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の確信がある。 あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。 日常生活のなかで、それを表現しなさい。 そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。
あなたのなかには分析もマインドも超えた存在の核心がある。 あなたはそれを行為のなかでだけ知ることができる。 日常生活のなかで、それを表現しなさい。 そうすれば、その光はつねに明るく光り輝くだろう。
マインドの真正な機能とは、あなたに何が存在しないのかを伝えることだ。 だが、もしあなたが明確な知識を望むなら、マインドを超えた彼方へ行かな ければならない。
(すべての宇宙のなかにただひとつでも価値あるものがあるか、というなら) ある。 愛の力だ。
グルは基本的に欲望をもたない。 彼は選択をせず、決定もしない。 純粋な観照者として起こっていることを見守り、感化されないままなのだ。 勝利はつねに彼のものだ――最終的には。 グルは、もし弟子がグルの言葉から学ばなければ、自分たちの過ちから学ぶ だろうということを知っているのだ。 内面的には、彼は静かに沈黙している。 彼には分離した個人という感覚がない。 彼の弟子と彼らの取るに足らない計画も含めた、宇宙全体が彼のものなのだ。 何ひとつ特定のものが彼に影響を与えることはない。 あるいは同じことで、宇宙全体が同じ度合いで彼に影響を与えるのだ。
守秘義務違反 消防法違反
彼(グル)の恩寵は絶えることなく遍在している。 それはひとりに与えられ、ほかを拒むようなものではないのだ。 あなたのマインドが真理の探究に従事しているのも、グルの恩寵によるものなのだ。 そして、グルの恩寵によってあなたは真理を見いだすのだ。 それはあなたの究極の目標に向かって意図することなく働いている。 そして、それはすべての人にとってそうなのだ。
グルは究極なるものを知っている。 そして、それに向けて弟子を容赦なく駆りたてる。 弟子は自分自身で超えなければならない障害物でいっぱいなのだ。 グルは弟子の表面的な人生にはそれほど関心をもたない。 それは重力のようなものだ。 果実はもうこれ以上もちこたえられないとき、落ちなければならないのだ。 目的地はグルによって示される。 障害は弟子によって発見されるのだ。 グルに選り好みはない。 だが、克服しなければならない障害をもつ者たちは、遅れをとるように見えるのだ。 実際には、弟子はグルと異ならない。 彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。 彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてしまうだけだ。 師は個人には関心がない。 彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。 理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。 一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。
実際には、弟子はグルと異ならない。 彼は行為における愛と知覚の、同じ無限の中心なのだ。 彼の想像と想像したものとの自己同一化が、彼を包み込み、個人に変えてしまうだけだ。 師は個人には関心がない。 彼の注意は内面の見守る者に合わせられている。 理解をし、それによって個人を消し去るのは見守る者の仕事なのだ。 一方では恩寵があり、もう一方では修練への献身がなければならない。
個人とは単なる誤解の結果だ。 実際には、そのようなものはないのだ。 果てしない連続性のなかで、感情、思考、行為が脳のなかに痕跡を残し、継 続性という幻想をつくりながら、見守る者の前を駆け抜けていく。 マインドのなかで、見守る者の反映が「私」という感覚をつくり出し、個人 一見独立したように見える存在を獲得するのだ。 実際には、個人というものは存在しない。 ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。
実際には、個人というものは存在しない。 ただ見守る者が「私」と「私のもの」に自己同一化するだけだ。 師は見守る者に言う。 「あなたはこれではない。このなかには、見守る者と彼の夢を橋渡しする 『私は在る』という小さな点以外、あなたのものは何ひとつないのだ」と。 「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。 一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。 あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無 に帰したのだ。
「私はこれだ、私はあれだ」は夢なのだ。 一方、純粋な「私は在る」には実在の特質がある。 あなたは今まで本当にたくさんのことを味わってきた――だが、すべては無 に帰したのだ。 ただ、「私は在る」だけが変わることなく存続している。 あなたが彼方へと超えていけるようになるまで、変化の絶えないもののなか で、不変なるものとともにとどまりなさい。
(彼方へと超えていくことはいつ起こるのか、というなら) それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。 (どの障害か、というなら) 偽りへの欲望と真実への恐れだ。
個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想像している。 まったくそうではない。 彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。 彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指しているのだ。
(彼方へと超えていくことはいつ起こるのか、というなら) それはあなたが障害を取り去ったとたんに起こるのだ。 (その障害とは)偽りへの欲望と真実への恐れだ。 個人としてのあなたは、グルが個人としてのあなたに興味を持っていると想像している。 まったくそうではない。 彼にとって、あなたは排除すべき厄介な障害だ。 彼は実際に、意識のなかの要因であるあなたを排除することを目指しているのだ。
(もし自分が排除されたなら何が残るのか、というなら) 何も残らない。 あるいはすべてが残るのだ。 アイデンティティの感覚は残る。 だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。 存在―気づき―愛が最高度に輝きだすだろう。 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解 放されることなのだ。
解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、 個人という実体から解放されることなのだ。
(もし個人が排除されたなら何が残るのか、というなら) 何も残らない。 あるいはすべてが残るのだ。 アイデンティティの感覚は残る。 だが、特定の身体との同一化はもはやなくなる。 存在―気づき―愛が最高度に輝きだすだろう。 解放とは、けっして個人が解放を得ることではなく、個人という実体から解 放されることなのだ。
(解放のあと個人の痕跡は何も残らないのか、というなら) 夢や子ども時代の記憶のような、漠然とした記憶は残る。 結局、覚えておくような何がそこにあるというのだろうか? たいてい偶然の、そして無意味な一連の出来事でしかない。 欲望と恐れの連鎖と、愚かな失敗だ。 覚えておくような何かがそこにあるだろうか? 個人とは、あなたを監禁する殻(から)でしかないのだ。 殻を破りなさい。
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。 あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではなく、あなたが実在を与えるということだけだ。 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
記憶と自己同一化の拘束を破りなさい。 そうすれば、殻(から)はひとりでに破れるだろう。 そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。 あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではなく、あなたが実在を与えるということだけだ。 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではなく、 あなたが実在を与えるということだけだ。 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。ものごとはそのままだ。 なぜなら、あなたがそれをそれとして受け入れるからだ。受け入れるのをやめなさい。 そうすればそれは消え去る。 何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなたの前に現れる。 それを欲望と恐れなしに見なさい。そうすればそれは実体を失う。 快楽と苦痛はつかの間のものだ。そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。
そこには、何であれそれが知覚するものに実在性を分け与える中心がある。 あなたが理解すべきことは、あなたは実在の源であり、実在を得るのではなく、 あなたが実在を与えるということだけだ。 あなたには何の支持も確証も必要ないのだ。
何であれ、あなたが欲望と恐れとともに考えることは、現実となってあなたの前に現れる。 それを欲望と恐れなしに見なさい。そうすればそれは実体を失う。 快楽と苦痛はつかの間のものだ。 そのために行動を起こすよりも、無視する方が単純でたやすいのだ。
創造は意識の本性そのものなのだ。 意識が現れを起こす原因なのだ。 実在は意識を超えた彼方にある。
無知も幻想も、けっしてあなたには起こらなかったのだ。 あなたが無知と幻想をもつと見なす、その自己を見いだしなさい。 そうすればあなたの質問は答えられるだろう。 あなたはあたかも自己を知っているかのように話し、それが無知と幻想に揺 り動かされているかのように見ている。 だが実際には、あなたは自己を知らず、己の無知にも気づいていないのだ。気づきなさい。 これがあなたを自己へと連れていくだろう。 そうすればあなたは無知も妄想もなかったことを認識するだろう。 それは、「光あるところ、いかにして闇あらん」という格言のようなものだ。 どんなに日の光が強くとも、石の下には影ができるように、「私は身体だ」 という意識の影のなかには、無知と幻想がかならず現れるのだ。
(どうして身体意識は存在のなかに現れたのか、というなら) 「なぜ」や「どうして」を尋ねてはならない。 それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。 あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそ れを止めることができる。
それ自身を創造と同一化することは、創造的想像の本性なのだ。 あなたは注意をそらすことで、あるいは究明することによって、いつでもそれを止めることができる。
はじめに、あなたが世界をつくり出すのだ。 それから、「私は在る」が個人となる。 彼はさまざまな理由から幸福ではないのだ。 彼は幸福を探し求めて外へと出ていき、ひとりのグルに出会う。 そしてグルは彼に言うのだ。 「あなたは個人ではない。あなたとは誰なのかを見いだしなさい」と。 彼はそれを為(な)し、彼方へと超えていくのだ。
(どうすればマインドをきれいにできるか、というなら) 容赦なく、それを見守ることによってだ。 不注意が鈍くさせ、注意が明晰にさせるのだ。
(どうしてインドの師たちは無為を唱道するのか、というなら) ほとんどの人びとの行為は、あからさまに破壊的でないにしても、無価値なのだ。 欲望と恐れに支配され、彼らは何も適切なことができない。 悪を為さないことが善をはじめることに先立つ。 それゆえ、すべての活動をひとまず止める必要があるのだ。 人の衝動とその動機を調べ、人生のなかでそれらはみな偽りであることを見て、 あらゆる悪のマインドを清浄にし、その上でようやく自分の明白な義務から仕事を再開するのだ。 もちろん、もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、ぜひそうしなさい。それも敏速にしなさい。 あなたが完全になるまで彼を待たせる必要はない。 だが、善行を職業にしてはいけない。
悪を為さないことが善をはじめることに先立つ。 それゆえ、すべての活動をひとまず止める必要があるのだ。 人の衝動とその動機を調べ、人生のなかでそれらはみな偽りであることを見て、 あらゆる悪のマインドを清浄にし、その上でようやく自分の明白な義務 から仕事を再開するのだ。 もちろん、もしあなたが誰かを助ける機会があるなら、ぜひそうしなさい。 それも敏速にしなさい。 あなたが完全になるまで彼を待たせる必要はない。 だが、善行を職業にしてはいけない。(p362)
(自己覚醒の成果とは何か、というなら) あなたはより知的に成長するのだ。 気づきのなかであなたは学ぶ。 自己覚醒のなかで、あなたは自分自身について学ぶのだ。 もちろん、あなたはあなたではないものだけを学ぶことができる。 あなたが何であるのかを知るには、マインドを超えた彼方へ行かなければならない。
気づきとはマインドがそれ自身の彼方にある実在のなかへ届こうとする点なのだ。 気づきのなかで、あなたはあなたを喜ばすものを探すのではなく、真実なるものを探すのだ。
身体的崩壊は無意味だ。 感覚的な生にしがみつくことがあなたを束縛するのだ。 もしあなたが内面の虚空を完全に体験するなら、全体性のなかへの爆発は間近なのだ。
感覚的な生にしがみつくことがあなたを束縛するのだ。 もしあなたが内面の虚空を完全に体験するなら、全体性のなかへの爆発は間近なのだ。
意識における変化はすべて、「私は身体だ」という観念によるものだ。 この観念を取り除くことで、マインドは安定する。
本当の進歩とは、みな後戻りできないものだ。 上がったり下がったりは、教えがマインドに届いていず、完全に行動に移さ れていないことを示しているのだ。
あなた自身を身体だと見なすかぎり、あなたはすべてに原因を帰するだろう。 私はものごとに原因がないとは言ってはいない。 それぞれのものごとには無数の原因がある。 それはあるがままだ。 なぜなら世界はあるがままだからだ。 すべての原因とその支流は宇宙を覆っている。
あなたにはあなたが承諾するものになる絶対の自由があり、 あなたがあなたであるように見えるのは無知あるいは無関心のためだと自覚したなら、 反抗し、変わることはあなたの自由だ。
あなたはあなた自身ではないものとして在ることを許している。 あなたはあなたではないものの存在の原因を探しているのだ!それは無駄な探求だ。 すべての因果関係を超えた、完全なる真の存在に対するあなたの無知以外に原因などない。 なぜなら、何が起ころうとも、責任はすべての宇宙にあり、そしてあなたが宇宙の源だからだ。
あなたが「私は身体だ」という病原体に侵されたとき、宇宙全体が存在のなかに現れるのだ。 だが、あなたがもうこれ以上はたくさんだというほどそれを味わったとき、 解脱(げだつ)についての空想的な考えをマインドに抱いて、まったく無駄 な行動を追求しはじめる。 あなたは集中し、あなたは瞑想し、あなたはマインドと身体を苦しめて、あ らゆる類(たぐい)の不必要なことをする。 だが、個人を消去するという本質的なことは見逃してしまうのだ。
(真我の探求の用意ができるまで、しばらく祈りと瞑想をするべきかも、というなら) もしあなたがそう信じるなら、そうすればいい。 私にとっては、あらゆる遅れは時間の浪費だ。 あなたはすべての準備を飛び越え、内なる究極の探求に直接進むことができるのだ。 すべてのヨーガ(修練)のなかで、それがもっとも簡単で、最短なのだ。
不動性と沈黙は無為ではないのだ。 花は空間を芳香で満たし、ロウソクは輝きで満たす。 それらは何もしないのに単なる存在だけですべてを変えてしまう。 あなたはロウソクの写真を撮ることはできても、輝きは撮れない。 あなたはその人の名前や姿を知ることはできても、彼の影響を知ることはできないのだ。 彼の存在自体が行為なのだ。
誰もが行動的でありたい。 だが、彼の行為の根元はどこにあるのだろうか? そこに中心点なるものはないのだ。 無意味に、苦しみながら、果てしない連続の中でそれぞれの行為が別の行為を生みだしていく。 働きと休息の交代はそこにはない。 あなたは車輪が車軸のまわりをまわっていくように周辺を旋回するのではなく、 つねに中心軸にいなければならないのだ。
守秘義務違反、名誉毀損、誣告罪、消防法違反
いつであれ、欲望や恐れについての思考や感情がマインドに現れたときには、 ただそれから注意をそむけなさい。私は抑圧について語ってはいない。ただ注意を払うことを拒みなさい。
目覚め、夢見、眠りの三つの状態はすべて主観的で、個人的な私事(わたくしごと)だ。 それらはみな意識の中の「私」と呼ばれる小さな泡の中に包まれ、そこで起こることなのだ。 真実の世界は自己を超えた彼方にある。
もちろん、事実は現実だ。 私はそれらの中に生きている。 しかし、あなたは事実ではなく、想像の中に生きているのだ。 事実はけっして衝突しない。 だが、あなたの人生と世界は矛盾で満ちている。
事実はけっして衝突しない。 だが、あなたの人生と世界は矛盾で満ちている。 矛盾は偽物の証拠なのだ。 本物がそれ自体で矛盾することはない。 たとえば、あなたは人々が極端な貧困の中にいると苦情を訴えている。 それにもかかわらず、あなたの富を彼らに分け与えはしない。 あなたは近隣で起こっている戦争にはかまうが、どこか遠くの国で起こっている戦争のことは考えもしない。 あなたの気まぐれな自我が価値を決定し、「私は考える」「私は欲しい」 「私はしなければならない」といった移ろいやすい想念を絶対的なものにしてしまうのだ。
悪はあなたの存在以上の現実ではない。 悪は誤解や誤用による問題への誤った対処法にある。 それは悪循環なのだ。 偽物の輪を壊す必要はない。 それをあるがままに、非存在として見るだけで充分なのだ。
あなたのつくり出した悪を取り消すことができるのは、あなただけだ。 あなたの無神経な利己主義がその根本なのだ。 まず、自分の家に秩序をもたらすことだ。 そうすれば、あなたはあなたの仕事を終えたことを知るだろう。
そこ(善と悪の間)には壁はない。 なぜなら、善も悪もありはしないからだ。 あらゆる実際の状況のなかで、あるのはただ必要なことと不必要なことだけだ。 必要なことは正しく、不必要なことは正しくないのだ。
界の問題は、それぞれが自分の欲望や恐れでいっぱいの、 無数のあなたのような人々によってつくり出されているのだ。 あなたの個人的、社会的な過去から、誰があなたを解放できるというのだろうか? そしてあなた自身が、幻想から生まれた欲望から自由になることへの切迫し た必要性を見ないかぎり、どうやって世界の問題を解決するというのだろうか? あなた自身が助けを必要としているかぎり、どうしてあなたに本当の助けができるだろうか?
私の真実の世界では、善は広まっている。 私の世界では、あなたの呼ぶ悪も善の召使いであって、それゆえ必要なものなのだ。 それは吹き出物や熱が身体の不純物を取り除くようなものなのだ。 病気は苦しく危険でさえあるが、正しく対処すれば治るものだ。
成長することが必要なことだ。 より成長することが必要なのだ。 良いことをより良いことのために放棄することは必要なことだ。
最終目的ははじまりのなかにある。 あなたはあなたがはじめたところで終えるのだ――絶対なるもののなかで。
(サットサン(聖者との交わり)は真我の実現のために充分か、というなら) それは川まであなたを連れていくだろう。 しかし川を渡るのはあなた自身なのだ。 自由への意志なしには、自由を獲得することも維持することもできない。 解放に向かってあなたは努力しなければならない。 最小限あなたにできることは、入念に障害の覆いを取り除くだけだ。 もしあなたが平和を求めるのなら、努力しなければならない。 ただ静かにしているだけでは、平和は得られないだろう。
(子供は完全な形で、無意識のうちに成長するではないか、というなら) なぜなら、彼は想像から自由だからだ。 あなたもまたそのように成長することができる。 しかし、記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ。 未来に関心がないこと、それがジニャーニ(賢者)の独自性のひとつなのだ。 あなたの未来への関心は苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。 ジニャーニにとってはすべてが至福だ。 彼は何が来ようとも幸せなのだ。
ジニャーニは困難に遭遇するかもしれない。 しかし、それが彼を苦しめることはない。 子供を誕生から成人まで育て上げることは困難な仕事かもしれない。 しかし、母親にとっては苦難の思い出も喜びなのだ。 世界には何の間違いもない。 誤りはあなたの見方にあるのだ。 あなたを惑わせるのは、あなた自身の想像だ。 想像なしには世界もない。 あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。 あなたが知覚している世界は意識でできている。 あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。 あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。 あなたは永遠に続く時間だ。 あなたはそれに生命を与える愛なのだ。
世界には何の間違いもない。 誤りはあなたの見方にあるのだ。 あなたを惑わせるのは、あなた自身の想像だ。 想像なしには世界もない。 あなたが世界を意識しているという確信が世界なのだ。 あなたが知覚している世界は意識でできている。 あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。 あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。 あなたは永遠に続く時間だ。 あなたはそれに生命を与える愛なのだ。
あなたが知覚している世界は意識でできている。 あなたが物質と呼ぶものは意識そのものなのだ。 あなたは、そのなかで世界が動く空間(アーカーシュ)だ。 あなたは永遠に続く時間だ。 あなたはそれに生命を与える愛なのだ。
私の世界では、愛が唯一の法則だ。 私は愛を求めず、ただ与えるだけだ。 それが私の本性なのだ。
私の見るかぎり、礼拝や献歌に関しては、私が干渉する理由はない。 一般的な日課は、私がともに生活するようになった人びとや、話を聞きに来る人たちの要望に応えたものだ。 彼らは働いている人たちで、多くの義務があり、時間の調整は彼らの都合に合わせている。 いくつかの繰り返し過程は避けられない。 動物や植物でさえ、彼らの時間割をもっているのだ。
(生命世界の秩序を守らせる内なる支配者がいるのか、というなら) すべてはその本性にしたがって動くのだ。 どこに警察の必要があるだろう? あらゆる行動は反応をつくり出し、それが行動を中立化させ、バランスを取る。 すべては起こる。 だが、そこには絶え間ない取り消しがある。 そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。
守秘義務違反、名誉毀損、誣告罪、消防法違反
(生命世界の法をしき、秩序を守らせる内なる支配者がいるのかというなら) すべてはその本性にしたがって動くのだ。 どこに警察の必要があるだろう? あらゆる行動は反応をつくり出し、それが行動を中立化させ、バランスを取る。 すべては起こる。 だが、そこには絶え間ない取り消しがある。 そして最後には、あたかも何も起こらなかったかのようになるのだ。
(最終的な調和でなだめないでほしい。勘定は合っても、損失は私のものだというなら) 見ていなさい。 最後にあなたは支出を正当化するのに充分なだけの利益を得るかもしれないのだ。
(人生のあらゆる瞬間は予め決まっていて運命は変えられないと言う人も、 すべては純粋な偶然が決定すると説明する人もいる、というなら) あなたの好きなように受け取るがいい。 人生のなかにひとつのパターンを判別することはできるだろうし、 単なる偶然の連鎖を見ることもできる。 説明とはマインドを喜ばせるためにあるのだ。 それらが真実である必要はない。 実在は定義不可能であり、描写不可能なものだ。
客観的な世界には構造があり、秩序を持ち、美しいものだ。 誰もそれを否定できない。 だが構造と様式は、そこに強制と拘束があることを暗示しているのだ。 私の世界は絶対的に自由だ。 そのなかのすべてが自己決定するのだ。 それゆえ、私はすべてがひとりでに起こると言い続けているのだ。 私の世界にも秩序はある。 しかし、それは外側から押しつけられたものではない。 それはその永遠性によって自発的に即座に起こるのだ。 完全性は未来にあるのではない。 それは今あるのだ。
(あなたの世界は私の世界に影響を与えるか、というなら) 今という一点においてだけだ。 それは一時的な存在、つかの間の実在の感覚をそれに与えるのだ。 完全な気づきのなかでその接点は確立される。 それには努力を要しない非自意識の注意力が必要なのだ。
(注意とはマインドの態度なのではないか、というなら) そうだ。 マインドが実在を熱望しているとき、それは注意を与えるのだ。
あなたの世界には何の間違いもない。 あなた自身がそれから分離していると考えることが無秩序を生みだす。 利己主義がすべての悪の源なのだ。
(生まれる前に内なる自己が人生を詳細にわたって決定するのか、 それとも完全に偶然のもので、遺伝と環境のなすがままなのか、というなら) 父親と母親を選択し、次の生をどのように生きるかを決定した と宣言する者たちが知っているかもしれない。 私自身に関して言えば、私はけっして生まれてこなかったのだ。
私はけっして生まれてこなかったと言っているときに、 私がどのような準備を次の生のためにしてきたかといった質問を、どうしてするのだろうか? あなたが想像を展開させることを許した瞬間、それはただちに宇宙を紡ぎだすのだ。 それはあなたが想像するようなものではまったくない。 そして、私はあなたの想像には拘束されないのだ。
そこには想像があるだけだ。 知性とエネルギーは、あなたの想像のなかですべて使い果たされてしまった。 あなたはまったく想像に夢中にさせられてしまったため、どれほど実在から 遠く離れてさまよい歩いたのかさえわからなくなってしまったのだ。 想像が豊かな創造力であることに疑いはない。 宇宙のなかの宇宙も、想像によって構築されているのだ。 それにもかかわらず、それらはみな空間と時間、過去と未来のなかにあり、 実際は存在しないのだ。
彼(グル)はけっしてあきらめない。 しかし、成功するためには、彼はあまり強い抵抗を受けてはならないのだ。 疑いや不服従は遅れを余儀なくしてしまう。 自信と従順さを与えることで、彼は弟子のなかに革新的な変化をもたらすことができる。 グルの深い洞察と弟子の誠実さ、その両方が必要とされるのだ。
彼女の状態がどのようなものであろうと、あなたの話のなかの少女は、 人びとの誠実さの欠如に苦しんだのだ。 もっとも難しいのが知的な人びとだ。 彼らは多くを語るばかりで誠実ではないからだ。
あなたが真我の実現と呼ぶものは自然なことだ。 あなたの用意が調(ととの)ったとき、グルは待っている。 サーダナ(修練)は努力を要しないものだ。 あなたと師の関係性が正しいとき、あなたは成長する。 何よりも、彼を信頼することだ。 彼があなたを惑わすことはないのだ。
ひとりの隠遁者(サンニャーシン)がグルから結婚するようにと言われた。 彼はそれに従い、苦渋を味わった。 しかし、彼の四人の子供たちは皆、マハーラーシュトラ州のもっとも偉大な 聖者や賢者となったのだ。 何であれあなたのグルから来るものは、喜びとともに受け取りなさい。 そうすれば、あなたは努力することなく完成へと成長するだろう。
物質的なものは満足をもたらすために必要だ。 だが、私は私自身に満足しているのだ。 ほかに何が必要だというのだろう? (空腹のときには食べ物が、病気のときには薬が必要だ、というなら) 空腹が食べ物を、病気が薬をもたらすのだ。 それはすべて自然の仕事だ。
私のもっていない何を与えることができるというのだろうか? 物質的なものは満足をもたらすために必要だ。 だが、私は私自身に満足しているのだ。 ほかに何が必要だというのだろう?
(空腹のときには食べ物が、病気のときには薬が必要だ、というなら) 空腹が食べ物を、病気が薬をもたらすのだ。 それはすべて自然の仕事だ。
(どうすればサマーディ(三昧状態)に入れるのか、というなら) もしあなたが正しい状態にいれば、何であれ見るものがあなたをサマーディに引き入れるだろう。 結局、サマーディは特別な状態ではないのだ。 マインドが強烈に興味を持っているとき、それは興味の対象とひとつになる。 見る者と見られるものは、見ることのなかでひとつとなり、聞く者と聞かれるものは、 聞くことのなかでひとつとなり、愛する者と愛されるものは、愛することのなかでひとつとなる。 あらゆる体験はサマーディの根底となるのだ。
(あなたはつねにサマーディに在るのか、というなら) もちろん、そうではない。 サマーディは、要するにマインドの状態なのだ。 私はすべての体験を超え、サマーディさえも超えている。 私は偉大な貪(むさぼ)り食う者、破壊者だ。 何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。
私はすべての体験を超え、サマーディさえも超えている。 私は偉大な貪(むさぼ)り食う者、破壊者だ。 何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。
犯罪者がヒーリング。 犯罪者がプージャ。
私は偉大な貪(むさぼ)り食う者、破壊者だ。 何であれ私が触れるものは虚空(アーカーシュ)のなかへと消え去るのだ。
あなたはあなたに必要な真我実現のすべてを手にしている。 だが、それを信頼していないのだ。勇気を持ちなさい。 あなた自身を信頼しなさい。行き、話し、行為しなさい。 それ自体が証明する機会を与えるがいい。 ほとんど気がつかないほどの真我の実現が起こるかもしれない。 だが、とにかくそれには確信が必要なのだ。 変わったにもかかわらず、それに気づかないでいる。 そのような劇的ではない場合のほうが、しばしば、もっとも信頼のおけるものなのだ。
(自分が真我を実現したと信じたり、誤解したりできるか、というなら) もちろんだ。 「私は真我を実現した」という考えそのものが過ちだ。 自然な状態のなかには、「私はこれだ」、「私はあれだ」といった考えはないのだ。
バクタ(帰依者)の多くは、すべてがうまくいっている間はグルを信頼する。 しかし、問題が起こると彼らは落ちこみ、ほかの師を探しに行くのだ。
ただ生命だけがある。 生命を生きる人は誰もいないのだ。
あなたが計画を立てようと立てまいと、人生は続いていくのだ。 だがその人生において、マインドのなかに小さな渦巻きが現れる。 それは幻想にふけり、それ自体が人生を支配し、コントロールしていると想像するのだ。
生命そのものは無欲だ。 だが、偽りの自己はそれが快く続いてほしい。 そのため、それはつねに自己の継続を守ることに没頭しているのだ。 生命は恐れず、自由だ。 あなたが出来事に影響を与えているという考えをもっているかぎり、解放は あなたのものではない。 行為者という観念、自分が出来事の原因であるという観念自体が束縛なのだ。
(どうすれば為す者と為されることの二元性を克服できるか、というなら) 生命を無限で、分割不可能な、つねに存在し、つねに活動的なものとして黙想しなさい。 あなたがそれとひとつであると悟るまで。それは難しくなどない。 なぜなら、あなたはただ自分の自然な状態に戻るだけだからだ。 すべては内側から現れ、あなたの住む世界があなたの上に投影されているのではなく、 あなたによって投影されているとひとたび自覚すれば、恐れは終焉(しゅうえん)するのだ。 この自覚なしに、あなたはあなた自身を外界の身体、マインド、社会、国家、 人類、そして神や至高なるものといったものとさえ同一化してしまう。 だが、それらはみな恐れからの逃避なのだ。 あなたが住む小さな世界の責任を完全に受け入れ、その創造、維持、破壊の 過程を見守るときにだけ、あなたはあなた自身の想像による束縛から自由になるのだ。
(どうして自分自身を不幸だと想像してしまうか、というなら) ただの習慣からなのだ。 あなたの考え方や感じ方を変えなさい。 それらを再検討し、詳細に調べてみなさい。 あなたは不注意によって束縛される。 注意が解放するのだ。 あなたはあまりにも多くのことを当然のこととして受け取ってきた。 疑いはじめなさい。 もっとも明らかなことは、もっとも疑わしいのだ。 あなた自身にこのように問いかけてみるといい。 「私は本当に生まれたのだろうか?」「私とは本当にこれなのだろうか?」 「私が存在すると、どのようにして知るのだろうか?」「誰が私の親なのだろうか?」 「彼らが私を創造したのか、それとも私が彼らを創造したのだろうか?」 「私自身に関して言われたことを、すべて信じなければならないのだろうか?」「私とは誰なのか?」と。 あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。 今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。事実、破壊することはたやすい。 なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。
あなたはあなた自身のための牢獄を築くことに、たいへんなエネルギーをつぎこんできた。 今、それを破壊するためにできるかぎりを費やしなさい。 事実、破壊することはたやすい。 なぜなら、偽物は発見されたそのときに消え去るからだ。 すべては「私は在る」という想念にかかっている。 それを徹底的に調べるがいい。 それはあらゆる困難の根底に存在している。 それはあなたを実在から分かつ皮のようなものだ。 実在は皮の内側にも外側にもある。 しかし、皮そのものは実在ではないのだ。 この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。 あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。 それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。 それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。 それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。 そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。 「私は在る」という感覚なしでも人生は続いていく。 私たちにも「私は在る」という感覚のない平和で幸福なときはある。 「私は在る」が戻るとともに、困難がはじまるのだ。
この「私は在る」という想念はあなたとともに生まれてきたのではない。 あなたはそれなしでも充分申し分なく生きたことだろう。 それはあとになって、身体との自己同一化のために現れた。 それがありもしなかった分割という幻想をつくり出したのだ。 それがあなた自身の世界のなかで、あなたを異邦人にしてしまった。 そして世界を異質な、敵意あるものにしてしまったのだ。
もしあなたがそれから自由になりたいのなら「私」という感覚と向き合わなければならない。 あなたが明確にそれを見て完全に理解するまで、それが作用しているときや、 落ち着いているときを見守りなさい。 それがどのようにはじまり、どのように停止し、何を欲しがり、どのように それを得るのかを見なさい。 結局、すべてのヨーガは、その源が何であれ、性質が何であれ、目的はただひとつだ。 分離された存在という不幸から、広大な美しい絵の中の無意味な点としての存在から、 あなたを救い出すことにあるのだ。
あなたが苦しむのは、あなた自身を実在から疎外したからだ。 そして今、あなたはこの疎外感からの逃避を探し求めている。 あなた自身の強迫観念から逃げることはできない。 ただ、それを育むのをやめることができるだけだ。
私は在る」は偽りだからこそ、それは存続を願う。 実在は存続する必要がない――それ自身、破壊不可能なことを知っているからだ。 それは形態とその表現の破壊に無関心なのだ。 「私は在る」を強調し安定させようと、私たちはありとあらゆることをする が――すべては無駄に終わってしまう。 なぜなら、「私は在る」は瞬間から瞬間へと再構築されていくものだからだ。 それは絶え間ない仕事なのだ。 そして唯一の革新的な解決法は、「私はあれであり、これである」という分 離した感覚を永遠に消し去ることだ。存在は残る。だが、自己存在ではない。
(自分には霊的野心がある、というなら) いかなる野心も霊的なものではありえない。 すべての野心は「私は在る」のためのものなのだ。 もしあなたが本当の進展を遂げたいのなら、すべての個人的な達成という考えは、 あきらめなければならない。 いわゆるヨーギの野心というものは、実にばかげたものだ。 男性の女性に対する欲望は、永遠の個人的な至福を渇望することに比べれば純真なものだ。 マインドとは詐欺師なのだ。 より敬虔(けいけん)に見えるほど、裏切りはさらに悪いものとなるだろう。
(どうすれば自分の助言が正しいものだと確信できるのか、というなら) あなたがどの状態のなかにいるのか、どのレベルで話しているのかを見なさい。 もしあなたがマインドから話しているなら、間違っているかもしれない。 あなたの精神的習慣が停止しており、状況への完全な洞察から話しているの ならば、あなたの助言は本物の返答かもしれない。 要点は、あなたも、あなたの前にいる人も、ともに単なる身体ではないと完全に気づいていることだ。 もしあなたの気づきが明晰(めいせき)で完全ならば、間違いはありえない。
すべての努力はより多くの努力へと導く。 何であれ構築されたものは維持されなければならない。 何であれ得たものは、衰退や喪失から保護されなければならない。 何であれ失われるものは自己のものではないのだ。 そしてあなた自身のものでないなら、いったいあなたにとって何の役に立つというのだろう? 私の世界では、何も強要されることはない。 すべてはひとりでに起こるのだ。 すべての存在は時間と空間のなかにあり、限定され一時的なものだ。 私は「何が存在するか」や「誰が存在するか」には関心がない。 私の立場はその彼方に在る。 私はその両方であり、そのどちらでもないところに在るのだ。
私にとっては皆が同等だ。 現れや表現のなかの違いはそこにあっても、それは問題ではないのだ。 金の装飾品の形が金そのものに影響を与えないように、人の本質も影響を受けることはない。 この同等の感覚が欠乏しているならば、それはつまり、実在には触れられていなかったということだ。
私自身の体験から知っていることだけをあなたに話そう。 私がグルに出会ったとき、彼は私に言ったのだ。 「あなたはあなたが自分自身だと見なしているものではない。 あなたが何であるのかを見いだしなさい。 『私は在る』という感覚を見守り、あなたの真我を見いだしなさい」と。 私は彼に服従した。 なぜなら彼を信頼したからだ。 私は彼が言ったとおりにし、許すかぎりの時間を、沈黙のなかで自分自身を見つめることに費やした。 そして、何という変化をもたらしたことか!それもこんなに早く! 三年という短い時間で、私は真我を実現したのだ。 私がグルに会ったすぐ後、彼は死んでしまった。 だが、それは何の違いももたらさなかった。 私は彼が私に言ったことを、たゆまず覚えつづけていたのだ。 その成果は、私とともにここにある。
私たちは物質でもなくエネルギーでもない。 身体でもなくマインドでもない。 ひとたびあなたが自己の存在の一瞥を得るなら、私を理解するのは難しくないと知るだろう。
私たちは聞き伝えでたくさんのことを信じてしまう。 遠くの土地や人びとのこと、神や女神のことなどを、ただそう聞いたというだけで信じてしまうのだ。 同じように、私たちは自分自身について、両親や名前、地位や義務などについて話を聞いてきた。 一度もその真偽を確かめることなしに。 真実への道は虚偽の破壊を通っていくものだ。
真実への道は虚偽の破壊を通っていくものだ。 偽りを破壊するために、あなたはあなたのもっとも根深い確信を疑わなければならない。 そのなかで、あなたが身体であるという確信が最悪のものなのだ。 身体とともに世界が現れ、世界とともに、世界を創造したと考えられている神が現れる。 このようにして、恐れ、宗教、礼拝、捧げ物、あらゆる類(たぐい)の体系がはじまるのだ。 すべては自らがつくり出した怪物に正気を失うほどおびえた幼稚な人間を保護し、支持するためのものだ。 あなたは生まれることも、死ぬこともできないものだということを悟りなさい。 そうすれば恐れは去る。すべての苦しみは終わるのだ。
グルの言葉を真実として受け入れ、日々の生活の細部にわたって自発的にそ れによって生きるようになったそのときが、真我の実現の戸口に立ったときなのだ。 ある意味では、それは信頼による開放だ。 だが、その信頼は強烈で、持続しなければならない。 しかしながら、信頼そのものだけで充分だと考えてはならない。 信頼が行為のなかで表現されることが実現への手段なのだ。 それはあらゆる手段のなかで、もっとも効果のあるものだ。 信頼を否定し、論証のみを信じる教師もいる。 実際には、彼らが否定するのは信頼ではなく、盲信なのだ。 信頼は盲目的なものではない。 それは試みようとする意志なのだ。
観照の態度もまた信頼なのだ。 それは自分自身への信頼だ。 あなたとはあなたが体験するものではないと信じ、すべてに距離をおいて見ることだ。 観照に努力はいらない。 あなたはあなたがただの観照者なのだと理解し、その理解が働いていく。 それ以上何も必要ないのだ。 ただ、あなたが観照者だということを覚えていなさい。 もし観照の状態のなかで「私は誰か?」と自分自身に尋ねれば、その答えは直ちにやってくる。 ただ、それは言葉ではなく、沈黙のものだ。
あなたが実在―非実在という言葉で論じるかぎりは、唯一実在でありうるのは気づきだけだ。 だが、至高なるものはすべての区別を超えているため、それに「実在」という言葉は適用しない。 なぜなら、そのなかではすべてが実在だからだ。 それゆえ、そのように名づけられる必要もない。 それは実在の源そのものだ。 それは、何であれそれが触れたものに実在性を分け与えるのだ。
何であれ、宇宙のなかに真実で、高尚な、美しいものがあれば、 それはすべてあなたから現れたのだと自覚しなさい。 あなた自身がその源なのだ。 世界を指揮する神や女神は、もっとも素晴らしい荘厳な存在かもしれない。 それでも彼らは、彼らの主人の富と力を宣伝する、豪華に着飾った召使いのようなものなのだ。
>3 水上 恵(みなかみ けい)・おっさん & >16〜197 自作自演、乙。sage進行なのでバレバレ。 (_´Д`)ノ~~オツカレー
>3 HOST:sbm210-128-58-14.bmobile.ne.jp >16〜197 同人物。こんな暇人、ネット廃人の水上氏しかいない。 ヘ(゚∀゚ヘ)アヒャ
あぼーん
あぼーん
あぼーん
>3 >16〜197 濃い精神世界系の本をパクッてるだけじゃん。 こんなマニアな本を持っているのも水上恵氏だけ! 何せ脱税プロの似非インド聖者の秘儀参入を受け入れた愛弟子だからね。 ナミダガ・・ ヽ(;▽)ノ アハハハハ
(どのようにして人は至高なるものに到達するのか、というなら) すべてのより低い欲望を放棄することによってだ。 より低い欲望に満足するかぎり、最高のものを手にすることはできない。 何であれ満足させるものが、あなたを引き止めるのだ。 すべてのものの不満足さ、はかなさ、限界を悟らないかぎり、 そしてすべてのエネルギーを多大なる熱望に集めないかぎり、最初の一歩さえも踏めない。 その反対に、至高なるものへの誠実な欲望は、それ自体至高なるものからの招きなのだ。 身体的、精神的な何もあなたに自由を与えてはくれない。 ひとたび束縛はあなたが創りだしているということを理解し、 あなたを拘束する鎖を鋳造することを止めれば、あなたは自由なのだ。
苦痛と快楽はともにアーナンダ(至福)だ。 私は今、こうしてあなたの前に座り、直接の不変の体験から話している。 苦痛と快楽は、至福の海の波の頂と谷間だ。 その底深くには完全な充足があるのだ。
あなたが習慣をただちに打ち破れないなら、 あなたが慣れ親しんできた考え方に注目し、その偽りを見破りなさい。 習慣を問いただすことはマインドの義務だ。 マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。 あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。 そして外側にとどまりなさい。
マインドがつくり出したことは、マインドが破壊しなければならない。 あるいはマインドの外側に欲望はないと認識しなさい。 そして外側にとどまりなさい。
言葉なしでは、理解する何がそこにあるというのだろうか? 理解する必要は誤解から起こるのだ。
私の言うことは真実でも、あなたにとっては、それはただの理論となってしまう。 どうすれば、あなたはそれが真実だと知るようになるだろうか? 聞きなさい、覚え、熟考し、視覚化し、体験しなさい。 あなたの日々の生活においてそれを生かしなさい。 私に対して忍耐強くありなさい。 特に自分自身に対して忍耐強くありなさい。 なぜなら、あなたがあなたのただひとつの障害だからだ。 道はあなたを通ってあなたを超えていく。 特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非 二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、あなたは私 が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。 しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、 あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。
道はあなたを通ってあなたを超えていく。 特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、そして非 二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、 あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。 しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、私が言い表してきたことが、 あなたにとってもっとも身近で、もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。
特定のものだけを真実、意識、そして幸福だと信じているかぎり、 そして非二元性の実在を何か想像上の抽象的理念として拒否するかぎり、 あなたは私が観念と抽象的理念を与えていると見なすだろう。 しかし、ひとたびあなたが自己の存在の真実に触れたなら、 私が言い表してきたことが、あなたにとってもっとも身近で、 もっとも親愛なるものだということがわかるだろう。
私はすでに、あなたが違いを見るとき私は見ないという、とても意味深い手がかりを与えた。 私にとってはそれで充分だ。 もしあなたがそれで充分ではないと思うならば、私はただ繰り返そう。それで充分だ。 それについて深く熟考しなさい。 そうすれば、私が見ているものをあなたも見るだろう。
結局、幻想をつくり出すのはマインドであり、それから自由になるのもマインドなのだ。
言葉は幻想を悪質なものにするかもしれないし、それを追い払う助けをするかもしれない。 同じ真実の言葉を、それが真実となるまで何度も繰り返すことは何も間違いではない。 母の役目は子供の誕生で終わるわけではない。 彼女は来る日も来る日も、何年も子供が彼女を必要としなくなるまで養う。 人は言葉を聞く必要があるのだ。 事実が言葉よりも声高に彼に語りだすまで。
同じ真実の言葉を、それが真実となるまで何度も繰り返すことは何も間違いではない。 母の役目は子供の誕生で終わるわけではない。 彼女は来る日も来る日も、何年も子供が彼女を必要としなくなるまで養う。 人は言葉を聞く必要があるのだ。 事実が言葉よりも声高に彼に語りだすまで。
言葉を重視するかぎり、あなたは子供なのだ。
何億もの朝露に映しだされる太陽のように、永遠なるものは果てしなく繰り返される。 私が「私は在る、私は在る」と繰り返すとき、私はただ常在の事実を主張し、再主張しているだけだ。 あなたは私の言葉にうんざりしてしまう。 それは、あなたはその背後にある、生きた真実を見ないからだ。 それに触れなさい。 そうすれば、言葉とその沈黙の完全な意味を見いだすだろう。
潜在性は考えることによって現実になる。 身体とその出来事は、マインドのなかに存在するのだ。
外側の関心事に夢中になることが、内側に焦点を合わせることを妨げているのだ。 それは救いようがない。 サーダナ(修練)を避けることはできないからだ。 世界に背を向け、内側に向かいなさい。 そうすれば、内と外は溶けあい、あなたは内と外という条件づけを超えることができる。
それ自体で独立した存在はない。 すべてのものはそれ自体の不在性を必要とするのだ。 在ることとは、区別することができるように在るということだ。 そこではなく、ここに在り、その時ではなく、今に在ること。 何かほかのものにではなく、このように在ること。 水が容器によって形づくられるように、すべてのものは条件(グナ)によって決定されるのだ。 容器に関わらず、水が水として残り、光が色をもたらしてもそれ自体は光と して残るように、実在も、それが反映される条件に関わらず実在としてとどまる。 なぜ意識の焦点のなかにだけ反映を残そうとするのだろう? なぜ実在そのものではないのだろうか?
意識とその内容はただの反映であり、変化し、はかないものだと知ることが 実在に焦点を当てることになるのだ。 ロープのなかに蛇を見ることを拒否することが、ロープを見ることの必要条件なのだ。
意識とその内容はただの反映であり、変化し、 はかないものだと知ることが実在に焦点を当てることになるのだ。 ロープのなかに蛇を見ることを拒否することが、 ロープを見ることの必要条件なのだ。
ロープが存在すること、そしてそれが蛇に似ていることも知らなければならない。 同じように、真理が存在し、そしてそれが観照意識の本質だと知らなければならない。 もちろん真理は観照の彼方にある。 だが、真理に入っていくには、まず純粋な観照状態を自覚しなければならない。 条件づけに気づくことがあなたを無条件な状態に連れていくのだ。
条件づけを条件づけとして知ること、それが無条件なるものについて言えることのすべてだ。 肯定的言語は単に示唆するだけであり、かえって迷わせるのだ。
(観照を実在として語ることはできるか?、というなら) それはできない。 私たちに語ることができるのは、ただ非実在、幻想、一時的なもの、条件づけされたものだけだ。 その彼方へと行くには、私たちは独立した存在をもつとされるすべてを完全 否定していかなければならない。 すべてのものごとは依存しているのだ。
私たちに語ることができるのは、ただ非実在、幻想、一時的なもの、条件づけされたものだけだ。 その彼方へと行くには、私たちは独立した存在をもつとされるすべてを完全 否定していかなければならない。すべてのものごとは依存しているのだ。
すべてのものごとは依存しているのだ。 (それは)意識に依存する。 そして意識は観照者に依存するのだ。 観照者は実在の純粋な反映だ。 それはマインドの状態に依存する。 明晰(めいせき)性と無執着が支配すると、観照意識が現れる。 それは水が澄んで静かならば、月の影が映るような、 あるいはダイヤモンドのなかで太陽の光線がきらめきを放つようなものだ。
無条件なるものなしで、どうして条件づけされたものの知識がありうるだろう? そこには、これらすべてが現れだす源、すべてが存在するための土台がなければならない。 自己の条件づけの知識、そして条件づけの無限の多様性は、 私たちの条件づけされることと多様性を起こさせる無限の能力に依存している。 真我の実現とは、根本的にそれに気づくことなのだ。 条件づけされたマインドには、無条件なるものは完全性として現れるか、 あるいはすべての不在性として現れるのだ。 どちらも直接体験はありえない。 しかし、それが非存在を意味しているわけではないのだ。
自己の条件づけの知識、そして条件づけの無限の多様性は、 私たちの条件づけされることと多様性を起こさせる無限の能力に依存している。 真我の実現とは、根本的にそれに気づくことなのだ。
条件づけされたマインドには、無条件なるものは完全性として現れるか、 あるいはすべての不在性として現れるのだ。 どちらも直接体験はありえない。 しかし、それが非存在を意味しているわけではないのだ。
健康な身体は注意を呼び起こさない。 同様に体験から自由な無条件なるものもまたそうなのだ。 死の体験をとってみなさい。 普通の人は死を恐れる。 なぜなら、彼は変化を恐れるからだ。 ジニャーニは恐れない。 なぜなら、彼のマインドはすでに死んでいるからだ。 彼は「わたしは生きている」と考えない。 彼は「そこに生命が在る」と知っている。 そこには何の変化もなく、死もない。 死は時間と空間のなかの変化として現れる。 時間も空間もないところに、どうして死がありうるだろう? ジニャーニは名前と形に対してすでに死んでいる。 時間と空間を失うことがどうして彼に影響を与えるだろうか?
列車に乗った人は、ひとつところからつぎへと旅していく。 だが、列車を降りた人はどこへも行かない。 なぜなら、彼は目的地に縛られないからだ。 彼はどこへも行くところはなく、何もすることはなく、何になることもない。 計画を持つ人は、それを実行するために生まれてくるだろう。 計画を持たない人は生まれてくる必要はない。
苦痛と快楽は、誤った知識と誤った感情の結果の単なる兆候にすぎない。 結果がそれ自体の目的をもつことはできない。
(あなたが永遠の生として創造された、というなら……) なぜ未来における永遠であって、過去への永遠ではないのだろうか? はじまりあるものは終わらなければならない。 はじまりのないものだけが無窮(むきゅう)なのだ。
(神が有効な概念だというなら……) それならば、内なる矛盾から自由になるべきだ。 だが、それは無理だろう。 どうしてあなた自身があなたの創造者であり創造物だという理論を調べないのだろうか? 少なくともそこには争うべき外側の神はいないだろう。
(こんなにも豊かで複雑な世界を作る力は自分にはない、というなら……) 何ができ、何ができないのかを知るほど、あなたは充分あなた自身を知っているだろうか? あなたは自分の力を知らないのだ。あなたは一度も調べたことがない。 自分自身とともに、今はじめなさい。
私にとっては、あなたがあなた自身の神だ。 だが、あなたが別の考え方をするならば、最後までそう考えるがいい。 もし神がいるならば、すべてが神のものであり、すべては最上の目的のためにある。 やってくるものは何であれ、喜びと感謝の心をもって歓迎しなさい。 そしてすべての創造物を愛しなさい。 これもまたあなたを真我へと導くだろう。
世界は華麗にきらめく空虚なショーだ。 それは在り、しかもそれはない。 私が見たいと欲し、それに参加したいと望むかぎり、それはそこに在る。 私が気にかけるのをやめるとき、それは溶け去る。 それは原因がなく、何の目的にも仕えない。 それは私たちが放心しているときに起こる。 まったく見たとおりに現れはするが、そこには何の深みも意味もない。 ただその傍観者だけが実在なのだ。 彼は真我ともアートマとも呼ばれる。 真我にとって世界は、それが続くかぎり楽しみ、終われば忘れられてしまう、 ただの色鮮やかなショーにすぎない。 何であれ、舞台の上で起こることが彼を恐怖で身震いさせようと、 あるいは笑い転げさせようと、常に彼はそれがただのショーだと知っている。 欲望や恐れなしに、彼は起こるがままに楽しむのだ。
あなたは私の内的状態が、外的出来事によって形づくられると主張しつづけている。 それはただそうではないのだ。 何が起ころうと、私は変わらないままだ。 私の存在の根底には気づきが、強烈な光の点が在る。 この点がその本性によって輝き、空間のなかには画像を、時間のなかには出 来事を、努力することなく自発的につくり出す。 それを単に気づいているだけならば、問題はない。 しかし、分別心が存在の中に現れ、区別をつくり出すと、苦痛と快楽が立ち現れる。 眠りの間、マインドは停止しているため、苦痛や快楽も停止している。 創造の過程は継続するが、注目はされない。 マインドは意識のひとつの形であり、意識は生命のひとつの相だ。 生命がすべてをつくり出す。 しかし、至高なるものはすべてを超えた彼方にあるのだ。
劇は作品として書かれ、計画され、稽古されたものだ。 世界はただ無から存在の中へと立ち現れ、無へと帰っていく。
困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。 だがそれらはつねに個人的なものだ。 大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。 だが、死はけっして災難ではない。
私の体験ではすべてが至福だ。 しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。 それゆえ、至福が苦痛の種子となる。 この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
(喜びが苦痛の種子となるのは) なぜなら、喜びのためにあなたは多くの罪を犯しているからだ。 罪の結果は苦しみと死なのだ。
あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。 だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、 この特定の身体をあなた自身のものと信じているところに過ちがあるのだ。
なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう? あなたは世界を救いたい、違うかね? あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか? そして救われるとはどういう意味だろうか? 何から救われるのか? 幻想からだ。 救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。 私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。 自分自身とさえも関係していない。 その自分自身が何であろうとも。 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものなのだ。
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。 彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。 そして私は疑わなかったのだ。 私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。
(確信したのは)真我の実現によってだ。 私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。 ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが間違いだったのだ。
だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。 彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。 欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。
快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。 苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛のなかに終わるのだ。
見てみなさい。 あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。 私がそれを起こるようにしたのだろうか? それはただ起こるのだ。 あなたにとっても同じだ。 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。 あなたに出来事の行方を変えることはできない。 だが、あなたの態度は変えられる。 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
あなたに出来事の行方を変えることはできない。 だが、あなたの態度は変えられる。 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。 世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。 世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。 世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
(時と段階によっては欲望も正しいというのは)ある意味では、まったく正しい。 しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。 そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカ―ヴァイラーギャ)が絶対に必要となる。 すべてを詳細に調べ、不必要なものは無常にも破壊されなければならないのだ。 私を信じてほしい。 行き過ぎの破壊はありえない。 実際には、価値あるものなどないからだ。 熱烈に冷静でありなさい。 ただそれだけだ。
私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。 マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。 そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、 世界を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。 ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだろう。 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネルギー、 そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。 しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもないというのが私の立場だ。 そこが私の居場所なのだ。 何が起ころうと私には影響を与えない。 ものごとがものごとに働きかける。 ただそれだけだ。 記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢で、トータルだ。 マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。 何も必要ない私には、何の恐れもない。 誰を恐れるというのだろう? そこには分離などない。 私たちは分離し、孤立した自己ではない。 ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。
あなたが助けたい人々もまた、欲望を満たすために、それぞれの世界のなかにいる。 彼らの欲望を通して以外、彼らを助けることはできない。 あなたには、彼らが正しい欲望をもつように教えることができるだけだ。 そうすれば彼らは現状を超え、快楽と苦痛の住処(すみか)である欲望の世 界を創造し、再創造しようという衝動から自由になれるかもしれない。
欲望の本性とは、それを満たすためにマインドが世界をつくり出すよう促すことだ。 小さな欲望さえ、長い行動の連鎖を生みだすのだ。 強い欲望ならばどうだろう? 欲望は宇宙をも生みだす。 その力は奇跡的なものだ。 小さなマッチ棒が巨大な森林に火をつけることができるように、欲望も現象の現れに火をつける。 創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。(
創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。
神はすべてを為すものであり、ジニャーニは無為の人だ。 神自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。 神にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。 ジニャーニにとっては、すべてが神によって為される。 彼は神と自然との間に何の違いも見ない。 神もジニャーニもともに、彼ら自身が変動の中の不動の中心であり、 移り変わるものの永遠の観照者であることを知っている。 その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。 彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。 それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。
無としてあることで、私はすべてなのだ。 すべては私であり、すべては私のものだ。 私の身体が、動かそうと考えるだけで動くように、 私が思うだけでものごとは起こる。 言っておくが、私は何もするわけではない。 ただものごとが起こるのを見るだけだ。
世界であるゆえに、私は世界を恐れない。 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう? 水は水を恐れず、火は火を恐れない。 私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。 私には名前も形もない。 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。 私には執着がない。 私は無だ。 そして無は無を恐れない。 反対に、すべてが無を恐れている。 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。
私がすべてであり、すべては私なのだ。 世界であるゆえに、私は世界を恐れない。 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう? 水は水を恐れず、火は火を恐れない。
私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。 私には名前も形もない。 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。 私には執着がない。 私は無だ。 そして無は無を恐れない。 反対に、すべてが無を恐れている。 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。
日々の生活は行為の生活だ。 好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。 何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発する。 ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。 あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺(あざむ)くなら、ことは一層悪化するだろう。 なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念によって決定すべきではないからだ。 他者にとって何が良いのかを知っていると公言するものは危険だ。
なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、毎日何百万人もの人が死んでいく ことは気にもかけないのだろうか? 宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。 それらのために私が泣かなければならないのかね? 私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、生きるもの、動くものすべては、 意識のなかにその存在をもつということだ。 そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。 私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。
私はあわてない。 ただ必要なことをするだけだ。 未来について心配したりはしない。 あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。 何をするべきかと立ち止まって考えたりはしない。 ただ行動し、先に進むだけだ。 結果は私に影響を与えない。 それが良いか悪いかさえ私は気にもしない。 それらが何であれ、あるがままだ。 もしふたたびそれが起こるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる、 あるいは新たな姿勢で取りかかるということが、私に起こる。 私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。 ものごとは起こるように起こるのだ。 私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。 実際には、けっして何も起こらない。 マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。 それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。 意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存している。 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界を忘れるのだ。 結局のところ、世界とは何だろう? 記憶の集合だ。 ひとつのことを固守しなさい。 それが大切なことだ。 「私は在る」をつかみ取りなさい。 そしてほかのすべてを手放しなさい。 これがサーダナ(修練)である。 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。 すべては知られたものだ。 思い出すことなど何もない。
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界を忘れるのだ。 結局のところ、世界とは何だろう? 記憶の集合だ。 ひとつのことを固守しなさい。 それが大切なことだ。 「私は在る」をつかみ取りなさい。 そしてほかのすべてを手放しなさい。 これがサーダナ(修練)である。 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。 すべては知られたものだ。 思い出すことなど何もない。
(自己忘却の)原因はない。 なぜなら忘却などないからだ。 精神状態はひとつの状態から別の状態へと継続していく。 それぞれが以前の状態を消し去っていくのだ。 自己想起はひとつの精神状態であり、自己忘却は別の精神状態だ。 それらは夜と昼のように、交互に入れ替わる。 実在はその両方の彼方に在るのだ。
覚えること、忘れること、どちらも思考と言葉に拘束されたマインドの状態なのだ。 生まれるという考えを例にとって見よう。 私は生まれたと言われた。 私は覚えていない。 私は死ぬだろうと言われた。 私はそれを予期しない。 私は忘れてしまった、あるいは想像力に欠けているのだとあなたは言うかも知れない。 しかし、私にはけっして起きなかったことや、明らかに不可能なことを期待することはできない。 身体は生まれ、身体は死ぬ。 だが、それが私にとって何だというのだろう? 身体は意識のなかで来ては去っていく。 そして意識はその根底を私のなかに置いている。 生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。
身体は生まれ、身体は死ぬ。 だが、それが私にとって何だというのだろう? 身体は意識のなかで来ては去っていく。 そして意識はその根底を私のなかに置いている。 生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。
この「私は在る」もまた幻想の一部分なのだ。 実在は証明することも、反証することもできない。 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその必要もない。 実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。
実在は証明することも、反証することもできない。 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその必要もない。 実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。
私はすべてであり、私自身としてはすべてが実在だ。 私を離れては何も実在ではない。
あなたは考え違いしているのだ。 世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。 あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。 あなたが創造し、破壊するのだ。
あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。 それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。 改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。
それ(宇宙)は世界というドラマが演じられているステージだ。 重要なのは演技の質だけだ。 何を役者が語り、演じるかではなく、どのように彼らが語り、それを演じるかが重要なのだ。
遊戯の何が悪いのだろう? あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。 それまでは完全、完成が目的だ。 しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなたは宇宙を楽しむのだ。 そのために働くことはしない。 統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くように見えるかもしれない。 しかし、それは幻想なのだ。 スポーツマンは途方もない努力をするように見える。 だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。
なぜ目的を持ち出すのだろうか? 目的は活動、変化、未完成を暗示する。 神は美を目標にしているのではない。 何であれ、彼の行うことが美なのだ。 あなたは花が美しくあろうと試みていると言うだろうか? その本質自体が美しいのだ。 同じように、神も完成を目指して努力しているのではなく、神は完成そのものなのだ。
何が美しいのだろう? 何であれ美しいと感じるのは、至福に満ちて知覚されたときだ。 至福が美の本質なのだ。
自分の存在に完全に気づいていなさい。 そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。 あなたがマインドを自己から引き離し、 あなたではないものにマインドをとどめるために幸福の感覚を失うのだ。
働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね? 真の幸福は自発的で自然なものだ。
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。 幸福は揺らぐことがない。 あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。 けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。 幸福は揺らぐことがない。 あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。 けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。
あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。 どうして実在が体験に依存できるというのだろう? 実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。 実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。 体験は、つまりマインドの状態なのだ。 一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。
実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。 実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。 体験は、つまりマインドの状態なのだ。 一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。
存在の静かな状態が至福なのだ。 乱された状態が世界として現れる。 非二元性のなかには至福がある。 二元性のなかには体験がある。 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の世界だ。 至福とは知られるものではない。 人はつねに至福なのだ。 しかし、けっして至福に満ちているのではない。 至福とはひとつの属性ではないのだ。
区別と分離の感覚が不在なときを愛と呼ぶがいい。
愛は苦痛の原因となる。 そのとき、あなたはそれを慈悲と呼ぶのだ。
内側と外側の調和が幸福だ。 一方、外側との自己同一化が不幸の原因となる。
(苦しみの原因とは)かぎりあるものとの自己同一化だ。 感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。 マインドが誤った観念にうろたえて、 「私はこれだ、私はあれだ」と考えることにふけるようになる。 それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。 自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、 私たちは悲しくも苦境にいるのだ。 ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがある。
目覚め、夢見、眠りの三つの状態はすべて主観的で、個人的な私事(わたくしごと)だ。 それらはみな意識の中の「私」と呼ばれる小さな泡の中に包まれ、そこで起こることなのだ。 真実の世界は自己を超えた彼方にある。
もちろん、事実は現実だ。 私はそれらの中に生きている。 しかし、あなたは事実ではなく、想像の中に生きているのだ。 事実はけっして衝突しない。 だが、あなたの人生と世界は矛盾で満ちている。
悪はあなたの存在以上の現実ではない。 悪は誤解や誤用による問題への誤った対処法にある。 それは悪循環なのだ。 偽物の輪を壊す必要はない。 それをあるがままに、非存在として見るだけで充分なのだ。
あなたのつくり出した悪を取り消すことができるのは、あなただけだ。 あなたの無神経な利己主義がその根本なのだ。 まず、自分の家に秩序をもたらすことだ。 そうすれば、あなたはあなたの仕事を終えたことを知るだろう。
そこ(善と悪の間)には壁はない。 なぜなら、善も悪もありはしないからだ。 あらゆる実際の状況のなかで、あるのはただ必要なことと不必要なことだけだ。 必要なことは正しく、不必要なことは正しくないのだ。
善も悪もありはしない。 あらゆる実際の状況のなかで、あるのはただ必要なことと不必要なことだけだ。 必要なことは正しく、不必要なことは正しくないのだ。
世界の問題は、それぞれが自分の欲望や恐れでいっぱいの、 無数のあなたのような人々によってつくり出されているのだ。 あなたの個人的、社会的な過去から、誰があなたを解放できるというのだろうか? そしてあなた自身が、幻想から生まれた欲望から自由になることへの切迫した必要性を見ないかぎり、 どうやって世界の問題を解決するというのだろうか? あなた自身が助けを必要としているかぎり、どうしてあなたに本当の助けができるだろうか?
私の真実の世界では、善は広まっている。 私の世界では、あなたの呼ぶ悪も善の召使いであって、それゆえ必要なものなのだ。 それは吹き出物や熱が身体の不純物を取り除くようなものなのだ。 病気は苦しく危険でさえあるが、正しく対処すれば治るものだ。
成長することが必要なことだ。 より成長することが必要なのだ。 良いことをより良いことのために放棄することは必要なことだ。
最終目的ははじまりのなかにある。 あなたはあなたがはじめたところで終えるのだ――絶対なるもののなかで。
(サットサン(聖者との交わり)は真我の実現のために充分か、というなら) それは川まであなたを連れていくだろう。 しかし川を渡るのはあなた自身なのだ。 自由への意志なしには、自由を獲得することも維持することもできない。 解放に向かってあなたは努力しなければならない。 最小限あなたにできることは、入念に障害の覆いを取り除くだけだ。 もしあなたが平和を求めるのなら、努力しなければならない。 ただ静かにしているだけでは、平和は得られないだろう。
(子供は完全な形で、無意識のうちに成長するではないか、というなら) なぜなら、彼は想像から自由だからだ。 あなたもまたそのように成長することができる。 しかし、記憶や期待から生まれた予測や計画に熱中してはならないのだ。 未来に関心がないこと、それがジニャーニ(賢者)の独自性のひとつなのだ。 あなたの未来への関心は苦痛への恐れと、快楽への欲望によるものだ。 ジニャーニにとってはすべてが至福だ。 彼は何が来ようとも幸せなのだ。
困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。 だがそれらはつねに個人的なものだ。 大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。 だが、死はけっして災難ではない。
私の体験ではすべてが至福だ。 しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。 それゆえ、至福が苦痛の種子となる。 この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
(喜びが苦痛の種子となるのは) なぜなら、喜びのためにあなたは多くの罪を犯しているからだ。 罪の結果は苦しみと死なのだ。
あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。 だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、 この特定の身体をあなた自身のものと信じているところに過ちがあるのだ。
なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう? あなたは世界を救いたい、違うかね? あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか? そして救われるとはどういう意味だろうか? 何から救われるのか? 幻想からだ。 救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。 私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。 自分自身とさえも関係していない。 その自分自身が何であろうとも。 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものなのだ。
私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。 自分自身とさえも関係していない。 その自分自身が何であろうとも。 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものなのだ。
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。 彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。 そして私は疑わなかったのだ。 私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。
(確信したのは)真我の実現によってだ。 私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。 ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが間違いだったのだ。
だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。 彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。 欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。
快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。 苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛のなかに終わるのだ。
見てみなさい。 あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。 私がそれを起こるようにしたのだろうか? それはただ起こるのだ。 あなたにとっても同じだ。 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。 あなたに出来事の行方を変えることはできない。 だが、あなたの態度は変えられる。 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。 私がそれを起こるようにしたのだろうか? それはただ起こるのだ。 あなたにとっても同じだ。 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。 あなたに出来事の行方を変えることはできない。 だが、あなたの態度は変えられる。 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。 世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。 世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。 世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
(時と段階によっては欲望も正しいというのは) ある意味では、まったく正しい。 しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。 そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカ―ヴァイラーギャ)が絶対に必要となる。 すべてを詳細に調べ、不必要なものは無常にも破壊されなければならないのだ。 私を信じてほしい。 行き過ぎの破壊はありえない。 実際には、価値あるものなどないからだ。 熱烈に冷静でありなさい。 ただそれだけだ。
私のいる無(パラマカーシュ)の境界には、いかなる言葉も思考も届かない。 マインドにとって、そこはまったくの闇と沈黙だ。 そこに意識が攪拌しはじめ、マインドが目覚めだし(チダカーシュ)、 世界を投影し(マハーダカーシュ)、記憶と想像を構築しはじめる。 ひとたび世界が存在のなかに現れたならば、あなたの言ったとおりとなるだろう。 目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネルギー、 そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。
目標を定め、それに向かって闘い、方法と未知を探し、ヴィジョンとエネルギー、 そして勇気を示す、それがマインドの本性なのだ。 それは神聖な質であって、私はそれらを否定してはいない。 しかし、何の相違もなく、何も存在せず、それをつくり出したマインドもないというのが私の立場だ。 そこが私の居場所なのだ。 何が起ころうと私には影響を与えない。 ものごとがものごとに働きかける。 ただそれだけだ。 記憶と期待から自由なため、私はいつも新鮮で、無垢で、トータルだ。 マインドはたいへんな働き者(マハーカルタ)で、休息が必要だ。 何も必要ない私には、何の恐れもない。 誰を恐れるというのだろう? そこには分離などない。 私たちは分離し、孤立した自己ではない。 ただ個人と非個人がひとつである真我、至高の実在があるだけだ。
あなたが助けたい人々もまた、欲望を満たすために、それぞれの世界のなかにいる。 彼らの欲望を通して以外、彼らを助けることはできない。 あなたには、彼らが正しい欲望をもつように教えることができるだけだ。 そうすれば彼らは現状を超え、快楽と苦痛の住処(すみか)である欲望の世界を創造し、 再創造しようという衝動から自由になれるかもしれない。
欲望の本性とは、それを満たすためにマインドが世界をつくり出すよう促すことだ。 小さな欲望さえ、長い行動の連鎖を生みだすのだ。 強い欲望ならばどうだろう? 欲望は宇宙をも生みだす。 その力は奇跡的なものだ。 小さなマッチ棒が巨大な森林に火をつけることができるように、欲望も現象の現れに火をつける。 創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。
創造の目的自体が欲望を満たすことなのだ。 欲望は高尚なものかも、卑しいものかもしれない。 空間(アーカーシュ)は中立的なものだ 人はそれを何でも好きなように満たすことができる。 何を望むのか、人はとても注意しなければならない。
神はすべてを為すものであり、ジニャーニは無為の人だ。 神自身が「私がすべてを為す」と言いはしない。 神にとっては、ものごとはそれ自体の本性にしたがって起こるのだ。 ジニャーニにとっては、すべてが神によって為される。 彼は神と自然との間に何の違いも見ない。 神もジニャーニもともに、彼ら自身が変動の中の不動の中心であり、 移り変わるものの永遠の観照者であることを知っている。 その中心は空なる点であり、観照者は純粋な気づきの点だ。 彼らは、彼ら自身が無であることを知っている。 それゆえ、彼らに抵抗できるものは何ひとつないのだ。
無としてあることで、私はすべてなのだ。 すべては私であり、すべては私のものだ。 私の身体が、動かそうと考えるだけで動くように、私が思うだけでものごとは起こる。 言っておくが、私は何もするわけではない。 ただものごとが起こるのを見るだけだ。
世界であるゆえに、私は世界を恐れない。 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう? 水は水を恐れず、火は火を恐れない。 私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。 私には名前も形もない。 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。 私には執着がない。 私は無だ。 そして無は無を恐れない。 反対に、すべてが無を恐れている。 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。
私がすべてであり、すべては私なのだ。 世界であるゆえに、私は世界を恐れない。 すべてとしてありながら、何を恐れるというのだろう? 水は水を恐れず、火は火を恐れない。
私は恐れない、なぜなら私は無であり、恐れや危険を体験しようがないからだ。 私には名前も形もない。 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。 私には執着がない。 私は無だ。 そして無は無を恐れない。 反対に、すべてが無を恐れている。 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。
私には名前も形もない。 名前と形に固執することが恐れを生むのだ。 私には執着がない。 私は無だ。 そして無は無を恐れない。 反対に、すべてが無を恐れている。 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。
私は無だ。 そして無は無を恐れない。 反対に、すべてが無を恐れている。 なぜなら、何かが無に触れたとき、それは無となるからだ。 底なしの井戸のように、何であれそこに落ちたものは消え去るのだ。
日々の生活は行為の生活だ。 好きだろうが、嫌いだろうが、あなたは機能しなければならない。 何であれあなたが自分のためにしていることは蓄積され、爆発する。 ある日それは飛びだし、あなたとあなたの世界を台無しにする。 あなたがすべての人に良かれと思って働いていると自分自身を欺(あざむ)くなら、ことは一層悪化するだろう。 なぜなら、何がほかの人びとにとって良いことかを、自分の概念によって決定すべきではないからだ。 他者にとって何が良いのかを知っていると公言するものは危険だ。
なぜあなたはひとりが死ぬことに苦悩し、 毎日何百万人もの人が死んでいくことは気にもかけないのだろうか? 宇宙全体が毎瞬、内破し、爆発しているのだ。 それらのために私が泣かなければならないのかね? 私にとってたったひとつ明白なことは、存在するすべて、 生きるもの、動くものすべては、意識のなかにその存在をもつということだ。 そして、私は意識のなかに、そしてその彼方に在る。 私は観照者としてはそのなかに在り、実在としてはその彼方に在るのだ。
私はあわてない。 ただ必要なことをするだけだ。 未来について心配したりはしない。 あらゆる状況への適切な反応、それが私の本質だ。 何をするべきかと立ち止まって考えたりはしない。 ただ行動し、先に進むだけだ。 結果は私に影響を与えない。 それが良いか悪いかさえ私は気にもしない。 それらが何であれ、あるがままだ。 もしふたたびそれが起こるならば、私は新たな姿勢でそれに取りかかる、 あるいは新たな姿勢で取りかかるということが、私に起こる。 私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。 ものごとは起こるように起こるのだ。 私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。 実際には、けっして何も起こらない。 マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。* 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。 それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
私が何をしようと、そこにはいかなる目的感覚もない。 ものごとは起こるように起こるのだ。 私がそれらを起こらせるからではなく、私が在るゆえにそれらは起こるのだ。 実際には、けっして何も起こらない。 マインドに落ち着きのないとき、それはシヴァを舞い踊らせる。 波に揺らぐ湖の水が月を踊らせるように。 それらはすべて誤った概念による現れにすぎない。
自己を忘れることは、自己を知ることのなかに本来備わっているものなのだ。 意識と無意識はひとつの生における二つの側面であり、それらは共存している。 世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界を忘れるのだ。 結局のところ、世界とは何だろう? 記憶の集合だ。 ひとつのことを固守しなさい。 それが大切なことだ。 「私は在る」をつかみ取りなさい。 そしてほかのすべてを手放しなさい。 これがサーダナ(修練)である。 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。 すべては知られたものだ。 思い出すことなど何もない。
世界を知ることで、あなたは自己を忘れ、自己を知ることで、あなたは世界を忘れるのだ。 結局のところ、世界とは何だろう? 記憶の集合だ。 ひとつのことを固守しなさい。 それが大切なことだ。 「私は在る」をつかみ取りなさい。 そしてほかのすべてを手放しなさい。 これがサーダナ(修練)である。 真我実現のなかには、覚えることもなければ、忘れるものもない。 すべては知られたものだ。 思い出すことなど何もない。
(自己忘却の)原因はない。 なぜなら忘却などないからだ。 精神状態はひとつの状態から別の状態へと継続していく。 それぞれが以前の状態を消し去っていくのだ。 自己想起はひとつの精神状態であり、自己忘却は別の精神状態だ。 それらは夜と昼のように、交互に入れ替わる。 実在はその両方の彼方に在るのだ。
身体は生まれ、身体は死ぬ。 だが、それが私にとって何だというのだろう? 身体は意識のなかで来ては去っていく。 そして意識はその根底を私のなかに置いている。 生命は私であり、マインドと身体は私のものだ。
この「私は在る」もまた幻想の一部分なのだ。 実在は証明することも、反証することもできない。 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその必要もない。 実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。
実在は証明することも、反証することもできない。 マインドの範疇(はんちゅう)では不可能であり、マインドを超えればその必要もない。 実在のなかでは、「実在とは何か?」という疑問は起こらない。 顕現(サグナ)と非顕現(ニルグナ)は別のものではないのだ。
私はすべてであり、私自身としてはすべてが実在だ。 私を離れては何も実在ではない。
あなたは考え違いしているのだ。 世界はあなたなしでは何の存在ももってはいない。 あらゆる瞬間において、それはあなたの反映にすぎない。 あなたが創造し、破壊するのだ。
あなたの個人的宇宙は、それ自体では存在しないのだ。 それはただ単に実在のかぎられた歪(ゆが)んだ見方だ。 改善が必要なのは宇宙ではなく、あなたの見方なのだ。
それ(宇宙)は世界というドラマが演じられているステージだ。 重要なのは演技の質だけだ。 何を役者が語り、演じるかではなく、どのように彼らが語り、それを演じるかが重要なのだ。
遊戯の何が悪いのだろう? あなたが未完成であるかぎり、目的を持たざるをえない。 それまでは完全、完成が目的だ。 しかし、内面と外面を統合して自分のなかで完全になれば、そのときあなたは宇宙を楽しむのだ。 そのために働くことはしない。 統合されていないものにとって、あなたはたいへんな努力とともに働くように見えるかもしれない。 しかし、それは幻想なのだ。 スポーツマンは途方もない努力をするように見える。 だが、彼らの動機はすべて、遊ぶこととそれを誇示することなのだ。
なぜ目的を持ち出すのだろうか? 目的は活動、変化、未完成を暗示する。 神は美を目標にしているのではない。 何であれ、彼の行うことが美なのだ。 あなたは花が美しくあろうと試みていると言うだろうか? その本質自体が美しいのだ。 同じように、神も完成を目指して努力しているのではなく、神は完成そのものなのだ。
何が美しいのだろう? 何であれ美しいと感じるのは、至福に満ちて知覚されたときだ。 至福が美の本質なのだ。
自分の存在に完全に気づいていなさい。 そうすれば、あなたは意識的に至福のなかにある。 あなたがマインドを自己から引き離し、あなたではないものにマインドをとどめるために幸福の感覚を失うのだ。
働き、闘いとらねばならないような幸福に何の価値があるのかね? 真の幸福は自発的で自然なものだ。
喜びと苦痛は交互に入れ替わるものだ。 幸福は揺らぐことがない。 あなたが探し求め、見つけだすものは本物ではない。 けっして失ったことのないもの、譲渡できないものを見いだしなさい。
あなたは実在を体験のレベルまで引き下げているのだ。 どうして実在が体験に依存できるというのだろう? 実在は体験の根底(アーダール)そのものなのだ。 実在は体験の本質のなかにではなく、体験の事実のなかにある。 体験は、つまりマインドの状態なのだ。 一方、在ることは明らかにマインドの状態ではない。
存在の静かな状態が至福なのだ。 乱された状態が世界として現れる。 非二元性のなかには至福がある。 二元性のなかには体験がある。 来ては去っていくのは苦痛と快楽の二元性の世界だ。 至福とは知られるものではない。 人はつねに至福なのだ。 しかし、けっして至福に満ちているのではない。 至福とはひとつの属性ではないのだ。
区別と分離の感覚が不在なときを愛と呼ぶがいい。
愛は苦痛の原因となる。 そのとき、あなたはそれを慈悲と呼ぶのだ。
内側と外側の調和が幸福だ。 一方、外側との自己同一化が不幸の原因となる。
(苦しみの原因とは)かぎりあるものとの自己同一化だ。 感覚のようなものは、いくら強烈であっても苦しみの原因にはならない。 マインドが誤った観念にうろたえて、「私はこれだ、私はあれだ」と考えることにふけるようになる。 それが失うことを恐れ、得ることを熱望し、挫折したとき苦しむのだ。
私たちはいかに弱く、無力であるかを悟らなければならない。 自分自身はこう在り、知り、行為すると想像し、惑わされているかぎりは、 私たちは悲しくも苦境にいるのだ。 ただ、完全な自己否定のなかにのみ、私たちの真我を発見するチャンスがある。
真我の実現におけるかぎり、真我が見いだされる前に、偽りの自己は捨て去らなければならない。
具体的なものが本物であり、想像されたことが偽物である必要はない。 感覚をもとにし、記憶によって形づくられた知覚は、知覚する人を暗に示唆している。 あなたはその知覚する人の本性をけっして調べようとしてこなかった。 充分な注意をもって、愛情ある心遣いとともにそれを調べてみるがいい。 あなた自身のちっぽけな自己イメージに没頭するばかりに、 夢にも見なかったような存在の高みと深遠さを発見することだろう。
あなたはずっと奇妙な、有害で偽物の神々に仕えてきたために、 あなた自身を破壊してきたのだ。 まったく利己的になるがいい。 あなた自身によかれと願いなさい。 あなたにとって良いことをしなさい。 あなたと幸福の間に立ちはだかるものすべてを破壊しなさい。 すべてで在りなさい。 幸福でありなさい。 楽しくありなさい。 幸福よりも偉大なものはない。
すべての苦しみは欲望から生まれる。 真の愛はけっして挫折しない。 どうして統合の感覚が挫折をもたらすことができるだろうか? 表現のための欲望は挫折しうる。 そのような欲望はマインドのものだ。 精神的なものすべてにとって、挫折は避けられない。
愛は存在の状態だ。 セックスはエネルギーだ。 愛は賢く、セックスは盲目だ。 ひとたび愛とセックスの本質が理解されたならば、混乱や葛藤はなくなるだろう。
愛なしにはすべてが悪だ。 生命自体、愛がなければ有害となる。
あなたが恐れないとき、あなたは愛そのものなのだ。
チンピラ髭ダルマ
(ヨーガにおける失敗とはどういう意味か、というなら) それはただ未完成という問題だ。 彼自身のヨーガを完成できなかった人がヨーガにおいて失敗したと言えるだろう。 そのような失敗は一時的なものだ。 なぜならヨーガにおいて、敗北というものはないからだ。 この闘いはつねに勝利する。 なぜなら、それは真実と偽りの間の闘いだからだ。 偽りにチャンスはない。
私は無意識だということに気づいている。 気づきは根本的なものだ。 それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。 原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。 意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。 気づきなしに意識は在りえない。 しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。 気づきは絶対的だ。 意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。 意識は部分的であり、変化するもの。 気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。 そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。(
そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。 それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。 自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。 それは何も新しい状態ではない。 それが根元的な、生命そのものである基本的存在、 そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。
真我の実現は無知の反対にほかならない。 この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知ることが自由であり、 平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。 それは鏡を磨くようなものだ。 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。
この世界を実在と見なし、真我を非実在と見なすことが無知であり、悲しみの原因だ。 真我が唯一の実在であり、そのほかすべては一時的な、はかないものと知る ことが自由であり、平和と喜びなのだ。それはとてもシンプルだ。 ものごとを、想像を通して見るのではなく、ただあるがままに見ることを学びなさい。 すべてをあるがままに見るとき、あなたはあるがままの自分を見るだろう。それは鏡を磨くようなものだ。 あなたにあるがままの世界を見せるその同じ鏡が、あなた自身の顔をも見せるだろう。 「私は在る」という想いが、鏡を磨く布なのだ。それを使いなさい。
快楽と苦痛による影響が消え、欲望と恐怖から自由になったのだ。 私は満たされ、何も必要ではなくなった。 純粋な覚醒の大海のなか、宇宙意識の表層で、世界という現象の無数の波が 無始無窮(むしむきゅう)に立ち現れては消えゆくのを私は見たのだ。 意識としては、それらはすべて私自身であり、出来事としては、それらはすべて私のものだ。 ある神秘的な力がそれらを維持している。その力が真我、生命、神と呼ばれるものだ。
連続性のなかに中断がなくても再誕生は可能だろうか? 死がなければ再生もありえない。 眠りにおける暗闇も、新鮮さと活力の回復をもたらす。 死がなければ、私たちは永遠の老衰のなかに沈み込んでいることだろう。 生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られたとき、それが不死だ。 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかに始まりを見ることが永遠を示唆している。 不死が連続性でないということは明白だ。 変化というプロセスだけが続いていく。 永遠に存在するものなど何もない。
生と死がひとつの存在における二つの層として、互いに必須のものと見られたとき、それが不死だ。 はじまりのなかに終焉(しゅうえん)を見、終焉のなかにはじまりを見ることが永遠を示唆している。 不死が連続性でないということは明白だ。変化というプロセスだけが続いていく。永遠に存在するものなど何もない。
私にとってそれは「私の身体」ではなく「ある身体」であって、「私のマインド」ではなく「あるマインド」だ。 マインドが身体の面倒を見る。私が干渉する必要はない。為(な)されるべきことは、通常の自然な方法で為される。 生理的機能に関しては、あなたはまったく意識していないかもしれない。 だが、思考や感情、欲望や恐れにいたっては、あなたは自己意識に鋭敏になる。 私にとっては、これらもまた全体として無意識の内にある。 私はさほど意識もせずに人びとと話をし、まったく正しく適切に事を運んでいることを見いだすのだ。 あたかも私は自発的にしかも的確に反応し、自動的にこの物質的な目覚めの生を生きているかのようだ。
私の運命は素朴な庶民として、わずかばかりの教育を受けた質素な商人となるよう生まれることだった。 私の人生は、ごくありふれた欲望や恐れをもった平凡なものだった。 私の師への信頼と、彼の言葉への服従を通して、私は真の実在を悟ったのだ。 そして人間の性癖に関して、その運命が尽き果てるまではそれ自身が面倒を見るのに任せておいたのだ。 ときには古い習慣から、感情的あるいは心理的な反応も起こるが、それらは直ちに気づかれ、捨て去られる。 結局は、人として在るという重荷があるかぎり、その性癖や習慣にさらされるものだ。
私はすでに死んでいる。 私は二重に死んでいる。 身体だけではなく、マインドもまた死んでいる。
途方もなく複雑な働きが頭脳と身体のなかでつねに行われているが、あなたはそれを意識しているだろうか? いいや、まったくしていない。 それでも外部から見れば、すべては知性的に、目的をもって行われているように見える。 人の生全体は、その大部分が意識の境界下に沈んでいながらも、分別をもち、 スムーズに流れているということを認めるがいい。
正常とは何だろう? 欲望と恐怖に取りつかれ、争いと闘いに明け暮れ、無意味で喜びもないあたの生が正常だというのだろうか? 身体を過敏に意識することが正常だろうか? 健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいるものだ。 苦痛や苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。 同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。 人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、 充分うまく対応できるものなのだ。 自己抑制が自然と身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に焦点を移行する。
健康な身体、健康なマインドは、その所有者にはほとんど気づかれずにいるものだ。 苦痛や苦しみを通して、それらは注意と洞察を呼び起こす。 同じことを生活全体に拡張させればいいのだ。 人は何が起ころうと、それを気づきの焦点に合わせなくても、正しく機能し、 充分うまく対応できるものなのだ。 自己抑制が自然と身につけば、気づきは存在と行為のより深い層に焦点を移行する。
繰り返され、習慣づけられたものが自動化されることに、何の害があるだろう? どちらにしてもそれは自動的なのだ。 だが、それが混沌とし、苦痛と苦悩の原因となったとき、注意を呼び起こす。 清らかな、秩序ある生を送ることの目的全体は、悲しみを背負い、 混沌状態の奴隷となることから解き放たれるためにあるのだ。
人格とは単なる実在の反映にすぎない。 反映がその源に自然と一致するのは当然のことではないだろうか? 個人にはそれ自身の意図が必要だろうか? 実在の表現である生が導くだろう。 ひとたび個人は単に実在の影にすぎず、実在そのものではないと認識したならば、 あなたはいら立つことも、心配することもやめるだろう。 あなたは内面から導かれることに同意し、そして生は未知への旅立ちとなるのだ。
(世界が存在しないという覚者の主張をどう理解すればいいか、というなら) すべては焦点の問題だ。 あなたの焦点は世界に当てられており、私の焦点は実在に当てられている。 世界は昼間の月のようなものだ。 太陽が照れば、月はほとんど目に映らない。 あるいは、あなたがどのようにものを食べるか見てみなさい。 口のなかに食べ物がある間はそれを意識しているが、ひとたび飲みこんでしまえばもはや関心をもたない。 消化されるまでマインドにとどめていたら、厄介なことになるだろう。 マインドは普通停止しているべきであり、絶え間ない活動は病的状態なのだ。 私が知っているのは、宇宙はひとりでに、それ自体で動いているということだ。 それ以外に何をする必要があるだろう?
たいていの人は身体を意識していない。 彼らは感覚や感情や思考を意識しているが、それらでさえ、 ひとたび執着を離れれば意識の中心から去り、自発的に、努力なく起こる。
(意識の中心には何があるのか、というなら) それは名前も形も与えることのできないものだ。 なぜなら、それは何の特質ももたず、意識を超えたものだからだ。 意識のなかにありながら、意識を超えた点とも言える。 紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながらしかも紙に属さないように、 至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越している。 それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫(はんらん)しているようなものだ。 その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。 それはただ開かれたるものなのだ。
紙のなかにあるひとつの穴が、紙のなかにありながらしかも紙に属さないように、 至高の状態は意識の中心そのものでありながら、しかも意識を超越している。 それはマインドのなかの開かれた穴から光が氾濫(はんらん)しているようなものだ。 その開かれた穴は、光とさえ呼ぶこともできない。 それはただ開かれたるものなのだ。
(意識の中心であるその開かれたるものこそ、空、不在なのか、というなら) そのとおりだ。 マインドの観点からすれば、それは気づきの光が精神的空間に入っていくために開かれたものだ。 光そのものとしては、個体の、岩石のように濃密な、均質で不変であり、名 前や形といった精神的パターンから自由な、純粋な気づきの塊(かたまり)とでも言うほかないだろう。
至高なるものがマインドに存在を与える。 マインドが身体に存在を与えるのだ。
たとえば、長寿の技をマスターし、寿齢千歳を超えた尊ぶべきヨーガの導師が、 私のもとにその技を教えにきたとしよう。 私は彼の偉業を讃えて、誠実に敬うだろう。 だが、私が彼に言えることといえば、 「長生きがいったい何になるというのか?」ということだけだ。 私は時を超えて在る。 どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。
私は時を超えて在る。 どれほど寿命が長くなろうと、それはほんの一瞬の夢にすぎないのだ。 同じように、私はあらゆる属性をも超越している。 それらは私のなかで、現れては消えていく。 しかし、それが私を言い表すことはできない。 宇宙は特質やそれらの相違を基底とした名前と形であり、私はその彼方に在る。 世界は私が在るゆえに存在する。 だが、私は世界ではない。
私はそ(世界)の潜在的可能性でも、実現性でも、現実でもない。 私の光のなかで、世界は太陽光線のなかを舞うほこりのように現れては去っていく。 光はその微少片を照らすだろうが、それに依存することはない。 またそれを創造もしない。 それを知っているとさえ言えないのだ。
(覚者は質問者の質問や自分の答えを意識しているか、というなら) 実際には、私は聞いても答えてもいない。 出来事の世界のなかで、質問が起こり、答えが起こる。 何も私には起こらない。 すべてはただ起こるのだ。
(覚者とは観照者なのか、というなら) 観照者とはどういう意味だろうか? ただの知識にすぎない。 雨が降り、そして今、雨はやんだ。 私は濡れないままだ。 雨が降ったのは知っている。 だが、私は影響されない。 ただ、雨を観照しただけだ。
意識がそのなかで起こる宇宙意識は、意識のエーテルと呼ばれる。 意識の対象物すべてが宇宙を構成している。 それら両方を支え、そして超えて在るのが至高の状態、完全な静寂と沈黙の状態だ。 誰であれ、そこに行けば消え去る。 言葉やマインドで到達することはできない。 あなたはそれを神、パラブラフマンあるいは至高の実在と名づけるかもしれない。 しかし、それらはマインドによって与えられた名前だ。 それは、名前も内容もなく、努力もなくして自然な状態、存在も非存在も超えたものだ。
宇宙がマインドの身体であるように、意識は至高なるものの身体だ。 至高なるものは意識しないが、それが意識を発現させるのだ。
至高の状態は分割不可能で、完全にひとつであり、ひと塊の実在なのだ。 それを知るためのただひとつの方法は、それになること、それとして在ることだ。 マインドはそれに到達できない。 それを知覚するために感覚器官は必要ない。 それを知るためにマインドは必要ないのだ。
(神が世界を動かしているのか、というなら) 神は世界を動かしてはいない。 (では誰がそれをしているのか、というなら) 誰もしてはいない。 すべてはひとりでに起こるのだ。 あなたが質問をし、あなたが答えを供給している。 そして質問するとき、あなたは答えを知っている。 すべては意識のなかの戯(たわむ)れなのだ。 すべての分割は幻想だ。 あなたが知ることのできるのは偽物だけだ。 真我に、あなた自身がならなければならないのだ。
二つのものがある。 個人と観照者つまり観察者だ。 それらをひとつとして見て、それを超えたとき、あなたは至高の状態にある。 それは知覚不可能だ。 なぜなら、それが知覚を可能にするものだからだ。 それは存在と非存在を超越している。 それは鏡でも鏡のなかのイメージでもない。 時を超えた実在、信じがたいほど堅固で、確固たるもの、それがそれである。
(ジニャーニは観照者なのか、それとも至高なるものか、というなら) もちろん至高なるものだ。 だが、彼は普遍的観照者でもある。
(ジニャーニは個人としても在るのか、というなら) あなたが自分自身を個人だと信じるならば、至る所に個人を見る。 実際には、個人というものは存在しない。 あるのは記憶と習慣の脈絡だけだ。 真我を実現した瞬間、個人は消え去る。 アイデンティティは残る。 だが、アイデンティティは個人ではない。 それは実在そのもののなかに本来備わっている。 個人はそれ自身のなかに存在をもっていない。 それは観照者のマインドに映った「私は在る」という感覚であり、 また、存在のひとつの様式なのだ。
(至高なるものは意識しているのか、というなら) 私の経験では、それは意識してもいず、無意識でもない。
それ(プラジニャー)は生命そのものの非―自意識的知識だ。 エネルギーがはじめに現れる。 すべてはエネルギーが形を取ったものだからだ。 意識は目覚めの状態においてもっとも差異が認められる。 夢見においてはより少ない。 眠りにおいてはさらに少ない。 第四の状態では均質だ。 それを超えると、表現不可能な、単一の実在、それがジニャーニの生きる世界なのだ。
(生命の力とは何なのか、というなら) それは意識だ。 すべては意識なのだ。 (意識の源泉は何か、というなら) 意識そのものがすべての源なのだ。
(意識の源泉は何か、というなら) 意識そのものがすべての源なのだ。
(意識なしに生命はありうるか、というなら) いいや。 生命なしには意識もありえない。 それらはひとつだ。 しかし実際には、究極なるものだけが存在する。 それ以外は名前と形があるだけだ。 あなたが名前と形のあるものだけが存在するという考えにしがみつくかぎり、 至高なるものは、あなたにとって非存在のものとしてしか映らないだろう。 名前と形は実態のない空虚な殻(から)にすぎず、実在は名前も形もない純 粋な生命のエネルギーと意識の光だと理解したとき、あなたは実在の深い静 寂に浸り、平和の内に在ることだろう。
(もし時間と空間がただの幻想で、覚者がそれを超えているというのなら、 今のニューヨークの天気を言ってみてほしい、というなら) どうして私にそれが言えよう? そういったことには特別な訓練が必要だ。 そうでなければ、ニューヨークに行くがいい。 私が時間と空間を超越していることは確かかも知れないが、ある一定の時間 と空間において、思いのままに自分の所在を選定することはできない。 興味もなければ特別なヨーガのトレーニングをする理由もない。 ニューヨークという名前を今耳にしたが、私にとってはただの言葉にすぎない。 原子のひとつひとつがこの宇宙と同じほど複雑な宇宙かもしれない。 そのすべてを私が知らねばならないかね? 確かにできる、もし訓練するならば。
スピリチュアルブームで増える悪徳“プチ宗教”の実態
警視庁は6日、無届けの宗教団体「ロマゾフィー協会」の代表で自称霊能者の平岩浩二容疑者
(49)と妻の司容疑者(36)を、弟子だった女性に会社を辞めさせたとして、強要容疑で再逮捕した。
スピリチュアルブームを背景に、宗教の看板を出さずに信者を勧誘する同協会のような“プチ宗教
団体”は増えている。専門家は「新宗教のコンビニ化が進んでいる」と指摘している。
捜査関係者によると、2人は「(女性に)家事をさせるため、無理やり辞めさせた」と容疑を認めて
いるという。平岩容疑者らは「自分の近くにいると霊能力が高まる」などと説き、住み込みで家事を
させる内弟子を勧誘していた。しかし、いくら一緒にいても霊能力が発揮されることはなかった。
こうした手法で信者を募る“プチ宗教”は全国的に増加している。
宗教学者の島田裕巳氏は「スピリチュアルブームを背景に、新宗教がコンビニのように乱立して
いる。信者を大勢獲得して大規模に組織化する従来の宗教集団ではなく、小集団なのが特徴です」
と語る。
プチ宗教はインターネットの掲示板やSNSなどで“布教活動”を展開。世間ズレしていない若年層
をターゲットに大学のキャンパスなどで勧誘を続けている。
恵泉女学園大の川島堅二教授は「宗教法人格を持たない団体としては、教祖が逮捕された『摂理』
が有名。学生サークルを偽装して近づくのが、ひとつの手口になっています」と指摘する。また、「市
民サークルやスピリチュアル系の雑貨を扱う雑貨店などで勧誘するケースもある」(捜査関係者)という。
オウム事件以降、組織化された新興宗教への警戒感が強まり、宗教法人格の認可基準はより厳し
くなった。景気低迷で新宗教に資金が集まりにくくなっていることも宗教団体の分散化を加速させてい
るようだ。
「信者が300人いればメシが食える、3000人でベンツが買える、3万人で本堂が建つ」(新興宗教関
係者)ともいわれた宗教法人だが、「いまは税務調査も厳しくなり、昔ほどのうまみはない」(同)といい、
増加の一方で廃業も進む。そんななか、最近増えているのが廃業した宗教法人の売買だ。
http://www.zakzak.co.jp/society/domestic/news/20101008/dms1010081603022-n1.htm
世界とマインドはともに存在の状態だ。 至高なるものとは、ある状態ではない。 それはすべての状態に遍在しているが、何かほかの状態ではない。 至高なるものはまったく原因がなく、独立し、それ自身において完成している。 時間も空間も、マインドも物質も超越したものなのだ。
(何をもって至高なるものを認識するのか、というなら) それが何の痕跡も残さないということが要点なのだ。 何によっても認識することはできない。 あらゆるしるしや手がかりの探求をあきらめることによって、直接に見られなければならない。 すべての名前と形が放棄されたとき、実在が残る。 あなたがそれを探す必要はない。 複数制と多様性はただのマインドの戯れだ。 実在はひとつだ。
(実在が何の証拠も残さないのなら、それについて話すことさえできない、というなら) それは在る。 それを否定することはできない。 それは深遠な、神秘を超えた神秘なのだ。 だが、それは在る。 それ以外のすべてはただ起こるだけだ。
(実在は未知なるものなのか、というなら) 未知も既知もともに超えている。 しかし、私なら未知よりも既知と呼ぶだろう。 なぜなら、いつであれ何かが知られたとき、知られたものは実在だからだ。
(沈黙は実在の特質なのか、というなら) それもまたマインドのものだ。 すべての状態と条件はマインドに属する。
(サマーディとは何かと、いうなら) 意識を使わないことがサマーディだ。 ただマインドに触れないのだ。 身体からもマインドからも何も求めないことだ。
至高の見地から見れば、世界に原因はない。 すべては原因なくして起こる。 世界には何の原因もない。
ひとたびあなたが時間と空間のなかに因果関係に支配された世界をつくり出せば、 すべてに原因を探そうとし、そして見つけだすことになるのはまぬがれない。 あなたが質問を設定し、答えを無理強いするのだ。
(ものごとの存在を認めておいて、なぜ原因を拒絶するのか、というなら) あなたが、映画のスクリーンに映しだされた画像が光以外の何ものでもないと知っているように、 私は意識のみを見て、すべては意識だと知っているのだ。
(光の運動には原因がある、というなら) その光はまったく動かない。 あなたもよく知っているように、フィルムのなかの色彩と光を遮る一連の動きは幻想なのだ。 動いているのはフィルムであり、それがマインドなのだ。
もちろん、すべては相互に連結しあっている。 そしてそれゆえ、すべてに無数の原因が在る。 宇宙全体がもっとも微少な存在に貢献している。 あるものはあるがままだ。 なぜなら世界はあるがままだからだ。 わかるかね、あなたは金の装飾品を扱っている。 そして私は金そのものを扱っている。 二つの異なった装飾品の間には何の因果関係もない。 あなたがある装飾品をふたたび溶解して別のものをつくるとき、 その二つの間には何の因果関係もない。 共通の要因は金だ。 だが金が原因だとは言えない。 それを原因と呼べないのは、それ自体では何の原因にもならないからだ。 装飾品が持つ特定の名前と形のように、それはマインドのなかで、「私は在る」として映しだされる。 それにもかかわらず、すべてはただの金にすぎない。 同様に、実在はすべてを可能にする。 それでも、あるものをその名前と形としてつくり出す無は、実在からやってくるのだ。
しかし、なぜそんなに因果関係について心配するのかね? 原因の何が問題なのか? ものごととは、それ自身はかない一過性のものなのだ。 来るものは拒まず、去るものは追わず――なぜものごとを捕まえてその原因について尋ねまわるのだろうか?
光だけがあり、光がすべてなのだ。 そのほかすべては光によってできた画像にすぎない。 画像は光のなかに、光は画像のなかにある。 生と死、自己と非自己。 これらすべての概念を捨て去りなさい。 それらは何の役にも立たない。
これらすべての問題は、目覚めの状態のなかで起こる。 それがその本性なのだ。 だが、あなたはつねにその状態にいるわけではない。 いやおうなくあなたは目覚めの状態に現れ、いやおうなくそこから消え去る。 そんな状態のなかでいったい何ができるというのだろう? 因果関係が目覚めの状態のなかで現れるからといって、それがどう因果関係の有無を知る助けになるのだろうか? マインドが静かに、完全に沈黙したとき、目覚めの状態は消え去る。
出来事に影響を与えるのに、原因を知る必要はない。 あなたがあらゆる出来事の源であり終焉(しゅうえん)ではないだろうか? それを源そのものでコントロールするがいい。
あなたは混乱しているのだ。 なぜなら、あなたのなかに世界があるのではなく、世界のなかにあなたがいると信じているからだ。 誰が初めに現れるのだろう? あなたか、あなたの親だろうか? あなたは自分がある時、ある場所で生まれ、父と母、名前と形をもっていると想像している、 それがあなたの罪と禍(わざわい)なのだ。 もちろん、あなたが働きかければ世界を変えることができる。 ぜひとも働きなさい。 誰があなたを止めているのかね? 私は思いとどまらせてはいない。 原因があろうとなかろうと、あなたがつくった世界だ。 あなたはそれを変えることができる。
(原因のない世界は完全にコントロールを超えている、というなら) その反対に、あなたがその根源であり土台である世界を変える力は、 完全にあなたの力のなかにあるのだ。 想像されたものはいつでも溶解し、つくり変えることができる。 もしあなたが本当に望むならば、すべては望むように起こる。
世界の不幸はそれと関わるなかで、あなたがあなた自身の欲望と恐れからつくり出してきたのだ。 すべてはあなたが真我の存在を忘れてしまったためだ。 スクリーン上の画像に現実性を与えた上で、あなたはそれらの人々を愛し、 彼らのために苦しみ、彼らへの救いを求める。 そうではない。 あなたはまず、あなた自身からはじめなければならないのだ。 ほかに道はない。
ただの現れにすぎない幻を実在と見なすことは悲しむべき罪であり、すべての災いの原因だ。 あなたはすべてに遍在する、永遠で無限の創造的気づき――意識なのだ。 それ以外のすべてはかぎられた時と場所のなかに在る。 何が本来のあなたなのか、忘れてはならない。 その合間に心ゆくまで働きなさい。 仕事と知識は手に手をとって進むべきだ。
神があなたのことを知っていると思うのかね? 世界のことさえ彼は知らないのだ。
もしあなたとあなたの神がともに無力ならば、そのことが、 世界は偶然の産物だということを暗示しているのではないだろうか? そして、もしそうならば、唯一あなたにできることはそれを超えていくことだ。
身体の表現がかぎられているならば、そうあればいい。 しかし、解脱とは自分に押しつけてきた誤った自己の観念から自由になることなのだ。 それはいかに輝かしいものであっても、特定の体験のなかに含まれるようなものではない。
すべての体験は時間の限界内にある。 何であれ、はじまりあるものは終焉(しゅうえん)を迎える。
人はいつも自由なのだ。 あなたは意識しており、また自由に意識できる。 誰もそれをあなたから奪い取ることはできない。
体験から体験者へと見る向きを変えなさい。 そしてあなたができるたったひとつの真の表明、「私は在る」の完全な意味、 その重要性を悟るがいい。
ここでは、「どのように」ということはない。 ただマインドのなかに「私は在る」という感覚を保ち、あなたのマインドと その感覚がひとつになるまで、そのなかに没入しなさい。 繰り返し試みることによって、あなたはそれへの愛情と留意の正しいバランスをつかむだろう。 そして、マインドは「私は在る」という思考―感覚のなかに、揺らぐことなく確立するようになるだろう。 何であれ、あなたが考え、話し、行うにも、この不変で愛情深い存在の感覚は、 つねにマインドの背景として消えることなく残るだろう。
私はそれを普通と呼ぶ。 努力なく、幸せに、行動し、知り、在ることのどこが間違っているだろうか? なぜ身体の即座の崩壊を期待するような、そんな特別なことを考えるのだろう。 身体に死が訪れることの何が間違っているのだろうか? 身体に対する態度を正し、忘れてしまいなさい。 甘やかさず、苦しめず、ほとんどの時間、意識的留意の境界下においておけばいいのだ。
取り戻したいと願うから、それを得ることができないのだ。 切望の状態がすべてのより深い体験を妨げる。 何を欲しているかを正確に知っているマインドには、価値あることなど何ひとつ起こらない。 マインドが求め描いているようなものに、たいした価値のあるものなどないからだ。
最上のものを求めなさい。 最高の幸福、もっとも偉大な自由を。 無欲が最大の至福なのだ。
生活の糧(かて)を得るには、ある特殊な知識が必要だ。 一般的な知識が思考の発展を促すことは間違いない。 だが、もしあなたが知識を蓄えることで人生を送るならば、あなたは自分の まわりに壁を築くだけだろう。 マインドを超えるために飾りたてられたマインドは必要ない。
(マインドの彼方に何を見いだすのか、というなら) 存在の智慧(ちえ)と愛の直接体験だ。
どうすればマインドを超えていけるのか、というなら) スタート地点は数多くあるが、それらはすべて同じゴールに導く。 あなたは行為の結果を放棄しながら、私利私欲のない仕事からはじめるかもしれない。 そしてマインドを放棄し、最後にはすべての欲望を放棄するかもしれない。 ここでは、放棄が作用する要因だ。 あるいは、あなたは欲することも、考えることも、為すこともすべて気にとめず、 「私は在る」という思考と感情の内にとどまり、マインドのなかで確 固として「私は在る」に焦点を合わせるかもしれない。 あらゆる類の体験があなたに訪れるだろう。 「私は在る」だけが永遠に変わらず、知覚できるものすべては一時的なはかないものだという知識のなかに、 揺らぐことなく在りなさい。
(全人生を修行には費やせない、自分には義務と仕事がある、というなら) もちろん職務に励みなさい。 感情的に巻き込まれず、有益で、苦しみをともなわない仕事は、あなたを因果的に束縛しない。 あなたはいくつもの分野に従事し、途方もない熱情とともに仕事をしながらも、 内面ではその影響を受けずに、すべてを映しだす鏡のように自由で静か なマインドを保つかもしれない。
(内側を見るとき、そこには感覚や知覚、思考や感情、欲望や恐れ、記憶や 期待の雲が見えるばかりで、ほかには何も見えない、というなら) それらすべて、そしてまた無も見ているそれが内なる師なのだ。 彼だけが存在する。 それ以外はみな、ただの現れにすぎない。 彼があなたの真我(スワルーパ)、自由への確信と希望なのだ。 彼を見いだし、しっかりとつかんで離してはならない。 そうすればあなたは救われ、安全だろう。
あなたは観照者を知っている、なぜならあなたが観照者だからだ。 観照者を目の前に見る必要はない。 ここでもまた、在ることが知ることなのだ。
(自己知識は何の役に立つのか、というなら) それは何があなたではないか、ということの理解を助け、 誤った考えや欲望や行為からあなたを自由にするのだ。
あなた自身を知ることを助けるものが正しく、それを妨げるものは間違いだ。 真我を知ることは至福であり、それを忘れることが不幸なのだ。
(観照者意識が真我なのか、というなら) 観照者意識はマインドのなかの実在の反映だ。 実在はその彼方にある。 観照者とは、それを超えて彼方へと通り抜けていくための扉なのだ。
(瞑想の目的とは何か、というなら) 偽りを偽りと見ることが瞑想だ。 それは絶えず続いていかなければならない。
(どれが真我の実現への一番の近道か教えてほしい、というなら) どれが近くどれが遠いということはないが、 ある人はより真剣であり、ある人はそれに劣る。 あなたに私自身のことを話そう。 私は単純素朴な人間だったが、グル(師)を信頼し、 彼が私にするようにと言ったことをしたのだ。 彼は私に「私は在る」という感覚に集中するようにと言い、私はそうした。 彼が、私は考えうる、知覚しうるすべてを超えたものだと言い、私は信じたのだ。 私は彼に、私のハートと魂、許されるかぎりのすべての空き時間(家族を支えるための仕事があったため)とすべての注意を捧げた。 真剣な修練と信頼の結果、私は三年のうちに真我(スワルーパ)を実現したのだ。 あなたに合う道を選ぶがいい。 真剣さが進歩の度合いを決定する鍵だ。
「私は在る」という気づきの中に揺らぐことなく確立しなさい。 これがはじまりであり、またすべての努力の終わりだ。
何であれ依存するものは実在ではない。 実在は真に独立している。 個人の存在は世界に依存している。 そしてそれは世界によって制限され、定義されている。 それゆえ、それは実在ではありえない。
水上恵氏が必死に愛内氏をおとしめているのが、 楽しいのでもっとやらせるためにコピーしておきますね♪
>3 水上 恵(みなかみ けい)・おっさん >16〜197 自作自演、乙。sage進行なのでバレバレ。 >204〜455 同上 (_´Д`)ノ~~オツカレー
ゆうび●
194
-0011
東京都
町田市
成瀬が丘
あぼーん
あぼーん
それは暗室に入っていくようなものだ。 あなたには何も見えない。 あなたは触れるかもしれないが、色彩も輪郭も、何も見えない。 そこで窓が開き、部屋は光で溢れ、満たされ、色彩と形態が現れだす。 光を与えたのは窓だ。 だが窓が光の源なのではない。 太陽が源なのだ。 同じように、物質は暗室のようなものだ。 意識が窓だ。 感覚と知覚によって物質はあふれだす。 そして物質と光の両方の源である至高なるものが太陽なのだ。 窓は開いているかも、閉じているかもしれない。 太陽はいつも輝いている。 太陽は部屋に完全な変化をもたらしたが、太陽は変化しない。 しかし、これらすべても小さな「私は在る」にとっては大きな意味を持たない。 「私は在る」なしには何も存在できないからだ。 すべての知識は「私は在る」に関わる。 この「私は在る」についての誤った考えが束縛へと導き、正しい考えは自由と幸福をもたらすのだ。
実存することとは、あるもの、ある感情、ある想い、ある概念といった何かとして在ることを意味している。 すべての実存(イクジスタンス)はある特定のものだ。 すべての存在(ビーイング)はほかのあらゆる存在を互いに受け入れるという意味で、存在だけが普遍的なものと言える。 実存は対立するが、存在に対立はありえない。 実存とは何かになること、生まれ、死に、また生まれるという変化を意味する。 一方、存在には平和と静寂があるのだ。
あなたが何を言おうと、それは真実でもあり偽りでもある。 マインドを超えたところに言葉が届くことはできないのだ。
個人はけっして主体ではありえない。 あなたは個人を見ることはできるが、あなたは個人ではない。 あなたはつねに至高なるものであり、その至高なるものが、ある与えられた 時間と空間において観照者として現れたのだ。 その観照者が至高なるものの純粋な覚醒と、個人の多様な意識の間に橋を渡すのだ。
彼ら(個人のなかの多様な性癖)はまったく反駁しあっているのだ。 彼らをただの思考と感情の習慣、記憶と衝動として、あるがままに見なさい。
(自分のなかに異なる個人がいて闘っている、というなら) なぜなら、あなたは彼らと自分自身を自己同一視するからだ。 ひとたび、何であれあなたの前に現れたものは自分自身ではありえず、「私 は在る」と言うことはできないと認識すれば、あなたはすべての「個人」たちと彼らの要求から自由になる。 「私は在る」という感覚はあなた自身のものだ。 それを手放すことはできない。 しかし、あなたはそれを「私は若い、私は裕福だ」というように何にでも分け与えることができる。 ただ、そのような自己同一化は明らかに偽りであり、束縛となる原因なのだ。
意識の源は、意識のなかの対象物ではありえない。 源を知るということは、源として在るということだ。 あなたが個人ではなく純粋で静かなる観照者であり、 恐れのない気づきが真の存在だと悟ったとき、あなたは実在となる。 それが源であり、無尽蔵の可能性だ。
あぼーん
あぼーん
あぼーん
476 :
癒されたい名無しさん :2010/12/01(水) 06:06:50 ID:oJ09boLz
水上恵氏がスレを流したいようですが、 書き込みが夕方から早朝までって超夜型、本当にニートなんですね♪ でも私には他人事なので最後に上げときます♪age♪ また様子を見て、いいタイミングでコピペしますね♪
けいた●
(源はたくさんあるのか、それともひとつなのかというなら) それはあなたがそれをどの側から、どう見るかによる。 世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、 高次のものにとって低次のものは多数として現れる。
090
世界のなかの対象物はたくさんあるが、それを見る目はひとつだ。 高次のものは低次のものにとってつねにひとつとして現れ、高次のものにとって低次のものは多数として現れる。
あぼーん
(形や名前はみな同じひとつの神のものなのか、というなら) これもまた、あなたがどう見るかにかかってくる。 言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。 絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。
あぼーん
言語上のレベルでは、すべてが相対的だ。 絶対性は体験されるものであって、討論すべきことではない。 それは対象物として認識したり、記憶のなかに蓄えられたりするものではない。 それは現在のなかに、むしろ感覚的なものとしてある。 それは「何であるか」というより、「どう在るか」に近い。 それは質のなか、価値のなかにあり、すべての源としてすべてのなかに存在しているのだ。 それは意識に誕生を与えるのだ。 それ以外のすべては意識のなかにある。
客観的宇宙(マハーダカーシュ)は不変の運動を続け、無数の形態を投影しては溶解している。 いつであれ形態に生気(プラーナ)が吹き込まれたとき、 物質のなかで気づきの反映によって意識(チェタナ)が現れる。
何が、どうやってそれ(至高なるもの)に影響を与えられるというのだろう? 水源が川の気まぐれな流れの影響を受けることはない。 また金属が宝飾品の形によって影響を受けることもない。 光源がスクリーン上の画像によって影響を受けるだろうか? 至高なるものはすべてを可能にする。 それだけだ。
487 :
癒されたい名無しさん :2010/12/01(水) 06:13:40 ID:oJ09boLz
>3 HOST:sbm210-128-58-14.bmobile.ne.jp >16〜197 同人物。こんな暇人、ネット廃人の水上恵氏しかいない。 >204〜482 同上 水上恵氏、何必死に書き込んでんの? あっ、みなさんはID:oJ09boLzをつなげて読んでくださいね♪ age
原因を探しだすことは、ただのマインドの気晴らしにすぎない。 原因と結果という二元性は存在しない。 すべてはそれ自身の原因なのだ。
私に言えることは、意識がすべてを包括しているということだけだ。 意識のなかではすべてが可能だ。 もし望むならば、あなたの世界のなかで原因を持つこともできるだろう。 別の人は、神の意志というひとつの原因に満足かもしれない。 根本的な原因はひとつ、「私は在る」だ。
自己の視点から見れば、世界は既知であり、至高なるものは未知だ。 未知は既知に誕生を与え、しかも未知としてとどまる。 既知は無限だが、未知は無限大の無限だ。 光線がほこりの微少片にさえぎられないかぎり目に見えないように、 至高なるものもすべてを既知にしながら、それ自身は未知としてとどまるのだ。
水●恵(●ずかみけい)40代の長期ニート&ネット廃人。
黒い噂が絶えないインド聖者聖者カレスワーラのイニシエーションを受けて魂を捧げる。
金儲け主義の阿部氏、脱税の共謀者の須藤氏を師と仰ぐ。
http://www.kaleshwar.org/ja/index 今だ創作好きの須藤氏の書き込みを真に受け、それを判断材料にしている。
友達もいなくネット上でしか暗躍できない厨房。
シルディ・サイババのお試しに落ち、その信仰も捨てた。
【ゲームオーバー】
┐(´∀`)┌
↓ ↓ ↓
める●ど
(未知はアクセス不可能なのか、というなら) いいや。 至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。 なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。 考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。
至高なるものはもっとも到達しやすいものだ。 なぜなら、それはあなたの存在そのものだからだ。 考えることを止め、至高なるもの以外を求めないこと、それで充分だ。
(もし至高なるものさえも、何も求めないとしたら) それでは、あなたは死んだも同然だ。 あるいはあなたが至高なるものなのだ。
(欲している者は誰か、個人なのか、あるいは真我なのか、というなら) 真我だ。 神聖なもの、あるいは神聖でないもの、すべての欲望は真我からやってくる。 それらはすべ「私は在る」という感覚に依存しているのだ。
すべての欲望は幸福を目ざしいている。 欲望の形や質は精神(アンタカラナ)に依存する。 不活発性(タマス)が優勢なら、そこには逸脱が見られるだろう。 エネルギー(ラジャス)があると熱情が生じ、透明性(サットヴァ)があるところには、 その欲望の動機の背後に善意と慈悲、幸福であることよりも幸 福になってほしいという衝動が見られる。 だが、至高なるものはすべてを超えている。 さらに、その無限の浸透性ゆえに、あらゆる適切な望みは満たされるのだ。
主体、または対象を破壊する欲望、あるいは満たされた後でも消え去らない 欲望は自己矛盾しており、満たされることはない。 動機が愛と善意と慈悲によって生まれた欲望だけが、主体にも対象にも有益であり、 充分満たされるのだ。
(すべての欲望は同じく苦痛をともなう、というなら) それらは同じではない。 苦痛もまた同じものではない。 熱情は苦痛だ。 慈悲に苦痛はありえない。 全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。
熱情は苦痛だ。 慈悲に苦痛はありえない。 全宇宙が慈悲から生まれた欲望を満たそうと努力しているのだ。
すべての源はすべてをもっている。 源からあふれだすものは何であれ、すでにそこに種子の形として存在しているのだ。 そしてひとつの種子は無数の種子の究極的なものであり、それが経験を含み、 数かぎりない森林を約束しているように、未知もそうであったこと、そうありえたこと、 そうなるだろうこと、そうありうるだろうことのすべてを含んでいる。 何かに成るという可能性の全領域は完全に開かれ、到達可能であり、 過去と未来が永遠の現在のなかに共存しているのだ。
(わたしが至高なる未知のなかに生きているのか、というなら) それ以外、どこに住むことができるだろうか? どんな欲望もわたしのマインドの中に湧いてはこないのだ。
(わたしが無意識なのか、というなら) もちろんそうではない。 わたしは完全に意識している。 だが、欲望も恐れもマインドのなかに入ってこないため、そこには完全な静寂が在る。
(静寂を知る者は誰か、というなら) 静寂がそれ自身を知っている。 それは熱情や欲望が静まったときの、沈黙したマインドの静寂なのだ。
欲望とはマインドのなかの波にすぎない。 それを見たとき、あなたは波だと知る。 欲望は数あるもののなかのひとつにすぎない。 私にそれを満たそうという衝動は起きない。 それに対して何もする必要はない。 欲望からの自由とは、それを満たさなければという強迫観念が不在だということだ。
(そもそも、なぜ欲望は湧いてくるのか、というなら) なぜなら、あなたは生まれてきて、 もしあなたが身体の面倒を見なければ死んでしまうだろうと想像するからだ。 身体をもつ存在の欲望が心配の根本原因だ。
自己がそれ自身を知るためにはそれと反対のもの、非自己と直面しなければならない。 欲望は体験へと導く。 体験は識別、無執着、自己知識――解放へと導く。 そして解放とはいったい何だろうか? それはあなたが生と死を超越したものだと知ることだ。 あなたが誰なのかを忘れ、自分が死を免れることのできない創造物だと想像することで、 あなたは悪夢から目覚めなければならないという困難を自分に負わせてきた。 探求もまた、あなたの目を覚ます。 苦しみを待つまでもない。 幸福への探求のほうがずっといい。 なぜなら、マインドが平和と調和のなかにあるからだ。
(究極の体験者とは誰か、というなら) もちろん、真我だ。
(至高なるものを超える何かが存在するのか、というなら) 真我以外に存在するものはない。 すべてはひとつであり、すべては「私は在る」のなかに含まれる。 目覚めと夢見の状態において、それは個人だ。 深い眠りとトゥリーヤ(第四の状態)のなかで、それは真我だ。 トゥリーヤの醒(さ)めた忘我の彼方に、至高の大いなる静寂の平和がある。 だが、本質的にはすべてはひとつであり、現れと関わりをもっている。 無知のなかで「見る者」は「見られるもの」となり、智慧(ちえ)のなかでは「見ること」になる。 だが、なぜ至高なるものにこだわるのか? 知る者を知りなさい。 そうすればすべては知られるだろう。
罪や徳は個人にしかあてはまらない。 罪深き人や徳高き人なしに、罪や徳があるだろうか? 絶対の次元に個人の存在はない。 純粋な覚醒の大洋は、徳高くも罪深くもない。 徳や罪はつねに相対的なものだ。
真の徳は神の本性(スワルーパ)だ。 真のあなたがあなたの徳なのだ。 だが、罪の反対である、あなたの言う徳は恐れから生まれた服従でしかない。
あなたたちは皆、どしゃ降りでずぶぬれになったが、私の世界ではいつも晴天だ。 夜も昼もなければ、暑さも寒さもない。 何の悩みも後悔もつきまとわない。 私のマインドには思考がない。 そのためにあくせく働かなければならない欲望など何もないからだ。 あなたの世界ははかなく変化しつづける。 私の世界は完全で不変のものだ。 あなたはあなたの世界で何が気に入っているのかを私に言うことができる。 注意と興味をもって私は聞こう。 だが、私はあなたの世界が存在せず、あなたは夢を見ているのだということを、 一瞬でさえ忘れることはないのだ。
私の世界には同一視できるような特徴はない。 それについては何も言えない。 私が私の世界だ。 私の世界は私自身なのだ。 それは完全で完璧だ。 あらゆる印象はかき消され、あらゆる体験はぬぐい去られる。 私は何も必要ない。 自分自身でさえも。 なぜなら自分自身を失うことはできないからだ。
それらすべての概念や区別は、あなたの世界の中に存在する。 私の世界にはそういったものは存在しない。 私の世界は単一のとてもシンプルなものだ。 何であれ、あなたの世界のなかで起こったことは、そこでだけ有効であり、 反応を呼び起こす。 私の世界では何も起こらない。
しかし、あなたの言葉は私には届かない。 あなたの世界では語られないものは存在をもたない。 私の世界では言葉とその内容が存在をもたないのだ。 あなたの世界では何もとどまらない。 私の世界では何も変わらない。 私の世界は真実だ。 あなたの世界は夢でできているのだ。
会話はあなたの世界のなかにある。 私の世界には永遠の沈黙がある。 私の沈黙は歌い、私の虚空は満たされ、何ひとつ欠けていない。 そこにあなたがいないかぎり、あなたに私の世界を知ることはできない。
来ることや去ることは、私にとっては何の意味もない。 それらもまた、ただの言葉だ。 私は在る。 私がどこから来て、どこへ行こうというのだろうか? 何も得るものはない。 あなたはあなたのものではないものを後にし、 あなたがけっして失わなかったもの、自分の存在を見いだすのだ。
あなたの世界を、想像を通してではなく、あるがままに見なさい。 識別することが無執着をもたらす。 無執着は正しい行為を確実にし、正しい行為はあなたの真の存在に内なる橋を築くだろう。 行為は真剣さのあかしだ。 言われたとおりに勤めて誠実に行うなら、すべての障害は消え去るだろう。
あなたの世界では、私はもっとも惨(みじ)めだろう。 目を覚まし、食べ、話し、また眠る。 何と無駄なことか! 生きること、死ぬこと。 何と無意味な言葉だろう! あなたが生きている私を見るとき、私は死んでいる。 あなたが私は死んでいると思うとき、私は生きている。 何とあなたは混乱していることか!
困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。 だがそれらはつねに個人的なものだ。
私は無意識だということに気づいている。 気づきは根本的なものだ。 それは根元的状態であり、はじまりがなく、終わりもない。 原因がなく、支えがなく、部分も、変化もない。 意識は表層の反映と関連しており、二元的な状態だ。 気づきなしに意識は在りえない。 しかし深い眠りのように、意識がなくても気づきは存在しうる。 気づきは絶対的だ。 意識はつねに何かに属し、その内容との相関関係にある。 意識は部分的であり、変化するもの。 気づきは完全で、不変であり、静かで沈黙の内にある。 そして、それはあらゆる経験の共通の母体なのだ。
そもそも意識を起こさせるのは気づきであるため、あらゆる意識の状態には気づきがある。 それゆえ意識が意識しているという意識そのものが、すでに気づきにおける動きなのだ。 自分の意識の流れに興味を抱くこと自体が、あなたを気づきへと導く。 それは何も新しい状態ではない。 それが根元的な、生命そのものである基本的存在、 そしてまた愛と喜びであることは直ちに認識されるだろう。
困難は身体的、感情的、あるいは精神的なものかもしれない。 だがそれらはつねに個人的なものだ。 大規模な災難は無数の個人的運命の合計であり、解決するまで時間がかかる。 だが、死はけっして災難ではない。
める●ど
私の体験ではすべてが至福だ。 しかし、至福への欲望は苦痛を生みだす。 それゆえ、至福が苦痛の種子となる。 この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
あぼーん
@
jcom.
ne.jp
530 :
癒されたい名無しさん :2010/12/01(水) 11:12:40 ID:oJ09boLz
水上恵氏(男)は結局何も世の役に立たず、 霊性貢献もせず、知識を腐らせ、無駄に老いて死んでいく♪ でも私には他人事なので最後に上げときます♪age♪ また様子を見て、いいタイミングでコピペしますね♪ あっ、みなさんはID:oJ09boLzをつなげて読んでくださいね♪
この苦痛の宇宙全体は欲望から生まれたのだ。 喜びへの欲望をあきらめなさい。 そうすれば、あなたは苦痛が何かさえ知らずにすむだろう。
(喜びが苦痛の種子となるのは)なぜなら、喜びのためにあなたは多くの 罪を犯しているからだ。 罪の結果は苦しみと死なのだ。
あなたが生まれたということを信じていることに、あなたの過ちがある。 あなたはけっして生まれなかったし、けっして死ぬことはない。 だが、あなたがある特定の日と場所で生まれ、 この特定の身体をあなた自身のものと信じているところに過ちがあるのだ。
なぜあなたは自分自身の面倒を見る前に、世界について心配するのだろう? あなたは世界を救いたい、違うかね? あなた自身を救う前に世界が救えるだろうか? そして救われるとはどういう意味だろうか? 何から救われるのか? 幻想からだ。 救済とは、ものごとをあるがままに見ることだ。 私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。 自分自身とさえも関係していない。 その自分自身が何であろうとも。 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものなのだ。
私には、本当に自分自身が誰とも何とも関係しているとは思えない。 自分自身とさえも関係していない。 その自分自身が何であろうとも。 私は定義されることのないまま永遠にとどまる。 私は内側に、そして彼方に存在する――親密で、しかも到達不可能なものなのだ。
(ここに到達したのは)私のグル(師)を信頼することによってだ。 彼は私に、「あなただけが存在する」と言った。 そして私は疑わなかったのだ。 私はただ、あるときそれが絶対の真理だと悟るまで頭を悩ませていただけだ。
(確信したのは)真我の実現によってだ。 私は意識であり、絶対的に幸福だと見いだしたのだ。 ただ、私は存在―意識―至福が身体と身体の世界に属すると考えていたのが間違いだったのだ。
だが私のグルも、私にすべてを完全に疑うよう教えたのだ。 彼は言った、「あなたの自己を除いたすべての存在を否定しなさい」と。 欲望を通してあなたは快楽と苦痛の世界をつくり出したのだ。
快楽の本性自体がかぎられた、はかないものなのだ。 苦痛から欲望が生まれ、苦痛のなかで欲望を満たそうとする。 そしてそれは欲求不満と絶望のなかで終わるのだ。 苦痛は快楽の背景であり、快楽の追求はすべて苦痛のなかに生まれ、苦痛のなかに終わるのだ。
見てみなさい。 あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。 私がそれを起こるようにしたのだろうか? それはただ起こるのだ。 あなたにとっても同じだ。 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。 あなたに出来事の行方を変えることはできない。 だが、あなたの態度は変えられる。 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。
あらゆる類のことがこの部屋で起こっている。 私がそれを起こるようにしたのだろうか? それはただ起こるのだ。 あなたにとっても同じだ。 運命がそれ自身を展開し、不可避の出来事を現実にするのだ。 あなたに出来事の行方を変えることはできない。 だが、あなたの態度は変えられる。 そして本当に重要なのは態度にあって、単なる出来事にはない。 世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。 世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
世界は欲望と恐れの住処(すみか)だ。 そこにマインドの平和を見つけだすことはできない。 平和のためには、あなたは世界を超えて行かねばならない。 世界の根本原因は自己愛である。 そのために私たちは快楽を探し求め、苦しみを避ける。 自己愛を真我への愛に変えなさい。 すると画面は変わってくる。 創造の神ブラフマーはすべての欲望の総計だ。 世界はそれらを満たすための道具なのだ。 魂たちは何であれ彼らの望んだ喜びをつかみ、涙で支払う。 そして時間がすべての勘定書を決算する。 バランスの法則が究極の支配をするのだ。
(時と段階によっては欲望も正しいというのは)ある意味では、まったく正しい。 しかし、あなたが充分蓄え、築きはじめるべき日が来る。 そのとき選別し、不要なものを捨てること(ヴィヴェーカ―ヴァイラーギャ)が絶対に必要となる。 すべてを詳細に調べ、不必要なものは無常にも破壊されなければならないのだ。 私を信じてほしい。 行き過ぎの破壊はありえない。 実際には、価値あるものなどないからだ。 熱烈に冷静でありなさい。 ただそれだけだ。
A Blessing In Disguise » "My car broke down again, but maybe it was a blessing in disguise; I've been wasting too much time driving around anyway."
A Chip On Your Shoulder » "What's bothering that guy?" Answer: "Nothing; he's just got a chip on the shoulder."
A Dime A Dozen » "I don't need friends like him; they are a dime a dozen."
A Drop In The Bucket » "I'd like to do something to change the world but whatever I do seems like a drop in the bucket."
A Fool And His Money Are Easily Parted » "Her husband can't seem to hold onto any amount of money; he either spends it or loses it. A fool and his money are easily parted."
A Penny Saved Is A Penny Earned » "I'm going to give you $20 but I want you to put it in the bank; a penny saved is a penny earned!"
A Piece Of Cake » "Do you think you will win your tennis match today?" Answer: "It will be a piece of cake."
A Shot In The Dark » "That was such a difficult question! How did you get it right?" Reply: "I just took a shot in the dark."
A Slip Of The Tongue » "Be careful talking to the police tomorrow; one slip of the tongue could get us into big trouble."
A Taste Of Your Own Medicine » "It looks like she got a taste of her own medicine."
A Toss-Up » "Do you think they'll make it one time?" Answer: "I really don't know. It's a toss-up."
A Wolf In Sheep's Clothing » "Don't trust the salespeople at that store; they are all wolves in sheep's clothing!"
An Arm And A Leg » "Be careful with that watch; it cost me an arm and a leg."
At The Drop Of A Hat » "Would you travel around the world if you had the money?" Answer: "At the drop of a hat."
Beat A Dead Horse » "There's no use in beating a dead horse."
Between A Rock And A Hard Place » "I'd like to help you but I am stuck between a rock and a hard place."
Birds Of A Feather Flock Together » "Look; the volleyball players are eating at the same table together, as always." Answer: "Birds of a feather flock together."
Don't Look A Gift Horse In The Mouth » "Don't look a gift horse in the mouth! When you buy your own beers you can decide what brand you want."
Every Cloud Has A Silver Lining » "I found a new job after all and I like this one much better than the last!" Answer: "You see, every cloud has a silver lining."
Mad As A Hatter » "Everybody in my family knew that our uncle was as mad as a hatter."
Neither A Borrower, Nor A Lender Be » "Could you lend me twenty dollars?" Answer: "Sorry, neither a borrower nor a lender be."
Not A Chance » "Do you think you will be able to finish your report by five o'clock today?" Answer: "Not a chance. I'll be busy in meetings all day."
Out On A Limb » "I want this project to succeed just as much as you do, but I am not willing to go out on a limb."
Shake A Leg » "They are waiting outside in the car; let's shake a leg!"
Sick As A Dog » "I heard you were uncomfortable yesterday." Answer: "Uncomfortable? I was as sick as a dog!"
ix Of One, A Half-Dozen Of The Other » Example: "I say she's a stewardess. She says she's a flight attendant. It's six of one, a half-dozen of the other."
Turn Over A New Leaf » "I'm turning over a new leaf; I've decided to quit smoking."
Two Wrongs Don't Make A Right » "That boy pushed me yesterday and I am going to get him back today!" Answer: "No you are not! Two wrongs do not make a right."
Without A Doubt » "Are you going to watch the game tomorrow?" Answer: "Without a doubt!"
You Can't Judge A Book By Its Cover » "He dresses in plain clothing and drives an ordinary car. Who would know he is the richest man in town? You can't judge a book by its cover!"
About Face » "Do an about face, get back in that bathroom, and brush your teeth!"
Out And About » "Where have you been all day?" Answer: "Oh, out and about."
Round About » "Well, I know how to get there in a round about way, but maybe we should check the map."
A Piece Of Cake » "Do you think you will win your tennis match today?" Answer: "It will be a piece of cake."
A Slip Of The Tongue » "Be careful talking to the police tomorrow; one slip of the tongue could get us into big trouble."
A Taste Of Your Own Medicine » "It looks like she got a taste of her own medicine."
At The Drop Of A Hat » "Would you travel around the world if you had the money?" Answer: "At the drop of a hat."
Birds Of A Feather Flock Together » "Look; the volleyball players are eating at the same table together, as always." Answer: "Birds of a feather flock together."
Get Up On The Wrong Side Of The Bed » "Don't start yelling at me just because you got up on the wrong side of the bed."
In The Heat Of The Moment » "Sorry about what I said; I got caught up in the heat of the moment."
Labor Of Love » "Taking care of this dog is a labor of love."
Let The Cat Out Of The Bag » "Bob didn't tell anyone that he was sick, but his wife let the cat out of the bag."
Nose Out Of Joint » "We were only joking; don't get your nose out of joint."
On Top Of The World » "What a great time we had that night; we were on top of the world!"
Out Of Sight, Out Of Mind » "I meant to read that book, but as soon as I put it down, I forgot about it." Answer: "Out of sight, out of mind."
アイデンティティの感覚@ マインドは断続的なものだ。 眠りや気絶や精神錯乱したとき、何度もそれは空白状態となる。 そこにはその断続性を継続的に記録する何かがあるはずだ。 記憶はつねに部分的であてにならず、つかの間のものだ。 それは「私は在る」という感覚である、意識に浸透した強力なアイデンティ ティの感覚を説明はしない。 その根底にあるものが何なのかを見いだしなさい。(p326)
超えていく マインドでもって見ているかぎり、それを超えていくことはできない。 彼方へと超えていくには、マインドとその内容から目を離さなければならな いのだ。(p326)
すべての方向 すべての方向はマインドのなかにあるのだ! 私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。 ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、 「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。 「私は在る」は方向ではない。 それはすべての方向を否定したものだ。 最後には「私は在る」さえも去らなければならない。 なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。 「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてか らそむけることなのだ。(p326)
よそごと マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か になる。 もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも ない光と愛にあふれていることを知るだろう。 しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。 ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ う。 気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし れない。 だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ はかならず戻ってくる。 そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。(p327)
静けさを妨げず マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か になる。 になる。 もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも ない光と愛にあふれていることを知るだろう。 しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。 ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ う。 気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし れない。 だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ はかならず戻ってくる。 そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。(p327)
二つの身体 あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。 それでも、あなたはそれを恐れはしない。 あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。 あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる 必要はないということだ。 あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。 個人的身体は来ては去っていく。 宇宙的身体はいつもあなたとともにある。 創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。 あなたは個人的身体に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。 この盲目がひとりでに終わることはない。 それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。 すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の 区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。(p327)
宇宙的身体 あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。 それでも、あなたはそれを恐れはしない。 あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。 あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる 必要はないということだ。 あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。 個人的身体は来ては去っていく。 宇宙的身体はいつもあなたとともにある。 創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。 あなたは個人的身体に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。 この盲目がひとりでに終わることはない。 それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。 すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の 区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。(p327)
生命の大海 あなたが真の本性の探求へと深く入って行くにしたがって、小さいのはあな たの身体であり、短いのはあなたの記憶であって、広大な生命の大海があな たのものであることを発見するだろう。(p327)
宇宙的個人 (「私」と「宇宙」が)同一であるという感覚は普遍的に浸透しているのだ。 探求しなさい。 そうすれば、あなたはあなた自身であり、かぎりなくそれ以上である宇宙的 個人を発見することだろう。 とにかく、まず世界はあなたのなかにあり、あなたが世界のなかにいるので はないということを自覚することからはじめなさい。(p328)
個人的身体 あなたの個人的身体は一部分であり、その中に全体が不思議にも反映されて いるのだ。 しかし、あなたは宇宙的身体もまたもっている。 それを知らないとさえ言えないのだ。 なぜなら、あなたはつねにそれを見て、体験しているからだ。 ただ、それを「世界」と呼び、恐れているだけなのだ。 あなたの小さな身体は、あなたの知らない神秘と不思議で満ちている。 そこでもまた、科学があなたの唯一のガイドだ。 解剖学と天文学がそれらを説明するだろう。(p328)
両方の身体 あなたが両方の身体に宿ることを知ることで、あなたはすべてを所有するこ とになるのだ。 宇宙のすべてがあなたの関心事となり、すべての生きるものたちをあなたは もっとも優しく賢明に愛するようになるだろう。 あなたと他者との間には利益の衝突がなくなるだろう。 すべての搾取(さくしゅ)は絶対的に消えるだろう。 あなたのあらゆる行動は恩恵となり、あらゆる瞬間は祝福となるだろう。(p328)
二つの道 あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは 私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。 あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのど ちらかだ。 「完全に」という言葉、それが重要なのだ。 至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。(p328)
極端に あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは 私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。 あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのど ちらかだ。 「完全に」という言葉、それが重要なのだ。 至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。(p328)
意識の大洋 あなた自身が、そのなかですべてが起こる意識の大洋なのだと認識しなさい。 それは難しいことではない。 わずかな注意力と自己への緊密な観察で、あなたはどのような出来事も意識 の外側で起こっているのではないことを知るだろう。(p329)
外側 と 内側 あなたの身体でさえあなたの意識内に現れることのない出来事でいっぱいな のだ。 これが、あなたの身体をあなたのものだと宣言することを妨げはしないだろ う。 あなたはあなたの感覚を通して自分の身体を知るように、世界を正確に知っ ているのだ。 あなたの皮膚から外側の世界と内側の世界を分割し対立させたのは、あなた のマインドだ。 これが恐れと、憎しみと、生きることすべての惨めさを生み出したのだ。(p329)
ただ在るという体験 意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。 それでも、そこにはただ在るという体験がある。 そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。 ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。 それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。(p329)
純粋な覚醒 意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。 それでも、そこにはただ在るという体験がある。 そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。 ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。 それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。(p329)
アイデンティティC 意識は隙間だらけの断続的なものだ。 それにもかかわらず、そこには継続するアイデンティティがある。 もしこのアイデンティティの感覚が意識を超えた何かでなければ、いったい 何によるというのだろう。(p329)
変える必要 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。 あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。(p329-330)
静かになると あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。 いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドの彼方 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。 あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。(p330)
せわしなく いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
ただ在りなさい いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドに休息を いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドは粗雑 (どうしてあなたがあなたの真実の存在を知らないのかというなら……) なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの だからだ。 あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。 そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。(p330)
マインドを静め (どうしてあなたがあなたの真実の存在を知らないのかというなら……) なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの だからだ。 あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。 そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。(p330)
マインドで知る あなたはマインドを超えている。 だが、あなたはマインドで知るのだ。 知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存すると いうことは明らかだ。 あなたの手段を改善しなさい。 そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。(p330)
静かなマインド@ あなたに必要なのは、静かなマインドだ。 ひとたびあなたのマインドが静かになれば、ほかのすべてはしかるべく起こ るだろう。 日の出が世界を活動的にするように、自己覚醒はマインドのなかに変化を与 えるのだ。 平静で安定した自己覚醒の光のなかで、内なるエネルギーは目覚め、あなた の努力なしに奇跡をもたらすのだ。(p330)
最も偉大な仕事 (最も偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされるのかと言うなら) まさにそのとおりだ。 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
運命づけられている (最も偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされるのかと言うなら) まさにそのとおりだ。 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
障害に注意を払う あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
普遍的人生 普遍的であることとは何だろうか? 理念としてではなく、ひとつの生き方として。 何であれあなたがであうものと分離せず、反対せず、理解し、愛することが 普遍的に生きることだ。 私は世界であり、世界は私だ。 世界は私のものであり、世界はわが家だと本当に言えること。 すべての存在は私の存在であり、すべての意識は私の意識だ。 すべての悲しみは私の悲しみであり、すべての喜びは私の喜びだ。 これが普遍的人生なのだ。 それにもかかわらず、私の真の存在は、あなたもまたそうであるように宇宙 を超え、それゆえ特定や普遍といった範疇(はんちゅう)をも超えている。 それは、それであるものだ。 完全に自己充足し、独立しているのだ。(p337)
探求者 探求者とは彼自身を探している人だ。 じきに彼は、身体が彼ではありえないと発見する。 ひとたび「私は身体ではない」という確信がしっかりと確立されれば、もは や彼は身体に代わって感じ、考え、行動することはできなくなる。 彼は普遍的な存在、知識、行為なのだということを容易に発見するだろう。 彼のなかで、彼を通して宇宙全体が真実で、意識的で、活動的になるのだ。 これが問題の核心だ。 あなたは身体意識として環境の奴隷となるか、あるいはあなたは普遍的意識 そのものであり、あらゆる出来事を完全に制御するかだ。(p338)
真の居場所 しかし、それでも意識、個人、普遍なるものは私の真の居場所ではないのだ。 私はその中にはなく、それは私のものではない。 その中に「私」はない。 どのようにして人が意識でもなく、無意識でもなく、ただ彼方に在ることが できるのかを説明することは容易でないが、私は彼方にあるのだ。 私は神の中にいる、あるいは私は神だ、とは言えない。 神は普遍的な光と愛、普遍的な観照者だ。 私は普遍的なものさえ超えているのだ。(p338)
私 私は私であるものだ。 形がなく、形がないということでもない。 意識ではなく、無意識でもない。 私はこれらすべての範疇の外に在るのだ。 単なる否定によって私を見いだすことはできない。 私はすべてであり、無なのだ。 その両方であり、その両方でない。 そういった定義は宇宙の支配者には当てはまるだろうが、私には当てはまら ないのだ。 私は完全であり完璧なのだ。 私は存在の中の存在性、知ることの中の知、幸福の充足だ。 私を虚空に引き下げることはできない。(p339)
必要なのは そうではないのだ。 私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。 あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。 あなたに必要なのは停止、放棄、解放だ。 あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。 あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。 あなたではない。 あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。 ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
気づき そうではないのだ。 私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。 あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。 あなたに必要なのは停止、放棄、解放だ。 あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。 あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。 あなたではない。 あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。 ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
必要 と 放棄 そうではないのだ。 私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。 あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。 あなたに必要なのは停止、放棄、解放だ。 あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。 あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。 あなたではない。 あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。 ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
あるがままA 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
獲得 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
除去・浄化・放棄 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
マインドの議論 マインドがそこにある、とあなたに言うのはマインドなのだ。 騙されてはいけない。 マインドについての果てしない議論はみな、マインドそのものによってそれ 自身を保護し、継続し、拡張するために生みだされたのだ。 それを超えた彼方へとあなたを連れていくことができるのは、マインドの回 旋や動乱を完全に拒絶することだ。(p340)
思考の彼方 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。 そして、それから離れてはならない。 つねにそれについて考えなさい。 それ以外の何も考えてはならない。 そこへ到達したなら、すべての思考を放棄しなさい。 世界に関してだけでなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。 沈黙の存在―気づきの中で、すべての思考の彼方にとどまりなさい。 それは進歩ではない。 なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたの中にあり、あなたを待っ ているからだ。(p340)
進歩ではない 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。 そして、それから離れてはならない。 つねにそれについて考えなさい。 それ以外の何も考えてはならない。 そこへ到達したなら、すべての思考を放棄しなさい。 世界に関してだけでなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。 沈黙の存在―気づきの中で、すべての思考の彼方にとどまりなさい。 それは進歩ではない。 なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたの中にあり、あなたを待っ ているからだ。(p340)
意味を空っぽに 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。 そして、それから離れてはならない。 つねにそれについて考えなさい。 それ以外の何も考えてはならない。 そこへ到達したなら、すべての思考を放棄しなさい。 世界に関してだけでなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。 沈黙の存在―気づきの中で、すべての思考の彼方にとどまりなさい。 それは進歩ではない。 なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたの中にあり、あなたを待っ ているからだ。 そして「私は在る」に関連したいかなる想念がやってきても、それらのすべ ての意味を空っぽにし、注意を払ってはならない。(p340)
体験 と 実在 いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
自己実現 いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
至福の爆発 いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
永遠なるもの いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
存在の感覚へ 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
存在に証明は必要ない だが、私はほかでもない、それをしているのだ! 休むことなく、私はひとつの論争の余地のない要因へと彼らを引き寄せてい る。 存在に証明は必要ない。 それはそれ以外のすべてを証明するのだ。 もし彼らが存在の事実の中に深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大 さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んで行くなら、 彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。 私を信じてほしい。 到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等し いのだ。(p342)
無に等しい 存在に証明は必要ない。 それはそれ以外のすべてを証明するのだ。 もし彼らが存在の事実の中に深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大 さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んで行くなら、 彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。 私を信じてほしい。 到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等し いのだ。(p342)
王道 あらゆるレベルで、人生のあらゆる領域において、すべてに対して開かれた そのような道はあるのだ。 誰もが自分自身に気づいている。 自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。 それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。 それはすべての人たちのためにある。 誰もそれにとって未熟ではない。 そして誰にも失敗はありえない。(p342)
観照とは 誰もが自分自身に気づいている。 自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。 それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。 それはすべての人たちのためにある。 誰もそれにとって未熟ではない。 そして誰にも失敗はありえない。 しかし、もちろんただ注意するだけではない。 あなたの留意はマインドをも含まなければならないのだ。 観照とは、根本的に意識とその動きへの気づきなのだ。(p342-343)
意識していたい 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり えない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
屈辱を耐えて 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はありえない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
体験への欲望 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はありえない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
罠にはまった 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はありえない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
鏡 と イメージ 鏡はイメージを映しだすが、イメージが鏡を改善することはない。 あなたは鏡ではなく、鏡のなかのイメージでもない。 鏡を完全なものにし、それが正確に、真実に投影するようにしてから鏡の向 きを自分自身の方向に変え、鏡が反映できるかぎりの、真実のあなたの投影 を見なさい。 しかし、投影はあなた自身ではないのだ。 あなたは投影を見る者だ。 それを明確に理解しなさい。 あなたが何を知覚しようとも、あなたはあなたが知覚するものではないのだ。(p347-348)
鏡の向きを変え 鏡はイメージを映しだすが、イメージが鏡を改善することはない。 あなたは鏡ではなく、鏡のなかのイメージでもない。 鏡を完全なものにし、それが正確に、真実に投影するようにしてから鏡の向 きを自分自身の方向に変え、鏡が反映できるかぎりの、真実のあなたの投影 を見なさい。 しかし、投影はあなた自身ではないのだ。 あなたは投影を見る者だ。 それを明確に理解しなさい。 あなたが何を知覚しようとも、あなたはあなたが知覚するものではないのだ。(p347-348)
投影を見る者 鏡はイメージを映しだすが、イメージが鏡を改善することはない。 あなたは鏡ではなく、鏡のなかのイメージでもない。 鏡を完全なものにし、それが正確に、真実に投影するようにしてから鏡の向 きを自分自身の方向に変え、鏡が反映できるかぎりの、真実のあなたの投影 を見なさい。 しかし、投影はあなた自身ではないのだ。 あなたは投影を見る者だ。 それを明確に理解しなさい。 あなたが何を知覚しようとも、あなたはあなたが知覚するものではないのだ。(p347-348)
あなたは誰か? あなたは鏡と投影の両方を見ることができるのだ。 あなたはそのどちらでもない。 あなたは誰なのか? 決まり文句で答えてはならない。 答えは言葉のなかにないからだ。 言葉で表せるもっとも近い表現は、「私は知覚を可能にし、体験者とその体 験を超えた生命だ」と言えよう。(p348)
知らなくても どのようにやっているのかも知らずに、あなたはたくさんのことをしている のだ。 消化し、血液やリンパ液を循環させ、筋肉を動かしている。 すべて、どのようにしているのかさえ知らずに。 同じように、あなたはなぜ、どのようにしてるのかも知らないまま、知覚し、 感じ、考えている。 同じように、あなたは知らなくてもあなた自身なのだ。 真我としてのあなたに何も間違ったところはない。 それはそれとして完全だ。 正しく澄んでいないのは鏡なのだ。 それゆえ、それがあなたに偽りのイメージを与えるのだ。 あなた自身を正す必要はない。 ただあなた自身に関するあなたの考えを正しなさい。(p348)
無限なるもの 真我としてのあなたに何も間違ったところはない。 それはそれとして完全だ。 正しく澄んでいないのは鏡なのだ。 それゆえ、それがあなたに偽りのイメージを与えるのだ。 あなた自身を正す必要はない。 ただあなた自身に関するあなたの考えを正しなさい。 あなた自身を鏡と鏡のなかのイメージから引き離すことを学びなさい。 つねに、「私はマインドでも、その考えでもない」ということを覚えておき なさい。 信念とともに、忍耐強くそれをしなさい。 そうすればあなたは、すべてを包容し、すべてに遍在する永遠の存在―知識 ―愛の源としての、あなた自身の直接の姿を知るときがかならず来るだろう。 あなたは身体のなかに焦点を合わせた無限なるものだ。 今、あなたは身体しか見ていない。 真剣に試みてみなさい。 そうすれば、無限なるものだけを見るようになるだろう。(p348)
精神を汚し、鈍く すべての体験は、かならず一時的なものだ。 だが、すべての体験の根底にあるものは不動なのだ。 出来事と呼ばれるものは何ひとつ永続しない。 だが、ある出来事はマインドを浄化し、ある出来事はそれを汚(けが)して しまう。 深い洞察とすべてを包容する愛の瞬間はマインドを浄化する。 だが、欲望と恐れ、妬(ねた)みと怒り、盲目と知的慢心は精神を汚し、鈍 くしてしまうのだ。(p348)
真我の実現 と 苦しみ それ(真我の実現)なしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味 に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。 ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。 しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや 葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。 あなたは自由になれることを知っている。 そして今、それはあなたにかかっているのだ。 永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失 い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り 去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。 そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。 それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの だ。(p349)
苦痛に終わりが それ(真我の実現)なしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味 に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。 ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。 しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや 葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。 あなたは自由になれることを知っている。 そして今、それはあなたにかかっているのだ。 永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失 い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り 去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。 そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。 それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの だ。(p349)
緊急の仕事 それ(真我の実現)なしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味 に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。 ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。 しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや 葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。 あなたは自由になれることを知っている。 そして今、それはあなたにかかっているのだ。 永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失 い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り 去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。 そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。 それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの だ。(p349)
自由になれる それ(真我の実現)なしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味 に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。 ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。 しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや 葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。 あなたは自由になれることを知っている。 そして今、それはあなたにかかっているのだ。 永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失 い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り 去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。 そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。 それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの だ。(p349)
あなたにかかっている それ(真我の実現)なしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味 に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。 ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。 しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや 葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。 あなたは自由になれることを知っている。 そして今、それはあなたにかかっているのだ。 永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失 い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り 去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。 そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。 それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの だ。(p349)
意味がなくなった それ(真我の実現)なしには、あなたは果てしない苦しみのなかで、無意味 に欲望と恐れを繰り返しながらそれらに食い尽くされてしまうだろう。 ほとんどの人びとは苦痛に終わりがありうることさえ知らないのだ。 しかし、ひとたび彼らがその良い知らせを耳にしたならば、すべての争いや 葛藤(かっとう)を超えていくことがもっとも緊急の仕事となるだろう。 あなたは自由になれることを知っている。 そして今、それはあなたにかかっているのだ。 永遠に空腹で、渇き、切望し、探し求め、手探りし、つかみ取り、つねに失 い、悲しみに暮れるか、あるいは全身全霊で、何を加えることも、何を取り 去ることもない永遠の完成の状態を探求しに出かけるか、どちらかだ。 そのなかではすべての欲望と恐れは不在だ。 それらがあきらめられたからではなく、それらに意味がなくなったからなの だ。(p349)
在りなさい@ 何もすることはないのだ。 ただ在りなさい。 何もしてはいけない。 在りなさい。 山に登って洞窟のなかに座ることはない。 わたしは「あなた自身で在りなさい」とさえ言わない。 なぜなら、あなたはあなた自身を知らないからだ。 ただ、在りなさい。 あなたは知覚可能な「外側」の世界でもなければ、思考可能な「内側」の世界でもない。 あなたは身体でもマインドでもないことを見極めたのだ。 ただ在りなさい。(p349)
真我の実現 と 段階 真我の実現に段階などない。 何も漸進的なところはないのだ。 それは突然起こり、後戻りできないものだ。 あなたは新しい次元のなかに入り、そこから以前の次元が単なる抽象的観念 でしかなかったことを見る。 日の出とともに、ものごとをあるがままに見るように、あなたは真我を実現 することですべてをあるがままに見るのだ。 幻想の世界は後に残されたままだ。(p349)
後戻りできない 真我の実現に段階などない。 何も漸進的なところはないのだ。 それは突然起こり、後戻りできないものだ。 あなたは新しい次元のなかに入り、そこから以前の次元が単なる抽象的観念 でしかなかったことを見る。 日の出とともに、ものごとをあるがままに見るように、あなたは真我を実現 することですべてをあるがままに見るのだ。 幻想の世界は後に残されたままだ。(p349)
抽象的観念 真我の実現に段階などない。 何も漸進的なところはないのだ。 それは突然起こり、後戻りできないものだ。 あなたは新しい次元のなかに入り、そこから以前の次元が単なる抽象的観念 でしかなかったことを見る。 日の出とともに、ものごとをあるがままに見るように、あなたは真我を実現 することですべてをあるがままに見るのだ。 幻想の世界は後に残されたままだ。(p349)
準備 と 実現 準備(サーダナ)のなかに進歩はありうる。 実現は突然のものだ。 果実はゆっくり熟していく。 しかし、落ちるのは突然であり、しかも、もとに戻ることはないのだ。(p349)
戻ることはない 準備(サーダナ)のなかに進歩はありうる。 実現は突然のものだ。 果実はゆっくり熟していく。 しかし、落ちるのは突然であり、しかも、もとに戻ることはないのだ。(p349)
自然な状態C あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ って自覚するだろう。 結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという 感覚があるのだ。 関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、 そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心 は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。(p350)
利己的関心 あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ って自覚するだろう。 結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという 感覚があるのだ。 関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、 そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心 は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。(p350)
精神的な脱臼 あなたは自然な状態に戻ったことを、すべての欲望と恐れの完全な不在によ って自覚するだろう。 結局、すべての欲望と恐れの根本には、あなたがあるがままではないという 感覚があるのだ。 関節がはずれているかぎり、脱臼(だっきゅう)したところが痛むように、 そして関節がはめられたとたん、忘れ去られるように、すべての利己的関心 は、ひとたび正常な状態に戻れば消えてしまう精神的な脱臼の症候なのだ。(p350)
感覚をつかむ (自然な状態に達するためのサーダナとは) 「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。 こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新 しい知識とともに振動するのだ。 すべては自発的にやってくる。 ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。 眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは 休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする ようになったのか説明ができない。 真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか を説明できないのだ。 あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。 「私には、もはや何も間違ったところがない」と。 ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。 そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。 ほかの人たちに伝えようとしてはならない。 もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。 沈黙しなさい。 そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
完全に沈黙 (自然な状態に達するためのサーダナとは) 「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。 こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新 しい知識とともに振動するのだ。 すべては自発的にやってくる。 ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。 眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは 休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする ようになったのか説明ができない。 真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか を説明できないのだ。 あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。 「私には、もはや何も間違ったところがない」と。 ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。 そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。 ほかの人たちに伝えようとしてはならない。 もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。 沈黙しなさい。 そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
否定的な言語 (自然な状態に達するためのサーダナとは) 「私は在る」という感覚をつかみ、それ以外のすべてを除きなさい。 こうしてマインドが完全に沈黙したとき、それは新しい光とともに輝き、新 しい知識とともに振動するのだ。 すべては自発的にやってくる。 ただ、「私は在る」という感覚をつかむ必要があるだけだ。 眠りから覚めたときのように、あるいは歓喜の状態にいるように、あなたは 休息した感覚をもち、しかもなぜ、どのようにしてこれほど良い感じがする ようになったのか説明ができない。 真我実現も同じように、あなたは完全で、充足し、快楽―苦痛から自由であ ると感じ、それにもかかわらず、何が、どうして、どのように起こったのか を説明できないのだ。 あなたはそれを否定的な言語でしか表せない。 「私には、もはや何も間違ったところがない」と。 ただ過去との比較においてだけ、それから自由になったことを知るのだ。 そうでなければ、あなたはただ、あなたのままなのだ。 ほかの人たちに伝えようとしてはならない。 もしそうできるとしたら、それは本物ではなかったのだ。 沈黙しなさい。 そして、それは行為のなかで、それ自身を表現するのを見守りなさい。(p350)
何かに成る 何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるの か言うことができるだろうか? あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。 自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。 過去も未来も考えず、ただ在りなさい。(p350)
時間の浪費@ 何かに成るということなどないとき、どうして誰かに、あなたが何になるの か言うことができるだろうか? あなたはただ、あなたで在ることを発見するのだ。 自分自身をひとつのパターンに鋳造することなど、悲惨なる時間の浪費だ。 過去も未来も考えず、ただ在りなさい。(p350)
不変の背景 変化の絶えないなかにあっては、変化は不可避だ。 だが、あなたがそれに支配されることはない。 あなたはそれに対して変化が知覚される、不変の背景なのだ。(p350)
不断の継続性 もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。 しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。 あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろ う。 何がそれを蘇らせるのだろうか? 朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか? 意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。 もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。 その隙間のなかには何があるのだろうか? ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。 それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。(p351)
隙間のなかには もちろん、記憶をもとにした自己は一時的なものだ。 しかし、そのような自己は、その背後に不断の継続性を必要とする。 あなたの体験からも、自己を忘れてしまう隙間があることを知っているだろ う。 何がそれを蘇らせるのだろうか? 朝、あなたを目覚めさせるのは何だろうか? 意識のなかのその隙間を橋渡しする、何か不断の要因がなければならない。 もしあなたが注意深く見守れば、あなたの日常の意識は、つねに隙間が現れ るひらめきのようなものでしかないと知るだろう。 その隙間のなかには何があるのだろうか? ほかでもない、あなたの永遠なる真の実在だ。 それにとっては、マインドもノー・マインドもひとつなのだ。(p351)
唯一、正しい場所 (霊的な成就のために行くべき特定の場所は) 唯一、正しい場所は内側だ。 外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。 どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて いきはしない。 未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。 完全に、今に集中するのだ。 起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ い。(p351)
外側の世界 (霊的な成就のために行くべき特定の場所は) 唯一、正しい場所は内側だ。 外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。 どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて いきはしない。 未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。 完全に、今に集中するのだ。 起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ い。(p351)
体系的方法 (霊的な成就のために行くべき特定の場所は) 唯一、正しい場所は内側だ。 外側の世界は、助けにもならなければ妨げにもならない。 どのような体系的方法も、どのような行動様式も、あなたを目的地へ連れて いきはしない。 未来へ向けてのあらゆる働きかけを放棄しなさい。 完全に、今に集中するのだ。 起こるがまま、人生のあらゆる動きに反応することだけで関わっていきなさ い。(p351)
夢から夢へ 夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。 いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。 これが絶対的な真理なのだ。(p351)
絶対的な真理 夢から夢へと動きまわるのは、あなたではない。 夢があなたの前を流れていき、あなたは不変の観照者なのだ。 いかなる出来事もあなたの存在に影響を与えることはない。 これが絶対的な真理なのだ。(p351)
絶対なるもの@ 絶対なるものの体験などありえない。 それはすべての体験を超えているからだ。 その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。 それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。 世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。 だが、誰も買う人がいなければ、それに価値はない。 絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。 体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。 それを現実のものにするのが真我なのだ。(p351)
絶対 と 真我 絶対なるものの体験などありえない。 それはすべての体験を超えているからだ。 その反対に、自己はあらゆる体験のなかの体験要因だ。 それゆえ、それはある意味で体験の多様性を有効にするのだ。 世界は偉大な価値あるもので満ちているかもしれない。 だが、誰も買う人がいなければ、それらに価値はない。 絶対なるものは、体験可能なあらゆるものを包含している。 体験を可能にするもの、それが絶対なるものだ。 それを現実のものにするのが真我なのだ。(p351)
深淵 欲望の間に段階はありうる。 しかし、もっとも崇高な欲望とすべての欲望から自由になることの間には、 渡らなければならない深淵がある。 実在ではないものが実在に見えることはあるかもしれない。 しかし、それは一時的なことだ。 実在は時間を恐れてはいないのだ。(p352)
実在の表現A どうしてそう(非実在が実在の表現などということが)ありえよう? それは、あたかも真理は夢のなかでそれ自体を表現すると言うようなものだ。 実在にとって、非実在は存在しない。 あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。 疑ってみなさい。 そうすればそれは消え去る。 誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。 あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。 それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って いたが、そうではなかった」と。 一時性は非実在の最高の証拠なのだ。 時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在では ない。 実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。(p352)
一時性 と 非実在 実在にとって、 非実在は存在しない。 あなたがそれを信じるために、それは実在として現れるのだ。 疑ってみなさい。 そうすればそれは消え去る。 誰かを愛するとき、あなたはそれに実在を与える。 あなたはあなたの愛が全能で、永遠だと想像する。 それが終局を迎えるとき、あなたは言う、「わたしはそれが本物だと思って いたが、そうではなかった」と。 一時性は 非実在の最高の証拠なのだ。 時間と空間のなかに限定され、ひとりの人にしか適用しないものは実在では ない。 実在はすべてのためにあり、永遠のものなのだ。(p352)
在ることへの欲望 ほかの何よりも、あなたはあなた自身を大切にする。 あなたはあなたの存在を、何ものとも交換することを許さないだろう。 在ることへの欲望は、すべての欲望のなかで最強のものだ。 そして、あなたが真我を実現したときだけ、それは去るだろう。(p352)
実在と見なす それを実在と見なすことで、あなたはそれに実在性を分け与えるのだ。 あなたは自分を納得させた上で、自分の確信によって束縛されてしまうのだ。 日が照るとき、色彩が現れる。 日が沈むとそれらは消え去る。 光なしに、色彩はどこにあるだろうか?(p352)
本質 と 思考 考えることはすべて二元性のなかにある。 本質のなかではいかなる思考も生き残らないのだ。(p352)
名前 と 身体 あなたはあなた自身を名前と身体だと見なしている。 だから、あなたの知覚するものすべては名前と身体なのだ。(p353)
ラマナ・マハルシ (もしラマナ・マハルシに出会うなら何が起こるか、というなら) おそらく、私たちはまったく幸せに感じるだろう。 二、三の言葉を交わしさえするかもしれない。 人が人を認識するように、ジニャーニはジニャーニを認識するのだ。 あなたはあなたが体験したことのないものを賞賛することはできない。 あなたはあなた自身であると考えているものだ。 だが、あなたはあなたが体験していないものをあなた自身として考えること はできないのだ。(p353)
欲望と知識の終焉 (神となるためには何を学ばなければならないのか、というなら) あなたはすべてを忘れなければならない。 神はすべての欲望と知識の終焉なのだ。(p353)
欲望の形を取る すべての欲望が放棄されなければならない。 なぜなら欲望を持つことで、あなたはあなたの欲望の形を取るからだ。 何の欲望も残っていないとき、あなたは自然な状態へと戻るのだ。(p353)
完成を知ること (完成に到達したということをどうやって知るのか、というなら) 完成を知ることはできない。 あなたは未完成だけを知ることができるのだ。 知識が存在するには、そこに分離と調和がなければならない。 あなたはあなたではないものを知ることができる。 だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。 あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。 そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。 それは偽りを偽りとして見るというものだ。 しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
理解を通して 完成を知ることはできない。 あなたは未完成だけを知ることができるのだ。 知識が存在するには、そこに分離と調和がなければならない。 あなたはあなたではないものを知ることができる。 だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。 あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。 そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。 それは偽りを偽りとして見るというものだ。 しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
偽りを偽りとして見る 完成を知ることはできない。 あなたは未完成だけを知ることができるのだ。 知識が存在するには、そこに分離と調和がなければならない。 あなたはあなたではないものを知ることができる。 だが、あなたの真の存在を知ることはできないのだ。 あなたはあなたであるものとしてだけ在ることができる。 そのアプローチ全体が理解を通してのものだ。 それは偽りを偽りとして見るというものだ。 しかし理解するために、あなたは外側から観察しなければならない。(p354)
非顕現の知識 非顕現の知識といったものはない。 それは不可知だ。 知ることができるのは現実のものだけなのだ。(p354)
反応すること あなたはあなたが反応することだけを知っている。 誰が何に反応するかを知ってはいない。 あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。 「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。(p354)
「私はこれだ」 あなたはあなたが反応することだけを知っている。 誰が何に反応するかを知ってはいない。 あなたは、「私は在る」に接触することであなたの存在を知るのだ。 「私はこれだ」「私はあれだ」は想像なのだ。(p354)
意味を与える ホタルが世界を照らすというのかね! あなたが世界に意味を与えるのではない。 あなたはそれを見いだすのだ。 あなた自身のなかに深く潜っていきなさい。 そしてすべての意味があふれだす源を見いだしなさい。 間違いなく、意味を与えることができるのは表面的なマインドではないのだ。(p354)
全体 全体は開いていて、手に入るものだ。 だが、あなたはそれを手にしない。 あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。 あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。 結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう? 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。 あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。 全体としてのあなた自身を知りなさい。(p355)
知覚の中心@ 全体は開いていて、手に入るものだ。 だが、あなたはそれを手にしない。 あなたは自分自身だと考えている小さな個人に執着している。 あなたの欲望はかぎられていて、野望は取るに足らないものだ。 結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう? 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。 あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。 全体としてのあなた自身を知りなさい。(p355)
無次元の源 結局、知覚の中心がなければ、どこに顕現があるというのだろう? 知覚されなければ、顕現は非顕現と同じだ。 あなたは知覚する点、すべての次元に対する無次元の源なのだ。 全体としてのあなた自身を知りなさい。(p354)
無限の宇宙 ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。 許容量に欠けることはない。 自己限定だけが唯一の問題なのだ。 しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。 どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。(p355)
自己限定だけが ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。 許容量に欠けることはない。 自己限定だけが唯一の問題なのだ。 しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。 どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。(p355)
唯一の問題@ ひとつの点のなかには、無限の宇宙を包むに充分な空間がある。 許容量に欠けることはない。 自己限定だけが唯一の問題なのだ。 しかし、あなた自身から逃げだすことはできない。 どれほど遠くへ行こうとも、あなたは自分自身に、そして無であり、しかも すべての源であるこの点を理解する必要性に戻ってくるのだ。(p355)
獲得のヨーガ どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか? 獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか? 一方は隷属させ、他方は解放する。 動機がもっとも重要なのだ。 自由は放棄を通してもたらされる。 すべての所有は束縛なのだ。(p355)
放棄のヨーガ どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか? 獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか? 一方は隷属させ、他方は解放する。 動機がもっとも重要なのだ。 自由は放棄を通してもたらされる。 すべての所有は束縛なのだ。(p355)
動機がもっとも重要 どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか? 獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか? 一方は隷属させ、他方は解放する。 動機がもっとも重要なのだ。 自由は放棄を通してもたらされる。 すべての所有は束縛なのだ。(p355)
自由 と 放棄 どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか? 獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか? 一方は隷属させ、他方は解放する。 動機がもっとも重要なのだ。 自由は放棄を通してもたらされる。 すべての所有は束縛なのだ。(p355)
所有は束縛 どの類(たぐい)のヨーガをあなたは学びたいのだろうか? 獲得のヨーガだろうか、放棄のヨーガだろうか? 一方は隷属させ、他方は解放する。 動機がもっとも重要なのだ。 自由は放棄を通してもたらされる。 すべての所有は束縛なのだ。(p355)
分別ある行為 (放棄は弱者のためのものだ、というなら) もしあなたが放棄する智慧(ちえ)と力をもっていないのなら、ただあなた の所有物を見てみなさい。 ただ見るという行為がそれらを焼き尽くすだろう。 もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望 を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。 あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若 く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
欲望の対象物 あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若 く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
獲得する手段 あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若 く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
最善の結果 もしあなたがマインドの外側に立つことができるなら、じきに所有物と欲望 を放棄することがもっとも明白な分別ある行為だと知ることだろう。 あなたが世界をつくり出しておいて、それからそれについて心配するのだ。 利己的になることはあなたを弱くする。 あなたに欲望をもつだけの勇気と力があると考えるなら、それはあなたが若 く、経験不足だからだ。 例外なく、欲望の対象物はそれを獲得する手段を破壊する。 そうして、それ自体も衰え果ててしまうのだ。 結局、すべては最善の結果をもたらす。 なぜなら、それはあなたに毒を避けるかのように欲望を避けさせるからだ。(p355-356)
アイデンティティの感覚@ マインドは断続的なものだ。 眠りや気絶や精神錯乱したとき、何度もそれは空白状態となる。 そこにはその断続性を継続的に記録する何かがあるはずだ。 記憶はつねに部分的であてにならず、つかの間のものだ。 それは「私は在る」という感覚である、意識に浸透した強力なアイデンティ ティの感覚を説明はしない。 その根底にあるものが何なのかを見いだしなさい。(p326)
超えていく マインドでもって見ているかぎり、それを超えていくことはできない。 彼方へと超えていくには、マインドとその内容から目を離さなければならな いのだ。(p326)
すべての方向 すべての方向はマインドのなかにあるのだ! 私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。 ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、 「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。 「私は在る」は方向ではない。 それはすべての方向を否定したものだ。 最後には「私は在る」さえも去らなければならない。 なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。 「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてか らそむけることなのだ。(p326)
よそごと マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か になる。 もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも ない光と愛にあふれていることを知るだろう。 しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。 ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ う。 気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし れない。 だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ はかならず戻ってくる。 そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。(p327)
静けさを妨げず マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か になる。 になる。 もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも ない光と愛にあふれていることを知るだろう。 しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。 ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ う。 気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし れない。 だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ はかならず戻ってくる。 そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。(p327)
二つの身体 あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。 それでも、あなたはそれを恐れはしない。 あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。 あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる 必要はないということだ。 あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。 個人的身体は来ては去っていく。 宇宙的身体はいつもあなたとともにある。 創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。 あなたは個人的身体に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。 この盲目がひとりでに終わることはない。 それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。 すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の 区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。(p327)
宇宙的身体 あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。 それでも、あなたはそれを恐れはしない。 あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。 あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる 必要はないということだ。 あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。 個人的身体は来ては去っていく。 宇宙的身体はいつもあなたとともにある。 創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。 あなたは個人的身体に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。 この盲目がひとりでに終わることはない。 それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。 すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の 区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。(p327)
生命の大海 あなたが真の本性の探求へと深く入って行くにしたがって、小さいのはあな たの身体であり、短いのはあなたの記憶であって、広大な生命の大海があな たのものであることを発見するだろう。(p327)
宇宙的個人 (「私」と「宇宙」が)同一であるという感覚は普遍的に浸透しているのだ。 探求しなさい。 そうすれば、あなたはあなた自身であり、かぎりなくそれ以上である宇宙的 個人を発見することだろう。 とにかく、まず世界はあなたのなかにあり、あなたが世界のなかにいるので はないということを自覚することからはじめなさい。(p328)
個人的身体 あなたの個人的身体は一部分であり、その中に全体が不思議にも反映されて いるのだ。 しかし、あなたは宇宙的身体もまたもっている。 それを知らないとさえ言えないのだ。 なぜなら、あなたはつねにそれを見て、体験しているからだ。 ただ、それを「世界」と呼び、恐れているだけなのだ。 あなたの小さな身体は、あなたの知らない神秘と不思議で満ちている。 そこでもまた、科学があなたの唯一のガイドだ。 解剖学と天文学がそれらを説明するだろう。(p328)
両方の身体 あなたが両方の身体に宿ることを知ることで、あなたはすべてを所有するこ とになるのだ。 宇宙のすべてがあなたの関心事となり、すべての生きるものたちをあなたは もっとも優しく賢明に愛するようになるだろう。 あなたと他者との間には利益の衝突がなくなるだろう。 すべての搾取(さくしゅ)は絶対的に消えるだろう。 あなたのあらゆる行動は恩恵となり、あらゆる瞬間は祝福となるだろう。(p328)
二つの道 あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは 私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。 あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのど ちらかだ。 「完全に」という言葉、それが重要なのだ。 至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。(p328)
極端に あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは 私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。 あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのど ちらかだ。 「完全に」という言葉、それが重要なのだ。 至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。(p328)
意識の大洋 あなた自身が、そのなかですべてが起こる意識の大洋なのだと認識しなさい。 それは難しいことではない。 わずかな注意力と自己への緊密な観察で、あなたはどのような出来事も意識 の外側で起こっているのではないことを知るだろう。(p329)
外側 と 内側 あなたの身体でさえあなたの意識内に現れることのない出来事でいっぱいな のだ。 これが、あなたの身体をあなたのものだと宣言することを妨げはしないだろ う。 あなたはあなたの感覚を通して自分の身体を知るように、世界を正確に知っ ているのだ。 あなたの皮膚から外側の世界と内側の世界を分割し対立させたのは、あなた のマインドだ。 これが恐れと、憎しみと、生きることすべての惨めさを生み出したのだ。(p329)
ただ在るという体験 意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。 それでも、そこにはただ在るという体験がある。 そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。 ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。 それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。(p329)
純粋な覚醒 意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。 それでも、そこにはただ在るという体験がある。 そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。 ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。 それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。(p329)
アイデンティティC 意識は隙間だらけの断続的なものだ。 それにもかかわらず、そこには継続するアイデンティティがある。 もしこのアイデンティティの感覚が意識を超えた何かでなければ、いったい 何によるというのだろう。(p329)
変える必要 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。 あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。(p329-330)
静かになると あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。 いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドの彼方 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。 あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。(p330)
せわしなく いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
ただ在りなさい いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドに休息を いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドは粗雑 (どうしてあなたがあなたの真実の存在を知らないのかというなら……) なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの だからだ。 あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。 そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。(p330)
マインドを静め (どうしてあなたがあなたの真実の存在を知らないのかというなら……) なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの だからだ。 あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。 そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。(p330)
マインドで知る あなたはマインドを超えている。 だが、あなたはマインドで知るのだ。 知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存すると いうことは明らかだ。 あなたの手段を改善しなさい。 そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。(p330)
静かなマインド@ あなたに必要なのは、静かなマインドだ。 ひとたびあなたのマインドが静かになれば、ほかのすべてはしかるべく起こ るだろう。 日の出が世界を活動的にするように、自己覚醒はマインドのなかに変化を与 えるのだ。 平静で安定した自己覚醒の光のなかで、内なるエネルギーは目覚め、あなた の努力なしに奇跡をもたらすのだ。(p330)
最も偉大な仕事 (最も偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされるのかと言うなら) まさにそのとおりだ。 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
運命づけられている (最も偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされるのかと言うなら) まさにそのとおりだ。 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
アイデンティティの感覚@ マインドは断続的なものだ。 眠りや気絶や精神錯乱したとき、何度もそれは空白状態となる。 そこにはその断続性を継続的に記録する何かがあるはずだ。 記憶はつねに部分的であてにならず、つかの間のものだ。 それは「私は在る」という感覚である、意識に浸透した強力なアイデンティ ティの感覚を説明はしない。 その根底にあるものが何なのかを見いだしなさい。(p326)
超えていく マインドでもって見ているかぎり、それを超えていくことはできない。 彼方へと超えていくには、マインドとその内容から目を離さなければならな いのだ。(p326)
すべての方向 すべての方向はマインドのなかにあるのだ! 私はあなたに特定の方向を見るように言っているのではない。 ただ、あなたのマインドのなかで起こっていることのすべてから目を離し、 「私は在る」という感覚にそれを合わせなさい。 「私は在る」は方向ではない。 それはすべての方向を否定したものだ。 最後には「私は在る」さえも去らなければならない。 なぜなら、明白なことをいつまでも主張しつづける必要はないからだ。 「私は在る」にマインドを合わせることは、単にマインドをほかのすべてか らそむけることなのだ。(p326)
よそごと マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か になる。 もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも ない光と愛にあふれていることを知るだろう。 しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。 ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ う。 気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし れない。 だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ はかならず戻ってくる。 そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。(p327)
静けさを妨げず マインドがよそごとに気を取られることから目を離されたとき、それは静か になる。 になる。 もしこの静けさを妨げず、そこにとどまるなら、あなたはそれが見たことも ない光と愛にあふれていることを知るだろう。 しかも、あなたはそれをあなた自身の本性だとすぐに認識するのだ。 ひとたびこの体験を通ったならば、あなたは二度と同じ人ではなくなるだろ う。 気ままなマインドはその平和を破り、ヴィジョンを消し去ってしまうかもし れない。 だが、すべての束縛が破れ、迷いや執着が終わるまで努力を続ければ、それ はかならず戻ってくる。 そして人生は最高に、今この瞬間に集中したものとなるのだ。(p327)
二つの身体 あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。 それでも、あなたはそれを恐れはしない。 あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。 あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる 必要はないということだ。 あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。 個人的身体は来ては去っていく。 宇宙的身体はいつもあなたとともにある。 創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。 あなたは個人的身体に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。 この盲目がひとりでに終わることはない。 それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。 すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の 区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。(p327)
宇宙的身体 あなた自身の小さな身体もまた、神秘と危険に満ちているのだ。 それでも、あなたはそれを恐れはしない。 あなたがそれをあなた自身のものと見なしているからだ。 あなたが知らないのは、この宇宙全体があなたの身体であり、それを恐れる 必要はないということだ。 あなたは個人的と宇宙的な二つの身体をもっていると言ってもいい。 個人的身体は来ては去っていく。 宇宙的身体はいつもあなたとともにある。 創造全体があなたの宇宙的身体なのだ。 あなたは個人的身体に盲目的になり、宇宙的身体を見ていない。 この盲目がひとりでに終わることはない。 それは巧みに、熟考した上で取り消さなければならないのだ。 すべての幻想が理解され、放棄されたとき、あなたは個人的と宇宙的の間の 区別がすべてなくなった、過ちのない、完全な状態に到達するのだ。(p327)
生命の大海 あなたが真の本性の探求へと深く入って行くにしたがって、小さいのはあな たの身体であり、短いのはあなたの記憶であって、広大な生命の大海があな たのものであることを発見するだろう。(p327)
宇宙的個人 (「私」と「宇宙」が)同一であるという感覚は普遍的に浸透しているのだ。 探求しなさい。 そうすれば、あなたはあなた自身であり、かぎりなくそれ以上である宇宙的 個人を発見することだろう。 とにかく、まず世界はあなたのなかにあり、あなたが世界のなかにいるので はないということを自覚することからはじめなさい。(p328)
個人的身体 あなたの個人的身体は一部分であり、その中に全体が不思議にも反映されて いるのだ。 しかし、あなたは宇宙的身体もまたもっている。 それを知らないとさえ言えないのだ。 なぜなら、あなたはつねにそれを見て、体験しているからだ。 ただ、それを「世界」と呼び、恐れているだけなのだ。 あなたの小さな身体は、あなたの知らない神秘と不思議で満ちている。 そこでもまた、科学があなたの唯一のガイドだ。 解剖学と天文学がそれらを説明するだろう。(p328)
両方の身体 あなたが両方の身体に宿ることを知ることで、あなたはすべてを所有するこ とになるのだ。 宇宙のすべてがあなたの関心事となり、すべての生きるものたちをあなたは もっとも優しく賢明に愛するようになるだろう。 あなたと他者との間には利益の衝突がなくなるだろう。 すべての搾取(さくしゅ)は絶対的に消えるだろう。 あなたのあらゆる行動は恩恵となり、あらゆる瞬間は祝福となるだろう。(p328)
二つの道 あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは 私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。 あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのど ちらかだ。 「完全に」という言葉、それが重要なのだ。 至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。(p328)
極端に あなたには二つの道がある。 真我を実現するために、あなたのマインドとハートを捧げること、あるいは 私の言葉を信頼して受け入れ、それにしたがって行動することだ。 あなたは自己に対して完全に利己的になるか、完全に非利己的になるかのど ちらかだ。 「完全に」という言葉、それが重要なのだ。 至高なるものに到達するためには、あなたは極端にならなければならない。(p328)
意識の大洋 あなた自身が、そのなかですべてが起こる意識の大洋なのだと認識しなさい。 それは難しいことではない。 わずかな注意力と自己への緊密な観察で、あなたはどのような出来事も意識 の外側で起こっているのではないことを知るだろう。(p329)
外側 と 内側 あなたの身体でさえあなたの意識内に現れることのない出来事でいっぱいな のだ。 これが、あなたの身体をあなたのものだと宣言することを妨げはしないだろ う。 あなたはあなたの感覚を通して自分の身体を知るように、世界を正確に知っ ているのだ。 あなたの皮膚から外側の世界と内側の世界を分割し対立させたのは、あなた のマインドだ。 これが恐れと、憎しみと、生きることすべての惨めさを生み出したのだ。(p329)
ただ在るという体験 意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。 それでも、そこにはただ在るという体験がある。 そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。 ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。 それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。(p329)
純粋な覚醒 意識を超えたところには、いかなる体験もありえない。 それでも、そこにはただ在るという体験がある。 そこには無意識ではなく、意識を超えた彼方の状態があるのだ。 ある人たちはそれを超意識、純粋意識、あるいは至高の意識と呼んでいる。 それは主体と客体の関係から自由な、純粋な覚醒なのだ。(p329)
アイデンティティC 意識は隙間だらけの断続的なものだ。 それにもかかわらず、そこには継続するアイデンティティがある。 もしこのアイデンティティの感覚が意識を超えた何かでなければ、いったい 何によるというのだろう。(p329)
変える必要 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。 あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。(p329-330)
静かになると あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。 いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドの彼方 何かを変える必要がどこにあるというのだろう? いずれにせよ、マインドはつねに変化しているのだ。 あなたのマインドを冷静に見てみなさい。 マインドを平静にするにはこれで充分だ。 静かになると、あなたはマインドの彼方へと行くことができる。(p330)
せわしなく いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
ただ在りなさい いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドに休息を いつもマインドをせわしなくさせていてはいけない。 それをやめ、ただ在りなさい。 もしあなたがマインドに休息を与えたなら、それは落ち着き、その純粋さと 力強さを回復するだろう。 絶え間なく考えることはマインドを衰退させてしまうのだ。(p330)
マインドは粗雑 (どうしてあなたがあなたの真実の存在を知らないのかというなら……) なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの だからだ。 あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。 そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。(p330
マインドを静め (どうしてあなたがあなたの真実の存在を知らないのかというなら……) なぜなら、それは非常に微妙なものであり、あなたのマインドは粗雑なもの だからだ。 あなたのマインドを静め、明瞭にしなさい。 そうすれば、あなたはあるがままの自分自身を知るだろう。(p330)
マインドで知る あなたはマインドを超えている。 だが、あなたはマインドで知るのだ。 知識の範囲、深さ、性質は、あなたがどのような手段を使うかに依存すると いうことは明らかだ。 あなたの手段を改善しなさい。 そうすれば、あなたの知識も改善されるだろう。(p330)
静かなマインド@ あなたに必要なのは、静かなマインドだ。 ひとたびあなたのマインドが静かになれば、ほかのすべてはしかるべく起こ るだろう。 日の出が世界を活動的にするように、自己覚醒はマインドのなかに変化を与 えるのだ。 平静で安定した自己覚醒の光のなかで、内なるエネルギーは目覚め、あなた の努力なしに奇跡をもたらすのだ。(p330)
最も偉大な仕事 (最も偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされるのかと言うなら) まさにそのとおりだ。 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
運命づけられている (最も偉大な仕事は、仕事をしないことによってなされるのかと言うなら) まさにそのとおりだ。 あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
障害に注意を払う あなたは悟りを得るように運命づけられているのだということを理解しなさ い。 あなたの運命に協力しなさい。 それに抗ってはいけない。 それを妨げてはいけない。 それが運命を全(まっと)うするのを許しなさい。 愚かなマインドがつくり出した障害に注意を払うこと、それがあなたのする べきすべてなのだ。(p330)
普遍的人生 普遍的であることとは何だろうか? 理念としてではなく、ひとつの生き方として。 何であれあなたがであうものと分離せず、反対せず、理解し、愛することが 普遍的に生きることだ。 私は世界であり、世界は私だ。 世界は私のものであり、世界はわが家だと本当に言えること。 すべての存在は私の存在であり、すべての意識は私の意識だ。 すべての悲しみは私の悲しみであり、すべての喜びは私の喜びだ。 これが普遍的人生なのだ。 それにもかかわらず、私の真の存在は、あなたもまたそうであるように宇宙 を超え、それゆえ特定や普遍といった範疇(はんちゅう)をも超えている。 それは、それであるものだ。 完全に自己充足し、独立しているのだ。(p337)
探求者 探求者とは彼自身を探している人だ。 じきに彼は、身体が彼ではありえないと発見する。 ひとたび「私は身体ではない」という確信がしっかりと確立されれば、もは や彼は身体に代わって感じ、考え、行動することはできなくなる。 彼は普遍的な存在、知識、行為なのだということを容易に発見するだろう。 彼のなかで、彼を通して宇宙全体が真実で、意識的で、活動的になるのだ。 これが問題の核心だ。 あなたは身体意識として環境の奴隷となるか、あるいはあなたは普遍的意識 そのものであり、あらゆる出来事を完全に制御するかだ。(p338)
真の居場所 しかし、それでも意識、個人、普遍なるものは私の真の居場所ではないのだ。 私はその中にはなく、それは私のものではない。 その中に「私」はない。 どのようにして人が意識でもなく、無意識でもなく、ただ彼方に在ることが できるのかを説明することは容易でないが、私は彼方にあるのだ。 私は神の中にいる、あるいは私は神だ、とは言えない。 神は普遍的な光と愛、普遍的な観照者だ。 私は普遍的なものさえ超えているのだ。(p338)
私 私は私であるものだ。 形がなく、形がないということでもない。 意識ではなく、無意識でもない。 私はこれらすべての範疇の外に在るのだ。 単なる否定によって私を見いだすことはできない。 私はすべてであり、無なのだ。 その両方であり、その両方でない。 そういった定義は宇宙の支配者には当てはまるだろうが、私には当てはまら ないのだ。 私は完全であり完璧なのだ。 私は存在の中の存在性、知ることの中の知、幸福の充足だ。 私を虚空に引き下げることはできない。(p339)
必要なのは そうではないのだ。 私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。 あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。 あなたに必要なのは停止、放棄、解放だ。 あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。 あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。 あなたではない。 あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。 ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
気づき そうではないのだ。 私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。 あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。 あなたに必要なのは停止、放棄、解放だ。 あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。 あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。 あなたではない。 あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。 ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
必要 と 放棄 そうではないのだ。 私はあなたがまさに必要としているものを差しだしている――気づきだ。 あなたは空腹ではなく、パンも必要ない。 あなたに必要なのは停止、放棄、解放だ。 あなたが必要だと信じているものは、あなたに必要なものではないのだ。 あなたが本当に必要としているものを知っているのは私だ。 あなたではない。 あなたは私がいる状態に戻らなければならない――あなたの自然な状態に。 ほかの何であれ、あなたの考えるものは幻想であり、障害だ。 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
あるがままA 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
獲得 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
除去・浄化・放棄 私を信じてほしい。 あるがままのあなたとして在ること、それ以外は何も必要ないのだ。 あなたは獲得することによって、あなたの価値が増加すると想像している。 それは金が銅を加えることで、それを改善するだろうと想像しているような ものだ。 あなたの本質にとって異質なすべてのものを除去し、浄化し、放棄すること で充分だ。 それ以外のすべては無駄なのだ。(p339)
マインドの議論 マインドがそこにある、とあなたに言うのはマインドなのだ。 騙されてはいけない。 マインドについての果てしない議論はみな、マインドそのものによってそれ 自身を保護し、継続し、拡張するために生みだされたのだ。 それを超えた彼方へとあなたを連れていくことができるのは、マインドの回 旋や動乱を完全に拒絶することだ。(p340)
思考の彼方 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。 そして、それから離れてはならない。 つねにそれについて考えなさい。 それ以外の何も考えてはならない。 そこへ到達したなら、すべての思考を放棄しなさい。 世界に関してだけでなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。 沈黙の存在―気づきの中で、すべての思考の彼方にとどまりなさい。 それは進歩ではない。 なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたの中にあり、あなたを待っ ているからだ。(p340)
進歩ではない 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。 そして、それから離れてはならない。 つねにそれについて考えなさい。 それ以外の何も考えてはならない。 そこへ到達したなら、すべての思考を放棄しなさい。 世界に関してだけでなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。 沈黙の存在―気づきの中で、すべての思考の彼方にとどまりなさい。 それは進歩ではない。 なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたの中にあり、あなたを待っ ているからだ。(p340)
意味を空っぽに 私が言いつづけていることに耳を貸しなさい。 そして、それから離れてはならない。 つねにそれについて考えなさい。 それ以外の何も考えてはならない。 そこへ到達したなら、すべての思考を放棄しなさい。 世界に関してだけでなく、あなた自身に関する概念も放棄しなさい。 沈黙の存在―気づきの中で、すべての思考の彼方にとどまりなさい。 それは進歩ではない。 なぜなら、あなたが到達するものはすでにあなたの中にあり、あなたを待っ ているからだ。 そして「私は在る」に関連したいかなる想念がやってきても、それらのすべ ての意味を空っぽにし、注意を払ってはならない。(p340)
体験 と 実在 いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
自己実現 いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
至福の爆発 いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
永遠なるもの いかに高尚であっても、体験は実在のものではない。 体験はその本性からして、来ては去っていくものなのだ。 自己実現は獲得されるものではない。 それはもっと理解の本質に近いものだ。 ひとたびそれに到達すれば、けっして失われることはない。 その反対に、意識は変化し、流れ、瞬間から瞬間へと変容を通り抜けていく。 意識とその内容をとどめようとしてはならない。 意識をとどめれば、それは止まる。 洞察のひらめきと至福の爆発を永続させようと試みることは、それを維持し ようとするものにとって破壊的になる。 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
存在の感覚へ 来るものは去らなければならない。 永遠なるものは、去来するすべてのものの彼方にあるのだ。 すべての体験の根底へ、存在の感覚へと行きなさい。 無限の実在は存在と非存在の彼方にある。 何度も繰り返し試みることだ。(p341-342)
存在に証明は必要ない だが、私はほかでもない、それをしているのだ! 休むことなく、私はひとつの論争の余地のない要因へと彼らを引き寄せてい る。 存在に証明は必要ない。 それはそれ以外のすべてを証明するのだ。 もし彼らが存在の事実の中に深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大 さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んで行くなら、 彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。 私を信じてほしい。 到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等し いのだ。(p342)
無に等しい 存在に証明は必要ない。 それはそれ以外のすべてを証明するのだ。 もし彼らが存在の事実の中に深く入っていき、「私は在る」が扉となる広大 さと栄光を見いだし、その扉を通り抜けて、さらに彼方へと進んで行くなら、 彼らの人生は幸福と光に満ちたものとなるだろう。 私を信じてほしい。 到達したとき、発見されるものに比べれば、必要とされる努力など無に等し いのだ。(p342)
王道 あらゆるレベルで、人生のあらゆる領域において、すべてに対して開かれた そのような道はあるのだ。 誰もが自分自身に気づいている。 自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。 それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。 それはすべての人たちのためにある。 誰もそれにとって未熟ではない。 そして誰にも失敗はありえない。(p342)
観照とは 誰もが自分自身に気づいている。 自己覚醒を深め、広めていくことは王道なのだ。 それを留意、観照、あるいはただ注意と呼んでもいい。 それはすべての人たちのためにある。 誰もそれにとって未熟ではない。 そして誰にも失敗はありえない。 しかし、もちろんただ注意するだけではない。 あなたの留意はマインドをも含まなければならないのだ。 観照とは、根本的に意識とその動きへの気づきなのだ。(p342-343)
意識していたい 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり えない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
屈辱を耐えて 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり えない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
体験への欲望 何にもまして、私たちは意識しつづけていたい。 あらゆる苦しみや屈辱を耐えてでも、意識しつづけることを望むのだ。 この体験への欲望に逆らって、顕現すべてを手放さないかぎり、解放はあり えない。 私たちは罠にはまったままなのだ。(p346)
私は如何なる意味ででも、あなた方が私に執着することを望まない。 私はあなた方の敵ではない。私はあなた方が私ゆえに片輪のままで、 盲目のままで、依存したままで、奴隷のままでいることを望まない。 ---OSHO
禅は自分の今在る、そのこと以外の他に向かって求めると禅にならない ---井上希道老師
存在は常に若い、が、言語はつねに古い。 言語であなたは存在を避ける、生を避ける。 ---OSHO
実り多いものだけが真実である。 ---ゲーテ
人生で大事でないものはない。 ----ジョン・ケージ
どんな場面でも、自分のリアクションや思考と感情の動きを観て「今」に在りましょう。 少なくとも、自分にリアクションを起こさせた人や物事に対して関心を払うのと同じくらい、 自分のリアクションにも関心を払うようにしたいものです。 ・・・・・・・すると自分の内面にあるパワフルな「なにか」を感じ始めるはずです。 思考の奥にある、じっとして動かない存在です。 ---エックハルト・トール
貴方の「自性に成る」努力はできない。 なぜなら、「貴方は自性」だからだ。 -----ニサルガダッタ・マハラジ
自分を愛するとは自分の意識を広げるという事です。 自分を大切にしたい人は、人を拒絶するのではなく受け入れていく事です。 あなたが今嫌いな人を受け入れるたびにあなたの意識は拡大します。 都合の悪い出来事を受け入れた時、あなたの意識が広がります。 ----津留晃一
人生に花が咲こうと咲くまいと 生きてるだけで花なんだ 生まれてきたことが花なんだ ----アントニオ猪木
幾千もの問いがあるだろう。しかし答は一つしかなく、その答とは貴方の「意識」だ。 それは答としてではなく、一つの体験として在る。突然、大いなる静寂が降り下る。 全てが落ちつき静まる。そして言葉によらず、知識によらず、そこには了解がある。 自分が我が家に帰り着き、もうどこへも行く所などないと悟るのだ。 ---OSHO
「自己の依り処は自己のみなり。よく調えられし自己こそは真の依り処なり」 (法句経)
「自らに帰依せよ,法に帰依せよ,他に帰依することなかれ」 (長阿含,遊行経)
仏道をならふというは自己をならふなり。 自己をならふといふは自己を忘るるなり。 自己を忘るるといふは万法に証せらるるなり。 万法に証せらるるといふは自己の身心および佗己の身心をして脱落せしむるなり (『正法眼蔵』現成公案)
禅の修行は現在を充実していくことである。 今日を見失わぬ、此処を見失わぬ、今を見失わぬ、自己を見失わぬというように、 全生活を一歩の浮き足なしに踏みしめて行くことである。 今、此処でたとえ息が切れても少しも悔いのない生活を見つめて行くことである。 ---澤木興道老師
悟りを求めず、迷いを払わず、八万四千の雑念が起滅しても、 起滅するに打ち任せて嫌わず追わず、鏡に影の映ると思い、一切を取り合わぬことが肝要である。 〜澤木興道老師の言葉より
遊びをせむとや生まれけむ 戯れせむとや生まれけむ 遊ぶ子供の声聞けば わが身さへこそ動(ゆる)がるれ (梁塵秘抄)
概念化の終焉は客観的知覚の終焉を意味する。つまり非客観的知覚ということだ。 それは選択や判断無しに宇宙を見ること、「主-客」関係に入り込む事なく見るという事だ。 すると何が起こるだろう。何も起こりはしない。 ただ、アナタは産まれる前からアナタであったという事、「全て」であったとという事だ。 ---ラメッシュ・バルセカー
あなた自身の光となるがいい。 --ゴータマ・ブッダ
内側以外、行く場所ナシ! --OSHO
それを探しなさい、そうすればエゴは消え失せ真我のみが残る。 --ラマナ・マハリシ
「私」の感覚が完全に消え失せる時、二元性はエクスタシーの中に消滅する。 -----ラメッシュ・バルセカー
ありありとして在る状態が自然な状態だ。 --ラマナ・マハリシ
思考が無いなら「小我」は無い。また「小我」が無いなら思考も欲望も恐怖も無い。 自己探求の意図と目的全体は、注意力を強烈に、たゆまず「大我」の感覚に向け、 偽物の詐欺師たる「小我」と、その自己同一化を非在として暴くことである。 --ラメッシュ・バルセカー
自己存在の真実を知らない限り、生の偉大な祝福に溢れることは絶対不可能だ。 存在している事の真の喜びに溢れる事は決してできない。 ---OSHO
誰も私には指一本触れさせないわ。それが私の仕事。私がそれをするの。 --バイロン・ケイティー
思考は湧き起こるもの。巻き込まれないようにするのではなく、思考全体を単に無視するのがコツだ。 ---ラメッシュ・バルセカー
どの原子も神のエッセンス。 ---ウイリアム・リケッツ
マインドが邪魔をするのは自然なプロセスであって、それは起こってしかるべきだと知ること、 その理解ソノモノが人を観照へと連れ戻す。 --ラメッシュ・バルセカー
これは無条件のサレンダー、アナタは何も所有することが許されない。それは最大のギフト。 --バートマン
解放は個人には関知しない、なぜならソレは個人からの自由だからだ。 --ジーン・クライン
マインドは言葉を持つが何も知らず、しかるにハートは全てを知っていて話すことができない。このミステリー・・・ --OSHO
手放し、観なさい。 --ガンガジ
ハートは二元性を超越する。ハートは物事をクリアーに見る。そして愛がその本質--訓練など要らない。 しかもこの愛には、対を成す憎しみが無い。 --OSHO
人間意識は「私」の進化だ。無意識の「私」、あるいは下位形態の「私」はマインドと同一化してしまっている。 その場合「私」は、心理的事柄との絡みにおいてしか自己を感じることがない。コレを忘却状態と呼ぶ。 「私」の進化の高位形態がステート・オブ・プレゼンス。そこで「私」は、自己認識の留意としてソレ自身を感じる。 --アジズ
第四の状態はステート・オブ・プレゼンス、つまり自己想起意識、マインドの中にある「私」のセンター。 --アジズ
あるいは今自由を選ぶこともできる。ソレであることを選べるのだ。たった今それは可能だ...そして今も...今も...今も。 これはスイッチを入れたらその後はエンライト、などというものではない。 毎日、毎瞬に成される選択--メロドラマではなく、自由を選択するということ。 ---アルジュナ
自分の本性を覗こうとする正にその努力が、ソレへの妨害である。 --ラメッシュ・バルセカー
じっと静かにしていなさい。 --ラマナ・マハリシ
あれこれ概念化しない場合にのみ、絶対存在の完璧な平和が見つかる。 --ラメッシュ・バルセカー
サットサンは博士号。最後の教え。どんな代償を支払おうが、自分の条件付けに従わないだけの用意がありますか。 --バートマン
伏義
神農
広成子
黄帝
葛洪
張広定
貪欲から求めてはならない。時が来れば分かる。求めずに分かることほど美しいものはない。 --アレキサンダー・スミット
我々は無限の存在。 いかに多くの断片が現れ、また消え失せようとも、なにものも、絶対になにものも我々の存在に痕を残すことはできない。 --アレキサンダー・スミット
私は誰にも属さない。私はどこにも属さない。しかし私はソノ中にいる。 --ウイリアム・リケッツ
正気は苦しまない、決して。 --バイロン・ケイティー
「了解」の夜明けが起こるとどうなるのか。アナタはもはやアナタではなくなる。 内なるサイレンスと自由の中に確固として在り続け、自分の幸福を心配することなく、 何であれ起こり来ることに満足して、生が完璧な無努力の中で続いて行く。 --ラメッシュ・バルセカー
この瞬間、宇宙の働きの中で起こることは何であれ受け入れねばならない。 それを拒否する事が人の苦しみ。 --ラメッシュ・バルセカー
いかなる状況下においても思考を発動してはならない。 ---パパジ
必要な変化は何であれ起こる。起こる事は何であれ起こらねばならない。 人が「する」べきは、疑いを持つのを止めること。それが真の信頼。 --ラメッシュ・バルセカー
より深いところとは 貴方がすでにいる所 より深いところが 貴方がいる所よりも深い どこか別の所だと思っているなら より深くへは行けません より深く行く秘密 それはどこへも行かないこと --ガンガジ
観照に外側を見せなさい。それが見るのは対象物だけだろう。観照に内側を見せなさい。 それは対象物ではなく、見ているソノモノを見るだろう。 --ラメッシュ・バルセカー
尾呂
命門
大椎
玉沈
百会
泥丸
印堂
人中
天突
鳩尾
知的レベルの問いには際限が無い。そうではなく、“問いを発しているソノ者”と供にいなさい。 アナタがやるべき事はそれだけ。実際、アナタに出来ることはそれ以外何もない。 もしソレができれば、常にアナタの注意の内にセルフを捕らえる事ができれば、 最終的にアナタは、探求者とはそれ自身の源を探している“意識”以外の何物でもなく、 探求者自身、探求であると同時に探求の対象でもあるということが分かるだろう。ソレがアナタだ。 --ラメッシュ・バルセカー
神がアナタを捜している。アナタはこの「意識」であり、そこには何の対象物もない --バートマン
楽しんで乗っていればいい。神が自らに目覚めつつある。 「意識」がひとりでに家路を辿っている。コレは究極の最後の旅... ---バートマン
唯一真の瞑想とは、生において起こる物事すべてを、宇宙意識の中の単なるムーブメントとして、 個人感情を交えず、常に見つめている事である。 --ラメッシュ・バルセカー
悟りとはマインドが完全に空っぽということ。ソレを得るためにアナタにできることは何一つない。 どんな努力も邪魔になるだけ。 --ラメッシュ・バルセカー
何であれアナタが知らない事は完璧だ。何であれアナタが知っている事はいかがわしい。 --ニッサルガダッタ・マハラジ
ここに思考がある。私はまだここにいる。思考と一体になり、私はまだここにいる。 思考に巻き込まれ、「こんなのイヤだ」という別の「思考=苦しみ」が起こるが、私はまだここにいる。 思考が去り、私はまだここにいる。ボトムライン・・・それでもまだ、私はここにいる。 ---スカイ
真我は強力で見えない磁石。私たちを徐々にそれ自身へと引きつける。 --ラマナ・マハリシ
誤った思考を回避したり、正しい思考を求めたりする必要は全くない。 何故なら思考は全て、勝手に湧いてきてコントロールも効かず、実体もないものだから。 それは受け入れたり拒絶したりせず、無視すべきもの。それが現れたと同じように、ひとりでに消え失せるように。 --ラメッシュ・バルセカー
無限のスペースにとっては有限の対象物など全く存在しない。 限界のない視点から見るとき(もしそれが視点ならばの話だが)、 思考は無く、思考する人も無く、覚醒状態や夢見の状態も無い。 無限の意識としてのアナタ、思考や認識の前に、最中に、後に在り、 従って限界の無いアナタを、如何なる創造物も束縛することはできない。 ちょうど風が空間を束縛することができないように。 ---アレキサンダー・スミット
アーテン
パーサ
ゲイリー
ヘレン
ケン
ビル
シャ-ロット
ジョン
クロード
ロイ
何であれ始まりあるものには終わりがある。永遠の中では、全てが今、ココで完璧だ。 ---ニッサルガダッタ・マハラジ
生において何が降り懸かろうとも、それを喜ぶ人のハートにのみ満足は宿る。 --ラメッシュ・バルセカー
アナタはコレだ。アナタはコレだ。アナタはコレだ。ウソをつくのはお止めなさい。 --バートマン
文明社会に暮らす人間が今日感じているフラストレーションの根本は、 彼が「今」に生きてはおらず、幻想の未来、単なる脳の創造物、記憶に基づく推論の中に生きている事実にある。 それはせいぜいのところ、無益な抽象概念でしかない。 ---ラメッシュ・バルセカー
時に始まりはないのよ。思考が始まるだけなの。 --バイロン・ケイティー
我々の分離した存在世界を構成している明白な差異は、本来有るものではなく、観ている者の眼中にしかないのである。 ---ラメッシュ・バルセカー
宇宙には三つの仕事しかないの。私、アナタ、そして神の仕事ね。 他人の仕事に心理的に関わると、自分がお留守になるのね。 しばらく自分の仕事に生きる練習をしたら分かるかもしれないわ。 自分には仕事なんか無かったんだってことがね。 ---バイロン・ケイティー
この宇宙全体は夢に過ぎないという信念が立ち上がってくるまでは、あらゆる放棄は無駄骨である。 そして感覚的享楽が充分に経験され、その本質的空虚さに気付くまで、そのような信念は立ち上がり得ない。 ---ラメッシュ・バルセカー
究極的に、私とは私の知る事のできる全て --バイロン・ケイティー
苦しみは世界で一番流行っている趣味だ。 --バートマン
む
ひと
ふた
み
よ
いつ
むゆ
なな
や
ここ
それホント?なぜホントだと分かるの? --バイロン・ケイティー
飛ぶべき空はただ一つ --OSHO
「私」とその欲望から解放されたマインドは、宇宙の静寂の鼓動と共に、無限のスペースへと自在に移動して行く。 --ラメッシュ・バルセカー
アナタの知識は全てゴミだ。 --OSHO
マインドをコントロールするとは、板ぎれで波を押さえ込もうとするようなもの。もっと厄介なことになるだけ。 --ラメッシュ・バルセカー
何であれ、この瞬間に起こる事は必要なこと --ラメッシュ・バルセカー
この奇妙且つ未知にして、厳として不可避なる「死」と呼ばれるものを理解するには、まず生を理解しなければならない。 見出すべきは、今の自分の何たるかということ。 ---ラメッシュ・バルセカー
真理とは、考える事無しに「ありのまま」に気付いている事にある。 --ラメッシュ・バルセカー
手放したいと望むことと「手放し」とは別もの。 「手放し」は手放したいと望んでいないとき初めて起こる。 --ラメッシュ・バルセカー
ひとたびウソをウソとして観たら、それ以上真実を探求する必要はない。 --ラメッシュ・バルセカー
アン
ジン
ミー
ピー
ジー
バー
ヤー
イン
ホォア
ディン
個としての自己認識を持つ事に気付いていない幼児には概念化する知性が無く、 従って瞬間瞬間、抵抗すること無しに、のびのびとした自由の中に生きている。 自己知に至った賢者もまた同じだ。彼はマインドを越えている。 ---ラメッシュ・バルセカー
至上意識とのコンタクトはマインドが断食している時にのみ起こる、 そのときは概念化のプロセスが完全に止んでいる。 マインドが飽食する時、リアリティーは消え失せ、マインドが断食するとき、リアリティーが現れる。 --ラメッシュ・バルセカー
我々は概念は理解する、しかし決して世界は理解しない。 --アレキサンダー・スミット
観るものと観られるものとの区別はマインドの中だけにあって、ハートに住まう者達にとって、その知覚は単一のものなのです。 --ラマナ・マハリシ
貴方は単に意識が通って機能している道具に過ぎない。 --ラメッシュ・バルセカー
ソレを探しなさい。そうすればエゴは消え失せ、真我のみが残る。 --ラマナ・マハリシ
欲望を捨て、ハッピーでいなさい。 --パパジ
みんなアルツハイマーよ。誰にも記憶なんて無いの。マインドは単に今立ち上がるだけなの。 --バイロン・ケイティー
もし肉体との同一視を諦め、トータリティーの感覚の中に静かに呑み込まれれていれば、その執着のない、 「私は在る」という感覚の中で、貴方は知るべきもの全てを知るだろう。 --ラメッシュ・バルセカー
サットサンとは貴方自身を指し示すこと、それが全てです。 自分で自分の持ち物の権利を要求するのです。 --バートマン
アン
ジン
ミー
ピー
ジー
バー
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イン
ホォア
ディン
連続した時間の中に生きること、将来への希望や恐怖と一体化した痛みや損失、 自責の念や悔恨の情と共に生きることが信じがたいほどの苦悩の重荷を創り出す。 我々はそれを「当たり前」な状態として受け入れているが、 それはただ分離した肉体存在としての見せかけの自己に余りにも慣れ親しんでいるからにすぎない。 この重荷の完全放棄が絶対自由なのである。 ---ラメッシュ・バルセカー
形は存続に依存している。存続無しに形はない。 それが般若心経に言う「色即是空、空即是色」 --ウエイ・ウー・ウエイ
貴方に出来ることは、ただ能力の限りを尽くして自分の役割を行うことのみ。 その結果は貴方の手の内にはない。 --ラメッシュ・バルセカー
顕現しているものは永遠に変わらぬ存在の変幻の様相にすぎない。 --ラメッシュ・バルセカー
平安は貴方の本性。 --ラマナ・マハリシ
いつでも、もし選択の余地があるようなら、自由を選びなさい。 --ガンガジ
人格は愛さない、何かを欲しがるだけ。 --バイロン・ケイティー
覚醒に於いては、基本的にそれが理解や献身的サレンダーを通して起ころうが、 行為している「私」無く為された善行を通して起ころうが、一つだけ共通するものがある。 その共通項とは、個的行為者の感覚が全く無い事である。「私」が無いのである。 ---ラメッシュ・バルセカー
ひとたびマインドが掴むことを止めれば、ひとたび達成したり何かに成ろうとする努力が無くなれば、 ひとたびエナジーが、もはや作戦や結果追求に投影されなくなれば、それは均衡状態へと帰還する。 そこでは全てが平安の内に留まり、エナジーは、あらゆる思考や知覚が来ては去り行く静寂なるアウエアネスへと向かう。 --ジーン・クライン
解放または覚醒とは、十全に、無条件に、何物も所有しないということ。 --アレキサンダー・スミット
961 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 06:18:16 ID:cvo+5rKK
2丁目2-5
あぼーん
あぼーん
あぼーん
965 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 06:22:24 ID:cvo+5rKK
mizcay@●●●
966 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 06:23:25 ID:cvo+5rKK
>3 >16〜949(ほぼ全て) 水上 恵(みずかみけい) age 楽しいので1000レス言ったら、場末のネットカフェで、次のスレ立てますね♪ 「日本産の大聖者・水上恵(みずかみけい←ヲヤヂ)について語る」なんてどうですか♪
967 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 06:24:28 ID:cvo+5rKK
968 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 06:25:30 ID:cvo+5rKK
あぼーん
ひと
ふた
み
よ
いつ
むゆ
なな
や
ここ
たり
人格とは一つの投影であり、記憶によって作り出され、欲望により育まれた習慣にすぎない。 --ジーン・クライン
最後の真実とは、最後の真実など理解する理解者が誰もいないという究極の理解のことである。 --ラメッシュ・バルセカー
静謐はこの瞬間への完璧な無抵抗の経験の中にのみ訪れる。 従って行為や非行為、その他考え得る如何なる理想化された行為に対する観念的、知的関わりとも、全く何の関係もない。 --ラメッシュ・バルセカー
この今という瞬間は永遠の瞬間。今意外に永遠はない。時の存在以前の... --ラメッシュ・バルセカー
“マインド- 知性”の性質とは、宇宙とその働きに関する知識獲得へ向け、それ自身を外側へ投射する事である。 しかし知識それ自体は、幻想的で非現実的なものにしかなり得ない。 そのような知識を追求したところで、“知る者”の偽りの自己感覚が継続し、いたずらに無意識を引き延ばすだけなのだ。 このプロセスを逆転し、探求を内側に向けない限り、人間の本質と宇宙の本質との発見は始まりさえしない。 ---ラメッシュ・バルセカー
985 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:32:34 ID:cvo+5rKK
貴方の注意をオープンにして、あたかもここに何もないかのようでいて、しかも醒めていなさい。 --バートマン
987 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:33:36 ID:cvo+5rKK
水上恵(みずかみけい)氏・ヲヤヂ この毎日はどうだった? 何時間モニターを見つめた? これで終わる訳はないんだよね? 1000踏んだら・・・分かるよね? また地獄の日々が繰り返すよ、最高だね♪
988 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:34:39 ID:cvo+5rKK
水上恵(みずかみけい)氏・ヲヤヂ 争いは見ていて楽しいので、次のスレッドでもがんばってください♪ また1分おきに書き込むんですよね? 二つのネット環境くらい使ってますよね? 私はもう水上恵様の弟子になりたいです♪ ネット廃神w
究極の真理の唯一の証明とは、ソレを知ることにあるのではなく(なぜならソレは知られざるものだから)ソレで在ることにある。 --ラメッシュ・バルセカー
990 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:35:50 ID:cvo+5rKK
なるせがおか にのにのご
無思考とはたとえ思考中であっても思考しないことである。 --パパジ
992 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:36:36 ID:cvo+5rKK
えすたしおんなるせ ななまるに
993 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:46:30 ID:cvo+5rKK
narusegaoka ninoninogo
994 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:48:49 ID:cvo+5rKK
esutasionnaruse nanamaruni
995 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:53:31 ID:cvo+5rKK
水上恵(みずかみけい)氏・ヲヤヂ 【ゲームオーバー】 スレ立て乙♪次スレで会いましょう♪ by 私怨メンバー一同+α
996 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:54:44 ID:cvo+5rKK
997 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 07:55:47 ID:cvo+5rKK
998 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 08:03:36 ID:cvo+5rKK
【水上恵(みずかみけい)氏・ヲヤヂ】
対人緊張や社会恐怖障害を理由に、職に就いていない状況が長く続いている、親殺しの超ニート。
領収書無しに世界中から脱税するプロの偽りのインド聖者カレスワーラのイニシエーションを受け、金儲け主義の阿部氏、脱税の共謀者の須藤氏を師と仰ぐ。
http://www.kaleshwar.org/ja/index 今だ創作好きの須藤氏の書き込みを真に受け、それを判断材料にしている
友達もいなくネット上でしか暗躍できない厨房。
シルディ・サイババのお試しに落ち、その信仰も捨てた。
水上恵氏(男)は結局何も世の役に立たず、
霊性貢献もせず、知識を腐らせ、無駄に老いて死んでいく♪
【ゲームオーバー】
┐(´∀`)┌
999 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 08:04:38 ID:cvo+5rKK
1000 :
癒されたい名無しさん :2010/12/03(金) 09:48:45 ID:l4jY0LMB
1000
1001 :
1001 :
Over 1000 Thread このスレッドは1000を超えました。 もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。