孤独であることは事実。でも孤独だからといって寂しいとは限らない。
寂しさのもまたつかの間。
孤独だからといって孤独感のなかに落ちることはない。
基本的に孤独であるべきでしょう。
俺も孤独です。
自分が感じたことや認識してることを開示すると、リアルでも、最初はなかなか
受け付けてもらえなかった。
しかるべきことが起きて、その後に、こっちを信じてくれても、もう遅い事態が
リアルでは多かったものです。
ネットであろうと、リアルであろうと、こういったことは難しい。
感受性の力があれば、客観的な共同幻想、とでもいうべき、シンクロがあるので
そういうひとたちとは、理解しあえる。
でも、人間的な分析を加えて、例えば、心理学的な、聞きかじりの知識で、それを
説明しようとしても、すべては、事後的なものであって、再発防止はできない。
レイキ・スレは、その警告的なものでしたが。
癒し板になると、そのカケラも伝わらない。
結局、俺自身も孤独ではあるのです。
大事なことは、清らかであること、清浄であることでしょうね。
どんなに誤解され、誹謗されても、そのあたりをキープしてれば、なんとかなる。
魔的なものは、ほっとくと自分で馬脚をあらわすものです。
もっとも手に負えないのは、いわゆる「憑依霊」が、付与した霊能や、幽体離脱
の能力です。
そういうのは、ウヨウヨいると感じます。
筋目というのは大事だと思います。伝統宗派の周辺とかには、その筋目はあること
がある。
密教でも、空海の正純密教と、それ以前のオカルトの雑部密教とは、かなり
違うと思います。例えば空海なくして、マトモな仏教とはなりえなかった。
古代、マントラなどを断片的に駆使して、人を煙に巻いた私度僧は、たくさん
いたはず。
その末裔のようなことをする、あるいは、その背後的影響を受けた、換骨奪胎
をはかり、霊的土壌を穢す連中は、ゴマンといます。
霊的な力や威力ではなく、ある種の筋目は大事だと思います。
自己流は最悪でしょう。
「あなた」が過去気づいたことは、とても大事なことであり、有意義な体験だったと
思います。
で、「憑依霊」が付与した系統は、怒り、憎しみ、皮肉に満ちています。
切れることなく憎悪が続く。
かつ、決して、正当な寺院や、僧侶とかかわりをもったりもしません。
師を求めることもしませんし、そういう人に着こうとしても、邪魔が生じる
でしょう。
ヱセ・ヒーラー、霊能者、花盛り。
これも、まぁ、現実であり、過去も底辺は、そのようにうごめいていたのです。
何も新しいものはない。
一度でも、ES〇やレイキなどにかかわりをもったことは、それ事態、憂慮すべき
ことであり、長期に渡って、大量の人間を伝授した人達は、懴悔すべきでしょう。
覇道静態ごときもそうでしょう。
そこへいくべき因縁があったということは、恥ずべきことです。
ですから、あなたの懴悔、苦悩は、それだけでもう救われているんだと思います。
親鸞の歎異抄は、宗教的なものの原型をもっているので、なかなか良いと思います。
弟がかつて言ったのですが、ES〇にからんで、よく無事に帰ったものだ、と。
それらの悪影響を脱するには、数年以上のものが必要でした。
あの種のものにたぶらかされると、GL〇や降伏の下顎、ES〇の指導員が寝返った
グッズ販売型のカルト。レイキ。こういうものに、親和性をもつようです。
長く残る宗教組織は、人間の原罪や、カルマ、業というマイナスのものを
しっかり見つめています。
そんなマイナスなことは考える必要はないんだ、プラス指向だけでいいんだと
いうところは、壁に突き当たり、頭がイカれたりします。
やはり、人間のもつ暗い面を、サラサラした静かな明るさをもって見ることが
できなければ、精神世界は修羅界でありつづけるでしょうね。
祈りとか、懴悔とか、気づいていない犯した罪の許しを請う、伝統宗教のコアな
部分は、人間という存在を良くみているな、と感じます。
結局、キリスト教でいう、原罪、仏教でいう業、因縁、こういうものを見たくない
から、ニューエイジや、インスタント伝授、釈迦が肉体をもって再誕したというよう
な愚かなものを信じたくなるのでしょう。
こういったものは、みなあだ花でしょうね。
孤独であるべきということを言いたいのではなく
孤独である、ということです。
共同幻想のシンクロを絶対視すると孤独を侵すことになりませんか。
共同幻想のシンクロは、絶対視は、しません。
資料として、捉えて、整理しなおすのです。
また、孤独である、という言葉の意味づけも難しいと言えば難しい。
ただ、無自性という仏教の言葉がありますが、孤独であっても、個人存在は
他との連関を消すことはできない。
意識的にやろうとしても、出来ない。
人間存在の底は、深海のようなところに繋がっているようにも思います。
その底流が、無意識部分を突き上げ、気の身体、経絡の上を気のエネルギー
として流れて、心身の不調を誘ったりもします。
領域、場は、この底流に作用するように思います。
ここを断ち切り、水流を変えるのは、並々ならない作業が必要だと思います。
意識への説得では、困難です。
それを自分で意識的に行うのが、懴悔であり、反省であり、そのための行だったり
するのでしょう。
意識への説得が不可能であり、蓋をしているのであれば、その存在が、周辺に
害を与えているのであるなら、ある種の実力行使は、必要です。
といっても呪詛したりするのではありませんが。
相手を言葉で引っ繰り返しては、さらに引っ繰り返し、深層にある部分を
揺さぶる。
こういうことは、気とかアストラル・エネルギーと、かかわることです。
このやり方次第で、気の領域場支配を、断ち切ることができなくもない。
禅の公案などは、こういった心理のメカニズム、あるいは、気の流れや
アストラル的な位相を、意識から、手を伸ばしていじる道具なのかもしれません。
ここでいう、「意識への説得」とは、他者へのものです。
人を傷つけて、迷惑を与え、また、自作自演の鬼となり、人の心を転がして
楽しむようにまでなってしまった邪悪な精神の悪影響から、第三者を守る
ためには、ある部分の実力行使は、やむを得ないと思います。
例えば、いじめから自殺する人達がいる。
これをいじめる人がいる。
堕ちるとこまで堕ちた、人をいじめても、いじめていることに気づかぬ腐敗
した魂は、とりあえずは、隔離しなければ、いじめられて自殺するひとを増やして
しまいます。
このいじめられた者に対して、ニューエイジのごとく、愛や調和だと言って
忍従を強いたのでは、この世は修羅界となってしまうでしょう。
事実、それに似たことが、ネットで起きていたわけです。
私は、ここと、スピリチュアル・ワールドの一個以外は、これまで書き込んでは
いませんので、念のため。
また、精神世界で癒されるから分離したかのようなスレッドにも、書き込んでいません。
そこを立てたのは、私ではありません。
>>442 > ただ、無自性という仏教の言葉がありますが、孤独であっても、個人存在は
> 他との連関を消すことはできない。
> 意識的にやろうとしても、出来ない。
もちろんです。そこは個人の聖域で他人が踏み込むことはできません。
同時にどんなに踏み込まれても荒らされるとは限らない。
底でつながっているからこそ踏み込まずにいられる。
それが信頼というものではないのですか。
底で繋がっている、踏み込む、とはいいますが、そこは、当事者以外の者が
影響力を与えている場所でもあります。
そこで、信頼そのものに齟齬が生じることもあります。
また、こちら洞察力、力量が足らないので、十分な信頼を得ることができなかったのです。
信頼「させる」ためのみならず、信頼「する」ためにも洞察や力量は相当に必要だった。
だけど見えなければ見えないまま飛ぶ選択もないことはない。
相手に飛躍を求めるより自分で飛ぶ方が確実だ。
その時にはもう「誰か、何かを頼んで」飛んだりはしないのではないか。
>また、こちら洞察力、力量が足らないので、十分な信頼を得ることができなかったのです。
>また、私のほうの洞察力、力量が足らないので、あなたから、十分な信頼を得ることができなかったのです。
訂正。