502 :
癒されたい名無しさん:2007/12/14(金) 14:12:35 ID:GbY2nQO7
泣けるかは分かりません、ただ私は泣きました、泣いてます。
私の両親は、いわば駆け落ち婚というものでした。
数年間の説得も上手くいかず、結果的に父は母を連れて飛び出していったのです。
しばらくの間は二人でお金を溜めて暮らそうと言ってる最中にできたのが私でした。
予定外の妊娠でも父と母は喜んで、第一子である私を育ててくれたのです。
私の誕生をきっかけにギクシャクしていた両家の祖父母とも仲直りをし、正月や
夏休みには顔を出すくらいにまで関係は回復していました。
そして次々と生まれる妹と弟、一人だけ流産してしまったものの、我が家は子供四人、
大人二人の六人家族として暮らしていました。
普通の家族です。喧嘩もすれば、一緒にはしゃいだりもする、極普通の家族です。
それが少し崩れてしまったのは、私が思春期に入り、そして同時反抗期やいじめなど
を経て、精神を病んでしまってからだと思います。
二度に渡る自殺未遂も、頻繁に起きるリストカットや突然の暴走を目の当たりにしても、
父も母も妹や弟たちも私を見捨てることはなく、毎日を過ごしていきました。
精神を病んでから八年、私は成人式を迎えました。
両家の祖父母も、父も母も、綺麗に育ってくれたと喜んでくれ、私自身も大喜びでした。
本当に幸せだったんです。
私が大学を中退しても、アルバイトで生計を立てていても、父も母も、家族全員で生きてきたんです。
今年は私の収入が思いのほか良いので、母の誕生日に何かを買おうと思っていたのに……
今日、母が亡くなりました。
甘えん坊な私になんだかんだ付き合ってくれた母は、もういません。
少し子供なところがある父を支えていたこの力強い母は、もういません。
専業主婦で、帰宅するといつでも「おかえり」と迎えてくれて、
出勤するときに「いってらっしゃい」と言ってくれる母は、もういません。
46歳の若さでこの世を去ってしまいました。
まだ、下の子たちの成人式だってあったのに。
結婚式だって、孫だって、まだまだ見せたいものはあったのに。
母は、もう、いません。
私は甘えん坊です。
泣きました、これからもきっと泣きます。
そして、この悲しみを文句として母に向けるのかもしれません。
毎日、毎日、仏壇に向かって文句を言います。
線香もって、母さんの好きな花を持って、毎日毎日、呆れるくらい文句を言います。
そして、ひとしきり文句を言ったら言ってやるんです。
「大好きだよ」って。
臭い話ですけれど、今さっき、そしてこれからの話です。
それでは、長文失礼しました。
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( / ⌒ヽ
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∪ / ノ
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∪∪
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旦那が浮気してでていっちゃった…
7ヶ月の娘と二人きり…
チュプな私…
どうしたらいいんだろ
505 :
癒されたい名無しさん:2007/12/18(火) 23:29:15 ID:b+n5+C1j
首吊りの絵ってなんなの?
泣ける話として感動したという意味ですか?
>>504 まず警察に捜索願いをだしてみたら?
その旦那には養育費を払う義務がある。
一度無料の法律相談所に行ってみるのもいいかも。
相手を見つけ出したら内容証明送って離婚裁判すればと思いますが
507 :
癒されたい名無しさん:2007/12/20(木) 02:55:00 ID:pgH8hYjc
720 おさかなくわえた名無しさん sage 2007/12/20(木) 14:53:13 ID:PaMInY1r
片道9キロの通学路(山あり谷あり、途中3km程は獣道)を小中9年間往復してた私。
低学年の頃は学校に着くまで2時間以上掛かってたが、中学にあがる頃には片道1時間弱で行き帰り出来るようになった。
最後の2年間は一緒に通う上級生がいなくなってしまい、女子1人での通学は危険ということで、飼い犬の佐助(大型の雑種犬)と一緒の通学が認められた。
佐助は学校に着くと職員室の南側につながれて、授業が終わるの静かに待つ賢い犬だった。
雨の日や冬の寒い日には職員室に入れてもらい、ボロ毛布の上で丸まって寝ていた。
授業が終わって佐助のところに行くと千切れんばかりに尻尾を振って私にしな垂れ掛かり、嫌というほど顔を舐めてくる。
佐助は行きも帰りも道先案内人のように、私の5メートルほど先を着かず離れず歩いた。
時折振り返り「ちゃんと付いて来てるかい?」と言いたげな目で私を見て、また黙々と歩く。
私が小学4年のとき家に来た秋田犬とシェパードの雑種。
佐助は、中学生になっても小柄で泣き虫のひ弱な私を「俺が守ってやらなきゃあかんべな」と思っていたに違いない。
高校進学で山奥の実家を離れ、県庁所在地で下宿生活。夏休みと正月に帰ると大喜びで迎えてくれた。
休みを終え下宿へ戻ると、私を探してキュンキュン泣いて4,5日は餌を食べなかったらしい。
その後、大学へ進学し都会へ就職。実家へ帰るのは正月だけになってしまったが、1年逢わなくても私を忘れず熱烈に歓迎してくれた佐助。
職場で知り合った人を連れ実家に結婚の挨拶に行ったのが私26の5月。
日がな1日寝ていることの多くなった15歳の佐助は老いていたが、私を見つけると起き上がり甘えた声を出して体を預けてきた。
後に夫となる彼を「お姉ちゃんの旦那さんになる人だよ。よろしくね、佐助」と紹介すると彼の顔を見て一声「ワン」と吠えた。
それから3日後、佐助が死んだと電話があった。佐助は実家の柿の木の下に眠っている。
509 :
癒されたい名無しさん:2007/12/22(土) 14:06:38 ID:w4C/RNpj
510 :
河北新報読者:2007/12/30(日) 11:34:23 ID:mFhAftt5
12月30日 朝刊12面「ティータイム」より抜粋、「M−1グランプリ」
クリスマス前日、すごいプレゼントが来た。まさかと思ったが、甥(おい)が
若手漫才日本一を競う「M−1グランプリ」で優勝したのだ。
「また準決勝で駄目だった」と毎年、がっかりしていた。小さい事務所だから力がないのか。
でも、東京に出て9年目。そろそろ“芽”が出てもいいころだった。
仙台で漫才をするときは、友達や相方のお母さんなどオバサンたちで追っ掛けをやっていた。
こんなにおもしろいのに、何でお笑い界では認めてくれないのだろうか。この正月も、
仕事がないみたいだから帰ってくるのかな?来たらお墓参りして、定義さんで油揚げを
食べよう。そんなことを考えていた。夏に一緒に定義に行ったときは、若い人から
「写真撮らせてください」と言われ、わたしと彼の母である妹はうれしくて涙ぐんでしまった。
知っている人は知っているんだ、良かった、良かった、と。
優勝の翌日、スポーツ各紙に「敗者復活から優勝へ!」の文字が躍っていた。
芸能ニュースでは、早速、仕事が15本も入ったと言っていた。やっと芸能人だね。
バイクをやめてタクシー移動になるとか。
前進、前進、 頑張れ!わたしの甥はお笑いの「サンドウィッチマン」。
これからも声援お願いします。
(仙台市青葉区・主婦 ※本名と年齢は新聞には掲載してありましたが省きます)
511 :
癒されたい名無しさん:2008/01/02(水) 05:35:10 ID:QltF6OMK
久しぶりに実家に帰っておばあちゃんに会った。
電車で2時間くらいのところに実家はあるんだけど
いろいろと揉め事の多い家だったので、それが嫌で家を出たのが15年前。
片手で足りるくらいしか帰省せず、しかも泊まるなんて事もしなかった。
だけど。今回お正月はどうしても帰って来いとの父からの連絡。
いつもは「何にも予定がなければ帰ってくればいい」ぐらいの言い方なのに。
変だなぁとは思ったけど、渋々。しかも大晦日に行くと言っておきながら
面倒くさくなってしまって元旦の夕方に帰った。
おばあちゃんが痴呆症だって事は電話で前から聞いていた。
でも、聞いた後におばあちゃん本人から携帯に電話があって
その時にはちゃんと話もかみあったし、繰り返しで話すこともないし
素人考えでそこまで症状が進んでるとは思ってなかった。
昨日実家に帰ったら父が「○○ちゃんが来たよ」って言ったら
「久しぶりだねぇ」って言ってくれたから(なぁんだ。そんなに深刻じゃないよw)
なんて思ってた。お年玉をあげたら、「まぁ〜!!」なんて言ってて
子供の時にたくさん貰ったんだからいいんだよ、お礼だよなんて言ったり。
お正月だから、明日は早起きしなくていいんだよなんて
他愛もない話をしてその日寝た。でも眠れなかった。モヤモヤして。
本当に今まで父から聞いていたボケがその日はわからなかったから
早起きして確かめようと思った。
長いんで分割
512の続き
朝5時wにガタガタ物音がしだしたので、リビングに行ってみた。
おばあちゃんが起きてリビングの隣の部屋で布団をたたもうとしてるので
「おはよう」と声をかけた。「おはようございます」と深々とお辞儀をしたのを見て
ちょっと違和感があった。
二人でコーヒーを飲みながら話をしてみた。
おばあちゃんのこどもの頃の話。
東京大空襲の話。
おばあちゃんがおじいちゃんと結婚した頃の話。
おばあちゃんのお父さんの話。
最近の父を含め自分の息子や娘の話。
おばあちゃん、楽しそうに話をしてたけど言ったんだ。
「正直者は損をする」って。
思った事をズバズバと昔から言うおばあちゃんではあったけど
それは敵を多く作るもとだってこの歳になって知ったって。
実際にデイサービスでもいろいろとあったらしい事は父から聞いていた。
「だから、初めて会った人にこんな風に楽しく思ってることおしゃべりできて
今日はすごく楽しい」って。
おばあちゃん。私の事、覚えてなかった。
その時に父が言ってたボケは本当なんだななんて実感した。
帰り際「また来るね」って言ったら「今日は本当に楽しかった」って言ってくれた。
あげたお年玉はお仏壇にちゃんと置いてあった。
お金をいつもどこかにしまいこんで
わかんなくなっちゃって困るって父は言ってたのに。
でもきっと今日会った事はおばあちゃんの記憶の中では
明日にはなくなってるんだろうなと。
1泊2日だったけどその様子を思い返したら帰りの電車の中で涙が出た。
周りに見えないように被ってた帽子をグッと深くした。
忘れられないようにもっとたくさん帰らなきゃって思った。
長文しかも
チラシの裏スマソ
514 :
癒されたい名無しさん:2008/01/07(月) 01:24:50 ID:sR2sm/C8
拙者が吉原のソープランドで体験したこと。
入店して待合室に通されると、オバサンが数人の客と話をしていた。
拙者は東スポを読みつつ聞き耳をたてていると、
全盲の息子が筆下ろしをしたいというので付き添いで来たらしい。
オバサン(以下母)は色々心配事を口にしていたが、
話し相手の客数人は「大丈夫」「心配しなくていいよ」となだめていた。
しばらくたって奥から白杖持った青年と姫が待合室にやってきた。
皮靴はピカピカで結構いい服を着ている。
この日のために揃えてあげたのだろう。
母はソファから飛び出して姫と軽く会釈をしたあと、
「どうだった?いいこと出来た?」
と訊ね、青年は
「うん。よかったよ。このお姉さんのおかげで」
と姫を指差した。
……が、指が別の方向を向いていたので、姫が素早く指した方向に移動。
母は顔をくしゃくしゃにして泣きながら
「あんたよかったね〜!!」
と背中を何度もさすっていた。
客も拍手したり「よかったなぁ」と激励していて、
今まで無口だった893風の客まで立ち上がって青年の肩をポンポン叩きながら
「あんたも一人前の男になったぞ」
と祝福していた。
姫も感動して泣いていた。
実に素晴らしい光景。
涙腺の弱い拙者は東スポで顔を隠しながら泣いた
515 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:48:39 ID:qTwoZygY
俺が消防の頃の話
同じクラスに黒田平一(仮名)、通称クロベーってヤツがいたんだ。
クロベーの家は母子家庭で母親とクロベーと弟の3人暮らしだった。
クロベーの一家は、親戚の家の離れに間借りして、風呂は母屋のを共同で使わせてもらっていた。
クロベーの母ちゃんは、その親戚の家業を手伝う形で生計を立て、
女手一つで一家を支えていていた、所謂、貧乏な家庭だったんだ。
制服のズボンとかも何年も同じのをはき続けてるから丈が短かったり、
体操着なんかも所々破れたりしてんだ。
しかもクロベーは軽く池沼気味で、ギリ普通のクラスって感じで体も小さく、
万年ハナタレで勉強やスポーツは大の苦手でだった。でも、すげーいいやつなんだ。
いつも笑顔を絶やさず、優しくてクロベーはクラスの人気者だったんだ。
そんで、クロベーは虐められることもなく、無事小学校を卒業し中学校へ進学した。
そして俺は、中学でもクロベーと同じクラスになったんだよ。
クロベーはスケッチが好きで、休憩時間になるとテラスに出て、
よく風景を写生してたんだが、クロベーの場合は太陽を写生したりするわけ。
目を細め、太陽を直視しつつ、すげー色使いで太陽だけをスケッチするんだよ。
すると、この様子を見た他の小学校出身の連中がクロベーを虐め始めたんだ。
虐めっつっても、暴力を振るったり無視したりするわけではなく、
クロベーの突飛な発言や行動をからかったりする程度だったんで
俺もそこまでは気にはしていなかった。
516 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:49:05 ID:qTwoZygY
そんなある日、授業参観の案内があったんだよ。クロベーの母ちゃん
は仕事が忙しく、消防の頃から殆ど学校行事に参加していなかっ
た。クロベーは運動会の時も、弟と二人教室で弁当を食べていたんだ。
ところが、親戚の粋な計らいで、今回はクロベーの母ちゃんが来るら
しい。クロベーは満面の笑みで俺たちに、そう報告した。
そして参観日当日、どこの親も、一張羅でめかし込んで来るわけ。
当然俺の母親もスーツで来てたんだよ。
そんな中、いよいよ授業が始まるって時にクロベーの母ちゃんがやっと登場。
仕事の最中に学校に寄った様子で、ピンクのジャージに紺のヤッケを羽織ってる。
急いで走って来たらしく首に掛けた手ぬぐいで額の汗をぬぐいながら、
場違いな雰囲気に遠慮がちに教室に入って来た。将に貧乏丸出しである。
でも、クロベーの顔を見ると、そりゃー嬉しそうにニコニコ笑って張り切ってたよ。
そんで、授業開始、その日は担任の女教師による日本地理の授業だったんだ。
程なくして、先生がこんな問いかけをした・・・
「北海道の旭川市は稚内と比べると南に位置するにも関わらず冬季
の気温が低いのはなぜか?」この中学生には難しい問いかけに一同
沈黙する中、なんとクロベーが「はい!!」と高らかに張り切って
手を上げたわけ。
普段からクロベーの突飛な回答に困惑していた先生も「しまった!!」
つー表情。先生は「では、黒田くん」と已む無くクロベーを指したんだ。
クロベーの回答は以下のようなものだった・・・
「稚内には牧場がいっぱいあって、牛がたくさんおって、その牛の息が
集まって空気が温くなります」と、言い放ったんだ。
517 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:49:31 ID:qTwoZygY
当然、保護者含め一同大爆笑。するとクロベーの母ちゃんが言った
「いいぞ平一!!」てな。
そんで次の瞬間、無言でクロベーのところにツカツカと寄って来て、
ハナタレだったクロベーの鼻水をチーンと手ぬぐいでぬぐったわけ。
笑い声は一気に静まり返り、一同呆然とする中、クロベーの母ちゃんは
何事もなかったような涼しい顔で教室の後ろへと戻った。
俺は、なんだか妙に感動して、胸がジーンと熱くなるような感情を覚えた。
けど、周りのやつらの反応は違ったね。
この一件は、クロベーの虐めを激化させる引き金となってしまったんだ。
「貧乏人」「不潔」に始まり、クロベーの母ちゃんを中傷するような酷い
言葉を浴びせ掛けられたんだ。
腕力に自信のあった俺と連れのHは、そのたびにクロベーを助け、
虐めている連中を一喝した。
しかし、俺たちの見てないところで虐めは更にエスカレートし、靴を隠したり、
筆箱に残飯を入れたり、無視したりと陰湿なものに移行していった。
しかし、クロベーは気にする様子もなく、淡々と笑顔ですごしていたよ。
518 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:49:53 ID:qTwoZygY
そんなある日、クラスで盗難事件が発生した。
ある女子生徒が、鞄の中に入れていた、現金の入った封筒を盗まれたと
騒ぎ出したんだ。
すると、クロベーを虐めてた連中の一人が「貧乏人の黒田に違いない」
と騒ぎ立てやがったわけ。
移動教室の時、おっとりしたクロベーはいつも最後まで教室に残ることが多く、
それが疑われる要因になったってこと。
俺とHは必死に「クロベーは人の物を盗んだりするようなヤツじゃない」
と訴えたが、生活指導の強面教師は、クロベー犯人説を真に受けて
クロベーを尋問しやがった。
身に憶えのない容疑に、クロベーは「知らない」と否定したが、
状況証拠のみでクロベーの尋問は続き、語彙の乏しいクロベーは、ただ
「知らない」と言い張るばかりで、生活指導の教師の心証を悪くしたようである。
そして下校時間を過ぎ、その日の取調べは一端終了し、クロベーは仮釈放となったんだ。
ところが次の日、あらぬ冤罪を掛けられた息子を弁護すべく、クロベーの
母ちゃんが職員室に乗り込んで来たんだよ。噂を聞きつけた俺とHは、
急いで職員室に様子を見に行ったんだ。
そしたら、クロベーの母ちゃんは嗚咽して、生活指導の教師にすがりつき、
泣きながら叫んでるんだ。
「あの子じゃありません!あの子は人の物を盗むような子じゃないんですっ!!」てな。
噂はあっと言う間に全校を駆け抜け、野次馬達が集まって来たんだ。
汚い格好で嗚咽するクロベーの母ちゃんを見て「あいつら共犯に違いない」
などと心ない噂が学校中を駆け抜け、クロベーに対するイジメや中傷は更に激化したわけ。
この事態にさすがのクロベーもシュンとした様子だった。俺とHは、
クロベーを励まし勇気づけ、更に冤罪を晴らすべく真犯人を探し聞き込みを開始したんだよ。
519 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:50:17 ID:qTwoZygY
しかし、なんの手がかりも掴めず、クロベーに容疑が掛かったまま一週間を過ぎたある日、
担任の先生から思わぬ報告があったんだ。
紛失した現金入り封筒が見つかったと・・・・
なんと紛失したと思われていた封筒。実は、その女子生徒の勘違いで鞄の奥にあったんだよ。
でもあまりに騒ぎが大きくなったんで今まで言い出せなかったが良心の呵責に苛まれ、
その子は、泣きながら担任に事の顛末を告白したんだ。
「黒田くん、疑いを掛けてごめんね」と担任から報告を聞き終えた瞬間、
Hのヤツが突然立ち上がり「うおっー!!」叫びながら走り出し、クロベーが犯人と最初に
疑いを掛けたヤツにいきなりドロップキックをブチかましたんだ。
続いて俺も立ち上がり、助走をつけて、そいつにラリアットをブチかましたんだよ。
まるで、ゴディ・ウイリアムズ組みてーな見事なコンビネーションでな。
続いて、その取り巻きのヤツら含め3人をボコボコにしてやったんだよ。
すると心の優しいクロベーは俺達を止めるべく「やめて!!」と割って入ってきて、
俺達は「おまえは悔しくないんか!!」とクロベーを払いのけ、更に連中をどつきまくったんだ。
そんで、俺達は駆けつけた生活指導の教師に取り押さえられたわけ。
当然、死ぬほど怒られたよ。俺達は何度も生活指導の教師にぶん殴られたんだ。
そんで親も呼び出されこっぴどく怒られた挙句、俺達がどついたヤツらの家を一軒一軒、
親と一緒に頭下げて回らさせられたんだ。
行く先々の家で俺たちは罵倒され、それでも親に無理やり頭を抑えつけられ俺たちは頭を下げた。
正義のヒーローのつもりが、自分の親にまで迷惑を掛けてしまい、俺はその理不尽さに
一人悔し泣きしたんだ。
520 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:50:44 ID:qTwoZygY
ようやく、ほとぼりも冷めたある日、クロベーが俺とHの所にやって来て、こう言った。
「今日うちの母ちゃんが二人にご馳走したいって、だから遊びにおいで」と言うんだ。
別に用事もなかった俺達は即座に了承したわけ。
そんで放課後、俺達はクロベーの家に行ったんだ。だが、まだお母さんは仕事から帰ってなくて、
家にはクロベーと弟しか居なかったんだ。
俺達は仕方なく、ファミコンはおろか、テレビすらないクロベーの家で母親の帰りを待ったんだよ。
いい加減に待ちくたびれた18:00を過ぎた頃、クロベーの母ちゃんが帰ってきた。
「みんな遅くなってごめんね、いまご馳走するからね」と手に下げた買い物袋をテーブルに置くと
エプロンを付け何やら料理を始めたわけ。
暫くすると「ぷーん」とカレーの匂いが漂って来た。
「やったカレーだ!!」クロベーの弟が嬉しそうに叫んだ。
程なくして、クロベーの母ちゃんが「おまたせ!!」と鍋に入れたカレーを持ってきたんだよ。
それと餃子も出て来たんだが、よほど好物だったのか、クロベーも弟も餃子に歓喜の声を上げたんだ。
俺達にとっては、ご馳走と言うには、ほど遠いメニューだったが、貧乏なクロベーの母ちゃんにしたら
精一杯のもてなしだったことだろう。
腹も減ってたんで俺達はとりあえず食べることにした。
カレーに肉はなく、刻んだ魚肉ソーセージと玉ねぎとジャガイモニンジン、そして、なぜかシイタケが
入っていたが、どうやらこれが黒田家のデフォルトらしい。
だが、味はうまかったので俺達は豪快にカレーを流し込んだんだよ。
そんで暫くするとクロベーの母ちゃんがスプーンを置き、静かに口を開いて俺達にこう言ったんだ。
「あんた達、平一を助けてくれてありがとう、これからも友達でいてね・・・」
そう言うと、声を上げて、うぉんうぉん泣き出したんだ。
俺もなんだか悲しくて、そして嬉しくって、涙が溢れて来て、声を上げて泣いたんだよ。
Hも釣られて、みんなでカレーの味も判らなくなるほど泣きじゃくったんだ。
一言もしゃべらず、ただカレーを食べながら声をしゃくりあげて泣いたんだ・・・・
クロベーだけは笑ってたな。
521 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 21:51:42 ID:qTwoZygY
そんで、それから中学校3年間、俺とHはクロベーを守ったんだ。
そして、卒業を迎え、俺とHは地元の高校に進学、クロベーは県外へ就職することになってたんだ。
俺とHはクロべーに別れの言葉を告げたんだ
「もう俺達は、おまえを守ってやれない、これからはお前が母ちゃんを守っていくんだ」
そうクロベーに言った「わかった」と力強い言葉がクロベーから返ってきたんだ。
その言葉に俺達は安心してクロベーと別れたんだ。
それから数年後、県外に落ち着いたクロベーは、母ちゃんと弟を呼び寄せ、
3人で一緒に暮らしはじめたんだ。あのクロベーが、なんと頼もしいことだろうか。
だが、俺の記憶はあんときのままだ・・・。
今も思い出すクロベーの屈託のない笑顔。あいつには幸せになる権利があるんだ。
あれから四半世紀が経ち、今は、俺も家族を持ち、子供を育てる父親となった。
俺は子育てで悩んだ時、いつもクロベーの母ちゃんの事を思い出す。
親ってのは、どんなにブサイクで恰好悪くても、子供の味方して守っていかなくちゃならないんだと・・・。
長文、駄文失礼しました。おわり・・・
522 :
癒されたい名無しさん:2008/01/11(金) 23:24:10 ID:gJw+Bg3E
いいやつだなぁ。
感動したよ…
523 :
癒されたい名無しさん:2008/01/13(日) 17:36:16 ID:7OtikvFQ
素直に感動した!貴方も幸せになる人だ
||
∧||∧
( / ⌒ヽ
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∪ / ノ
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∪∪
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-━━-
>>494 遅レスだけど、泣いた
すごく感動した
うちも小動物いるから。
幸せになってあげてね
526 :
癒されたい名無しさん:2008/01/14(月) 10:28:50 ID:ARf4H1T4
あ
527 :
癒されたい名無しさん:2008/01/14(月) 11:11:58 ID:nO4mb9d9
首つりAA貼ってる方へ
一年以上にもわたって貼つづけるその粘着気質に感服致します…m(_ _)m
528 :
癒されたい名無しさん:2008/01/15(火) 23:35:19 ID:HkjT/fKx
誰か 知的障害のある子を先生が居残りさせたりして勉強させ、卒業式にその子が皆のまえで御礼の文を読む コピペ持ってないでしょうか?
あったら貼り付けお願いします
529 :
癒されたい名無しさん:2008/01/18(金) 05:11:26 ID:HUU/AZys
530 :
癒されたい名無しさん:2008/01/19(土) 18:00:56 ID:LdjzghRL
>>528 小学生のとき、少し足し算、引き算の計算や、会話のテンポが少し遅いA君がいた。
でも、絵が上手な子だった。
彼は、よく空の絵を描いた。
抜けるような色遣いには、子供心に驚嘆した。
担任のN先生は算数の時間、解けないと分かっているのに答えをその子に聞く。
冷や汗をかきながら、指を使って、ええと・ええと・と答えを出そうとする姿を周りの子供は笑う。
N先生は答えが出るまで、しつこく何度も言わせた。
私はN先生が大嫌いだった。
クラスもいつしか代わり、私たちが小学6年生になる前、N先生は違う学校へ転任することになったので、
全校集会で先生のお別れ会をやることになった。
生徒代表でお別れの言葉を言う人が必要になった。
先生に一番世話をやかせたのだから、A君が言え、と言い出したお馬鹿さんがいた。
お別れ会で一人立たされて、どもる姿を期待したのだ。
私は、A君の言葉を忘れない。
「ぼくを、普通の子と一緒に勉強させてくれて、ありがとうございました」
A君の感謝の言葉は10分以上にも及ぶ。
水彩絵の具の色の使い方を教えてくれたこと。
放課後つきっきりでそろばんを勉強させてくれたこと。
その間、おしゃべりをする子供はいませんでした。
N先生がぶるぶる震えながら、嗚咽をくいしばる声が、体育館に響いただけでした。
531 :
癒されたい名無しさん:2008/01/20(日) 10:02:14 ID:/MS8ptGG
532 :
癒されたい名無しさん:2008/01/21(月) 14:25:23 ID:CWzAPXKV
225 :名無しさん@毎日が日曜日:2007/09/30(日) 18:58:26 ID:JJVlpPF4
ヌッ殺したい程大嫌いな社員から要らないから帰れといわれたから
調理長に「○○(嫌いな社員の名前)さんが帰れといったので帰りますと」言って
タイムカード押して急いで帰ろうとしたら調理長に捕まって更衣室に閉じ込められた。
もちろんものすごい剣幕でガミガミとぼろ糞に叱られた。
俺はもう今日限りで辞めますといったけど辞めさせてくれなかった。
何があったのか詳細を書けといわれて紙と筆記用具を渡されて調理長は更衣室を
離れた。
急いで制服から私服に着替えて更衣室を出るとき誰も見ていないのを確認して
バックレに成功した。
226 :名無しさん@毎日が日曜日:2007/09/30(日) 19:17:44 ID:YaF+5pNg
よくやったな。
お前は漢だ
227 :名無しさん@毎日が日曜日:2007/09/30(日) 19:37:31 ID:JJVlpPF4
>>226 ありがとう。
20日分の給料は手渡しのバイト先だったけど振込みにしてもらうように連絡済。
533 :
癒されたい名無しさん:2008/01/21(月) 18:33:03 ID:5WoWtr/B
私は、5才の頃から両親がいなく、身内と言えば2才下の弟だけでした
弟は、重度の脳性麻で歩けるのですが一切話しができませんでした
私が12才になるまで、弟と同じ施設で暮し私も弟の面倒を見ていました
施設や学校で弟の障害の事や親がいない事で、毎日虐めにあい
私は、心を閉ざし中学生になって不良グループに入り何時の間にかに
喧嘩や窃盗や強盗と悪事を働く事がヘにも思わなくなってました
中学2年で少年院に入り17才まで、少年院にいました。
少年院を出て、街であても無くチンピラ生活をしている時です
あるヤクザの親分と知り合いになりそれからは、親分の所に行くようになりました。
親分は、私を大切にしてくれたのです。
私のそでまでの人生にわありませんでした
私は、今思うとささいな事でも服を一緒に買いに行ったり食事をしたり
が、嬉しくて 嬉しくてしかたがありませんでした
兄貴」組員達も私を文句言いながら可愛がってくれました
私が22才の頃に 親分が酒の席で揉めて殺されたのです
私はね悲しくて悲しくて 親分の仇打ちに行き
懲役10年でした 懲役7年目の夏に
身内以外か特別いがいわできない初めての面会がありました
その面会は、弟の死報でした
弟が亡くなる数日前にお兄ちゃんと涙を流し
生まれて初めて話したそうです
今 私は、弟が最後まで暮していた施設の仕事をしています
534 :
癒されたい名無しさん:2008/01/22(火) 00:11:15 ID:Ml0hFanx
泣けた
抜けた
536 :
癒されたい名無しさん:2008/01/25(金) 00:14:12 ID:SUjgerBf
私の生涯忘れられない思い出話
私は、中学生の頃から、付合ってわ別れまた付き合うのくりかいしで
そのうち18才になり彼女と同棲するようになりました。
彼女の家は、父1人の家庭で私は、マスオさんです
親父さんは、酒飲みの良い親父で私は、血が繋がってないが
本当の親父見たいに文句を言ったり 好き放題にしていました。
そのうちに 彼女は、私の子供を授かり
親父さも出産予定日をカレンダーにつけて心待ちしてました。
それから数ケ月経ち赤ちゃんが生れ男の子です
名前は、雄太 私共は、雄太が可愛くて可愛くて
毎日 仕事から戻ると雄太の元へ飛んで行くのです
それから2年が過ぎ雄太は、ヨチヨチ歩きが出来るようになりました
女房は、何時ものように公園に雄太を遊びに連れていき
奥さん中間と話しь桙ノ起こりました 雄太が転んでジャングルジムの
基礎に頭をぶつけ 何日も意識が無いまま亡くなりました。
悲しくて 悲しくてただしたすら女房と泣く毎日でした
私も仕事に復帰し悲しいが、頑張る事にしました。
ある日10年前の今日です女房が死んだ
公園の横の歩道橋から身を投げました
親父さんまた自分を忘れる位に2人で酔いつぶれましょ・・・
日本語で構わない
>486
私も前にウサギを飼っていて思い出して泣きました。
小学生の頃、ボロくて狭いアパートに家族4人で住んでいたんだけど、両親の仲が悪くて毎日激しく喧嘩している状態でした。
でも、部屋が狭く2部屋しかないのでいつも目の前で親の喧嘩を見ているしかなく辛い毎日でした。
喧嘩が始まると、よくウサギをかかえて隣の部屋に避難していました。
あの頃は母親が私によくやつあたりもしてきたし、低学年だった私は本当に辛かった。
でもウサギのおかげで我慢できた。
本当にありがとう。
539 :
癒されたい名無しさん:2008/01/27(日) 01:30:31 ID:cZM/49DV
先日まで原因不明の精神病(?)にかかってしまったときの体験談です。長々しいですが、なんとか見てください。
その精神病の症状としては、何か大きな悩み事があるわけでもないのに、突然全ての物事に対するやる気、気力がなくなる、何もしたくない状態になるというものです。
この病気に襲われてからの2日間を綴ったものです。
とんでもなく長いので1日目、2日目に分けて書き込みます。
540 :
癒されたい名無しさん:2008/01/27(日) 01:31:54 ID:cZM/49DV
1日目。
学校にいる途中から急激に症状が出始め、先生にも「何もやる気が沸きません…」と言って放置してもらうことに。
みんな「大丈夫か?」って声をかけてくれるけど、全てのことがめんどうな自分だったから、それに返答するのも結構めんどくさかった。何より、周りに心配や迷惑をかけてしまうことが嫌だった。だけどどうしようもなかった。
まずそこで泣きそうになった。だけど人前だから泣けなかった。涙を拭くのも面倒だったから、ひたすら我慢した。
4時間目、出席番号順で並んでいたので、終了後に前の席の女子に「誰か給食当番代理頼んで」と依頼した。普段は自分が面倒くさいと感じたら何もやらない、我の道を行く人だったのに、快く承諾してくれた。
早速、いろんな人に頼みに行ってくれた。その女子も給食当番で、牛乳を運んで配るときに、「早く元気出せよ」って牛乳を頬にくっつけてきた。
そこでまた泣きそうになった。真の優しさを見た瞬間だった。感謝の気持ちでいっぱいだった。
給食は食べれなかった。食べる気が起こらなかった。その後先生から「今日はもう帰り」と言われた。
保健室が空いていなかったので、職員室で待機になった。先生の会話を聞くと、向こうは完全に風邪か病気だと思い込んでいた。
違う、そんなんじゃない。
だけど、事情を説明するのもできなかった。衰弱した声じゃ聞こえるわけないだろうし、聞き返されるだろうから会話が長引くだろうと思った。そう考えると余計に会話する気が失せた。
分かってもらえないのと、それを説明できない悔しさでまた泣きそうになった。
家に帰って号泣した。たまった分だけ泣いた。だけど涙もふけないままだった。これ以上動こうと思わなかった。
オカンに前回と同じ症状だということを告げた。「どんなちっちゃいことでもええ。なんか悩みあるとしたら言ってみ」と言われた。頑張って見つかった悩みを打ち明けた。自分でもどっちかと言えば自分が悪いことだと分かっていた。オカンは思ってたとおりの言葉をくれた。
そしたらまた泣きそうになった。少し心がスッキリした。自分に言い聞かせても効果はなかったのに、人から言われると「自分ってアカンかったんやな」って思った。
やっとの思いで2階の自室に行った。そのままベッドに倒れこんだ。そしたらその日のことが全部よみがえってきて、また号泣した。
そのまま寝ていた。電気がついていたのが原因だったのか、3時間ごとに起きた。夜中の3時、電気を消した。その後は朝までぐっすりだった。結局その日は元気だった頃朝食を食べた以来何も口にしていなかった。
541 :
癒されたい名無しさん:2008/01/27(日) 01:35:12 ID:cZM/49DV
2日目。
オカンに起された。今の時期休むのは痛手になるから学校には行けと言われた。脱水症状になるからって、強制的にお茶を飲まされた。
だけど正直学校に行きたくなかった。みんなには会いたいけど、行っても何もできないし、逆に周りに心配とか迷惑かけるから行く気がなかった。
でも、学校には相談室というのがあって、出席の扱いにはなるけど、教室に行かずに過ごせる場所があった。そこに行くことにした。
オカンに車で送ってもらった。朝の会が始まっている時間だったから職員室には担任がいなかった。だけど、近くに数学の先生がいたから、オカンが事情を説明して相談室に行くことになった。
先生が顔を見たとき、「どうしたんや、昨日より悪なっとるぞ」って言ってくれた。相談室に入ったとき、何も干渉しようとせず、「今日は寒いでな、ストーブに当たってここに座っとけよ」とだけ言ってストーブをつけて出ていった。
先生が気を遣ってくれたことに泣きそうになった。数学の先生があんなにかっこよく見えたのは初めてだった。
その後担任がきた。「もう今日はボーッとしとっていいよ」と言ってくれた。後ろにカウンセリングの先生もいて、「今日はこの先生(カウンセリングの先生)がずっと図書室におる(いる)で、回復したら図書室行って遊んでもらい」と言われた。とりあえず頷いた。
そのまま独りになった。しばらく椅子の上で何もしなかった。ただ、時間が過ぎるのを待った。
1時間ぐらいしてから、「自分ひとりのためにストーブをつけておくのはもったいない」と思ってストーブを消した。それからまたしばらく時間が経って、ずっと座っていたから腰が痛くなってきた。近くに椅子が3つ連なっていたところがあったからその上で寝転がった。
かといって寝ることができなかった。寒さと空腹に襲われた。だけど寒さは自分が選んだことだから耐えた。
しばらくしたら数学の先生が来てくれた。昨日提出したワークを持ってきて、「これでもやるかと思った」って言った。ストーブを切ったことを説明したら、そのまま立ち去った。
空腹と寒さが限界に達した。全身に震えが襲い、手と足の色が紫色に変色していた。これはさすがにヤバイ、と思ってストーブをつけてまた椅子に戻った。
ストーブの暖かさが全て幸せとなった。いつの間にか少しの間だけ寝ていた。
起きると、だいぶ気分がスッキリした。多少の回復はした。といっても、まだボーッとしているし、気力もそんなにわかない。ただ、歩くスピード、力が少し回復していた。鞄も一人で持てるようになった。
声にはならない、空気だけの独り言も呟けるようになった。気付けば、その回復をするまでに呟いた言葉は「寒い」と「四日市(のおばあちゃんの家)に行きたい」の二つだけだった。
図書室に行こうと思ったけど、人前には出れなかったので休み時間が終わるまで待とうと思った。そしたら担任が来た。
多少の回復はしたこと、今から図書室に行こうと思っていたことを話した。「どうしてこうなったの?」と言われたが返答できなかった。自分でも分からなかったから。その通りに言った。「まぁ、体は正直なんやわ」と言われた。
そして、ストーブの電源を消してから行ってね、とだけ言われてまた独りになった。
542 :
癒されたい名無しさん:2008/01/27(日) 01:37:40 ID:cZM/49DV
丁度休み時間が終わる時間になった。気持ちとしてはもうちょっと待って、完全に人目から離れれるようになってからがよかったけど、またこのまま動かないとそのままやる気がなくなるだろうから行くことにした。
行く途中の道に職員室を横切らければならなかった。社会の先生の後ろ姿があった。けど、そのまま気付かれなかった。でもよかった。授業こそは出られなかったものの、姿を見ることができた。
その後、丁度理科の先生が出てきたタイミングと重なった。
先生は顔を見るなり、「おはよう。大丈夫?元気出して!」と声をかけてくれた。
たったこれだけの言葉だったけど、すごい感動した。また泣きそうになった。
階段を上ると、遠くから移動教室に向かうクラスが見えた。急いで相談室に戻った。そこでまた号泣した。
落ち着いてから再び図書室に向かった。
図書室には、部活の後輩がいた。前日からスキー研修があったけど、その日に風邪で欠席してしまったため今日は図書室で自習らしかった。
「先輩、どうしたんですか?」って言われたから全部の事情を話した。親しい人に会ったときの心の安らぎがあった。「先輩がそんなに元気ないの初めて見ました」って言われた。やっぱり人からみても明らかにおかしかった。
その後は先生たちと会話した。12時になったから後輩が帰った。カウンセリングの先生も出張らしいので帰った。
それから、本を読んだり、図書の先生の話を聞いたりした。何気ない世間話のようなものだった。
給食の時間が来た。図書の先生と一緒に相談室で給食を食べることにした。クラスの学級委員の女子が届けてきてくれた。「大丈夫か?」とは言わず、元気付けようと「いっぱい食べてよ、私もたんまり食べるで」と言ってくれた。
また泣きそうになった。気を遣ってくれたことが嬉しかった。
そのまま給食を食べた。まだ動作は遅かったし、久々の食事であまり胃が受け付けなかったので結局残してしまった。片付けは先生がしてくれた。
その後もずっと図書室にいることになった。給食後、移動していたら同じ班の男子とストーブ係の男子を見た。相手は気付かなかったけど、こっちとしては姿を見れただけでもメチャクチャ嬉しかった。
図書室に入ると、今日は先生の教科研究会みたいなもので特別日課だったのに、昼休みがあると思い込んできていた生徒がいた。そこでまた友達二人に会えた。
一人はもともと無口な人だったから何も言わなかったし、もう一人は「どうしたの?」って声をかけてくれたものの、「ちょっといろいろ…」って言っただけでそれ以上何も言わなかった。
皆が気を察してそれ以上干渉しないようにしてくれたことが嬉しかった。
その後は給食前と同じことをしていた。そしたらみんなの帰宅時間が来た。
下校時刻が少し過ぎて、担任が来て、もうほとんど人がいないという情報をくれたので、教室に行って予定書いてプリント持って帰った。
給食当番のエプロンはなぜか昨日予定届けてくれた友達が持って帰ったらしかった。家までの道のりにその人の家があったけど、そこを通り過ぎるとき、丁度出てきた。この日はその人の誕生日だった。「お前どうしたんや、大丈夫か?」って言ってくれた。
「ありがとう、何とか大丈夫。誕生日おめでと」と返事をした。
最後に泣きそうになった。少しだけどもう回復しているから涙もろいのもないだろうと思っていた。でも違っていた。誕生日という記念すべき日に、あんな軽いお祝いしかしてあげられなかった。ゴメン、それしか頭の中に残らなかった。
帰ってオカンに今日のことを報告した。担任からも電話報告がきていたらしかった。「お腹空いたやろ。何食べたい?」と言ってくれた。
「炊きたてご飯で作った塩おにぎりが食べたい。でもそれより早くお風呂に入りたい」と言った。じゃぁおばあちゃんの家行って風呂入ってき、と言われた。
お風呂に入ってスッキリした。でも、完全回復はしていなかったから、いつもに増してのぼせやすかった。途中でのぼせて意識が朦朧とした。でもこらえた。
家に帰ったら、オカンが「これ食べ」と言ってくれた。
温かい、塩おにぎりだった。
543 :
539〜542:2008/01/27(日) 02:07:45 ID:cZM/49DV
<補足>
540
『オカンに〜』の文中の「前回」というのは、数年前にも一度同じ症状があったときのことです。
541
『しばらくしたら、数学の〜』の文中の「昨日提出したワーク」は、元気だったときに提出したものです。
541
「鞄も一人で持てるようになった」は、それまで自力で鞄が持てないほど力がなかったからです。
541
『気付けば〜』の文中の「四日市(のおばあちゃんの家)」というのは、母の実家のことです。
542
『じゃぁおばあちゃんの家行って風呂入ってき』は、父の実家が風呂屋を経営しているため言われた言葉です。
自分は厨房です。
厨房のくせにこんな長々長々とした文書いてスイマセンorz
544 :
癒されたい名無しさん:2008/02/07(木) 12:43:49 ID:ebnbFK4W
5歳の年だったでしょうか、ある日「お父さん」が出来ました。それまで知らない土地で母以外の大人を初めて見ました。
喜んで懐く弟達とは逆で私は「お父さん」を受け入れられずそんな気持ちのまま高校生になりました。
所が、あんなに「おとうさん!!」と懐いていた下の弟。年頃になって反抗ばかり。
何かにつけて「あいつは本当の父親じゃないくせに…」と言うようになっていました。
そしてあの日、弟は言ってしまいました。
夕飯の最中。大した事ではないけれど揉めた「お父さん」と弟。
「本当の親父でもないくせにうるせえんだよ!!」
…。その時父は静に「ご飯が冷めるから食べなさい」
とだけ言って黙々と食事をしていました。
その後夕飯の後片付けをしていた時に母が急に
「あんた覚えてる?魚の骨。」
「え…??」
「やっぱり(笑)あんたと○○(上記の弟)は小さい時魚食べられなかったのよ。「お魚は骨あって嫌だ!」って泣いてたの。」
母に聞いたところその時父がすぐに泣いてた私のところに来て
「お魚の骨取ってあげるからご飯食べようね」って
連れて行ってくれたそうです。
大きい骨、小さい骨はピンセットで。。。
お魚の出る日は仕事から帰ってきて必ずピンセットを持って台所に行っていた。
何してるんだろうとは思っていたけれど…
その時によく父はこう言ってたそうです。
「俺はあの子達の本当のお父さんではない。
だからこんな魚の骨を取ったりそんな事くらいしか 出来ない。でもこれはすごく幸せなんだ。
子供達がこの魚を食べる姿が見られるんだから。」
聞いた後涙が止まりませんでした。
そのすぐ後弟は少年院に入りました。
後輩をかばって罪を全部背負って…。
卒院が決まったその時も父は真っ先に
「迎えに行こう。」と言いました。
私と弟は今でもお魚が大好きです。
でもお父さんはもっと大好きです。
自分は以前の仕事で全国の学校関係を回っていた。
毎年行く学校はその年の2年生の放送部が企画進行、
校内放送向けのインタビューなどを行うのが恒例だった。
学生だからたどたどしい段取りではあったが、ともかく生徒の直向さが伝わりいつも気持ちが良かった。
その年もいつものように放送部の一人の女の子が一生懸命頑張っていた。
悩んだり、困ったり、半泣きになったり、テンパッタりしながら何とか終了。
同時に満面の笑顔を僕らに向けていた。
「お疲れさま」「ありがとうございました」
「来年はゆっくり楽しめるね」「今の一年生の頑張りを応援します」
涙目だけど笑顔で手を振ってくれる彼女が小さくなるまで車から見ていた。
一年後、学校に行き毎年の行事を眺めていた僕はふと去年いた女の子がその場にいないことに気づいた
担当の先生に「あの去年の○○さんは今日はお休み?」
「・・・・実はあれからすぐ○○病にかかって、半年後に・・・」
僕は愕然とした。決して彼女に特別な思いがあったわけではない。
その純粋そうな笑顔の子があれから大変な目にあっていたことが
ごく平凡な人生を相変わらず送っていた自分から見て信じられなかった。
彼女は父子家庭で、苦しんでる自分の病室にずっとついてくれてるお父さんに
「もういいよ、お父さん、つかれたでしょ・・・ 」それが彼女の最後の言葉だった。
誰が10代の時に自分の命がすぐ終わる事を考えるだろうか。
彼女は未来だけを夢見ていた筈なのに・・・
素敵な恋愛はできただろうか、楽しい思い出を作れただろうか
彼女が死ぬ間際に僕を思い出したことは絶対ないだろうけど
彼女の楽しい思い出の中に僕が作り出してきたあの日の事が少しでもあれば
僕も彼女の人生に役立ったと思いたい
毎年その日になると彼女の事を思い出す。
だらしない高校生を見かけると、彼女を思いせつなくなる。
乱文ですまん
547 :
おばあさんの願い:2008/02/13(水) 17:36:28 ID:NwwcEfFj
海沿いに住むおばあさんの家に突然、悪魔がやってきました。
「やい、ばあさん。俺様は悪魔だ。イジワルしに来たぞ。
ばあさんの願いごとは何だ。その反対の事をしてやる。」
「いえいえ、もう年寄りですからね。願いごとなんてないよ。
ただ、早く春が来て、暖かくなって欲しいねぇ。」
悪魔は、おばあさんの家に大雪を降らせました。
おばあさんの家に、また悪魔がやってきました。
「やい、ばあさん。ばあさんの願いごとは何だ。」
「もう年寄りですからね。願いごとなんてないよ。」
「何かないのか。お金が欲しいとか、大きな家に住みたいとか。」
「そんなものいりませんよ。あっても困るだけだよ。」
「そうか、ばあさんは普通の人間と違うな。」
悪魔は、おばあさんの家を大きくし、たくさんのお金を置いてイジワルをしました。
おばあさんの家に、また悪魔がやってきました。
「やい、ばあさん。ばあさんはなぜ一人で住んでるんだ?」
「一人息子は医者でね、戦争をしている海の向こうの国で、
たくさんの命を助けてるんだよ。
私は、ここで息子が帰ってくるのを待っているんだよ。」
「ばあさん、淋しくないのか。」
「あんたが、たまにこうやって来てくれるから、楽しいよ。」
悪魔は当分の間、ここに来ることが出来なくなりました。
おばあさんの家に、久しぶりに悪魔がやってきました。
おばあさんは、ベッドで安らかに眠っていました。
テーブルの上には、おばあさんの息子が戦争に巻き込まれ、
亡くなった事を知らせる手紙がありました。
悪魔は、海の向こうの国に飛んでいきました。
「この国には、戦争をやりたい人間がたくさんいるようだな!
俺様がイジワルして、戦争を止めさせてやる!!」
小学生の時いじめられてた。
両親が厳しい人だったので言えなかった。
いじめは暴力にエスカレートし顔に痣が出来た。
いよいよばれた。
母親に打たれ全部吐いた。
次の日母親と一緒に学校へ行った。
母親は泣きながら担任に話しをしてくれた。
厳しかった母親の涙を初めて見た。
愛情を感じた。
両親の子供で良かったと初めて思った。
当時は泣けなかったが今思い出すと泣けるな。
お母さんありがとう。
スレ違いですが友人の話を、
今から数年前の夏、家に電話がかかってきました。
母「○○・・・。××ちゃんのお母さん・・・亡くなったって・・・」
私「え・・・」
××は私の親友で、よく漫画やゲームの話をしていました。
家に遊びに行ったこともあります。
優しいお母さんでした。
お葬式の日、クラスメート達に混じってご焼香をしてきました。
親族席に座っていた××は涙をこらえ、弟さんの涙を拭いてあげていました。
私の家は結構大きいところで、よくお葬式に行っていました。
祖母のお葬式でも泣いた事の無い私が、初めて人のお葬式で泣きました。
××とは小学校で別れ、私は付属の私立に、
××は名門の私立に入りました。
そんな××は去年の暮れ、自殺しました。
今や中高生の自殺など珍しくも無く、
テレビや新聞では全く取り上げられませんでした。
11月にうちの学園祭があり、そこで会ったばかりだったのに
笑って見せていたのに、
彼女はあっさり逝きました。
××のお葬式では××の祖母と祖父お父さんと弟さんが泣いておりました。
××祖母「○○さんですか・・・?」
私「はい、お久しぶりです」
××祖母「わざわざ孫のために遠くまで有難うねぇ・・・」
私「いえ・・・友達ですし・・・」
祖母「ほんにもう・・・あの子は・・・こんないいお友達を
持っているのに・・・」
私は誇れたものではない。いい友達でもない
私は学園祭で聞いたのだ。「つらくない?何かあったら力になるよ」と
××は笑って「大丈夫だよ○○は心配性だなぁ」と言っていました。
あそこでなぜ異変に気が付かなかったのか。今でも後悔している
私「すみません・・・学園祭で会ったのに・・・何も・・
してあげられなくて・・・」
気が付いたら泣いていました。
××祖母「なんで○○さんが謝るのあなたは何も悪くないのに」
家に帰ってから写真を見ました。二人で撮った。笑った写真。
写真の裏にはこう書いてありました。
「□月□日○○と、△△で、二人は何時までも親友!」
読んだ瞬間に、涙がこぼれ、声を上げて泣きました。
返してくれ、私の親友を返してくれと
悪魔に魂を売ってもいいと言うくらいに、
それから落ち着いた今、
もうすぐ××のお母さんの墓参りに行こうと思っています。
××には死んだところに花を落としてやろうと考えています。
海の見える素敵なビルの屋上。
この景色を死んだ親友が教えてくれたことはだれもしりません。
私と××の、最後の秘密です。
待ってろよ××。まだまだ先だけど、そっちに行ったら
トムとジェリー並の追いかけっこをしてやるよ。
それからゆっくり、漫画とゲームの話をしよう
憎まれっ子世に憚るってね。お前の分まで生きてやるよ。
お目汚し失礼しました。
皆さんも頑張って生きてください。
551 :
癒されたい名無しさん:2008/03/02(日) 00:30:41 ID:ypru2ejC
涙
552 :
癒されたい名無しさん:2008/03/02(日) 02:37:51 ID:t3jGbFiF
大学生の息子の話です
息子は小学校から野球をしていました
まだ野球のおもしろさもわかる前に、私が半ば強制的にクラブにいれました
練習がイヤだ、遊びたいという年ごろですが、何とかやりきりました
中学にはいっても野球部へ
高校も野球部、さらに主将までやりました
試合などは私もよく見に行くのですが、息子はあまり野球の話をしません
練習のことを聞いても、話すのを面倒くさがる子でした
学校では活動的な子なんですが家では大人びている、言い方を変えれば冷めた子でした
そんな息子が大学進学をする時、
「我が家は私立はいかせてあげれないから」と小さい時から言っていたのもあり、
息子は国立を目指していました
無事国立は受かりましたが、息子は「やりたいことがある」と私立を志望しました。
学費は国立私立では4倍ほども違います。
しかし何とか工面すると了解し、息子は私立へいくことに。
一人暮らしの下宿先へ旅立つ日。
私が仕事から帰ると息子はもう家にいませんでした。
私は寝室に行くと、ベッドの上に一枚の紙が。
「おとんとおかんへ
今まで野球続けさせてくれてありがとう。
甲子園はいけんかったけど、これから親孝行するから。
あと私立行かせてくれてありがとう。
今まで育ててくれてありがとう。行ってきます」
一枚のレポート用紙にはこう書かれていました
日頃そんなそぶりを見せない息子がそんな気持ちをもってくれていたと思うと
私はその場で号泣しました。
成績が悪くてもいい
親にとって最高の親孝行は、お前が元気で暮らしていることだよ
長文失礼しました
私が小さい頃の話。
幼稚園に上がる前、私が外で遊ぶ時ジャンプしたり走ったり、
普通にみんなやることなのに何故かうちの親(特に母)は大喜びしていた。
幼稚園に上がって、ひらがな50音を習い自分で書けるようになると
うちの母は「○○が自分の名前を書いた!」と、またまた大げさに喜び
おばあちゃんや親戚の叔母、さらには近所のおばさんに涙しながらわざわざ報告していた。
幼稚園の鉄棒で前回りができた時は、他の子ももちろんできたのに
担任の先生までがお迎えの時に「○○ちゃんが前回りできるようになりました」
と泣きながら母に報告し、母も「ありがとうございます!」と泣いた。
小学校に入学した時は、おばあちゃん達まで集まって大号泣。
何故か「小学校に入れてよかった」と泣いていた。
子供心に「なんでいちいち言うの?なんで私が出来た時だけ泣くの?」と不思議だった。
それと同時に同級生の子からは「なんでお前の母ちゃん泣くの〜?」
「お前だけなんで誉められるんだよ!」と言われ、
「こんなに恥ずかしい思いをするのに、いちいち騒いでうちの親は・・・」と
一時期親がウザかったことがあり反抗していた。
大人になってからわかった。
私は覚えてないんだけど、私が1才半くらいの時に両親と3人で電車で出かけ、
夜、電車で帰る時に私を抱いた父がホームから降りたら
ホームが工事中で段差があり、人が多かったので気づかず私を抱いたまま転んだらしい。
私だけ投げ出され、急行も通過する駅なのに私は線路へ・・・
(乗ってた電車は行ってしまった後だった)
父は擦り傷で済んだが、頭を強打した私は駅員の誘導で救急病院へ搬送された。
精密検査の結果、脳に衝撃を受けたためこれから成長するにあたって
知能や運動能力が他の子より劣ったり、言葉の発達に問題があったりする可能性もあるので、
普通の子と同じに生活するのは無理かもしれないというとこを
告げられていたそうだ。
だから、何かできるたびに涙を流してまで喜んでいたのだ。
それを知って涙が止まらなかった。
私は頭は悪いけど普通に高校も卒業し、専門学校にまで行った。
今はストレス性の病気にかかって休職中だけど、
親に「生んでくれてありがとう」と心から言いたいです。
今日、じいちゃんと叔母(私はお姉ちゃんと呼んでいる)が
入所している施設に母親といってきた。
数年前までじいちゃんは、ばあちゃんとお姉ちゃんと、
3人で暮らしてた。
お姉ちゃんは生まれつき病気を持っていて体に障害がある。
数年前、具合が悪くなり入院した。(そういう事は今までも度々あった。)
でも、じいちゃんもばあちゃんもその時は元気で車も運転してた。
それから3ヶ月ぐらいして、
じいちゃんは急に具合が悪くなって病院に入院した。
それ以来じいちゃんは段々体が動かなくなって、痴呆も進んできた。
その後、病院からお姉ちゃんがいる施設に移った。
ばあちゃんはいきなり一人になり、寂しかったり、
色々不安もあったりして、痴呆の初期症状が出てきた。
ばあちゃんは今違う病院に入院してる。(同じ施設に入所待ち)
じいちゃんに会うのは、実は4,5年ぶり。
じいちゃんの姿を見たとき、自分の目を疑った。
自分の記憶にあるじいちゃんは、かっぷく(体格)が良くて、
大きな声で話をして、よく食べて、よく笑って、
休みの日には車で遠出して田舎の景色を見て回るのが好きで、
大分歳だったのにパンクしたタイヤの交換を一人で出来て・・・
今のじいちゃんは寝たきりで介護無しには生活できない。
すごく痩せて、とても体が小さく見えた。
腕も動かせなくて、手もずっと握っていて動かせない。
声が消え入りそうなぐらい小さくて耳を口元まで
近づけないと聞き取れない。
じいちゃんは私のことを覚えてなかった。
正直ここまで悪くなっていたとは思ってなかった。
>>554 の続き
4,5年も会いにいかなかったことを後悔した。
時間や施設の立地(バスも通ってない山奥)の問題があっても、
1日時間を作って、タクシーで行くことも出来た。
免許を取ってからは自分で行くことも出来た。
遠くて道も分からないから、といっていた自分が本当に情けないし、
申し訳なくてしょうがない。
入院したと聞いた時は驚いたけど、心のどこかで、
じいちゃんはいつまでも元気でいる、って思い込んでた。
今になっては申し訳ない気持ちでいっぱい。
ろくに会いにも行かなくてごめん。本当にごめん。
母親が私が就職して遠くに行くことをじいちゃんに言うと、
じいちゃんは
「がんばらんまんたい」(標準語で「頑張って来い」って意味)
って言ってから、泣いてた。
母親もお姉ちゃんも泣いてた。
私は、泣いたらはっきり言葉を言えなくて、
じいちゃんが聞き取れないと思って、泣くのをこらえて、
「がんばってくるけん」(「頑張ってくるね」)
と言った。それしか言えなかった。
今日じいちゃんとお姉ちゃんと写真を撮ってきた。
辛いことがあっても、その写真を見て
「がんばらんまんたい」って言葉を思い出して、
くじけずに頑張ろうと思う。
じいちゃんに「がんばってくるけん」って言うたもんね。
がんばってくるけん、じいちゃんも元気しとってね。
長文でへたくそな文章で申し訳ない。
556 :
癒されたい名無しさん:2008/03/14(金) 16:17:33 ID:bBzIZiiR
こんなに悲しくなるのは春だからですか?ちょっと父の思い出を。
うざいとは思いますが語らせてください。
うちのお父さんは旅行というより家族でお出かけ(弁当持って)みたいなのが好きだったから、春になると毎年花見に行ってた。
毎年場所を変えて2、3回は行ってて、またかよ!?って思ってたけど私も花見が大好きだった。
最後の花見は3年前。姉は大学生で泊まりが多くなって、花見とか家族で過ごす時間があまりなくなっていた。
そのときは新しく家族になった犬も連れていった。だから人数は4人。
食べ物お菓子飲み物青いシート持っていった。人間3人、犬1匹にそのシートはデカすぎだろーとか言いつつ、犬の話したり学校のこと、いろいろ話した。
帰りも寄り道しながら帰った。
家族で出かけるっていうのがすごく好きだった。
時間が経つにつれ仲良かったはずのうちの家庭は崩壊してた。
両親の確執、私と父の問題、そのほかにもいろいろ問題があって別居した時期もあった。
だけどこのままじゃいけないと思った母はやはり父のいる家に帰ることにした。
何の問題も解決してなかったけど、家族全員集まって時間をかけてこれからまた新しく始めよう、ということになった。
家に帰って2日目。
父が死んだ。心不全だった。
葬式とかで忙しくてまだ父が死んだていう実感がわかなかった。
だけど式が終わって、親戚も帰って、家に3人になったとき、
本当に父がいないんだなって思って泣いた。夜遅くまで3人で泣きながら話してた。
1人いなくなっただけでも暗くなったのに、ましてや母姉私犬家族みんながいなくなった家に父は仕事終えて帰ってきてどんなに淋しかったろうとか、
家に帰ってきた日、父がお母さんに「鍋は上手に作れるようになったんだんだぞ」って言ってたこと、ただいまってうれしそうに言いながら帰ってきたこと、
私たちが帰ってきたときのためにお父さんが部屋のベッドのシーツやらを洗ってキレイに準備してくれていたこと、冬なのに庭に花を植えていたこと、
結局父は私たち家族のことを一番に思ってくれてたんだって父がいなくなってやっと気づいた。
もう家族で食事も、花見も、全部できなくなったんだなーって思うと涙がでてくる。
私は花見が大好きだったから。そしてお父さんのこともどんなことがあっても大好きだったから。
お父さんがいなくなって初めての春が来ました。
お父さんに買ってもらって植えた庭の桜の木には蕾がいっぱいついてます。
もう一緒に花見に行けないけど、もしまだ私たちをどこからでもいいので見守ってくれてるなら父にありがとうと伝えたいです。
長文失礼しました。
557 :
癒されたい名無しさん:2008/03/17(月) 00:30:00 ID:CuP7YHE6
40台半ばの男です。
子供の頃とても貧しかった。
「肉を初めて食べた日を覚えている」と言えば、
貧乏の程度がわかってくれるでしょう。
小学校に上がる前から、親の給料日を知っていた。
何故なら、その2,3日前から母親がおかずを作らなくなるからだ。
父母と姉との4人暮らしだった。
我が家では夕飯時に、ご飯のお代わりを最初にする人(ほとんど私)が、
「お代わりする人、手をあげて」と言う決まりがあった。
手をあげるのは、いつも姉一人であった。
私は、お釜に残ったご飯を見つめながら、
「半分以上取ってはいけない、絶対にいけない。」
と、いつも注意していた。
ある日、珍しくおかずが一杯あった晩に事件が起きた。
私の次にお代わりした姉が、
「***がご飯を全部取っちゃって、わたしの分が無い。」
と、声を荒げた。
父は私に向って、
「バカ野郎」と言い、私を殴りつけた。
私は決して半分以上取ってはいなかった。十分気をつけていた。
それなのに・・・
すると母が、
「おかあさんはおなか一杯だから、おかあさんの分を二人で分けなさい。」
と、自分の茶碗のご飯を私と姉に分けてくれた。
食後30分程経った時、台所に行くと、母がお釜にこびり着いていたご飯を
そぎ落とし、塩をまぶして食べていた。
私は、
「お母さんはずるい、おなか一杯なんでしょ。」
と言い、その残りご飯をも横取りしてしまった。
貧乏の意味すら知らなかった頃の話です。
∧||∧
( ⌒ ヽ
∪ ノ
∪∪
559 :
癒されたい名無しさん:2008/03/28(金) 14:26:37 ID:wZtXKkbN
http://mamono.2ch.net/test/read.cgi/newsplus/1206457848/946 946 :アイデアだけでゴメン四国在住:2008/03/26(水) 04:50:25 ID:MGD0Uw18O
チベットには個人的に借りがあるんだ。
てかチベットの坊さんなんだけど。
心身共にズタボロだった時、見兼ねた友人が新宿のダライ・ラマ日本代表事務所に連れてってくれてさ
。
二日後にダラムサラに行く予定で忙しいのに友人が英語と日本語を交えてアタシの状態を説明してくれてるのを静かに訊いてくれた。
二時間ほど話して、"お腹空きましたね"と笑いながらツァンパとバター茶を一緒に食べた。
別れ際握手の手もそのままに、彼はアタシに云ったんだ。
共に語らいました、食事もご一緒しました。
あなたは私の人生の一部になり、私もあなたの一部になりました。
何もして差し上げられませんでしたが私はあなたの一部と共に、ダラムサラに参ります。
あなたも私の一部とで宜しければ、もう一度生きてみて下さいませんか。
何も云えなくて涙を流しながら頷くしか出来なかったけど
この若く聖いお坊さんの一部と、生き直そうと思ったのよ。
あれから11年まだアタシは生きてる。
病気で出来る事は少なくなったけど、相棒の犬と数はこなせなくなったものの
元の好きな仕事にも戻れた。
今、生涯で一番幸せだって思う。
時々身体の痛みに悩まされても、犬が必死に寄り添ってくれてあのツァンパとバター茶の味を思い出すと、堪えられる。
だから、何かしたいんだよ。
ささやかじゃなくて、はっきりした行動を。
FREE TIBET!!
チベットに自由を!
560 :
陽茄:2008/03/31(月) 00:01:00 ID:o40p18RF
泣きたいときに泣けばいいさ・・・
好きなときに泣けばいいさ・・・
誰も文句を付けては、来ない
ただ、泣けばいい
自分の思い行くままに
泣けるかどうか分かんないけど、皆の読んでたら思い出したから少し吐き出させてくれ。
2歳か3歳の誕生日に、犬を買ってもらった。
名前は当時大好きだった「リカちゃん人形」から「リカ」に決定。
初めてのペットで、動物が大好きだった自分は至極嬉しかったのを覚えている。
だが、まだ小さかった自分は見事犬に舐められていた。
パンやお菓子を片手にテレビを見ていれば、横からスーっと来て奪われたし
食べていたコーンフレークをひっくり返されたこともある。(牛乳が飲みたかったらしい)
自分が手を噛ませて遊ばせていたのが悪いのに、少し強く噛まれただけで「嫌いだ!」と騒いだりもした。
実際嫌いなわけでもないのに、たかがそんなことで怒った自分を今では情けないと思う。
5歳くらいの時だろうか。暑い夏だった。
車がないと移動できないような田舎に住んでいたのだが、
買い物帰り、帰路の途中にある遊園地のようなものに寄った。
いつも寄らないのに、その時ばかり何故か両親も二つ返事で了承。
勿論、犬は入れないので車の中で留守番。
中に入ってどれくらい経っただろうか、一時間いたかいないか位だと思う。
車に戻ると、リカは死んでいた。
今思えば、死後硬直というやつだったのだろう。冷たく硬くなっていた。
まだ幼かった自分は、そんな事は知らずひたすら
「病院行こ!ね!まだ大丈夫だよ!病院行かなきゃ分かんないじゃん!」
と繰り返していた。
両親はもう無駄だというのを知っていて、車内にあったバスタオルでリカの体を包んでいた。
そこから家に帰るまでの間、リカは後ろの座席で一人寝ていた。
自分は、両親にどんなに言われようとも頑なにリカの隣にいることを拒み、助席の母の膝の上にずっといた。
なんであの時隣にいてやらなかったのだろう、抱いてやらなかったのだろう、と後悔でしかない。
その時初めて父の涙を見たと思う。
数日間、二代目がくるまで母は衰弱し、幼稚園の送り迎えは友達のお母さんがしてくれていた。
(続く)
(続き)
自分が寄りたいと言わなければ、リカはもう少し生きていたと思う。いや、まだ生きていたかもしれない。
自分が奪ってしまった命だと思うと、涙が止まらないし、
まだ家に着くまでに車内で流れていた音楽も覚えていて、未だに聞くことが出来ない。
その後、二代目「りか」が来て、離婚とか色々あって
今はもうリカの骨が埋めてある家には、違う人が住んでいる。
でも遺影と共についてきてくれていると信じている。
自分が初めて触れた大切なものの死。
一応、将来の夢はリカがいた頃から変わらず獣医。
最近勉強が出来なくて、悩んでいたけどリカのこと思い出して頑張ろうと思う。
今家には、犬が二匹いるよ。
一匹は君の名前を継いで平仮名でりか。
もう一匹は君に性格がソックリで、私に悪戯ばっかしてるんだ。
私より先にこの子達がリカの元へ行くと思う。その時は宜しく頼んだ。
私は立派に獣医になって、沢山動物を助けて、リカに自慢出来るように頑張るよ。
そしていつか、沢山のお土産話持ってくから聞いてね?
また家族皆で笑い合える日が来るのを楽しみに待ってます。
長くなってすまそ。
本当に勉強出来なくて、夢諦めようかと思ってた時にこのスレ見付けて、ならなきゃいけない意味を思い出せた。
ここまで読んでくれた貴方に感謝します、ありがとう。
∧||∧
( ⌒ ヽ
∪ ノ
∪∪
564 :
BANGKOK1QQ ◆BANGKOK1QQ :2008/04/05(土) 12:30:14 ID:JEvOBIO7
ラーメン屋に行くといつも死んだ親父を思い出す。
親父が生まれたのは戦時中で日本の敗色が目に見えていた時だった。
親父4人兄弟の末っ子だ。
親父はは両親(つまり俺の爺さん婆さん)を早いうちに無くし、
15歳上の長男(つまり俺の叔父)が父親代わりで育てられた。
間に女の兄弟2人がいたが、順々に嫁に行った。
長男が結婚すると、親父はお嫁さんに余りよい顔をされなくなり、家に居づらくなった。
親父は中学を卒業すると、着の身着のまま東京行きの夜行に乗って上京した。
(つづく)
565 :
BANGKOK1QQ ◆BANGKOK1QQ :2008/04/05(土) 12:30:32 ID:JEvOBIO7
(つづき)
東京に着いた親父を待っていたのは、「金が無い」と言う現実だった。
上野の公園を何もすることが無くうろうろしていると、初老の男性が親父に声を掛けた。
「坊主、こんなところで何をしているんだ?」
親父はその初老の男性に東京に出てきた事情を話した。
「坊主、とりあえず兄さんが心配しているから連絡しなさい。腹が減っただろ、付いてきなさい。」
そういうとその男性は近くにあったラーメン屋に入り親父に言った。
「好きなものを頼みなさい。代金は心配しないで。」
親父はラーメンを頼んだ。するとその男性は
「おばさん、餃子もつけてあげてよ。若いんだからどんどん食べなさい。」
親父はだまってラーメンと餃子を食べた。空腹で食べ物に誘われて来たのだが、
腹が満たされてくると、だんだんとこの男性に対する不信感が芽生えてきた。
それを見越したかのように男性は言った。
「怪しまなくてもいいよ。俺はこの近くで建設業をしているんだよ。
今、人手不足でな。知っているだろ、今度、東京でオリンピックがあることを。
それでいま、東京の街中に自動車専用の道路を作っているんだ。凄い話だろ?
でもな、若い人は建設業を馬鹿にして人が集まらないんだよ。どうだ、坊主。
恩を売るわけじゃないけど、俺のところに住み込みで来ないか?兄さんには俺から電話してやるから。」
行く場所が無かった親父はその男性に付いて行った。
(つづく)
566 :
BANGKOK1QQ ◆BANGKOK1QQ :2008/04/05(土) 12:30:43 ID:JEvOBIO7
(つづき)
親父はその社長の下で、一生懸命働いた。年を重ねて親父が22歳になったとき、
社長の紹介で取引先の娘を嫁にもらった。つまり俺の母だ。
程なく俺が生まれ、妹が生まれた。
親父は、俺と妹をいつも近所のラーメン屋に連れて行ってくれた。
親父は俺と妹が美味しそうにラーメンを食べるのをいつも笑顔で見ていた。
親父はいつも餃子をつまみにビールを飲んでいた。
それが親父の楽しみだったのだろう。
ビールを飲みながら、父親が東京に出てきてからどんな暮らしをしていたかを、何度も何度も俺と妹に話した。
今の社長に拾われて生まれて初めて食べた餃子が、この世の物とは思えないほど美味しかった話や、
東京オリンピックに間に合わせて首都高速を作り、誰もまだ走っていない道路を一番で走った話など。
俺と妹は「お父ちゃん、また同じ話?もう何回も聞いたよ。」と言うが、父親は笑顔で
「そうだったかな。父ちゃん、頭悪いから忘れちゃうんだよ。」と毎回言う。
そんな幸せな時間が突然途切れると誰が予想しただろうか。
(つづく)
567 :
BANGKOK1QQ ◆BANGKOK1QQ :2008/04/05(土) 12:31:01 ID:JEvOBIO7
(つづき)
俺が小学5年の時、現場で親父が倒れたと母に電話があった。
俺と妹が学校の先生に連れ添われて病院に着いたときには、すでに親父の意識は無かった。
母は涙を流しながら落ち着い声で、「お父ちゃん、疲れて眠っているんだよ。
疲れすぎてもう起きないかもしれないって先生が言ってたよ。」と俺たちに言った。
人が死ぬという事は知っていても、目の前で父親が死ぬところを目の当たりにして混乱している俺は
こともあろうに、「もうラーメン食べられないのかな」思った。
その日の晩、親父は死んだ。
***********************************************************
あれから22年、今は俺が父親になっている。
長男は今度、小学2年になる。長女は年長組だ。
二人は俺と一緒に近所のラーメン屋に行くのが楽しみらしい。
俺は二人が美味しそうにラーメンを食べるのを見ながら餃子をつまみにビールを飲む。
飲みながらいつも俺の親父の、つまり彼らが会えなかった彼らのお爺ちゃんの話を聞かせている。
「おとうちゃん、また同じ話?」と息子は言う。「そうだったか?ま、いいじゃないか。」俺は答える。
****************************************************************
568 :
癒されたい名無しさん:2008/04/05(土) 12:44:41 ID:hjRBsDVd
569 :
癒されたい名無しさん:2008/04/05(土) 15:49:03 ID:hjRBsDVd
570 :
癒されたい名無しさん:2008/04/06(日) 22:56:56 ID:m3Dr6VBF
私の父は私が5歳のときに白血病で亡くなりました。
それからは母が働き、祖母が私と弟の面倒をみるようになりました。
母は、仕事を始めてからは料理はしないし、
洗濯もしないので、家事は全て祖母がやっていました。
だから私は母親の手料理の味を覚えていません。
母はそういう面では母親らしい人ではありませんでした。
でも私はそんな母が大好きでした。
身だしなみにすごく気を使っていたので友達のお母さんよりも綺麗でした。
音楽やファッションもわりと若々しく、友達のような感じでした。
そんな母が、乳癌だとわかったのは私が小学校6年生の時でした。
そのときは本当に驚いたのですが、手術をすれば大丈夫だと思っていたので
お母さんはすぐに元気になるんだ、と思っていました。
そのとおり、摘出手術をしてからは仕事にも無事復帰。
通院は続いていましたが、私は根拠のない大丈夫を信じていました。
私が中学1年生の夏ごろ、癌細胞が肝臓に転移しているのがわかりました。
私は癌に全然詳しくなかったので、また手術すればすぐに治る、と思っていました。
しかし、容態は良くなる気配を見せず、母は見る見るうちに衰えていきました。
仕事も辞め、家と病院を行き来する毎日が続きます。
抗がん剤の作用で髪が抜け落ちたり、吐き気がひどかったりすることもありました。
そして私が中学二年生の夏ごろから入院生活になりました。
それでも心のどこかでわたしのお母さんが死ぬわけない、と思っていました。
最初の頃はたくさんお見舞いも行きましたが、だんだんその回数も減っていきました。
冬のはじめのある日、母から電話がきました。
「ちゃんとおばあちゃんの言うこときいてね。お手伝いもちゃんとしなきゃだめだよ」
すごく疲れた声でした。
(つづく)
571 :
癒されたい名無しさん:2008/04/06(日) 22:57:38 ID:m3Dr6VBF
(つづき)
それから一週間後の早朝に、母は亡くなりました。
母が亡くなる前日の夜、なぜか私はすごく不安になり、しばらく眠れなかったのを
覚えています。
祖母から電話がきて、早く弟と一緒にタクシーで来てといわれ、弟とタクシーで病院へ
向かいました。
そのときは全く実感がわかなく、そして弟を不安にさせちゃいけないと思い、
すごく冷静だったと思います。
母の病室のある階につき、祖母の震えた声で私たちを呼ぶ声が聞こえた瞬間、
糸が切れたように涙がでてきました。
あぁ、本当にお母さんは死んでしまったんだ、と。
亡くなる直前の母は、モルヒネによる副作用で、幻覚がみえたりして
とてもやつれていたそうです。
だから本当はあまり私や弟にお見舞いにきてほしくなかったそうです。
髪の毛がないこともたぶんとても気にしていたと思います。
最期の最期まで、母は私の母らしい人でした。
祖母から聞いた話ですが、母は亡くなる前、
○○(弟の名前)が高校卒業するぐらいまでは生きたいな、と言っていたそうです。
その話を聞いて、また涙がでました。
お母さんに会いたいです。
会ってたくさん話したいです。
学校のこと、部活のこと、音楽のこと、たくさんたくさんきいて欲しいです。
以前より成長した今の私なら、お母さんとたくさん語れる気がするよ。
これからはおばあちゃんの手伝いをしたりして、お母さんに心配かけないようにするね。
今でもたまにお母さんの夢をみて泣いてしまうことはあるけど、私は大丈夫です。
次に会うときは、たくさんわたしの話聞いてね。
おもしろい話たくさん用意しておくね。
長文・乱文すみませんでした。
読んでいただきありがとうございました。
572 :
癒されたい名無しさん:2008/04/10(木) 18:02:47 ID:pxAqBHL1
スケート板より転載。プロポーズのシーンはニュースでも出てたよね。
>31 :氷上の名無しさん:2008/04/09(水) 20:30:38 ID:ZN3ctRpO0
>4月10日(木)
>19:30〜20:00 NHK総合・東京 クローズアップ現代 がんに負けない・あきらめない 井上怜奈
>
>おまいらこれでも見てみれ。。。
>
http://www.nicovideo.jp/watch/sm2461545
泣ける話がどうかはわかりませんがと、私が21年の人生の中で一番泣いた話と二番目に泣いた話です。
文才がなく長文ですみません。
私の通っていた小学校は校区が広く、住んでいる地区によって中学校区が異なるところでした。
私と親友M子も小学校は同じところに通いましたが、卒業後は別々の中学に進学することになっていました。
私の進学する中学は卒業旅行先がTDLで、TDLに行ったことがなくミニーが大好きだったM子は当時からそれをとてもうらやましがっていました。
あまりM子がそれをうらやましがるので、じゃあ私が卒業旅行に行ったら大きなミニー買ってきてあげると約束しました。
中学に進学してからも私とM子の関係は続き、1、2ヵ月に一度は必ず会って遊んでいました。
けれど中2の冬に突然M子は帰らぬ人になりました。インフルエンザの菌?がまねく病気だったそうです。
お葬式では久しぶりに会う懐かしい顔がたくさんいました。
その中でM子にさよならを言いました。お葬式に出るのが初めてだった私はM子のお葬式だと言うのに死人の顔を見るのが怖くてたまらず、通夜も葬儀の時もM子の顔を直視できませんでした。
女友達5人でぎゅっと手をつないでやっと勇気を出して顔を見て、さよならを言いました。
泣きながら母に手を引かれて帰った帰り道、泣きじゃくる私をなだめるために母が買ってくれたポカリの味を今でも忘れません。これが人生で一番泣いた日です
>>573続き
中学3年生になり私は卒業旅行先であるTDLに行きました。
クラスメイトの女子は皆違う小学校の子で、私の出身した小学校の子は男子が3人、女子は私1人だけでした。
TDL自体はとても楽しいところで、すっかりはしゃいで楽しい時を過ごしました。
私はミニーのぬいぐるみを買うつもりでした。死んだM子との約束を果たさないとなんて使命感にとらわれていたわけではなく。
ただM子におみやげを買おうくらいの軽い気持ちでした。
お土産はかさばるので最後に買おうと女の子同士決めていました。
集合時間を決めて皆バラバラとおみやげを買いに行きました。
そして私もおみやげを買いに行きました。
でも夜のTDLはふしぎなところですね。暗闇の中を横切るパレードやシンデレラ城を見ながら、あんなに人がたくさんいるのにまるで自分が世界中に一人のような気持ちになりました。
そんな不思議な感覚にとらわれながら、友達数人とおみやげを選びました。
そしてぬいぐるみ売場でミニーを選びました。なぜかその時目の前が涙でいっぱいになりました。バババババっと約束した時の小学生だったM子の顔がよみがえりました。
事情を知らない友達が私を心配してオロオロし、店内の好奇の目から守るように私を慰めてくれました。けれどその友達の中にM子を知る人はいません。
M子が死んだことも知りません。私は色々なミニーがいる中選ぶ気力もなく一番スタンダードなミニーの赤い水玉のぬいぐるみを買いました。
泣いた理由を特に友達は深く聞きませんでした。何事もなかったかのように普通に接してくれました。人がいっぱいで疲れたんだよね、と特に仲良かったSちゃんとKちゃんが外のベンチに私を座らせて買ったばかりのおみやげのクッキーまで開けてくれました。
他の女子グループまで顔をのぞきこんで泣いた私の心配をして申し訳ないやら気恥ずかしいやらでも頭がぼーっとしてしばらく立てずにぐずぐずする鼻をすすりながらボーっとしていました。
>>574続き
そしてその後顔を真赤にした私はバスの中で担任に体の不調を気遣われ、夜は担任と養護学級の先生のところで寝ることになりました。
部屋で寝ようとしていた私に夜担任からディズニーの大きな袋を手渡されました。なんのこっちゃと思い中を見るとお菓子の缶やらシールやらぬいぐるみやらなんやら入っていました。
担任の話では様子のおかしい私(一番前の担任の横の座席で寝てた)はバスの中でクラスの噂になったらしく。
ミニーのぬいぐるみのくだりを誰かから聞いた同じ小学校だったSくんとNくんがミニー好きだったM子のことを思い出し、それで私が泣いたんだろうと察したんだそうです。
友達には仲の良い子へのプレゼントだと言ってあったので、その後ミニーとM子を結びつけたのかもしれません。彼らはお葬式には来ていなかったはずで、M子とも特別親しいわけじゃありませんでした。
でもちゃんと覚えていてくれたんですね。
それでM子を知っているSくんとNくんが自分のお土産の中からミニーの入っているものを探し、担任に私に渡しておいてほしいと頼んだのだそうです。
同じ小学校とはいえ普段交流のないSくんとNくんが私におみやげを渡すなんて変に思ったんでしょうかね、なんでと担任は二人に聞いたそうです。
そしてその後ホテルでSくんとNくんから事情を聞いたクラスの子達が協力しあい自分のお土産の中からミニーのグッズやミニーの入っているものを少しずつ出して集めてくれたんだそうです。
ありがたいやらなんやらで夜号泣しました。人生で二番目に泣いた時。
その後ミニーのシールやら個包装のクッキーやらやたらでっかいバルーンやら耳やら大きな袋に入れて別の小学校に進学した友達と3人でM子の家にお土産として持って行きました。
あまりに多いお土産に不審に思ったM子のお母さんにこの話をするとおばさんはぽろぽろ泣いて、後日うちのクラスに担任あてにジュースの差し入れをしてくれました。
あの日見ず知らずのM子のためにたくさんのミニーをくれた優しい中3NO
クラスメイト、ミニーが大好きだったM子。
今でもミニーを見ると思いだします。TDLの夜の光のパレードと一緒に。
長文ダラダラと失礼しました。
おい
仕事中なのに泣いてしまうがな
どうすんだよ俺(;_;)
577 :
お笑い芸人チキチキ☆バンバン:2008/04/24(木) 05:34:09 ID:lIkIRfuL
私は自分を偽りつづけてた!
カツラをかぶりカッコだけはつけていた!!!!
だが肝心な心が弱く引け目を感じる毎日…そんな私にも好きな人が居た。ある日
酔った勢いでディズニーシーに誘った。返事はすぐにOK。
いくら乗り物に乗るとはいえディズニーならカツラはズレないと甘い考えが間違
っていた。むしろシ〜は危険すぎる乗り物ばかりだった。インディージョーンズ
や垂直に堕ちるエレベーターは何とかズラを死守した。しかしジェットコースタ
ーだけは最強に誤算だった!まさかディズニーに回転何かありえないと思いこん
でいたんだ!!!
数分後におそろしい事件がおきるとも知らずに…
ジェットコースターは動きだした!
私の隣では彼女がキャ〜と叫んでいる!
私は必死で頭をおさえる!隣では彼女がキャ〜キャ〜。そしてまさかの回転!!
…
知らなかったんだ…私は知らなかった…思いもよらない回転で私は一瞬頭から手
が離れた…
ほんの一秒だったはず…
もう一度頭をおさえた時にはソコにズラは無かった…
キャ〜キャ〜叫んでる彼女の隣で私は走馬燈のように色んな事を思い出していた
…
そしてジェットコースターは止まった…彼女と目が合った瞬間ギャ〜〜〜
その日彼女の一番の絶叫だった…
http://h.pic.to/v903p 皮肉にも私の名字は桂だ…
578 :
癒されたい名無しさん:2008/04/25(金) 02:22:49 ID:ctuOsuhb
579 :
癒されたい名無しさん:2008/05/11(日) 12:38:07 ID:iz0p/FeI
580 :
癒されたい名無しさん:2008/05/11(日) 23:48:33 ID:fu2YRJ9g
俺が彼女と知り合ったのは秋田に旅行に行ったときだった。冬の荒波が見下ろせる岬の丘の上だった。
そこに女性が一人寂しそうに海を眺めていた。
気軽な気持ちで「こんにちは」と声をかけた。びっくりしたように俺を見ると逃げるようにそ
の場を後にした。しかし雪道に足を取られて彼女は転んでしまった。
あわてて駆け寄ると彼女は泣いていた。俺は転んで足が痛いから泣いているのだと思った。とにかく俺は自分自
身も泥だらけになりながら彼女を近くの民家に背負っていくことにした。
20分ぐらいして民家が見えたのでそこでお世話になることにした。親切なおばあさんだった。食事までご馳走し
てくれた。
親切なおばあさんの家を後にして俺は彼女を家まで送っていった。しかし彼女は一言も話しをしなかった。
彼女を家に送った後、もう彼女と会うことはないだろう、そう思っていた。
581 :
癒されたい名無しさん:2008/05/13(火) 21:32:10 ID:Cy6uHBoW
俺は、厨房のころ部活内で いじめられていた。
暴力ではないいじめだった。「言葉の暴力」だ。
いつも俺から離れた所で 俺の方を見ながらわざと聞こえるように
話していた。上級生は この事を知ってる者は誰もいない。
すべて同級生の立てた作戦だったのだから。
俺はその事をする奴を憎み、恨んだ。その中の1人に話を聞こうとするが
すぐに話をそらされてしまう。そんな日々を送っていた。
そんなある日、俺にも「友達」というものができた。
すごく優しかった。そいつに、辛かった毎日の事を話してみた。
この続きは明日書く
582 :
癒されたい名無しさん:2008/05/14(水) 19:41:26 ID:YapSHKwr
昨日の続き
そいつは「俺他の部だからあまりいいことは言えないが
コレだけは言える。お前には俺が付いている。離れていても
親友だ。辛い事があったらいつでも言ってくれよ」
俺はそいつに「お前、ベタだなww」なんて言った。
そいつは笑った。俺は泣いた。見られないように。
今もそいつと仲良くやってる。いつも一緒に行動している。
厨房のころと違い、今はとても幸福な日々を送っている。
583 :
癒されたい名無しさん:2008/05/17(土) 18:09:31 ID:+82XeZ/l
こんなの見つけてマジで泣いた
584 :
癒されたい名無しさん:2008/05/22(木) 14:51:56 ID:2UCZFaKI
なんかスィーツwノベルにありがちな事なんだが
小さい頃から夏休み冬休み春休みになると田舎の婆ちゃんちに預けられた俺
近所に体が弱い女の子がいてさ、その家と婆ちゃんは付き合いがあったから、その子ともよく遊んだ
中学生の頃からその子の事を意識しだして、告ろうと決意したんだ
で、ちょっとカッコつけて電話で
夏休みになってそっちいったら大事な話があるって言っておいたんだよ
告ったの彼女のお墓の前だけどな
なんであの時、その場で言わなかったんだ、
なんであの時寂しそうな返事に気づいてあげなかったんだって半泣き
トドメに彼女が残した俺宛ての手紙に
大好きと書いてあって俺号泣
今でもまだ独身です
586 :
泣き蟲:2008/05/27(火) 23:50:28 ID:6s76Rqu9
俺の体験談です。良かったら読んでみて下さい。
骨髄移植をして社会復帰された方々をお呼びしての講演会に出席した。
見た目は全然普通の人である。
しかし、いつ再発するかわからない、という爆弾を抱えているのだ。
それでも一般の参加者(私達)に比べとにかく元気で明るかった。
曰く、「一度死刑を宣告された身だから。」
だからこそ移植が成功して、新しい人生を得た喜びは筆舌に尽くしがたい
程の喜びなのであろう。
毎日を大切に生きているのだと感じた。
移植されて社会復帰し、なおかつ移植者同士が結婚したというお祝い
セレモニーが開催された。
2カップルの4名が移植から生還し結婚という新たな出発をしたのである。
その2カップルがステージ上でケーキ入刀のシーンがあった。
そこで何か歌を謡おうということになった。
そして何故か私にマイクが回ってきたのである。
(私が、バンドのボーカルであることを一部の人が知っていたので)
実はそのセレモニーでの話を聞いていて、もう何度もウルウルしてしまい
涙はそこまで来ていた。
しかしここは一発、みんなの期待に答えねば男がすたる。
でもいきなりでは歌詞も無いしオケも無いし、さてどうしようか?
やっと思いつき、オケ無しで私は歌いだした。
「絶え〜間無くそそぐ愛の名を〜永遠と呼ぶことが出来たなら〜
言葉では伝えることがどうしてもできなかった 愛しさの意味を知る〜
あなたを幸せにしたい〜胸に宿る未来図を〜悲しみの涙で濡らさぬように〜
紡ぎ合い生きてる〜〜〜」 HOWEVER By GLAY
みんな手拍子をしてステージを見つめる。
幸せそうな2カップルはお互いに見つめ合い、ケーキに愛の印を刻んだのだった。
後半は歌えなかった。もう涙でいっぱいいっぱいでした。。。
どうぞ末永く お幸せに・・・
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{ ! _,, -ェェュ、 |
ィ彡三ミヽ `ヽ ,ィハミミミミミミミミミヽ、|
彡'⌒ヾミヽ `ー /ililハilミilミliliミliliミliliミ|
ヾ、 /iiiiイ!ヾヾミ、ミニ=ー-ミ|
_ `ー―' i!ハ:.:.\\_::::::::::::::/:.| このスレは
彡三ミミヽ i! ヽ:.:.:.:冫': : :::/,,∠|
彡' ヾ、 _ノ i!::: ̄二ー:: : ::::ソ ・ ,| 鬼女に
`ー ' {ヘラ' ・_>シ;テツ"''''"|
,ィ彡三ニミヽ __ノ ヽヘ`" 彡' 〈 | 監視されて
彡' ` ̄ `\ ー-=ェっ |
_ __ ノ {ミ;ヽ、 ⌒ | います
,ィ彡'  ̄ ヾミミミミト-- ' |
ミ三彡' /⌒ / ̄ ̄ | : ::::::::::|
ィニニ=- ' / i `ー-(二つ
,ィ彡' { ミi (二⊃
// / l ミii ト、二)
彡' __,ノ | ミソ :..`ト-'
/ | ミ{ :.:.:..:|
ノ / ヾ\i、 :.:.:.:.:|
ィニ=-- '" / ヾヾiiヽ、 :.:.:.:.::::|
/ / `/ ̄ ̄7ハヾヾ : .:.:.|
ノ _/ / / |:. :.:.:.:.:.:.:|
589 :
癒されたい名無しさん:2008/05/28(水) 23:51:51 ID:ft2W7+o+
子供達へ。
元気にな。
新しいお父さん、優しかったら良いね。
沢山、遊んでくれたら良いね。
一緒に、遊べなくてごめんね。
抱っこして上げられなくて、ごめんね。
もう、逢えないんだってさ。。。
あなた達のお母さんに言われました。。。
あなた達に二度と逢えなくなったと思った瞬間、死ぬほど泣きました。
声出して泣いてしまいました。
ほんとにごめんな。
何もして上げられなくて、ほんとにごめんな。
元気でな・・・。
590 :
癒されたい名無しさん:2008/05/28(水) 23:54:39 ID:ft2W7+o+
お前達の写真、今は伏せてるよ。
見ると、涙が出てくるから、伏せてる。
まともに、見れる日は来ないと思う。
ほんとにごめんな。
591 :
癒されたい名無しさん:2008/05/28(水) 23:57:06 ID:ft2W7+o+
この板立ててくれた方に感謝します。
人に言えないで、強がってた心が楽になりました。
独りよがりかもしれないけど、書かせて貰いました。
有難う御座いました。
594 :
癒されたい名無しさん:2008/05/29(木) 18:19:28 ID:1FnLJJ9p
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某スレから
なんか切なくなった
214 :名無しさん@お腹いっぱい。:2008/05/14(水) 02:09:59
仕事でいつも一緒に市場調査に出かけるパートナーの女の子がいた。
カップルのように振る舞って、自然体で調査してまわるんだ。
ある時、夫婦役で潜り込まなければならない調査があった。
そこに行く前に指輪を買いに行ったんだよ。
夫婦を演じるための結婚指輪をね。
俺らは恋人ではなかったけど、アクセサリーを買ってもらえるのがうれしかったらしく、パートナーはすごく喜んでた。
調査のないときは、右手の薬指にはめて、大事にしてくれていたよ。
彼女は俺のことが好きだった。
後で知ったことだが、彼女はブログに俺への想いを書きつづっていた。
そのパートナーが事故で亡くなった。
霊安室で二人きりにさせてもらった。
彼女の右薬指には、俺がプレゼントした、「結婚指輪」。
俺はそれを外し、彼女の左薬指にはめてあげた。
そして今、俺の左薬指にも彼女のと同じデザインの指輪がある。
彼女はいつまでも、俺のパートナーなんだ。
>>595 背後霊ですね、わかります
除霊してください
>>596 こういう板でこんなこと言う奴の気がしれない
子供が二歳を過ぎて、片言ながらしゃべれるようになってきた。
俺は仕事もできない安月給な割には忙しく、息子はちょくちょく嫁の実家が預かってくれている。
嫁の姉や弟は、うちの子を可愛がってくれて、よく遊びに連れて行ってくれる。
俺が迎えに行くと、息子は「きょう、おじたんと海いった」とか「ねえたん(嫁の姉のこと)と、はんばーぐ食べた」とか、一生懸命報告してくれる。
俺が遊んでやれない代わりにいろいろ連れて行ってくれてありがたいと思う一方、我が子を遊びに連れて行ってやれなくて少し寂しくもあった。嫁も、「うちの実家とばかり遊びに行ってごめんね」と恐縮している。