「リュウ」
夢の海外勤務。
ようやく手にしたチャンスだった。
リュウ
入社から10年。
長かった。
営業職とは名ばかりの書類作成に追われる内勤。
海外で活躍するキャリアウーマンを夢見て外資系に就職したっていうのに、
じめっとしたオフィスで定時まで椅子を温めるだけ、そんな毎日だった。
学生の頃には留学経験だってある。
将来を見据え、英会話学校にも通っていた。
それなのに、最近じゃお局さま呼ばわりだなんて、冗談じゃないわよ。
それでも10年、我慢を重ねた甲斐があった。
「ロスの支社を立て直す。
ベテランの君の力を貸して欲しい」
1枚の辞令で、すべてがひっくり返った。
理想はニューヨーク支社だったけど、ロスでも十分。
“ベテラン”の響きには引っかかるけど、まあ許そう。
営業のイロハなら、きちんと頭に入っている。
出発を2週間後に控え、準備はほぼ整った。
マンションは賃貸だから始末はカンタン。
家財道具は実家にまとめて送った。
残す問題は、リュウだけだった。
ロングコートチワワのリュウくん。
6歳。
一緒に連れていくことも考えた。
けれど、上司に相談してみたら、「何か勘違いしてないか?最前線に行くんだぞ」
と痛烈な一言。
おっしゃる通りだ。
忍びないが、誰かに譲るしかないだろう。
血筋は悪くないし、やたらに吠えないし、文句なしのいい子だ。
だから、飼い手はすぐに見つかる。そう思っていた。
ところが、方々に声をかけても、もらい手が見つからない。
足腰の悪い両親にリュウは任せられない。
兄貴のマンションはペット不可。
友達もダメ。
ネットで募ってもヒットしない。
チラシを作って電柱に貼ったり、近隣のポストに夜な夜な投げ込んでみても、一向にアクションがない。
「保健所に連れていくしかねえな」
兄貴はさらっと言う。
な に そ れ、殺 す っ て こ と ?
そ ん な こ と で き る わ け な い じ ゃ な い。
「それしかねえだろう。イヤならロス行き止めたら?家族のために赴任を断る人だってたくさんいるぜ」
そ ん な の 死 ん で も ム リ。
夢 に ま で 見 た 海 外 赴 任 な の よ。
愛犬のためにキャリアを棒に振るOL
──そんな美談、世間が望んでも私は望まない。
リュウと出会ったのは、入社して1年が過ぎた頃のことだった。
“定時帰宅組”のヒマジンにとって、心の癒しは、男よりもペット。
そんな流れに乗じて、リュウを飼い始めた。
たまたま通りかかったペットショップで、クリクリとした瞳と人懐っこさに一目ぼれして、衝動買いしたのだ。
それでもリュウは、そんな地味な生活を送る私を文句なく癒してくれた。
リュウは、私の帰りを待つのが得意だった。
マンションの廊下を歩く音、カバンから鍵を取り出す音、そんな私の「音」をリュウは巧みに聞き分け、扉を開けると、決まって玄関の前でちょこんとお座りをし、『おかえりなさい』と出迎えてくれた。
仕事のグチも聞いてくれたし、寂しい夜は添い寝もしれくれた。
このところ、リュウは自分の身に起こる不吉を感じたのか、やたらとじゃれてくる。
鋭い子だ。
主人の心の機微には、ことさら敏感だった。
ごめんね、と頭を撫でると、『ボクはいいよ。気にしないで』と目をぱちくり。
私はいつだって、そんな風に都合よくリュウの気持ちを解釈していた。
「飼い手が見つかればいいんですけどねえ。一定期間経過しても見つからない場合は、殺処分となりますよ」
保健所の黒ブチ眼鏡の冷淡な男は、取調べをするように尋問する。
──なんでこんなことになったんですか?
──身勝手だとは思いませんか?
──ほんとにそれでいいんですか?
──何とかならないんですか?
分厚いレンズ越しに送られる冷ややかな視線。
なによ。
私だった身を切る思いでここに来たの。
あなたにとやかく言われたくない。
つっけんどんに応じる私とは対照的に、リュウは足元で大人しくお座りしている。
あんたの将来について話してんだよ、リュウ。
死ぬか生きるかなんだよ、リュウ。
なのに、なんであんたはそんなにいい子なのよ。
「わかりました。では、リュウくんをお引き取りしましょう」
メガネがリュウを抱きあげる。
一瞬、リュウがチラっと私の様子をうかがう。
『ボクは大丈夫。この男の人もね、きっとそんなに悪くない人だから』
牢獄みたいな冷たい檻に、リュウは自ら入っていった。
そして、こちらを向き、玄関で待っていたときのように嬉しそうに尻尾を振る。
私はもう帰ってこないんだよ、リュウ。
リュウの真っ直ぐな視線が胸をえぐる。
気付くと、私は泣いていた。
泣 く 資 格 な ん て な い の は わ か っ て る。
私は耐え切れず、踵を返した。
リュウの視線が背中に張り付く。
だけど、もう振り返れない。
非情といわれたったいい。
ロスへ、行きたい。
でも、身体が動かなかった。
足を床から上げることができなかった。
そのとき、背後からリュウのほうこうが聞こえた。
振り向くとリュウは小さな身体を震わせ、私に向かって激しく吠えている。
『来ちゃダメだ!ロスでしょ?夢だったんでしょ?ボクは大丈夫だから!』
リュウはそう鳴いていた。
その大きな瞳で、その大きな心で、私の全てを包んでいてくれたのだ。
それに比べて、私なんて一人よがりで、なんてゴーマンなんだろう。
私は泣き崩れた。
ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなかった。
著者
太田 鉄平
写真
竹本 順一