【DS】99のなみだ

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265枯れた名無しの水平思考
「リュウ」

夢の海外勤務。
ようやく手にしたチャンスだった。

リュウ

入社から10年。
長かった。

営業職とは名ばかりの書類作成に追われる内勤。

海外で活躍するキャリアウーマンを夢見て外資系に就職したっていうのに、
じめっとしたオフィスで定時まで椅子を温めるだけ、そんな毎日だった。

学生の頃には留学経験だってある。

将来を見据え、英会話学校にも通っていた。

それなのに、最近じゃお局さま呼ばわりだなんて、冗談じゃないわよ。

それでも10年、我慢を重ねた甲斐があった。

「ロスの支社を立て直す。
ベテランの君の力を貸して欲しい」
1枚の辞令で、すべてがひっくり返った。

理想はニューヨーク支社だったけど、ロスでも十分。
“ベテラン”の響きには引っかかるけど、まあ許そう。

営業のイロハなら、きちんと頭に入っている。
出発を2週間後に控え、準備はほぼ整った。

マンションは賃貸だから始末はカンタン。
家財道具は実家にまとめて送った。
266枯れた名無しの水平思考:2008/06/26(木) 01:12:48 ID:dgezW49j0
残す問題は、リュウだけだった。
ロングコートチワワのリュウくん。
6歳。
一緒に連れていくことも考えた。

けれど、上司に相談してみたら、「何か勘違いしてないか?最前線に行くんだぞ」
と痛烈な一言。
おっしゃる通りだ。

忍びないが、誰かに譲るしかないだろう。
血筋は悪くないし、やたらに吠えないし、文句なしのいい子だ。
だから、飼い手はすぐに見つかる。そう思っていた。

ところが、方々に声をかけても、もらい手が見つからない。
足腰の悪い両親にリュウは任せられない。
兄貴のマンションはペット不可。
友達もダメ。
ネットで募ってもヒットしない。
チラシを作って電柱に貼ったり、近隣のポストに夜な夜な投げ込んでみても、一向にアクションがない。

「保健所に連れていくしかねえな」
兄貴はさらっと言う。

な に そ れ、殺 す っ て こ と ?
そ ん な こ と で き る わ け な い じ ゃ な い。

「それしかねえだろう。イヤならロス行き止めたら?家族のために赴任を断る人だってたくさんいるぜ」

そ ん な の 死 ん で も ム リ。
夢 に ま で 見 た 海 外 赴 任 な の よ。

愛犬のためにキャリアを棒に振るOL
──そんな美談、世間が望んでも私は望まない。
リュウと出会ったのは、入社して1年が過ぎた頃のことだった。
“定時帰宅組”のヒマジンにとって、心の癒しは、男よりもペット。
そんな流れに乗じて、リュウを飼い始めた。
たまたま通りかかったペットショップで、クリクリとした瞳と人懐っこさに一目ぼれして、衝動買いしたのだ。
それでもリュウは、そんな地味な生活を送る私を文句なく癒してくれた。
267枯れた名無しの水平思考:2008/06/26(木) 01:13:26 ID:dgezW49j0
リュウは、私の帰りを待つのが得意だった。
マンションの廊下を歩く音、カバンから鍵を取り出す音、そんな私の「音」をリュウは巧みに聞き分け、扉を開けると、決まって玄関の前でちょこんとお座りをし、『おかえりなさい』と出迎えてくれた。
仕事のグチも聞いてくれたし、寂しい夜は添い寝もしれくれた。
このところ、リュウは自分の身に起こる不吉を感じたのか、やたらとじゃれてくる。
鋭い子だ。
主人の心の機微には、ことさら敏感だった。
ごめんね、と頭を撫でると、『ボクはいいよ。気にしないで』と目をぱちくり。
私はいつだって、そんな風に都合よくリュウの気持ちを解釈していた。

「飼い手が見つかればいいんですけどねえ。一定期間経過しても見つからない場合は、殺処分となりますよ」
保健所の黒ブチ眼鏡の冷淡な男は、取調べをするように尋問する。

──なんでこんなことになったんですか?
──身勝手だとは思いませんか?
──ほんとにそれでいいんですか?
──何とかならないんですか?

分厚いレンズ越しに送られる冷ややかな視線。
なによ。
私だった身を切る思いでここに来たの。
あなたにとやかく言われたくない。

つっけんどんに応じる私とは対照的に、リュウは足元で大人しくお座りしている。
あんたの将来について話してんだよ、リュウ。
死ぬか生きるかなんだよ、リュウ。
なのに、なんであんたはそんなにいい子なのよ。
268枯れた名無しの水平思考:2008/06/26(木) 01:14:03 ID:dgezW49j0
「わかりました。では、リュウくんをお引き取りしましょう」
メガネがリュウを抱きあげる。
一瞬、リュウがチラっと私の様子をうかがう。

『ボクは大丈夫。この男の人もね、きっとそんなに悪くない人だから』

牢獄みたいな冷たい檻に、リュウは自ら入っていった。
そして、こちらを向き、玄関で待っていたときのように嬉しそうに尻尾を振る。

私はもう帰ってこないんだよ、リュウ。
リュウの真っ直ぐな視線が胸をえぐる。
気付くと、私は泣いていた。

泣 く 資 格 な ん て な い の は わ か っ て る。

私は耐え切れず、踵を返した。
リュウの視線が背中に張り付く。
だけど、もう振り返れない。

非情といわれたったいい。
ロスへ、行きたい。
でも、身体が動かなかった。
足を床から上げることができなかった。

そのとき、背後からリュウのほうこうが聞こえた。
振り向くとリュウは小さな身体を震わせ、私に向かって激しく吠えている。

『来ちゃダメだ!ロスでしょ?夢だったんでしょ?ボクは大丈夫だから!』

リュウはそう鳴いていた。

その大きな瞳で、その大きな心で、私の全てを包んでいてくれたのだ。
それに比べて、私なんて一人よがりで、なんてゴーマンなんだろう。

私は泣き崩れた。
ぼろぼろと涙がこぼれて、止まらなかった。


著者
太田 鉄平

写真
竹本 順一