同じレスに触発されて、別のスレにカキコしたことだが、書き直すのも面倒だからこちらにも貼っておく。
大前研一氏は極めて優れた分析力を持つ尊敬に値する人物だ。
科学的対象化の素養の上に、経営問題を解析するという経歴を重ねている。
当然、氏の立場からすれば派遣規制とか最低賃金の嵩上げなんて愚かな為政者の選択ということになろう。
地政学的、企業運営の有効且つ能率的立場、その均衡状態を読めば選択肢は自ずから見える。
経済の場は企業の栄枯衰退に依存するので、そこに生きる人々の経済的環境はそれに大きく左右される。
だが、方法を目的に替えてはいけない。目的はそれを選択したい主体に依存する。
我らはみな関係性の中に生きている。その中でありたいような形を望みうるのだ。
プロテスタントに見られるような処世哲学・価値観とはまた別の対人関係と懸案への態度習性という中に日本人は生きてきた。
グロバールな競争関係の中で生きるため、そのスタンダードの中に、先人が育んだ文化を解体収斂してしまわなくてはならないというのも変である。
具体的場の価値は、その歴史性といかにその世界を捉えるかという方法の場に密着した適合性・整合性の洗練に由来する。
ロンドンでの歌舞伎の公演の価値は、シェークスピアを日本人が出張って演じるのとは違うロジックの上に成り立っている。
現実の問題として、グロバールスタンダードを語れる態度能力は身につけるべきではある。
日本人は、それを特に意識化して努力する必要がある。
だが、そのグロバールスタンダードのいわれるものの限界ある可能性も、心しておく必要がある。
東洋の古にはヴェーダーンタ、ウパニシャッド哲学という思想の系譜も存在する。
その遠い末裔でもある仏教徒を多く擁する日本は、グロバールスタンダードと尊称している限界ある志向性に対して、ある種の解毒剤を用意できる可能性を有する場に生きている。