>>874 俺は制度が不公平に運用された結果、差別が生じているという立場に立つ者だが、立証について書いてみる。
論理的な証明というのは、あらかじめ正しいとする公準または公理の集合をもとに、論理的に正しいとされる手続きにしたがって論証を進め、それが真であると指し示すことだ。
論証が成立するためには、共通に正しいと認知できる前提がなければならない。
その前提が揺れ動いてたら立証はままならない。
主張の真偽を確かめるに前提に不足がある場合は、真偽を見いだすことが出来ない。
お互いに独立している前提でないと命題の正しい真偽を決めるには不十分だ。
また、論理構造の数学的特性から真偽の決定不可能な命題も存在することが分かっている。
議論に使われる用語の意味が限定されなくては主張の意味するところが揺れ動くので、これまた立証を困難にする。
普通に議論というものはこんな狭い枠には収まらない。
その中には真偽を求めるもののほか、その前提に関する議論、表現価値・レトリックを目的とするもの、心理的効果に関係するものなどさまざまだ。
で、立証の前に、その場にかかわる者による前提の確認が必要なわけだが、まず、それが難しい。
日本での話になると、それに対するいろいろな感情と考え方はあるにしろ憲法が共通には受け入れられるべきものとなるから、一つの論拠にはなるだろう。
差別を論じるとすれば、憲法の精神に反することを敢えて強いられたら、法の前の平等を享受できないので、差別を受けたと考えていいのではないだろうか。
社会レベルの広がりで見い出されたら、制度がもたらす差別だ。
たった一人に当てはまったとしても社会の仕組みの欠陥がもたらしていたら、制度がもたらした差別だ。