>>479 人間のありように何十から何百さらには何千何万の種類があるだろう。
それぞれのクラスのデータから機会の均等を証明出来るのか、出来ないだろう。
データが用意できるのか、ないだろう。
早い話、勉強したがるのとか、椅子に座るだけでかったるとか、いろいろな子供がいる。 紛れもなくいろんな差異が存在する。 いろんな資質のブレがある。
勉強が嫌いな性の人間は勉強というスタート台に立ったときに、もうハンディキャップを負うことになる。
こんなの頭の善し悪しに関係なくある。 自ら簡単にその壁を超えて制御できるものではない。
俺は小学校の時なんか、家に帰って勉強する気になれるような性質でなかったから、暗くなるまで外で夢中になって遊んでいた。
学校に行くのは好きだった。級友と遊びまくり、いじめっ子とはいつも喧嘩した。 だが、なぜか先生の話を聞くのは好きだった。
先生の話を聞くだけで成績はいっもクラス三番内に入ってた。 勉強嫌いとのみ込みが遅いのが対になっていたら悲惨な成績だったろうな。
こんなの平等じゃないよな。
そんな個々の資質の違いに加え家庭環境の様々な違いがあったら、平等で均等な機会だと皆が納得して競争できるような条件が成立しないほうが当たりの状態だ。
そこで、それぞれの子供に合う機会が人生の長きにわたってもたらされるのが望ましい。