武帝:「朕、即位以来寺を作り、経を写し、僧に布施や供養をする事、挙げて記すべからず。如何功徳ありや」
達磨:「無功徳」{むくどく}(功徳無し)
*即位以来、自分はたくさんの寺を建て、たくさんの写経をし、たくさんのお坊さんにお布施や
供養をしてきたが、どんな功徳があるか?と武帝は聞きました。達磨はそれに対したった一言
「無功徳」(功徳など無い)と言い放ったのです。
つまり「見返りなど無い」、功徳だと思ってなされた功徳は功徳になるまい。
これには、さすがに武帝も愚かなことを聞いたと思い、次の質問をしました。
武帝:「如何なるか是れ聖諦第一義」
達磨:「廓然無聖」{かくねんむしょう}
*武帝は人民より仏心天子と呼ばれていた。釈尊の説く本懐、まさに真俗不二のところ、
聖諦第一義を実践していると思うが、如何か?と聞いてきた。
すかさず達磨は、「廓然無聖」(カラリとして、秋晴れの空のように何も無い)とそっけなく一言答えられた。
聖と言えば凡に対する聖であって、第一義にならん。そんなものを追求する事自体がもう
第一義から離れていると答えているのです。
さあ困った武帝、そこで更に達磨に対して次に質問をした。
武帝:「朕に対するものは誰そ」
達磨:「不識」{ふしき}
*それでは、聖なるものが無いと言うのであれば、いったい私と話している貴方は誰ですか?
すかさず、達磨は「不識」(識らん)と答えた。「誰の誰です」と答えたら「廓然無聖」とならない。
当たり前のところです。
どうやら武帝と達磨は縁が無かったようです。
武帝がいくら仏心天子といえども、「無功徳」・「廓然無聖」・「不識」と達磨はありのままを答えているのに、
境界の相違は天と地のようです。