◆自毛植毛総合スレ21株目◆

このエントリーをはてなブックマークに追加
384毛無しさん
「歌舞伎町支えた華僑たち」
ttp://www.cnc.takushoku-u.ac.jp/~kakyonet/nl1/4.htm
歌舞伎町のランドマークとも言うべき総合レジャービル「風林会館」だ。
林再旺氏の創業で、酒を飲ませるだけでなく喫茶店からビリヤードや
卓球場まで備えた「複合娯楽施設」は、当時としては革新的であったという。
さらに、在日華僑団体の一つである留日台湾同郷会のビルなどを回って、
われわれは最後の目的地・新宿コマ劇場前広場へ着いた。
広場に面してそびえるヒューマックス(ジョイパックビル)も華僑の経営である。
創業者の林以文氏(1914‐1976)は台中県出身で、李合珠氏と同じ中央大学を卒業した。
映画館からホテル、レストラン、ゲームセンターなどレジャー関連事業から不動産まで
幅広く展開する恵通(現・ヒューマックス)グループの会長として、
長年にわたり日本中華聯合総会の会長を務めた台湾華僑界のまさに重鎮であった。
グループは現在、息子さんの代になり、ますます事業の規模を広げ発展を続けている。
華僑が歌舞伎町で活躍できたのは、戦後の焼け野原の中、
いち早くこの地区の潜在力に着目し、勤勉に努力したことに加えて、
持ち前のバランス感覚で地元のヤクザや日本人ともうまく付き合ってきたことにあるだろう。
385毛無しさん:2007/09/08(土) 02:02:20 ID:fo3WNcUL
歌舞伎町は台湾華僑によって生まれた
ttp://artifact-jp.com/mt/archives/200308/kabukicho.html

「みなさんご存じだと思いますが、ここ歌舞伎町は、日本の暴力団の拠点になっています。
 それが華僑とどうやって上手くやっていたか、不思議に思うでしょう?
 戦後すぐのときは、戦勝国の利権を使って……例えば華僑が台湾料理の店を出すというとき、
 10席しかないのに20席だと申請する。そうすると、10席分の食糧が余る。
 あまったのをヤクザに頼んで闇市に流したり、またはボディガードを頼んだり……
 当時は、そうやってきたんです。暴力団がいくつもあるのに、
 なぜ治安が保たれてるのかというのも、華僑に関係しています。
 間を取り持って、調整する人がいたわけですね」
私は質問した。
「あのう、調整したのって誰なんですか?」
「え! ええとですねえ〜、昔、巣鴨プリズンという刑務所が豊島区にありましたが、
 台湾人は連合国のBC級戦犯として収容されていたんですよ。
 そこで仁侠の方と知り合って、仲良くなって、っていうのが一番最初だったらしいんですよ。ハハハ……」
386毛無しさん:2007/09/08(土) 02:04:29 ID:fo3WNcUL
歌舞伎町を支えた華僑たち報告
ttp://www.tabunka-tanken.com/2003/report/report.html

この風林会館(創業者=林再旺氏)は、一階が喫茶店になっていて
その上にビリヤードや卓球、裏手にバッティングセンターなどがある、いわゆる“複合娯楽施設”だ。
この複合施設というスタイルは、日本では始めてのものだった。
また、この建物は、当時としてはめずらしく一階が柱のない大きな空間になっていて、
待ち合わせや出会いの場所としてもうまく機能していた。
会館の近くには“クラブリー”という高級クラブ(生バンドをバックに歌や踊りがある)もある
というエンターテイメント性に富んだ場所だったらしい。
「ヤクザの人たちも待ち合わせしていて、時々どんぱちやっていますね。」と、
在日歴42年の黄さんが涼しい顔をして話していた。

風林会館の前を通って東に、留日台湾同郷会(台湾同郷共同組合)の建物に向かう。
同郷会というのはいわゆる日本で言う“県人会”を指すのだが、
この組合は、幇=<仕事上の共同組合>と合幇=<地域のつながりのためのもの>が
一緒になっていたらしい(現在、合幇は華僑総会に移る)。
<地域とのつながり>といっても、この繁華街で、日本人と台湾人がどうやって仲良くやっていけたのだろうか? 
簡さんの話では、華僑が日本でうまく商売ができた理由の一つに、戦勝国民ならではの利権があったと言う。
例えば、タクシーをやるのは許認可性だったが、認可するのはGHQだったので優遇された。
店を出すのも認可性だったのだが、20人のお店をやると申請し、
実際には10名のスペースの店をやって余った10名分を日本人に横流しするなど。
台湾人はそれらの利権を、この辺を寝城にしていたヤクザとの“とりもち”と活用しながら、
日本人とうまくつきあっていたらしいのだ。
387毛無しさん:2007/09/08(土) 02:05:24 ID:fo3WNcUL
日本人のヤクザと台湾人との仲をとりもった“とりもち”について。
当時の歌舞伎町は今のヤクザではなく“仁侠”の人たちがいた。
1950〜60年代にかけて住吉組が出てきて、1970年代に入ってから山口組とか稲川会という
現在名前を聞くような新しい勢力が出てきたのだという。
戦時中、皇軍の兵士として戦った台湾人の中には、戦後BC級戦犯として
巣鴨拘置所に勾留された人もいて、その拘置所の中で仁侠の世界の人と
つながりが出てきたこともあるとのこと。

雑談の中で簡さんは、
“歌舞伎町の華僑は日本のやくざともつき合うし、警察ともつき合っている、
 自分は台湾本土(中華民国)にも中国にも友だちはいる”
なんてことを言っていた。

参加者アンケートから
・戦後の新宿といえば花園神社の周辺しか記帳にありませんでしたが、
 その横に台湾華僑の国が栄えていたとは驚きです。大変有意義でした。
・普段、目にしているビルの経営者が台湾の人だと知ってびっくりした。



件名:「台湾の声」「李登輝先生来日歓迎実行委員会」加盟、100団体を突破
ttp://sv3.inacs.jp/bn/?2004090020207240010343.3407

「李登輝先生来日歓迎実行委員会」加盟、100団体を突破
   外務省等へのビザ発給を要望してまいります
加盟団体【9月7日現在】
93、ヒューマックス(林瑞祥)