当時は、トップ選手と随分差があり、五輪を目指せる段階ではなかった。
「トップ選手は持って生まれたモノが違う」と考えていたので、こんなに
痛い思いをしてまで体操を続ける意味があるのか、と悩みました。
1か月ほどで退院しましたが、同じ大学にいた兄に何度も「やめたい」と
打ち明け、その度に引き留められていました。
「何かに真剣に取り組んでいたい」という気持ちもありましたが、
違う目標があるかというと、体操しかやって来なかったから急に見つかる
わけもない。ウダウダしている自分が嫌になって「もう一度やろう」と
決心するまで、3か月ほどかかりました。決めたからにはやり抜こうと
思いました。嫌々だけど練習をさせられていたので、体力は維持して
いましたが、けがから試合に出るまで9か月かかりました。その後は
やめようと思ったことはありません。
大学3年の時、ユニバーシアード北京大会の代表に入ったのが、
初めての日本代表でした。ルール改正があり、ほかの選手が失敗する中、
たまたまノーミスで演技ができた幸運な面もありました。
それからは、「もう下に戻りたくない」と体操への取り組み方が
変わりました。がむしゃらに練習していたのが、具体的に試合を意識して
練習するようになりました。
五輪が目標として見えてきた4年の秋、今度は左ひざ前十字じん帯を
切ってしまった。五輪選考会まで1年。しかも、このけがから復帰した
体操選手はほとんどいないと聞きました。でも、五輪には絶対出たかった。
いい医師を紹介され、計画通りにやれば大丈夫だと信じて手術を受け、
リハビリを続けました。
アテネ五輪の団体金メダルはうれしかったけれど、個人総合、種目別
決勝に出場できず悔しさが残りました。最近、次の北京だけでなく、
その次のロンドンまで頑張ろうかなと思うこともあります。
アテネ五輪に出場して、「五輪ってこんなに素晴らしいところなんだ」と
わかりました。我慢して積み上げていった時に、初めて「こういうことか」
とわかることがあるのではないでしょうか。先が見えないのはきついけれど、
つらい時はずっと続くわけではありません。聞き手・浜名恵子
みずとり・ひさし 静岡市葵区出身。両親が同区西千代田町で経営する
「水鳥体操館」で、幼稚園のころ体操を始める。関西高(岡山県)、
日体大卒。現在、徳洲会体操クラブ所属。東京都在住。2001年
ユニバーシアード北京大会、02年アジア大会(釜山)代表。04年の
アテネ五輪で団体金メダル。オーストラリアで行われた05年世界選手権で
個人総合銀メダル。今年の目標は10月の世界選手権(デンマーク)に
出場し、団体、個人総合、種目別で金メダルを取ること。
(2006年5月7日 読売新聞)
ttp://www.yomiuri.co.jp/e-japan/shizuoka/news004.htm(写真あり)