どうして怖いゲームを作ろうとして怖いゲームを作れないのか???
グロい敵を出せば怖がると思ってる
即死増やせば怖がると思ってる
暗くすれば怖がると思ってる
グロいのを出せば怖がるんじゃね精神は今の業界に確実にある
映画でもゲームでも小説でも
それがチープなホラーを量産してる
正直サスペンスの方がホラーの参考になるものは多い
強い敵を出したら怖がると思ってる
敵に抵抗できなければ怖いと思ってる
その強い敵を対処すると言う矛盾
サバイバル○ラーの定義
バイオの三上と言う人の言ってる定義は間違ってると思う
○ラーの定義、恐怖を受けるゲーム
どこに恐怖を受けるか?を考えて恐怖を与える
サバイバル○ラーの定義は恐怖を受けるその空間で生き残る事
○ラーの世界での生存活動の事
○ラー空間で生き残るために試行錯誤するゲーム
どうしたら生き残れるか?を考えるゲーム
どうやっても死ぬ中でどうやったら死を回避出来るか?を考える事を楽しむゲームの総称
サバイバルには生存という意味しかないので、倒すと言う意味で使うのはおかしい
爽快感と言うのもおかしい
具体的に言えば、密室に殺人鬼と一緒に閉じ込められた、一度も戦う事もしないで出会いもしないで恐怖を体感しながら外に逃げるようなのもサバイバル○ラー
生き残れないと言うのがデフォルトでそれから生き残れるように未来を変える楽しみ
絶対生き残れないと感じないような、進んでさえいたらいい状況で、頭を使って未来を変えようと考えず進んでいるだけなのはサバイバル○ラーでは無いと思う
次々襲い来る強敵を回避し続けてさえいれば、勝手に話は進んで生還する事になるような作りのゲームはサバイバル○ラーでは無い
脅かすだけと言うのもだめ
生き残る為の生存の為の経路を無から見つけ出すのを楽しむのがサバイバル○ラー
サバゲー+ホラーじゃないのか
ところでこのスレはフリーホラーゲームスレなの?
そうだよ、怖ければ何でもOK
悪い例
作中プレイヤーの間違った選択と言うものは存在しない
どんな選択をしても失敗以外で死ぬ事は絶対無い
突き当たる困難は必ず乗り越えて進まなきゃいけない
何をするとどうなるか?(何をするとゲームオーバーになるか?)は最初から分かっている
例)・「空き缶を落とすと音がする」 「プレイヤーは誤って物音を立てる → すると敵が来る」 と分かっている、その状態で誤って物音を立てる(最初からどうなるかも知ってる)
・この先、強敵が待ち構えている この敵はこんなに強い、残酷で恐ろしい この敵を倒さない限り先には進めない でもこの敵を倒したら次に進めるのは保障済み
いい例
プレイヤーは間違った判断をした場合その先の結末は、ゲームオーバーやバッドエンドに続いている
間違った選択は最悪死ぬ事を意味する
判断が間違っているか正しいかどうかは、予めは分からない、プレイヤーの判断や探索によってのみその答えを見つける事が出来る
例)・探索中、特定の場所を調べる → 敵が出て来る
・扉が三つ並んでいる 赤 青 黄色 赤以外に入るとゲームオーバー 青はだめだと言う情報と、黄色はだめだと言う情報はどこかに隠されている その両方の情報を得ておかないと赤にはいってもゲームオーバー、その状態で選ばされる
その状態でここまで来てしまったらどれか今選ばなければいけない
どれだけの情報を得ている段階で、どの扉に入ったかで、また結末は全部違う
・この道を進んだらそこには悪魔がいて、殺されてバッドエンドになるしかない、一度入る選択をしたら引き返す事は出来ない、それを主人公キャラはその情報をつかまなければ知るよしも無い
でも情報を得ていてそこに入らなければ、次の道に進める
プレイヤーは自分のした判断の先に何が起こるか分からない不確定性を得るべきだと思う
未知に対する恐怖
どういう時、どう対応すれば良いのか(よかったのか)、全て分かった上でそこからスタートしても、プレイヤーはゲームオーバーになるのはプレイヤーの落ち度、失敗でしかない
扉の向こう側で何かが扉をガチャガチャしてる・・・
どう対応すべきかその時点ではネタばれしなければ分からない
どう対応しても、悪い結末になりそうな中、悪い結末になるのを避け、どう対応すべきかを探し出そうとする
その時、自分の前に来ている物事に対して、どういう対応をとるかがどういう結果をもたらすか?どういう変化をもたらすか分からない、未知の発展性、プレイヤーから見て千変万化する可能性を秘めて見える
その発展性の中に自分にとって悪い結末を含んでいる
それが恐怖
ぶっちゃけて言うとホラーゲームで怖がりたい人って実は少ないんじゃないかと思ってる
この銅像は動き出す物だ
と言えばその銅像は動いているのは当然の事だけど
銅像は動かないものだと言った時、銅像が動き出しそうなのは当然ではない
>>242 毎回恐怖を謳い文句にしたゲーム出るたびに全然怖いと思った事無いと言う文句は出る
買い手たちからの需要は高いけど、作り手からの需要は少ない印象
作り手によって作られた内容見る限り恐怖を追い求めている気はしない
買い手たちからの要望で色々な要素を入れるけどたいていは滑っている
何故すべるかと言うと作り手自身は「再現したい恐怖」と言うものを持ってないからで
自分自身の中にはイメージは無いのだから人から聞いた要望を形にして見たってそれらしいものけれど中身の無いものにしかならないのは当然で
作り手自身は恐怖について興味も関心も持ってないけど、買い手たちからは要望は強いと言う不恰好な形態
作り手:自分の作品で恐怖を再現したいと欲求は無い
買い手:怖いゲームを楽しみたいけど、出るゲームは期待通りのものではないため不評
それを見てみると、怖がりたい人は少ないと評価される
つか現実の恐怖と娯楽としての恐怖は別物だろ
現実の恐怖:実利に関係した不安、実際に何か受ける被害に関する拒絶
娯楽の恐怖:安全は確約された上での、現実の恐怖の疑似体験、仮想現実内での安全の確約された上での被害
作り手側も受け手側もしている最大の勘違いは、娯楽の恐怖を現実の恐怖作りこもうとして表現しようとするところ
分かりやすい例だと、プレイヤーのデータを消したりする事で戻る道を消したりする事で恐怖を与えられると思っている
典型的な例だと、プレイヤーを実際に追い詰めようとして例えば敵が強かったり物理的に逃げ切れないようにして現実的に困るようにする
物理的に追い詰める事=恐怖、だと作る側もやる側も考えている
でも実際は、物理的には追い詰めずに仮想的に追い詰められた気持ちを感じるのこそ娯楽の恐怖で
そうしないとどん底まで追い詰められる事も出来ないと
現実の恐怖を娯楽として求めてないなんて皆分かってるんだよ
だからゾンビとか出てくんだろ
仮想の恐怖なのに現実の恐怖を与えようといているのが今の恐怖の考え方
ゾンビとか出て来るのはいいとして
そのゾンビでどうやって恐怖を与えるか
ゾンビは強力でどこまでも執拗で強い
そのゾンビの恐怖表現と言うのはゲームと言う仮想空間の中だけど、与え方はゲーム外の苦労と言う形式で与えようとしている
ぎりぎりまで追い詰めて来る様なゾンビ、何をやっても倒す事の出来ないゾンビ
これはゲーム内から見た「倒す事の出来ない」にはなってない
ゲームの外のプレイヤーとしてみた場合の「倒す事の出来ない」「苦労する」
実際に大変な事を作っても苦労するだけで、それで恐怖を与える事は出来ない
だから恐怖はこれじゃ足りないのか?と判断される
だからもっとぎりぎり、もっと、と考える
現実の恐怖:どう現実に即して追い詰めるか:物理的に敵の強さを上げたり、データを壊したり、難しさを上げる
娯楽の恐怖:どう現実の恐怖を疑似体験するか:何をやっても通らない追い詰められる気持ちをどう再現するか
今のゲームでの恐怖追及は上のそれで
どれだけ強い敵、難しい敵をどう攻略するか?になっている
で、それでは「怖い体験(怖い仮想体験)」は出来ないのは分かっている事で
難しい大変な作用になるだけで
この根本的な勘違いを何とかしないと、大変で難しいゲームの追及にしかならない
本来は安全で楽なゲーム、でも怖いゲームで
恐怖は無いけど、大変で難しいゲームになると言う
仮想のゾンビを出して、プレイヤーが何度やっても先に進めない強さを発揮する
それをもって仮想現実での恐怖とする傾向
でもそれは実際にプレイヤーを苦しめているのでそれは仮想現実での安全な場所での恐怖にはなりえない
本来に必要なのは、安全でプレイヤー自体は苦労しない、されど怖い
空間
次々弱点の無いゾンビが襲い来るのをやっとやっとで対処しても、何度もやり直しても
それは現実面での難しさでしかない
それか現実面でのぎりぎり感
仮想と言うのは安全で実際は自分は傷つかない、そんな状態でなければいけない
本当は安全
でも、不安だけがのしかかる
どうしようもない無力感だけじりじり締め付ける
この扉を開けてみるかね?この先何なのか分からない
プレイヤーはその扉を開けない事も好きなタイミングで開ける事も出来る
実質的にプレイヤーは何ら害を受けていない
仮想的な世界で扉を開けたらどうなってしまうのか?を想像する事で勝手に恐怖する
それが恐怖で
ぎりぎりで襲い来る敵を討ち取る、ぎりぎりで逃げ切る、または逃げ切れない
これを物理的にゲーム内でプレイヤーがそういう状態に陥るようにしてもそれは恐怖ではない
> 今のゲームでの恐怖追及は上のそれで
> どれだけ強い敵、難しい敵をどう攻略するか?になっている
間違ってる
まず攻略、制覇はゲームの面白さにおける重要なファクター
別のアプローチがあるならまず抽象的にでなく具体的に挙げるべき
あと
> 娯楽の恐怖:どう現実の恐怖を疑似体験するか:何をやっても通らない追い詰められる気持ちをどう再現するか
「現実の恐怖の疑似体験」を求めてない、って書いたんだが分かんね?
攻略と恐怖は、合いいれない
恐怖を与えられると言うのは天井に蓋をされるのと同じ
それでもって
攻略とはここで言えば蓋を外すのと同じ行為
これらが同じ軸上で同時に存在できないのは少し考えたら分かる事
攻略できるものとは別に、攻略できないものがずっとそこに存在し続ける
だから恐怖を感じられる
攻略できないものは放置して無視し続けなければいけない
無視してそれとは別に存在する「攻略」をする
それこそ恐怖の基本構造かと
むしろ「攻略」するから、攻略と恐怖を同一軸上に持ってこようとするから
現実面の物の見方をする
恐怖を与え続けようとする為には、攻略できないように少しでもしなきゃいけない
攻略される為には、そこを突っ切らなければいけない
「現実の恐怖の体験の仮想空間での再現」そのものになる
攻略と言う表看板で取り払うのに恐怖を与えなければいけないからその恐怖を与える要素をプレイヤーに壊されないよう防御しなければいけない
だから基本的な構造は
・恐怖は直接攻略できない
・攻略できる部分を別に用意する
・攻略する部分を攻略すると、間接的に恐怖を克服または克服に近づけられる
これで恐怖そのものは絶対的な位置を確保しつつプレイヤーの達成する行動も作れる
とは思う
恐怖はプレイヤー自身ではどうにもならない
だからそれを対処する為の間接的な手段に出る
例えば、この建物にはゾンビがいる→この建物から出る手段を考える=対処できないゾンビのいると言う空間からの退避だから
恐怖は攻略できないけど解決に繋がる
それを直接襲って来るゾンビをどう直接的に対処すればいいのか?に摩り替えるから
そこだけで完結してしまうし、それを少しでも緩和する為、直接的なゾンビの攻撃を強化したりして直接的に追い詰めようとする
ここを開ければ→殺される
ていうのは、逆に言えば、ここを開けなければ殺されない
立ち止まっていれば殺されないって事だから
現実ではない絶対安全な空間と言える
でも開けたら→殺される
ならそれを思い悩んで開けるか開けないか悩み続ける訳で
そういうのは擬似的な恐怖世界を再現したいい例だと思う
けれど、真正面から体力や力やスピードの数値を持った敵をどう乗り切るか?
これは実際のプレイヤーの苦労や労力のお話だから
とりあえずここ一月ぐらい振り返ってみて一番怖い、って感じたのは
こんなトコでポエムみたいな文章書くID:4bYZXNfM0の存在なんだけど如何
とりあえずここまで付き合った感想はID:4bYZXNfM0はあまりゲームのこと知らんな、ってことだな
ゲームにおいて「放置して無視し続けられるもの」は恐怖の対象にならんし
「攻略にあたって放置して無視し続けられないもの」は攻略対象
ついでにこの辺になんらかのアプローチをかけたゲーム自体は多分掃いて捨てるほどあるだろうな
たとえば世界樹のFOEなんかも部分的にはそーだな
(で、これにピンポイントで反論したら救いようのないアホだな、とも付け加えておく)
もういいわ、これ以上付き合わないから今後も説得力に欠ける持論を展開してくだちい
例えば、自分の閉じ込められた建物内にゾンビがいる
その条件だけではゾンビと戦う必要もゾンビをよける必要性も無い訳で
それを、こう変えるから恐怖は消える
ゾンビをよけて進まなければいけない、どうよけて進むか
ゾンビを倒して進まなければいけない、どうやってゾンビを倒すか
ここに全てをもってきたらとたんに恐怖は消滅する
攻略できるものは、恐怖の対象にはなれない
「建物内にゾンビはいる」だけならばゾンビは建物内に依然として存在し続けるだけで
恐怖を発する事になるけど
この通路を進め、この通路のゾンビを全てよけて進まなければいけない
にするとそれは恐怖の対象から攻略対象に落ちる
「この敵をどうやったらよけられるか?」
「どうやったらこの敵を対処できるか?」
と言う思考は恐怖心ではないから
恐怖心は
基本的には対処できない前提で
「それはいつ出て来るか分からない」
「それに出会ったらどうしよう」
どうしようもない
集中してどうよけようか?と考えてる「してやると言う気持ち」を持ってるうちは自分側に勝ち目を持っている前提で物を考えていて
どうにもならない時の考えは 諦め、逃げ腰、の部類
後は祈るだけ、その扉を開けた時そこにその恐怖の対象はいない事を祈る
今回は大丈夫だ、またはいた・・・
と
戦うは恐怖ではない
恐怖とは逃げ
本来は放置して無視し続けられるものを怖がるのこそ恐怖の対象
極端に言えば、自分は今高い塔の上にいる
下の底では巨人が地面をたたいている
実はゲームにはこの巨人は絡んで来ない
だからどれだけの強さを持っているのかも分からないし設定されていない
でもプレイヤーはこの巨人といつ戦う事になるのか終始気にして勝手に警戒している
それだけでも恐怖になる
でもそれだけだと物足りないので実際に巨人と対面する場面も作る
勿論対面する時は殺される時
明確に自分は何をなすべきか、何をすれば良いのか分かっていればそこに恐怖はもう無い
ので
目の前の問題に対して何もする事は出来ない
漠然とただ不安を感じる
それだけ
どうすれば良いのか分かったらもう恐怖ではない
だから攻略対象になったらもう恐怖物としては終りで解決段階
捕らえられないから恐怖なんで
>絶対勝てない敵から逃げ回って出会ったら必ず死ぬゲーム
デビルサマナー(1995年)の冒頭
>>262 絶対勝てない敵から逃げ回る
と言う文章でも
「絶対勝てない敵から逃げ回って」出会ったら必ず死ぬゲーム
と
絶対勝てない敵から逃げ回って「出会ったら必ず死ぬゲーム」
に分かれる
前者は、逃げ回る部分に主眼を置いてる、どう逃げるか?
後者は、出会ったらゲームオーバーになるって部分に主眼を置いてる
別に逃げる必要は無いけど出会ったらゲームオーバー
真剣に敵の位置を把握して逃げると言う手段をとる事で対抗しようとするのと
出会ったらゲームオーバーだけど真剣に逃げると言う行為をしないか
で違う
出会ったらゲームオーバー、だから、出会うのを避けて下さい
と言うのと
出会ったらゲームオーバー、だけど、だからと言って出会うのを避けると言う行動をこちら側から実行して出会うかどうかをこちらで調節する事は出来ない
出来るのは、祈る事だけ
真剣に必死になって、それを防ぐ手段を実行してるのと
もう何も自分からはする事は無い段階で進む事と
最大の違いは、必死になってその対処行動をとるか、する事はもう無いから景色を眺めながら歩き続けるか
何かやってるうちは、自分側で自分の運命を決められるのだから必死になるでしょう
でも、やる事はもう決まってるのでそこから恐怖する必要性は無い
景色を眺めながら歩き続ける・・・と言うのはもう自分でやれる事はないから、そこでする事はもう焦らず慎重に周囲を気にしながら足を進める
だけ
特定の対処手段をしてさえいればいいのと、何をしてもだめだから五感をフルに使って何が起こるか警戒し続けるだけなのと
だから対処とかそれ自体は簡単にすべきで
倒す事それ自体は簡単だよ、よけたり逃げたりする事それ自体は簡単だよ、だからって君の置かれた状況が何か好転する訳じゃないから
悪いのは
倒すのは難しい、でも倒したらどんどん解決して倦怠感を感じる
やり過ごす、対処する事は出来ないと思ってるから怖いんだから
対処する事を織り込み済みにするととたんにただの対処対象になる
攻略する為の敵は恐怖の対象にはなりえない
攻略できないと思ってるから出会ったら絶望的だと感じる
よけるの難しい敵をここでよける事を織り込み済みでいたら、ただの攻略対称にしかならない
敵とやり合う前提は無いから、だからもしも万一、敵と出会ってしまったら、怖い
よけなきゃいけない敵をよければ光が見えるのは当たり前
(ゲーム的に、攻略的に)よける必要のない敵だからこそもしも出会ってしまったらどうしたら良いのか分かりもしない
という感情が芽生える
よけて進むシステムのゲームで敵をよけながら進むのは単に作業で
よけて進むシステムでないゲームで、でもよけなきゃいけないものがいたらそれは怖いから
システム的にどう対処するか約束された敵と出して、それを予定通り対処しても
どこで恐怖するのか分からない
必ずシステム的に教えられた対処で対処するしかないから、最初から結果は見えているし
失敗しても成功するまでやり直すだけ
結局は主人公は勝ち続けるしかない
やる側にとって恐れる面は一つも無い
攻略できるもの、攻略対象物は恐怖の対象になりえない
自分にとって攻略=解決できないからそれは恐怖を与える対象物となっている
解決対象は恐怖を与える対象に離れない
もし攻略可能に見えるなら、それでいて恐怖を感じるなら、それとは別に恐怖を発し続ける攻略できない対象物は存在している
何で恐怖を人は感じるか?と言うと自分ではどうにもならないからで
いつ何が起きるか分からない、根本的には解決できない問題にさらされる
でも自分で解決できる部分も存在する
その部分で対処し続けるしかない
自分で解決できる部分は非常に簡単にすればより恐怖を感じられる
それを勘違いしているのが今の作品群かと
自分で解決する部分が恐怖を発しているものだとして設計しているから
逆に出来るだけ難易度を上げて、ぎりぎりで勝てるようにする
その代り、それを倒してもそれ以上に自分を支配するものは無いから何のストレスも感じない
難しさだけ
恐怖体験を手ごろサイズに収める事
主人公はどういう問題にたたされているのか?どうしたらいいのか?
それを解決する為の道筋は簡潔にする
けれど、解決する為に要する道のりは難解にする
・プレイヤーは、どういう状況下に置かれていて最終的には何を解けば良いのか?
・どうすれば解決なのか?
それが単純明快でどうすればいいのかを把握している手ごろなサイズ
それに対してそれを「どうしたら解けるのか?」は別で
どうやっても動かない物をどうしたら動かす事が出来るか?
何をやってもだめ感、どこに行ってもいる感
その中に一つだけ、たった一つだけ通れる道が隠されてる
解決までの道筋が分かればいたって簡単
何度も失敗して絶望感を感じながらそれを見つけるまでの過程を楽しむ物
知恵の輪と同じ
何をやってもだめ、何をやっても無駄、に見える感じ
それを含まないのはこのジャンルではないと思う
268 :
ゲーム好き名無しさん:2014/10/29(水) 22:29:20.99 ID:lnG4kTl40
そか
269 :
ゲーム好き名無しさん:2014/10/30(木) 13:09:32.04 ID:FwZNtYhaO
みんな文長すぎ
自分しか読んでないよ
270 :
ゲーム好き名無しさん:2014/10/30(木) 14:10:16.23 ID:vPNGSB2WO
PTやって思ったけどアウェイ感は大事だよね
なにやっても通用しない感じ
どっちかと言うと恐怖の敵の方が場に不似合いの現実世界に来ているって感じだと思います
何をやっても通用しないのは確かだけど
自分のいる世界を侵食する者
主人公は現実世界にいる、要するに自分の世界にいる
恐怖の敵はその現実世界では本当は100%の力を発揮できない
だからかろうじて主人公は逃げ延びられる
恐怖って逆の積み重ねだと思います
恐怖の敵は100%の力を出す事は出来ない
でも主人公は何をやっても通用しない
でもここは主人公の側の世界なので逃げられる
敵側の世界だったら一方的に一ひねりされて終了
でもこっちの世界なので、敵は徐々にしかこっちを狙えない
脅してみたり、警告のような行動をとったり
未だこっちの世界に出掛かっているだけで完全に来ていない
おぞましいものを隠している
安全だけど安全でない
この不安定さこそ不安感
現実世界で全ては主人公の味方、それと主人公より強大すぎる恐怖の敵
それでバランスを取れてる
主人公の腕力?戦闘力?と敵の戦闘力が互角な訳ではないという部分が鍵かな?
主人公の強みと敵の強みは別だからこそ敵は強さを思う存分持てる訳で
主人公と同じ部分で互角だったらそれは出来ない
主人公は現実と言う世界に守られているから生きられる
逃げる為の出口を探すのだって現実の出口だし、建物の構造だって
武器だって周囲のもの全て自分の味方
一方恐怖の敵はどこに行ってもいる
それだけの強さを持っている
ちなみに、主人公より敵が強ければその場で瞬殺されて終了
もし強い敵に主人公が勝てるというなら主人公は同等の力を持っている事になる
強い敵に同じ部分で互角に渡り合えるのは超人
エイリアンアイソレーションってどやったん?
エイリアン自体がメジャーになりすぎてあんま怖くないんかな?
敵(?)が呪術師のゲームとか映画って何故か最近では作られないよね
ていうか魔女って言うと最近は何故か少女になってておばばじゃない
呪術のペンタグラムで描れた円の中に入った人間を閉じ込められる
のろいの人形に針をさすとその痛みを人間に伝える
ゾンビやゴーレムを使って襲ってきたり
見たいに直接は襲ってこない
呪術師はどこか全然離れた場所にいてその呪術師を無事見つける事が目的だったり
弱点を与えた瞬間ムービーか何か流れてきてゲームオーバー
弱点とは呪術師(?)に知られてはいけないもの、与えてはいけないもの
呪いをかけるのに血液が必要なら、何かの原因で血液が呪術師の手に渡った時点で
呪術師が主人公に血液を使って呪術をかけてる演出だかムービーだか流れてきてゲームオーバー
ペンタグラムで描れた呪術円はいたるところに描れてる
天井やカーペットの裏
誤って中に入ったら円の中からは出られない
呪術円に閉じ込められるのは人間のみ
なので物質や動物や呪術の生物や悪魔は素通りできる
外から呪術円を壊したり崩したり消したりすると効果は消え外に出れる
銃で外のペンキを撃って倒すと呪術円にかかって消す事をできたり
外の斧が倒れて呪術円の図形を途切れるように床を切ったりすると呪術円の効果は消える
内側からは何をしても消えない
悪魔から自分を守るのは塩で作った結界
悪魔は塩の線を越える事が出来ない
見たいなオカルトものって無いよね
映画もゲームでも
もちろん悪魔を捕まえられる呪術円も作中に存在して後半それを使って反撃する事も
たいていの人は開発の考えた「恐ろしい事(血みどろ、脅かし、脅威)」をどう表現するか?どう連発するか?を考える
だから恐怖にならない
実際はいつ起こるか?何が起こるのか?
起こらないでいる時間で恐怖する
「恐ろしい事が起こりますよ」と言っておいて、いつおこるか?何がおこるか?どうなるのか?ドキドキするようにしておけば、そこまでは恐怖を作れる
後は、その何か起こった時、何だこんなものか、って失望しないようにするにはどうするか
考える
自分の力では抑えられないものを不安定なものに頼って抑えてるのは怖い
悪魔を書物に書かれたとおりのやり方で閉じ込めるとか
もし万一抑えておけない状態になったら何も出来ない
自分で抑えてると怖いとは感じられない
ゲームで言うと、「こうなったらこうすればいい」全部頭に入ってる
失敗したら殺されればいい
後、ゲームは与えられた条件でどうにかなると思ってるうちは恐怖は無い
与えた武器でそれだけで何とかなる
何とか出来る条件はきちんとそろっている
もし何とかなら無かったらそれはプレイヤーの技術の問題だ
プレイヤーは逃げて対処する
その逃げると言う行動をとってさえいたら間違えは無い
何も不足を心配する事はない
もしゲームオーバーになるようならそれはプレイ技術の問題だ
これ等を怖いゲームにするには
「銃で撃てば殺す事はできる」でも銃弾は必要なだけ確保できる保証は無い
「逃げる事はできる」でも逃げても無事外に逃げられる保証は無い
だめなのは
銃で撃ってさえいれば先に進められてそのうちエンディングを見られる
逃げてさえいれば先に進められてエンディングを見られる
いったとおりにやっていればエスカレーター式に話は進んで何も悩む必要も無いよと言う
銃で撃つ事や敵を対処する事はただの敵を対処する事で、解決は解決で別問題
敵を対処していても解決は出来ないし、どんなに対処の技術が高かったとしても永遠に解決しないなら万に一回だけミスを犯したらそこでおしまい
その万に1回は解決に至らないでそこにいる事を続けていれば続けているだけいずれ近づいて来る
その万に一の足音こそがゲームも映画もこういうジャンルで言う恐怖の訳で
何か起こる予感
http://www.choke-point.com/?p=16121 基本的に考えかたが間違ってる
この開発者と言うか殆どの現在の開発者の共通して思ってる事はこう
どう殺すか?
だから殺す部分を先延ばしにするために直ぐに死なないようにする
部分で見れば間違ってはいないけど
今の開発者の思考回路はこう
モンスターがどれだけ本気でプレイヤーを殺そうとしているか
そら今から殺す
それをどれだけ引き伸ばすか?と考ると一撃を与えられても変な隙が出来てまた逃げる
そうやって死なないように引き伸ばす
本来の基本にはこう
殺されると言うものがどんどん自分に迫っているぞ
そらもう直ぐだぞ
指を折ったぞ
今から行ってやるぞ
今来たぞ
そら殺すぞ
とどんどん迫って来る感を伝える
逃げなかった時、避けなかった時だけぐさり
具体的には
・調べたら血の跡や死体が見つかる
・脅迫される
・姿が暗示される
・現れる
・殺される
等
現在の開発者の恐怖表現で見られる死体たちの表現だけど
現在のゲームではたいてい無造作にオブジェとしての死体がプレイヤーが目視できる様に置かれている
プレイヤーはそれを自分で発見するんだけどプレイヤーの目で見ても別段オブジェ異常のものには見えない
本来の表現はこう
まず、死体そのものはプレイヤーからは見えない覗けない
だから覗き込むと言う行動を改めてとる
具体的には、例えば
・入ってきた時に後ろ向きに座った人がいる
その人の正面は見えないようになっている
話しかけようとする→すると「正面が見えて惨殺されている事が分かる」と言うカットが入る
もっといい例は
・カーテンが閉まっている
でもカーテンから何か垂れている
だから調べてみる→すると「カーテンを開けるとそれは血だ、惨殺したいがつるされているのを発見する」と言うカット
さらにそれらがどんなに特別な事かを示す為に主人公のコメントや嘔吐しそうになる等のモーションで強調する
飾りのオブジェではないと言う事をきちんと訴える
そうやって「どんどん迫っているぞ」「今迫っているぞ」を伝える
殺されるのを恐れるのがこのジャンルなので殺されて安心すると言う状態自体がそもそも作り方を間違えている
現代の人は死体をちりばめておけば、それでその数が多かったりより残酷に描れていれば恐怖を与えられると勘違いしている
だからそこらに残酷なものをお飾りとしてばら撒いている
見る側はお飾り、オブジェ、としてしか見ない
そんな状態で本気でモンスターが襲ってきてそれをどう対処するか?を考え、その一瞬でついてしまう勝負を引き伸ばす
見たいな訳分からない事をやってる
大昔に完成したものなのになんで知らないのか謎
これは何かから逃げるタイプで
逃げないで前進するタイプだった場合は
ここを開いたら何かいるかもしれないぞ
「では開いてみるかい?」「大丈夫?」
ここを曲がったら何かいるかもしれないぞ
「では曲がってみるかい?」「大丈夫?」
その部屋には恐ろしいものがたってるぞ
「では入って見れるかい?」
「近づけるかい?」
「どうにかなると思うかい?」
それも結局は同じ事で
「出るぞ」
「出るぞ」
「出るぞ」
「いるぞ」
「触れたら怖いぞ」
徐々に危ないものに近づいていってるぞ
迫っているぞ
基本的には同じ
それを出るのは当たり前、どうやって乗り切るのか?と言う部分を考えてるからおかしい
その代り乗り切るのは簡単じゃないぞ、それが恐怖だぞ
って感じ
本来は基本的には、恐怖は「恐ろしい事が起こるぞ」と言う暗示で大半を使って、「殺されるかどうか」と言う部分はそれに対して1
そこで逃げられるようにするか、殺されるようにするか、それはケースによる
基本的にこのジャンルはどう殺されるか?じゃ無いのにどう殺されるか?を追求する事が間違ってる
このジャンルはどう殺される事を予期するか
もっといえば、殺される事を予期する為に、殺される前の段階を予期して、さらに前の前の段階を予期した・・・ってきりの無いものを考えるようにするにはどうするか?
きりの無いものを考えようとすると何も考えられない
どんよりしたどう具体的に何をしたらいいのか分からない不安感が付きまとう
鈍いストレスの事
これをさして恐怖心
何をしたらいいのか答えは明確に分かっていてそれが難しい事には感じない
http://www.choke-point.com/?p=16121 カットシーン
結論から言うとカットシーンを使うのは正しいと思う
まず自由に動け自由な視点出物を見られる状態でたまたま目に入ったもの
と言う対象物は、見た景色の一部分でしかない訳で
それがどれだけの意味を持ってどう特別なものかなんて作り手の意図は微塵も伝えられない
何でいけないのかと言うとカットシーンの使い方が極端に悪い事が原因だと思う
バイオ1のゾンビの振り返るシーン、バイオ2のリッカーのシーン、見れば分かると思うけど
今の表現の仕方と違いますよね
主人公の見るべき視点だけを映す(やってる人に見て欲しい部分を見て欲しい形状で映す)
プレイヤーの自由視点で映していたらこうは見れないから
現代的思考回路の特徴として
その人の直感に訴えかけようとする癖
昔の恐怖の与え方表現の仕方は
作り手側の用意したどれだけ怖いのか?をそのまま伝える
例えば、恐ろしい怪物を作り上げそれをそのまま伝える
恐ろしい出来事を起こしてそれを伝える
今の作り方では
プレイヤーが自分から自然にそれを感じる事を重要視する
例えば、データが消えるといったやり方や、物理的に迫って来る物理的ぎりぎりさ
自分で見て自分で勝手に焦る、と言う前提
でも、実際は木の上に幽霊がいてそれを自分で発見しても何とも感じないから
観察する程度
本当はいかにその出来事が特別性を持っているかを強調して、どう伝えるかを考えなければいけない
分かりやすい違いで
昔の表現はこう
死体が転がっている→それを発見するとそれがどんな恐ろしい事かを主人公が言葉で示したりカットシーンで物語ったりする
今の表現はこう
死体が転がっている→自分の目でプレイヤーは目視する、以上
どう感じるのかは全てプレイヤーのその時の受け取り方を尊重
その一方で事実関係の説明の描写は非常に長い
自分はこういう理由でこういう考えを持っているんだ
だからこうしたいんだ
本来逆で
何をどうするかはプレイヤーの決める事
どう感じるべきかは作り手の決める事
死体を見つけ嘔吐して、コメントを残す
でも、それに対してどういう決定をするかはプレイヤーの決める事
さらに決定には結果が下される
良い結果、悪い結果、結末
今的にはこう
無造作に死体が散らばっている
散らばっているだけで何も起こらない(自分で見て下さい、眺めるだけ、自由に、見ない事もできる)
またはムービーで流される(自分で感じて下さい、見るだけ)
味方、敵たち、ライバルとの会話、雑談が長々始まったりする
その会話で事実関係が説明され、次する事が示される
プレイヤーはその通り実行する