1 :
ゲーム好き名無しさん :
2013/11/19(火) 00:28:38.17 ID:4CTGblqu0 “ナラティブ(narrative)”という言葉を知っている人は、それほど多くはないだろう。 “ストーリー”と“ナラティブ”は、日本語ではどちらも“物語”と翻訳されてしまうため、 その違いが見えにくいところがある。 だが現在、海外のゲーム業界では“ストーリー”に代わる概念として、大いに注目を集めている。 世界中のゲームデザイナーが集まる“ゲーム・デベロッパーズ・カンファレンス(GDC)”では、 毎年優秀なゲームに賞を与えているが、2012年からは“最優秀脚本賞(Best Writing)”がなくなり、 “最優秀ナラティブ賞(Best Narrative)”に名称が変更されたほどだ。
2 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/19(火) 00:30:22.05 ID:4CTGblqu0
海外で“ナラティブ”だと高評価を受けている、2つのゲームがある。 1つは日本でも注目を集めた『風ノ旅ビト』だ。 このゲームにはセリフもなく、主人公の“旅ビト”が何者なのかも明確には語られないのに、 わずか数時間のプレイを通して、非常に壮大な旅をしたような感覚を得ることができる。 もう1つは『FTL:ファスター・ザン・ライト(FTL: Faster Than Light)』というインディーズゲームだ。 これは宇宙船どうしの戦闘を描いたゲームだが、敵の攻撃によって船内で火災が発生したり、 敵が船内に突撃してきて乗組員が殺されたりといった、ゲーム中で起こる事件の大半は、 ランダムに発生するものだという。そうしたランダムゆえに味わえる濃密な体験を、 海外では“ナラティブ”だと評されているという。 だが、ランダムゆえの濃密な体験を表現したゲームなら、すでに日本にも存在する。 『風来のシレン』に代表される「不思議のダンジョン」シリーズだ。 「不思議のダンジョン」シリーズは、ストーリー自体は存在するものの、 それ以上にランダム生成されるダンジョンで繰り広げられるプレイヤー各自の 悲喜こもごもなプレイの思い出が、強烈な体験として記憶されている。
知っている人は知ってる話題なんだね。
関連記事
[CEDEC 2013]海外で盛り上がる「ナラティブ」とは何だ?
明確に定義されてこなかった“ナラティブなゲーム”の正体を探るセッションをレポート
http://www.4gamer.net/games/999/G999905/20130827028/ ゲーム研究と「ナラティブ」
http://9bit.99ing.net/Entry/31/ ナラティブの暫定的定義(簗P洋平:スクエニの研究者の再編集)
・ストーリーとは全く異なる
ストーリー:始まりと終わり,目的地と経由点が決まっていて,何回なぞっても,誰がなぞっても,同じことが起きる。
ナラティブ:時系列が設定されておらず,自分の経験や出来事を通じて語る。またそこには意外性と偶然性がある
*意外性と偶然性はプレイヤーがそう思えると言う意味で
・ゲームをやらせるのではなく、体験させる
ゲームは体験である。この体験が経験としてプレイヤーに刻み込まれるとき,そこにナラティブがあった
例えば、
シレンで手持ちのアイテムが手詰まりになった時に限ってモンスターハウスで絶望し起死回生の策で脱出した時、
ウルティマやドラクエ3で、8つのなんとかを探せと言われて世界に放り出されて、適当に巡ってたらいろいろあって苦労してそろえた時、
スカイリムで巨人を襲撃しようとしたらドラゴンが先に襲ってきて、何故か巨人と一緒になってドラゴンを撃退したとき、
マインクラフトで、その世界で生き残るために不器用に開拓し色んな苦労を経て、なんとか住める家と家族をもったとき、
そこにはナラティブがある。プログラムで事前に用意したストーリー(筋書き)ではない。
こんな感じでしょうか?
プレイ日記やね。
俺が思う所謂ゲームらしいゲームってこういうのだわ
「超クソゲー」でまさにここで言うナラティブゲーの例として ときめきメモリアルが紹介されてたね。 で、ときメモ2になって進級ごとにディスク交換とかの関係でそれが薄れた…って
7 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/20(水) 00:14:11.63 ID:l/fZni0b0
ときメモはナラティブの古典名作の一つらしいね。
>>3 を改めて読むと、
ナラティブってのは、
そのゲーム世界でいかにプレイヤーに「生きてる実感」を与えることなのかなと思う。
FFがナラティブじゃないとされてるのは、結局ゲーム内の他人の話でしかないこと。
他人の話でいいなら映画でいいじゃん?ということ。
一方で自由度の象徴GTAは、自由すぎてワールドが何でも出来るただのオモチャ箱になってしまってること。
設定上は神でもないのに、その世界でなーんでもできるならそりゃその世界の人間として生きてることにならんわなということ。
ということなのかなーと思った。
ストーリーへの縛りから解き放って自由度を与える話と、演出でぐいぐい話に引き込む方法論みたいな話が
どっちもナラティブについての話として述べられてるのは、
結局いかにしてプレイヤーをゲーム世界に「生き」させるか
という工夫の話なんだなと感じたよ。
>>7 ベゼスタゲーのオチで盛大に吹いてしまったww
SKYRIMは自由度も高いけどメインクエのドラゴンボーン英雄伝については、ナラティブ性をかなり意識してる気がする。
「お前が伝説のドラゴンボーンか?!」というおきまりの演出だけじゃなく、吟遊詩人の歌に歌われたり、
ゲーム内の本に秘密が書かれたりというフレーバー、世界がドラゴンの脅威に晒されてるという危機感の演出、
そして衝撃だったのがドラゴンボーンが使命を果たしたからといって、スカイリムの不穏な政治情勢は変わってなくて
世界はそのまま続いていくという演出。てっきりスタッフロールでも流れるのかと思ったらそういう演出すらない。
英雄とて、その世界の人間の一人にすぎないてのは衝撃だったなー。
そこは手抜きとは思えなかった。
10 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/20(水) 06:31:00.54 ID:68MGerom0
対戦ゲーってこれじゃねえの?
ローグ系まで行くと納得するしかないけど、ときめもだのオホーツクをあげるのはごり押しホルホルしか感じねーわ そんなんでいいならインベーダーゲームでいつショット撃つかだってナラティブだっての 本当にパックマンとかあげてるような記事もあるけどwww
いや概念というだけあって実際大雑把なものでしょラナティブ自体は 研究する上で分り易いように定義する必要はあってもこれ自体は所詮プレイヤーに委ねられる認識であって インベーダーでもラナティブは体験できる 要はそういう認識を制作側が意図してプレイヤーに植えつけるにはどういうゲーム性を目指していくべきか注目されてるってことでしょ
要はストーリーじゃないけどドラマのあるゲームってことだな
14 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/20(水) 23:57:10.68 ID:l/fZni0b0
○ プレイヤー一人ひとりのオリジナルストーリー × ぼく(開発者)のかんがえたさいきょうすとーりー
プレイヤーに判断する機会を与えない事、プレイヤーに行動を決定する権利を与えない事が事の問題かと プレイヤーの判断と言ってもゲーム画面から与えられた選択肢では難しい プレイヤーはそれだと、ゲームに対して受身に動いているだけだから その場合ゲームから選択肢を与えられなければ永遠に何も選択しなかった訳で プレイヤーが「自分から何かをしようとした」と言う関係を作り出す事が必要 仮に進む道が結局一本だとしても、自分でそこにたどり着いたのならそれは自分の経験になるから 仮に道が一本だけでもその一本の道を発見するのがプレイヤーでなければいけないはず プレイヤーは自由意志で好きな事や好きな解決手段で試行錯誤する中で失敗や成功の経験から学んで正しい正解の一本道を発見する
それを、開発者が、プレイヤーの目線で「プレイヤーだったらこれをしたいに違いない」もっと「プレイヤーはこう感じなさい」もっと「主人公はこう感じている」見たいにするから プレイヤーは束縛される その上で開発者は、長々とお話を開発者主導で盛り上げていこうとする
どうでもいいけどラナティブとか書いてるおポンチはナレーションという言葉を思い出せ ナラティブの名詞形だから
けどそのおポンティブ?にこうしてはっきり焦点があたる事は良いことだよね 思い出として強く印象に残りやすいゲームが増えればそれはユーザーにも嬉しいことだ まぁ新しい技術ってわけじゃないから今あるゲームからも人それぞれのおポンティブは生まれてるんだろうけど
要はストーリー展開がプレイヤーにとって能動的であるか受動的であるかどうかってことか
そんな感じだとおもう。
>>13 それも言葉通りの意味で考えると違う物も含むと思う
ドラマの主体性を持っているのが開発者なのかプレイヤーなのかと言う問題だと思う
感動の人間関係(ゲーム内の登場人物同士の)やドラマを展開しようとするけどプレイヤーが置いてけ堀ってのは多い
プレイヤーから見たプレイヤー視点でのドラマ、またはプレイヤー視点でのプレイヤーの体験した事によって生じた物語
プレイヤーの体験そのものの事またはその感動
>>8 むしろ自由でおもちゃ箱でいいんだと思う
「どこをいじろうか」プレイヤーは自分に渡された世界に対して興味津々
その興味津々なのにも拘らず自由に出来なきゃプレイヤーの経験と言う物語が成り立たない
そのゲームのどこがいけなかったかと言うと、何も起こらない事ではないかと思う
例えば、銃で銀行を襲おうと思った時、襲えば銀行を襲えば金が入ると言う成功シナリオが織り込まれていて
そのまま予想通り(予定通り)銀行強盗が出来てしまってそれ以上何も起こらない
だからその自由な行動は、プレイヤーにとってただの資金集めとしての価値しかないから、いじる事で得られるいじる事そのものの楽しみが無い
本来プレイヤーにとって自由な行動が取れると言う事の意味(メリット)は、プレイヤーが「色々与えられた空間で試す事ができてそれに対して反応が返る」と言う意味になると思います
「試す」からには結果の判定が欲しい訳で
このゲームを作った人にとって、プレイヤーの今からする事はOKなのかNGなのかまたは何なのかプレイヤーは聞いている(その行動を出来るようにした意味を)
プレイヤーは自由に動けるけど、その自由に動いた結果の、「だから何なのか」がかえる事で「行動を起こしたプレイヤーとその行動による結果を答えとして返したゲームとの間の物語」となります
自由に行動できるから、何々をしてみる、「その結果」痛い目を見た、「その結果」いい思いをした
結果と言うのはシミュレーションでやる前から分かってる予定の事ではないやる前では分からなかった事で
やって見なきゃ分からない事、やった事で初めて分かった結果、偶然性、意外性
「出来るか」「出来ないか」だけで、やる前から成功した時の結果が最初から既に出てるようなものとは違う
それをする事による発見が無い
それなのに自由に行動するとそれがそのまま進んで何も起こらない所
何か無茶な行動をとろうとした時、そのまま無茶な行動を取れるのはすっきりはするけれど
何をやってもそういう事にしかならないなら
本来はその場面では何か無茶な行動をとろうとした時、悪い結末が起こる事を期待してたりする
それが物語ではないかと
要するに「殴ったら殺す事が出来ます」より 「殴る事が出来るけど、殴ってみてどうなるか分からない、起こるかもしれないし、反撃されるかもしれないし、通報されるかもしれないし、知りたければ殴ってみたら?」の方がいいでしょ 上なんか物語にすれば短文一文で済んでしまう プレイヤーが「興味を持って試してみてどうなったかを知る」んだったら それだけの物語を通過する訳で
>>22 GTAがなぜナラティブじゃないのか、やっとちゃんと納得できた気がする。
と同時になんで自分はある程度やったとこで飽きたかも分かったような気も。
いろいろ試す楽しみってリアクションあってこそだよね。
そのリアクションで甘い思いや辛い思いをする中でその世界の有り様を学んで、
世界に干渉しつつ拘束されつつまたゲーム世界もそれに反応して変わりつつ進めていくのが
「生き生きと」ゲーム体験できてる状態なんだろうなと思った。
言う様にゲーム世界がリアクトして変わるのも重要な側面だよね。プレイヤーだけ一方的に学んで
世界が変化しないなら、それはただの覚えゲーだし。
そして世界が変化して、変化した新たな世界でさらにいろいろ試してまたリアクションを新たな世界から受ける。
そうすることでゲーム世界の時間がすすんで、その通った跡に物語(ナラティブ)が生まれると。
もしかして一時期連呼されてた自由度の落ち着く先としてナラティブが出てきた側面もあるのかな?
どっかで書いてあったけど、
今まで和ゲーがストーリーに縛り続けて来て、洋ゲーはストーリーから逃げて環境(エンジン)だけ提供してきた中で、
どっちでもないけどなんか生き生きと楽しめるゲームが「再発見」されて、分析するとそれがどうやら「ナラティブ」と言える概念だったと。
はっきり言ってこれをユーザーが語る意味はねーぞ ヒット作が出て批評家が分析する時にこれかもわからんねってあがるだけの概念だから
>>17 そうなると、日本で根付かせたいなら
ナラティブではなくナレーティブって言った方がいいかもね。
日本語としてのナレーションはあくまでも語りという意味であって、narrationが本来持つニュアンスが削げ落ちてるから揃える必要はないよ むしろ語りを台本や筋書きと連想することで反対の意味にとらわれる恐れもある 日本語表記で意味が変わるものにはモビール(動くもの)とモバイル(運べるもの)が有名だな ガンダムなんかをモバイルスーツと呼ばれると俺は手で運べるサイズを思い浮かべるw
>モバイルスーツ
ガンダムカラーに着色された痛スーツを連想した俺はさっさと寝たほうがいいらしい。
シャア専用痛スーツなど目も当てられない。
どうでもいいけど、
>>3 のリンクの記事で出てくるメルセデスモデルの例としてドラクエを出してるけど、
元々はウルティマでもなされた方法だよね。
記事によっては、ドラクエこそこの方式の元祖みたいなニュアンスで書いてあるのもあったので、気になった。
それに、「好きなとこから探索せい」というスタイルはウルティマ以前にもありそうだね。
テキストアドベンチャーのゾークあたりとかでもありそう。やったことないけど。
>>27 そろえた方がいいんじゃないかと思う
ナレーション本来の感覚で理解した方が良いと思う
>>28 たぶんそれはゲームが出来る前から存在したと思う
昔ながらの遊びやごっこの中にこの要素は含まれてると思う
>>29 言われてみれば「かくれんぼ」や「失せ物探し遊び」などの古典的な遊び自体がそういう構造だね。
今のゲームがゲームと言うものから外れて何か違う向きに進んでるように見える
そこでゲームとはなんぞやという定義が必要になってくる。
40年も経ってんだ、向きくらい変わるさ
ゲームと言うものの定義は分からないけど 遊びやごっこをコンピュータを使って再現したものかな? 現在のゲームは 映画をゲームで再現したもの か 物理シミュレーションソフト か
お前ゲームやってねえだろ?
36 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/23(土) 10:29:26.11 ID:RLu81jON0
ソーシャルの「面白かったら金払ってね」方式は やり方さえ合っていれば理にかなっているとは言える 「合うかわからんけど、まずは5000円払ってね」は 年々難しくなってきている
今的にゲームを作るとストーリーの筋書きに強制されるゲームと自由度が高いとされるゲームと分かれる訳ですね それを具体的な例で言うと、鏡が部屋の隅にかけられていた場合 ストーリーに強制されるゲームだったら、その鏡がシナリオに無関係だったら調べる事も触れる事も出来ない訳ですよね こういうゲームではストーリーに必要なものだけを順にたどっているだけですから 環境を再現して自由度の高いとされているゲームでは、今度はその鏡に対して割ると言う行為が出来たりする訳ですよね この二つには共通する点が存在すると思います それは鏡と言うものが存在する意味が無いと言う事 開発者にとってそこに鏡を配置した理由も意味も無いと言うところです 何の意図を持って鏡をそこに置いたか 何も無い 本来今のコンピューターゲームの概念が出来る前の段階では もしも「鏡」と言うものをCGで描いて配置したら、その自分で作ったものに対してきちんと意味を与える訳ですね 何で製作者が鏡を置いたのかというと、それが必要だと思ったからです 置いたからには何か意味を作るのが当然でしたよね
理想の反応とはそのゲームのその場面でその鏡を調べる事でその鏡を調べた時にしか起こらない反応が起こる事だと思います 例えばその鏡を見ると背後に人が立っていて、襲って来る、とか 鏡の中から怪奇現象で怪物が出て来る、とか 鏡に映った事で陰に落ちていた重要なものに気がついた、とか 鏡に意味が無いなら何でそこに配置されているのか? 意味の無いもので小さな世界を引き伸ばしているだけと言う事になりますよね 引き伸ばしているだけだから中身は薄っぺらい 触れる事が出来ないのも、一括して割れるようにするのも実は同じ事なんですよね 100枚のガラスが割れるのと一枚のガラスを割るのは同じだと思います 一度割れる事を確認したら、たぶん残りの99枚を割ってみようとは考えない事でしょう 同じ事しか起きないと分かりきってますから 一枚のガラスを割ってもらう為だけに苦労してどんなガラスでも割れるプログラムを作ったと言う訳ですね
鏡で敵の破壊光線を跳ね返せるようにしよう
>>37 の言うとおり、ナラティブはグラや音やAI以外のリアリティを
いかにつくり上げるかという取り組みの一つと言えそうだ。
確かにグラ、音、AIは進化した。だがリアルの部分的な側面だけなぞった結果、
ゲーム内世界の歪さはより顕著になったのだ。
いわばリアリティ経験の「不気味の谷」とも言える現象である。
リアルの欠落した部分がことさら目立ちギャグにすらなるのだ。
>>38 で指摘されているように、現実の物は多様な使い方の可能性を秘めている。
そして、その使い方に応じて道具の使い手に予想できるリアクションを返すだけでなく、
他の事物や想定外のことにもリアクションを返す。
そしてリアクションがリアクションを呼ぶチェーンリアクションが起きるのが自然である
(例:鏡の角度をかえる>外の景色が映りこむ>枯葉が見える>秋の到来を感じる>過去の秋を思い出す>・・・)。
そしてその偶発的なチェーンリアクションにすら人間は意味を見出す(例 秋なんだという感傷)。
人間は道具をいかようにも使い、その結果に意味を必ず見出そうとする生き物なのだ。
人間はそうやって日々の出来事にナラティブを見出している。
「いつもと同じだった」「こんなことが起きた」いずれもナラティブだ。
一方ゲーム世界では、プログラムこそが世界法則である。
ゲーム内道具のリアクションも全てプログラムに既定されており、
そのチェーンリアクション(例えば物理エンジンによるピタゴラ装置ごっこ)
すらプログラムに既定されている。プログラムの既定外の事は起きない。
起きたらそれは「バグ」と呼ばれ基本的に消される。
また容量や演算能力という世界法則の限界もある。
現在、ゲーム世界にリアリティを出そうと愚直にグラ・音・AI・物理エンジンと進化させ、
背景でしかなかったものにアクションできるところまでは来た(>38の鏡割り)。
だがまだその先に行けてない状態なのだ。
現実に起きうる道具の使い方の無数の可能性、そこから引き起こされる
無限の偶発的なチェーンリアクションを再現するには、コンピュータープロセッサの能力はまだまだである。
そして何より、そうする必要すらない。
全く当たり前だが、ゲーム世界はリアル世界ではない。
プレイヤーだってそんなことは望んでいない。
架空の世界での遊戯・試合・サバイバル・・そういった演出された体験を望んでいる。
歪んだリアリティは求めていない。
なら何を求めるか。
その一つの答えが、プレイヤーのアクションからはじまる偶発的なチェーンリアクション。
それも意味を見出せる偶発的なチェーンリアクション(あるいはそう見え、そう演出するプログラム)。
ナラティヴはそこに回答しようとする一つの試みなのかもしれない。
>>40 その先に行けてない状態っていうのは少し違う気がします
どちらかと言うと、もともともっていたその部分を忘れて置き去りにして、目に見えるすごい部分(CG、映像、演出、感動的なストーリー?)、それに数値的にすごい部分に目が行ってしまってると言う印象
現実の物理現象の再現?
人は何を感じたいか?その世界で人は何を求めるか?を忘れて、シナリオだけ一人歩きしてストーリーを押し付けたり、現実の物理則的な部分の再現
窓を割れるっていう事を表現する為に遠回しにガラスが割れると言うプログラムを態々作る等
ストーリーを感動的に練ろうとするところがどうやったら"筋書きだけで"やっている人の心をつかもうかと言う気持ちの先行
「偶発的」と言うのは場合にもよりますがプレイヤーから見た偶発で、実際は開発者にとっては計算された意図したものだった方が良いように思います
プレイヤーに思いがけない印象を与えるにはきちんと人の手で意図しないと難しいと思います
それとコンピュータの出す答えはたいてい人には予測可能な範囲だと思います
その上そのためだけに複雑な処理をする必要が出てきます
「偶発」と言うのはプレイヤー視点での思いがけない事 目の前の気になるものはプレイヤーから見ればそれはどう発展するものなのか知らない訳で 実行するまでは、プレイヤーから見てプラスにもなるマイナスにもなる可能性を秘めている、けれど分からない 実行する事で初めて分かる それがプレイヤー視点での「偶発」ではないかと思います プレイヤーが実際にやってみなければ分からない、やる事で初めて分かる事、確かめられる事 だから、そこに驚きや感動が存在する それに触れるまでは、それが「触れてみたい」「興味をそそる」「怪しい」と言う信号を出しているだけで それが何の意味を持っているのか、何が起こるのかを「調べて来る」のがプレイヤーの役目ではないかと思います だから、開発者の役目は「触れてみたい」「興味をそそる」「怪しい」と感じる信号を作り出す事 誰でも未知の物にはひかれます それが何なのかを自分の目や手で確かめる事で生れる物語 大げさに書いてると思いますが、小さい事一つ一つがそうだと思います
ナラティブ目当てでゲーム買う奴はいないし、ナラティブ目当てでゲームが作られることもない よく言われる作品も目新しいかゲームとして面白かっただけだ 体験なんて単なる後付けだよ
Watch Dogsってゲームが、いろんな電子機器をハッキング出来たり、住人一人一人に個人情報があったりで、かなりナラティビってる事が起こりそうだな
>>42 プレイヤー視点というのが、ナラティブデザインにおいて重視される理由だね。
おっしゃるようにゲームをしてる時のワクワク感は、
いちいちムービーシーンを挟まれてボタン押す作業をする時じゃなくて、
プレイヤーキャラクターを動かしていろんな「おっ」という反応から
連鎖的にいろんな出来事が起きて、ゲームの話を進められる時だと思うね。
>>43 少なくとも欧米ではナラティブをかなり意識して研究され、
デザイン理論化がここ数年で急速に進んでいる。
ナラティブデザインて言葉はかなりポピュラーな概念になってるよ。
日本の開発現場でどれだけ一般的か知らないけど、
今までは「分かってる」デザイナーの職人的ワザみたいなところがあったんじゃないかな。
先に命名したもの勝ちみたいなところはあるね。
日本のプレイヤーの間ではこの概念自体夏ごろにやっと
一般的になったっぽいから宣伝文句としてはまだ弱いのは確か。
でも少なくともゲームを評する人らは素人も含めて知ってて損はない概念でしょ。
今まで「ゲーム性」とか「ロールプレイング性」とかいうふわっとした概念で
一生懸命言おうとしてた事の一部をかなり代弁してるとおもう。
>>44 そのゲームはやったことないけど、そのゲームデザインはナラティブデザインにおける「創発的物語」を狙ってるようだね。
46 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/25(月) 21:35:56.86 ID:wJOftNmk0
>>31-33 かつては技術と想像力を使ってなんでもできたオモチャだったものが
いつしか型やジャンルができあがり、その枠の中からなかなか出られない
伝統芸能みたいなものに移行している気はするな
まぁ娯楽の移り変わりは大抵そんなものらしいけどな
歌舞伎の歴史なんか見てみるとまさにそんな感じ
1月前だけど、分かりやすい記事があったんで適当意訳・要約。
http://www.gamnesia.com/articles/narrative-design-in-video-games *英語力はお察しレベルなんで許してください
ビデオゲームにおけるナラティブデザイン(マライア・ビーム:ゲームネジアコラムニスト)
1.ナラティブデザインとは?
物語(ナラティブ)と物語らせる舞台装置の両方をデザインする
・物語そのもののデザイン(この場合単にストーリーじゃなく背景、世界観、裏設定などすべてひっくるめて)
・どうやってプレイヤーと物語とをやりとりさせるか(プレイヤーをほったらかしにしないか)
・プレイヤーをゲーム世界にどっぷり浸らせるためにどうやって様々なものをデザインするか
ナラティブデザイナーとは従来のシナリオライターとデザイナーを兼任するもの。
ゲームの物語をきっちりプレイヤーに遊ばせ引き込むようにゲームをデザインしないといけない。
2.ナラティブデザインの方法論
具体的な方法論の紹介
・環境ストーリーテリング
ゲーム内環境をして語らしめる手法。環境をいろいろいじることで様々な仕掛けが動き世界について理解を深めつつ話を進められる。
例:プレイヤーが記憶喪失で開始し、いつどこだれなになぜなどの情報を手探りで探し出しつつ話をすすめていくゲーム
・創発的物語
ゲームプレイとプレイ体験を通じて形作られていく物語。
事前に筋書きがあるわけではなく、要素同士の複雑な相関処理を通して色んな出来事が立ち上がっていく。
例:マインクラフトやDwarf Fortress(チビキャラワーワーなゲーム)で作られる個々人の物語。
・その他(フレーバー)
ゲーム中の要素(スタート画面、インターフェイス、フォント、ロード画面、等)をあらゆる面でゲームに引き込ませどっぷり浸からせるようにデザインする。
例:ボーダーランドのインターフェイス、スカイリムのロード画面で出てくる様々ガジェット、大神のセーブポイントの物実の大鏡
3.個人的にオススメナラティブゲー
・バスティオン
http://www.4gamer.net/games/139/G013995/20110905020/ ・ドラゴンエイジ:オリジンズ
・風ノ旅ビト
ちなみに環境ストーリーテリングと創発的物語については下記にもうちょっと詳しく書いてある(日本語)
環境ストーリーテリング(6章)
http://homepage1.nifty.com/sawaduki/game/sawa/cedec_r.html 創発的物語(2章)
http://9bit.99ing.net/Entry/31/ 環境ストーリーテリングデザインで個人的に代表と思うのはPortalシリーズと風ノ旅ビト、あとスマホゲーのスキタイのムスメとか
創発的物語デザインの代表だと思うのは、マインクラフトのようなサンドボックスゲーム、
シレンのようなローグライクの系譜とルナドンのような物語世界創造をガチでやろうとしてたタイトル
ここに挙げられてる日米のナラティブゲーも列挙してみる
http://www.slideshare.net/KoujiOhno/o-planning-narrative1b 日
ドラクエ、クロノ・トリガー、バイオ、シェンムー、ICO
メトロイドプライム、ワンダ、大神、ゼル伝 等
米
ウルティマW、GTA、ハーフライフ2、バイオショック、
アンチャーテッド、マスエフェクト、ポータル、等
年表でナラティブゲーの歴史を解説してるスライド
だったんでいろいろはしょられてる感はある。
以上、なんか抽象的な議論が続いたんで、分かりやすい話と
具体的なタイトルをあげてみたんですがいかがでしょうか。
>>43 何で昔はゲームが盛り上がっていたのに今はおとなしいか考えてみれば分かると思います
楽しいならみんなに売れますから
>>47-48 ありがとうございます
参考になります
50 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/26(火) 22:57:00.56 ID:SsgOKckW0
ドラクエはまだわかるけどクロノ・トリガーってナラティブゲーなのかな
どう感じるかは人によりだと思いますがそのサイトの方の主張には少し疑問も幾つか感じました 長かったので今から探すの面倒ですが それとGTAは1のサイトでは一般的には「物語」が無いものの例として挙げられてたと思います(もちろんプレイヤーによりけりですが) DQでも5ぐらいからストーリーに引っ張られる色合いがかなり強いと思います バイオもすっかりストーリーとシステムしか残ってないと思います 色々検証してみると面白いと思います
53 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/28(木) 17:49:50.66 ID:DmIDwude0
JRPGはナラティブとは真逆に位置してるな
奈良秩父
シレンって完全な偶然じゃなくて補正されてるんじゃなかったか? ○○の時にかぎって○○が出てきやがる みたいのが実際にそう設定されてるみたいな
つーか、結局こういうのはいつも通りの焼き肉ラウメンだよな。 明確に定義できないまま 各々が各々の勝手定義で語ってるから 焦点がぼやけて議論がグダグダするだけ。
「偶発性」、「当事者感」、 「インタラクティブ性」、「リアリティ」 みたいな既存の概念をごちゃ混ぜにして煙に巻いたようなものに 新しい名前付けてるだけじゃん。 昔でいうと「マルチメディア」みたいな胡散臭さを感じる。 名前だけ新しくして新しいものを語ってる気になってるだけ。
58 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/29(金) 00:21:24.13 ID:qT+6ZU7H0
ストーリー偏重が加速したがゆえに生まれた対概念だろうな
59 :
ゲーム好き名無しさん :2013/11/30(土) 15:14:09.79 ID:XVELZp5J0
こういうのって好きな人は多いよ 漫画だってブリーチとか人気あるだろ それにFFはファミコンの昔からこんな感じだったじゃん 昔のは表現が粗くて曖昧な部分が多かったから 勝手な理想を投影しやすかっただけ 実際のところ内容はさして変わらんよ
FF10・・・初週:1,749,737 累計:2,325,215 10-2・・・初週:1,472,914 累計:1,960,937 FF12・・・初週:1,840,397 累計:2,322,541 FF13・・・初週:1,516,532 累計:1,905,979 13-2・・・初週:605,660 累計:881,486 13-3・・・初週:277,082 ←NEW とうとうハーフもいかなくなったか
いわゆる「箱庭で自由に」ならシェンムーが現時点では完成系でしょ 開発費かかりすぎてSEGAがハード事業やめるレベルだったけどね ナラティブ推進するなら、その資金を出してあげなよ
63 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/06(金) 03:11:52.12 ID:1ge29cvw0
>>61 それでも消化率は結構高かったらしいからな
つまりもう小売からも見切りつけられてる
数値があって上下するノベルゲー以外のゲームなら どれにでも当てはまりそうなものだけど
数値なんかなくたってマインスイーパーでもいいでしょ 制作者が全て一つずつ想定しきれないほど多くの選択肢があるゲームなら何でもいい あとはそれに楽しさや意外性を感じさせる種をいかにうまく仕込むか
>>62 「シェンムー」は一本道でどちらかと言うとFFに近いと思います
だからここではフリーローミングのゲームとして
プレイヤーの視点でプレイヤーから見て何をしたかどうか
と言う視点で見て判断すると非常に分かりやすいと思います
一般的な一本道のゲームでプレイヤーの記憶に残った物事
・ここに行けと命じられたので、その通りの行動をとった
・ここでこうしろと命じられたので、その通りの行動をとった
・シナリオライターの用意した感動のストーリーを読んだ
フリーローミングのゲームの場合のプレイヤーの記憶に残った物事
・ミッションを持ちかけられたので受けた、受けなかった
・そのミッションでは何をやれと命じられたのでその通りやった
・開発者の用意した「出来ますよ」を一通りやってみた(果物をたたいて割る事ができますよ、通行人と話を出来ますよ)
どちらにも共通する事は、プレイヤーは開発者の用意した物事に対して受身でしかいられない事
直接何をやれと命じられるか、やる事を選ばされるかの違いです
開発者の提示した物事から自分で選んでも結局はそれは、その中のどれをやれと命じられているのと同じです
開発者がコントローラーでプレイヤーを操作しているゲームと言えます
プレイヤーが「こうしてみたい」「ここが気になる」こういう事はいつも無視され開発者主導で物語は進む
思いがけない何かとはそこでそのプレイヤーがその行為をやってみて初めて知る分かる事
最初から、このスイカをたたけば割れる事ができると分かっていて自由に割る事をしたとしても、人の店に置かれているものを万引きしようとしてそれが自由に出来たとしても、それを思いがけないと感じる事はない
数多いミッションの中から自由に選択をして好きなものだけを選んだとしても、その表示された中から自分で選んだんだからそれを思いがけないとは感じない、そのミッションをやったとしても予定通りそのミッションをこなすだけにすぎない
殴ったら割れるだろうと想定してそれが想像どおり割れても想像通りだなとしか感じないし
ミッションを受けてこなして報酬を受け取ると言うやる前から分かってる事をやれても予想通りただこなしているだけに過ぎない
プレイヤーが自分から何かをする簡単な一例を示します これは一つのパターンで一例に過ぎないためいかようにもなります 例えばゲームで、プレイヤーは建物に閉じ込められその建物から出たい、建物から出る事が目的だ となった場合 プレイヤーは外に出る為に自分の考えで「自由」に行動する訳ですよね 自分の考えで行動すると言うのは、誰かに(そのゲームを作った人に)する行動を何も命令はされていない訳で そして、作った人に、このゲームで出来る事を教えてもらってその中から何かやる訳でも無い訳ですね 自分の足で自分の目で、その建物を隅々まで調べて、どうしたら出られるのかを自分の頭で考えて、自分の手で実行する このゲームで外に出るには、何をしたらNGで何をしたら目的に近づけるか 全て自分の自己判断で「どうなるか」を試す訳です もしも、プレイヤーは入り口から出れると思うならそこを調べるだろうし、非常口から出ようとすればそこを調べるだろうし それが窓にも、通気口にも、勝手に自分で調べようとする それで、入り口から出ようとした場合どうなるか、非常口から出ようとした場合どうなるか、窓から出ようとした場合どうなるか それぞれ作られている訳ですね その他にも、外と連絡は取れるのか(電話、PC)、問題解決に力を貸してもらえる人を与えられた環境の中から探す、色々 もちろん簡単に目的を達成されては困りますから 入り口から出ようとした場合何らかの理由で出られなかったり、ゲームオーバー(バッドエンド)になったりするようにする 非常口も窓も同様にそうやって理由をつけては封じます、いったんは自由を与えますが、結局ふさいでしまうんですよね そうする事で、プレイヤーは「だったら、どうすればいいのか(どうすれば出れるのか)」を自分の頭を使って考え、自分で試行錯誤して、答えを自分で導き出そうとします それを例えるなら正解はどこをいじれば良いのか?と言う答えを探す、与えられた世界自体が一つのどこでもいじってもいいおもちゃ箱ですね 今までは入れなかった部屋は?表からは見えない隠された部屋の存在?鏡だと思っていたものの向こうには部屋が?壁にかけられた大きい絵画の裏には秘密の出口は無いのか?かかった服を全て端にどけると隠し通路の入り口は無いのか? 今まで出られなかった試して失敗して物事でも(最初に試してバッドエンドになったものでも)、何かのきっかけで先に進めるのか? 今火が燃えている暖炉の中には何が落ちてる?見た事のない鍵が?それともキーになる何かが?バスタブの中には?額縁の裏には? 置かれている消毒用アルコールは何に使うの?プレイヤーに与えられた目的(外に出る事)の為に役立つの?シャンプーは何に使うの?消火器は?スプーンは?ペットフードは外に出る為に何の役に? 無限に想像力が広がります その想像力をそのままプレイヤーに与えるのです それらは全てプレイヤーが主体となって行動を起こしている訳ですから その自分の意思で起こした行動全てが試行錯誤した記憶としてプレイヤーの記憶に残ります 開発者にやれと命令された訳でも、開発者から与えられているものの中から選べと命じられた訳でもないのですから 同じ自由でも与えられた「これとこれとこれが出来る」その中から好きに選びなさいと言う自由度とでは全然意味合いが違います
以下思いついた事羅列 プレイヤーが自分の意思でやりたい試してみたいと思うようにする事が必要だと思います そのためにはプレイヤーの興味をひきつけなければいけない プレイヤーに対して意味を持つ結果が試す事で得られないといけない 広大な世界に壊す事ができる石や木や自動車が並べられていて、その中に突如未知の反応をする何かが存在したとして プレイヤーはその物体に興味をそそるだろうか? この広大な世界でのプレイヤーの関心事は何? そこに存在した物体がその興味を発するだろうか? プレイヤーが興味や関心を持つ物は最初からプレイヤーが気にしている物でなければいけない もしも、ここに来るまでさまざまなものが興味を引き、そのつどプレイヤーが驚かされたり感動してきた連続性の延長上に存在するなら興味をひきつける またはプレイヤーが達成したい事から脇道にそれる誘う事でも可能 例を挙げて書けば、外に出たいと思っている時に、外に出たいと思って色々探している時にちょうど窓がそこに存在するから窓に興味を引かれるんで在って 外に出たいと言う欲求の無いプレイヤーに窓を並べてもだから何?って話でしかない 外に出たい時に外に出れる事を連想するものが登場する(逆に外に出たい時、ちょうど窓がそこに存在するにも拘らず窓を調べる事が出来なければ興味がそがれる) さすがにそのまま外に出れるとは思えないけれど、調べたらどうなるのだろうか? そう興味をそそる さらに、それはその直前まで同じように入り口から出ようとすると言う行動が取れてここでも何かの反応を期待できるからここを調べてみたいとプレイヤーは感じたのです もし広い町並みで同じように並べられた窓が無数に存在する中、今まで興味を引かれたものを調べても何も起こらなかったところに突如窓が何か反応するサインを出してもプレイヤーはそれにひきつけられない プレイヤーがプレイヤーから興味を持ったところにちょうどその興味を持った対象物が何かを起こさなければそれは成り立たない だから、空気を読んで配置する事が必要 外との連絡が遮断されていれば、電話が存在すれば興味を持つ 敵と戦っている時に武器になりそうな鈍器になりそうな消火器が落ちていればプレイヤーは武器としてをそれをみる でもする事も別に無いプレイヤーが野に放たれた状態で、消火器が落ちてそれが武器に使えても、電話が使えてもプレイヤーは「そう使えるんだ」「作りこまれているね」「便利だ」としか感じていない もちろん火が付いている時に消火器が落ちていればプレイヤーは火を消す道具としてみる その時にそこに存在する消火器はただの背景なのか、ただの武器なのか、きちんと役割を果すのか プレイヤーにそこを調べて何か起こりえると言う期待を与える事 前に大きな絵画を外すと抜け道が見つかった、だから、プレイヤーは怪しい鏡の裏を調べてみたいと感じる 前に棚の上から見つけたシャンプーがキーになった、だから、もっと隅々まで調べたい、調べてみよう
要するに、上の例では、プレイヤーが外に出ると言う目的を最初に与えられ、プレイヤー自身がその目的を基準に自分から行動を取っている そして、目的と言う基準を持っているからこそ、自分の足で探索して気になった箇所を調べる その探索して気になった箇所を調べた結果、例えば入り口を調べたらきちんと調べられて、そこから出れない事が自分の行動で分かった だからこそ(そこが調べられたからこそ)、次は別の場所、窓を調べて見ようと思ったし、非常口を調べようと思ったし もっと細かな物を調べようと言う気になれた その一連の行為が一筋で繋がっているからプレイヤーにとってはそれが物語といえる プレイヤーが一つの目的のために頭と手足を動かして自分で行動して「だめだった事」「成功した事」の経験の歴史そのものがプレイヤーにとっての実体験の物語としてプレイヤーに濃密に存在している 「この建築物から外に出ようと思ったけど、入り口を調べても、非常口を調べてもそこからは出れなかったし、そこから出ようとしてひどい目も見た 探してるうちに窓が見つかったからそこから出ようと思ったけどやっぱり思ったようには行かなかったよ・・・・・・・でこれこれこういういきさつでやっと外に出れたよ」 それがそのような感じで一筋で繋がっていないとそれはプレイヤーにとっての物語にはなりえない訳で プレイヤーが調べたいとも思っていない場所が唐突に調べられても、それが至る場所にちりばめられていても それはまだただばらばらに散らかった「やれる事」でしかない その散らばった「やれる事」に物語性をプレイヤーが感じるか?と言うと疑問が大いに残ります 必ず必要とされる目的はプレイヤーが自ら動いて行動をするための理由で、プレイヤーが目的を持ち際すればプレイヤーが自分で勝手に目的を持っても開発者が決めて与えてもいい ただし、その目的達成までの道のりはプレイヤーが考える部分(と言っても複数のルートを開発者が与える訳ではない、自分で道のりを見つける事) プレイヤーの視点でその目的のもとプレイヤーだったらどう考え何をしたいかを基準に作りこまなければいけないと思います 大事なのは目的の為の経験した歴史の記憶
自由度なんか歌ってない脱出ゲームこそプレイヤー主体ということか プレイヤーの行動すべてが最終目的の達成に指向している 大魔王とは関係なさそうだけど困ってる人がいたから助けようとはならない訳だ
>>70 >大魔王とは関係なさそうだけど困ってる人がいたから助けよう
>プレイヤーの行動すべてが最終目的の達成に指向している
これはこれでOKなのですよね
そこが複雑だと思います
どちらかと言うと、最終目標に向かっているからこそ、最終目標の脇にそれたりする道や最終目標を失敗にする落とし穴の存在が映えて来る
最終目標に向かって一直線でそれしか行動が出来なければそれは一本道と言う事になります
「最終目標に向かっている」と言う行動をとっているからこそ、目標でないとされる物事と言うものも存在する事が出来る?そしてそちらに進む事が出来る?
プレイヤーは最終目的を基準に持っていて、その上で自由に動ける
この状態だからこそプレイヤーは目標以外の行動をとる事(取れる事)一つ一つに意味が発生するのです
大魔王を倒す使命を目的に旅をする主人公がその途中で出会った困った人を助ける
これをプレイヤーの物語の視点で見てみると
「大魔王を倒す旅に出たよ、そうしたらその途中には困った人たちがいてその人を助けたよ」
と言うのもプレイヤーの経験した物語と言えます
旅の途中で出会ったさまざまな予定外の行動は物語の一部として成り立ちます
主人公の旅の話の一部分として成り立っていますから
ですが、はじめからただする事もない状態の人
それで、ミッションを探している人が、予定通りのミッションを受けられる場所を見つけてミッションを受けても
それでは実体験としては何の物語ではない
と言うと分かり辛いかな?
乱雑にいうと、いたるところにミッションリストがずらっと並んでいてそれぞれそのミッションを受ける
確かに自由選択は出来ますが、それにプレイヤーは物語がそこに存在するかな?と言う事ですね
ミッション一覧の中から好きなミッションを勝手に選んで達成したそこに物語が無いと言う事ですね
やりたければ自動車を壊しても人を刺してもご勝手に、ミッションもご自由に
外に出ようとする時に起こる部分で言う「窓から出ようとして出れなかった」と例を挙げましたがその部分と同じですね 本来「外に出る目的の為まっすぐ進む」だったら失敗する事や意味の無い物事や選択肢作ったり調べられるようにする必要は無いのですが 「外に出ようとする中、それに必要な何かを自分でそれを発見しようとする」「窓から出ようとしたら誰かに突き落とされてゲームオーバーになった」 「大魔王を倒す旅に出て、そのための色々な道のりの中で、自分の足でそのために必要な物、人、場所探し出して、その中の一つとして隠れた本筋に関係の無い展開を発見する」 思いがけない物事ともいえます 「大魔王を倒す旅に出た、最初に見えた町はどんな町?この洞窟は何?集落は何?何の意味を持ってるの?この遺跡は何の意味?このお城は何?その中の人は困っているの?」 自由度、同じ自由でも自由に行動して、その中から出来る事も、出来ない事も、やってはいけない事も、脇道も存在する、その世界の中で自由にやって一つの答えを自分で探すと言うのと 自由に選択していい一覧リストをその中から、どれを選んでもいいと渡され、そのどれも、必ず出来る事、やっていい事しかない(やってはいけない事、やったらいけない事ははじめからそのリストには無い)のとでは違うと思いいます 山のはずれの普段だったら立ち寄らないところにひっそりと山小屋が建っていて、プレイヤーがその山小屋を発見する必要は無い それを自らの探究心から見つけ出して発見して、本来の話から見て余計な依頼を受けると言うのと 目立つ場所に目次のように立ってる依頼人から単純な作業の依頼を受けると言うのでは全然違うと言う事ですね 人から与えられた試練や選択肢ではない自分で見つけた物には「ここにこんなものが!」と言う驚きや感動がそこには存在します それらを旅で色々経験して初めて魔王を倒す旅で大魔王を倒すまでの道のりがプレイヤーの物語になっています 自分で頭と手足を動かし、色々な物に出会った、山のはずれには小屋を見つけてそこで困った人に頼まれた事もした事もその記憶の一つ そういうのを全部含めた物が大魔王を倒す旅に出たプレイヤーの経験した自分の歴史の物語です プレイヤーの「魔王を倒す旅」と言うプレイヤー=主人公の物語です そうでないと、製作者の作った物語をなぞるだけになりますから その経験が濃密に詰まっているからこそ、大魔王を倒すという目的に至った時、それか閉じ込められた建造物から目的の外に出る事に成功した時、それまでの体験がそれまでの物語として振り返って感じられるのです 目的達成までの長い道のりの中で経験した数々の貴重な体験、その一つ一つ この大魔王を倒すゲームと建築物の外に出るゲームは基本的な部分で同じ構造だと思います(と言う事はこういう構造でないタイプ物語を感じるものも存在する)
クルペッコが呼びだしたイビルジョーが
プレイヤーそっちのけでペッコ噛み殺したり、切られた自分の尻尾くいはじめたりするけど
それらがシナリオ上の確定行動として組み込まれていないのであればナレティブってことでいいのかな?
>>28 >ガンダムカラーの痛スーツ
逆転裁判5にいますぜ
古い方のバイオハザードで、 プレイヤーの思い思いに探索して自由に探索し、それぞれキーアイテムゲットの手順が違うのがナラティブな体験 対して「ショットガンがあるんだからそれでドア壊して開けろよ」「なんで鍵が必要ないって分かるんだよ」 って思ってしまうのがナラティブではない体験ってことかな
>>73 それは「そういうシステムだ」って事だと思う
「ペッコが呼びだしたイビルジョーがペッコ噛み殺したり 、自分の尻尾を食べ始めた」と言えばプレイヤーの体験になるけれど
「シナリオ上の確定行動として組み込まれていないがそうなるシステムだ」と言うとそれはプレイヤーにとって見たら「そういうシステムなんだからそのつもりでプレイする」となるだけですね
だから結論を言うと人の手でシナリオを考えた方が(シナリオ上の確定として組み込んだ方が)プレイヤーにそういった気持ちを与えやすい(やすいだけでそうでない場合も)
だからと言って人が作れりさえすえばそうなると言うものでもない
そうなるよう作ればそうなると言うしかないのかな?
プレイヤーの経験、主人公の経験と言う視点で見れば、それが何をすれば何が起こると決まっていたとしても
決まっていなかったとしても、一度目は同じだし、二度目は使い回しでしかないから二度目は「それはもう知ってる」としか感じない
プレイヤーにとって害だった場合「うざい」利益だった場合「ラッキー」
「意外性」何だから一定の確率でそれが起こる事を予め分かっていたら、意外でもなんでもない訳でそれは想定内
今はこのタイミングでは起きなかったとしても、いつか起こるだろう(起こる可能性が多少でも)と分かってる範囲だったら
ゲーム側から見た不確定とやってる人から見た不確定は正反対の場合が多いと思う
ゲーム側からランダムで決定していない事をプレイヤーは想定のうちにしてる事は多いし、作った人によって折込済みの出来事はプレイヤーにとってはやってみてはじめて分る場合が多い
コンピュータ側から見た思いがけない事と、それを見ている側から感じた思いがけない事の違い
>>74 そんな感じだと思います
>>71 見ているとどうも「自分の物語」というのを「自分だけのユニークで他プレイヤーには再現されない物語」と捉えているように思える
大切なのはプレイヤー選びたい行動があるときそれが選択肢として用意されているか、また選ぶまでもなく勝手にそれをPCがするかということ
鍵が無いからショットガンで開けるはとてもいいが鍵穴にコショウを振り掛けたりする選択肢はらいらない
街中にある鏡を全てつついて回る奇特な人間など相手にしなければいい
出来ることがリスト表示されたってその中にやりたいこと当然やるべきことがあればいい
ただ目的なく彷徨うプレイヤーは何にでも関心を持ってしまうが無限の作り込みは現実的に不可能
だから誰がプレイしてもこれはしなくてはという説得力のあるPCの目的を与えて関心を制限しなければならない
時間的に差し迫っているものであればもっといい
その上でプレイヤーがPCの目的の達成に役立つと考えるものが実際役立つまたは役立たない理由が分かる必要がある
役立たないものはただの背景でいいしそれに興味をもたれたらその時点で制作者の失敗
だからPCの目的の達成と関係なくプレイヤーの正義感や好奇心をそそるものはなるべく排除したほうがいい
77 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/11(水) 23:04:40.49 ID:L5PbDAOx0
>>74 ちょっと話が逸れてしまうけど、あれだけ複雑な構造の館を
たった数本の鍵+αで巧みにルート制御してたよね。
初代バイオハザードの一番凄かった点はそこだと思ってる。
それでいて、自分で探索している感がバリバリ出ている。
「キーアイテムゲットの手順が違う」とプレイヤーに感じさせながら
「キーアイテムゲットの手順が大体同じ」になることが凄いというか。
自由度というのは実は精密な設計の中にあるものなのかなと思った。
リメイク版ではその設計に更に磨きがかかってたから唸らされた。
ランダムイベントの豊富なゲーム=ナラティブなゲームって訳じゃないのか
自由な「気がする」のがナラティブ FF13はフィールドが「目に見えて」一本道だったから一本道ゲーだと言われているが、 4以降、FFのフィールドは注意してプレイして見れば分かるが 全てストーリー上「山や海などで遮られ、曲がりくねっているだけ」の一本道になっている 要は、プレイヤーを騙せるかどうか
>>78 向こうじゃPortalやマスエフェクトなんかもナラティブだと言われているから
PCとの一体感って意味合いに近いんじゃない?
ほら やっぱり焼き肉ラウメンだろ
たぶん1000まで行ってもまだ定義の話してるだろうな
これって特別なことじゃないから ゲームなら当たり前に持ってることだから 何言ってんのお前? って>>3の研究記事の時点で言われてるという
まず、何のことを言ってるのかはっきりしてないから、 ゲームなら当たり前に持ってること、であるのかの判断が不能なんだよな。
>>76 >他プレイヤーには再現されない物語
実際にどういう感じたのか分からないので「他プレイヤーには再現されない物語」についてどういう想定をしているのか書いて頂けると助かります
「自分の物語」=自分のした体験、それで生じた記憶
自分の内面、感情の流れ感じた事
大切なのはプレイヤーが選びたい時それが選択肢として用意されているのは良いけれど
勝手にそれをPCがすると困ると思います、勝手にされたら他人の物語になるので、それだったら勝手にムービーで全部やってしまえる
プレイヤーがそれを行動するまで待って行動した事によってそれが結果に変ると言う形式にしないと
ゲーム側はプレイヤーが行動を起こすまではただ待つだけ、好転するか悪化するかの答えだけを用意して
プレイヤーが行動をした時にそれに対して結果をつけるのです
>鍵が無いからショットガンで開けるはとてもいいが鍵穴にコショウを振り掛けたりする選択肢はらいらない
プレイヤーとゲームの処理は分けて考えるべきだと思います
プレイヤーはプレイヤーの考えプレイヤーの基準で自分勝手に自由に行動する、ゲームはプレイヤーのした行動に対してそれに応じた処理を淡々と返す
プレイヤーは「ショットガンで開ける」と言う行動も「コショウを振り掛ける」と言うのも可能ならば出来るようにする
それに対してゲーム側は、受身に答えを返す、プレイヤーが「ショットガンで開ける」と言う行動をとった場合どうするのか、そのまま開けられて良いのか?だめなのか?
コショウを振り掛けた場合はどうなのか?
そうする事で初めて、ショットガンで壊す事が仮に出来た時、その行動がプレイヤーの「自分でやった行動」と言う事になる訳です
もしもプレイヤーはこう考えるだろうと言う事を製作者が勝手に選択すれば、制作者がプレイヤーをそう動かしたと言う行動になってしまいます
大抵の人は空気を読みますから、プレイヤーも開発者も同じでゲームを作る時、自分の固定概念を基準に勝手にプレイヤーがとる行動を決めつけてしまう事は多い
例えば今回のように、ショットガン+鍵の扉=必ず扉を開けられる
でも、本当にプレイヤーはそうでしょうか?と言う部分、本当にショットガンで扉を開きたいと思っているか?って部分です、このお話はまた後で
でも普通のプレイヤーはショットガンで扉を壊そうとするでしょう
そこでショットガンで扉を破壊しようとして、それがその通り成功する時そのまま壊れたとします
その場合はじめからショットガンで、プレイヤーは壊れる事を予期していた事になりますから面白みが無いと思います、当然の事が起こるのでは作業が一つ余計に増えるだけです
>出来るが事リスト表示されその中にやりたいものを見つけたとします プレイヤーが自分でその動いていると確信する為に必要なのは自分が能動的に自分から動いている状態です 仮にリスト表示されその中から見つけてもそれは、与えてもらった相手の用意した物語を中から選んだだけで自分の物語ではない 自分の物語はまず自分から行動してみなければ生じない 1金持ちの護衛 2化け物の討伐 3洞窟の中で物を拾って来る 1を気に入ったとします 金持ちを護衛するのは自分の物語ですか?って部分ですね 確かにやるかどうかは自分で決めましたが、自分でそうなる選択を探した訳でもないし、自分の足でそういう局面にたどり着いた訳でも無い 本来そのような困った人がいるかどうかはプレイヤーは知らないはずです もしかしたら見逃されてしまうようなものがひっそりと存在し、でもたいていは見逃される、でもプレイヤーは好奇心から自分でその存在を調べ上げて発見して驚き、それには発展性が存在して、そこからどうするかも全て自分で判断し選択を繰り返す だからそれが自分の物語になるのではないでしょうか はじめから、やれる事リストが存在し、その中から勝手に自分で請けて勝手に報酬を受けて勝手に帰るそれでこんな経験したよと感動できますか?って話ですね 金持ちを護衛すると言うお話を始めたんだから、お金持ちを護衛するストーリーが展開される それで、そのストーリーの所在はと言うとプレイヤーの自分自身のお話ではないですね そのストーリーの筋書きを用意した人物のお話です ここでいうプレイヤーのお話は選択をする事にしたって部分だけです 選択肢を提示して来る人がいるので選択肢を選びました でも経験は自分のものではないです 筋書きを用意した人が与えたもの
好奇心をそそる物こそ作った方が良いと思います プレイヤーが能動的に行動をするという事はプレイヤーがまず興味を持たなければいけない お城に向かっているけれど、見える場所に洞窟が 気になりますね テーブルの上にフライパンが・・・ もしも化け物に追跡されていたらそれだたたいてみたい? ゲームがプレイヤーに対して受身でいてそれでゲームが成立するには そこに存在するものが好奇心や興味をそそる物でなければいけない(プレイヤーに能動的なゲーム=プレイヤーがやらされているゲームです) ショットガンとコショウを使って欲しいなら、それらが目をひきつけなければいけない 目をひきつけて使う許可を与えておいて、その上で失敗を強制するのです 目的の達成に役立たないものがいっぱい存在するから、目的達成する為に必要なものを「"自分"で探して見つけた」と言う結果が成立するのです もしも攻略に必要なものだけ調べられて、それらを、点・点・点・とそこだけ結んで最短で進むとそれは、日本的なゲームとして例に挙げられている一本道のゲームになります 本来人は失敗をする生き物です、色々な失敗の可能性の存在する中で失敗しながら、または正解だけを進んで自分の記憶を作るのが人間です プレイヤーは基本縛られるのがいやで反逆したいものです 目的を与えると、目的と反対の事を試したいと思うのが人間 では、目的と反対の行動をとったらどうなるのか 身をもって体感できるようにしてやれば そのプレイヤーは満足して目的に向かいますよ 普通の人間は失敗して(または試行錯誤して)学ぶものです 成功する物事だけを点で結んだように進む事はまず無いです 何でショットガンで扉を破ろうと思ったのか? 作者にとってはショットガン=扉を壊す事ができると言う固定概念が存在していたからです もしかしたら、その主人公は蹴破ろうとするかもしれない、弾薬がもったいないし、横に落ちてるいすでたたきつけるかもしれないし 無ければ体当たりするかもしれない それなのに最初から「ショットガン」と言う道だけが存在していて、プレイヤーはそれを自分でそのやり方を思いついたと感じていると思ってそう作る でもプレイヤーは実際にはショットガンで空けると言う行為を強制されていると感じる 何故ならば、その他の行為を試していないし試す事も出来ないから 試してだめな中試行錯誤してそのやり方を発見した、それだったらそれは本当の意味で自分で思いついた考え、やり方 でも、はじめから何も試さず、成功する道だけが存在していて、プレイヤーがいつか気がついてその道に進むのを待っている それが今の典型的な一本道のゲームだと思います もしかしたらショットガンで開いたら失敗し、コショウで成功する扉かもしれないですよ そちらの方が実は面白いです 最初に書かれている「意外性」とはまさにこの事をさすものですね 普通だったら思いつきそうなショットガンで試したら失敗して、で試行錯誤の結果何らかの理屈でコショウを使えは開けられると言う事が分かる もともと答えが出ているものを、じゃ、やれと言えば、やらされてると思いますが、もっともそれらしいものは不正解で、じゃ答えを自分で見つけなさい、といえばプレイヤーは自分の頭で答えを探す事になります
それから、目的も無いプレイヤーが「何にでも関心を持ってしまう事は無い」です 逆です 目的が無いのだから、する事が何も無い、だから関心も何も無い と言うのが一般的です 目的が無いからする事も無いのに作り手はどんどん作りこんでしまう 目的が存在するから、初めて関心が存在する 目的の無い人はフライパンで人の頭をたたけなかったとしてもたたけたとしても別に気にも留めないし興味も無い でも殺人犯につけられてるプレイヤーにとっては、フライパンを見たらこれで撃退できるんじゃないだろうか?と言う興味を示す 今まで気にならなかった通りがけに見かけた消火器もこれなら撃退できるんじゃないだろうか?と言う疑問が沸いて来る すると次に考えるのはそれで撃退してみた場合どうなるか? 成功するのか?失敗するのか? ゲームはそれに応えるだけでいいのです 逆に閉じ込められて外に出たいと思っている人には消火器は窓や扉を破る為の道具に見えて来るでしょう それも目的が存在して初めて興味が出て来るのです 目的が無ければ、何が落ちていてもそんなに気にならない 物理現象を再現したプログラムを用いて、窓を割れるようにしたとします 目的も無い人には窓を割れると言ってもそれはただの現象に過ぎないので、それがやれると言うのでゲームを試すと言う「目的」で一回試しに割ってみたら興味を失います でも、閉じ込められた、外に出たい、と言う人にとっては窓は外に出れる出口と目に映ります だから窓に興味を持って、窓から出る手段を探そうと言う、気持ちがここではじめて起こります 外に出ると言う目的を持ったから、窓と外に出る目的は関連付けられ、窓に対し興味を持つのです でも話は続きます 窓に興味を持ったプレイヤーが、その興味のまま実行した事で、目的が達成されたらプレイヤーの経験はそれ以上発展しない だから窓に興味を持って窓から目的を達成しようとした、そうしたら、それはやっぱり出来なかった、と言う結果を返すのです そうする事で、プレイヤーはじゃどうしたらいいのか?っていう気持ちになります その気持ちによって、別の達成の手段を探したり、今の手段のやり方を変えたり、より試行錯誤するようになります その試行錯誤の道筋そのものがプレイヤーの物語そのものです 「プレイヤーが選びたい時それが選択肢として用意されている」と言うのと、「プレイヤーの選んだ選択が実行される」と言うのは違います プレイヤーが出来るのは「興味を持った時、それを選択をしてみる事が可能だ」と言う部分だけです、「選択をしてみて、それで結果どうだったか」はゲーム側が用意する物です 当然選択の失敗が起こりうる訳です
補足 扉が閉まっていたのでショットガンで破壊して進むと言う、実際に取った行動や起こった事実だけ転々と結んだ筋道の歴史がストーリーで 扉が開かなかった、だからここではどう困って、色々どうやったら良いのか試してみてだからこう試してみたら成功した、だから今こういう気分になった、と言う事実とその時のどう感じたかと言う心の部分をひっ包るめたまさに自分の体験した出来事の歴史がナレーティブ だから、ショットガンで開いたら失敗し、試行錯誤してコショウで成功する道を発見したと言う方がナレーティブにしやすい 「邪魔な扉をショットガンで破壊して進む」より「鍵穴にコショウをかける事を発見した」の方が、自分での発見に近い それで、ゲーム内にコショウで扉を開けられると言う情報をばらばらにちりばめてやるとプレイヤーはそれを集めてつなぎたして推理して「鍵穴にコショウをかけると言う事」を発見しそれを試してみる 「どう判断するか」をプレイヤーに委ねる事が大事ではないかと思います ゲーム開発者はプレイヤーがそう判断した場合にどう出るか?の部分を考える ゲーム開発者がプレイヤーの判断を決め付けてるから、プレイヤーがストーリーの筋だけをなぞらされる羽目になってると感じると思います
扉に銃撃ったら跳ね返ってきて危ないんじゃないか?
頑張って読もうとしてみたが、やめた 添削能力に問題があるとしか これを読まされる相手の身になれないからこんな文章を書く
俺も昔からナラティブ的なことを考えてたが、 かなり深く考えてるみたいだね。 まだちゃんと全部読んでないからあとでゆっくり読んでみよう。 へんな文句は気にせずどんどん書いちゃってくだされ。
>>85 一本道のムービーゲーでもナラティブになりうるって書いてあるじゃん
ただプレイヤーと制作者が設定したPCと性格も思想も信条も人生観も一致すればだけど
で、なかなか一致しないから制作者がPCの個性をこれだと決めずプレイヤーに選択肢を与えるのよ
もしプレイヤーが制作者に会って一品モノのゲームを作ることができたら
ゲーム中で自由じゃなかろうが自分の物語に他ならないよね
扉にコショウをかける話だと
特異な世界観でもない限り扉にコショウかけて開くというのは不条理極まりないよね
で、扉にコショウかける選択をしたら「なんだこいつは俺だったらこんなことはしない」ってなっちゃうじゃん
だったらそんな選択肢を選ぶのはいかにも総当たりなプログラム的で自分の体験ではないでしょう
なら選ばない選択肢は最初からいらない
興味を持たせちゃいけない話だと
ゲームだから普段旅行とかしない人でも遠くに山があればいくし川があれば入る
でも無限の作り込みはできないから絶対どこかしらで移動制限されたりハリボテってことになる
そしたら俺は行きたいのにPCは行かなかったor行ったと思ったら何もなかったになっちゃうじゃん
だからその唯一の解決策は行こうと思わなくするのみ
プレイヤーの判断の判断に委ねるってのはあくまで多くのプレイヤーに対応できるってだけで
コショウも塩も砂糖もベーキングパウダーでも鍵穴にかけられるけど扉を壊すのは無理じゃ本末転倒
試行錯誤するのはいいけど「俺はこれがやりたいのにゲーム的な理由でできない」があっちゃいけない
100人がプレイ日記書いたら100個違うものができるなんてどうでもよくて
たとえ10パターン位しかなくても100人が「PCは確かに俺でこのゲームは俺の物語だった」という体験をすればいいの
例えば扉に顔がついてるとか んで胡椒ふりかけたらクシャミしてバーンと開くとか
それなら殴ったほうが早いな
殴ってみたが明かに金属で硬かったよ HPを-2 さらにペナルティとして利き手を怪我状態に
上の方で
>>77 が書いてたけど、
上質な自由度ってのは緻密な設計が裏にあってこそだとは思うね。
その自由度を基盤にしたプレイヤーの冒険(ナラティブ)も然り。
長文で書かれてる方の言ってる事は
能動的であるべきはプレイヤーであって用意されたストーリーではないとか
要所要所で的を射てると思うところもある反面、
それ単体ではゲームとして面白くないんじゃないか、と感じる部分もあるなぁ。
ドアにコショウをかけて開く事そのものに異を唱えはしないが、
ショットガンをぶっ放して開かないのにコショウで開くなんてイベントが「組まれて」いたら
それこそそのイベントを通じて開発者の姿が透けて見えちゃう気がする。
コショウをかけると開くというヒントがゲーム中に散りばめられていたとしても
きちんとした道理がないと開くことは理解できても納得はできないしね。
とは言えコショウの件は一例を示しただけだと思うから言及するつもりはないんだけど、
こういう事一つをとっても、上述した通り緻密な設計あってこそだとは思うわ。
>もしプレイヤーが制作者に会って一品モノのゲームを作ることができたら それは同じ物語と表記される物でも自分の作ったと言うここでいうところのストーリーの事で、自分の経験の自分の物語の事ではないですよね (その物語は客観的な物語で打らが見ても同じ内容に感じます、誰が見ても時系列が同じで決まった流れ、筋を表す事が可能ですね) 予め自分の決めた道筋をなぞっているだけです 態々ストーリーと対比しているのだからその違いの部分ですよね どう説明したら良いかな 自分の物語とは自分の経験の「語り」の部分ですねナレーションと照らして考えると分かりやすいと思います(対比されてるストーリーは客観的に見た物語ですね、ゲームで言う自分の物語に対して) 「銃で扉を壊した」と言うのはしっかりと客観的に順序や手順を言葉で伝える事が出来る出来事の結果ですね 通過点がはっきりしているのでここで言うストーリーです ここで話しているのは、体験のようなもの その例、その場面、敢えて言えば「総当たりな」行動をとっているその「今」が自分の体験ですね 何か一つの行動をするためにやった行動そのもの 地が出た本来の自分、その自分が経験した事、思いを言葉にして「語って」見て下さい、それが自分の物語です だから100人いたら自然に100パターンになるものです でもそれを何が起こったかを書いて下さいと言えば100人が100人、同じ事を書きます とった行動は同じですから
扉を壊すのは無理じゃ本末転倒 そこです 知恵の輪を考えて下さい、もしも知恵の輪でまっすぐ引っ張っただけで取れてしまったら知恵の輪は知恵の輪として意味を成さない まっすぐ引っ張っただけでとりたい、でもそうできず、どうしたら良いのかそれにしたがってしか解けない だからそれが遊びとして成り立つのではないですか? もしも「銃で扉を破壊したい」と最初に思った人がそのまま銃で扉を破壊したらそれで話は終了してしまいます それを上の自分の物語に置き換えてみると、大雑把に見たら「銃で扉を破壊した」と言う筋の部分しかないと言う事になりますよね? ここでいえばこの「銃で壊す」と言うのは話の「筋」で物語ではないって事になります では、何で銃で撃とうと思ったんですか?そこに至る動機は?背景は?どういういきさつで銃で壊そうと言う結論に至ったんですか? そういう部分がはっきり存在して、物語、物語ると言えると思います 銃で撃って扉を壊す「物語」を作るにはその部分を作らなければいけない だから銃で扉を壊したいなら、この場面では思ったら即実行→終了では困ります これでは扉がただ銃を撃つ「的」が出て来たから撃ったと言う存在にしかならないですから背景が無いし気持ちも無いだから物語も無い 同じ一瞬で終了する物でも「敵に追跡されていてそれを撃退する為に、フライパンを発見した」と言う場合はフライパンで撃退する部分は一瞬でも それまでにその結末に繋がってる一連の物語が存在します 「敵に追跡されていてずっと逃げていた、困った主人公はフライパンを見つけてた、そして思いついた、それで撃退しできるか試してみようと、そうして撃退した」、と前々の物語と一続きになっている 悪いとり方をすれば、扉が出て来てそのまま銃で撃ったというのは、それだけを物語として見ると「目の前に扉(的)が出て来たので銃で撃った」と一言にしかならない、それでは短過ぎて自分の物語が形成できないと思います それではそこには何の偶発性も感動も無いように一見見えます ただ作業をこなしているだけに見えます 銃でもいいですが何で銃で破壊しようと思ったのか、そこに至ったのか?プレイヤー(キャラではない)が そこに至るまでの長い長い思考回路の道のり そこが一番必要でそれが物語です
要するにここはその緻密な設計の部分のお話(ゲームで言う物語を作ると言う事がそう作業をする物だと思います)をしているので、悪い物の例の方が良いっていう事ですね 物語=経験、ではそのためには何が必要か、そのためにはどういう設計が必要か、逆算するとそういう面にたどり着きますからね、その前提でそのつもりで話をしております ショットガンでもコショウでもそこに至る為の時間の話ですから、一見おかしなものの方が説明には適してると思って、もともと理屈の通るショットガンだと話してて「ショットガンだから」と言う部分で既に理屈が完成してしまいますから ゲームとしてみた場合それがショットガンだからで終了するならそこに扉が存在する意味が無いんです (今もっているショットガンで壊す事ができるのに態々扉がそこに存在しても手間が増えるだけですから、それも作り方によって変りますが、扉を破壊する為に「苦労してショットガンを手に入れる」と言う場合等、弾も限られてて扉にしか使う余裕が無い等) 自分のやり方で〜と言うとそんなイメージです「今手で持っているショットガンで撃って壊す」弾も豊富に持っていて敵を倒すのに使っているものの流用、と 「自分のやり方〜」が思いつけば何でもそう簡単に通ってしまってはゲームとして成立しないと思います ですから敢えてコショウで〜の方が分かりやすいと思いました コショウは説明のために言ってるだけなので深い意味は無いです コショウでもショットガンでも結局同じ事です
もしもどうしても開かない扉にえさになるものをまいたら生き物が来て扉を内側から開けるかもしれない ・そこに住んでいるペットは非常に頭がいいので自分で扉を開ける事が出来ます ・このペットの好物はコショウです ・そのペットは今は鍵のかかった扉の裏側に閉じ込められています ・扉をとんとんとたたいて見れば鳴き声がしてどこの扉の部屋にいるのが分かりますよ でも決して大きな音を立ててはいけないよ、もしそのペットの前で銃声のような大きな音を立てたら大変な事になりますよ ・鍵穴は向こう側の部屋に通じているので臭いも通りますよ ・もしもそのペットに出会った時えさをきちんと残しておかなければ大変な事になりますよ ・コショウは厨房で見かけましたよ、え?厨房は切れてた?ではどこに在庫が保管されてるのか調べてみましょう ・ペットの閉じ込められている部屋のどこかにはこの館の主の秘密が分かる地下室に通じる入り口が隠されていますよ と言う情報がどこかにちりばめられています、では自分勝手に動いて下さい、プレイヤーの選択・行動に対して結末をそれぞれ用意しています こんな感じでしょうか?物の1分程度でいい加減に作った適当な例ですが、ばらばらに流す情報 理屈なんて後付でいいんですからこんな感じでちょっと考えただけでも幾らでも作れます
>>97 コショウと言うのは「本当だったら気がつかない物」と言う例で、ショットガンとの対として上の方との話で出て来たのでそのまま流用しただけです
「本当にコショウがだめなのか?」自分の経験の物語と言うものの説明するための基礎的な考え方の説明の為に対極に存在するものを扱っただけなのでコショウでやる必要性は何も無い
もちろん散りばめると言うのは、「コショウで開けられると言う最もなもっともらしい理屈」の事です
「ショットガンで開かない理屈、コショウで開けられる理屈」をプレイヤーの足で調べる事で初めてプレイヤーは扉の仕組みを理解して先に進む事ができるその一連の流れの事
ショットガンでもいいんですが、コショウでやった方が分かりやすいと思いまして
説明の為の例えなので、扉にはコショウがよいと本気でいってる訳ではないので(むしろ理屈を作るの難しそうです)
でも、一見するとだめなコショウも、もっともな理屈をプレイヤーに自分で探してもらう事でやり方しだいで本当の物語になり得ますよと言う事をいいたいだけです
知恵の輪だってそうですけどゲームには未知の一面の探索と言う部分が多かれ少なかれ含まれていて、答えが最初から分かっているものは面白みが少ない
それを体感して自分で経験して見て初めて分かる事、意外性
開かない扉、色々探索していって、結果的にその原因が石像だったり、水だったり、たどりついたら全然関係ないものだったとか、そういう方が感動を呼ぶ場合が多い
それはそれが、自分の足でたどり着いた自分が調べたものと言う側面を持ってるからです
その側面こそがここでいう自分のたどった物語の事です
当たり前の想定通りの事をやって想定通りになってもそれはこなしているだけだからです
もちろん理屈をいい加減に作ってはいけない
何故ならばプレイヤーを動かしているのは理屈だからです
プレイヤーがその対象物に興味をそそるのは、それが自分の理屈では意味が在ると感じたからで理屈がなければ興味を示さない、扉に興味を持つのは扉と言うものが次の空間に通じてると言う記号だからです
ゲームは理屈によって形作られているとも言えると思います
だから、そのプレイヤーの理屈を否定して、ゲームを作った人の理屈を理解するように誘導する為には、相応のもっともな理屈が必要になります
>>79 本来ゲームとは自由意思で行動をしているプレイヤーに対して、ルールによって制限を課すもの
プレイヤーが自由選択をする、それに対してルールによる裁定を返す事で成り立つもの
また、プレイヤーはルールによって出来ない事やってはいけない事も決められている
だからプレイヤーは自由だと言う事が大前提
例えば
プレイヤーが目の前の城に入ろうとする事も左の洞窟に入ろうとする事もプレイヤーの勝手(自由)、それに対してやってはいけない行動をした時、理屈をつけて入れない、または入ったら失格にする、それか入れはするけれど目的を達成する事が出来ない(ルール)
そうする事で自由意志を持つプレイヤーを操って来たのがゲーム
それが、いつしかはじめからプレイヤーは開発者の予定通りの行動しか取らない前提になったためルールで縛る必要が消えた
だから今自由度と言うと開発者が自分勝手には動かないプレイヤーに対して複数の道(開発者の作った予定通りの道を複数)や複数の選択を与えその中から選択する自由を与える事をさす
プレイヤーは自分勝手に動き回る物と言う前提が存在するからこそ
当然開発者にとって都合の悪い動きをプレイヤーがとる場合を全て考慮する必要性が出る
だから都合の悪い行動をとった場合どう理屈をつけてそれを出来ないようにするか、と言うルールを予め作る必要が出る
不測の事態にならないようにプレイヤーがどう勝手に動いても良いようにルールを作る
そういう部分が抜け落ちて、プレイヤーはもともと自由に動かない前提で作るから、プレイヤーは開発者の決められた行動だけをとるようにしか作られていないためプレイヤーは自分で自由に動いている気がしない
実際、命じられてるだけで、自由に動いていない
自由に動いた結果それは「出来ない」「それをしたら失敗した」「自由に動いたけど結果は実らない」と言う経験を身をもって実際に自由に動いて学ぶからこそ、仮に開発者の進めたいシナリオ通りに動いていてもプレイヤーは自由に自分で動いていると感じる
>>98 まずもっともらしい理屈が必要は同意
それがなくちゃプレイヤーの考えもなにもあったものじゃない
扉を壊せちゃつまらないって言うのも同意だがまた別の話し
手で開ける×→壊す○ が 手で開ける×→壊す×→ペットに開けてもらう○ になったのは
ピースが4つのジグソーパズルはつまらないから9つにしようみたいなものでナラティブとは関係ない
ジグソーパズルが10000ピースになっても本質は変わらん
思考の道のりがナラティブと言うのも変に感じる
それならば難しいイラストロジックパズルがナラティブなゲームの第一候補に挙がってもいいはずだ
ついでに解き始める列も自由
なんで挙がらないかと言うのはイラストロジックパズルは主人公が何者かも分からないし
何が目的でイラストを解いているかも分からないからだ
たぶん争点は「主人公を操作し問題を解決した体験」を重視するか
ゲームの世界で「主人公が自分と同じ考えで行動した体験」を重視するかだろう
下を肯定するする例としてひとつ扉をショットガンで壊せない理屈を1つ考えた
「主人公は育ちがよくショットガンを扉に向けるなんてやろうと思わないし考えもしない」
理屈は通っている
「荒くれ者が好む漫画を読めば一見性格矯正できそうだが、育ちが良いから読んでくれない
所持金を0にして趣味のバイオリンを売れば暇になって読んでくれる」
問題解決のため思考し面白そうではあるけどこれをナラティブというのは無理がある気がするがどうだろう?
こいつに付いている妖精を操作するとかじゃなくあくまで育ちがいいのがPCの場合ね
106 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/19(木) 19:05:45.40 ID:gFj5NhGk0
突然の停止
話の長い奴がいるとどうしても人が離れるな
FFがナラティブじゃないって言うが、ナラティブとそうでないストーリーの境目ってなんだ? 7はゲームならではの主人公とプレイヤーの関係を利用したトリックで驚かせたし 8のジャンクションはJRPGにおける主人公とプレイヤーの関係性を表したもので それを活かしたドラマになってる
10も、プレイヤーは主人公でもなく傍観者でもないっていう 映画ともドラクエ的視点とも違うJRPG独特の関係を活かしたドラマになってる
作り手の意図を押しつけられないパーソナルな体験がナラティブと言うなら 12の、主人公が出来事をどう受け取るかをあえて曖昧にしプレイヤーに委ねるって仕組みは ナラティブじゃね
15とかも、映画のスペクタクルシーンをプレイヤーが体験するって意味で ナラティブなんじゃねえの?
>>74 遊ぶ人の方にも
TVゲームってもんの場数をあまりこなしてないことが要求されそうだな。
ナラティブゲーはゲーム童貞/処女向けの騙しなのかな。
場数を踏んでるとだまされたくてもだまされてやれないのか。
ゲーム中にトイレ行きたくなって行くのもゲームの物語 ナラティブってそういうものでしょ
narrative=物語る=世界がそう物語っている 世界が物語っているとは、例えば、「鳥の糞が自分の自動車の窓に落ちて怒っている」と言う一枚の絵画 この絵画では特に、何かを文章で表しては無いけれど、これがどういう状況なのか、この構図が何を物語っているのか分かります この絵画には実際には「怒っている人」「その人が乗っている自動車」「その自動車の窓の上に付いた鳥の糞」ただこれがばらばらに描かれているだけです でも、見る人から見たらこの絵画はそれらばらばらのものが一つに繋がって物語になってると解釈されます この一枚の絵画で表現された物語は「それを見た人が感じた出来事」で時間と言うものが存在しない story=筋道=流れを持っているお話の流れ 一方、これを文章で言葉で表す事も出来ます 「この人は鳥の糞が自分の自動車の窓に落ちてきたから怒っている」 このように書けば、簡潔で実に分かりやすいと思いますが何が起こったかを他人の言葉で伝えてるだけです 筋道ではこの一連の出来事は時系列が明確にそれぞれきちんと決まっています
今はゲームの概念のナラティブの話してるんで絵画はいいです
しつけえ勘違い君だ
いや普通にわかりやすい例えだろ 物語とは本来無秩序で無作為な物事を語り手が順序立てスポットを当て意味を与えること それに対して物事にどんな意味を与えるかを受け手に委ねるって方法論もあるが ここでいうナラティブってそれをゲームメカニクスとして成立させてるものじゃね
日本でも昔から議論されてるよ
プレイヤーのゲームプレイによって、物事が順序立てられスポットが当てられ 単に競技的な勝ち負け以上の意味が与えられるのが ここで言うナラティブなんじゃね
海外で語られているナラティブと 4gameで要約されているナラティブと 読み手への配慮に欠けた長文で語られている限定的なナラティブと どれ基準で話したらいいのか分からないだけ
せめて具体的なタイトルを挙げて説明すれば聞けなくもないのだが、完全なポエムだからな とりあえずナラティブな作品とそうでない作品を挙げてみなよ
チキンラーメンはナラティブだが サッポロ一番塩ラーメンはナラティブではない
境目なんてあってないようなもんだろ プレイヤーの操作によって生まれる独特のフィクション体験って意味なら 大抵のゲームにある要素 その程度や手段が秀でてるゲームがナラティブなゲームって言われる
>>123 >その程度や手段が秀でてるゲームがナラティブなゲームって言われる
タイトル
人間の感情や感情的な関係を ゲームプレイの中で表現しようとしたICOは 同じものをカットシーンやテキストで表現したものより よりゲーム的な手段って意味でナラティブ でも人間の感情なんて現状カットシーンの方がちゃんと描ける カットシーンもゲームプレイと相互に作用してるし、その作用を強めることも出来る だからFFにもナラティブはある
126 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/21(土) 19:23:45.94 ID:elUtxZWD0
キャラの描写だったり、テキストだったりは少なめな方が 結果的にナラティブと呼ばれるものに近くなるんだろうな
ナラティブじゃないゲームを挙げてくれないと比べようがないよ マインスイーパーで爆弾踏むのもナラティブでいいんか
128 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/21(土) 20:44:19.70 ID:elUtxZWD0
もしマインスイーパを通して本人の中に物語性のある体験が 生まれたとしたらそれでもいいんじゃない? ただ、マインスイーパにそういうものを感じる人は おそらくそれほどいないだろうから、最後は数の問題としか より多くの「自分だけの物語」を生み出した作品が よりナラティブであるという定義になると思う
もっと明確にできる言葉に言い換えたほうがいいんじゃね あやふやすぎるだろ
ストーリー展開自体はあって、 それがブツ切りかつ並べ替えや突発挿入が可能 ってことかもしれん。
マインスイーパーはナラティブな要素は大分薄い
それなりにランダムでパーソナルだけど平凡な体験の方が 展開は限られるが操作とフィクションがより一体で感動的なゲームより ナラティブであるって事か?
売れた作品は多くの人がやって多くの体験を産んだからナラティブ コケた作品はそうじゃない これでいいかもう売り上げこそ正義
narrativeかstory簡単に見分けるには、自分がしたい事に逆らって動いてみれば分かると思います storyの場合storyは粗筋ですから、自分がしたい事でない事(=本筋に逆らう事)は作られていないから出来ない narrativeの場合自分が見て受け取っている事で感じる物語なので、それをしようとするとそれは出来ない事を自分で理解して感じるように作りこまれている この部屋には窓と扉が存在するのが見えます この部屋から出るには扉を使います storyの場合、窓は一切関係が無いので、扉に直行するしかない それしか作られていないので、何を考えても扉に向かうしかない、余計な筋・世界が作られていない narrativeの場合、窓から出てはいけないのを自分で理解してるから、扉に向かうので窓から出ようとした場合どう失敗するのかどういけないのかの部分が作られています 窓から出ようとすると窓から出れない訳を自分で知る(自分で理解する)だから自分の意思で扉に向かう 自分で窓は使えないものなんだと判断して、だから扉と言う答えを自分で発見します 「扉からしか出れないんだ」というこの世界が無言で遠回しに発している意味合いを理解します 世界そのものが意味合いを発しています、その意味合いを理解する事に物語と言うものが存在しています それから自由度の高いゲームとされるゲームの場合、窓から出ようとしても扉から出ようとしてもそのまま出れますが、出れてしまうので当然何で扉から出なきゃいけないのか 何で窓がいけないのかと言う発してる意味は消えてしまいます 意味がなければ物語性は無いので「こうだからこうした」と言う部分が存在しない事になりますから物語は消失しています 「扉から出た」と言うお話を作る為に、どういう仕組みを作ったかと言う事だと思います 直接そこに行けと言う作り方をしたのか、出来ない事を作って間接的にそこに行けというか、そもそも行けといってないか この場合は 作りこんだ世界が間接的に一つの答えをさしているなら、無言で物語ってる事になります 扉から出なさいと言う為に、窓と別の手段を試して失敗する世界を作ると言う遠回しで表現する それは自分の経験で扉と言う答えを知る為の仕組みで、自分の目で扉から出ると言う行動を理解してる
もう少し考えをまとめてから書いてくれよ。
ゲームプレイに勝ち負け以上のドラマチックな感動を含んだものがナラティブなんじゃね 多くの体験を生むかどうかは2次的な要素だろ ランダムなイベントは仮想世界をより高度にシミュレートしてて物語世界への没入感高まる そういう感動を楽しませるゲームだと確かに重要な要素だが それはナラティブの進化の一例ってだけだろ
一言でいえば プレイヤーのゲームプレイがどれだけ物語を語れているか、だと思う 今までの基準は制作者がどれだけ物語を語れているか、だったが
なんか違うな 魅力的な物語をプレイヤーが語れてるか、か 確かにランダムにイベントが起きれば自分が物語を語ってる感覚は強まるな それだけだとシミュレーターがもっともナラティブって事になるが そうじゃなくプレイヤーが魅力的な物語を語りやすいようデザインする必要もあるって事なんだろう
統合失調症みたいな文章だな
「ナラティブ」を「クール」に置き換えても大体変わらない文章ばかりだな。
チャット機能があるオンラインゲームが最高にナラティブだな
そもそも
>>2 で言ってる
風ノ旅ビトとFTLって共通点ないじゃん
俺はどっちもやってないから知らんけど
単にデキが良いものがナラティブって
呼ばれてるだけで定義とか無理そう
共通してるよ ゲームプレイで物語が生まれてて それが今までにない手段や内容って点が
>>105 鍵がかかった扉を開けられない→銃で壊すと言う部分で発するお話の意味合いよりペットがいて開けられた場合の方がそのものが発する意味合いの情報が増えます
その分物語が増えると言う事ですからただ銃で壊してしまっては物語を発する部分が最小限に抑えられます
物語の部分を最短にして行動の部分だけを追う事にすると次は何して何をしてという粗筋だけになります
肌で感じる体験が物語なんだから、そこを減らしたら物語りは消えてしまいます
行動の筋だけになればそれはストーリー
レスが大分流れてしまったので105のレスは諸事情で日を改めて書きますね
いえ、もう結構です
146 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/24(火) 07:14:19.35 ID:laS8D9au0
『漫画って、僕にとってはですけど、ストーリーはどうでもいいって 言っちゃったらなんですけど、あまり興味がないんですよ、 そのストーリー展開とかには。 どう転んでいっても、キャラクターたちにとって必然っていうか、 自然っていうか、そういうものであればドラマになるっていうか。 キャラクターさえ、人間がちゃんと描けていれば、それが何をしようが、 何もしまいが、ドラマになると思うんですけどね。 それが結果的にストーリーになった、というような、 そういう作り方をしています』 『「バガボンド」描いたから、こういうところに来たわけですからね。 あの作品じゃなかったら、こういう道は辿ってきてないと思うんで。 生きるの死ぬのとか、「生きるとは」的なことだったりとか。 今の時代に受けようっていう気持ちももちろん勝負論の中でありますけど、 でももっと大事なのは、何年経っても、どの世代でも、読んだらなにか 普遍的なものがあるっていうことが大事だと思っているんでね。 時代も国もとっぱらっても通じるようなもの。 まぁ人間っていうことだと思いますけど。 人間を描けているかどうかじゃないですかね』
純文学厨みたいだな
単純にさ、プレイヤーがした操作によって物語を動かしていく感覚がナラティブ性(普通臨場感とかで表現される)とでもいうもので、多くそれを感じるようなのがナラティブな作品ってことだろ? だとすると、ゲームで物語を語る上で、システム面から演出面など様々なレベルで、プレイヤーが参加できるような手法を巡らしたものがナラティブな作品ってことだと思う。 ただし、いくら製作側が選択肢を多く用意しようが、プレイヤーが製作側に選ばされていると感じたら、その時に価値を失ってしまうような相対的なものよね。 ネットで攻略検索できるようになったからつまらなくなったーみたいな意見もこれに関わるもので、例に上げられているシレンだって攻略法を徹底すれば作業ゲーになる。 後は、ムービー中のキャラを動かせるQTEだって、現段階ではやらされているという感覚の方が強く出ているね。
一部の人が「自由意志による行動選択」こそナラティブと言ってるだけで
>>148 の言う通り既に様々な手法が分析され体系化してる
とりあえず、 ゲームをあまりやってない人に対してでなければ実感してもらえない感覚 だということは分かった。
ゲーム経験値高い人には、それまでプレイしてきたゲームの約束事を超えた表現が必要だからな
>例に上げられているシレンだって攻略法を徹底すれば作業ゲーになる。 シレンやってないなこれは
生存率上げるために矢集めとかおにぎり集めとか合成モンス待ちとか作業多いだろ
>>148 攻略を知っていたからといってその物語の存在感が消える訳でもないし
作業ゲーになったからといってその感覚が消える物でもないと思います
世界をどう理解していようと、その世界観が物語性を発しているなら、何度やっても先を知っていても物語を発してる事には変りない訳で
極端に言えば攻略チャートが決まっているゲームでも、その作品の攻略チャート読んでたどっただけで物語が浮かび上がって来てその世界を体験した気分になれる(*非常に重要かと)
物語と感じられるなら、同じ物語に飽きるか飽きないかは置いても何度読んでもそれは物語として感じる
自動車に落ちて来た鳥の糞を怒っている人が描かれている絵画から物語を感じたら、それは何度見たって同じように物語を発している訳で
だから言いかえたら攻略チャート読んだら引き込まれて物語が浮かび上がるのはnarrativeを持っているゲームではないかと思います
narrativeを持っていたら引き込まれる訳だから、ストーリーを知っていて、攻略を知っていても(筋を知っていても)それを見たら自分の手でやってみたいと感じる
storyは他人のプレイを見れば自分でやる気が消える(筋を知っていたら筋をもう改めて知る必要は無い)
そして物によっては一回エンディングを見たら時間を置いても、もう一度起動するのがいやになる
自分でやっている訳ではないのに難解な課題を突きつけられてうんざりした記憶ばかりがよみがえる状態で最初からはじめるから始まった瞬間どっと疲れる
ゲームかどうか よりゲームらしいゲームかどうか 面白いゲームかどうか これらは別個の事 そういう別個のことが「ナラティブかどうか」って話する時ごっちゃになるから 訳がわからなくなる
物語る、述べるって意味の「narrate」を名詞にしたのが「narrative」らしい ストーリーとナラティブの差は物語る主体の差 ストーリーの主体が作り手なのに対して、ナラティブの主体はプレイヤー そういう要素が少しでもあれば「ナラティブがある」と言えるし 文脈によってはその性質が強いものを「ナラティブだ」とも言う
作り手の叙述通りに物語が進むよりは ランダムだったり選択式だったりする部分が多い方が プレイヤー自身が物語る感覚が強まる そっちの方が面白くなるかどうかは別問題だけど
158 :
1/2 :2013/12/26(木) 02:01:56.38 ID:+rcLFExjQ
選択肢だけれど、そのプレイヤーを囲っている小さな一つの世界を作りこんで、その中で一つのストーリー(時系列が定まった一つの筋)がプレイヤーの自由意志由来で展開される様に作ればいいと思う プレイヤーがその世界の発する物語を理解しているからこそ、時間が定まった行動を取れる それは行動しなかったとしても物語を発している訳で、物語を発しているから物語どおりの行動をどんなに物語りに逆らっても結局とる 「どうすればどうなるか」「ここどうすればどうなる世界だ」と言う事を世界が物語っている訳で 一例ですが 作った人が「与える」「選ばされる」選択肢と、プレイヤーが自分の意思で勝手にした行動選択とは明確に違うと思います 作った人が与えた選択肢は、選んでもいいよという選択肢を作って与えた訳でプレイヤーは自分で行動した訳じゃ無いって事ですね プレイヤーの意思で勝手に行動した選択と言うのは選んではいけないはずのものが含まれる訳で その選んではいけないはずの物がきちんと存在する事によって、狭い世界でプレイヤーの行動した道筋以外の世界の部分が作られている、世界として広がりを持っていると言う事で その狭い広い世界でプレイヤーのやった事が限られた一つの筋(ストーリー)になるからその物が物語になれる 選択肢を作った部分だけのストーリーが、作った部分の先の世界だけが作られているのと、世界がプレイヤーがどう動いてもいいよう作られているのと
159 :
2/2 :2013/12/26(木) 02:06:40.65 ID:+rcLFExjQ
開発者が作って与える選択肢というものはそもそも、どう与えようと「選ばされる」物になるはず 自分で思いついた事じゃないから当然だけれど、一見選択肢を与えてもらっているから気がつかない ひどい言い方すれば分かるけど、この選択肢を与えてやるどちらかから選べ 選ぶ権利を与えると言って、自由を限定しているんだから当然と言えば当然でしょう これはどんな選択を用意しようと選ばされてる事になる 選択肢を作ったらいけないと言う訳ではないけど 選択肢はどちらかの選択を迫られる物で、自由を与えてもらっている訳じゃないと思います 本当は選択を迫られているのに自由を与えてもらったと解釈するからおかしい事になるんだと思います そのまま選択を迫られているとして使えばもっと
>>157 それが、そうでもないみたいです
作り手の一つの筋書き通りに動かされていたとします
その時、「プレイヤーはどう行動するのか」の部分を見てみます
例が悪いですが、もし、目の前の扉に入る筋書きが決まっていたとします
その時、「もう目の前の扉に入るしかないんだ」とプレイヤーは何を疑問に思っても「目の前の扉に入る」と言う行動しか出来ないようになっている場合
それと、プレイヤーが「窓に入ろうとする」けど悪い結果に終り、「横の扉に進もうとする」けれどいい結果にはならない、だから「目の前の扉に入る」と言うのを自分で感じたなら
それは目の前の扉に入るのはプレイヤーのプレイヤー自身が物語っているという事になりますよね
思いついた事を試してそれがだめで、そこに入れば良いと言うのを自分で発見して自分で判断した訳ですから
(例え悪いですが)
プレイヤーがその行動をする時、プレイヤー内にちゃんとしたそうする理屈が存在すれば
それが無いと、窓が存在するのになんで目の前の扉に入るのか
(非常に例え悪いですが)
要するに何でその行動をとらされているのか
その行動をとらされる必然は?
その他の手段がだめだと言う事を物語っているから
だからその行動を取れる
ただその行動をひとつとっただけなのに、その他の行動がだめだと言う意味合いを全てその行動には含まれるから
祖cのたった一つの行動が濃密に感じられるはず
>>160 の最後の行「その」の間違いです
逆にランダムでも、ランダムに出てきた物でする事が決まっていたら?と考えると
敵を倒して、奥に配置されているものを取って来い、とか、手順が決まっています
要するに言葉通りそれが「物語」になっているかですね
むしろどちらかと言うとランダムより人の手で作りこんだ方が、「物語」として意味を吹き込みやすい様に感じます
「これは何故ここに存在するのか?」「じゃこれは?」「何をいいたいのか」「どうすれば良いのか?」「(間接的に)どうしろといっているのか?」
その「どうしろ」が物語な訳で
その「どうしろ」が無ければ物語を発して無い事になりますから
好き勝手動いただけで、好き勝手動いた事を物語と言ったりはしないでしょう
何をやってもいい事になってしまいますからね
>>155 その通りだと思います
・・・
なんかテクスト論みたいな話やな というか、この概念自体、昨今のゲームの風潮は勿論だが、文学理論が素地としてあるんじゃないの?
選択肢はそれこそ物語的な意味を与えるために重要だろ 用意された選択肢を偉ぶってのはつまりリアクションであって、アクションの一種だし ドラマチックに演出しやすい ランダムなイベントは、プレイヤーのリアクションじゃない、 プレイヤーの好き勝手なアクションに物語的な意味を与える時に有効
選択肢とは本来プレイヤーを制限するもので、それを出来る事の出来るはばの広がりとしてみるからおかしな事に 本来選択とは一方を選んだら他方は選ぶ事が出来ない だから、限られた場面で対等の選択肢の中から選ぶと一方は正解、もう一方は不正解 とか、そのような正解不正解の存在するものに使うものだと思います 選択肢とはそれを作った人が与える物=能動的なのは作った人で、プレイヤーはその選択肢に対して受身になる 事で、それをプレイヤーの自由のはばとして使うから、選択を選んでるはずなのに命じられているように感じる 物語的な意味とは、始まりと結末が存在して話として一つの意味を持ったもの(経由地点、道順が決まるとストーリー) 紆余曲折を得て一つの結末にたどり着きました その途中経過をランダムにする事で自分の頭で解決をした経緯(紆余曲折)を得られる ランダムにしさえすれば得られるものじゃないと思います 自分で体験する部分(紆余曲折)をランダムに起こる要素で再現するか、シナリオを作りこんで再現するかの違いです 勿論きちんとした筋書き(紆余曲折)を作っった方が冒険したって気分を作りやすいと思います 筋書き(紆余曲折を得て)にプレイヤーを誘導し運ぶ為の作りこみと技術が必要です 勿論ランダムで(ランダムにする事で)それ(紆余曲折)を作る事も出来ると思います でもただランダムにしただけでは、それはランダムに起こるシミュレーションと言うだけです
文章下手すぎw (紆余曲折)が歌詞のコーラスみたいになっとる 「出来すぎた偶然」というのがあるんだよ 「よりによって何でそこでそれが起こる?」というね かなりの高確率なのに外すとか、おにぎりの手前にある地雷とか そういう時プレイヤーはそこに「意図」を感じる これは内部処理でわざとこう仕組まれてるだろう、と 実際は何でもないただのランダムなのに、その裏に何かを読み取ろうとする この「読み」こそまさにナラティブなんだよ プレイヤーの「読み」を誘発するようなゲームがナラティブなゲームとすれば、ランダムはその有効な装置の1つだ
突っ込むなら「紆余曲折を得る」の方だろ!
まあ確かに、括弧書きは分かりやすくするための配慮なんだろうけど、正直鬱陶しいのは同意する
というか重複表現(例えば
>>164 出来る事の出来るはば)になってて、普通削られる部分だ
さらに付け加えると、体現止めだったり、述部の省略だったり、ポエムな技巧が多用されているのも読みづらい
重要な部分に、多少用いるんだったら効果的だけど、現状、文の繋がりを不明瞭にしていると思う
とりあえずここらは書き込む前に見直してほしい
選択肢はむしろ正解がないものにした方が面白い 正解がある選択はただのゲーム的な行為になりがち 秩序か自由か、助けるか見捨てるか、幼なじみか委員長か プレイヤーの思想や感情や趣味を反映する余地があるから、 選択がゲーム的な行為を越えた物語的な意味を持つし それがあれば受け身なだけにはならない つーかゲームは基本制作者が用意した選択肢の連続で出来てる
もちろんランダムか、シナリオを作り込むか、 どっちかしかないって訳でも、どっちかが上って訳でもない どっちもあればいい GTAだってスカイリムだってそうだろ
シレンの場合はゲームっぽい部分の自分がやってる感は感じられるけど ストーリーとの整合性がない だからwriting賞のかわりでもある ナラティブ賞には選ばれないでしょう。なぜ罠やおにぎりがあるのか、ランダムで地形が かわるのか説明するストーリーでないといけない。黄金のコンドルでは関係なさすぎる。 ナラティブがどうのと叫ばれだした理由自体は逆で、過剰に ストーリーが先に立ちすぎてプレイヤーの実感するゲームと 合ってないよね、「ゲームならではのストーリーを語る方法があるよね」だけども。
>>165 この「読み」がナラティブかというと少し疑問に感じます
プレイヤーは深読みしただけで実際には何の意味も無い訳ですね
それ自体ではただの偶然で物語になっていないと思います
でも「深読みした〜」と言う全体での経験を含めた物語とは言えると思います
>>167 正解、不正解がはっきりしている場合、正解、不正解がはっきりしているから物語として意味を持っていると思います
例えばみかんとカビの生えたみかんが置かれています
どちらを食べてもOKだった場合態々みかんとカビの生えたみかんを選ぶと言う行為をとった意味合いが無い訳です
カビの生えたみかんを選んだ場合それは不正解とする事で、カビの生えたみかんは悪いものだと言う意味合いを出しています
これは「作者にとって」何なのか、何がいいたいのか
そのストーリーをプレイヤーの視点で感じるのがここでのナラティブだと思います
正解不正解がはっきりしている場合、その物体が発する意味合いの強さが強烈です
強烈に意味を発すると言う事は物語を形作っていると言う事になります
171 :
170 :2013/12/27(金) 18:37:04.74 ID:uCm9jgKM0
秩序か自由か、助けるか見捨てるか、これもこの言葉を見れば出している意味合いは強烈だと思います 秩序、自由か、助ける、見捨てる、と言うそれぞれにそれを読んだ人に正解不正解の意味合いを持っているからです それに対して助けた場合と助けなかった場合の結末が「プレイヤーが勝手に感じて下さい」では物語が希薄になります 例えば、助けるを選んだプレイヤーは「助ける事が正しい」と判断した訳ですよね では、それが「正しい選択だ」と言う結果を確認したい訳です または、その選択を選んだ事によって起こったきちんとした結論付けを確認したい訳ですね 自分はこういう選択をしました、「で?」と言う 〜が出来る、自分の意思を反映した、と言うだけではそれは現象です 物語にするには意味合いを発しなければいけない それをするという事が何の意味を持っていて、どう結論付けられるのか 〜をした、"だから何なのか" それが物語です 人を撃ったら警官が来て逮捕された これはただの現象を再現したシミュレーションです だから何なのか、何をいいたいのか そういう部分が存在して初めて物語となります
リアルコミュ障か
というか、
>>1 でシレンが挙げられてるのは、当時普通のゲームデザインからの発想で作られたけど、現代から評価するとナラティブな要素があるよねって話でしょ
ナラティブデザインをした作品と一緒くたにしてナラティブゲーに括るのは違和感がある
>>171 >これは「作者にとって」何なのか、何がいいたいのか
>そのストーリーをプレイヤーの視点で感じるのがここでのナラティブだと思います
作者を設定している時点で、いくらプレイヤーの視点だろうが、その読み方は作者の主張に統御されるストーリーじゃん
むしろ、その存在を認識させないように作品世界に誘導するのがナラティブデザインだと思うが
大体、例示をする意味が分からないし、本質を取り違えてる
>>165 の主張に沿うなら、「リンゴかミカンか、選ばせろ」だろ
174 :
ゲーム好き名無しさん :2013/12/27(金) 21:56:12.11 ID:5rAltjiC0
ゴールが一つの時点でなにも分かっちゃいない
>>173 ではみかんを選ぶとします
それだけだとそれで終了してしまいます
「私はみかんを選ぶ」
この時点では選択しただけです
だから、「何が起こるか」とつけます
「私はみかんを選んだ結果、どういう結果になった」
これで起きた事実が完成しました
それに「だから何だ」という部分を追加すると物語になります
「私はみかんを選んだ結果、どういう結果になった、だから何だ」
「私はみかんを選ぶ」「私はみかんを選んだ結果、どういう結果になった」と言う文章を物語として認識できますか?
と言う問題です
では「私はみかんを選んだ結果、どういう結果になった、だから何だ(だから何々を意味するんだ)」は?
「だから何だ」が付いた事によって今まで行ってきた経緯と結果に意味と言う物が与えられます
意味が与えられる事によってその一連の流れは意味を持ちます
「この話は何がいいたいのか」の部分はストーリーと共通していると思います
違いはその作者がこの作品で言いたい事を自分の目、体験を通して、共体験出来るかどうかではないかと思います
自分だったらする事を好き勝手に選ぶと言うなら、チラシの裏に書いてれば済むお話ですから
好き勝手して、それでどうなのか、の部分
>>176 これ以上勘違いしたナラティブ観を披露する前に
"narrative experience" or "narrative techniques"
でビデオゲーム関連の海外サイトをググって出直したら?
単純で例にしやすそうなので例で上がっている「dragon quest」を例にして見ます 本来「dragon quest」のゲームの内容は敵を倒すだけのゲームです 「dragon quest」が物語として成り立っているのは「魔王を倒す」と言う事の意味を与えられたからです その部分がなければ物語は消えて敵を倒すゲームになってしまいます 「魔王を倒して平和になりました」と言う結末は「魔王を倒す理屈」や「倒す事でどうなるか」と言う意味合いを持っています 仮にもしその部分が無いなら、箍を外したようにばらけてプレイヤーのして来た行動、する行動は意味合いが消えてしまいます 魔王を倒すという目的が存在する事によってそれは一つの物語になります だから「dragon quest」は「魔王を倒して平和にするゲーム」になれるのです 「魔王を倒すまでの道のりを、プレイヤーが(好きに)演じて下さい」 それが「魔王を倒しても別に意味は無いよ、好きにして下さい(やりたければやれば良いし、いやならやめればいい)、自分でやった事の結論は自分で勝手に想像でもして下さい」と言う事になったら大変です だったら「自分はそんな事しない」「自分はこれをやりたい」を基準に好きに動きます 一通り試して飽きたらそれでやる事ももう無いと思います Bethesdaのゲームで一通りやれる事を試したらどうなりますか? と言う事ですね やる事に深い意味はないと言うなら物語にはならないと思います して来た事一つ一つが発した意味合い、する事が発する意味合い一つ一つ、その結果が発する意味合い一つ一つによって形成された全体像の結論付けが物語だと思います 意味合いと言うものが存在するから、その意味を見てみたいと言う気持ちを作り出し、その結末に進もうとするのです
「味方が殺されてしまった、悲しい」だったら物語になりますが「味方が殺されてしまった」ではただ起きた事というだけです 何が起きた、だから何なのか、どういう意味合いを持つのか 意味合いを持つから、そこに向かうのか、避けるのか そのために行動する事が出来ます 行動した事に意味合いが付いてきますから 「何のために」「何をもたらすか」 誰々が望む結果になったのか、そうでないのか だからその結果はどうなのか、嬉しいのか、悲しいのか、いいのか、悪いのか これでこの結論でいいのか悪いのか これで良いのか、だったらどうすればよかったのか そういう意味合いを含んでいます 物語と言うものがそういう意味合いを含む物です そして行動に対して意味合いが出てきます 態々その「いい状態」「悪い状態」にする意味 その意味と言う物はプレイヤーの行動の原動力
>>171 >それを読んだ人に正解不正解の意味合いを持っているからです
だから、そのために選択式が有効だって言ってんだが
作者が定めた正解不正解じゃなく、プレイヤーそれぞれに何が正解で何が不正解か委ねるってのが
ナラティブを深めるって言ってる
ランダムなだけじゃ物語にならんのは前提だろ シレンみたいな昔とゲームと違って 最近のゲームはそこにある程度意味を持たせられるようになった
>>179 修正
物語と言うものがそういう意味合いを含む物です
→そういう意味合いを含んだ物を物語と言うのです
こういうようなことは他スレでも書いたが、 意味合いを持つってのは、俺の考えと同じだな。 ゲームとして意味のある世界にするってのが1つの手で、 プレイヤーの原動力につながるわけだから、 やらされてる感を感じす自分の意思で世界を冒険してることに繋がる。 それがナラティブに通じる。 リアル世界は、死ぬのが怖い、食べなきゃ死ぬ、金がなければ生きていけない、 だから緊張感があって、さまざまな感情が生まれる。 だから、ゲームの世界も意味がないと、なんの感情も生まれず、 感情が伴わなければ、物語だってただの現象になってしまう。 そういうことだろ。
酷い自演を見た
自演?じぇんじぇんじえんじゃないし。
1レスが長すぎる癖を治せ
シベリア郵便局・491通目【レス代行】から
>>180 それは「言葉」の単語においてだからこそいえる事です
言葉で、単語で、秩序、自由か、助ける、見捨てると書けばそれ自体に意味合いを持ってきますから、それに伴いその単語からそれについての結論等を関連付ける事が出来ます
でも物語の中に存在する場合は違います
仮に、プレイヤーが正解不正解だと思っていても、ゲームをプレイする中、プレイヤーがした行動の結果、その結論はプレイヤーが勝手に想像でもして下さい
と言って何ごとも無いかのように話が続いた場合
それは本当に正解ですか?
と言う事です
自分で正解だと思ってした事を、「ご勝手に」だったらプレイヤーはじゃ最初からやる意味無いですね
プレイヤーのした事が正解か不正解か結論付けとしての答えを聞きたがっているのです
ゲームはプレイヤーのした選択に結果を返すものです
結果を返すと言う事は正解不正解と言うものが存在すると言う事です
もしも犯罪をするゲームで人を殺すという選択を行った場合逮捕されて、その一連の流れに自分で結論でもつけて下さいと、釈放され何もなかったように続きが始まります
または、例に挙がったように、人を助けるか助けないか、助けたければ助ければ良いし助けるのがいやなら助けない、自分で勝手にやって下さい、それが良いか悪いかは自分で結論付けて自己満足して下さい
それじゃ物語を体感したとはいえないのではないですか?
動機、行った行動、起こった結果に意味が無いから、内面で自己完結してただけで物語になってない、そして自己満足です
>>183 そうですね、そんな感じだと思います
なんで選択に対してゲーム側がノーリアクションって前提なのかわからんが 選択を楽しませるゲームだったら普通にリアクションあるだろ 善行すれば人から感謝されたり悪人の恨み買ったり 逆に悪行重ねれば保安官に狙われたり悪人と手を組めたりする
反応が返えって来て何かが変化するのは分かりますが「結論」が存在しない 「結論」はプレイヤーが勝手に想像するものでプレイヤーが「A」と言う行動をとっても「B」と言う行動をとっても結局はどうでもいい 「A」と言う行動をとったなら勝手に「A」が正しかったと解釈して下さい 「B」と言う行動をとったなら勝手に「B」が正しかったと解釈して下さい それじゃ結局何を選んでもよかったという事になります どっちでも良いならそれを敢て選ぶ意味そのものが消えます 物語と言う物はきちんと意味合いを持っています どっちにしてもいいから「勝手に解釈して下さい」じゃ、物語性は感じられない 意味を発していないのですから 逆に考えて見ましょう 物語としての意味合いを発していないゲームがナラティブを持っていないとされるゲーム では無いですか? どっちでも良いなら「そうなったよね」ってだけで、ただの主人公の歩んだ歴史です 善行すれば人から感謝されたり悪人の恨み買う、だから何なのか? 悪行重ねれば保安官ににらまれたり悪人と手を組めたりする、だから何なのか? そうなってだから何? 何も無い?自己満足? それで自分は壮大な経験をしたと感じると思いますか?
むしろ正誤を明確にするデザインってのはストーリーを語るのに向いてるだろ シンプルに誤をゲームオーバーにしてしまえば、プレイヤーの意思を反映させる余地が無いし 正誤に報酬の差をつけると、本心はBを選びたいが報酬がしょっぱいからAを選択するとかな
「人から感謝される」「悪人に一目置かれる」ってのは十分物語的な意味を持つだろ 人類を救う英雄になるか、世界を力で支配する独裁者になるか 物語の最終的な結論を決定する事も出来る 例えばタクティクスオウガとか選択式だが あれにはは物語的な意味がないって言いたいのか?
>>191 >「人から感謝される」「悪人に一目置かれる」ってのは十分物語的な意味を持つだろ
文章的にはですね
でもそのゲームから見ては何の意味も持っていない
プレイヤー内部の自己満足です
物語の最終的な結論を決めるとなると話は多少変りますが・・・(結論に影響した訳ですから)
それでも発する意味合いはたぶん希薄な物になると思います
現象として次第にそうなっていった事に対する結末です
全体から見れば、結局どっちを選んでも「いい」という事ですね
物語が希薄になる理由は他にももっています
意外性が存在しますか?と言う部分
そうなるだろう行動を取って予定通りの反応が起こるのは当然です
例えばコントローラーで前を押したら前に進みます
プレイヤーは前に進むと言う選択をした結果キャラはなんと前に進みました
後ろに進むと言う選択をすれば後ろに進みます
これで何か濃密な体験をした気分になって物語を感じますか?
と言う話
プレイヤーは前に進むと言う選択をした結果キャラは前に進みました
何か偶発的な思いがけない発見をしましたか?
濃密な経験をしましたか?
悪い事をしたら犯罪者と友好関係が広がって公的機関を敵に回しました
いい事をしたら公的機関から信頼され、犯罪者から疎まれました
そうなろうとしたんだから当然の結果です
だから何?だからそれでどうしたの?
やる前から分かってたけど
何しろそうなるようにやってただけですから
コントローラーを前に押したらキャラが前に進みました
だから何?だからそれでどうしたの?
同じです
>>190 ストーリーとナラティブは同じ物です
同じ「物語」
プレイヤーの意思が反映される必要は別に無い
ゲームでのここでのストーリーとの違いはプレイヤーが自分の目線でじかに感じた事か
筋道をたどってるだけかどうかの違い
ナラティブを持ってるとされるゲームで言うプレイヤーの意思を反映するとは
ストーリーではする行動が強制だった物が、自分の判断でそれを行ったと言う立場をとる面
だから、簡単に言えば
「次は扉に入れ」だったのが、窓と扉、プレイヤーの自由に触ってもらって自分の意思で扉を開こうとするようにする
そのためには窓がNGで扉がOKという状況だったら自分から扉を選択する
NGという形式でプレイヤーの意思を反映されます
ただこれは単純化していっているだけなので、どれも単にNGにしただけじゃもともと一本の道しかないのと同列になってしまいます
narrative=扉が開かない、ペットは何なのかペットの情報、コショウは何なのかコショウの情報、間違った扉の開け方した場合の結果、結末、正しい開け方をした場合の結果、結末、等が作られていて、それ全体で見て物語をなしている
story=扉が開かない、ペットがコショウを好むと言う情報を与えられ、だから、まずコショウを探すと言う行動が出来るようになるのでコショウを持ってきなさい(それ以外の行動が出来ない)
そうしたら次、コショウを扉にかけなさい(それ以外の行動が出来ない)、それで開ける(それ以外の行動が出来ない)
(それ以外の行動が出来ない) そして、それ以外の行動が取れないので、失敗と言う概念が存在しない
例えば絵画で食べようとしたお団子を落としてしまったと言う絵画 これは動きを持っていますよね そこからは食べようとしたお団子を落としてしまったと言う意味合いをお話の内容を持っています まさにナラティブです でも、真っ白の白紙、これを見て、自由にそこに絵を書き込んで下さい それで自由に想像する事が出来ます でもこれは元の白い紙は何の意味も発していない事になります
うまく物を表現できない、言葉が見つからないなどの問題もコミュ障にあたる。 また、コミュ障のうち「意味不明な言動を頻繁に繰り返す・他者が共感し難いこだわりを強く持つ 他者と関わりたがるがそもそも会話のキャッチボールができない 無自覚な荒らし行為等を繰り返しては周囲を混乱に陥れる」などのタイプの者に対しては、 より侮蔑的な意味合いの強い「池沼」という俗称が使われる場合がある。 このようなコミュニケーション障害は、話す能力や自分の意思や態度を伝達する能力が年齢相応に備わっておらず、 発音や発言が幼稚であったり、言葉の間違いが多かったり、同じ言葉を繰り返す『オウム返し』などの症状が出る心の病である。
時間が余り無い為、思いついた事をそこまでまとめずに書き込んでます ごめんなさい
>>190 それでは、正誤に報酬の差をつけ、本心はBを選びたいが報酬がしょっぱいからAを選択する事で語られる物語の意味は何ですか?
と聞いたら?
>>191 それが結末に繋がるとして「善行を積んだ結果人から感謝される」「悪行を重ねた結果悪人に一目置かれる」ってのは行動と結末としてみれば十分物語的な意味だけれども
でもゲームとしてこの部分だけ見たら物語として希薄に感じないでしょうか?
濃密な経験ですか?
どうして希薄なのか考えて見ましょう
ガチのコミュ障だったか
反論に答えることなく自分の妄想を押し付けてるだけだからな
>>176 のチラ裏とか完璧に自虐入ってる
>>191 は未だ考える余地が色々ですからちょっとおいといて
>>190 NGをゲームオーバーにする事はプレイヤーの意思が反映されています
本来だったらNGというものが存在しないのです
ナラティブが無いとされるゲームではそもそもNGというものが存在しない
「*********」を次するといったら「*********」しかできないようになっています
正解の「*********」以外の行動をとる事が出来る(NGでゲームオーバー?になる行動もとる事が可能)、と言う行動こそプレイヤーの意思が反映されていると言う事です
そうでないゲームは問答無用で「*********」をする以外に道は無い
>>200 チラシの裏
もしも絵画を見に行って人の描いた絵画は自分の絵画じゃないから、自分で好きなように書けば良いと思うなら
態々絵画を見に行ったりしないで、自分で好きな絵画を描けばいい事です
何で、態々絵画を見に行ったりするのかの部分の意味が消えます
もしも小説を買って来て、その中身は自分で書き込めるよう白紙、その中身は自分が書きたいように書けばいいっていうなら
そもそもその小説を買う必要ないですよね?
チラシの裏に書いてればいい事
いよいよ解読困難になってきたw
203 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/01(水) 18:42:26.98 ID:CjrDSLLt0
信長の野望とかもナラティブだな。 自分のプレイから架空の戦史を妄想したり 松平定知さんに脳内ナレーションしてもらうとめちゃくちゃ楽しい。
コーエーの大航海時代とか太閤立志伝とかみたいなRPGとワールドシミュレーションを融合させて、キャラ目線ですすめるゲームを、
「リコエイションゲーム」という造語で呼んでるね。
リコエイションゲームは、プレイの仕方でキャラ目線で色んな物語を楽しめるし
同じ筋書きをなぞるばかりじゃない点では、
>>3 で定義されてるナラティブの条件に合ってる気がする。
ゲームデザインとしては
>>47 の「創発的物語」に近いんじゃない?
というか
>>3 のスクエニ研究員の記事は、紹介してる日本のゲームが偏りすぎててきちんとレビューできてないね。
リコエイション好きだわ ロックスターやベセスダのように偶発性のある作りこんだ箱庭で是非やってみたい お使いやミニゲームはあんまりいらないけどな
206 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/04(土) 23:57:32.59 ID:Vi5t7AkE0
物語の大筋の進め方が順不同ならナラティブで 決まった手順通りにしか進められないならストーリーってこと? お使いゲーみたく決まった順番でしか動かない物語の中で 所々で脇道に逸れて動けるって場合・・・はやっぱりストーリーだろうな多分
詳しくは知らないけど GTAでそこだけ裸の民族が住む村があるらしいな。 本筋のストーリーに関わってくるイベントじゃないだろうけど、 何か予想のつかないことが 起きそうだから行ってみたくなる。 そこに物語がある、 世界観が少し広がった上に、NPCからの情報も少ないから 選択の押しつけを感じる要素も薄い。 これがナラティブっぽいんじゃない?
ゲームにおける"narrative"が意味するものとは?
http://togetter.com/li/553526 *つぶやいてるのは岩崎啓眞と思われる。要するに業界の人。
<ナラティブとはなにか?>
・
>>3 のカンファレンスの定義は間違い。
・ナラティブとは、受け手に感情まで含めてストーリーを味わってもらい、ストーリーに沿った行動をしてもらう技術
・言い換えると「ナラティブはインタラクティブなコンテンツの中で受け手に物語をどう伝えるかという技術」
<何が問題なのか?>
・「映画のように感動できる自由度の高いゲーム」は超絶無理ゲーだと理解することから、話は始まる。
・プレイヤーが個々に「体験」することと、ゲームの「ストーリー」が一致しない。破綻している。この事が大問題。
・「ゲームをプレイする動機と、物語内のストーリー上の動機は違う」、そしてそれは解決し得ない。
・プレイヤーの脳内妄想は、「ストーリー」ではなく「体験」の範疇
・この大問題は25年も前から言われてたこと。
・日本ではFFのような「映画的な技法」でストーリーを語ってきたが、ゲームとは乖離してた。>ムービーゲー批判
・海外ではストーリーを放棄し自由度をどんどん追求したが、ゲームとストーリーの乖離を促進するだけだった。
<もっと具体的にはどんな問題なのか?>
・行動経路が一本道か分岐か複合要素でそのつど生成されるかは自由度の問題。
・一方ストーリーをプレイヤーの事として実感してもらえるかはナラティブの問題。
・だから自由度とナラティブは相反する難しい問題。
・だからナラティブを極限までもっていくと自由度の全く無いノベルゲーになる。それなら小説でよし。ゲームいらなくね?
<今までなすすべはなかったの?>
・キャラクターとプレイヤーが知ってることを一致させる回避策はいくつかあるが、解決策はいまだない。
・回避策1 プレイヤーに準備をさせて異世界のキャラクターに転生させ使命に巻き込む:(例)ウルティマW
・回避策2 キャラクターが記憶喪失で目覚めてから話を進める:(例)PORTAL
・回避策3 キャラクターがその世界での新人でいろいろ動いても世界の趨勢に影響を与えられるほどじゃない:(例)ジルオール
・回避策も限界がある。いつまでも逃げ回れない。そんなこんなで、やっと「ナラティブ」としてマジメに議論するようになった。
>>206 そうと言う訳でもない
順不同にしただけでは順不同にしたストーリーになる事も
結局は決まった手順通りにしか進められなかったとしても、それがプレイヤーがうまい誘導で自分の体験と感じていればナラティブ
同じ「鍵→扉→廊下」でも
次は鍵を取るしか行動も出来ずそうするしかないからそうすると言うのと
プレイヤーは自分の判断で色々試した結果鍵を取るという事を自分で発見したと言う違い
>>207 裸の民族が住む村が、裸の民族が、何を意味するのか?
の結論付けが重要だと思います
裸の民族がそこにいる事によって何を表しているのか?
「そこに裸の民族がいる」だけじゃ、受け手には「そうなんだ」ってだけになります
そこには裸の民族がいる「だからどうなのか?」「その事は何を意味するのか?」
と言う部分をいれる事でお話性を帯びてきます
ここにこんなものが存在するらしい
いってみよう
そこに確かに存在したけどそれだけだったそれで終了、だとお話にはなってないですよね?
そこにいってその存在の意味する物を経験した、こんな意味を持っていたのか、と言うお話
211 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/06(月) 01:26:32.74 ID:J9DTTAtc0
>>209 なるほど。わかりやすい
しかし、ゲームにストーリーがある以上は次の行動のわかりやすいヒントがないと、と考える人が結構いるように思うなぁ
「○○のあと、どこ行けばいいのかちゃんとわかるようにしとけ」とか
「次、どこいけばいいのかわからないから糞ゲー」みたいな発言を見かけることも多いからな
ナラティブを楽しめる人とストーリーを追いたいだけの人と2通りいる
それこそ小説・漫画等でいいだろって感じだが、ゲームにストーリーを求める人は自分が思ってたより多いと気づいた
>>208 本や映画でも、作り手が想定した物語と読み手が受け取った物語は異なってくる
解釈というのは読み手に与えられた権利で、同じ物語でも読後に話し合ったら全員が違う解釈をしてた、なんて事も大いにある
物語は常に読者によって再構成されるもので、一本道だからストーリーで自分で選んだからナラティブという分別は成立しない
自己決定する主人公がいても、そこに感情移入すれば解釈によって自分の物語になりうるし、そこに真の正解のストーリーなんてものはない(作者の中にはあるかもしれないが)
だがゲームというのは正解があるもので、間違った答えを出せばペナルティがある
だからそこで語られる物語にも必然として正解が存在してくる
ムービーもちゃんと見ないと次の目的地が分からないし、村人の話を解釈し間違えば路頭に迷うことになる
プレイヤーもそこに正解の物語があるという前提で当たるし、それを見つけること自体がゲームであるといえる
(そのおかげでつまらない物語という本当のハズレを引くことはなくなるので必ずしもそれが悪いわけではない)
つまりゲームというのは基本的には個々の解釈を拒絶するもので、それが正解か間違いか判定されてしまう(そのせいでせっかくのプレイヤーの共感を剥がしてしまうこともある)
だからゲームの中で自由な解釈を持つためには、ゲームとして判定されない、キャラクターの心情やサブストーリーを妄想するといったゲーム外の部分に求めることになる
この部分に関してやたらと羽を伸ばしてきたのがムービーゲー、キャラゲーと言われるような作品群で、よくゲームをおざなりにしてると批判されるわけだが、
それはむしろゲームというものを理解してるからこそそういう手法をとっている(取らざるを得ない)だろうという点ではまるっと否定する気にもならない
つまり、インタラクティブとゲームを混同してるのが気になるな、と
でも問題提起の数々はゲームにおいて重要なものばかりなので話の礎石としてはいい
あと出てないけど「キャラクターの死」の問題とかね
もっと推敲して文を短くしろっての
>>208 自由度についての理解の仕方そもそもの問題ではないかと思います
事の始めは「自由度が足りない」と言う要求から来ているはずですが
本来、「海外のゲームで作られてきた自由度」と言う物がもともとゲームで求められていた自由度の意味する物かと言うと疑問が
本来自由度とは「次は鍵をとれ」に対する「自分は別の事がしたいよ」で「別の事を使って成功したい」ではないと思います
だから、「別の事をしようとするけど、失敗する」事で本来の物語の道筋を暗に教える役目をするのが本来ゲームでいうところの自由度
鍵を取るというお話を見てもらいたいのに、鍵以外で出られてたら元も子もない
そこでプレイヤーが鍵を取るお話をプレイヤー自身に感じてもらいたいなら
プレイヤーが自ら鍵をとるまで待たなければいけない
そのためには、プレイヤーがやりたいと思った事を全て実行できるようにして、そしてそれでは目的を達成できない結果を自分で知る、その事によって自ら鍵と言う結論に到達しなければいけない
それで初めて自分の自由意志で自由に行動して一つのお話を見つけたと言えます
だから本来の自由度と言うのは、ストーリー以外のストーリーに反した行動をとる事の出来る自由の事
反しているので当然行動の先には失敗がまってます
本来窓から外に出なければいけないお話で、扉から出ようとして失敗する自由
シナリオで次にプレイヤーがしなければいけない事を見つける為に、シナリオとは関係ない事、間違った事が出来ない、失敗する選択を選ぶ事が出来ない
次する事を強制される
そういう状況をさす言葉が本来の意味での「自由度が無い」だったと思います
※212 物語は読者によって再構成されるって話と、ゲームの場合は個々の解釈を拒絶するって話の繋がりがよく分からん 前者を基にすれば、例えゲーム部分があろうとも(ゲームの主人公として一本道のストーリーを辿っていこうとも)解釈の余地はプレイヤー次第ってことになると思うんだが どちらかというと、読書でいうところの読む行為はゲームでいうところの操作にあたるけど、ゲームでの操作は物語と解離したところにあるっていうのが問題なんじゃ?
>>212 それが、ゲームと言う分野においては分別が成立する
本や映画でも、作り手が想定した物語と読み手が受け取った物語は異なって来る
では、それをゲームでやった場合どうなるか
ゲームと本や映画の違いは、世界に対しプレイヤーが触れられるところ
一方的に発していればいい小説では、例えば「窓から外に逃げた」と言う物語を作ればそれが物語りになる
ゲームの場合は目の前に扉が存在した場合、窓から出ると言うストーリーが決定していても、何で窓なのかと言う部分が無い
受け手が扉から出れば良いではないかと思っていても、理由も無いのに窓から出る選択を選ばされる場合
ストーリーは存在するけれど、そうしなければいけない必然性が無い訳で
それなのに、する事だけが決まっている
とすると、作者から見た物語は存在するのに、プレイヤーから見た物語は存在しない事になります
何も目の前の扉から出れば良いと思っていながらも窓から出るしかなければ、物語として破綻します
要するに作者の発してる物語と、受けてが受け取る物語が異なってしまうととたんに物語が成立しない状況が発生するのが、世界を触れる事できるゲームと言う物
また仮に、プレーヤー自体が窓から出たいと思って筋書きと一致していたとしても、プレイヤーが自分の感じた事に逆らって扉を試してみる場合も
本当に扉はだめなのか?と
もしも、そこにだめな理由が存在していなければやはり、窓から出る行動は破綻します
仮にムービー等のゲーム以外の部分で物語を作れても、いざ操作できるようになった時その語った触れてしまうのだから物語が平面に描かれた絵のように裏舞台が作られていなければ
そのゲーム外で語られたものが全部口先だけだってばれてしまう
舞台裏を見れて触れてしまうのだから
要するにゲームでは本や映画と違い世界の中に介入できる
だからもし作り手と受けての解釈が異なっていれば(または同じでも)作り手の作った物語と受けての感じた物語が乖離してしまうと言う現象が起こります
なので、その部分がきちんと作られていない事によってこの一連の問題が発生しています
ムービーで窓から出る理由をきっちり話しても、それでも自分は扉から出ようとしたい
と言った時、扉を触る事も出来ない(触れられてもテキストでそれが出来ないと教えられるだけ)思ってもいない感じてもいない事を無理やりストーリー通りに「やらされる」と言う現象が起こります
でも、実際扉を開いて、扉を開けたらこうなるんだ、なる程、これなら出られない、と言う部分を作りこめば、自然と納得して窓から出られる物です
>>213 出来ればもっと詳細な(長い)説明をしてもらいたいところです
>>211 だからゲームには「目的」が存在します
目的が存在すればプレイヤーの次の行動は決まってきます
例えば、閉じ込められた部屋から外に出ると言う目的を持っていればプレイヤーはそれを基準に行動します
目的のために、または目的に逆らって、または目的に対して実験的にこうしたらどうなるだろうか?と
する事が浮かび上がってきます
また同じシナリオで出来るのでストーリーを追うだけという行動も出来ると思います
>>215 まず一本道というのは解釈の誤差を生じさせない手法なわけだ
プレイヤーが何か勘違いをしたとしても、そもそも移動の自由はないので別の解釈で行動することはできない
主人公の動機に納得がいかないで「俺ならこんなことしないな」と思っても、決められた行動以外はまず存在してない
決定的にゲームとして解釈を拒否してる
そしてだからこそ、解釈の余地を持つようなストーリーにすることが出来るわけだ
どんな解釈をしてもそれがゲームに反映しないが故に、ストーリーはどう解釈しても許される
読むという行為と操作という行為は同じどころか排他的な関係といえる
操作できないから読むことができるし、操作できるなら自由に読むことは許されない(正解の解釈のみ許される)
読書とゲームは全く反対のものといっていい
で、ナラティブ(このスレで言うナラティブじゃなく、読み聞かせという本来の意味での語り)というのはゲームとも読書とも違う地平にある 語り手は受けてを見て、その反応によって語りを変える 場合によって内容が変わることもある 受け手が勝手に語ることは出来ないわけだけども、語り手が一方的に吟じる事も許されない 共同で物語を作っていくような一種の緊張関係がある お互いが良い物語にしようと協力することによってナラティブという関係性が生じる、とでもいうか こういう関係を何らかの形で(ここの趣旨で言うならコンピュータメディアとして)再現しようとするなら、それはゲームという枠組みで語らない方がいい ゲームはゲームであってナラティブではない ナラティブであることにインタラクションやグラフィック、サウンドが効果的という場合もあるだろうし、その一環としてゲームであることも効果的かもしれない つまりゲームはナラティブの手段に過ぎない どんなゲームがナラティブか、なんていうのはナンセンスな質問 強いてそう問うなら、どんなナラティブがゲームか、と問うべき
まさにTRPGだな
>>219 一本道かどうかが解釈の誤差を生じるかどうかというとそれは違うと思います
小説を読んで人それぞれ解釈が違うと言うのに、それがゲームでの一本道ならば解釈に誤差が出ないと言う事は絶対に無いと思います
必ず解釈に違いが出る訳で、そこでそこから先、小説とゲームでの違いが出て来る訳です
小説なら読み手が勝手に解釈すればそれで済みますが、ゲームでは解釈を実行する必要性を持っていて、そして実行する(試す)事が可能です
ストーリーどおりに進むと「自分ならそうしない」または「そうしなかった場合どうなるのか」と言う
その部分が存在しないと、その筋書きが本当はそうする必然性が無い物だ、筋書きはこうしなさいと言っているけれどこうする必然性が作られていないのにこうしなければいけない、筋書き通りに歩かされてるだけだと言う平面的だと言う事がばれてしまいます
そして語っているのはプレイヤーで、プレイヤーの目線です
ですから、小説の主人公の行動は他人の出来事として解釈できますが、自分の行動はどうしても自分で決めたと言う構図に持っていかなければ物語が成立できない
要するに、一つの行動を強制された時、それをしなければいけない必然性を作れていないからこそ
ただ無理強いされてるだけになってます
まず、最初に必要なのは「プレイヤーは完全に自由だ」と言う事です
プレイヤーは完全に自由なので好きに行動します(プレイヤーに空間や世界を与えたらその隅々まで勝手に触ろうとする)
その隙に行動するプレイヤーをどう、その好き勝手に行動する状態のまま、製作者の作ったシナリオの筋書き通りに動いてもらうようにするか
どう、好き勝手に行動するプレイヤーに製作者の作ったお話を伝えるか
その技術
今のゲーム(ナラティブが無いゲームとされるゲーム)は「プレイヤーは製作者がやれと言った事、出来ると言った事を用意して初めて行動する(プレイヤーは自由に好き勝手行動しない)」と言う前提で始まっています
プレイヤーは製作者が用意した道筋しか動けない、興味を持たない、調べない、進もうとしない、と言う前提で
その前提で、進める道、行動できる道、を一つ、一つ追加します
と言う、正反対のやり方をしています
だから、プレイヤーは決められた行動しか出来ない
一本道でも、「自由度」とされるものを重視した作品でも
製作者の作った道筋をなぞるしか出来ない
だからストーリーを無理強いされているよう感じるのです
プレイヤーは製作者がやれと言った事、出来ると言った事を用意して初めて行動する →プレイヤーは製作者がやれと言った事、出来ると言った事を用意して初めて「その分だけ」行動する
要するに解釈の異なる他人を作者の作った物語(一本道でも複数でも)に押し戻す技術? 開発者はそっちに行けといってる でも自分はこっちに行きたいよ じゃこっちに行ってみていいよ、いけない事を自分でやってみて理解できるから 結局はそっちに行かないといけないから 見たいな感じかと 一つのパターンは
要するに「自分ならこんな事しない」を「やっぱり自分でもこうする結果に」にする 二つの扉が目の前に存在する 右の扉にしか何故か入れない、入れと命じられる(何故ならば、右にシナリオを作ってるから) 「自分は左に入りたいのに」(そうしか出来ないから仕方ない、入るしかない) でも、左に入ったら、そこは崖でそのまま足が滑って落ちてしまいます すると、「右の扉に入る妥当性」が発生すると言う訳ですね 例が悪いのはごめんなさい
ムービーゲー批判によくある例だと、 イベント戦闘で何故かPTメンバーの一人が突然自己犠牲精神に目覚め、 勝手に特攻して勝手に死亡して何故か復活もできないやつ。 しかもそいつにあずけてた荷物も取り返せないパターン。 ムービーゲー故に、動画なども用意して声優に演技させて、 仲間の死という「感動」を盛り上げようとするけど、 プレイヤーからしたら唐突だし指示無視で迷惑だしかなり微妙な気分になる。 まさにプレイヤーとキャラクターが決定的に乖離してる例だね。 一方洋ゲーの場合だと、仲間の行動による感動シーンの演出を最初から放棄して、 ちょっとした戦闘でもミスで仲間があっさり死亡するというリアリズム的な演出にとどめることがある。 これも、感動というよりやっちまった感の方が大きく、殆どの場合は前回セーブからやり直すとおもう。 こういう「大事に育てたキャラの絶対的死」という筋書きを、 ナラティブデザインでやろうとするとどういう感じになるんだろ? どういう例があるんだろう? プレイヤーを綺麗に納得させてロストさせるとか、なかなか難しいと思うが。
>>226 分岐をうまい事使えば良いと思います
プレイヤーがこの時点でこうした場合、そのキャラがそこで倒れ
こうしなかった場合、そのキャラは生き残る
そうすれば、そのキャラがどうなるかをプレイヤーの過去での行動が決めた事になります
これで、プレイヤーは納得できると思います
この時点でこうしたからこうなったんだ、と
どうでしょう?
例とか文章が下手糞でごめんなさい
>>226 キャラをロストさせることによる損害が実はこっそり補填されている、
とかそういうゲームシステムにしないといかんかもな。
ガープスのCPやガンダムVSのコストみたいな
「キャラそのものの価値を数値化したもの」をいれて
ロストしたキャラのコストは何らかの形で全額返ってくるの。
230 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/07(火) 23:35:19.14 ID:bbv8gams0
サウンドノベルで一番ナラティブなのは弟切草?
いずれにしろプレイヤー自身が、あるキャラを捨てざるを得ない状況に追い込むか、
プレイヤーの選択で強制ロストを回避できるという形で、
プレイヤーが選択した結果のように見せるということでしょうか。
>>227 たとえば特攻しがちなキャラに勝手な行動をとらないよう「教育」できたり、
ある敵キャラへの復讐に燃える危なげなキャラに、
サブイベントで復讐よりもさらに意味のあるものを教える(恋人を作らせるとか)、
例えばそういう特攻死の回避策の選択肢を用意するということでしょうか。
私もそれは一つの方法だと思います。
自分でリソースを管理できて、意思決定もできるのはコスティキャンのゲーム論でもあげられてるゲームの要件ですしね。
ムービーゲーの場合は、
1.いきなりプレイヤーからキャラクターのコントロール権を奪う
2.強制的にロストさせる
3.その上で「仲間の死による感動」を押し付けてくる
この、映画的には間違ってない演出が、ことごとくゲームの要件に反してる。
このことが、それまで主人公達に一体化してたプレイヤーを一気にさめさせるわけでねすね。
>>229 例えば、仲間の死で主人公が何かの能力に覚醒したり、
死んだ仲間の魂がアイテムに憑依して便利アイテムになるとかでしょうか。
一般論になりますが、RPGのPTメンバーの管理は全てプレイヤーに委ねられてますね。
「大事に育てたキャラの絶対的死」の問題は、
すなわちプレイヤーのコントロールできる範囲にシステムで強制介入するという問題だとおもいます。
となると、なんらかの形でバランスをとってもらいたいのがプレイヤーの心情ですよね。
>>231 エメラルドドラゴンは
キャラの入れ替わりが戦力増強につながってたね。
(死亡や離脱イベントのあとは
必ずと言っていいぐらい同じ方向性の性能でもっと強い後継キャラが来る
カルシュワル→ホスロウとかヤマン→サオシュヤント)
街や428は実質1本道だし かまいたちは樹形図だから 弟切草が一番近いとは思う 面白いかどうかはともかく
>>229 そういうのって
ただのふり直しできるスキル制じゃないの?
>>236 ガープスのCPは振り直しできない。
ガンダムVSだと、同じコスト2000機体でもそれぞれ性能違うじゃん。
で、想定してたのは、
戦闘での死亡で永久離脱したキャラのデータを多少いじった新仲間が
しばらくたっていい感じに忘れたころに「お供にしてください」みたいな。
238 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/10(金) 03:56:28.01 ID:UiJxg4vG0
「風ノ旅ビト」は確かPlusで無料だった時に落としてあったっけなぁ オン要素あるみたいだから廃れる前にやっておくか・・・
239 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/10(金) 22:01:02.05 ID:74F1TIRT0
ヴァルキリープロファイルみたいに 最初から全員死んでるとか ロマンシングサガ2みたいに世代交代を盛り込むとかは 人の死をうまいことゲームシステムに組み込んだ例だね。 プレイヤーはキャラの死を自然な形で受け入れられる。
こういうのって昔からあったと思うけどな。日本のゲームからは今世紀に入ったあたりからどんどん失われていったけど。 ネーミングすることで洗練される反面、枠にはめられパターン化されて陳腐化しそうな感じがする。
自分が管理するユニットを代償にして先に進むゲームといえば、 古典的な戦略シミュレーションゲームやピクミンを思い浮かべるな。 どっちもユニットは無限に供給されないから、頭をつかってなるべく最小の犠牲で最大の効果を出すようにするね。 このユニットにそれぞれ個性があって、 将来の夢やらプレイヤーキャラへの思いをバンバンしゃべるようなゲームだと、 鬼畜さが増すけど「貴重な仲間の死」ってのをもっと切実に感じられるんじゃなかろうか。 ファイヤーエンブレムとかそんな感じか。 でもお気に入りキャラがロストしたらやっぱリセットするよね。 リセットがきかないオンラインゲームとかになればまた違うのかな?
>>240 前提の問題かと
昔は「プレイヤーは完全に自由だ」「プレイヤーは見たもの触れられるもの何でも自由意志で動いて触る」と言う前提で
昔はゲームの中の空間と言う物は園に表示された物、描かれた物は全て理屈を説明する事を要した
もし外に出なきゃいけない時「ここに窓が見えるよ」と言ったらそこから出られない理屈もきちんと作る必要が出て来た
でも今はと言うと、「プレイヤーは提供されたゲームの指示通りの事しかしない」と言う前提で作られる
空箱が道をふさいでいたらそれをどけるか試そうとは考えないで、そこは通れない場所だと考える
だから誰でも手でどけられそうな空箱で迷路を作っても空き箱で作った道の通りプレイヤーは遠回りして進む
または何の疑問も抱かないだろうと言う前提で作る
プレイヤーは作った側の思い描いたストーリーに対して何の疑いも持たず追従しその通りにしか動かない
だから本筋に関係ない部分や何でそうなってるのかの説明等を省いたり作らなかったりする
ところで、プレイヤーが記憶喪失とか主人公側をプレイヤーに重ねようとするより プレイヤー側を主人公に重なるようにした方が良いと思う 主人公に数々の設定を最初に与え、ではプレイヤーに対して「その設定のキャラがプレイヤー(YOU)だ」といって プレイヤー自身にその設定を背負ってもらった方が良いと思います プレイヤーはその主人公に与えられた設定を背負って、まさにその人間としてゲーム世界で行動する プレイヤーが情報を知らないからと言って主人公もそうしてしまっては中身が空っぽになってしまうと思います プレイヤーは何も知らないけど、主人公の設定と主人公を取り巻いている環境から周囲の環境と接しながら自分とは何なのか?どういう存在、どういう立場なのか? 周囲の環境や人にその主人公として振舞っているうちに自分はこういう存在なんだと理解する 人格や性格、立場が全然違うキャラを自分として振舞えるように作るべきだと思う 物語は主人公と主人公の置かれた状況含めて物語りだから
主人公はこういう設定で今こういう思いでこういう事をしようとしている それがYOUだ、と
設定をバトンタッチしたら後はプレイヤーがその人物として 「自分がその設定の人物だったら」を好きなだけ堪能すればいい
246 :
ゲーム好き名無しさん :2014/01/16(木) 07:40:25.78 ID:gIoldPlK0
Civと俺屍は何度遊んでも飽きない 毎回違うストーリーが自分の中で生まれる
ストーリーの断片をプレイヤーのやった行動に対する結果として返す事を連続する事で 作られたストーリーの断片が繋がって物語りになる プレイヤーに勝手にやれば?と言うだけではストーリーにならない 「〜が出来る」と言うだけでは「〜をした」と言うだけになる プレイヤー側は「〜と〜ができる」「その中から〜をした」 そうしたらゲーム側からは「こういう結果を返された」 だったらプレイヤーは「〜をする」 そうしたらゲーム側からは「こういう結果を返す」 その繰り返し
どちらかが一方通行だとその関係が崩れる プレイヤーが好きな事だけをやれば、何をやってもプレイヤーのやった結果が再現されるだけ 当たり前の結果が起こるだけ 犯罪を犯したらつかまる仕組みになってる場所ょで、犯罪を犯しましたそしてつかまる 当たり前 プレイヤーが何かした場合のどうなるのかをゲームが返さなければ当たり前の結果になるだけ
逆にこの先どうなってどうなるのか作った側のストーリーを押し付けてるだけでは、無理やり作った人のお話に付き合ってるだけ やらされてるだけ だから、プレイヤーがまずこうしてみたい その場合どうなのか それがかみ合って初めてお話を作ったと感じる
なんかナラティブ勘違いしてるようだけど自由に選んで結果が返されるならマインスイーパーでもいいことになるぞ どのマスだって選べるから完全に自由、でも地雷を踏めば爆発してNGとでる、どういう地雷配置か分からないのだから意外性もある 物語が単純だから違うとか面白くないから違うとか例が分かってないような返しはするなよ そうなら腕がいいライターが書くかどうかという議論になる
251 :
ゲーム好き名無しさん :2014/02/03(月) 21:10:16.15 ID:VkMC6y3I0
ブレスオブファイア5:ドラゴンクォーターが気になってる
俺の屍を越えてゆけ とか ガンパレなんかはナラティブなんだろか 最終的に敵を倒すって目的に向かって動くけど、その過程は人それぞれだし そのゲームの中に生きてる感は強いと思うけど
イベントの部分によると思う 〜した場合、こうなる 〜した場合、こうなる 〜した場合、こうなる と場合分けされていて、自分のした行動に対する結果をイベントで表す事で 自分の「こういう行動をした結果がこうなんだ」と言う話になってる ゲームはプレイヤーのした行動に対して、結果や結論、結末を返す そうする事でお話として成り立ってると思います 自分はした らこうなった これで一つのストーリー
254 :
ゲーム好き名無しさん :2014/03/02(日) 12:46:33.42 ID:2EuWvG3M0
255 :
ゲーム好き名無しさん :2014/03/09(日) 12:14:20.23 ID:r3p8y3G10
narrative 音節nar・ra・tive 発音記号/nˈærəṭɪv/ 【名詞】 1a【可算名詞】 物語. b【不可算名詞】 物語[説話]文学. 2【不可算名詞】 説話,話術,語り口. 3【不可算名詞】 (本の会話の部分に対して)語りの部分. 【形容詞】【限定用法の形容詞】 1物語体[風]の. 用例 a narrative poem 物語詩. 2説話の,話術の. 用例 narrative skill 話術.
”共感”とか ”深い共感”って感じか? プレイヤーに「その選択肢以外ありえねぇ」と思わせるテクニック 例えば「フロントミッション1」のドリスコルを撃破するか しないか の選択 「その選択肢以外ありえねえ」を縦に繋いでゆくと一本道シナリオになる これを横に多種用意するとオープンワールドになる
こんな曖昧な用語議論するだけ無駄 全員自分が好きなゲームをナラティブだと言ってるだけ
曖昧なものに名を与えるのは、 そうする事でそれに注目を集め、曖昧なそれの事を少しでもハッキリさせようという 意識の流れを作る手段だよ 「愛」とか「自由」とか「人権」とか、はっきり目に見える定まった形を持たないものの多くは 名称を与えたからこそ少しづつ明確になっていったんだ 未だに完全に明確になっていないものだって 名称すら付いていなかった頃に比べれば、だいぶ明確になり他者と言葉で共有しやすくなった 曖昧だからこそ思索し議論する意味があるのさ ま、定義の議論ばかりじゃつまらんけど
ゲームが面白いかが重要であって名を与えるとかどうでもいいんで
それをこのスレで言うのか 満足したか?
読書感想文に「面白かった」しか書けない子いるよね
そういうのとは違う 他人が「面白かった」以外の事を嫌がる子 「面白かった」しか書けない子は感性が乏しい子
263 :
ゲーム好き名無しさん :2014/03/12(水) 00:02:21.64 ID:Nh3ZB+UX0
小並感
>>259 だからゲームを面白く作る為に、ゲームの面白さに影響を与えていながら
今まで名称も付いてなかったのであまり注目されてこなかった部分に
ナラティブという名称を与えて注目を集め議論しようってんだろ
ユーザビリティとかゲームメカニクスとかレベルデザインとかと同じ様に議論して、
ゲームのどこをどうするとこういうナラティブを付加できるとか強化できるとかの
具体的なノウハウの共有をしたり、そういう事例から
ナラティブがどういうものなのかの理解を深めたりしようって事だろ
そうそう。外人はなんでも理論化したがるから。 今後海外では今まで漠然と捕えられてた感情移入や同一化を もっと掘り下げた「ナラティブ」として掘り下げた作品が出てくるってことよ。 まあ和ゲーメーカーには全く期待してないけどね
上の方で出てる関連記事とか読むと ナラティブにするテクニックって 手品師の使うミスディレクションとか行動経済学のもろもろとかが思い浮かぶんだよね これらはゲームにナラティブを付加するテクニックとして流用できるんじゃないかな
>>266 米では、そういう行動科学的アプローチでナラティヴデザイン論を展開している人もいるよ。
今の日本のゲーム業界では金を搾り取る事だけが大正義で
それ以外はクズ扱いだからこういう議論自体成立しないんだろうね。
>>265 でも、問題らしき物も
定義する事によって漠然と直感や感性で作っていた物を理論で作るようになると
感覚が素晴らしい人が直感で作っていた時のような複雑な面白みは出ないと思う
理論が先行して作ると
>>267 たぶん外国で成功した例が出たらその劣化コピーを日本が作るんじゃないかな
議論自体成立しないと言うか日本では議論をしようとするとここでもそうだけど、いやな顔をする人がいる
>>266 見たいな作り方は昔の日本人は自然に出来てたような気がする
理論や売れ行きばかり気にするようになってから単調なゲームになった気がする
>>268 劣化コピーを作る為には
オリジナルをある程度は理解しないといけないじゃん
それなら今から理解しといた方が
オリジナル作るにも劣化コピー作るにも有利で無駄がないよ
海外じゃ今まさにメジャーになろうとしてるんだろう?
劣化コピーは、いかに素早く追随できるかで儲けられるかどうかが決まるからな
理解しないで表面的にだけまねるから 別に理解する気も無いと思う まねると言う事は出来るから でも根源的には分かってないから劣化コピー 頭を使うのを馬鹿だと思ってるふしが・・・
グラフィックとか音楽とか表面に堂々と存在する部分なら 見たり聞いたりしただけで表面的にまねる事もできるだろうけど、 ナラティブな部分ってハッキリ目立つようなものじゃないから 全く理解してない人間がオリジナルを見たって どこをどうまねればナラティブさをまねられるのかも理解できないっしょ? 劣化コピーで稼ぐ為には オリジナルが発掘した潜在需要が供給によって消滅するまでの間に 質が悪くてもいいから供給自体はできないといけないんだよ 需要に対して全く供給する事ができない的外れなコピー品を売っても 完全なハズレがあると知った消費者が警戒心を強めて買い渋る様になり、 せっかく発掘された需要が 利益に変換され尽くされる前にまた埋もれてしまうからね 中国の雑貨や電化製品のコピー品だって 同じ集団が作っている物はだんだんと質が良くなっていくのが常だよ そうしないと儲けられないから
「触ってみたい!」と思う物と、触る前から「触っても何も無いんだろうな」と感じる物 その違い?
早い話がTRPGってことじゃないの?
どんな無茶ぶりにも対応する優秀なゲームマスターをコンピューターがやって、その結果シナリオ?が面白くなる 別に開発者が決めたことではないからそれだけ自分だけが体感したイベントになる、だから面白いってこと?
277 :
ゲーム好き名無しさん :2014/03/17(月) 02:40:57.04 ID:ASlHVbC30
>>271 日本はどっかに「ゲームごときで」「娯楽ごときで」って考え方があってそれはもう抜けないだろうね
作り手も消費者も
斜め読みしかしてないけど、ガンパレとかelonaみたいなやつか
大河的話の面白さで引っ張るんじゃなくて ランダムで起こる突発イベント(それも順風満帆な状況を揺るがすようなの)を ふんだんに盛り込んで遊ぶ人をあたふたさす感じか。
>>276 多少視点が異なる気がする
ナラティブとはどちらかと言うと作り手が決めた事や世界観を受け手に伝える事だから
目の前に鍵が落ちていました、拾いなさい、拾うしか選択の余地は無い、だから鍵を拾う、と言うとプレイヤーは自分の意思で鍵を拾った訳ではないので無理強いされてるだけだけど
鍵を拾うと言う事を自分で発見して自分で拾おうと思ったのだったらそれは自分の意思で拾った事になる
開発者が決めた鍵を拾うと言う事を教える為には、プレイヤーがするだろうその他の行動を全てふさいでやらなければいけない
仮に扉を蹴破ろうと言う発想をしたプレイヤーがいたとする
そうしたら扉を蹴破ろうとする事ができるけれど、それは出来ない事を体感する
要するにどんな無茶ぶりにも対応するって事だと思う
扉を蹴破ろうとしてそれが出来ないのも、鍵を拾って進まなければいけないのも、全部開発者が考えた事だけれど
それを全部伝える事で、開発者は結局何を言いたいのか?を伝える事が出来る
要するに鍵を取るしかないよ、といいたい開発者
ただ鍵を取ると言うだけのために、これはだめこれもだめ・・・とずいぶん冒険する事になる
本当はプレイヤーに対する視点より、空間に対する視点の方が良いと思います
「プレイヤーが〜をした時〜だ」より「この物体は何だ」「この物質は何が起こるものだ」
これで、空間側が物語を発してる事になると思います
そこから転じて、プレイヤーがこの物質に対して行動を起こした時にはこういう事が起こる
要するにやった事は、鍵を取れと言う為だけに、その他に思いつきそうなプレイヤーの行動を試す事が出来るようにしてその結果できないと言う事を教える
>>277 今はゲームは天才が作り馬鹿が遊ぶものだと思いながら作ってるはず
もともとは、ゲームは作ってる側が自分が面白がって造っていたと思うけど
自分が面白いと思って作ったゲームは面白い
遊び心もいっぱいで
自分が面白いと思ってもいないものにはそういう事は出来ないから
どういうゲームがユーザ受けするかを綿密に調査して自分が面白いとも思ってないのに作ったゲームはつまらないゲームになると思う
というか今のゲームって既に個人の意思が反映される様な作り方してないもん そういうのはインディーズゲームとか
雑誌にソースコード全部掲載できる規模の時代には今更帰れないしな。 昔、ロードランナーで学ぶC言語って本があって、 全部コード入力するとゲーム一本完成するんだけど、 同じようにドラゴンクエスト10で学ぶVisualBasicとか作ったら 今だと本何冊分になるんだろうか。
決まりきった事でも白々しさは必要だと思います 扉と鍵の話だと 扉が鍵がないと開かないのは当然だとしても、さもそれを全然知らないかのように 開かない扉をガチャガチャする動作を取ったり 外に出れば殺されてしまうのは当たり前でも、きちんと外に出ると言う行動をとった時殺されるしぐさとエンドを ゲームの中ではそうするのは当然でも実際自分が例えば閉じ込められたなら悠長に鍵を探すかだろうか?と言う事だって そういう無駄の中に、伸びしろが存在する 無駄な事は出来ないなら、出来る事だけたどれば済む話だけど もしも出来ない事も出来るなら、それは本当に出来ないのかもきちんと調べなきゃいけない訳だし それと >目の前に鍵が落ちていました、拾いなさい、拾うしか選択の余地は無い、だから鍵を拾う、と言うとプレイヤーは自分の意思で鍵を拾った訳ではないので無理強いされてるだけだけど 目の前に鍵が落ちていました、拾いなさい、拾う以外の行動ができない、作られていない、だから鍵を拾う、と言うとプレイヤーは自分の意思で鍵を拾った訳ではないので無理強いされてるだけ で荒筋で作者の言いなりに動かされただけだけど 色々な事を自由意志のままに好き勝手に行動できてその中から出来る事、出来ない事、何が起こるか?自分で見つけたんだったら だったら作者の言いたい事を自分で発見した事になる と言う違い 作者の言いたい事とはどちらも同じ物語りだけど 一つは荒筋通り動いただけでもう一つはその筋を行動するまでに至った理由まで体験している どちらにしろ自分のしてもらいたいひとつの行動を実行してもらう為、他の全ての選択の可能性をつぶしてきたって事になると思います 外に出なければいけない、と言う状態で、「天井裏から外に出た」と言うシナリオを作る為には 扉から出ようとした結末と、窓から外に出ようとした結果をきちんと作らなければいけない それと明らかに出来無そうな事でも白々しさが必要かと それとただ「出来ない」ってだけより「やってみる」→「その結果、末路」を作って挙げると・・・
扉を見つけたら鍵を使うのは当たり前だ→だから扉を開けようとすらしない 外に出たら殺されるのは当たり前だ→だからその先を作らない 進む当たり前の行動だけを作る そう作ってると、次進む場所、次する行動しか存在しない状態になりますから もしも選択肢が複数存在したとしても、そのどちらの選択も次する行動になります
白々しいと言うのは「やらないでも分かるだろ?」見ないな事を敢えてやると言う事です 外には恐ろしい魔物がいる(はずです)が、外に出れば殺されてゲームオーバーになるはず だから外にはもともと出れない と言うのが、ストーリーのゲームで 外には恐ろしい魔物がいる(はずです)が、外に出れば殺されてゲームオーバーになるはず だから外に出てみる→そうしたら殺される描写が流れてゲームオーバー になったり →意外と外に出られて、そうしたら予想外に何か得をした とか そういうのは、絶対に出来ないだろう事も試す事が出来て初めて出て来る要素だと思います 出来ない事を敢えてやってやっぱり出来ない白々しさ 文章変でごめんなさい
なんだかんだで結局一本道なのね...
じゃあYU-NOって相当ナラティブなゲームなんじゃないか? まさしく「時系列が設定されておらず,自分の経験や出来事を通じて語る。またそこには意外性と偶然性がある」ゲームだし
時系列っていうのは 私は駅に向かう途中にりんごを買ってその後、郵便局によって手紙も出した の時系列は、家→りんご→郵便局→駅 でも駅に向かう途中、りんごを買う事と手紙を出す事をする となっていたら途中にりんごを出すと言う行動と手紙を出すと言う事がはさまれていると言うだけでどっちが先かは分からない りんごを買う経験と手紙を出す経験を途中にする と言うだけ どっちを先にしたか覚えていない場合でも何をしたか?は覚えてるはず 結果同じ時系列で起こったとしても 記憶として刻まれた経験の事 時系列が設定されている場合 まず鍵1を拾いなさい、拾ったら次の指示、鍵2を拾いなさい、拾ったら次の指示、次に鍵3を拾いなさい、そうしたら次に扉に手に入れた鍵を順番に指しなさい されていない場合 扉を開けるには、鍵1鍵2鍵3が必要です どこかに落ちてるはずなので勝手に拾って下さい
別に一本道でなければいけないって事でもないので複数ルートでもOK でも一つのルートを作る為には、そのルートを通るための抜け道を全てつぶさなければいけないよってだけで
それだとちょっと限定的になってしまうかな? でも分かりやすいと思うので
つまり相当特殊な世界観でない限り2Dゲームはナラティブじゃない
「自由度」「箱庭」「中二ゲー」みたいに変な方向で捻じ曲げられる言葉になりそう
ネット界隈の“DQN”“壁ドン”みたいな 公に向けて意味を説明するのがはばかられるような言葉だと そうなるガチだね。
>>288 ナラティブにするテクニックを使えば
たとえ一本道でもプレイヤーにそう感じさせずに
自由に冒険したと錯覚させて満足させる事もできるってだけで、
ナラティブは一本道限定じゃないよ
>>285 〜287の例はあまりにもスマートじゃない
ナラティブにするテクニックとしては最低レベルのものだと思う
ナラティブなゲームってのは、ストーリーの見せ方が上手いゲームってことか ゲームでしか体感し得ない、例えば映画では出来ないシナリオの見せ方がナラティブ
どちらからかと言ったら、作った人の作った筋書きをきちんと伝える技術なので その部分では一本道なのは基本だと思う むしろ一本道の伝え方をどうするか?の部分 その一本道を伝える為に分岐を使うと言うのも技術の一つだと思う 例えば、「通気口から外に出る」と言う筋道を伝える為に 窓から外に出た場合に失敗する、扉から外に出た場合失敗する 本来自由とは自由に動ける事をいって 自由に試す事が出来る事をいう それは、出来ない事も試す事が出来るという意味なので ので、今ゲームでさす自由度と言うのは本当の意味での自由の事ではない 選択権レベルで出来る行為を与えられ、その全てが出来る事だというのは、自由ではない だから例え一本道でもって言い方はおかしいと思う 一本道一つ一つをきちんと作りこむには、通る道以外の通れない道も作りこまないといけない それがないと、指示で動かされているだけになるので、「やらされてる感じ」が付きまとう それとストーリー自体の分岐に関してはまた別のお話 その分岐した一つ一つのストーリーが一本道な訳で
自由度っていうと「何々ができる」「何々ができる」「何々ができる」と出来る事だけが並んでいて その中から選んで行動するって意味をさすと思うけど 選ぶって時点で実際は選択権を与えられただけで実際にどうするかを握ってるのは与えた側だと分かる では、実際はどういう経験で自由に動けたかと感じるかと言うと、出来ない事をやった時で (正確には出来ない事がきちんと作りこまれていた時) 窓1から出れる窓2からも出れる扉からも出れる では通気口からはどうなの?作られてない の時、出れる場所だけが作られていると、結局作り手が自分の与えた選べと言ってるのが透けて見えるだけになる 窓1と窓2と扉から出る選択肢を与えるだけなので 窓1からだけは出られる 窓2と扉と通気口から出ようとした場合失敗する と言う出来ない事を作る事によって初めて「自由に動けた」となる 「意図しない事も出来た(意図しない事もきちんと作られている)」と言う
要するに作り手の意図する事だけが作られているか 意図しない事もきちんと作られているか それによって作り物と感じるかどうかが分かれると思います
要するにそこに存在する物質物質の継ぎはぎから物語が作られているか、作り手が作った筋書きの通りにそこに描いた物質の一部を使うのか?の違い 外に出るという目的を課された場合 扉=外に出られると言う記号 窓も、通気口も同じ外に出られると言う記号 扉は外に出られないと言うお話を持っていて 窓も外に出られないと言うお話を持っている 通気口は外に出られると言う中身だったら それらそこに存在するそれぞれの物体の発してる個々のお話を継ぎ足したら主人公の冒険のお話になりますよね そこに存在するそれぞれの物質物質の発する意味合いの断片によって物語が形作られているのが ナラティブ で、通気口が存在しようが窓が存在しようが、作った人が扉から出ろと言ったらそんなの試す事も出来ず扉から出る以外ないのがストーリー 仮に出口を複数用意しても同じ 窓と扉から出れてもそれはそうしろと命じられているからそうするだけで
>>298 それで合ってると思う
>ゲームでしか体感し得ない
舞台に裏が存在しないのがゲームだと思う
ゲームでは裏も覗かれる
覗いた時そこがきちんと作られてるかは大事だと思う
自由に動けるゲーム内というのは、やってる人はシナリオ通りに物事を考える訳ではないから
意図しない行動もとる
その時そこが作られていないと世界が書割で作り物だと感じてしまう
要するに世界や箱庭がきちんと作れていないって事ですね
>>297 確かにその例だけでは弱いけど説明の為の単純化した例だから
ナラティブって
プレイヤーがゲームの物語をどう感じるかの種類を表す単語の一つであって、
ゲームに実装する場合(製作側がプレイヤーにナラティブに物語を感じさせたい場合)
目指す方向には最低でも2種類あるでしょ?
手品師みたいに人間の持つ性質を利用して、客は自分で考えて選んだと思っているけど
実は手品師の意図した通りに誘導されてるってタイプと、
TRPGのアドリブ上手なGM&心得ているベテランプレイヤーみたいに
GM(制作者、あるいはゲームソフト)とプレイヤーとで物語を作り上げるタイプ
>>285 〜287の例とか
>>299 〜302とかは手品師タイプだけど、
>>276 は……ちょっと極端すぎるが、こういうプレイヤーの力も使って
物語が出来上がる様にシステムを組んだゲームもナラティブゲーだろ?
「風ノ旅ビト」とかローグライク全般とかさ
だから一本道限定の話じゃないって言ったんだけど
306 :
ゲーム好き名無しさん :2014/03/22(土) 12:35:39.76 ID:d6Nj5APF0
3.はシステムとして面白そうだけどそれで物語を感じるのは難しいのではないかと パラメータが存在する=プレイヤーから結果が最初から分かる むしろ最初からその結果に向かって調整をする 要するに、目的に向けて調整しただけで物語を見た体験した訳では無いと思います どちらかというと物語とは、読み手から隠されていなければいけない 言葉通り「意外性」 「結果を知りたい」と言う欲求に突き動かされる物 結果を知りたいから、話を進めたいんで それがゲームをする原動力になるはず 結果を最初から知っていてっていうのは違う気がします 知らない人が目の前にいる、話したら何を言い出すんだろう? それと 十分に好感度を上げて望みの答えを聞けるようにする と言うのと その違い テーブルの上にりんごが置かれている これは何意味するんだろう? だからりんごを調べてみる すると裏側に文字が彫られている「助けて・・・」 するとその次が気になる訳です
読み手から隠されている=読み手は話を知らない、話の先を知らない →だから読んでみたい(調べてみたい、話を進めてみたい) のはず この作者は何を言いたいんだろう? 本に書かれた物語を読むのと一緒で
ナラティブって言葉はゲームと関係ないんだから 別にゲームじゃなくてもナラティブできるだろ もちろん映画でも
ゲームとして面白いかとナラティブは別問題
ストーリーの先が気になることと それがプレイヤー自身の物語体験たりうるかは まったく関係ないな
>>309 >>310 ナラティブが急に注目される様になったのは、
最近のゲームに対する不満の中に
”せいさくしゃのかんがえたおもしろくてかんどうてきなはなし”を
小出しで見せられるだけで
自分のプレイとゲームの物語とが乖離していて虚しい・つまらない
って意見が増えてきたからだろ
自分のプレイが物語と関係ないという事は、
他人の自慢の物語を見せられる為に無駄な手間隙を要求されるって事だから、
そのゲームの物語以外の部分が面白くても
その面白さを”無駄な事をさせられている感覚”や
”関係ない物語を見せられるシーンでゲームプレイを分断される鬱陶しさ”で
邪魔されるって事だぞ
ゲームとゲームの面白さに思い切り関係してるじゃないか
ナラティブは新しい面白さであって邪魔されたくないだけなら初期のゲームやアーケードみたく最初から物語無くせばいいじゃん
ゲームの描き方と、一方通行の映画の描き方では180度異なる
今までゲームの描き方に映画のやり方を当てはめてきたから問題になってる訳で
いざ舞台の裏側を触ってみたらそれは書割だった・・・と
映画の登場人物が何か行動を起こす時の行動原理は、その人物が自分はこう感じたからこうしたいんだ
と言う事を説明すれば良いけれど、ゲームで自分が動かす事が出来る
主人公のその人物がそんな自分勝手な事をいったらプレイヤーはそれに付き合うだけになる
>>311 物語は読むもの
なので、はじめから結論を知っていて、むしろ結論になるように自分が動いただけと言うのでは物語とはいえないと思います
やる前から想定していた事を実践しただけで
右に置かれたりんごを左にずらす
それをやって「物語を読んだ」と言う感覚が得られますか?
自分が何をしようと何の影響も持たず決められた話が進む → 映画のストーリー 自分がした事一つ一つで物語を構成する → ゲームのナラティブ
操作対象に人格がないゲーム(マインスイーパーとか)でも当てはまっちゃうのをナラティブと呼ぶのはおかしい
この無駄に長文垂れ流してる子コテ付けてくんないかな 読む価値なさそうだし
>>314-315 それはナラティブを勝手にそういう風に定義付けてるだけなんじゃね
映画だって表現はいろいろだし
見せ方だっていろいろあるのだから
ナラティブできる映画だって作れるはず
>>318 具体的にナラティブな映画何か一つでも挙げてみれば話が早いよ
群像劇みたいなものなら概ねそういう傾向になるんじゃね 語られるストーリーは登場する個々人のものだが その背景にある大きな流れみたいなものは ストーリーとして語らないナラティブだろ
手っ取り早いのは歴史ものだな。
他人のプレイを見てもおもしろい というのは、条件にしていいと思う
むしろやってる本人以外つまらないのがいいんじゃね
このスレ内だけでもナラティブの定義をはっきり固めないと全く話になってない
325 :
ゲーム好き名無しさん :2014/03/24(月) 21:53:38.41 ID:hUoF+Xu30
まぁ大体固まってるんじゃね 要はゲームプレイで得られた体験による、プレイヤーごとの物語のことでしょ 作り手が作って押し付けるストーリーとは対極にあるもの
>>313 ナラティブは新しくないよ 原点回帰
いくつもの参考記事でナラティブを提唱してる人達が言ってるじゃん
もちろん、古参ゲーマーにとっては原点回帰でしかなくても、
プレイから乖離した物語が押し付けがましく語られる様になった
最近のゲームが原体験になっている若いゲーマー達にとっては
新しいと感じられるものだろうけど
>>325 いや作り手が作って押し付けるものでしょ
直接的じゃないだけ
ムービーだらけのゲームとかナラティブが無いだめだとされるゲームのムービーだけを取り出したり映像作品として作れば普通にナラティブを持った作品になると思います ナラティブな映画や小説と言うのは世界や時代の背景まできちんと読み手に伝えられるような作品で それをするには、読み手は動けないので小説の中を作者側から伝えなければいけない そうすると、登場人物や主人公の思いや考え自己主張や背景や世界の役割をきっちり受け手にどう伝えるか?の技術なので 登場人物や必要な物質から自己主張をしなければいけない 自分はこう考えている、こう解釈する、こういう事が起きてもこういう行動をとる人なんだ なので、ゲームでそれをすると、プレイヤーはそんな事考えていないのに主人公(=自分)が勝手に考えたり、自分はそう思ってないのに勝手に特定の背景だけに意味づけがなされる プレイヤーはテーブルの裏が怪しいなと思っても、そこは作られていないのでただの書割 主人公が怪しいと思ってる場所をプレイヤーが見つけるまで何も起こらない 作品側が主張する事だけをやらされる 要するに映画的なゲームがそういうゲームです 要するに映画では、「主人公はこう思っているんだ」「この物体はこの話にとってこういう意味を持っているんだ」と言う事を受け手にどう伝えるか?で ゲームでは主人公はプレイヤーなのでプレイヤーと別の人格が勝手に自己主張されたら困ったり、プレイヤーの考えと無関係にストーリーに関係する特定の物体のみが意味を持っていてその物体だけが強い自己主張をして手は困る訳で 逆にプレイヤーが勝手に興味を持った箇所一つ一つが意味を持っていないと困るので その一つ一つで全体像を作る
ゲーム内での会話コマンドも こちらから話題を出す形でやれればいいんだろうけど。 (一部のウルティマや、キーボードを使わない前提の場合「聖霊機ライブレード」の話題コマンドだろうな。)
どちらかと言うと話題は相手からが良いのではないかと プレイヤーは行動に対しては能動的に、話題に対しては受身に プレイヤーはこれは?これでは?と思う事象に興味を持って能動的に接したら 後はその事象から語りをはじめる と言うのが基本ではないかと 奥に人が立っている この人は何を話すんだろうか?(と言うプレイヤーの興味から始まって) 話しかけたらその人が持っている話を伝える(プレイヤーは興味を持った結果を知る) と言うやり取り 人に限らず物体でも、りんごが落ちている りんごに興味を持ったら調べてみる そうしたらそのりんご何なのかが返って来る そうやって物語を進めるキーになる事象も興味を持って調べる事で発見する 特に重要なキーは隠されていて
「これは何なんだろう?」と言うプレイヤーの疑問に「答え(反応)を返す」と言う形式 そうする事で(そうする事を繰り返す事で)プレイヤーはその世界と言うものを徐々に知る このりんごは何で、このみかんは何で、この時計はこういう事が起こる それをプレイヤーが自分で自分の興味と判断で調べたり行動を起こす
りんご、みかん、時計は、プレイヤーが存在する世界の構成する物質(要素)で その要素一つ一つがそれぞれ個別にそれぞれの意味合いを発する事でこの世界が形作られている そして、その一つ一つの要素を知る事でプレイヤーはこの世界を知る と言う構図
追加 プレイヤーが自由に好きにその世界内を動き回る事で、その世界を構成する物質物質と接し その物質物質一つ一つから発する意味を一つずつ受け取る そしてそのばらばらの発する意味をつないで一つの世界観を作り上げる 「プレイヤーが完全に自由だ」と言う事がキーだと思います プレイヤーが完全に自由でも、構成する物質一つ一つが作られていて むしろ物質によって構成されているので自由が許される
要するに世界作る(箱庭)を作るっていうのが近いと思います りんご、みかん、時計で構成された世界 りんごはこういう意味を持っていてこういう事が起こる みかんも時計も同様に意味を持っている それぞれが意味を発する事で形作られる世界 作ったりんご、みかん、時計それぞれに意味を吹き込む
「自由さが物語をはるかに凌駕してしまっている。グランド・セフト・オートにおいて, プレイヤーはプレイヤーとして好き勝手するのが面白いのであって,その世界の人間にはならない」
二つの誤解のうちまどろっこしいので一つだけ 自由度について そのゲームはここでいってる「完全に自由」ではない 完全に自由の状態とは、プレイヤーが完全に宙ぶらりんの世界に放たれた状態 そのゲームは「プレイヤーが出来る事」と言う制約が幾つも作られていて その「プレイヤーの出来る事」によってその分だけ自由が許されている状態 ・車を壊す事が出来る ・依頼を受けられる ・人を殴れる ・その他色々 そういうのは自由には入らない それは作った人によって与えられた自由で与えられた以上の事は出来ない 自由とは一つの空間を渡されたら、それを好きなようにいじり倒して良いよという自由 この空間には、いすとテーブルと本棚が置かれている、壁には窓が付いている では好きなようにいじって下さい ゲームの外にいるプレイヤーが自由に考え、自由に行動できるのと同じだけの自由が与えられている 気になったら気になった箇所を調べれば良いし、行きたい場所に行けばいい 完全にゲームの外にいるプレイヤーの感覚でゲーム世界を動ける と言う意味
具体例を挙げると 自動車を壊す事と人を殴る事は出来る 好きな場所に行って好きな依頼を受けられる 出来る事のリストから選んでいるだけで プレイヤーがプレイヤーの目線で行動している訳ではない では、ベンチが気になったら? 調べてみても何も無い それが当然 出来る事のリストに入っていないから
プレイヤーに空間が渡されたら、その中をプレイヤーは見渡してみる 目に付いた「いす」を調べてみる これは、プレイヤーそのものの目線です 出来る事のリストから選んだ訳ではない 自分が何も無い無から勝手に思いついた事 ではそのいすを調べた時、何が起こるか、どういう反応が返って来るか そういうものの見方をする 色の違う床を見つけたら気になる そういうレベルで プレイヤー自身の目線
そんな実現可能性が皆無なゲーム論にはなんの価値もありません。 仮に実現できたとしてもそんなものは面白いゲームたりえません。
だから本来は意味を持った必要な物質しかその世界には与えない 多少の飾りは良いけれど 逆にそこに配置した物体には必ず何か意味を与えるように作る 物質毎に作る
要するに登場する物質(人物)からゲームを作れっって事ですね
具体的には そこは危険だ、外に逃げなさい と言う課題を与えて 排気口から外に出るシナリオにしたかったら 窓をつけちゃいけないって事ですね もし窓を付けたら、窓から外に出られない理屈も同時に作らなければいけない そうやってる作るものですよ ゲーム
窓をつけてはいけない理由は分かりますよね? プレイヤーが完全に自由ならば、もし窓がそこに存在したら、窓を使えなければおかしいから 逆に言ったら、使えないものをつけてはいけない さらにいったら、つけた場合使えない理屈も同時に作らなければいけない 例えば窓から出ようとしたら悪い事が起こってゲームオーバー
もっと一ひねりすると 窓が高い場所についてて届かない → 手ごろな物を台にして上れる(とプレイヤーは考える) だからきちんと台を使って窓を使おうとした結果悪い事が起こってゲームオーバー と作らなければいけない 高い位置につけられているから、は使えない理由にはならないって事になります
そうそう、テーブルといすが置かれてるんだったら テーブルを台にした場合と、いすを台にした場合、両方のパターンを作る必要性が出ますね それぞれ違った結果になると面白い
高い場所だったら良いだろう、見たいな考え方をする場合が多いので 箱が積まれているからその道は通れないってゲームも多いですよね そういう事に対して
逆転の発想が必要です つい、自由度を与える為の発想で一つ一つ出来る事を与えてしまいますが これも出来る、これも出来る、と これは、プレイヤーが与えられた事しかしない、与えられた事しか出来ない と言う基準で見た考え方です ですが実際はプレイヤーは人間なので、自由に物を考え自由に行動します だからゲームと言うものは実際は、完全に自由なプレイヤーをどう制限して 製作側の意図通りに動かすか?を考える だから、出来る事を一つ一つつぶす事を考えます 窓から出れてしまう だったら窓から出ようとした場合それは失敗に終る と伝える
・〜が出来る ・〜が出来る ・〜が出来る と増やすパターン 1プレイヤーは〜が出来る 2プレイヤーは〜が出来る 3プレイヤーは〜が出来る だから、1はこういう理屈で制限しよう 2はこういう理屈で制限しよう 3はこういう理屈で制限しよう これで完全に自由なプレイヤーが開発者の意図通りに動きます
× 自由度を与える ○ 自由に動いてしまう人間という生き物の自由を制限する
ゲームなんだから制作者が設定した以外のことはバグ以外で起きない 出来ること全てを再現するならあらゆる物を上顎側切歯で削ろうとすることに対する反応も設定するのか マンパワーも容量も足りなくなるうえ面白くもなんともない
そういうのはナラティブじゃなくてインタラクティブじゃねーの ナラティブとは全く別の概念だろ といってもこのスレでは定義が出来てないから空論だけどな
「自由度」とか「反応」という単語が出てくる時点で 既にナラティブとは別のことを話してるということだな
制作者が意図してゲームプレイ中のプレイヤーに自由を感じさせる事ができるのならば 必要に応じて不自由も感じさせる事ができる それはつまり、ゲームの物語の過程で 登場人物であるPCが自由である時にはプレイヤーにも自由を感じさせる事ができ、 PCが不自由になった時にはプレイヤーにも不自由を感じさせる事ができるという事だから、 物語にそういう展開があるゲームでなら 「自由度」を実現できる技術は 物語をナラティブに感じさせるテクニックとして使える……が、 これがナラティブを実現する唯一無二の方法であるわけがない jKSjISUZ0は考え方が狭すぎ
ナラティブって今の時代のもう一つのキーワードであるプレイヤー間の繋がり・共感の面では 逆に不利に働くように思えるけどどうなんだろう
アニメや漫画は小説よりナラティブだよな。 小説はその構造上ナラティブにはならない。 でも作者によってはアニ漫よりナラティブな小説を書ける場合もある。 作者次第ではあるが、実質的には小説はナラティブにないメディアだといえる。
ナラティブは表現手法のことであって、その手法によって生じる感覚も含めちゃうとずれてしまう気がする ここでのナラティブによる物語って、プレイヤーの操作によって語られていく物語のことだよね? だから見るだけ、読むだけの小説、アニメ、漫画にナラティブに感じられる作品があるかって提起は根本からおかしい話じゃないか?
局所的な例だとドラクエのようなRPGで、 ある街から次の街へ進むことになった。その道すがら あるプレイヤーは途中スライムと出会って戦い、別のプレイヤーは思いがけずメタルスライムと出くわした。 またあるプレイヤーは平原だけを進んで敵と遭遇せず街に着いたが 一方山地を突っ切ろうとしたプレイヤーは強敵につかまり一度全滅した。 このプレイヤーそれぞれの異なる体験こそが、いわゆるストーリーとは異なるプレイヤー自身の物語【ナラティブ】である ってことでしょ。 これが映画等では、街を出て何分後にスライムが現れ戦士が一太刀で倒し次の街に着くというお話が 100人が観ても100回観てもすべて固定されていて(=ストーリー)、そこにナラティブはない。
物事は見る人の価値観や世界観によって意味が変わる 同じものを見ているようで 実際はそれぞれが別々のものを見てるんだよ ゲームだろうが映画だろうが漫画だろうが 作者の頭の中にあるものが観客読者にそのまま伝わることはまずありえない
こういうのがナラティブ? 144 :名前が無い@ただの名無しのようだ :2010/04/30(金) 02:23:15 ID:Mj1KYJG00 俺の中では、カザーブでの毒針盗難事件や、熊を倒した武闘家幽霊は、立派な魔と武のイベント 商人は破格の専用イベントを貰っているが、ドラクエIII的には、本来こういう脳内ストーリー補完が本道だと思う 同様に、賢者好きの人にとっては、悟りの書入手が立派な専用イベントなのだろう
>>349 -
「自由度」「反応」は物語の正当性とは密接だと思います
ゲームと映画の違いは、主人公がそれを作った人間の意思に反して勝手に動いて裏舞台を触ってしまうと言う事
映画では、「自分はこう推測した」と主人公が言えばそれが主人公のそのままの考えになり、そのまま物語になります
ですが、ゲームでは「自分はこう推測した」と主人公が言っても主人公はプレイヤーの代理人でしかないので
プレイヤーが「本当かね」と思ってそれに逆らった事を試そうとしてみると
その部分は存在しない、書割だと分かってしまう
別のやり方は無いのかな?とプレイヤーが探してもそもそもその先が作られていないので、その世界がうそに見えてしまいます
主人公の決定(シナリオ)を正当化するにはその世界がきちんと裏舞台まで出来ていなければいけない
簡単な例を挙げると閉じ込められた部屋から外に出る場合
主人公は「窓から外に出る」と言ってもプレイヤーが「この穴からじゃだめなの?」「自分だったらこの穴から出たいけど」と思ったら
その「窓から出る」と言う物語の正当性が崩れる
「何故穴じゃだめなのか?」が語られていないのに窓から出るしか手段が無い
それでも窓から出るしかないのなら、窓から出ると言う正当性が破綻します
無理やり窓から出ると言う筋道だけをたどっているだけになる
なので、「この穴」が使えないと言う正当な理由をきちんと作ってやる必要が出てきます
それが「自由度」「反応」
「Interactive」と言うのは、そういうのとは無関係に反応さえ返ってきたらなんでもいいって事ではないかと思います
世界全体を作る為には世界を構成するパーツが全部必要なのです
ストーリーをたどる道だけしか実物が存在しない事にならぬように
逆にナラティブと関係ない話題で一般的に自由度と言うと全然別の自由の話になります
殺人鬼に閉じ込められた、部屋には電話機が置かれている では何故主人公は電話で助けを呼ぶ事と試そうをしないのか? そういう部分をユーザは見てる きちんと電話で助けを求めようとする事が出来て、そしてそれが失敗に終る それで電話は使えない事がはじめて正当化される 基本的に自由に調べられると言う事は次のシナリオに進むまでにそれだけ体を動かす事 なので、もしもプレイヤーが次にする事がただ扉から出るってだけでも、それをするまでにずいぶん色々な経験をしたになります その経験の数がこの世界の裏づけで、物語の裏づけ、正当性になります なる程、扉から出るんだなって 「扉から出る」と言うストーリーを裏付ける為、その他の事を何でも出来るようにする 要するに背景を作りこむと言う事です 自由度とは
>上顎側切歯で削ろうとすることに対する反応も設定する その考え方からの脱却が必要 「反応を設定する」=「出来る事を開発者が与える」 開発者が与えて初めて自由が与えられると言う思い込み 実際はプレイヤーはもともと自由に考え自由に行動します その「自由に考え自由に行動する」と言う事と、「出来る事を開発者が与える」と言う事とが食い違った時に出る違和感そのものの事です 本来はプレイヤーは「自由に考え自由に行動する」のだから、開発者の意図した行動や考えと一致するように、その自由を捨ててもらう為にさまざまな制限をかけないといけない 窓が表示されている では窓をプレイヤーが開けてみたいと考えるのは普通 では窓を開けられない理屈をきちんと作らなければ、窓を開けないでその先に進む道筋だけを作っても「何で?」としかプレイヤーは感じない 自由意志を持っているプレイヤーは窓を見つければ開けられて当然です だから、窓を開けてはいけないなら、きちんと制限をしなければいけない ゲームとはそもそも制限の上に成り立つ遊びです 制限は言い換えたら「ルール」の事です 「ルール」は本来自由なプレイヤーにさまざまな制限をかけるものです サッカーでは手で持ってゴールに入れればもっと楽ですが、手を使う事が禁止されていて、手を使った場合のどうなるか?がきちんと設定されています ではルールも無いのに出来ない事、造られていない事が存在する そこが欠陥なのです 「窓から外に出てはいけない」これもルールです 窓から外に出たらどうなるか?が設定されていないのに、窓から出る事が出来ずその先が作られていない だから自由とは設定するものではないのです 自由とは制限するもの 自由を制限する事で本当の自由(完全な自由)を与えられるのです プレイヤーの無制限な自由とゲーム内で出来る行動が始めて一致しますから
昔のRPGゲームで世界の中に町と城と洞窟が表示されている プレイヤーはその世界の中を何の制限も無いので自由に勝手に歩ける訳ですよね で、町や城や洞窟を調べた時だけそれに沿った反応が起こる プレイヤーは自由に好きに行動すると言う前提で作られています だから逆に不足の無いようにきちんと穴は埋める 進まれてはいけない場所には壁を設置したり、川を隔てて進入できないようにしたり それをプレイヤーは与えられた事だけをするという前提に変えるからおかしな事になるのです 出来る事、次に向かう場所、する事、全て開発者が決めなければいけない だから出来る事をプレイヤー目線で一つ一つ追加すると言う無謀な事をするのです 本来ゲーム製作は、プレイヤーがしていい事してはいけない事を作る事です プレイヤーが完全に自由で好きに動いてしまうという前提では でもプレイヤーがする事、次にする事、やれる事の部分から作ろうとするから はじめからプレイヤーの行動が製作者が作った事が出来ると言う前提になってしまいます すると、出来る事が一つでは物足りないのでもう一つやれる事を作ってやる、もう一つ そこが間違いではないかと思います まとめて要約すると プレイヤーは完全に自由で何をするか分からない と言う大前提に立って考えて作ると、プレイヤーがやってはいけない事、やっては困る事をどう設定するか?を考える事になります この洞窟に最初のうちは入れないようにする為に、壁を設置して湖から船でしか入れないと言うようにしたり または、窓から外に出れないようにする為に、窓から外に出たら事故でゲームオーバーにしたり、または窓から出た場合バッドエンド確定したり それはプレイヤーは製作者がする事を制限しないと勝手に自由に行動すると言う大前提で見ているからです 好きな事をして下さい、好きな場所を探索して下さい、好きな事を試してみて下さい、ただし何か起こる物、してはいけない事、そういうレベルで色々設定しています プレイヤーはこちらの指示通りにしか動かず、出来る事は一つ一つ与えてやらなければいけない、自由は無い と言うか大前提に立って考えると、そもそも作られていない事はやらないので、別にやってはいけない事を設定する必要がないと言う事になります 自由を一つ一つ作って与えてやる必要も出ます この選択肢とこの選択肢を与えます、その中から選びなさい、これがやれます、これもやれます、これもやれます
自由度の解釈 ゲームと言うものを知らない人にゲーム世界を歩いてもらうと、隅から隅まで歩いて好き勝手自由に動きます これが出来る、これが出来る、と教えなかったとしても勝手に動きます それが本当の意味での自由です ただし、本当は勝手に動かれちゃ困る部分が出てきます 例えば、まだ入ってもらっては困る場所に入られたり、使ってもらっては困る物を使ってしまったり だから、プレイヤーは自由に動けても、そこから新たに制限をかけるのです そのプレイヤーが好き勝手に動ける事につける制限の多さと試す事の出来る事を自由度と言います 使ってはいけない照明のスイッチを試す事が出来る、開けてはいけない窓を開ける事を試す事が出来る、その多さ それと、成功する事の出来る事の多さの合計 自由に動いていたら、草原の隅に色の違う茂みを見つけ、調べてみたら何か起こったっていうのはこっちの自由 隅で陰になって見えなかったけど、本棚の後ろには隙間が・・・で調べてみたら何か見つけたっていうのはこっちの自由 窓・・・出ようとしてみたら失敗するのも、大きな鏡を調べたらそれを外す事が出来て後ろには隠し部屋の入り口が・・・みたいな思いがけない発見も完全な自由を持っているからこそ プレイヤーが完全に制御されていて、する行動も出来る事も与えられた範疇でやっていると言う状態では考えられない事 だってそれは自由と名が付いていますが実際は与えられた出来る事でしかないのだから 「次はこの場所に行きなさい」でも「プレイヤーはこの行動が出来る」でもプレイヤーは最初に出来ると教えられた事をなぞってるだけ 現在主流の解釈 プレイヤーは空気を読んだり、ゲームのお約束から、説明書を読んで書かれているこれが出来るという、与えてもらった出来る事のリストの多さの事 与えられてないものは隅々どこ調べたって何も起きないよ、当たり前 窓をたたいて壊す事が出来る、自動車を盗む事が出来る、自動車を壊すが出来る、人を攻撃する事が出来る この中から選べ それ以外は何も無い 果物を割る事が出来る、物を投げる事が出来る、住人を仲間にする事が出来る と言うのはこっちの自由
一つのフィールドを与えられその中を自由に好きに動き回れる そうしたら途中に色の違う怪しい茂みを発見した または別の場所には洞窟を見つけた それを探す為に自分の責任と自分の判断や思い込みで行動した自由が自由度ですよ(転じて自由に動いた結果得た発見の多さが自由度の多さ→テーブルもいすも窓も発見を得られる) そういうのと プレイヤーは次にこの地点かこの地点かこの地点に向かう事が出来ます、と最初に選択肢を与えられる この選択かこの選択かこの選択が出来ますどんどん追加します、その選択肢の数が自由度の多さですよ と言う自由か 上のは完全に自由で、自分の意思で勝手にやっている でも何でか、自由度と言うと下を指差すと言う 自由と言うのを出来る事を与えてもらう事だという勘違いを直すべきかと プレイヤーはもともと自由です 自由に思考して自由に行動する(行動したい) で、その時その行動に対する反応がきちんと作られているか、その行動が想定されているかどうか?が自由度 要するに製作者が自分たちで作った空間がきちんと隅々まで作られているか?抜かりや穴は無いか?こそが自由度 プレイヤーが自由に動きたい時、それが思ったとおり自由に動けるか? だから、プレイヤーが動きたいとも思ってないものが出来る事リストとして与えられても自由に動いた事にはならない 自動車を破壊したいとプレイヤーが思っていますか? 人を唐突に殴りたいと思っていますか? でも自分が置かれた空間で、目の前にふと置かれたシャンプーは?今、自分の姿を映してる鏡は? 気になるし、触ってみたい そういう事
何で鏡やシャンプーが気になるかと言うと、人は自分の前に提示されたものに関心を持つから 何か意味を持ってるのではないか?と でも、今目の前にもいないのに人を殴れると言う機能をつけて、殴る為に殴る対象を探しに外に出る と言う逆の事をしてる 目の前に置かれた鏡一つ触れられないのに、外に置かれた自動車を破壊する事が出来る 「目の前の自分が今興味を持ったものに対して行動を何か行動を起こす事が出来る」と言うのが本当の意味での自由 自分が動かしてみたいと思ったその時に、動かしてみる事が出来るのが自由 動かしてみたいと思っていないうちから、出来る事として与えられ、そして出来るから試してみるってだけの出来る事は、出来る事以上にはならない ただの出来る事でしかない もっと簡単に言うと自由度とは、開かない扉を開けようとする事ができる、出来ない事も出来る事も何でもやってみる事が出来るというのが自由で やれる事、出来る事の事ではない 手足がきちんと自由に動けるか?で 何かをやり遂げる能力をどれだけ持っているか?では無い 要するに 窓を見た時、窓に対して行動を起こす事が出来るか?鏡を見た時、シャンプーを見た時、それに対して行動を起こる事が出来るか?手足を動かす事が出来るか?で 窓が存在するかに関らず、窓を割ると言う能力を持っている、花瓶を割る事が出来る能力を持っている、では無い 与えられた依頼をその中から選んで受けられる事でもない 今したい事に対して手足がきちんと動けるか? 物語をきちんと伝えると言う事は背景をきちんと伝える事なのでこの点は必要だと思います
それからここで書いてる事は自由と不自由と意図して与えたり与えなかったりする と言う訳ではないです 意図して与えたり与えなかったりというとそれでも物語の中身にメリハリがつけられてどう表現するかの技術の一つだと思いますけど ここで書いているのはそういう事ではないので ここで書いているのは、ストーリーと背景(世界や世界観)が乖離してる事を言っているのです または乖離しているストーリーとその背景を一致に近づける為には?どうしたら良いか 「閉じ込められた部屋から外に出なさい」と言う課題を出したらプレイヤーは外に出たい訳ですよね そしてシナリオでもしも扉から外に出ると言う事だったら、オブジェとして窓がその部屋に描かれていたら「何で窓じゃいけないんですか?」と言う状態になります または何で扉から出なきゃいけないんですか?と それはプレイヤーが自分で決めた事ではないから もしもプレイヤーが総合的に判断してそのシナリオと同じ結論に至った と言うのだったらそれは良いと思います でも唐突にそのシナリオを突きつけてそうですかと納得しますか? では総合的に判断する基準とはプレイヤーが色々試してみていじり倒してみてその結果シナリオの答えと同じ結論に至ったならそのシナリオの答えとプレイヤーの答えを統一化する事が出来ます それが自由です そのシナリオの為その他に道が無いか色々いじり倒してごらんなさい?と試す事が出来るのが自由 要するにシナリオのストーリーの裏づけです 裏づけが無いのにシナリオを進めるとどうなるか?と言うと プレイヤーが別にそうする必要が無いと思ってるのにシナリオがそうだからただやっているだけ で典型的なナラティブを持ってない作品になると思います
まず、見方を切り替える事が必要だと思います 「自由とは人に与えてもらうものではない」 と言う事 窓が壁に付いていたとします でもプレイヤーは今の殆どのゲームでは窓を調べようとはしない それは窓を開けるというシステムがなければ窓は開かない物だと思ってるから 逆に窓を開けられるというシステムだったらどの窓も一括して開ける事が出来るからやっぱり窓を開けようとしない 窓を開ける事が出来る事が分かっていますからそれ以上確かめない と、自由とは与えられるものだと言う大前提で物事を考えようとします ですが、もしもその大前提が抜けたらどうなるか考えてみて下さい 窓が壁についていました 窓は「記号」です 開ける事ができる(はず)と言う だからシステム云々以前に開けようとします(それか開けられるかやってみようとします) 結果できるか出来ないかはさて置いて それが本来の自由と言うものです 窓を開けられる仕組みを与えられた上で窓を開けようとする、窓を開けられる仕組みを与えられていない前提で窓を開ける事を試そうともしない、その逆の
ずっと言ってること同じだし支離滅裂だしお前もう出てこなくていいよ お前は一人で現実という名の完全に自由な神ゲーだけやってろ
そして自由とは制限するものです 完全に自由のプレイヤーが自由のままに例えばRPGで魔王の城に侵入できては困ります だから、山や壁や川等を使って行動できる範囲を限定します そうする事で魔王の城に進む為には、さまざまな条件を達成しなければいけないようになるのです もしも外に出ると言う課題だったら、窓から出ればそれで終了してしまいますから 窓をきちんと埋めなければいけないのです 窓から出てはいけないと言う制限をかけます 窓が何も反応しないと言うのは単に作られていないだけで作られていないのに進入できないのが当然の前提で始まります そういうお約束を受け入れてただ単に道なりに進むだけと言うストーリーが出来上がります 山が聳え立っているから、または窓から出ると落っこちてゲームオーバーになってしまうから、自分の判断でそこに進入しない、出来ない と言う状態と 何の制約も無いのに道なりに進むしかないと言う状態の違いです 山が聳え立っているから、だからここから先は侵入できない、だったらどうしたら進入できるか?考えられますね 進入できない理由も理屈も自分で発見した事ですから 洞窟で繋がっているんではないだろうか?空飛ぶものを使ったら通れるんではないだろうか? だったら何を探そうか? 自分で考えられますよね? では特に理由が無いのに道なりに進むしかない 道なり以外ただ作られていないだけ この場合どうですか? 自分で先に進む道を考えますか?そもそも先に進む目的地も無い、何故なら次の目的地はその場その場で指示されているだけだから この違いです 窓でも同じ、窓から出たら悲惨な目に遭うのか だったらどの出口だったら良いのか?または窓から出てもこういう条件をそろえていれば大丈夫なのではないか? 色々考えられます プレイヤーは自由を制限されているんですから、その制限を取り払おうと考える訳です それがそんな事は考えず道なりに指示するままに進めとなったら もう何も考える必要もない その考えた事によって知ったこの空間の深い理解がプレイヤーの体験そのもので物語です
自由とは制限されていない状態の事を指します 制限とは制御 これをやれ、とか、ここにいけ、次の行動は?、プレイヤーの選べる選択肢はこの中から選べ これ等は全て、プレイヤーに対する制御です だから、今言っている自由度のさまざまな選択とは、自由の反対の制御の事です このやってもいい行動の中から選べ 選んだらここにいけ この部分を制御してしまえば自由に物を考える自由意志まで消えます だから本来は自由意志はそのまま残して、自由に動いた時、その結果どうなるか?の部分でプレイヤーを制御するのです はじめからプレイヤーのとる行動自体が作った人によって決められているか プレイヤーが行動をとった時にそれは良いか悪いかやれるかやれないか何が起こるか?その答えを返す事で、そういう部分で制御するか その違い この行動とこの行動とこの行動は取れるよ自由に選んでいいよ と言うのと 自由に勝手に行動して良いよ、間違った事をしたら何か起こるし、正しい事をしても何か起こるし、それ以外でも何か起こるよ と言うの 果たしてどちらが本当の自由か そこから見えるむ物体物質どれを好きにいじっても良いよ、完全に自由だよ何をしてもいい そういった場合、最初から触られては困る場所、いじられては困る場所が存在しますよね だから完全に自由にした場合は、制限をするのです 調べる事が出来るの調べるとは例えでいってます プレイヤーに何か影響や変化を及ぼす意味を持った記号と言う意味 実際に調べてみても良いし、調べる必要の無い記号でもいい 一つの物事を表す為に直接的な表現を避けて、複数の間接的な表現を使う事で現実味を帯びる具体例の一つかと
自由とはプレイヤーは何をするか分からないと言う視点に立った考え方 例えば、美術館に人を入れたとします 美術館の関係者は入場者は何をするか分からないと言う視点で物を見ています だから、入ってはいけない場所には入れないようにして、触ってはいけない物に触る事ないようにします 見て欲しいところには見てもらうように工夫します それをやめておかしな設定をつけます 入場者側を制御しようとします 入場者は絶対関係者の意図した進み方しかできず、意図した部分にしか触れない 特定の物を必ず見る おかしいですよね? これがゲームそのものです 触れるものが限られていると不満が出ました だったら触る回数や種類設定を増やします でも最初から最後まで制御されてるのは同じ
プレイヤーは何をするか分からない ので、プレイヤーのやりそうな事を調べて やっていい事、いけない事、やってもらいたい事 それぞれを受身で作ります プレイヤーができる事を与えると言う視点に立った場合はその逆で プレイヤーは命令されなければ、次の行動も自分の考えも持たないので だから逐一次の指示を与える それで自由が足りないと苦情が着たら、指示のバリエーションを増やす やれる事を増やしてやる プレイヤーは命じた事しかやらない、出来ないので 一つ一つやれる事を与える 作って与えるしかない でも幾作っても、プレイヤーは動かされてるだけなので
プレイヤー(人間)は生まれながらにして完全に自由 なので、色々な物に興味を持って触れる その時ゲームならその色々な興味をきちんと制限しなければいけない 制限するからこそ、ゲームと言うものが成り立つ だからプレイヤーがシナリオからはみ出る行動を頻繁に自由にとる その時、プレイヤーの自由を制限する仕組みが作られていない それをさして→自由度が少ない これがもともと自由度のさしていたもの プレイヤーが行動できる範囲は同じなんだけど、出来ない事やその他のものが作られていない シナリオ一直線にただ進むしかない それが自由度が少ない だから今定着している「自由度が高い」と言う言葉は間違い 自分を縛るものの多さこそが自由度の高さと言う事
自由だからこそ自分を縛るものにぶつかるんで そう考えれば分かると思います 自由だから縛らなければいけない 縛らなければゲームが成り立たない でも、指示通りにしか動けないなら、縛る必要が無い 自由でない 縛った上で指示のバリエーションを増やしても同じ
このスレよ 具体的な説明とかいって小手先のテクニック紹介多くね?
小説でも映画でもゲームでもナラティブの表現は同じだと思います 時代背景や世界観をさまざまな視点から描きこむだけ ゲームが特殊なだけで 2Dの絵を横から見ると平面だと分かる 例えばそれを3Dにしたらどんなに正面から見た時だけ写実に見えるように書いても横から見たら平面だって分かる ストーリーもそれと同じで、ゲームの構造は横から裏舞台を触れるようになっているのに 直線的なお話をどんなに作っても裏を触れるプレイヤーから裏が何も無いじゃんって見える どんなに主人公がこの道を進む事を力説しても、プレイヤーがそう思う根拠が作られてない 探したら横にもっといい道が見つけられるのでは? むしろ何故探そうとすらし無いのか?主人公は何故その結論に至った? プレイヤーは自らの足でその結論を見極めなければ裏づけは無い そういう部分 2Dで見ている場合空間を写実的に描けば真実味の強い絵になる 3Dで見た場合一方向から見た時だけ写実的でも横から見たらただのパネルになる 2Dを写実的に描いた場合2Dで見ているからその絵画に説得力を与えられる もしも3D空間でその絵画を見ればただの平明のパネルになります もしも2Dでしっかりとした背景や人物を描けていればそれはその世界観を描けてる事になりますが もしも奥行きや時間軸の描かれている空間で、2D分だけしか描かれていなければ その世界観を描ききれていない事になります 問題は作った空間で入った人が自由に動けるところ
完全に糖質
多分この人はリアル脱出ゲームの話をしているんだろう 無視してテレビゲームの話しをしよう
特定の1人をNGにするだけでスレの長さの変化がすごい
要するに人は作った側の意図通りにしか動かないと言う前提(自由でない) → 物語が筋をたどってるだけに感じる 人は自由で、自分勝手に動いてしまう前提 → 背景までが物語を語る作りにしなければいけない
意図通りにしか動かない → 与える側の見てもらいたい物だけを作る → 一方的にストーリーを与える → いったとおりにしか動けないプレイヤーのたどった道が物語りになる 自由に動いてしまう → 全体を見る必要性が出る → お話は空間を構成する物体の結びつきによって作られる → 自由なプレイヤーの体験が物語りになる
どんな風に作ってもプレイヤーは見たいものしか見ないよ 自由度とか関係ないって
製作者が与えたい物と、プレイヤーが見たい物は別で それなのに製作者が与えたいものの本位でゲームを作るとプレイヤーが見たいものは無反応作った人が与えたい物をやらされると言う状態になる でも、この空間には、物体1と物体2と物体3が置かれていると言う物体本位で作れば プレイヤーが見たい物がここには物体1と物体2と物体3しかないのだから、プレイヤーがどれを見ても作られている事になります
通常プレイヤーはそのゲームで出来ることするべきことを暗黙に理解し、従い、 それ以外のあらゆることがゲーム的都合で実行できないことに対して疑問を持ったりしない なぜならそれがゲームであり、現実ではないことを知っているから
プレイヤーは見たいものしか見ない → だからプレイヤーがどれを見ても良いように完璧に作りこむ それが自由度 だから理屈上はどれを見ても作りこまれている事になります 同じ自由度でも出来る事がいっぱい作られている自由度とは違います 初期のRPGを考えて下さい フィールド上に置かれた町、洞窟、城、どれを見ても良いようになっていますよね?
>>385 それは製作者側の思い込みで、プレイヤーは製作者の与えた事以外は出来ない事を理解しているから
開発者のやれと言った事だけをやれ、開発者の作った道だけを進め、と考えるのです
だから、プレイヤーはゲームを無理強いされていると考える
自由度とか関係ないってば ナラティブに重要なのは伏線とかシナリオとかを整合性確保して 背景世界をきっちり作り込むこと ゲームとしての要素なんてさほど重要じゃない そっちはむしろオマケ 一本道でも弾幕縦STGでも何でも ナラティブは実現する
ちょっと古いがエスプレイドなんて かなりナラティブな作品だぞ あれほどナラティブな作品はそうそう無い
どうナラティブなのか言わないと何もわからんw
舞台が奈良なんだろ
秩父だよ
>>386 俺がやったことのあるRPGは川があったら泳げないし壁に手をかけて登ることすらできないものばかりだが
具体的にどのタイトルのRPGの話なの?
スレ内リンクで例に挙がってるタイトルに思うこと ・ゼビウス いかに背景設定を作ろうともゲーム内で一切語られず、外部でも通常は知り得ない このゲームに物語を感じながらプレイしていた人など本当にいただろうか 自分が戦う背景世界に対する理解ならスペースインベーダーのほうがよっぽど優れてる ・アンチャーテッド よくある超人的なおっさんの超人的な冒険譚で、自分の目線を重ね合わせられる余地はほぼない このゲームの何を指してナラティブと言っているのか全く不明
前提条件として主人公(操作対象)が人間かそれと同じ思考をしていることと 世界観がある(ブロック崩しがダメでインベーダーは良い)ことだな そうじゃなきゃ入り込みようがない
アルカノイドは設定とかあったんじゃね ボール打ち返すバーは中に人間が乗ってたり
20年位前、一本道RPGが量産され出して「これはゲームと言うよりただ 経験値稼ぎ作業のごほうびに物語の続きを見せて貰ってるだけで、 本質的に脱衣麻雀と同じなんじゃないの?」と思ったことがある。 今になってこんなことを言い出すとはw
>>394 ゼビウスに関しては、それまでのSTGが背景1種類で変化無しが普通だったので
プレイ中スクロールして背景が変化していくって事だけでも
それまでのSTGとは違う形で物語を感じさせていたと言える
(スペースインベーダーの場合は、段々敵の攻撃が激しくなっていく事や
壁が削られていく事で物語をナラティブに感じさせてた)
ナラティブってのは
プレイヤーの主観において物語がどう感じられるかの種類を表す言葉だから、
ゼビウスのプレイヤー全員が
ゼビウスの物語をナラティブに感じた訳ではなかったとしてもおかしくはない
ナラティブに感じたプレイヤーにとってのみ
そのゲームは「ナラティブなゲーム」なんだよ
そして、物語があるゲームならば物語をナラティブに感じてもらえた方が
そうでない場合よりもプレイヤーの評価が高くなるから、
より多くのプレイヤーにナラティブに感じてもらえる確率の高い方法が重要になってくるわけ
やはり具体的なタイトル毎の話のほうが有意義だな
そりゃそうだよ 具体名を出さなきゃ個々で思い浮かべてるものが違うのに話通じる訳ないじゃん
>>389 自由度の意味を間違ってると思います
人は生まれながらに自由です
自由な目線で見ている人にとっては、きちんとそれを裏付ける背景が必要になります
そこが描かれていないと納得できないので
でも、支配されている人にとっては、裏づけが無かろうと支配されるがままに動かされます
背景世界をきっちり作り込む事と自由度を作る事とは殆ど同じ事だと思います
自由度とは本当の意味での自由度の事です
背景世界を作りこむ事は自由度を作りこむ事だと思います
川(=通行できないと言う記号) 城・洞窟・町=入れる記号 プレイヤーは自由に動いてしまうので、通行できない川と言う記号でふさがないとどんどん先に進んで言ってしまう それに対して、進めないという記号なしに、次指示された場所にしか進めないお約束なのが、自由ではないゲーム 自由に動いてしまうプレイヤーをとめるには、プレイヤーの行動を制限するものが必要 自由に行動しないで、指図された事だけをするプレイヤーには進めないと言う記号が無かったとしてもそこには進めない と言う違い 自由に動けるプレイヤーの前に扉が設置されていれば、プレイヤーは扉を開ける事が出来る 自由に動けないプレイヤーの前に扉が描かれていても、プレイヤーの次の行動にその扉を開ける事が含まれなければ何故かその扉を理由もなしに開けられない もっと現代的になると、表示できるものは増える すると、プレイヤーの行動を制限するのが難しい状態に もしもプレイヤーをここから先に進入されないようにする為に空箱をつんで道をふさいだとします ゲームのお約束で空箱を通れない事は分かってます だから道なりに進む ちょっと考えてみて下さい? 空箱って普通人はどかそうと出来ますよね? そういう矛盾が発生します 本当は自由ならば進めるはずの場所に進めず、指図されたルートだけをたどり続けるしかない そういう状況が発生します それが粗大ゴミでも壁でも同じ どかす事は出来無そうですがもしかしたらなんとかなるかも? 自由を諦めて道なりに進むしかない、ただ従うだけの状態を自由度が無い 自由なプレイヤーは制限されていないとどこにでも行ってしまいますが 不自由なプレイヤーは次はこの地点に行けと指示されたらそれ以外の行動はできない 自由なプレイヤーはそれを制限して初めていけない事を受け入れるのです 不自由なプレイヤーは制限が無かったとしてもそこには行かない 何故ならばその道以外作られていないから
本来ゲームと言う遊び自体が自由なはずの人に制限をかける事で成立するもので バスケで他のプレイヤーを押してはいけない 押したら反則 逆の言い方をすればプレイヤーは自由だと他人を押す事が出来てしまう だから制限をかけるのです 自由でないゲーム要するに与えられた行動だけしか出来ない 与えられたものから選ぶゲームは、暗黙の了解として自由に行動しない バスケでたとえるなら他のプレイヤーを押してはいけないルールが無いのに他のプレイヤーを押さない 押す事が出来ない 作られてない 全体的に見て裏側が作られているかどうかと言うのは、自由意志で見た時にそれがきちんと形になっているかだとおもいます 背景が作られていると感じるか=自由に見ているか? 作者に与えられた見方しか出来ないか、自由に見ているか 与えられた視点でした見れないようではだめって事 それに対する物が自由度 だから与える物や選択肢を増やした今言うところの自由度は自由度ではない 与えてもらった物は幾つかの選択権を上から与えてもらっただけで自分の自由ではない 相手が自由でない与えた事以外何も出来ない上で成り立つストーリーではない相手の自由を認めた上でのストーリー展開
プレイヤーは自由に動いてしまう →だから、入ってはいけないこことこことここには進入できない理屈を、見つけて欲しいここには見つけてもらうしるしを 自由な目で全体像を見ている前提で作る プレイヤーは与えられた事しか出来ない →だから、入っていい場所を1つ2つ3つとふやして与えてやろう、でもそれぞれでどう感じるかは作者側が決める 自由でない前提で作る どのジャンルでも同じ
やはりこいつは無意義だな
もしもプレイヤーをここから先に進入されないようにする為に川をひいて道をふさいだとします ゲームのお約束で川を通れない事は分かってます だから道なりに進む ちょっと考えてみて下さい? 川って普通人は泳ごうと出来ますよね? そういう矛盾が発生します
どう再現したかによります いかにも渡れそうな川、渡る事を目で見て試してみたいと思える程度の川(や状況)だったら それを試す事が出来ないのはおかしいし 絶対無理だと思えるものだったらそれで通行止めで良いと思います 記号化されていてここは通れないと示すサインとしての川でもOK
自由に見た時、川が渡れないと言うサインを発しているうちはOK 渡れないというサインが出てないならNG その場合渡れないよと言うサインを改めて作りこむ必要性が出ます 例えば川に入ると流されてしまう、とか もっともな理屈
自由に見た時、川が渡れるかも知れない または、渡ろうとしてみたい それか、渡ろうとした場合どうなるのか?と感じるような状況下なのに 川は渡れないと言うのはNG
たいてい現実に近づけると、現実で出来る事を試してみたいと感じるものだから 出来る限りプレイヤーに与えるものを絞って勝手に考えられないようにする
なら取り扱い説明書に川は通れない記号ですと書いとけばいい ついでに積まれた空箱や透明な壁も通れない記号と書いておこう 最高に自由度が高いゲームになるな ゲームが本来自由なんてのはありえない ゲームキャラが足の小指を触ることすらできないことくらい小学生でも知っている ならもっともらしい説明として主人公をスライムにでもする?いやそもそも余計なことを考えないロボットにすればいい 川があったら「ピー川ヲ検知シマシタ移動ヲ中止シマス」と言って止まるんだ ナラティブすぎて涙が出る
川に入ろうとすると見えない壁に阻まれて入れない 川に入れるが入ると流されて死ぬ こんなものには何の違いもない プレイヤーはこのゲームでは川には入れないんだな、それがこのゲームの都合なんだなと認識するだけ
プレイヤーは自由 例えば将棋で歩の前に歩を置いてはいけないルールが無かったら 何でプレイヤーは歩を歩の前にささないんですか? 本来プレイヤーは自由で、ルールによってのみ制限を受ける プレイヤーが歩を歩の前にさそうとした時、プレイヤーの腕を無理やり操ってさす事が出来ないような制限は人には無いですから プレイヤーが歩を歩の前にささないようにするためには、歩を歩の前にさした場合失格にするしかない プレイヤーが自由でないなら次打つ手が全て決まっていて自分では将棋をさしていない事になります ちょうどどこをさしてよいか選択肢を与えている状態 それが自由な人間を制限する仕組み 積まれた空箱が通れないものをするためには説得力が必要です 現実を模した空間で現実に近づけた3D空間で空き箱が通れない記号にはならない事は当たり前かと 積まれた空箱の出しているサインはどかす事が可能 でも2Dでは通れない記号になりうる 一つの絵画を見た時、見た人の感じる内容はその人によりけりで 背後に描かれた机を見た時この机は何々に利用されてるんだなと思うのは自由 それをこの机は見てはいけない、見た人に見えるのは前におかれたテーブルだけそれ以外は見てはいけない とはいえない
>>412 場合と状況によって変る
もしも平和な世界で歩いているだけの人の前に川が見えてそれ以上進めなかったとしても
疑問には感じないでしょう
でも、もしも何かに狙れていたり、鬼気迫った状況下だったら
川に飛び込んででも助かろうとするかもしれない
その時、何故か指定された困難な道には進めるのに川には進めなかったら
自分のおかれた状況で180度変ります
君は切羽詰ってるんじゃなかったの? 背後に存在する設定がとたんに怪しいと感じ出します
その時、ここはゲームなんだから作られていないのは当たり前、指定した道を通れ と言えますか?
追い詰められた(この場合)と言う設定を作って置きながらそれに沿った事が出来ない
向こうから火の手が迫って来る プレイヤーはこのゲームでは川には入れないんだな と言えますか?
変わらない 誰でもゲームはゲームとして認識し、現実と混同などしない 川に入れようが入れまいが、それがそういうゲームだという認識を超えることはない 川に入れる=川にも入れるゲームであると認識されるだけ
>>413 将棋のPCゲームもあるけど2歩しようとしたら腕が超能力者に止められるなんて演出もなくただできないだけだぞ
コンピューターゲームってのはプログラムにルールが詰まっている
サッカーで手を使ったらルール違反だがサッカーゲームでは最初から使えない
退場になってもいいから使わしてくれと言ってもプログラムされてないんだから無理
自由なんてものはどこにもない
だからMODなんてものを作って本来ではない自由を得るんだよ
冒険をして次の街を目指すと言いながら川へ入れないゲームなんていくらでも見た 3Dも2Dも関係ない 2Dは世界観に説得力がないから適当でいいなんて言ったらナラティブとは遠く離れたものになるな
>>420 それはプレイヤーがルールを知っているから
では、金の上に金をさす事が出来なかったら?
将棋にそんなルールは無いのにそのゲームではそうなってる
中にはさしてから二歩で負けるようなゲームも存在します
それでは火事で玄関入り口からは出れるのに窓から出られなかったら?
現実には窓を開けてはいけないというルールは無い
何でか開けようとしない
普通、十分に玄関から出られそうなら玄関から出ようとするだろ
>>422 金の上に金がさせなゲームを将棋と言ったらそれは制作者が無知なだけ
でも別のルールのゲームだな
火事で窓から出れなかったら同じようにそのゲームがそういうルールというだけ
プレイヤーが自由なら何故壁を通り抜けたり火にも耐えられる体に変身しない?
そういうルールだからだろ
現実には足軽と足軽を縦列配置できないなんてルールはないのに 将棋ではできないなんておかしい()
>>421 説得力がないのは3D
現実そのものでそれをすればやれそうな試す事が出来そうな空間を描いておきながら
何も出来無そう
>>425 将棋では
では現実的にした将棋で足軽と足軽を縦列配置できなかったら?
>>423 「〜よう」とする
それを決めるのはプレイヤー
出来る、出来ない
かどうかを決めるのは作った側
それがゲーム
>>426 描写が現実的かどうかなんて関係ない
2Dのドラクエをやりながらここはドットしかない世界でこいつらは屋根が開いた家に住んでるのかなんて思わんだろ?
テキストだけのゲームでも同じ
>>428 それで合ってる
出来るできないを決めるのは制作者であって演出エフェクトや取説の世界説明じゃあない
>>430 関係生は高い
記号化した通れない記号と
現実を模した通れない記号とは意味が違う
現実を模すと言う事自体が現実に出来る事が出来る
と言うサインだから
現実的な空箱をどかす事が出来ないのと、通れない記号としての箱とは違う
出来るできないを決めるのは制作者だけど何するかを決めるのはプレイヤー
ゴール前に誰もいない時にパスをして良いかいけないかを決めるのは審判だけど
どこにパスをするかどうかを決めるのはプレイヤー
プレイヤーのする側を制御仕様とすると自分で考えない
この違いが分かっていない この違いこそ自由だけど 選手がパスする相手全てを審判が決めたらそれはもうゲームではないって事です プレイヤーがパスを出した時それに対していいか、悪いかを決められる まずプレイヤーの自由が存在して、その後に審判が存在する それがゲーム
二歩を指そうとしても指すことができない将棋はナラティブではないが 二歩を指すと反則負けになる将棋はナラティブである、と バカじゃねーの
>>431 記号なら川や人なんか置かず立ち入り禁止マークやメッセージボックスを浮かばせとけばいいだろう
2Dだろうが現実を模してるんだよ
ならドラゴンみたいな重くて飛びようがない動物が飛んでたら安心して空箱を通れない記号と思うのかい?
何をするか決めるのがプレイヤーならサッカー中裸踊りするかも決めさせろよ
>>432 世界には60億人くらい人がいるがパスできる人は100人もいない
選手はその中から選択するだけコンピュータゲームも同じ
現実には観客席に蹴り込んだってバグで宇宙が破滅したりはしないけどな
それはサッカーと言う単純化されたルールだから それをコンピュータゲームにすると色々複雑 現実世界のルールを採用しているので
上で出てるイラストロジックとか数独の自由度はどうだ?コンピュータじゃなくて紙に書かれたやつな あれは答えさえ完成すれば解き方自由だぞ でも決まった解き方じゃないと絶対答えが出ない 制作者が出来ることを全く制限しない素晴らしいゲームだ 自由度とかナラティブとか言われることはないけどな
>>434 別の記号の出すサインとの整合性が破綻するので
プレイヤーに自由を与えると
例えば立ち入り禁止のテープを張っておきます
不審者に追跡されていますそこはルールを守って入らないようにしますか?
与えられた環境そのものがプレイヤーの手札です
それに対して出してもいいカードといけないカードを決めるのがルール
>>438 不審者に追跡されてるならドラゴンを召喚して返り討ちすればいいだろ?いやゴジラの方がいい
それが出来ないのはドラゴンとゴジラは召喚禁止というルールがあるからじゃない
制作者がそんな手札用意してないからだ
制作者が用意したものの中で不審者を解決するのがゲーム
立ち入り禁止テープは越えられないというプログラムなら別の方法で解決しなくてはいかん
テープの先を自作してMOD入れるの前提のプログラムはゲームじゃない
ドラゴンを召喚出来るはずなら
空気を読みます
>>433 現実を模したゲームで違いが出てきます
特にストーリーの整合性に
>>437 それこそ本当の自由です
何をするも自由だけど、ルールが束縛する
それこそゲームの姿で
それがないとお話を作った時に整合性が維持できないのです
そこがゲームと映画の違い
それを分かった上でお話を作ると
どれほど現実を模してもそれは決して現実ではない そのことを理解できないバカも存在しない どれほどリアルな箱であろうがドット絵の四角だろうがゲームではすべて等しく記号でしかない
立ち入り禁止テープが貼られていたとしてそれに従う必要性はプレイヤーは持っていないのです で、もしもその立ち入り禁止の中に入られては困るのなら、相応のもっともな理屈が必要 入ろうとした場合どうしては入れないのか それを出来ないと開発者が用意したルートを押し付ける事になりますから それがストーリーとのここでの違い
>>441 簡単に例を挙げたら
窓も何もない部屋に扉だけ付いてる
窓と扉が付いている
窓と扉といすが付いている
扉から外に出ると言うストーリーを考えた時
それぞれでその他に違う道を思いつきそうな物体が存在すると
ストーリが破綻する
>>440 そういう自由を求めるならテレビゲームなんてやらず
vipあたりに火事の家から脱出する方法を考えるスレでも立てたらいいさ
>>442 立ち入り禁止テープに入れない理屈を流れが速い川があるからとしてみよう
100人のプレイヤーにそのゲームをやらせてその物語を聞いてみたら
100人が流れが速い川があっては入れなかったと答えるだろう
つまりプレイヤー独自の物語じゃないナラティブと関係ない
ナラティブとはその世界での現実を伝える事と等しいから 現実を作りこめないと崩れます 要するに自由でないと
アンカー付けて絡んできておいて全然関係ない話すんなボケ
>>444 「立ち入り禁止テープが張られてるから入れない」と言うのと「流れが速い川が危険だからテープが張られてる」のとは全然違います
テープが張られてるのはテープが張られてるだけ
流れが速い川が危険だからテープが張られてるのは、テープが張られてる正当性(言い訳理屈)を作ってます
裏づけの簡易なもの
きちんと裏を説明できていればそれは大丈夫
殺人犯に追いかけられている
テープが貼られた家には入れない→おかしい
急流だからそこにはテープが張られていて入れない
こっちは通ってる
>>443 扉だけある部屋の中に何でいるの?暗いし休む椅子もなくて嫌だ!
そんな家に住む人々なんて同じ人間と思えない!
>>445 ならゲームより小説や映画に適した概念だな
川に見える記号が散りばめられた表現じゃ現実なんて欠片も伝わらない
板違いのようだからスレを削除依頼しておこう今ボラいないけど
思うかどうかじゃないです それで整合性が取れて理屈が通ってるかどうか
>>447 言い訳理屈はナラティブと関係ない
プレイヤーが物語を語る時は制作者が付けた理屈を復唱するだけだからな
川に入ろうとした時、そこに急流で入れないと教える だから入れないのと(理由が存在する) 特に理由は無いけど入れないのとは違う 入る必要性が無いなら気にもならないけど 置かれた状況下で不合理だったら 川に入りたいのに、何でか理由も教えられず皮に入れないと言う状況が発生 理屈はその正当性でその行動をとる背景で、取れない背景 背景が無いのに行動だけを強制するのとは違う
理屈をテキストで教えるのも良いし、結果として教えるのもいい
>>449 現実とは遠くかけ離れた奇妙な世界で奇妙な生物を動かすゲームじゃダメだろ
この世界の生物は立ち入り禁止テープを見ると本能が回避します絶対逆らえません
と説明書に書いてあったとしてもナラティブにはならないだろ
>>451 2Dのゲームで川があるのに入らず苦労をするという場面が出てきても同じことを思うだろう?
小説でも同じことを思うはずだ
その議論は不合理なものは嫌だから理由を付けてという要望以外の何でもない
ナラティブとも自由度とも関係ないな
だって急流が理由で川に入れないことはストーリーなのだから
2Dのゲームで川と出会っても入る理由が無いので入ろうと感じない 川に阻まれ向こう側の城に入れないと言うのは、向こう側のお城に入りたいだけで川に入りたい訳じゃないから お城に入るにはその理屈を探す事になります 川はただ入れないよ別の道を探してねと言う記号でしかない 川に入ろうとすると急流で入れない という3Dのゲームでは殺人犯に追いかけられていて命が助かりたい では急流に飛び込んだら本末転倒 自由な目線で見た時、自由な発想をした時の状態が作られていて自由に物を考え自由に行動できるのが自由度 急流が理由で川に入れないことはストーリーでは無い ストーリーは主人公が向かう先で、川に入れないのはそこは通れないってだけで 裏づけも作られてる
>>453 自由とはプレイヤーの自由で主人公キャラの設定とは違います
プレイヤーの完全な自由を尊重する事
イベントと関係ない所は崖崩れで行けない広い街を探索しようと思ったらそもそも道がない そんな理屈がある一本道ゲームなんて世の中に溢れてる それが自由なら和ゲーは自由度低いなんて言われることはないな
違います 崩れた崖は登ろうと出来ます 一本道だからそれに従うのか 他を探すのか いちいちがけ崩れやゴミの山に調べてどかそうとする人はいないですよね そこが違います プレイヤーのその状況での自由な発想がそのまま試す事が出来る自由 自由だからこそ決まったお約束より思いがけない結果が得られます
道を作るだけでそこを通らなきゃいけない理屈が作られていない そこを通らなきゃいけない必然 それがシナリオがそう作られているから だけ 自由に見たらその正当性が崩れます
あれID変わってる
>>455 殺人犯に追われるかは視点関係なくね
ちなみに殺人犯は知らないけど帝国兵に追われる2Dゲームは知ってる
あと川を泳ぐゲームもあるから記号というのは破綻してるね
ストーリーが向かう先というのも分からんな
川の向こうの街に行くと言うストーリーがあった時には川を直接渡れない理由を説明する部分は不可避だ
>>456 あんたのいう自由がずれてるのは440で分かってるナラティブと関係ないこともな
今後このスレで自由という言葉を使うつもりなら
イラストロジックがナラティブだと言う意見を自分以外から1つでも提示してほしい
>>458 なら急流を泳いだり火事の家の壁を突き破るのもありじゃん
他にも悪魔の呪文でも唱えて魂の契約を結ぶのもいつでもできないとな
全部試せるようになんて無理
素晴らしいゲームを考えたぞ 主人公は五体不満足で聴覚と視覚と味覚と嗅覚全てが機能してない ゲーム内容は驚くべきことに何もできない なんて自由なゲームなんだ
視点が重要 物語ですから 何に対してどうだ それと自由は必要ですが 自由な視点のゲームがナラティブだとはいってないので 自由なのはゲームの基本構造 基本を踏まえた上で物語を作りましょうってだけ そうしないと、裏づけの無い一方的な物語になるので その空間で出来る事と目的との関係で決まります 消火器は殺人犯から逃げる時には撃退するための鈍器に見えますが 火事場では消火器に見えます 脱出する為には窓を割る道具に見えます お話なんだから で、それをやってみたらどうなのか 結論をつけて一つの物語の完成 窓を割ってみたら殺人犯に気づかれてつかまりました
>>462 そのレスで物語が出来上がってるように見えるな
それこそ小説と同じ制作者(お前のことだよ)が作って体験させるナラティブになりえない物語だ
消火器からゴジラを出して殺人犯も窓も灰にできるのが自由
自由なのが基本構造なんてのは大嘘
MOD入れりゃできるけどね
自由がナラティブだと言ってないなら自由の話はもういいか このスレでイラストロジックが自由だと思ってることを訂正する義理もないし 今後はナラティブの話しをしよう プレイヤーごとに物語が違って自分の経験として体験させる話を
プレイヤーの体験から語られる物語とは 自由なプレイヤーが自由に行動した結果 ここでは何をした結果何が起こった ここでは何をした結果何が起こった ここでは何をした結果何が起こった それらを全部つないで浮かび上がる物語
それはイラストロジックや数独で得られるものとは違うのか? 同じだと思うなら回れ右してバイバイだ
何をいってるのか分からない プレイヤーは自由意志で動いて自由に物を見て自由に考える それはとめられない 自由に動いた時、それに作りこみが追いついてないと物語が成立しないと言う
プレイヤーが自由に数字を当てはめるのと、草原の先に見える洞窟に興味を持つのと 配置された消火器に興味を自由に持つのとは同じ由来です プレイヤー目線の自由
まずプレイヤーとプレイヤーが動かす駒を混同してる プレイヤーはゲームを改造してもたたき割っていいが駒はルールに従う だから駒は自由にドラゴン召喚したりしないしルールで行くなと言われたらプレイヤーが納得しなくてもいかない 物語というのはその駒を動かした物語のことだ プレイヤーが制作者の意思どおり動かしてると思えばストーリーだし 動かしてるのが自分だけの体験と思えばナラティブ 崖崩れや川を越えられない一万通りの理屈があろうと制作者の考えた通り誘導されてるなと思えばストーリー 誰がやっても解く手順が決まってるロジックパズルもナラティブになりえない訳だ
混同してるのはそっち プレイヤーが自由だと言っているのに、駒を自由に当てはめようとする 駒はプレイヤー自身だから プレイヤーと駒が一致すれば自分自身の物語になるし 駒は駒プレイヤーとは違うと言えば自分自身の物語にはならない
どちらかと言えば制作者の考えた通り誘導できた方をナラティブ ナラティブは作者のきちんと意図した物語を伝える技術なので その時、きちんと伝えられないのにその道を進む羽目になればストーリー
それはプレイヤーが自由に物を考えると言う前提が欠落してる為
>>470 駒が自由じゃないなら立ち入り禁止テープで止まっても納得できるよな 嫌なら自由に改造しろ
あと駒はプレイヤー自身にはなりえないぞお前はドラゴン倒せる自信はあるのか?
>>471 作者の意図した物語こそストーリーそのものだ小説や映画と全く同じ
ならゲームなんか辞めて映画を見させればいい
>>472 何の変哲もない場面でゴジラを召喚してはどうかという自由な考えに答えを用意する必要はない
最初からルールでできないのだから
ナラティブなゲームで川を渡れない理由を聞いたら ある人は対岸に強い敵が出現していたからと言い、別の人は水泳スキルが足りなかったという またある人はそもそもわたる場面に遭遇しなかったからというかもしれない ストーリーのあるゲームだと100人全員口をそろえて急流だったというメッセージが出たからという
小説や映画はナラティブですよ 表現によって 何の変哲もない場面でゴジラを召喚しようとは考えない それが普通
作者の意図した物語を手で触って感じるのがゲーム
映画がお話を持ってるのは当たり前だし小説でも当たり前
>>461 は自由としては正しい
STGがお話を感じられるのと同じ
映画は見てる人が自由でも映画の裏舞台を触る事が出来ないから
横に橋がかかっていても川を泳いで渡ると主人公が主張したらそれが事実になる
手前で言ってることとっくに破綻してること気付いてないのかねこいつは
説明してみて
映画がナラティブだというならナラティブを強く感じられる映画3つ挙げてみろ
挙げろっていって挙げられるものじゃない 映画や小説の表現だったら書けますが 物語の背景の様子やいきさつとかを描きこむ
はい敗北宣言おつかれさまでした
映画は物語そのものなんだからナラティブなのは当然かと
決定的な恥の上塗りw
キチガイが論破されてどんどん縮んでいっててワロタ
精緻なグラフィックで構築された3D空間に なんらかの意味を見出したいだけに見える
>>475 プレイヤーは自由だと書いたのはお前だろ
何の変哲もない場面でゴジラを召喚しようと考えないのはおかしい
>>477 何もできないゲームが自由とした正しいとは流石だぜ
>>483 ナラティブとストーリーの違いは?
良い例があった 英雄伝説3白き魔女 ジュリオとクリスが巡礼する話だが 巡礼する各地で白き魔女に関して色々な情報が得られる このジュリオとクリスの旅する過程の物語がストーリーで その過程で見えてくる白き魔女についての物語がナラティブ やったこと無いけど多分そんなゲームだと思う
ホラーゲーとかでよくある 日記とか断片的なメモとか落としておいて それを読むことでそこで過去に何が起こったかを 間接的に物語る手法が つまりナラティブってことなんじゃね 俺の定義ではそれのことなんだが だから自由度もクソも関係ないし 映画でも漫画でもできる
>>486 逆です
3D空間が先にお話を作っていて
その裏づけをきちっと作っていないとお話が崩れるってだけです
要するに外に出なければいけないなら、窓まで描かれた部屋で窓から出ようと考えれないのはおかしいって事
扉の前には敵が立っていてその強敵を倒して扉からです
何で窓から出ようとしてみないの?と言う
>>487 プレイヤーは受けるものに対して自由
デブな小学生がめがねの小学生を殴って泣かしていたらいじめてると受け取るのも
いじめられて反撃したと受け取るのも自由って事です
ではどっちなのか裏づけ
例えば3D空間で高い場所だろうと窓といすは描かれていれば いすを使って窓を開けられる そう受け取ります 描いて配置したものにはきちんと責任を取らないと物語が崩れると言う事です 物語のための物体だけが部屋の中にそれぞれ配置されていれば この物体この物体全てがきっちり結果を発しているのですが 物語のための物体も配置されているだけだと 他の物体が発する意味が意味を発しているのに発している物体にしか迎えないと言う 物語が崩れて
それぞれ意味を発する物体単位で描かれた物語のパーツから語られる物語と 物語を先に作っていて、物体は殆ど無視されるかその違い
作った側が自由に空間を描いてしまうのと同じように 見る側も自由に空間を見てしまうのに 見る側だけが見方に制約が付いていると言う問題で 作る側がきちんと見る側と同じ制約をすれば良いと 自由に空き瓶を描いた それだけで何で空き瓶を投げつけられないのか?とプレイヤーは感じます では案で空き瓶を描いたのか? そこには意味は無い無意味 ストーリーと無関係だけど描いた でも描いたものは意味合いを物体として持ってしまいます
>>489 漫画と映画とゲームは違います
それは裏を触れるところ
映画では主人公が見るものをこっちで決められます
例えば部屋から外に出たい時後ろに窓が見えてもここから出ようとここしか見ていない主人公が
そういえば済みます
その結果開かずに殺されたとしても見ている人は納得します
プレイヤーが見る物はプレイヤーが決めます
もしもプレイヤーが同じように窓を見ても扉しか開けられずそのまま殺されたら
例が悪いけど
一匹で50レス近くも長文垂れ流してるキチガイ、●流出騒動で住所氏名電話番号まで全部モロバレして PS3主流スレから泣いて逃げていったゲハのレス乞食ゴキブリエセ轟音に臭いがそっくりだな
ナラティヴってのは、ゲームの面白さの「疑似体験」の方を発展させたんだな。 「攻略」の面白さを重視したゲームと、広過ぎる自由度の共存は難しい。 プレイヤーがどんな道筋を選択しようとバランスが取れるように ゲームを作ろうと思ったら、調整だけで工数が掛かっちゃうから。
どっちかと言うと「疑似体験」に選択をする(選択を許す)必要は無いと思います もともと「攻略」の面白さ=自由度の高さ だったのを、自由度と言う概念が一人歩きして出来たのが今言ってるところの自由度 一つの部屋から脱出しなさいと言う目的をプレイヤーに与えたら 扉と窓が付いていたら窓からも扉からも出れる必要は無いけど、窓も扉も調べられなきゃおかしいって事です だから普通は窓はだめで扉はOKと出来る方と出来ない方を決める その時のNGのはずの窓にもきちんと触れてNGを体験できるって言うのが自由度と言う概念が出る前に指摘されていた自由度で
一つの攻略=ストーリを体感するには、複数のだめな事も無関係な事も 体験しなければいけない それが現実 出来る事だけが出来るのは現実じゃない 出来る事が全部出来たらそれこそおかしい 自分で作ったものをきちんと見て考えればいいって事かと
都合の悪いことは全部スルーしてまた最初から同じこと垂れ流しはじめた ↓この一文でお前はもう完全に終わったんだよ 失せろ 483 ゲーム好き名無しさん[sage] 2014/04/05(土) 06:36:48.78 ID:cjV6xbcc0 映画は物語そのものなんだからナラティブなのは当然かと
例えば、一つの攻略ルートのために 窓から出ようとした→だめでした 扉から出ようとした→だめでした 排気口から出ようとした→成功いました 一つの攻略ルートを教える為に他の出来ない事を作って 間接的に出来る事をこれがルートだと言う これって昔からやってた事ですよね
で今のやり方は 窓と扉は作らず何でか出れない だから 排気口から出ようとした→成功いました その次ここにいきなさい→成功いました その次ここにいきなさい→成功いました こんな感じで出来る事(やらなきゃいけない事)が一本につなげられている
で自由と言うと今度は
プレイヤーは何をやれます
プレイヤーは何をやれます
プレイヤーは何をやれます
と言うやれる事リストが提示されてその中から選ばされる
そのやれる事一つ一つは
>>502 と同じように出来る事(やらなきゃいけない事)が一本につなげられている
そして結局周囲に描かれた存在するはずの物体は相変らず無意味な背景として黙っている
「疑似体験」=「攻略の面白さ」=「自由度の高さ」 これが本来の姿
一つの道筋をたどる為に存在する自由の多さが自由度で攻略の面白さで疑似体験の再現度 そしてプレイヤーの目線出た語られる物語
もうナラティブって言わなくなっとる よし自由度議論スレを建てよう そして主人公が5五体不満足&5感不全で何もできないゲームが自由と思うけどどうだろうと意見を聞こう
本当は一つの物語を体験するためにはその世界をきちんと疑似体験できなければいけない 疑似体験するためには自由に動けいてその世界を体験できないといけない その世界を体験するためにはその世界が作りこまれていなければいけない その作りこまれた世界をきちんと経験する事でどういう物語をいいたいのかきちんと伝える事が出来る そしてその物語を紐解いて経験する事がゲームの面白さそのもの 攻略の面白さ 一つの物語のために自由に動いてその結果自由に色々経験して疑似体験する その結果が一つの物語になる だから自由と疑似体験と物語はもともと同じものをさす一つのもの 自由でなければ疑似体験できないし疑似体験できなければ物語が出来ない 物語の世界を疑似体験する(設定を疑似体験する) 物語を作るとその世界を作りこむ事を放棄して、その世界を作りこむと物語が無いそうなっている方がずれてると思いますよ 物語の為にこそ自由が必要 一つの物語を体験する為にこそ自由が必要で、自由だけでは何の意味もないし物語だけではただストーリーを押し付けてるだけ 一つの物語の為にかれこれさまざまな経験をする すると一つの物語の為に長い長いお話しを冒険した気になる 作ってる人が部分的にしか見れていない証拠
相手しなくていいよ
せやな
>>497 >「攻略」の面白さを重視したゲームと、広過ぎる自由度の共存は難しい。
>プレイヤーがどんな道筋を選択しようとバランスが取れるように
>ゲームを作ろうと思ったら、調整だけで工数が掛かっちゃうから。
ゲームバランスを左右するものをマップ(道筋)に配置するから
好きな様に移動されるとバランスが取れなくなるんじゃね?
ロマサガシリーズの戦闘みたいに、マップではなく
PCのパラメーターの状態にゲームバランスを左右するもの達を対応させて
条件を満たしているものが出現する様にすれば、
制作に掛かる工数もそれほどは増えないだろう
味方の強さに合わせてエンカウント雑魚の強さを連動させようってのは D&Dのルールブックで 悪いマスタリングの例として槍玉に挙がってたりもする。
全体を見て作らないと手抜きするだけになる 本来自由度とは一つの道筋を作る為の物だから 工数が増えるのはゲームの道筋と関係ない物ばかり作るから だらだら長いシナリオ作る必要も無い
味方が強くなると敵が強くなるならそもそも強くなる意味ないよな
ステは同等だがスキル構成が違うならそれに限らず
>>511 TRPGはCRPGに比べれば戦闘主体のゲームじゃないし、
そうじゃないプレイを目指してほしいと製作側が願っているから
そうルールブックに書かれているんだろ
CRPGは製作側がプレイを戦闘だけで持たせようとしてるトコあるじゃん
>>513 敵との比較でしかPCの強さを測らないなら
>味方が強くなると敵が強くなるならそもそも強くなる意味ない
と感じるかもしれないが、以前のPCと今のPCを比較すれば
強くなっているとか多芸になっているとか成長を感じる楽しさはあるし、
そもそも戦闘で遭遇する敵が変わっていくのは
プレイを飽きさせない意味合いもかなりあるんだから、
その点においては
位置座標に対応して敵が変わるのも、PCの強さに対応して変わるのも同じだよ
自由にゲーム世界を旅できる面白さを重視するなら
PCの強さに対応して変化させる方式も利用価値があるだろ
で、ナラティブとなんの関係が?
>>516 同じではないよ
PCの強さに対応して変る場合はどこにプレイヤーが行っても同じで
位置座標に対応して敵が変る場合はここにいったら強すぎて進入できないと成長してから出直さなきゃいけない
冒険するなら、どこに行っても同じじゃそれだけどこかを目指す価値が下がる
ここにいけば何がいて、ここにいけば何がいる
ここから先に進みたいけど、敵がいて進めない
この敵がいる場所に行きたいけど、そこに進む道が閉ざされていて進めない
そういうのが冒険したり探索する楽しさに繋がる部分の一つだから
まだ行った事の無い行ってみたい場所
そういうのを作る事がゲームを楽しむ上では必要
東に行きたいけど自由に入れないその理由が敵が強いからって理屈の一つにもなる
自由にゲーム世界を旅できるっていうのはそういう事
プレイヤーに自由に動ける権利を渡してしまうんだから、プレイヤーの行動をこういう部分で制御する
ビルド間違えたら詰むかビルド真面目に考えればヌルゲーのどっちかだな
>>510 一つの道筋に対してやれる(やってみれる)行動が自由度
一つの道筋に対してやってみれるその筋道でない行動が自由度
筋道が決まっている時に筋道どおりにしか動けないか、筋道からそれようとする事が出来るか
道筋が示されてないのにやれる事の羅列がされてもそれは自由ではない
道筋そのものが複数、または無数に存在すると言うのも自由でもなんでもない
一つの道筋を強制する時に強制に対する自由が自由度
右向けを命じられた時、左を向こうと出来るかが自由度
右を向かなきゃいけない時に左を向こうとした場合どうなるか
右を向かなければいけないと決まった時にそうでない左を向いたら?と言う道筋と違う事に対する作りこみが自由度
>>518 ちゃんと読めよ
>そもそも戦闘で遭遇する敵が変わっていくのは
>プレイを飽きさせない意味合いもかなりあるんだから、
>その点においては 〜中略〜 同じだよ
って書いただろ
大抵のCRPGが、物語や世界設定上の意味がほとんど無い雑魚戦を用意する最大の理由は
プレイを飽きさせない事なんだよ でも同じ敵しか出現しなかったら飽きるだろ?
だからたくさんの種類の敵を用意して、プレイを進めると次々違う敵と戦える様にする
マップ座標に敵を割り振っても、PCのパラメーターに割り振っても、
プレイを進めていけば敵が移り変わっていくのは同じ
だから、それによってプレイを飽きさせない効果も同じ
だいたい特定以上の強さにならなきゃ進めない様なエリアを用意したいなら
そのエリアだけ出現する敵を固定すればいいだけだ
RPGはこれこれこういうものだから
物語の内容がどうであってもこの形式は崩せないなんて作り方ではナラティブにならない
たとえば、主人公が基本自由気ままに移動しては
興味を持ったものに首を突っ込む様な設定の物語のCRPGを作る時に、
スタート地点から遠ざかるほど敵が強くなっていくから移動もままならない作りにしたら
そんなのはナラティブじゃない
この物語の主人公は風の向くまま気の向くままフラフラするという設定なのだから
エサを与えないでください
アクションゲームにすれば解決するんじゃね
>>521 同じ敵で良いんだよ
むしろ同じ敵でないと困る
レベルを上げさえすればいいのなら、何も頭で考えずレベルを上げ続けて敵が変化する
レールの上に載っているのと同じ
次々変化する映像をただ流してるのと同じでプレイヤーが考える余地が無いしプレイヤーからすれば何をしたって変化がしないのと同じ
マップ座標に敵を割り振っても、PCのパラメーターに割り振っても同じに見えるのは
前提条件が、プレイヤーは何も考えずただ、進行ルートに進行すると言う条件になっている場合
それとスタート地点から遠ざかる程、強い敵が出ると言うのは文面からの思い込みで
もしかしたら、スタート地点の直ぐ横の橋を渡ると強い敵が出るかもしれない
ここに強い敵が出る事で、ここは未だ進入すべき場所ではないんだなと、暗に教える事が出来る
ここにいけばこういう敵が生息していて、ここにはこの敵
ここの敵は強すぎるからこっちに行きたい、強すぎるけど何がそこには在るのか見てみたいだから無理して進んでみる
この場所には出現率の低い敵がいて、この場所には何かいい物を持っている敵がいる
そういうのを自分の足で歩いて確かめて自分の目で知る
そういうのが物語り
興味を持ったものに首を突っ込むのなら、それと対になる物が必要
自由には制限が付きまとうし付きまとってないと面白みが消える
興味のままに見えた洞窟に入ったら敵が強すぎて進めなかった
それか興味がそそられるから無理してでも進みたい、それでも失敗するかどうか
もしかしたら、レベル不相応な物が手に入る
雑魚戦を用意する本来の理由はここはこのレベルでは進める、ここはこのレベルじゃ難しい
そういうのを教える為
ただ引き伸ばす為の無駄の要素では無い
だから本来は道筋どおりに進んでいれば自然にそのレベルに到達してスムーズに今まで進めなかった場所に侵入できるように作られている
敵が変化する事で変化を与える、プレイヤーから見ればただ出す相手を変えてるだけで面白みが無い
そもそも自由にどこにでもいけてしまっては物語にならない
ただここにいきたいがために、ここにいって、これをして何をして、色々遠回りをして、色々経験をしてやっとここにたどり着けたって部分が物語りになるんだから
自由にここに行こうと思ったら、何が不足で何をしなければならず、どこに行って、何を得なければいけない、そのためにはまた何が必要で、それをするためにはまた何をする必要が
目標とする一つの目的を物語の結末としてみて、そのためにやった事、進んだ道のりが物語り
525 :
ゲーム好き名無しさん :2014/04/14(月) 21:36:47.61 ID:ko7J5kXK0
>>524 今の遊び手は、ゲームオーバーになること自体、嫌がる傾向にあるから
そういう門番強敵を置くなら
ワンパン即死が起こらないように補正掛けないとダメだな。
具体的には、残りHPが一けた台になったら被ダメを1に固定。
(この手の調整は、ハイドライドが2以降やってる)
あ、もちろんあの補正は味方限定な。
寧ろ逆にデジモンのアニメの続編を放送して欲しい 他に別にデジモンのアニメの次回作を放送して欲しい 当然正反対にデジモンのアニメの次期作を放送して欲しい 特にデジモンのアニメの最新作を放送して欲しい
>>524 強い敵と戦ってるときはいいけど
強い敵倒して強い装備手に入れた後弱い所行くときにつまらないだろ
カード選択を考える必要無くただ攻撃連打で終わる戦闘になる
530 :
ゲーム好き名無しさん :2014/04/15(火) 12:37:25.04 ID:bGUWg/qjO
>>526 その補正すげえ嫌いだわ
格ゲーだとカプコンのジョジョ辺りから顕著になったな
ギルティギアも補正強くてマジ鬱陶しかった
531 :
ゲーム好き名無しさん :2014/04/15(火) 12:56:46.92 ID:jymnnWN5O
日本にはルナティックドーンとワールドネバーランドがあるじゃない
>>531 概要を読むと面白そうでワクワクするんだが
実際プレイするとクソつまらんゲームの代表格なんだよな
533 :
ゲーム好き名無しさん :2014/04/15(火) 15:30:03.51 ID:jymnnWN5O
>>532 お前は合わないんだろうが俺はどっちも大好きだ
特にルナティックドーン第三の書なんて未だに思い出したようにプレイして朝チュンするわ
>>532 ワーネバをバカにすんな
ボッチで訓練しかせず
大会で相手に応援する人が一杯いて
こちらは通りすがりのオッサン一人
虚しい勝利を繰り返し
やがてピークを過ぎ
鉱石掘りで日銭を稼ぎ
帰っては寝るだけの生活
ということが出来るのは
リアルかワーネバだけなんだよ
>>530 だから味方限定補正。そういう対人戦ゲームと一緒にすんな。
>>535 それだと相手の手加減に気付いて萎えないか?
>>536 じゃあ、間を取って旋光の輪舞のFINALルールがいいか。
ライフが0になる=敗北ではなく、FINAL状態突入。
専用の行動ができるし、食らい判定が縮む。この時に被弾すると敗北。
そのモード終わると負けるんだから一緒だよな
>>538 うん、いっしょだよ。
だが、
ワンパン即死を防ぎたい と ダメージ補正かかるのウザいからかけないで
両方の条件を満たすいいとこどりするにはこれしかない。
そもそも
>>524 も
>>526 他もRPGの話をしてるので、
それへの反論のために対戦格闘の事情を持ち出す
>>530 、
>>536 、
>>538 が
的外れな事をしている。
RPGでも「死んでも少しの間パワーアップして戦えますよ」って言われたらそれ過信して死ぬじゃん 解決になってないよ
で、ナラティブとなんの関係が?
>>540 そこまでのバカプレイヤーなら
もう死んでゲームオーバーになって、学習してください。
>>541 ナラティブゲーを今の子に投げ出さずに遊んでもらうための一つの方法。
味方強化するは全敵弱化と同じだから結局意味なさそう それよりボスでも絶対逃げられる技とか戦闘前からやり直せるオートセーブがいい
「何でも出来るようにする」って言うけど、結局「コマンド選択」か ドラクエやFFが途中から採用した「対象物の傍に立ってべんりボタン一発」の どっちかになるだろ。 頭の中の抽象議論で、具体的なシステムの議論が全然ないような。
ドラクエは死んでも所持金半分になるだけで生き返るし Wizardryなら全滅してもそのまま続行で終わらない ゲームオーバーにならないからそのまま続ければいいのに それでもやっぱりリセットする奴はリセットするだろ
>>544 ケータイでのメール打ちをする要領で
コントローラーで、やらせたい行動の単語を入力させちゃうか?
飛ぶとか掘るとか開けるとか。
まあそれがめんどくさいから…遊ぶ方だけじゃなく作る方もな…統合した結果が
「しらべる」だったりするのですが。
この議論どこかで・・?
>>526 それはゲームオーバーになる事を嫌がるゲームだから
人間の性質は何時の時代でも変ってない
きちんとゲームオーバーにならないといけない
ゲームオーバーはゲームでの判定だからここは入ってはいけないと教える為に必要かと
>>542 投げ出さずに遊んでもらう為にこそ、きっちりゲームオーバーは必要かと
きっちりルールがはっきりしていて、操作権を完全にプレイヤーに渡してやれば投げ出さずにきちんとプレイする
逆にエスコートされてたら自分でやってる訳じゃないからやめる
>>543 お膳立てすると逆効果
ルールはシンプルで後は全てプレイヤーに引き渡した方がいい
どうすれば良いかはプレイヤーが考える
ゲームオーバーになるのがいやならどうするか?も、ゲームオーバーになっても良いようにどうするか?も
大事なのはプレイヤーに全てを引き渡す事
>>549 ゲームオーバー廃止とかそういう訳じゃなくて
回避し易いかしにくいかということじゃね
そいつの相手するのはやめろ
ゲームオーバーは普通ミスが貯まってなるものだけどRPGは一発でなるから扱いが難しい ACTやSTGは「攻撃食らう=ミス」なんで、それで残機やライフが減るというペナルティがありそれが貯まってゲームオーバー RPGは攻撃食らうこと前提、さらに復活が軽い奴は味方が死ぬのも前提で全滅こそミス ミス1回でゲームオーバーなんだからそりゃ嫌になる
根本的な疑問だけど、「何でも出来て、それらについて何らかの異なる反応があって、 目的も特に定められていないから好きなようにしていい」ことをよしとするなら そんなのコンピュータ上の仮想空間よりも現実世界でやればいいんじゃないの。 家を一歩出たら無限に世界は広がってるよ。 逆にゲームというのは、「やれることに制限があって、その中で何らかの目的を 達成する(=ルールがある)」から娯楽として成り立つ。 既存のゲームの本質的な面白さが分かっていない人らが 勝手に「何かもっと新しい面白さはないかと言っている状況は、四半世紀前に 「CD-ROMで大容量マルチメディアが…」と言っていたころからまるで進歩がない。
家の外にはドラゴンもいないし銃を自由にぶっ放すこともできないだろ 娯楽ってのは面白ければそれで娯楽なんだよ Aボタン押したらジャンプした面白れーがゲームの本質
「何かしたら何かが起きる」のが面白いなら、なぜドラゴンとか銃を撃つとかに 拘る必要があるのかね。 「何かしたら何かが起きる」のは、何もゲームでなくとも構わないはず。 それどころかコンピュータ上の仮想空間でなくてもいいのでは。 この辺の議論って、じつはもう20年くらい前に同人サークルなんかで 済まされたことなんだけどな。
シミュ系全否定だな 達成したいなら娯楽なんてせず仕事人間でいいじゃん
シムズで家を建てて内装ごたわって遊んでいる人に、現実でもできるだろ、とか言ったとして、 現実にできる人がどれだけいるだろうか。
>>553 お話を読むのがそのゲームをする人にとっての面白みだから
やれることに制限と言うものが存在して、その中で何らかの目的を達成する
というのは言い換えると「何でも出来て、それらから何らかの異なる反応が返る」事
目的は必要
何でも出来るというのは、逆にいえば制限されている事の裏返しで
何でも出来るからこそ制限される
もともと作者の所定どおりにしか動けないならルールで制限する必要が出てこないから
具体的に書けば、ここから直進したところにトロフィーが設置されているのでそれをとりなさい
まっすぐ直進しか出来ないなら横に行ってはいけないと言うルールを作る必要性も出てこない
横に曲がる自由が存在するから、横に曲がったらルール違反だと言う制限をつけられる
目的は必要
目的が存在するから目的に対して自由に動ける事と、その自由に出来る事と出来ない事、許される事と許されない事が設定される
そこから、目的を他精する為の正解の道が見えて来る
ハンバーガーを買いにいきたい
のなら、通路1と通路2と通路3のどこを選ぶのか自由
ハンバーガーを買いたいという目的を持っているから、だからこそその目的に対して自由に思考し行動しようと言う気が起こる
さらに、ゲームでは自由に行動されたらゲームとして成り立たないからルールで制限がされる
自由に通路1と通路2と通路3のルートを選べてどれを選んでもハンバーガーやにたどり着けるから、勝手にどれでも選んでよね?じゃゲームにならない
ゲームとして成立するには通路1だけが正解で他は間違いでなければいけない
すると自由にプレイヤーは目的のハンバーガを買うために行動するけど通路2と通路3を使う事が制限され、間違った通路の中から、通路1と言う正解を発見すると言うゲームになる
>>555 物語を楽しみたい人はお話を読みたい
エピソード、逸話
各「何かする対象」にこめられた逸話
テーブルから返される反応、いすから返される反応
人が小説を読みたいのは人が作ったお話を読みたどりたいから
それと同じように、人の書いた物語を読みたい
例えばこのテーブルにはどんなエピソードがこめられているのか
このいすにはどんなエピソードがこめられているのか
高いところに置かれた物を取るのにいすを台にした場合壊れて転倒する
テーブルを台にした場合無事取れる
それだけでも十分読者の読みたいという欲求を刺激する
森の中に見えるこの洞窟は何なのか?
作者は何をいいたいのか?
触れてみる事で分かる
現実世界で出来る事にはそういう人の作った物語は隠されてはいないから読み解いたりする事できないは
たいていの人が何か行動する時、見当が付けてそれを実行する
人が花瓶を割る時、たたいたら割れるだろうなと、既に割った時の事を見当が付いていてそれを実行する
たたいたら割れるのが分かっていて、それを敢えてたたいて割っても何も面白みは無い
たたいたらどうなるのか?
それが分からない、または不確定だからこそ、それをやってみる事に人は興味をそそられる
読んでみたいと感じる
ゲーム世界の中に存在するつぼ、これは割るとどうなるのか分からない
もしも割ったらどうなるのか知りたい
だから物語を読み進める
ロッカーの隙間から何かはみ出てる・・・
これは何だと作者は言いたいのか?
シミュ系無視してるけど久しぶりにまとも
だから逆にいうと、現実で起こる事や予想通りの事が起こるものはをれを試す価値が無い 窓ガラスをたたいたら割れると分かっているものをたたいて割る必要はないし これはテーブルだと言うテキストが表示されるだけだと分かっていたらそれを改めて調べる必要は無い 窓ガラスを割った時、何か予想もしてない反応が起こるのではないか?と言う期待を持てるから調べる テーブルを調べた時、何か思いがけない事が起こるのではないかと言う期待をもてるから調べる
何か起こりそうな中でこれはなんでもないただのテーブルだと示す意味でこれはテーブルだと言うテキストを表示するのはOK 窓ガラスを割るのでも これはたまたまなんでもなかっただけで、何か起こる事は分かってる場合 または何か起こると期待できる場合
このキチガイはなんでキャラ変えたんだろ 別人のフリしてるつもりなのかな
キャラ変えてるか? 同じじゃね?
ナラティヴの人は、そんなに自由度や「何をしても何か反応がある」ことに拘るなら GTA4以降で十分なんじゃないのか。あの辺はもうそれが売りになっているはずだが。
そうだ、この反応に対する興味は553の言ってる目的とも関係してる 目的に対して興味が沸いて来る 例えば、目の前の敵を倒したいなら、花瓶は相手の頭にぶつける鈍器に見える 鍵を探して探索しているなら、鍵の隠されているかもしれない隠し場所に見える 水をためなればいけないなら、水がめに見える 目的を持ってるからこそ、調べてみたい気持ちが起こる その時、プレイヤーは花瓶は相手の頭にぶつける「鈍器として使えるのかどうか?」を読みたい訳で 「読みたい」というのは、使えるのか?失敗するのか?そういうのがその時点では未知数だからこそ感じられる感情で システム化されていて何でもこういう場合はこれを確実に使えて、これは確実に使えない、と決まりきっていては話を読む価値が消える すると、とたんにゲームが作業化する
目の前の敵を撃退しないといけない 目の前にフライパンが落ちてる 自分は敵を撃退するという目的に対して、フライパンで敵を撃退できるか試したい、反応を見たい やれる、やれない、失敗する それを知る(読む) 反応を知りたい場合、反応を先に知っててはいけない 人を殴ったら怒って反撃して来る と言うのを知ってて人を殴っても反応を呼んだ事にはならない
フライパンでたたいて撃退する前提で、フライパンを使ってたたいて予定通り撃退するのは 物語を読んでる訳ではない 目の前に落ちてるそのキャラにとってその時点では未知のフライパンを、これは使えるのか使えないのか知る為に試す事で返される反応 その動機から実行して結果までの一連の出来事をさして 物語り 知らないかどうかはキャラ目線でなので、一度プレイした二週目のプレイヤーがどうなるか先に知ってる分にはOK
いやあの、自分
>>553 =565 なんだけど、GTAの件はどうなんでしょうか。
構うなボケ
ナラティブに沿ったゲーム作りってこれから主流になっていくのかね?
風ノ旅ビトは悪くなかったけど一回やったら飽きたんだが
一回やって悪くなかったその感じがナラティブ的であったかどうか書けば良いと思うよ。
>>571 どうかなあ…日本の場合ゲームもキャラ商売だからなあ。
>>573 話題の他プレイヤーとの自動接続も「えらく好き勝手動くNPCだな」と思ってただけだから(知らなかったんで)特にナラティブだとはは感じなかったなぁ
>>571 その前に、今の時点でナラティヴなゲームの代表作って何。
現状、俺がナラティブだと思うからナラティブ以上はないんじゃね つまらなくてやって後悔したけどナラティブだと思うゲームがあるという人はいるだろうか
上の方でナラティブなゲームとして挙がってる奴って、 イベントが突発的だったり、ストーリー展開がぶつ切りだったりするゲームなんだよね。 俺屍にしてもときメモにしても。
>>571 ナラティブという外人の言葉が今頃出たというだけで
昔からそういうゲームはあったわけだが
単に作り手が面白いゲームを作りたいという発想だけで、そこまで意識してなかったというだけじゃね?
ナラティブと叫びながらICOとワンダをパクる作業
昔からあったけど大してうまく行かなかった試みに それすら知らない門外漢が今更名前を付けて新しい動きであるかのように 言っているというのが実態ということか…。
今はSFC時代に生まれてない人がもうそろそろ成人しようかってころだしな 8ビットPC、ファミコン、PCエンジン、これらなんか現代人には歴史扱いだろ。
何が違うん?
>>581 うまくいかなかったんじゃなくて、
SFC中期+PCエンジンでCD使うようになったころぐらいからの
ストーリーテリング路線ゲームの台頭によって駆逐された。
その意味では
>>583 の「全然違う」は間違っていないが、
彼がどう思ってるかだな。
PS時代でも健在だったようだよ 3Dがプラスされていっそうナラティブに磨きがかかったんじゃないかな? PS2当たりから消えてる FCはナラティブって感じだけどSFCはストーリーっぽい PSはナラティブって感じだけどそれ以降はストーリー >>>>>>>>>>>>
>>583 がPC88伝説でハイドライドとか遊んだらどう思うのかな。
にわかに注目されたのは概念化によるところであって 試みが廃れるだの流行るだのという話ではないから
廃れてたの果しかだね
強いて言うなら、見失ってただ
>>2 で書かれてるようなゲームがナラティブだとすると
世界がプレイヤーにお構いなしに動いて、お膳立てしないようなゲームって感じだな
ナラティブの定義って、自分自身の選択して自分の物語として感じられること、っていうのは共通してるけど、人によってかなり概念が違うよね。 世界だけ用意して後は自由なのもナラティブっていう人もいれば、 プレイヤーはあたかも自分で選択しているようだけど、制作者側がそう導いているのであって、制作者側の意図する物語がなければ、ナラティブじゃないという人もいて。 ここで、語られるナラティブはスクエニの人の語った定義なんだろうけど、 あれも一本道と批判されがちなFFを非ナラティブの代表としてあげて、 それ以外のゲームをナラティブっていう言葉だけでは語れないのに、ナラティブな部分だけを指して、ナラティブ・ナラティブ言ってるだけのような気がする。
RPGに限定した話になるけど、プレイヤーの誰もが主人公に自分を重ね合わせて、脳内補完しながら楽しんでるかって言われたら違うと思うんだよね。 そういう人もいるだろうけど。 上のほうでハイドライドが出たから思い出しけど、自分の初RPGが98のハイドライド3SVなんだけど、 あれってホントにヒントが少なくて、基本世界を歩き回って偶然、次の場所を見つけるようなゲームだったんだよね。 ナラティブ的に言えば、そこにたどり着くまで、プレイヤーごとに物語があるってことになるだろうけど、 別に遊びながら、俺は世界を救うだのという思いを、一言も喋らない主人公に重ねてないし、 経験値を貯めるために善良モンスターの人魚を虐殺すること自分自身の選択としてやってるわけだけど、 「すまん。こんなことはしたくないんだが、世界を救うために尊い犠牲となってくれ」とも思ってない。 じゃあ、楽しんでないか、って言われれば、そうでもない。 RPGの楽しみ方として、プレイヤーは主人公に重ね合わせてとか、脳内でストーリーを補完、とかよく語られるけど、 大方の人間はそういう楽しみ方はしていないような。 実際、一部の信者を除いて、DQと正反対と言われるFFの両方好きな人は多いし、FF13が批判されたのも、プレイヤーが主人公の重ね合わせられない映画的な作り方が悪いわけじゃなくて、 あまりに一本道が過ぎたのと、こねくりまわしすぎたシステムが悪かっただけだと思う。 映画的手法を嫌う人はそもそもFFやらないしね。 長くなったけど、ナラティブってゲームの面白さの一部ではあるけど、ナラティブなゲームが面白いかと言われたら別の話だと思うな。
>>594 その余りに一本道と言うのがナラティブでないって事なのでは?
世界だけ用意して後は自由なのと、自分で選択しているようだけど、制作者側がそう導いているのは同じ一つの事をさしているのでは?
ナラティブなゲームは主人公と自分を重ねる必要は無いと思う
自分の視点で見て楽しむのがナラティブ
自分の目線でお話を見れる
>>594 自分が主人公にシンクロするようなことはないからといって、大方もそうであると言っちゃうのは恥ずかしい
主人公に自分を重ね合わせることで感情を動かされることは実際にあるし
そのことに特別な価値を感じる人は確実にいる
だからこそそのように感じる人をより生み出しやすい構造、演出を研究議論する意味がある
それと、ナラティブ=主人公との重ね合わせでは必ずしもない
シレンの例とか、あのゲームでは一連のゲームプレイで紡がれるドラマがナラティブだとされてるが
特段プレイヤーが主人公と同調するような見方はされてないだろう
シレンで紡がれるドラマって表現というか言い回しが、ナラティブ=物語って言葉で説明するためのこじつけだと思うけどな。
>>595 実際に一般多数は重ねてゲームはしてないと思うけど
と言うか、(ナラティブな)ゲームの主人公は重ねられるようなプロフィールを持ってない
だから基本ゲームの主人公は、自己主張をしない当たり障りのない存在
ゲームのキャラは、じかにプレイヤー目線で見る為の体の一部分とか、指先とか手足みたいな感覚かと
だから逆に言うと重ねなきゃいけないようなゲームになるとナラティブでない
自己主張を始める
むしろ、FFみたいなゲームこそ主人公に自分を重ねる必要性を持ってる
ナラティブなゲームのプレイヤーに与える物は設定と環境(ルール)だと思うけど
この主人公はこういう設定で、この世界はこういう設定
その設定を自分のプロフィールとしてプレイヤーは受け継ぎ
その後は物を見て考える権利を全部プレイヤーに丸ごと渡す
プレイヤーはこういう設定を背負っている者だけど、どうする
「どうする」、に対して「どうなるか?」結果を用意する
すると「どうする」と「どうなる」と言う物語が完成する
前に進むと落とし穴に落ちて失敗する
右に進むと次の道に進める
ナラティブゲームでは「どうする」と「どうなる」か?がばらばらに多数つなぎ合って一つの物語をなしている
そうでないゲームはする事と結果は最初に決まっていて指図された事をやって、その結論も最初から決められている
>>594 RPGと言いながら大半の人間は数字の上下を競う緩いパズルになってるよな
ゲームは競技だ課題突破だと思ってる人にはナラティブは向かないんじゃないかな
ナラティブというのが個々人の内心にのみ生じるものである以上 その手法は「如何に感情を誘導するか」が大事
一番必要なのは事実やこの世界の真実を一つ一つ作る事だと思います 背景を作りこむ事 この電柱は触ると感電する、こっちの電柱は登れる(そちらは上れない、こちらは上れると言う事実が作られているだけ、上れとは命じない) この電話は線が切れてる、線を直すと使える(使えると言うだけで使えと言ってる訳ではない、使えると言う事実が作られてるだけ) この犬は横を通り抜けようとすると噛み付いて来る、えさを与えれば横を通れる(そうすれば通れると言うだけでそうしろと命じている訳ではない) ここには触れると感電する電柱が立っていて、こっちには触れても大丈夫な電柱が立っているんだという事実 そういう物が個々に存在してる事を勝手に脳で推理して道筋を立てそれをストーリーにする いけないのは、開発者側が先にストーリーを作ってその通りにプレイヤーを動かす事 この電柱に登りなさい(何でここに上らなきゃいけない 他じゃだめなのか) 次は電話線をつなぎなさい(何でつながなきゃいけないのか)
ここナラティブスレでストーリースレじゃないんでお帰り下さい
>>601 お前の話なんかもう誰も聞いてないから
失せろ
どちらかと言うと課題突破だと思ってる人に向いてる気もする 課題=目的 目的達成する為にいろいろかれこれ考える その途中経過で体験する事を物語りとして捕らえるなら 魔王を倒しなさい そのためには? **が必要 **の為には? ##が必要 ##の為には? 自分の意思で課題を解いた経過を物語として構築
言葉を変えたり他人にレスしたりしているけど、言ってる内容は変わらずに自分の妄想押し付けてるだけだな そういう風にスレ占有してるのが反感を買う原因ってなぜ気付かないのか ROMれないなら2chやるなよ
>>594 ゲームをプレイして、プレイヤーが読み取ったそのゲームの物語の内容と
プレイの感触の内容が一致すればナラティブで
乖離していればナラティブじゃないんだから、
主人公に自分を重ね合わせられるかでナラティブかどうかが決まるものじゃないだろう
594によれば、ハイドライド3SVは>ホントにヒントが少な かったんだろ?
つまり言葉で読み取れる物語の内容がほとんどなく、
また、物語がその存在を主張する機会もプレイ中にほとんどなかったという事だ
プレイ中に物語を読み取る機会がほとんどなかったのなら
プレイの感触と物語の内容を比較して乖離していたとしてもそれが気になる機会がほとんどなく、
そもそも乖離していると感じられるだけの情報が無い事が多かったという事だから、
ナラティブじゃない事でプレイの面白さが阻害される事が無かった
だからプレイの感触の面白さを100%楽しめた という事だろう
個人的に、ゲームがナラティブである事よりも重要なのは「非ナラティブではない」事だと思う
ナラティブである事はゲームの面白さの一つを持っているという事でしかないが、
非ナラティブであるという事は
そのゲームを作る為にコストをかけて作った物語と
同じくコストをかけて作った
その他のプレイの感触を決める要素(システムやバランス)とが乖離している事で
互いの良さを潰しあい、
かけたコストに見合わない評価しか得られなくなる=売れない という事だから
また独自定義か
というか、
>>3 と
>>208 のどっちを念頭に置いてるかでズレが生じてるような
個人的に
>>606 の「非ナラティブではない」っていうのは話を理解する上で分かりやすいかもと思う
ハードの都合上、表現出来ることが限られているから結果的にゲームとしての筋が通ってたのが「非ナラティブではない」ゲーム
ハードが進化するにつれて表現の幅が広がっていったけど、同時にゲーム部分と離れていったのが「非ナラティブ」なゲーム
そして、改めて表現をゲーム部分に合わせて見直そうとしているのが今の「ナラティブ」なゲーム
もちろん、昔にもナラティブなゲームはあるだろうし、多少無理もあるだろうが、こんな感じに整理できるんじゃないか
609 :
594 :2014/05/07(水) 20:00:55.07 ID:bS1Oy4kl0
>>606 一応、ナラティブの定義って、
>>1 のスクエニの人の定義も踏まえて、
ゲームの中で経験したことが、プレイヤーごとに違う=自分自身の物語ができ、そこにナラティブがある、みたいな意味でしょ。
Narrativeって、辞書的には経験を出来事を通した物語って意味だけど、経験を通して物語を感じるか、物語となりえるかは、個人の問題であって、
それを一般的な感覚で論じるのは無理があると思うって話なんだけどな。
>>1 の例で言えば、ドラクエの話とか。
次の段階に行くのに、色々試行錯誤するのは、ただのExperienceであって、そこに物語性を感じるかは、個人の問題。
ただ、物語と感じなくても、単純に新しい技を覚えたい、宝箱を見つけたい、っていう感覚だけでも、飽きさせない作りなら面白いわけで、
物語があるかないか、っていうことが面白さを決めるわけじゃないということを言いたかったんだよね。
610 :
594 :2014/05/07(水) 20:19:38.94 ID:bS1Oy4kl0
最近、クリアしたゲームでUBIのChild of lightっていう、昔ながらのJRPGを模したゲームがあるんだけど。 このゲームは、DQ型かFF型かと言えば、圧倒的に後者であって、 ストーリーはゲーム側から一方的に提示されて進み、(もちろん主人公も台本に沿って喋り行動する)、 サブイベントをこなすかどうかの余地はあっても基本的に一本道。 ゲーム自体は、圧倒的に「非」ナラティブなんだけど、インタラクティブな部分では宝箱・アイテムを探す楽しみや、属性を意識した戦闘の楽しみがあり、 それとは別に、物語を追う楽しさ、2Dテイストの綺麗なグラや、雰囲気のいい音楽と、演習面を楽しむという楽しみ方がある。 特に後者の部分は、アンチFFの人がDQを引き合いに出して、演出はゲームの面白さとは関係ない、という部分だけど、 むしろ演出もゲームの面白さの一部だと思うんだけどね。 それなら映画でいいって意見もあるけど、同じ物語を伝えるメディアでも、小説で読むのか漫画で読むのか、はなまたアニメで見るのか、それぞれ感覚が違うように、 一つのメディアとしてビデオゲームで伝えるのもありだと思うし。 ちなみに、非ナラティブと感じたこのChild of lightのエンディングのクレジット、 物語のライターの意でNarrative Writingとあった。 当の外国人は、もうNarrative≒Storyとして使ってるのかも知れない。
単に「ゲーム的な体験の充実感」じゃダメなの?
>>608 「ハードの都合上、表現出来ることが限られているから」では無いと思う
今の開発者はもともと自分の作ったストーリーに沿って動かすように作ってるし
昔の開発者はもともと「これはゲームだ」と言う事を念頭において開発するから
今と昔の違いはそこだと思う
これはゲームだ だからゲームとしてプレイヤーが動いた行動にストーリーをつける
と考えていれば、そのように作る
だからプレイヤーの行動した結果側を作ろうとする
「〜した場合」→「こうなる」、「〜した場合」→「こうなる」、結果どうなる事を目指す
でゲームを構成しようとする
自分は映画監督だ、だから、こういう話を撮影すると言う考え方で作ったらプレイヤーをこの時は、こう動いてもらう事が必要で、その次は幸動いてもらう事が必要
そう考えていればプレイヤー側を制御しようとする
>>609 一つの物語をいうのに回り区どい手段を使うのがナラティブ
主人公は窓から外に出ました
と言う物語をいうのに従来は、主人公の台詞「窓から出よう」等何をすればいいのか教えられて
窓から出る(そして窓から出る以外の行動は一切取れない)
ナラティブでは窓から出ると言うのをいう為に
扉やその他の出られそうな出口をふさいだり、その他の出口から出た場合失敗する
そんな中、窓だけ成功するように作っていて、それを発見して窓から出るのをひたすら待つ
だから、実際は開発者の伝えたい物語の伝え方の違いで
織り込み済みの内容をどう伝えるか
それを物語として感じるかどうかっていうのは一本道ストーリーでも同じで
それをストーリーに感じるかどうか
ナラティブを一切持たないゲームでも面白いゲームはある なんて当たり前すぎる
ナラティブなゲームこそが優れた面白さであって、そうでないものはそれより劣っているなんてはじめから誰も言ってない
>>612 お前は黙ってろ
ナラティブが個人の問題なのも当たり前 現実に2人の人間に同じ体験をさせて、各々が何を感じるか何が残るかは 決して同じになりえないというぐらい当たり前
一つの物事を細かに鮮明に表現できるようにはなったけど表現の幅自体は狭まってると思う 多彩に色々な向きから、一つの事を伝えてたけれど、それが消えて変りに 画像は鮮明になって、物理現象を再現できて細かな部分は表現されるように変化した
>>614 ストーリーはそもそも個人の問題だからここでいってるナラティブに限らない
小説だって、読む人によって受け取り方は違う
映画だって同じで、聞き手によって受け取り方は変る
618 :
594 :2014/05/07(水) 22:17:09.77 ID:bS1Oy4kl0
>>613 そうか?
ゲームの面白さの本質を探っていた先にプレイヤーが自分自身の物語を持つこと=ナラティブと言ってるわけだし、
ナラティブって概念以前から、FFを批判する時にDQを持ち出す時には、同じようなことは言われてたよ。
つまりは、ナラティブ的であることがゲームとしての優れた面白さを持ってるっていうのと同じじゃないか?
だから当たり前の話だけど、ナラティブじゃなくても面白いものはある、と実例をあげてるわけで。
また、個人の問題であるからこそ一般化して語るには無理があって、共通するのはExperienceだけだろ、って話かな。
そこに物語を感じようが感じまいが、面白いかどうかは別ということも。
一人一人受け取り方の違う物語を許容する作り方か許容しない作り方かの違い 「自分は窓から出るぜ」と言う主人公に対して違う考え方を許容するか じゃ窓以外を思いついたらどうなるの? 自分で窓にたどり着け
>>594 >>609 >>610 しかし、そもそもナラティブが注目される様になったのは、
「なんでオレの作ったゲームは
物語もシステムもバランスも最高なのに評価されないんだ」って製作側が思って、
その原因を考えていったら「物語とプレイの感触の乖離」が浮かんできて、
ゲームの「物語」と「プレイの感触」が乖離すると互いの良さを相殺してしまい
作るのに費やしたコストに見合わない低い評価をされ売れなくなる(事がある)
→じゃあ物語とプレイの感触が一体となった状態ってのはどんなものなのか振り返ってみよう
→その感覚を思い返して分析してみるといろいろ可能性が見えてきたぞ!
→ナラティブ超イイじゃん! 上手くできればかけたコスト以上の評価が得られるぞ
って感じの流れだろ?
>ゲームの中で経験したことが、プレイヤーごとに違う=自分自身の物語ができ、そこにナラティブがある
ってのは、ナラティブを極めていけばそういう面白さを提供できるって事で
非ナラティブの被害を避ける方法を考えてたら気付けた、いわば副産物だろ
当初の目的である「非ナラティブの被害を避ける」事の方が重要で、
「ゲームの物語の内容とプレイの感触の内容が一致する」のがナラティブの最低条件だと思うが
>>620 なるほど、それはわかりやすい。
「物語」と「プレイの乖離」ってのは、ゲームに対する没入が薄れた状態であって、
スクウェアRPGみたいに、圧倒的な物語であっても支持を得ることはできるけど、コストがかかってリスクが大きいから、
非ナラティブなアプローチ=非スクウェア的なアプローチでリスク回避をするってことか。
例えばシレンみたいなローグライクは自分が洞窟に入って探索をしているように感じさせるのではなく プレイヤーはPCより上のプレイヤーの視点で冷静で効率的な考えに基づいて状況を突破するのを楽しむゲームかと思うのだけど これは「物語とプレイの感触の乖離」というものじゃないの?
それはキャラクターとの乖離だろう
岩崎の言うこと真に受ける奴がいることに驚き
塔の最上階まで上りなさい といったら、どうやって塔の最上階まで上るかは全てプレイヤーの判断に委ねる でも、簡単に上ってこれないように、何度も遠回りしないと最上階に近づけないような仕組みを入れる ゲームの最終目的のために、システムを作る 塔の最上階まで上りなさい といったら、どう上ったら感動的な演出を出来るかを開発者側が考えて、開発者側の考えたとおりの行動だけをプレイヤーに求める その道筋を作った上で、ゲーム目的のはずの「最上階に上る」と言うのとは無関係の事をプレイヤーに要求する ゲームバランスを考えて最終目的とは無関係の部分でバランスを整える プレイヤーは最上階に上るゲームと教えられているけど、実際にプレイヤーに要求されるのはストーリーの合間に出て来るお使いと、邪魔な敵を倒す事 だから乖離する プレイヤーにやりなさいと教えられる事と実際にプレイヤーのやる事が異なる
DQをナラティブの例としてFFと比較しているけど、DQの5以降はDQはナラティブの無い非ナラティブなゲームの典型だと思う 特に5はストーリーの本筋を引っ張りたいがために、プレイヤーは自由が全然無い DQ5の失敗はそこが大きいはず
>>622 ローグライクをNarrativeで語るな、と思ったけど、
>>208 を見るとシレンをNarrativeなものとして語ったわけではなく、その側面を持ってるゲームの一例としてあげただけらしい。
http://m.game.watch.impress.co.jp/docs/news/20140324_640864.html Narrative Legosってアプローチは話だけ聞くと面白そうだけど、これって結構、昔からある手法で上手く機能しないんだよな。
どれだけハードが進化しても、作る側が投入するリソースには限りがあるから。
Windows版のLunatic Dawnではプレイヤーが請け負ったクエストによって、
護衛を依頼したNPCが辿り着いた後、誘拐の依頼が出たり、救出の依頼が出たりとチェイン型に繋がるけど、物語は希薄だし、
物語を強くすると、ロマサガみたいにそもそも言うほど自由度が高くないという。
こういうアプローチってRPGよりSLGのほうが向いていると思うな。
Crusader kingsやEuropa Universalisはプレイヤーの行動がトリガーとなり、展開していくけど、ただこれもプレイヤーが物語を補完する必要があるという。
FFだってナラティブ ブリザドとサンダーどっち使うか選べるのだもの
>>208 の「映画のように感動できる自由度の高いゲーム」は超絶無理ゲーだと理解することから、話は始まる
と言うのは、そうでないと思う
イベントの入れ方の問題かと
ここでいってる映画のような演出と言うのは、プレイヤーを完全に固定して制御する事で特定のストーリーのタイミングで特定の演出を入れる
これを映画としている
自由とはお話の無い完全に野に放たれた状態としている
でも、本来のゲームはこういう形状ではない
本来はプレイヤーの自由と物語は一つのもの
ゲームと言う物はプレイヤーは自由に動き回ると言う大前提を念頭に置いて作らなければいけないのだから
プレイヤーの自由に動き回った自由に行動した行動一つ一つに演出を返す事でプレイヤーの自由とゲームの物語の展開は成り立ってきた
プレイヤーに自由に動ける場を与えてその場で
メインの本筋のストーリーのシナリオ通りの行動を取った時もそれに沿った感動の演出を
本筋のストーリーに逆らった行動をとった場合も、その行動一つ一つ行動毎に演出を返す(ムービーやバッドエンドを返す事で)
そうする事で、何をしたらどうなるか?
本来のゲーム的な形状を感動のストーリーで装飾する事が出来る
作り手は自由なプレイヤーに対して受身に作る事は大事
プレイヤーがこのタイミングでこのような行動をとった場合どのような反応を演出として返すか
本筋ではプレイヤーはこのキャラと話して説得して一緒に連れて行かなければいけないけれど
それを(頑なに)拒否して話さず置いていったらどうなるか?
次すべき事をしなかった場合どうなるか?
この時点で正規の本筋では、これをとらなきゃいけない、ではこれをとらなかったらどうなるか?
ストーリーはここでこれを捨てていけといってるけれど、捨てなかったらどうなるか?
ストーリーは次する事をプレイヤーに教えないけど、プレイヤーは自由に歩いてどこにたどり着けば次に話が進められるか?
どの町にはいればお話が進むか
プレイヤーは自由な前提で、その前提でどうしたらストーリーを伝えられるか?
本来の自由度とは、プレイヤーが自由に行動できるか?って部分だけで
プレイヤーの行動経路を一つか複数かと、経路の数の事ではない
プレイヤーが自由に行動できたからと言って行動経路が増えるとは限らない
プレイヤーの自由に動いた時、どうなるか?がゲームの本来の形状で
その時、どうなるか?が意味しているものがゲームのストーリー
で乖離しないストーリー
臭い
コテ付けろってマジで もしくは氏ね
オ ナ ラ テ ィ プ |
>>621 >>622 ローグライクを含む多くのゲームでは
プレイヤーと主人公キャラが同一の存在であるとも
別個の存在であるとも明言されないし、そういう設定の存在しない物語である事が多い
この場合、主人公をもう一人の自分だと思うのも
自分は主人公の行動に一部介入できる超越的な観測者だと思うのもプレイヤーの自由
これだけではナラティブであるかどうかは決まらない
ゲームの物語とそのゲームのプレイの感触の乖離というのは例えば、
物語上 倒して突破しなければならない敵(中ボス)がいて、
そのゲームでは経験値を稼いでLvUpするというキャラの強化システムと戦闘システムがあり、
中ボスとこのシステムで戦闘を行うんだけど、
それは物語の戦闘シーンにプレイヤーが介入できる様になっているという事だよな
でも用意された物語では主人公はその中ボスに苦戦してギリギリ勝つ事になっていて、
戦闘勝利後に主人公が「さすが四天王。あぶなかったぜ……」
と言って気絶する自動進行が入る様に作られていると、
プレイヤーが過剰にLvUpしてダメージくらう前に中ボスを瞬殺した場合
中ボス戦直後の自動進行(物語)と中ボス戦のプレイの感触は著しく乖離していて、
プレイヤーを冷めさせるだろ
こういうのが何度も積み重なるとそのゲームの評価をかなり下げるんだよ
ゲームの物語とプレイの感触の乖離というのは、
プレイヤーがゲームの物語とプレイの感触の両方を意識し比較できる時にしか感じないから、
ゲームが物語を語っていない時に物語の設定とプレイの感触に乖離があっても
大抵のプレイヤーは気付かなかったり気にしなかったりするものだ
だから、物語を用意しない・用意してもほとんど語らない作りのゲームや、
逆に 物語はあるがプレイの感触のほとんど無いゲーム(読むだけのノベルゲー等)なら、
ナラティブの恩恵は無いかもしれないが 非ナラティブの被害もない
>>634 人による問題だけど、ボスを倒した後に強制イベントに突入するのは、そんなに気にならないな。
特にSQUARE RPG系だと、戦闘とかも次のシーン・ステージに進むためのページめくりみたいな感覚になってるせいかも知れない。
ただ、アクション系のボス戦でいきなりQTEとかのほうが違和感というかプレイとの乖離を感じるな。
だったらQTEのド派手アクションを最初からコマンドに割り当てとけよ、とは思う。
Sleeping DogsのラスボスはQTEだったからな。普通に戦いたかった。
SQUARE RPGの場合は、コマンド式バトルだし戦闘を指揮しているって視点だから、もともとゲーム自体を俯瞰してるせいもあるかも。
アクションはストーリーに乗っかっていても、操作をするのは自分ってのがあるから、
それを奪われてしまうと違和感を感じるな。
>>634 それなら戦闘モードが分かれてるRPG以外では全く起こらないな
>>630 >でも、本来のゲームはこういう形状ではない
>本来はプレイヤーの自由と物語は一つのもの
本来のゲームって。
目の前にあるゲームと呼ばれているものがゲームでなく、
まだこの世には存在しないが本来の形のゲームがあるはずって、
もう完全に形而上の話じゃないか。
宗教や哲学は嫌いじゃないが、ゲームみたいな創作の分野で
実作しないで抽象概念振り回しても仕方ないよ。
似たようなゲームが多くても、同人やインディーズの方がよほど建設的。
>>635 >ボスを倒した後に強制イベントに突入する のが問題なんじゃなくて、
物語の戦闘シーンをプレイさせておきながら
結局そのプレイ内容を無視して制作者が見せたい物語を語り始めるのが問題なんだよ
手間隙かけてレベル上げして「やった四天王をノーダメで瞬殺したぜ」って思ってたのに、
苦戦した事にされて、無傷なのに重傷という事にされて主人公が気絶するんだよ
こんな風に自分のプレイが無視されて製作者の考えた物語を見せられるだけなら
わざわざプレイするのが無駄に思えるだろ?
>>636 例に挙げたのは
「戦闘のプレイ内容」と「製作者が用意した物語上のその戦闘シーンの内容」の乖離だけど、
現代のアメリカ大陸を横断するRPGなのに特に理由もなく移動がすべて徒歩だった場合も
ロードムービー的なプレイの感触を期待してプレイしたプレイヤーにとっては非ナラティブだし、
主人公が最初から最強という設定で好きな様に暴れまわるピカレスクロマンなのに
一々レベル稼ぎしないと次の町に辿り着く事もできなかったら非ナラティブ、
ゲームのどの部分でもプレイの感触と物語のそのシーンの内容が乖離してれば
「俺のプレイを無視して話を進めるなら一々プレイさせんな」という不満は出る
そういう事が何度も続けばプレイする気が無くなるよ
物語の1シーンをプレイしている筈なのに
どんなプレイをしてもプレイと関係ない話が再生されるだけなんだから
ただ、「プレイの感触」と「物語のそのシーンの内容」とが
乖離している あるいは 一致している という事は、
プレイヤーがプレイ中に「プレイの感触」と「物語のそのシーンの内容」両方を
同時に意識して比較できる時にしか感じられないものだから、
たとえ「プレイの感触」と「物語」とが乖離していても
いつもどちらか一方しか意識させなければ非ナラティブの被害はほとんど出ない
(だからこそミスディレクションの様な方法でもナラティブは実現できる)
これだとナラティブの恩恵も得られないけど
>>638 伝え方が悪かったかな?
戦闘シーンで瞬殺した後に、ムービーに突入して負けた筈のボスが必殺技を使って、主人公が瀕死、とかいうのも含めて気にならないって言いたかった。
たまたま今、再発されたPC版のFF8をやってるので、例えに出すけど、
(10数年振りだから、ストーリーは全く覚えてないから、そういうシチュのムービーがあったか覚えてないが)
ムービーゲームと批判されたこのゲーム、これを楽しんでる人って、そもそもスコールたちの気持ちでプレイしてない。
FFは8に限らずだけど、FFをやるプレイヤーの動機って、
アビリティを極めたり、魔石やマテリアを育てたり、ジョブを極めることなんじゃないかな?
それだけじゃ物足りないから、とってつけたように物語があるというか。
プレイヤーはスコールの気持ちで「リノアが魔女だったなんて!!」ってなるより、
第三者視点で、「リノアも魔女なんだー、へーっ」と見てる。
だから、戦闘の結果とムービーの話が食い違っても、そうなるのね、と受け流す。
仮にプレイヤーの心境・境遇とスコールがシンクロするような作り方をしても、
ジャンクションシステムがつまらなかったらしょうがないわけで。
FF系のゲームを好んでいる人は、キャラのカスタマイズとかを志向してるから、
非ナラティブによるデメリットは少ないんじゃないかな?
>>634 その部分ではそんな被害は無いと思う
倒した敵だけに台詞を用意すればむしろナラティブを作れる
この敵の物語
乖離するのは、これから何かプレイヤーがしようとする時点で主人公が自分の主張をしたり
ゲーム的にプレイヤーの行動を制限されたりする場合
主人公が今すぐ北の街に行こう、と言うけど、プレイヤーはその他の街に行ってみようとする時
別に北の街に行きたいと思っていないうちから、進行する物語は固定される
主人公はシナリオで子供を助けてると話は次に進むようになっていた場合 プレイヤーは次に進む為には子供を助けると言う作業をいやでもやらされる プレイヤーの子供助けるか助けないかその場の判断とは無関係にシナリオで決ったとおり話は進む訳で そういうのは乖離する
>>639 それは非ナラティブというより脚本の穴や矛盾じゃないか
操作が出来ないノベルゲーやシナリオがないトランプが最高という結論になりそう
例えば、ドラクエでプレイヤーがローラ姫を助ける動機って、王様のためでも王国民のためでもなく、 ポートピア連続殺人事件で手がかりを集めて捜査を進展させる動機と同じ。 ピースを集めて先に進みたいって動機からくるもの。 本来、プレイヤーの動機とゲーム内のキャラの動機が一致しないってのは、プレイヤーのあらかじめの了解事項だと思うんだけど。
主人公は君です、君の考えで行動して下さいと、プレイヤーは思考する権利を渡された事になってるのに、その子供どうするか?に関して選択権が剥奪される 選択権が剥奪された状態でやらされた行動にも拘らず、起きた事はプレイヤーのやった事として話を続けなきゃいけない それが乖離 だから結局ゲームの根幹に係る肝心な決定をする事が出来ない 本来は助けを求める子供がいるのは それなら、それに対して 助けた場合→どうなる 助けなかった場合→どうなる と助けたらどうなるのか?と言う興味をひきつける為
>>644 だから、その「助ける」って部分をプレイヤーが「助けたい」と思ってるって事にしようとすると乖離する
ゲーム側が用意すべきは「ここ気になるよね?」 と 「触ったら、または謎解きしたら、こういう結果になる」
と言う部分だけ
プレイヤーのひきつけられた興味とそれに対する答えや結果
だからそもそもプレイヤーはその人物を助けようとしてない
プレイヤーの個人的興味個人的関心で行動してその個人的行動に対しててその答えや、その結果を返す
そうれで乖離はしない
プレイヤーの動機とその結果は一致する
結論いうと「キャラの動機」と言うものが出てきて、プレイヤーに行動を強制した時乖離する
ゲーム内でプレイヤーが興味から助けてみたらどうなるのか?助けてみたい、と行動した時初めてプレイヤーの助けたい動機とゲーム内キャラの助けると言う行動は一致する
いやだからテキストアドベンチャーゲームなんか思いっきりそれに反するゲームばかりなんだが
別に反してないと思うけど
具体例を出来れば
おまえはコテつけろ
壊レコは自分では具体例をあげないのに、人には求めるのか。
無限の行動パターンが取り得て、それに対して無限に反応が戻って来るって、 作るのに無限に時間が掛かるか、ただの乱数ゲームになるかどっちかなんだが。 何でこう、出来ないことを言うんだろう。 ナラティブの人は本当にそれを作りたいの? あるいは妄想を語りたいだけなのか。
653 :
ゲーム好き名無しさん :2014/05/19(月) 22:55:13.76 ID:qEc5uaVk0
自分の中の理想像を語る時に机上の空論で語るか実現できそうな範囲で語るかの違いが如実に現れてる
>>651 彼にとっての具体例=窓の話なんじゃねーのw
まだ『ナラティブ』の概念を理解できてないんだけど フリーシナリオシステムを採用しているサガフロも該当する? たとえばリュート編は目的だけが示されて、すぐにラスボスの元にも行けるけど 任意のサブイベントをいくつかこなして戦力を強化することもできる プレイヤー「俺は、ここで仲間と出会って、一緒に心の修行して、強力な術を身に着けて宿敵を倒したんだ」 という気分に浸れるわけだし
逆にそうしたものでよければ、既に実現してるとも言えるな。 何か“縛り”があるから形になるわけで。
目的が示されて、それに向けてプレイヤーが自分の頭の中で試行錯誤する過程 『ストーリー』を感じる例 船に乗れない → 話を進めていると乗っけてもらえる事になる 『ナラティブ』を感じる例 船に乗れない → ではどうしたら船に乗れるのだろう? 密航したらどうだろうか? 裏口は開いてるのを発見!試してみたらどうなる? 棚を見ると乗組員の着てる服を手に入れた!変装して忍び込んでみたらどうだろうか? 裏口→だめでした、変装→だめでした、なら変装して裏口から進入→入れると言う事を発見した 変装して裏口に立つと入れると言うのが真実なのか〜と言うのが理解 ストーリー 次は何々が起きて、次は何々が起きて、次は何々が起こる ナラティブ 〜を発見した、〜をするとどうなる事を発見した、〜だと言う事を発見した
プレイヤーから見て相手側からの語り → 次は何々が起きて、次は何々が起きて、次は何々が起こる プレイヤー視点での語り → 〜を発見した、〜をするとどうなる事を発見した、〜だと言う事を発見した
ナラティブ 最後の敵にたどり着けるには < 何が必要 <そのためには < 何を必要とする < そのためには? ストーリー プレイヤーの次する事はこれ > 次する事はこれ > 次する事はこれ > 最後の敵 物語なし 最初から最後の敵にたどり着ける
なるほどな、サンクス
>>204 「リコエイションゲーム」は盲点だった(特に大航海時代1)
しかし、こうして議論してたらゲシュタルト崩壊して
過去のゲームがなんでもかんでも「ナラティブ」に見えてくる
だれか助けt
まあナラティヴの本来の意味に立ち返ると、プレイヤーの視点でゲーム内世界を語れること。 ゲームにおけるナラテイヴデザインは、プレイヤーにメタレベルで醒めることをどれだけ感じさせないかという部分だと思う。 ランダムだから、フラグだからとか、システムだからとか、俺と関係ないこの中二主人公の考えだからとか、 そういうメタに見て起きる醒めとそこからくる飽きをどんだけ起こさないようにさせるかって話だとおもうな。 そういう意味では主観的な体験だから自分が熱中したゲームがどれもナラティヴに見えるのはある意味間違いじゃないとおもう。 デザイン論としては、人によっては違ってくるそういう主観的体験をなるべく多くの人に感じさせるにはって話しだとおもう。 例えば「俺はテトリスに壮大なサーガを見出すから、テトリスはナラティブゲームな!」と主張されても、 多くの人がそう思えるかというとかなり微妙なわけで。
最低限ある程度プレイヤーと同一視化できるキャラの存在は必要じゃね
ストーリーテリングやプレイ感覚面でのナラティブな仕掛けってのは プレイヤー個々の主観が占める割合が大きいから、共通認識を得にくいと思うわ スレであまり話題になってないのは、UI面での仕掛けかねえ DeadspaceやBiohazardの体力表示/表現とか、Far Cry2のマップ表示、FalloutのPip-Boyなんかは ゲーム世界の雰囲気を損なわない仕掛けとして機能してたんじゃないか?
>>683 UIのデザインて非常に重要だよね。
単に世界観に即した凝ったデザインてだけじゃなくて、直感的なわかりやすさもないとゲームに入っていけないし。
人間にHPがあってアイテムで回復って変な話だけど、Dead Spaceみたいに宇宙服着てれば、 背中にライフゲージあってアイテムで回復しても違和感はないもんな。
桃白白やピッコロ大魔王に完膚なきまでやられるも一命をとりとめて、修行や伝説のアイテムを使いレベルアップし、リベンジを果たす、 というよくあるパターンをゲームで表現しようとした場合。 1.敵を強めに設定しておくだけで、プレイヤーの状況によらず、シナリオ上てわ強制的にプレイヤーが負けるという状況にはしない。 プレイヤーが敵に敗れゲームオーバーを経験し、 プレイヤーはレベルアップをしたり、弱点を探ることで再度挑むことがゲーム。 2.ストーリーに深みを与えるために、強制的にプレイヤーがやられるという演出が必要。 ナラティブ的には前者なんだろうけど、ストーリー重視だと、後者をとりたくなるのもわかる。 戦闘の結果によらず製作者の考えるストーリーに乗せるために、プレイヤーの状況によらず、イベントを強制するという手法は、 最初は製作者も葛藤があっただろうけど、今では当たり前な表現として受け入れられてると思うんだがな。 ここでプレイヤーがさめるとしたら、非ナラティブなことが問題なのではなく、 ユーザーがさめるぐらい、ゲーム自体に魅力がない、ということなのだと思う。
どうやって自分で見るんだよって違和感が常にあるんだけどどうなのあれ
思うんだけどナラティブと言われてるゲームも続編と亜流増産されちゃってワンパターンになるとナラティブ感なくならない?
>>663 ナラティブな仕掛け=共通認識
かと
ナラティブ=物語
伝えたい物語はその部分で共通でないと
ここでは何をいいたいのか?作者は
プレイヤーのこうやった事に対して、こうなる
と言う誰が見ても共通のお話
>>666 1.ナラティブとは違う
ナラティブは物語とかストーリーの事だから、プレイヤーの技術不足で負けると言うのは違う
ナラティブとはどちらかと言うと製作者の考えるストーリーをプレイヤーに伝える技術
強制的にプレイヤーがやられるという演出の部分はストーリーと共通になるはず
ここでの戦いは強制的に敗れる
と言う内容の話
プレイヤーは戦いを挑む→強制的に敗れる
っていうのはむしろナラティブよりかな?
プレイヤーからやった事に、結果を返してる
プレイヤーからやった事に結果をつける事でお話を作る
そうでないパターンは
プレイヤーに決定権を与えられているはずの事を制御される場合
この敵に挑むかどうか?の部分、次する事をゲーム側に決められる
主人公側の行動をゲーム側に決められて、決定権がプレイヤー側に無い
勝つか負けるかは結果でプレイヤー側からは決められないけど、どういう態度をとるかは決められる
ゲームの基本構造は、ゲーム側から与えられた条件に沿ってプレイヤーが何かをする、その事にゲーム側から結果が返される
この関係に即してないとストーリーは一人歩きする
プレイヤーが何かする、どうなるかはゲーム側が決める
プレイヤーは自分がやった事でどうなったかを見て楽しむ
壊レコは噛み合ってないし、同じことしか言わないんだから、人のレスに絡まないでもらいたい。 あと、コテハンつけてほしい。
ナラティブがなにかすらわかってないくせにいつまで粘着してんだろなこのキチガイ
「ここで負けてもらう」と言うお話を体験してもらうというのと ただ強いから勝てなかっただけで、「ここには強い敵がいる」と言うお話とは中身は全然違う ここには強い敵がいるのは、ここにいけばここには強い敵がいると言うお話 ここで負けてもらうのは、一回目は負けてもらう と言う内容を体験してもらう事を目的とする 今回の戦いでは挑んでも殺される、この戦いでは勝てる=ナラティブ 戦ったら負ける、戦って勝てる、と言う結果だけが作られている 主人公はここに向かってここで戦って負けて、そして負けたら次回はここに向かい、ここでは勝つ=ストーリー 主人公はどうするか?の部分全て作られている
典型的非ナラティブ 赤りんごと青りんごと葡萄が置かれている 赤りんごを取ると体が麻痺してゲームオーバー、青りんごを取ると前の部屋に戻されてやり直し、葡萄をとると次に進める ・一度目は青りんごを取る事しか出来ない→再び戻ると今度は葡萄を取る事しか出来ない その強制の理由を「自分は最初は青りんごを取ろうと思った」「次は葡萄を取りたいと思った」と一連の行動の理由を主人公がしゃべりだす プレイヤー視点で試してみる事は出来ない 主人公の言った行動以外不合理でも出来ない
Welcome to Underground ここはヤバイ奴らの集会所...
で、その「ナラティブなゲーム」とやらは日本で商売になるのかい? 「過去において」ではなくて、「今現在において」。 スマホのパズドラやモンストは無茶苦茶儲かっているわけだが、ナラティブなんて 意識していないだろうしなあ。 いくら、過去の成功例や古典論、欧米の超大作の例を持ち出されても、 実際に現在の日本の現場で使えないものは使えないべ。 ナラティブを意識することによって具体的になんか良いことあるのかな? (欧米の技術に後れを取らないため?にせよ、なぜ重要なのか分からなければ、 「どうでもいい」ということであり、別に無視しても良いんじゃね?と思うわけ)
>>676 ワンダみたいな雰囲気の、本当に雰囲気だけの雰囲気ゲーが海外で量産されるだけのイメージ
商売にならなくても同人なりフリーゲームなり、実際に遊べるならいいよ。 実際に遊べるならね。
>>679 (日本で)作る人いるの?
日本の同人ゲーって、二次創作か、あるいはシューティングを中心としたノスタルジックな作品、
あるいは、ギャルゲ―・ボーイズラブなどを題材にした「ナラティブでない」ストーリー型アドベンチャー
が多いけど。
プレイヤーからしてみれば、インディーズにせよ、Steamなんかで海外のゲームで面白げな試みを
しているゲームが遊べばいいだろうけども。
で、「日本からチャレンジブルなゲームが出ないと嘆くのか?」と言ったら、やはり違うと思う。
そもそも論から言えば、昔の方がフリーゲームにしろ、チャレンジブルな作品があった(「雪道」とか)。
が、正直なところ、今の空気感を言葉に表すと、「別にゲームで表現しなくても(例えば、ラノベや動画でも)
良いんじゃね?」的なものは感じる。
それこそ、「ナラティブはこれほどすばらしい」という説明とかがなければ、ゲームにこだわる理由がない。
というか、ゲームは老害がきつすぎて、かつてのSF業界みたいになっている印象。
五月蠅いマニアだけ一杯いて、「ガンダムはSFか?」「SFとは何か?」みたいな議論を延々とやっている。
そりゃ、若者はニコ動やアニメ、毛嫌いされているスマホゲーに逃げてしまうだろうなと思うね。
ナラティブの定義さえまだ誰も分からないんだからナラティブなゲームなんてねーよ
>>676 パズドラとかは今のゲーム機で出てるゲームに比べたらナラティブでしょ
ストーリーが存在するのなら
プレイヤー目線で動いているのは確かだから
ゲームをやってる人口がそういうゲーム的なゲームに引きよったってだけで
>>682 パズドラをナラティブの文脈で評価する言説というのは見たことはないけどな。
(例えば、新しいナラティブ体験をもたらした!とか、そういう評価は聞かない)
「プレイヤー目線で動く物語」としての要素があるだけで評価するなら、
ヒット作品にこじつけることなんていくらでも可能だけどさ。
(それこそ、パチンコでもマリオカート8でも、「プレイヤー目線で動く物語」があるわけで)
>>680 「ナラティブはこれ程すばらしい」と言うのは違う
「ゲームはこれ程すばらしい」が正解
ゲームに拘るのはゲームでしか表現できないからでは
そしてゲームから人が離れてるのはゲームになってないから
QUIZとか楽しめるのは、問題を解いている事を楽しむからで
迷路だって普通に人は楽しめる
これ等はゲームの一端で
こうしたらどうなるんだろ?ここはどこに繋がってるんだろ?って部分を楽しむのはゲーム
だからゲームと言うものはQUIZと迷路と同類のような形状でないとゲームになってない
一方的に話を流されるだけか、何をやっても変化の無い、映像作品と大差の無い状態になった今のゲームはゲームとして認識されていないから
人をひきつけない
何かをやってそこに結果が返されるのこそゲームで
そこにストーリーを乗っけたものがナラティブなゲーム
>>683 別にナラティブが強いって訳でもないけど、ナラティブよりの内容かと
686 :
ゲーム好き名無しさん :2014/05/31(土) 19:15:14.38 ID:8ktd+4VZ0
1年くらい前に別のスレで「自立部品の並列相互作用」とか「スクリブルノーツ」とか言ってたのが懐かしいな 「ナラティブ」って技術的には単純に言うと「動的なストーリー遊び」ってことだよね だから「最適化」のような古典的なゲーム性やテーマに拘らなくても面白いし楽しいだろうね あと「物語」の定義とか解釈の1つで「世界の理解のしかたとしての物語」ってのが個人的にかなり好きだな 朝目覚めた時にすぐにもう物語が始まってるよね
キチガイが生き生きとしているな
ピクミンとか理想的じゃね ナラティブが競技性を高めてるっていう 意外にこういう使い方を追求するゲームって少なくないか
現状だとストーリーとナラティブどっちか片方じゃなく 両方使った方がいい場合が多い気がする FFとか結構それを実践してた
ストーリーもナラティブも手法であって そこで語る内容が大事な訳で 手法としてのナラティブを追求してても 内容が片手落ちだとあんまり意味ないからな
語る内容が同じなら ナラティブの方が心に刺さるけど ゲームはまだ人間の心をAIで表現出来ないしな
その問題をクリアするために 風の旅人とかはリアルの人間をナラティブの中にうまく組み込んでたな 手法にも内容にも優れたナラティブだった
オンラインでのマルチプレイって ナラティブを表現する絶好の素材だと思うな ダクソの相互ロールプレイとかスプセルコンヴィクションのcoopとかツボったな
ここに特化させるゲームって意外にない気がする キャンペーンは物語重視な反面、マルチは競技を楽しませるって住み分けのが多い
優れたナラティブってのは、ある意味でストーリーの要素も自然に含まれる気がする 完全にプレイヤーに丸投げしても大したドラマは生まれず、 いい感じにドラマが発生するように、 プレイヤーに預ける選択を限定し方向付ける必要あるんじゃないかと思う それって制作側が語ってる部分もあるって事で、それはストーリーなんじゃないか
この連レスキチガイはなにがしたいの?
ナラティブがなんなのかって言ったら単純に辞書通り「物語」で ナラティブとストーリーの差は主語の差な気がする ナラティブの主語はプレイヤー、ストーリーの主語はゲーム側 それらがいいバランスになってるのが、いいゲームなんじゃね
ナラティブを「〜に富んだ」って意味の形容詞で使う場合もあるようで 「プレイヤーが語る物語」的な意味の名詞で使ってる場合とごっちゃになって 余計意味不明な単語に見える事が多い気がする
新たな概念って言うけど 和洋に関わらず昔からあったもので、 確かに存在するのに、うまく言葉に出来ないせいで はっきり意識できなかったり、メディアでうまく伝えたり出来なかったりして 「ストーリー」の方の物語と一緒くたにされて ゲームとは関わり薄い要素みたいに誤解されてきたように思う
どっかで講演もしてたけど 日本でも暗黙知として昔から多くのゲームがナラティブを扱ってた いろんな手法を模索してたけど、ユーザーのリアクションは薄かった気がする
単にそれを言い表す言葉が新しく輸入されたってだけで 実際は馴染みの要素だと思う
UBIが作ったプレイヤーが物語に介在する余地のないJRPGテイストのChild of Lightってゲーム、 クレジットがNarrative Writingってなっていた。 ここで議論されてるStoryとNarrativeは全く違うって話をよそに、 本場ではStoryがNarrativeって言葉に置き換わってたぐらいのニュアンスでしかないのかもな。
Child of Lightの物語は現実の問題のメタで プレイヤー自身の問題としても描かれてて そういう方法で劇中の物語をプレイヤーの物語として体験させるゲームも多い それ以前に大抵のゲームはナラティブの要素をもともと含んでる気がする 程度の差があるだけで そういう意味じゃナラティブに置き変わるのも自然かもしれん
物語が決められたものでも、 主人公とプレイヤーの置かれた境遇を重ねたり、物語とゲーム内容を重ねたりして 物語をプレイヤーに一緒に語らせるゲームも多い
>>703 そういう難しい話じゃなくて、StoryとNarrativeで使い分けてないって話。
Narrativeを英英辞典でひくと、
a description of events in a story, especially in a novel.
話の中の出来事に関する記述ってニュアンスだから、ゲームで言えば今までストーリーって言ってたもの。
プレイヤー自身の体験として受け止める的な概念じゃなくて、本来の意味で使われてるってこと。
ネットの知識だが医療関係の世界だと ナラティブは患者が語る物語って意味らしい 語り聞かせる物語とは区別してる訳だ そういう区別をゲームにも当てはめたんじゃねって気がするけど UBIの人がどういうつもりで使ったかはわからんけど
もともとは使い分けるためにNarrativeって言い始めたんだろうけど、もう使い分けてないって感じ。
http://m.game.watch.impress.co.jp/docs/news/20140324_640864.html 必ずしもナラティブ≠一本道ではないけど、
多くの場合、一本道ではなくプレイヤー自身で決断し自分の物語として受け止める的な意味で使われてるのに、
外人は一本道をリニアナラティブとか言っちゃったり。
この記事の後半のNarrative Logosって考え方が、日本で議論してるナラティブの概念に近い。
そう考えると、ナラティブが何かって議論は、本当のロックとは何か、っていう議論に近いな、抽象的で答えがなく、実際のところ意味がないって点で。
朗読する物語って意味もあるらしい 物語の聞き手ではなく、語り手になる訳だ もしくはその両方かも
朗読の例えで言えば すでにある物語じゃなく 自分で物語を創作し朗読する事みたいなもんかもな
どっちにしろ、聞き手としてだけ関わる物語とは区別してんじゃね
ゲームである以上、インタラクティブな要素があるわけで、完全に聞き手になるってことはないだろう。 だから、ストーリーとナラティブを使い分ける必要がない、となってゆえに、海外ではナラティブ議論はもう廃れてるんだろうな。
ストーリー→「作り手の側から(小説、映画的に)語る。遊ぶ側はそれに乗る」か
ナラティヴ→「作り手は場だけ用意して、遊ぶ側に語らせる」かの違いだろ。
で、実際には
>>711 の言うように、作ってみたら
「ストーリー重視と言ってもゲームである以上ナラティヴな面はある」し、
「ナラティヴ重視でもAIなんて未だ存在しないし、作る手間暇の
問題もあるから、ある程度はストーリーを作っておく必要はある」と。
だからそこまで両者に明確な違いが出せるわけではない。
何かもう、答えが出てる気がするんだが。
>>707 一本道でも、180度逆の事をどっちも一本道と言うから
どっちをいってるのかによるよね
海外だとどっちもナラティブと言ってる
作られたお話をその通りに進むだけの議論で分けてるストーリーも一本道だし
一本道を作る為にさまざまな断片をちりばめてそれをプレイヤーがつないで一本の道とする議論で分けてるナラティブも一本道
Narrative Logosの考えだと日本で議論してるナラティブとは違うと思う
日本の議論で言ってるナラティブはどちらかと言うと一本道の事で
その一本道をプレイヤー目線でプレイヤー本位で見る技術で
「王様の部屋の前に鍵がかかっていた」「ここには洞窟が在った」「洞窟の中には鍵が在った」
それぞれをプレイヤーが勝手に発見する
そして鍵を使うと鍵の扉を開けられると言う事を発見する
と言う旧ゲーム的な展開を指してる
Narrative Logosっていうのはどっちかと言うと、ナラティブと言う議論が持ち上がって来た原因の問題側に近いと思う
シミュレートして現実に近い反応をするプログラムを開発しようとしてきた結果
人が物語を読み解きたいと言う欲求を持つのは、その物語が人の手で作られた物だからで
シミュレートしただけだったらもともと読み解きたいと言う欲求自体成立しない
目の前に置かれている金の置物、手にとって見たいか、手に取らないか?
それを試してみたいのは作者の作った、その金の置物を取った場合何をいいたいのかと言うお話を読み解きたいがために出る欲求で
人にこびれば好かれ、人と敵対すれば関係が悪化すると、最初から設定されていて決まっているものを敢えて
好かれてみても、それは最初から知ってる事を再現してみただけで
「物語を読み解いた」にはならない
「ガラスを銃で撃てば割れる」と言うプログラムだと言うを最初から知ってるだから銃で撃つ
そして割る
銃で撃つのは当たり前で、右に在る物を左に動かしたら左に移動すると言う事を分かっていてそれを再現しても読む物語にはならない
「ガラスを銃で撃ったら割れるかどうか分からない」のを試してみて割れるか割れないか知ると言うのだったらそれは物語を読んでいる事になる
銃で撃ってみた→割れた→その結果その先には
銃で撃ってみた→割れなかった→弾は自分に跳ね返ってきて→ゲームオーバー
「読みがい」が在るでしょう?
連投スマンが、ふと「いいえ→そんな ひどい!」や 「○○したら教えてやろう→・うん ・もちろん」を思い出した。
金の置物をとった場合トラップになるのか、すんなり取れるのか? 或る程度その結果を予測できていたとしてもやってみたいと分からない ガラスを銃で撃てばどうなるのか?それもやってみなければ分からない 人に好かれるために人に好かれる事をする それは最初からそうする為にやってるだけで その違い はじめからそうする為にやってるんだからどうなるか分かってる どうなるか分かってるのに敢えてそれをやる だからやってるうちに、やったってもう意味は無い事をしてると感じ始めるきっかけになる
積み木を積み上げて高いお城を築こう 積み上げるのは難しいけど、完全後の姿は最初から知ってる それと似てる
>>712 どっちかっていうと
ストーリー→「作り手は自分の語りたい内容を語る為に、プレイヤーに積極的に自分の語りどおりに行動するよう次の指示を与え強制する」
ナラティヴ→「作り手は自分の語りたい内容を語る為に、物語をこめたパーツの断片を空間にちりばめて隠してプレイヤーが自分からそれを読み解き作り手の言いたい事を知るまで沈黙してひたすら待つ」だと思う
TVのスイッチを押したらTVの電源が入ってもそれは当たり前の事で プレイヤーはそんな事をしたい訳ではない でもTVをつけたら何か隠し扉が開いたり、思いがけない反応が返って来る それなら、ここも調べてみよう、ここもいじってみよう、もっと何か隠されてるかもしれない そう思う訳で そうする事でプレイヤーの探求欲求を刺激して もっと遊びたいもっと遊びたい そういう気にする
こいつ一日中連レスし続けてるんだな・・・ まじの糖質なんだろうか
TVが付いて映像が流れる事が分からない中でTVを付けるって言うのはOKですが TVがつけられるシステムだと言う事が分かってて、その上で出来る事の一つとしてTVをつけるというのはNG 一応 TVがつけられるシステムだと分かっているけど、TVが付いたらなんが起こるか分からないので付けたら隠し扉が開いたと言うのもOK
>>711 そうかもな
ただ「ストーリー」って言葉だけだと不十分な気がする
例えばFFみたいなゲームを指して
「ゲームじゃなく映画でいいじゃん」みたいな論調がまかり通ってるが
実際はそんな事なく、映画にはない何かがあるのに
「ストーリー」って言葉で言い表した瞬間、それを取りこぼしてる事がよくある気がする
言葉に認識が引っ張られて実体から遠ざかる事ってあると思うけど 日本での「ストーリー」もそんな感じがする
要するにこうするとこうなると分かってる事を敢えてやってみても物語を読み解いた事にはならない訳で 思いがけない発見が必要 ここにいけば洞窟が在って、どこに行けば隠れた小屋が在って、そこには何で プレイヤー目線での発見 発見したその一連の経験=プレイヤーの体験談=語り そこに存在する発見をつないでいけば一つの物語になる ゲーム側からの一方通行のストーリーとは、プレイヤーからの発見と違ってゲーム側からの指図で動かされているだけで展開されるお話の事 次はここ行きなさい次はここ行きなさいその通りここでにいったら何が起こってここにいったらこうなる プレイヤーが空間を探索した結果ここにスイッチが在るって言う事を発見した、そのスイッチはこういう理由で付いてると言う事を発見したって言うのはプレイヤー目線の進行 ゲーム側の指示でここにいってこれをしろ、ここにはこれが在るのでここにいってこれをもってきてこれをこうしろと命じられてその通りするのはゲームの提示するお話の進行
実際には日本のゲームも
>>711 や
>>712 の言うとおりナラティブで
その程度や手法の差でしかないのかもな
>>721 昔からDQ派がFFを批判する時の論調、
主人公が喋るから感情移入できない、映画的でゲームである必要がない、っていうのと、ナラティブ議論が混じってるきらいもあるな。
海外のやつもそう言ってるぞ、それ見たことか的な。
ナラティブより > 昔のFF 昔のDQ 非ナラティブ的 > 今のFF 今のDQ かと
で結局ナラティブの定義って何なの?
ゲームナラティブ=ゲームで感じる物語 物語を語るのにゲーム的な部分を利用してゲームで行った事をそのまま物語りにする 簡単に言うと プレイヤーが歩いていると目の前に足が痛むと言う人がいました またプレイヤーが歩いていると足を直す薬が落ちていました その薬を足の痛む人に渡すとお礼として重要なキーをもらえた それで薬をけが人に渡してキーを貰ったという物語を語る と言うとナラティブ的な語り プレイヤーはまず薬を取りに行きなさい(強制)、その後足の痛む人にその薬と交換にキーを貰いなさい(強制) それで薬をけが人に渡してキーを貰ったという物語を語る と言うと非ナラティブの語り
上はけが人を発見したのもプレイヤーで、薬を発見したのもプレイヤー 薬をけが人に渡すと言う事を決めたのもプレイヤー 薬を渡したらキーを手に入れられると言うのを発見したのもプレイヤー 下はプレイヤーは何も決定していない ゲームの指示に従って薬を取りにいって、それをキーと交換した はじめから決まってる筋書き通りたどっただけ
要するに作った人間の、「プレイヤーは薬を渡して、キーを得る」と言う物語を プレイヤー目線で再現する技術で プレイヤーから見ると、「けが人を発見した」「薬を発見した」「薬をけが人に渡すとキーをもらえる事を発見した」と言う断片で現される その断片の語るものがプレイヤー側から見たプイやー自身の経験に基づいた物語り
そうする事で背景を含めた真実味を持った物語を伝える事が出来る そうでない例で説明すると もしもプレイヤーが薬を渡してキーを得るという筋書きの場合 プレイヤーが「自分はそんな事しない」と言ったらそこで背景と食い違ってしまう プレイヤーに意思は無い、言うとおりに行動すればいい、と言えば済むけど 主人公のそういう行動をとる正当性が消える だからプレイヤーに先に進むには、そういう行動をとれば良いと言う事を自分の足で発見してもらう そういう行動をとると先に進むと言う事を発見してもらう すると、それはそういう事をすればそうなる「空間」何だと言う事になる それでその空間でそういう事をプレイヤーのする正当性を作り出す事が出来る 無理強いした場合自分だったらこんな事しないで一蹴される所 「キーを得る手段を自分で発見したよ」と言う状態を作り出す事で「自分がやった」と言う状態にする 自分がやったんだからもう自分だったらこんな事しないとはならない
「ナラティブ」はだから「作り手の言う物語をプレイヤーに伝える技術」 作り手の作ったナラティブをプレイヤーに伝える技術
作り手の作った物語の筋書きシナリオをプレイヤー目先でプレイヤーの行った事として体感してもらう技術
ナラティブはストーリーの事で、ナラティブはプレイヤーからでストーリーは開発者からって事は無い そのゲームや小説の発する物語は常に一つで同じものをさしてる プレイヤーから語った物語を指すんだったらプレイヤーの物語とかプレイヤーのストーリーとか言うはず ではゲームでの議論でどこを違うかと言うと、プレイヤーの感じ方 荒筋として感じるか、プレイヤーの体感として感じるか その違い 結局は同じ物をさしてる
おまえはゲーム製作者の心配をする前に自分の伝える技術をなんとかしろよw キチガイって本当に自分自身が見えないよね
物語を作りたい → プレイヤーを束縛して思ったとおり操ろうとする プレイヤーに自由を渡す → プレイヤーにお話を与えず好きに動いてもらうだけ 今の人はそういう発想だからおかしいんだと思う 本来は「プレイヤーはもともと自由で好きに動いてしまう」と言う事が分かってないと思う 自由に動いてしまうプレイヤーに作った人の作ったストーリーをたどってもらうようにするにはどうすれば良いか プレイヤーが望みの行動をとった時だけ、道を開いて、後はひたすら待つだけ
完全に自由なプレイヤーは舞台の裏まで見てしまう だから、次はここに行けと言っても、プレイヤーはそこに行かないといったらとたんに破綻する だからそこにいった時だけ、そこにいった話が進む それをプレイヤーが学習すれば、話を進めるため自分からそこにいこうとする 逆の視点で見れば、プレイヤーはそこに行けば話が進むと言う事を発見した 言い換えると、プレイヤーの視点での物語りの進行になる
× 勝手にやれば?自由に動いて好きな事やって自分でやった事をストーリーにでもして下さい × 次はここにいきなさい→次は何をしなさい→次は演出 ○ ここにいった時だけこういう話は進む、何をした事だけこういう話は進む、何をするとどういう演出が発生する
お前昔、ひとり企画とかいてっとか名乗ってたやつ?
>>736 いやだからアドベンチャーゲームとか昔からそうだっての
>>740 どういう意味?
主語述語が無いから分からない
そうだってのの「そう」はどこにかかってるの?
今のゲームでは、例えばプレイヤーにここに行けと言って、そこに行ったら次に行かなきゃいけない場所を命じられそこに向かう その命令を聞いてると突然完結してエンディングになる 昔のゲームでは、まずプレイヤーにゲームの最終目的、最終目標を提示され プレイヤーはルールで支配された空間に放たれる プレイヤーはその空間で完全に自由 なので気になった箇所をいじる いじった箇所がルール的に、話を進める条件だったら、話が進む ルール的にプレイヤーはやってはいけない物だったら見合ったペナルティ お話を進める条件を集める、順にたどれる道を発見する事で、お話を進められる と今と昔では根本的に違ってるから昔からって言うのは違うと思う
壊レコ君は、ずっと自分なりのナラティブの解釈を語っているけど それの元となる根拠が無いんだね 自分にとってのナラティブを自信満々に語られても他人には理解できないよ 君は世界ナラティブ委員会の会員か何かなのかい?
壊レコは実社会で会話成立せんだろうな 公共の場で喚いている酔っ払いやマジキチと同じ 完全に自己完結している
>>742 フラグを立てるプロセスはポートピアも逆転裁判もインスタントブレインも一緒だったけどな
>>745 フラグは関係ない
ストーリーの強制感を持ってるかどうかで
問題になっているのはお話の部分
プレイヤーの体験からのストーリーかどうかって部分
プレイヤーはここをいじった、そうしたらどうなった
ここを触った、そうしたらこうなった
そういうのはプレイヤーの実体験で作り手の用意した作り手の伝えたいストーリーで
作り手の用意したストーリーを伝える為にとても遠回りな手段をとる
それは、プレイヤーからさもその行動を起こしたかのように
プレイヤーからその行動を起こしてもらう為に
だからストーリ1ストーリー2ストーリー3を順番に強制すればそれでストーリになる
でもプレイヤーの自分の意思でそのストーリーを展開している訳ではないので
プレイヤーの自分での体験からそのストーリーをたどる為にそれぞれの要素を自分で見つけ出してその結果それがお話になる
それがプレイヤー目線でのお話
そのためには、プレイヤーが自ら与えられた環境を隅々までいじり尽して自分でそうする事を決断するようにもって行かなければ行けない
それはプレイヤーは完全に自由だと言う前提の上で成り立ってる
完全に生まれながらにして自由のプレイヤーは興味本位でゲームの裏舞台まで隅々までいじろうとする
そのときにストーリーを自分で発掘しながら話を進める
するとプレイヤーの体験が開発者の物語そのものになる
自由を与える事だと思うけど
>>743 目的を与えて、その目的解決をするという部分はプレイヤーのキャラで共通の部分なので
目的をどう解決するか=開発者の用意した筋書き=プレイヤーのたどるストーリー=プレイヤー目線での物語り
自分にとってのナラティブより、日本で一般的に言ってる事をいってるだけなので多数派の意見かと
海外でナラティブが曖昧になってるので態々ナラティブ議論として分けたのに海外にあわす必要性は無いから
具体例を挙げてもらえると助かります
キチガイうざいから黙って
壊レコは放っておいて。
ナラティブの理想形は、あらゆる行動に因果関係があって、
しかもどういう反応が返ってくるか100%読みきれないという意味において、
現実社会そのものなんだろうけど。
多少のランダム性を持たせつつも、結局、いろんなパラメータを用意して、
その条件にあわせて処理分岐してイベントなりを起こすコンピュータゲームとは相性が悪いよな。
>>3 でスカイリムの例で、自分がドラゴンを倒そうとしていたら、巨人とバトルをはじめて、
っていうのは確かに計算されていないイベントではあるけれど、
そこの「物語」を感じるか、って言ったら、それはプレイヤに依存するし。
同じようなケースで、GTA4では街の住人同士がいざこざをおこして、場合によっては、
警察がからんで逮捕劇に発展したりするけど、そこに「物語」を感じるか?って言われると?だ。
長くなったが、ストーリーをもつゲームでは、誰もがナラティブ、と感じるゲームを作るのは難しいんだろう。
戦略系SLGなんかのほうが、プレイヤーそれぞれの物語を作れるんじゃないかと思うな。
例えば、Europa UniversalisやCrusader Kingsなんかは、
有力国と同盟を破棄した瞬間、オーストリアを筆頭とする神聖ローマ帝国に喧嘩を売られたり、
バカな当主が世継ぎになったら、弟から国王は俺のものだと宣戦布告されたり。
ゲームから詳細な物語が提示されない分、
プレイヤ自身で物語を語らせやすい、というか補完しやすい、というか。
※この場合、ゲーム側から物語をプレイヤに提示してないから、
>>208 の岩崎啓真がいうナラティブの要素は満たしていないが、
そもそも、ナラティブをこう解釈しているのは岩崎だけなので無視する。
いずれにせよRPGで誰もがナラティブを感じるゲームってのは難しいだろうな。
ストーリーと言ってたものをナラティブと言い換えたのだから ゲームで言うナラティブは作った側の人の語るストーリーの事ですよ ナラティブの強さは作り手の発する物語の強さ >そこに「物語」を感じるか? 物語とは語り側の発する物語ですから、意図してそういうストーリーを出しているのなら プレイヤーがそのストーリーを読んだ時、ストーリー性を感じる でも、最初からこうするとこうなる可能性を持ってる事を認識していてたまたまそうなったって言っても物語ではないので プレイヤーそれぞれの物語とはプレイヤー視点で読み解いた、開発者の作ったお話の事で ここをこういじったらこういうお話が流れてきた それだけの事
岩崎さんの言ってる事は8割正しいと思う その他の人も岩崎さんと、まー同じような事をさしていってる
物語を語るのに向いてるのはRPGだよ その他のジャンルでも良いけど RPGは、物語を伝える為のジャンルともいえる その物語が一方通行直線化した事に対する疑問がナラティブの議論
時々違う事もいう
「Narrative Legos」見たいな考え方はここのスレのいってる事に近い けど、それでは濃厚な物語は感じられない シミュレーションしてるだけだから 読み解いた濃厚な物語
物語は読み解いて読む事で初めて濃厚に感じられる シミュレートしてるだけでは、やる前から予測できるし、予測した事をその通り再現しても物語を読み解いた事にはならない 強い物語を発してるとはいえない むしろ発する物語りはとても薄い
他人事で主人公キャラのぺらぺら言う台詞やキャラ同士のやり取りは自分の実体験ではないので聞き流される だから、そのストーリーそのものをプレイヤーの実体験に置き換えてしまう プレイヤーのじかに感じた体験は記憶にきちんと焼きついて残る
シミュレーションするとして、プレイヤーのやった事は物語として記憶に焼き付けられるか?と言うとそれもNO 結果に向けてそうなるように努力する でもその努力の内容自体は漠然としたもので聞き流してしまう程度の内容 何故ならばその過程に重要性が無い為 目をひきつけるける重要性は無いから無意識でも流すし記憶にとどまらない
何も無い平原を南にずっと進んでいったらその結果、未知の洞窟を見つけました と言うのは記憶に残るけど 「何をしたら起こった」と言う記憶 「何をする」というだけは記憶に残らない 自分はこっちを選ぶみたいな 自分はこっちを選んだ結果こうなった、ってまで言ったら記憶に残る
ドラゴンクォーターってゲームがあったな 主人公の置かれる絶望的な状況を Dカウンターってシステムと高難度で疑似的にプレイヤーの前にも用意して 主人公の心境とプレイヤーの心境を重ねて ドラマチックな物語を当事者的に楽しませるってゲームだった 従来ファンから不評だったけど
似たような路線でベイグラントストーリーてのもあった 物語を「これはゲームだ」と例えたり 主人公の姿勢を「まるで物語の人物を眺めてるようだ」と ゲームにおける主人公とプレイヤーの関係に例えてたり 敵が段階的に強くなるとかのゲームのお約束にも物語的な意味を与えたり ゲームシステムも、主人公の職業であるリスクブレイカーって名の通り いかにリスクを生かすかってシステムにしたり 物語とゲームプレイを重ねようとしてた 物語も、プレイヤー自身が何を信じるかって話で、話の決着はプレイヤーの主観に委ねてた
それからシミュレーションで起こる諸所の出来事は別に意味合い(=物語)を発してる訳ではないので シミュレーションで起こる出来事はただの結果と言うのが妥当かと 〜した結果こうなった、または、〜した結果今度はこうならなかった 要するにどっちかに転んだだけで、どっちでも良いって事で 結果そのものは特に意味は無いし、こめられた意味がなければ物語を発してないっって事に 強いか弱いかに拘らず意味を発しているのは、多かれ少なかれそこにそれの発する伝言性がこめられた場合だけ シミュレーションの結果はそうなったと言うただの結果なので結果自身には何の意味も無い 伝言性とか発する意味は特に無いので逆の結果になっても何も違和感も抵抗も無い 「こういう行動をとったらこういう結果になった」と言うのは逆は無い訳で 逆でも良いとなった瞬間発してる意味合いは消えてしまう だからプレイヤーのやった行動に対してゲーム側がそれを結論付けする事で映画のような感動的なお話を作れます プレイヤーが開発者の意図してる行動をとった場合→キャーぱちぱち、と褒めて賞賛するような演出で結論付けする 間違った行動をとった場合→それを結論付ける悪い演出を すると、これはいいこれは悪いと言う物語を発します これは感動的、これは怖い思いをした、これは怒りを買った プレイヤーが行動を起こす→ゲーム側が結論を返す 警察の前で犯罪を犯した場合→つかまる=悪い 警察の前で犯罪を犯さなかった→何も無い=よい→次に進む だったら意味合いを発してるけども 警察の前で犯罪を犯したら捕まる だったら犯罪を犯しても犯さなかったとしてもそれはただの結果で何の意味合いもこめられていない だから物語を感じない この場合 犯罪を犯しました→つかまる 犯罪を犯さなかった→つかまらない どっちになっても別に意味は無い つかまるか捕まらないか勝手にして下さい 自分で勝手に判断してね つかまるのいやならつかまらなければ良い プレイヤーにそれを投げたらプレイヤーは物語(ナラティブ)を感じない
ベイグラントに続いてFF12は、「プレイヤーの主観に委ねる物語性」をさらに強めた内容だった 同じシーンがプレイヤーによって全く別の意味になるって作りが物語全体に散らばってる あと主人公に対する「お前はどうしたいんだ」って問いかけはプレイヤー自身への問いかけでもあって 主人公とプレイヤーの物語を重ねようとしてる 主人公がプレイヤーの思惑越えて勝手に答え出さないよう、主人公がどうしたいかをあえて描いてない これも答えはプレイヤーに委ねてる おそらくそういう楽しみ方に食いつかない映画的な楽しみ方を望むFFファン向けに ヴァルフレアを立ててもう一人の主人公としたんだろうけど それが、「主人公の目的を描かない」ってのと合わせ技で、 主人公の空気っぷりを決定的にした気がする
FF12は物語が印象に残らないってよく言われるが、そうした作りに依るところが大きい 物語をプレイヤーの主観に委ねてるせいで、ある意味半端にならざるを得ないんだろう 松野自身も言ってるけど こっちの主観次第では、しっかりドラマチックな話なんだけど
サガフロ2とかも、ゲーム的にはあれだがナラティブとしては興味深い 登場人物の物語を順に追わせるんじゃなく、 歴史の一場面を描くエピソードを好きにプレイさせて 歴史の全体像をプレイヤー自身に描かせるって内容だった
物語をゲーム側で用意するんじゃなく、物語の大部分をプレイヤーに生成させる試みもあるけど 今のところやっぱり感動的なドラマを描くには前者に頼る方がいい場合多い ラスアスもそれでナラティブ賞取ってたし、それでいいじゃんって気がする プレイヤーが生成する方向のゲームだと ワンダがいい線いってたんでトリコに期待してたんだが、出る気配ない
逮捕される事がプレイヤーから見て分からない場合 逮捕されるというっぶんそのものが発する意味になるので 良いか悪いかは不要になる 「逮捕される」が伝えたい伝言 要するにどのように作者の伝えたい物語を伝えるか?
ナラティブは今までストーリーと呼ばれていたそれだから その事を念頭において考える事は必要 ナラティブ=ストーリーの事
画の出している物語を感じ取る ゲームの出している物語を感じ取る 映画の出している物語を感じ取る 小説の出している物語を感じ取る 全部一緒
アグロが落ちたとき、多分多くのプレイヤーは喪失感味わったと思うけど それって多分アグロとの信頼関係みたいなものを感じてたからで それはカットシーンとかじゃなく何気ないゲームプレイの中で生まれてたものだったと思う 結構触れられないけど、AIでドラマ性を生んでる例としては、 このゲームは外せない気がする
AIでドラマを描いてるようでも 実際は台詞で描いてるのも多いけど アグロはそれすらないからな
まさか連レスきちがいが二人いるのか?w こんなきちがいを生み出してしまうなんてゲームってのは罪深いもんだな ナラティブwの前にリテラシー身に着けたら?
777 :
ゲーム好き名無しさん :2014/06/04(水) 13:57:55.50 ID:YziYWCig0
いや俺は参考にしている 続けてくれとても助かっている
ID:22HlZesZ0 少なくともこっちのバカは見かけたら即NGでいい
「既存のゲームと照らし合わせてナラティヴを語る人」と 「ナラティヴこそゲームのあるべき姿だと言う人」2人いるのかな。 どっちも一人で話すだけで、話し掛けても答えない感があるけど(笑)。 ゲームって、「プレイヤーが働きかけたらそれに応答するもの」であることが 大前提だと思うし、そのしくみを作るのが好きな人でないと 作れない気がするけどね。
ナラティブ=ストーリーならなんでわざわざストーリーでいいものをナラティブに言い変えたの? 馬鹿だからなの?
ビデオゲームの黎明期ってやれることが少なくて単純なものしかなかったやん。 インベーダーにしろ、ドンキーコングにしろ。 それでとってつけたように、宇宙人の侵略だとか、悪いゴリラから恋人を救うと設定はあったものの、 ストーリーっていうほど大袈裟なものではなくて、あくまでゲームプレイがメインで。 で、時代の流れとともにゲームの理由づけのストーリーがどんどん厚くなってきて、 FFに代表されるスクウェアRPGのような物語を知るためにゲームをプレイするってスタイルのものが出てきた、と。 物語に没頭できればいいんだけど、単純にゲームを楽しみたいと思ってる人からすれば、 なんのためにゲームをプレイしてるのかわからなくなってる。 ゼノギアスのDISC2、通称エヴァ25・26話は果たしてゲームなのか?みたいな。 ゲームにおける物語なんて本来ゲームの味付けの要素であって、メインはゲームそのものだろ、って考えが一方で常にあり、 ゲームプレイそのものが体験として面白いものであるべき、 それを言葉で表すとナラティブってことなんだろう。 ナラティブってのは、a discriprion of the events in a story、であってストーリーじゃなくて、 その中の出来事=ユーザー体験に肝がある、って考え方だから。 そういう意味で、ストーリーとナラティブは違うってのは理解できる。 必ずしも賛同はしかねるが。
>>779 ここは淡々とナラティブについて語るスレッドなのでナラティブの事を書き込むのは当然かと
ゲームは「プレイヤーが働きかけたらそれに応答するもの」でも作り手から見て反応を返すのと
受け手から見て期待する返る反応とは違うと言うのと
その応答はストーリー的に応答するかどうか?と言うのと
その他
例えば、武器で敵を倒しながら進む、ストーリーはそれとは無関係に完全に別に進む
そうだと、プレイヤーの働きかけで敵を倒す、仕掛けを謎解きする、と言う応答は起こっても、ストーリー的に何をやっても意味は無いと言う事で
>>781 ただの体験だけだとゲーム体験の事をさしてゲームの物語にはならないので
体験を通して伝える物語りでは
シューティングゲームで背景の移り変りで物語を経験できるって過去の書き込みに乗ってるけど
もしもその背景が白紙でシューティングだけだったら体験を通して物語を感じられるかというと違う
話を進める、その結果背景が変化する
だから物語をそこに感じる
だから
ゲームに対するストーリーの乗っけ方の事
プレイヤーはこういう行動をとりました >>> それに対してゲーム側からプレイヤーの行動に対する解説、語り
ゴリラがこういう行動を取りました >>> 恋人を救いました
プレイヤーがこうする事でこういう反応が返りこういう事をする事で話が進む
ゲームに乗っていたお話(例えばゴリラの恋人を救う)それをストーリーと言っていたけれど
ゲームは時代を進むと共に、ストーリーの伝え方をプレイヤーを直接指図して操作強制する事で伝えようとするようになった
元はと言うと、プレイヤーのした行動で、それにストーリーがふかされていた
例えばプレイヤーが前進する事=恋人を救う事
そうだったのが、恋人を救う為にプレイヤーはこうしなさい、に変った
プレイヤーがたまたま見つけたお城、その中をたまたま探索して、その結果思いがけない事が起こった
それがゲームでのもともとのストーリー表現で
新時代になってからは、こう
こういうストーリーだからプレイヤーはこのお城に行かなければ行けない、次に探索して、この結果を導かなければいけない
に変化した
それがストーリー
だからナラティブはゲームに没頭するより物語に没頭する為のものとも言えるかと
正確には、今のやり方で乖離して共感できないストーリーを、ゲームと一致する為の技術
プレイヤーはこういう同をとった結果プレイヤーはこういう結末を得た だったらナラティブ
こういう結末にするためにプレイヤーにこういう行動をとってもらう だったらストーリー
要するにストーリーの表現の仕方が無理やり直線的か、プレイヤーの行動に依存するか
要するにストーリーの表現の仕方が無理やり直線的か、プレイヤーの行動に依存するか
もっと簡単な言葉で済んだ ゲームプレイがストーリーと一致していないか
逆?ゲームの提示するストーリーが実際のゲームプレイと一致していない →ストーリー 一致するためには? →ナラティブ ゲームの提示するストーリー在りきで
>>781 >ゲームにおける物語なんて本来ゲームの味付けの要素であって、メインはゲームそのもの
ダークソウルとか理想的だったな
味付けどころか、下手な物語押しのゲームより遙かに凝ってんだけど
リトライポイントや復活アイテム、ボスやマルチプレイの仕様とか
ゲームシステムの一つ一つがいちいち、人間の精神の在り方のメタになってて、
興味あれば、ゲームを通して現実のプレイヤー自身の問題として物語を当事者的に楽しめるし
興味なくても物語の都合に邪魔される事なく攻略を楽しめる
敵対NPCやマップのオブジェクトやアイテムテキストといったゲーム攻略のパーツにも
いちいち物語性持たせてて
興味があれば情報の断片からプレイヤー自らが物語を語れるようになってるし
興味がなければスルーしていいっていう
ゲームが語る物語が薄いってだけで、プレイヤーが語れる物語はものすごい濃かった
ゲームが語る物語が濃いのがナラティブです ゲームが語る物語が濃いのがナラティブの強いゲーム プレイヤー目線で見てゲーム側から語ってる物語を感じ取れるのがナラティブの強いゲーム さまざまな断片から情報を読み取る事が出来ると言うのは、ゲーム側から物語を発していると言う事で
風ノ旅ビトは、あえて攻略性とか競技性といった いわゆる「ゲームゲームした楽しさ」をなるだけ排除した上で、わかりやすい娯楽を作れてたと思う カットシーンとかテキストとかほぼ使わず 砂漠や深海といった直感的に孤独を覚える空間の中で 名前もわからない誰かと、ゲーム的な損得の関係じゃなく 心理的な関係を築く暖かさみたいなものを 音楽と映像と操作を合わせる音ゲー的なグルーヴ感の中で楽しませるゲームで これはこれでゲームらしくてアリな気がする
壊レコのは臭えだけで見る価値もないオナラティブだな
プレイヤーが語ったらゲーム側からは何も無反応のゲームになる
昔のゲームでストーリーとされてきた物=ナラティブ (洞窟に行ってお姫様を助ける等) 今のゲームでストーリーとされてきた物≠ナラティブ (洞窟に行ってお姫様を助ける等) 同じ内容のお話でも運び方は違う 同じ内容でも体験から語るか、台本通り動いてる役者に過ぎないか
>>790 そのゲームも語ってるのはゲーム側からで
色々な事の起こるそれは、ゲーム側からの主張
プレイヤーが「した」場合ゲーム側から発する主張
ゲームの語る物語をプレイヤー目線で語れるのがナラティブゲーム
ゲームの語る物語をプレイヤー目線にすると乖離するのはストーリー
>>779 いや反応くらいする
野次とキャッチボール不能じゃなければ
連投しまくってるの、ひとり企画さんでしょ? できるだけ自分のエディタでまとめてからレスしてくれよ こっちも反応したいけど読む量が多すぎて追い付かないよ
ごちゃごちゃ言葉を弄ってるだけで中身はからっぽ 二人の壊レコは800レス近く費やして事実上何も語っていない ただキモいだけw
>>797 うん、君はちゃんと会話してくれてるかな。
もう1人の長レスの人とは、どうしても会話が噛み合わない。
「プレイヤーの行動に応じて応答が違うのがナラティヴの持ち味」
という議論なのに、そのナラティヴを語る人が相手に話を合わさず
一方的に語るだけというのが、何とも。
今まで食わず嫌いしていたドラクエを先日初めてプレイしたんだけど。(とはいってもSFC版だけど。) 本当は老人に雨雲の杖が欲しかったら銀の竪琴を手に入れろ、と言われて銀の竪琴を取りに行くことを想定しているんだろうけど、 若干、手詰まりぎみで、しらみつぶしにダンジョン攻略してたら、その老人に会う前にすでに銀の竪琴を手に入れていたという。 あと、レミーラが松明効果だと知らなかったため、常に松明を携帯していて、 松明をケチるため、ローラ姫がいる洞窟は道なりに歩いて松明を照らさなかったから、 だいぶローラ姫に気がつかず、手詰まりなうちにレベルだけが上がってしまった。 ローラ姫に気づいた時にはレベルが上がりすぎて、ドラゴンも竜王も楽勝というしょっぱい結果になった。 これはこれで楽しかったが、それは謎を解いた達成感であり、 自分なりの物語を歩んだことに対する楽しさではない。 こういうのをナラティブと言っていいのか、疑問に思う。 竜王を倒す目的が上手くいかずに右往左往しているうちにレベルが上がってしまい、 竜王に楽勝してしまう結果は、ナラティブ的に正解なのか?
虹のしずくを手に入れるために必要なアイテムをとる順番は決められていない。 それはユーザーが選択でき、ゆえにプレイヤーそれぞれの物語がつくられる、すなわちナラティブだ。と説明されてる。 確かにそれはその通りだが、 雨雲の杖を手に入れるために、銀の竪琴を手に入れようとして入手する場合と、 手詰まりぎみで、たまたま入ったダンジョンで銀の竪琴を手に入れてしまった場合、 これは意味合いが大きく異なる。 もっと言えば、後者の場合はそこに物語を感じない結果になってしまう。 だけど、物語を感じるかどうかは別として、先にすすむためのピースを獲得したわけで、 ゲームとしてちゃんと面白さを感じとっているし、ゲームとしての達成感は得られる。 ナラティブ議論でDQはナラティブ的とひきあいに出されてるが、 DQは本当にナラティブ的なんだろうか。 むしろ、ナラティブを説明するのにドラクエをひきあいに出すせいで、 ナラティブが何なのか、わからない状況を生み出しているんではなかろうか?
>>801 そのつまらない過程や展開になったことに対する
プレイヤーの(独特な)思いや言動に対して
ゲーム世界が(独特に)反応や展開したらナラティブっぽいよね
>>802 ナラティブ的にいうと「雨雲の杖を手に入れるために、銀の竪琴が必要だったんだな」
と言う物語を発している
どの角度から見ても、「雨雲の杖を手に入れるために、銀の竪琴が必要だったんだな」と言うナラティブを発している
もしもたまたま入ったダンジョンで銀の竪琴を手に入れた場合でもその物語性は消えない
それを逆に作った人は認められなければ、プレイヤーを操作しようとする
例えば、必ず次にプレイヤーのする行動はこうで、その次はこう、ここで感動する
見たいに全部決めてしまう
>>801 正解で良いと思う
プレイヤーを(完璧に)制御しようとした結果強制感を感じるようになって乖離してるんだから
竜王を倒した時→こういう展開、何々をした時→こういう展開物語
そういうストーリーだと言う事を自分で感じ取った→ナラティブ
自分での目線で展開された物語
ストーリー(非ナラティブ) → 特定の角度からしか見れない物語(見る角度を強制して初めて物語になる) ストーリー(ナラティブ) → どの角度から見ても物語は一定している(自由な角度から見てどこから見ても物語りは一定)
調べてみたけど銀の竪琴って便利アイテムみたいだから、それを差し出なきゃいけないって所がポイントになるんじゃない。 先に取っていて使い込んでるってのが開発者の想定だったとか。
ドラクエは初期は、今の和RPGと文法少し違ってたよな パラメータ成長するシステムと、少年の成長物語 マップを探索するシステムと、竜やアイテムを探す冒険譚 ゲームのヒントとしての村人会話で語るドラマ RPGのゲームプレイと物語が割と一体になってた
堀井も確か、競技的な意味でのゲームというより インタラクティブな物語を目指してるみたいな事言ってた気がするけど 4でAIでナラティブめいたものを表現しようとしてたりもしたが 時代が早すぎたのかクリフトにイライラするだけっていう ムービーゲーになったとか言われる最近のドラクエも、 ゲームと物語の親和性みたいなものにはそれなりに意識的な気がする
コマンドバトルも主人公が命令するって体裁にして プレイヤーを神の視点に置くSLG的なゲームとは区別してる ポケモンとかもその形式で、戦闘画面をプレイヤーの目線と合わせてるのも共通してる ドラクエは8あたりから変わったけど その辺はもうお約束って事でスルーしてるRPGも多い 物語は主観視点なのに、ゲーム部分では俯瞰的だったり 逆に物語は俯瞰的なのに、ゲーム部分は一体感あったりする
医療とか広告の世界だとナラティブってもう新鮮さゼロの用語だけどね
戦場のヴァルキュリアは、プレイヤーの立場の一貫性をしっかり抑えてたな SLGの俯瞰的なコマンドバトルや、アニメで語る俯瞰的なストーリーテリングに合わせて 戦闘画面やシステムメニューを本の中の出来事として俯瞰的に見せてる いいゲームはそういう所まで気を配ってる事が多い
>>803 そう思う。
もちろん、DQはそういうのを想定して作ってるわけじゃないから、それをもってダメだと言うつもりはないけど。
>>3 のドラクエの例って、すでに虹のしずくの入手の仕方を知ってる立場から、
入手までの仕方が色々ある=そこに人それぞれの物語がある、ナラティブだと言ってるけど、こじつけっぽいんだよな。
制作側も入手にいたるプロセスに試行錯誤してもらいたいという意図はあっても、
そこにプレイヤーそれぞれの「物語」を感じてほしいっ意図はないだろう。
あれもナラティブこれもナラティブ 自分のズリネタを屁理屈で持ち上げてるだけじゃん 壊レコの押しつけ自論は論理的に完全に破綻している オナニーサルいい加減連レスやめろ
プレイヤーそれぞれの物語が生まれる構造ってのは メディア論にもなってくる気がする マイクラとかのコンストラクション系ゲームは 自分の作品を見せる楽しさ、誰かの作品を見る楽しさが ゲームとプレイヤーの間のやりとりを越えて、プレイヤー間のやりとりとして広まるゲームで つまり自己表現の一種って事で 一方向的なテレビと参加型のネットみたいな話と同じものなんじゃないかと思う それと同じで、自分だけの解釈や体験が出来上がるストーリーテリングやゲームシステムってのは そういうインタラクティブな楽しさのためにあるんだと思う
色々と解釈出来る難解さとか、いろんな攻略法とか、普通気づかないような小ネタとか そういうゲームって、今でもネットでプレイヤー間のやりとりあったりする 例えばTESとか、こんな変な事があったとかを書き込むスレが立つほどで、 それを見たり書き込んだりすんのが楽しい そういうのはやっぱ、物語や攻略を開発側が限定するゲームじゃなかなか生まれない ネット環境の普及とともに、そういうプレイヤーの自己表現の欲求を ゲームに取り入れる流れが強まってると思う
例えばMGSがオープンワールド化した狙いも そういう流れを汲んでの事だったと思う いろんな攻略の仕方が出来るようにして、ソーシャル要素と連動させて 自分が発信者となれる楽しさを高めようとしたんだと思う ナラティブって、そういう側面も含んでる気がするな まあプレイヤーそれぞれの攻略法に どこまで物語的な意味を与えられるかってのとのは別の話だけど
MGSらしい無駄に詰め込まれた小ネタと合わさって結構いいものになりそうな気がする ただ従来風の、与えられたハードルをいかにうまくクリアするかって文脈じゃ あの手のゲームは半端に見えたりする GZもそういう捉え方結構多かった気がする
マイクラやシムズでお城や豪邸を建てる、っていうのはゲームの持つインタラクティブな楽しさではあるけど、 ナラティブとはニュアンスが違うよな。 ナラティブってゲームの世界観のなかで、プレイヤそれぞれの経験・物語を感じるというイメージがあって、 上手く言葉では表現できないけど、 プレイヤーの経験や感情がゲームの世界観でおさまって完結するのはナラティブだけど、 その経験とか感情がゲームの外側に出てしまって現実世界に絡むものはナラティブと違う気がするな。 マイクラでお城を作るのは、現実世界におけるプレイヤーのセンスとかに大きく影響を受けるから、 ゲームの中の経験ってのとは違うんだよな。
そういう意味で、ドラクエの虹のしずくを手に入れるプロセスって、 現実世界のプレイヤである自分が、今行ける範囲で何か見落としはないか?って試行錯誤してるんであって、 ゲームの中の物語ではなく、現実世界の自分が現実世界の考えで行動しているというか。 こういう試行錯誤もナラティブだ、と言われてしまうと、 じゃあ、スーパーマリオでハンマーブロスのところをかわそうとプレイヤーが試行錯誤するのとどう違う?それもナラティブなのか?ってなってしまう。 オブリビオンやスカイリムで人を殺しまくってたら、暗殺ギルドやつが接触してきて、そっちの道に進むとかなら、 あくまでゲームのなかで完結する物語だからわかりやすいナラティブだと思うけどね。 ゲームの世界で行動したことに対し、ゲームのなかで答えが出るって意味でね。
ナラティブにしかない楽しさって訳じゃないだろうけど ナラティブが持つ楽しさの一つじゃね 例えば朗読する文学の事もナラティブと言うらしいけど そこには、声の抑揚やら、滑舌やら、声色やら 語り手の個性を発揮する楽しさがあったりするんじゃないか 同じ事がゲームにも当てはめられる気がする
試行錯誤の結果に物語性がないとナラティブじゃないってのは 確かにそうだな
ゲーム内容と物語を重ねることで プレイヤーのゲーム的な行動と 物語上の人物としての行動を重ねようとするゲームもあるな 例えばファークライ3は ひ弱なシティーボーイがサバイバル繰り返すうちに暴力性を解放させて タフな戦士になっていくって話だったが それがFPSを遊ぶプレイヤーの心境と重なるようにしてた
ピクミンとかは、ピクミンへの感情移入を誘って ピクミンを死なせまいとする物語的な感情と ゲーム的な試行錯誤を重ねてる
アサシンクリードとかもそうだな 中世世界を舞台にした暗殺者の物語にするんじゃなく あえてゲームをシミュレーターとして楽しませてるんだろう
>>820 悪行していたら、そっちの道に進む
いい事をしてたらいい人になれる
そういうのは当然の事で、物語ではないと思うけど
驚きと発見は無い
だから、語りも無い
自分の進みたい道に進んだだけだと思うけど、自分がそうなる事を知らなかったら物語にもなるのかな?
プレイヤーから見た時作品側から訴えて来る物語を物語と言うんだから
自分のそうやろうとしてなった事は物語に入らないと思う
そっちの道に進もうとしてそっちの道に進んだ
仮にそれを物語の結末と見るにしても発してるナラティブは薄いと思う
際立った意外性偶発性は無いと思う
悪人になる為に悪行を積み重ねていたら犯罪者になったって僅か数時間のやった事でさまざまな冒険をしたと言う気になりますか?と言ったらNOかと
やった事は、人を殺しただけでしょう、その結果犯罪組織に入ったと、それだけ
これをナラティブに溢れたゲームか?と言えば疑問だと思うけど
ちょっとした事で直ぐ結果は出るって言うならそれが無数に詰め込まれていればナラティブに溢れたゲームになれるか
こいつにかかると全ゲームがナラティブだなw 峻別に使えないならそんな概念必要ない
>>813 ところで、プレイヤーそれぞれの「物語」とは物理的に複数のルートを選べると言う事ではないので注意は必要
一つの物事に対して読み手それぞれの視点で違うって意味
どんな小説でも読み手の数だけ解釈は違う
ナラティブは単に物語と言う意味なので
ゲームナラティブはゲーム(開発者)の発する物語、またはゲーム(開発者)の自己主張の事
小説のナラティブは小説の発する物語、作家の自己主張
画のナラティブは画から読み取れる物語
ナラティブな画=物語を感じ取れるような動的な画の事
ナラティブなゲーム=物語を感じ取れるゲーム
で読み取ってるのは(語っているのも)、「自分」、「見てる人」、「視聴者」、「プレイヤー」、だからプレイヤー目線での物語り
プレイヤーは何も分かってないけど、読み取ってないけど、一方的にシナリオは流れて来るなら物語を感じないけど、物語にはなってるからプレイヤー目線ではない物語
だからそれと区別する為に出てきた言葉
物語(情報)は何も流れては来ないけど、プレイヤーが勝手に動いてるだけなら物語性無し
タイプ別にすると
・ゲームの語る物語をプレイヤー目線で語れるのがナラティブゲーム
・ゲームの語る物語をプレイヤー目線にすると乖離するのはストーリー
・ゲームからは何も特定のストーリーを語ってないけど、プレイヤーはゲーム体験だけしてるのは物語性無し
・プレイヤーだけが物語を語ってる場合→プレイヤーが一人自己主張してるだけ
具体的には
キャラ「自分はこれをするんだ」(プレイヤーはこういう行動をしなさい)
と言うとキャラと言う他人を操作して事になるけど
キャラは無言で、ここ、この場所、この行動は「こういう結果を返されるんだ」
プレイヤー視点で見ると、「これをすると」→「こういう結果」
要するに、プレイヤーの行動はキャラの行動でキャラの行動に話をつけた事に
そう作るとそれなりに見えます
>>829 >・ゲームの語る物語をプレイヤー目線で語れる
ってのは具体的にどんなことなの?
その「語る」ことが
ゲーム内に循環や完結すると
>プレイヤーそれぞれの「物語」とは物理的に複数のルートを選べると言う事ではないので注意は必要
と矛盾するし
ゲーム外に出ていくんだと
で「ナラティブ」って概念がどうしたの?で終わるだけだし
一つの話を伝える伝え方 一つのお話を伝える時、その話を話の通りプレイヤーを動かして操った場合 プレイヤーはその話の筋をたどるけど、自分の体験にはならない ので、どうやったらそのこっちで作った話を受けて側の自分目線で自分の事のように体感できるか? を考える それがナラティブの技術 そのためにはどうすれば良いか?と考えるところから話は始まる
例えばプレイヤーが夫を刺し殺すと言うシナリオを作った場合、どうやったらプレイヤー自らが夫を刺し殺した気分になるか? どうしたらプレイヤー側から自分がそういう行動をとったかのように見えるか?
そんな需要や必要性もあるのか
プレイヤーはただ命じられてるだけだから、プレイヤーにとって話を進める事は「やらされてる」と感じるので ゲームの本質とゲームのストーリーを一致するためにも必要な技術と
835 :
ゲーム好き名無しさん :2014/06/08(日) 06:53:32.56 ID:UvzDYRzq0
>>832 その夫をスゲームカつくキャラにするとか。
そういうやり方で作ってきた結果乖離したと言う経緯を持っているので ここで一方的とされてるゲームでとかで、殺意を煽るようなキャラを出してそれを殺す事を強制する、と「自分はそんな事しない」となる そのプレイヤーがどう思ってるかは人それぞれで誰にも分からない訳で もしかしたらニコニコしてる夫に対して殺意を持ってるかもしれないし、悪い夫に対して恋愛感情を抱いてるかもしれない
>>823 FARCRY3にナラティブを見出すなら、RPG的な成長要素もだけど、
それよりはあの島で生きていかなければならない、って設定と世界観が強く支えてると思うな。
ナラティブって意味でいけば、オープンワールド系は(クエストはありつつも)、
基本的にその世界で生きていく、生活するって補完ができる人にしか向かないジャンルだし、
プレイヤーが個人の体験・物語は作れる、というか
途中で送信しちゃった。 結局、自分でイメージを補完していける人以外は面白さを見出しにくいタイプのゲームだ。 そう考えるとナラティブが強いゲームは人を選ぶという感じがするな。通ウケはするんだろうが。 少なくとも日本で、ナラティブを追求したゲームを作ろうといたとして、 非ナラティブの究極であるスクウェア系RPGのFF6/7やゼノギアス、クロノクロスらへんより支持を得られるゲームって想像がつかない。
たしかに日本だとあんまり食いつき悪い気がするな GTA5なんかは、オープンワールド系でももう少しわかりやすいものを提示してたと思う マイケルの家族のために良き父親になるって物語が、マイケル操作時のプレイヤーの行動を善人に補正したり 逆にトレバーの善悪の基準がぶっ飛んだ物語が、トレバー操作時のプレイヤーの行動をいつも以上にはっちゃけさせたりして プレイヤーのイメージに丸投げするんじゃなく、プレイヤーのイメージを促してる
マスエフェクトやラスアスみたいな落としどころなら キャラをアニメ風にすれば結構受けるんじゃないか
>>836 だからもっと間接的に命令する
自分からそれを選択するように
単純に例を作ってみると
例えば、@夫を殺さずにいたら不幸な結末を迎える
A夫から逃げようとしたらまた別の不幸な結末を迎える
家の花瓶を見つける
B花瓶で夫を殴りつけてみる→夫は生きていて夫に首絞められて殺される
キッチンで包丁を見つける
C1回夫をさす→生きていて自分が刺される
D3回夫をさす→次に進める
見たいに間接的にそうするしかない状況、別の事をしようとするプレイヤーにどうやってもそれしかない状況を作る(そうする事でだけ打開できる道を自分で発見するように仕向ける)
と、自分の意思でそれをやり遂げたと言う関係図を意図して作れる
プレイヤーはシナリオどおり行動する訳じゃない(プレイヤーは自由に動いている)という事を考えれば、他の事をしようとした時を想定できる シナリオに反する事を想定して、それを出来ないように、またはそれをやると失敗するようにする そうやってストーリーを誘導する シナリオに逆らうような行動の芽を全て摘んだら自然とプレイヤーはシナリオどおりにしか動けない 洞窟やお城を自分で発見するまで待つというのと逆のパターン
特定の条件を満たすまで話は何も進まないけど特定の条件を満たした場合話は進む その場合もプレイヤーは必ずシナリオどおりに自分から進む 逆にさっきみたいにプレイヤーが興味津々でシナリオから外れようとするような場面では 敢えてシナリオから外れようとした場合、それを出来ないと暗に伝えてプレイヤーの行動を修正して導かないといけない
プレイヤーは自由に行動すると言う前提に立って考えれば、プレイヤーの行動を禁止するルールがなければそれをやろうとしてしまう 「それをやろうとしてみる」事が出来ないという事が乖離の原因の一つなので プレイヤーをさえぎる川や谷がなければプレイヤーはどんどん先に進んでしまう 川や谷がさえぎればどうすればその先にたどり着けるか自分で考える その答えは開発者の作ったシナリオ プレイヤー自ら開発者の作った筋書きを見つけてたどる それはプレイヤーの目線で見る開発者の作った物語
ホント壊レコは同じことしか言わんな もうスレも終わりに近いんだが、ゲームより人生見直したら? 一度でも生産的なことしたことあるか?
壊レコ的にはたけしの挑戦状は神ゲーってことだな
良いか悪いかはさて置いて、ストーリーを伝える技術に付いてここでは書き込みます どうしたらストーリーを伝えられるか
ストーリー在りきでストーリーに誘導する技術なのでストーリーを作ってないと話にならないです
自分の作った自分のたどって貰いたいストーリーに、どうしたらプレイヤーをきちんと誘導できるか? 自分の作ったストーリーに聞き手を誘導する
>>839 PC移植待ちでGTA5未プレイだから、GTA4の話だけど、
GTA4はプレイヤーがニコになるってより、GTA4というアクション映画のニコ役を演じるって感覚だよな。
プレイヤー=ニコならいくらローマンの立場を考えても、ブラッドの頼みなんか聞かないし、その場で射殺したいけど、
プレイヤーなニコ役を演じてるわけだから、キャラとプレイヤーの乖離なんて感じるまでもなく、それはそれとして消化できるんだよな。
ここにナラティブは見出せないけど、かもといってナラティブがないからダメだという話でもないんだよな。
ナラティブじゃないとも言えない気がするけどな DQの主人公は人格ないけど、現実のプレイヤーそのものと言う訳じゃなく ロトの勇者って言う自分とは違う役になるわけで いわばコスプレみたいなもんで、自分と別の誰かが混ざったものになるのが楽しい訳じゃん 文字通り平凡な現実の自分そのものとして物語に関わったって面白味がないケースも多い 自分じゃない誰かを演じてるって部分は常にあって、あとはその程度の問題だと思うけどな
ナラティブって二元論じゃなく連続的なスペクトルで もっと広い意味でも使える気がする
ゲームシステムが、あるキャラクター性の表現になってるゲームも多いな 天誅なら、ゲームシステムを通して忍者のロールプレイになるし エースコンバットならエースパイロットのロールプレイになる
役割を演じることがナラティブってなると、電車でGo!も車掌さんを演じてる、ってなっておかしな話になるな。 天誅なら既に色々な背景をもった忍者なわけで、そこにプレイヤーの物語はないよ。 目的達成のために試行錯誤するけど、それはアクションゲームでの操作の話だから、物語とは違う。
自分の話を伝えられない奴がストーリーを伝えるwwwwwwwwwwwwwwwww 小学校から出直してこい
ゲーム中にトイレに行くのもナラティブだって
壊レコIDクルクルパー
>>854 それもナラティブって言ってる気がするけどな
ラスアスとかすでに背景を持った人物を操作するリニアなゲームだけど
GDCでベストナラティブ賞取ってるし
ナラティブは今までにない特別な仕組みってより、
昔からゲームが持ってた仕組みを別の言葉で言い直したものな気がする
なんだ結局ステマ用語か ごり押ししたいゲームにナラティブだのなんだのこじゃれた用語くっつけてるだけ 商業主義の傀儡というかなんというか虚ろだねぇ ある意味連レスIDクルクルパーにはお似合いだなw
直線で一方通行な直線的ナラティブはここでストーリー(非ナラティブ)と言って分けてる物です 分けたのに同じにしては、意味無いので、ここでは分けて議論します ナラティブは意味はただ物語なので別に間違った事言ってる訳ではないのですけど ナラティブはどう物語を伝えるかの事なので ゲーム側が物語を発するのは当然です その上で、プレイヤー目線で進行する物語です ナラティブは分かり難ければストーリーと言葉を置き換えたら良いと思います それでも同じ意味 それで、いってるのはきちんとゲームやってる気になるかどうか やらされてると感じないかどうか プレイヤーと乖離してないかと言うより、ゲーム性とストーリーは乖離してないかと言った方が混乱しないと思う プレイヤー目線と言うよりゲーム性目線 プレイヤーのゲーム内で勝手に動いた話ではないので注意 プレイヤー目線だけどストーリーは作った人の提示するストーリー 一言で言うとお話とゲーム性をどう結びつけるか?の技術 今までお話はお話、ゲーム部分はゲーム部分、完全に別々だったので お話とゲームをきちんと一体化して統合する技術 ゲームをするとお話を進められる NG ゲームをする事はお話そのもの
役割を演じる事がナラティブっていうのはそんなに間違ってない ナラティブっていうのはゲーム画面の発して来てる物語の事だから ゲームから感じ取れるストーリー性 この人は何で、ここはどこで、何をするとどうなるんだな、と言うゲーム側の伝える物語の事だから その役割を演じると言うのはそのストーリーに浸れると言う事だから 作り手側の作ったさまざまな背景をきちんと伝えられる事がナラティブ 作り手側の作った背景をきちんと伝え切れなければプレイヤーは自分の物語にはならない訳で 窓から逃げられるのに窓を開けず敵に向かって敵を倒しに向かうのは窓から出てはいけないと言う背景をきちんと伝えられるかにかかって来る きちんと伝え切れてないのにその行動しか出来ない=プレイヤーを無理やり動かしている=やらされている 色々な背景を持っていたらその背景こそナラティブで それを伝える為に苦労する
それは脚本の矛盾を無くせってことと一緒じゃね 小説でも映画でもあそこでああしたほうが良かったが多いと駄作なのと同じ
ナラティブは物語と言う意味だからその考えはそんなに間違ってないと思う 小説のナラティブを作るのと同じで ただゲームではプレイヤーと言う概念やゲーム性という概念も持っているのでそれと絡めて脚本を練らなきゃいけないって事だと思う 例えば、「貴方はこの家に閉じ込められました外に出なさい」と言うゲームを想定して見て プレイヤーはその家から出る為に色々な行動をとる、窓から出ようとしてみたり、玄関の鍵を探してみたり 窓から出ようとしてみたけど、窓の下は何メートルもの高さで降りれない、とか それらの行動がそのまま、最初に提起された問題に対する変化になっていればそれはストーリーとゲーム性は一致してると言えるけど 同じように「貴方はこの家に閉じ込められました外に出なさい」と言うゲームで プレイヤーはこの家から出るのとは無関係な事をやる事になる 例えば、出て来る敵を倒してると、次に進む場所をゲーム側から提示されその通り進んでいると家から出れる こんな内容だったら、ゲーム性と物語りは乖離してる訳で プレイヤーのする事はゲームの指示に従って邪魔な敵の駆除と、支持された場所に向かい仕掛けを発動する事 それとは無関係に、外に出ると言う脚本は流れる、と
>>858 The last of usってゲームは知らないから何とも言えないけど。
天誅をナラティブとすると、結局何でもナラティブってことになるんでは?
天誅でのプレイヤー自身の体験って、どう倒すか攻略するか、って部分だと思うけど、
それとスーパーマリオでどう難所をクリアするのか?電車でGo!でどう綺麗に駅に停めるか?
っていうのとどう違うのか、ってなるような。
スーパーマリオや電車でGo!がナラティブっていうとさすがに違うと思うべ。
ゲームである以上、プレイヤーは何かしらゲームに関わるわけであって、そこにプレイヤー自身の体験はあるわけだけど、
FFだってどうマテリアやGFを育てるかというプレイヤー自身の選択もあるのに、FFだけナラティブじゃないとされるのは、また矛盾を感じるな。
>>3 の4gamerの記事を読んで、パッとナラティブだと思いついたゲームは、ゲームとしての完成度は除いてLunatic Dawnだな。
ちょっとだけ修正 「家から外に出なさい」と言うお題を言い渡されたら、プレイヤーは考えられる事は何通りも出て来る訳で 窓から出ようとする、はしごを使う、玄関から出る、色々 それらを試してどうしたら出れるか?これはだめでこれは一歩前進、と自分で見つけ出すと言うのはゲーム内容とゲームの話の筋は一致してるけど 「家から外に出なさい」と言うお題を言い渡されたプレイヤーは 筋だけ言えば窓から、「はしごをかけて降りる」という行動しか試す事も出来ないけど 指示通り進んでいれば、必ず「はしごをかけて降りる」事になる ではプレイヤーのやる事はというと、その途中にいる敵の駆除と支持された仕掛けの発動 になってると、肝心のゲームから出された御代はゲーム自身が勝手にといてしまって、プレイヤーはそのお膳立てばかりやらされる雑用係なるから ゲームでプレイヤーのする事とゲームの提示した問題とその解決までの道のりのお話はゲーム側が勝手に進むだけで プレイヤーとストーリーは乖離してる事になる
それらを試してどうしたら出れるか?これはだめでこれは一歩前進、と自分で見つけ出すと言うのはゲーム内容とゲームの話の筋は一致してるけど と書いたけどそれだとプレイヤーが自分でストーリーを決めていると誤解されると思うので修正 これはだめでこれは一歩前進、と自分で「作り手の作った話の筋道を」見つけ出すと言うのはゲーム内容とゲームの話の筋は一致してる
けどプレイヤーの物語(ナラティブ)ではない
プレイヤーの物語です プレイヤーの目線で展開する物語
>>864 ナラティブそのものとは言えないかもな
出来事のまとまりが物語として、
例えば「殴る」だとか「走る」だとか
そのまとまりを動詞に解体していくと物語とは言わないってのと同じ事かもしれん
ナラティブの材料って言った方が適切かもな
映画の銃撃戦を物語と言うかどうかって話と同じな気もする 銃撃戦は物語のワンシーンであって、物語そのものじゃないかもな
>>866 の下の部分
ストーリーは「家に閉じ込められた主人公が窓にはしごをかけて降りた」になるけど
プレイヤーのする行動は別に「窓にはしごをかけて降りる」とは一切関係の無い行動(プレイヤーのやった事は敵を倒す事、仕掛けを発動する事)
だから、ストーリーとプレイヤーは乖離してる
と言える
ストーリーを見れば確かに「家に閉じ込められた主人公がすったもんだの末窓にはしごをかけて降りた」だけれど、プレイヤーはそんな事一つもしていないし、一度もしようとはしていない
プレイヤーがしたのはゲームの指示を受ける事で、話自体はゲームが勝手に進んで「家に閉じ込められた主人公がすったもんだの末窓にはしごをかけて降りた」と言う話になってるだけで
それを修正すると、プレイヤーは「外に出る」と言うお題を自分の問題として自分で解いて解決するようにする
「窓にはしごをかけて降りた」と言う行動に自分でたどり着かなきゃいけない
自分でどうしたら外に出られるか?と言うお題の原点に帰ってどうしたらそのお題を達成できるか?を基準に行動する
すったもんだの末「窓にはしごをかけて降りる」と言う結末を自分で発見する
すると、「すったもんだの末窓にはしごをかけて降りた(または「すったもんだの末窓にはしごをかけて降りるとい事を発見しそれを実行した」)」と言うのがプレイヤー目線でのストーリーになる
「家に閉じ込められた主人公がすったもんだの末窓にはしごをかけて降りた」と言うのがストーリーで、プレイヤーのやった経過も「家に閉じ込められたプレイヤーがすったもんだの末窓にはしごをかけて降りた」
と一致する
いい加減要約を覚えろ 頭の病気抱えてんのか?
多くのゲームは物語の作りをもってると思うけど 物語に感じられないのは、表現力の問題も大きいかもな 例えば「親の仇との決闘」っていうシーンがあったとしても ゲームはまだAIで人間を描けないし、 ゲーム上は物語の登場人物というより単なるゲーム上の的に見えてしまう 洋ゲに表現力重視のゲームも多いのは、 ゲームプレイにフィクションとしての説得力を持たせたいからってのがある気がする
表現力() そういう定義が曖昧な低脳言葉使うのやめてほしいなぁ〜
NPCの行動をプログラムで作るとその点では物語性は消えると思う 完璧な人間と同じような感情を持ったNPCを作ったとして そのNPCのする行動や返す反応は物語としての意味合いを含んでいない 物語とは大辞林「一つのまとまった内容の事を話す事。ものがたる事。また,その内容。話。談話。」 NPCのプログラムには(生身の人間との会話にも)一つのまとまりやいいたい事は無い でも人間の脚色した話にはその人が言いたい事やいいたい内容を伝えようとしている訳で 結局何を言いたいのか?は決まってる それによってどうでもいい部分は省かれて、いいたい部分は誇張される プログラムで人間や環境を完璧に再現して作ったとして そのプログラムはプレイヤーに何か言いたい訳ではないので まとまりの無い事実の変化がシミュレーション的に起こるだけで 例えば恋人の仇を討つと言う物語にするためにプレイヤーが恋人を差し出してそのNPCが無事恋人を殺すように挑発を繰り返す そんな事をして無事恋人が殺されてその仇を討つ話を物語と言えるのかという問題 または、自然に殺されるようにNPCを人を殺しやすい性格にしたとして そうなったら殺されるか殺されないかの話になるだけで 態々結局恋人が殺されるには恋人を差し出したと言う状況をプレイヤー自ら作るしかない プレイヤーが体験したい事が例えば恋人が殺される事だったら、作る側が明確に恋人が殺されると言う物語を作らない解けない でも、それは強制されるか?と言ったらそうではない 恋人が殺される筋だけど、それに逆らおうとする事も出来る 明確に意思が定まっていると すると物語性は出て来る 物語は語り手の意思がないと物語りにならない 恋人を殺されるようにしたいと言う意思の上に、恋人を殺されたから仇を討つと言う物語りも、本当は殺されるはずだった恋人を助けると言う物語も成り立つ から、プログラムで自動的に意識をのっけたとしてもそれはただのシミュレーション もしもプレイヤーの列の一番端っこに恋人がいて殺人者がその一番後ろの恋人をたまたまそこにいたから殺したっていうなら 仇を討つなんて話には発展しないでしょう 何故なら、その事自体を現実として受け止めるから、直前からやり直し出来るならやり直すだけで やり直す事が出来ないなら腹を立てるだけで 感動的な話にはならない それは語り手の出してる意識を見ている訳ではないからで その場面でプレイヤーの見ている物は今自分に起きた物事の現実で それを認める認めない快不快を感じるだけで、物語としては受け取らない (本当は)殺されるはずだった人をそれを回避して生還する様に道筋を変えるのは感動的な物語として成立するけど 別に殺されるはずでもなんでもない、シミュレーションでただそうなっただけの出来事は、やり直して生かしても、感動的な物語にも何にもならない そもそも物語の筋として殺されるはずの人っていうのは殺されると言う筋在りきで物語を作っているため殺されると言う筋に強烈に引っ張られているから それを回避すると言う抜け道もその話を作った人間の創作によるものだからそれを避ける為には特別な手順を必要としてその手順を満たす事が出来なければ殺される道に進むけど シミュレーションでコンピュータに殺されただけの場合はやり直して殺された位置からずらしたらそれで終了する 確立の場合は確率論になるだけで 物語にはならないかと
>>871 銃撃戦も、エンタメ路線の銃撃戦が見ごたえのあるアクション映画なのか、
主人公の不幸な境遇を見る側に共感してもらうように作って、主人公は犯人なんだけど、何かのために銃撃戦をやってる、
ってので大きく異なるよね。
前者は主人公の抱えてるストーリーはとってつけたようなもので、あくまで銃撃戦に説得力を出すための、飾りの設定みたいなもので、
後者はそれこそ物語や見る側の共感に重きをおいていて別に銃撃戦そのものには大きな意味がない。
ゲームでいうと前者がマリオや忍者龍剣伝みたいなアクションで、後者がここでいうナラティブ的なものなんだろう。
じゃあ忍者龍剣伝の物語をムービーで伝えるんではなく、プレイヤーが自分の意思でさらわれた女を助けるように、
ナラティブなアプローチでゲームを作ったとして、それが面白くなるか、って言ったら違うだろうな、と。
主人公がサイコパスで猟奇的な無差別大量殺人を行う設定で、主人公の動機や心情には共感は出来ないけど、
綺麗な映像美と迫力のある銃撃戦で見る側を圧倒し魅きつけるってのが、さしづめナラティブじゃないと批判されるFFだろうか?
一言で言えば、ナラティブって面白さに直結しない、って言いたいだけだけどね。
エンタメ路線のアクション映画も物語で、ナラティブもそれと一緒だと思う 物語かどうかと、それがドラマチックかどうかは別なように ナラティブかどうかと、それがドラマチックかどうかは別な気がする
>>877 書かれてる事をきちんと理解してはいないけれどたぶん逆のような気がする
FFのように一方的に「自分はこうなんだ」と言う主張をして共感を求める
共感の上に物語が成り立ってるのは下のタイプで
主人公に設定が無かったり、設定を作ったら後はその設定をプレイヤーが自分のプロフィールとして受け継いで
プレイヤーは自分の視点で話しを見るのは上のタイプではないかと
>>878 劇的な、芝居がかったと言う意味は、人によって作られた(ような)と言う意味を含んでいる
ドラマとか物語は人によって作られたお話の事を指差して言ってる場合が多い
人によって意図して作られた話なのかそうでないのか
では人によって作られていないその場の状態を流しただけの映像を物語とかドラマとか言うかと言う部分
サイコパスという問題の多い単語を平気で使う奴はクズ だいたい無知な差別主義者と相場が決まっている どうせ低俗なアニメか映画に影響されたんだろうけどw そんなカス野郎が作劇について講釈垂れるとかへそで茶を沸かすんですけど〜
>>880 書けることもないのに無理して噛みつかんでもええで。
おとなしくROMっときや。
>>878 エンタメ路線のアクション映画にもそれは物語はあるし、ドラマティックなものが多いけど、
エンタメとして見せたいのはド派手なシーンとかで、物語は別なものでも成立するってのがあるじゃない?
ゲームに置き換えると、ゲームの物語もとってつけたような内容であって、別の物語がのってても成立する。
重要なのはゲームプレイの面白さであって、プレイヤーの体験・物語になるかどうかじゃないものの方が多いんじゃないかな?
岩崎のナラティブ観は支持してないけど、ゲームのキャラの動機とプレイヤーのゲームを行う動機は違う、と言われても、
だからどうした、それがゲームの面白さに関係あるのか?と思ってしまうんだよね。
もちろん、ゲームによってはプレイヤーの体験として残ることでいいゲームと思われるのもあるんだろうけど、
ナラティブなことがゲームの面白さの本質じゃない。
エンタメアクションのド派手なシーンも、物語の一部分な気もするけどな
多くのゲームってフィクションと競技の楽しさが不可分に混ざったものじゃね ドラクエにしたって、フィクション性を取っ払って数字とフラグ管理だけになったら面白味ない テレビゲームは将棋やスポーツといった他のゲームでは代用の利かない娯楽で、 それはやっぱフィクションの世界を描きやすいってのがでかいと思う その延長な気がする
ナラティブがゲームの出来を決める訳じゃないってのはその通りだろうけど ゲームは総合芸術って言うが、その一要素じゃね
ゲームの世界観をつくるうえでフィクション性は大事だと思うし、否定もしていないよ。 プレイヤーごとの自分だけの体験・物語をつくるナラティブとはまた別の話じゃないか? (ドラクエをナラティブとは思わないけど)仮にロトの勇者が喋ったからといって面白さにあまり影響はないし、 逆にナラティブな作りはそのままDQ2の難易度で一発目が出たらここまでの人気作にはならんかったと思う。 DQクローンのゲームはたくさんあるけど、それはナラティブとかじゃなくて、 DQほど細部まで詰めたバランス・作りこみがないからだ。 だから、アンチFFのDQ派がFFを批判するときのFFはキャラが喋るとか映画的とかいう批判は的外れだと思う。 それが好みの問題で面白さと関係あるのか?と。
887 :
訂正 :2014/06/15(日) 06:42:57.16 ID:6w0v4rUB0
>>886 >DQクローンのゲームはたくさんあるけど、それはナラティブとかじゃなくて、
>DQほど細部まで詰めたバランス・作りこみがないからだ。
→DQクローンのゲームはたくさんあるけど、DQみたいに売れなかったり面白くないのは、それはナラティブとかじゃなくて〜
>>886 前提からして多分違うんだろう
>プレイヤーごとの自分だけの体験・物語をつくるナラティブとはまた別の話じゃないか?
俺は同じ、もしくはその延長の話だと思う
別にプレイヤー=主人公じゃなくても、リニアなゲームでも、
ゲームが物語の形を持ってるって意味で、ドラクエだってマリオだってナラティブの範疇だと思うけどな
DQの主人公が喋っても差はないってのも、そうは思えん
ゲームにはいろんな楽しさがあって、ちょっとした加減でそれが変わるように
主人公とプレイヤーの関係ひとつとっても様々な方法があって、ちょっとした加減で差が生まれてると思う
その楽しさを重視するかどうかは人それぞれだし、
大抵のプレイヤーはちょっとした差は気にしないってのはその通りだろうけど
ドラクエに関しては堀井自身 物語にプレイヤーが入っていける世界を作りたい、 シナリオ単体じゃ映画や小説にかなわないけど プレイヤーの操作が加わることで、それらに負けない物語に昇華する とも言ってる
>>881 差別問題を軽視する論外クラスのゲスだな
おまえこそ一言一言が害悪だから永久に黙れ
リアルでも発言するな
口から糞吐き出すクソ袋が
>>888 ゲームに(設定程度だとしても)物語があれば、ナラティブの範疇ってなると、
大概のものはナラティブになるし、そうなるわざわざナラティブって言葉を用いている意図と異なると思うな。
マリオのピーチを救うという設定をナラティブとするなら、それよりは、
Gran TurismoのGT Modeでライセンスをとって、車を購入してチューンナップをして、レースに出て、って過程のほうが、
ゲームから提示される物語はないにせよ、自分自身の物語を作れるという点では、
>>3 のナラティブの感覚に近いと思う。
あと、DQの主人公が喋る喋らんは、もうDQの主人公は喋らないってのが確立した今、
主人公に喋らせまくったら違和感もあるし、感じるところもあるだろう。
ただ一作目で、ロトの勇者が喋ったからと言って、世間で受け入れられないものになったとは思えない。
堀井さんの話なら、それこそ1990年頃の宮本さんとのの対談で、 ドラクエの主人公は喋らないし、喋らせた方がストーリーを伝えるうえでは簡単だけど、 それだとプレイヤーが入っていけなくなる、って言っているから、 そこには相当のこだわりもあるんだろう。 ただその話と、喋るとつまらなくなる、という話は別だろう。
>大概のものはナラティブになる おれはそうだと思う >わざわざナラティブって言葉を用いている意図と異なる 今までにはない新しいものがナラティブなんじゃなく、 今まであったものに新しく与えた言葉がナラティブなんじゃないかと思う GDCでも、新たに「ナラティブ部門」が出来たんじゃなく それまでの「脚本部門」に置き変わる形で「ナラティブ部門」が出来たし
おれは別に喋るとつまらなくなるとは思ってない むしろそういう風潮に違和感ある
ナラティブって言っても、海外じゃわからんけど日本だと 「語り手として参加出来る物語」って意味の名詞で使われることも 「そういう性質に富んだ」っていう形容詞で使われることも 「そういう性質をもった感動的な物語」って意味で使われる事もあって混乱する おれとしては最初の名詞として捉えてて、その善し悪しを決めるのが下の二つだと思う
2つの評価軸で善し悪しが決まるわけだから 語り手として参加出来る部分を多少犠牲にしてでも 主人公に喋らせて物語をより感動的に出来れば 結果的にアリだと思う ラスアスとかがそうで、GDCでもベストナラティブとってたし
もちろんナラティブの善し悪しとゲームの善し悪しはイコールじゃないけど
>>893 今まであったものに与えた言葉ってより
今まであったものも含んだ、より包括的な概念がナラティブ
って言ったほうがいいかもしれない
>>891 >>3 の言ってる事はゲームの出す物語の事と言う前提です
このスレの関係でナラティブと言う単語の指してるのは全部で3種類で分かり辛い
・
>>3 や他の日本人が一般的に言ってる事はゲームから直線的で一方的に流れる直線的な物語を問題視してゲーム本来の物語の伝え方について言ってる(一方的にただ流してるだけじゃゲームになってないよねと)
・途中で例に挙がってるのはゲーム側から直線的で一方的に流される物語を改めて、感情を持ったNPCのようなものを使って物語を自動生成にしようって話(人は技術の魅力にひきつけられるからこっちだと今までのゲームの歴史と同じだと思うけど)
・それに対して、直線的な一番上や真ん中の意見の出る元となった直線的な物語の事もナラティブ(The last of usはこっち)
>>894 喋ると言うのも色々で
プレイヤーを制限制御したり、特定の行動するように誘導すると、とたんにプレイヤーは自分の判断以外の言葉によって動かされる事になるから
本当らしさが消える
逆に、プレイヤーの行動は自由に保障されるけれど、プレイヤーのやった行動に対してコメントをつけるような台詞は逆にゲームを引き立てる
「次はこの地点に向かってこの敵を倒すぞ」見たいなのはプレイヤーを動かすけど
プレイヤーが例えばカレンダーを調べてみてそれに対してプレイヤーキャラのコメント「明日は自分の誕生日だ、こんなはずじゃなかったのに」とか、結果として帰って来るコメントはかえって状況を伝える物語と言う点から見れば物語性という効果を高める
ムービーも同様でプレイヤーの意思とは無関係に流されストーリーを勝手に作る物語はプレイヤーの物語から乖離する原因になるけど
プレイヤーの行動に対して流されるムービーはプレイヤーの物語との一体感を高める
プレイヤーが開いてはいけない扉を開いた場合、ムービーが流れてプレイヤーがこんなひどい目に遭いましたとさ
じゃここを開けなければ良いのか?と
〜をしたらだめになった、〜をしたら良い事が起きました、と言う意味合いをきちんと伝える役目を帯びている
行動に対する結果としてのムービーでも淡々と「こうなりました」「こういう事が起こりました」「こういう結果になりました」と言う結果だけを伝える場合と 見栄えいいものにする為に主人公キャラの感情的な部分や自己主張をムービー内に入れると乖離の原因になるよね プレイヤーがとった行動に、こういう事が起こりましたと言う域を完全に出ない事は大切だと思う ムービーで勝手にもがいたりするとプレイヤー=主人公にはならない その今の状況を伝える、状態を伝える、状況の変化や移り変りを伝える役割にとどまって、それでどう感じるか、どういう行動をとるかは今度はプレイヤーの役目 きれいな映像を撮ろうとするとそれだけでストーリーを作ろうとするから ムービーはゲームとして今どういう状態なのかを伝えるサインにとどめておいた方が良いと思う 例えば、「手の上にさそりが乗ってきた(驚いた表情とかはOK)」どこからどうするかはプレイヤーの役目 NGなのは、「さそりが襲ってきて乗ってきて、キャラがもだえ苦しむ姿がずっとムービーで映し出される」見たいな ムービーは状態を伝える為のもので、鑑賞する為のものじゃないから 鑑賞用にすると、「プレイヤーのした行動に対して、こういう結果になった、だからどうなんだ」と言うゲームと一体感を持てない 「プレイヤーのした行動に対して、こういう結果になった(ムービー)、だからどうなんだ」だったらゲームをやってるプレイヤーのストーリーのつなぎになってるけど 観賞用では「プレイヤーは行動する、ムービーはムービーで勝手に流れ勝手にストーリーを語る」支離滅裂になる
>>898 で、色んな意味合いを統括、包含した言葉であればあるほど
ナラティヴという言葉をいちいち引き合いに出す意味はなくなると。
「ゲームがインタラクティヴ(双方向性)メディアだなんて、
そんなの当たり前だろ」というのと同じで。
902 :
891 :2014/06/17(火) 18:50:30.35 ID:tZwgbkgT0
>>898 言わんとしてることはわかるけど、マリオもナラティブと言い出すと、
もう作り手側のアプローチじゃなくて、受け手側の感受性の問題になっちゃうな。
ゲームを楽しむ際のプレイヤー側のコツというか、
ナラティブを感じれば、よりゲームを楽しめるよ、みたいな。
少なくともここでいうナラティブってのは、
ゲームを自分自身の物語として受け取ってもらえるようなゲーム作り・アプローチの話なんじゃない?
903 :
891 :2014/06/17(火) 19:00:02.33 ID:tZwgbkgT0
脚本部門(writing)→ナラティブ部門に変わったのは、 個人的には海外ではもうストーリー≒ナラティブで置き換わったってだけで、深い意味はないと思ってる。 前にも挙げたが、主人公が喋りストーリーが勝手に展開するJRPGテイストの洋ゲーのChild of lightのクレジットが、 Narrative writingだったから。 古き良きスクウェアRPGみたいな作り方なのにNarrativeって言ってるんだから、日本で議論してるナラティブとは違うんだろう。
>>901 おれはそうは思わないな
「ストーリー」とか「脚本」って言葉で言い表した途端
まるで映画や小説と同じようなものみたいに扱われる事が多かったと思う
映画とは違うものも確かに含んでるのに、「映画でいいじゃん」みたいな論調
>>903 海外のナラティブは「参加できる性質を持った物語」
ここでいうナラティブは「そういう性質に富んだ物語」
っていうズレがある気がする
どっちが正しいかはともかく
前者で言えば俺はマリオもナラティブの範疇だと思うし
後者で言えばマリオがナラティブじゃないってのはその通りじゃね
前提が違うんだろう
>>904 ああ、映画や小説における「物語」と、ゲーム独特の“それ”の違いを
比較する」場合はナラティヴという言葉が分かりやすいのか。
自分はゲームの中だけで考えていたんで「ゲームはどうやっても少なからず
ナラティヴだし、わざわざ引き合いに出す意味ないじゃん」という意味で言った。
ここはゲームにおける新たな概念「ナラティブ」を語るスレだ 他の「ナラティブ」はいらん
あくまで区別のためにゲーム独特の物語表現を「ナラティヴ」、 旧来のそれを「ストーリー」と別の言葉を使ってるというだけの話だって。
それってつまり、ゲームにおけるストーリー=ナラティブってことだな。
ランダム性がつよく、状況の再現が難しい。 その状況自体がドラマ性に富んでいる。 ってことなのか? すげー曖昧だし、いったもん勝ちにきこえるなー
>>910 展開に乱数性を含むゲームもあるけど、ナラティヴ云々言う時は
「遊び手の選択に応じて展開が変化する」ことが重要なんじゃないの。
・ゲーム従来のストーリー展開 イベント発生(@の場所に行きなさい) → 到達でイベント発生(そこで何々をしなさい) → 達成でイベント発生(次の指示) → 結末 ストーリー主体のストーリーに引っ張られる形式で展開するストーリー展開 ・ゲーム本来のストーリー展開 イベント発生(問題提起) → プレイヤーの自発的な自由行動 → イベント発生(プレイヤーの自発的な行動に対応したそれぞれ結果) → 結末 プレイヤーのやった行動によるストーリー展開
>>911 変化する必要は別に無い
遊び手の視点で展開すれさえすればいい
でも遊び手の始点で展開するために変改を変化するようにする必要も出る場合も
お前は黙ってろって言っただろ
>>906 ナラティブかそうでないかって話なら、ほとんどがそうな訳で言うとおり意味ないんだが
ナラティブの善し悪しの話をしようとする時
他メディアと比較する気はなくても、物語やストーリーって言葉だけじゃどうにも不自由に感じる
物語の善し悪しって言うと、カットシーンやテキストのドラマの善し悪しになっちゃって
ナラティブの善し悪しと話が違ってくることが多い
かといって他にうまい言葉もなく、言葉にしづらかったり、
ゲームとは関係の浅い「雰囲気」なんて言葉で軽く処理されるだけだったりする事が多いと思う
そういう部分を語ろうとするとき、便利な言葉だと思う
名前がなかったものに名前をつけよう、ってなもんかね DVだとか、セクハラってのも昔からあったけど名前をつけて認知がすすんだみたいな?
名前はもともとストーリーと呼んでたものだけど ストーリーと読んでた物がだんだんゲームとは完全に別に進む半紙の内容をさす物に変ったため
ナラティブって響きがよくないよね
ナラナンテイウ?
聞いてみたいんだけど、ここでナラティヴの話をしてる人らの目には スマートフォンのダラダラ遊ぶだけのゲームはどう映るのかな。
スマホゲーはもはや1ゲームハード以上に発展してるから 具体例上げてもらわないと何が言いたいのか全く分からん