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福島亮大「ゲームと機知」『神話が考える ネットワーク社会の文化論』(青土社、2010年)p245-253「第五章 ゲームが考える――美学的なもの」第一節より
■ネットワーク消費
神話素の多重所属を利用して、ネットワークの内的な距離を変えること。あるいは、フォーカ
ル・ポイント(複数のひとびとの期待値の焦点)を変えることによって、物事の均衡点をずらし、分
散化すること。一般的に言って、ジャンルという制度は、作者・読者を含めてひとびとの期待値
を調整する。しかし、『うみねこのなく頃に』のようなゲームは、ジャンル=ルールそのものを
焦点とする(=オブジェクト化する)ことによって、その均衡のポイントをおおきくずらしてしまう
だろう。この種のフォーカル・ポイントの変更を通じて、「生きたシステム」(アレグザンダー)や、
あるいは「生成力」(ジョナサン・ジャットレイン=濱野智史)の停滞が回避される。
とはいえ、以上はゲームの一面、先ほどの言い方では生態学的な側面である。私たちは、ゲー
ムからさらに別の位相を切り出しておくことができる。ここでようやく、先ほど提案した「ゆる
さ」や「たわいなさ」の主題がせり上がってくるだろう。ツリー構造に代わってセミ・ラティス
構造が「コモンセンス」(常識=共通の意味)を生成する生態学的原理になっているとして、ここ
で見ておきたいのはさらに意味を解除すること、つまり「ノンセンス」の美学的戯れである。
生態学と美学は、おそらくセットにして観察されるのが望ましい。特に、サブカルチャーはコ
モンセンスを提供する一方で、ときにノンセンスの領域もカバーするような作品も生み出してき
た。すでに何度か言及してきた同人弾幕シューティングゲーム(STG)の連作「東方Project」
(以下、東方と略記)は、その両者の共存において際立っていると言えるだろう。
この作品については別の場所で論じたこともあるが※13、最大の特徴は、それがもはや、弾を撃っ
て敵を倒すという狭義のSTGには収まらないということにある。実際、このゲームに登場する
のは、妖怪や幽霊が少女化した擬似民俗学的なキャラクターであり、まずその点で日本の「漫
画・アニメ的リアリズム」の論理を忠実に体現している。彼女らが住まう世界は「幻想郷」
と呼
ばれ、現世では廃れてしまった事物が流れ着く場、一種の広大なデータベースのようなものとし
て
設定されている。東方の人気はもっぱら、キャラクターのフェミニンな魅力、およびキャラク
ターの存在に根拠を与える自前の世界観=データベースの設定、それに、作者であるZUN自身
が作曲した音楽の魅力によって支えられている。
一言で言えば、ZUNは「幻想郷」という架空の世界を、すでにサブカルチャーのなかで力を
持っていたキャラクターや音楽、ゲーム性などの集団言語を総動員して象ったと言ってよい。さ
らにその周囲は、キャラクターや音楽を手がかりにし集まってきた多くのファンの二次的な創作物
によって満たされている。その創作物は過剰に膨れ上がり、すでに漫画から動画、さらにはアレ
ンジ楽曲から小説に到るまで、ありとあらゆるジャンルを網羅するに至っている。かくして東方
の神話体系は、ほとんどインターネット上の「総合芸術」のような様相を呈している。特に、二
〇〇〇年代後半以降の二次創作について言えば、東方ほど多様な進化を見せた領域はない。
とはいえ、東方がインターネットを中心に、過去のサブカルチャーの歴史においても稀な規模
で人気を集めていることは、別に絶対的な理由があってのことではない。むろん、ZUNのゲー
ム作家としての力量や音楽性が優れていることはあるとしても、それとは別に、ある時点からは
ネットワークのスケールが物を言うようになる。第一章でも述べたように、ファンが自分の作品
を発表しようとするときに、すでに広く流布しているネットワークに依存するのが最も手っ取り
早く、また人目に触れる可能性も高いという、身も蓋もない事実性が無視できなくなってくるの
だ。先ほどはそれを「リゾーム化したデータベース」と規定したが、ここではさらに、東方が体
現するのは「ネットワーク消費」とでも呼ぶべき新しい消費形態だと言っておこう。
ネットワーク消費は、作者と受け手のあいだのフィードバックを確かなものにしてくれる。
ファンは「幻想郷」の世界にかなり自由に個人的あるいは集団的な幻想を託し、二次的な創作物
を紡いでいくことができる(たんにキャラクターの名前だけ借りて、原作の痕跡すら残さない創作物も珍し
くない)。ある意味では、東方には何も内容がない。だからこそそれは、純粋に形式的なネット
ワークとして、ひとびとの欲望の受け皿となっている。その点で、東方はネットワーク消費の理
想的な環境を提供しているのだ。
※13 拙稿「ホモ・エコノミクスの書く偽史」東浩紀+北田暁大編『思想地図』(vol.3、NHK出版、二〇〇九年)
所収。
■ノンセンスな物語
東方は、受`け`手`の`側`をメディアに、ルソーふうに言えば「スペクタクル」や「俳優」に変えた※14。
裏返せば、別にそこで起点となっているのが東方である必然性もない。実際、STGというジャ
ンルは今や地味なものであり、ふつうに考えればZUNはマイナー作家だと言うしかない。けれ
ども、いくつかの偶然が重なって、東方は結果的に巨大なネットワークを生成し、多くのひとび
とをそこに住まわせている。こうした文化論理はおそらく今後もかたちを変えて出てくるだろ
う。とはいえ、ネットワーク消費が幅を利かせる文化が、果たして真に繁栄を築くことができるか
どうかは、まだよくわからない。
ただ他方で、東方の原作そのものは、そうした「コモンセンス」の糧を提供しつつ、それが本
質的には「ノンセンス」であることを巧みに浮き上がらせている。たとえば、連作の一つ『東方
風神録』(二〇〇七年)は、長野県諏訪地方のミシャグチ信仰を一つの主題とする。ミシャグチは
しばしば、大和の神と対立する荒々しい存在として描かれてきたが、中沢新一は二〇〇三年の
『精霊の王』において、ミシャグチを「胞衣をかぶって生まれた子供」あるいは「女性的なもの
に包まれている男根」のイメージに読み替えた※15。つまり、中沢にとってのミシャグチは、たんな
る異端の荒ぶる神ではなく、むしろ正統/異端という対立を超えたもの、つまり男性性の女性化
(男女の二項対立の脱構築)の契機を孕んだものとして捉えられている。
だが、『東方風神録』になると事態はさらに進み、ミシャグチはもはや「蛙の目のついた帽子
をかぶった可愛らしい少女」(洩矢諏訪子)に置き換えられてしまっている。つまり、ZUNに
とっては、自然信仰であれ何であれすべては徹底してシミュラークル(彼の言う「幻想」)でしか
なく、そのために男性と女性にまつわる明確なシンボリズムは脱落し、「少女」という抽象的な
存在だけが表に出てくることになるのだ。東方には他にも、幽霊や妖怪の少女が繰り返し出てく
るが、これらもまたすべてが実体のないシミュラークルであることを自己表示している※16。
あるいは、物語についてもノンセンスやたわいなさが充満している。もともとがSTGであ
る以上、東方の物語は実はほとんどおまけのようなものにすぎない。それに加えて、ZUNは、
物語を意図的に無`意`味`化`している。たとえば、『東方風神録』に続く『東方地霊殿』(二〇〇八年)
は、次のような筋書きの作品である。幻想郷にある日、突如として間欠泉が噴き出し、そこから
妖怪や怨霊の類が大量に沸いて出る。主人公の博麗霊夢はその「異変」を解決するために地下に
潜り、ついには地底最深部まで潜るが、そこで目にしたのは、何と核融合の力でつくられた「人
工太陽」であった。つまり、地下深くにまで潜り込んでいくことは、そのまま天空に垂直的に上昇
していくことと一致していたのである。
「意味」senseというのは、一つの「方向」senseである(たとえば、ベクトルの向きのことをsenseと
呼ぶ)。そこからすれば、『東方地霊殿』は一つのセンス(意味=方向)を打ち消した、つまり意味=方向を
反転可能な状態に据えた、文字通りノンセンスな物語として仕上げられている。もともと、東方
の第一作目である『東方紅魔郷』(二〇〇二年)からして、「東方」というタイトルにもかかわらず、
ことさら吸血鬼やメイドといった「西方」の素材が持ち出されるアイロニカルな作品であった。
これもまた、文字通りの「ノンセンス」である。
繰り返せば、東方の舞台となっている幻想郷というのは、きわめてゆるい、いわばリゾーム的
な世界として定められている。そのためそこにはあちこちに穴が開いている。ひとびとは、そ
の穴に自由に幻想を注ぎ込み、創作物=意味を産出することができる(ネットワーク消費)。
けれども、当の原作のほうは、そのような「意味」が無であり、たわいないものでしかないことをノ
ンセンスとして描いているのだ。
さらに、「世界には穴が満ちており、それをノンセンスな物語でかりそめに縫い合わせてい
く」という趣向は、ZUNが影響を公言している漫画家の竹本泉にも通じるものがある。竹本の
漫画もまた、SF的な世界を背景に、ちょっとした「異変」を少女たちが解決するという展開
を好んでいた(なお、竹本が絵とシナリオを担当した一九九三年の『ゆみみみっくす』というゲーム作品では、
まさに世界のあちこちに開いた裂開を少女が縫い合わせるということが主題となっている)。
ZUNにせよ、竹本にせよ、世界は最初から仮想現実であるという前提に慣れ親しんでいる。前章で挙げたハー
ドボイルド小説は、そのような仮想現実化した世界において、「操作しつつ操作される」女性的
な主体、単一の運命をネットワークに変更するタイプの主体を造形した。それに対して、ZUN
や竹本は、そのネットワーク全体から意味の負荷を除去するノンセンスを展開している。この相
違は、世界に応対する二つの方法論を示すものとして興味深い。
※14 ジャック・デリダ『エクリチュールと差異』(下巻、梶谷温子他訳、法政大学出版局、一九八三年)一四五頁
より再引用。
※15 中沢新一『精霊の王』(講談社、二〇〇三年)九二頁。
※16 ただ、そのシミュラークルとしての少女(あるいは幽霊や妖怪)は、それだけではとりとめもなく消失してし
まう。そこで、彼女らに束の間の実体を与えるために「帽子」のような無意味(ノンセンス)で、しかし具体
的な事物が持ち出される。この点については、全景拙稿を参照。
創る者の話。
取るに足らない末節の部分に気を取られ、本質を見失う。
だから往々にして、どうでも良いとても下らない事で 折れる。 無様な音を立てて。
それは言い訳でしかなく、時には本当に好きでは居られなかった、という証拠をまざまざと見せつける。
本当に愛していたなら、裏切られた等と決して言う筈があるだろうか。
まず最初やりたかった事は何なのか。
それをどうでもいいものに惑わされて見失ってしまう事ほど悲しい事は無い。
経緯や背景がどうであるとか、後から付け加えられた義務感が重荷なら振り切ってしまっても構わない筈だ。
形の無い言葉を振り払ってしまう程の価値があるのならば。信じているのならば。その程度の力ぐらい充分に有るだろう。
本当に大事にしているのは何か。
それを何故忘れるのか。
それとも本当に大事ではなかったという事なのか?
#ここで「いやそんな筈は無い!」と思うのなら、迷っている場合じゃないと思いますが
そこを譲り渡してしまった瞬間、作品は何かの奴隷になる。
創作である限り全ては第一に作品の為であり、いずれの所有者の為に限った物に成り下がるのは不毛だ。
#「いずれの所有者」とは 創作者と受け取る側 両者を指して言っています。
逆に言えば、誰かに受け入れられない事を恐れて
本来目指そうとした姿を歪めてしまうのは本末転倒である、という事です。
そもそもそれは妄想で、所有者の数が不定(時間と共に増減する)である以上、断定してはならないと思います。
良い反応を期待するにしたって、出てみないと本当の姿は解らないですからね。
「全ての願いを満たす」と作品自らが望まない限り(それがコンセプトとか原点・究極の目的の場合、という事です)
一切の迷いや厭いは多くの人にとって喜ばしくない不純となり得る、という事です。
ましてや、現実として人間には尽くす力に限界がある。 はっきり言うと言い訳だが、これは動かない事実だ。
少なくとも最初からそれが見えている人(露骨に例を挙げるとするならZUNさんネー)は聡い。そしてごくごく僅かだが、
そうでない者より強い。
目的に対し盲目ではないが(時に、見えすぎている事は残酷である)、
そこへ到る道が最初から全て見える事は決して無い。故に紆余曲折するのだ。
だが周囲は不安である。 自分達の願い(?)が満たされるかに期待を持ってしまうからこそ。
地図の断片を持っている可能性はあるが、基本的に目標を知らないので盲目だ。
故に事有るごとに一喜一憂する。それぞれの立場で、自分が出来ると思う範囲で足掻く事も、
自分がそうしたいと思っている以上良い選択だろう。
だが、そういう意味では最初から期待していない、というのも案外一つの利口な判断かもしれない。
少なくとも思いこみが邪魔をする事や、視野を曇らせる感情的要因…つまり要らない情報の垣根を自ら作る、という事は無い筈だろう。どんなに自分を強く突き動かすものがあったとしても、それが本当に自分を動かすに足りる物か否かを検める事も大切だと思います。
その垣根が自分を覆い尽くす時、世界は腐り、そして程なく息を引き取るのだ。
時として下らないものが情熱を殺す。 認めたくはない、悲しいけれど殺されてしまう事がある。
私の中にもそういう物が確かにあって、出来るものなら全部大鍋で煮込んで食らい尽くしてしまいたい。
そんな小さな世界のお話。(読み返してみて、視点が一貫してないなあ)
むしろ、こんな話が出来る時点で それは既にメルヘンなのですけどね。
■機知の方法論
ノンセンスというのは、さらに別の角度から見れば、ちょうど「機知」(ウィット)の問題に連
なる。機知は、フロイトによって精神分析の対象となった。フロイトの定義によれば、機知とい
うのは「心的消費の一般的軽減」によって、快感をもたらすものであるとされる※17。そのフロイト
は、機知の一例として、まさにノンセンスを挙げていた。つまり、一見して意味があるように偽
装しつつ、その実、意味は空洞だったということを示すこと、そのプロセスが機知の淵源となる。
さらに、フロイトによって特に注目されているのは、言葉遊びである。たとえば、ある言い回
しを圧縮=省略して、膠着や重荷を解き放つ言葉遊びは、機知を産む可能性がある。あるいは、
年齢を問われた女性が、ちょっとうつむきかげんで自分の出身地を答える(つまり質問をはぐらか
す)などということも、状況によっては機知に数えられるだろう。要は、メッセージをそのまま
伝えるのではなく、別のもっと軽くて心理的負担が少ない言葉に転位させること、そしてそれに
よってときに「笑い」をも発生させること、そこに機知の機知たるゆえんがある。
東方の物語や竹本泉の漫画は、「異変」があるように見せかけておいて、しかしそれが本質的
に何も物事を変えないことを示す。その点で、そこには「機知」の萌芽がある。さらに、東方の
場合には、華麗な弾幕(敵が放つ大量の弾のこと)や音楽に多くの表現を預けてしまうことによって、
物語の重みもかなり軽減している。『東方地霊殿』の物語が文字通りの「ノンセンス」でも、弾
幕や音楽は言葉以上に雄弁に作品を彩るだろう。まともに物語を伝えるかわりに、それを別の素
材で「置換」することによって、意味の重荷は減らされるのだ。ここにも「心的消費の一般的軽
減」に近いことが実現されているように思われる。より素朴に言っても、東方というのは少女た
ちを操作しながら「弾幕ごっこ」を楽しむという摩訶不思議なSTGなのであって、まさにその
機知に富んだ遊び心を抜きに、作品の本質は語れない。
骨はZUNまで読んだ
うんこ
社会人1日目おわったつらい…
また、機知を使うと、構造的に言えないことが言えるようになる場合もある。たとえば、フロ
イトによれば、夢と同様に「反対物の表示」が機知において非常に重要な機能となっている。夢
が、語を圧縮し、あるいは省略して通常の文法を逸脱するように、機知においても、実際に言っ
ていることを額面通りに捉えることはできない。機知や、あるいはその派生としてのアイロニー
はしばしば、言われていることと反対の物事を意味することがあり、そのことが、ときに笑いを
引き起こす。直接的にメッセージを伝えるよりも、機知によってメッセージを加工することで、
コミュニケーションの「経済的」な処理が果たされるのだ。
そのことを考え合わせると、ZUNが作品に、『東方妖々夢 Perfect Cherry Blossom』(二〇〇三
年)とか『東方永夜抄 Imperishable Night』(二〇〇四年)とかいった、ことさら大仰な副題をつけ
ていることにも納得がいくだろう。むろん、実際にはゲームはたかだか弾幕のやりとりでしかない。
つまり、「完全性」や「不滅性」からは最も遠いものでしかない。だがだ`か`ら`こ`そ`ZUNは、そ
の滅びやすい弾幕STGに、PerfectとかImperishableという形容を与えている。物語にそこまで
巨大な負荷がかかっていないために、大仰な形容でも反発を引き起こすことはない。この操作を
「反対物の表示」に数え入れても、さほど間違いではないように思われる。機知=無意識の文法
体系においては、完全性と不完全性がどちらもPerfectという語から示唆される。これもまた、
きわめて「経済的」な処理だと言えるだろう。
何度も繰り返しているように、今日の「意味」はリアリティの濃縮によって獲得される。しか
しその一方で、ノンセンスな表現は、その濃縮プロセス自体を空洞として描き直している。この
ような作業は、決して無駄というわけではない。むしろ、文化の要所要所に何らかの機知=ノン
センスを仕込み、メッセージの経済性を保つことは、文化の流れ方を調整する一種の「弁」のよ
うなものだと考えることができる。
※17 「機知 その無意識との関係」『フロイト著作集』(第四巻、生松敬三訳、人文書院、一九七〇)三五九頁。